珊瑚集 仏蘭西近代抒情詩選 永井荷風 永井荷風訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)蝸牛《かたつむり》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)光|覚《おぼ》え [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)缾 /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)おどろ/\ *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ (例)〔Are`nne〕 アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください https://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html ------------------------------------------------------- [#1字下げ][#同行大見出し]死のよろこび[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]シヤアル・ボオドレヱル[#小さな文字終わり] 蝸牛《かたつむり》匍《は》ひまはる泥土《ぬかるみ》に、 われ手づからに底知れぬ穴を掘らん。 安らかにやがてわれ老いさらぼひし骨を埋《うず》め、 水底《みなそこ》に鱶《ふか》の沈む如《ごと》忘却《わすれ》の淵《ふち》に眠るべし。 われ遺書を厭《い》み墳墓をにくむ。 死して徒《いたずら》に人の涙を請《こ》はんより、 生きながらにして吾《われ》寧《むし》ろ鴉《からす》をまねぎ、 汚《けが》れたる脊髄《せきずい》の端々《はしばし》をついばましめん。 あゝ蛆虫《うじむし》よ。眼なく耳なき暗黒の友、 汝《なれ》が為めに腐敗の子、放蕩《ほうとう》の哲学者、 よろこべる無頼の死人は来《きた》れり。 わが亡骸《なきがら》にためらふ事なく食《くい》入りて、 死の中《うち》に死し、魂失せし古びし肉に、 蛆虫よ、われに問へ。猶《なお》も悩みのありやなしやと。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]憂悶[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]シヤアル・ボオドレヱル[#小さな文字終わり] 大空重く垂下《たれさが》りて物《もの》蔽《おお》ふ蓋の如く、 久しくもいはれなき憂悶《もだえ》に歎くわが胸を押へ、 夜より悲しく暗き日の光、 四方《よも》閉《とざ》す空より落つれば、 この世はさながらに土の牢屋《ひとや》か。 虫喰《むしば》みの床板に頭《かしら》打ち叩き、 鈍き翼に壁を撫《な》で、 蝙蝠《かわほり》の如く「希望《のぞみ》」は飛去る。 限りなく引《ひき》つゞく雨の糸は、 ひろき獄屋《ひとや》の格子に異《ことな》らず、 沈黙のいまはしき蜘蛛《くも》の一群《ひとむれ》 来《きた》りてわが脳髄に網をかく。 かゝる時なり。寺々の鐘突如としておびえ立ち、 住家《すみか》なく彷徨《さまよ》ひ歩く亡魂《なきたま》の、 片意地に嘆き叫ぶごと、 大空に向ひて傷《いたま》しき声を上ぐれば、 送る太鼓も楽もなき柩《ひつぎ》の車 吾《わ》が心の中《うち》をねり行きて、 欺《あざむ》かれし「希望《のぞみ》」は泣き暴悪の「苦悩《くるしみ》」 黒き旗を立つ、垂頭《うなだ》れしわが首《こうべ》の上に。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]暗黒[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]シヤアル・ボオドレヱル[#小さな文字終わり] 森よ、汝《なんじ》、古寺《ふるでら》の如《ごと》くに吾《われ》を恐れしむ。 汝、寺の楽の如く吠《ほ》ゆれば、呪はれし人の心、 臨終の喘咽《あえぎ》聞ゆる永久《とこしえ》の喪の室《へや》に、 |DE PROFUNDIS《デ プロフンデス》[#ルビの「デ プロフンデス」は底本では「デ ブロフンデス」] 歌ふ声、山彦《やまびこ》となりて響くかな。 大海《おおうみ》よ、われ汝を憎む。狂ひと叫び、 吾《わ》が魂は、そを汝、大海の声に聞く。 辱《はずかし》めと涙に満ちし敗れし人の苦笑ひ、 これ、おどろ/\しき海の笑ひに似たらずや。 されば夜《よる》ぞうれしき。空虚と暗黒と 赤裸々求むる我なれば、星の光|覚《おぼ》えある言葉となりて われに語らふ、其《そ》の光だになき夜ぞうれしき。 暗黒の其の面《おもて》こそは絵絹《えぎぬ》なりけれ。 亡びたるものども皆覚えある形して わが眼《まなこ》より数知れず躍りて出づれば。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]仇敵[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]シヤアル・ボオドレヱル[#小さな文字終わり] 若きわが世は日の光ところまばらに漏れ落ちし 暴風雨《あらし》の闇に過ぎざりき。 鳴る雷《いかずち》のすさまじさ降る雨のはげしさに、 わが庭に落残《おちのこ》る紅《くれない》の果実《くだもの》とても稀なりき。 されば今|思想《おもい》の秋にちかづきて、 われ鋤《すき》と鍬《くわ》とにあたらしく、 洪水《でみず》の土地を耕せば、洪水は土地に 墓と見る深き穴のみ穿《うが》ちたり。 われ夢む新なる花今さらに、 洗はれて河原となりしかゝる地に 生《おい》茂るべき養《やしな》ひをいかで求め得べきよ。 あゝ悲し、あゝ悲し。「時」生命《いのち》をくらひ、 黯澹《あんたん》たる「仇敵《きゅうてき》」独り心にはびこりて、 わが失へる血を吸ひ誇り栄《さか》ゆ。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]秋の歌[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]シヤアル・ボオドレヱル[#小さな文字終わり] [#5字下げ]一[#「一」は中見出し] 吾等《われら》忽《たちま》ちに寒さの闇に陥《おちい》らん。 夢の間《ま》なりき、強き光の夏よ、さらば。 われ既に聞いて驚く、中庭の敷石に、 薪《たきぎ》を投込むかなしき響《ひびき》。 冬の凡《すべ》ては――憤怒《いかり》と憎悪《にくしみ》、戦慄《おののき》と恐怖《おそれ》や、 又|強《し》ひられし苦役《くえき》はわが身の中《うち》に返り来る。 北極の地獄の日にもたとふべし。 わが心は凍りて赤き鉄の破片《かけら》よ。 われ戦慄《おのの》きて薪を投ぐる響をきけば、 断頭台《くびきりだい》を人《ひと》築く音なき音にも増《まさ》りたり。 重くして疲れざる戦士の槌《つち》の一撃に、 わが胸は崩れ倒るゝ城の観楼歟《ものみか》。 かゝる懶《ものう》き響に揺られ、揺られて、何処《いずこ》にか、 いとも忙《せは》[#ルビの「せは」はママ]しく柩《ひつぎ》の釘を打つ如《ごと》き……そは、 昨日《きのう》と逝きし夏を葬る声にして、秋来ぬと云ふ怪しき此声《このこえ》は、 さながらに死者を葬る鐘にも似たり。 [#5字下げ]二[#「二」は中見出し] きれ長き君が眼《まなこ》の緑の光ぞなつかしき。 いと甘かりし君が姿もなど今日の我には苦《にが》きや。 君が情《なさけ》も暖かき火の辺《ほとり》や化粧の室《へや》も、 今のわれには海に輝く日に如《し》かず。 さりながら我を憐《あわ》れめ、やさしき人よ。 母の如《ごと》かれ、忘恩の輩《ともがら》、ねぢけしものに。 恋人か将《は》た妹《いもと》か。うるはしき秋の栄《さかえ》や、 又沈む日の如く束の間の優しさ忘れたまふな。 定業《さだめ》は早し。貪《むさぼ》る墳墓はかしこに待つ。 あゝ君が膝にわが額を押当てゝ、 暑くして白き夏の昔を惜しみ、 軟くして黄《きいろ》き晩秋の光を味はしめよ。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]腐肉[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]シヤアル・ボオドレヱル[#小さな文字終わり] わが魂などか忘れん、凉しき夏の 晴れし朝《あした》に見たりしものを。 小径《こみち》の角、砂利を褥《しとね》に みにくき屍《しかばね》。 毒に蒸《む》されて血は燃ゆる 淫婦《いんぷ》の如《ごと》く脚|空《そら》ざまに投出《なげいだ》し 此れ見よがしと心憎くも 汗かく腹をひろげたり。 照付くる日の光自然を肥《こや》す 百倍のやしなひに 凡《すべ》てを自然に返すべく この屍を焼かんとす。 青空は麗しき脊髄《せきずい》を 咲く花かとも眺むれば、 烈《はげ》しき悪臭|野草《のぐさ》の上に 人の呼吸《いき》をも止《とど》むべし。 青蠅《あおばえ》の群《むれ》翼を鳴らす腐りし腹より 蛆虫《うじむし》の黒きかたまり湧《わき》出でゝ、 濃き膿《うみ》の如くどろ/\と 生ける襤褸《らんる》をつたひて流る。 此等のもの凡《すべ》て寄せては返す波にして、 鳴るや、響くや、揺《ゆら》めくや。 吹く風に五体はふくらみ 生き肥《こゆ》るかと疑《あやし》まる。 流るゝ水また風に似て 天地怪しき楽《がく》をかなで、 節《ふし》づく動揺《うごき》に篩《ふるひ》[#ルビの「ふるひ」はママ]の中なる 穀物の粒の如くに舞《まい》狂へば、 忘られし絵絹《えぎぬ》の面《おも》に ためらひ描《えが》く輪郭の、 絵師は唯《た》だ記憶をたどり筆をとる、 形は消えし夢なれや。 巌《いわ》の彼方《かなた》に恐るゝ牝犬《めいぬ》。 いらだつ眼《まなこ》に人をうかゞひ、 残せし肉を屍より 再び噛《か》まんと待《まち》構ふ。 この不浄この腐敗にも似たらずや、 されど時として君も亦《また》、 わが眼の星よ、わが性の日の光。 君等、わが天使、わが情熱よ。 さなり形体の美よ、そもまた此《かく》の如けん。 終焉《しゅうえん》の斎戒《さいかい》果てゝ、 肥えし野草《のぐさ》のかげに君は逝き 白骨の中《うち》に苔むさば、其《そ》の時に、 あゝ美しき形体よ。接吻《くちづけ》に、 君をば噛《か》まん地虫に語れ。 分解されしわが愛の清き本質《まこと》と形とを われは長くも保《たも》ちたりしと。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]月の悲しみ[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]シヤアル・ボオドレヱル[#小さな文字終わり] 月|今宵《こよい》いよゝ懶《ものう》く夢みたり。 おびたゞしき小布団《クッサン》に翳《かざ》す片手も力なく、 まどろみつゝもそが胸の ふくらみ撫《な》づる美女の如《ごと》。 軟かき雪のなだれの繻子《しゅす》の背や、 仰向《あおむ》きて横《よこた》はる月は吐息も長々と、 青空に真白く昇る幻影《まぼろし》の 花の如きを眺めやりて、 懶き疲れの折々は下界《げかい》の面《おも》に、 消え易き涙の玉を落す時、 眠りの仇敵《きゅうてき》、沈思の詩人は、 そが掌《てのひら》に猫眼石の破片《かけ》ときらめく 蒼白《あおじろ》き月の涙を摘《つみ》取りて、 「太陽」の眼《まなこ》を忍びて胸にかくしつ。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]そゞろあるき[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]アルチユウル・ランボオ[#小さな文字終わり] 蒼《あお》き夏の夜や 麦《むぎ》の香《か》に酔《え》ひ野草《のぐさ》をふみて 小みちを行かば 心はゆめみ、我《わが》足さはやかに わがあらはなる額《ひたい》、 吹く風に浴《ゆあ》みすべし。[#「浴みすべし。」は底本では「浴みすべし。[#改行]」] われ語らず、われ思はず、 われたゞ限りなき愛 魂の底に湧出《わきいず》るを覚ゆべし。 宿なき人の如く いや遠くわれは歩まん。 恋人と行く如く心うれしく 「自然」と共にわれは歩まん。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]ぴあの[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]ポオル・ヴヱルレヱン[#小さな文字終わり] しなやかなる手にふるゝピアノ おぼろに染まる薄薔薇色《うすばらいろ》の夕《ゆうべ》に輝く。 かすかなる翼のひゞき力なくして快《こころよ》き すたれし歌の一節《ひとふし》は たゆたひつゝも恐る恐る 美しき人の移香《うつりが》こめし化粧の間《ま》にさまよふ。 あゝゆるやかに我身をゆする眠りの歌、 このやさしき唄の節《ふし》、何をか我に思へとや。 一節|毎《ごと》に繰返す聞えぬ程の REFRAIN《ルフラン》 は 何をかわれに求むるよ。聴かんとすれば聴く間もなく その歌声は小庭《こにわ》のかたに消えて行く、 細目にあけし窓のすきより。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]ましろの月[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]ポオル・ヴヱルレヱン[#小さな文字終わり] ましろの月は 森にかゞやく。 枝々のさゝやく声は 繁《しげり》のかげに あゝ愛するものよといふ。 底なき鏡の 池水《いけみず》に 影いと暗き水柳《みずやなぎ》。 その柳には風が泣く。 いざや夢見ん、二人して。 やさしくも、果《はて》し知られぬ しづけさは、 月の光の色に浸《し》む 夜《よる》の空より落ちかゝる。 あゝ、うつくしの夜《よ》や。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]道行[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]ポオル・ヴヱルレヱン[#小さな文字終わり] 寒くさびしき古庭に 二人の恋人通りけり。 眼《まなこ》おとろへ唇ゆるみ、 さゝやく話もとぎれとぎれ。 恋人去りし古庭に怪しや 昔をかたるものゝかげ。 ――お前は楽しい昔の事を覚えておいでか。 ――なぜ覚えてゐろと仰有《おっしゃ》るのです。 ――お前の胸は私の名をよぶ時いつも顫《ふる》へて、 お前の心はいつも私を夢に見るか。――いゝえ。 ――あゝ私等《わたしら》二人|唇《くち》と唇とを合《あわ》した昔 危《あやう》い幸福の美しい其の日。――さうでしたねえ。 ――昔の空は青かつた。昔の望みは大きかつた。 ――けれども其の望みは敗《やぶ》れて暗い空にと消えました。 烏麦《からすむぎ》繁つた間《なか》の立ちばなし、 夜《よる》より外《ほか》に聞くものはなし。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]夜の小鳥[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]ポオル・ヴヱルレヱン[#小さな文字終わり] [#ここから4字下げ] [#ここから1段階小さな文字] 鶯は高き枝より流れに映る己れが姿を眺め水に落ちしと思ひて槲の木の頂にありながら常に溺れん事のみ恐れき。(シラノ・ド・ベルジユラツク) [#ここで小さな文字終わり] [#ここで字下げ終わり] 霧たち籠《こ》むる河水《かわみず》に樹木の影は    烟《けむり》の如《ごと》くに消ゆ。 その時影ならぬ枝の間《あいだ》より何処《いずこ》とも知らず    夜《よ》の小鳥は泣く。 あゝ旅人よ。いかに此《こ》の青ざめし景色は、    青ざめし君が面《おもて》を眺むらん。 いかに悲しく、溺れたる君が望みは、    高き梢《こずえ》に嘆くらん。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]暖き火のほとり[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]ポオル・ヴヱルレヱン[#小さな文字終わり] 暖き火のほとり、灯火《ともしび》のせまきかげ、 片肱《かたひじ》つきて頭《かしら》支ふる夢心地、 愛する人と瞳子《ひとみ》を合《あわ》すその眼とその眼、 語らふ茶の時、閉《とざ》せる書物、 日の暮れ感ずるやさしき思ひ。 くらきかげ、静けき夜《よる》をまつ時の いふにいはれぬ心のつかれ、 あゝわが夢心地、幾月のまちこがれ。 幾週日《いくしゅうじつ》の遣瀬無《やるせな》さ、 猶《なほ》[#ルビの「なほ」はママ]ひたすらに其等《それら》を追ふ。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]返らぬむかし[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]ポオル・ヴヱルレヱン[#小さな文字終わり] あゝ遣瀬《やるせ》なき追憶の是非もなや。 衰へ疲れし空に鵯《ひよどり》の飛ぶ秋、 風|戦《そよ》ぎて黄ばみし林に、 ものうき日光《ひかげ》漏れ落《おつ》る時なりき。 胸の思ひと髪の毛を吹く風になびかして、 唯《ただ》二人君と我とは夢み夢みて歩《あゆ》みけり。 閃《ひらめ》く目容《まなざし》は突《つ》とわが方《かた》にそゝがれて、 輝く黄金《こがね》の声は云ふ「君が世の美しき日の限りいかなりし」と。 打顫《うちふる》ふ鈴の音《ね》のごと爽《さわやか》に響《ひびき》は深く優しき声よ。 この声に答へしは心怯《こころおく》れし微笑《ほほえみ》にて、 われ真心の限り白き君が手に吻《くち》づけぬ。 あゝ、咲く初花《はつはな》の薫りはいかに。 優しき囁《ささや》きに愛する人の口より漏るゝ 「然《しか》り」と頷付《うなづ》く初めての声。あゝ其《そ》の響はいかに。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]偶成[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]ポオル・ヴヱルレヱン[#小さな文字終わり] 空は屋根のかなたに    かくも静《しずか》にかくも青し。 樹《き》は屋根のかなたに    青き葉をゆする。 打仰ぐ空高く御寺《みてら》の鐘は    やはらかに鳴る。 打仰ぐ樹の上に鳥は    かなしく歌ふ。 あゝ神よ。質朴なる人生は    かしこなりけり。 かの平和なる物のひゞきは    街より来《きた》る。 君、過ぎし日に何をかなせし。    君今こゝに唯《た》だ嘆く。 語れや、君、そもわかき折    なにをかなせし。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]沼[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]ピエエル・ゴオチエ[#小さな文字終わり] 茂りし林の奥深く 黒く声なく沼は眠れり。 一度《ひとたび》も微風《そよかぜ》は水の面《おもて》を拭《ぬぐ》はず、 いさゝかの波の動きも其《そ》の底より起《おこ》りし事なし。 枯れたる枝の繁きがもとに 空には隠れ日に遠く、 重き月日の平和の底、 山毛欅《ぶなのき》の暗き木蔭《こかげ》に沼は眠れり。 秋のあらしに、影の中《うち》 衣《ころも》剥《は》がれし梢は、 濁りて曇りし鏡の上に、 冷《ひやや》かなる其の冠《かんむり》をぬぐまもあらず、 落《おつ》る木《こ》の葉の一《ひと》ひらごとに 皺《しわ》の刻みは眠れる水にひろがりて、 凋落《ちょうらく》を迎ふる水の面《おもて》に、 落《おつ》る木の葉はゆるやかに流る。 一羽の小鳥も水飲まんとて来《きた》りし事なく いかなる眼《まなこ》も其の水底《みなそこ》を覗《うかが》ひし事なし。 ――茂りし林の奥深く 黒く声なき沼は眠れり。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]池[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]ヱドモン・ピカアル[#小さな文字終わり] わが胸は湿りし土地に水は死したる古池か。 凍りし風|其処《そこ》に絶え間なき叫びを放つ。 恐ろしき襲撃の跡を留《とどむ》る落雷の木立に、 岸のながめの哀れなるかな。 忘られし恋と消失せし友の誼《よし》みと、 酷《むご》き運命《さだめ》のいたましき宝物《ほうもつ》は、徐《おもむ》ろに 黒き泥土《でいど》と色さめし花と共に、 眠りたる此《こ》の花瓶《はながめ》の底に朽ちて行く。 陰鬱《いんうつ》なる一隅《いちぐう》かな。されど寂《せき》たる此《この》深淵の中《うち》よりは、 もしそれ、吾《わ》が弱き心、測量の綱を抛《なげう》ちて、 沈滞の濁水《だくすい》を突如として打つ時は、 震動起りて一道の光|閃《ひらめ》き渡り、 底知れぬ愁情を照す睡蓮《すいれん》の花の星、 数ある記憶の明るき色、水の面《おもて》に浮びて来《きた》る。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]音楽と色彩と匂ひの記憶[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]ヱミル・ヴオオケヱル[#小さな文字終わり] 音楽と色彩と匂《にお》ひの記憶われに宿る。 逝きし日を呼び返さんとせば、 花をつみとれ。われに匂ひの記憶あり。 音楽の記憶われに宿れば、 怪しき律のうごきは ノスタルヂヤのわが胸に昔を覚《さま》す。 花をつみとれ。楽《がく》を奏《かな》でよ。 何人《なんぴと》か、何事か。忘れしものを思起《おもいおこ》すに、 われには色の記憶あり。 われ思出《おもいい》づ、紅《くれない》の黄昏《たそがれ》に、 わが恋人は打笑みわれは泣きけり…… われには色の記憶ぞ宿る。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]秋のいたましき笛[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]アア・ヱフ・ヱロオル[#小さな文字終わり] 秋のいたましき笛は泣く、 おだやかならぬ夕まぐれ。 空は涙を啜《すす》る時 ぬれし樹木《じゅもく》はをのゝきぬ。 花はおもむろに枯れしぼみ、 小鳥は飛び去る彼方《かなた》の野辺。 そこには四月の色もある うれしき歌の聞ゆべし。 寒さ恐るゝ君は悲しく、 わが生命《いのち》の君は小径《こみち》を行く。 色|蒼《あお》ざめて旅する君は 声も曇りし歌を求むる。 あゝ二人して喜び聴きし其《そ》の歌は 秋と云ひなば返り来じ。 何時《いつ》の日かわれは又|笑《わら》ひて眺めん、 今ははや涙となりし君が眼《まなこ》を。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]仏蘭西の小都会[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]アンリイ・ド・レニエエ[#小さな文字終わり] 起き出でゝわれ朝《あした》に街を出づれば 道の敷石に足音高くひゞきて 太陽の若き光は古びたる瓦《いらか》を暖め Lilas《リラ》 の花は家々の狭き庭に咲く。 人の歩みに先《さきだ》ちて足音の反響は 梢《こずえ》そびゆる苔《こけ》の土塀《どべい》の長きに伝はり、 磨《す》り減りし敷石は白き砂道《すなみち》に連《つらな》りて 場末の町より野辺に走れり。 やがて険しく登る山道より 日に照らされて岡のふもとに、 悄然《しょうぜん》として狭く貧しく静《しずか》なる我が生《うま》れし街の 見馴れたる懐しき屋根の見ゆるかな。 長々と彼処《かしこ》に我が街は横《よこた》はる。流るゝ河ありて、 その水は二度居眠りて二つの橋の下を過ぎ、 散歩の道に茂りし木立は街にそびゆる 鐘撞堂《かねつきどう》の石と共に古びたり。 うらゝかに澄渡《すみわた》りて狭霧《さぎり》なき空気に わが街は太き響をわれに送り来《きた》る。 洗濯屋の杵《きね》と鍛冶屋《かじや》の槌《つち》の音、 打騒ぐ幼児《おさなご》の甲高《かんだか》くやさしき叫び。 変りなきわが街の浮世には思出《おもいで》もあらず、 繁華《はんか》光栄の美麗もなくて、 わが街はいつの世までも 今見る如《ごと》く小《ちさ》き都《みやこ》に過ぎざらん。 わが街は耕せし野辺、高原、荒れし野に、 又は牧場《まきば》の間《なか》に立つ数ある街の一つなれば、 何《いず》れとわかぬ小《ちさ》きフランスの街の名に、 旅する人はわが街の名さへ知らで過ぎぬべし。 然《しか》れども朝《あした》より夕《ゆうべ》に移る散歩《そぞろあるき》の 長き思ひの一日《ひとひ》は過ぎて、 麦《むぎ》の畠《はたけ》のかなたに日はかくれ、 林に通ふ細道くれそめて、 物のあいろもわかぬ夜、 歩む足音険しき道にとゞろきて 堰《せき》越す水音《みずおと》遥《はるか》に聞え 吹く風運河の木立に騒ぐ時、 つかれて我は帰りくる街近く ふと仰ぐあたりの家の窓。 帷幕《とばり》さへなきガラス越《ご》し、ランプの壺《つぼ》に 石油の黄金色《こがねいろ》なす灯火《ともしび》の燃ゆるを見れば、 杖《つえ》にて捜《さぐ》る夜の道、自《おの》づと足も急がれて、 われ思ひ知る。わが墳墓の国土《こくど》、 懐しき眼《まなこ》に闇の中《うち》よりいとも優しく わが手をとりて引くが如《ごと》しと。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]葡萄[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]アンリイ・ド・レニエエ[#小さな文字終わり] 死なんとばかり我は悩みし其《そ》の夢知れる恋人よ。 さま/″\のかなはぬ望みに飢ゑつかれ 葡萄《ぶどう》の棚に熟《みの》りたる葡萄つまんと我は久しく、 種まく人の如《ごと》く唯《た》だ徒《いたずら》に腕を振りけり。 然《しか》るに君は優しき夢に微笑《ほほえ》みて眠り給へる、 其の情《すげ》なくも静《しずか》なる眠りぞ憎くき。 爽《さわやか》なる朝風は爽なる朝《あした》のひゞきを伝へ 夜《よ》は紅《くれない》の東雲《しののめ》かけて明け行けり。 いざ行かん。望《のぞみ》の光|我等《われら》を導く美しき小山の方《かた》に。 苗植ゑしわが手づからに待焦《まちこが》れたる果物《くだもの》と うつくしき葡萄の総《ふさ》をわれは摘むべく。 されどもし、些《いささ》かの草の芽だにもなかりせば、 待つと云ふかの禍《わざわい》の夢の中《うち》、いつも変らぬ 空しき夜明《よあけ》を眺むべく夕暮に山を下らん。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]われはあゆみき[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]アンリイ・ド・レニエエ[#小さな文字終わり] 久しくもわれは歩みき。落ちかゝる夜《よ》に 朝見し夢のかず/\も早《は》や既に消えんとす。 そは君ならずや。一筋道《ひとすじみち》の其《そ》の端《はて》に美しき眺め横《よこた》ふ 遥《はるか》なる館の方《かた》にわれを導きたまひしは。 かしこには不可思議なる月の光に照されて 眠れる昔《いにしえ》の花園の咲きて簇《むらが》る花の中 屋根に鐘鳴る高楼《たかどの》に聳《そび》えし塔の数多く 美しき異禽《いきん》を養ふ家も見えたり。 錦《にしき》の小禽《ことり》その棲木《とまりぎ》に居眠れば 池の底には黄金《こがね》の魚《うお》のひらめきて 噴水のほとばしり切々として囁《ささや》きたり。 苔《こけ》を踏む君が歩みに君が裳《もすそ》は鳴り響きて 見えざる鍵《かぎ》の秘密を知れる柔かき 君が双手《もろて》はわが手を取りて扶《たす》けしものを。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]夕ぐれ[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]アンリイ・ド・レニエエ[#小さな文字終わり] 夕暮の底遠くして海のほとりに われ嘗《かつ》て都をのぞみき。 鮮かなる銀色《ぎんしょく》と褪《さ》めたる紅《くれない》の 夕暮の底遠くして海のおもてに その影を流す大理石と黒鉄《くろがね》の 都をわれは嘗てのぞみき。 扉と家をもわれは見たりき。 (血の夕暮はその時海にあり) 風は明《あかる》き煖炉《だんろ》の火も見ゆる 戸口の篝火《かがりび》をいらだゝしめ はたとばかりに扉《とぼそ》をとざしぬ。 「死」と「望み」とは過ぎ去りぬ。 暗き空の下、褪めたる銀色の海の面《おもて》に その影と影とは漂《ただよ》ひぬ。 わが身には此《こ》の時よりして 海に昇る夕暮の悲しかりけり。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]秋[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]アンリイ・ド・レニエエ[#小さな文字終わり] 枝より枝を渡る風は 明《あかる》き夏とまた暗き日に、 黒き梟《ふくろう》と白き鳩鳴く 老木《おいぎ》の梢《こずえ》をゆする。 木《こ》の葉《は》に滴《したた》る雨の声、 やさしくも又ものうきは さすらふ身には一歩《ひとあし》々々 「悲しみ」の忍び泣く音《ね》と聞かれずや。 緑より黄に、黄よりして紅《くれない》に 又|黄金色《こがねいろ》より黄金のいろに 木々の梢《こずえ》の老い行けば、われは 秋より秋に散りて行くわが「過去」を思ふ。 林は聳《そび》えたる頂《いただき》よりして頂に 紅《くれない》の槲《かし》と緑の松を動《うごか》せども 吹く風は厳《おごそ》かに声を呑《の》みたり、 かの「苦《くるし》み」と「海」の如《ごと》くに。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]正午[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]アンリイ・ド・レニエエ[#小さな文字終わり] 正午《まひる》なり……真白き道は海に走れり。 明《あかる》き日の光窓より入《い》りて、 まだ暑からぬ部屋の床板《ゆかいた》に、 出入《でいり》の人の歩みにつきて落《おち》散りし 乾きてかゞやく砂を照す。 日曜と夏との匂《にお》ひに空気は爽《さわやか》なり。 日にやけし布と松脂《まつやに》の薫《かお》りよ。如何《いかん》となれば、 布《ぬの》荒き日蔽《ひおい》には枝に下《さが》りし 松の実の影《かげ》描《えが》かれたり。 静《しずけ》さは其《それ》さへもいと遠く思はるゝ迄《まで》の静《しずけ》さに、 想《おもい》は去りて心空しき折からに しづ/\と身《み》を動《うごか》して PARESSE《ものうし》 と呼ぶ女姿《おんなすがた》は 更によく倦みし休みを味《あじわ》はんと、 伏目遣《ふしめづか》ひの優しき眼《まなこ》を閉ぢ合せ、 長々と横《よこた》はる柳細工《やなぎざいく》の椅子の上、 真裸《まはだか》の快《こころよ》さ、人目に触れぬ嬉しさに窃《そ》とほゝゑむ。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]告白[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]アンリイ・ド・レニエエ[#小さな文字終わり] まことの賢人は永遠《とこしえ》の時の間《あいだ》には 一切の事|凡《すべ》て空しく愛と雖《いえど》も猶《なお》 空の色風の戦《そよ》ぎの如《ごと》く消ゆべきを知りて 砂上《さじょう》に家を建つる人なり。 されば賢人は焔《ほのお》の燃え輝き消《きゆ》るが如《ごと》くに、 開きては又散る薔薇《そうび》の花を眺め 殊更に冷静沈着の美貌《びぼう》を粧《よそお》ひて 浮世の人と物とに対す。 疎懶《そらん》の手は暁《あかつき》の焔と 夕炎《ゆうばえ》の火をあふらざれば 夕暮は賢者に取りて傷《いたま》しき灰ならず 明け行く其《そ》の日は待つ日なり。 移《うつり》行くもの消《きえ》行くものゝ中《うち》にありて 我|若《も》し過ぎ行く季節に咲く花の枯死《かれし》すは、 これそが定命《じょうみょう》とのみ観《かん》じ得《え》なば 亦《また》我も賢者の厳粛にや倣《なら》ひけん。 然《しか》るに纏綿《てんめん》たる哀傷の心|切《せつ》にして われは悔いと望みと悲しみに 又慰め知らぬ悩みの闇の涙にくれて わが身を挫《ひし》ぐ苦しみの消ゆる事のみ恐れけり。 いかにとや。砂上の薔薇《そうび》の香気《かんばせ》も 吹く風の爽《さわやか》さ、美しき空の眺めさへ 永遠《とこしえ》の時の間《あいだ》にも一切の事|凡《すべ》て空しからずと、 我が哀れなる飽かざる慾の休み知らねば。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]庭[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]アンリイ・ド・レニエエ[#小さな文字終わり] 庭に来よ。黄昏《たそがれ》は庭に木《こ》の葉《は》と 土と花、潤《うるお》ふ影との薫る時なり。 揃《そろ》ひし黄楊《つげ》の並木の蔭《かげ》、狭き小径《こみち》は行《ゆ》く程に いよ狭くいよ安らかに君が歩《あゆ》みを導かん。 庭の外なる野や道や危《あやう》き辻《つじ》や、 鏡なす池の水とて何かあらん。 やがて萎《しお》れん其《そ》の茎にあか/\と咲く薔薇《そうび》のみ 唯《ただ》わづかあぢきなき君が浮世の形見なり。 ありとあらゆる「過ぎし日」は活《い》ける夜《よ》につれ 庭の中《うち》にぞ蘇《よみがえ》る。敵意ある群集は 肥えし野草《のぐさ》や濡《ぬ》れし道暗き林にはびこるを、 こゝのみは静けく優しき庭の隅。 土塀《どべい》に添へる果樹の列、黒き腕長く差伸べて 君をば守る此処《ここ》ばかり心安けく歩《あゆ》めかし。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]缾[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]アンリイ・ド・レニエエ[#小さな文字終わり] 沈黙の碑、美の墳墓よ。 「悲しみ」は其《そ》の缾《かめ》に灰となりにし 夏の果実と秋の葡萄《ぶどう》を収めたる この懐しき重荷のために声を呑《の》みたり。 消えし時間と死したる季節と、 一度《ひとたび》は酔《え》ひつ栄えつ、烈《はげ》しく強く豊《ゆたか》なる 薫をかぎしさま/″\の思ひ出《いで》、 猶《なお》其《そ》の底に残りてあれば、そがために 君は夏の形見の灰を収めし黄金《こがね》の缾《かめ》を携《たずさ》へて いと暗き青春に彷徨《さまよ》ふ。あゝ「悲しみ」と呼ぶ君、 道行く女姿《おんなすがた》よ。われ君を迎ふるも亦《また》此《こ》れが為《た》め。 沈黙の碑よ、美の墳墓よ。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]年の行く夜[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]アンリイ・ド・レニエエ[#小さな文字終わり] 丈《せ》の高いランプが 私のうつむいた机の上 開《ひら》いた書物の間《なか》に突立つて 音もなく燃えてゐる。 何かぢつと見詰めてゐるやうな 物哀れな老耄《ろうもう》した「月日」が 書斎の中をあちこち彷徨《さまよ》ひ歩く 其《そ》の足音ももう聞えない。 低くかざす其手《そのて》を暖めやうと 明《あかる》い煖炉《だんろ》の傍《そば》に坐りかける老耄《ろうもう》した「月日」は、 着てゐる冬と云ふ灰色の着物の為《た》めに、 何となく謙遜《けんそん》らしく我慢づよく 而《しか》も又|真面目《まじめ》らしく見えた。 丁度私が想《おもい》の底を過ぎて 其の灰の上を歩くやうに思はれる軽い足音に、 老耄した「月日」の姿は 何となく優しく又何となく厳格《おごそか》にも見える。 夏と秋との手籠《てかご》は 向うの壁の上に掛けられてあるが、 時々に其の籠を編む柳の枝の弾《はじ》けて破れ、 茎も葉も枯れてしまつた花瓶《はながめ》の 蘆《あし》をば風がゆすぶる。 其の度々に私ははつと思つて 耳を澄まして[#「耳を澄まして」は底本では「耳を澄まして[#改行]」] 老耄した「月日」の顔を眺めると、 彼《か》の老女は灰色の着物を着たまゝ身動きもせず、 真直に伸びて鞭《むち》のやうに閃《ひらめ》く 柔かな柳の若枝の一条《ひとすじ》々々折りまげて、 笑つた夏の日 花籠を編みながら歌つた その忘れた昔の歌をうたひもせぬ。 然《しか》しその糸車ばかりは 何処《どこ》かで蜂の鳴くやうに、 高く低く遠く近く 呟《つぶや》き唸《うな》つて 恰《あたか》も黄昏《たそがれ》の糸をつむぐがやう。 高い処にかゝつてゐる時計は 鱗形《うろこがた》の彫《ほり》をした黄楊《つげ》の箱から、 消え行く時間に又一時間を加へ、 夜半《よわ》の十二時になるまで 時は次第々々に進んで行く。 すると桃色と灰色の着物きて 煖炉の傍に黙つて坐つてゐた「月日」は 立上つて消えた火を掻《か》き起す。 希望の焔《ほのお》はパツと燃え上つて、 黒ずんだ敷瓦《しきがわら》を赤く色付け、 凍《こご》えた「月日」の手先をあたゝめた。 私は早くも這入《はい》つて来る「時」の入口から、 「月日」の新しい顔が私の思想に向つて、 微笑んでゐるやうな心持がした。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]暮方の食事[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]シヤアル・ゲラン[#小さな文字終わり]  歌ひながらに恋人は、飛ぶ蜂の翅《つばさ》きらめく光のかげ、暮方の食事にと、庭の垣根の果実《くだもの》と、白きパン、牛の乳とを準《ととの》へ置きて、いざや、寄《より》添ひて坐らんと、わが身のほとりに進み来ぬ。  雨は晴れたり。空気はうるほひ、木立の匂《にお》ひはみなぎりて、明け放ちたる窓の外、木葉《このは》に滴る雫《しずく》の音は、室《へや》のすみ、いづこと知らず啼《な》きいづる、虫の調《しらべ》にまじりたり。  食卓に肱《ひじ》つきて、さゝやかなる料理の皿もその儘《まま》に、二人ともども思ひに沈めば、言葉もなく唯《た》だ折々に、恋人は、吹く風の冷き吐息に打顫《うちふる》ふ、あらはなる其《そ》の腕を、わが唇の上によこたへき。  くもりなき水晶の花瓶《はながめ》や、可笑《おか》しげにふくらみて、二人の顔のうつりたる、円《まろ》き其《その》横腹の面《おもて》には、窓なる額縁に限られて、森の茂りと、古里《ふるさと》の空の画《え》こそ描《えが》かれたれ。  かしこにぞ、秋の空は紅《くれない》に悲しめる。あゝ、長閑《のどか》なるなつかしき此《こ》の恋の一刻《いっこく》よ。いつしかに黄昏《たそがれ》は、花瓶の面《おもて》にうつる空の色、二人が瞳子《ひとみ》をくもらして、さゝやかの二人が世界の、物の彩色《あいろ》を消して行《ゆ》く。  わが顔押あてし、恋人の胸はとゞろけり。吹く風ぬれたる木立を動かせば、想《おもい》に沈める二人は共に突《つ》とさめて、木《こ》の実《み》の庭に、落《おつ》る響《ひびき》に耳を澄ます。  かくて、吾等《われら》二人は、過来《すぎこ》し方《かた》をふりかへる旅人か。また暮れ行《ゆ》く今日の一日《ひとひ》を思ひ返して、燃え出《いず》る同じ心の祈祷《きとう》と共に、その手、その声、その魂を結びあはしつ。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]道のはづれに[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]シヤアル・ゲラン[#小さな文字終わり] 道のはづれに 日はしづむ。 手を取らん、 接吻《くちづけ》せしめよ。 疑へる心の如《ごと》く この泉は濁りたり。 渇けるわれに 君が涙をのましめよ。 日は暮れたり。 鐘が鳴る。 われにあたへよ、 君が胸打ふるふ其《その》恋を。 道はくだる。 幾里と長き真白の帯。 青き小山《こやま》の 坂道つきぬ。 たゝずまん。行手《ゆくて》なる 森をながめよ。 屋根はかすみて 村は夢む。 わが眠らんとするは 彼処《かしこ》なり。扉《とぼそ》のかげ、 落《おつ》る木《こ》の葉《は》に埋《うずも》るゝ 君が黒髪に抱《いだ》かれて。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]ありやなしや[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]シヤアル・ゲラン[#小さな文字終わり] よしや反響のきかれずとも、物には凡《すべ》て随《したが》ふ影あり。 夜《よる》来《きた》れば泉は星の鏡となり、 貧しきものも人の恵《めぐみ》に逢ひぬべし。 澄みて悲しき笛の音《ね》に土墻《ついじ》は立ちて反響を伝へ、 歌ふ小鳥は小鳥をさそひて歌はしめ、 蘆《あし》の葉は蘆の葉にゆすられて打顫《うちふる》ふ。 憂ひは深きわが胸の叫びに答へん人心《ひとごころ》、 あゝ、そはありやなしや。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]四月[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]ギユスタアヴ・カン[#小さな文字終わり] あゝ花開くうつくしき四月よ。 されど若《も》し我が恋人われより遠く、 北の国なる霧の中にあらば、 何かせん、四月の新しき歌、 四月の白きリラの花、野ばらの花も、 梢《こずえ》を縫ひて黄金《こがね》と開く四月の日光《ひかげ》も。 あゝ花開くうつくしき四月よ、 わが恋人にまた逢ふ事の嬉しきかな。 あゝ花開くうつくしき四月よ。 恋人来れり。 四月のリラの花、黄金なす四月の日光。 始めてわれを慰めん。われ四月に謝す。 あゝ花開くうつくしき四月よ。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]ロマンチツクの夕[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]伯爵夫人マチユウ・ド・ノワイユ[#小さな文字終わり]  夏よ久しかりけり。われ夏の恵み受けじといどみしが、今宵《こよい》は遂《つい》に打ち負けて、身中《みうち》つかるゝまでの快《こころよ》さ。  われ小暗《おぐら》きリラの花近く、やさしき橡《とち》の木蔭《こかげ》に行《ゆ》けば、見ずや、いかで拒み得べきと、わが魂はさゝやく如《ごと》し。  よろづの物われを惑《まどわ》しわれを疲らす。行《ゆ》く雲軽く打顫《うちふる》ひ、慾情の乱れ、ゆるやかなる小舟の如く、しめやかなる夜に流れ来《きた》る。  列車は過ぎたり。燃《もゆ》るよろこびよ。その響《ひびき》空気をつんざく。神経は破れて死ぬべくも覚えつゝ、いかにせん、又生きんとする願ひになやむ。  あゝわれ此宵《こよい》、わが肩によりかゝる、若き男の胸こそ欲しけれ。ロマンチツクなる事|柳《やなぎ》のかげにも優りたる吾《わが》心の懶《ものう》き疲れを、かの人は吸ふべきに。  われ彼《か》の人に、「誘《いざな》ひしは君ならず。そはあらゆる夜のさま、わが胸をして鳩の如《ごと》くにふくれしむ。  されど君はあまりに若ければ、黄金《こがね》の血潮と溶け行く心、骨に徹する肉のかなしみ、われそを訴へん夜《よる》にのみ。  あらゆる樹木は官能鋭く、あらゆる夜は打ち解けて、絶えざる啜《すす》り泣きの声、烟《けむ》りし空に上《のぼ》り行けり。  うるはしき夜のみ眺めて語りたまふな。傷《いたま》しくも悩める君をのみわれは求むる。狂ひて叫ばん唇に、消えも失せなん心して、わが愛する人よ。泣きたまへ。唯《ただ》泣きたまへ。」と語るべし。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]九月の果樹園[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]伯爵夫人マチユウ・ド・ノワイユ[#小さな文字終わり]  炎暑は地平線をくもらしたり。夏のあつさ。やはらかき毛織物。空気は重く閉《とざ》して隙間《すきま》もなし。いさましく機織《はたお》る響の如《ごと》く、蜜蜂《みつばち》の群は果実《くだもの》の匂《にお》ひに喧《かしま》しくも喜び叫ぶ。われその蒸暑き庭の小径《こみち》を去れば、緑なす若き葡萄《ぶどう》の畠中《はたなか》の、こゝは曲りし道の果《はて》。家の戸口は開かれて、鍬《くわ》、鋤《すき》、如露《じょうろ》なぞは、黄《きいろ》き日光《ひかげ》に照されし貧しき住居《すまい》の門の前、色づく夕暮の中《うち》に横《よこた》はりたり。  われ、凉しき隠家《かくれが》の中《うち》に進み入れば、果実の匂《におい》のいかに清凉なる。思はずためらひて、耳を澄す。ひやゝかなる円天井《まるてんじょう》の陰には、そよとの風もなく、あたり蕭条《しめやか》に、心|自《おのずか》ら長閑《のどか》なれば、屋根低く凉しき尼寺か。夏の匂の漲《みなぎ》り流るゝ、幽暗なる地下室にも譬《たと》ふべけん。庭と水との吐く熱気は、こゝに閉されて休み息《いこ》へり。あゝ。寺院の静寂、清浄の安眠よ。  新しき梨《なし》と林檎《りんご》の実とは、果樹園の群を去りて家の棚の上、空しき影の中《うち》に熟してあり。その酸《す》くして甘き味《あじわ》ひは滴《したた》り、香気は池の水の如《ごと》くに沈みて動かず。鳴きつかれし細腰蜂《ゲエプ》の唯《ただ》一つ、物音遠く静かなる、狭き硝子窓《ガラスまど》の四角なる面《おもて》に、黒き点を描《えが》きたり。  おびたゞしき果実の匂ひかな。この匂は藍色《あいいろ》の大空《おおぞら》と、薔薇色《ばらいろ》の土とを以《も》て、暑き夏の造り醸《かも》せしものなれば、うつくしき果実の肉の中《うち》には、明け行く大空の色こそ含まれたれ。心も清く気も新なる歓《よろこ》びのその匂、その光、その流れ、大気と土壌の戯《たわむ》れより生れたる濃厚の液汁、溶けたる砂糖。手桶の底に生れたる君こそは、冷たき藁《わら》の上なる小さき神なれ。木の樽《たる》と鉄の鋤《すき》、緑色なる如露の友よ。いざ、深密なる君が匂ひの舞踊《まいおど》る、甘き輪舞《ロンド》の列にわれを取巻け。  あゝ、日毎《ひごと》暮るればこゝに来て、庭造る愛らしき器物《うつわもの》、手籠《てかご》、如露の傍《そば》近《ちか》く、空想に耽《ふけ》れば、あゝわが若《わか》かりし折の思出《おもいいで》。幸福を歌ふ啜《すす》り泣《なき》は、心の底より迸《ほとばし》り出づ。われは静寂の来りて宿る果樹園の、うつくしく穏かなる生活を、今ぞ見たり、今ぞ知りたり、悟りたり。わが生命《いのち》、そが為《た》めに焼《やか》れたるおそろしき思ひを、いざ抛《なげう》たん。  慾望よ、われを去れ。われは十二の月々に、鶯《うぐいす》と駒鳥《こまどり》と、大麦の冠つけし神々と、額《ひたい》緑《みどり》の夕蝉《ゆうせみ》と、いと高くいと優しく、また美しく静かなる、女神 Pomone《ポモン》 の御手《みて》によりて、匂はされたる大空の見渡す晴光《はれ》と、共に踊らん。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]西班牙を望み見て[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]伯爵夫人マチユウ・ド・ノワイユ[#小さな文字終わり]  乾きし庭の面《おもて》に日は照りて、夕立にうたれたるダリヤの初花《はつはな》は、緑なす長き茎をば白き家の壁に倚《よ》せかけたり。海はとゞろきわたりて、若き牧神《フォーン》の如《ごと》く吹く風は、其手《そのて》に押《おさ》ゆる衣《ころも》を剥《は》ぎて、路上に若き女を辱《はずかし》めんとす。あたゝかく、うつら/\と暮れて行く Basque《バスク》 の里の夕まぐれ。われは彼方《かなた》に、忽如《こつじょ》として入日に染《そま》りかがやける、怪異なる西班牙《エスパンユ》をこそ望み見たれ。  地平線の上に腕《かいな》を長くさしのべなば、われは燃《もゆ》るかの土と紅色《くれない》の石榴《ざくろ》とに触れもやせん。金光《きんこう》燦爛《さんらん》たる国土かな。鳥飛ばず、曇りもえせず、色もあせざる空の下。乾きて黄《きいろ》き Toboso《トボソ》 の谷の、身も焼けぬべきそゞろ歩きよ。唐辛《とうがらし》の紅色と、黄橙《おらんじ》の焔《ほのお》の色に、絹の衣裳《いしょう》を染めなして、音《おと》騒がしき西班牙《エスパンユ》の、いらだつ舞ひのとゞろきや。又われは聞かずや。血まぶれの Tourbadour《トルバドル》 華美《はで》ないさみの若者が、屠《ほふ》る牡牛《おうし》に 〔Are`nne〕《アレエヌ》 の桟敷《さじき》も崩れん叫び声。  |〔Tole`de Andalousie〕《トレド アンダルジイ》 の国々よ。燃上る其《そ》の声もなき狂熱を、君いづこよりか齎《もたら》せし。おそろしき痴情《ちじょう》の狂ひかな。いとし男《お》の血に渇きたる 〔Pasiphae'〕《パヂファエ》 は、命あらばさぞと覚ゆる壮漢《ますらお》が、刺されて流す血に酔《え》ひて、情慾と恐怖の身ぶるひに、快楽と敬神の念《おも》ひを合せ味《あじわ》ひしが、  わが身はこゝに仏蘭西《フランス》の、やさしき大気の中《うち》につゝまれて、心おどろき胸重し。ほゝゑめる静けき Basque《バスク》 の山と水。雲は集りて、〔Gue'thary〕《ゲタリー》 のいたゞきに息《いこ》へり。われ Rodrigue《ロドリグ》 を思ひ、聖女 〔The're`se〕《テレズ》 を思ふ。さはやかなる匂を帯びて夕暮は、影と光に色ある砂を混ずる時、甘きタマリの一株|毎《ごと》に並びたる、けはしき山のうしろより、Irun《イラン》 をさして行く汽車の笛の響の聞えたり。  神聖なる西班牙《エスパンユ》。あゝ今宵《こよい》われ、君|得《え》まく思ふ心の乱れに堪へぬかな。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]菊花の歌[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]シヤアル・グランムウラン[#小さな文字終わり] だりやの花|萎《しお》れ葡萄畠《ぶどうばたけ》の取入れ終りて、 餌《え》にあかぬ鴫《しぎ》の鳴く音も絶えにけり。 さま/″\なる果実《このみ》こと/″\く熟し 木苺《きいちご》の実|摘尽《つみつく》されて花園今はあれにけり。 空かきくもりて霧立ちまよへば、 かの暮方の懐しさと寂しさとは夜明の空にも漂ひ 黄ばみし芝生に薔薇《そうび》は落ちて その花びらの跡だにもなし。 さりながらこの揺落《ようらく》とこの風と、 またこの悲しき日かげに灰色したる空こそよけれ。 菊の花にはいとはしき蠅《はえ》と、 蛾《が》の接吻《くちづけ》もなければ。 霜枯れし叢《くさむら》にそもこの花のひらめき出《いず》る 清くも澄みし黄色《こうしょく》と橙紅色《とうこうしょく》の目ざましや。 その中に東雲《しののめ》の霞《かすみ》とばかり 垂れて緋総《ひぶさ》に似るもあり。 さればや君が襟元《えりもと》黒髪にたばさむ花も 野路《のじ》の菊花のあざやかに色もさま/″\めづらしければ、 よしや手づから恋しき人の捧げて来つる花束とても、 かの有りふれし巷の花にてあらば何かせん。 誇顔《ほこりがお》なる百合《ゆり》の花、冷《ひややか》に造りしやうなる椿《つばき》の花束、 何となく恐しき罪の戯れいざなふを、 野にさく菊の花束は露|持《も》つ冷き風にゆらめきて、 蒸暑き夜宴《やえん》の都には因縁《ちなみ》なし。 都の人の寒さに弱き歩みは早くも火を追ひ、 去りて跡なき荘園のしづけき小径《こみち》、 風の嘆きのさびしさに、薄らぐもりの空を見て、 この花ひとり安らかに咲きぞみだるゝ。 そは唯《ただ》詩人のみ。十一月葡萄の畑《はた》も牛飼ふ野辺も黄ばむ時、 静《しずか》に来りて菊の花|打眺《うちながむ》るは唯詩人のみ。 心なき世《よ》の交《まじわり》を忌みおそれ 胸打明けし友の庵《いおり》をたづぬる如《ごと》く。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]あまりに泣きぬ若き時[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]フヱルナン・グレヱ[#小さな文字終わり] わけなき事にも若き日は唯《ただ》ひた泣きに泣きしかど、 その「哀傷」何事ぞ今はよそ/\しくぞなりにける。 哀傷の姫は妙なる言葉にわれをよび、 小暗《おぐら》きかげにわれを招ぐもあだなれや。 わがまなこ、涙は枯れて乾きたり。 なつかしの「哀傷」いまはあだし人となりにけり。[#「なりにけり。」は底本では「なりにけり。[#改行]」] 折もしあらば語らひやしけん辻君《つじぎみ》の 寄りそひ来ても迎へねば わかれし後《のち》は見も知らず。 何事もわかき日ぞかし。心と心今は通《かよ》はず。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]沈みし鐘[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]スチユアル・メリル[#小さな文字終わり] われは過ぎ去りし太古の世の君王《くんおう》にやあらむ。 其国《そのくに》の都は海の底に沈みて音もなし。 黒がねの声なき鐘も過ぎにし世には幾たびか 響も高く幾代《いくよ》の春を告げわたりしに。 われは幾代のむかし消え失せし あまたの妃の名をも知りたりけむ。 そは静けき夜半《よわ》に散り失せし 萎《しお》れたる花にも似たりけり。 わが尊き宝を積み載せし重き船 沈みて行《ゆ》きし果《はて》はいづこぞ。 その時よりして我は波の底深く宝を探る 狂へる人とこそはなりにけれ。 そのむかし我に従ひし夥多《あまた》の蛮民 空高くわが勝利を叫びてわが為に黒き喪の旗を、 都に立てし其《そ》の過ぎし世の光栄を、 何故にわれは今また見むことを願へるや。 今われは冷《ひややか》なる眼《まなこ》に、 月の光を望みて、剣《つるぎ》を片手に、 大空《おおぞら》に我名《わがな》をしるし留《とど》めむものと、 次の世の来《きた》るを待ちつゝあるか。 さはさりながら勝利の望み、 今わが胸は幽憤の思《おもい》にふさがれたり。 移《うつ》り行く代《よ》々の勝利。我は既にいくたびか、 あらしに消ゆる喇叭《ラッパ》の声を聞かざりしか。 過ぎにし幾代の春を告げたりし黒がねの鐘の声。 今その鐘は沈みていづこに在りや。 我こそは実《げ》に、その国の都は海の底に沈みて声もなき 過ぎにし太古の代《よ》の君王なりけれ。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]夏の夜の井戸[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]スチユアル・メリル[#小さな文字終わり] 寐入りし少女《おとめ》の夢さへ覚ます月の光に 吠《ほ》ゆる飼犬はたゞ真青《まっさお》な影かとばかり。 焔《ほのお》の雫《しずく》の小さな星一ツ 旅籠屋《はたごや》の井戸の底に落ちたのを、 恋知りそめた子供のやうに 私等二人は眺めてゐた時。 お前の髪を解きほごす素早い私の指先から、 長いお前の髪毛《かみのけ》は 旅籠屋の井戸の中へと流れ込んだ。 忘れはせまい。蟋蟀《こおろぎ》は庭の小高い処《ところ》から、 綱に引き掛《か》けた洗濯物の 風にも動かず干されてある 河辺の方《ほう》まで啼《な》きしきつてゐた。 「恐れ」がさまよひ歩くと云はれた 向うの小山の森はいとも静けく 夜の暗さにつゝまれて 酒場で酒呑む人の高声《たかごえ》も しんとした冬の夜《よ》のやうに 錫《すず》の器や瀬戸物や 硝子《ガラス》の盃《さかずき》照す灯火《あかり》と共に消えてゐた。 お前は何やら小声にさゝやいたが、 私は其《そ》の囁《ささや》きをお前の唇の、 この六月に咲く赤い花弁《はなびら》の上に押潰《おしつぶ》して、 顫《ふる》へるお前の両手をばお前の胸から引取つて、 私も同じやう何やらお前に云つたのだけれど、 今は早《はや》何と云つたのか覚えてはゐない。 あらはなるお前の腕《かいな》に 私は抱かれてゐる間もなく 森に通ふ街道に、それは宛《さなが》ら 沈黙と血の中に揉《も》み消したいと思ふやうな 物狂はしい思出《おもいいで》の夢かとばかり、 突然聞える酔払つた人達の騒ぐ声。 お前と私は、それなり、別れてしまつたのだ。 星の雫の降りそゝぐ井戸のほとりに。 [#改ページ] [#1字下げ][#同行大見出し]奢侈[#同行大見出し終わり]  [#1段階小さな文字]アルベヱル・サマン[#小さな文字終わり] 奢侈《おごり》は生命《いのち》の樹になる死の果実。 羨望《うらやみ》の歯の根を動《うごか》す禁制の果実。 倦怠《けんたい》の沙漠《さばく》に坐せる黄金《こがね》の怪獣《シメール》。 老いにし「慾情」と「夜《よる》」より生《うま》るゝ汚《けが》れし女。 七重《ななえ》なる綾羅《うすもの》の下にちりばめし「悪徳」の金剛石。 火の火。血の血。骨の中なる髄《ずい》の髄。 地の底の魔薬を持てる浮浪の魔女。 脳漿《のうしょう》を吸ひ取り精気を挫《ひし》ぐ魔女。 斯《か》くぞ譬《たと》へん。幽遠神秘の「奢侈《おごり》」。 あゝ偉《い》なる哉《かな》、暗黒《やみ》の宮殿《みやい》のこの「奢侈」。 奢侈は荘麗の位に即《つ》く肉感の祭典。 耻辱の冠。汚濁の肩衣《かたぎぬ》。 裸形《ニュージテエ》。紅色《くれない》の気高き女体美の庭。 霊魂をむせび泣かしむる肉の天国。 駘蕩《たいとう》たる夜気を動《うごか》す千丈の髪。 暗澹《あんたん》たる香気の妖術。黒き薫り。 滔《とう》々たる血の流れの歌。酔倒の欷歔《すすりなき》。 快感の身顫《みぶるい》。柔《やわらか》き接触の弥増《いやまさ》る緩き波動。 神経を痺《しび》らす柔き接触……終《おわり》知られぬ柔き接触。 眼光《まなこ》に溢《あふ》るゝ柔き接触……魂も消え入《い》る柔き接触。 堪へぬ甘味《あまさ》の花蔭より奏《かなず》る楽の音……消え行く心。 響なき絃《いと》を弾ずる歓喜《よろこび》の撥《ばち》の疲労《つかれ》。 あゝ唇よ唇よ。消え行く接吻《くちづけ》。歯に噛む接吻。 痴情の寝屋《ねや》の死の如《ごと》くに深き唇。 かくぞ譬へん。幽遠神秘の「奢侈《おごり》」。 あゝ偉なる哉。哀傷の空の赤き星なるこの「奢侈」。 奢侈は人骨の裏に潜《ひそ》める細き毒蛇。 鋏《はさみ》の尖《さき》のごとくにとがりし慾望。 不吉の時を歌ふ酔へる警鐘《はやがね》。 清浄を嫉視《しっし》する夜陰《やいん》の尼なる魔界の天使。 覚醒《かくせい》に憤《いきどお》る不眠症の荊棘《いばら》。 睡眠の高き壁に蠢《うごめ》く悪魔が夜宴の大壁画。 乱れ打つ四竹《よつだけ》の拍子につれて少しく開く綾羅《りょうら》の帷《とばり》。 羨望《うらやみ》の神タンタルを驚《おどろか》す空虚の盃《さかずき》。 燃《もゆ》る氷塊。凍る焔《ほのお》。 歓楽の野獣眠るむさくろしき厩《うまや》。 かくぞ譬へん。幽遠神秘の「奢侈」。 あゝ偉なる哉。睜《みひら》きて浮世を目戍《みまも》る貪婪《どんらん》の眼の「奢侈」。 奢侈は熱帯の激烈なる幻想。 羽毛の飾と槍とを連ねし蛮土の王侯。 驚くべき |GANGES 河《ガンジュが》の畔《ほとり》なる翡翠《ひすい》の宮殿。 広大なる庭園。香気の湖水。埋《うずも》れし黄金《こがね》。 酷熱の赤道の恐るべき芽生月《めばえづき》。 群飛ぶ甲虫《こがねむし》の金色《こんじき》なす寂寞《せきばく》。 羊毛と鋭き香気の眩暈《げんうん》と。 緑なす毒の沼池を照す血色《ちいろ》の月。 かくぞ譬へん。幽遠神秘の「奢侈《おごり》」。あゝ偉なる哉。 恐怖すべき暗黒の偶像なるこの「奢侈」。 奢侈は面《おもて》蒼白《あおじろ》き狂乱の帝王が頭《かしら》の飾。 髪赤く丈高き娼婦の頸《くび》かざり。 節奏《リトム》と舞踊《ダンス》と擬容劇《ミイム》の女王。 黄金《こがね》にて築く 〔DE'CADANCE〕《デカダンス》 の凱旋門《がいせんもん》。 雄々しき虎《とら》と大理石とに取巻れし、 淫楽の皇帝のおそろしき夢。 潤《うるお》へる血の花。快楽と哀傷と。 花のうてなに甘さの限りを吸ひたる「死」。 炎々たる焔の中なる楽器のさま/″\。 墳墓の緑色なす灯火《ともしび》に親しむ「死」。 日輪の国の滅亡。無上の尊称。 偉大なる昂奮《こうふん》刺戟《しげき》の宗教。 燐光の技術《たくみ》によりて閃《ひらめ》き出《いで》し瞬間《つかのま》の、 最終《いまわ》の遊宴……最終の呼吸……糸の如《ごと》き臨終《いまわ》の喘咽《あえぎ》。 かくぞ譬へん。幽遠神秘の「奢侈《おごり》」。あゝ偉なる哉。 癩病《らいびょう》の崩れの金光|燦爛《さんらん》たるこの「奢侈」。 奢侈は肉慾の胸より吐出《はきいだ》さるゝ熱き呼吸。 欲求と呼ばれし轟《とどろ》く身顫《みぶるい》の赤き海。 快感の葡萄園《ぶどうえん》。熟して重き葡萄の総《ふさ》。稀有《けう》の珍味。 相俟《あいま》つて互《たがい》の性慾を狂奔せしむる性慾の酒。 恋愛の痛《いたみ》を鎮《しずむ》る妙薬。怨恨《えんこん》を激する昂奮剤。 心の旅路に彷徨《さまよ》ふ巡礼者の泊り宿。 瞬間によりて生じたる永遠の衝動。 幻想の怪獣走りつゝ水を飲む溢《あふ》るゝ噴井戸《ふきいど》。 世捨し人々の心を澄す処。懼《おそ》るゝものゝ懼れぬ心。 奴隷の鴉片《あへん》。癩病者の牝犬《めいぬ》。 渇ける唇に触れて離れぬ曇りなき水瓶《みずがめ》。 強者の弱点。弱者の強所。 悔恨を殺す夜半の毒草。 死者の口をも開《ひらか》しむべき胡蘆《ふくべ》の水入《みずいれ》。 暴飲の海に帆を揚げて漕《こ》ぎ出《いず》る 漠々たる郷愁《ノスタルヂイ》の楼船《やかたぶね》。 鼻孔を開き毛を逆立て、 虚無に向ひて突進する騎士の牝馬《めうま》。 彼方《かなた》遥けく燃残る GOMORRHE《ゴモル》 の塔と、 SODOME《ソドム》 の庭の焔《ほのお》を望む硫黄《いおう》の湖水《みずうみ》。 この身の終《おわり》を覚悟して見上《みあぐ》る苦悩の大空《おおぞら》。 殉教者。苛《さいな》まれし心に満る歓喜の涙。 火焔《かえん》の中《うち》に坐して汚《けが》れし祭典《まつり》する悪魔の王が、 永劫《えいごう》無窮《むきゅう》の祈願を凝らす闇の塔。 死を致す涜罪《とくざい》の食慾。渇きと饑《うえ》。 底なき淵《ふち》。影なき日輪。端《はてし》なき渦巻。 神経の神経、酸素の酸素なる「奢侈《おごり》」。 呪はれし自滅の恋なる終の「奢侈」。 渾然を望む痙攣《けいれん》。絶対の中《うち》なる饗宴。 世界の最後。天体回転の終局なる「奢侈《おごり》」。 哀願慈悲の聖女。黄金《こがね》の血の聖女。 貪慾《どんよく》無情の聖女。永久《えいきゅう》に聖なる聖女。 火焔の都。忘却の魔薬。黒鉄《くろがね》の錐《きり》。 堕落の聖女。地獄の |NOTRE-DAME《ノートルダーム》. かくぞ譬《たと》へん。幽遠神秘の「奢侈」。あゝ偉なる哉。 現世《うつしよ》の不朽不死なる妃《きさき》にも譬ふべき此《こ》の「奢侈」。 底本:「珊瑚集」岩波文庫、岩波書店    1991(平成3)年11月18日改版第1刷発行 底本の親本:「荷風全集第十一卷」岩波書店    1964(昭和39)年11月28日発行 初出:死のよろこび「讀賣新聞」    1909(明治42)年5月18日    憂悶「讀賣新聞」    1909(明治42)年5月18日    暗黒「讀賣新聞」    1909(明治42)年5月18日    仇敵「スバル 第七號」昴発行所    1909(明治42)年7月1日    秋の歌「スバル 第七號」昴発行所    1909(明治42)年7月1日    腐肉「スバル 第八號」昴発行所    1909(明治42)年8月1日    月の悲しみ「スバル 第八號」昴発行所    1909(明治42)年8月1日    そゞろあるき「新文林 第二卷第四號」白鳳社    1909(明治42)年4月1日    ぴあの「新文林 第二卷第四號」白鳳社    1909(明治42)年4月1日    ましろの月「女子文壇 第五年第四號」女子文壇社    1909(明治42)年3月1日    道行「女子文壇 第五年第四號」女子文壇社    1909(明治42)年3月1日    夜の小鳥「スバル 第九號」昴発行所    1909(明治42)年9月1日    暖き火のほとり「女子文壇 第五年第四號」女子文壇社    1909(明治42)年3月1日    返らぬむかし「スバル 第九號」昴発行所    1909(明治42)年9月1日    偶成「スバル 第九號」昴発行所    1909(明治42)年9月1日    沼「スバル 第十一號」昴発行所    1909(明治42)年11月1日    池「スバル 第十一號」昴発行所    1909(明治42)年11月1日    音楽と色彩と匂ひの記憶「スバル 第十號」昴発行所    1909(明治42)年10月1日    秋のいたましき笛「スバル 第十號」昴発行所    1909(明治42)年10月1日    仏蘭西の小都会「スバル 第十二號」昴発行所    1909(明治42)年12月1日    葡萄「スバル 第十二號」昴発行所    1909(明治42)年12月1日    われはあゆみき「スバル 第二年第一號」昴発行所    1910(明治43)年1月1日    夕ぐれ「スバル 第二年第一號」昴発行所    1910(明治43)年1月1日    秋「スバル 第二年第一號」昴発行所    1910(明治43)年1月1日    正午「三田文學 第一卷第一號」三田文學会    1910(明治43)年5月1日    告白「三田文學 第一卷第一號」三田文學会    1910(明治43)年5月1日    庭「スバル 第二年第七號」昴発行所    1910(明治43)年7月1日    缾「スバル 第二年第七號」昴発行所    1910(明治43)年7月1日    年の行く夜「三田文學 第一卷第八號」三田文學会    1910(明治43)年12月1日    暮方の食事「三田文學 第一卷第七號」三田文學会    1910(明治43)年11月1日    道のはづれに「三田文學 第一卷第七號」三田文學会    1910(明治43)年11月1日    ありやなしや「三田文學 第一卷第七號」三田文學会    1910(明治43)年11月1日    四月「秀才文壇 第九卷第十三號」文光堂    1909(明治42)年6月15日    ロマンチツクの夕「秀才文壇 第九卷第十三號」文光堂    1909(明治42)年6月15日    九月の果樹園「三田文學 第一卷第六號」三田文學会    1910(明治43)年10月1日    西班牙を望み見て「三田文學 第一卷第六號」三田文學会    1910(明治43)年10月1日    菊花の歌「花月 第七號」花月発行所    1918(大正7)年11月1日    あまりに泣きぬ若き時「新小説 第二十六年第三號」春陽堂    1921(大正10)年3月1日    夏の夜の井戸「三田文學 第二卷第十號」三田文學会    1911(明治44)年10月1日    奢侈「三田文學 第四卷第二號」三田文學会    1913(大正2)年2月1日 ※「憂悶」の初出時の表題は「憂鬱」です。 ※「腐肉」の初出時の表題は「屍」です。 ※「そゞろあるき」の初出時の表題は「感覚」です。 ※「ぴあの」の初出時の表題は「ピヤノ」です。 ※「偶成」の初出時の表題は「無題」です。 ※「夕ぐれ」の初出時の表題は「夕暮」です。 ※「告白」の初出時の表題は「宣言」です。 ※「缾」の初出時の表題は「瓶」です。 ※「道のはづれに」の初出時の表題は「道のはづれ」です。 ※「西班牙を望み見て」の初出時の表題は「西班牙を望みて」です。 ※「夏の夜の井戸」の初出時の表題は「井戸のほとり」です。 ※「奢侈」の初出時の署名は「金富参川」です。 ※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。 ※誤植を疑った箇所を、親本の親本「荷風全集第二卷」中央公論社、1950(昭和25)年2月20日発行の表記にそって、あらためました。 ※「音楽と色彩と匂ひの記憶」の底本原詩での著者名は「Maurice Vaucaire」です。 ※「菊花の歌」の底本原詩での著者名は「Charles Grandmougin」です。 入力:入江幹夫 校正:きりんの手紙 2021年11月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。