花幾年 折口信夫 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)赭《あか》く |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)折口|春洋《はるみ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)﨟 ------------------------------------------------------- 東京の春があらかた過ぎてから、ことしの花はどうだったかと思い出した年があった。自分だけかと思って、恥しいことだとひとりで赭《あか》くなって、誰にも言わなかった。五月近くなってから、「ことしの花は、どうだったけなあ」一人言い二人言い、言い出す人が、ちょいちょいあって、不覚《ふかく》人は、私ひとりでもなかったことを知った。併《しか》し痛切に感じたのは、やはり私位のものだろう。 その前年も、その亦《また》前年の十八年の春も、花見る為に、わざわざ吉野山へ行ったほどであった。しみじみ吉野の花が見ておきたい。そんな気がこの五、六年来、春になると頻《しき》りにした。それで無理をしいしい、今言ったおととしの前年も、それから尚二年先も、何だか妙に憑《つ》かれたように大和路へ出かけたものだ。十九年の春などは、もう花見と言う世の中でもなかった。桜のいっぱい咲いて居る山の夕光《ゆうかげ》の中に一人立って居ると、何だか自分があわれっぽくてならなかった。吉野の町の入り口の黒門まで来ると、土産物屋の亭主や、宿屋の若い者――そうでなくても、我々みたような遊山客相手に暮している人たちに違いない。それが道のまん中に立ちはだかって、一々通行人を咎《とが》めているのである。やれ捲《ま》き脚絆《きゃはん》をつけて居ないことの、もんぺいの柄《がら》がだて[#「だて」に傍点]過ぎることの、そんな立ち入った干渉をして居た。私は叱られはしなかったが、そんな小言を通りすがりに耳にして、腸《はらわた》の煮え返る気がした。 「冥加《みょうが》知らずめ」がなり[#「がなり」に傍点]つけてやりたい気をやっと圧《おさ》えつけた程だった。誰が一体こんな事を言わすのだ。今のように事毎《ことごと》に責任者を想像して、何万人の怨みを背負わせる様にはなって居なかったが、あまり道知らずに、野方図《のほうず》になって行く世間がくちおしくてならなかった。世間知らぬ山の町の人たちだけではなかった。都も鄙《ひな》もおしなべて、朝でも晩でも、何の権力もない人間が、善良な者の安穏な生活を、こじてまわる時代だった。 まあこう言う風に、花の木の下で、﨟次《らち》もないことで、旅人たちは、やまいづかされたものである。今思えばあんなに、花が見たかったのは、久しく生きては居まい、息のあるうちに、一度でも完全に眺めたことのない山の花を、心ゆくまで見ておこうという心が動いて、そうなったに違いない。 その前からも殆《ほとんど》毎年と言ってよいほど、その五、六年というもの、春毎に山へ這入《はい》ったものである。今年こそ、咲きそろった花を、せめて中《なか》・上《かみ》の千本に亘《わた》って見たいものだ。そう言う気で、前年の不足を、一度でとり返すつもりで行くものらしい。去年などは、永年住んだ大阪の家を失って、和泉《いずみ》と河内《かわち》とに住み分れている弟たちを誘うて上ったものである。ところが何と、山はまだ早過ぎて下の千本が、半開という程度であった。この年とって家を離れた弟たちに、のびのびとした、併し何処《どこ》までもしん[#「しん」に傍点]とした山中で、静かなことの幸福を思わせようと望んでいた私の考えが、とりわけ駄目だったので、翌朝山を下って、私は京都へ、弟たちは大阪の方を向いて、別れ別れになって帰った。近年頻りに花の吉野へ行くようになったのには、まだ一つ訣《わけ》があった。 「折口君。君は吉野はよくお出でのようだから、一度案内してくれませんか。わたしも、珍しい処の花時ばかり歩いて、却《かえっ》て花時の吉野を見ていないのだよ。」私にとっては、三十年来の師匠柳田国男先生が、言い出されたのは十八年の三月頃のことだったろうか。日本国中一度も足を入れられたことのない郡《ぐん》などはない筈《はず》の先生も、平凡な花の山の吉野に行って見られたことがなかった。まだ足腰の自由な内に、花の吉野を見ておこうと思い立たれたのであった。後で思うと、その時、私は睫《まつげ》の濡れるほど、感激して居た。それからやがて一《ひと》月、先発隊になった心持ちで、勝手明神《かってみょうじん》前の古なじみの宿で、先生のお出でを前日から待って居た。変り者だという評判の亭主も「この座敷は、何の宮様のおとまり下されたのだが、先生のお気にめすだろうか」などと気にしていた。 ところが当日になって、どうしても東京をお離れになることの出来ぬ用事が出来て、今度は断念するという電報がとどいた。私よりもはりあいの抜けたような宿のあるじの顔が、今に印象している。私はその日午後、奥の千本まで登って行った。先生の為に、山の力者になったつもりで。奥はまだ莟《つぼみ》が堅かった。金峰山《きんぷせん》神社・蹴抜けの塔、山道の青草の上を行く人がない。西行庵は、前がつまっているので、もうほのぐらくなって居た。行きづまった山合いへ、一町ほど急な降《くだ》りになっている。その底を流れる細谷川のかすかな水音の聞える黄昏《たそがれ》であった。向う側の山が頭の上まで迫って来て、その頃の植林し残した薄緑色の頂《いただき》に鳥の声が聞える。 その翌年も、大抵《たいてい》なら都合がつくだろうと言われた先生の話で、また桜咲く山の宿でお待ち申して居た。ところがまたいけなかった。近年かたづかれた末の娘御《むすめご》の産み月が近いので、どうしても小人数の家内を手伝ってやらねばならぬからとの、おことわりの手紙が今度も桜花壇の亭主を失望させた。 その翌年それから去年と、先生を花へおさそい申すことも出来ぬ世並《よな》みに墜ちてしまった。ことしも、この汽車の様子では、到底お伴《とも》など思いもよらぬことである。どうか先生のお達者なうちに、ただ一度、ほんのただ半日でもよい、吉野の花見の御案内がしたい。 子守明神から、吉野の町へ半分降った道の谷向いから、見おろす吉野一帯の春景色――蔵王権現《ざおうごんげん》の堂を中にして、山の背一筋の長嶺《ながね》の人居の両側に切り落した様になった勾配の青麦畠、小竹藪、遠い竜門・高取・金剛・葛城を繋ぐ霞み渡った青空、あああの凡庸な平和の山懐の花盛りに、ほんとうに無理でも、一時間でも半時間でも、先生の前に立って、花のお伴がしてあるきたい。 そう希《ねが》う私すら、もう今年あたりは、とる年をしみじみ感じている。      ×      × [#ここから2字下げ] 塔の尾の御陵《みはか》の山の夕花の 色立つ見ればあまりしづけき   折口|春洋《はるみ》 山の背に つゞき輝く吉野の町。棟も甍《いらか》も、花の中なる [#ここで字下げ終わり] これは硫黄島《いおうじま》に消えた私のむすこの歌である。 底本:「日本近代随筆選 2大地の声〔全3冊〕」岩波文庫、岩波書店    2016(平成28)年5月17日第1刷発行    2017(平成29)年12月15日第3刷発行 底本の親本:「折口信夫全集 33」中央公論社    1998(平成10)年2月1日 初出:「旅 第二十一巻第四号」    1947(昭和22)年4月発行 ※初出時の署名は「釈迢空」です。 入力:深白 校正:持田和踏 2024年1月12日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。