片男波 小栗風葉 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)降《ふり》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)千載|茲許《ここもと》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)瞪 -------------------------------------------------------  降《ふり》続きたる卯の花くだしようようはれて、かき曇りたる天もところどころ雲の切間を、朧なる五日の月は西へ西へと急ぐなり。千載|茲許《ここもと》に寄せては返す女浪《めなみ》男浪《おなみ》は、例の如く渚を這《はい》上る浪頭の彼方に、唯|形《かた》ばかりなる一軒|立《だち》の苫屋《とまや》あり。暮方より同じ漁師仲間の誰彼《だれかれ》寄り集いて、端午の祝酒に酔うて唄う者、踊る者、跂《はね》る者、根太も踏抜かんばかりなる騒ぎに紛れて、密《そつ》[#ルビの「そつ」はママ]と汀《みぎわ》に抜出でたる若き男女あり。 「何か用なの? え、仙太|様《さん》。」  と女は美《はなや》かなる声の優しくまず問《とい》懸けたり。されど仙太は応答《こたえ》もなさで、首をたれたるまま、時々思い出したらんように苫屋の方を振返りつつ、的《あて》もなく真砂《まさご》の間をざくざくと踏《ふみ》行きぬ。 「このまあ真黯《まっくら》なのにどこへ行こうての? え、仙太様、仙太様。」  重ねて女は声懸けけるが、応答はおろか、見も返らざるに思《おもい》絶ちけん、そのまま口を噤《つぐ》みて、男の後ろに従いぬ。  月はいよいよ西に傾きて、遥かの沖の方には、綿《わた》の如く、襤褸《ぼろ》の如き怪しげなる雲のしきりに動くを見たり。  二人は岬を廻りて、苫屋の火影も今は見えずなりける時、つと立停まりて、 「お照|様《さん》。」  と始めて口を開きたる仙太の声は、怪《あや》しとも戦《おのの》きたり。 「お前《めえ》は何も知るまいが、俺《おら》は毎日ここへ来て立っているぜ。真《ほん》の事だ、毎日来て立っている!」 「何故さ。」  とお照は訝《いぶか》しげに問返しぬ。 「何故って、ここはお前……お前が何時か腓《こむら》を返して沈《しずみ》懸った時に、俺《おら》がその柔かい真白な体を引抱《ひんだ》いて助《たすけ》揚げたとこだ。その時お前が一生この恩は忘れないって、片息になって、しっかり俺の頸《くびったま》へしがみついたあの時から、俺は、俺はお前を……。」  と言《いい》さして、しばし辞《ことば》は途切れしが、 「真によ、女てえものはどこまで気強いか知れねえものだ!」  と仙太は投出すように言いはなてり。聞くとひとしくお照は思わず後退《あとすさ》りて、朧なる月影にじっと男の顔を透《すかし》見つつ。 「仙太様!」  とばかりひたと寄添いしが、にわかに心着きて、我が家の方を振返りつ、 「だって、私は源様《げんさん》という歴とした亭主があるんだもの、よしんばどうしようたってしょうがないじゃないか。」 「ないかあるかそんな事は俺の知った事じゃねえ。俺は唯お前を思って思って、俺の思《おもい》がお前に届くまで思凝《おもいつ》めようと思って、思凝《おもいづめ》に思凝《おもいつ》めているのだけれど、それがお前に届かねえとこを見りゃ、まだ俺の思いようが足りねえのかも知れねえ。お前が源様を思うその倍も、俺がお前を思ったら、なんぼ亭主|持《もち》だって、ちっとは俺の切ない思《おもい》も酌んでくれそうなものだけれど、それがないとこを見ると、俺のお前を思うよりか、お前が源様を思う方が深いと見える。」  と辞半《ことばなかば》にそっと睚《まぶた》を推拭《おしぬぐ》えり。 「だが、俺はもうこの上お前を思いようはない。真によ、俺はお前の事を思凝に思凝めて、気が狂いそうだ! 命も奪《と》られそうだ! いっそ一思《ひとおもい》に死んでのけたら、この苦しいのが失《なく》なるだろうと思って、毎日ここへ来ては飛込もうかと思うけれど、さて死のうとすると、どうもお前を遺《お》いて死ぬのが残念で、お前と一緒でなくては死ぬにも死なれねえ。歴とした亭主のあるお前に、俺もまあ何という因果な事だか、自分ながら訳が解らねえ!」 「もうもう、そんなことは云わないで……。」  とお照は聞くに堪えざる如く、湿《うる》める声を顫《ふる》わして、 「それでなくても、私ゃ、真に私ゃ……。」 「え!」  仙太は目を瞪《みは》りて、我にもあらでひしと握緊《にぎりし》むる手を、女は慌てて振払い、 「お止《よ》しよ! 亭主のあるものをそんな事して、もし私が何して御覧、それこそ私もお前も怖しい……二人が二人、生《いき》ちゃいられないような罪人《とがにん》になるじゃないか。」 「その時は、死んでしまうまでの事さ!」  と仙太は事もなげに言捨てつ。 「死ぬたって、私は亭主持だもの。好いてるにしろ、不好《すかぬ》にしろ、とにかく源様に任せた体で見れば、自分の勝手に他《よそ》のお前様と死ぬ訳には行かない。」  断然《きっぱり》とお照の言《いい》消したる時、遠く小銃のようなる音の何処《いずく》ともなく聞えて、そが響《ひびき》にや微《かすか》に大地の震うを覚えぬ。  折から月は全く西の端《は》に落ちて、水や天《そら》、黒白も分かぬ沖の方に、さながら砂塵《すなぼこり》のごとき赭土色のもうもうと立ち迷うを見たり。されど仙太は只管《ひたすら》こなたに心を奪われて、そを怪しと考うる遑《いとま》もなかりき。 「諦めた! とてもこの世じゃどうする事も出来ねえと諦めたから、お照様、お前死んでからはきっと、きっと!」  と反復《くりかえ》しつつ、しっかと女の肩に手を懸けて、 「きっと! 死んでからは俺にの。え、お照様、きっとだよ、え、きっと?」  応答を迫られて、ようようお照は男の顔を見挙げて、何やらむ言出《いいいだ》てんとする途端、たちまち大地のゆらゆらと動出《ゆるぎいだ》せしに、あれ! と叫びて思わず仙太の体に縋《すが》りも着かせず、さながら百雷一時に落つる如き響とともに、闇を衝《つ》いて鼕《ど》と押寄せたる千丈の大濤《おおなみ》!   * * * * *  乾坤漠々《けんこんばくばく》、唯墨を流したらんようなる闇の中に、とうとうたる濁浪《だくろう》天を摩《ま》して、人も、獣も、家も、樹も、有情非情の差別なく、世界の所有物《あらゆるもの》はことごとく水に漂いて、叫喚地獄の大苦患《だいくげん》もかくや、子は親を助くるの暇なく、夫は妻を救うの道なく、子を捨て、夫を見殺しに、唯身一つをさえ生きかねて、黒白も分かぬ間に悲鳴を揚げて哭《なき》叫ぶが中に、わずかに一枚の戸板に乗りて、いずれ藻屑と消行《きえゆ》くしばしの命を、ここに繋留《つなぎと》むる男女あり。例の仙太とお照なり。二人はひしと抱合いたるまま、互いに辞《ことば》もなく、ひたぶる運を天に任す折から、何者とも知れず、やにわに戸板に取附きて、 「た、助けてくれ!」  苦しきを絞りて辛くも呼びたる男の声音《こわね》を、仙太は何とか聞きけん、お照は聞くとひとしく抱合いたる手を振《ふり》放ちて、思わず後《うしろ》を見返りたる時、取附きたる男のあせりて這上らんとする重量《おもみ》に、戸板は斜《ななめ》に傾きてなかば沈まんとしたり。端《はし》なる仙太は不意の傾斜《かたむき》に身を支うる暇なく、あ! と叫びたるまま水の中に陥りしが、辛くも戸板の角に取《とり》縋りて。 「手、手、手を引張ってくれ! 手を!」  戸板はしばしも一所に停まらず。  矢の如く闇を衝いて流行《ながれゆ》くなり。  女ながらも一念力! お照は声を便《たより》にしっかと仙太の手を執りて、引揚げんとする時、後より這上らんとする男の、必死ともがく手頭《てさき》にむずと袂を掴まれたり。 「お照様、ごご後生だ! この、この手を……。」  と次第に細り行く仙太の声に、お照は狂気の如く身を悶えて、執られし袂を振放たんとあせれば、闇に面《おもて》は見えねど、 「こ、殺すのか! 俺を、お、俺を殺すのか!」  と怨《うらみ》籠めたる男の声に、お照はさながら電気に打たれたらん如く、全身ぶるぶると顫わせしが、ついに思切《おもいき》りて握りし仙太の手を放しつ。後なる男を引揚ぐると共に、己は身を躍らしてざんぶと逆捲く水に飛入り様、流《ながれ》行く仙太の頸《うなじ》に両手を搦みて、二人は濁に濁れる千丈の浪の底の底へと沈行《しずみゆ》きけり。  翌日虫の息なる一人の男を乗せて、とある小島の頂《いただき》に流寄りたる一枚の戸板あり。乗りたるはお照が夫の源造なりき。 底本:「天変動く 大震災と作家たち」インパクト出版会    2011(平成23)年9月11日第1刷発行 底本の親本:「文藝倶樂部 第二巻第九編臨時増刊 海嘯義捐小説」博文館    1896(明治29)年7月25日 初出:「文藝倶樂部 第二巻第九編臨時増刊 海嘯義捐小説」博文館    1896(明治29)年7月25日 入力:持田和踏 校正:noriko saito 2023年1月3日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。