厄払い 徳田秋聲 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)豪家《ものもち》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)三陸|海嘯《かいしょう》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#ここから2字下げ] -------------------------------------------------------  正兵衛といえるはこの村にて豪家《ものもち》の一人に数えらるる程の農民なるが、今しも三陸|海嘯《かいしょう》の義捐金《ぎえんきん》を集めんとて村役場の助役は来《きた》りつつ、刀豆《なたまめ》を植えたる畑の中に正兵衛を見つけて立ちながら話す。 [#ここから2字下げ]  それでは東北に大海嘯《おおつなみ》があったため三万の人が亡くなったというのだね、まあまあ近辺でなくて僥倖《しあわせ》だった、何百里とあるのだから、とんとさしさわりがなくて安心というものだ。 [#ここで字下げ終わり] と余念なく豆の葉の虫を除《とっ》ている。助役は惘《あき》れ顔にて、 [#ここから2字下げ]  それですから義捐金を集めて、遺族を劬《いた》わろうというので、多少に係わらず戴きたいものです、新聞でも御存知の通り、惨状は目もあてられぬ次第ですから、惣兵衛、甚造、太郎作、次郎兵衛など、その日その日をようよう細い烟《けむり》に暮らす小作人まで、それ相応に涙を揮《ふる》うて財布の底払いをする訳ですから、貴下《あなた》なぞはうんと御奮発を願いたい。  俺《わし》ん許《とこ》ではお寺の建立があろうが、学校の修繕があろうが、堤防の修築があろうが、先祖代々から一文半|厘《りん》も出した先例がないので、村のことでさえそういうわけだから、たかが東北の果《はて》に災害があったって、いちいち銭を出す訳にはゆかない。 [#ここで字下げ終わり]  助役は眼顆《めのたま》を円《まる》くして、 [#ここから2字下げ]  たとい地面は千万里隔っていても、同じ日本国の同胞が、親も兄弟も亡くして路頭に迷い、子も孫もなくしてうろうろしたり、可愛い妻に別れ夫に死なれ、家も蔵も田地も金銀もなくして、生命《いのち》一つを繋ぎ兼ねるものがごろごろ幾何《いくら》あるか知れない、悪いことをした罰では決してない、天災というものは、例えば貴下のような正直|漢《もの》でも用捨なく引《ひき》さらうのだから、救って遣《や》らなければ何《ど》うすることも出来ない、救わないのは人情を知らないというものでしょう。  いやいやそうも言われぬ、去年洋行帰りの大学者が演説には、西洋では勲功のあったものが難儀をすれば義捐をする、難儀をしなくとも、勲功さえあれば相応の敬礼とか褒美とかを遣るといったが、天災で難儀するものを救っていた日には、仕方がないだろう、こちらの利益にもならぬものに、難儀をなさるだろうといっていちいち挨拶をしていたら際涯《はてし》がないだろう、それよりか、俺は俺の田地の減らぬようせっかく倹約をする方が、相方《そうほう》厄介なしで心安いというものだ。  では貴下方に海嘯があって田も畑も一切流されて、生命だけ助かったと思召《おぼしめ》せ、誰か救ってくれれば好いとは思いませんか。  そんなことはないはずだ、こんなに倹約をして溜めた金を流されて堪《たま》るものか、また大切な金を流して活《い》きていて堪るものか、俺は寝る時でも倉の鍵はちゃんと枕元に置いて寝るし、一晩に二三度は倉から家の周囲《まわり》を夜廻りする位だから、おめおめ金を流して助かる様な馬鹿は見ない、要心が宜しくないから、人様に迷惑をかけるので、俺のように心掛《こころがけ》が宜《よ》かったら、地震があろうが、海嘯があろうが、生命より大事の金を流すようなことは毛頭ないはずだ。  でもそういう余裕《ゆとり》があれば誰も好んで、自分の親や子を流しはしませぬ、海嘯というのは寝耳に水で、煙草一服する暇にもう一面大海となるのだから、なかなかそんなやさしいことはいっていられないです、どうか理屈は後刻《のちほど》承わりますから、応分の義捐金を願います。 [#ここで字下げ終わり]  とすかせど正兵衛は、刀豆の顔ばかり見ていて。 [#ここから2字下げ]  俺はまだこの年になれど他《ひと》に藁一筋の合力《ごうりき》を願った覚えのないものだ、だから、鐚《びた》一文でも他に遣るのは胸糞が悪くてとても出来ない、こういうことはやはり、太郎作、次郎兵衛のような、不断《ふだん》から人様の合力で飯を喰ってるものにさせるが宜い、長いようでも日脚は早い、こんなことをいってると刀豆が段々虫に喰われて了《しも》うようだ、やれやれ。 [#ここで字下げ終わり]  と取合う気色も見えぬに、茶一杯|饗応《もてな》されぬ助役は悄然《すごすご》として元|来《き》し道に取《とっ》てかえしぬ、正兵衛は後見送りて、皺苦茶《しわくちゃ》の眉根を顰《ひそ》め、ああ厄払い厄払い。 底本:「天変動く 大震災と作家たち」インパクト出版会    2011(平成23)年9月11日第1刷発行 底本の親本:「文藝倶樂部 第二巻第九編臨時増刊 海嘯義捐小説」博文館    1896(明治29)年7月25日 初出:「文藝倶樂部 第二巻第九編臨時増刊 海嘯義捐小説」博文館    1896(明治29)年7月25日 入力:持田和踏 校正:noriko saito 2023年10月9日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。