雨月物語 現代語訳 雨月物語 上田秋成 鵜月洋訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)煩瑣《はんさ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)狂言|綺語《きご》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)縑  [#…]:返り点  (例)幽霊評[#二]諸将[#一] /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)人/\ ------------------------------------------------------- [#1字下げ][#大見出し]凡例[#大見出し終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 一 本書は、安永五年(一七七六)刊、野梅堂版([#1段階小さな文字]京都[#小さな文字終わり]梅村判兵衛・[#1段階小さな文字]大坂[#小さな文字終わり]野村長兵衛の合板)の初版本を底本とした。 二 本文の覆刻に際しては、できるだけもとのかたちをくずさないように留意したが、文庫という性質上、つぎの方針をとった。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] 1 漢字はおおむね原本通りの漢字を用いた。 2 振り仮名は原文にあるものは大半これを付したが、とくにわかりきったよみで、あまり煩瑣《はんさ》にわたる場合は、これを省略した。 3 送り仮名は原文ではかなり不統一であるが、これは特殊な場合をのぞいて、文語文法の送り仮名に改めた。 4 仮名づかいは旧仮名づかいの正規なものに統一した。 5 句読点は、原文ではすべて「。」であるが、読解に便利なように句点「。」と読点「、」に区別し、あらたに補ったものもある。 6 原文には改行・段落がないが、これも読解に便利なように適宜設けた。 7 文法上誤りと思われる箇所や、脱字・衍字《えんじ》と思われる箇所もないではないが、作者特有の語法もあり、用語・用字への配慮もあると思われるので、なるべく原文通りにして、ときに脚注をもって説明した。 8 原文で「人/\」「おろ/\」などとあるところは「人々」「おろおろ」とした。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 三 原文の挿絵は全部これを入れ、説明をくわえた。 四 脚注は、スペースのゆるすかぎり入れて、解読に便なるようにつとめたが、限られた範囲内のことであるから、くわしい出典・語義・語釈・用例などは記すことができずにおおむね省略した。しかし本文を解読するだけならばこれで十分足りると思う。なお脚注だけで解読しがたい場合には、現代語訳によられたい。 五 現代語訳は、なるべく原文の持ち味や文体の特色をそこなわないように留意しながら、しかもなるべく逐語訳にしたがって文意を正確に訳出し、現代文としても味読にたえるようなものとすることに努力した。ことに説話体の文体と、長いセンテンスがえんえんと接続する秋成独自の文体のニュアンスを生かしながら、これを現代文とするということに苦心をはらった。 六 解説は、「雨月物語」を鑑賞し、研究するうえの基礎をしめしておいた。 [#2字下げ]昭和三十四年十月 [#地から2字上げ]鵜月 洋 [#ここで字下げ終わり] [#改丁] [#ページの左右中央] [#5字下げ]現代語訳 雨月物語[#「現代語訳 雨月物語」は大見出し] [#改丁] [#1字下げ][#中見出し]雨月物語序[#中見出し終わり]  羅貫中《らかんちゅう》は「水滸伝《すいこでん》」を著わして、そのために子孫三代にわたって唖《おし》の児が生まれ、紫式部は「源氏物語」を著わして、一度は地獄にまでおちたが、それはおもうに彼等が架空の物語や狂言|綺語《きご》を書いて世の人々を惑わせた悪業のために、そのむくいを身にうけたというべきであろう。そしてその文をみると、それぞれかわっためずらしい趣向をこらし、その文章の勢い・調子は真にせまり、あるいは低く、あるいは高く、あたかもころがるようになめらかで流暢《りゅうちょう》であって、これを読むものの心持をしてたのしく快くさせるものである。その当時の出来事を、遠い後の世である今日において、さながら眼前にありありとてらし出して見ることができるようなおもいがする。さてここに、私もちょうど泰平《たいへい》の世を謳歌《おうか》するようなのんきなむだばなしを書いたが、それは口からでまかせにしゃべりちらしたものである。雉《きじ》が祭礼の庭で鳴いたり竜が野で戦ったりするような奇怪千万で、ありもしない怪奇談であるから、みずからかえりみてさえ、根拠のない、疎漏《そろう》の多い、つたないものだとおもう。ましてこれを拾《ひろ》い読みするものは、もとよりこれが信ずるに足るほんものだというはずがない。だから、私の場合は、世間の人をまどわす罪もなく、子孫に口唇裂や平たい鼻などの変《か》わり者《もの》が生まれるという業《ごう》のむくいをうけるはずが、どうしてあろうか。そのおそれはないというものである。明和五年三月、雨はれて月おぼろにかすむ晩春の夜、座敷のあかりまどの下で編みつくり、書肆《しょし》に渡す。題して「雨月物語」ということにした。剪枝畸人《せんしきじん》しるす。[#地から2字上げ][#「丸子虚後人」「四角遊戯三昧」の印の図(fig60609_01.png、横43×縦76)入る] [#改ページ] [#1字下げ][#中見出し]雨月物語 巻之一[#中見出し終わり] [#1字下げ][#小見出し]白峯(しらみね)[#小見出し終わり]  逢坂山《おおさかやま》の関守《せきもり》に通行を許されて東国にむかってから、秋をむかえた山のもみじの美景も見捨てがたく、そのまま諸国|行脚《あんぎゃ》の旅をつづけることにして東海道をくだったが、なかでも浜千鳥が砂浜に足跡をつけてあそぶ鳴海潟《なるみがた》、富士山の噴煙、浮島が原、清見が関、大磯小磯の浦々、紫草の美しく咲く武蔵野の原、塩釜《しおがま》の海の穏やかな朝景色、象潟《きさがた》の猟師のひなびた苫《とま》ぶきの家、佐野の舟橋、木曾の桟橋《かけはし》などのありさまは、どれひとつとして心|惹《ひ》かれないところはなかったが、そのうえなお西国の名所・歌枕を見たいものだと思って、仁安三年の秋には、葭《あし》の花散る難波《なにわ》を経《へ》て、須磨・明石の浦ふく汐風を身にしみじみと感じながら、旅をつづけて四国にわたり、讃岐《さぬき》の真尾坂《みおざか》の林というところに、しばらく逗留することにした。これとても野宿などを重ねてきた長旅の疲れをいたわるためではなく、悟道を念じて修行するためのよすがとして結んだ庵であった。  この里近くの白峯というところに、崇徳院の御陵があると聞いて、参拝したいものだと、十月のはじめごろ、その白峯に登った。松や柏が深々と茂りあって、青雲のたなびく晴天の日ですら、まるで小雨がしとしとと降っているかのように暗くしめっぽい。児《ちご》が嶽《たけ》というけわしい峯が御陵のうしろにそびえたち、千仞《せんじん》のふかい谷底からは雲霧がわきあがってくるので、眼前のものさえはっきりしない心地がされる。木立がわずかにすいた所に、土を高くつんだうえに石を三つ積み重ねたものがあるが、それが野茨《のいばら》や蔓草《つるくさ》にすっかりうずもれて、みた目にもなんとなく物悲しい気持がするのを、これこそ崇徳院の御墓であろうかと思うと、心も暗然とさせられて、まったく夢なのか現実なのかけじめもつかないほどである。  思えばまのあたりそのお姿を拝したのは、まだ天子であらせられたころで、紫宸殿《ししんでん》・清涼殿《せいりょうでん》の御座所《ござしょ》で政治をおとり遊ばされたのを、文武百官は、まことに賢明な天子であると、その仰せをおそれかしこんでお仕え申しあげたものである。また近衛天皇《このえてんのう》に御位をお譲りになられてからも、上皇御所の立派な玉殿におすまいになっていらしたのに、それがこんな鹿の通う足跡しか見えない、伺候《しこう》奉仕するものもないような深山の藪《やぶ》の下に崩御《ほうぎょ》されていようとは、まったく思いもかけないことであった。一天万乗の天子という尊い御身分であらせられてさえ、前世の因縁《いんねん》というものがおそろしいまではっきりとその身につきまとって、その罪業《ざいごう》をのがれることがおできにならなかったことよと思うと、人の世のはかなさにまで思いがおよんで、涙はわき出るようにとめどなくあふれてくるのだった。  今夜は夜どおし御回向《ごえこう》申しあげようと、御墓の前のたいらな石の上にすわって、お経をしずかによみはじめたが、やがて心にうかんだ一首の和歌をよんでお供えした。 [#ここから2字下げ] 「松山の浪のけしきはかはらじをかたなく君はなりまさりけり」 [#ここから5字下げ] (松山の海に寄せる波の景色は昔も今もかわらないであろうに、この景を眺めて暮らされた崇徳院はすでにおなくなりになってしまった。) [#ここで字下げ終わり] なおも心ゆるめずに一心に読経《どきょう》をつづける。あふれる涙に、草の露が添って、ふかくしっとりと袖《そで》をぬらすのであった。日が沈むにしたがって、深山の夜景は不気味でただならぬさまをみせてきたので、石の上にすわり、落ちかかる木の葉を身にかけただけではひどく寒く、そのため精神はすみ、骨の髄まで冷えて、なんとはなしにものすごい心地がされる。月は出たが、繁茂《はんも》した木立は月光を洩らさないので、あやめもわからない闇のなかで心わびしく思いながら、やがて眠るともなくうとうとしようとすると、たしかに、「円位《えんい》、円位」とよぶ声がする。  眼をひらいて闇の中をすかしみると、異様な姿で、背が高く痩せ衰えた人が、顔つきや着衣の色柄ははっきりと見えないが、こちらを向いて立っている。西行もとより道心をえた法師であったから、おそろしいとも思わず、「そこに来たのは誰だ」とたずねた。すると、その人は「さっきその方が詠んだ和歌の返歌を申そうと思ってきたのだ」といって、 [#ここから2字下げ] 「松山の浪にながれてこし船のやがてむなしくなりにけるかな」 [#ここから5字下げ] (松山にうちよせる浪に流されてきた船が、都へも帰れずにやがてむなしく朽ちはててしまった。) [#ここで字下げ終わり] と詠み、「よくきてくれたな」とおっしゃるので、西行ははじめてそれが崇徳院の亡霊であることがわかり、地面にぬかずいて拝し、さめざめと涙を流していった。「それにしてもどうして成仏《じょうぶつ》されずにお迷いになっていらっしゃるのでございますか。濁りけがれた現世をのがれて仏になられたことをうらやましく存じてこそ、今夜の法要によって、仏縁におあずかり申したいと思っておりましたのに、成仏なされずにここにおあらわれになるとは、もったいないことではございますが、また悲しい御心根でございます。ひたすらこの世の妄執をお忘れになって、めでたく成仏の位におつき下さい」と、真心をつくしてお諫め申しあげた。  これを聞くと、崇徳院は声高くお笑いになって、「その方は知るまいが、近ごろの世上の乱れは、自分のしわざである。生きている時から魔道に心をうちこんで、平治《へいじ》の乱をおこさせ、死して後もなお朝廷にたたりをするのだ。よく見ているがいい。やがて天下に大乱をおこさせようぞ」という。西行は、このお言葉をきくと、涙をはらって、「これはおどろきいった情ない御心持をうけたまわることでございます。君にはもとより御聡明であるとの評判があらせられるのでございますから、帝王道の道理は十分よく御承知のことと存じあげます。こころみにおたずね申しあげます。一体《いったい》、保元《ほうげん》の御謀叛《ごむほん》は、天照大神の御神勅の趣旨に違《たが》うまいと思って、お思いたちになられたのですか。それとも御自身の私欲から御計画なされたのですか。さあ、詳《くわ》しくおっしゃって下さい」と申しあげた。すると、崇徳院はさっと顔色をかえられて、「よく聞け。帝位は人間至上の位である。それをもし上にたつ天子から人道を乱すときは、天の命ずるところにしたがい、民の与望にこたえて、天子たりともこれを伐《う》つのが聖賢の道である。そもそも永治《えいじ》元年の昔、なんの罪もないのに、父鳥羽院の命《めい》によって、自分は帝位を三歳の体仁《なりひと》にゆずって退位したが、この心をみても自分が人欲ふかいとはいえまい。その体仁が若死されては、わが子の重仁《しげひと》こそ当然天下を統治すべきものと、自分も世間も思っていたのに、美福門院《びふくもんいん》の妬みにさまたげられて、第四皇子の雅仁《まさひと》に帝位をうばわれたのは、まことふかいうらみではないか。重仁には国を治める才がある。それにたいして雅仁はどれだけの器量があるというのだ。人の徳の有無をも見きわめないで、皇位継承のことを後宮《こうきゅう》の后に相談しておきめになったのは、父帝のあやまちであった。しかし自分は、父が御存命中は、子としての孝行と誠をつくして、その不平不満をけっして顔色にも出さなかったが、父がおかくれになったのちは、いつまでも不遇に甘んじ、不平を我慢しておられようかと、ここにはじめて勇気をふるいおこして兵をあげることを決意したのである。周《しゅう》の武王が臣の身として、君主であった殷《いん》の紂王《ちゅうおう》を討ったのさえ、天の命ずるところにしたがい、民の与望にこたえれば、事は成就《じょうじゅ》し、天は認めて、周八百年の世の基《もとい》をひらく大業となったではないか。まして国を治める資格と地位のある自分が、女の権力によってできた、あやまった政権にとってかわろうとするのに、なんでこれが道理にそむいたことだといえようか。その方は出家して仏道に溺れ、来世で、煩悩《ぼんのう》をのがれて救いをえたいと願う利欲の心から、ほんとうの人間の道をむりに仏教の因果理論にひきつけて説き、堯舜《ぎょうしゅん》の教え、すなわち儒教の説にてらすべきを、仏教に混入して、自分を説得しようとするのか」と、御声も荒々しくおっしゃるのだった。 [#「白峯陵の前の「たひらなる石の上に座をしめ」た西行が、崇徳院の怨霊と対決する図」のキャプション付きの図(fig60609_02.png、横832×縦593)入る] [#ここからキャプション] 白峯陵の前の「たひらなる石の上に座をしめ」た西行が、崇徳院の怨霊と対決する図。「一段の陰火、君が膝の下より燃上がりて」という情景である。(原本三丁裏、四丁表の挿絵) [#ここでキャプション終わり]  西行はますますおそれる色もなく、ひざをのり出して、「君のおっしゃるところは、人間の道の道理をかりて説かれますので、いかにもそれにかなっているように見えますが、じつはやはり醜い人間の欲情・煩悩の域から脱してはおられません。遠い中国の例をひくまでもありません。わが国の昔にも、応神《おうじん》天皇が兄皇子の大鷦鷯《おおささぎ》の王《きみ》をさしおいて、末皇子の菟道《うじ》の王《きみ》を皇太子とお定めになりました。天皇崩御ののち、この兄弟の皇子たちは互いにゆずりあって、どちらも帝位につこうとしません。三年たってもそのゆずりあいが終りそうにもないのを、菟道の王はふかく御心配になって、『どうして私がこれ以上生きながらえて、天下の人々に迷惑をかけられようか』とおっしゃると、御自害あそばされたので、やむなく兄皇子が帝位におつきになりました。これこそ帝位の尊厳を重んじ、父に孝、兄に悌という人道をまもり、ほんとうの真心をつくしていやしい私欲というものがないというべきです。聖賢堯舜の道とはこれをいうのでしょう。わが国において、儒教を尊んで、もっぱらそれを天皇道の理論的な裏づけとしているのは、菟道の王が百済《くだら》の王仁《わに》を招聘《しょうへい》して学ばせられたのがはじめでありますから、この御兄弟の皇子の御心こそ、そのまま中国の聖人の精神ともいってよいでしょう。また『周のはじめ、武王、殷の紂王の暴虐を憤《いきどお》ってこれを討ち、ために天下の民を安らかにした。これは臣の身として君を弑《しい》したというべきではない。仁にもとり義にもとった一人の不徳者紂をころしたのである』ということが、『孟子』という書物に記されていると人づてに聞いております。だから、中国の書籍は、経典・史策・詩文にいたるまで、神意にかなって、わが国に渡来しないものはありませんが、『孟子』という書物だけはまだ日本に伝わっておりません。この書物を積んでくる船は、途中でかならず暴風に遭って沈没するからだといわれております。それはどういうわけかというと、わが国は天照大神が国の基をひらいてお治めになってから、皇孫の天子がたえることなく代々御位についておりますのに、もしこんな口先でいいくるめるような、こざかしい教えを伝えることになると、後世には帝位を奪っても罪と思わないという賊子も出ることであろうと、八百よろずの神々がこの書物をお憎みになって、神風をおこして船を転覆させるのだということでございます。だから中国の聖賢の教えも、わが国の国風にてらしてふさわしくないものがすくなくありません。また、『詩経』でも、『兄弟はたとえ内輪喧嘩をしても、いったん外部からのはずかしめをうけようとしたときは、一致協力してこれをふせげよ』と、いっているではございませんか。それを君には、御兄弟の愛をお忘れになり、そのうえ、御父帝がおかくれになってまだ殯《もがり》の宮《みや》に安置した御遺体のぬくもりがさめないうちに、もう軍旗をなびかせ弓はずをふりたてて挙兵され、帝位争奪の戦をなさるなど、不孝の罪これよりはなはだしいことはございますまい。天下は神の定める器であり、帝位は神意の定めるところであります。だから、人が私欲をもってこれをうばおうとしても、うばうことのできない道理であるのを、君はわきまえられずに戦いをおこされましたが、たとえ重仁親王の御即位は天下万民ひとしく仰望するところであっても、徳をしき平和の恵みをほどこされないで、道にはずれた方法をもってあのように世を乱したもうたときは、きのうまで君をお慕い申しあげていたものも、きょうはたちまち君を恨んで仇敵となり、そのために本望をもおとげ遊ばされないばかりか、古来例のないほどの刑罰をお受けになって、こんな辺鄙《へんぴ》な片田舎でおなくなりになったのでございます。このうえは、ただただ昔の恨みをお忘れになって、極楽浄土におかえり遊ばすことこそ、心からお願い申しあげたい君の御心でございます」と、はばかることなく申しあげたのである。  これを聞いて、崇徳院はふかいためいきをつかれ、「いまその方が事の善悪道理を正してわが罪をせめたが、その方のいうところもまたもっともである。しかしどうしようもないのだ。この島に流されて、高遠《たかとお》の松山の家に苦しくもとじこめられ、日に三度の食事をもってくる者以外には、誰ひとりとして参って仕えるものもない。ただ夜空をとぶ雁《かり》の声が枕もとちかく聞えてくると、あの雁は都をさして飛んで行くのだろうかと、それさえなつかしく思われ、明け方の千鳥が洲崎《すさき》で友よびかわして鳴くのを耳にすると、それもまた物思いのたねとなるだけである。中国の燕丹《えんたん》の故事のように、烏《からす》の頭が白くなるという奇跡がおころうとも、自分には都へ帰れる機会はないのだから、きっとこの辺鄙《へんぴ》な海辺で一生を終り、海辺をさまよう亡霊となることであろう。そこで、ひとえに来世の安楽のためにと思って、五部の大乗経《だいじょうきょう》を写経したが、寺らしい寺もないこんなさびしい片田舎の海辺にのこしておくのも悲しいことである。わが身はこの荒磯でくちるとも、せめて筆跡だけでも都の中へ入れさせて下さいと、弟の仁和寺《にんなじ》上首|覚性法親王《かくしょうほっしんのう》のもとへ、経にそえてつぎの和歌をおくったのである。 [#ここから2字下げ] 浜千鳥|跡《あと》はみやこにかよへども身は松山に音《ね》をのみぞ鳴く [#ここから5字下げ] (浜千鳥と同じように自分の筆跡〈写経〉のみは懐かしい都へ通っていくが、自分は、松山で帰京の日を待ちこがれながら声をあげて泣くだけである) [#ここで字下げ終わり] ところが、少納言信西《しょうなごんしんぜい》が邪推して、『もしかするとこれは崇徳院が主上をのろい、天下をのろう心でおくられたものかもしれません』と、帝に申しあげたため、そのままにおくりかえされたのであるが、まことにうらめしいことだ。昔から日本でも中国でも、国位を争って兄弟が敵となった例はめずらしくないが、それでも自分は罪ふかいことをしたと思って、その悪心を悔い改め、罪ほろぼしのためにと思って写した御経であるのに、それをいかにさまたげるものがあるからといって、帝の近親は減刑するという議親法《ぎしんほう》をも無視して、兄の筆跡さえも都の中へおいれにならない帝の御心こそ、いまになっては永久に解けることのない恨みである。しょせんこの写経を魔道に回向《えこう》し、魔力によってこの恨みを晴らそうと、ひとすじに心をきめ、指を切ってその血で願文を書き、経とともに志戸《しと》の海に沈めてからのちは、人にも逢わず、家の内にふかくとじこもって、ひたすら魔王となり恨みをはらそうとの大願を立てたが、願いかなってついにあの平治の乱が勃発したのである。  まず、信頼《のぶより》が分不相応な高い位をのぞむその増長心をあおりたてて、義朝《よしとも》をその味方につけさせた。あの義朝こそ憎い敵なのだ。父の為義《ためよし》をはじめ、兄弟の武士たちが、保元の乱で、みなわがために命を捨てて働いたのに、彼一人、われに敵対した。為朝《ためとも》の勇猛と、為義・忠正《ただまさ》の軍略によって、勝利のけはいが見えていたのに、西南の風に本陣の白河殿が焼き討ちされて敗北し、自分は白河殿をのがれ出てからは、如意《にょい》が嶽《だけ》のけわしさに足をいためたり、あるいはきこりの切った椎の柴を身にかけて雨露をしのいだりして、苦労のすえに、ついにとらえられてこの島に流されたのであるが、それはすべて義朝の悪辣《あくらつ》な焼き討ちという計略にねざすことなのだ。この仕返しとしては、まず義朝の心を暴虐・貪欲にすることによって、信頼《のぶより》の陰謀に加担させたので、彼は天子に弓ひく大罪をおかし、武略にすぐれぬ清盛《きよもり》の如きに追い討たれてしまったのだ。そのうえ、父の為義を殺したむくいがその身にあらわれて、家来にだましうちされたのは、まさに天罰を蒙ったものである。また少納言信西は、つねにおのれを物知りの学者ぶって、狭量にして人をいれない高慢な根性まがりであったから、これを誘って、信頼・義朝の敵としたので、最後には家を出奔して宇治山の穴にひそみかくれていたのを、とうとう探し出されて捕らえられ、六条河原でさらし首になった。これは、わが写経を送りかえしたへつらいの罪の結末をつけたのである。その余勢をかって、応保《おうほう》の夏には美福門院の生命をちぢめ、長寛《ちょうかん》二年の春には忠通《ただみち》に祟ってこれを殺し、われもその年の秋にはこの世を去ったが、死後なお憤りの火がさかんにもえつづけて消えないままに、ついに大魔王となって、三百余類の手下をもつ首領となった。わが手下どものすることは、人の幸福を見てはそれを不幸に転じ、天下の泰平なのを見ては乱をおこさせることである。ただ清盛のみは人間として授かった現世の果報が大であって、そのために一門一族すべて高位高官に列し、好き放題に国の政治をとりおこなっているが、長男の重盛《しげもり》が忠義をもって輔佐しているゆえ、その暴虐にもかかわらず、まだ復讐《ふくしゅう》の時期に達していない。しかしその方もよく見ておれ。平氏の運命もまた長くはないだろう。雅仁がわれにつらく当たったその分だけは、かならず雅仁にも報復してやるぞ」と、御声はしだいに大きくおそろしくなってくるのだった。西行は、「わが君にはこれほどまでに魔界の悪縁につながれて、弥陀《みだ》の極楽浄土とは無縁にちかく、億万里も遠く隔たっておいでなさるようでございますから、これ以上はくりかえしてなにも申しあげません」といって、ただ口をとじてむかいあっていた。  その時、あたりの峯や谷が揺れ動いて、風が林を吹きたおすばかりにはげしく吹き、砂を空に高くまきあげた。と、見る見るうちにひとかたまりの鬼火が、崇徳院のひざの下から燃えあがって、そのために山も谷も昼のようにあかるくなった。その光のなかに、よくよく院の御様子を拝見すると、怒りのためか朱をそそいだような真っ赤なお顔に、ぼうぼうと乱れた髪がひざにかかるまで乱れさがり、にらみつけるように白眼をつりあげて、熱い息を苦しそうに吐いていらっしゃる。お召しになっている衣は柿色でひどくすすけたように黒ずんでいるうえに、手足の爪はまるで獣の爪のように鋭く長くのびていて、さながら魔王の姿そのままであり、見るからにあさましくおそろしい。やがて空にむかって、「相模《さがみ》、相模」とおよびになる。「ハッ」とこたえて、鳶《とび》のような変化《へんげ》の鳥が空からまいおり、院の御前にひれふして、仰せの言葉を待つ。院は、その変化の鳥にむかわれて、「なんではやく重盛の命を奪って、雅仁と清盛を苦しめないのか」と仰せになる。変化の鳥はこたえて「後白河上皇の御幸運はまだ尽きておりませんし、重盛の忠義と誠には近づけません。しかしいまから十二年たちますと、重盛の寿命もつきてしまいます。彼が死ねば、平氏一族の幸運も、それとともにほろびます」という。それを聞くと、院は手をうっておよろこびになり、「憎い平氏の敵どもは、ことごとくこの前の海でみなごろしにしてやるぞ」と、叫ぶ御声は谷や峯にこだまして、その物凄さはとてもいいあらわせないほどであった。西行は、この魔道のあさましいありさまを見て、いまさら涙をおさえかね、再び一首の和歌をよんで、院が仏縁につながるような御心になられることをおすすめ申しあげた。 [#ここから2字下げ] 「よしや君昔の玉の床《とこ》とてもかからんのちは何にかはせん [#ここから5字下げ] (たとえ君には昔は金殿玉楼におすまいになっていたとしても、こうしておなくなりになって現世をはなれているいまでは、そんな現世の身分や優越感は何もなりません。御往生下さい) [#ここで字下げ終わり] 死んでしまえば王侯も庶民もおなじであるのに」と、感動が胸にあふれて、思わずもこの歌を声高にうたいあげたのである。  院は、これをお聞きになって、御心をうごかされたようであったが、しだいにお顔の色もやわらぎ、鬼火もだんだんうすくなって消えていき、ついにそのお姿もかき消すように見えなくなったが、変化の鳥もどこへいったのか、あとかたもなく姿を消し、折から十日あまりの月は峯のかなたにかくれて、木立生い茂った闇の中ではものの見わけもつかないので、さながら夢路をさまようような思いだった。まもなく夜明けの空に、塒《ねぐら》はなれる朝鳥のさえずりがすがすがしくひびきわたったので、最後にかさねて金剛経一巻を回向申しあげて、西行は山をおり、庵へ帰った。あらためて心しずかに昨夜来の出来事を思いおこしてみると、平治の乱のことをはじめとして、人々の身の上、またその年月など、院の語られたことが事実と符合してまちがいがないので、ふかくおそれつつしんで、このことをだれにもはなそうとしなかった。  その後十三年を経て、治承《じしょう》三年の秋、平重盛が病にかかって世を去ったので、清盛入道はだれはばかることもなく、専横をきわめるようになり、後白河法皇をうらんで鳥羽離宮におしこめたてまつり、さらに福原の茅ぶきの御所にお移しして、苦しめ申しあげたのである。人心離反し、頼朝《よりとも》が機に乗じて東国から兵を挙げ、義仲《よしなか》が北国から雪をけたてて京へのぼるにおよんで、さしもの平家一門も都をおちて西の海にのがれ、ついに讃岐の海、志戸・八島《やしま》にいたって多くの武勇の士たちが魚の餌食となり、さらに赤間《あかま》が関《せき》・壇《だん》の浦《うら》に追いつめられて、幼君安徳天皇が入水されたので、平家の武将たちもここにのこらずほろびてしまったが、その一部始終《いちぶしじゅう》が崇徳院のおっしゃった言葉に少しもちがわなかったのは、おそろしくもまた不思議なかたりぐさであった。その後、院の御霊所が御陵のそばに玉をちりばめ美しくいろどられて造営され、その御威光をながくあがめたてまつるようになった。讃岐へ旅する人は、かならず御幣をささげて、つつしみおがむべき貴い御神である――。 [#改ページ] [#1字下げ][#小見出し]菊花の約(きっかのちぎり)[#小見出し終わり]  春になると青々とした若葉を茂らせる柳も、家の庭に植えてはならない。それとおなじように、交際は軽薄な人と結んではならない。なぜかといえば、柳はすぐ茂って青々となるけれども、初秋をつげる風がひとふきすると、それにたえられずにたちまち散ってしまうからである。また軽薄な人はまじわりやすいが、同時にまじわりが絶えて離れてしまうのもはやい。それでもまだ柳の方は春がくるたびに葉を新緑に染めてみせるが、軽薄の人はいったんまじわりが絶えたならば、二度とふたたび訪ねてくるなどということはないものである。  播磨《はりま》の国《くに》加古《かこ》の宿《しゅく》に、丈部左門《はせべさもん》という学者がいた。清貧にあまんじて、日夜親しむ書物のほかは、身のまわりの諸道具類などわずらわしいといって、万事簡素に暮らしていた。年老いた母があった。この母は、中国の有名な孟母《もうぼ》にも劣らないほどのかたい節操をもった賢母で、常に糸をつむぎ、はたを織ることを仕事としては、左門のこころざしを達成させようと助けていた。また妹が一人あったが、これはおなじ里の佐用氏《さようじ》の許へかたづいていた。この佐用の家は非常に裕福であったが、丈部母子の賢いひとがらを慕って、その家の娘を嫁にむかえて親戚《しんせき》となってからは、なにかにかこつけてしばしば物などおくっては母子の生活を扶《たす》けようとするのであったが、左門は「生活のことで人の世話になるわけにはいかない」といって、一度だっておくりものをうけたことがなかった。  ある日、左門が、おなじ里の某氏の許を訪《おとず》れ、古今のよもやまばなしをしてはなしに興がのってきたとき、壁一重へだてた隣室から、人の苦しそうなうめき声が聞えてきて、いかにも可哀そうだったので、主人にたずねると、主人はこたえて、「ここからずっと西の方の国の人らしいのですけれど、連《つ》れに遅れたとのことで、一夜の宿をもとめられたのですが、いかにも立派な武士らしい風采《ふうさい》をそなえて人品もいやしからぬと見うけましたので、お泊め申しあげたところ、その晩、たちのわるい高熱を出して、それからは起き臥しも自分では自由にならないものですから、お気の毒に思って、三日四日ときょうまでお泊めしてきましたが、どこの国の人かもはっきりしないので、私もとんだ失敗をしでかしたものと、当惑している始末です」という。これを聞いて左門は、「お気の毒なはなしですな。御主人が御不安に思うのももっともですが、病気で苦しんでいる人は、知人もない旅先でこんな病気をわずらっていらっしゃるのですから、とりわけ心苦しくいらっしゃることでしょう。どんな御容態かみたいものですが」といって、たちあがろうとするのを、主人はおしとどめて、「はやり病は人をそこなうものだと聞いていますから、家の者などもあそこへは行かせないようにしております。あなたも近寄っておからだを悪くすることがあるといけません」という。左門は笑って、「論語にもいうように『死生命あり』で、人間の寿命は天命の定めるところです。天命でなければどんな病気だってうつるはずはありません。それを、はやり病は人をそこなうなどというのは、愚人俗人のいうことで、私どもは信じません」というと、戸をおしあけて隣室に入って、病人を見る。主人がはなしたとおり、素姓《すじょう》のよさそうな人であるが、病気が重いとみえて、顔は黄色く、皮膚は黒く、痩《や》せ衰えて、古蒲団《ふるぶとん》のうえにくるしそうに身を横たえている。そして左門がはいってきたのをしると、人なつかしそうに見て、「どうか、お湯をいっぱい下さい」という。左門は近寄って、「もう御心配はいりません。私がかならずお救い申しあげましょう」といってはげますと、主人と相談して薬をえらび、自分で処方を考え、自分で煎薬《せんやく》して、それをのませながら、そのうえ粥《かゆ》を炊いて食べさせるなど、その看病ぶりはまるで兄弟にたいするように親切をきわめ、一刻たりとも捨てておけないというような手厚さであった。  かの武士は、左門の看護の親切さに涙を流して感謝し、「見ず知らずの旅人である私に、これほどまでに御親切にして下さるとは感謝のことばもありません。たとえこのまま死のうとも、あなたの御親切にたいしてはきっと御恩返しをいたします」という。左門は、それをおしとどめ、はげまして、「気の弱いことをおっしゃいますな。だいたい疫病《えきびょう》は罹病期間のあるものです。その期間をすぎてしまうと生命に別条はありません。私が毎日まいってお世話申しあげましょう」と、誠意をこめて約束し、その言葉どおり心をこめて看病したので、やがて病気もしだいによくなり、気分もさっぱりしてきた。そこで、ある日のこと、病人は、この家の主人に鄭重《ていちょう》に礼をのべるとともに、左門の陰徳ある人柄を尊敬して、その職業をたずね、自分の身の上をもつぎのように語った。「私は、もと出雲《いずも》の国《くに》松江の出身で、赤穴宗右衛門《あかなそうえもん》という者ですが、すこしばかり軍学の書に通じていたので、富田《とみた》の城主|塩冶掃部介《えんやかもんのすけ》が、私を師として軍学を学ぶという立場におりましたところ、あることから近江《おうみ》の佐々木氏綱《ささきうじつな》の許へ密使としてえらばれ、近江へ赴いて佐々木の館に逗留しているうちに、故郷では前の富田城主|尼子経久《あまこつねひさ》が山中鹿之介《やまなかしかのすけ》一党を味方にひきいれて、文明《ぶんめい》十七年十二月の大晦日《おおみそか》に、不意討ちをかけて城をのっとったので、掃部介《かもんのすけ》殿も討死なさったのであります。元来出雲の国は佐々木の領国で、塩冶氏はその代官だったのですから、私は氏綱にむかって、『三沢《みざわ》・三刀屋《みとや》の豪族を援助して、経久を討ちほろぼしなさい』と進言したのですが、氏綱は外見いかにも勇将にみえながら、内心は臆病卑怯な愚将なので、私の建言を実行しないばかりか、かえって私を館に足どめしたのです。しかし、私は、いる理由もない所に長居はすまいと、単身ひそかに抜け出して、故郷へ帰ろうとした途中、こんな病気にかかって、はからずも先生にたいへんお世話をおかけしたということは、身にあまる御恩であります。これからの私の生涯をかけてきっと御恩返しをいたします」。左門はいう。「『孟子』にもあるように、人の不幸をみて見殺しにできないのは人間の本性でありますから、私のしたことも当然のことで、いまさらそんな御鄭重《ごていちょう》なお礼のことばをいただく理由がありません。まあ、もうすこしここに滞在されて御養生なさい」と。左門の誠実あふれたことばをたよりにして、赤穴はなお幾日か滞在したが、日がたつにつれて、身体の調子がほとんど平生の状態にまで回復した。 [#「文明十八年(一四八六)一月一日の早暁、尼子経久と山中党が富田城を襲撃した図」のキャプション付きの図(fig60609_03.png、横835×縦607)入る] [#ここからキャプション] 文明十八年(一四八六)一月一日の早暁、尼子経久と山中党が富田城を襲撃した図。構図は「菊花の約」が典拠とした「陰徳太平記」の記事によったと思われる。(原本十四丁裏、十五丁表の挿絵) [#ここでキャプション終わり]  この数日間、左門はよい友を得たと、昼となく夜となく交際していろいろはなしをしてみると、赤穴も、左門の専門の諸子百家《しょしひゃっか》のことなどはひかえめにぽつりぽつりとはなし出すが、その質問や理解力は並一通りではなく、聡明であり、ことに専門の戦術理論のこととなると確信にみちた立派な見解を示したので、お互いに心がぴったりと一致し、感心したりよろこんだりして、ついに義兄弟の盟約を結んだのである。赤穴が五歳年長であったから、兄分としての礼をとって、左門にむかっていうのに、「私は幼いときに父母に死に別れて親がありません。義兄弟となったいまは、あなたの老母はすなわち私の母上でありますから、あらためて母上として拝顔の栄をえたいと思います。母上は私の心をくんで、この幼稚で愚かな気持をうけいれて下さるでしょうか」と。それを聞いて左門はたいへんよろこび、「母はいつも私が孤独なのを悲しんでいます。いまの真心こもったお言葉を聞かせたならば、よろこんで、寿命も延びることでしょう」というと、すぐに赤穴を家にともなった。老母は、これをよろこびむかえて、「倅《せがれ》は才能もなく、その学問も時勢にあわず、そのため世に出る機会を失っております。どうかお見捨てなく、兄として指導してやって下さい」という。赤穴は、うやうやしく頭をさげて、「男子たるものは義を重しとします。功名富貴などは問題ではありません。私はいまさいわいにも、こうして母上の御慈愛をうけ、左門殿からは兄として尊敬されました。これ以上なんの望みがありましょう」というと、心から感激して、またしばらくのあいだこの家に逗留したのである。  きのうかきょう咲いたと思った尾上《おのえ》の桜もいつのまにかすっかり散ってしまって、涼しい風に吹き寄せられる浦浪の様子にも、問わずとしれた初夏の訪れがはっきりとわかるころになった。ある日、赤穴は左門母子にむかって、「私が近江を脱出してきたのも、出雲の様子を見ようと思ったためですから、この際ひとまず国へ下って、すぐにまた帰ってまいり、それからは貧しいながらも一生懸命に母上に孝養をつくして御恩返しをしたいと思います。しばしのお暇《いとま》を下さい」という。左門は「それでは、兄上はいつごろお帰りになられますか」とたずねる。赤穴はこたえて、「月日のたつのは早いものです。おそくともこの秋をこすことはありません」という。左門は、さらに「秋というのはいつと日をきめてお待ちしたらいいのでしょうか。どうかはっきりとそれをきめて下さい」という。赤穴は、「九月九日、重陽《ちょうよう》の佳節《かせつ》をもって帰ってくる日ときめましょう」とこたえる。左門は「兄上、きっとこの日をまちがわないで下さい。当日、私は、一枝の菊花に、気持だけの粗酒を用意してお待ち申しあげておりますから」と念をおすと、互いに誠意をもって約束しあい、別れがたい別離の情を惜しんで、やがて、赤穴は西へ帰っていった。  月日はたちまちのうちに経過して、下枝の茱萸《ぐみ》の実が赤く色づき、垣根の野菊が色美しく咲いて、九月ともなった。約束の九日になると、左門はいつもよりはやく起き出して、草屋ながらきれいに掃除し、黄菊白菊を二枝三枝、小|瓶《がめ》にいけ、とぼしい財布をはたいて酒飯の用意にかかった。それを見て老母がいった。「あの出雲の国は山陰道も果てにあって、こことは百里もへだたっていると聞いていますから、あの方が見えるのがかならずきょうであるともさだめがたいのに、お前はいろいろ用意しているようだが、あの方がおいでになったのを見てから支度しても遅くはあるまい」。左門はこたえて、「赤穴は信義を重んずる武士ですから、かならず約束をたがえることはありません。その人の姿を見てからあわただしく支度するようなことでは、先方がそれをどう思うか、恥ずかしいことです」というと、美酒を買い鮮魚を料理して台所に用意し、赤穴のくるのを待つのだった。  この日は空も晴れあがって、見渡すかぎり一片の雲もなく、道をゆく旅人の群れも多く、そのはなすのをきくと、「きょうはだれそれが都入りする日であるが、上天気で好都合だ。これは今度のあきないによい儲けができる前兆ですよ」などといって通りすぎて行く。また五十歳あまりの武士が、つれの二十代のおなじようないでたちをした武士にむかって、「海上はこんなに平穏であったのに。これなら、明石から船にのっていたら、この早朝の船出に、いまごろは牛窓《うしまど》の港へむかって船をはしらせていたであろうに――。若い男はどうもかえってものおじして、無駄な金を余計つかうことだ」というと、若い武士は、「殿が御上洛なさったとき、小豆島から室津《むろづ》への御渡海をなさいましたが、そのとき海が荒れてさんざんなめにおあいなされたのを、その折にお供していた者がはなしていたのを思うと、この辺の渡りはだれだっておそれることでしょう。まあ、そうお腹立ちなさいますな。魚が橋へ行ったら蕎麦《そば》を御馳走いたしますから――」と、なだめながら通りすぎて行く。また、馬方が、腹立たしげに、「このくたばり馬めが。眼もあいていないのか。しっかり歩け」と、馬がつまずいたために傾いた荷鞍《にぐら》を、手荒く押しなおして、足早に馬を追っていく。いつか昼もだいぶすぎたけれども、待っている人はまだこない。やがて、夕日が西に沈むので、今夜の泊りへと急ぐ旅人の足どりがいっそうせわしそうになるのを見るにつけ、左門は、赤穴がもう来るかもう来るかと、外の方にばかり視線がひきつけられて、心はまるで酔ったようにうわのそらであった。  老母は左門をよんで、「赤穴の心が秋空のようにかわってお前との約束を忘れたというわけでなくても、その来ると約束した菊花の色濃く咲く日、そしてお前の交情・もてなしのこまやかな日は、なにもきょうとだけ限ったことではあるまい。赤穴に帰ってくる誠意さえあれば、たとえ時はおくれて時雨ふるころになったとしても、なんのうらむことがありましょうか。家へはいって横にでもなって、また明日《あす》の日を待ちなさい」といわれるので、左門はさからうことができず、その場は母をいいなだめて先にやすませ、自分は、もしかしたら赤穴がくるかもしれないと思って、もう一度戸外に出て見ると、空には銀河の星の光が弱くかすかに、月が自分ひとりだけを照らしてさびしいうえに、家を守る番犬の遠くで吠える声も、夜の静寂にすみわたって近く聞こえ、高砂の浦にうちよせる波の音もすぐここまで寄せてくるかのように高く近く聞こえてくる。やがて、月も山の端にはいって、光がくらくなったので、いまはこれまでとあきらめて、戸をしめて家にはいろうとすると、ふと目に入ったものがある――おぼろな黒い影のなかに人の姿が見えて、それが風の吹くにつれてこちらにくるので、不審に思ってひとみをこらすと、赤穴宗右衛門であった。  左門は踊りあがる思いで、「私は朝早くからいままで貴兄のおいでを待ちくらしておりました。約束をたがえずにおいでくださったことをほんとうにうれしくおもいます。さあ、おはいり下さい」といったが、赤穴は、ただうなずくだけで、ものもいわないでいる。左門は先に立って、赤穴を客間の窓ぎわに案内して、正座につかせ、「兄上のおいでが遅かったので、老母も待ちくたびれて、『明日こそおいでになるだろう』といって、さきに寝床へはいりました。起こしてまいりましょう」というのを、赤穴はまた頭を横にふってとめながら、なおも口をひらこうとしないでいる。そこで左門は「遠いところを幾日もかかって夜を日についでいらしたので、心身ともにお疲れでございましょう。どうか一口めしあがってゆっくりおやすみ下さい」といって、酒の燗をし、肴《さかな》をならべてすすめたが、赤穴は、袖で顔をおおい、そのにおいを嫌ってさけるような様子をする。左門はまた「貧しい手料理ですから、とても十分のおもてなしはできませんが、これでも私の心をこめたものです。さげすまないで召しあがって下さい」という。それでも赤穴はこたえもしないで、長いためいきをついていたが、しばらくしてやっと口を開いた。「あなたの真心こもったもてなしをどうしていやがって辞退するわけがありましょうか。あなたをだますことばもありませんから、ほんとうのことをうちあけます。けっして怪しみ驚かないで下さい。じつは、私はもはやこの世の人間ではありません。けがれた死霊が、かりに人間の姿をしてあらわれたのです」。  左門はひどく驚いて、「兄上、なぜそんな奇怪なことをおっしゃるのですか。私にはこれが夢だとはちっとも思えません」という。赤穴は「あなたと別れて故郷に帰りましたが、郷里の人々は大方、尼子経久の威勢になびきしたがっていて、もはや旧主塩冶氏の恩顧をかえりみるものもないのです。そこで、従弟《いとこ》の赤穴丹治が富田城中にいるのを訪ねたところ、彼は利害得失を説いて、私を経久にひきあわせました。私は、表面ではいちおう従弟の言葉にしたがうように見せて経久と対面し、その後、経久のすることをつくづく見ておりますと、たしかに万人に匹敵する雄略の持主で、よく兵士を訓練していますが、智者を用いるのに猜疑心《さいぎしん》がつよくて、そのために君の腹心となって身命をなげ出すという家臣がいないのです。こんな所に長居は無用と思って、私は、あなたと菊花の佳節に再会する約束のあることをはなして、そこを立ち去ろうとしたところ、経久は不満で気にいらぬ様子をみせ、丹治に命じて私を城の外に出さないように軟禁し、そのためにとうとう今日にたちいたってしまいました。もしきょうの約束を破ったならば、あなたが私をどう思うだろうか、きっとうそつきな信ずるにたりないやつと思われるだろうと、そればかりが気がかりで、いろいろ思案をめぐらしましたが、のがれだそうとしても方法がありません。古人の言葉に、『人は一日に千里を行くことはできないが、魂は一日に千里を行くことができる』ということがあります。この道理を思い出して、私は、自害し、今夜、陰風にのって、はるばると菊花の約に馳せ参じたのです。どうか私のこの心根を汲んで御同情下さい」といいおわると、とめどもなく涙をながすのであった。「もはやこれで永《なが》のお別れです。どうか母上によく孝養をつくして下さい」といって、座を立ったかと見ると、たちまちその姿はかき消すように見えなくなってしまった。  左門は、あわててひきとめようとしたが、陰風に眼先がくらんで、どちらへ去ったのか行方がわからなくなった。なにかにつまずいてばったりとうつぶせに倒れたが、そのまま大声をあげて泣き出した。その声に老母が目をさまし、驚いて起きあがって、左門のいるところにきてみると、客席のあたりに酒器や肴を盛った皿などがたくさんならべてあり、その中に左門が倒れている。いそいで抱きおこして、「どうしたのです」とたずねたが、左門はただ声をたてずに忍び泣きに泣きつづけるだけで、いっこうにものをいわない。そこで、老母がかさねて「兄の赤穴が約束を破ったのをうらみに思うならば、明日にでもなってもし赤穴がきたならば、そのときにはいうべき言葉もないでしょうよ。おまえはこんなにまで子どものように物の道理がわからないのですか」と、言葉つよくたしなめはげますと、左門は、やっと口を開いてこたえた。「兄上は今夜、菊花の約をはたすためにわざわざきたのです。そこで、用意の酒肴《しゅこう》をもってお迎えしたところ、それを再三辞退されて、こうおっしゃるのです――『これこれこうしたわけで約束にそむくことになるので、自刃《じじん》して魂魄《こんぱく》となり、その魂魄が遠く百里のところをきたのだ』――というと、そのまま見えなくなりました。そういうわけで、母上のおやすみのところをおこしてしまったのです。どうかおゆるし下さい」というと、またさめざめと泣きしずむので、老母は、「牢獄にとらわれている人は夢にも赦免されるのを見、咽《のど》のかわいている者は夢の中で飲み水を飲むと、諺《ことわざ》にもいわれています。おまえもまたその人たちと同類で、あまり待ちわびたので夢に見たのでしょう。よく心を落着けなさい」といったが、左門は頭を横にふって、「けっして夢のようなとりとめもないそらごとではありません。兄上はたしかにここにいらしたのです」というと、また大声をたてて泣き伏した。これを聞いて、老母ももはや疑わず、母と子はたがいによびあい、声をあげて、その夜は泣きあかしたのである。  翌日、左門は母の前に手をついて願いでた。「私は幼少より学問文事に専念してまいりましたが、今日まで国に忠義をつくしたという名声をあげたこともなく、さればとて親に孝行の誠をつくすこともできず、ただ無意味にこの世に生きているだけでした。兄上の赤穴は一生信義をつらぬきとおして死にました。弟分の私としては、きょうから出雲に下り、せめて兄上の遺骨を葬って、義兄弟としての信義をまっとうしたいと思います。母上には御身をお大切になさって、しばらくのあいだのお暇をたまわりとう存じます」。老母は答えて、「倅よ。出雲に行っても、早く帰ってきて、この年寄を安心させておくれ。むこうに長く逗留《とうりゅう》して、きょうの別れを永久の別れとしないでおくれ」という。左門は、「古人もいうように、人の生涯は、水に浮いている泡のように、朝に夕に、いつ消えるとも定めがたい、はかないものではありますが、私は、できるだけはやく、すぐに帰ってまいります」というと、別れの涙をぬぐって、家を出発した。その足ですぐに佐用氏の許へ行き、老母の世話をくれぐれも頼み、出雲へむかったが、途中、ただひたすらに赤穴のことのみ思いつづけて、飢えても食をとろうとせず、寒くとも衣類のことを気にかけずに、うとうとと仮睡すれば、夢にも赤穴を見て泣きあかしながら、十日ののちに富田の城下に着いた。  まっすぐに赤穴丹治の邸へ行って、姓名を名のって案内を乞うと、丹治が出迎えて、座敷へ通し、「雁の頼りにでも知らせたのでなければ、どうしてあなたが宗右衛門の死を知っていらっしゃるはずがありましょうか。わけがわかりません」と、不思議がってしきりに事情をたずねるのだった。左門はそれにたいして、「武士たるものは、その身の富貴と盛衰のことを、とやかく問題にすべきではありません。ただ信義だけを重んずるものです。兄上の宗右衛門はいったん口にした約束を重んじて、それを守り、亡魂となって百里の遠きを私の許まできましたが、その信義にたいして、信義をもってむくいようと思って、私は夜を日についでこの地に下ってきたのです。私が平生学んだことについて、貴殿におたずね申し上げたいことがあります。どうかはっきりとお答えねがいたい。むかし、魏《ぎ》の宰相|公叔座《こうしゅくざ》が重病の床に臥したとき、魏王がしたしく見舞って、公叔座の手をとりながら、『もしその方に万一のことがあったら、だれを宰相として国政をゆだねたらよいであろうか。私のために教えをのこしておいてくれ』というと、公叔座は、『商鞅《しょうおう》はまだ年こそ若いが、世にもまれなすぐれた才能をもっております。陛下がもしこの男をお用いになる気がないのなら、たとえ殺してでも、国外へ出してはなりません。もし他国へ行かせますと、きっとのちのちこの国の禍《わざわい》となるでしょう』と、ねんごろに教えて、王が帰ったあと、ひそかに商鞅をよびよせ、『私はおまえを陛下に推挙したが、陛下は私のすすめを受けいれない様子がみえたので、登用しないのならば、いっそおまえを殺してしまいなさいと教えた。これは君を先にし、臣をあとにする、君臣の道であり、私のはからいである。おまえは一刻もはやく他国へ逃げて、この難をのがれたがよい』といったということです。このことを、貴殿と宗右衛門との場合にくらべてみては、いかがでしょうか」という。丹治は、恥じいったのか、ただ頭をうなだれて、一言もいわない。左門はさらに膝をのり出して、「兄上宗右衛門が、塩冶氏の旧恩を思って、尼子に仕官しなかったのは、これこそ義士であります。貴殿は、旧主の塩冶氏を見捨てて尼子の家臣になったが、これは武士としての信義をわきまえないことです。兄上は菊花の約を重んじて、命を捨てて遠路をきましたが、これこそ信義の極致であります。貴殿はいま尼子に媚《こ》びへつらって、血縁の宗右衛門を苦しめ、このような非業《ひごう》の死をとげさせたのですが、それは朋友としての信義がない行為です。たとえ経久が無理に兄上をとどめられたとしても、長いまじわりと友情を思ったならば、ひそかにかの商鞅に叔座が示したような信義をつくすべきであるのに、それもせずにただ一身の栄達利益にのみとらわれて、武士としての風儀がないのは、とりもなおさず尼子家全般の家風かもしれない。それだからこそ兄上もこんな国にとどまろうとしなかったのだ。私はいま信義のためにわざわざここにきたのだ。貴様はまたここで、不義のために長く汚名をのこすがいい!」と、いいもおわらず抜き打ちに斬りつけると、ただ一太刀で、丹治はその場に倒れた。この物音を聞きつけて家来どもが騒いでいるすきに、左門は、すばやくその場をのがれ出て、行方をくらましてしまった。  尼子経久は、この事件を伝え聞いたが、宗右衛門と左門義兄弟の信義のあついまじわりにふかく感動して、しいて左門の跡を追わせなかったということである。ああ、まじわりは軽薄の人と結んではならないというが、まさにその通りである……。 [#改ページ] [#1字下げ][#中見出し]雨月物語 巻之二[#中見出し終わり] [#1字下げ][#小見出し]浅茅が宿(あさじがやど)[#小見出し終わり]  下総《しもうさ》の国《くに》葛飾郡《かつしかのこおり》真間《まま》の里《さと》に、勝四郎という男があった。祖父の代から久しくこの里にすみ、田畑もたくさんもって家も豊かに暮らしていたが、生れつき無頓着でのんきな性質から、農業を煩わしいものだといやがったので、ついに貧乏になってしまった。そうこうしているうちに、親戚の多くからも疎遠に扱われるようになったが、それを勝四郎は口惜しいことだとしみじみと思い、なんとかして家運を挽回したいものと、あれこれ思案をめぐらした。そのころ、雀部《ささべ》の曾次《そうじ》という人が、足利染の絹を仕入れるために、毎年都からやってきていたが、真間の里に遠縁の者がいるのをたびたび訪問したところから、勝四郎もかねがね親しくしていたので、自分も商人となって都へ上りたいということを頼んだところ、雀部は気やすくひきうけて、「今度は何日ごろ発《た》つつもりです。御一緒に」といってくれた。そこで、雀部がたのみがいのあるのをうれしく思って、残っていた田を全部売りはらって金にかえ、それで白絹をたくさん買いこみ、準備をととのえて、上京する日を待っていた。  勝四郎の妻|宮木《みやぎ》は、人目をひくほどの美貌で、気だてもしっかりして賢かった。今度、夫が商品を仕入れて都へ商売に行くといい出したのを、困ったことになったと思い、いろいろいって思いとどまるように諫《いさ》めたが、ふだんから思いたったらきかない一本気のうえに、今度はひときわ思いつめているので、手のほどこしようがなく、これから先の生活が心細く不安であったにもかかわらず、かいがいしく夫の旅支度をととのえて、出発の前夜は、離れがたい別れをしみじみと語るのであった。「あなたに旅立たれて、財産とてもないこの家にひとり残されては、弱く、頼りない女心は、どうしてよいやらまったく途方にくれるばかりで、このうえなくつらいことでございます。朝夕私のことをお忘れにならないで、早く帰ってきて下さい。せめて命だけはお帰りになる日まで生きながらえたい、命さえあればまた逢えるとは思いますが、明日はどうなるかわからないこの世の定めですから、どうかお毅《つよ》い男心にもあわれと思って下さい」というと、夫は「どうして浮木に乗ったような不安な気持や生活で、知らぬ他国に長居するものか。葛《くず》の葉が風に吹かれて裏返る今年の秋にはきっと帰ってくるよ。気づよく待っていなさい」と、妻をなぐさめているうちに、やがて夜が明けたので、鶏の声とともに出発して、京都をさして急いだのである。  この年――享徳《きょうとく》四年の夏、鎌倉公方足利成氏《かまくらくぼうあしかがしげうじ》と管領《かんれい》の上杉氏が不和になって、その戦火で公方の館はあとかたもなく焼きはらわれ、公方は下総の味方へ亡命されたが、それ以来、関東一円はたちまちのうちに大混乱をきたし、上下ともにてんでんばらばらで統一のない世となってしまったので、年寄たちは山ににげかくれ、若者たちは兵士としてかり出され、「きょうはここを焼きはらうぞ」「明日は敵がせめてくるぞ」といううわさに、女子供たちは、うろうろと東に西に逃げまどって、泣き悲しむだけであった。勝四郎の妻も、どこかへ逃げたいものだとは思ったが、「この秋に帰るから待て」といわれた夫の言葉をたのみとしながら、家にふみとどまって、不安な気持で、夫の帰る日を指折りかぞえて待ちくらしていたのである。秋になったが、待つ夫からは風の便りもないので、悪化する世相とともに、頼りにならない人の心であると、夫の薄情をうらみ、わが身をかなしみ、がっくりと気落ちして、 [#ここから2字下げ] 「身のうさは人しも告げじあふ坂の夕づけ鳥よ秋も暮れぬと」 [#ここから5字下げ] (夫の帰りをまつわが身のつらさは誰も夫に知らせてくれまい。逢う、云う、という名の逢坂山の鶏よ、お前は京にも近いのだから、夫に約束の秋ももう暮れてしまったと告げてほしい) [#ここで字下げ終わり] と、思いを一首の歌にたくして詠んだが、夫の許までは多くの国を隔てた遠方なので、この歌をいいおくるすべもなかった。世間が物騒になるにつれて、人心もいっそう険悪《けんあく》になった。たまたま訪《たず》ねてくる人も、宮木が美貌であるのを見ると、いろいろと親切ごかしをいって誘惑しようとするが、宮木は、かたい貞婦の操を守ってこれを冷淡にあしらい、のちには戸をしめて会おうともしなかったのである。一人いた下女も暇をとって出て行き、少しばかりあった貯《たくわ》えもすっかりなくなって、心細いうちに享徳四年が暮れた。年はあらたまったが、世の乱れは依然としておさまらない。そのうえ、前年の秋、京都将軍家の命令で、美濃の国、郡上《ぐじょう》の領主、東《とう》の下野守常縁《しもつけのかみつねより》が征東指揮官として派遣され、下総の領地に下って、一族の千葉実胤《ちばさねたね》と共同戦線をはって攻撃したので、公方方も守りをかたくして防戦につとめ、そのため戦いがいつ終るともわからない状態になった。戦乱に乗じて、諸国の野武士たちもあちこちにとりでをかまえ、民家に火をつけては略奪をほしいままにした。いまや関八州は全土にわたって安穏な所とてもなく、なさけないほどのはなはだしい世の損失であった。  勝四郎は雀部にしたがって都へ行き、白絹を全部売りつくしたが、当時はちょうど義政将軍の東山時代だったので、都は華美を好むときであり、そのためにだいぶんの儲けをして、さて故郷へ帰ろうと用意をしている折に、このたび上杉の軍勢が鎌倉公方の御所を攻めおとし、逃げる成氏をなお追撃したので、故郷葛飾の辺はどこもかしこも戦《いくさ》さわぎで、戦塵の巷《ちまた》となったということを、世間で取沙汰した。目前のことでさえとかくうその多いのが世間の取沙汰であるのに、まして白雲重畳《はくうんちょうじょう》とした遠隔の国のことであるから、真偽のほどはたしかめがたく、それだけに気が気でなく、八月のはじめに都を出発して、みちを木曾街道にとり、木曾の真坂《みさか》を日暮にかけて越えようとすると、盗人どもが行手に立ちふさがり、もっていた荷物を全部とられてしまった。そのうえ、人のはなしを聞くと、これから東の方は所々に新しい関所を設けて、旅人の往来さえ許さないということである。これでは故郷へ帰ることはおろか、便りをするてだてもない。わが家も戦火で消失してしまったであろう。妻もおそらくは生きていまい。そうだとすると、故郷といっても鬼のすむところ同然であると考え、ここからまた都へひきかえそうとして、近江の国へはいると、急に気分が悪くなり、熱病にかかった。武佐《むさ》というところに、児玉《こだま》嘉兵衛という金持があった。これは雀部の妻の実家だったので、そこを訪ねて懇願すると、嘉兵衛はこころよくひきうけて親切に介抱し、医者をよんで一生懸命に投薬してくれた。そのおかげで、しばらくするうちにどうやら気分も少しさっぱりしてきたので、その厚恩をふかく感謝して、その許を辞去しようと思ったが、しかしまだ足許がしっかりしないので、その年は、はからずもここで暮らし、新年をむかえた。そうこうしているうちに、いつのまにか、この里にも友人ができ、生来の素直で正直な性質を愛されて、児玉をはじめ土地の人々とも親交を結んだのであった。この後は、都へいっては雀部を訪ね、また近江へもどっては児玉の家に身を寄せるというようにして、七年間というものは夢のようにまたたくまにすごしてしまった。  寛正《かんしょう》二年には、畿内《きない》河内《かわち》の国で畠山兄弟の家督をめぐる戦争が終りそうもないので、そのために都近くも物情騒然となったが、そのうえ、春のころから悪性の流行病がまんえんして、死骸は路上に累々《るいるい》としてつみ重なり、人心も不安におののき、これでこの世も終りであろうかと、世の無常をひどくはかなみ悲しんだ。勝四郎もよくよく考えてみると、このように落ちぶれて、これといって仕事のない身が、なにをたのみとして、故郷を遠くはなれた土地に滞在し、あかの他人の世話になって、いつまで空しく生きながらえるべきわが命であろうか。故郷に残してきた妻宮木の生死さえしらずに、こんな忘れ草の生えているような土地に、妻を忘れ故郷を忘れて、長い年月をすごしたのは、思えば不実なわが心からであった。たとえ妻が死んで、以前のようにこの世にはいないとしても、せめてその遺骸なり死地なりでもたずねて、墓でもつくろうと思い、人々に自分の気持をはなして、五月雨のふるころ、晴れ間を見て別れをつげ、十日あまりの旅をつづけて故郷へ帰り着いた。  故郷に足をふみいれたときは、日はすでに西に沈んで、雨雲はいまにも降るかと思うほど低く暗くたれこめていたが、長いあいだすみなれた郷里のことであるから、迷うはずもあるまいと、夏草の生い茂った野をわけて進んでいくと、昔から有名な真間の継橋もいまでは川の瀬に落ちているので、古い歌のように、駒の足音も聞えず、人の往来もとだえているうえに、あたりの田畑は荒れ放題に荒れて、昔あったはずの道もどこだかわからず、昔の人家も見当たらない。まれまれここかしこに残っている家のなかに、人がすんでいると見受けられる家もあるが、昔とは似ても似つかない有様である。いったいどれが自分のすんでいた家だろうかと、とまどっていると、そこから三、四十メートルばかりむこうに、落雷にひき裂かれた松のそびえ立っているのが、雲間をもれてくる星あかりにぼんやりと見えたが、勝四郎は、それを見ると、そうだ、あれこそわが家の軒のめじるしが見えたのだと、まずうれしい気持がして、その方に足をはこんだが、家は以前にかわらないでのこっている。しかも人がすんでいる様子で、古い戸のすきまから灯火の光がもれてちらちらするので、ほかの人がすんでいるのだろうか、それとも、もしかしたら妻がまだ健在でいるのだろうかと、急に胸が高鳴って、門口に立って来訪をつげる合図のせきばらいをすると、家の内でも、耳ざとくこれを聞きつけて、「どなたですか」とたずねる。その声はたいそうふけているが、まさしく妻の声であることを聞き知った勝四郎は、夢ではなかろうかとしきりに胸さわぎがして、「わしだ、わしが帰ってきたんだよ。それにしても、達者でひとり、こんな草ぶかい荒野にいままですんでいようとは、まったく不思議だな」というと、家の内でもそれが夫の声であるとわかったので、すぐに戸をあけたが、戸口に姿をあらわした妻は、たいそうひどく垢にまみれて色黒く、眼は落ちくぼんでいて、結いあげた髪も乱れ落ちて背に垂れさがり、これが昔の美しかった宮木とおなじ人とは思えないほどのかわりようである。夫を見て、物もいわずに、たださめざめと泣くのだった。  勝四郎も気が動転して、しばらくは物もいえなかったが、ややあっていうには、「いままでこうして無事でいられると知ったならば、なんで長の年月を他国ですごそうか。じつは先年都にいたとき、鎌倉の戦乱を聞いたが、それによると公方方の軍が敗北したので、下総に逃げて防戦し、管領方がこれを攻撃すること急だという。その翌日、雀部とわかれて、八月のはじめに都を出立し、木曾路をやってくると、途中で大勢の山賊に取り囲まれて、衣服も金銀も残らず奪いとられ、命だけやっと助かったような始末だ。そのうえ、里人のはなすのを聞くと、東海道・東山道は全部にわたって新関を設けて、往来の人を遮断したということである。また、きのうは都から節度使《せつどし》も下られて、上杉方に加勢し、下総の戦いに向かわれたともいう。郷里の辺はとっくに焼きはらわれて、軍馬の蹄《ひづめ》ですっかりふみにじられた、ということを聞いたので、これではもはやそなたは戦火のために焼け死なれたか、それとも海で溺れ死にされたかもしれないと、一途に思いこんであきらめ、ふたたび都へ上ってからは、他人の世話になって、七年間というもの暮らしたのです。ところが近ごろになって、なんだかしきりになつかしさがこみあげてきたので、せめてそなたの亡きあとでも見て弔いたいと帰ってきたのだが、こうして無事でいらっしゃろうとは、まったく思いもかけなかったことだ。巫《ふ》山の雲、漢宮の幻ではなかろうか」と、いってもかえらぬ繰《く》り言《ごと》を、くりかえしくりかえしはなすのであった。妻も涙をおさえて、「あのときお別れ申し上げてから、御帰宅になるのを頼みにして待っていた秋より前に、すでに恐ろしい世の中となって、村人はみんな家を捨てては海や山に逃げかくれてしまいましたので、まれに残っている人といえば、たいてい虎か狼のようにおそろしい貪婪《どんらん》な心をもった人で、私がこうして一人暮らしをしているのをいいさいわいと思うのでしょうか、言葉たくみに誘惑するのですが、玉砕瓦全《ぎょくさいがぜん》の言葉のように、たとえ操を守って死すとも、不義をして命ながらえる道は踏むまいと決意して、そのために幾度もつらいめをたえしのんできたのです。そのうちに天の川が冴《さ》えて牽牛織女の二星の逢う秋になりましたが、あなたはお帰りになりません。冬を待ち、春をむかえても、あなたからはお便りもありません。このうえは都へ上っておそばへまいろうと思いましたが、大の男でさえ通行を許さない関所の厳重なまもりを、どうしてかよわい女の身で越えることができようかと思いなおして、軒端《のきば》の松をながめながら、待っていても甲斐のないこの家で、狐やふくろうを友としてさびしくきょうまで過してまいりました。おめにかかれたいまは、長い間のうらみもすっかりはれて、うれしく存じます。昔の歌にもあるように、逢うのを待っているうちにこがれ死にしてしまったら、相手にも私の心がわかってもらえず、さぞ口惜しく情ないことでございましょうに」というと、また声をあげて泣いたので、勝四郎は、「夜は短いのだから、また明日のことにして」となぐさめて、ともに枕についた。  窓の障子の破れめをひたひたとならして松風が吹きこみ、夜どおし涼しく寝心地がいいうえに、長い旅路の疲れで、勝四郎はすっかり熟睡した。暁の空があけていくころ、まださめやらぬ夢心地にもなんとなく寒かったので、夜着をかけようと手さぐりすると、なんだかさらさらと音がするので目がさめた。顔につめたいものがこぼれるので、雨でも漏ったのだろうかと、目をあけて天井をながめると、屋根は風のために吹きめくられているので、有明月が光もうすれて空にほの白く残っているのが見える。おどろいてあたりを見まわすと、家はろくに戸もないほど荒れはてている。板敷の床のくずれ落ちた間から、荻《おぎ》やすすきが高々と生え出ていて、その朝露がこぼれるのに、袖が濡れてしぼるほどであった。壁には蔦《つた》や葛《くず》がはい茂り、庭は雑草にうずもれて、秋でもないのに、さながら秋の野のように草ぶかく荒れはてた家の様子であった。  それにしても、一緒に寝たはずの妻はどこへ行ったのだろうか、姿が見えない。狐などに化かされたのだろうかと思ってあたりを見まわすと、こんな荒れはててはいるが、以前すんでいた家に相違なく、広く造った奥の辺から、端の方の稲倉《いなぐら》まで、かつて自分の好みで造ったままの様子をしている。茫然自失として、どうしてよいのか途方にくれたが、よくよく考えてみると、妻はすでに死んで、いまでは狐狸がすみかわってこんな荒れはてた家となっているのだから、妖怪が化けて妻の生前の姿を見せたのでもあろうか。それとも、もしかしたら、自分を慕う亡妻の霊魂があの世からかえってきて、夫婦のかたらいをしたものであろうか。いずれにしても、前に想像していたこととちっともちがわず、思ったとおりであったと、あまりのことに悲しみがきわまって、一滴の涙さえも出ない。妻も死に、家も廃屋となったなかで、業平《なりひら》の歌ではないが、「わが身ひとつはもとの身にして」と、心の中でつぶやきながら、家の中を歩いてみると、むかし寝室であったところの板敷の床《ゆか》をとりはずして、土を積んで塚をこしらえ、そこには雨露をふせぐような設備もしてある。昨夜の亡霊はここから出たのだろうかと思うと、おそろしくもあるが、またなつかしくもある。手向《たむけ》の水を入れる器が用意されているが、その中に、木の端を削って、それに那須野紙のたいそう古くなったのを貼りつけたものがある。文字もところどころ消えてはっきりと読めないが、たしかに妻の筆跡である。戒名も年月も書いてなくて、ただ一首の和歌に、あわれにも最期の思いをこめてよんでいる。 [#ここから2字下げ] 「さりともと思ふ心にはかられて世にもけふまでいける命か」 [#ここから5字下げ] (夫は約束の秋に帰ってこなかったが、それにしてもきっと帰ってくると思う心に、われとわが身からだまされて、なんと今日まで生きながらえてきたこの身がいとおしいことだ) [#ここで字下げ終わり]  ここにいたってはじめて妻の死んだことを確認した勝四郎は、悲しみが一度にどっとこみあげて、大声をあげて、泣き倒れた。それにしても、いったいいつの年の何月何日に死んだのかさえ知らないとは、夫の身としてなさけないことである。誰か知っている人もあるだろうと、涙をぬぐって外へ出ると、折から日が高くのぼった。まず近所の家へ行って、そこの主人に会ってみると、前の知りあいではなく、逆に、「あなたはどこの国の方ですか」と反問する。そこで勝四郎は、ていねいに挨拶してこたえた。「この隣の家の主人だったものですが、渡世のために都へ上って七年もおり、昨夜帰ってまいりましたところ、家はすっかり荒れはてて人も住んでおりません。妻も死んでしまったと見えて、墓もできておりますが、いつ死んだとも記されておりませんので、いっそう悲しくなります。どうか御存じでいらしたらお教え下さいませんか」。この家の主人はこたえて、「それはお気の毒なおはなしでございますね。私がここにすむようになってからまだ一年ほどですので、それよりずっと以前に亡くなられたとみえて、私は、住んでいらした方の生前のことは存じません。この里に昔からいた人はみんな戦争のはじめに逃げてしまって、いま住んでいる人は、大ていその後、よそから移ってきた人たちです。ただ一人老人がおられますが、この土地に古くからいた方と見うけられます。ときどきあの家へ行って、亡くなられた方の菩提《ぼだい》を弔っていらっしゃいます。この老人こそきっと奥様の亡くなられた日を御存じのはずです」という。勝四郎は、さらに、「では、そのお年寄のすんでいらっしゃる家はどちらでございますか」とたずねた。主人は「ここから百八十メートルほど浜の方に、麻をたくさん植えた畑がありますが、その持ち主で、そこに小さな庵《いおり》をつくって住んでいらっしゃいます」と、教える。勝四郎はよろこんで、その家へ行って見ると、七十歳ぐらいの、腰のひどくまがった老人が、庭竈《にわかまど》の前に敷いた円座《わろうだ》にすわって、茶をのんでいる。そして、勝四郎の姿を見るやいなや、「おまえさんはどうしてこんな遅く帰ったのだ」と声をかけるので、見ると、この里にふるくからいる漆間《うるま》の翁《おきな》とよばれる人であった。  勝四郎は、まず翁の長命を祝い、ついで自分が都へ行ってこころならずも長逗留したいきさつから、昨夜の奇怪なできごとまでを、ことこまかにはなして、翁が亡妻のために塚をつくって弔ってくれた厚恩をふかく感謝しながらも、あふれでる涙をとめることができなかった。翁は口をひらいて、「おまえさんが遠くへ旅立たれたのち、夏のころから戦争がはじまって、村人はてんでに方々へのがれ、若者たちは兵士としてかり出されたので、このあたりの桑畑もたちまちのうちに狐や兎のすむくさむらと荒れはててしまったのだ。そのなかで、ただ貞烈なあの方だけが、あなたの秋に帰ると約束したのを信じ守って、家を出ようとされなかった。この年寄もまた足がきかなく歩行が不自由だったので、家の中に身をひそめて、外へ出なかった。はては樹神《こだま》などというおそろしい妖怪のすみかとなったのに、若い女の身でそこにひとりとどまっていらっしゃる気丈さというものは、私がこの年まで見聞きしたことのなかでも、しみじみとふかい感動にうたれたことであった。秋が去り春がめぐってきて、その年の八月十日という日に亡くなられた。ふびんさのあまり、私が自分で土を運び棺《ひつぎ》を埋めて、その臨終に書き遺《のこ》された筆跡を墓のしるしとして、心ばかりの供養をしましたが、私はもともと字も書けないので、亡くなった月日を記すこともできず、また寺も遠いので、戒名をつけてもらう方法もなくて、そのまま五年の年月をすごしてきたのです。いまのはなしを聞くと、きっとあの方の亡魂があの世から帰っておいでになって、長い間のつもるうらみをおっしゃったのでしょう。もういちど塚のところへ行って、ていねいに御|回向《えこう》なさい」といって、自分から杖をついて先に立ち、勝四郎とともに塚の前に伏し、声をあげて泣き悲しみながら、その夜はそこで念仏をしながら明かしたのである。 [#「勝四郎と漆間の翁がつれだって勝四郎の廃居を訪れた図」のキャプション付きの図(fig60609_04.png、横833×縦602)入る] [#ここからキャプション] 勝四郎と漆間の翁がつれだって勝四郎の廃居を訪れた図。「雷《らい》に摧《くだ》かれし松の聳《そび》えて立てる」のがあり、家には戸もなく、萩薄などが[#「萩薄などが」はママ]生い茂っている荒廃のさまが描かれている。(原本三丁裏、四丁表の挿絵) [#ここでキャプション終わり]  寝られないままに、翁はつぎのようなはなしをした。「私の祖父の、そのまた祖父さえもまだ生れていなかった、遠い遠い昔のことです。この里に真間の手児女《てごな》という、大そう美しい娘がありました。家が貧しかったので、身には、青衿《あおえり》をつけた麻の着物をまとい、髪さえろくにとかさず、履物《はきもの》もはかないではだしでいたが、その顔は満月のように美しくかがやき、笑うと花が咲きかがやくようで、綾や錦を身につけた都の貴婦人よりも美しいと、村人たちはもとより、都からきた警備の武士たち、隣国の人々までも、いい寄って恋い慕わないものはなかったのを、手児女はかえってつらく心苦しいことと思い沈んで、『いっそ死ぬことによって多くの人たちの心にこたえよう』と、この入江の波間に身を投げて死んだのですが、そのことを世にもあわれなはなしであるとして、昔の人々は和歌にも詠み、語り伝えました。私が幼かったときに、母がそれをおもしろくはなしてくださるのさえ、たいそうかわいそうなことだと聞いていましたが、宮木どのの心は、その手児女のうぶな心にくらべても、どれほどかまさって悲しかったことでしょう」と、はなしながらも涙ぐんで、それをおさえることのできないのは、老人がとかく涙もろくてこらえ性がないからである。勝四郎の悲しみは、言葉でいいあらわせないほど大きくふかかった。翁の物語を聞いて、思いあまった胸のうちを、田舎者らしいたどたどしさで、一首の歌に託した。 [#ここから2字下げ] 「いにしへの真間の手児奈をかくばかり恋ひてしあらん真間のてごなを」 [#ここから5字下げ] (昔の真間の手児女を恋した男たちは、手児女に死なれて、いま自分が愛妻に死別して恋い慕っているように、切ない思いで手児女を恋い慕ったことであろう) [#ここで字下げ終わり]  思うことの一端をもよくいいあらわすことのできないのは、かえって上手に表現する人の心情にもまさって、読む人を感動せしめるものだということができよう。――これは、下総の国へしばしば通う商人が聞きつたえて、語ったはなしであった。 [#改ページ] [#1字下げ][#小見出し]夢応の鯉魚(むおうのりぎょ)[#小見出し終わり]  六十代|醍醐天皇《だいごてんのう》の延長年間《えんちょうねんかん》、三井寺に興義《こうぎ》という僧があった。絵が上手《じょうず》だったので、名人という評判を世間から立てられていた。彼がつねづね画くところは、ふつうの画家のように仏像・山水・花鳥などを主とするのではなく、寺の勤めのひまがある日には琵琶湖に小舟をうかべて、網をひいたり釣をしたりする漁師に金銭をやり、とった魚を買いもとめてもとの湖に放し、その魚の泳ぎまわるのを見ては、その姿態を画いていたので、年とともにその技は精細巧妙の域に達したのである。あるとき、絵のことに思いをこらして心がつかれ、思わずも睡気《ねむけ》をもよおしたので、うとうととまどろむと、夢の中で、自分が湖水に入って大小さまざまの魚とともにあそぶのを見た。眼がさめたので、すぐにいま夢で見たところをそのまま絵にかいて、壁に貼り、自分でそれを「夢応の鯉魚」と名づけたのであった。その絵のすぐれたできばえに感心して、彼の絵をほしがるものが先をあらそって彼のもとに殺到したので、彼は、ただ花鳥・山水の絵はもとめに応じて書き与えたが、鯉の絵だけは一途に惜しんで与えようとせず、だれにむかっても冗談めかして、「仏門で禁じている殺生《せっしょう》をしたり、鮮魚を喰ったりするあなた方世俗の人に、この法師が大事に養っている魚は、けっしてさしあげられません」というのだった。その絵とこの冗談《じょうだん》とは、ともに世間の語りぐさとなった。  ある年、病気になって、七日間寝ついたが、急に眼をとじると、呼吸がとまって死んでしまった。弟子や友だちがあつまって、その死を嘆き惜しんだが、ただ胸のあたりにすこしばかり暖かさがのこっているので、もしかすると蘇生するかもしれないと思って、興義のまわりをとりまいて見守りながら、三日をすごしたところ、手足がすこしうごき出すかとみるまに、急に長いためいきをついて、眼をひらき、まるで眠りからさめたように床の上へ起きあがって、人々にむかい、「私が人事不省になってからもう大分たったようだ。幾日ぐらいたっただろうか」とたずねた。弟子たちはこたえて、「御師匠様は、三日前に息をひきとられたのでございます。寺の人々をはじめとして、平生お親しくしていらっしゃるかたがたもおいでになって、御葬儀のことなども相談なさいましたが、ただ御師匠様の胸のあたりが暖かなのを見て、柩《ひつぎ》にもおおさめしないで、こうしておそばについておりましたところ、いま息を吹きかえされましたので、葬らなくてよかったことだと、一同よろこんでいるところです」という。それを聞くと、興義はうなずいて、「だれでもよいから、ひとり、檀家《だんか》の平《たいら》の助《すけ》の殿《との》のお邸へまいって、つぎのようにはなしなさい。『興義が不思議にも生きかえりました。殿にはいま酒を酌《く》み、その肴《さかな》に新鮮ななますをつくらせていらっしゃるようですが、しばらくその酒宴を中止して、寺においでいただきたい。世にもまれなめずらしいはなしを申しあげたいと存じます』。そういって、先方の人々の様子をよく見なさい。いま私のいったことにちっともちがうまいよ」という。使に立った者が、不思議がりながら、かの邸に行って、興義からの口上を伝えて、先方の人々の様子をひそかにうかがってみると、主人の助をはじめ、弟の十郎、家臣の掃守《かもり》などが車座《くるまざ》になって酒を酌みかわしている。まさに師の言葉とちがわないありさまなので、使の者はいっそう不思議に思った。邸の人々も、このことを聞いて大いに不思議がり、助も、すぐ箸をおくと、十郎、掃守をひきつれて寺へやってきた。 [#「平の助の館、表座敷で、助、十郎、掃守等の見まもる中、料理人が鯉を料理しようとする図」のキャプション付きの図(fig60609_05.png、横830×縦589)入る] [#ここからキャプション] 平の助の館、表座敷で、助、十郎、掃守等の見まもる中、料理人が鯉を料理しようとする図。興義は「仏弟子を害する例やある。我を助けよ助けよ」と叫んだが、声にならず、やがて鯉の体をはなれてゆく。(原本十丁裏、十一丁表の挿絵) [#ここでキャプション終わり]  興義は、枕から頭をあげて、遠路わざわざきてくれたことの礼をいい、助も、興義が蘇生したことの祝詞をのべた。興義がまず助にむかって、「まあ、ためしに私のいうことをお聞き下さい。貴殿は、あの漁師の文四に魚を注文なさったことがございますか」とたずねた。これをきいて、助は驚き、「たしかに、御僧のいうとおりでござる。どうして御存じでいらっしゃるのか」という。興義は、「あの漁師が、一メートルあまりの魚を籠にいれて、貴殿のお邸の門を入ったとき、貴殿は御令弟と表座敷で碁を囲んでいらっしゃった。掃守がその傍にすわって、大きな桃の実をたべながら囲碁の勝負を観戦していた。そして、漁師が大きな魚をもってきたのをよろこんで、高坏《たかつき》に盛った桃を与え、そのうえ杯《さかずき》を与えて十分おのませになった。やがて調理人が得意顔で魚をまな板にのせて、なますにしましたが、この一部始終、私のいうことは違っていないでしょう」というと、このことを聞いて、助の人々は、あまりの不思議さに、あるいはあやしみ、あるいは心とまどって、どうしてこんな詳細に知っているのかと、その理由をしきりにたずねた。そこで興義は、語った。 「私はこのほど病に苦しんで、とても堪えられないほどだったので、自分が息絶え人事不省におちいったのも知らず、からだが熱っぽくて心地が苦しいのをすこしさまそうと、杖にすがって門を出ると、病気もだんだんよくなるようで、ちょうど籠の鳥が大空に解放されたようなのびのびした気持になりました。そこで山といわず里といわず足にまかせてあるいて行くうちに、今度は湖畔に出ました。湖水がみどりに澄んでいるのを見ると、夢見心地に、水浴びをして遊ぼうと思い、そこに衣を脱ぎすてて、身をおどらしてふかいところに飛びこみ、かなたこなたと泳ぎまわりましたが、幼少から水練が達者だというわけでもないのに、思うまま自由自在に泳ぎまわれたのです。いま思うと、思慮のない夢心地でした。しかし、人間が水に浮いて泳ぐのは、それがどんなにうまくても、魚が自由自在に気持よく泳ぎまわるのにはおよばないものだと思うと、ここでまた、魚がのびのびと泳げるのをうらやむ気持がおこりました。そのとき、すぐそばに一ぴきの大魚がいて、私に、『あなたの願いをかなえてあげることは、きわめてやさしいことです。お待ち下さい』といって、そのままふかい水底へ去って行ったかと思うと、しばらくして、冠をつけ装束《そうぞく》を着た人が、その大魚にまたがり、大勢の魚族をひきいてうかんできて、私に向かってこういうのです。『湖の神の仰せがあった。老僧はかねがね放生《ほうじょう》の功徳《くどく》が多い。そして、いま湖に入って、魚の如く泳ぎまわることを願っている。そこでしばらく金色の鯉の服を授けて、水中のたのしみをさせてあげよう。ただ餌のかんばしいにおいに心まどわされて、釣糸にかかり、身を亡ぼすことのないように――』。そういうと、姿を消してしまいました。不思議なことだと思って、わが身をながめて見ると、いつのまにか全身にうろこが生え、それが金色にひかって、私は一匹の鯉となっていました。  しかし、鯉になったことをべつにいぶかしいとも思わないで、私は、尾を振り、ひれをうごかして、思う存分にあちこちと泳ぎまわりました。まず、長等《ながら》山の山おろしに吹かれて立ちさわいでいる浪に身をのせて、志賀の浦の汀《なぎさ》に泳いで行くと、徒歩《かち》で行く人が着物の裾《すそ》を濡らすほど汀《みぎわ》近くを往来するのにおどろかされて、高い比良の山影が映《うつ》るふかい水底にもぐろうとするが、身をかくすこともむつかしく、夜ともなれば堅田《かただ》の漁火《いさりび》にひとりでにひきよせられて近寄って行くのも、まるで夢心地でした。夜中の湖上にかげをうつす月は、鏡山《かがみやま》の峰に鏡のごとく澄みわたって、多くの港々のすみずみまでもくまなく照らし出し、その情景は趣ふかいものでした。沖の島から竹生島《ちくぶじま》の方に泳いでいくと、波にうつる朱塗の玉垣には、ほんとうにびっくりしました。そうしているうちに夜が明け、伊吹山《いぶきやま》から吹きおろす山風に送られて、朝妻《あさづま》の渡船も漕ぎ出したので、いつのまにか蘆《あし》の間でまどろんでいた眠りをさまされ、矢橋《やばせ》の渡し舟の船頭があやつるさばきあざやかな水《み》なれ棹《ざお》から身をかわして、瀬田の橋の方へ泳いでいくと、こんどは橋番からなんどもなんども追いたてられたのです。日ざしが暖かなときは水の上にうかび、風のはげしいときはふかい水底で遊びました。  にわかに空腹をおぼえて食物がほしくなったので、あちこちとさがしもとめましたが、手にいれることができず、無我夢中で泳いでいくうちに、たちまち文四が釣糸をたれているのにであいました。その先にさがっている餌は食欲をそそるようにひどくいいにおいです。しかし、心ではまた、湖の神の戒めを思いだして、私は仏に仕える僧侶の身だ。少しばかりの間、食物を口にしないからといって、どうして魚の餌を食うようなあさましいことをしてよいだろうかと、自分にいい聞かせて、そこをはなれました。だが、時間がたつうちに空腹はますますはげしくなってきたので、もういちど考えなおしました。もうとても我慢できない。たとえこの餌を食ったとて、おめおめと捕らえられるものか。それに文四はもともと知りあいのあいだがらだから、なんの遠慮することがあろうか。そう思うと、引きかえしてついにその餌を呑みこみました。すると、文四はすばやく釣糸をひきあげて、私をつかまえたのです。『これは、いったいどうするんだ』と叫びましたが、彼はいっこう知らん顔で私をつかみ、私のあごに縄を通すと、蘆の間に船をつなぎ、私を籠のなかにおしこんで、貴殿のお邸へ持って行ったのです。そのとき貴殿は、御令弟と表座敷で囲碁をたのしんでいらっしゃいました。掃守がそのそばにすわって果物をたべていました。そして、文四がもってきた大魚を見ると、みなさんはたいへんよろこばれておほめになりました。私はそのとき、みなさんにむかって、大声に叫んだのです。『あなた方は、この興義をお忘れになったのですか。お許し下さい。寺にかえして下さい』と、連呼したのですが、誰も知らぬ顔であしらい、ただ立派な魚だと手をうってよろこんでいらっしゃるのです。やがて調理人がやってきて、まず私の両眼を左手の指でつよくおさえ、右手にとぎすました庖丁《ほうちょう》をもって、私をまな板の上にのせ、すんでのことに切ろうとしたとき、私はあまりの苦しさに大声をあげて、『仏に仕える僧を殺すということがあるか。助けてくれ、助けてくれ』と、泣き叫びましたが、誰も聞きいれてくれません。そして、ついに切られたと感じたとき、夢がさめたのです」と語った。これを聞いて人々はひどく感動するとともに不思議に思って、「御僧のいまのおはなしで思いあわせてみると、御僧が口をきくたびに魚の口が動くようでしたが、いっこうに声を出すことはありませんでした。こんな奇跡をまのあたりに見たとは、まことに不思議千万です」といって、下僕を家へ走らせて、残っていたなますを全部湖へ捨てさせた。  興義は、これから病気がなおって、ずっと後年、天寿をまっとうしてこの世を去った。その臨終に際して、これまで画いた鯉の絵を数枚とり出し、湖に散らしたところが、絵の魚が紙絹からぬけ出して、水中を泳ぎまわった。このために、興義の絵は後世にのこらなかったのである。その弟子の成光《なりみつ》というものが、興義の入神の妙技をうけついで、一世に名声をあげた。あるとき、成光が閑院内裏《かんいんだいり》のふすまに鶏の絵をかいたところが、生きた鶏がこの絵を見てほんものの鶏と思って蹴ったということが、昔の「古今著聞集《ここんちょもんじゅう》」という本に書きのこされている。 [#改ページ] [#1字下げ][#中見出し]雨月物語 巻之三[#中見出し終わり] [#1字下げ][#小見出し]仏法僧(ぶっぽうそう)[#小見出し終わり]  うらやすの国とよばれるこの日本は、長いあいだ穏《おだ》やかに治まって、民はそれぞれの家業にいそしみ、その余暇には、春は花の下にいこい、秋はもみじの林を訪ねるというように行楽をたのしみ、はては遠く九州|筑紫《つくし》の名所も知らなくてはと思って、遠くまで船旅をする人が、こんどは富士や筑波の山々に行ってみたいと、ふかく心|惹《ひ》かれるのも、思えば、泰平の世の余沢《よたく》として、自然のなりゆきであろう。  伊勢の国|相可《おうか》という里に、拝志氏《はやしうじ》という人がいたが、はやく家督を嗣子にゆずって、べつにこれという不幸があったわけでもないのに剃髪《ていはつ》し、名を夢然《むぜん》とあらため、元来丈夫で持病というものもないところから、諸国をあちこちと旅行するのを老後のたのしみとしていた。末子の作之治《さくのじ》が、どうも生来|無骨《ぶこつ》で融通のきかないのを案じて、都人の風流にして優しい様子でも見せようと思い、彼をともなって一か月あまりを京都二条の出店に逗留《とうりゅう》し、三月の末には吉野の奥の桜を見に行き、知りあいの寺に七日ほど泊ったが、このついでに、まだ高野山へ行ったことがないので、ひとつ行ってみようといって、折から夏のはじめ、青葉の茂みをわけながら、天《てん》の川《かわ》というところから山を越えて、摩尼《まに》の御山とよばれる高野山に行った。道中のけわしさに行き悩んで、みちははかどらず、いつのまにか日の暮れかかるころになった。  壇場《だんじょう》から諸堂、霊廟と、のこらず参拝して、宿坊の前に立ち、「こちらに泊めていただきたい」と声をかけたが、誰ひとりとして応答するものがない。そこで通行人に、この地のならわしをたずねたところ、「お寺や僧坊につて[#「つて」に傍点]のない人は、麓《ふもと》に下って夜をあかすよりほかありません。この山では、すべて旅人に一夜の宿をかすということはないのです」というこたえだった。どうしようかと、途方にくれた。いかに丈夫な身体とはいっても、老人の身で、けわしい山路を越してきたうえに、いまこうしたことを聞いては、心ががっくりと張りあいを失って、急に疲れを覚えた。作之治も、「日も暮れ、足も痛んで、さらにこのうえどうして長いみちのりを麓にくだれるでしょうか。私のように若い者は、たとえ草に寝てもいといません。しかし年寄られた父上が、そのために御病気にでもなったらと、それが案じられます」という。夢然は、「旅というものは、こういうことがあってこそまた趣があるというものだ。しかし、今夜、脚をいため、疲労|困憊《こんぱい》して里へ下っても、それが自分の故郷というわけでもないし、また明日の道中だってどんなことがあるかわからないのだ。この山は日本第一の霊場で、弘法大師の広大な徳はとても語りつくせないほどである。わざわざにでもここへきて、終夜、参籠《さんろう》祈願し、来世の安楽往生をお願いしなければならないところであるが、今夜はちょうどよい折であるから、大師廟で終夜お念仏を唱えることにしようではないか」といって、杉並木の鬱蒼とした奥の院への参道を歩み進んで、やがて大師廟の前の灯籠堂《とうろうどう》につき、その縁側にのぼって、もっていた雨具を敷き、席をこしらえると、そこにすわって、心しずかに念仏を唱えながらも、夜がしだいにふけていくのをなんとなく心細くわびしく感じたのである。  この山は、約五キロ四方平坦になっていて、あたりに見苦しい林など見えず、小石一つさえはらいきよめたありがたい霊地ではあるが、それでもさすがに、この灯籠堂の辺は寺も遠く、陀羅尼《だらに》を唱える声も、鈴錫《れいしゃく》の音もきこえない。樹木は雲をしのぐほど高々とそびえて茂りあい、道ばたを流れる水の音がほそぼそと澄みわたって、夜の静寂になんとなくさびしい。寝られないままに、夢然は作之治にむかってはなした。「そもそも大師の徳の力は、霊なき土石草木にまでも霊を宿して、開山以来八百余年を経た今日にいたっても、ますますあらたかで、ますます尊いことである。大師の遺《のこ》された業績やめぐり歩かれた旧跡は、日本全国に多いが、その中で、この高野山こそ第一番の仏道道場である。まだ大師の御存命中のことであるが、遣唐使《けんとうし》にしたがって、遠く中国に留学され、その地で真言の秘奥をきわめられると、『この三鈷《さんこ》の落ちとどまるところが、わが宗旨をあげひろめる霊地である』といって、三鈷を大空高くお投げになったが、それがこの山に落ちたのであった。壇場御影堂《だんじょうみえいどう》の前にある三鈷の松というのが、それが落ちとどまった所だと聞いている。すべてこの山の草木といい、泉石といい、霊力をもたないものはひとつもないということである。今夜ゆくりなくもここに一夜をおかりしたということは、この世だけでなく、前世からのありがたい因縁である。お前も若いからといって、けっして信心を怠ってはならない」と、小声ではなすが、夜のしじまにその声さえすみとおって、心細い感じがする。  大師廟のうしろの林あたりからと思われるが、「ブッパン、ブッパン」となく鳥の声が、こだまになって響いて、耳近くきこえてくる。それを聞くと、夢然は、目さめるような心持になって、「ああ、めずらしい声を聞くものだ。いま鳴いている鳥が仏法僧というのだろう。かねがねこの山にすんでいるとは聞いていたが、たしかにその声を聞いたという人もいないのに、今夜ここに宿って、ありがたいその声を聞けたとは、まさに滅罪生善《めつざいしょうぜん》のいいしるしであろうか。あの鳥はもともと清浄の地をえらんですむということである。上野の国の迦葉山《かしょうざん》、下野の国の二荒山《ふたらさん》、山城の醍醐《だいご》の峰《みね》、河内の杵長《しなが》山、そして、なかでもこの高野山にすんでいるということは、大師のお詠みになった詩偈《しげ》にもあって、世人のよく知っていることである。 [#ここから2字下げ] 寒林独坐草堂暁《かんりんどくざそうどうのあかつき》   三宝之声聞一鳥《さんぼうのこえをいっちょうにきく》 一鳥有声人有心《いっちょうこえありひとこころあり》   性心雲水倶了々《せいしんうんすいともにりょうりょう》 [#ここから5字下げ] (さびしい林の中の草の庵にひとり坐して暁をむかえると、折から仏・法・僧の三宝を唱える一羽の鳥の声を聞いた。一羽の鳥ですらすでに三宝を唱える声があるのだから、これを聞く自分にも、これに応じて仏心を発揮する心がある。有情の鳥声・人心、非情の行雲・流水、すべてこの山にあるものは法身如来の仏徳を開顕して悟りの境地に入っている) [#ここで字下げ終わり] これがその詩偈であるが、また古歌にこういうのもある。 [#ここから2字下げ] 松の尾の峰静かなる曙《あけぼの》にあふぎて聞けば仏法僧啼く [#ここから5字下げ] (松尾山の峰が静かにあけてゆく曙に、峰の空を仰ぎながら耳傾けると仏法僧の声がきこえる) [#ここで字下げ終わり]  昔、最福寺の延朗法師《えんろうほうし》は、世にもまれな信仰あつい法華経信奉者であったので、松の尾神社の祭神が、この仏法僧をつねに延朗法師に仕えさせたということがいい伝えられているから、この歌のように、松の尾神社の神域にもすんでいたことが知られる。それにしても、今夜くしくも、すでにこの仏法僧の一声を聞きえたのだから、私もここにおいて興趣をおぼえずにおられようか。一句詠んでみよう」といって、平生たのしみたしなんでいる十七音の俳諧を、しばし案じていたが、やがて口に出して詠みあげた。 [#ここから2字下げ] 「鳥の音も秘密の山の茂みかな」 [#ここで字下げ終わり]  旅行用の小|硯《すずり》をとり出して、御灯明の光をたよりにこの句を書きつけ、もう一声聞きたいものだと耳をすますと、思いがけず遠く寺院の方から、先ばらいの声がいかめしく聞こえ、次第にこちらへ近づいてきた。いったいどなたがこんな夜更けに参拝なさるのだろうかと、あやしみながらもおそろしく思って、親子は互いに顔見合わせて息をころし、そちらの方ばかりじっとみまもっていると、はやくも先ばらいの若侍が、御廟橋《ごびょうばし》の橋板を荒々しく踏んで、こちらにやってくる。  親子がおどろいて灯籠堂の右側の廊に身をかくすのを、武士はいちはやく見つけて、「何者だ。殿下のおいでだぞ。はやく下へおりろ」というので、二人はあわてて縁をおり、地面に平伏した。まもなく大勢の足音が聞こえたが、その中でひときわ高く沓音《くつおと》をひびかせて、烏帽子《えぼし》・直衣《のうし》を召した貴人がお堂におあがりになると、おつきの武士四、五人が、その左右に座をしめた。貴人は、おつきの武士たちにむかって、「だれだれはどうしてこないのか」とおたずねになる。「やがてまいりましょう」と、武士がおこたえ申しあげる。そこへまた一群の足音がして、いかめしく立派な武士や、頭を丸くした入道などがその中にまじってやってきたが、貴人に対してうやうやしく礼をすると、堂にのぼった。貴人は、いま来た立派な武士にむかって、「常陸介《ひたちのすけ》、その方はどうして遅くまいったのだ」とおっしゃると、その武士は「白江《しらえ》、熊谷《くまがえ》の両名が、殿下に御酒をさしあげるのだと申して、まめまめしくはたらいておりますので、拙者もなにか御酒の肴を一品ととのえてさしあげようと思い、そのためにおともに遅れたのでございます」と申しあげる。そして、たずさえてきた肴をならべておすすめすると、貴人は、「万作、酌をせい」とおっしゃるのだった。その声に、美貌の若侍が、かしこまっていざりより、酒器をとりあげて酌をした。それから、あちらの人、こちらの人と杯をまわして、酒宴はにぎやかになった。  やがて、貴人は、また口をひらいて、「久しく紹巴《じょうは》のはなしを聞かないな。ここへよべ」とおっしゃると、御前から順に呼び伝えているようであったが、ちょうど夢然が平伏しているうしろの方から、一人の大きな法師――顔がひらったく、目鼻だちのはっきりした人であった――が、僧衣の身づくろいをしながら、堂の方へ進み出、居並ぶ人々の末座に座をしめた。すると、貴人は古歌や故事・古語などをあれこれとおたずねになり、法師はそれにたいしていちいちくわしくおこたえ申しあげたが、貴人はそのこたえにひどく感心されて、「かれに当座の褒美を与えよ」とおっしゃった。 [#「高野山奥の院、灯籠堂の前で、深夜、夢然・作之治父子が、関白秀次とその家臣たちの亡霊にあう図」のキャプション付きの図(fig60609_06.png、横835×縦601)入る] [#ここからキャプション] 高野山奥の院、灯籠堂の前で、深夜、夢然・作之治父子が、関白秀次とその家臣たちの亡霊にあう図。先駆の武士が父子を叱っているところ。(原本三丁裏、四丁表の挿絵) [#ここでキャプション終わり]  一人の武士が、法師にたずねた。「この高野山は徳高き高僧がおひらきになって、土石草木のごとき霊なきものまで、仏徳をうけて霊魂をもたないものはないと聞いております。しかるに、ここを流れる玉川の水には毒があって、人がこれをのむときは毒にあたって命を落すゆえに、大師がそれをいましめるためにお詠みになった歌として、 [#ここから2字下げ] わすれても汲みやしつらん旅人の高野《たかの》の奥の玉川の水 [#ここから5字下げ] (忘れても旅人は高野山の奥の玉川の水を汲んで飲んではいけない、毒があるからだ) [#ここで字下げ終わり] というのがあると聞きつたえております。大師ほどの高徳の方が、この毒のある流れを、どうして涸《か》らしておしまいにならなかったのでしょうか。いぶかしいことですが、貴殿はどうお考えになっていらっしゃいますか」  法師は、微笑をたたえて、こたえた。「この歌は『風雅集《ふうがしゅう》』におさめられております。その詞書《ことばがき》に『高野の奥の院へまいる途中にある玉川という川は、水上に毒虫が多いので、この流れを飲んではならないということを、さとしいましめておいてのちに、この歌を詠む』という意味のことがあきらかに書かれておりますから、貴殿のおっしゃるとおりです。しかしまた、いまのお疑いが道理にはずれたことでないと思われますのは、大師は神の如き霊力をもってなにごとをも思うようになしうる方でしたから、目に見えない神を使って道なきところに道をひらき、巌をくりぬくのは土を掘るよりもたやすく、大蛇を封じこめ、化鳥《けちょう》を帰順せしめられるなど、ひとしく天下の人々が仰ぎとうとぶ立派な功績をおしめしになったことを思いあわせると、どうもこの歌の詞書はほんとうとは思えません。もともとこの玉川という川は諸国にあって、どの玉川を詠んだ歌も、その流れの清らかなのをほめたたえたものであることを思えば、ここの玉川も毒のある流れではなく、この歌の意味も、これほど名高い川がこの山にあるのを、ここに参詣する人はかりにすっかり忘れていても、この流れの清らかさに心ひかれて、思わずも手にすくって飲むことであろう、というこころをお詠みになられたのであろうのを、後世の人が、毒があるという妄説につられて、この詞書をつくりあげたものかと思われます。また、もっとふかく疑ってみると、この歌の調子は、大師の生きておられた平安朝初期のうたいぶりではありません。およそわが国の古い言葉に、玉鬘《たまかずら》、玉簾《たまだれ》、珠衣《たまぎぬ》などというのがありますが、これらはかたちのよさをほめ、清らかさをほめる言葉でありますから、それとおなじように、清水をも玉水、玉の井、玉川などとほめるのです。毒のある流れに、どうして『玉』という言葉を冠《かぶ》らせることがありましょうか。むやみやたらに仏をありがたがって、しかも歌のことなどにくらい人は、このような歌意曲解のあやまりはいくらでもしでかすものです。それにひきかえ、貴殿は歌よみでもいらっしゃらないのに、この歌の意味に疑問をもたれるとは、ほんとうにたしなみのふかいゆかしいことでございます」と、大いにその武士をほめたたえたのである。貴人をはじめ、なみいる人々も、この説が道理にかなっていると、しきりに賞讃した。  折から、御堂のうしろの方で、「ブッパン、ブッパン」と鳴く声が、間近く聞えたので、貴人は杯をあげられて、「あの仏法僧の鳴くのも久しく聞かなかったが、これで今夜の酒宴にひときわ興がのったぞ。紹巴、一句どうじゃ」と、おっしゃる。法師は、かしこまって、「それがしの短句は、すでに殿下にもお聞きふるしでいらっしゃいましょう。今夜、ここに旅人がお籠《こも》りしておりますが、さっき当世風な俳諧を口ずさんでおりました。殿下にはおめずらしくいらっしゃるでしょうから、その者をよび出して、お聞き下さいませ」という。貴人が、「その者を呼べ」と、おっしゃると、若侍が夢然の方にむかって、「お召しでいらっしゃるぞ。ちこうまいれ」という。夢然は、無我夢中で、おそろしさのままに、御前へはい出した。すると、法師は、夢然にむかって、「さっき詠んだ句をわが君に申しあげよ」という。夢然は、おそるおそる、「なにを申しましたでしょうか、いっこうに覚えておりません。どうかおゆるし下さい」という。法師は、重ねて、「秘密の山という句を詠んだではないか。殿下がおたずねになっていらっしゃるのだ。はやく申しあげよ」という。夢然は、いよいよおそれて、「殿下と仰せられますのはどなたでいらっしゃいますか。どうしてこんな深山で夜宴をもよおされていらっしゃるのですか。どうもいよいよ不審なことでございます」という。法師は、それにこたえて、「殿下と申しあげるのは、関白|秀次公《ひでつぐこう》でいらっしゃるのだ。またここに従う人々は、木村常陸介、雀部淡路《ささべあわじ》、白江備後《しらえびんご》、熊谷大膳《くまがえだいぜん》、粟野杢《あわのもく》、日比野下野《ひびのしもつけ》、山口少雲《やまぐちしょううん》、丸毛不心《まるもふしん》、隆西入道《りゅうさいにゅうどう》、山本主殿《やまもととのも》、山田三十郎、不破《ふわ》万作の面々《めんめん》で、かくいうそれがしは紹巴法橋《じょうはほっきょう》である。汝等はふしぎの御縁で拝顔の栄をえたのであるぞ。さっきの句をいそいで申しあげよ」という。夢然はこれをきくと、もし頭に髪があったならば、一瞬にしてその毛髪がふとくなるかと思うほど恐怖におののき、肝も魂も身をはなれて宙にうくような心地がして、ふるえながら、頭陀袋《ずだぶくろ》からきれいな紙をとり出して、筆もしどろもどろに書きつけてさし出すと、それを山本主殿がとって、声高くよみあげる。 [#ここから2字下げ] 「鳥の音も秘密の山の茂みかな」 [#ここで字下げ終わり]  貴人は、これをお聞きになって、「こざかしくも詠みおったな。だれかこの付句をいたせ」とおっしゃると、山田三十郎が座をすすみ出て、「それがしがいたしましょう」といって、しばし首をかしげて思案していたが、やがてこう付けた。 [#ここから2字下げ] 「芥子《けし》たき明《あか》すみじか夜の牀《ゆか》 [#ここで字下げ終わり] どうでしょうか」と、彼は書いた紙を紹巴に見せる。紹巴は、「みごとにお詠みになりました」とほめて、それを秀次公の前にさし出すと、秀次公もごらんになって、「悪いできでもないわい」と感心されて、また杯を傾け、一座にまわされた。  淡路とよばれた人が、このとき急に顔色をかえて、「もはや修羅《しゅら》の時刻になったようです。阿修羅《あしゅら》どもがお迎えにまいったと申しております。お立ち下さい」というと、一座の人々はたちまち血をそそいだように顔を真っ赤にして、「さあ、石田、増田のやつばらに、今夜も一泡ふかせてやろう」と、勇んで立ちさわぐ。秀次公は、木村にむかって、「つまらぬやつにわが姿を見せてしまったわい。あいつ等二人も一緒に修羅道へつれてまいれ」とおっしゃる。それを、老臣の人々がわってはいって、間をへだて、声をそろえて、「まだ寿命のつきない者どもでございます。いつもの悪行をなさいますな」といったが、その言葉も、人々のすがたも、遠く大空のかなたに消えて行くようだった。  親子は気を失って、しばらくのあいだは息もたえだえであったが、やがて明けてゆく空とともに、梢を落ちる露がひややかにかかるのに息をふきかえしたけれど、それでもまだすっかり夜の明けきらぬおそろしさに、「南無大師|遍照金剛《へんじょうこんごう》」とせわしく唱えながら、ようやく太陽の昇ったのを見て、いそいで山をくだり、京都へ帰って、薬や鍼《はり》の治療にいそしんだのである。その後、ある日、夢然は、三条の橋を通りすぎるとき、そこの瑞泉寺《ずいせんじ》にある秀次の悪逆塚《あくぎゃくづか》のことを思い出すと、その方におのずと視線がひきよせられて、「白昼でも物すごいありさまでした」と、のちに都の人にはなしたのを、聞いたままにここに書きしるしたのである。 [#改ページ] [#1字下げ][#小見出し]吉備津の釜(きびつのかま)[#小見出し終わり] 「嫉妬《しっと》ぶかい女というものはとかく家を乱しがちで、手におえないものであるが、反面ではそのために夫の身持《みもち》が制約され、おのずとかたくなるので、若いうちはうるさく思っていても、年をとってからふりかえってみると、それにはまたそれなりにいい点やありがたさがあったのがわかるものである」という言葉がある。ああ、これはいったいだれのいった言葉だろうか――。嫉妬ぶかい女というものは、嫉妬の害がさほどひどくない場合でも、家業のさまたげをなし、器物をこわしたりなにかの手違いをおこさせたりして、隣近所からのそしりはまぬかれがたいものであるが、その害の甚大なものにいたっては、ついに家を失い、国をほろぼして、長く天下の物笑いのたねとなるのである。昔からこの嫉妬の害毒にあたって苦しんだ人は、どのくらいあるかわからない。嫉妬ぶかい女のなかには、死んだのちにおろちとなったり、あるいは物凄い雷をならしたりして、男にうらみを晴らすというものもあるが、そういうたぐいは、みせしめのために、その身の肉を刻《きざ》んで塩辛にしても、なお飽きたりないほどである。しかし実際にはそんな極端な例はごくまれである。夫が自分の身持をよくおさめて妻を教え導いたならば、嫉妬の弊害も自然と避けることができるのに、それをほんのちょっとした浮気から、女の嫉妬ぶかい本性をつのらせて、自分で自分の身の憂いを招いてしまうのである。昔から、「鳥類を制するのは人間の気合《きあい》ひとつにある。そして妻を制するのは、その夫の雄々しくしっかりした気性ひとつにある」といわれているが、ほんとうにその通りである。  吉備《きび》の国《くに》賀夜《かや》の郡《こおり》庭妹《にいせ》の里《さと》に、井沢庄太夫という人がいた。祖父は播磨《はりま》の国《くに》の赤松氏《あかまつうじ》に仕えていたが、去る嘉吉《かきつ》元年の乱に、赤松氏の城を去って、この地にやってきて、それから庄太夫にいたるまで三代の間、春にたがやし秋に刈り入れるという農作を業として、家ゆたかに暮らしてきた。庄太夫のひとり子の正太郎というのは、百姓をきらって、酒に溺れ、色にふけって、なかなか父のいいつけを守ろうとしない。そこで、両親はこれを嘆いて、ひそかに相談していうには、「ああ、どうか、ちゃんとした人の娘で、きりょうのいいひとを正太郎の嫁にもらったならば、あの子の身持も自然とよくなるに相違ない」といって、ひろく国中をさがしもとめたところが、さいわいになかだちする人があって、「吉備津神社《きびつじんじゃ》の神主香央造酒《かんぬしかさだみき》の娘は、うまれつき優美典雅で教養があり、父母にもよく孝養をつくして、そのうえ和歌もうまくよみ、箏《こと》も上手に弾《ひ》きます。もともと香央家は吉備の鴨別《かもわけ》の子孫で家柄も正しいのですから、あなたの家がこれと縁組なさることは、きっとよいことがあるでしょう。この縁談が成立するのは、私としても願うところです。あなたのお考えはいかがでございますか」という。このはなしを聞いて庄太夫は大そうよろこび、「いいおはなしをきかせて下さったものです。このことは私の家にとっては家運長久の基ですが、香央家はこの国の名家であり、私どもは氏素姓も卑しい農民です。家柄がつりあいませんから、先方ではおそらく承知なさいますまい」という。仲人の老人は笑顔をつくって、「あなたの御謙遜もはなはだしい。私がきっとうまくまとめて結婚というはこびにいたしましょう」といって、その足で香央家を訪ねてこの縁談をもちこむと、香央もよろこんで妻に相談したところ、妻も同様に乗り気になってこういった。「うちの娘ももう十七になりましたので、毎日、よい相手はいないものか、そういう人のもとへかたづけたいものだと、私はそればかり考えて心のやすまるひまもございませんでした。いいおはなしですから、早く吉日をえらんで、結納《ゆいのう》を取りかわして下さい」と、しきりにすすめたので、はなしははやくもきまって、この旨を井沢に返事した。そして、すぐに、結納を十分手厚くととのえてとりかわし、黄道吉日《こうどうきちにち》をえらんで、結婚式をあげることとなった。  香央は、このうえなお娘の幸福を神に祈るために、巫子《みこ》や祝部《はふりべ》をあつめて、神前に御湯《みゆ》をそなえる御釜祓《みかまばらい》の神事をとり行なった。そもそもこの社に祈誓する人は、数多くの御供物を神前に供えて、御釜祓の御湯を奉り、それによって事の吉凶を占うのがつねである。巫子が祝詞《のりと》を奏し終り、御湯がわきあがるときに、吉兆ならば、釜の鳴る音が牛の吼《ほ》えるように大きく鳴る。反対に、凶兆ならば、釜は鳴らないのである。これを吉備津の御釜祓という。ところが、香央が御釜祓をしてみると、この縁談を神が御嘉納にならないのか、釜は、秋の虫がくさむらですだくほどの小さな声さえ出さない。そこで、疑惑を抱いた香央は、このしるしについて妻に相談した。しかし、妻はいっこうに疑わず、「御釜が音を出さなかったのは、祝部たちの身がけがれていたからでしょう。すでに結納をとりかわしたうえ、夫婦となるべき約束をしたからには、たとえ先方が仇敵《きゅうてき》の家であっても、また遠い他国の人であっても、約束をかえてはならないと聞いておりますのに――。とりわけ井沢はほまれある武門の後裔《こうえい》で、家風の正しい家と聞いておりますから、いま私の方で断っても承知いたしますまい。ことに娘は、婿となるべき人の眉目秀麗なのをどこからかうわさに聞いて、胸ときめかし、婚礼の日を指折り数えて待ち遠しく思っているようすなのを、もしも今の悪いはなしでも聞こうものならば、どんな無分別なことをしでかすかしれません。そのときになって後悔してもとりかえしがつかないでしょう」と、言葉をつくして夫を説きふせようとしたが、これも母親の立場からすれば当然の心持であろう。これをきくと、夫も、もともと望ましい良縁のことであったから、これ以上ふかくは疑わず、妻のことばにしたがって、ここにやがて結婚の式を挙げ、両家の親類縁者あいあつまって、新夫婦の契りの末長くあらんことを祝ったのである。  香央の娘の磯良《いそら》は、井沢家にとついでから、朝は早く起き、夜は遅く床につくというように、毎日精を出してはたらき、つねに舅《しゅうと》・姑《しゅうとめ》のそばをはなれずにまめまめしくつかえ、夫の性質をのみこんで、夫に気にいられるように真心をつくしてかしずいたので、井沢の両親は磯良の孝行・貞節に感心して、いい嫁を貰ったとそのよろこびはひととおりでなく、また夫の正太郎もその誠意に感心していとおしく思い、契りもこまやかに仲むつまじく暮らしたのであった。しかし、生来のわがままで放蕩な性質というものは、どうにもならないものである。いつとはなしに、正太郎は、鞆《とも》の津《つ》の袖《そで》という遊女とふかくなじんで、ついにはこれを身請けし、近くの里に妾宅をかまえて住まわせ、そこに幾日もいりびたっては、家に帰らないようになった。磯良は、これを悲しく思って、あるときは舅姑《おやたち》が怒っていることにかこつけて諫め、またあるときは夫の浮気な心をうらみなげいたが、夫は妻のいうことなどまったくうわの空に聞きながして、その後は一か月以上も帰宅しないようになった。舅の庄太夫は磯良の真情あふれるいじらしいふるまいを見るに見かねて、正太郎をきつくしかると、ついに一室に監禁してしまった。磯良は、このことを悲しく思って、朝夕、ことに万事に気をつけて、かいがいしく夫に仕えるとともに、また一方では袖の妾宅の方へも、ひそかに物などとどけてやって、真心のかぎりをつくしたのである。  ある日のこと、父が家にいないすきをみて、正太郎は、磯良をそばへよぶと、甘い言葉で、「そなたの真心こもった心づくしを見て、いまでは自分が悪かったとつくづく後悔している。このうえは、あの女と手を切り、うまれ故郷へ送りかえして、それで父上の怒りをなだめやわらげるとしよう。彼女《あれ》は播磨《はりま》の印南野《いなみの》の出身であるが、親もなくて不幸ないやしい境遇にいるので、ついふびんに思って情をかけてしまったのだ。もしもいま私に捨てられたならば、きっとまた再び港町の遊女に身をおとしてしまうだろう。おなじ勤めをする身であっても、都は人の情も厚いところであるというから、彼女《あれ》を都へつれていって、ちゃんとした人の許に仕えさせたいと思うのだ。それにしても、私がこうして軟禁されて訪《たず》ねてもやれないので、さぞ万事につけて不自由で、困っていることだろう。都へゆく旅費と衣類といっても、誰も工面してやる者もないありさまだ。そなたがこれを工面して、彼女《あれ》に恵んでやってはくれないか」と、ねっしんに頼むのを聞いて、磯良もたいそうよろこび、「そのことなら御安心下さいませ」といって、ひそかに自分の着物や手まわりの道具を売って金にかえ、そのうえなお実家の母につくりごとをいって金を貰い、それを夫に渡した。正太郎はこの金を手にすると、こっそり家をぬけ出し、袖をつれて、都の方へ出奔してしまった。これほどまでに徹底的にだまされたので、磯良の傷心は大きく、ついに重い病の床に臥す身となった。井沢・香央両家の人々も、いまは正太郎を憎み、磯良をあわれんで、医者にかけ、ひたすら回復をのぞんだが、その甲斐もなく、磯良は、日ましにだんだん粥さえのどを通らないようになって、とうてい回復の見込みがないような状態になった。  さて、ここ播磨の国|印南郡《いなみごおり》荒井の里に、彦六という男がいた。彼は袖とは従姉弟《いとこ》という近い血縁関係にあったので、正太郎たちは、まずそこを訪ねて、しばらく逗留することにした。彦六は、正太郎にむかって、「都がいかに人情の厚い所だからといって、都人みんながみんな頼もしいというわけでもありますまい。それよりは、ここにお住みなさい。一つ釜の飯をわけあって、お互いに助けあいながら生活しようではありませんか」と、頼もしいことをいってくれるので、正太郎もほっとして気持が落ちつき、ここに住もうと心をきめたのである。彦六は、自分の家と壁ひとつ隣のあばら屋を借りて、ここに正太郎たちを住まわせ、いいはなし相手ができたとよろこんだ。ところが、袖が、風邪気味だといっているうちに、どこがどうということもなくひどくわずらい出して、物《もの》の怪《け》にでもつかれたように気ちがいじみてきたので、正太郎は、まだここへきて幾日もたたないのに、こんな災難にとりつかれた悲しさに、自分の食事さえ忘れてひたすらその看病にあたったが、袖はただ声をあげて泣くばかりで、発作がおこるといかにも胸苦しく堪えられない様子をみせ、熱がさめるとふだんとかわらない様子をみせる。生《い》き霊《りょう》のたたりであろうか、もしかしたら故郷に捨ててきた妻が怨霊《おんりょう》となってたたりをしているのであろうかと、正太郎は、ひとり胸をいためるのだった。彦六は、正太郎が気をまわして不安がるのをいさめて、「どうしてそんなことがあるものですか。疫《えき》病が非常に苦しいものであるということは、私は、これまでも実際に数多く見てきました。熱がすこしさめると、まるで夢のあとのように、それまでの苦しさなどけろりと忘れたようになるものです」と、無造作にいうのだけが、いかにも頼もしく思われた。しかし、看病のしるしはすこしもなく、袖の病気は、見る見るうちに悪化して、発病してから七日で死んでしまった。正太郎は、天を仰ぎ、地をたたいて、わが身の悲運を泣き悲しみ、自分も一緒に死んでしまいたいと狂気のようになったが、彦六はそれをいろいろいい慰めて、「このうえは、もう仕方がないでしょう」といって、ついに火葬にしてしまった。骨をひろって墓をつくり、卒塔婆《そとば》を立て、僧にたのんで手厚く菩提《ぼだい》を弔ったのである。  ここにいたって、正太郎は、地に俯《ふ》して亡き袖のいる冥土を慕ってみたが、死者の霊をこの世によびもどす招魂の法をもとめるすべもなく、さればとて天を仰いで捨ててきた故郷のことを思うと、それはかえって冥土よりも遠く隔たった気がして、進退きわまり、途方にくれて、昼は終日ずっと寝てくらし、夕方になると毎夕のように墓に詣でたが、見るといつのまにか墓にも小草が生えて、折からすだく虫の声もなんとなくものがなしい思いをさそうようだった。古歌のように、この秋のわびしさは、わが身のうえにだけあつまったと、秋のわびしさ、身のさびしさをしみじみ痛感していると、ほかにも自分とおなじような不幸な目にあった人があるとみえて、かたわらに新墓がある。この新墓に詣でる女を見ると、いかにも悲しげな様子をして、墓前に花を手向け、水をそそいでいるので、「ああ、お気の毒に。まだうら若いあなたが、こんな人里はなれたさびしい荒野へ、お墓まいりにいらっしゃるなんて」と声をかけると、その女はふりかえって、「わたしがいつも夕方おまいりいたしますと、貴方様はきっとわたしより先におまいりなさっていらっしゃいます。近いお身内の方におわかれなさったのでございましょうか。御心中をお察し申しあげますとお気の毒に存じます」といって、さめざめと涙を流した。正太郎は、こたえて、「おっしゃる通りでございます。十日ほど前にいとしい妻を亡くしましたが、私ひとりあとにとりのこされて、頼りをうしない心細いので、ここにおまいりすることだけをせめてもの心の慰めとしているのでございます。あなたもきっとおなじような御事情がおありなのでございましょうね」という。女は、「いいえ、私がこうしておまいりにまいりますのは、御主人様のお墓で、×月×日にここへ埋葬申しあげたのでございます。家に残っていらっしゃる奥様があまりにもお嘆きになられて、そのためにこのごろでは重い御病気におかかりになられたので、こうして私が代りにおまいりして、香花をお供え申しあげているのでございます」という。それを聞いて、正太郎は、「奥様が御病気になられたのも、まことにごもっともなことでございますよ。それで、いったい亡くなられた方はどういうお方で、おすまいはどちらでいらっしゃいますか」ときく。女は、こたえて、「御主人様は、この地方では由緒《ゆいしょ》ある家柄の御方でいらっしゃいましたが、人の讒言《ざんげん》にあって地位も領地も失い、その後はこの野の片隅にわびずまいをしていらっしゃいました。奥様は、隣国にまで評判の美人ですが、この奥様のことが原因となって、家も領地も失ってしまわれたのです」と語る。このはなしを聞くと、正太郎は、例の浮気心がおこったわけではないが、なんとなく心を惹《ひ》かれて、「さて、奥様がひとりさびしく住んでいらっしゃるところは、ここから近いのですか。お訪ね申しあげて、おなじような悲しみを語りあい、たがいに心の憂さをなぐさめあいましょう。いっしょにおつれ下さい」という。女は、「家は、貴方様がいつもおいでになる道からすこし横にはいった方です。奥様も頼りになる方をうしなって心細くいらっしゃいますから、おりおりはお訪ね下さい。きっとお待ちかねでいらっしゃいますよ」というと、先に立って歩きだした。 [#「正太郎が未亡人を訪ねた図」のキャプション付きの図(fig60609_07.png、横838×縦589)入る] [#ここからキャプション] 正太郎が未亡人を訪ねた図。未亡人は実は磯良の怨霊で、屏風すこし引きあけて、「めづらしくもあひ見奉るものかな。つらき報いの程しらせまゐらせん」という。正太郎は「あなや」と叫んで倒れた。(原本十三丁裏、十四丁表の挿絵) [#ここでキャプション終わり]  二〇〇メートルあまりくると、細い小道があった。ここをはいってなお一〇〇メートルほど歩くと、うすぐらい林のなかに小さな茅《かや》ぶきの家があった。竹の編戸《あみど》もものさびしく、折から七日すぎの上弦の月の光があかるくさしこんでいて、広くもない庭の荒れはてているのまでもはっきりと見える。かすかな灯火の光が、窓の障子をもれているのも、なんとなくさびしい風情である。「ちょっと、ここでお待ち下さいませ」といって、女は、内へ入った。正太郎は、苔《こけ》むした古井戸のそばに立って、うちの様子をのぞいてみると、襖《ふすま》がすこしあいている間から、灯火の光が風に吹きあおられてちらちらし、その光をうけて立派な黒塗りの違い棚がきらきらとかがやいてみえるのも、奥ゆかしく思われた。そこへ女が出てきて、「貴方様がお訪ね下さったよしを奥様に申しあげましたところ、奥様は、『どうぞおはいり下さいませ。物越しにおはなし申しあげましょう』とおっしゃって、部屋の端の方へいざり出ていらっしゃいました。さあ、あちらへおはいり下さい」といって、前庭をまわって、奥の方へ案内した。二間の表座敷を見ると、人のはいれるぐらいあけて、低い屏風を立て、そこから古い夜着の端が見えていて、奥様はここに臥していると思われた。正太郎は、そちらに向かって、「御主人様に亡くなられて、そのうえ御病気にまでおかかりになられたとうかがいましたが、私も先日いとしい妻に死なれましたので、おなじような悲しみを味わっておりますが、せめてお互いに心の悲しみを話しあってなぐさめあおうと思い、あつかましくもおうかがいしたようなわけです」といった。すると、女主人は、屏風をすこし引きあけて、「久しぶりでおめにかかるものですね。これまでのひどい仕打ちにたいする報いが、どんなものであるか、思いしらせてあげましょう」というので、正太郎はびっくりして、よくみると、これこそ故郷に捨ててきた妻の磯良であった。その顔色はひどく青ざめて、どろんとした眼つきは物凄く、こちらをゆびさす手が青く痩せ細っているのがおそろしく、正太郎は、思わず「ああッ!」と叫ぶと、そのまま倒れて、気をうしなった。  しばらくたって、息をふきかえした。そっと細目をあいて眺めると、さっき家だと思ったのは、以前からある墓地のなかの慰霊堂で、古びて黒ずんだ仏像が立っていらっしゃるだけであった。正太郎は急いで立ちあがると、遠くの人里で吠える犬の声をたよりに、家に走りかえり、彦六にこの一部始終をはなした。彦六は、「なあに多分狐にでもだまされたのでしょう。心が滅入《めい》ってびくびくしているときは、きっと迷わし神が憑《つ》くものですよ。あなたのようにひよわな人が、こんな悲しみの淵に沈んでいるのはいけないことですから、神仏に祈って、心をしずめ落ちつけなさい。刀田《とだ》の里《さと》にありがたい祈祷師がいます。そこへ行って身をきよめてもらい、魔よけのお守札もいただいていらっしゃい」というと、正太郎をつれて祈祷師のもとへ行き、このできごとをはじめから詳しくはなして、このことを占ってもらった。祈祷師は、占い考えて、こういった。「わざわいがすでにあなたの身に切迫していて、これは容易ならぬことです。この怨霊は、さきには女の命を奪い、それでも怨みはなお尽きずに、今度はあなたをねらって、あなたの命も今夜か明朝かというところまで迫っているのです。この怨霊が世を去ったのは七日前のことですから、きょうから四十二日の間は、かたく戸をしめて、厳重な謹慎をなさい。私のいましめを守るならば、九死に一生をえて、命だけはとりとめることができるかもしれない。しかし、たとえ一時たりともこのいましめを破ったならば、死をのがれることはできませんぞ」と、きびしくいましめると、筆をとって、正太郎の背中から手足の先にいたるまで、中国古代の書体のような文字を書き、そのうえ朱書した紙のお守札をたくさん与えて、「このまじない札を戸口という戸口に貼って、ひたすら神仏に祈りなさい。いましめにそむいて、身を亡ぼすことがあってはなりません」と教えたので、正太郎は一方ではおそれながらも、また一方ではよろこんで、家に帰り、お守札を門口に貼り、窓に貼って、厳重な謹慎生活に入った。  その夜、真夜中のころ、戸外から、おそろしい声で、「ああ、憎らしい。ここに尊いお札を貼りつけてあるな」とつぶやくのが聞えたが、それっきり二度と声がしない。正太郎は、おそろしさのあまり、夜の長いのを嘆いた。まもなく夜があけたのでほっと生きかえった思いで、急いで彦六の家との境の壁をたたいて彦六をおこし、昨夜のことをはなした。彦六もこれを聞いて、いまさらのように祈祷師のことばがその通り的中したのを、いかにも不思議だとして、自分もその夜は寝ないで、真夜中になるのをいまやおそしと待ちくらした。松を吹く風が、ものを吹きたおすかと思われるほど激しく、そのうえ雨さえ降って、なにか異変でもおこりそうな不気味な夜の気配に、正太郎と彦六は、壁をへだてて声をかけあっていたが、やがて二時ごろになった。そのとき、正太郎の家の窓の障子に、さっと、赤い光がさして、「ああ、憎らしい。ここにも貼ってあるな」という声がしたが、その声は深夜にはいっそう物凄く、正太郎は、髪も身の毛もよだって、しばらくは気をうしなってしまった。夜があけると、前夜のおそろしかったことを語り、日が暮れると、ただもう早く夜が明けないかと朝が待ちどおしく、こうしてこれからの数十日間というものは、まるで千年の月日をすごすよりも長く思われた。かの怨霊も毎夜毎夜、家のまわりをめぐったり、あるいは屋根の棟のあたりで叫んだりして、その怒れる声は一晩ましに物凄くなってくる。  こうして四十二日という最後の夜になった。いまはもはや今夜一晩で物斎《ものいみ》も終るところまできたので、とりわけかたく謹慎してすごすうちに、やがて夜明けの空がしらじらとあかるくなった。正太郎は、長い夢からさめたような気がして、すぐに彦六に声をかけると、彦六も境の壁際に身をよせて、「どうしました」という。正太郎は、「おもい物斎もすでにすっかり終りました。このところちっとも貴兄のお顔を見ません。懐かしさも懐かしいし、またこの一か月あまりのつらさやおそろしさを、思う存分はなしあって、心をなぐさめたいものです。起きて下さい。私もそちらへ出て行きましょう」という。彦六は元来が思慮の浅い男なので、「もう大丈夫ですよ。さあ、こちらへおいでなさい」というと、戸をあけかかったが、半分もあけるかあけないうちに、正太郎の家の軒のあたりで「ああッ!」と叫ぶ声が、耳をつんざいて、思わず尻もちをついた。これは正太郎の身のうえになにかおこったにちがいないと思って、斧をひっさげて大道に出ると、さっき正太郎が明けたと見た夜はじつはまだ暗く、月は中空にありながら、光がぼんやりとおぼろで、初冬の風はつめたく吹き、さて、正太郎の家はと見ると、戸はあけたままで、当の正太郎の姿は見えない。家の中にでも逃げこんだのであろうかと、なかにとびこんでみたが、見えない。どこにもかくれることのできるようなひろい家でもないので、それでは大道にでも倒れたのだろうかとさがしもとめたが、その辺には影もかたちもない。いったいどうなったのであろうかと、あるいはあやしみ、あるいはおそれながら、灯火をふってあかるくしてあちこちを見まわると、あけはなした正太郎の家の戸脇の壁に、なまなましい血がかかって、それが流れて地につたっている。しかし、屍《しかばね》も骨も見当らない。なおよく月あかりで見ると、軒の端になにかひっかかっている。灯火を高くさしあげて照らして見ると、男の髪の髻《もとどり》だけがひっかかって、ほかにはなにひとつない。浅ましくもまたおそろしいことは、とうてい筆紙につくすことができないほどであった。夜が明けてから近い野や山を探しもとめたが、ついにその形跡さえ見つけることができずにしまったのである。  そこで、このことを井沢の家へもしらせてやったので、井沢でも、涙のうちに、香央家へもしらせた。こういうわけで、祈祷師の占いが的中してそのとおりになってしまったことといい、また御釜祓で告げられた凶兆がとうとうそのまま事実になってしまったことといい、神意はまことに尊いものであったと、このはなしとともに世の人々は語り伝えたのである。 [#改ページ] [#1字下げ][#中見出し]雨月物語 巻之四[#中見出し終わり] [#1字下げ][#小見出し]蛇性の婬(じゃせいのいん)[#小見出し終わり]  いつの時代であったか、だいぶんふるいことである。紀伊の国|三輪《みわ》が崎《さき》に、大宅《おおや》の竹助という人がすんでいた。この人は、漁業で大いに儲《もう》けた網元で、漁師たちも大ぜいかかえ、手広く魚という魚を漁獲して、家ゆたかに暮らしていた。男の子が二人、女の子が一人あった。長男の太郎は質朴《しつぼく》で素直で、よく家業に精を出した。二番目の女の子は大和《やまと》の人から嫁にもらわれて、大和にかたづいた。三番目の子に豊雄というのがあった。これは、生れつき性質がやさしく、ふだんから風流なことだけを好んで、働いて生計をたてようとするような気持がなかった。父の竹助はこれを苦にやみながらも、また思うには、あの子には財産をわけてやってもすぐに他人にとられてしまうだろう。といって、他家へ養子にやってそこを嗣《つ》がせるのも、やっぱり結果においてはいやなことを聞くことになるであろうし、それが心苦しいことだ。ただ、あの子のしたいことをさせて成人させ、学者になりたいのなら学者になるのもいいし、僧になりたいのなら僧になるのもいい。あの子の生きている間は、しょせん太郎の厄介者《やっかいもの》としておこう、と考えて、しいてやかましくしつけようともしなかった。この豊雄は、新宮《しんぐう》の神官|安倍《あべ》の弓麿《ゆみまろ》を先生として、その許へ勉強に通っていた。  九月末のある日、朝から海は波ひとつたたず、風も凪《な》いで平穏であったが、急に東南の空に雲があらわれて、小雨がしとしとと降ってきた。そこで豊雄は、先生の所で雨傘を借りて帰途についたが、阿須賀神社の本殿がかなたに見わたされるあたりまでくると、雨がだんだんひどくなってきたので、ちょうどそこにあった漁師の家へ雨やどりに立ち寄った。この家のあるじである老人がごそごそと出てきて、「これはこれは、だれかと思ったら、旦那様の所の下の若さまでございますか。こんなむさくるしい所へおいで下さるとは、大そう恐縮なことでございます。これを敷きますから、ここへどうぞ」といって、よごれている円座《わろうだ》のちりをはらってすすめた。豊雄は、「ほんのしばらく雨やどりするあいだだから、なんでもかまわないよ。そう気をつかわないでくれ」というと、そこに腰をおろしてやすんだ。やがて、家の外で、美しい声がして、「この軒下をちょっとお貸し下さい」といいながら、軒下に入ってくる人があるので、豊雄は、だれだろうと思ってそちらを見ると、年のころはまだ二十歳にならない、容貌といい髪のかたちといい、大そうあでやかな女性《ひと》が、遠山ずりの色美しい衣服を着て、召使らしい十四五歳のきれいな少女に包みをもたせ、ぐっしょりと濡れて、いかにも困った様子をしていたが、豊雄と視線があうと、さっと顔をあからめて恥ずかしそうな様子をした。それがいかにも上品で美しいのに、豊雄も思わず心がゆらめいた。そして心の中で、この辺にこんな上品な美しい女性《ひと》が住んでいたら、いままでにその評判を聞かないわけはないから、これはおそらく都の人が三《み》つ山《やま》詣《もう》でをしたついでに、海が見たくなってこの辺に遊びにきたのであろう。それにしても、下男らしい者も供につれていないとは、どうも不用意なことだな、と思いながら、体をすこしずらして席をあけ、「ここへおはいり下さい。雨もそのうちにやむでしょう」と、声をかけた。女は、「では、しばらくお邪魔させて下さいませ」といってはいってきた。狭い家であるから、女は豊雄と並ぶような位置にすわったが、近くで見るといっそう美しく、まるでこの世の人とは思えないほどの美しさに、豊雄は、恍惚《こうこつ》と心が宙にまいあがるような思いがして、女にむかい、「まことに失礼ですが、都あたりの高貴な御身分の方とお見うけいたしますが、三つ山詣でをなさったのでございますか。それとも峰の湯へでも湯治においでになったのですか。こんな殺風景な荒磯を、どこがお気に召して、お遊びにお越しになったのですか。もっとも、ここが、むかしの人の、 [#ここから2字下げ] くるしくもふりくる雨か三輪が崎佐野のわたりに家もあらなくに [#ここから5字下げ] (こまったことに降ってきたむら雨だ。この三輪崎の佐野の渡し場には、雨宿りする家とてもないのに) [#ここで字下げ終わり] と詠んだところですが、この歌の情趣は、ほんとにきょうのこの風情とおなじではありませんか。この家は、むさくるしいところですが、私の父が面倒をみている男の家です。どうか心おきなくくつろいで雨やどりをなさって下さい。それはそうと、いったいどちらへお宿をとっていらっしゃるのですか。はじめての方をお送り申しあげるのもかえって失礼ですから、お帰りには、この傘をもっていらして下さい」という。女は、「まあほんとうに御親切なことをおっしゃって下さってうれしく存じます。そのあたたかいお情に、濡れたのを乾《ほ》してまいれば、すぐかわくことでございましょう。私は、都の者ではございません。この近所に長らく住んでおりますが、きょうが日がよいというので、那智におまいりいたしましたところ、急に雨が降り出しましたのでこわくなり、あなた様が雨やどりをなさっていらっしゃるとも知らず、見さかいもなくこの軒下をお借りしたのでございます。家はここから遠くもありませんし、雨も小やみになってきましたから、この間に出かけましょう」といって、そのまま出て行こうとするので、豊雄は、しいて、「この傘をもっていらして下さい。ついでの折にでも頂きにあがりましょう。それに、雨はいっこうに小降りになった様子もございませんよ。それで、おすまいはどちらですか。私の方から使を出して頂きにあがらせます」というと、女は、「新宮の辺で、県《あがた》の真女児《まなご》の家はどこか、とおたずね下さいませ。そろそろ日も暮れそうです。では、お言葉に甘えて、御親切を頂戴し、この傘を拝借して帰りましょう」といって、傘を手にして出てゆく後姿を、豊雄は見送って、自分はこの家のあるじの蓑と笠を借りて家へ帰ったが、帰宅してからも、どうしても真女児のおもかげが忘れられず、夜通し思いつめて、やっと明け方ちかくとろとろとまどろむと、夢に、真女児の家を訪ねていったところを見た。真女児の家へ行ってみると、門も家もたいそう大きな構えで、蔀《しとみ》をおろし簾《すだれ》をふかく垂れているさまなど、いかにも奥ゆかしい生活をしている様子だった。真女児が出むかえて、「あなたのお情が忘れられず、ひたすらおいでを待ちこがれておりました。さあ、こちらへおはいり下さいませ」といって、奥の方へみちびき、酒や菓子などいろいろ出して、あれこれと厚くもてなしてくれたので、すっかりたのしい酔心地になり、ついにそのまま枕をかわして契った、と思うところで、夜があけ、夢がさめた。これがもし現実であったならばどんなにうれしかろうと思うと、心が身をせきたてるように落ちつかなくなって、朝食も忘れて、そのまま気もそぞろにうきうきと家を出た。  新宮の里へきて、「県の真女児の家はどこでしょうか」とたずねたが、いっこうに知っている人がいない。昼すぎまでたずねあぐねていると、きのうの少女が東の方から歩いてきた。豊雄はそれを見ると、ひどくよろこんで「お嬢さまの家はどこですか。傘を返してもらおうと思って訪ねてきたのですが」と声をかけた。少女はにっこりして、「よくいらっしゃいました。さあこちらへおはこび下さい」というと、前に立ってずんずん歩いていったが、いくらも行かないうちに、「ここですよ」というので、そこを見ると、門を高く構え、家も大きく立派で、そのうえ、蔀《しとみ》をおろし簾《すだれ》をふかく垂れている様子まで、夢の中で見たのと寸分ちがわないのを、不思議だなと思いながら、豊雄は門をはいった。少女は先に走り入って、「傘を貸して下さった方がいらしたので、御案内してまいりました」という。すると、「どちらにいらっしゃるのです。こちらへおむかえ申しあげなさい」といいながらあらわれたのは、真女児であった。豊雄は、「この新宮に安倍先生という方がいらっしゃるのですが、その方は私が長年学問を教わっている先生です。そこをお訪ねするついでがあったものですから、傘をいただいて帰ろうと、ぶしつけながらうかがったようなわけです。これでおすまいもわかったことですから、また改めておうかがいいたしましょう」といって、立ち去ろうとすると、真女児は、むりにひきとめて、「まろや、絶対にお帰ししてはいけませんよ」という。少女は、豊雄の前に立ちふさがって、「あなたはきのう、私たちがお断りしたのに、無理に傘をお貸し下さったではありませんか。そのお返しに、きょうは私の方で無理にでもおひきとめ申しあげるのです」というと、豊雄の腰をおして、表座敷へ迎え入れた。この座敷は板敷《いたじき》の間《ま》に床畳《とこだたみ》を用意してあり、几帳《きちょう》や御厨子《みずし》などの部屋の調度の飾《かざ》りといい、壁代《かべしろ》の絵といい、みんな時代のついた由緒ありそうな品で、とうてい身分のない人の住居ではない。そこへ真女児があらわれて、「わけあって人手のない家となってしまいましたので、ゆき届いたおもてなしをすることもできません。わずかに粗酒|一献《いっこん》さしあげるだけでございます」といって、高坏《たかつき》や平坏《ひらつき》の美しい器《うつわ》に、山海の珍味をたくさん盛りならべて、少女のまろやが瓶子《へいじ》をささげて、杯をささげて、酌をした。豊雄は、ここにいたってまた夢のような気がして、さめるのではなかろうかと思ったが、今度はたしかに夢ではなく現実であるのをさとって、かえって不思議な気がしてならなかった。  やがて豊雄も真女児も、ほどよい酔いごこちになったとき、真女児は杯をとって豊雄にさし、あたかもらんまんたる桜の枝が水面《みなも》に映っているような、ほんのりと桜色に色づいた顔に、そよ吹く春風をあしらうような媚《こび》を見せ、春風にのって梢《こずえ》から梢へと飛びくぐりながら鳴く鶯のような美しく妙なる声で、こんなことをいい出した。「胸のうちの思いを、恥ずかしいことだと、うちあけずにおいて、古歌にあるように、そのためにこがれ死にしてしまったならば、神のたたりで死んだのだと、なにも知らない神様にまで無実の罪をおきせすることになるでしょうから、女の身でお恥ずかしいことですが、思いきって申しあげます。けっして一時の浮気心でいうかりそめごととお聞き下さいますな。私はもともと都の生まれでしたが、幼い時に父母に先立たれて、乳母の手許で成長しましたのを、縁あってこの国の国守の下役、県《あがた》のなにがしという者の妻にむかえられて、夫と一緒にこの国に下ってまいりまして、はや三年になります。夫は、まだ任期の終らないこの春、ふとした病気がもとで亡くなりましたので、私は、頼る者のない孤独な身となりました。都の乳母も尼になって、行方定めぬ修行の旅に出たといううわさを聞いておりますから、そうすれば、生まれ故郷の都もまた知らぬ他国同然となってしまったのです。どうか私の身の上に御同情下さいませ。きのうの雨やどりの折のお情ぶかさで、あなたはほんとうに実意のあるお方と思いますので、これから後の私の生涯をささげて、あなたのおそばにお仕え申しあげたい願いを持ちましたが、この私を、けがらわしい卑しい女だとお見捨てなさらないならば、この一杯で、末長い夫婦の契りをむすぶはじめといたしましょう」という。豊雄は、この言葉を聞くと、かねて自分もこうなることを内心望んでいたことであるし、一途にこがれて気も狂うばかりに思いつめた相手のことであるから、とびたつばかりによろこんだが、まだ親がかりで自由のきかないわが身のうえをふりかえると、親や兄の許しもうけていない結婚のことを、どう返事したらよかろうかと、うれしいなかにもおそろしさがつきまとって、すぐには返事の言葉も出ないでいると、真女児は返事のないのを心細く悲しがって、「あさはかな女心から、愚かなことを口にして、いまさらひっこみのつかないのが、ほんとうにお恥ずかしゅうございます。こんな天涯孤独で、人からうとまれるようなあさましい身のうえになりながら、海へとびこんで死にもせず、かえってあなた様のお心をわずらわしなどすることは、なんと罪ふかいことでございましょう。いま私が申しあげました言葉は、けっしてうそいつわりではございませんが、ただ酔って口にした冗談《じょうだん》とおぼしめして、どうかこの海へさらりとお捨て下さいませ」という。  豊雄は、「はじめから都の身分ある方とお見受け申しあげておりましたが、私の推察が当たっていたのですね。鯨の寄るようなこんな片田舎の浜辺に育った私にとって、あなたのような方からいまのようなうれしいお言葉を聞くなんて、まるでゆめのようです。即答をしなかったのは、私がまだ親や兄に面倒をみてもらっている身で、自分のものといっては、爪と髪、この身体以外になに一つもないからです。なにを結納《ゆいのう》としてあなたを妻におむかえしたものか、そのあてもないので、いまさらのように自分に財産のないのがくやまれて仕方ありません。それでも、あなたがそれを御承知で、なにごとにつけても貧しさを辛抱《しんぼう》して下さるお気持がおありならば、どんなにしてでもあなたを妻として、お力になりましょう。諺《ことわざ》に、孔子のような聖人も恋にはつまずき倒れるということがありますが、恋のためには、親への孝も忘れ、わが身の無力をも忘れて、私は――」というと、真女児も、「あなた様のそんなうれしい御心のうちをお聞きして、私は幸福でございます。このうえは、私どもも貧しい暮らしではございますが、どうか私の夫として時折はここへお通い下さいませ。ここに前の夫がこのうえない宝として珍重されていた太刀がございます。これをふだん腰におつけになって下さい」といって、差し出したのを見ると、金銀で美しく飾った太刀で、ものすごいまでに鍛えあげた古代の逸品であった。あまり立派なので、豊雄は一瞬ためらいを感じたが、めでたい婚約のはじめに辞退するというのも縁起がわるいと思って、そのままもらっておくことにした。「今夜はここで泊っていらっしゃいませ」と、真女児はしきりに止めたが、豊雄は、「まだゆるしをうけていないうちに外泊したら、親たちから叱られます。明日の晩、また、うまい口実をもうけて、きっとまいりますから」といって、その夜はそのままそこを辞去した。しかし、帰宅して床についてからも、目が冴えて眠れないでいるうちに、いつか夜があけてしまった。  太郎は漁師をよびあつめてそれぞれの仕事に就かせるために、朝早く起き出して、なにげなく豊雄の寝間のすきまから室内をのぞいたところ、消え残った灯火の光をうけて、きらきらとひかる立派な太刀を枕許において、豊雄が寝ているのである。「おや、変だな。どこから手に入れてきたのだろう」と、腑に落ちなく不安に思って、戸をあらあらしくガラリとあけると、その音に豊雄は目をさました。見ると、兄が立っているので、「お呼びですか」という。太郎は、「きらきら光ったすごいものを枕許においてあるが、それはなんだね。こんな立派な高価なものは、漁師の家には不似合だよ。父上が見つけたら、どんなにお叱りになるかしれないぞ」という。豊雄は、「お金を出して買ったものではありません。きのう、ある人がくれたのを、ここにおいたのです」とこたえる。すると、太郎は、「どうして、そんな立派な宝物をくれるような人が、この辺にいるだろうか。そんな人はいないよ。ふだんからこむずかしい漢字を書いた書物をいろいろ買いあつめるのさえ、ひどい無駄づかいだと思っていたが、父上がだまっていらっしゃるので、おれもいままでそのことはいわなかったのだ。その太刀を着《つ》けて、新宮の祭の行列に加わり、得々《とくとく》としてねり歩くつもりだろう。なんという狂気じみたことをするのだ、いい加減にしろ」というが、その声が高くなったので、父がこれを聞きつけて、「あの厄介者がなにかしでかしたのか。太郎。豊雄をここへつれてこい」と呼ぶ。太郎はそれにこたえて、「どこで買ったものか、豊雄が、まるで将軍でも佩《は》くようなきらきら光った立派な太刀を買いこんだようですが、ばかなことをしたものです。目の前におよびになって、よく問いただして下さい。私は、漁師たちが怠けているかもしれませんから、すぐ浜の方へ行ってきます」といい捨てて、出て行った。  母は、豊雄をよんで、「お前は、そんなものをなんのために買ったんだい。米も銭も、家のものはみんな太郎のものなんだよ。お前のものはなにひとつないんだよ。ふだんはお前のしたいままにさせてきたが、こんなことで太郎に憎まれたならば、この広い世の中に、どこにもいるところがなくなってしまうではないか。むずかしい本を読んで聖賢の教えなどを勉強している者が、どうしてこんなことの道理をわきまえないんですか」と、たしなめた。豊雄はそれにたいして、「ほんとうに買ったものではないのです。それ相当な理由があって、ある人がくれたのを、兄上が見とがめて、私が買ったようにおっしゃるのです」というと、そばにいた父が、「お前になんの手柄があって、そんな立派な宝物を、人がくれたというのだ。さっぱり腑に落ちないことだ。さあ、この場でその理由をいってみろ」と、声あららげていった。豊雄は、「そのことは、いまここでは恥ずかしくて申しあげられません。人を介して申しあげます」というと、父は怒って、「親や兄にさえいわぬことを、誰にいおうというのだ」と、一層声を荒くしていうのを、太郎の妻である嫂《あによめ》が、傍から、「まあ、そのことは、ふつつかではありますが、私がうかがいましょう。さあ、こちらへいらっしゃい」と、親たちと豊雄の仲をとりなして、豊雄を別室へいざなったので、豊雄も嫂のあとにならんで立ち、別室へ行った。  豊雄は、嫂にむかって、「兄上に見とがめられなくても、内々《ないない》、嫂上《あねうえ》に相談して力になって頂こうと思い定めていたのに、その前に見つかって早速叱られてしまいましたよ。じつはこうした素姓の人の妻で、いまは夫に先立たれて頼りない身になっている女《ひと》が、『結婚して、力になってくれ』といって、そのしるしに下さったものなのです。なにしろまだ部屋ずみで、独立していない私の分際で、親や兄のお許しをえていない夫婦約束をしたということは、きびしいお叱りをうけることでしょうから、いまさらのようにひどく後悔しているのですが、どうか私の気持を察して、嫂上《あねうえ》、同情して下さい」という。それを聞くと、嫂は、微笑をたたえて、「私も、かねがね、あなたが独身でいらっしゃるのがお気の毒だと思っていたのですが、そんな相手がみつかって、とてもいいことじゃありませんか。ふつつかな私ですが、うまくおはなししてみましょう」といって、その晩、夫にむかい、「じつはこれこれこうしたことなのですが、これはちょうどいいはなしだとはお考えになりませんか。どうかあなたからお父様に、いいようにとりなしておはなし下さい」といった。すると、太郎は眉をひそめて、「変だな。この国の国守の下役に、県《あがた》の何某という人がいたなどとは聞いたことがない。私の家は里長《さとおさ》をしているのだから、そういう人が亡くなられたのを耳にしないということはないがな。とにかく、その太刀をここにもってきてくれ」というので、妻はすぐにそれをもってきた。太郎は、それをつくづくとながめておわると、ふかい嘆息をもらしながら、口をひらいて、「ここに大変なことがあるのだ。それは、近ごろ、都の大臣が御祈願が成就なさったので、そのお礼として、権現《ごんげん》様にたくさんの宝物を御奉納になったのだ。ところが、その宝物が御宝蔵の中で、急に紛失したので、その由を権現様の大宮司から国守に訴え出られたのだ。そこで国守は、この盗賊を逮捕するために、次官の文室《ふんや》の広之《ひろゆき》を大宮司の屋敷につかわされ、いまもっぱらその盗賊の詮議をなさっていらっしゃるということを聞いた。それにつけても、この太刀はどうみても下役などの佩《は》くようなものではない。なお父上にもお見せしよう」といって、それを父の前にもっていって、「じつはこれこれこういうおそろしいことがあるのですが、どうしたらよろしいでしょう」といった。それを聞くと、父は真っ青になって、「これはとんでもない情ないことがおこったものだな。あの子は、日ごろ、他人のものはたとえ毛一本でも抜きとらないような子なのに、なんの因果でこんな悪心などおこしたのだろうか。このことが他人の口から露顕したならば、大宅《おおや》の家も断絶の憂きめにあうだろう。祖先にたいしても、また子孫のためにも、不孝の子を一人捨てるのは惜しくない。明日こちらから訴え出ろ」という。  太郎は、夜のあけるのをまって、大宮司の屋敷に行き、事の一部始終を申し出て、この太刀を見せたところ、大宮司は驚いて、「これこそたしかに大臣殿の献納したものです」というので、それを聞いて次官の広之も、「なおこのうえにも、紛失したものを糾明《きゅうめい》しよう。その男を召し捕ってまいれ」と命じた。そこで十人ほどの武士が、太郎を先に立てて、召し捕りにむかった。豊雄は、こんなこととはつゆ知らず、家で書見をしていたが、そこへ武士たちがふみこんで召し捕った。「なんの罪で捕らえるのですか」と抗弁したが、武士たちはそれを聞きいれずに、縛りあげた。これを見て、父母や太郎夫婦も、いまさらのように、「情ないことだ」と、どうしてよいかわからずに、嘆き悲しむだけであった。武士たちは、「お役所からお召しなのだ」「とっとと歩け」などと、豊雄を真ん中にとりかこんで、国司の庁へ追い立てて行った。次官は、豊雄をひきすえると、にらみつけて、「おまえが宝物を盗みとったというのは、前例のないほど重い国法を犯した罪だぞ。なお、ほかのいろいろの財宝はどこへ隠したのだ。あきらかに申せ」といった。これを聞いて、豊雄はやっと事態の真相がわかり、涙を流してこたえた。「私はけっして盗みをしたのではありません。じつはこれこれこういうわけで、県《あがた》の何某の妻が、前夫の佩《は》いていたものだといって、くれたのです。すぐここへその女《ひと》をよび出して、私に罪のないことをおたしかめ下さい」。次官は、この言葉にいよいよ激昂《げっこう》して、「わが下役に県の姓を名のる者はかつていたことがないわ。このうえ偽《いつわ》りをいうとは、ますます罪が大きいぞ」という。豊雄は、「こんなふうに捕らわれているのに、どうしてこのうえいつわりを申しあげましょうか。なにとぞあの女をよび出しておたずね下さい」という。そこで次官は、武士たちにむかって、「県の真女児という女の家はどこなのだ。この男をひったてて、その女を捕らえてこい」と命じた。  武士たちは、その命令をつつしんでうけると、また豊雄をひったてて、真女児の家へむかったが、そこへ行ってみると、いかめしく造ってある門の柱もいまは朽ちくさり、軒の瓦もおおかたは落ち砕けて、そこから忍ぶ草が垂れさがっているというありさまで、とても人がすんでいる家とは見えない。豊雄もこのさまをみて、まったく茫然自失した。武士たちは走りまわって近隣の者たちをよびあつめた。きこりの老人や米|搗《つ》きの男たちが、おそれておろおろしながらそこにうずくまった。一人の武士が、この男たちにむかって、「この家は何者が住んでいたのだ。県の何某の妻がここにすんでいるというのはほんとうか」とたずねると、鍛冶屋の老人がすすみ出て、「そんな名前はまったく聞いたこともございません。この家は、三年ほど前までは、村主《すぐり》の何某という人が、人も大勢使って家ゆたかにすんでおりましたが、九州に商品を積んで下ったところ、その船が行方不明になってしまい、その後は、家に残っていた人々もちりぢりになってしまって、それ以来、絶えて人のすんだことがないのに、この男がきのうこの家にはいったかと思うと、しばらくして帰って行きましたので、変だなと、それを見ていたこの塗師の老人がいっておりましたが」という。「ともかくも、なかの様子をよく見きわめて、殿に御報告いたそう」といって、武士たちは門をおしひらいて、中へはいった。  邸内は外よりもいっそう荒れはてていた。なおも奥の方へ進んでいった。前庭の植込みはひろびろとつくってある。池は水が涸《か》れて、水草もすっかり枯れ、野生の草木が生え放題に丈たかく生い繁って倒れかかっている中に、松の大木が風に吹き倒されて横たわっているのが、いかにも物凄いありさまだった。表座敷の格子戸をひらくと、不気味ななまぐさい風が、内部からさっと吹きおくられてきたので、武士たちは思わずもおそれまどって、うしろへさがった。豊雄は驚愕のあまり声もでずに、ただ嘆いていた。武士のなかに巨勢《こせ》の熊檮《くまがし》という大胆な男がいたが、「御一同、私のあとについておいでなされ」というと、板の間《ま》をあらあらしく踏みならして、先に進んで行った。床《ゆか》には塵が三センチほども積もっている。鼠が糞をしちらしたなかに、古い几帳《きちょう》を立てて、花のように美しい女が、ひとりですわっている。熊檮は、女にむかって、「国守がお召しであるぞ。すぐまいれ」と声をかけたが、女がこたえようともしないでいるので、近寄って捕らえようとした瞬間、地も裂けるかと思うほどの大雷が鳴りひびいた。武士たちは、逃げる間もなくて、そこに倒れた。しばらくして、そっと顔をあげて見ると、どこへ行ったのだろうか、女は影も形も見えなくなっていた。  なおよく見ると、床のうえに、きらきらとした立派なものがある。武士たちは、こわごわちかづいて見ると、高麗錦《こまにしき》、呉《くれ》の綾《あや》、倭文織《しずおり》、縑《かとり》、楯《たて》、矛《ほこ》、靫《ゆき》、鍬《くわ》などのたぐいで、いずれも権現から紛失した宝物であった。武士たちは、これをもって帰って、この奇怪なできごとを詳細に報告した。次官も大宮司も、妖怪のしわざであったことをさとり、豊雄の取調べをゆるやかにした。しかし、現に盗品をたずさえていたという当面の罪はまぬかれず、豊雄の身柄《みがら》は国守の役所にひきわたされて、牢に入れられた。大宅の父子は、多くの金をおくって、豊雄の罪をまぬかれようとしたので、百日ほどで赦免になることができた。「こうなっては世間へ顔出しすることも面目ありません。大和にいらっしゃる姉上を訪ねて、しばらくそこに身を寄せたいと思います」と、豊雄がいうと、親たちも、「ほんとに、こんなつらいめにあったあとというものは、とかく大病にかかったりするものだ。むこうへ行って、のんびりと何か月か暮らしておいで」といって、供の者をつけて、豊雄を大和へ旅立たせた。  豊雄の姉が嫁にいっている先は、大和の石榴市《つばいち》という所で、田辺《たなべ》の金忠《かねただ》という商人であった。田辺夫婦は、豊雄が訪ねてきたのをよろこび、またこの数か月来の災難に同情して、「いつまでもここにいなさい」といって、親切にいたわりなぐさめた。やがて、その年が暮れ、翌年の二月になった。この石榴市という所は、初瀬寺の近くであった。み仏の多いなかでも、この初瀬の観音様こそ、真に霊験あらたかであることは、遠く中国にまでその名声がなりひびいているというわけで、都からも田舎からもここに参詣する人が、春はとくに多かった。参詣人はかならずこの石榴市に宿をとるので、ここには旅人を泊める家が軒を並べていた。  田辺の家は、御灯明用の灯油・蝋燭・灯心の類を商っていたので、店内もせまいほどいっぱいに客がたてこんでいたが、その中に、都の人のおしのびの参詣とみえて、大そう上品で美しい女性が一人、侍女の少女を一人つれて、薫香を買いに立ち寄った。この少女が豊雄を見て、「旦那様がここにいらっしゃいますわ」というので、豊雄は驚いて、その方を見ると、なんとこれがあの真女児とまろやである。「あっ、おそろしい」と、豊雄はあわてて奥へにげかくれた。金忠夫婦は、「これはいったいなにごとだ」と聞く。豊雄は「あの妖怪がここまで追ってきました。あの二人の女に近寄ってはいけませんよ」といって、うろたえながらしきりに隠れようとするので、ほかの人々も「その妖怪はどこにいるのだ」と騒ぎだした。そこへ真女児がしずかに入ってきて、「みなさん、そんなに不思議がらないで下さい。旦那様もそんなにこわがらないで下さい。私のいたらぬ心から旦那様を罪にお堕《おと》し申しあげたことが悲しく、いらっしゃる所をさがしもとめて、くわしく事情もおはなしし、御安心していただこうと思って、御住居をお訪ねしておりましたのに、その甲斐あっていまこうしておめにかかれるとは、ほんとうにうれしく存じます。この家の御主人様も私の申しあげることをよくお聞きのうえ御判断下さいませ。私がもし妖怪などであったならば、こんな人出の多いところへ、しかもそのうえこんなのどかな昼日中に、どうしておめおめとあらわれることができるでしょうか。ごらん下さい。私の衣服には縫目があります。日にむかえば影もあります。この正しい道理をよく御判断になって、お疑いをお解き下さいませ」と語るのだった。  豊雄は、やっと少し人心地がついて、「お前がたしかに人間でない証拠は、私が捕らえられて、武士たちと一緒にお前の住居へ行ってみると、その前日とはうってかわってあきれるほどひどく荒れ果てて、まさにこれこそ妖怪のすむにうってつけの家に、お前がひとりでいたではないか。そして、人々が捕らえようとすると、晴天に突如として大雷をとどろかして、かき消すように姿を消したではないか。私は、それをこの目でたしかに見ているのだ。それをまた、私を追いかけてきて、なにをしようというのだ。すぐここから立ち去れ」といった。真女児は涙を流して、「ほんとうにそうお考えになるのはごもっともですが、私の申しあげることもすこしはお聞き下さい。あなたが役所へ召し出されたと聞いてから、平生なにかとめぐみをほどこしていた隣家の老人と相談して、これを味方にし、にわかに荒れ果てた野中の家のように様子をこしらえたのです。そして、武士たちがすんでに私を捕らえようとしたときに、雷のように物凄い音を響かせたのは、まろやがたくらみあざむいたことなのです。その後、私たちは舟にのって大坂の方へのがれましたが、あなたがどうしていらっしゃるか、その後の御様子を知りたいと思い、この初瀬の観音様に御願をかけましたところ、祈願の甲斐あって、昔の歌にある古河野辺《ふるかわのべ》の二本の杉の御霊験で、ここにまたうれしくもあなたと再会できたということは、ひとえに仏様の大慈大悲のかたじけないおめぐみをうけてのことでございます。あんな数々の宝物は、どうして女の私が盗み出せましょう。じつは前夫が悪心でしたことでございます。ここの道理をよく御判断下さって、あなたを慕う私の気持のほんの少しなりともお汲みとり下さいませ」といって、またさめざめと泣くのだった。  豊雄は、いまや、なかば疑いながらも、なかば真女児を憐れむ気持になって、どういってよいか、重ねていうべき言葉もなく、黙していた。金忠夫婦は、真女児のいいぶんが道理にかなって筋がとおっているうえに、その女らしい可憐なふるまいをまのあたり見て、すっかり疑念を去って、「豊雄のはなしでは、世にもおそろしいことだと思っていましたが、妖怪|変化《へんげ》が人間に化けてあらわれるというようなことのあるいまの御時世でもありますまい。遠くからはるばると訪ねあぐねていらした御心情は、ほんとうにお気の毒におもいます。豊雄が承諾しなくても、わたしどもが、あなたをこの家へお泊め申しあげます」といって、真女児を奥の一間へむかえいれた。真女児は、この家で一日、二日と暮らすうちに、金忠夫婦の気にいるようにその機嫌をとって、豊雄の怒りがとけるようにと、女心のあわれさを表に出して、ひたすら夫婦にとりすがって哀願した。夫婦も、その思いつめた真情のふかさに心うたれて、豊雄を説得し、ついに二人の結婚の式をあげさせた。豊雄も、日がたつにつれて、心のわだかまりがとけ、もともと真女児の美貌を愛していたことであるから、その交情はこまやかに、末長くかわるまいと契りをかわすにつけても、葛城《かつらぎ》の高間山《たかまやま》に夜ごと立つ雲は雨を降らせるが、初瀬寺の暁を告げる鐘とともにその雨もやむというように、雲となり雨となって夜毎にまじわる二人の仲はむつまじく、いまはただ、どうしてもっと早く逢っていなかったかと、再会の日の遅かったことを残念がるようなありさまだった。  月がかわって、三月になった。ある日、金忠が、豊雄夫婦にむかって、「都近辺の景色とはくらべものになりませんが、それでも紀州路とくらべるとまさっておりましょう。名高い吉野は、春は大そうよい所です。三船《みふね》の山《やま》といい菜摘川《なつみがわ》といい、ふだん見ていても景色が美しく、見飽きない所ですが、春もたけなわなきょうこのごろは、どんなにおもしろいことでしょうか。さあ、お支度をなさい。まいりましょう」と、誘った。真女児は、笑《えみ》をうかべて、「昔の歌に、よき人のよしとよく見てよしといひし、と詠《よ》まれた吉野のことですから、都の人も吉野の美景を見ないのを残念だと申しておりますが、私は幼いときから、人の大勢いる所へ出たり、長い道中を歩いたりしますと、かならずのぼせて苦しむという持病がございますので、せっかくではございますが、お供をして出かけられないのが、ほんとうに残念です。山のお土産をきっともってきて下さいませ。お待ちしております」というのを、金忠は、「それは、歩いていけば、持病もおこって苦しいことでしょう。しかし、都人のように牛車こそもっていませんが、どんなにしてでもかならず乗り物におのせして、土を踏ませはいたしませんよ。あなたが残っていらっしゃると、豊雄がどれほど気がかりに思うかわかりませんよ」といって、夫婦してしきりにすすめるので、豊雄も、「こんなに御親切におっしゃって下さるのだから、たとえ途中で歩けなくなっても、どうして行かないですますことができようか」という。そこで、真女児も不本意ながら、みんなと一緒に出かけたのである。人々はみんな花やかに着飾って出かけたが、真女児の上品な美しさの前には、とてもくらべものにならないように見えた。  吉野のある寺はかねてから金忠の家と懇意にしていたので、そこを訪ねた。あるじの僧が、一同を歓迎して、「今年の春はいつもより遅くおいでですな。もう桜も半分ほどは散ってしまい、鶯も晩春の流鶯で乱れ鳴きをするようですが、それでもまだいい方面がございますから、そちらへ御案内いたしましょう」といって、その夜は、手ぎわよくこざっぱりとつくった夕食の膳を出した。ここで一夜をあかし、翌朝眼をさますと、暁の空にふかく霞がたちこめていたが、それが晴れてゆくにつれて、あたりを眺めると、この寺は高い所にあって、ここかしこに散在する僧坊などが、手にとるようにはっきりと見おろされる。さまざまの山の鳥があちこちで囀《さえず》りあって、木の花、草の花が色とりどりに咲きまじっている風情は、おなじ山里とはいっても、ここはとりわけ、そのすがすがしさ、美しさに、目もさめるような心地がする。「はじめての方には、滝のある方面が、見物する所が多いでしょう」と、その方面にあかるい案内の人を頼んで出かけた。みちは谷をめぐっておりていく。やがて、むかし吉野離宮のあった所へ着いたが、ここは吉野川の激流が岩を噛み、音をたてて流れているなかに、春の小さな若鮎《わかあゆ》が流れをさかのぼって泳ぐ姿が見られ、目もまばゆいほどのおもしろい景色であった。一同は思い思いの場所に腰をおろして、弁当箱をひらき、食事をしながら、この行楽をたのしんだ。  むこうから、岩づたいにくる人がある。みると、髪は長い麻糸を丸くたばねたように白く乱髪であるが、手足はまことに丈夫そうな老人であった。そして、この宮滝のそばに歩いてくると、一同の様子を見て、ふしぎそうにひとみをこらしていたが、真女児もまろやもこの老人に背をむけて見ないふりをしていた。すると、老人は、この二人の方をじっと見つめて、「ふとどきなやつだ。この邪神め。なんで人をたぶらかすのだ。わしの目の前でこんなことをして、それでごまかせると思うのか」と、低い声でつぶやいた。それを聞くと、真女児とまろやはたちまち躍りあがるように立ち上り、激流めがけて飛び込んだかと思うと、とたんに水が大空に向かってわきあがり、二人の姿はその中に見えなくなってしまったが、そのとき黒雲が墨をこぼしたように空をおおい、雨が篠をつくようにはげしく降ってきた。老人は、一同があわてうろたえるのをしずめ、一同を引率して人里までくだった。 [#「吉野宮滝行楽の図」のキャプション付きの図(fig60609_08.png、横845×縦597)入る] [#ここからキャプション] 吉野宮滝行楽の図。大倭神社の神官当麻の酒人をみて、蛇の化身であった真女児とまろやは、あわてて激流にとびこもうとする。(原本三丁裏、四丁表の挿絵) [#ここでキャプション終わり]  一同は、人家のあるところまでくると、一軒のみすぼらしいあばらやの軒下に身をかがめて、生きた心地もせずにおののいていたが、老人は、豊雄にむかって、「よくよくそなたの顔をみると、この邪神のために悩まされておられるようだが、わしが救わなかったならば、早晩命をもなくしてしまっただろう。今後はよくよくおつつしみなさい」といった。豊雄は、額《ひたい》を地にすりつけるようにして、これまでのできごとをはじめからものがたり、「今後もどうか生命《いのち》の助かるようにして下さい」と、おそれうやまいながら願い出た。老人は、「案の定《じょう》そうであったか。この邪神は年を経た蛇《おろち》である。かれの本性は淫蕩《いんとう》なもので、牛と交尾しては麟《りん》を生み、馬と交わっては竜馬を生むといわれている。この邪神がそなたに憑《つ》いてたぶらかしたのも、結局そなたの美男ぶりにひかれて情欲をほしいままにしたと思われる。これほど執念ぶかいのだから、十分おつつしみにならないとおそらく命をなくしてしまうでしょう」というので、一同はますますおそれうろたえながら、また老人を崇《あが》めて、「人間の域を超えた尊い生神様《いきがみさま》に相違ない」と、みんな手をそろえて拝んだ。老人は、笑って、「いや、わしは神様などではない。大和神社《おおやまとじんじゃ》の神官をしている当麻《たぎま》の酒人《きびと》という年寄だ。おなじみちだから、道中見送って差し上げよう。さあ、まいりましょう」といって、先に立って歩き出したので、一同はそのあとについて、石榴市の家へ帰ってきた。  その翌日、豊雄は、大和神社のある所へ行って、昨日の老人に面会し、改めて御世話になった礼を述べ、また礼のしるしとして、美濃絹《みのぎぬ》三疋《みむら》、筑紫綿《つくしわた》二屯《ふたつみ》を贈って、「このうえともに、妖怪をはらいおとすおはらいをして下さい」と、つつしんで願い出た。老人は、この贈物をうけとると、他の神官たちに分配してやって、自分では一疋一屯もとらなかった。そして、豊雄にむかって、「あの畜生は、そなたの美男ぶりにひかれて、そなたにまつわりついているのだ。そなたもまたあの畜生が化けた美人に魅惑されて、男らしいしっかりした精神をうしなっている。今後は男らしく雄々しい勇気をふるいおこして、うわついた心をおしずめなさい。そうすれば、これくらいの邪神をおいはらうのに、この老人の力を必要とはしますまい。かならずかならず、心をおしずめなさいよ」と親切に説き諭《さと》した。豊雄は、いまや夢からさめたように、めざめた気持になって、お礼の言葉をいくたびもくりかえして、金忠夫婦の許へ帰ってきた。そして、金忠にむかって、「この年月、あんなものにまどわされていたのは、思えば私の心が正しくなかったからです。親や兄に仕えることもしないで、あなたの家の厄介になっておりますのは、すじのちがったことです。御親切はまことにありがとう存じますが、これでおいとまいたします。またきっとまいります」と挨拶すると、ふたたび故郷の紀州へ帰っていった。  父母や太郎夫婦も、大和でのおそろしかったことを聞いて、いよいよ豊雄自身があやまちをおかしたのでないことを知り、一層ふびんがるとともに、一方ではその妖怪の執念ぶかいのをおそれたのである。「こうして独身でおくから、そんなわざわいがおこるのだ。妻をもたせよう」といって、親たちは嫁さがしの相談をした。芝《しば》の里に、芝の庄司という人がいた。娘を一人もっていたが、長年、都の内裏《だいり》へ采女《うねめ》として御奉公にあげてあった。それがこの度お暇をもらって家へ帰ってくることになり、ついてはこの豊雄を聟《むこ》にほしいと、仲人をもって大宅の許へ申し込んできた。大宅の方でも乗り気になり、はなしが順調にはこんで、すぐに婚約をした。そこで、都へむかいの人をやると、この采女をしている富子《とみこ》という娘もよろこんで帰ってきた。長年の御所《ごしょ》づとめに馴れてきたので、万事の立居振舞から容姿なども、そこらの女とくらべると、数等華美で、洗練されていた。豊雄は、この芝の家に聟になってきてみると、妻の富子がすばらしい美人であり、万事に満足したが、それにつけても、あの蛇《おろち》の化身が自分に恋したときのことなども、少しばかり思い出されてこないではなかった。結婚初夜のことは、とりたてて書くほどのこともなかったので、省略する。  二日目の晩である。豊雄はいい気持に酔って、富子にむかい、「長年宮中生活をしていた身には、私のような田舎者はきっとお嫌いでしょう。かの御所などでは、なんの中将とかなんの宰相とかいう方と添臥《そいぶし》をなさったことでしょう。そのことがいまさらいっても仕方がないが、にくらしく思われますよ」などと、戯《たわむ》れかかると、富子は即座に顔をあげて、「以前からのふかい仲をお忘れになって、こんなとりたててすぐれてもいない、取柄のない女を御寵愛なさるなんて、いまあなたは私が憎いとおっしゃいましたが、憎いのはあなたの方でございますよ」という声は、姿こそかわっているが、まさしく真女児の声であった。それを聞くと、豊雄は、あまりのことにびっくりして、身の毛もよだって恐怖が全身をはしり、ただ茫然として、どうしてよいやら、うろたえるだけであったが、女は妖《あや》しい笑《えみ》をうかべると、「旦那様、そんな不思議そうなお顔をなさいますな。二人の契りは海よりもふかく、山よりも高く、永久にかわるまいとかたく約束したことを、あなたが、はやくもお忘れになったとて、前世からこうなるときまった因縁《いんねん》があるのですから、こうしてまたお逢いするのですのに、あかの他人のいうことをまにうけて、無理に私を遠ざけようとなさるならば、お恨みして、きっとその仕返しをいたしますよ。紀州路の山々がたとえどんなに高くても、あなたの血を峰から谷へそそぎおとしてみせましょう。折角のお命をむだになくしてしまうようなことをなさいますな」というのを聞くと、豊雄はおそろしさのためにふるえおののくばかりで、いまにもとり殺されはしまいかと、気をうしなうばかりだった。すると今度は、屏風のうしろから、「御主人様にはどうしてそんなおむずかりなさるのですか。こんなおめでたい御縁結びではございませんか」といいながら出てきたのは、まろやであった。それを見ると、豊雄はまた肝をつぶし、眼をとじて、うつぶせに倒れ伏した。真女児とまろやは、かわるがわるなにかいっては、なだめたりおどしたりしたが、豊雄はただ気絶したままで、その夜があけた。 [#「芝の庄司の娘富子にのりうつった蛇性の真女児が、新婚二日目の夜、酔ごこちになってたわむれた豊雄の前で、その正体をあらわす図」のキャプション付きの図(fig60609_09.png、横837×縦599)入る] [#ここからキャプション] 芝の庄司の娘富子にのりうつった蛇性の真女児が、新婚二日目の夜、酔ごこちになってたわむれた豊雄の前で、その正体をあらわす図。(原本十六丁裏、十七丁表の挿絵) [#ここでキャプション終わり]  こうして朝がきたので、やっと寝室をぬけ出した豊雄は、舅の庄司にむかって、「これこれこうした恐ろしいことがあるのです。この災難をどうしてさけたらよいでしょうか。いいお考えをお聞かせ下さい」といいながらも、うしろで聞いていはしないかと、声をひそめてはなすのだった。庄司も妻も真っ青になっておろおろと嘆きかなしみ、「これは、どうしたらいいだろう。そうだ。都の鞍馬寺のお坊さんで、毎年、熊野三山へ詣でる方が、きのうからむかいの山の寺に宿っている。たいへん加持祈祷の効験あらたかなお坊さんで、およそ流行病とか物《もの》の怪《け》とか稲虫《いなむし》などの害を祈祷調伏することがうまいといって、この里の人はみんな尊敬している。このお坊さんを頼んで祈祷してもらおう」といって、急いで召使に命じてよびにやったところ、しばらくしてやってきた。そこで、こういうわけだと事情をはなすと、この法師は鼻を高くして、「そんな蛇性をとりおさえるのは、大したむずかしいことではあるまい。まあ、どうか安心していらっしゃい」と、いかにもたやすそうにいうので、人々もそれをきいて、ほっと安堵《あんど》する思いだった。法師はまず雄黄《ゆうおう》をもとめて、それをもとに水薬を調合し、小瓶《こがめ》にいっぱい満たすと、それをもって寝室にむかった。そして、家人たちがおそれて身をかくそうとするのをあざわらいながら、「御老人もお子たちも、そこにいらっしゃい。この蛇《おろち》をいますぐつかまえてお見せしましょう」といって、その部屋の入口にすすんだ。法師が、部屋の戸をあけるやいなや、待ちかまえていたように、かの蛇が頭を出して、法師にむかってきた。この頭はいったいどのくらいあったと思うか。とにかく物凄いもので、部屋の戸口いっぱいになり、色は雪を積んだよりも白く、きらきらと輝いて、眼は鏡のように、角はまるで枯木の如く、一メートルあまりの口を開いて、真っ赤な舌を出し、いまにも法師を一口に呑みこみそうな勢いであった。「うわーっ」と叫ぶと、法師は、手にのせていた小瓶をその場に投げすてて、腰をぬかし、ころげまわり、這い倒れて、やっとのことでそこを逃げ出し、家人にむかって、「ああ、おそろしい。憑物《つきもの》や物の怪《け》ではなく、祟《たた》りをなさる御神であらせられるのに、どうして私|風情《ふぜい》のものがこれを調伏申しあげることができようか。もしこの手足がなかったら、きっと命をとられてしまったでしょう」といいながら、気をうしなった。人々がこれを扶《たす》けおこしたが、そのときはすでに顔も手足も、いちめんに黒く赤く染めたようになり、肌のあつさはまるで焚火に手をかざすのとおなじようであった。蛇の毒気にあたったと見えて、息を吹きかえしてからも、ただ眼ばかりきょろきょろうごかして、ものいいたげであったが、声さえ出ないというありさまだった。そこで、水をかけたりしたが、ついに死んでしまった。これを見ていた人々は、ますます生きた心地もなく、おろおろしながら泣くのだった。  豊雄は、すこし心をしずめて、「こんなありがたいお坊さんでさえも調伏できないで、執念ぶかく私につきまとうのですから、私がこの世に生きているかぎりは、さがし出されてつかまってしまうでしょう。自分の一命の安全のために、人々を苦しめることは、誠実なことではありません。いまはもう人の力をかりますまい。私も覚悟しました。どうか御安心下さい」というと、再び寝室に行こうとするので、庄司の家の人々も、「これは気でも狂われたのですか」といってとめたが、豊雄は、いっこうに知らぬ顔で、寝室へ行った。戸をしずかにあけてみると、室内は外のさわぎをよそに静まりかえっていて、富子(真女児)と侍女(まろや)がむかいあってすわっていた。豊雄がはいって行くと、富子は、「あなたはなんのうらみで、私を捕らえようと、ほかの人を頼まれるのですか。今後も、敵意をもって私におむくいになるのでしたら、あなただけではなく、この里の人々をみんな苦しい目にあわせますよ。あなたはただ私の貞節をうれしいことだとおぼしめして、うわついた浮気心をおおこしなさいますな」と、ひどくなまめかしいしな[#「しな」に傍点]をつくっていうが、それも豊雄には気持がわるかった。豊雄は、「世間の諺《ことわざ》にもいわれているが、『人間には虎を殺すつもりはちっともないのに、虎の方でかえって人を傷つける気持がある』とかいうことだ。お前は人間とちがったある種の心で、私につきまとい、いままでも幾度か私をひどいめにあわせてきたことさえあるのに、そのうえ、ほんのちょっとした言葉にさえも、こんな聞くだにおそろしい報復のことをいうなんて、とても気味が悪いよ。しかしまた、私を慕う気持は、ちっとも世間一般の人とかわりはないのだから、これ以上この家にいて、家の人たちに嘆きをかけるのは気の毒だ。とにかく、この富子の命だけは助けてほしい。そのうえで私をどこへなりと連れていくがいい」というと、女は、ひどくうれしそうに、何度も頭をふってはうなずいた。  豊雄はまた部屋を出て、庄司の許へきて、「私の身にはこんな情けない魔性のものがとり憑いていますから、これ以上ここにいて、皆様をお苦しめ申しあげることは、私としてもはなはだ不本意なことです。いますぐに私を離縁して、この家から出して下さるならば、令嬢の命も御無事だと存じます」というが、庄司は、それをどうしてもききいれないで、「私とてもいささか武芸のたしなみある身でありながら、こんな不甲斐ないことでは、大宅《おおや》の家の方々がどうお思いになるかと思うと、面目がありません。今後ともよく考えて対策をこうじてみましょう。小松原《こまつばら》の道成寺《どうじょうじ》に、法海和尚《ほうかいおしょう》という、ありがたい御祈祷をして下さるお坊さんがいらっしゃるのです。いまでは年老いて部屋の外へも出ないと聞いていますが、私のためでしたら、どんなにしてでもかならずお見捨てはなさいますまい。そこへ行ってきますから、待っていて下さい」というと、馬にまたがって急いで出て行った。かなりの道のりなので、夜中になって道成寺へ着いた。庄司の来訪に、老和尚は寝室からいざり出て対面し、庄司の口からこのてんまつを聞くと、「それはさぞ御困惑のことでございましょう。愚僧もいまでは老いぼれて、祈祷の効験がありそうにも思えませんが、だからといって、ほかならぬ貴殿の家にふりかかった災難を、だまって見捨てておくわけにはいきません。まあ、先にお帰りなさい。愚僧もあとからすぐに参上いたします」といって、芥子焼《けしやき》の香《こう》のよくしみこんだ袈裟《けさ》をとり出して、庄司にわたし、「その魔性をうまくだましよせて、これを頭からかぶせ、力いっぱい押しふせなさい。力をぬくと、おそらく逃げ出しますよ。心に仏を祈念して、力をこめてしっかりとうまくおやりなさい」と、ねんごろに教えた。庄司はよろこびながら、また馬をとばして家へ帰った。  帰宅するとすぐに、こっそり豊雄をよんで、和尚からいわれたことを伝え、「このことをうまくやって下さい」といって、かの袈裟をわたした。豊雄は、これをふところにかくして、寝室に行き、女にむかって、「庄司も、いまはやっと暇をくれました。さあ、いらっしゃい、出かけましょう」といった。それを聞くと、女はひどくうれしそうな様子をした。そのすきを見て、豊雄は、ふところから袈裟をとり出すと、すばやく女の頭からかぶせ、力のかぎりこれを押しふせたので、女は、「ああ、苦しい。お前は、どうしてこんなにつれないのだ。ちょっとこの手をゆるめてくれ」とわめいたが、ますます力まかせにおさえつけた。まもなく法海和尚の乗った輿《こし》が邸内にはいってきた。庄司の家の人々に扶けられるようにして、和尚はこの部屋においでになり、口の中で小声に呪文を唱え、祈念されながら、豊雄をどかして、おさえていた袈裟をとりのけて、その下を御覧になると、富子が正体なくうつ伏せになっているうえに、一メートル余りの白い蛇がとぐろを巻いて微動だにしないでいる。老和尚はこれを捕らえて弟子の捧げもった鉄鉢においれになった。そのうえさらに祈念をこらされると、屏風のうしろから、三十センチほどの小蛇がはい出してきたが、これも捕らえて鉄鉢においれになり、かの袈裟でよく鉄鉢をくるみ、法力をもって蛇を封じこめられると、そのまままた輿におのりになったので、この家の人々は、手を合わせ、感涙を流して、うやうやしく頭をさげ、お見送りした。  和尚は道成寺へお帰りになると、本堂の前をふかく掘らせて、鉄鉢をそのまま埋めさせ、未来|永劫《えいごう》、この蛇が世に出ることをかたく禁じられた。いまもなお道成寺には、蛇《おろち》が塚《つか》が残っているということである。一方、庄司の娘富子は、これがもとでついに病気にかかり、死んでしまった。豊雄の方は、無事に生きのびたと語り伝えられている――。 [#改ページ] [#1字下げ][#中見出し]雨月物語 巻之五[#中見出し終わり] [#1字下げ][#小見出し]青頭巾(あおずきん)[#小見出し終わり]  昔、快庵禅師《かいあんぜんじ》という仏徳高い聖僧がいらっしゃった。幼少より禅宗の本旨をあきらかにされて、つねにその身を諸国|行脚《あんぎゃ》の修行にゆだねて暮らしておられた。ある年、美濃《みの》の国の竜泰寺《りょうたいじ》で夏安居《げあんご》の修行をすまされると、この秋は奥羽地方に滞在しようと、そこを出立して東国にむかわれた。旅を重ねて、やがて下野《しもつけ》の国におはいりになった。  この国の富田という里についたとき、日がとっぷりと暮れてしまったので、大きな構えの、いかにも裕福そうな家の前に立って、一夜の宿をお頼みになったところ、折から田畑から帰ってきた男たちが、夕暮の薄闇の中に、この僧が立っているのを見て、たいへんおびえたようなようすをして、「山の鬼がきたぞ。みんな出てこい」と、大声でわめいた。この声を聞いて、家の中でも急にさわぎはじめ、女子供は泣き叫び、ころげまわって、目につかぬ物かげや片隅にかくれた。この家の主人とおぼしき男が、先のとがった天秤棒《てんびんぼう》を手にして、走り出してきたが、薄闇のなかに外の方をすかして見ると、年のころ五十にちかい老僧が、頭に紺染の頭巾《ずきん》をかぶり、身に墨染の破れ衣を着て、包みを背負って立っている。そして、主人の姿を見ると、手にした杖をあげて招くようにしながら、「御主人、なんでこんなに厳重に御用心なさるのですか。諸国遍歴の僧が、今夜一夜だけの宿をお借りしようと思って、ここでどなたか出ていらっしゃるのを待っておりましたのに、それをこんなにまであやしまれようとは思いもかけませんでした。こんな痩坊主が強盗なんかするはずもないのに、まあ、どうか怪しまないで下さい」といった。そこで主人も、天秤棒を捨てて、手をうって笑い、「彼等の見さかいのつかない間違いのために、旅の御僧をおどろかし申しあげて、あいすみませんでした。一夜の宿をおもてなしして、ただいまの罪ほろぼしをさせて頂きたいと存じます」というと、うやうやしくお辞儀をして、奥の方へ案内し、気持よく夕食の膳をすすめてもてなしたのである。  食事がすむと、主人は口をひらいてつぎのようなはなしをした。「先刻、小作人たちが御僧を見て、鬼がきた、とおそれたのも、じつはそれ相当な理由があってのことでございます。おはなし申しあげますと、ここに世にもまれなことがあるのでございます。それはまことに不思議なはなしでございますが、世間の人々にも語り伝えて下さい。この里の上の山に一つの寺がございます。もとは小山氏《おやまうじ》の菩提所《ぼだいしょ》で、代々、徳の高いお坊さんが住職となってすんでおられました。いまの住職は、しかるべき方の甥御《おいご》さまで、ことに学問もふかく修行も積んでいるという評判が高く、この国の人々は、香華や蝋燭の御布施をあげて信仰いたしました。私の家へもしばしばおいでになって、私どももとてもうちとけて御交際しておりましたが、去年の春のことでございました。越《こし》の国《くに》へ灌頂《かんじょう》の戒師として招聘《しょうへい》され、百日余り御逗留なさいましたが、その国から十二、三歳ぐらいの童子をつれておかえりになり、身のまわりの世話などさせられました。そのうち、その子のすがたかたちが上品で美しいのを、ふかく御寵愛あそばされて、長年専念されてきた仏道修行のことなども、いつとはなく怠りがちになられたようにお見うけされました。ところが、今年の四月ごろでございます。その子がほんのちょっとした病気で床につきましたが、日がたつにつれて病が重くなってきましたので、住職はそれをたいへん御心痛になられて、国府の官医の立派な先生までおよびして、お診《み》せになりましたが、その甲斐もなく、ついにその子はなくなってしまいました。さながら大切な懐中の珠玉をうしない、髪や冠にさしていた花を嵐のために吹き散らされたときのように、いつくしみ愛していたものをうしなって、悲嘆の淵にしずみ、泣くにも涙さえ出ず、叫ぶにも声さえ出ないというほどでございましたが、あまりにお嘆きになられたので、その遺骸を荼毘《だび》にふし、土に葬ることもなさらずに、死体の顔に御自分の顔をくっつけ、死体の手に御自分の手を組んで、幾日かおすごしになられましたが、ついに気が狂って、その子が生きていたときとおなじようなたわむれをされながら、その肉が腐爛《ふらん》するのをおしんで、肉を食い骨をしゃぶって、とうとうすっかり食いつくしてしまったのです。寺にいた人々も、『住職はついに鬼になってしまわれた』と、おどろきあわてて寺を逃げ出してしまいましたが、その後は、住職は夜ごと夜ごと里に下って里人を襲ってはひどく驚かし、あるときは墓をあばいてまだ死んでまもない屍肉《しにく》をくらうというありさまで、実際鬼というものは、昔ばなしには聞いてもいましたが、まのあたり住職がその鬼になられたのをこの目で見たのでございます。しかし、私どもの力ではどうしてこれをとりおさえ、やめさせることができましょう。ただどの家でも、日暮れになるとかたく戸をとざしてしまうより仕方がありませんでしたので、近ごろではこのことが国中に知れわたって、そのために人々の往来さえなくなってしまったのでございます。じつはそういうわけがあったので、御僧をも鬼と見あやまったのでございます」と、語った。 [#「人間の肉を食う悪鬼と化した山寺の僧が、里人を追いかけてとらえようとしている図」のキャプション付きの図(fig60609_10.png、横844×縦601)入る] [#ここからキャプション] 人間の肉を食う悪鬼と化した山寺の僧が、里人を追いかけてとらえようとしている図。(原本三丁裏、四丁表の挿絵) [#ここでキャプション終わり]  快庵は、このはなしをお聞きになると、「世間には不思議なこともあるものでございますな。およそ人間と生まれて、仏や菩薩のお教えの広大なこともしらないで、愚かなまま、心ねじけたままに一生を終るものは、その愛欲、邪念の悪業《あくごう》にひきずられて、あるときはそれが生前の獣の姿になって恨みをはらしたり、またあるときは鬼となったり蟒《みずち》となったりして祟《たた》りをするという例は、昔からいまにいたるまで数えきれないほどであります。そうかと思うと、生きながら鬼になる者もおります。楚王《そおう》に仕えた女官は蛇《おろち》となり、王含《おうがん》の母は夜叉《やしゃ》となり、呉生《ごせい》の妻は蛾となったのであります。また、昔、ある僧が下賤の者の家に一夜の旅のやどりをしたところ、その夜は雨風がはげしく、灯火さえないので、心細く淋しくて、寝るにも寝られずにいると、夜ふけて羊の鳴く声が聞えてきたが、それからしばらくして、僧の眠りをうかがうように、しきりに体のあちこちを嗅ぎまわるものがある。僧は怪しいやつだと思って、枕許においた禅杖《ぜんじょう》を手にすると、それで怪物を力まかせになぐりつけたところ、大声をあげてそこに倒れた。この音に、この家の主人である老婆が灯《ひ》をつけてやってきたので、それで照らして見ると、若い女がそこに倒れていた。それを見ると、老婆は泣きながら、この女の命だけは助けてくれと懇願した。どうにも仕方がない。まさか殺すわけにもいかないので、そのままにして、旅僧はその家を出たが、その後またついでがあったので、その里を通ったところが、田圃《たんぼ》の中におおぜい人があつまって、なにか見物している。旅僧も立ち寄って、『なんですか』とたずねたところ、里人がこたえて、『鬼になった女を捕らえたので、いま土に埋めているのです』といったということです。しかし、こうした例はいずれも女に関したことで、いやしくも男たるものがそんなものに化けたというはなしを聞いたことがありません。およそ女の思いつめる、心ねじけた性質から、そんなあさましい鬼にも化するものであります。もっとも男でも、隋《ずい》の煬帝《ようだい》の臣下に麻叔謀《ましゅくぼう》というものがあって、これが小児の肉を好んで、ひそかに民間の小児をさらい、その肉を蒸して食ったということはありますが、これはあさましい野蛮な心からしたことであって、いま御主人のおはなしになったこととはちがいます。それにしても、その僧が生きながら鬼になったのこそ、過去の因縁のむくいというものでありましょう。そもそもふだん修行につとめ徳をつむのにすぐれていたというのは、仏に仕えることに真心をつくしたからであって、もしその子を側近くおいて世話をしなかったならば、あっぱれ立派な僧になるべきはずであったのに、惜しいことをしました。いったん愛欲の迷路にさまよって、救いようのない煩悩《ぼんのう》の火にその身をやかれて、鬼と化したのも、ひとえに一本気で思いこんだらどこまでもつらぬきとおす強気な性質がそうさせたのであります。『心をゆるめれば妖魔となり、心をひきしめて仏に仕えれば仏になることができる』というのは、この僧がそのよい実例であります。拙僧がもしこの鬼を教え導いて善なる本来の心にかえらせることができたならば、今夜のおもてなしにたいする報恩ともなることでしょう」と、快庵は、身を挺してこの鬼を教化《きょうげ》し、人々の苦しみを救おうと決意されたのである。主人は、頭を畳にすりつけるようにして、「御僧がそのことをして下さったならば、この地方の人々は極楽にでも生まれかわったような気がすることでございましょう」と、感涙にむせんでよろこんだ。山里に宿ったこととて、近くに相当な寺もなく、貝や鐘の音も聞こえない静かな夜に、二十日あまりのおそい月も出て、古戸のすきまから月光がもれてくるのに、ようやく夜もふけたことに気づいて、主人は、「さあ、おやすみ下さい」というと、自分も寝室へ引きとった。  山寺には誰もすみついていないと見えて、楼門には茨《いばら》が生いかかり、経閣《きょうかく》も見捨てられたまま苔が生えている。本堂の方は、蜘蛛が巣をはって、それが仏像と仏像との間いちめんにかかり、燕の糞が護摩壇《ごまだん》をうずめて、方丈も廊房もすべていいようのないくらいものすごく荒れはてている。日が西の方に傾くころ、快庵禅師はこの寺に足をふみ入れて、手にした錫杖《しゃくじょう》をならされ、案内を乞うて、「諸国遍歴の僧でござるが、今夜一夜の宿をお貸し下され」と、幾度も声をかけたが、いっこうに返事がない。やっと、寝間から痩せこけた僧が、力ない足どりでよわよわと出てきて、禅師を見ると、ひからびたしわがれ声で、「御僧はどこへ行くつもりで、ここへこられたのか。この寺はわけあってこんなに荒れ果て、人もすまぬ野原同然の破寺《やれでら》となったので、一粒の食糧もなく、一夜の宿をかすことのできる用意もない。はやく里に下られよ」という。そこで、禅師は、「拙僧は、美濃の国を出て奥州へ行く途中でござるが、この麓の里を通りかかると、山の形といい水の流れといい、じつにすばらしいので、心ひかれて思わずもここにまいったのでござる。すでに日も傾いたのでこれから里に下るというのも、道遠くたいへんなことと存ずる。ぜひに一夜の宿だけをお貸し下され」という。あるじの僧は、「こんな荒れ果てた所はよくないこともあるものですぞ。だから、しいておとどめもできない。さりとて、たって出て行けというわけでもない。御僧の心まかせにされるがよい」といったきり、二度とものをいおうとしない。禅師もそれ以上一言もいわずに、堂にあがって、あるじの僧の傍に座をしめた。秋の日はつるべおとしで、見る見るうちに日はすっかり沈んで、宵闇《よいやみ》の夜がほとんどまっくらになったのに、灯もつけないので、一寸さきさえよく見えないが、ただ谷川の水音だけが耳近く聞こえてくる。あるじの僧も寝間へ入ったまま、その後は物音ひとつさせない。  夜がふけて、月夜になった。月光は玲瓏《れいろう》として、すみずみまでもあかるく照らし出した。ちょうど真夜中ちかいと思われるころ、あるじの僧が寝間から出てきて、あわただしくなにかさがしものをはじめた。しかし、さがし当たらないらしく、大声で、「くそ坊主め、どこへ隠れたのだろうか。たしかここにいたはずだが」と叫びながら、禅師の前を幾度も走り過ぎたが、いっこうに禅師を見ることがない。本堂の方へ駆けて行くかと思うと、庭へおりて、ぐるぐるまわりながらおどりくるい、とうとう疲れて倒れ伏したまま起きあがらなくなった。やがて夜があけて朝日が出ると、ちょうど酒の酔いが醒めたような様子で、あたりを見まわしたが、禅師がもとの場所にすわっているのを見ると、ただ茫然自失、ものもいえないで柱にもたれ、ふかいためいきをついたきり、だまっていた。禅師は近づいて、「院主《いんじゅ》、なにをお嘆きでいらっしゃるか。もしひもじくいらっしゃるならば、拙僧の肉を食って腹をいっぱいにされるがよい」と声をかけた。あるじの僧がいった。「御僧は夜通しそこにおいででございましたか」。禅師がこたえた。「ここにいて一睡も致さぬ」。あるじの僧は、さらに「私はあさましくも人間の肉を好んで食べてまいりましたが、まだ生き仏のような高僧の肉の味を知りません。御僧はまことに仏でござる。私の鬼畜の如くくらんだ眼をもって、生き仏が眼前においでになったのを見ようとしても、見ることができないのも道理であります。ああ、もったいないことだ」というと、頭をたれて、口をつぐんだのである。  禅師は、言葉をついで、「里人のはなすのを聞くと、その方はいったんの愛欲に心みだれてから、たちまち鬼畜になりさがったということであるが、それはあさましいとも哀れともいいようのないくらい、たぐいまれな悪因縁である。夜ごと夜ごと里に出て人に害をおよぼすから、ちかくの里人たちは不安でたまらないのだ。私は、これを聞いて、見捨てておくことができず、わざわざここにきてその方を教化し、善なる本来の心にたちかえらせようとするのだが、その方は私の教えを聞くつもりがあるか、どうか」とたずねた。あるじの僧はこたえて、「御僧はまことに生き仏です。私のおちいったこんなあさましい悪業《あくごう》を、すぐにでも忘れられる道理をお教え下さい」といった。禅師は、「その方が、私の教えを聞くというのならば、ここへくるがよい」といって、縁側の前のたいらな石のうえに、この僧をすわらせて、自分のかぶっておられた紺染の頭巾をぬいでこの僧の頭にかぶらせ、証道歌《しょうどうか》の二句を解いてみよとお授けになった。 [#ここから2字下げ] 「江月照松風吹《こうげつてらししょうふうふく》   永夜清宵何所為《えいやせいしょうなんのしょいぞ》 [#ここから5字下げ] (月は入江をてらしてあかるく、岸辺の松を吹く風は松籟《しょうらい》を聞かせる。この秋の夜長、清らかな宵の景色はいったい何のためであろうか。自然のままのすがたである。しかし、大自然のすがたは結果において自他をきよめている。これ自然の摂理である。その真意を理解すれば、人はおのずから真理を会得できる。これが禅定である) [#ここで字下げ終わり] その方、この場を去らずに、じっくりとこの二句の真意を探求せよ。真意が解けたときは、おのずから本来身にそなわっていた仏心にめぐりあうことができるであろう」と、ねんごろに教えさとして、山を下られたのであった。この後、里人は鬼のひどい災厄からのがれることができたが、それでもやはり山寺の僧の生死をはっきりと知らないので、疑いおそれて、人々は山へのぼることをたがいにかたくいましめあった。  一年がはやくもたって、翌年の冬十月初旬、快庵禅師は、奥州方面よりの帰途、再びこの富田の里を通られたが、前年あの一夜の宿をしてくれた主人の家に立ちよって、山寺の僧のその後の様子をおたずねになった。主人は、よろこんで快庵をむかえて、「御僧の広大な徳によって、鬼が二度と山を下らなくなりましたので、里人はみんな極楽にでもうまれかわったような思いでおります。しかし、まだ山へ行くことはおそろしがって、一人としてのぼるものはありません。それゆえに、鬼がどうなったか、その様子は存じませんが、どうしていままで無事に生きているでしょうか。とても生きているとは思えません。今夜のお泊りに、あの僧の成仏冥福をお祈り下さいませんか。私どもみんな一緒に回向いたしましょう」という。禅師は、「あの男が善行のむくいで往生したというのならば、仏道成仏の道においては、拙僧の先輩の師ともいうべきであります。もしまた生きているときは、拙僧にとっては一人の弟子であります。いずれにしてもその後の様子を見とどけなければなりますまい」といって、再度、山へおのぼりになったが、なるほど主人の言葉どおり、人の往来がまったく途絶《とだ》えていると見えて、これが去年踏みわけた道とおなじだとは思えないほどであった。寺にはいって見ると、荻《おぎ》・薄《すすき》が人の背丈《せたけ》よりも高く生い茂り、草木におく露はまるでしぐれのようにはらはらと降りこぼれているうえに、寺内の草生いたこみちさえどこがどこやらはっきりわからず、その中に、本堂や経閣の戸がくさって倒れたままになっており、方丈から庫裡《くり》にかけめぐらされた廻廊も朽ちた木目に雨気を含んで苔むしている。さて、かの僧をすわらせた縁側のあたりをさがしてみると、まるで影のように痩せ細った人が、僧侶とも俗人とも区別のつかないまでに髭《ひげ》も髪もぼうぼうと乱していたが、雑草がからみあい、薄《すすき》が一面に靡き伏しているなかに、蚊のなくほどの細い声で、なにをいっているのかはっきりと聞きとれないように、ぶつぶつとつぶやいていた。耳をすますと、とぎれとぎれに唱える言葉は、 [#ここから2字下げ] 「江月照松風吹《こうげつてらししょうふうふく》   永夜清宵何所為《えいやせいしょうなんのしょいぞ》」 [#ここで字下げ終わり] という、例の証道歌の二句であった。  禅師は、この男をじっとごらんになっていたが、やがて禅杖をとりなおすと、「作麼生《そもさん》、なんの所為《しょい》ぞ」と一喝して、その男の頭を撃ちすえられた。すると、氷が朝日にてらされてたちまち消えてしまうように、この男の姿はたちまち消えうせ、あとにはただ、かの青頭巾と骨だけが、草葉の上にのこされただけであった。まことに長い間の執念が、ここにいたってまったく消えつくしたのであろう。そこには尊い仏教の道理・教訓というものがあるのであろう。  そうしたわけであるから、禅師の広大な徳は遠い国々から外国にまで知れわたって、人々は、「開祖達磨大師がまだ生きているようだ」とほめたたえたということである。その後、この里の人たちがあつまって、寺内をきよめ、修理をほどこし、禅師を推戴《すいたい》して、この寺の住職として住んでもらうようにしたので、それまでの真言宗を改宗して、曹洞宗のありがたい寺をおひらきになったのである。この寺は、大平山|大中寺《だいちゅうじ》として、いまなお尊く栄えているということである。 [#改ページ] [#1字下げ][#小見出し]貧福論(ひんぷくろん)[#小見出し終わり]  奥州、蒲生氏郷《がもううじさと》の家中に、岡左内《おかさない》という武士があった。高禄で名望高く、勇名を東国一帯にとどろかしていた。ところが、この左内には、人とはちがったたいへん偏《かたよ》った性質があった。それは、金をたくわえ富貴になることを願う心が、世間一般の武士とはちがってひどく強いことだった。そのため、倹約を家訓として家内をとりしまったので、年を経るにしたがって、家が富みさかえてきた。そのうえ、武をねり兵を訓練するひまにも、ほかの武士のように、茶の湯・香道などの風流|韻事《いんじ》にあそぶことをしないで、一室にたくさんの金貨を敷きならべて、それをみて心をなぐさめるというふうで、それは世間の人が秋の月や春の花の風流にあそぶこと以上のたのしみであった。そのために、人々はみんな左内のふるまいを、奇怪なこととあやしんで、あれは吝嗇《りんしょく》で根性いやしい無風流者だと、爪はじきをして憎んだ。  自分の家に久しく使っている下男に、金貨を一枚ひそかに所持しているものがあるということを聞き知った左内は、その下男をよびよせていった。「たとえ天下の名玉|崑山《こんざん》の璧《たま》でも乱世には瓦や石ころ同然、無価値に等しいものだ。こんな乱世にうまれて、武士として生きるものにとっては、ほんとうにほしいものは棠谿《とうけい》・墨陽《ぼくよう》の如き名剣であり、それにくわえて財宝である。しかし、どんな良い剣であっても、一剣をもって千人の敵をむかえうつことはできない。それにくらべて、金の力というものは、よく天下の人々をもなびきしたがわせるものだ。したがって、武士たるものはこれを軽々しく考え、粗末に扱ってはならない。かならずこれを大切に貯蔵すべきである。おまえが賤しい分際で、分《ぶん》にすぎた金をもっているのは、殊勝なことだ。褒美を与えよう」といって、十両を与え、そのうえ、帯刀を許して士分にとりたてた。人々はこれを伝え聞いて、「左内が金をためているのは貪婪《どんらん》強欲《ごうよく》というような類《たぐい》ではないのだ。ただ当世にはめずらしい一奇人なのだ」と、いまさらのように、ほめそやした。  その夜、左内は、枕もとに人のきた気配がしたので、目をさまして見ると、行灯《あんどん》のそばに、小さな老人がにこにこ笑ってすわっていた。左内は、枕から頭をあげて、「そこへきたのは誰だ。おれに食物でも借りようとするならば、もっと腕っぷしの強い男どもでもきそうなものではないか。それを、お前のようなおいぼれたやつが、おれの眠りをさましにやってきたとは、狐か狸が化けたのだな。おい、なにか習いおぼえた術でもあるだろう。秋の夜のねむけざましに、ちょっとその芸当でもしてみせろ」といって、いささかも動ずる様子をみせない。すると、老人はこたえて、「いや、ここへ参上いたしました私めは、魑魅《ちみ》でもなければ、人間でもありません。ふだんあなたが大事になさる黄金の精霊です。あなたが長年、手厚く遇して下さったのがうれしくて、夜ばなしでもしようとおもって推参したのです。あなたがきょう、召使をほめて褒美を与えられたのに感激して、私がふだんから思っている心のうちなどおはなしして、気持でも晴らそうと思い、かりにこんな姿に身をかえてあらわれたのですが、私のはなしですから、十に一つも役にたたないような無駄ばなしではありますが、さればといって、いいたいことをいわないでおくのも腹がふくれて不快ですから、わざわざお訪ねして、おやすみのさまたげをしたのでございます――」といい、さらに言葉をついだ。 [#「枕許に立った黄金の精に、左内が、体をおこして応待している図」のキャプション付きの図(fig60609_11.png、横835×縦604)入る] [#ここからキャプション] 枕許に立った黄金の精に、左内が、体をおこして応待している図。「灯台」が行灯、黄金の精が「ちひさげなる翁」であることがわかる。(原本十三丁裏、十四丁表の挿絵) [#ここでキャプション終わり] 「――さて、富み栄えても、そのためにおごりたかぶらないのは、まさに大聖人孔子の道です。それを、世上の悪口に、『富める者はかならず心がねじけている。富める者は多く愚者である』というのは、たとえていえば、晋《しん》の石崇《せきそう》や唐《とう》の王元宝《おうげんぽう》のような、豺狼蛇蝎《さいろうだかつ》にも似た猛悪残忍にして貪欲なやつだけをさしていったのであります。昔の世に富み栄えた人は、天然自然の摂理をよく見きわめ、地勢環境の適否をよく判断して、その結果、自然にして必然の富貴を得たのであります。太公望呂尚は、斉《せい》に封《ほう》ぜられて、人民に生業のみちを教えたので、海辺の人々が、そこの利益の多い生活を慕って、斉の国にやってきたのです。また管仲《かんちゅう》は、斉の桓公《かんこう》をたすけて諸侯を糾合《きゅうごう》しましたが、その身は陪臣《ばいしん》でありながら、その富は列国の君主にまさっておりました。そのほか、范蠡《はんれい》、子貢《しこう》、白圭《はっけい》などという人物は、いずれも産物を売買して利益をあげ、巨万の富をきずきあげたのであります。これらの人々の行跡《ぎょうせき》をあげて、司馬遷《しばせん》が『史記』の一篇に『貨殖列伝《かしょくれつでん》』を書きしるしたのでありますが、後世の学者たちが、その所説を卑しいとして、筆をそろえてこれを非難したのは、物の道理をふかく理解しない人のいう言葉であります。『孟子』にもいうとおり、一定の生業と財産のないものは定まった善心もないものであります。農民はよく働いて穀物を生産し、職人たちはその仕事に精出してこれを助け、商人は一生懸命これを諸国に売りさばくというように、めいめいがその生業をはげみ、家をゆたかにして、祖先をまつり、子孫のためにはかる以外に、人間としてなにをすることがあるでしょうか。諺《ことわざ》にも、『富豪の家の子はけっして刑死して市中にさらされるようなことはない』『富貴の人は王者とおなじようなたのしみをもつことができる』といわれております。まことにその通りで、淵がふかければ魚も自由に泳ぎまわり、山がふかければ獣もよく育つというのは天然自然の法則にかなった道理であります。ただ、『論語』に『貧しくしてしかもたのしむ』という言葉があって、それが学者や文人たちの惑いをひきおこす端緒となって、そのために弓矢とる武士たちまでが富貴は国の基であることを忘れ、つまらぬ軍略にばかり熱中して、破壊と殺戮《さつりく》を行ない、自分の徳をうしなって子孫まで絶やしてしまうのですが、それもつまりは財宝を軽んじて名誉を重しとする、その惑いのせいであります。思うに名誉をもとめる心も、利をもとめる心も、心はひとつであって、けっしてちがう心が二つあるのではありません。それを学問や書物にとらわれて、金の徳を軽んじては、それでみずから清廉潔白であると自称し、生業を捨て俗世間をのがれて晴耕雨読の生活をしている人を賢人であるというのです。たしかにそういう人自身は賢人かもしれませんが、そういう行為そのものは賢いことではありますまい。金は、七宝の最上位のものであります。まだ土に埋もれているときにも、そこに霊泉をたたえ、あたりの不浄をはらいのけて、微妙な音色を発するものであります。これほど清らかなものが、どうして愚痴蒙昧、貪欲残忍な人のところにだけあつまるはずがありましょうか。そんなことはけっしてありません。それにしても、今夜この胸中の憤りを吐き出して、年来の憂さをすっかり晴らすことができたのは、なんとうれしいことでしょう」という。  左内は、このはなしを聞いて興味をそそられ、ひとひざのり出して、「なるほど、いまおはなしになられたことにつけても、富貴の道がたかく貴いものであるということは、私が平生から考えていたこととちっともちがいません。ここに愚問ではありますがおたずねしたいことがあるのです。どうかくわしく御教示下さい。それは、いまあなたがことの道理をはっきりとおはなし下さったことは、もっぱら金の徳を軽視して、富貴というものが偉大なる事業であることを世人が知らないのは大きなあやまちであるとなさいましたが、しかしまた、かの学者どものいうところも理由がないわけではありません。というのは、いまの世の金持には、十人中八人までが貪欲で残忍な人が多いのです。たとえば、自分は十二分に俸禄をうけていながら、兄弟親族をはじめとして、父祖の代から長く仕えているものが、貧乏して困っていても、救おうとしない人もいれば、また親しく近所づきあいをしていた人がおちめになり、しかも誰ひとりとして助けようとする者がなくて零落してしまうと、しめたとばかりにその人の田畑を、値段をたたいて捨て値で無理やりに買いとっては自分のものとしてしまう人もおり、そうかと思うと、現在自分は村長とうやまわれる身分になりながら、むかし借りた人のものを返そうともせず、礼儀正しい人が席をゆずると、つけあがってその人をあたかも目下の下僕かなにかのように見くだし、たまたま旧友が時候見舞にでも訪ねてくると、金でも借りにきたのではなかろうかと疑って、留守だといわせるような不実な人間の例を、私なども数多く見てきました。また、その反面では、主君に忠義のかぎりをつくし、父母に孝行をつくして清廉だとの評判が高く、身分高い目上の人を尊び、身分低い貧しい人を助けるという立派な心のある人でいながら、つねに貧しくて、冬の寒いときにも一枚のかわごろもですごし、夏の極暑の折にも一枚の帷子《かたびら》でおしとおして着替えもなく、豊作の年でも朝晩一ぱいの粥でやっと飢えをしのぐというような人は、つきあってもなんのとくにもならないせいか、もとより一人の友人が訪ねてくるということもなく、かえって兄弟や親族には出入りをさしとめられ、交際をことわられたりするが、その悲しみをうったえる方法さえなくて、ただ生活に追われてあくせくと一生をおわるというようなありさまです。それならば、その人は家業に不熱心なのかというと、そうではなく、朝は早くから起き、夜はおそくまで働いて生業に全力を傾け、東奔西走して、そのむずかしそうな様子は、寸暇もないほどであり、べつに愚かなわけでもないのに、なにか仕事をすると、不運にもそれがはずれて無駄になることが多いのです。こういう人は、むかしの顔子《がんし》が一瓢をいだいて清貧をたのしんだというその境地に達することもできません。そして、こういうめぐりあわせで一生を終るのを、仏教の方では前世の因縁《いんねん》をもって説明し、儒家の方では定まった天命であると教えています。もし仏教で説くように来世というものがあるならば、現世でのかくれた徳や善行も、来世へ行ってむくいられるであろうと、それをたのしみに、人々は現世の不幸にたいするいきどおりを、しばしおさえもするでしょう。だから、この富貴の道に関しては、仏教の方でだけその道理を十分に説きつくしていて、儒家の教えはとりとめのないでたらめであるというのでしょうか。あなたも仏の教えの方を信奉していらっしゃるようですね。もしそうでないとおっしゃるならば、お考えのほどをくわしくおはなし下さい」という。  老人は、こたえて、「いまあなたがおたずねになったことは、じつは昔からいろいろと論じられながら、しかもまだ結論のでていない議論なのです。あの仏の教えを聞くと、この世における富貴と貧賤は、前世で善因をつくったか、つくらなかったかによるということですが、これはいいかげんな教えだということができます。前世で行ないをよくつつしみ、おのれの身をおさめ、慈悲心をもっぱらとして他人にも情ぶかくまじわった人が、その善報によって、いまこの世で富貴の家に生まれてきて、こんどは急に自分の財力に物をいわせて他人にたいして威張りかえり、道理にはずれたとんでもないたわごとをいいつのり、あさましく粗暴で野蛮な心を示すようになるのは、いったい前世の善心がどんなむくいでこうまで堕落したというのでしょうか。だいたい仏や菩薩は、名誉とか利欲とかいうものを忌《い》み嫌われると聞いておりましたのに、それに反して、なんでこのような貧福のことなどにこだわってあれこれと説かれることがあるでしょう。それを、勝手に、富貴は前世の行ないがよかった結果であり、貧賤はそれが悪かったむくいであるなどといちがいにきめてしまうのは、しょせん無知な婦女子をたぶらかし、いいくるめるえせ[#「えせ」に傍点]仏法というものであります。貧福のことなど問題とせず、ただ一途に善行を積むような人は、よしんばその善報が自分自身のうえにあらわれなくても、いつかその子孫はかならずしあわせを得るものであります。たとえば中国古代の聖天子|舜《しゅん》は、徳において聖人であり、位において天子であり、富は国内のすべてを所有したが、舜の徳によって、その祖先は天子の礼をもってまつられ、その子孫は地位と名誉と富と長寿を保つことができたのであり、『中庸』がこのことを『宗廟《そうびょう》これをうけて子孫これを保つ』といったのは、善行がおのずからそれに応じた善報になるという道理を、微妙に具体的にいいえたものです。自分が善行をして、自分でその善報を期待するというのは、けっして素直な心ではありません。また悪事を行なう欲ふかで吝嗇《りんしょく》な人が、そのために富み栄えるばかりか、長寿まで保ってその終りをまっとうするということについては、私なりの異なった見解があるのです。まあ、しばらくお聞き下さい。私はいま仮にこうした人間の姿をしてあなたの前にあらわれ、はなしをしていますが、神でもなければ仏でもなく、もともと感情のない黄金の化身でありますから、人間とは違った考えをもっているのです。さきほどもおはなししたように、昔の世に富み栄えた人は、天然自然の好機にかない、その土地の利害をよく見きわめて、それにかなった産業をいとなみ、その結果富貴になったのです。これは天然自然の法則・道理にかなったはかりごとでしたから、財宝がこの人のところにあつまるのも天然自然の理であります。また一方、品性卑しく吝嗇で欲ふかく残忍な人は、金銀を見るとまるで父か母のように大事にかしずいて、食うものもろくに食わず、着るものもろくに着ず、かけがえのない大切な命さえも金のためには惜しいと思わないで、寝てもさめても金のことを忘れないから、金銀がその人のもとにあつまるのは、当然すぎるほど当然の明白な道理であります。私はもともと神でもなければ仏でもなく、ただ非情の黄金の精です。非情のものとして人間の善悪を糺明《きゅうめい》し、その結果にしたがって、私が行動しなければならない理由はありません。善をほめ悪を罰するのは、天のすることであり、神のすることであり、仏のすることであります。この三者は万世不易の人道を示すものです。とうてい私どものおよぶところではありません。ただ私どもは、どんな人間であっても、その人が私どもを大切に扱い、私どもにまめまめしく仕える、その程度に応じてその人のもとにあつまっていくものだと御承知下さい。この点が、金に霊があるといっても、それが人間の心とちがうところです。また、いくら富み栄えて善行をほどこしても、それが理由なく他人に恵みを与えたり、相手が義にそむいていることも見きわめないで、金を貸し与えたりするような人は、たとえそれがどんな善行であっても、財宝はついにその人の許から散じてしまうでしょう。なぜかといえば、こういう人は、金の使用法だけをしって、金の徳をしらず、金をかるがるしく取り扱うからであります。また、その身の行ないもよく、他人にたいしても真心をつくしながら、生活に窮して苦しんでいる人は、もともと天の神のお恵み薄くうまれついているのでありますから、いかに苦労し、心をくだいてみても、生涯のうちに富貴になれるということはありません。だからこそ、昔の賢人は、富をもとめてもとめ甲斐があればもとめ、もとめ甲斐がないと知ればもとめないで、自分の気のむくままに、俗世間をのがれて山林にこもり、心しずかに一生を送ったのです。その心の中はどんなにすがすがしくさっぱりしていることだろうと、うらやましく思われます。しかし、そうはいっても、一面では富貴の道は術ですから、巧みな者はよく富をあつめ、未熟な愚か者はいくらもっていても瓦を崩すよりもかんたんにこれをすっかり散佚《さんいつ》してしまうのです。そのうえ、私ども仲間の黄金は、人の生業につきまとって集散し、これといってきまった主人をもっているわけではありません。ここに集まったかと思うと、その持ち主の行ないいかんによってはたちまちそこをはなれて別の人の許に走ります。それはちょうど水が低い方に傾いていくようなものです。昼も夜もどんどん往来して休《やす》むときがありません。ただ閑《ひま》人が定まった生業ももたずに暮らしていたならば、泰山《たいざん》のようなたくさんのものもたちまち食いつくしてしまうでしょう。河や海のようにたくさんたたえられたものもついには飲みほしてしまうでしょう。くりかえして申します。不徳の人が財宝を積み蓄えるのは、その人の徳・不徳とは無関係なことであり、君子の富貴については、それとはまた別で、同日に論じてはいけません。好運にめぐまれてときめいている人が、倹約を守り、むだをはぶいて、よく生業につとめたならば、おのずから家は富み、人はなつきしたがうでしょう。私は、仏教で説く前世の因縁ということも知らなければ、儒家の説く天命というようなことにもこだわらないで、それとはまったくちがった別天地にのびのびと生きているのです」という。  左内は、このはなしを聞くと、いよいよ興味をつのらせて、「あなたの御説は非常にすばらしい。お蔭で長年の疑念も今夜ですっかり氷解いたしました。ことのついでに、もういちどおたずねいたします。今の世を見ると、豊臣家《とよとみけ》の威光が天下を靡《なび》かせ、日本全国、津々浦々もようやく平穏であるように見えますが、国をうしなった主君に忠義を尽くそうとする義士たちがあちらこちらにひそみかくれて機をうかがい、ある者は一時大国の主君に仕えて世に変乱がおこるのをじっと待って、かねての主家再興の本懐をとげようと画策しています。一方、民もまた戦国に生をうけた民ですから、折あらば鋤《すき》をすててほこをとり、一旗あげようと、天職の農耕などそっちのけのありさまですから、武士たるものも枕を高くして安眠することができません。いまのようなありさまでは、豊臣家の政権も長くつづくものとは思えません。この先、いったい誰が天下を統一して、民を平和安穏に暮らさせることになるのでしょうか。そしてまた、あなたは誰に味方なさるのでございますか」という。老人は、こたえて、「政治のこともまた人間界のことゆえ、私にはわかりません。ただ富貴という点から論ずるならば、武田信玄《たけだしんげん》のごときは智謀にすぐれ、ねらうところ百発百中でありながら、しかも一生涯を通じてその威勢をわずかに甲・信・越の三国にふるうだけでありました。しかも名将であるという評判は世間こぞって賞讃するところでありました。その末期《まつご》にのぞんで、信玄は、『いまや信長《のぶなが》は非常に果報にめぐまれた大将である。われ平生彼をあなどって征伐することを怠り、いまこの病にかかった。われ亡《な》きあと、わが子孫はやがて彼のためにほろぼされるであろう』といったということです。上杉謙信《うえすぎけんしん》は勇将です。信玄が死んでからは、天下に肩をならべる好敵手がありませんでした。しかし、不幸にもはやく死んでしまいました。信長の人物・才能は人にすぐれておりましたが、智においては信玄におよばず、勇においては謙信に劣っていました。それでも富貴を身につけて、一度は天下を統一し、天下に号令するようになりました。しかし、家臣に恥辱を与えて、そのためにそむかれ、一命をおとしたのをみると、文武兼備の人物というわけでもなかったようです。秀吉の雄志は大きなものでありますが、それでもはじめから天下をおおうというようなものではありませんでした。そのことは、若いころ、柴田勝家と丹羽長秀の富貴をうらやんで、それにあやかりたいと思い、「羽柴」という姓を名のった一事からも知ることができます。それがいまでは、あたかも竜と化して大空に昇ったようにときめき、位人臣をきわめていますが、昔の身分や境遇など忘れているのではないでしょうか。秀吉が竜と化したといっても、それはほんとうの竜ではなく、蛟蜃《こうしん》のたぐいにすぎません。『蛟蜃の竜と化したものは、その寿命わずかに三年にすぎない』といわれています。だから、秀吉もやはり子孫は長く続かないのではないでしょうか。いったい驕奢《きょうしゃ》をほしいままにして治めた世というものは、むかしから長つづきしたためしがありません。人間として守るべきことは倹約ですが、それがあまり行き過ぎるとけちんぼにおちいります。だから、倹約とけちんぼのけじめをよくわきまえてつとめることが大切です。さて、豊臣の政権が長くつづかないとしても、天下万民が安穏に富みさかえ、家ごとに家運の繁栄と世の泰平《たいへい》を謳歌することは、近い将来のことです。そのとき、だれが天下を統一するか。あなたの御望みに応じて、こんなことをおこたえしておきましょう――」といって、つぎのような八字の句をうたいあげた。その句は、 [#ここから2字下げ] 「堯蓂日杲《ぎょうめいひにあきらかに》   百姓帰家《ひゃくせいいえによる》」 [#ここから5字下げ] (堯帝の聖代に蓂莢という瑞草生じ、日は高く泰平の世をてらし、天下万民はそれぞれ家に安住していた) [#ここで字下げ終わり]  左内と黄金の精の間にはいろいろとおもしろいはなしがとりかわされたが、それもようやく終りになって、折から遠くの寺でつきだす午前四時の鐘が夜あけの近いことをしらせた。それを聞くと、黄金の精は、「おや、もう夜があけましたね。おいとまをいただくとしましょう。今夜の長ばなしですっかりあなたのおやすみを邪魔してしまいました」といって、座をたって行くような様子をしたが、ふっとその姿はかき消すように見えなくなった。  左内は、つくづくとこの一夜中のことを思いおこして、黄金の精のいった「堯蓂日杲、百姓帰家」の句を考えてみると、「百姓家に帰す」の句が「家康に帰す」という意味を暗示しているように思われ、精のいった真意のほどもほぼ会得《えとく》されて、その言をふかく信ずる気になった。まことに瑞草《ずいそう》の生ずるようなめでたい代にめぐりあうべき瑞兆の言葉であり、めでたいはなしである。 [#改丁] [#ページの左右中央] [#5字下げ]校注 雨月物語[#「校注 雨月物語」は大見出し] [#改丁] [#1字下げ][#中見出し]雨月物語序[#中見出し終わり] [#行右小書き]一[#行右小書き終わり]羅子撰水滸。而三世生唖児。[#行右小書き]二[#行右小書き終わり]紫媛著源語。而一旦堕悪趣者。[#行右小書き]三[#行右小書き終わり]蓋為業所偪耳。然而観其文。各〻奮奇態。[#行右小書き]四[#行右小書き終わり]啽哢逼真。[#行右小書き]五[#行右小書き終わり]低昂宛転。令読者心気[#行右小書き]六[#行右小書き終わり]洞越也。可見鑑事実于千古焉。余適有[#行右小書き]七[#行右小書き終わり]鼓腹之閑話。衝口吐出。[#行右小書き]八[#行右小書き終わり]雉雊竜戦。[#行右小書き]九[#行右小書き終わり]自以為杜撰。則[#行右小書き]一〇[#行右小書き終わり]摘読之者。[#行右小書き]一一[#行右小書き終わり]固当不謂信也。[#行右小書き]一二[#行右小書き終わり]豈可求醜脣平鼻之報哉。[#行右小書き]一三[#行右小書き終わり]明和戊子晩春。雨霽月朦朧之夜。窓下編成。[#行右小書き]一四[#行右小書き終わり]以畀梓氏。題曰雨月物語。云。[#行右小書き]一五[#行右小書き終わり]剪枝畸人書 [#地から3字上げ][#行右小書き]一六[#行右小書き終わり] [#行右小書き]一七[#行右小書き終わり] [#地から2字上げ][#「丸子虚後人」「四角遊戯三昧」の印の図(fig60609_01.png、横43×縦76)入る] [#改ページ] 羅子《らし》、水滸《すいこ》を撰《せん》して、三世|唖児《あじ》を生《う》み、紫媛《しゑん》、源語《げんご》を著《あらは》して、一旦悪趣に堕《お》つるは、蓋《けだ》し業《ごふ》のために偪《せま》らるるところのみ。然り而して其の文を観《み》るに、各々|奇態《きたい》を奮《ふる》ひ、啽哢《あんろう》真《しん》に逼《せま》り、低昂宛転《ていかうゑんてん》、読者の心気をして洞越《どうゑつ》たらしむるなり。事実を千古に鑑《かんが》みらるべし。余《よ》適《たまたま》鼓腹《こふく》の閑話あり、口を衝《つ》きて吐き出《い》だす。雉《きじ》雊《な》き竜戦ふ、自《みづか》らおもへらく杜撰なりと。則ち之を摘読《てきどく》する者は、固《もと》より当《まさ》に信と謂はざるべきなり。豈《あに》醜脣平鼻《しうしんへいび》の報《むくい》を求むべけんや。明和《めいわ》戊子《ぼし》晩春、雨|霽《は》れ月|朦朧《もうろう》の夜、窓下《さうか》に編成し、以て梓氏《しし》に畀《あた》ふ。題して雨月物語《うげつものがたり》と曰《い》ふと云ふ。剪枝畸人《せんしきじん》書す。 [#地から2字上げ]㊞ ※[#四角万、188-11] [#ここから2字下げ] 一 羅貫中。中国一三、四世紀の人。水滸伝を著わしたために子孫三代唖児が生まれたという俗説がある(西湖遊覧志余。続文献通考等)「羅氏が三代まで唖子をうみしなども云ふ」(秋山記・秋成)。 二 紫式部。源氏物語を著わしたために地獄におちたという俗説がある(今物語、宝物集等)。秋成も秋山記でそのことを書いている。 三 思うに悪業の為にこんな報いにせまられたというべきであろう。 四 鳥の黙したりさえずったりする声の形容。ここでは文章の調子、勢い。 五 文章の調子が或は低く或は高く、あたかもころがるようになめらかで流暢である。 六 つよく感銘する。 七 泰平の世を謳歌するようなのんきな無駄ばなし。鼓腹は、飽食して腹鼓をうち、泰平を楽しむ。 八 雉が鳴き竜が戦うような奇怪千万な怪奇談。 九 自分でもこれは杜撰であると思う。杜撰はよりどころなく疎漏なこと。 一〇 ひろい読む。 一一 もとよりこれが信ずるに足るものだというはずがない。 一二 どうして子孫に口唇裂や平たい鼻の変わり者が生まれるという業の報いをうけるはずがあろうか。 一三 明和五年(一七六八)三月。秋成三五歳。 一四 出版業者に与えた。版行にふした。 一五 上田秋成の戯号。秋成は五歳の折、重い痘を病み、その結果、右手の中指と左手の人さし指が短くなり、不自由になった。そのことから一時的につけた号である。枝は肢と同じで、指に通ず。剪枝は木をきるはさみの意味もある。畸人は変人、変わり者。 一六 「子虚後人」とあって、秋成の一時的な戯号。いたずらに妄言を吐く人物の子孫という意味。 一七 「遊戯三昧」とある。遊びたわむれることにむちゅうになること。五雑組、巻十五に「凡為[#二]小説及雑劇戯文[#一]、須[#二]是虚実相半[#一]、方為[#二]游戯三昧之筆[#一]」とある。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#1字下げ][#中見出し]雨月物語 巻之一[#中見出し終わり] [#3字下げ][#小見出し][#行右小書き]一[#行右小書き終わり]白峯《しらみね》[#小見出し終わり]  [#行右小書き]二[#行右小書き終わり]あふ坂の関守《せきもり》にゆるされてより、[#行右小書き]三[#行右小書き終わり]秋こし山の黄葉《もみぢ》見過しがたく、浜千鳥の跡ふみつくる[#行右小書き]四[#行右小書き終わり]鳴海《なるみ》がた、不尽《ふじ》の高嶺《たかね》の煙《けぶり》、[#行右小書き]五[#行右小書き終わり]浮嶋がはら、[#行右小書き]六[#行右小書き終わり]清見が関、[#行右小書き]七[#行右小書き終わり]大|礒《いそ》小いその浦々、[#行右小書き]八[#行右小書き終わり]むらさき艶《にほ》ふ武蔵野の原、[#行右小書き]九[#行右小書き終わり]塩竈《しほがま》の和《な》ぎたる朝げしき、[#行右小書き]一〇[#行右小書き終わり]象潟《きさがた》の蜑《あま》が苫《とま》や、[#行右小書き]一一[#行右小書き終わり]佐野の舟梁《ふなばし》、[#行右小書き]一二[#行右小書き終わり]木曾の桟橋《かけはし》、心のとどまらぬかたぞなきに、猶《(なほ)》西の国の歌枕見まほしとて、[#行右小書き]一三[#行右小書き終わり]仁安三年の秋は、[#行右小書き]一四[#行右小書き終わり]葭《あし》がちる難波《なには》を経《へ》て、[#行右小書き]一五[#行右小書き終わり]須磨明石の浦ふく風を身に[#行右小書き]一六[#行右小書き終わり]しめつも、行々[#行右小書き]一七[#行右小書き終わり]讃岐《(さぬき)》の真尾坂《みをざか》の林《はやし》といふにしばらく[#行右小書き]一八[#行右小書き終わり]筇《つゑ》を植《とど》む。草枕はるけき旅路の労《いたはり》にもあらで、[#行右小書き]一九[#行右小書き終わり]観念修行《くわんねんしゆぎやう》の便《たより》せし庵《いほり》なりけり。  この里ちかき白峯といふ所にこそ、[#行右小書き]二〇[#行右小書き終わり]新院の陵《みささぎ》ありと聞きて、拝みたてまつらばやと、十月《かみなづき》はじめつかた、かの山に登《のぼ》る。松《まつ》柏《かしは》は奥ふかく茂《しげ》りあひて、[#行右小書き]二一[#行右小書き終わり]青雲《あをぐも》の軽靡《たなび》く日すら小雨《こさめ》そぼふるがごとし。[#行右小書き]二二[#行右小書き終わり]児《ちご》が嶽《だけ》といふ嶮《けは》しき嶽《みね》背《うしろ》に聳《そばだ》ちて、千|仞《じん》の谷底《たにそこ》より雲霧《くもきり》おひのぼれば、咫尺《まのあたり》をも鬱俋《おぼつかな》きここちせらる。木立《こだち》わづかに間《す》きたる所に、土《つち》墩《たか》く積《つ》みたるが上に、石を三かさねに畳《たた》みなしたるが、[#行右小書き]二三[#行右小書き終わり]荊蕀《うばら》薜蘿《かづら》にうづもれてうらがなしきを、これならん御墓《みはか》にやと心もかきくらまされて、さらに夢現《ゆめうつつ》をもわきがたし。  現《げ》にまのあたりに見奉りしは、[#行右小書き]二四[#行右小書き終わり]紫宸《ししん》清涼《せいりやう》の御座《みくら》に朝政《おほまつりごと》きこしめさせ給ふを、百《もも》の官人《つかさ》は、かく賢《さか》しき君ぞとて、詔《みこと》恐《かしこ》みてつかへまつりし。[#行右小書き]二五[#行右小書き終わり]近衛院《このゑのゐん》に禅《ゆづ》りましても、[#行右小書き]二六[#行右小書き終わり]藐姑射《はこや》の山《やま》の瓊《たま》の林《はやし》に禁《し》めさせ給ふを、思ひきや、[#行右小書き]二七[#行右小書き終わり]麋鹿《びろく》のかよふ跡のみ見えて、詣《まう》でつかふる人もなき深山《みやま》の[#行右小書き]二八[#行右小書き終わり]荊《おどろ》の下に神がくれ給はんとは。[#行右小書き]二九[#行右小書き終わり]万乗《ばんじよう》の君にてわたらせ給ふさへ、[#行右小書き]三〇[#行右小書き終わり]宿世《すくせ》の業《ごふ》といふもののおそろしくもそひたてまつりて、罪をのがれさせ給はざりしよと、世のはかなきに思ひつづけて涙わき出づるがごとし。  終夜《よもすがら》供養《くやう》したてまつらばやと、御墓の前のたひらなる石の上に座をしめて、経文《きやうもん》徐《しづ》かに誦《ず》しつつも、かつ歌よみてたてまつる。 [#ここから3字下げ] [#行右小書き]三一[#行右小書き終わり]松山の浪のけしきはかはらじを     かたなく君はなりまさりけり [#ここで字下げ終わり] 猶《(なほ)》心|怠《おこた》らず供養《きようやう》す。露いかばかり袂《そで》にふかかりけん。日は没《い》りしほどに、山深き夜のさま[#行右小書き]三二[#行右小書き終わり]常《ただ》ならね、石の牀《ゆか》木の葉の衾《ふすま》いと寒く、神《しん》清《す》み骨《ほね》冷《ひ》えて、[#行右小書き]三三[#行右小書き終わり]物とはなしに凄《すざま》じきここちせらる。月は出でしかど、[#行右小書き]三四[#行右小書き終わり]茂《しげ》きが林《もと》は影をもらさねば、[#行右小書き]三五[#行右小書き終わり]あやなき闇《やみ》にうらぶれて、眠《ねぶ》るともなきに、まさしく[#行右小書き]三六[#行右小書き終わり]円位《ゑんゐ》々々とよぶ声す。  眼《め》をひらきてすかし見れば、其の形《さま》異《こと》なる人の、背《せ》高く痩《や》せおとろへたるが、顔のかたち、着たる衣の色《いろ》紋《あや》も見えで、こなたにむかひて立てるを、西行もとより[#行右小書き]三七[#行右小書き終わり]道心《だうしん》の法師《ほふし》なれば、恐ろしともなくて、ここに来たるは誰《た》そと答ふ。かの人いふ。前《さき》によみつること葉のかへりごと聞えんとて見えつるなりとて、 [#ここから3字下げ] [#行右小書き]三八[#行右小書き終わり]松山の浪にながれてこし船の     やがてむなしくなりにけるかな [#ここで字下げ終わり] 喜《うれ》しくもまうでつるよ、と聞ゆるに、新院の霊《れい》なることをしりて、地にぬかづき涙を流していふ。さりとていかに迷はせ給ふや。[#行右小書き]三九[#行右小書き終わり]濁世《ぢよくせ》を厭離《えんり》し給ひつることのうらやましく侍りてこそ、今夜《こよひ》の[#行右小書き]四〇[#行右小書き終わり]法施《ほふせ》に随縁《ずゐえん》したてまつるを、[#行右小書き]四一[#行右小書き終わり]現形《げぎやう》し給ふはありがたくも悲しき御こころにし侍り。ひたぶるに[#行右小書き]四二[#行右小書き終わり]隔生即志《きやくしやうそくまう》して、[#行右小書き]四三[#行右小書き終わり]仏果円満《ぶつくわゑんまん》の位《くらゐ》に昇らせ給へと、情《こころ》をつくして諫《いさ》め奉る。  新院|呵《から》々と笑はせ給ひ、汝《なんぢ》しらず、近|来《ごろ》の世の乱《みだれ》は朕《わ》がなす事《わざ》なり。生きてありし日より魔道にこころざしをかたぶけて、[#行右小書き]四四[#行右小書き終わり]平治《へいぢ》の乱《みだれ》を発《おこ》さしめ、死して猶《(なほ)》[#行右小書き]四五[#行右小書き終わり]朝家《てうか》に崇《たたり》をなす。見よ見よ、やがて天《あめ》が下《した》に大|乱《らん》を生ぜしめん、といふ。西行此の詔《みことのり》に涙をとどめて、こは浅ましき[#行右小書き]四六[#行右小書き終わり]御こころばへをうけたまはるものかな。君はもとよりも[#行右小書き]四七[#行右小書き終わり]聡明《そうめい》の聞えましませば、[#行右小書き]四八[#行右小書き終わり]王道《わうだう》のことわりはあきらめさせ給ふ。こころみに討《たづ》ね請《まう》すべし。そも[#行右小書き]四九[#行右小書き終わり]保元《ほうげん》の御謀叛《ごむほん》は[#行右小書き]五〇[#行右小書き終わり]天《あめ》の神《かみ》の教へ給ふことわりにも違《たが》はじとておぼし立たせ給ふか。又みづからの人慾《にんよく》より計策《たばか》り給ふか。詳《つばら》に告《の》らせ給へと奏《まう》す。其の時院の御《み》けしきかはらせ給ひ、汝聞け、帝位は人の極《きはみ》なり。若《も》し人道《にんだう》上《かみ》より乱す則《とき》は、天の命《めい》に応じ、民《たみ》の望《のぞみ》に順《したが》うて是を伐《う》つ。抑《そもそも》[#行右小書き]五一[#行右小書き終わり]永治《えいぢ》の昔、犯《をか》せる罪《つみ》もなきに、[#行右小書き]五二[#行右小書き終わり]父|帝《みかど》の命《みこと》を恐《かしこ》みて、三歳の[#行右小書き]五三[#行右小書き終わり]体仁《としひと》に代《よ》を禅《ゆづ》りし心、人慾深きといふべからず。体仁|早世《さうせい》ましては、朕《わ》が皇子《みこ》の[#行右小書き]五四[#行右小書き終わり]重仁《しげひと》こそ国しらすべきものをと、朕《われ》も人も思ひをりしに、[#行右小書き]五五[#行右小書き終わり]美福門院《びふくもんゐん》が妬《ねたみ》に[#行右小書き]五六[#行右小書き終わり]さへられて、四の宮の[#行右小書き]五七[#行右小書き終わり]雅仁《まさひと》に代《よ》を簒《うば》はれしは深き怨《うらみ》にあらずや。重仁[#行右小書き]五八[#行右小書き終わり]国しらすべき才あり。雅仁何らのうつは物ぞ。人の徳をえらばずも、天《あめ》が下《した》の事を[#行右小書き]五九[#行右小書き終わり]後宮《こうきゆう》にかたらひ給ふは父帝《ちちみかど》の罪なりし。されど世にあらせ給ふほどは孝信《かうしん》をまもりて、[#行右小書き]六〇[#行右小書き終わり]勤《ゆめ》色《いろ》にも出さざりしを、崩《かく》れさせ給ひてはいつまでありなんと、武《たけ》きこころざしを発《おこ》せしなり。[#行右小書き]六一[#行右小書き終わり]臣として君を伐《う》つすら、天に応じ民の望《のぞみ》にしたがへば、[#行右小書き]六二[#行右小書き終わり]周《しう》八百年の創業《さうげふ》となるものを、まして[#行右小書き]六三[#行右小書き終わり]しるべき位《くらゐ》ある身にて、[#行右小書き]六四[#行右小書き終わり]牝鶏《ひんけい》の晨《あした》する代《よ》を取つて代《かは》らんに、道を失ふといふべからず。汝、[#行右小書き]六五[#行右小書き終わり]家を出でて仏《ほとけ》に婬《いん》し、[#行右小書き]六六[#行右小書き終わり]未来《みらい》解脱《げだつ》の利慾を願ふ心より、[#行右小書き]六七[#行右小書き終わり]人道《にんだう》をもて因果《いんぐわ》に引き入れ、[#行右小書き]六八[#行右小書き終わり]堯舜《げうしゆん》のをしへを釈門《しやくもん》に混《こん》じて朕《われ》に説くやと、御声あららかに告《の》らせ給ふ。  西行いよよ恐るる色もなく座をすすみて、君が告《の》らせ給ふ所は、人道のことわりをかりて[#行右小書き]六九[#行右小書き終わり]慾塵《よくぢん》をのがれ給はず。遠く辰旦《もろこし》をいふまでもあらず。皇朝《くわうてう》の昔、[#行右小書き]七〇[#行右小書き終わり]誉田《ほんだ》の天皇、兄の皇子《みこ》[#行右小書き]七一[#行右小書き終わり]大鷦鷯《おほさざき》の王《きみ》をおきて、季《すゑ》の皇子《みこ》[#行右小書き]七二[#行右小書き終わり]菟道《うぢ》の王《きみ》を[#行右小書き]七三[#行右小書き終わり]日嗣《ひつぎ》の太子《みこ》となし給ふ。天皇|崩御《かみがく》れ給ひては、兄弟《はらから》相|譲《ゆづ》りて位に昇《のぼ》り給はず。三とせをわたりても猶《(なほ)》果つべくもあらぬを、菟道《うぢ》の王《きみ》深く憂《うれ》ひ給ひて、豈《あに》久しく生《い》きて天が下《した》を煩《わづら》はしめんやとて、[#行右小書き]七四[#行右小書き終わり]みづから宝算《よはひ》を断《た》たせ給ふものから、罷事《やんごと》なくて兄の皇子《みこ》御位《みくらゐ》に即《つ》かせ給ふ。是れ[#行右小書き]七五[#行右小書き終わり]天|業《げふ》を重んじ孝悌《かうてい》をまもり、忠《まこと》をつくして人慾《にんよく》なし。堯舜《げうしゆん》の道といふなるべし。本朝に儒教を尊《たふと》みて専《もは》ら王道《わうだう》の輔《たすけ》とするは、菟道《うぢ》の王《きみ》、百済《くだら》の[#行右小書き]七六[#行右小書き終わり]王仁《わに》を召して学ばせ給ふをはじめなれば、此の兄弟《はらから》の王《きみ》の御《み》心ぞ、即《やが》て漢土《もろこし》の聖《ひじり》の御心ともいふべし。又、周の創《はじめ》、[#行右小書き]七七[#行右小書き終わり]武王《ぶわう》一たび怒《いか》りて天下の民を安くす。臣として君を弑《しい》すといふべからず。仁《じん》を賊《ぬす》み義を賊む、一|夫《ぷ》の紂《ちう》を誅《ちゆう》するなりといふ事、[#行右小書き]七八[#行右小書き終わり]孟子《まうじ》といふ書にありと人の伝へに聞き侍《はべ》る。されば漢土《もろこし》の書は、経典《けいてん》[#行右小書き]七九[#行右小書き終わり]史策《しさく》詩文《しぶん》にいたるまで渡さざるはなきに、かの孟子の書ばかりいまだ日本に来らず。[#行右小書き]八〇[#行右小書き終わり]此の書を積みて来る船は、[#行右小書き]八一[#行右小書き終わり]必ずしも暴《あらき》風にあひて沈没《しづ》むよしをいへり。それをいかなる故ぞととふに、我が国は天照すおほん神の開闢《はつぐに》しろしめししより、日嗣《ひつぎ》の大王《きみ》絶《た》ゆる事なきを、かく口|賢《さか》しきをしへを伝へなば、末の世に[#行右小書き]八二[#行右小書き終わり]神孫《しんそん》を奪うて罪《つみ》なしといふ敵《あた》も出づべしと、八百《やほ》よろづの神の悪《にく》ませ給うて、神風を起して船を覆《くつがへ》し給ふと聞く。されば他国《かのくに》の聖《ひじり》の教も、ここの国土《くにつち》にふさはしからぬことすくなからず。且《かつ》[#行右小書き]八三[#行右小書き終わり]詩《し》にもいはざるや。[#行右小書き]八四[#行右小書き終わり]兄弟|牆《うち》に鬩《せめ》ぐとも外《よそ》の侮《あなどり》を禦《ふせ》げよと。さるを骨肉《こつにく》の愛をわすれ給ひ、[#行右小書き]八五[#行右小書き終わり]あまさへ[#行右小書き]八六[#行右小書き終わり]一院|崩御《かみがく》れ給ひて、[#行右小書き]八七[#行右小書き終わり]殯《もがり》の宮に肌膚《みはだへ》もいまだ寒《ひ》えさせたまはぬに、御旗《みはた》なびかせ弓末《ゆずゑ》ふり立て宝祚《みくらゐ》をあらそひ給ふは、不孝の罪これより劇《はなはだ》しきはあらじ。[#行右小書き]八八[#行右小書き終わり]天下は神器《じんき》なり。人のわたくしをもて奪ふとも得《う》べからぬことわりなるを、たとへ重仁王《しげひとぎみ》の即位《みくらゐ》は民の仰ぎ望む所なりとも、徳を布《し》き和《くわ》を施《ほどこ》し給はで、道ならぬみわざをもて代《よ》を乱し給ふ則《とき》は、きのふまで君を慕《した》ひしも、けふは忽《たちま》ち怨敵《あた》となりて、本意《ほい》をも遂《と》げたまはで、いにしへより[#行右小書き]八九[#行右小書き終わり]例《あと》なき刑《つみ》を得給ひて、かかる鄙《ひな》の国の土とならせ給ふなり。ただただ[#行右小書き]九〇[#行右小書き終わり]旧《ふる》き讐《あた》をわすれ給うて、浄土《じやうど》にかへらせ給はんこそ、願《ねが》はまほしき叡慮《みこころ》なれと、はばかることなく奏《まを》しける。  院、長嘘《ながきいき》をつがせ給ひ、今事を正《ただ》して罪をとふ、ことわりなきにあらず。されどいかにせん。この嶋に謫《はぶ》られて、[#行右小書き]九一[#行右小書き終わり]高遠《たかとほ》が松山の家に困《くるし》められ、日に三たびの[#行右小書き]九二[#行右小書き終わり]御膳《おもの》すすむるよりは、まゐりつかふる者もなし。只|天《あま》とぶ雁《かり》の小夜《さよ》の枕におとづるるを聞けば、都にや行くらんとなつかしく、暁《あかつき》の千鳥の洲崎《すさき》にさわぐも、心をくだく種《たね》となる。[#行右小書き]九三[#行右小書き終わり]烏《からす》の頭《かしら》は白くなるとも、都には還《かへ》るべき期《とき》もあらねば、定めて[#行右小書き]九四[#行右小書き終わり]海畔《あまべ》の鬼《おに》とならんずらん。ひたすら後世《ごせ》のためにとて、[#行右小書き]九五[#行右小書き終わり]五部の大乗経《だいじようぎやう》をうつしてけるが、[#行右小書き]九六[#行右小書き終わり]貝鐘《かひがね》の音《ね》も聞えぬ荒礒《ありそ》にとどめんもかなし。せめては筆の跡ばかりを洛《みやこ》の中《うち》に入れさせ給へと、[#行右小書き]九七[#行右小書き終わり]仁和寺《にんわじ》の御室《みむろ》の許《もと》へ、経にそへてよみておくりける。 [#ここから3字下げ] [#行右小書き]九八[#行右小書き終わり]浜千鳥跡はみやこにかよへども     身は松山に音《ね》をのみぞ鳴《な》く [#ここで字下げ終わり]  しかるに[#行右小書き]九九[#行右小書き終わり]少納言信西《せうなごんしんぜい》がはからひとして、若《も》し呪咀《じゆそ》の心にやと奏《そう》しけるより、そがままにかへされしぞうらみなれ。いにしへより倭《やまと》漢土《もろこし》ともに、国をあらそひて兄弟|敵《あた》となりし例《ためし》は珍しからねど、罪《つみ》深き事かなと思ふより、悪心《あくしん》懺悔《さんげ》の為にとて写《うつ》しぬる御|経《きやう》なるを、いかにささふる者ありとも、[#行右小書き]一〇〇[#行右小書き終わり]親《した》しきを議《はか》るべき令《のり》にもたがひて、筆の跡だも納《い》れ給はぬ叡慮《みこころ》こそ、今は旧《ひさ》しき讐《あた》なるかな。所詮《しよせん》此の経を[#行右小書き]一〇一[#行右小書き終わり]魔道に回向《ゑかう》して、恨をはるかさんと、一すぢにおもひ定めて、指《ゆび》を破《やぶ》り血をもて願文《ぐわんもん》をうつし、経とともに[#行右小書き]一〇二[#行右小書き終わり]志戸《しと》の海に沈《しづ》めてし後は、人にも見《まみ》えず深く閉《と》ぢこもりて、ひとへに魔王となるべき大願をちかひしが、[#行右小書き]一〇三[#行右小書き終わり]はた平治の乱《みだれ》ぞ出できぬる。まづ[#行右小書き]一〇四[#行右小書き終わり]信頼《のぶより》が高き位《くらゐ》を望む驕慢《おごり》の心をさそうて[#行右小書き]一〇五[#行右小書き終わり]義朝《よしとも》をかたらはしむ。かの義朝こそ悪《にく》き敵《あた》なれ。父の[#行右小書き]一〇六[#行右小書き終わり]為義《ためよし》をはじめ、同胞《はらから》の武士《もののべ》は皆|朕《わ》がために命《いのち》を捨てしに、他一人《かれひとり》朕《われ》に弓を挽《ひ》く。[#行右小書き]一〇七[#行右小書き終わり]為朝《ためとも》が勇猛、為義[#行右小書き]一〇八[#行右小書き終わり]忠政《ただまさ》が軍配《たばかり》に[#行右小書き]一〇九[#行右小書き終わり]贏目《かついろ》を見つるに、西南の風に焼討《やきうち》せられ、[#行右小書き]一一〇[#行右小書き終わり]白川の宮を出でしより、[#行右小書き]一一一[#行右小書き終わり]如意《によい》が嶽《みね》の嶮《けは》しきに足を破られ、或《ある》ひは[#行右小書き]一一二[#行右小書き終わり]山|賤《がつ》の椎柴《しひしば》をおほひて雨露を凌《しの》ぎ、終《つひ》に擒《とら》はれて此の嶋に謫《はぶ》られしまで、皆|義朝《よしとも》が姦《かだま》しき計策《たばかり》に困《くるし》められしなり。これが報《むくい》を[#行右小書き]一一三[#行右小書き終わり]虎狼《こらう》の心に障化《しやうげ》して、信頼《のぶより》が隠謀《いんぼう》にかたらはせしかば、[#行右小書き]一一四[#行右小書き終わり]地祇《くにつがみ》に逆《さか》ふ罪、武《ぶ》に賢《さと》からぬ清盛《きよもり》に逐《お》ひ討《う》たる。且《かつ》父の為義を弑《しい》せし報《むくい》偪《せま》りて、[#行右小書き]一一五[#行右小書き終わり]家の子に謀《はか》られしは、天神《あまつがみ》の祟《たたり》を蒙《かふむ》りしものよ。又少納言信西は、常に己《おのれ》を博士《はかせ》ぶりて、人を拒《こば》む心の直《なほ》からぬ、これをさそうて信頼義朝が讐《あた》となせしかば、終《つひ》に家をすてて[#行右小書き]一一六[#行右小書き終わり]宇治山の坑《あな》に竄《かく》れしを、[#行右小書き]一一七[#行右小書き終わり]はた探《さが》し獲《え》られて[#行右小書き]一一八[#行右小書き終わり]六条河原に梟首《かけ》らる。これ経をかへせし諛言《おもねり》の罪を治めしなり。それがあまり、[#行右小書き]一一九[#行右小書き終わり]応保《おうほう》の夏は美福門院《びふくもんゐん》が命《いのち》を窮《せま》り、長寛《ちやうくわん》の春は[#行右小書き]一二〇[#行右小書き終わり]忠通《ただみち》を祟《たた》りて、朕《われ》も其の秋世をさりしかど、猶《(なほ)》[#行右小書き]一二一[#行右小書き終わり]嗔火《しんくわ》熾《さかん》にして尽《つ》きざるままに、終《つひ》に大魔王となりて、三百余類の巨魁《かみ》となる。朕《わ》が[#行右小書き]一二二[#行右小書き終わり]けんぞくのなすところ、人の福《さいはひ》を見ては転《うつ》して禍《わざはひ》とし、世の治《をさま》るを見ては乱《みだれ》を発《おこ》さしむ。只清盛が[#行右小書き]一二三[#行右小書き終わり]人果《にんくわ》大にして、親族氏族《うからやから》ことごとく高き官位につらなり、おのがままなる国政《まつりごと》を執行《とりおこな》ふといへども、[#行右小書き]一二四[#行右小書き終わり]重盛忠義をもて輔《たす》くる故、いまだ期《とき》いたらず。汝見よ、平氏も又久しからじ。雅仁《まさひと》朕《われ》に[#行右小書き]一二五[#行右小書き終わり]つらかりしほどは終《つひ》に報《むく》ふべきぞと、御声いやましに恐ろしく聞えけり。西行いふ。君かくまで魔界《まかい》の悪業《あくごふ》につながれて、[#行右小書き]一二六[#行右小書き終わり]仏土《ぶつど》に億万里を隔て給へば、ふたたびいはじとて、只|黙《もく》してむかひ居たりける。  時に峯《みね》谷《たに》ゆすり動きて、風|叢林《はやし》を僵《たふ》すがごとく、沙石《まさご》を空《そら》に巻上《まきあ》ぐる。見る見る[#行右小書き]一二七[#行右小書き終わり]一段の陰火《いんくわ》、君が膝《ひざ》の下《もと》より燃上《もえあが》りて、山も谷も昼のごとくあきらかなり。光《ひかり》の中につらつら御気色《みけしき》を見たてまつるに、朱《あけ》をそそぎたる竜顔《みおもて》に、[#行右小書き]一二八[#行右小書き終わり]荊《おどろ》の髪《かみ》膝《ひざ》にかかるまで乱れ、白眼《しろきまなこ》を吊《つ》りあげ、熱《あつ》き嘘《いき》をくるしげにつがせ給ふ。御衣は柿色《かきいろ》のいたうすすびたるに、手足の爪《つめ》は獣《けもの》のごとく生《お》ひのびて、さながら魔王の形《かたち》、あさましくもおそろし。空《そら》にむかひて、[#行右小書き]一二九[#行右小書き終わり]相模《さがみ》々々と、叫《よ》ばせ給ふ。あと答へて、鳶《とび》のごとくの[#行右小書き]一三〇[#行右小書き終わり]化鳥《けてう》翔《かけ》来り、前《まへ》に伏《ふ》して詔《みことのり》をまつ。院、かの化鳥にむかひ給ひ、何ぞはやく重盛が命《いのち》を奪《と》りて、雅仁《まさひと》清盛《きよもり》をくるしめざる。化鳥こたへていふ。[#行右小書き]一三一[#行右小書き終わり]上皇《じやうくわう》の幸福《さいはひ》いまだ尽《つ》きず。重盛が忠信ちかづきがたし。今より[#行右小書き]一三二[#行右小書き終わり]支干《えと》一|周《めぐり》を待たば、重盛が命数《よはひ》既に尽きなん。他《かれ》死《し》せば一族の幸福《さいはひ》此の時に亡ぶべし。院、手を拍《う》つて怡《よろこ》ばせ給ひ、かの讐敵《あたども》ことごとく[#行右小書き]一三三[#行右小書き終わり]此の前の海に尽すべしと、御声谷峯に響《ひび》きて、凄《すざま》しさいふべくもあらず。魔道の浅ましきありさまを見て涙しのぶに堪《た》へず。復《ふたた》び一首の歌に随縁《ずゐえん》のこころをすすめたてまつる。 [#ここから3字下げ] [#行右小書き]一三四[#行右小書き終わり]よしや君昔の玉の床《とこ》とても     かからんのちは何にかはせん [#ここで字下げ終わり] [#行右小書き]一三五[#行右小書き終わり]刹利《せつり》も須陀《しゆだ》もかはらぬものをと、心あまりて高らかに吟《うた》ひける。 [#「白峯陵の前の「たひらなる石の上に座をしめ」た西行が、崇徳院の怨霊と対決する図」のキャプション付きの図(fig60609_02.png、横832×縦593)入る] [#ここからキャプション] 白峯陵の前の「たひらなる石の上に座をしめ」た西行が、崇徳院の怨霊と対決する図。「一段の陰火、君が膝の下より燃上がりて」という情景である。(原本三丁裏、四丁表の挿絵) [#ここでキャプション終わり]  此のことばを聞《(きこ)》しめして感《め》でさせ給ふやうなりしが、御面《みおもて》も和《やはら》ぎ、陰火もややうすく消えゆくほどに、つひに竜体《みかたち》もかきけちたるごとく見えずなれば、化鳥《けてう》もいづち去《ゆ》きけん跡もなく、十日あまりの月は峯にかくれて、木《こ》のくれやみのあやなきに、夢路《ゆめぢ》にやすらふが如し。ほどなく[#行右小書き]一三六[#行右小書き終わり]いなのめの明けゆく空に、朝鳥《あさとり》の音《こゑ》おもしろく鳴きわたれば、かさねて[#行右小書き]一三七[#行右小書き終わり]金剛経《こんがうきやう》一|巻《くわん》を供養《くやう》したてまつり、山をくだりて庵《いほり》に帰り、閑《しづ》かに終夜《よもすがら》のことどもを思ひ出づるに、平治の乱よりはじめて、人々の消息、年月のたがひなければ、深く慎《つつし》みて人にもかたり出でず。  其の後十三年を経て、[#行右小書き]一三八[#行右小書き終わり]治承《ちしよう》三年の秋、平《たひら》の重盛|病《やまひ》に係《かか》りて世を逝《さ》りぬれば、[#行右小書き]一三九[#行右小書き終わり]平相国《へいさうこく》入道、[#行右小書き]一四〇[#行右小書き終わり]君をうらみて[#行右小書き]一四一[#行右小書き終わり]鳥羽《とば》の離宮《とつみや》に籠《こ》めたてまつり、かさねて[#行右小書き]一四二[#行右小書き終わり]福原の茅《かや》の宮に困《くるし》めたてまつる。[#行右小書き]一四三[#行右小書き終わり]頼朝《よりとも》東風《とうふう》に競《きそ》ひおこり、[#行右小書き]一四四[#行右小書き終わり]義仲《よしなか》北雪《ほくせつ》をはらうて出づるに及び、平氏の一門ことごとく西の海に漂《ただよ》ひ、遂《つひ》に讃岐の海志戸[#行右小書き]一四五[#行右小書き終わり]八嶋にいたりて、武《たけ》きつはものどもおほく[#行右小書き]一四六[#行右小書き終わり]鼇魚《かうぎよ》のはらに葬《はぶ》られ、[#行右小書き]一四七[#行右小書き終わり]赤間《あかま》が関《せき》[#行右小書き]一四八[#行右小書き終わり]壇《だん》の浦にせまりて、[#行右小書き]一四九[#行右小書き終わり]幼主《えうしゆ》海に入らせたまへば、軍将《いくさぎみ》たちものこりなく亡びしまで、露たがはざりしぞおそろしくあやしき話柄《かたりぐさ》なりけり。其の後[#行右小書き]一五〇[#行右小書き終わり]御廟《みべう》は[#行右小書き]一五一[#行右小書き終わり]玉もて雕《ゑ》り、[#行右小書き]一五二[#行右小書き終わり]丹青《たんせい》を彩《ゑど》りなして、稜威《みいづ》を崇《あが》めたてまつる。かの国にかよふ人は、必ず幣《ぬさ》をささげて[#行右小書き]一五三[#行右小書き終わり]斎《いは》ひまつるべき御神なりけらし。 [#ここから2字下げ] 一 香川県坂出市青海町にあり、崇徳院の御陵がある。 二 京都と滋賀の境にあった関。関の番人に通行を許されて東国の方へ向ってから。 三 秋がきた山の紅葉の美景を見捨てがたく。この辺の文章は撰集抄による。 四 愛知県名古屋市緑区鳴海町付近の干潟。 五 静岡県富士市浮島沼付近の沼沢地。歌枕。 六 静岡県静岡市清水区興津清見寺町にあった関所。歌枕。 七 大磯・小磯ともに神奈川県大磯町にある。歌枕。 八 紫草の美しく咲く武蔵野。 九 宮城県塩釜市の海。 一〇 秋田県にかほ市象潟町。当時は入江であった。歌枕。 一一 群馬県高崎市の南部、佐野の烏川に架せられた、舟を並べて板を渡した橋。歌枕。 一二 木曾川上流地方のけわしい崖や山道にかけられた橋。 一三 一一六八年。高倉天皇の代。西行五一歳。 一四 「難波」の枕詞でもある。 一五 兵庫県の神戸・明石の海岸。源氏物語以後の名勝地。 一六 しみじみと感じながら。 一七 坂出市王越町にある。 一八 逗留する。 一九 悟りの道を念じて仏道修行するための庵。 二〇 七五代崇徳天皇が上皇となって新院とよばれた。 二一 樹木鬱蒼としたさま。万葉集一六「弥彦(いやひこ)のおのれ神さび青雲のたなびく日すら小雨そぼふる」。 二二 白峰の北方にある。 二三 野ばらと蔓草。 二四 宮中の儀式を行なう正殿と、陛下の常の御所であった中殿。 二五 七六代近衛天皇。崇徳天皇の異母弟。 二六 上皇・法皇の御所。 二七 鹿。麋は大鹿。 二八 雑草木やいばらの乱れ茂った藪。 二九 天皇。 三〇 前世でした悪い因縁。 三一 松山は香川県坂出市にある。かたなくはむなしく。形は潟の掛詞。山家集下に第五句「なりましにけり」として出ている。 三二 不気味で何か異常なことが起りそうである。 三三 何とはなしに。 三四 繁茂した木立は月光をもらさないので。 三五 物の見わけもつかぬ闇に心憂く疲れて。 三六 西行が出家直後の法名。西行は俗名佐藤義清、北面の武士であったが、二三歳で出家、諸国行脚の末、河内弘川寺で没した。行年七三歳。 三七 仏道をふかく信仰、帰依して正道をえた僧侶。 三八 山家集下に出ている。 三九 濁りけがれた現世をいとい離れる。死去することをいう。 四〇 仏縁にあずかりたいと思って法要申しあげているのに。法施は三施(財施・法施・無畏施)の一、法を聞かせて善根を増すことで、法要。随縁は仏縁につながる。 四一 生前の姿を現わす。 四二 死によってただちに妄執を忘れる。 四三 仏道修行の果報をえて完全無欠の仏の位につく。 四四 平治元年(一一五九)藤原信頼と源義朝が、藤原信西と平清盛を討伐しようとして起した乱。義朝方が敗れた。平治物語に詳しい。 四五 皇室。 四六 御心のおもむく所。 四七 賢明だとの評判。 四八 帝王道の道理は十分御存じでいらっしゃる。 四九 保元元年(一一五六)七月、崇徳上皇が皇位継承をめぐって同母弟後白河天皇と争って挙兵した乱。上皇方が敗れた。保元物語に詳しい。 五〇 天照大神をさす。 五一 永治元年(一一四一)。 五二 七四代鳥羽天皇。 五三 七六代近衛天皇。「なりひと」が正しい。 五四 崇徳上皇の第一皇子。 五五 鳥羽法皇の妃、近衛天皇の生母、藤原長実の女、得子。 五六 さまたげられて。 五七 鳥羽天皇の第四皇子で、七七代後白河天皇。 五八 天子として国を治める才。 五九 后妃のすむ御殿。ここでは美福門院をさす。 六〇 ちっとも。決して。 六一 周の武王が臣の身をもって殷の紂王を討った故事。 六二 周は武王にはじまり、三〇余代八百数十年つづいて、紀元前二五六年頃滅びた。 六三 天子として国を治める資格のある身。 六四 雌鶏が雄鶏をつついてときをつくらせるように、妻の権力が夫の上位にあるたとえ。 六五 出家して仏道に溺れ惑い。 六六 現世の煩悩から解放されて、未来で救いを得たいと願う利欲の心。 六七 儒教の説く現世の人間道を仏教の因果思想にひきつけ。 六八 中国古代の聖天子。仁徳をもって民を治めた。 六九 色声香味触(又は色名食財睡眠)の五欲が眼耳鼻舌身意の六根を通して心を穢す事。 七〇 五代応神天皇。 七一 応神天皇の第四皇子。一六代仁徳天皇。 七二 仁徳天皇の末弟。 七三 皇太子。 七四 御自害あそばされたので。 七五 天皇の位。 七六 朝鮮百済の学者。応神天皇一六年に来朝し帰化した。 七七 周の祖。殷の紂王の暴虐を怒ってこれを誅し、天下に仁政をしいた。「孟子」梁恵王下の「武王亦一怒而安[#二]天下之民[#一]」「臣弑[#二]其君[#一]可乎」「賊[#レ]仁者謂[#二]之賊[#一]、賊[#レ]義者謂[#二]之残[#一]、残賊之人、謂[#二]之一夫[#一]、聞[#レ]誅[#二]一夫紂[#一]矣、未[#レ]聞[#レ]弑[#レ]君也」による。 七八 中国戦国時代の哲学者孟軻の言説を記した書。このことは孟子、梁恵王章句下に記されている。 七九 歴史書と記録・文書の類。 八〇 このこと「五雑組」地部巻四に見えている。 八一 必ず、と同意。 八二 皇孫(天子の位)。 八三 詩経。 八四 兄弟は内輪で喧嘩しても、外部からのはずかしめに対しては協力一致して防げ(詩経・小雅)。 八五 そのうえに。 八六 鳥羽法皇。 八七 貴人の遺体を本葬するまでの間、柩に入れて安置しておく仮の御殿。 八八 天子は神の定めた器、天子の位は神意による。老子二九「天下神器、不[#レ]可[#レ]為也」。 八九 上皇が流罪にあうという前例のない刑罰。 九〇 昔のうらみ心。 九一 綾高遠。香川県坂出市松山にいた名家。 九二 天子の食事。 九三 普通には絶対ありえないことのたとえ。 九四 海辺で命を終ることであろう。鬼は死者の霊。 九五 大乗に属する経典で各宗派で違う。天台宗では華厳・大集・大品般若・法華・涅槃の五部をいう。 九六 法螺貝と梵鐘。寺院らしい寺院もない荒磯。 九七 鳥羽天皇の第五皇子、崇徳上皇の弟、覚性法親王。京都市右京区御室にある真言宗仁和寺の上首であった。 九八 鳥の跡は文字筆跡。松山は待つの掛詞。保元物語巻三にある。 九九 藤原通憲。保元の乱後権勢をふるい、平治の乱で斬首された。 一〇〇 議親法。天皇の五等親、太皇太后・皇太后の四等親、皇后の三等親までの親族が減刑されるという特別法。 一〇一 正法の妨げをなす邪道(天狗道)に自分が写経で修得した功徳をさしむけ。 一〇二 坂出市の北の海にある大椎・小椎島の間の椎途の海であろうか。 一〇三 果して。 一〇四 藤原信頼。近衛大将を望んで信西と争い、平治の乱を起して殺された。 一〇五 源義朝。為義の長子。保元の乱で父を討ち、平治の乱で清盛に敗れた。 一〇六 源為義。保元の乱で上皇方につき、敗れて斬首された。 一〇七 源為朝。為義の第八子。鎮西八郎。伊豆大島に流罪。 一〇八 平忠正。清盛の叔父。保元の乱で斬首された。 一〇九 勝利の気配。 一一〇 京都市中京区丸太町にあった、もと白河法皇の御所。 一一一 京都東山の主峰。 一一二 きこり・猟師など。 一一三 暴虐残忍な心にかえて。 一一四 国土を守る神。天皇。 一一五 家来に謀殺されたのは。 一一六 京都府宇治市宇治一帯の山。平治物語では木幡山。 一一七 ついに。果して。 一一八 京都六条付近の賀茂河原で、刑場に使われた。 一一九 一一六一―六三。実際にはその前年、永暦元年(一一六〇)一一月に死去。 一二〇 藤原忠通。後白河天皇を擁立し、保元の乱には天皇方についた。長寛二年(一一六四)二月没。 一二一 憤怒怨恨のはげしさを火にたとえた。 一二二 眷属。配下の悪魔たち。 一二三 人間としての果報。 一二四 平重盛。清盛の長子。 一二五 我につらく当った分だけは。 一二六 仏のすむ極楽浄土。ここは、とうてい極楽へなど行けない状態を指摘した。 一二七 ひとかたまりの鬼火。 一二八 乱れた髪。 一二九 白峰に住む天狗の名。謡曲「松山天狗」、「四国遍礼霊場記」、浄瑠璃「崇徳院讃岐伝記」に見える。 一三〇 鳥の姿をした化物。 一三一 後白河上皇。 一三二 ここでは一二年後。治承三年(一一七九)になる。 一三三 白峰北方の瀬戸内海。平家はここで源氏のために致命的な敗戦を喫した。 一三四 君は崇徳上皇。玉の床は金殿玉楼。山家集下に出ている。 一三五 王族も隷属民も。インド古代における四階級の第二位と第四位。 一三六 「明け」にかかる枕詞。 一三七 大般若経の内の一巻。悪魔退散、煩悩克服の功徳がある。 一三八 一一七九年。八〇代高倉天皇の代。 一三九 平清盛。相国は太政大臣の唐名。入道は剃髪して仏門に入ったもの。 一四〇 後白河法皇。 一四一 京都市伏見区鳥羽にあった鳥羽離宮。城南の離宮。 一四二 神戸市兵庫区福原町にあった。茅の宮は、茅ぶきの粗末な宮殿。 一四三 源頼朝が東国から機運に乗じて挙兵し。治承四年(一一八〇)のこと。 一四四 源義仲が北国から雪をけたてて上京し。寿永二年(一一八三)のこと。 一四五 屋島。香川県高松市の東北部にある半島。 一四六 魚介の餌食になって。鼇は海中にすむ大すっぽん。 一四七 山口県下関市の旧称。 一四八 下関海峡東口の北岸付近の海上。 一四九 安徳天皇。ときに八歳。 一五〇 御霊所。崇徳上皇没後二七年、建久二年(一一九一)後白河法皇が建立した頓証寺。 一五一 玉をちりばめ。 一五二 いろどり飾って。 一五三 自分のけがれをはらいきよめて神をまつる。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#3字下げ][#小見出し][#行右小書き]一[#行右小書き終わり]菊花《きくくわ》の約《ちぎり》[#小見出し終わり]  [#行右小書き]二[#行右小書き終わり]青々《せいせい》たる春の柳、家園《みその》に種《う》ゆることなかれ。交《まじは》りは軽薄《けいはく》の人と結ぶことなかれ。[#行右小書き]三[#行右小書き終わり]楊柳《やうりう》茂《しげ》りやすくとも、秋の初風《はつかぜ》の吹くに耐《た》へめや。軽薄の人は交りやすくして亦|速《すみやか》なり。楊柳いくたび春に染《そ》むれども、軽薄の人は絶《た》えて訪《とむら》ふ日なし。  [#行右小書き]四[#行右小書き終わり]播磨《(はりま)》の国|加古《(かこ)》の駅《うまや》に丈部《はせべ》左|門《もん》といふ[#行右小書き]五[#行右小書き終わり]博士《はかせ》あり。清貧《せいひん》を[#行右小書き]六[#行右小書き終わり]憩《あまな》ひて、友とする書《ふみ》の外は、すべて[#行右小書き]七[#行右小書き終わり]調度の絮煩《わづらはしき》を厭《いと》ふ。老母あり。[#行右小書き]八[#行右小書き終わり]孟氏《まうし》の操《みさを》にゆづらず。常に紡績《うみつむぎ》を事として左門がこころざしを助く。其の季女《いもうと》なるものは同じ里の佐用氏《さようぢ》に養はる。此の佐用が家は頗《すこぶ》る富みさかえて有りけるが、丈部母子の賢《かしこ》きを慕《した》ひ、娘子《をとめ》を娶《めと》りて親族となり、屡《しばしば》事に托《よ》せて物を餉《おく》るといへども、[#行右小書き]九[#行右小書き終わり]口腹《こうふく》の為に人を累《わづらは》さんやとて、敢《あへ》て承《う》くることなし。  一日《あるひ》左門同じ里の何某《なにがし》が許《もと》に訪《とぶら》ひて、いにしへ今の物がたりして興ある時に、壁《かべ》を隔《へだ》てて人の痛楚《くるし》む声いともあはれに聞えければ、主《あるじ》に尋ぬるに、あるじ答ふ。これより西の国の人と見ゆるが、[#行右小書き]一〇[#行右小書き終わり]伴《ともな》ひに後《おく》れしよしにて一宿《ひとよ》を求めらるるに、[#行右小書き]一一[#行右小書き終わり]士家《しか》の風《ふう》ありて卑《いや》しからぬと見しままに、逗《とど》めまゐらせしに、其の夜[#行右小書き]一二[#行右小書き終わり]邪熱《じやねつ》劇《はなはだ》しく、起臥《おきふし》も自《みづか》らはまかせられぬを、いとほしさに三日四日は過しぬれど、何地《いづち》の人ともさだかならぬに、主《あるじ》も思ひがけぬ過《あやまり》し出でて、ここち惑《まど》ひ侍りぬといふ。左門聞きて、かなしき物がたりにこそ。あるじの心安からぬも[#行右小書き]一三[#行右小書き終わり]さる事にしあれど、病苦の人はしるべなき旅の空に此の疾《やまひ》を憂《うれ》ひ給ふは、わきて胸窮《むねくる》しくおはすべし。其のやうをも看《み》ばやといふを、あるじとどめて、[#行右小書き]一四[#行右小書き終わり]瘟病《をんびやう》は人を過《あやま》つ物と聞ゆるから、家童《わらべ》らもあへてかしこに行かしめず。立ちよりて身を害し給ふことなかれ。左門笑うていふ。[#行右小書き]一五[#行右小書き終わり]死生《しせい》命《めい》あり。何の病か人に伝《つた》ふべき。これらは愚俗《ぐぞく》のことばにて、吾が們《ともがら》はとらずとて、戸を推《お》して入りつも其の人を見るに、あるじがかたりしに違《たが》はで、[#行右小書き]一六[#行右小書き終わり]倫《なみ》の人にはあらじを、病深きと見えて、面《おもて》は黄に、肌《はだへ》黒く痩《や》せ、古き衾《ふすま》のうへに悶《もだ》え臥《ふ》す。人なつかしげに左門を見て、湯ひとつ恵み給へといふ。左門ちかくよりて、士《し》憂へ給ふことなかれ。必ず救ひまゐらすべしとて、あるじと計《はか》りて、薬をえらみ、[#行右小書き]一七[#行右小書き終わり]自《みづか》ら方《はう》を案じ、みづから[#行右小書き]一八[#行右小書き終わり]煮てあたへつも、猶《(なほ)》粥《かゆ》をすすめて、病を看《み》ること同胞《はらから》のごとく、まことに捨てがたきありさまなり。  かの武士、左門が愛憐《あはれみ》の厚きに泪《(なみだ)》を流して、かくまで[#行右小書き]一九[#行右小書き終わり]漂客《へうかく》を恵み給ふ。死すとも御心に報《むく》いたてまつらんといふ。左門|諫《いさ》めて、ちからなきことはな聞え給ひそ。凡そ[#行右小書き]二〇[#行右小書き終わり]疫《えき》は日数あり。其のほどを過ぎぬれば寿命《ことぶき》をあやまたず。吾日々に詣《まう》でてつかへまゐらすべしと、実《まめ》やかに約《ちぎ》りつつも、心をもちゐて助けけるに、病|漸《やや》減じてここち清《すず》しくおぼえければ、あるじにも念比《(ねんごろ)》に詞をつくし、左門が[#行右小書き]二一[#行右小書き終わり]陰徳をたふとみて、其の生業《なりはひ》をもたづね、己《おの》が身の上をもかたりていふ。故《もと》[#行右小書き]二二[#行右小書き終わり]出雲《(いづも)》の国松江の郷《さと》に生長《ひととな》りて、赤穴宗右衛門《あかな(そうゑもん)》といふ者なるが、わづかに[#行右小書き]二三[#行右小書き終わり]兵書《へいしよ》の旨《むね》を察《あきら》めしによりて、[#行右小書き]二四[#行右小書き終わり]富田《とみた》の城主[#行右小書き]二五[#行右小書き終わり]塩冶掃部介《えんやかもんのすけ》、吾を師として物|学《まな》び給ひしに、近江の[#行右小書き]二六[#行右小書き終わり]佐々木氏綱《ささきうぢつな》に密《みそか》の使《つかひ》にえらばれて、かの館《みたち》にとどまるうち、前《さき》の城主[#行右小書き]二七[#行右小書き終わり]尼子経久《あまこつねひさ》、[#行右小書き]二八[#行右小書き終わり]山中|党《たう》をかたらひて、[#行右小書き]二九[#行右小書き終わり]大|三十日《みそか》の夜[#行右小書き]三〇[#行右小書き終わり]不慮《すずろ》に城を乗りとりしかば、掃部殿も討死《うちじに》ありしなり。もとより雲州《うんしう》は佐々木の持国《もちぐに》にて、塩冶は[#行右小書き]三一[#行右小書き終わり]守護代《しゆごだい》なれば、[#行右小書き]三二[#行右小書き終わり]三沢《みざは》三刀屋《みとや》を助けて、経久を亡《ほろぼ》し給へと、すすむれども、氏綱は外《ほか》勇《ゆう》にして内|怯《おび》えたる愚将なれば果さず。かへりて吾を国に逗《とど》む。[#行右小書き]三三[#行右小書き終わり]故《ゆゑ》なき所に永く居《を》らじと、[#行右小書き]三四[#行右小書き終わり]己《おの》が身ひとつを竊《ぬす》みて国に還《かへ》る路《みち》に、此の疾《やまひ》にかかりて、思ひがけずも師を労《わづら》はしむるは、身にあまりたる御恩《めぐみ》にこそ。吾[#行右小書き]三五[#行右小書き終わり]半世《はんせい》の命《いのち》をもて必ず報いたてまつらん。左門いふ。[#行右小書き]三六[#行右小書き終わり]見る所を忍びざるは、人たるものの心なるべければ、[#行右小書き]三七[#行右小書き終わり]厚き詞ををさむるに故なし。猶|逗《とど》まりて[#行右小書き]三八[#行右小書き終わり]いたはり給へと、実《まこと》ある詞を便りにて日比《(ひごろ)》経《ふ》るままに、[#行右小書き]三九[#行右小書き終わり]物みな平生《つね》に邇《ちか》くぞなりにける。 [#「文明十八年(一四八六)一月一日の早暁、尼子経久と山中党が富田城を襲撃した図」のキャプション付きの図(fig60609_03.png、横835×縦607)入る] [#ここからキャプション] 文明十八年(一四八六)一月一日の早暁、尼子経久と山中党が富田城を襲撃した図。構図は「菊花の約」が典拠とした「陰徳太平記」の記事によったと思われる。(原本十四丁裏、十五丁表の挿絵) [#ここでキャプション終わり]  此の日比、左門はよき友もとめたりとて、日夜《ひるよる》交《まじは》りて物がたりすに、赤穴《あかな》も[#行右小書き]四〇[#行右小書き終わり]諸子百家《しよしひやくか》の事[#行右小書き]四一[#行右小書き終わり]おろおろかたり出でて、問ひわきまふる心|愚《おろか》ならず。[#行右小書き]四二[#行右小書き終わり]兵機《へいき》のことわりは[#行右小書き]四三[#行右小書き終わり]をさをさしく聞えければ、ひとつとして相ともにたがふ心もなく、かつ感《め》で、かつよろこびて、終《つひ》に兄弟の盟《ちかひ》をなす。赤穴五歳長じたれば、伯氏《あに》たるべき礼義ををさめて、左門にむかひていふ。吾父母に離《わか》れまゐらせていとも久し。賢弟《けんてい》が老母は即《やが》て吾が母なれば、あらたに拝みたてまつらんことを願ふ。老母あはれみて[#行右小書き]四四[#行右小書き終わり]をさなき心を肯《う》け給はんや。左門|歓《よろこ》びに堪《た》へず。母なる者常に我が孤独を憂《うれ》ふ。信《まこと》ある言《ことば》を告げなば、齢《よはひ》も延《の》びなんにと、伴《ともな》ひて家に帰る。老母よろこび迎へて、吾が子[#行右小書き]四五[#行右小書き終わり]不才にて、学《まな》ぶ所時にあはず、[#行右小書き]四六[#行右小書き終わり]青雲《せいうん》の便りを失ふ。ねがふは捨てずして伯氏《あに》たる教を施《ほどこ》し給へ。赤穴拝していふ。[#行右小書き]四七[#行右小書き終わり]大丈夫は義を重しとす。功名富貴《こうめいふうき》はいふに足《た》らず。吾いま母公《ぼこう》の慈愛《めぐみ》をかうむり、[#行右小書き]四八[#行右小書き終わり]賢弟《けんてい》の敬《ゐや》を納むる、何の望《のぞみ》かこれに過ぐべきと、よろこびうれしみつつ、又|日来《ひごろ》をとどまりける。  きのふけふ咲きぬると見し[#行右小書き]四九[#行右小書き終わり]尾上《をのへ》の花も散りはてて、涼しき風による浪に、[#行右小書き]五〇[#行右小書き終わり]とはでもしるき夏の初《はじ》めになりぬ。赤穴《あかな》、母子《おやこ》にむかひて、吾が近江を遁《のが》れ来りしも、雲州の動静《やうす》を見んためなれば、一たび下向《くだ》りてやがて帰り来り、[#行右小書き]五一[#行右小書き終わり]菽水《しゆくすゐ》の奴《つぶね》に御恩《めぐみ》をかへしたてまつるべし。[#行右小書き]五二[#行右小書き終わり]今のわかれを給へといふ。左門いふ。さあらば兄長《このかみ》いつの時にか帰り給ふべき。赤穴いふ。月日は逝《ゆ》きやすし。おそくとも此の秋は過さじ。左門云ふ。秋はいつの日を定めて待つべきや。ねがふは約《やく》し給へ。赤穴云ふ。[#行右小書き]五三[#行右小書き終わり]重陽《ここぬか》の佳節《かせつ》をもて帰り来る日とすべし。左門いふ。兄長《このかみ》必ず此の日をあやまり給ふな。一枝の菊花に[#行右小書き]五四[#行右小書き終わり]薄酒《うすきさけ》を備へて待ちたてまつらんと、互《たがひ》に情《まこと》をつくして赤穴は西に帰りけり。  [#行右小書き]五五[#行右小書き終わり]あら玉の月日はやく経《へ》ゆきて、[#行右小書き]五六[#行右小書き終わり]下枝《したえ》の茱萸《ぐみ》色づき、垣根の[#行右小書き]五七[#行右小書き終わり]野ら菊|艶《にほ》ひやかに、九月《ながつき》にもなりぬ。九日《ここぬか》はいつよりも蚤《はや》く起出《おきい》でて、草の屋の[#行右小書き]五八[#行右小書き終わり]席《むしろ》をはらひ、黄菊しら菊二枝三枝|小瓶《こがめ》に挿《さ》し、[#行右小書き]五九[#行右小書き終わり]嚢《ふくろ》をかたぶけて酒飯《しゆはん》の設《まうけ》をす。老母云ふ。かの[#行右小書き]六〇[#行右小書き終わり]八雲たつ国は[#行右小書き]六一[#行右小書き終わり]山|陰《ぎた》の果《はて》にありて、ここには百里を隔《へだ》つると聞けば、けふとも定めがたきに、其の来《こ》しを見ても[#行右小書き]六二[#行右小書き終わり]物すとも遅《おそ》からじ。左門云ふ。赤穴は信《まこと》ある武士《もののべ》なれば必ず約《ちぎり》を誤《あやま》らじ。其の人を見てあわただしからんは、[#行右小書き]六三[#行右小書き終わり]思はんことの恥かしとて、美酒《よきさけ》を沽《か》ひ鮮魚《あざらけき》を宰《に》て厨《くりや》に備ふ。  此の日や天《そら》晴れて、[#行右小書き]六四[#行右小書き終わり]千里《ちさと》に雲のたちゐもなく、[#行右小書き]六五[#行右小書き終わり]草枕旅ゆく人の群《むれ》々かたりゆくは、けふは誰某《たれがし》がよき京入《みやこいり》なる。此の度《たび》の商物《あきもの》によき[#行右小書き]六六[#行右小書き終わり]徳とるべき[#行右小書き]六七[#行右小書き終わり]祥《さが》になん、とて過ぐ。五十《いそぢ》あまりの武士《もののべ》、廿《はたち》あまりの同じ出立《(いでたち)》なる、[#行右小書き]六八[#行右小書き終わり]日和《にわ》はかばかりよかりしものを、明石より船もとめなば、この[#行右小書き]六九[#行右小書き終わり]朝びらきに[#行右小書き]七〇[#行右小書き終わり]牛窓《うしまど》の門《と》の[#行右小書き]七一[#行右小書き終わり]泊《とまり》は追ふべき。若き男《をのこ》は[#行右小書き]七二[#行右小書き終わり]却《けく》物|怯《おびえ》して、銭おほく費《つひや》すことよといふに、殿《との》の上《のぼ》らせ給ふ時、[#行右小書き]七三[#行右小書き終わり]小豆嶋《あづきじま》より[#行右小書き]七四[#行右小書き終わり]室津《むろづ》のわたりし給ふに、[#行右小書き]七五[#行右小書き終わり]なまからきめにあはせ給ふを、従《みとも》に侍《はべ》りしもののかたりしを思へば、このほとりの渡りは必ず怯《おび》ゆべし。[#行右小書き]七六[#行右小書き終わり]な恚《ふづく》み給ひそ。[#行右小書き]七七[#行右小書き終わり]魚が橋の蕎麦《くろむぎ》ふるまひまをさんにと、いひなぐさめて行く。口とる男《をのこ》の腹だたしげに、此の[#行右小書き]七八[#行右小書き終わり]死馬《しにうま》は眼《まなこ》をもはたけぬかと、荷鞍《にぐら》おしなほして追ひもて行く。午時《ひる》もややかたぶきぬれど、待ちつる人は来らず。西に沈む日に、宿り急ぐ足のせはしげなるを見るにも、外《と》の方《かた》[#行右小書き]七九[#行右小書き終わり]のみまもられて心|酔《ゑ》へるが如し。  老母、左門をよびて、[#行右小書き]八〇[#行右小書き終わり]人の心の秋にはあらずとも、菊の色こきはけふのみかは。帰りくる信《まこと》だにあらば、空《そら》は[#行右小書き]八一[#行右小書き終わり]時雨にうつりゆくとも何をか怨《うら》むべき。入りて臥《ふ》しもして、又|翌《あす》の日を待つべし、とあるに、否《いな》みがたく、母をすかして前《さき》に臥さしめ、もしやと戸《と》の外《そと》に出でて見れば、[#行右小書き]八二[#行右小書き終わり]銀河《ぎんが》影きえぎえに、[#行右小書き]八三[#行右小書き終わり]氷輪《ひようりん》我のみを照して淋しきに、軒守《(のきも)》る犬の吼《ほ》ゆる声すみわたり、浦浪の音ぞ[#行右小書き]八四[#行右小書き終わり]ここもとにたちくるやうなり。月の光も山の際《は》に陰《くら》くなれば、今はとて戸を閉《た》てて入らんとするに、[#行右小書き]八五[#行右小書き終わり]ただ看《み》る、おぼろなる[#行右小書き]八六[#行右小書き終わり]黒影《かげろひ》の中に人ありて、[#行右小書き]八七[#行右小書き終わり]風の随《まにまに》来《く》るをあやしと見れば赤穴宗右衛門なり。  踊《をど》りあがるここちして、[#行右小書き]八八[#行右小書き終わり]小弟《せうてい》蚤《はや》くより待ちて今にいたりぬる。盟《ちかひ》たがはで来り給ふことのうれしさよ。いざ入らせ給へといふめれど、只|点頭《うなづ》きて物をもいはである。左門|前《さき》にすすみて、[#行右小書き]八九[#行右小書き終わり]南の窓《まど》の下《もと》にむかへ、座につかしめ、兄長《このかみ》来り給ふことの遅かりしに、老母も待ちわびて、翌《(あす)》こそと臥所《ふしど》に入らせ給ふ。寤《さま》させまゐらせんといへるを、赤穴又|頭《かしら》を揺《ふ》りてとどめつも、更《さら》に物をもいはでぞある。左門云ふ。既に[#行右小書き]九〇[#行右小書き終わり]夜を続《つ》ぎて来《こ》し給ふに、心も倦《う》み足も労《つか》れ給ふべし。幸《さいはひ》に一|杯《ぱい》を酌《く》みて歇息《やす》ませ給へとて、酒をあたため、下物《さかな》を列《つら》ねてすすむるに、赤穴[#行右小書き]九一[#行右小書き終わり]袖をもて面《おもて》を掩《おほ》ひ、其の臭《にほ》ひを嫌《い》み放《さ》くるに似たり。左門いふ。[#行右小書き]九二[#行右小書き終わり]井臼《せいきう》の力《つとめ》はた款《もてな》すに足《た》らざれども、己《おの》が心なり。いやしみ給ふことなかれ。赤穴|猶《(なほ)》答へもせで、長嘘《ながきいき》をつぎつつ、しばししていふ。賢弟が信《まこと》ある饗応《あるじぶり》をなどいなむべきことわりやあらん。欺《あざむ》くに詞なければ、実《じつ》をもて告《つ》ぐるなり。必ずしもあやしみ給ひそ。吾は[#行右小書き]九三[#行右小書き終わり]陽世《うつせみ》の人にあらず、[#行右小書き]九四[#行右小書き終わり]きたなき霊《たま》のかりに形《かたち》を見えつるなり。  左門大いに驚きて、兄長《このかみ》何ゆゑにこの[#行右小書き]九五[#行右小書き終わり]あやしきをかたり出で給ふや。更に夢ともおぼえ侍らず。赤穴いふ。賢弟とわかれて国にくだりしが、国人《くにびと》大かた経久が勢《いきほ》ひに服《つ》きて、塩冶《えんや》の恩《めぐみ》を顧《かへりみ》るものなし。従弟《いとこ》なる赤穴《あかな》丹治、富田の城にあるを訪《とむら》ひしに、利害を説きて吾を経久に見《まみ》えしむ。仮《かり》に其の詞を容《い》れて、つらつら経久がなす所を見るに、[#行右小書き]九六[#行右小書き終わり]万夫《ばんぷ》の雄《ゆう》人に勝《すぐ》れ、よく士卒《いくさ》を習練《たなら》すといへども、[#行右小書き]九七[#行右小書き終わり]智を用ふるに狐疑《こぎ》の心おほくして、[#行右小書き]九八[#行右小書き終わり]腹心《ふくしん》爪牙《さうが》の家の子なし。永く居《を》りて益《やう》なきを思ひて、賢弟が菊花の約《ちぎり》ある事をかたりて去らんとすれば、経久|怨《うら》める色ありて、丹治に令《れい》し、吾を[#行右小書き]九九[#行右小書き終わり]大城《おほぎ》の外にはなたずして、遂《つひ》にけふにいたらしむ。此の約《ちかひ》にたがふものならば、賢弟吾を[#行右小書き]一〇〇[#行右小書き終わり]何ものとかせんと、ひたすら思ひ沈めども遁《のが》るるに方なし。いにしへの人のいふ。[#行右小書き]一〇一[#行右小書き終わり]人一日に千《ち》里をゆくことあたはず。魂《たま》よく一日に千里をもゆくと。此のことわりを思ひ出でて、みづから刃《やいば》に伏《ふ》し、今夜《こよひ》[#行右小書き]一〇二[#行右小書き終わり]陰風《かぜ》に乗りてはるばる来り菊花の約《ちかひ》に赴《つ》く。[#行右小書き]一〇三[#行右小書き終わり]この心をあはれみ給へといひをはりて、泪《(なみだ)》わき出づるが如し。今は永きわかれなり。只|母公《ぼこう》によくつかへ給へとて、座を立つと見しが、かき消えて見えずなりにける。  左門|慌忙《あわて》とどめんとすれば、陰風《いんぷう》に眼《まなこ》くらみて行方《ゆくへ》をしらず。俯向《うつぶし》につまづき倒れたるままに、声を放ちて大いに哭《なげ》く。老母目さめ驚き立ちて、左門がある所を見れば、[#行右小書き]一〇四[#行右小書き終わり]座上《とこのべ》に酒瓶《さかがめ》[#行右小書き]一〇五[#行右小書き終わり]魚《な》盛《も》りたる皿《さら》どもあまた列べたるが中に臥倒《ふしたふ》れたるを、いそがはしく扶起《たすけおこ》して、いかにととへども、只[#行右小書き]一〇六[#行右小書き終わり]声を呑《の》みて泣く泣くさらに言《ことば》なし。老母問ひていふ。伯氏《あに》赤穴が約《ちかひ》にたがふを怨《うら》むるとならば、明日《あす》なんもし来るには[#行右小書き]一〇七[#行右小書き終わり]言《ことば》なからんものを。汝かくまで[#行右小書き]一〇八[#行右小書き終わり]をさなくも愚かなるかとつよく諫《いさ》むるに、左門|漸《やや》答へていふ。兄長《このかみ》今夜《こよひ》菊花の約《ちかひ》に特《わざわざ》来る。[#行右小書き]一〇九[#行右小書き終わり]酒殽《しゆかう》をもて迎ふるに、再三《あまたたび》辞《いな》み給うて云ふ。しかじかのやうにて約《ちかひ》に背《そむ》くがゆゑに、自《みづか》ら刃《やいば》に伏して陰魂《なきたま》百里を来るといひて見えずなりぬ。それ故にこそは母の眠《ねむり》をも驚《おどろか》したてまつれ。只々|赦《ゆる》し給へと潸然《さめざめ》と哭《なき》入るを、老母いふ。[#行右小書き]一一〇[#行右小書き終わり]牢裏《らうり》に繋《つな》がるる人は夢にも赦《ゆる》さるるを見え、渇《かつ》するものは夢に漿水《しやうすゐ》を飲むといへり。汝も又さる類《たぐひ》にやあらん。よく心を静むべしとあれども、左門|頭《かしら》を揺《ふ》りて、まことに[#行右小書き]一一一[#行右小書き終わり]夢の正《まさ》なきにあらず。兄長《このかみ》は[#行右小書き]一一二[#行右小書き終わり]ここもとにこそありつれと、又声を放《あ》げて哭倒《なきたふ》る。老母も今は疑《うたが》はず、[#行右小書き]一一三[#行右小書き終わり]相|叫《よ》びて其の夜は哭《な》きあかしぬ。  明くる日、左門母を[#行右小書き]一一四[#行右小書き終わり]拝していふ。吾|幼《をさな》きより身を[#行右小書き]一一五[#行右小書き終わり]翰墨《かんぼく》に托《よ》するといへども、国に忠義の聞えなく、家に孝信をつくすことあたはず、[#行右小書き]一一六[#行右小書き終わり]徒《いたづら》に天地のあひだに生《うま》るるのみ。兄長《このかみ》赤穴は一生を信義の為に終る。小弟けふより出雲に下り、せめては[#行右小書き]一一七[#行右小書き終わり]骨を蔵《をさ》めて信《しん》を全《まつた》うせん。[#行右小書き]一一八[#行右小書き終わり]公《きみ》尊体《おほんみ》を保ち給うて、しばらくの暇《いとま》を給ふべし。老母云ふ。吾が児《こ》かしこに去るとも、はやく帰りて老が心を休めよ。永く逗《とどま》りて[#行右小書き]一一九[#行右小書き終わり]けふを旧《ひさ》しき日となすことなかれ。左門いふ。[#行右小書き]一二〇[#行右小書き終わり]生《しやう》は浮きたる漚《あわ》のごとく、旦《あさ》にゆふべに定めがたくとも、やがて帰りまゐるべしとて、泪を振うて家を出づ。佐用氏にゆきて老母の介抱《いたはり》を苦《ねんごろ》に[#行右小書き]一二一[#行右小書き終わり]あつらへ、出雲の国にまかる路《みち》に、[#行右小書き]一二二[#行右小書き終わり]飢ゑて食《しよく》を思はず、寒きに衣をわすれて、まどろめば夢にも哭《な》きあかしつつ、十日を経《へ》て富田の大|城《ぎ》にいたりぬ。  先づ赤穴丹治が宅《いへ》にいきて、[#行右小書き]一二三[#行右小書き終わり]姓名をもていひ入るるに、丹治迎へ請《しやう》じて、[#行右小書き]一二四[#行右小書き終わり]翼《つばさ》ある物の告ぐるにあらで、いかでしらせ給ふべき謂《いはれ》なしと、しきりに問|尋《もと》む。左門いふ。士《し》たる者は富貴《ふうき》[#行右小書き]一二五[#行右小書き終わり]消息《せうそく》の事ともに論ずべからず。只信義をもて重しとす。伯氏《あに》宗右衛門|一旦《ひとたび》の約《ちかひ》をおもんじ、むなしき魂《たま》の百里を来るに[#行右小書き]一二六[#行右小書き終わり]報《むくい》すとて、[#行右小書き]一二七[#行右小書き終わり]日夜を逐《お》うてここにくだりしなり。吾が学《まな》ぶ所について士に尋ねまゐらすべき旨《むね》あり。ねがふは明かに答へ給へかし。昔[#行右小書き]一二八[#行右小書き終わり]魏《ぎ》の公叔座《こうしゆくざ》病の牀《ゆか》にふしたるに、魏王みづからまうでて手をとりつも告ぐるは、若《も》し[#行右小書き]一二九[#行右小書き終わり]諱《い》むべからずのことあらば、誰をして[#行右小書き]一三〇[#行右小書き終わり]社稷《くに》を守らしめんや。吾がために教を遺《のこ》せとあるに、叔座いふ。[#行右小書き]一三一[#行右小書き終わり]商鞅《しやうあう》年少しといへども[#行右小書き]一三二[#行右小書き終わり]奇才《きさい》あり。王《きみ》若《も》し此の人を用ゐ給はずば、これを殺しても[#行右小書き]一三三[#行右小書き終わり]境《さかひ》を出すことなかれ。他の国にゆかしめば、必ずも後の禍《わざはひ》となるべしと、苦《ねんごろ》に教へて、又商鞅を私《ひそ》かにまねき、吾汝を[#行右小書き]一三四[#行右小書き終わり]すすむれども王|許《ゆる》さざる色あれば、用ゐずばかへりて汝を害し給へと教ふ。是君を先にし、臣を後にするなり。汝|速《はや》く他《ひと》の国に去りて害を免《のが》るべしといへり。此の事、[#行右小書き]一三五[#行右小書き終わり]士《し》と宗右衛門に比《たぐ》へてはいかに。丹治只|頭《かしら》を低《た》れて言《ことば》なし。左門座をすすみて、伯氏宗右衛門、塩冶が旧交《よしみ》を思ひて尼子に仕へざるは義士なり。士は、旧主の塩冶を捨てて尼子に降《くだ》りしは士たる義なし。伯氏《あに》は菊花の約《ちかひ》を重んじ、命を捨てて百里を来《こ》しは信《まこと》ある極《かぎり》なり。士は今尼子に媚《こ》びて[#行右小書き]一三六[#行右小書き終わり]骨肉《こつにく》の人をくるしめ、此の[#行右小書き]一三七[#行右小書き終わり]横死《わうし》をなさしむるは友とする信《まこと》なし。経久|強《し》ひてとどめ給ふとも、旧《ひさ》しき交《まじは》りを思はば、私《ひそか》に商鞅叔座が信《まこと》をつくすべきに、只[#行右小書き]一三八[#行右小書き終わり]栄利《えいり》にのみ走りて[#行右小書き]一三九[#行右小書き終わり]士家《しか》の風《ふう》なきは、即《すなは》ち尼子の家風《かふう》なるべし。[#行右小書き]一四〇[#行右小書き終わり]さるから兄長《このかみ》、何故此の国に足をとどむべき。吾、今信義を重んじて態々《わざわざ》ここに来る。汝は又不義のために汚名《をめい》をのこせとて、いひもをはらず抜打《ぬきうち》に斬りつくれば、一|刀《かたな》にてそこに倒る。[#行右小書き]一四一[#行右小書き終わり]家眷《いへのこ》ども立ち騒ぐ間《ひま》にはやく逃《のが》れ出でて[#行右小書き]一四二[#行右小書き終わり]跡なし。  尼子経久此のよしを伝へ聞きて、兄弟信義の篤《あつ》きをあはれみ、左門が跡をも強《し》ひて逐《お》はせざるとなり。[#行右小書き]一四三[#行右小書き終わり]咨《ああ》軽薄の人と交りは結ぶべからずとなん。 [#ここから2字下げ] 一 菊の節句。九月九日重陽の佳節に再会を約束し、魂魄となってそれを果すという主題にもとづく。 二 中国白話小説、范巨卿鶏黍死生交の書出し「種[#レ]樹莫[#レ]種[#二]垂楊枝[#一]、結[#レ]交莫[#レ]結[#二]軽薄児[#一]、楊枝不[#レ]耐[#二]秋風吹[#一]、軽薄易[#レ]結還易[#レ]離、云々」の翻訳。 三 川柳としだれ柳。 四 兵庫県加古川市。駅は宿場。古来交通の要衝。 五 学者。儒者。 六 甘んじて。 七 家財道具があれこれあるのをうるさく思う。 八 中国戦国時代の人。孟子の母で、孟母三遷、断機の教えで名高い賢母。 九 生活のために人に厄介をかけることができようか。 一〇 連れ。同伴者。 一一 武士らしい風采。 一二 悪性の病熱。 一三 もっともなことであるが。 一四 流行病は人に伝染してその人を害する。范巨卿鶏黍死生交に「瘟病過[#レ]人」とある。 一五 人間の生死は天命の定めるところである。論語、顔淵篇「死生有[#レ]命、富貴在[#レ]天」。 一六 素姓のない人とは思えないが。氏素姓・人品ともにすぐれている。 一七 自分で処方を考えて。 一八 内服の漢方薬は煎薬が多い。 一九 見ず知らずの行きずりの旅人。 二〇 流行病には一定の罹病期間がある。その期間をすぎてしまうと生命をまっとうする。 二一 人に知られぬ隠れた善行。 二二 島根県松江市。 二三 軍学の道をきわめたので。 二四 島根県安来市の東部。今「トダ」という。 二五 一五世紀に出雲にいた武将。代官として富田城にいたが、のち尼子経久に攻めほろぼされた。 二六 一五世紀未、滋賀県を本拠とした武将。塩冶氏の主筋。 二七 一五、六世紀の武将。佐々木氏の配下として出雲の守護代をつとめたが、放逐され、のち再起して中国地方一一国を領した。 二八 山中鹿之介一味を味方として。出雲の豪族で有名な武将。 二九 文明一七年(一四八五)一二月の大晦日。 三〇 不意討ちをして。 三一 守護職の代理として現地にあって実際の政務をとるもの。代官。 三二 三沢も三刀屋も出雲地方の豪族。 三三 いる理由のない所。 三四 単身ひそかにぬけ出して。 三五 後半生。 三六 人の不幸を見殺しにできないのは人間の本性であるから。 三七 鄭重なお礼の言葉をうける理由がない。 三八 養生する。 三九 健康状態がほとんど平生の状態に回復した。 四〇 中国の春秋戦国時代にそれぞれ一派の学説をとなえた思想家・哲学者の総称。またその著述。 四一 ぽつりぽつり。少々。 四二 戦術理論。 四三 確信をもって卓越した話をしたので。 四四 私の幼稚で愚かな心。 四五 才能がなくて。 四六 立身出世する機会。 四七 大丈夫は義を第一とし、義をつらぬきとおすものである。 四八 賢弟から兄としての尊敬をうける。 四九 加古川市尾上町の桜。有名な桜で、諸書・諸歌にひかれている。 五〇 人に問うまでもなくあきらかに知られる初夏。 五一 豆粥をすすり水をのむような貧しい暮らしのなかで親に孝養をつくすこと。菽は豆。豆粥。奴はしもべ。奉仕する。 五二 しばしのお暇。 五三 陰暦九月九日の節句。五節句の一。グミの節句、菊の節句ともいう。 五四 粗酒。謙遜していう。 五五 「月日」の枕詞。 五六 木の下方の枝になっているグミが熟し色づいて。 五七 野菊が色美しく咲いて。 五八 掃除をして。 五九 財布の底をはたいて。 六〇 出雲の国。古事記上「八雲たつ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を」。 六一 山陰地方。陰は、山の場合は北、河の場合は南。 六二 饗応の支度をする。代動詞。 六三 その人がどう思うか、そのおもわくが恥かしい。 六四 見渡すかぎり一片の雲もなく。 六五 「旅」の枕詞。 六六 儲け。利益。 六七 前兆。 六八 海面。平穏な海原。 六九 朝早く船出すること。 七〇 岡山県瀬戸内市牛窓町の港。 七一 牛窓の港にむけて船を走らせていたはず。 七二 かえって。 七三 香川県小豆郡の小豆島で、瀬戸内海中の大きな島。いまは「しょうどしま」という。 七四 兵庫県たつの市御津町の港。瀬戸内海航路の要港であった。 七五 こっぴどい目。さんざんな目。 七六 お怒りなさいますな。 七七 兵庫県高砂市阿弥陀町。 七八 くたばり馬めは、眼もあかないのか。馬が物につまずいたのを居眠りでもしていたのだろうとして罵った言葉。 七九 「のみ、まもられて」と訓む。まもるは見まもる。 八〇 人の心のかわりやすいのを秋空にたとえる。「飽き」の掛詞。交り厚く、饗応のこまやかなのを菊の色の濃いことにたとえる。 八一 時節は遅れてしぐれふる秋冬の候になっても。 八二 天の川の星の光がいまにも消えそうに弱って。 八三 月の異名。 八四 夜の静寂に、浪音が高く近く聞こえて、すぐ足もとまでうちよせてくるようである。 八五 ふとみると。中国白話小説によく用いられる語。 八六 黒い影。 八七 風にしたがって。 八八 私。義兄弟の弟としての謙辞。 八九 南面した客間の窓の下。窓の下は客の正座。 九〇 夜を日についで。昼夜兼行で。 九一 すでにこの世の人でない赤穴が、なまぐさいものをきらう様子。 九二 貧しい手料理であるからとてもおもてなしするには不足であるが。井臼の力は、自分で水を汲み米を搗くこと。款すは饗応する。 九三 現世の人。 九四 死霊。亡魂。 九五 どうしてこんな奇怪なことをおっしゃるのですか。 九六 万人に匹敵するほどの雄略があって。 九七 智者を用いるのに疑いぶかい性質がひどく。 九八 主君のために手足となって働く忠実な家臣。 九九 本城。富田城。 一〇〇 義をまもらぬうそつきで信ずるに足りないやつと思われるであろう。 一〇一 范巨卿鶏黍死生交に「古人有[#レ]云、人不[#レ]能[#レ]行[#二]千里[#一]、魂能日行[#二]千里[#一]」とある。 一〇二 妖怪や亡霊がのって来る冥途から吹く風。 一〇三 この気持を憐憫をもって汲みとって下さい。 一〇四 客席のあたりに。 一〇五 魚を「な」とよましているから、肴、料理の意。 一〇六 声をたてずに忍び泣きに泣きながら。 一〇七 何ともいうべき言葉がないだろう。 一〇八 子供のように物の道理がわからないのか。 一〇九 酒と肴。 一一〇 范巨卿鶏黍死生交に「古人有[#レ]云、囚人夢[#レ]赦、渇人夢[#レ]漿」とある。牢裏は監獄の中。漿水は飲料水。 一一一 けっして夢のようなそらごとではない。 一一二 このところに。 一一三 互いに声をあげて。 一一四 礼を正して願い出る。 一一五 学問文事に専念してきたとはいいながら。 一一六 無意味にこの世に生きているだけである。 一一七 遺骨を葬って。 一一八 母上には御身をお大切になさって。 一一九 今日の別れを永久の別れの日としないで下さい。 一二〇 人生は水に浮いている泡の如きもので、朝に夕にいつ消えるとも定めがたいものではあるが。范巨卿鶏黍死生交の「生如[#二]浮漚[#一]、死生之事、旦夕難[#レ]保」による。 一二一 頼んで。 一二二 ただ赤穴のことのみ思いつづけて、飢えても食をとろうとせず。范巨卿鶏黍死生交の「沿路上饑不[#レ]択[#レ]食、寒不[#レ]思[#レ]衣」による。 一二三 姓名を名のって面会をもとめると。 一二四 雁の便りにでも託して宗右衛門の死を知らせなければ。 一二五 盛衰。 一二六 その信義に対して、信義をもってむくいようとして。 一二七 夜に日をついで。 一二八 魏は中国古代の一国。公叔座は魏の宰相。この話は史記、商君列伝にある。 一二九 万が一のこと。死ぬこと。 一三〇 宰相としようか。 一三一 のちに秦の宰相となった有名な刑名家。 一三二 世にもまれなすぐれた才能。 一三三 国境から出す。 一三四 推挙したが。 一三五 あなた。貴殿。 一三六 血縁の人。 一三七 非業の死。変死。 一三八 栄達利益にばかりとらわれて。 一三九 真に武士らしい風儀。 一四〇 それだから。 一四一 赤穴丹治の家臣たち。 一四二 行方をくらました。 一四三 ああ、軽薄の人と交わりを結んではならないというが、まさにその通りである。起筆の部分と呼応している。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#1字下げ][#中見出し]雨月物語 巻之二[#中見出し終わり] [#3字下げ][#小見出し][#行右小書き]一[#行右小書き終わり]浅茅《あさぢ》が宿《やど》[#小見出し終わり]  [#行右小書き]二[#行右小書き終わり]下総《しもふさ》の国|葛飾郡《かつしかのこほり》真間《まま》の郷《さと》に、勝《かつ》四郎といふ男ありけり。祖父《おほぢ》より旧《ひさ》しくここに住み、田|畠《ばた》あまた[#行右小書き]三[#行右小書き終わり]主《ぬし》づきて家豊かに暮しけるが、[#行右小書き]四[#行右小書き終わり]生長《ひととな》りて物にかかはらぬ性《さが》より、農作《なりはひ》を[#行右小書き]五[#行右小書き終わり]うたてき物に厭《いと》ひけるままに、[#行右小書き]六[#行右小書き終わり]はた家貧しくなりにけり。さるほどに親族《うから》おほくにも疎《うと》んじられけるを、[#行右小書き]七[#行右小書き終わり]朽《くち》をしきことに思ひしみて、いかにもして家を興《おこ》しなんものをと[#行右小書き]八[#行右小書き終わり]左右《とかく》にはかりける。其の比《(ころ)》雀部《ささべ》の曾《そう》次といふ人、[#行右小書き]九[#行右小書き終わり]足利《あしかが》染の絹を交易するために、年々京よりくだりけるが、此の郷《さと》に氏族《やから》のありけるを屡《しばしば》来訪《きとぶら》ひしかば、かねてより親しかりけるままに、商人となりて京に[#行右小書き]一〇[#行右小書き終わり]まうのぼらんことを頼みしに、雀部いとやすく肯《うけが》ひて、いつの比《(ころ)》はまかるべしと聞えける。他《かれ》がたのもしきをよろこびて、残《のこ》る田をも販《う》りつくして金《かね》に代《か》へ、[#行右小書き]一一[#行右小書き終わり]絹素《きぬ》あまた買積《かひつ》みて、京にゆく日を[#行右小書き]一二[#行右小書き終わり]もよほしける。  勝四郎が妻|宮木《みやぎ》なるものは、[#行右小書き]一三[#行右小書き終わり]人の目とむるばかりの容《かたち》に、心ばへも愚かならずありけり。此の度勝四郎が商物《あきもの》買ひて京《みやこ》にゆくといふをうたてきことに思ひ、言《ことば》をつくして諫《いさ》むれども、[#行右小書き]一四[#行右小書き終わり]常の心のはやりたるにせんかたなく、[#行右小書き]一五[#行右小書き終わり]梓弓《あづさゆみ》末《すゑ》のたづきの心ぼそきにも、かひがひしく[#行右小書き]一六[#行右小書き終わり]調《こしら》へて、其の夜は[#行右小書き]一七[#行右小書き終わり]さりがたき別れをかたり、かくてはたのみなき女心の、[#行右小書き]一八[#行右小書き終わり]野にも山にも惑《まど》ふばかり、物うきかぎりに侍り。朝《あした》に夕にわすれ給はで、速《はや》く帰り給へ。[#行右小書き]一九[#行右小書き終わり]命だにとは思ふものの、明《あす》をたのまれぬ世のことわりは、武《たけ》き御《み》心にもあはれみ給へといふに、いかで[#行右小書き]二〇[#行右小書き終わり]浮木《うきぎ》に乗りつも、しらぬ国に長居せん。[#行右小書き]二一[#行右小書き終わり]葛《くず》のうら葉のかへるは此の秋なるべし。心づよく待ち給へと、いひなぐさめて、夜も明けぬるに、[#行右小書き]二二[#行右小書き終わり]鳥が啼《(な)》く東《あづま》を立ち出でて京の方へ急ぎけり。  此年《ことし》[#行右小書き]二三[#行右小書き終わり]享徳《きやうとく》の夏、[#行右小書き]二四[#行右小書き終わり]鎌倉の御所《ごしよ》成氏朝臣《しげうぢあそん》、[#行右小書き]二五[#行右小書き終わり]管領《くわんれい》の上杉《うへすぎ》と御中|放《さ》けて、館《みたち》兵《ひやう》火に跡なく滅びければ、御所は[#行右小書き]二六[#行右小書き終わり]総州《そうしう》の御|味方《みかた》へ落ちさせ給ふより、関の東|忽《(たちま)》ちに乱れて、[#行右小書き]二七[#行右小書き終わり]心々の世の中となりしほどに、老いたるは山に逃竄《にげかく》れ、[#行右小書き]二八[#行右小書き終わり]弱《わか》きは軍民《いくさびと》にもよほされ、けふは此所を焼きはらふ、明《あす》は敵のよせ来るぞと、女わらべ等《ら》は東西《をちこち》に逃げまどひて泣きかなしむ。勝四郎が妻なるものも、いづちへも遁《のが》れんものをと思ひしかど、此の秋を待てと聞えし夫《をつと》の言《ことば》を頼みつつも、安からぬ心に日をかぞへて暮しける。秋にもなりしかど風の便りもあらねば、[#行右小書き]二九[#行右小書き終わり]世とともに憑《たの》みなき人心かなと、恨みかなしみ[#行右小書き]三〇[#行右小書き終わり]おもひくづほれて、 [#ここから3字下げ] [#行右小書き]三一[#行右小書き終わり]身のうさは人しも告げじあふ坂の     夕づけ鳥よ秋も暮れぬと [#ここで字下げ終わり]  かくよめれども、国あまた隔てぬれば、いひおくるべき伝《つて》もなし。世の中|騒《さわ》がしきにつれて、人の心も恐ろしくなりにたり。適間《たまたま》とぶらふ人も、宮木がかたちの愛《めで》たきを見ては、さまざまにすかしいざなへども、[#行右小書き]三二[#行右小書き終わり]三|貞《てい》の賢《かしこ》き操《みさを》を守りてつらくもてなし、後は戸を閉《た》てて見えざりけり。一人《ひとり》の婢女《はしため》も去りて、すこしの貯《たくはへ》もむなしく、其の年も暮れぬ。年あらたまりぬれども猶《(なほ)》をさまらず。[#行右小書き]三三[#行右小書き終わり]あまさへ去年《こぞ》の秋、[#行右小書き]三四[#行右小書き終わり]京家の下知として、[#行右小書き]三五[#行右小書き終わり]美濃の国|郡上《ぐじやう》の主《ぬし》、[#行右小書き]三六[#行右小書き終わり]東《とう》の下野守《(しもつけのかみ)》常縁《つねより》に[#行右小書き]三七[#行右小書き終わり]御旗《みはた》を給《た》びて、[#行右小書き]三八[#行右小書き終わり]下野の領所《しるところ》にくだり、氏族《しぞく》[#行右小書き]三九[#行右小書き終わり]千葉《ちば》の実胤《さねたね》とはかりて[#行右小書き]四〇[#行右小書き終わり]責《せ》むるにより、御所方も固く守りて拒《ふせ》ぎ戦ひけるほどに、いつ果つべきとも見えず。[#行右小書き]四一[#行右小書き終わり]野伏等《のぶしら》はここかしこに寨《さい》をかまへ、火を放ちて財《たから》を奪ふ。[#行右小書き]四二[#行右小書き終わり]八州《はつしう》すべて安き所もなく、浅ましき世の費《つひえ》なりけり。  勝四郎は雀部《ささべ》に従ひて京にゆき、絹ども残りなく交易せしほどに、当時《このごろ》都は[#行右小書き]四三[#行右小書き終わり]花美《くわび》を好む節《とき》なれば、[#行右小書き]四四[#行右小書き終わり]よき徳とりて東《あづま》に帰る用意《はかりごと》をなすに、今度《このたび》上杉の兵《つはもの》鎌倉の御所を陥《おと》し、なほ御[#行右小書き]四五[#行右小書き終わり]跡をしたうて責討《せめう》てば、古郷《ふるさと》の辺《ほと》りは[#行右小書き]四六[#行右小書き終わり]干戈《かんくわ》みちみちて、[#行右小書き]四七[#行右小書き終わり]涿鹿《たくろく》の岐《ちまた》となりしよしを[#行右小書き]四八[#行右小書き終わり]いひはやす。まのあたりなるさへ偽《いつはり》おほき[#行右小書き]四九[#行右小書き終わり]世説《よがたり》なるを、まして[#行右小書き]五〇[#行右小書き終わり]しら雲の八重に隔たりし国なれば、心も心ならず、八月《はづき》のはじめ京《みやこ》をたち出でて、[#行右小書き]五一[#行右小書き終わり]岐曾《きそ》の真坂《みさか》を日くらしに踰《こ》えけるに、落草《ぬすびと》ども道を塞《ささ》へて、行李《にもつ》も残りなく奪《うば》はれしがうへに、人のかたるを聞けば、是より東の方は所々に新関《しんせき》を居《す》ゑて、旅客《たびびと》の往来《いきき》をだに宥《ゆる》さざるよし。さては[#行右小書き]五二[#行右小書き終わり]消息《おとづれ》をすべきたづきもなし。家も兵火《ひやうくわ》にや亡びなん。妻も世に生きてあらじ。しからば古郷《ふるさと》とても[#行右小書き]五三[#行右小書き終わり]鬼《おに》のすむ所なりとて、ここより又|京《みやこ》に引きかへすに、近江の国に入りて、にはかにここちあしく、[#行右小書き]五四[#行右小書き終わり]熱《あつ》き病を憂《うれ》ふ。[#行右小書き]五五[#行右小書き終わり]武佐《むさ》といふ所に、児玉《こだま》嘉兵衛とて富貴の人あり。是は雀部が妻の[#行右小書き]五六[#行右小書き終わり]産所《さと》なりければ、[#行右小書き]五七[#行右小書き終わり]苦《ねんごろ》にたのみけるに、此の人見捨てずしていたはりつも、医をむかへて薬の事|専《もは》らなりし。やや[#行右小書き]五八[#行右小書き終わり]ここち清《すず》しくなりぬれば、篤《あつ》き恩《めぐみ》を[#行右小書き]五九[#行右小書き終わり]かたじけなうす。されど歩む事はまだ[#行右小書き]六〇[#行右小書き終わり]はかばかしからねば、今年は思ひがけずもここに春を迎ふるに、いつのほどか此の里にも友をもとめて、[#行右小書き]六一[#行右小書き終わり]揉《た》めざるに直《なほ》き志を賞《しやう》ぜられて、児玉をはじめ誰々も頼もしく交《まじは》りけり。此の後は京《みやこ》に出でて雀部を[#行右小書き]六二[#行右小書き終わり]とぶらひ、又は近江に帰りて児玉に身を托《よ》せ、七とせがほどは夢のごとくに過しぬ。  [#行右小書き]六三[#行右小書き終わり]寛正二年、[#行右小書き]六四[#行右小書き終わり]畿内河内の国に[#行右小書き]六五[#行右小書き終わり]畠《はたけ》山が同根《どうこん》の争ひ果さざれば、京《みやこ》ぢかくも騒がしきに、春の頃より[#行右小書き]六六[#行右小書き終わり]瘟疫《えやみ》さかんに行《おこな》はれて、屍《かばね》は衢《ちまた》に畳《つ》み、人の心も今や[#行右小書き]六七[#行右小書き終わり]一|劫《ごふ》の尽《つ》くるならんと、はかなきかぎりを悲しみける。勝四郎|熟《つらつら》思ふに、かく落魄《おちぶ》れてなす事もなき身の何をたのみとて遠き国に逗《とど》まり、[#行右小書き]六八[#行右小書き終わり]由縁《ゆゑ》なき人の恵《めぐみ》をうけて、いつまで生くべき命なるぞ。[#行右小書き]六九[#行右小書き終わり]古郷《ふるさと》に捨てし人の消息《せうそこ》をだにしらで、[#行右小書き]七〇[#行右小書き終わり]萱草《わすれぐさ》おひぬる野方《のべ》に長々しき年月を過しけるは、[#行右小書き]七一[#行右小書き終わり]信《まこと》なき己《おの》が心なりける物を。たとへ[#行右小書き]七二[#行右小書き終わり]泉下《せんか》の人となりて、[#行右小書き]七三[#行右小書き終わり]ありつる世にはあらずとも、其のあとをももとめて[#行右小書き]七四[#行右小書き終わり]壠《つか》をも築《つ》くべけれと、人々に志を告げて、五月雨《さみだれ》のはれ間《ま》に[#行右小書き]七五[#行右小書き終わり]手をわかちて、十日あまりを経《へ》て古郷に帰り着きぬ。  此の時、日ははや西に沈みて、雨雲はおちかかるばかりに闇《くら》けれど、旧《ひさ》しく住みなれし里なれば迷ふべうもあらじと、夏野わけ行くに、いにしへの[#行右小書き]七六[#行右小書き終わり]継橋《つぎはし》も川瀬におちたれば、げに[#行右小書き]七七[#行右小書き終わり]駒の足音《あおと》もせぬに、田畑は[#行右小書き]七八[#行右小書き終わり]荒れたきままにすさみて、旧《もと》の道もわからず、[#行右小書き]七九[#行右小書き終わり]ありつる人居《いへゐ》もなし。たまたまここかしこに残る家に人の住むとは見ゆるもあれど、昔には似つつもあらね。いづれか我が住みし家ぞと立ち惑《まど》ふに、ここ[#行右小書き]八〇[#行右小書き終わり]二十|歩《ほ》ばかりを去りて、雷《らい》に摧《くだ》かれし松の聳《そび》えて立てるが、雲|間《ま》の星のひかりに見えたるを、げに[#行右小書き]八一[#行右小書き終わり]我が軒の標《しるし》こそ見えつると、先づ喜《うれ》しきここちしてあゆむに、家は故《もと》にかはらであり、人も住むと見えて、古戸《ふるど》の間《すき》より灯火の影もれて輝《きら》々とするに、[#行右小書き]八二[#行右小書き終わり]他《こと》人や住む、もし[#行右小書き]八三[#行右小書き終わり]其の人や在《いま》すかと心|躁《さわが》しく、門に立ちよりて[#行右小書き]八四[#行右小書き終わり]咳《しはぶき》すれば、内にも速《はや》く聞きとりて誰《た》そと咎《とが》む。いたう[#行右小書き]八五[#行右小書き終わり]ねびたれど正しく妻の声なるを聞きて、夢かと胸のみさわがれて、我こそ帰りまゐりたり。[#行右小書き]八六[#行右小書き終わり]かはらで独自《ひとり》浅茅《あさぢ》が原に住みつることの不思議さよといふを、[#行右小書き]八七[#行右小書き終わり]聞きしりたれば[#行右小書き]八八[#行右小書き終わり]やがて戸を明くるに、いといたう黒く垢《あか》づきて、眼《まみ》はおち入りたるやうに、[#行右小書き]八九[#行右小書き終わり]結《あ》げたる髪も背《せ》にかかりて、[#行右小書き]九〇[#行右小書き終わり]故《もと》の人とも思はれず。夫《をとこ》を見て物をもいはで潸然《さめざめ》となく。  勝四郎も[#行右小書き]九一[#行右小書き終わり]心くらみて、しばし物をも聞えざりしが、ややしていふは、今までかくおはすと思ひなば、など年月を過すべき。去《(い)》ぬる年、京《みやこ》にありつる日、鎌倉の兵乱《ひやうらん》を聞き、[#行右小書き]九二[#行右小書き終わり]御所の師《いくさ》潰《つひ》えしかば、総州に避けて禦《ふせ》ぎ給ふ。管領《くわんれい》これを責むる事|急《きふ》なりといふ。其の明《あす》雀部《ささべ》にわかれて、八月《はづき》のはじめ京《みやこ》を立ちて、[#行右小書き]九三[#行右小書き終わり]木曾路を来《く》るに、山|賊《だち》あまたに取りこめられ、衣服金銀残りなく掠《かす》められ、命ばかりを辛労《からう》じて助かりぬ。且《かつ》里人のかたるを聞けば、[#行右小書き]九四[#行右小書き終わり]東海東山の道はすべて新関を居《す》ゑて人を駐《とど》むるよし。又きのふ京より[#行右小書き]九五[#行右小書き終わり]節刀使《せつとし》もくだり給ひて、上杉に与《くみ》し、総州の陣《いくさ》に向はせ給ふ。本国の辺《ほとり》は疾《と》くに焼きはらはれ、[#行右小書き]九六[#行右小書き終わり]馬の蹄《ひづめ》尺地《せきち》も間《ひま》なしとかたるによりて、今は[#行右小書き]九七[#行右小書き終わり]灰塵《くわいぢん》とやなり給ひけん、海にや沈み給ひけんと、ひたすらに思ひとどめて、又|京《みやこ》にのぼりぬるより、[#行右小書き]九八[#行右小書き終わり]人に餬口《くちもら》ひて七とせは過しけり。近曾《このごろ》[#行右小書き]九九[#行右小書き終わり]すずろに物のなつかしくありしかば、せめて其の蹤《あと》をも見たきままに帰りぬれど、かくて世におはせんとは努々《ゆめゆめ》思はざりしなり。[#行右小書き]一〇〇[#行右小書き終わり]巫山《ふざん》の雲、[#行右小書き]一〇一[#行右小書き終わり]漢宮《かんきゆう》の幻《まぼろし》にもあらざるやとくりごとはてしぞなき。妻、涙をとどめて、一たび離《わか》れまゐらせて後、[#行右小書き]一〇二[#行右小書き終わり]たのむの秋より前《さき》に恐ろしき世の中となりて、里人は皆家を捨てて海に漂《ただよ》ひ山に隠《こも》れば、適《たまたま》に残りたる人は、多く[#行右小書き]一〇三[#行右小書き終わり]虎狼《こらう》の心ありて、かく寡《やもめ》となりしを便《たよ》りよしとや、言《ことば》を巧《たく》みていざなへども、[#行右小書き]一〇四[#行右小書き終わり]玉と砕《くだ》けても瓦《かはら》の全《また》きにはならはじものをと、幾たびか辛苦《からきめ》を忍びぬる。[#行右小書き]一〇五[#行右小書き終わり]銀河《ぎんが》秋を告ぐれども君は帰り給はず。冬を待ち、春を迎へても消息《おとづれ》なし。今は京《みやこ》にのぼりて尋ねまゐらせんと思ひしかど、丈夫《ますらを》さへ宥《ゆる》さざる関の鎖《とざし》を、いかで女の越ゆべき道もあらじと、軒端の[#行右小書き]一〇六[#行右小書き終わり]松にかひなき宿に、狐《きつね》鵂鶹《ふくろふ》を友として今日までは過しぬ。今は長き恨みもはればれとなりぬることの喜《うれ》しく侍《はべ》り。[#行右小書き]一〇七[#行右小書き終わり]逢ふを待つ間に恋死なんは人しらぬ恨みなるべしと、又よよと泣くを、夜こそ短きにといひなぐさめて、ともに臥しぬ。  [#行右小書き]一〇八[#行右小書き終わり]窓《まど》の紙《かみ》松風《まつかぜ》を啜《すす》りて夜もすがら涼しきに、[#行右小書き]一〇九[#行右小書き終わり]途《みち》の長手《ながて》に労《つか》れ熟《うま》く寝《い》ねたり。[#行右小書き]一一〇[#行右小書き終わり]五更《ごかう》の天《そら》明けゆく比《(ころ)》、[#行右小書き]一一一[#行右小書き終わり]現《うつつ》なき心にもすずろに寒かりければ、[#行右小書き]一一二[#行右小書き終わり]衾《ふすま》帔《かづ》かんとさぐる手に、何物にや籟々《さやさや》と音するに目さめぬ。面《かほ》にひやひやと物のこぼるるを、雨や漏りぬるかと見れば、屋根は風にまくられてあれば、[#行右小書き]一一三[#行右小書き終わり]有明月のしらみて残りたるも見ゆ。家は扉《と》もあるやなし。[#行右小書き]一一四[#行右小書き終わり]簀垣《すがき》朽頽《くちくづ》れたる間《ひま》より、荻《をぎ》薄《すすき》高く生《おひ》出でて、朝露うちこぼるるに、袖[#行右小書き]一一五[#行右小書き終わり]湿《ひ》ぢてしぼるばかりなり。壁には蔦《つた》葛《くず》延《は》ひかかり、庭は葎《むぐら》に埋《うづ》もれて[#行右小書き]一一六[#行右小書き終わり]秋ならねども野らなる宿なりけり。  さてしも臥したる妻はいづち行きけん見えず。狐などのしわざにやと思へば、かく荒れ果てぬれど故《もと》住みし家にたがはで、広く造《つく》り作《な》せし奥わたりより、端《はし》の方、稲倉《いなぐら》まで[#行右小書き]一一七[#行右小書き終わり]好みたるままの形《さま》なり。[#行右小書き]一一八[#行右小書き終わり]呆自《あきれ》て足の踏所《ふみど》さへ失《わす》れたるやうなりしが、熟《つらつら》おもふに、妻は既に死《まか》りて、今は狐狸の住みかはりて、かく野らなる宿となりたれば、怪しき鬼《もの》の化《け》して[#行右小書き]一一九[#行右小書き終わり]ありし形《かたち》を見せつるにてぞあるべき。若《も》し又我を慕ふ魂《たま》のかへり来りてかたりぬるものか。[#行右小書き]一二〇[#行右小書き終わり]思ひし事の露たがはざりしよと、更に涙さへ出でず。[#行右小書き]一二一[#行右小書き終わり]我が身ひとつは故《もと》の身にしてとあゆみ廻《めぐ》るに、むかし閨房《ふしど》にてありし所の簀子《すのこ》をはらひ、土を積みて壠《つか》とし、雨露をふせぐまうけもあり。夜《よべ》の霊《れい》はここもとよりやと恐ろしくも且《かつ》なつかし。[#行右小書き]一二二[#行右小書き終わり]水|向《むけ》の具《ぐ》[#行右小書き]一二三[#行右小書き終わり]物せし中に、木の端《はし》を刪《けづ》りたるに、[#行右小書き]一二四[#行右小書き終わり]那須野紙《なすのがみ》のいたう古《ふる》びて、文字も[#行右小書き]一二五[#行右小書き終わり]むら消《ぎえ》して所々見定めがたき、正しく妻の筆の跡なり。法名といふものも年月もしるさで、三十一字に末期《いまは》の心を哀れにも展《の》べたり。 [#ここから3字下げ] [#行右小書き]一二六[#行右小書き終わり]さりともと思ふ心にはかられて     世にもけふまでいける命か [#ここで字下げ終わり]  ここにはじめて妻の死したるを覚《さと》りて、大いに叫《さけ》びて倒れ伏す。去《さり》とて何の年、何の月日に終りしさへしらぬ浅ましさよ。人はしりもやせんと、涙をとどめて立ち出づれば、日高くさし昇《のぼ》りぬ。先づちかき家に行きて主《あるじ》を見るに、[#行右小書き]一二七[#行右小書き終わり]昔見し人にあらず。かへりて何国《いづく》の人ぞと咎《とが》む。勝四郎[#行右小書き]一二八[#行右小書き終わり]礼《ゐや》まひていふ。此の隣なる家の主《あるじ》なりしが、[#行右小書き]一二九[#行右小書き終わり]過活《わたらひ》のため京《みやこ》に七とせまでありて、昨《きそ》の夜帰りまゐりしに、既に荒廃《あれすさ》みて人も住ひ侍らず。妻なるものも死《まか》りしと見えて、壠《つか》の設《まうけ》も見えつるが、[#行右小書き]一三〇[#行右小書き終わり]いつの年にともなきに、[#行右小書き]一三一[#行右小書き終わり]まさりて悲しく侍り。しらせ給はば教へ給へかし。主《あるじ》の男いふ。[#行右小書き]一三二[#行右小書き終わり]哀れにも聞え給ふものかな。我《わが》ここに住むもいまだ一とせばかりの事なれば、それよりはるかの昔に亡《う》せ給ふと見えて、住み給ふ人の[#行右小書き]一三三[#行右小書き終わり]ありつる世はしり侍らず。すべて此の里の旧《ふる》き人は兵乱《ひやうらん》の初めに逃失《にげう》せて、今住居する人は大かた他《ほか》より移り来たる人なり。只|一人《ひとり》の翁《おきな》の侍るが、[#行右小書き]一三四[#行右小書き終わり]所に旧《ひさ》しき人と見え給ふ。時《をり》々あの家にゆきて、亡《う》せ給ふ人の[#行右小書き]一三五[#行右小書き終わり]菩提《ぼだい》を弔《とぶら》はせ給ふなり。此の翁こそ月日をもしらせ給ふべしといふ。勝四郎いふ。さては其の翁の栖《す》み給ふ家は何方《いづべ》にて侍るや。主《あるじ》いふ。ここより百|歩《ぽ》ばかり浜の方に、麻《あさ》おほく植ゑたる畑の主《ぬし》にて、其所《そこ》にちひさき庵《いほり》して住ませ給ふなりと教ふ。勝四郎よろこびてかの家にゆきて見れば、七十可《ななそぢばかり》の翁の、腰は[#行右小書き]一三六[#行右小書き終わり]浅ましきまで屈《かがま》りたるが、[#行右小書き]一三七[#行右小書き終わり]庭竈《にはかまど》の前に[#行右小書き]一三八[#行右小書き終わり]円座《わらふだ》敷きて茶を啜《すす》り居《を》る。翁も勝四郎と見るより、[#行右小書き]一三九[#行右小書き終わり]吾主《わぬし》何とて遅く帰り給ふといふを見れば、此の里に久しき漆間《うるま》の翁といふ人なり。  勝四郎、翁が[#行右小書き]一四〇[#行右小書き終わり]高齢《よはひ》をことぶきて、次に京《みやこ》に行きて心ならずも逗《とど》まりしより、前夜《さきのよ》のあやしきまでを詳《つばら》にかたりて、翁が壠《つか》を築《つ》きて祭り給ふ恩《めぐみ》のかたじけなきを告げつつも涙とどめがたし。翁いふ。吾主《わぬし》遠くゆき給ひて後は、夏の比《(ころ)》より干戈《かんくわ》を揮《ふる》ひ出でて、里人は所々に遁《のが》れ、弱《わか》き者どもは軍民《いくさびと》に召さるるほどに、[#行右小書き]一四一[#行右小書き終わり]桑田《さうでん》にはかに狐兎《こと》の叢《くさむら》となる。只[#行右小書き]一四二[#行右小書き終わり]烈婦《さかしめ》のみ主《ぬし》が秋を約《ちか》ひ給ふを守りて、家を出で給はず。翁も又[#行右小書き]一四三[#行右小書き終わり]足《あし》蹇《なへ》ぎて百|歩《ほ》を難《かた》しとすれば、深く閉《た》てこもりて出でず。一旦《ひとたび》[#行右小書き]一四四[#行右小書き終わり]樹神《こだま》などいふおそろしき鬼《もの》の栖《す》む所となりたりしを、稚《わか》き女子《をんなご》の[#行右小書き]一四五[#行右小書き終わり]矢武《やたけ》におはするぞ、[#行右小書き]一四六[#行右小書き終わり]老が物見たる中のあはれなりし。秋去り春来りて、[#行右小書き]一四七[#行右小書き終わり]其の年の八月《はづき》十日といふに死《まか》り給ふ。惆《いとほ》しさのあまりに、老が手づから土を運びて柩《ひつぎ》を蔵《をさ》め、其の終焉《をはり》に残し給ひし[#行右小書き]一四八[#行右小書き終わり]筆の跡を壠《つか》のしるしとして、[#行右小書き]一四九[#行右小書き終わり]蘋蘩行潦《みづむけ》の祭も心ばかりにものしけるが、翁もとより筆とる事《わざ》をしもしらねば、其の月日を[#行右小書き]一五〇[#行右小書き終わり]紀《しる》す事もえせず。寺院遠ければ[#行右小書き]一五一[#行右小書き終わり]贈号《おくりな》を求むる方もなくて、五とせを過し侍るなり。今の物がたりを聞くに、必ず烈婦《さかしめ》の魂《たま》の来り給ひて、旧《ひさ》しき恨みを聞え給ふなるべし。復《ふたた》びかしこに行きて念比《(ねんごろ)》にとぶらひ給へとて、杖を曳《ひ》きて前《さき》に立ち、相ともに壠《つか》のまへに俯《ふ》して声を放《あ》げて嘆きつつも、其の夜はそこに念仏して明かしける。 [#「勝四郎と漆間の翁がつれだって勝四郎の廃居を訪れた図」のキャプション付きの図(fig60609_04.png、横833×縦602)入る] [#ここからキャプション] 勝四郎と漆間の翁がつれだって勝四郎の廃居を訪れた図。「雷《らい》に摧《くだ》かれし松の聳《そび》えて立てる」のがあり、家には戸もなく、萩薄などが生い茂っている荒廃のさまが描かれている。(原本三丁裏、四丁表の挿絵) [#ここでキャプション終わり]  寝られぬままに翁かたりていふ。翁が祖父《おほぢ》の其の祖父すらも生《うま》れぬはるかの往古《いにしへ》の事よ。此の郷《さと》に[#行右小書き]一五二[#行右小書き終わり]真間《まま》の手児女《てごな》といふいと美しき娘子《をとめ》ありけり。家貧しければ身には[#行右小書き]一五三[#行右小書き終わり]麻衣《あさごろも》に青衿《あをえり》つけて、髪だも梳《けづ》らず、履《くつ》だも穿《は》かずてあれど、面《かほ》は[#行右小書き]一五四[#行右小書き終わり]望《もち》の夜の月のごと、笑《ゑ》めば花の[#行右小書き]一五五[#行右小書き終わり]艶《にほ》ふが如《ごと》、綾錦《あやにしき》に[#行右小書き]一五六[#行右小書き終わり]裹《つつ》める[#行右小書き]一五七[#行右小書き終わり]京女﨟《みやこぢよらう》にも勝《まさ》りたれとて、この里人はもとより、[#行右小書き]一五八[#行右小書き終わり]京《みやこ》の防人等《さきもりたち》、国の隣の人までも、[#行右小書き]一五九[#行右小書き終わり]言《こと》をよせて恋|慕《しの》ばざるはなかりしを、手児女《てごな》物うき事に思ひ沈みつつ、[#行右小書き]一六〇[#行右小書き終わり]おほくの人の心に報《むくい》すとて、[#行右小書き]一六一[#行右小書き終わり]此の浦回《うらわ》の波に身を投げしことを、世の哀れなる例《ためし》とて、いにしへの人は歌にもよみ給ひてかたり伝へしを、翁が稚《をさな》かりしときに、母のおもしろく話《かた》り給ふをさへ、いと哀れなることに聞きしを、[#行右小書き]一六二[#行右小書き終わり]此の亡《なき》人の心は昔の手児女が[#行右小書き]一六三[#行右小書き終わり]をさなき心に[#行右小書き]一六四[#行右小書き終わり]幾らをかまさりて悲しかりけんと、かたるかたる涙さしぐみてとどめかぬるぞ、[#行右小書き]一六五[#行右小書き終わり]老は物えこらへぬなりけり。勝四郎が悲しみはいふべくもなし。此の物がたりを聞きて、[#行右小書き]一六六[#行右小書き終わり]おもふあまりを田舎《いなか》人の[#行右小書き]一六七[#行右小書き終わり]口鈍《くちにぶ》くもよみける。 [#ここから3字下げ] いにしへの真間の手児奈《てごな》をかくばかり     恋ひてしあらん真間のてごなを [#ここで字下げ終わり] 思ふ心の[#行右小書き]一六八[#行右小書き終わり]はしばかりをもえいはぬぞ、[#行右小書き]一六九[#行右小書き終わり]よくいふ人の心にもまさりてあはれなりとやいはん。かの国にしばしばかよふ商人《あきびと》の聞き伝へてかたりけるなりき。 [#ここから2字下げ] 一 茅がまばらに生え、草ぶかく荒れはてた家。 二 千葉県市川市真間。万葉集以来名高く、歌枕。 三 所有して。 四 生れつき物事に無頓着な性質。 五 いやなことだと。 六 ついに。とうとう。 七 口惜しいことだと深く思いこみ。 八 あれこれと思案をめぐらした。 九 栃木県足利市付近から産出した染絹。 一〇 まいり上る、の音便。 一一 染めてない白絹。 一二 準備した。 一三 人目をひくほどの美しい容貌で。 一四 平生思いたったらきかぬ気のうえに、今度は更に思いつめているので、仕方なく。 一五 「末」の枕詞。今後の生活が心細く思われたにもかかわらず。万葉集一二「梓弓末のたづきは知らねども心は君によりにしものを」。 一六 旅支度をととのえて。 一七 離れがたい別れ。 一八 まったく途方にくれるばかりで。古今集一八「いづこにか世をばいとはむ心こそ野にも山にも惑ふべらなれ」。 一九 命さえあればまた逢えると思うが。古今集八「命だに心にかなふものならばなにか別れの悲しからまし」。 二〇 不安な気持と生活。 二一 「かへる」の序詞。秋の七草の一。帰宅するのは。 二二 「東」の枕詞。東は関東。 二三 享徳四年(一四五五)。 二四 鎌倉公方足利成氏。明応六年(一四九七)没。古河公方。御所はもと将軍をいったが、鎌倉管領が僭称した。 二五 執事が管領を僭称した。成氏が上杉憲忠を謀殺し、憲忠の弟房顕が成氏と戦った。 二六 茨城県古河へ逃げた。 二七 ばらばらで統一のない。 二八 若者は兵卒にかり出され。 二九 悪化する世相とともに。 三〇 がっくりと気落ちして。 三一 あふ坂は京都と滋賀の境の逢坂山。夕づけ鳥は木綿付鳥で鶏の異称、夕と「云う」の懸詞。 三二 義婦・節婦・烈婦(剪灯新話句解の注)。 三三 あまつさえ。そのうえ。 三四 京都室町将軍(義政)。 三五 岐阜県郡上市。 三六 千葉介常胤の後裔。武将で歌人。宗祇の師。生年未詳、文明一六年(一四八四)頃没。 三七 征伐の指揮官に任命して。 三八 下総の誤。千葉県香取郡東庄町。 三九 千葉県市川城主。 四〇 攻める。 四一 野武士。山賊夜盗の類。 四二 関八州。関東地方一帯。 四三 義政将軍の東山時代で、文化風俗は華美であった。 四四 いい儲けを得て。 四五 成氏を追撃して。 四六 たてとほこ。武器。どこもかしこも戦争さわぎで。 四七 戦場。中国河北省東南部の地で、太古、黄帝と蚩尤(シュウ)の戦った所。 四八 世間で評判をする。 四九 世間のうわさ。 五〇 遠く隔たった形容。 五一 長野県木曾郡南木曾町と岐阜県中津川市との境をなす馬籠峠。木曾路の難所。 五二 便りをする方法。 五三 鬼のような人ばかりすんでいるところ。 五四 熱病。 五五 滋賀県近江八幡市武佐。中仙道の宿駅。 五六 実家。 五七 ていねいに。 五八 気分がさっぱりした。 五九 感謝する。 六〇 しっかりしないので。 六一 生れつきの素直で正直な性質を愛されて。 六二 訪ね。 六三 一四六一年。 六四 京都・奈良・大阪と兵庫の一部。山城・大和・河内・和泉・摂津の五国。河内は大阪府。 六五 同根は兄弟。畠山政長と義就の家督相続争いが終りそうもないので。 六六 悪性の流行病。 六七 この世の終りであろうか。劫は、仏教で非常に長い時間をいい、宇宙の生命変遷を四劫にわけている。 六八 親戚関係のない、あかの他人。 六九 妻の宮木。 七〇 故郷を忘れ妻を忘れて、萱草の生えているようなこの土地で。古今集一七「すみよしとあまはつぐとも長居すな人忘れ草おふといふなり」。 七一 実意のない私の心からであったのだ。 七二 あの世の人。 七三 以前のようにこの世に生きていないにしても。 七四 墓。 七五 別れをつげて。 七六 万葉の昔から有名な真間の継橋。真間川にかかっていた。板の橋を長く継いだ橋。 七七 万葉集一四「足(あ)の音せずゆかむ駒もが葛飾の真間の継橋やまずかよはむ」。 七八 荒れ放題に荒れて。 七九 以前あった人家。 八〇 一歩は曲尺の約六尺。二〇歩は約三六メートル。 八一 わが家のめじるし。古来、家の門口に松を植える風習があった。 八二 べつの人。 八三 妻の宮木。 八四 来訪・帰宅をしらせる合図のせきばらい。 八五 ふけているが。 八六 達者で。 八七 夫の声であると聞き知ったので。 八八 すぐに。 八九 結いあげた髪も乱れおちて背にかかり。 九〇 以前の妻の面影はない。 九一 気も動転して。 九二 成氏方が敗れたので。 九三 中仙道の一部。 九四 東海道・東山道。京から関東へ通ずる二大街道。 九五 節度使。天皇から派遣された征討軍の将軍。 九六 軍馬の蹄がみちみちて、すっかりふみにじった。 九七 戦禍をうけて焼け死んだか、溺れ死んだか。 九八 人の許に寄食して。 九九 しきりに。 一〇〇 男女が夢の中で逢って契りを結ぶこと。巫山は中国西南区四川省にある山。文選巻四の高唐賦に、楚の襄王が夢に巫山の女と契ったがこれが実は雲であったという故事。 一〇一 男女が幽明さかいを異にしながらあうこと。漢書の外戚伝に、漢の武帝が方士に命じて李夫人の霊を幻の如く見たという故事。 一〇二 夫の帰宅を頼みにしていた秋。八月一日を「たのむの日」とよぶのにかけた。 一〇三 恐ろしく貪婪な心。 一〇四 操を守って死すとも不義をして命ながらえる道はふむまい。剪燈新話句解の註「寧為[#二]玉砕[#一]、不[#レ]為[#二]瓦全[#一]」。 一〇五 天の河が冴えて秋のきたのを知らせる。 一〇六 松に「待つ」をかける。 一〇七 逢うのを待つ間にこがれ死にしたら、相手からも私の心中を知られずにほんとに口惜しく情けないことであろう。後拾遺集一一「人しれずあふを待つ間に恋ひ死なば何に代へたる命とかいはむ」。 一〇八 窓の障子の破れ目から松風がひたひたと音をたてて吹きこんで。 一〇九 長い道中。 一一〇 午前四時―六時。 一一一 まださめやらぬ夢心地にも何となく寒かったので。 一一二 夜着をかけようと。 一一三 夜があけてもまだ空に残っている月。陰暦一六日以後の月。 一一四 簀掻のあて字。簀子で作ったゆか。 一一五 びっしょり濡れて。 一一六 秋でもないのに秋の野のように草ぶかく荒れはてた家の模様であった。古今集四「里は荒れて人はふりにし宿なれや庭もまがきも秋の野らなる」。 一一七 かつて自分の好みで造ったままの様子。 一一八 茫然自失のさま。 一一九 妻の生前の姿。 一二〇 帰国する前に想像していたこと。 一二一 「月やあらぬ春やむかしの春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」(古今集一五・伊勢物語四にある業平の歌)。 一二二 霊前に供える水を入れる器。 一二三 供える。設ける。代動詞。 一二四 栃木県那須野、烏山付近で産する和紙。 一二五 ところどころ消えて。 一二六 権中納言敦忠卿集にある歌。 一二七 以前の知人。 一二八 ていねいに挨拶して。 一二九 生業。渡世。 一三〇 いつの年死んだとも墓に記してないので。 一三一 いっそう。 一三二 お気の毒なおはなしでございますね。 一三三 生きていた当時。 一三四 この土地に古くからいた人。 一三五 亡き人の冥福を祈っていらっしゃいます。 一三六 ひどく。 一三七 土間に造ったかまど。 一三八 わら・い・すげ等の葉を丸くひらたく渦にして編んだ敷物。 一三九 そなた。お前さん。 一四〇 長寿を祝福して。 一四一 桑畑も耕す者がなくてたちまち狐や兎のすむくさむらとなる。かわり方のはげしいことをいう。 一四二 宮木をさす。 一四三 足がきかなく、歩行不自由になって。 一四四 樹木にやどる霊で、妖怪。人にたたると信じられていた。 一四五 気丈。 一四六 この老人(自分)が見聞したことの中で。 一四七 勝四郎が帰宅を約束した翌年の秋。康正二年(一四五六)。 一四八 前出の和歌をさす。 一四九 死者の霊前に水を供えてまつること。蘋はうき草、蘩はしろよもぎ、行潦は路上の水たまりの水で、粗末なものだが誰でもとれるものであり、心ばかりの供えものの意からきた。 一五〇 記す、とおなじ。 一五一 戒名。法名。 一五二 真間にすんでいた美少女で、その伝説は万葉集の巻三・九・一四などに見え、のちには藤原清輔「奥儀抄」にも見える。ここは万葉集九、高橋連虫麻呂の「詠[#二]勝鹿真間娘子[#一]歌一首并短歌」と題する歌によっている。 一五三 麻衣も青衿も古代の質素な服装。青衿は野草で染めた衿。 一五四 満月の如く美しく輝き。 一五五 咲きかがやく。 一五六 身にまとった。 一五七 都の貴婦人。 一五八 都から派遣された国庁の武士。防人はもと九州防衛警備兵をいったが、ここはたんに警備の武士。 一五九 いい寄って。 一六〇 多くの人の心にはこたえられず、こたえられなければ多くの人の恨みをうけて罪をかさねることになるから、いっそ死ぬことによって、多くの人の心にむくいよう(秋成の金砂にある説)。 一六一 入江。真間の浦。 一六二 宮木をさす。 一六三 うぶな心。 一六四 どれほどまさって。 一六五 年寄りというものは涙もろくてこらえ性のないもの。 一六六 思いあまった胸の中を。 一六七 口べた。不器用。 一六八 一端。 一六九 うまく歌をよむ人。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#3字下げ][#小見出し][#行右小書き]一[#行右小書き終わり]夢応《むおう》の鯉魚《りぎよ》[#小見出し終わり]  むかし[#行右小書き]二[#行右小書き終わり]延長《えんちやう》の頃、[#行右小書き]三[#行右小書き終わり]三井寺に[#行右小書き]四[#行右小書き終わり]興義《こうぎ》といふ僧ありけり。絵に巧《たくみ》なるをもて[#行右小書き]五[#行右小書き終わり]名を世にゆるされけり。嘗《つね》に画《ゑが》く所、仏像《ぶつざう》山水《さんすゐ》花鳥《くわてう》を[#行右小書き]六[#行右小書き終わり]事とせず。寺務《じむ》の間《いとま》ある日は[#行右小書き]七[#行右小書き終わり]湖《うみ》に小船をうかべて、[#行右小書き]八[#行右小書き終わり]網引《あびき》釣《つり》する泉郎《あま》に銭を与《あた》へ、獲《え》たる魚をもとの江に放ちて、其の魚の遊躍《あそ》ぶを見ては画きけるほどに、年を経《へ》て[#行右小書き]九[#行右小書き終わり]細妙《くはしき》にいたりけり。或るときは[#行右小書き]一〇[#行右小書き終わり]絵に心を凝《こら》して眠《ねぶり》をさそへば、ゆめの裏《うち》に江に入りて、[#行右小書き]一一[#行右小書き終わり]大小《さばかり》の魚とともに遊ぶ。覚《さ》むれば即《やが》て見つるままを画きて壁《かべ》に貼《お》し、みづから呼びて夢応《むおう》の鯉魚《りぎよ》と名付けけり。其の絵の妙《たへ》なるを感《め》でて乞要《こひもと》むるもの[#行右小書き]一二[#行右小書き終わり]前後《ついで》をあらそへば、只花鳥山水は乞《こ》ふにまかせてあたへ、鯉魚《りぎよ》の絵は[#行右小書き]一三[#行右小書き終わり]あながちに惜しみて、人|毎《ごと》に戯《たわぶ》れていふ。[#行右小書き]一四[#行右小書き終わり]生《しやう》を殺し鮮《あざらけ》を喰《くら》ふ凡俗《ぼんぞく》の人に、法師の養ふ魚[#行右小書き]一五[#行右小書き終わり]必ずしも与へずとなん。其の絵と[#行右小書き]一六[#行右小書き終わり]俳諧《わざごと》とともに天下《あめがした》に聞えけり。  一とせ病《やまひ》に係《かか》りて、七日を経《へ》て忽《(たちま)》ちに眼《まなこ》を閉ぢ、息《いき》絶えてむなしくなりぬ。[#行右小書き]一七[#行右小書き終わり]徒弟《とてい》友どちあつまりて嘆き惜しみけるが、只[#行右小書き]一八[#行右小書き終わり]心頭《むね》のあたりの微《すこ》し暖かなるにぞ、[#行右小書き]一九[#行右小書き終わり]若《も》しやと[#行右小書き]二〇[#行右小書き終わり]居めぐりて守りつも三日を経《へ》にけるに、手足すこし動き出づるやうなりしが、忽《(たちま)》ち長嘘《ためいき》を吐《は》きて、眼《め》をひらき、醒《さ》めたるがごとくに起きあがりて、人々にむかひ、我[#行右小書き]二一[#行右小書き終わり]人事《にんじ》をわすれて既に久し。幾日をか過しけん。衆弟等《しゆうていら》いふ。師三日|前《さき》に息たえ給ひぬ。寺中の人々をはじめ、日|比《(ごろ)》睦《むつま》じくかたり給ふ[#行右小書き]二二[#行右小書き終わり]殿原《とのばら》も詣《まう》で給ひて葬《はうむり》の事をもはかり給ひぬれど、只師が心頭《むね》の暖かなるを見て、柩《ひつぎ》にも蔵《をさ》めでかく守り侍りしに、今や蘇生《よみがへ》り給ふにつきて、[#行右小書き]二三[#行右小書き終わり]かしこくも物せざりしよと怡《よろこ》びあへり。興義|点頭《うなづ》きていふ。誰にもあれ一人、[#行右小書き]二四[#行右小書き終わり]檀《だん》家の平《たひら》の助の殿の館《みたち》に詣《まゐ》りて告《まう》さんは、法師こそ不思議に生き侍れ。君今酒を酌《く》み鮮《あざらけ》き[#行右小書き]二五[#行右小書き終わり]鱠《なます》をつくらしめ給ふ。しばらく宴《えん》を罷《や》めて寺に詣でさせ給へ。[#行右小書き]二六[#行右小書き終わり]稀有《けう》の物がたり聞えまゐらせんとて、彼《か》の人々の[#行右小書き]二七[#行右小書き終わり]ある形《さま》を見よ。我が詞に露たがはじといふ。使|異《あや》しみながら彼の館《みたち》に往《い》きて、其の由《よし》をいひ入れてうかがひ見るに、主《あるじ》の助をはじめ、令弟《おとうと》の十郎、[#行右小書き]二八[#行右小書き終わり]家の子|掃守《かもり》など居めぐりて酒を酌みゐたる。師が詞のたがはぬを奇《あやし》とす。助の館《たち》の人々此の事を聞きて大いに異《あや》しみ、先づ箸《はし》を止《や》めて、十郎掃守をも召具《めしぐ》して寺に到る。  興義枕をあげて、[#行右小書き]二九[#行右小書き終わり]路次《ろじ》の労《わづら》ひをかたじけなうすれば、助も蘇生《よみがへり》の賀《ことぶき》を述ぶ。興義先づ問ひていふ。君|試《こころみ》に我がいふ事を聞かせ給へ。かの漁父《ぎよふ》文四に魚をあつらへ給ふ事ありや。助驚きて、まことにさる事あり。いかにしてしらせ給ふや。興義、かの漁父三|尺《たけ》あまりの魚を籠《かご》に入れて君が門に入る。君は賢弟と[#行右小書き]三〇[#行右小書き終わり]南面《みなみおもて》の所に碁《ご》を囲みておはす。掃守《かもり》傍《かたはら》に侍《はべ》りて、桃《もも》の実《み》の大なるを啗《く》ひつつ[#行右小書き]三一[#行右小書き終わり]弈《えき》の手段《しゆだん》を見る。漁父が大魚《まな》を携《たづさ》へ来るを喜《よろこ》びて、[#行右小書き]三二[#行右小書き終わり]高杯《たかつき》に盛《も》りたる桃をあたへ、又|盃《さかづき》を給うて[#行右小書き]三三[#行右小書き終わり]三|献《こん》飲ましめ給ふ。[#行右小書き]三四[#行右小書き終わり]鱠手《かしはびと》[#行右小書き]三五[#行右小書き終わり]したり顔に魚をとり出でて鱠《なます》にせしまで、法師がいふ所[#行右小書き]三六[#行右小書き終わり]たがはでぞあるらめといふに、助の人々此の事を聞きて、或は異《あや》しみ、或はここち惑《まど》ひて、[#行右小書き]三七[#行右小書き終わり]かく詳《つばら》なる言《こと》のよしを頻《しきり》に尋ぬるに、興義かたりていふ。  我此の頃病にくるしみて堪《た》へがたきあまり、其の死したるをもしらず、[#行右小書き]三八[#行右小書き終わり]熱きここちすこしさまさんものをと、[#行右小書き]三九[#行右小書き終わり]杖に扶《たす》けられて門を出づれば、病もやや忘れたるやうにて、籠《こ》の鳥の[#行右小書き]四〇[#行右小書き終わり]雲井にかへるここちす。山となく里となく行き行きて、又江の畔《ほとり》に出づ。湖水の碧《みどり》なるを見るより、[#行右小書き]四一[#行右小書き終わり]現《うつつ》なき心に浴《あ》びて遊びなんとて、そこに衣を脱《ぬ》ぎ去《す》てて、身を跳《をど》らして深きに[#行右小書き]四二[#行右小書き終わり]飛び入りつも、彼此《をちこち》に游《およ》ぎめぐるに、幼《わかき》より水に狎《な》れたるにもあらぬが、慾《おも》ふにまかせて戯《たはぶ》れけり。今思へば愚かなる夢ごごろなりし。されども[#行右小書き]四三[#行右小書き終わり]人の水に浮《う》かぶは、魚のこころよきにはしかず。ここにて又魚の遊びをうらやむこころおこりぬ。傍《かたはら》にひとつの大魚《まな》ありていふ。師のねがふ事いとやすし。待たせ給へとて、杳《はる》かの底《そこ》に去《ゆ》くと見しに、しばしして、冠《かむり》装束《さうぞく》したる人の、前《さき》の大魚《まな》に胯《また》がりて、許多《あまた》の[#行右小書き]四四[#行右小書き終わり]鼇魚《うろくづ》を率《ひき》ゐて浮かび来たり、我にむかひていふ。[#行右小書き]四五[#行右小書き終わり]海若《わたつみ》の詔《みことのり》あり。老僧かねて[#行右小書き]四六[#行右小書き終わり]放生《はうじやう》の功徳《くどく》多し。今、江に入りて魚の遊躍《あそび》をねがふ。権《かり》に金鯉《きんり》が服《ふく》を授けて[#行右小書き]四七[#行右小書き終わり]水府《すゐふ》のたのしみをせさせ給ふ。只|餌《ゑ》の香《かんば》しきに昧《くら》まされて、釣《つり》の糸にかかり身を亡《うしな》ふ事なかれといひて、去りて見えずなりぬ。不思議のあまりにおのが身をかへり見れば、いつのまに鱗《うろこ》金光《きんくわう》を備へてひとつの鯉魚《りぎよ》と化《け》しぬ。  あやしとも思はで、尾を振り鰭《ひれ》を動かして、心のままに逍遥《せうえう》す。まづ[#行右小書き]四八[#行右小書き終わり]長等《ながら》の山おろし、立ちゐる浪に身をのせて、[#行右小書き]四九[#行右小書き終わり]志賀の大湾《おほわだ》の汀《みぎは》に遊べば、[#行右小書き]五〇[#行右小書き終わり]かち人の裳《も》のすそぬらすゆきかひに驚《おど》されて、[#行右小書き]五一[#行右小書き終わり]比良《ひら》の高山影うつる、深き水底《みなそこ》に[#行右小書き]五二[#行右小書き終わり]潜《かづ》くとすれど、かくれ[#行右小書き]五三[#行右小書き終わり]堅田《かたた》の漁火《いさりび》に[#行右小書き]五四[#行右小書き終わり]よるぞうつつなき。[#行右小書き]五五[#行右小書き終わり]ぬば玉の夜中《よなか》の潟《かた》にやどる月は、[#行右小書き]五六[#行右小書き終わり]鏡の山の峯に清《す》みて、[#行右小書き]五七[#行右小書き終わり]八十《やそ》の湊《みなと》の八十隈《やそくま》もなくておもしろ。[#行右小書き]五八[#行右小書き終わり]沖津嶋山、[#行右小書き]五九[#行右小書き終わり]竹生嶋《ちくぶしま》、波に[#行右小書き]六〇[#行右小書き終わり]うつろふ[#行右小書き]六一[#行右小書き終わり]朱《あけ》の垣《かき》こそおどろかるれ。[#行右小書き]六二[#行右小書き終わり]さしも伊吹の山風に、[#行右小書き]六三[#行右小書き終わり]旦妻船《あさづまぶね》も漕《こ》ぎ出づれば、芦間《あしま》の夢をさまされ、[#行右小書き]六四[#行右小書き終わり]矢橋《(やばせ)》の渡《(わたり)》する人の水《み》なれ棹《さを》をのがれては、[#行右小書き]六五[#行右小書き終わり]瀬田の橋守にいくそたびか追はれぬ。日あたたかなれば浮かび、風あらきときは千尋《ちひろ》の底に遊ぶ。  急《にはか》にも飢ゑて食《もの》ほしげなるに、彼此《をちこち》に[#行右小書き]六六[#行右小書き終わり]𩛰《あさ》り得ずして狂ひゆくほどに、忽《(たちま)》ち文四が釣を垂るるにあふ。其の餌《ゑ》はなはだ香《かんば》し。心又[#行右小書き]六七[#行右小書き終わり]河|伯《がみ》の戒《いましめ》を守りて思ふ。我は仏《ほとけ》の御弟子なり。しばし食《もの》を求め得ずとも、なぞもあさましく魚の餌を飲むべきとてそこを去る。しばしありて飢《うゑ》ますます甚《はなはだ》しければ、かさねて思ふに、今は堪《た》へがたし。たとへ此の餌を飲むとも[#行右小書き]六八[#行右小書き終わり]嗚呼《をこ》に捕《と》られんやは。もとより[#行右小書き]六九[#行右小書き終わり]他《かれ》は相|識《し》るものなれば、何のはばかりかあらんとて、遂《つひ》に餌をのむ。文四[#行右小書き]七〇[#行右小書き終わり]はやく糸を収めて我を捕《とら》ふ。こはいかにするぞと叫びぬれども、他《かれ》[#行右小書き]七一[#行右小書き終わり]かつて聞かず顔にもてなして縄《なは》をもて我が[#行右小書き]七二[#行右小書き終わり]腮《あぎと》を貫《つらぬ》き、芦|間《ま》に船を繋《つな》ぎ、我を籠《かご》に押入れて君が門に進み入る。[#行右小書き]七三[#行右小書き終わり]君は賢弟と南|面《おもて》の間《ま》に弈《えき》して遊ばせ給ふ。掃守《かもり》傍《かたはら》に侍りて[#行右小書き]七四[#行右小書き終わり]菓《このみ》を啗《くら》ふ。文四がもて来し大魚《まな》を見て、人々大いに感《め》でさせ給ふ。我其のとき人々にむかひ、声をはり上げて、[#行右小書き]七五[#行右小書き終わり]旁等《かたがたら》は興義をわすれ給ふか。宥《ゆる》させ給へ。寺にかへさせ給へと、連《しきり》に叫《さけ》びぬれど、人々しらぬ形《さま》にもてなして、只手を拍《う》つて喜び給ふ。鱠手《かしはびと》なるもの、まづ我が両眼を左手《ひだり》の指《おゆび》にてつよくとらへ、[#行右小書き]七六[#行右小書き終わり]右手《みぎり》に礪《と》ぎすませし[#行右小書き]七七[#行右小書き終わり]刀《かたな》をとりて俎盤《まないた》にのぼし、[#行右小書き]七八[#行右小書き終わり]既に切るべかりしとき、我くるしさのあまりに大声をあげて、[#行右小書き]七九[#行右小書き終わり]仏弟子《ぶつでし》を害する例《ためし》やある。我を助けよ助けよと哭《な》き叫《さけ》びぬれど、聞き入れず。終《つひ》に切らるるとおぼえて夢《ゆめ》醒《さ》めたりとかたる。人々大いに感《め》で異《あや》しみ、師が物がたりにつきて思ふに、[#行右小書き]八〇[#行右小書き終わり]其の度ごとに魚の口の動くを見れど、[#行右小書き]八一[#行右小書き終わり]更に声を出だす事なし。かかる事まのあたりに見しこそいと不思議なれとて、[#行右小書き]八二[#行右小書き終わり]従者《ずさ》を家に走らしめて残れる鱠《なます》を湖《うみ》に捨てさせけり。 [#「平の助の館、表座敷で、助、十郎、掃守等の見まもる中、料理人が鯉を料理しようとする図」のキャプション付きの図(fig60609_05.png、横830×縦589)入る] [#ここからキャプション] 平の助の館、表座敷で、助、十郎、掃守等の見まもる中、料理人が鯉を料理しようとする図。興義は「仏弟子を害する例やある。我を助けよ助けよ」と叫んだが、声にならず、やがて鯉の体をはなれてゆく。(原本十丁裏、十一丁表の挿絵) [#ここでキャプション終わり]  興義これより病|愈《い》えて、杳《はるか》の後[#行右小書き]八三[#行右小書き終わり]天年《よはひ》をもて死《まか》りける。其の終焉《をはり》に臨みて、画《ゑが》く所の鯉魚|数枚《すまい》をとりて湖《うみ》に散《ちら》せば、画ける魚[#行右小書き]八四[#行右小書き終わり]紙繭《しけん》[#「紙繭」の左に「かみきぬ」のルビ]をはなれて水に遊戯《いうげ》す。ここをもて興義が絵世に伝はらず。其の弟子[#行右小書き]八五[#行右小書き終わり]成光《なりみつ》なるもの、興義が[#行右小書き]八六[#行右小書き終わり]神妙《しんめう》をつたへて[#行右小書き]八七[#行右小書き終わり]時に名あり。[#行右小書き]八八[#行右小書き終わり]閑院の殿《との》の[#行右小書き]八九[#行右小書き終わり]障子《しやうじ》に鶏《にはとり》を画《ゑが》きしに、生ける鶏《とり》この絵を見て蹴《け》たるよしを、[#行右小書き]九〇[#行右小書き終わり]古き物がたりに載《の》せたり。 [#ここから2字下げ] 一 夢の中で感応してえがいた鯉。 二 九二三―九三一。 三 滋賀県大津市にある天台宗寺門派総本山、長等山園城寺の別称。由緒ふかい寺で、眼下に琵琶湖をのぞむ。 四 古今著聞集に名が見えているが、伝未詳。 五 世間から名人という評判をたてられていた。 六 専らとしない。仕事としない。 七 琵琶湖。 八 網をひいたり釣をしたりする漁師。 九 精細巧妙の域に達した。 一〇 絵に心を集中して。 一一 大小種々の魚。 一二 われ先にとあらそいもとめた。 一三 どこまでも惜しんで。 一四 生物を殺したり、鮮魚を食ったりする世間一般の人。 一五 けっして、きっと。 一六 冗談。戯言。「生を殺し鮮を喰ふ云々」の言葉をさす。 一七 弟子の僧と友人たち。 一八 本篇の典拠、魚服記に「心頭微暖」とある。 一九 もしかしたら蘇生するかもしれない。 二〇 まわりをとりまいてみまもりながら。 二一 人事不省になって。失神して。 二二 殿方。かたがた。 二三 葬らなくてよかったことだ。 二四 寺に属する信徒。 二五 生の魚肉を細く切ったもの。魚服記「為[#レ]我覰[#二]群官方食[#レ]鱠否[#一]」。 二六 世にもまれなめずらしいはなしをおはなししましょう。 二七 どんな様子をしているか。 二八 家臣。 二九 わざわざきてくれた足労の礼をのべると。 三〇 表座敷。 三一 囲碁の勝負。 三二 食物を盛る足高の器。 三三 酒を杯に三ばい。十分に飲ませたこと。 三四 調理人。 三五 得意顔に。誇り顔に。 三六 ちがわないでしょう。 三七 こんなにくわしくはっきりと事実を指摘できた理由。 三八 ねつっぽい苦しい心地。魚服記「悪熱求[#レ]涼」。 三九 杖をたよりに。魚服記「策[#レ]杖而行」。 四〇 大空。 四一 夢心地に。原文「うつ」 四二 飛びこんで。 四三 人間が水に浮いて泳ぐのは、それがどんなにうまくても、魚が自由自在に泳ぎまわるのにはおよばない。魚服記「人浮不[#レ]如[#二]魚快[#一]也」。 四四 魚族。魚類。 四五 海神。湖の神。原文「わたづみ」 四六 ひとの捕えた鳥や魚を放してやること。 四七 水中のたのしみ。水府はもと海底にある水神の居処、竜宮をいった。 四八 三井寺の背後にある長等山から吹きおろす風。 四九 琵琶湖の南西岸、昔の志賀の都付近の海岸。 五〇 徒歩で行く人が着物の裾を濡らすほど水際近くを往来するのにおどろかされ。続古今集六「かち人の汀の氷ふみならしわたれどぬれぬ志賀の大わた」。 五一 琵琶湖の西にある比良山。 五二 もぐろうとするが。 五三 琵琶湖西岸にある。「かくれ難し」の懸詞。 五四 「夜」と「寄る」の懸詞。 五五 「夜」の枕詞。 五六 滋賀県蒲生郡竜王町にある山。歌枕。 五七 多くの港のあらゆるすみずみまで照らし出している情景はおもしろい。 五八 琵琶湖の南岸近く東寄りの沖の島。 五九 琵琶湖の北岸近くにある島。弁財天で名高い。 六〇 うつる。 六一 竹生島弁財天の朱塗りの玉垣。 六二 滋賀県と岐阜県の境にある伊吹山。さしもは、そうとはの意とさしも草(艾革)の掛詞。後拾遺集一一「かくとだにえやは伊吹のさしも草さしもしらじなもゆるおもひを」。 六三 琵琶湖東岸、米原市朝妻筑摩の入江にあった渡船。朝が来ての意を懸ける。 六四 琵琶湖南東岸、草津市矢橋から大津へ渡る舟の船頭の、さばきもあざやかな棹。 六五 琵琶湖南部、瀬田川にかかる唐橋。 六六 もとめたが手に入れることができないで。 六七 河神。湖の神。 六八 おめおめと。うかつに。 六九 文四をさす。 七〇 素早く釣糸をひきあげて。 七一 いっこう。ちっとも。 七二 魚のえら。あご。 七三 平の助をさす。 七四 くだもの。前出の桃。 七五 皆様。あなた方。 七六 「みぎり」と訓ませている。 七七 庖丁。 七八 すんでのことに切ろうとしたとき。 七九 仏に仕える僧を殺すということがあるか。 八〇 興義が魚になって口をきくたびに。 八一 ちっとも。いっこうに。 八二 めしつかい。下僕。 八三 天寿をまっとうして。 八四 画料の紙や絹からぬけ出して。「紙繭」の左右に振り仮名がある。 八五 古今著聞集に名が見えているが、伝未詳。 八六 入神の妙技をうけついで。 八七 その時代に名声をあげた。 八八 京都市上京区二条の南、西洞院の西にあった閑院内裏。もと藤原冬嗣の邸で、名園の誇高かったが、一二五九年焼失した。 八九 唐紙。ふすま。 九〇 古今著聞集をさす。同書巻一一、画図一六に「成光閑院の障子に鶏を書きたりけるを、実の鶏見て蹴けるとなん。この成光は三井寺の僧興義が弟子になん侍りける」とある。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#1字下げ][#中見出し]雨月物語 巻之三[#中見出し終わり] [#3字下げ][#小見出し][#行右小書き]一[#行右小書き終わり]仏法僧《ぶつぽふそう》[#小見出し終わり]  [#行右小書き]二[#行右小書き終わり]うらやすの国ひさしく、民《たみ》作業《なりはひ》をたのしむあまりに、春は花の下《もと》に息《やすら》ひ、秋は[#行右小書き]三[#行右小書き終わり]錦の林を尋《たづ》ね、[#行右小書き]四[#行右小書き終わり]しらぬ火の[#行右小書き]五[#行右小書き終わり]筑紫路《つくしぢ》もしらではと[#行右小書き]六[#行右小書き終わり]械《かぢ》まくらする人の、富士[#行右小書き]七[#行右小書き終わり]筑波の嶺々《みねみね》を心にしむるぞそぞろなるかな。  伊勢の[#行右小書き]八[#行右小書き終わり]相可《あふか》といふ郷《さと》に、拝志氏《はやしうぢ》の人、世をはやく嗣《つぎ》に譲《ゆづ》り、[#行右小書き]九[#行右小書き終わり]忌《い》むこともなく頭《かしら》おろして、名を夢然《むぜん》とあらため、従来《もとより》身に病さへなくて、彼此《をちこち》の旅寝を老のたのしみとする。季子《すゑのこ》作之治なるものが[#行右小書き]一〇[#行右小書き終わり]生長《ひととなり》の頑《かたくな》なるをうれひて、京の人見するとて、[#行右小書き]一一[#行右小書き終わり]一月あまり二条の別業《べつげふ》に逗《とど》まりて、三月《やよひ》の末《すゑ》[#行右小書き]一二[#行右小書き終わり]吉野の奥の花を見て、知れる寺院に七日ばかりかたらひ、此のついでに、いまだ[#行右小書き]一三[#行右小書き終わり]高野山を見ず、いざとて、夏のはじめ青葉の茂《しげ》みをわけつつ、[#行右小書き]一四[#行右小書き終わり]天《てん》の川といふより踰《こ》えて、[#行右小書き]一五[#行右小書き終わり]摩尼《まに》の御山にいたる。道のゆくての嶮《さか》しきに[#行右小書き]一六[#行右小書き終わり]なづみて、おもはずも日かたぶきぬ。  [#行右小書き]一七[#行右小書き終わり]壇場《だんぢやう》、諸堂[#行右小書き]一八[#行右小書き終わり]霊廟《みたまや》、残りなく拝みめぐりて、ここに宿からんといへど、[#行右小書き]一九[#行右小書き終わり]ふつに答ふるものなし。そこを行く人に[#行右小書き]二〇[#行右小書き終わり]所の掟《おきて》をきけば、寺院僧坊に[#行右小書き]二一[#行右小書き終わり]便《たより》なき人は、麓《ふもと》にくだりて明すべし。此の山すべて旅人に一夜をかす事なしとかたる。いかがはせん。さすがにも老の身の嶮《さか》しき山路を来《こ》しがうへに、事のよしを聞きて大きに心[#行右小書き]二二[#行右小書き終わり]倦《う》みつかれぬ。作之治がいふ。日もくれ、足も痛みて、いかがして[#行右小書き]二三[#行右小書き終わり]あまたのみちをくだらん。[#行右小書き]二四[#行右小書き終わり]弱《わか》き身は草に臥すとも厭《いと》ひなし。只[#行右小書き]二五[#行右小書き終わり]病《や》み給はん事の悲しさよ。夢然云ふ。旅はかかるをこそ哀れともいふなれ。今夜《こよひ》[#行右小書き]二六[#行右小書き終わり]脚《あし》をやぶり、倦《う》みつかれて山をくだるとも、おのが古郷《ふるさと》にもあらず。翌《あす》のみち又はかりがたし。此の山は[#行右小書き]二七[#行右小書き終わり]扶桑《ふさう》第一の霊場、[#行右小書き]二八[#行右小書き終わり]大師の広徳《くわうとく》かたるに尽きず。[#行右小書き]二九[#行右小書き終わり]殊《こと》にも来りて通夜《つや》し奉り、[#行右小書き]三〇[#行右小書き終わり]後世の事たのみ聞ゆべきに、幸《さいはひ》の時《をり》なれば、霊廟《みたまや》に夜もすがら[#行右小書き]三一[#行右小書き終わり]法施《ほふせ》したてまつるべしとて、杉の下道のをぐらきを行く行く、霊廟《みたまや》の前なる[#行右小書き]三二[#行右小書き終わり]灯籠堂《とうろうだう》の簀子《すのこ》に上《のぼ》りて、雨具《あまぐ》うち敷き座をまうけて、閑《しづか》に念仏《ねぶつ》しつつも、夜の更《ふ》けゆくをわびてぞある。  [#行右小書き]三三[#行右小書き終わり]方五十町に開きて、[#行右小書き]三四[#行右小書き終わり]あやしげなる林も見えず。小石だも掃《はら》ひし[#行右小書き]三五[#行右小書き終わり]福田《ふくでん》ながら、さすがにここは寺院遠く、[#行右小書き]三六[#行右小書き終わり]陀羅尼《だらに》[#行右小書き]三七[#行右小書き終わり]鈴錫《れいしやく》の音《こゑ》も聞えず。木《こ》立は[#行右小書き]三八[#行右小書き終わり]雲をしのぎて茂《し》みさび、[#行右小書き]三九[#行右小書き終わり]道に界《さか》ふ水の音ほそぼそと清《す》みわたりて物がなしき。寝られぬままに夢然かたりていふ。そもそも大師の[#行右小書き]四〇[#行右小書き終わり]神化《じんくわ》、土《ど》石|草《さう》木も[#行右小書き]四一[#行右小書き終わり]霊《れい》を啓《ひら》きて、[#行右小書き]四二[#行右小書き終わり]八百《やほ》とせあまりの今にいたりて、[#行右小書き]四三[#行右小書き終わり]いよよあらたに、いよよたふとし。[#行右小書き]四四[#行右小書き終わり]遺芳《ゐはう》[#行右小書き]四五[#行右小書き終わり]歴踪《れきそう》多きが中に、此の山なん第一の[#行右小書き]四六[#行右小書き終わり]道場《だうぢやう》なり。大師[#行右小書き]四七[#行右小書き終わり]いまぞかりけるむかし、遠く[#行右小書き]四八[#行右小書き終わり]唐土《もろこし》にわたり給ひ、あの国にて[#行右小書き]四九[#行右小書き終わり]感《め》でさせ給ふ事おはして、此の[#行右小書き]五〇[#行右小書き終わり]三|鈷《こ》のとどまる所、我が道を揚《あ》ぐる霊地《れいち》なりとて、杳冥《そら》にむかひて抛《な》げさせ給ふが、[#行右小書き]五一[#行右小書き終わり]はた此の山にとどまりぬる。[#行右小書き]五二[#行右小書き終わり]壇場《だんぢやう》の御前なる三|鈷《こ》の松こそ此の物の落ちとどまりし地《ところ》なりと聞く。すべて此の山の草木|泉石《せんせき》霊《れい》ならざるはあらずとなん。こよひ[#行右小書き]五三[#行右小書き終わり]不思議にもここに一夜をかりたてまつる事、[#行右小書き]五四[#行右小書き終わり]一世ならぬ善縁《ぜんえん》なり。你《なんぢ》弱《わか》きとて努《ゆめ》々|信心《しんじん》おこたるべからずと、[#行右小書き]五五[#行右小書き終わり]小《ささ》やかにかたるも清《す》みて心ぼそし。  御廟《みべう》のうしろの林にと覚えて、[#行右小書き]五六[#行右小書き終わり]仏法《ぶつぱん》々々となく鳥の音、山彦にこたへてちかく聞ゆ。夢然目さむる心ちして、あなめづらし、あの啼《な》く鳥こそ仏法僧といふならめ。かねて此の山に栖《す》みつるとは聞きしかど、まさに其の音を聞きしといふ人もなきに、こよひのやどりまことに[#行右小書き]五七[#行右小書き終わり]滅罪生善《めつざいしやうぜん》の祥《しるし》なるや。かの鳥は清浄《しやうじやう》の地《ち》をえらみてすめるよしなり。上野《かんづけ》の国[#行右小書き]五八[#行右小書き終わり]迦葉山《かせうざん》、下野《しもづけ》の国[#行右小書き]五九[#行右小書き終わり]二荒《ふたら》山、山城の[#行右小書き]六〇[#行右小書き終わり]醍醐《だいご》の峯《みね》、河内の[#行右小書き]六一[#行右小書き終わり]杵長《しなが》山、就中《なかんづく》此の山にすむ事、大師の[#行右小書き]六二[#行右小書き終わり]詩偈《しげ》ありて世の人よくしれり。 [#ここから3字下げ] [#行右小書き]六三[#行右小書き終わり]寒林独坐草堂暁《かんりんどくざさうだうのあかつき》   |三宝之声聞[#二]一鳥[#一]《さんぼうのこゑをいつてうにきく》 |一鳥有[#レ]声人有[#レ]心《いつてうこゑありひとこころあり》   性心雲水倶了々《せいしんうんすゐともにれうれう》 [#ここで字下げ終わり] 又ふるき歌に、 [#ここから3字下げ] [#行右小書き]六四[#行右小書き終わり]松の尾の峯|静《しづか》なる曙《あけぼの》に [#ここから6字下げ] あふぎて聞けば仏法僧啼く [#ここで字下げ終わり] むかし[#行右小書き]六五[#行右小書き終わり]最福寺《さいふくじ》の[#行右小書き]六六[#行右小書き終わり]延朗法師《えんらうほふし》は世にならびなき[#行右小書き]六七[#行右小書き終わり]法華者《ほつけしや》なりしほどに、[#行右小書き]六八[#行右小書き終わり]松の尾の御神此の鳥をして常に延朗につかへしめ給ふよしをいひ伝ふれば、かの神垣にも巣《す》むよしは聞えぬ。[#行右小書き]六九[#行右小書き終わり]こよひの奇妙《きめう》既に一鳥声あり。我ここにありて[#行右小書き]七〇[#行右小書き終わり]心なからんやとて、平生《つね》のたのしみとする俳諧風《はいかいぶり》の十七|言《こと》を、しばし[#行右小書き]七一[#行右小書き終わり]うちかたぶいていひ出でける。 [#ここから3字下げ] [#行右小書き]七二[#行右小書き終わり]鳥の音《ね》も秘密《ひみつ》の山の茂《しげ》みかな [#ここで字下げ終わり]  旅硯《たびすずり》とり出でて、御灯《みあかし》の光に書きつけ、今一声もがなと耳を倚《かたぶ》くるに、思ひがけずも遠く寺院の方より、[#行右小書き]七三[#行右小書き終わり]前《さき》を追《お》ふ声の厳《いかめ》しく聞えて、やや近づき来たり。何人の夜|深《ふ》けて詣《まう》で給ふやと、異《あや》しくも恐ろしく、親子顔を見あはせて息《いき》をつめ、そなたをのみまもり居るに、はや前駆《ぜんぐ》の若侍《わかさむらひ》、[#行右小書き]七四[#行右小書き終わり]橋板《はしいた》をあららかに踏みてここに来る。  おどろきて堂の右に潜《ひそ》みかくるるを、武士《ぶし》はやく見つけて、何者なるぞ、[#行右小書き]七五[#行右小書き終わり]殿下《でんか》のわたらせ給ふ。疾《と》く下《お》りよといふに、あわただしく簀子《すのこ》をくだり、土に俯《ふ》して[#行右小書き]七六[#行右小書き終わり]跪《うずすま》る。程なく多くの足音聞ゆる中に、沓音《くつおと》高く響《ひび》きて、烏帽子《ゑぼし》[#行右小書き]七七[#行右小書き終わり]直衣《なほし》めしたる貴人、堂に上り給へば、従者《みとも》の武士《もののべ》四五人ばかり右左《みぎひだり》に座をまうく。かの貴人、人々に向ひて、誰《たれ》々はなど来らざると課《おほ》せらるるに、やがてぞ参りつらめと奏《まう》す。又一|群《むれ》の足音して、威儀ある武士、頭《かしら》まろげたる入道等《にふだうら》うち交《まじ》りて、[#行右小書き]七八[#行右小書き終わり]礼《ゐや》たてまつりて堂に昇《のぼ》る。貴人、只今来りし武士にむかひて、[#行右小書き]七九[#行右小書き終わり]常陸《ひたち》は何とておそく参りたるぞとあれば、かの武士いふ。[#行右小書き]八〇[#行右小書き終わり]白江《しらえ》熊谷《くまがへ》の両士、公《きみ》に[#行右小書き]八一[#行右小書き終わり]大御酒《おほみき》すすめたてまつるとて[#行右小書き]八二[#行右小書き終わり]実《まめ》やかなるに、臣も[#行右小書き]八三[#行右小書き終わり]鮮《あざら(け)》き物一|種《しゆ》調《てう》じまゐらせんため、御従《みとも》に後《おく》れたてまつりぬと奏《まう》す。はやく酒殽《さかな》をつらねてすすめまゐらすれば、[#行右小書き]八四[#行右小書き終わり]万作|酌《しやく》まゐれとぞ課《おほ》せらる。恐《かしこま》りて、美相《びさう》の若士《わかさぶらひ》膝行《ゐざ》りよりて[#行右小書き]八五[#行右小書き終わり]瓶子《へいじ》を捧《ささ》ぐ。かなたこなたに杯《さかづき》をめぐらしていと興ありげなり。 [#「高野山奥の院、灯籠堂の前で、深夜、夢然・作之治父子が、関白秀次とその家臣たちの亡霊にあう図」のキャプション付きの図(fig60609_06.png、横835×縦601)入る] [#ここからキャプション] 高野山奥の院、灯籠堂の前で、深夜、夢然・作之治父子が、関白秀次とその家臣たちの亡霊にあう図。先駆の武士が父子を叱っているところ。(原本三丁裏、四丁表の挿絵) [#ここでキャプション終わり]  貴人又|曰《のたま》はく、絶えて[#行右小書き]八六[#行右小書き終わり]紹巴《ぜうは》が説話《ものがたり》を聞かず、召せと、[#行右小書き]八七[#行右小書き終わり]の給ふに、呼びつぐやうなりしが、[#行右小書き]八八[#行右小書き終わり]我が跪《うずすま》りし背《うしろ》の方より、[#行右小書き]八九[#行右小書き終わり]大いなる法師の、面《おもて》[#行右小書き]九〇[#行右小書き終わり]うちひらめきて、[#行右小書き]九一[#行右小書き終わり]目鼻《めはな》あざやかなる人の、僧衣《そうえ》かいつくろひて座の末《すゑ》にまゐれり。貴人[#行右小書き]九二[#行右小書き終わり]古語《ふること》かれこれ問《と》ひ弁《わきま》へ給ふに、詳《つばら》に答へたてまつるを、いといと感《め》でさせ給うて、[#行右小書き]九三[#行右小書き終わり]他《かれ》に禄《ろく》とらせよとの給ふ。  一人の武士かの法師に問ひていふ。此の山は[#行右小書き]九四[#行右小書き終わり]大徳《(だいとこ)》の啓《ひら》き給うて、土石草木《どせきさうもく》も[#行右小書き]九五[#行右小書き終わり]霊《れい》なきはあらずと聞く。さるに[#行右小書き]九六[#行右小書き終わり]玉川の流《なが》れには毒あり。人飲む時は斃《たふ》るが故に、大師のよませ給ふ歌とて、 [#ここから3字下げ] [#行右小書き]九七[#行右小書き終わり]わすれても汲みやしつらん旅《たび》人の     高野《たかの》の奥の玉川の水 [#ここで字下げ終わり] といふことを聞き伝へたり。大徳のさすがに、此の毒ある流をば、[#行右小書き]九八[#行右小書き終わり]など涸《あ》せては果し給はぬや。いぶかしき事を[#行右小書き]九九[#行右小書き終わり]足下《そこ》にはいかに弁《わきま》へ給ふ。  法師|笑《ゑみ》をふくみていふは、此の歌は[#行右小書き]一〇〇[#行右小書き終わり]風雅集《ふうがしふ》に撰《えら》み入れ給ふ。其の[#行右小書き]一〇一[#行右小書き終わり]端詞《はしことば》に、高野《たかの》の奥の院へまゐる道に、玉川といふ河の水上《みなかみ》に毒《どく》虫おほかりければ、此の流を飲むまじきよしをしめしおきて後よみ侍《はべ》りける、とことわらせ給へば、足下《そこ》のおぼえ給ふ如くなり。されど今の御疑ひ[#行右小書き]一〇二[#行右小書き終わり]僻言《ひがごと》ならぬは、大師は神通自在《じんつうじざい》にして[#行右小書き]一〇三[#行右小書き終わり]隠神《かくれがみ》を役《えき》して道なきをひらき、巌《いはほ》を鐫《ゑ》るには土を穿《うが》つよりも易《やす》く、大蛇《をろち》を[#行右小書き]一〇四[#行右小書き終わり]禁《いまし》め、化鳥《けてう》を[#行右小書き]一〇五[#行右小書き終わり]奉仕《まつろ》へしめ給ふ事、天《あめ》が下の人の仰ぎたてまつる功《いさをし》なるを思ふには、此の歌の端《はし》の詞《ことば》ぞ[#行右小書き]一〇六[#行右小書き終わり]まことしからね。もとより此の[#行右小書き]一〇七[#行右小書き終わり]玉河てふ川は国々にありて、いづれをよめる歌も、其の流れのきよきを誉《あ》げしなるを思へば、ここの玉川も毒ある流れにはあらで、歌の意《こころ》も、[#行右小書き]一〇八[#行右小書き終わり]かばかり名に負《お》ふ河の此の山にあるを、ここに詣《まう》づる人は[#行右小書き]一〇九[#行右小書き終わり]忘る忘るも、流れの清きに愛《め》でて手に掬《むす》びつらんとよませ給ふにやあらんを、後の人の毒ありといふ[#行右小書き]一一〇[#行右小書き終わり]狂言《まがこと》より、此の端詞《はしことば》はつくりなせしものかとも思はるるなり。又深く疑ふときには、此の歌の調《しらべ》、[#行右小書き]一一一[#行右小書き終わり]今の京《みやこ》の初《はじめ》の口|風《ぶり》にもあらず。おほよそ此の国の古語《ふること》に、[#行右小書き]一一二[#行右小書き終わり]玉|蘰《かづら》[#行右小書き]一一三[#行右小書き終わり]玉|簾《だれ》[#行右小書き]一一四[#行右小書き終わり]珠衣《たまぎぬ》の類《たぐひ》は、形《かたち》をほめ清きを賞《ほ》むる語《ことば》なるから、清水《しみづ》をも玉水玉の井玉河ともほむるなり。毒ある流れをなど[#行右小書き]一一五[#行右小書き終わり]玉てふ語《ことば》は冠《かうむ》らしめん。[#行右小書き]一一六[#行右小書き終わり]強《あながち》に仏《ほとけ》をたふとむ人の、歌の意《こころ》に細妙《くはし》からぬは、これほどの訛《あやまり》は幾らをもしいづるなり。足下《そこ》は歌よむ人にもおはせで、此の歌の意《こころ》異《あや》しみ給ふは[#行右小書き]一一七[#行右小書き終わり]用意《ようい》ある事こそと、篤《あつ》く感《め》でにける。貴人をはじめ人々も此のことわりを頻《しきり》に感《め》でさせ給ふ。  御《み》堂のうしろの方に、仏法《ぶつぱん》々々と啼《な》く音《こゑ》ちかく聞ゆるに、貴人|杯《さかづき》をあげ給ひて、例《れい》の鳥絶えて鳴かざりしに、今夜《こよひ》の酒宴《しゆえん》に[#行右小書き]一一八[#行右小書き終わり]栄《はえ》あるぞ。紹巴《ぜうは》[#行右小書き]一一九[#行右小書き終わり]いかにと課《おほ》せ給ふ。法師かしこまりて、某《それがし》が[#行右小書き]一二〇[#行右小書き終わり]短句《たんく》、公《きみ》にも[#行右小書き]一二一[#行右小書き終わり]御耳すすびましまさん。ここに旅人の通夜《つや》しけるが、今の世の俳諧風《はいかいぶり》をまうして侍る。公《きみ》にはめづらしくおはさんに召して聞かせ給へといふ。[#行右小書き]一二二[#行右小書き終わり]それ召せと課《おほ》せらるるに、若きさむらひ夢然が方へむかひ、召し給ふぞ、ちかうまゐれと云ふ。[#行右小書き]一二三[#行右小書き終わり]夢現《ゆめうつつ》ともわかで、おそろしさのままに御まのあたりへはひ出づる。法師夢然にむかひ、前《さき》によみつる詞を公《きみ》に申し上げよといふ。夢然恐る恐る、何をか申しつる、更《さら》に覚え侍らず。只|赦《ゆる》し給はれと云ふ。法師かさねて、秘密の山とは申さざるや。殿下《でんか》の問はせ給ふ。いそぎ申し上げよといふ。夢然いよいよ恐れて、殿下と課《おほ》せ出され侍るは[#行右小書き]一二四[#行右小書き終わり]誰にてわたらせ給ひ、かかる深山《みやま》に夜宴《やえん》をもよほし給ふや。[#行右小書き]一二五[#行右小書き終わり]更にいぶかしき事に侍るといふ。法師答へて、殿下と申し奉るは、[#行右小書き]一二六[#行右小書き終わり]関白秀次公《くわんぱくひでつぐこう》にてわたらせ給ふ。人々は[#行右小書き]一二七[#行右小書き終わり]木村常陸介《(きむらひたちのすけ)》、雀部《ささべ》淡路、白江備後、熊谷《くまがへ》大膳、粟野杢《あはのもく》、日比野下野《ひびの(しもつけ)》、山口|少雲《せううん》、丸毛不心《まるもふしん》、隆西《りうさい》入道、山本|主殿《とのも》、山田三十郎、不破《ふは》万作、かく云ふは紹巴《ぜうは》[#行右小書き]一二八[#行右小書き終わり]法橋《ほつけう》なり。汝等《なんぢら》[#行右小書き]一二九[#行右小書き終わり]不思議の御目見えつかまつりたるは。前《さき》のことばいそぎ申し上げよといふ。頭《かしら》に髪《かみ》あらば[#行右小書き]一三〇[#行右小書き終わり]ふとるべきばかりに凄《すざま》しく[#行右小書き]一三一[#行右小書き終わり]肝《きも》魂《たましひ》も虚《そら》にかへるここちして、振《ふる》ふ振ふ、[#行右小書き]一三二[#行右小書き終わり]頭陀嚢《づだぶくろ》より清き紙取り出《い》でて、筆も[#行右小書き]一三三[#行右小書き終わり]しどろに書きつけてさし出すを、主殿《とのも》取りてたかく吟じ上ぐる。 [#ここから3字下げ] 鳥の音も秘密の山の茂みかな [#ここで字下げ終わり]  貴人聞かせ給ひて、[#行右小書き]一三四[#行右小書き終わり]口がしこくもつかまつりしな。誰《た》そ此の[#行右小書き]一三五[#行右小書き終わり]末句《すゑく》をまうせとのたまふに、山田三十郎座をすすみて、某《それがし》つかうまつらんとて、しばしうちかたぶきてかくなん。 [#ここから3字下げ] [#行右小書き]一三六[#行右小書き終わり]芥子《けし》たき明《あか》すみじか夜の牀《ゆか》 [#ここで字下げ終わり] [#行右小書き]一三七[#行右小書き終わり]いかがあるべきと、紹巴に見する。よろしくまうされたりと、公《きみ》の前に出すを見給ひて、[#行右小書き]一三八[#行右小書き終わり]片羽《かたは》にもあらぬはと興じ給ひて、又[#行右小書き]一三九[#行右小書き終わり]杯《さかづき》を揚《あ》げてめぐらし給ふ。  [#行右小書き]一四〇[#行右小書き終わり]淡路と聞えし人、にはかに色を違《たが》へて、はや[#行右小書き]一四一[#行右小書き終わり]修羅《しゆら》の時にや。阿修羅《あしゆら》ども御迎ひに来ると聞え侍る。立たせ給へといへば、一座の人々|忽《(たちま)》ち面《おもて》に血を灌《そそ》ぎし如く、いざ[#行右小書き]一四二[#行右小書き終わり]石田増田が徒《ともがら》に今夜《こよひ》も[#行右小書き]一四三[#行右小書き終わり]泡《あわ》吹《ふ》かせんと勇みて立ち躁《さわ》ぐ。秀次《ひでつぐ》木村に向はせ給ひ、[#行右小書き]一四四[#行右小書き終わり]よしなき奴《やつ》に我が姿《すがた》を見せつるぞ。他《かれ》二人《ふたり》も修羅《しゆら》につれ来れと課《おほ》せある。老臣の人々[#行右小書き]一四五[#行右小書き終わり]かけ隔《へだ》たりて声をそろへ、いまだ命《めい》つきざる者なり。[#行右小書き]一四六[#行右小書き終わり]例《れい》の悪業《あくげふ》なせさせ給ひそといふ詞も、人々の形《かたち》も、遠く雲井に行くがごとし。  親子は気《き》絶《た》えて、しばしがうち[#行右小書き]一四七[#行右小書き終わり]死《しに》入りけるが、[#行右小書き]一四八[#行右小書き終わり]しののめの明けゆく空に、ふる露の冷《ひや》やかなるに生《いき》出でしかど、いまだ明けきらぬ恐ろしさに、[#行右小書き]一四九[#行右小書き終わり]大師の御名《みな》をせはしく唱《とな》へつつ、[#行右小書き]一五〇[#行右小書き終わり]漸《やや》日出づると見て、いそぎ山をくだり、京《みやこ》にかへりて[#行右小書き]一五一[#行右小書き終わり]薬鍼《やくしん》の保養《ほやう》をなしける。一日《あるひ》夢然、三条の橋を過ぐる時、[#行右小書き]一五二[#行右小書き終わり]悪《あく》ぎやく塚《づか》の事思ひ出づるより、かの寺|眺《なが》められて、白昼《ひる》ながら物|凄《すざま》しくありけると、京《みやこ》人にかたりしを、そがままにしるしぬ。 [#ここから2字下げ] 一 啼声がプッポーソー、ブッパンニなどと聞こえるフクロウ科のコノハズクで、深山にすむ。 二 心安らかに平穏に治まれる国。日本の美称。 三 錦のようにうつくしい紅葉の林。春は花云々の対。 四 筑紫の枕詞。「知らぬ」に懸ける。 五 ここでは九州の国々。 六 船旅をする人。械は楫。 七 茨城県にあり、古来富士山と並んで関東の名山。 八 三重県多気町相可。 九 不幸があったわけでもないのに薙髪して。 一〇 生来無骨で融通のきかないのを案じて。 一一 一月・二条・三月と数を重ねる修辞法。別業は別邸。ここでは支店ととってよい。 一二 吉野山は桜の名所。下の千本・中の千本・上の千本・奥の千本とある。 一三 和歌山県伊都郡高野町にあり、古義真言宗総本山金剛峯寺がある。 一四 奈良県吉野郡天川町。 一五 高野山の美称。 一六 ゆきなやんで。 一七 東塔より西塔にいたる二町の間をいい、金堂・大塔・灌頂堂・御影堂・愛染堂等の重要な堂塔伽藍がある。 一八 奥の院にある大師廟。 一九 まったく。ちっとも。 二〇 この土地の規約・戒律。 二一 つてのない人。 二二 がっかりして。 二三 長いみちのり。 二四 作之治が自分をさす。 二五 父上が御病気になられはしまいかと。 二六 脚を痛め。 二七 日本の異称。 二八 この山を開基した弘法大師の広大な徳はとても語りつくせない。 二九 わざわざにでも。 三〇 来世の安楽往生をお願いしなければならないが。 三一 霊前で読経念仏すること。 三二 大師廟の前にあり、古くは拝殿・礼堂とよばれ、中に多くの灯籠が奉納されている。 三三 五〇町四方。実際は東西五〇町(五四五〇メートル)南北一〇町余り。 三四 見苦しい林。 三五 仏法僧三宝の徳を敬田・恩田・悲田といい、ここでは、その仏法僧の諸徳がそなわったありがたい霊地の意。 三六 経文の名。翻訳せずに梵語のままで誦する。 三七 鈴と錫の仏具。 三八 雲をおしわけるくらい高くそびえて茂りあい。 三九 道ばたを流れる水。 四〇 神の如き徳化力。 四一 霊魂を宿して。 四二 大師が高野山をひらいたのが弘仁七年(八二六)であり、八百余年後は一七世紀初頭にあたる。 四三 ますます顕著に。 四四 後世につたえられるすぐれた業績。 四五 諸国を遍歴してのこした旧跡。 四六 仏道を修行する場。 四七 御在世中の当時。 四八 大師が唐に渡ったのは延暦二三年(八〇四)。 四九 ふかく感じられたこと。 五〇 仏具で、金剛杵の一種。 五一 その結果。果して。 五二 御影堂の前にある。 五三 思いがけずも。不思議な縁で。 五四 この世だけでなく前世からの善因縁である。 五五 小声で。 五六 秋成の胆大小心録四五に「仏法僧は高野山で聞いたが、ブツパンブツパンとないた。形は見へなんだ」。 五七 この世でおかした罪を消滅して、来世の善因をつくるよい前兆。 五八 群馬県沼田市の北部にある。弥勒寺がある。 五九 栃木県日光市北方にある。 六〇 京都市伏見区にある。 六一 大阪府南河内郡太子町にある山か。 六二 仏徳を讃えるためにつくった詩で、多く四句から成る。 六三 三宝は仏法僧。性心雲水は有情の鳥の性と人心、無情の行雲と流水。了々は悟りの境地に入っている。大師の詩文集、遍照発揮性霊集、巻一〇にある。現代語訳を見よ。[#現代語訳「さびしい林の中の草の庵にひとり坐して暁をむかえると、折から仏・法・僧の三宝を唱える一羽の鳥の声を聞いた。一羽の鳥ですらすでに三宝を唱える声があるのだから、これを聞く自分にも、これに応じて仏心を発揮する心がある。有情の鳥声・人心、非情の行雲・流水、すべてこの山にあるものは法身如来の仏徳を開顕して悟りの境地に入っている」] 六四 松の尾は、京都市右京区にある山。新撰六帖や夫木集にある藤原光俊の歌。 六五 松の尾にある天台宗の寺。 六六 一二、三世紀の天台宗の高僧。最福寺の住職。 六七 法華経の信奉者。 六八 京都市右京区嵐山宮前町にある松尾神社。 六九 今夜めずらしくも仏法僧の一声を聞くことができた。 七〇 興趣を解し感動せずにおられようか。 七一 首を傾け思案して。 七二 秘密の山は高野山。真言秘密の法を行なう高野山では仏法僧の声も神秘の響をもつ。 七三 先ばらい。前駆。 七四 御廟橋の橋板を荒々しくふんで。 七五 摂政・関白・将軍などをいう。 七六 「うずくまる」意の古語。 七七 ノーシといい、貴人の平服。 七八 札をして。 七九 木村常陸介重茲。秀次補佐の重臣。 八〇 白江備後守と熊谷大膳亮。ともに秀次の臣。 八一 神や天皇・貴人にたてまつり、賜わる酒。 八二 まめまめしく働いているので。 八三 鮮魚。転じて酒の肴。 八四 不破万作。秀次の近侍。美少年。 八五 酒徳利。 八六 里村紹巴。連歌の名人。信長・秀吉・秀次の恩をうけた。慶長七年(一六〇二)没。 八七 おっしゃる。 八八 夢然を一人称とした。 八九 松永貞徳の戴恩記に「顔おほきにして眉なく、明らかなるひとかは目にて、鼻大きにあざやかに」とある。 九〇 ひらたくて。 九一 目鼻だちのはっきりした人。 九二 故事古語古歌などについてあれこれと問いただす。 九三 紹巴に褒美を与えよ。 九四 徳高き高僧。ここでは弘法大師をさす。 九五 仏徳をうけて霊魂なきものはない。 九六 摩尼・楊柳・転軸の三山に発して、御廟橋の下を流れる小川。 九七 この歌の解には古来異説があるが、忘れても旅人は高野山の奥の玉川の水を汲んで飲んではいけない、毒があるからだ、の意に解すのが普通のようであり、秋成の解は本文に詳述している。風雅集一六に弘法大師作としてある。 九八 どうして水を涸らしてしまわれないのか。 九九 貴殿。対称代名詞。 一〇〇 花園上皇自撰の歌集。貞和二年(一三四六)成立。 一〇一 和歌などの前につける詞書。 一〇二 まちがったこと。 一〇三 目に見えない神を使役して。 一〇四 封じこめ。 一〇五 帰順せしめ。 一〇六 本当とは思えない。 一〇七 六玉川として有名。井出玉川、京都府綴喜郡井手町。野路玉川、滋賀県草津市。擣衣玉川、大阪府高槻市。高野玉川、和歌山県高野山。調布玉川、東京都西多摩郡。野田玉川、宮城県塩釜市付近。歌枕。 一〇八 これほど有名な。 一〇九 すっかり忘れていても。 一一〇 道理にはずれた妄説。 一一一 平安朝初期の歌風ではない。すなわち、弘法大師の作ではないの意を暗示する。 一一二 多くの玉を緒でつらぬいたもので、頭の飾り。 一一三 玉などを飾ったすだれ。またすだれの美称。 一一四 玉をつけた着物。また着物の美称。 一一五 玉という語。 一一六 むやみに仏をありがたがって尊ぶ人で。 一一七 たしなみのふかいことである。 一一八 ひとしお興を加えたことである。 一一九 一句どうだ。 一二〇 連歌の一句。 一二一 お聞きふるしでいらっしゃいましょう。 一二二 その者を召し出せ。 一二三 無我夢中で。 一二四 どなたでいらっしゃって。 一二五 いよいよ不審なことでございます。 一二六 秀吉の甥で、秀吉の猶子となり、内大臣から関白になったが、秀吉に実子の秀頼が誕生するにおよんで威勢を失い、官位を奪われて高野山に逐われ、文禄四年(一五九五)七月、青巖寺で自刃。二八歳。 一二七 以下の人々はいずれも秀次腹心の臣で、大半は秀次に殉じて死んだ。 一二八 僧の位で、法印・法眼につぐ。後には文人・画家・医師にも授かった。 一二九 不思議の御縁で拝顔の栄をえたのであるぞ。 一三〇 一瞬にして毛髪がふとくなるほどの恐ろしさ。 一三一 肝も魂も身をはなれて宙にうくような心地。 一三二 首から胸にかける袋で、近世には多く旅行用に用いられた。 一三三 とり乱すさま。 一三四 うまく、小ざかしくも詠んだな。 一三五 付句。五七五にたいしてつける七七。 一三六 芥子は真言宗で焚いて加持祈祷に用いる。みじか夜は夏の夜。牀は護摩壇。芥子を焚きながら短い夏の夜を、護摩壇のそばで護摩の秘法を行なってあかす。 一三七 どうでしょうか。 一三八 片端。不十分。不完全。下手でもない。 一三九 杯に酒をみたして。 一四〇 雀部淡路とよばれた人。 一四一 闘争を事とする鬼神阿修羅の略。もはや争闘のはじまる時刻になった。 一四二 石田三成と増田長盛。ともに秀吉の重臣で、秀次を讒言して死にいたらしめた。 一四三 ひどいめにあわせてやろう。 一四四 つまらぬやつ。 一四五 その間にわって入って。両者をへだてて。 一四六 殺生残虐を好むいつもの悪い所行。 一四七 失神したが。 一四八 「明け」の枕詞。 一四九 南無大師遍照金剛ととなえた。 一五〇 ようやく。やっと。 一五一 薬をのんだり鍼をうったりして治療養生した。 一五二 京都三条小橋の東南岸、瑞泉寺内にある悪逆塚。畜生塚ともいう。秀次の首、および妻子侍妾三十余人の首を埋め、僧慶順が、文禄四年(一五九五)に建立した。その後、角倉了意があらたに碑を建てて現存する。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#3字下げ][#小見出し][#行右小書き]一[#行右小書き終わり]吉備津《きびつ》の釜《かま》[#小見出し終わり]  [#行右小書き]二[#行右小書き終わり]妒婦《とふ》の養《やしな》ひがたきも、老《お》いての後其の功《こう》を知ると。咨《ああ》これ何人の語《ことば》ぞや。害《わざはひ》の甚しからぬも、[#行右小書き]三[#行右小書き終わり]商工《わたらひ》を妨《さまた》げ物を破りて、[#行右小書き]四[#行右小書き終わり]垣の隣の口《そしり》をふせぎがたく、害の大なるにおよびては、家を失ひ、国をほろぼして、天が下に笑を伝ふ。いにしへより[#行右小書き]五[#行右小書き終わり]此の毒にあたる人、幾許《いくばく》といふ事をしらず。死して[#行右小書き]六[#行右小書き終わり]蟒《みづち》となり、或は[#行右小書き]七[#行右小書き終わり]霹靂《はたたがみ》を震《ふる》うて怨《うらみ》を報《むく》ふ類《たぐひ》は、其の肉を[#行右小書き]八[#行右小書き終わり]醢《ししびし(ほ)》にするとも飽くべからず。さるためしは希《(まれ)》なり。夫《をつと》のおのれをよく脩《をさ》めて[#行右小書き]九[#行右小書き終わり]教へなば、此の患《うれひ》おのづから避《さ》くべきものを、只[#行右小書き]一〇[#行右小書き終わり]かりそめなる徒《あだ》ことに、女の[#行右小書き]一一[#行右小書き終わり]慳《かだま》しき性《さが》を募《つの》らしめて、其の身の憂《うれひ》をもとむるにぞありける。[#行右小書き]一二[#行右小書き終わり]禽《きん》を制《せい》するは気《き》にあり。婦《ふ》を制するは其の夫《をつと》の雄《を》々しきにありといふは、現《げ》にさることぞかし。  [#行右小書き]一三[#行右小書き終わり]吉備《きび》の国|賀夜郡《かやのこほり》庭妹《にひせ》の郷《さと》に、井沢《ゐざは》庄太夫といふものあり。祖父《おほぢ》は播磨《(はりま)》の[#行右小書き]一四[#行右小書き終わり]赤松に仕へしが、去《さ》んぬる[#行右小書き]一五[#行右小書き終わり]嘉吉《かきつ》元年の乱《みだれ》に、[#行右小書き]一六[#行右小書き終わり]かの館《たち》を去りてここに来り、庄太夫にいたるまで三代《みよ》を経《へ》て、[#行右小書き]一七[#行右小書き終わり]春|耕《たがや》し、秋|収《をさ》めて、家|豊《ゆた》かにくらしけり。一子正太郎なるもの農業《なりはひ》を厭《いと》ふあまりに、酒に乱れ色に酖《ふけ》りて、父が[#行右小書き]一八[#行右小書き終わり]掟《おきて》を守らず。父母これを嘆きて私《ひそ》かにはかるは、[#行右小書き]一九[#行右小書き終わり]あはれ良《よき》人の女子《むすめ》の皃《かほ》よきを娶《めと》りて[#行右小書き]二〇[#行右小書き終わり]あはせなば、渠《かれ》が身もおのづから脩《をさ》まりなんとて、あまねく国中《くになか》をもとむるに、幸に媒氏《なかうど》ありていふ。[#行右小書き]二一[#行右小書き終わり]吉備津《きびつ》の神主《かんざね》香央造酒《かさだみき》が女子《むすめ》は、うまれだち秀麗《みやびやか》にて、父母にもよく仕へ、かつ歌をよみ、[#行右小書き]二二[#行右小書き終わり]箏《こと》に工《たく》みなり。従来《もとより》かの家は[#行右小書き]二三[#行右小書き終わり]吉備の鴨別《かもわけ》が裔《すゑ》にて家系《すぢめ》も正しければ、君が家に[#行右小書き]二四[#行右小書き終わり]因《ちな》み給ふは[#行右小書き]二五[#行右小書き終わり]果《はた》吉祥《よきさが》なるべし。此の事の就《な》らんは[#行右小書き]二六[#行右小書き終わり]老が願ふ所なり。[#行右小書き]二七[#行右小書き終わり]大人《うし》の御《み》心いかにおぼさんやといふ。庄太夫大いに怡《よろこ》び、[#行右小書き]二八[#行右小書き終わり]よくも説かせ給ふものかな。此の事我が家にとりて[#行右小書き]二九[#行右小書き終わり]千とせの計《はかりごと》なりといへども、香央《かさだ》は此の国の貴族にて、我は氏なき[#行右小書き]三〇[#行右小書き終わり]田夫《でんぷ》なり。[#行右小書き]三一[#行右小書き終わり]門|戸《こ》敵《てき》すべからねば、おそらくは肯《うけが》ひ給はじ。媒氏《なかだち》の翁|笑《ゑみ》をつくりて、大人《うし》の謙《くだ》り給ふ事甚し。我かならず[#行右小書き]三二[#行右小書き終わり]万歳を諷《うた》ふべしと、往《い》きて香央に説けば、彼方《かなた》にもよろこびつつ、妻なるものにもかたらふに、妻もいさみていふ。我が女子《むすめ》既に十七歳になりぬれば、朝夕に[#行右小書き]三三[#行右小書き終わり]よき人がな娶《あは》せんものをと、心も[#行右小書き]三四[#行右小書き終わり]おちゐ侍《はべ》らず。はやく日をえらみて[#行右小書き]三五[#行右小書き終わり]聘礼《しるし》を納《い》れ給へと、強《あながち》にすすむれば、盟約《ちかひ》すでになりて、井沢にかへりごとす。即《やが》て聘礼《しるし》を厚くととのへて送り納《い》れ、[#行右小書き]三六[#行右小書き終わり]よき日をとりて婚儀《ことぶき》を[#行右小書き]三七[#行右小書き終わり]もよほしけり。  猶《(なほ)》幸《さいはひ》を神に祈るとて、[#行右小書き]三八[#行右小書き終わり]巫子《かんなぎ》祝部《はふり》を召しあつめて、[#行右小書き]三九[#行右小書き終わり]御湯《みゆ》をたてまつる。そもそも当社に祈誓《いのり》する人は、[#行右小書き]四〇[#行右小書き終わり]数の祓物《はらへつもの》を供《そな》へて御湯《みゆ》を奉り、吉祥《よきさが》凶祥《あしきさが》を占《うらな》ふ。巫子《かんなぎ》祝詞《のつと》をはり、湯の沸上《わきあが》るにおよびて、吉祥《よきさが》には釜の鳴る音《こゑ》牛の吼《ほ》ゆるが如し。凶《あし》きは釜に音なし。是を吉備津の御釜祓《みかまばらひ》といふ。さるに香央《かさだ》が家の事は、神の[#行右小書き]四一[#行右小書き終わり]祈《う》けさせ給はぬにや、只秋の虫の叢《くさむら》にすだくばかりの声もなし。ここに疑《うたが》ひをおこして、此の祥《さが》を妻にかたらふ。妻[#行右小書き]四二[#行右小書き終わり]更に疑はず。御釜の音なかりしは、祝部等《はふりたち》が身の清からぬにぞあらめ。既に聘礼《しるし》を納めしうへ、かの[#行右小書き]四三[#行右小書き終わり]赤縄《せきじよう》に繋《つな》ぎては、仇《あた》ある家、異《こと》なる域《くに》なりとも易《か》ふべからずと聞くものを。ことに井沢は[#行右小書き]四四[#行右小書き終わり]弓の本末《もとすゑ》をもしりたる人の流《すゑ》にて、[#行右小書き]四五[#行右小書き終わり]掟ある家と聞けば、今|否《いな》むとも承《うけが》はじ。ことに[#行右小書き]四六[#行右小書き終わり]佳婿《むこがね》の麗《あて》なるをほの聞きて、我が児《こ》も日をかぞへて待ちわぶる物を、今のよからぬ言《こと》を聞くものならば、[#行右小書き]四七[#行右小書き終わり]不慮《すずろ》なる事をや仕出《(しい)》ださん。其のとき悔ゆるともかへらじと、言《ことば》を尽《つく》して諫《いさ》むるは、まことに女の[#行右小書き]四八[#行右小書き終わり]意《こころ》ばへなるべし。香央も従来《もとより》ねがふ因《ちなみ》なれば深く疑はず、妻のことばに従《つ》きて、婚儀《ことぶき》ととのひ、両家の親族氏族《うからやから》、[#行右小書き]四九[#行右小書き終わり]鶴の千とせ、亀の万代《よろづよ》をうたひことぶきけり。  香央《かさだ》の女子《むすめ》磯良《いそら》、かしこに往《い》きてより、夙《つと》に起《お》き、おそく臥して、常に舅姑《おやおや》の傍《かたへ》を去らず、[#行右小書き]五〇[#行右小書き終わり]夫《をつと》が性《さが》をはかりて、心を尽して仕へければ、井沢夫婦は[#行右小書き]五一[#行右小書き終わり]孝節を感《め》でたしとて歓《よろこ》びに耐《た》へねば、正太郎も其の志に愛《め》でてむつまじくかたらひけり。されど[#行右小書き]五二[#行右小書き終わり]おのがままの姧《たは》けたる性《さが》はいかにせん。いつの比《(ころ)》より[#行右小書き]五三[#行右小書き終わり]鞆《とも》の津の袖といふ[#行右小書き]五四[#行右小書き終わり]妓女《あそびもの》にふかくなじみて、遂《つひ》に[#行右小書き]五五[#行右小書き終わり]贖《あがな》ひ出し、ちかき里に別荘《べつや》をしつらひ、かしこに日をかさねて家にかへらず。磯良これを怨《うら》みて、或ひは舅姑《おやおや》の忿《いかり》に[#行右小書き]五六[#行右小書き終わり]托《よ》せて諫《いさ》め、或ひは徒《あだ》なる心をうらみかこてども、[#行右小書き]五七[#行右小書き終わり]大虚《おほぞら》にのみ聞きなして、後は[#行右小書き]五八[#行右小書き終わり]月をわたりてかへり来らず。父は磯良が[#行右小書き]五九[#行右小書き終わり]切なる行止《ふるまひ》を見るに忍びず、正太郎を責めて押籠《おしこ》めける。磯良これを悲しがりて、[#行右小書き]六〇[#行右小書き終わり]朝夕の奴《つぶね》も殊《こと》に実《まめ》やかに、かつ袖が方へも私《ひそか》に物を餉《おく》りて、信《まこと》のかぎりをつくしける。  一日《あるひ》父が宿にあらぬ間《ひま》に、正太郎磯良を[#行右小書き]六一[#行右小書き終わり]かたらひていふ。御許《おもと》の信《まこと》ある操《みさを》を見て、今はおのれが身の罪をくゆるばかりなり。かの女をも古郷《ふるさと》に送りてのち、父の[#行右小書き]六二[#行右小書き終わり]面《おもて》を和《なご》め奉らん。[#行右小書き]六三[#行右小書き終わり]渠《かれ》は播磨の[#行右小書き]六四[#行右小書き終わり]印南野《いなみの》の者なるが、親もなき身の[#行右小書き]六五[#行右小書き終わり]浅ましくてあるを、いと[#行右小書き]六六[#行右小書き終わり]かなしく思ひて憐《あはれ》をもかけつるなり。我に捨てられなば、はた[#行右小書き]六七[#行右小書き終わり]船泊《ふなとま》りの妓女《うかれめ》となるべし。おなじ[#行右小書き]六八[#行右小書き終わり]浅ましき奴《つぶね》なりとも、京《みやこ》は人の情もありと聞けば、渠《かれ》をば京に送りやりて、[#行右小書き]六九[#行右小書き終わり]栄《よし》ある人に仕へさせたく思ふなり。我かくてあれば万《よろづ》に貧しかりぬべし。[#行右小書き]七〇[#行右小書き終わり]路《みち》の代《しろ》、身にまとふ物も、誰が[#行右小書き]七一[#行右小書き終わり]はかりごとしてあたへん。[#行右小書き]七二[#行右小書き終わり]御許《おもと》此の事をよくして渠《かれ》を恵み給へと、ねんごろに[#行右小書き]七三[#行右小書き終わり]あつらへけるを、磯良いとも喜《うれ》しく、此の事安くおぼし給へとて、私《ひそか》におのが衣服調度を金に貿《か》へ、猶《(なほ)》香央《かさだ》の母が許《もと》へも偽《いつは》りて金を乞《こ》ひ、正太郎に与へける。此の金を得て密《ひそか》に家を脱《のが》れ出で、袖なるものを倶《ぐ》して、京《みやこ》の方へ逃げのぼりける。かくまでたばかられしかば、今はひたすらにうらみ歎きて、遂《つひ》に重き病に臥しにけり。井沢香央の人々、[#行右小書き]七四[#行右小書き終わり]彼《かれ》を悪《にく》み此《これ》を哀《かなし》みて、専《もは》ら[#行右小書き]七五[#行右小書き終わり]医《い》の験《しるし》をもとむれども、[#行右小書き]七六[#行右小書き終わり]粥《もの》さへ日々にすたりて、よろづにたのみなくぞ見えにけり。  ここに播磨の国|印南郡《いなみのこほり》[#行右小書き]七七[#行右小書き終わり]荒井《あらゐ》の里に、彦六といふ男あり。渠《かれ》は袖とちかき従弟《いとこ》の因《ちなみ》あれば、先づこれを訪《とぶら》うて、しばらく足を休めける。彦六、正太郎にむかひて、京《みやこ》なりとて[#行右小書き]七八[#行右小書き終わり]人ごとにたのもしくもあらじ。ここに駐《とど》まられよ。[#行右小書き]七九[#行右小書き終わり]一|飯《ぱん》をわけて、ともに過活《わたらひ》のはかりごとあらんと、たのみある詞に心おちゐて、ここに住むべきに定めける。彦六、我が住むとなりなる破屋《あれや》をかりて住ましめ、友得たりとて怡《よろこ》びけり。しかるに袖、[#行右小書き]八〇[#行右小書き終わり]風のここちといひしが、[#行右小書き]八一[#行右小書き終わり]何となく悩《なや》み出でて、[#行右小書き]八二[#行右小書き終わり]鬼化《もののけ》のやうに狂はしげなれば、ここに来りて幾日もあらず、此の禍《わざはひ》に係《かか》る悲しさに、[#行右小書き]八三[#行右小書き終わり]みづからも食《もの》さへわすれて[#行右小書き]八四[#行右小書き終わり]抱《いだ》き扶《たす》くれども、只[#行右小書き]八五[#行右小書き終わり]音《ね》をのみ泣きて、[#行右小書き]八六[#行右小書き終わり]胸《むね》窮《せま》り堪《た》へがたげに、[#行右小書き]八七[#行右小書き終わり]さむれば常にかはるともなし。[#行右小書き]八八[#行右小書き終わり]窮鬼《いきすだま》といふものにや、[#行右小書き]八九[#行右小書き終わり]古郷《ふるさと》に捨てし人のもしやと[#行右小書き]九〇[#行右小書き終わり]独《ひとり》むね苦し。彦六これを諫《いさ》めて、いかでさる事のあらん。[#行右小書き]九一[#行右小書き終わり]疫《えき》といふものの悩ましきはあまた見来りぬ。[#行右小書き]九二[#行右小書き終わり]熱《あつ》き心少しさめたらんには、夢わすれたるやうなるべしと、やすげにいふぞたのみなる。看《みる》々露ばかりのしるしもなく、七日にして空《むな》しくなりぬ。天《そら》を仰ぎ、地を敲《たた》きて哭悲《なきかな》しみ、[#行右小書き]九三[#行右小書き終わり]ともにもと物狂はしきを、さまざまといひ和《なぐさ》めて、かくてはとて遂《つひ》に[#行右小書き]九四[#行右小書き終わり]曠野《あらの》の烟《けぶり》となしはてぬ。骨《ほね》をひろひ壠《つか》を築《つ》きて[#行右小書き]九五[#行右小書き終わり]塔婆《たふば》を営《いとな》み、僧を迎へて菩提《ぼだい》のことねんごろに弔《とぶら》ひける。  正太郎今は俯《ふ》して[#行右小書き]九六[#行右小書き終わり]黄泉《よみぢ》をしたへども[#行右小書き]九七[#行右小書き終わり]招魂《せうこん》の法をももとむる方なく、仰ぎて古郷《ふるさと》をおもへば、かへりて地下《ちか》よりも遠きここちせられ、[#行右小書き]九八[#行右小書き終わり]前に渡《わたり》なく、後《うしろ》に途《みち》をうしなひ、昼は[#行右小書き]九九[#行右小書き終わり]しみらに打|臥《ふ》して、夕《よひ》々ごとには壠《つか》のもとに詣《まう》でて見れば、小草はやくも繁《しげ》りて、虫のこゑすずろに悲し。[#行右小書き]一〇〇[#行右小書き終わり]此の秋のわびしきは我が身ひとつぞと思ひつづくるに、[#行右小書き]一〇一[#行右小書き終わり]天雲《あまぐも》のよそにも同じなげきありて、ならびたる新壠《あらづか》あり。ここに詣づる女の、世にも悲しげなる形《さま》して、花をたむけ水を灌《そそ》ぎたるを見て、あな哀れ、わかき御許《おもと》のかく[#行右小書き]一〇二[#行右小書き終わり]気疎《けうと》きあら野にさまよひ給ふよといふに、女かへり見て、我が身|夕《よひ》々ごとに詣で侍《はべ》るには、[#行右小書き]一〇三[#行右小書き終わり]殿はかならず前《さき》に詣で給ふ。[#行右小書き]一〇四[#行右小書き終わり]さりがたき御方に別れ給ふにてやまさん。御心のうち[#行右小書き]一〇五[#行右小書き終わり]はかりまゐらせて悲しと潸然《さめざめ》となく。正太郎いふ。[#行右小書き]一〇六[#行右小書き終わり]さる事に侍り。十日ばかりさきに[#行右小書き]一〇七[#行右小書き終わり]かなしき婦《つま》を亡《うしな》ひたるが、[#行右小書き]一〇八[#行右小書き終わり]世に残りて憑《たの》みなく侍れば、ここに詣づることをこそ[#行右小書き]一〇九[#行右小書き終わり]心|放《やり》にものし侍るなれ。御許《おもと》にも[#行右小書き]一一〇[#行右小書き終わり]さこそましますなるべし。女いふ。かく詣でつかうまつるは、[#行右小書き]一一一[#行右小書き終わり]憑《たの》みつる君の御|迹《あと》にて、いついつの日ここに葬《はうむ》り奉る。家に残ります[#行右小書き]一一二[#行右小書き終わり]女君のあまりに嘆かせ給ひて、此の頃は[#行右小書き]一一三[#行右小書き終わり]むつかしき病にそませ給ふなれば、かくかはりまゐらせて、香花をはこび侍るなりといふ。正太郎云ふ。[#行右小書き]一一四[#行右小書き終わり]刀自《とじ》の君の病み給ふもいとことわりなるものを。そも[#行右小書き]一一五[#行右小書き終わり]古《ふる》人は何人にて、家は何地《いづち》に住ませ給ふや。女いふ。憑《たの》みつる君は、此の国にては[#行右小書き]一一六[#行右小書き終わり]由縁《ゆゑ》ある御方なりしが、人の讒《さかしら》にあひて領《しる》所をも失ひ、今は此の野の隈《くま》に侘《わび》しくて住ませ給ふ。女君は[#行右小書き]一一七[#行右小書き終わり]国のとなりまでも聞え給ふ美人《かほよびと》なるが、[#行右小書き]一一八[#行右小書き終わり]此の君によりてぞ家|所領《しよりやう》をも亡《な》くし給ひぬれとかたる。此の物がたりに[#行右小書き]一一九[#行右小書き終わり]心のうつるとはなくて、[#行右小書き]一二〇[#行右小書き終わり]さてしもその君のはかなくて住ませ給ふはここちかきにや。訪《とぶら》ひまゐらせて、同じ悲しみをも[#行右小書き]一二一[#行右小書き終わり]かたり和《なぐさ》まん。[#行右小書き]一二二[#行右小書き終わり]倶《ぐ》し給へといふ。家は殿の来らせ給ふ道の[#行右小書き]一二三[#行右小書き終わり]すこし引き入りたる方なり。[#行右小書き]一二四[#行右小書き終わり]便りなくませば時々《をりをり》訪《と》はせ給へ。[#行右小書き]一二五[#行右小書き終わり]待ち侘び給はんものをと前《さき》に立ちてあゆむ。  [#行右小書き]一二六[#行右小書き終わり]二丁あまりを来てほそき径《みち》あり。ここよりも一丁ばかりをあゆみて、[#行右小書き]一二七[#行右小書き終わり]をぐらき林の裏《うち》にちひさき[#行右小書き]一二八[#行右小書き終わり]草屋《かやのや》あり。竹の扉《とぼそ》のわびしきに、七日あまりの月のあかくさし入りて、[#行右小書き]一二九[#行右小書き終わり]ほどなき庭の荒れたるさへ見ゆ。ほそき灯火《ともしび》の光窓の紙をもりてうらさびし。ここに待たせ給へとて内に入りぬ。苔《こけ》むしたる古井のもとに立ちて見入るに、唐紙《からかみ》すこし明けたる間《ひま》より、[#行右小書き]一三〇[#行右小書き終わり]火影《ほかげ》吹きあふちて、[#行右小書き]一三一[#行右小書き終わり]黒棚のきらめきたるもゆかしく覚ゆ。女|出《(い)》で来りて、御|訪《とぶら》ひのよし申しつるに、入らせ給へ、[#行右小書き]一三二[#行右小書き終わり]物隔ててかたりまゐらせんと、端《はし》の方へ膝行《ゐざ》り出で給ふ。彼所《かしこ》に入らせ給へとて、[#行右小書き]一三三[#行右小書き終わり]前栽《せんざい》をめぐりて奥の方へともなひ行く。[#行右小書き]一三四[#行右小書き終わり]二間の客殿を人の入るばかり明けて、低き屏風を立て、古き衾《ふすま》の端《はし》出でて、主《あるじ》はここにありと見えたり。正太郎かなたに向ひて、[#行右小書き]一三五[#行右小書き終わり]はかなくて病にさへそませ給ふよし。おのれも[#行右小書き]一三六[#行右小書き終わり]いとほしき妻を亡《うしな》ひて侍れば、おなじ悲しみをも[#行右小書き]一三七[#行右小書き終わり]問ひかはしまゐらせんとて、[#行右小書き]一三八[#行右小書き終わり]推《お》して詣で侍りぬといふ。あるじの女、屏風すこし引きあけて、めづらしくもあひ見奉るものかな。[#行右小書き]一三九[#行右小書き終わり]つらき報《むく》いの程しらせまゐらせんといふに、驚きて見れば、古郷《ふるさと》に残せし磯良《いそら》なり。顔の色いと青ざめて、[#行右小書き]一四〇[#行右小書き終わり]たゆき眼《まなこ》すざましく、我を指《さ》したる手の青くほそりたる恐ろしさに、[#行右小書き]一四一[#行右小書き終わり]あなやと叫んでたふれ死す。 [#「正太郎が未亡人を訪ねた図」のキャプション付きの図(fig60609_07.png、横838×縦589)入る] [#ここからキャプション] 正太郎が未亡人を訪ねた図。未亡人は実は磯良の怨霊で、屏風すこし引きあけて、「めづらしくもあひ見奉るものかな。つらき報いの程しらせまゐらせん」という。正太郎は「あなや」と叫んで倒れた。(原本十三丁裏、十四丁表の挿絵) [#ここでキャプション終わり]  時うつりて生出《いき(い)》づ。眼《め》をほそくひらき見るに、家と見しはもとありし荒野《あらの》の[#行右小書き]一四二[#行右小書き終わり]三|昧《まい》堂にて、黒き仏のみぞ立たせまします。[#行右小書き]一四三[#行右小書き終わり]里遠き犬の声を力に、家に走りかへりて、彦六にしかじかのよしをかたりければ、[#行右小書き]一四四[#行右小書き終わり]なでふ狐に欺《あざむ》かれしなるべし。心の臆《おく》れたるときはかならず[#行右小書き]一四五[#行右小書き終わり]迷《まよ》はし神の魘《おそ》ふものぞ。足下《そこ》のごとく虚弱《たよわ》き人のかく患《うれひ》に沈みしは、神仏に祈りて[#行右小書き]一四六[#行右小書き終わり]心を収《をさ》めつべし。[#行右小書き]一四七[#行右小書き終わり]刀田《とだ》の里《さと》にたふとき[#行右小書き]一四八[#行右小書き終わり]陰陽師《おんやうじ》のいます。[#行右小書き]一四九[#行右小書き終わり]身禊《みそぎ》して[#行右小書き]一五〇[#行右小書き終わり]厭符《えんぷ》をも戴《いただ》き給へと、いざなひて陰陽師の許にゆき、はじめより詳《つばら》にかたりて此の占《うら》をもとむ。陰陽師|占《うら》べ考《かうが》へていふ。災《わざはひ》すでに[#行右小書き]一五一[#行右小書き終わり]窮《せま》りて易《やす》からず。さきに[#行右小書き]一五二[#行右小書き終わり]女の命をうばひ、怨《うらみ》猶《(なほ)》尽《つ》きず。足下《そこ》の命も旦夕《あさゆふ》にせまる。此の[#行右小書き]一五三[#行右小書き終わり]鬼世をさりぬるは七日|前《さき》なれば、[#行右小書き]一五四[#行右小書き終わり]今日より四十二日が間、戸を閉《た》てて[#行右小書き]一五五[#行右小書き終わり]おもき物|斎《いみ》すべし。我が禁《いましめ》を守らば[#行右小書き]一五六[#行右小書き終わり]九死を出でて全《まつた》からんか。[#行右小書き]一五七[#行右小書き終わり]一時を過《あやま》るともまぬがるべからずと、かたくをしへて、筆をとり、正太郎が背《せ》より手足におよぶまで、[#行右小書き]一五八[#行右小書き終わり]篆籀《てんりう》のごとき文字を書き、猶[#行右小書き]一五九[#行右小書き終わり]朱符《しゆふ》あまた紙にしるして与《あた》へ、此の[#行右小書き]一六〇[#行右小書き終わり]呪《じゆ》を戸|毎《ごと》に貼《お》して神仏を念ずべし。あやまちして身を亡《ほろ》ぶることなかれと教ふるに、[#行右小書き]一六一[#行右小書き終わり]恐れみかつよろこびて家にかへり、朱符を門に貼《お》し、窓に貼して、おもき物斎にこもりける。  其の夜[#行右小書き]一六二[#行右小書き終わり]三|更《かう》の比《(ころ)》、おそろしきこゑして、あなにくや、ここにたふとき[#行右小書き]一六三[#行右小書き終わり]符文《ふもん》を設けつるよとつぶやきて、復《ふたた》び声なし。おそろしさのあまりに長き夜を[#行右小書き]一六四[#行右小書き終わり]かこつ。程なく夜明けぬるに[#行右小書き]一六五[#行右小書き終わり]生《いき》出でて、急ぎ彦六が方の壁を敲《たた》きて夜《よべ》の事をかたる。彦六もはじめて陰陽師が詞を[#行右小書き]一六六[#行右小書き終わり]奇《き》なりとして、おのれも其の夜は寝《(い)》ねずして三更の比《(ころ)》を待ちくれける。松ふく風物を僵《たふ》すがごとく、雨さへふりて[#行右小書き]一六七[#行右小書き終わり]常《ただ》ならぬ夜のさまに、壁を隔てて声をかけあひ、既に[#行右小書き]一六八[#行右小書き終わり]四更にいたる。[#行右小書き]一六九[#行右小書き終わり]下屋《しもや》の窓の紙にさと赤き光さして、あな悪《にく》や、ここにも貼《お》しつるよといふ声、深き夜にはいとど凄《すざま》しく、髪《かみ》も[#行右小書き]一七〇[#行右小書き終わり]生毛《うぶげ》もことごとく聳立《そばだ》ちて、しばらくは死《し》に入《い》りたり。明くれば夜のさまをかたり、暮るれば明くるを慕ひて、[#行右小書き]一七一[#行右小書き終わり]此の月日頃|千歳《ちとせ》を過ぐるよりも久し。かの鬼も夜ごとに家を繞《めぐ》り、或は屋の棟《むね》に叫びて、忿《いか》れる声[#行右小書き]一七二[#行右小書き終わり]夜ましにすざまし。  かくして四十二日といふ其の夜にいたりぬ。今は[#行右小書き]一七三[#行右小書き終わり]一夜にみたしぬれば、殊《こと》に慎《つつし》みて、[#行右小書き]一七四[#行右小書き終わり]やや五更の天《そら》もしらじらと明けわたりぬ。長き夢のさめたる如く、やがて彦六をよぶに、[#行右小書き]一七五[#行右小書き終わり]壁によりていかにと答ふ。おもき物いみも既に満《み》てぬ。絶えて兄長《このかみ》の面《おもて》を見ず。なつかしさに、かつ此の月頃の憂《う》さ怕《おそ》ろしさを心のかぎりいひ和《なぐさ》まん。眠《ねぶり》さまし給へ。我も外《と》の方に出でんといふ。彦六[#行右小書き]一七六[#行右小書き終わり]用意なき男なれば、今は何かあらん、いざこなたへわたり給へと、戸を明くる事|半《なか》ばならず、となりの軒にあなやと叫ぶ声耳をつらぬきて、思はず[#行右小書き]一七七[#行右小書き終わり]尻居《しりゐ》に座す。こは[#行右小書き]一七八[#行右小書き終わり]正太郎が身のうへにこそと、斧《をの》引|提《さ》げて大路《おほぢ》に出づれば、[#行右小書き]一七九[#行右小書き終わり]明けたるといひし夜はいまだくらく、[#行右小書き]一八〇[#行右小書き終わり]月は中天《なかぞら》ながら影|朧《らう》々として、風|冷《ひや》やかに、さて正太郎が戸は明けはなして其の人は見えず。内にや逃げ入りつらんと走り入りて見れども、[#行右小書き]一八一[#行右小書き終わり]いづくに竄《かく》るべき住居にもあらねば、大路にや倒れけんともとむれども、其のわたりには物もなし。いかになりつるやと、あるひは異《あや》しみ、或は恐る恐る、[#行右小書き]一八二[#行右小書き終わり]ともし火を挑《かか》げてここかしこを見|廻《めぐ》るに、明けたる戸腋《とわき》の壁に[#行右小書き]一八三[#行右小書き終わり]腥《なま》々しき血《ち》灌《そそ》ぎ流れて地につたふ。されど屍《しかばね》も骨《ほね》も見えず。月あかりに見れば、軒の端《つま》にものあり。ともし火を[#行右小書き]一八四[#行右小書き終わり]捧《ささ》げて照し見るに、男の髪の[#行右小書き]一八五[#行右小書き終わり]髻《もとどり》ばかりかかりて、外には[#行右小書き]一八六[#行右小書き終わり]露ばかりのものもなし。浅ましくもおそろしさは、[#行右小書き]一八七[#行右小書き終わり]筆につくすべうもあらずなん。夜も明けてちかき野山を探《さが》しもとむれども、つひに[#行右小書き]一八八[#行右小書き終わり]其の跡さへなくてやみぬ。  此の事井沢が家へもいひおくりぬれば、涙ながらに香央にも告げしらせぬ。されば陰陽師が[#行右小書き]一八九[#行右小書き終わり]占《うら》のいちじるき、[#行右小書き]一九〇[#行右小書き終わり]御釜《みかま》の凶祥《あしきさが》もはたたがはざりけるぞ、いともたふとかりけるとかたり伝へけり。 [#ここから2字下げ] 一 岡山県岡山市の吉備津神社に伝わる御釜祓いの神事。 二 嫉妬ぶかい女はとかく手におえないものだが。五雑組、巻八「人有[#下]為[#二]妬婦[#一]解[#レ]嘲者[#上]……故諺有[#レ]曰、到[#レ]老方知[#二]妬婦功[#一]」。 三 家業を妨げ。 四 隣近所からのそしり。 五 嫉妬の害毒。 六 蛇に似た想像上の動物。ここはおろちをいう。 七 すごい雷をならして。 八 肉の塩辛。肉醤。 九 妻を教導したならば。 一〇 ちょっとした浮気。 一一 嫉妬ぶかい性質。 一二 鳥類を制して動けないようにするのは気合による。五雑組、巻八「禽之制在[#レ]気、然則婦之制夫固有[#下]出[#二]於勇力之外[#一]者[#上]矣」。 一三 岡山県岡山市庭瀬。 一四 白旗城に拠った赤松氏。兵庫県上郡町にあった。 一五 一四四一年。赤松満祐が将軍足利義教を殺害した事件。 一六 赤松氏の居城白旗城。 一七 農業を生業として。「荀子」王制「春耕、夏耘、秋収、冬蔵、四者不[#レ]失[#レ]時、故五穀不[#レ]絶而百姓有[#二]余食[#一]也」。 一八 いいつけ。命令。 一九 ああどうか。 二〇 結婚させたならば。 二一 備中の一の宮、吉備津神社の神主。 二二 十三絃の「こと」。 二三 「日本書記」応神二二年に見える吉備臣の一族、笠臣の祖。 二四 縁組をなさることは。 二五 きっと。 二六 媒酌人の自称。 二七 相手に対する尊称。 二八 いいことをきかせて下さったものです。 二九 家運長久のもとい。 三〇 身分卑しい農民。 三一 家柄がつりあわないから。翠々伝「門戸甚不[#レ]敵」。 三二 うまくまとめて結婚という運びに致しましょう。 三三 いい相手があったら嫁入りさせたいものだ。 三四 心のやすまるひまもない。 三五 結納をとりかわす。 三六 吉日をえらんで。 三七 とり行なうことになった。 三八 ともに神職で、巫子はおもに女のみこ、祝部は禰宜の下の位。 三九 神前に御湯を供えて御釜祓の神事を行なう。 四〇 数多くのお供物。 四一 御嘉納にならないのであろうか。 四二 いっこう。ちっとも。 四三 夫婦の縁を結んだうえは。幽怪録「問[#二]嚢中赤縄[#一]、云、繋[#二]夫婦之足[#一]、雖[#二]仇家異域[#一]、此縄一繋終不[#レ]可[#レ]易」。 四四 ほまれある武門の後裔で。 四五 厳格な家風の家。 四六 婿になるべき人。 四七 とんでもないこと。 四八 母親の立場からした心持であろう。 四九 新夫婦の契りの末長からんことを祝った。淮南子「鶴千歳極[#二]其遊[#一]、亀経[#二]万歳齢[#一]」。 五〇 夫の性質をのみこんでそれに順応するように。 五一 舅姑に仕えて孝行であり、夫にかしずいて貞節であるのを感心だとして。 五二 生来のわがままで放蕩な性質。 五三 広島県福山市の港で、古来瀬戸内海の要港。庭瀬の西南六〇余キロ。 五四 遊女。 五五 身請けして。 五六 かこつけて。 五七 まったくうわのそらにききながして。 五八 ひと月以上も。 五九 真心こめた誠実なふるまい。 六〇 朝夕の仕え。奴は忠実に仕えること。 六一 説いて味方にひきいれる。手なずけて。 六二 いかりをなだめやわらげよう。 六三 袖をさす。 六四 兵庫県の加古川と明石川の間の平野で、稲美町付近が中心。歌枕。 六五 身分卑しく不幸な境遇。 六六 かわいそうに思って。 六七 港町の遊女。 六八 卑しい勤めの身。 六九 ちゃんとした身分のある人。 七〇 旅費と衣類。 七一 工面して。都合して。 七二 そなた。 七三 注文して頼む。 七四 正太郎をにくみ、磯良をあわれんで。 七五 医者にかけてその効験をねがいもとめたが。 七六 粥さえだんだんのどをとおらなくなって。 七七 兵庫県高砂市の一部。庭瀬からは東八〇余キロ。 七八 みんながみんな。 七九 一つ釜の飯をわけあって、協力して暮しの工夫をしようではないか。 八〇 風邪の気味。 八一 何ということなくわずらい出して。 八二 もののけでもついたように。 八三 正太郎をさす。 八四 介抱する。看病する。 八五 声をあげて泣くばかりで。 八六 胸がさしこんできて、たえられない様子で。 八七 熱がひき、発作がやむと。 八八 生霊・怨霊というもののたたりであろうか。 八九 磯良がもしかしたら怨霊となってたたりをしているのではなかろうか。 九〇 正太郎はひとりで胸をいためる。 九一 流行病。ここではおこりなどをさす。 九二 熱気がすこしさめたらば。 九三 自分もともに死にたいと狂気のようになっているのを。 九四 野辺に送って火葬にしてしまった。 九五 卒塔婆をたて。 九六 亡き袖のいる冥途を慕ったが。 九七 中国古代にはじまる俗信で、死者の霊魂をこの世によびもどす法。 九八 前に進もうとすれば渡し舟がなく、後に退こうとすれば道がわからなく、進退きわまって途方にくれる状態。 九九 ひねもす。終日。 一〇〇 古今集四「月みれば千々にものこそかなしけれわが身ひとつの秋にはあらねど」。 一〇一 「よそ」の枕詞。 一〇二 人気のないさびしい荒野。 一〇三 男子に対する敬称。 一〇四 はなれがたい方。肉親。愛する方。 一〇五 御推量申しあげて。 一〇六 さようでございます。 一〇七 いとしい妻。 一〇八 私ひとり生きのこって頼りなく心細い。 一〇九 せめてもの心の慰めとしているのです。 一一〇 同じような事情がおありなのでございましょうね。 一一一 御主人様のお墓で。 一一二 奥方。死んだ人の未亡人。 一一三 重い病気におかかりになられたので。 一一四 一家の主婦。奥方。 一一五 なくなった方。 一一六 由緒ある家柄の御方。 一一七 隣国にまで評判の高い。 一一八 この奥方のことが原因で。 一一九 生来の浮気心がきざしたというわけではないが、何となくひかれて。 一二〇 「さて」を強めた語。 一二一 はなしあってお互いに心の憂さをなぐさめよう。 一二二 一緒につれていって下さい。 一二三 少し横に入った方。 一二四 奥方は頼る方を失って心細くいらっしゃいますから。 一二五 きっとお待ちかねでいらっしゃいましょうよ。 一二六 約二一八メートル。 一二七 薄暗い。 一二八 茅ぶき屋根の家。 一二九 広くもない。狭い。 一三〇 ともしびの光が風に吹きあおられて。 一三一 黒塗りの違い棚。立派な調度である。 一三二 古くは身分ある女性が男子とあう時には、几帳や簾、屏風などを隔ててあうのが礼儀であり、習慣であった。 一三三 植えこみのある前庭。 一三四 柱と柱の間を一間という。 一三五 御主人に先だたれて頼りなくなられたうえに。 一三六 愛妻。 一三七 たずねたりたずねられたりして心を慰めあおうと思って。 一三八 たって参上いたしました。 一三九 ひどい仕打ちにたいする返報がどんなものか思いしらせてあげよう。 一四〇 力なくどろんとした眼。 一四一 キャーッとか、あれえとかいう悲鳴。 一四二 ここは墓地にある慰霊堂。 一四三 遠い人里で吠える犬の声。 一四四 なあに多分狐にだまされたのだろう。 一四五 人を迷わす神がとりつくものだ。 一四六 心をしずめおちつけたがよい。 一四七 兵庫県加古川市北在家付近。刀田山鶴林寺がある。荒井からは東約四キロ。 一四八 ここは占師、加持祈祷師。 一四九 身心をきよめて。 一五〇 魔よけのお守札。 一五一 身辺近く切迫していて容易なことではない。 一五二 袖をさす。 一五三 磯良の怨霊をさす。 一五四 死後四九日の間は霊魂が彼岸へ行かずに中有をさまよっているという仏教の説。 一五五 厳重な謹慎。 一五六 九死に一生を得ることができるかもしれない。 一五七 たとえ一時たりともこの戒めを破ったならば、死を免れないであろう。 一五八 籀文と篆書で、中国古代の書体。 一五九 朱で書いたお守札。 一六〇 まじない札。 一六一 一方では恐れ、また一方ではよろこんで。 一六二 午前零時―二時。 一六三 お守札。 一六四 なげく。 一六五 蘇生した思いで。 一六六 的中したことをいかにも不思議だと思って。 一六七 何か異常なことがおこりそうな不気味な夜の気配。 一六八 午前二時―四時。 一六九 身分低い者などが住む家。ここは破屋。正太郎の家。 一七〇 身の毛もよだって。 一七一 この数十日間というものは、まるで千年をすごすよりも長く思われた。 一七二 一晩ますごとに。 一七三 今夜一夜で物忌みの期間も終るところまできたので。 一七四 しばらくするうちに。 一七五 壁に身を寄せて。 一七六 思慮分別の浅い男。軽はずみなうかつ者。 一七七 尻もちをつく。 一七八 正太郎の身の上に異変が起ったに違いない。 一七九 さっき正太郎が夜が明けたと思ったのは、怨霊にだまされたのである。 一八〇 月は中空にありながら、その光りはぼんやりとおぼろで。 一八一 どこにもかくれることのできるような広い住居でもないので。 一八二 灯火を振って明るくして。 一八三 鮮血。 一八四 高くさしあげて。 一八五 髪を頭の頂で束ねた部分。たぶさ。 一八六 なにひとつない。 一八七 とても書きつくせないほどである。 一八八 形跡さえ見つからなくて、そのままに終った。 一八九 占いがよく的中したこと。 一九〇 御釜祓の凶兆のお告げもはたしてそのまま事実となってあらわれたことは。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#1字下げ][#中見出し]雨月物語 巻之四[#中見出し終わり] [#3字下げ][#小見出し][#行右小書き]一[#行右小書き終わり]蛇性《じやせい》の婬《いん》[#小見出し終わり]  いつの時代《ときよ》なりけん。紀の国[#行右小書き]二[#行右小書き終わり]三輪が崎に、大宅《おほや》の竹助といふ人在りけり。此の人[#行右小書き]三[#行右小書き終わり]海の幸《さち》ありて、海郎《あま》どもあまた養ひ、[#行右小書き]四[#行右小書き終わり]鰭《はた》の広《ひろ》物|狭《さ》き物を尽《つく》してすなどり、家豊かに暮しける。男子《をのこご》二人、女子《むすめ》一人をもてり。[#行右小書き]五[#行右小書き終わり]太郎は質朴《すなほ》にてよく生産《なりはひ》を治む。[#行右小書き]六[#行右小書き終わり]二郎の女子は大和の人の↍《つまどひ》に迎へられて、彼所《かしこ》にゆく。三郎の豊雄《とよを》なるものあり。生長《ひととなり》優《やさ》しく、常に[#行右小書き]七[#行右小書き終わり]都風《みやび》たる事をのみ好みて、[#行右小書き]八[#行右小書き終わり]過活《わたらひ》心なかりけり。父是を憂《うれ》ひつつ思ふは、家財《たから》をわかちたりとも即《やが》て[#行右小書き]九[#行右小書き終わり]人の物となさん。さりとて[#行右小書き]一〇[#行右小書き終わり]他の家を嗣《つ》がしめんも、はた[#行右小書き]一一[#行右小書き終わり]うたてき事聞くらんが[#行右小書き]一二[#行右小書き終わり]病《やま》しき。只[#行右小書き]一三[#行右小書き終わり]なすままに生《おほ》し立てて、[#行右小書き]一四[#行右小書き終わり]博士《はかせ》にもなれかし、[#行右小書き]一五[#行右小書き終わり]法師にもなれかし、[#行右小書き]一六[#行右小書き終わり]命の極《かぎり》は太郎が[#行右小書き]一七[#行右小書き終わり]羈《ほだし》物にてあらせんとて、強《し》ひて[#行右小書き]一八[#行右小書き終わり]掟《おきて》をもせざりけり。此の豊雄、[#行右小書き]一九[#行右小書き終わり]新宮の[#行右小書き]二〇[#行右小書き終わり]神奴《かんづこ》安倍《あべ》の弓麿《ゆみまろ》を師として行き通ひける。  九月《ながつき》下旬《すゑつかた》、けふはことに[#行右小書き]二一[#行右小書き終わり]なごりなく和《な》ぎたる海の、暴《にはか》に[#行右小書き]二二[#行右小書き終わり]東南《たつみ》の雲を生《おこ》して、小雨《こさめ》そぼふり来る。師が許にて[#行右小書き]二三[#行右小書き終わり]傘《おほがさ》かりて帰るに、[#行右小書き]二四[#行右小書き終わり]飛鳥《あすか》の[#行右小書き]二五[#行右小書き終わり]神秀倉《かんほぐら》見やらるる辺《ほとり》より、雨もやや頻《しきり》なれば、其所《そこ》なる海郎《あま》が屋に立ちよる。あるじの老《おきな》はひ出でて、こは[#行右小書き]二六[#行右小書き終わり]大人《うし》の弟子《おとご》の君にてます。かく[#行右小書き]二七[#行右小書き終わり]賤《あや》しき所に入らせ給ふぞいと恐《かしこ》まりたる事。是敷きて奉らんとて、[#行右小書き]二八[#行右小書き終わり]円座《わらふだ》の汚《きた》なげなるを[#行右小書き]二九[#行右小書き終わり]清めてまゐらす。[#行右小書き]三〇[#行右小書き終わり]霎時《しばし》息《や》むるほどは何か厭《いと》ふべき。なあわただしくせそとて休《やす》らひぬ。外《と》の方に麗《うるは》しき声して、此の軒しばし恵ませ給へといひつつ入り来るを、奇《あや》しと見るに、年は廿《はたち》にたらぬ女の、顔容《かほかたち》[#行右小書き]三一[#行右小書き終わり]髪《かみ》のかかりいと艶《にほひ》やかに、[#行右小書き]三二[#行右小書き終わり]遠山ずりの色よき衣《きぬ》着《き》て、[#行右小書き]三三[#行右小書き終わり]丫鬟《わらは》の十四五ばかりの清げなるに、包みし物もたせ、[#行右小書き]三四[#行右小書き終わり]しとどに濡《ぬ》れて[#行右小書き]三五[#行右小書き終わり]わびしげなるが、豊雄を見て、面《おもて》さと打ち赤めて恥かしげなる形《さま》の貴《あて》やかなるに、[#行右小書き]三六[#行右小書き終わり]不慮《すずろ》に心|動《うご》きて、且《かつ》思ふは、此の辺《あたり》にかうよろしき人の住むらんを今まで聞えぬ事はあらじを、此《こ》は都人の[#行右小書き]三七[#行右小書き終わり]三つ山|詣《まうで》せし次《ついで》に、海|愛《めづら》しくここに遊ぶらん。さりとて[#行右小書き]三八[#行右小書き終わり]男だつ者もつれざるぞいと[#行右小書き]三九[#行右小書き終わり]はしたなる事《わざ》かなと思ひつつ、すこし身|退《しりぞ》きて、ここに入らせ給へ。雨もやがてぞ休《や》みなんといふ。女、しばし宥《ゆる》させ給へとて、[#行右小書き]四〇[#行右小書き終わり]ほどなき住ひなれば、[#行右小書き]四一[#行右小書き終わり]つい並《なら》ぶやうに居るを、見るに[#行右小書き]四二[#行右小書き終わり]近《ちか》まさりして、此の世の人とも思はれぬばかり美しきに、[#行右小書き]四三[#行右小書き終わり]心も空《そら》にかへる思ひして、女にむかひ、[#行右小書き]四四[#行右小書き終わり]貴《あて》なるわたりの御方とは見奉るが、三つ山|詣《まうで》やし給ふらん。[#行右小書き]四五[#行右小書き終わり]峯《みね》の温泉《ゆ》にや出で立ち給ふらん。かう[#行右小書き]四六[#行右小書き終わり]すざましき荒礒《ありそ》を何の見所ありて[#行右小書き]四七[#行右小書き終わり]狩《か》りくらし給ふ。ここなんいにしへの人の、 [#ここから3字下げ] [#行右小書き]四八[#行右小書き終わり]くるしくもふりくる雨か三輪が崎     佐野のわたりに家もあらなくに [#ここで字下げ終わり] とよめるは、まこと[#行右小書き]四九[#行右小書き終わり]けふのあはれなりける。此の家|賤《あや》しけれど、おのれが親の[#行右小書き]五〇[#行右小書き終わり]目かくる男なり。[#行右小書き]五一[#行右小書き終わり]心ゆりて雨|休《や》め給へ。そもいづ地《ち》旅の御|宿《やど》りとはし給ふ。御見送りせんも却《かへ》りて無礼《なめげ》なれば、此の傘《かさ》もて出で給へといふ。女、いと喜《うれ》しき御心を[#行右小書き]五二[#行右小書き終わり]聞え給ふ。[#行右小書き]五三[#行右小書き終わり]其の御《み》思ひに乾《ほ》してまゐりなん。都のものにてもあらず、此の近き所に年来《としごろ》住みこし侍《はべ》るが、けふなんよき日とて[#行右小書き]五四[#行右小書き終わり]那智《なち》に詣《まう》で侍るを、暴《にはか》なる雨の恐ろしさに、やどらせ給ふともしらで、[#行右小書き]五五[#行右小書き終わり]わりなくも立ちよりて侍る。ここより遠からねば、此の小休《をやみ》に出で侍らんといふを、[#行右小書き]五六[#行右小書き終わり]強《あながち》に此の傘《かさ》もていき給へ。[#行右小書き]五七[#行右小書き終わり]何《いつ》の便《たより》にも求めなん。雨は[#行右小書き]五八[#行右小書き終わり]更に休《や》みたりともなきを。さて御住ひはいづ方《べ》ぞ。是より[#行右小書き]五九[#行右小書き終わり]使奉らんといへば、新宮の辺《ほとり》にて県《あがた》の真女児《まなご》が家はと尋ね給はれ。日も暮れなん。御|恵《めぐみ》のほどを[#行右小書き]六〇[#行右小書き終わり]指戴《さしいただ》きて帰りなんとて、傘とりて出づるを、[#行右小書き]六一[#行右小書き終わり]見送りつも、あるじが蓑笠《みのかさ》かりて家に帰りしかど、猶《(なほ)》俤《おもかげ》の[#行右小書き]六二[#行右小書き終わり]露忘れがたく、しばしまどろむ暁《あかつき》の夢に、かの真女児が家に尋ねいきて見れば、門も家もいと大きに造りなし、[#行右小書き]六三[#行右小書き終わり]蔀《しとみ》おろし[#行右小書き]六四[#行右小書き終わり]簾《すだれ》垂《た》れこめて、ゆかしげに住みなしたり。真女子出迎ひて、御|情《なさけ》わすれがたく待ち恋ひ奉る。此方《こなた》に入らせ給へとて、奥の方にいざなひ、酒|菓子《くだもの》種々《さまざま》と管待《もてな》しつつ、喜《うれ》しき酔《ゑひ》ごこちに、つひに枕をともにしてかたるとおもへば、夜明けて夢さめぬ。[#行右小書き]六五[#行右小書き終わり]現《うつつ》ならましかばと思ふ心の[#行右小書き]六六[#行右小書き終わり]いそがしきに、朝食《あさげ》も打ち忘れて[#行右小書き]六七[#行右小書き終わり]うかれ出でぬ。  新宮の郷《さと》に来て、県《あがた》の真女子《まなご》が家はと尋ぬるに、更《さら》にしりたる人なし。  [#行右小書き]六八[#行右小書き終わり]午時《ひる》かたぶくまで尋ね労《わづら》ひたるに、かの丫鬟《わらは》東の方よりあゆみ来る。豊雄見るより大いに喜び、[#行右小書き]六九[#行右小書き終わり]娘子《をとめ》の家はいづくぞ。傘《かさ》もとむとて尋ね来るといふ。丫鬟打ちゑみて、よくも来ませり。こなたに歩み給へとて、前《さき》に立ちてゆくゆく、幾ほどもなく、ここぞと聞ゆる所を見るに、門高く造《つく》りなし、家も大きなり。蔀《しとみ》おろし簾《すだれ》たれこめしまで、夢の裏《うち》に見しと露|違《たが》はぬを、奇《あや》しと[#行右小書き]七〇[#行右小書き終わり]思ふ思ふ門に入る。丫鬟走り入りて、[#行右小書き]七一[#行右小書き終わり]おほがさの主《ぬし》詣《まう》で給ふを誘《いざな》ひ奉るといへば、いづ方《べ》にますぞ、こち迎へませといひつつ立ち出づるは真女子なり。豊雄、[#行右小書き]七二[#行右小書き終わり]ここに安倍《あべ》の大人《うし》とまうすは、年来《としごろ》[#行右小書き]七三[#行右小書き終わり]物|学《まな》ぶ師にてます。彼所《かしこ》に詣づる便に、傘とりて帰るとて[#行右小書き]七四[#行右小書き終わり]推して参りぬ。御住居見おきて侍れば、又こそ詣で来《こ》んといふを、真女子|強《あながち》にとどめて、[#行右小書き]七五[#行右小書き終わり]まろや、[#行右小書き]七六[#行右小書き終わり]努《ゆめ》出し奉るなといへば、丫鬟立ちふたがりて、おほがさ強《し》ひて恵ませ給ふならずや。其《そ》がむくいに強ひてとどめまゐらすとて、腰を押して[#行右小書き]七七[#行右小書き終わり]南面《みなみおもて》の所に迎へける。板敷の間に[#行右小書き]七八[#行右小書き終わり]床畳《とこだたみ》を設けて、[#行右小書き]七九[#行右小書き終わり]几帳《きちやう》、[#行右小書き]八〇[#行右小書き終わり]御厨子《みづし》の飾《かざり》、[#行右小書き]八一[#行右小書き終わり]壁代《かべしろ》の絵なども、皆|古代《こだい》のよき物にて、[#行右小書き]八二[#行右小書き終わり]倫《なみ》の人の住居ならず。真女子立ち出でて、故ありて[#行右小書き]八三[#行右小書き終わり]人なき家とはなりぬれば、[#行右小書き]八四[#行右小書き終わり]実《まめ》やかなる御饗《みあへ》もえし奉らず。只[#行右小書き]八五[#行右小書き終わり]薄酒《うすきさけ》一杯《ひとつぎ》すすめ奉らんとて、[#行右小書き]八六[#行右小書き終わり]高坏《たかつき》平坏《ひらつき》の清らなるに、海の物山の物|盛《も》りならべて、[#行右小書き]八七[#行右小書き終わり]瓶子《へいじ》土器《かわらけ》擎《ささ》げて、まろや酌まゐる。豊雄また夢心して、さむるやと思へど、正《まさ》に現《うつつ》なるを却《かへ》りて奇《あや》しみゐたる。  客《まらうど》も主《あるじ》もともに酔《ゑひ》ごこちなるとき、真女子《まなご》杯《さかづき》をあげて、豊雄にむかひ、[#行右小書き]八八[#行右小書き終わり]花精妙《はなぐはし》桜が枝の水に[#行右小書き]八九[#行右小書き終わり]うつろひなす面《おもて》に、春吹く風を[#行右小書き]九〇[#行右小書き終わり]あやなし、梢《こずゑ》[#行右小書き]九一[#行右小書き終わり]たちぐく鶯《(うぐひす)》の[#行右小書き]九二[#行右小書き終わり]艶《にほひ》ある声していひ出づるは、[#行右小書き]九三[#行右小書き終わり]面《おも》なきことのいはで病《や》みなんも、[#行右小書き]九四[#行右小書き終わり]いづれの神になき名|負《おふ》すらんかし。[#行右小書き]九五[#行右小書き終わり]努《ゆめ》徒《あだ》なる言《こと》にな聞き給ひそ。故《もと》は都の生《うまれ》なるが、父にも母にもはやう離《わか》れまゐらせて、乳母《めのと》の許《もと》に成長《ひととな》りしを、此の国の[#行右小書き]九六[#行右小書き終わり]受領《じゆりやう》の下司《したづかさ》県《あがた》の何某《なにがし》に迎へられて伴《ともな》ひ下《くだ》りしははやく三とせになりぬ。夫《つま》は[#行右小書き]九七[#行右小書き終わり]任《にん》はてぬ此の春、かりそめの病《やまひ》に死し給ひしかば、便なき身とはなり侍る。都の乳母《めのと》も尼《あま》になりて、行方《ゆくへ》なき修行《しゆぎやう》に出でしと聞けば、[#行右小書き]九八[#行右小書き終わり]彼方《かなた》も又しらぬ国とはなりぬるをあはれみ給へ。きのふの雨のやどりの御|恵《めぐ》みに、信《まこと》ある御方にこそと[#行右小書き]九九[#行右小書き終わり]おもふ物から、[#行右小書き]一〇〇[#行右小書き終わり]今より後の齢《よはひ》をもて[#行右小書き]一〇一[#行右小書き終わり]御宮|仕《づか》へし奉らばやと願ふを、[#行右小書き]一〇二[#行右小書き終わり]汚《きたな》き物に捨て給はずば、此の一杯《ひとつぎ》に[#行右小書き]一〇三[#行右小書き終わり]千とせの契りをはじめなんといふ。豊雄、もとよりかかるをこそと[#行右小書き]一〇四[#行右小書き終わり]乱《みだれ》心なる思ひ妻なれば、[#行右小書き]一〇五[#行右小書き終わり]塒《ねぐら》の鳥の飛び立つばかりには思へど、[#行右小書き]一〇六[#行右小書き終わり]おのが世ならぬ身を顧《かへりみ》れば、親|兄弟《はらから》のゆるしなき事をと、かつ喜《うれ》しみ、且《かつ》恐れみて、頓《とみ》に答ふべき詞なきを、真女児[#行右小書き]一〇七[#行右小書き終わり]わびしがりて、女の浅き心より、[#行右小書き]一〇八[#行右小書き終わり]鳴呼《をこ》なる事をいひ出でて、[#行右小書き]一〇九[#行右小書き終わり]帰るべき道なきこそ面《おも》なけれ。かう浅ましき身を海にも没《い》らで、人の御心を煩《わづら》はし奉るは罪《つみ》深きこと。今の詞は徒《あだ》ならねども、只酔ごこちの[#行右小書き]一一〇[#行右小書き終わり]狂言《まがこと》におぼしとりて、ここの海にすて給へかしといふ。  豊雄、はじめより都人の貴《あて》なる御方とは見奉るこそ[#行右小書き]一一一[#行右小書き終わり]賢《かしこ》かりき。[#行右小書き]一一二[#行右小書き終わり]鯨よる浜に生立《おひた》ちし身の、かく喜《うれ》しきこと[#行右小書き]一一三[#行右小書き終わり]いつかは聞ゆべき。[#行右小書き]一一四[#行右小書き終わり]即《やが》ての御|答《こたへ》もせぬは、親兄に仕ふる身の、おのが物とては爪髪《つめかみ》の外なし。何を[#行右小書き]一一五[#行右小書き終わり]禄《ろく》に迎へまゐらせん便もなければ、身の[#行右小書き]一一六[#行右小書き終わり]徳なきをくゆるばかりなり。何事をもおぼし耐《た》へ給はば、いかにもいかにも後見《うしろみ》し奉らん。[#行右小書き]一一七[#行右小書き終わり]孔子《くし》さへ倒るる恋の山には、孝をも身をも忘れてといへば、いと喜《うれ》しき御心を聞きまゐらするうへは、貧しくとも時々《をりをり》ここに[#行右小書き]一一八[#行右小書き終わり]住ませ給へ。ここに前《さき》の夫《つま》の[#行右小書き]一一九[#行右小書き終わり]二《ふた》つなき宝《たから》にめで給ふ[#行右小書き]一二〇[#行右小書き終わり]帯《おび》あり。これ常に帯《は》かせ給へとてあたふるを見れば、金銀《きがねしろがね》を飾りたる太刀《たち》の、[#行右小書き]一二一[#行右小書き終わり]あやしきまで鍛《きた》うたる古代の物なりける。[#行右小書き]一二二[#行右小書き終わり]物のはじめに辞《いな》みなんは[#行右小書き]一二三[#行右小書き終わり]祥《さが》あしければとて、とりて納《をさ》む。今夜《こよひ》はここに明《あか》させ給へとて、[#行右小書き]一二四[#行右小書き終わり]あながちにとどむれど、まだ[#行右小書き]一二五[#行右小書き終わり]赦《ゆるし》なき旅寝は、親の[#行右小書き]一二六[#行右小書き終わり]罪《つみ》し給はん。明《あす》の夜よく[#行右小書き]一二七[#行右小書き終わり]偽《いつは》りて詣《まう》でなんとて出でぬ。其の夜も[#行右小書き]一二八[#行右小書き終わり]寝《い》ねがてに明けゆく。  太郎は[#行右小書き]一二九[#行右小書き終わり]網子《あご》ととのふるとて、[#行右小書き]一三〇[#行右小書き終わり]晨《つとめ》て起き出でて、豊雄が閨房《ねや》の戸の間《ひま》をふと見入れたるに、消《き》え残りたる灯火《ともしび》の影に、輝々《きらきら》しき太刀《たち》を枕に置きて臥したり。あやし。[#行右小書き]一三一[#行右小書き終わり]いづちより求めぬらんと[#行右小書き]一三二[#行右小書き終わり]おぼつかなくて、戸をあららかに明くる音に目さめぬ。太郎があるを見て、召し給ふかといへば、輝々《きらきら》しき物を枕に置きしは何ぞ。価《あたひ》貴《たか》き物は海人《あま》の家にふさはしからず。父の見給はばいかに罪《つみ》し給はんといふ。豊雄、[#行右小書き]一三三[#行右小書き終わり]財《たから》を費《つひや》して買ひたるにもあらず。きのふ[#行右小書き]一三四[#行右小書き終わり]人の得《え》させしをここに置きしなり。太郎、いかでさる宝をくるる人此の辺《あたり》にあるべき。[#行右小書き]一三五[#行右小書き終わり]あなむつかしの唐言《からこと》書きたる物を買ひたむるさへ、[#行右小書き]一三六[#行右小書き終わり]世の費《つひえ》なりと思へど、父の黙《だま》りておはすれば、今までもいはざるなり。其の太刀帯びて[#行右小書き]一三七[#行右小書き終わり]大宮《おほみや》の祭を邌《ね》るやらん。[#行右小書き]一三八[#行右小書き終わり]いかに物に狂ふぞ、といふ声の高きに、父聞きつけて、[#行右小書き]一三九[#行右小書き終わり]徒者《いたづらもの》が何事をか仕出《(しい)》でつる。ここにつれ来《こ》よ太郎と呼ぶに、いづちにて求めぬらん、軍将等《いくさぎみたち》の佩《は》き給ふべき輝々しき物を買ひたるはよからぬ事、御|目《ま》のあたりに召して[#行右小書き]一四〇[#行右小書き終わり]問ひあきらめ給へ。おのれは網子《あご》どもの[#行右小書き]一四一[#行右小書き終わり]怠るらんと云ひ捨てて出でぬ。  母、豊雄を召して、さる物[#行右小書き]一四二[#行右小書き終わり]何の料《れう》に買ひつるぞ。米も銭も太郎が物なり。[#行右小書き]一四三[#行右小書き終わり]吾主《わぬし》が物とて何をか持ちたる。日来《ひごろ》は[#行右小書き]一四四[#行右小書き終わり]為《な》すままにおきつるを、かくて太郎に悪《にく》まれなば、天地《あめつち》の中に何国《いづく》に住むらん。賢《かしこ》き事をも学びたる者が、など是ほどの事[#行右小書き]一四五[#行右小書き終わり]わいためぬぞといふ。豊雄、実《まこと》に買ひたる物にあらず。[#行右小書き]一四六[#行右小書き終わり]さる由縁《ゆゑ》有りて人の得《え》させしを、兄の見|咎《とが》めてかくのたまふなり。父、何の[#行右小書き]一四七[#行右小書き終わり]誉《ほまれ》ありてさる宝をば人のくれたるぞ。[#行右小書き]一四八[#行右小書き終わり]更におぼつかなき事。只今|所縁《いはれ》かたり出でよと罵《ののし》る。豊雄、此の事只今は[#行右小書き]一四九[#行右小書き終わり]面俯《おもてぶせ》なり。人|伝《つて》に申し出で侍らんといへば、親兄にいはぬ事を誰にかいふぞと声あららかなるを、太郎の嫁の[#行右小書き]一五〇[#行右小書き終わり]刀自《とじ》傍《かたへ》にありて、此の事[#行右小書き]一五一[#行右小書き終わり]愚《おろか》なりとも聞き侍らん。入らせ給へと宥《なだ》むるに、[#行右小書き]一五二[#行右小書き終わり]つい立ちていりぬ。  豊雄、刀自《とじ》にむかひて、兄の見|咎《とが》め給はずとも、密《みそか》に姉君を[#行右小書き]一五三[#行右小書き終わり]かたらひてんと思ひ設けつるに、[#行右小書き]一五四[#行右小書き終わり]速《はや》く責《さいな》まるる事よ。[#行右小書き]一五五[#行右小書き終わり]かうかうの人の女《め》のはかなくてあるが、後見《うしろみ》してよとて賜《たま》へるなり。[#行右小書き]一五六[#行右小書き終わり]己《おの》が世しらぬ身の、御|赦《ゆるし》さへなき事は重き[#行右小書き]一五七[#行右小書き終わり]勘当《かんだう》なるべければ、今さら悔ゆるばかりなるを、姉君よく憐み給へといふ。刀自打ち笑《ゑ》みて、男子《をのこご》のひとり寝《ね》し給ふが、兼ねて[#行右小書き]一五八[#行右小書き終わり]いとほしかりつるに、いとよき事ぞ。愚《おろか》なりともよく[#行右小書き]一五九[#行右小書き終わり]いひとり侍らんとて、其の夜太郎に、かうかうの事なるは幸《さいはひ》におぼさずや。父君の前をもよきにいひなし給へといふ。太郎|眉《まゆ》を顰《ひそ》めて、あやし、此の国の守《(かみ)》の下司《したづかさ》に県《あがた》の何某《なにがし》と云ふ人を聞かず。我が家[#行右小書き]一六〇[#行右小書き終わり]保正《をさ》なればさる人の亡《なくな》り給ひしを聞えぬ事あらじを。まづ太刀ここにとりて来よといふに、刀自やがて携《たづさ》へ来るを、よくよく見をはりて、長嘘《ためいき》をつぎつつもいふは、ここに恐ろしき事あり。近来《ちかごろ》都の大臣殿《おほいどの》の[#行右小書き]一六一[#行右小書き終わり]御願《ごぐわん》の事みたしめ給ひて、[#行右小書き]一六二[#行右小書き終わり]権現《ごんげん》におほくの宝を奉り給ふ。さるに此の神宝《かんだから》ども、[#行右小書き]一六三[#行右小書き終わり]御宝蔵《みたからぐら》の中にて頓《とみ》に失《う》せしとて、[#行右小書き]一六四[#行右小書き終わり]大宮司《だいぐじ》より国の守《かみ》に訴《うつた》へ出で給ふ。守、此の賊《ぬすびと》を探《さぐ》り捕《とら》ふために、[#行右小書き]一六五[#行右小書き終わり]助の君|文室《ふんや》の広之《ひろゆき》、大宮司の館《たち》に来て、今|専《もつぱら》に此の事を[#行右小書き]一六六[#行右小書き終わり]はかり給ふよしを聞きぬ。此の太刀[#行右小書き]一六七[#行右小書き終わり]いかさまにも下司《したづかさ》などの帯《は》くべき物にあらず。猶《(なほ)》父に見せ奉らんとて、[#行右小書き]一六八[#行右小書き終わり]御前に持ちいきて、かうかうの恐ろしき事の[#行右小書き]一六九[#行右小書き終わり]あなるは、いかが計《はか》らひ申さんといふ。父|面《おもて》を青くして、こは[#行右小書き]一七〇[#行右小書き終わり]浅ましき事の出できつるかな。日来《ひごろ》は[#行右小書き]一七一[#行右小書き終わり]一|毛《まう》をもぬかざるが、何の報《むくい》にてかう良からぬ心や出できぬらん。[#行右小書き]一七二[#行右小書き終わり]他《ほか》よりあらはれなば此の家をも絶《たや》されん。祖《みおや》の為|子孫《のち》の為には、不孝の子一人惜しからじ。明《あす》は訴《うつた》へ出でよといふ。  太郎、夜の明くるを待ちて、大宮司の舘《みたち》に来り、しかじかのよしを申し出でて、此の太刀を見せ奉るに、大宮司驚きて、是なん大臣殿《おほいどの》の献《たてまつり》物なりといふに、助聞き給ひて、猶《(なほ)》失《う》せし物問ひあきらめん。召捕れとて、武士ら十人ばかり、太郎を前《さき》にたててゆく。豊雄、かかる事をもしらで書《ふみ》見ゐたるを、武士ら押しかかりて捕ふ。こは何の罪ぞといふをも聞き入れず縛《から》めぬ。父母、太郎夫婦も、今は[#行右小書き]一七三[#行右小書き終わり]浅ましと嘆きまどふばかりなり。[#行右小書き]一七四[#行右小書き終わり]公庁《おほやけ》より召し給ふ、疾《と》くあゆめとて、[#行右小書き]一七五[#行右小書き終わり]中にとりこめて舘に追ひもてゆく。助、豊雄をにらまへて、你《なんぢ》神宝《かんだから》を盗みとりしは例《ためし》なき[#行右小書き]一七六[#行右小書き終わり]国津罪《くにつつみ》なり。猶《なほ》種々《くさぐさ》の財《たから》は[#行右小書き]一七七[#行右小書き終わり]いづちに隠したる。明らかにまうせといふ。豊雄[#行右小書き]一七八[#行右小書き終わり]漸《やや》此の事を覚《さと》り、涙を流して、おのれ[#行右小書き]一七九[#行右小書き終わり]更に盗をなさず。かうかうの事にて、県《あがた》の何某《(なにがし)》の女《め》が、前《さき》の夫《つま》の帯《お》びたるなりとて得させしなり。今にもかの女召して、おのれが罪なき事を覚らせ給へ。助いよよ怒《いか》りて、我が下司《したづかさ》に県の姓《かばね》を名のる者ある事なし。かく偽《いつは》るは刑《つみ》ますます大なり。豊雄、かく捕《とら》はれていつまで偽るべき。[#行右小書き]一八〇[#行右小書き終わり]あはれかの女召して問はせ給へ。助、武士らに向ひて、県の真女子《まなご》が家はいづくなるぞ。[#行右小書き]一八一[#行右小書き終わり]渠《かれ》を押して捕《とら》へ来れといふ。  武士らかしこまりて、又豊雄を押したてて彼所《かしこ》に行きて見るに、厳《いかめ》しく造りなせし門の柱も朽《く》ちくさり、軒の瓦《かはら》も大かたは砕《くだ》けおちて、[#行右小書き]一八二[#行右小書き終わり]草しのぶ生《お》ひさがり、人住むとは見えず。豊雄是を見て、只[#行右小書き]一八三[#行右小書き終わり]あきれにあきれゐたる。武士らかけ廻《めぐ》りて、[#行右小書き]一八四[#行右小書き終わり]ちかきとなりを召しあつむ。[#行右小書き]一八五[#行右小書き終わり]木《き》伐《き》る老《をぢ》、[#行右小書き]一八六[#行右小書き終わり]米《(よね)》かつ男ら、恐れ惑《まど》ひて[#行右小書き]一八七[#行右小書き終わり]跪《うずすま》る。武士|他《かれ》らにむかひて、此の家何者が住みしぞ。県の何某が女《め》のここにあるはまことかといふに、鍛冶《かぢ》の翁はひ出でて、さる人の名は[#行右小書き]一八八[#行右小書き終わり]かけてもうけたまはらず。此の家三とせばかり前《さき》までは、村主《すぐり》の何某といふ人の、[#行右小書き]一八九[#行右小書き終わり]賑《にぎ》はしくて住み侍《はべ》るが、[#行右小書き]一九〇[#行右小書き終わり]筑紫《つくし》に商《あき》物|積《つ》みてくだりし、其の船|行方《ゆくへ》なくなりて後は、家に残る人も散々《(ちりぢり)》になりぬるより、絶えて人の住むことなきを、此の男のきのふここに入りて、漸《やや》して帰りしを奇《あや》しとて、此の[#行右小書き]一九一[#行右小書き終わり]漆師《ぬし》の老《をぢ》がまうされしといふに、[#行右小書き]一九二[#行右小書き終わり]さもあれ、よく見|極《きは》めて殿に申さんとて、門押しひらきて入る。  家は外《と》よりも荒れまさりけり。なほ奥の方に進みゆく。前栽《せんざい》広く造りなしたり。池は水あせて水草《みくさ》も皆枯れ、[#行右小書き]一九三[#行右小書き終わり]野《の》ら藪《やぶ》生《お》ひ[#行右小書き]一九四[#行右小書き終わり]かたぶきたる中に、大きなる松の吹き倒れたるぞ物すざまし。客殿《きやくでん》の格子戸をひらけば、腥《なまぐさ》き風の[#行右小書き]一九五[#行右小書き終わり]さと吹きおくりきたるに恐れまどひて、人々|後《あと》にしりぞく。豊雄只[#行右小書き]一九六[#行右小書き終わり]声を呑みて嘆きゐる。武士の中に巨勢《こせ》の熊檮《くまがし》なる者、[#行右小書き]一九七[#行右小書き終わり]胆《きも》ふとき男にて、人々我が後《あと》に従《つ》きて来れとて、[#行右小書き]一九八[#行右小書き終わり]板敷《いたじき》をあららかに踏みて進みゆく。塵《ちり》は一寸ばかり積りたり。鼠の糞《くそ》[#行右小書き]一九九[#行右小書き終わり]ひりちらしたる中に、古き[#行右小書き]二〇〇[#行右小書き終わり]帳を立てて、花の如くなる女ひとりぞ座《を》る。熊檮《くまがし》、女にむかひて、国の守《かみ》の召しつるぞ、急ぎまゐれといへど、答《こたへ》もせであるを、近く進みて捕《とら》ふとせしに、忽《(たちま)》ち地も裂くるばかりの[#行右小書き]二〇一[#行右小書き終わり]霹靂《はたたがみ》鳴響《なりひび》くに、許多《あまた》の人|逃《に》ぐる間《ひま》もなくてそこに倒る。然《さ》て見るに、女はいづち行きけん見えずなりにけり。  此の床《とこ》の上に輝《きら》々しき物あり。人々恐る恐るいきて見るに、[#行右小書き]二〇二[#行右小書き終わり]狛錦《こまにしき》、[#行右小書き]二〇三[#行右小書き終わり]呉《くれ》の綾《あや》、[#行右小書き]二〇四[#行右小書き終わり]倭文《しづり》、[#行右小書き]二〇五[#行右小書き終わり]縑《かとり》、楯《たて》、[#行右小書き]二〇六[#行右小書き終わり]槍《ほこ》、[#行右小書き]二〇七[#行右小書き終わり]靭《ゆき》、鍬《くは》の類《たぐひ》、此の失せつる[#行右小書き]二〇八[#行右小書き終わり]神宝《かんだから》なりき。武士らこれをとりもたせて、怪しかりつる事どもを詳《つばら》に訴ふ。助も大宮司も妖怪《もののけ》のなせる事をさとりて、豊雄を責《さいな》む事をゆるくす。されど[#行右小書き]二〇九[#行右小書き終わり]当罪《おもてつみ》免《まぬが》れず、守《かみ》の舘《みたち》にわたされて牢裏《らうり》に繋《つな》がる。大宅《おほや》の父子《おやこ》多くの物を[#行右小書き]二一〇[#行右小書き終わり]賄《まひ》して罪を贖《か》ふによりて、百日がほどに赦《ゆる》さるる事を得たり。かくて[#行右小書き]二一一[#行右小書き終わり]世にたち接《まじは》らんも面俯《おもてぶせ》なり。姉の大和におはすを訪《とぶら》ひて、しばし彼所《かしこ》に住まんといふ。げにかう憂《う》きめ見つる後は重き病をも得るものなり。[#行右小書き]二一二[#行右小書き終わり]ゆきて月ごろを過せとて、人を添へて出でたたす。  二郎の姉が家は、[#行右小書き]二一三[#行右小書き終わり]石榴市《つばいち》といふ所に、田辺《たなべ》の金忠《かねただ》といふ商人《あきびと》なりける。豊雄が訪《とむら》ひ来るを喜《よろこ》び、かつ[#行右小書き]二一四[#行右小書き終わり]月ごろの事どもをいとほしがりて、いついつまでもここに住めとて、[#行右小書き]二一五[#行右小書き終わり]念頃に労《いたは》りけり。年かはりて二月《きさらぎ》になりぬ。此の石榴市といふは、[#行右小書き]二一六[#行右小書き終わり]泊瀬《はつせ》の寺ちかき所なりき。[#行右小書き]二一七[#行右小書き終わり]仏の御中には泊瀬なんあらたなる事を、唐土《もろこし》までも聞えたるとて、都より辺鄙《ゐなか》より詣《まう》づる人の、春はことに多かりけり。詣づる人は必ずここに宿れば、軒を並べて旅人をとどめける。  田辺が家は御明《みあかし》灯心《とうしん》の類《たぐひ》を商ひぬれば、[#行右小書き]二一八[#行右小書き終わり]所せく人の入りたちける中に、都の人の忍びの詣《まうで》と見えて、いと[#行右小書き]二一九[#行右小書き終わり]よろしき女一人、丫鬟《わらは》一人、[#行右小書き]二二〇[#行右小書き終わり]薫《たき》物もとむとてここに立ちよる。此の丫鬟豊雄を見て、[#行右小書き]二二一[#行右小書き終わり]吾《わ》が君のここにいますはといふに、驚きて見れば、かの真女子《まなご》、まろやなり。あな恐ろしとて内に隠るる。金忠夫婦、こは何ぞといへば、かの[#行右小書き]二二二[#行右小書き終わり]鬼ここに逐《お》ひ来る。あれに近寄り給ふなと[#行右小書き]二二三[#行右小書き終わり]隠れ惑《まど》ふを、人々、そはいづくにと立ち騒ぐ。真女子入り来りて、人々あやしみ給ひそ。吾《わが》夫《せ》の君な恐れ給ひそ。[#行右小書き]二二四[#行右小書き終わり]おのが心より罪に堕《おと》し奉る事の悲しさに、御|有家《ありか》もとめて、事の由縁《ゆゑ》をもかたり、[#行右小書き]二二五[#行右小書き終わり]御心放《みこころやり》せさせ奉らんとて、御住家尋ねまゐらせしに、かひありてあひ見奉る事の喜《うれ》しさよ。あるじの君よく聞きわけて給へ。我もし怪《あや》しき物ならば、此の[#行右小書き]二二六[#行右小書き終わり]人|繁《しげ》きわたりさへあるに、[#行右小書き]二二七[#行右小書き終わり]かうのどかなる昼《ひる》をいかにせん。[#行右小書き]二二八[#行右小書き終わり]衣《きぬ》に縫目《ぬひめ》あり、日にむかへば影あり。此の[#行右小書き]二二九[#行右小書き終わり]正《まさ》しきことわりを思《(おぼ)》しわけて、御疑ひを解かせ給へ。  豊雄|漸《やや》人ごこちして、你《なんぢ》正《まさ》しく人ならぬは、我|捕《とら》はれて、武士らとともにいきて見れば、きのふにも似ず[#行右小書き]二三〇[#行右小書き終わり]浅ましく荒果《あれは》てて、まことに鬼の住むべき宿に一人|居《を》るを、人々ら捕へんとすれば、忽《(たちま)》ち[#行右小書き]二三一[#行右小書き終わり]青天|霹靂《はたたがみ》を震《ふる》うて、跡なく[#行右小書き]二三二[#行右小書き終わり]かき消えぬるをまのあたり見つるに、又|逐《お》ひ来て何をかなす。すみやかに去れといふ。真女子《まなご》涙を流して、まことにさこそおぼさんはことわりなれど、[#行右小書き]二三三[#行右小書き終わり]妾《せふ》が言《こと》をもしばし聞かせ給へ。君|公庁《おほやけ》に召され給ふと聞きしより、かねて憐《あはれ》をかけつる隣の翁《おきな》をかたらひ、頓《とみ》に[#行右小書き]二三四[#行右小書き終わり]野らなる宿のさまをこしらへし。我を捕《とら》んずときに鳴神《なるかみ》響《ひび》かせしは、まろやが[#行右小書き]二三五[#行右小書き終わり]計較《たばか》りつるなり。其の後船もとめて難波《(なには)》の方に遁《のが》れしかど、御|消息《せうそこ》しらまほしく、[#行右小書き]二三六[#行右小書き終わり]ここの御《み》仏にたのみを懸けつるに、[#行右小書き]二三七[#行右小書き終わり]二本《ふたもと》の杉のしるしありて、[#行右小書き]二三八[#行右小書き終わり]喜《うれ》しき瀬にながれあふことは、ひとへに[#行右小書き]二三九[#行右小書き終わり]大|悲《ひ》の御徳かうむりたてまつりしぞかし。種々《くさぐさ》の神宝《かんだから》は何とて女の盗み出すべき。前《さき》の夫《つま》の良からぬ心にてこそあれ。よくよくおぼしわけて、[#行右小書き]二四〇[#行右小書き終わり]思ふ心の露ばかりをもうけさせ給へとて、さめざめと泣く。  豊雄|或《ある》は疑ひ、或は憐《あはれ》みて、かさねていふべき詞もなし。金忠夫婦、真女子がことわりの明らかなるに、此の[#行右小書き]二四一[#行右小書き終わり]女しきふるまひを見て、努《ゆめ》疑ふ心もなく、豊雄のもの語りにては、世に恐ろしき事よと思ひしに、[#行右小書き]二四二[#行右小書き終わり]さる例《ためし》あるべき世にもあらずかし。はるばると[#行右小書き]二四三[#行右小書き終わり]尋ねまどひ給ふ御心ねのいとほしきに、豊雄|肯《うけが》はずとも、我々とどめまゐらせんとて、一|間《ま》なる所に迎へける。ここに一日二日を過すままに、金忠夫婦が[#行右小書き]二四四[#行右小書き終わり]心をとりて、ひたすら嘆きたのみける。其の志の篤《あつ》きに愛《め》でて、豊雄をすすめてつひに婚儀《ことぶき》をとりむすぶ。豊雄も日々に心とけて、もとより容姿《かたち》のよろしきを愛《め》でよろこび、千とせをかけて契るには、[#行右小書き]二四五[#行右小書き終わり]葛城《かつらぎ》や高間《たかま》の山《やま》に夜《よひ》々ごとにたつ雲も、[#行右小書き]二四六[#行右小書き終わり]初瀬の寺の暁の鐘に雨|収《をさ》まりて、[#行右小書き]二四七[#行右小書き終わり]只あひあふ事の遅きをなん恨みける。  三月《やよひ》にもなりぬ。金忠、豊雄夫婦にむかひて、都わたりには似るべうもあらねど、[#行右小書き]二四八[#行右小書き終わり]さすがに紀路《きぢ》にはまさりぬらんかし。[#行右小書き]二四九[#行右小書き終わり]名細《なぐはし》の吉野は春はいとよき所なり。[#行右小書き]二五〇[#行右小書き終わり]三船《みふね》の山、[#行右小書き]二五一[#行右小書き終わり]菜摘《なつみ》川、[#行右小書き]二五二[#行右小書き終わり]常に見るとも飽かぬを、此の頃はいかにおもしろからん。[#行右小書き]二五三[#行右小書き終わり]いざ給へ、出で立ちなんといふ。真女児うち笑みて、[#行右小書き]二五四[#行右小書き終わり]よき人のよしと見給ひし所は、都の人も見ぬを恨《うらみ》に聞え侍るを、我が身|稚《をさな》きより、人おほき所、或《ある》は道の長手《ながて》をあゆみては、必ず[#行右小書き]二五五[#行右小書き終わり]気《け》のぼりてくるしき病あれば、[#行右小書き]二五六[#行右小書き終わり]従駕《みとも》にえ出で立ち侍らぬぞいと憂《うれた》けれ。[#行右小書き]二五七[#行右小書き終わり]山|土産《づと》必ず待ちこひ奉るといふを、そはあゆみなんこそ病も苦しからめ。[#行右小書き]二五八[#行右小書き終わり]車こそもたらね、いかにもいかにも土は踏ませまゐらせじ。留《とどま》り給はんは、豊雄のいかばかり[#行右小書き]二五九[#行右小書き終わり]心もとなかりつらんとて、夫婦すすめたつに、豊雄も、かう[#行右小書き]二六〇[#行右小書き終わり]たのもしくの給ふを、[#行右小書き]二六一[#行右小書き終わり]道に倒るるともいかでかはと聞ゆるに、[#行右小書き]二六二[#行右小書き終わり]不慮《すずろ》ながら出でたちぬ。人々[#行右小書き]二六三[#行右小書き終わり]花やぎて出でぬれど、真女子《まなご》が麗《あて》なるには似るべうもあらずぞ見えける。  何某《なにがし》の院はかねて[#行右小書き]二六四[#行右小書き終わり]心よく聞えかはしければ、ここに訪《とむら》ふ。主《あるじ》の僧迎へて、此の春は遅く詣《まう》で給ふことよ。花もなかばは散り過ぎて、[#行右小書き]二六五[#行右小書き終わり]鶯の声もやや流るめれど、猶《(なほ)》よき方《かた》に[#行右小書き]二六六[#行右小書き終わり]しるべし侍らんとて、夕食《ゆふげ》いと清くして食はせける。[#行右小書き]二六七[#行右小書き終わり]明けゆく空いたう霞みたるも、[#行右小書き]二六八[#行右小書き終わり]晴れゆくままに見わたせば、此の院は高き所にて、ここかしこ僧坊どもあらはに見おろさるる。山の鳥どもも[#行右小書き]二六九[#行右小書き終わり]そこはかとなく囀《さへづ》りあひて、木草の花色々に咲きまじりたる、同じ山里ながら目さむるここちせらる。初詣《うひまうで》には滝ある方こそ見所はおほかめれとて、彼方《かなた》にしるべの人|乞《こ》ひて出でたつ。谷を繞《めぐ》りて下りゆく。いにしへ[#行右小書き]二七〇[#行右小書き終わり]行幸《いでまし》の宮ありし所は、[#行右小書き]二七一[#行右小書き終わり]石《(いは)》はしる滝つせのむせび流るるに、ちひさき鰷《あゆ》どもの水に逆《さか》ふなど、目もあやにおもしろし。[#行右小書き]二七二[#行右小書き終わり]檜破子《ひわりご》打ち散《ちら》して喰《く》ひつつあそぶ。  岩がねづたひに来る人あり。髪は[#行右小書き]二七三[#行右小書き終わり]績麻《うみそ》を[#行右小書き]二七四[#行右小書き終わり]わがねたる如くなれど、手足いと健《すこ》やかなる翁なり。此の滝の下《もと》にあゆみ来る。人々を見てあやしげにまもりたるに、真女子もまろやも此の人を[#行右小書き]二七五[#行右小書き終わり]背《そがひ》に見ぬふりなるを、翁、渠《かれ》二人をよくまもりて、あやし、此の邪神《あしきかみ》、など人をまどはす。翁がまのあたりをかくても有るやとつぶやくを聞きて、此の二人|忽《(たちま)》ち躍《をど》りたちて、滝に飛び入ると見しが、水は大虚《おほぞら》に湧《わ》きあがりて見えずなるほどに、雲|摺《す》る墨《すみ》をうちこぼしたる如く、雨[#行右小書き]二七六[#行右小書き終わり]篠《しの》を乱してふり来る。翁、人々の慌忙惑《あわてまど》ふを[#行右小書き]二七七[#行右小書き終わり]まつろへて人里にくだる。 [#「吉野宮滝行楽の図」のキャプション付きの図(fig60609_08.png、横845×縦597)入る] [#ここからキャプション] 吉野宮滝行楽の図。大倭神社の神官当麻の酒人をみて、蛇の化身であった真女児とまろやは、あわてて激流にとびこもうとする。(原本三丁裏、四丁表の挿絵) [#ここでキャプション終わり]  [#行右小書き]二七八[#行右小書き終わり]賤《あや》しき軒にかがまりて、生けるここちもせぬを、翁、豊雄にむかひ、熟《つらつら》[#行右小書き]二七九[#行右小書き終わり]そこの面《おもて》を見るに、此の[#行右小書き]二八〇[#行右小書き終わり]隠神《かくれがみ》のために悩まされ給ふが、吾救はずばつひに命をも失ひつべし。後よく慎《つつし》み給へといふ。豊雄地に額着《ぬかづき》て、此の事の始めよりかたり出でて、猶《(なほ)》[#行右小書き]二八一[#行右小書き終わり]命得させ給へとて、恐れみ敬《うやま》ひて願ふ。翁、さればこそ、此の邪神《あしきかみ》は年|経《へ》たる虵《をろち》なり。かれが性《さが》は婬《みだり》なる物にて、[#行右小書き]二八二[#行右小書き終わり]牛と孳《つる》みては麟《りん》を生《う》み、馬とあひては竜馬《りようめ》を生むといへり。[#行右小書き]二八三[#行右小書き終わり]此の魅《まど》はせつるも、はたそこの秀麗《かほよき》に[#行右小書き]二八四[#行右小書き終わり]姧《たは》けたると見えたり。かくまで執《しふ》ねきを、よく慎み給はずば、おそらくは命を失ひ給ふべしといふに、人々いよよ恐れ惑ひつつ、翁を崇《あが》まへて、[#行右小書き]二八五[#行右小書き終わり]遠津神《とほつがみ》にこそと拝みあへり。翁打ち笑《ゑ》みて、おのれは神にもあらず。[#行右小書き]二八六[#行右小書き終わり]大倭《やまと》の神社に仕へまつる当麻《たぎま》の酒人《きびと》といふ翁なり。[#行右小書き]二八七[#行右小書き終わり]道の程《ほど》見たててまゐらせん。いざ給へとて出でたてば、人々|後《あと》につきて帰り来る。  明《あけ》の日[#行右小書き]二八八[#行右小書き終わり]大倭《やまと》の郷《さと》にいきて、翁が[#行右小書き]二八九[#行右小書き終わり]恵《めぐみ》を謝《かへ》し、且《かつ》[#行右小書き]二九〇[#行右小書き終わり]美濃絹《みのぎぬ》三疋《みむら》、[#行右小書き]二九一[#行右小書き終わり]筑紫綿《つくしわた》二屯《ふたつみ》を遺《おく》り来り、猶《(なほ)》此の妖災《もののけ》の[#行右小書き]二九二[#行右小書き終わり]身禊《みそぎ》し給へとつつしみて願ふ。翁これを納めて、[#行右小書き]二九三[#行右小書き終わり]祝部《はふり》らにわかちあたへ、自《みづから》は一|疋《むら》一|屯《つみ》をもとどめずして、豊雄にむかひ、[#行右小書き]二九四[#行右小書き終わり]畜《かれ》你《なんぢ》が秀麗《かほよき》に姧《たは》けて[#行右小書き]二九五[#行右小書き終わり]你を纏《まと》ふ。你又|畜《かれ》が仮《かり》の化《かたち》に魅《まど》はされて[#行右小書き]二九六[#行右小書き終わり]丈夫《ますらを》心なし。今より[#行右小書き]二九七[#行右小書き終わり]雄気《をとこさび》してよく心を静《しづ》まりまさば、此らの邪神《あしきかみ》を逐《やら》はんに翁が力をもかり給はじ。ゆめゆめ心を静まりませとて、実《まめ》やかに覚《さと》しぬ。豊雄夢のさめたるここちに、[#行右小書き]二九八[#行右小書き終わり]礼言《ゐやこと》尽きずして帰り来る。金忠にむかひて、此の年月|畜《かれ》に魅《まど》はされしは、己《おの》が心の正しからぬなりし。親兄の孝《つかへ》をもなさで、君が家の[#行右小書き]二九九[#行右小書き終わり]羈《ほだし》ならんは[#行右小書き]三〇〇[#行右小書き終わり]由縁《よし》なし。御|恵《めぐみ》いとかたじけなけれど、又も参りなんとて、紀の国に帰りける。  父母、太郎夫婦、此の恐ろしかりつる事を聞きて、いよよ豊雄が過《あやまち》ならぬを憐《あはれ》み、かつは妖怪《もののけ》の執《しふ》ねきを恐れける。かくて[#行右小書き]三〇一[#行右小書き終わり]鰥《やむを》にてあらするにこそ。妻むかへさせんとてはかりける。[#行右小書き]三〇二[#行右小書き終わり]芝《しば》の里に芝の庄司なるものあり。女子《むすめ》一人もてりしを、[#行右小書き]三〇三[#行右小書き終わり]大内《おほうち》の[#行右小書き]三〇四[#行右小書き終わり]采女《うねめ》にまゐらせてありしが、此の度いとま申し給はり、此の豊雄を聟《むこ》がねにとて、媒氏《なかだち》をもて大宅《おほや》が許《もと》へいひ納《い》るる。よき事なりて即《やが》て[#行右小書き]三〇五[#行右小書き終わり]因《ちなみ》をなしける。かくて都へも迎《むかひ》の人を登《のぼ》せしかば、此の采女|富子《とみこ》なるもの、よろこびて帰り来る。年来《としごろ》の大宮|仕《づか》へに馴れこしかば、万《よろづ》の行儀《ふるまひ》よりして、姿《かたち》なども花やぎ勝《まさ》りけり。豊雄ここに迎へられて見るに、此の富子がかたちいとよく、[#行右小書き]三〇六[#行右小書き終わり]万《よろづ》心に足《たら》ひぬるに、かの蛇《をろち》が懸想《けさう》せしことも[#行右小書き]三〇七[#行右小書き終わり]おろおろおもひ出づるなるべし。はじめの夜は事なければ書かず。  二日の夜、よきほどの酔《ゑひ》ごこちにて、年来《としごろ》の大内住《うちずみ》に、辺鄙《ゐなか》の人は[#行右小書き]三〇八[#行右小書き終わり]はたうるさくまさん。[#行右小書き]三〇九[#行右小書き終わり]かの御わたりにては、何の[#行右小書き]三一〇[#行右小書き終わり]中将|宰相《さいしやう》の君などいふに[#行右小書き]三一一[#行右小書き終わり]添ひぶし給ふらん。今更にくくこそおぼゆれなど戯《たはむ》るるに、富子[#行右小書き]三一二[#行右小書き終わり]即《やが》て面《おもて》をあげて、[#行右小書き]三一三[#行右小書き終わり]古き契《ちぎり》を忘れ給ひて、かく[#行右小書き]三一四[#行右小書き終わり]ことなる事なき人を[#行右小書き]三一五[#行右小書き終わり]時めかし給ふこそ、[#行右小書き]三一六[#行右小書き終わり]こなたよりまして悪《にく》くあれといふは、姿《かたち》こそかはれ、正《まさ》しく真女子が声なり。聞くにあさましう、身の毛もたちて恐ろしく、只あきれまどふを、女打ちゑみて、[#行右小書き]三一七[#行右小書き終わり]吾が君な怪しみ給ひそ。[#行右小書き]三一八[#行右小書き終わり]海に誓《ちか》ひ山に盟《ちか》ひし事を速《はや》くわすれ給ふとも、[#行右小書き]三一九[#行右小書き終わり]さるべき縁《えにし》のあれば又もあひ見奉るものを、[#行右小書き]三二〇[#行右小書き終わり]他《あだ》し人のいふことをまことしくおぼして、強《あながち》に遠ざけ給はんには、恨《うら》み報《むく》いなん。紀路《きぢ》の山々さばかり高くとも、君が血をもて峯より谷に灌《そそ》ぎくださん。[#行右小書き]三二一[#行右小書き終わり]あたら御身をいたづらになし果て給ひそといふに、[#行右小書き]三二二[#行右小書き終わり]只わななきにわななかれて、今や[#行右小書き]三二三[#行右小書き終わり]とらるべきここちに[#行右小書き]三二四[#行右小書き終わり]死に入りける。屏風のうしろより、吾が君いかに[#行右小書き]三二五[#行右小書き終わり]むつかり給ふ。かうめでたき御契なるはとて出づるはまろやなり。見るに又|胆《きも》を飛ばし、眼《まなこ》を閉ぢて伏向《うつぶき》に臥《ふ》す。[#行右小書き]三二六[#行右小書き終わり]和《なご》めつ驚《おど》しつ、かはるがはる物うちいへど、只死に入りたるやうにて夜明けぬ。 [#「芝の庄司の娘富子にのりうつった蛇性の真女児が、新婚二日目の夜、酔ごこちになってたわむれた豊雄の前で、その正体をあらわす図」のキャプション付きの図(fig60609_09.png、横837×縦599)入る] [#ここからキャプション] 芝の庄司の娘富子にのりうつった蛇性の真女児が、新婚二日目の夜、酔ごこちになってたわむれた豊雄の前で、その正体をあらわす図。(原本十六丁裏、十七丁表の挿絵) [#ここでキャプション終わり]  かくて閨房《ねや》を免《のが》れ出でて、庄司にむかひ、かうかうの恐ろしき事あなり。これいかにして放《さ》けなん。よく計《はか》り給へと[#行右小書き]三二七[#行右小書き終わり]いふも、背《うしろ》にや聞くらんと、声を小《ささ》やかにしてかたる。庄司も妻も面《おもて》を青くして嘆きまどひ、こはいかにすべき。ここに都の[#行右小書き]三二八[#行右小書き終わり]鞍馬寺《くらまでら》の僧の、年々|熊野《くまの》に詣づるが、きのふより此の[#行右小書き]三二九[#行右小書き終わり]向岳《むかつを》の[#行右小書き]三三〇[#行右小書き終わり]蘭若《てら》に宿りたり。いとも[#行右小書き]三三一[#行右小書き終わり]験《げん》なる法師にて、凡《およ》そ[#行右小書き]三三二[#行右小書き終わり]疫病《えやみ》、妖災《もののけ》、蝗《いなむし》などをもよく祈るよしにて、此の郷《さと》の人は貴《たふと》みあへり。此の法師[#行右小書き]三三三[#行右小書き終わり]請《むか》へてんとて、あわただしく[#行右小書き]三三四[#行右小書き終わり]呼びつげるに、漸《やや》して来りぬ。しかじかのよしを語れば、此の法師鼻を高くして、これらの[#行右小書き]三三五[#行右小書き終わり]蠱物《まじもの》らを捉《と》らんは何の難《かた》き事にもあらじ。必ず[#行右小書き]三三六[#行右小書き終わり]静まりおはせとやすげにいふに、人々心落ちゐぬ。法師まづ[#行右小書き]三三七[#行右小書き終わり]雄黄《ゆうわう》をもとめて薬の水を調じ、小瓶《こがめ》に湛《たた》へて、かの閨房《ねや》にむかふ。人々|驚《お》ぢ隠るるを、法師|嘲《あざ》みわらひて、老いたるも童《わらは》も必ずそこにおはせ、此の虵《をろち》只今|捉《と》りて見せ奉らんとてすすみゆく。閨房の戸あくるを遅しと、かの蛇《をろち》頭《かしら》をさし出して法師にむかふ。此の頭[#行右小書き]三三八[#行右小書き終わり]何ばかりの物ぞ。此の戸口に充満《みちみち》て、雪を積みたるよりも白く輝《きら》々しく、眼《まなこ》は鏡《かがみ》の如く、角《つの》は枯木《かれき》の如《ごと》、三|尺《たけ》余りの口を開き、紅《くれなゐ》の舌を吐《は》いて、只一|呑《のみ》に飲むらん勢《いきほひ》をなす。あなやと叫びて、[#行右小書き]三三九[#行右小書き終わり]手にすゑし小瓶《こがめ》をもそこに打ちすてて、たつ足もなく、[#行右小書き]三四〇[#行右小書き終わり]展転《こいまろ》びはひ倒れて、からうじてのがれ来たり、人々にむかひ、あな恐ろし、[#行右小書き]三四一[#行右小書き終わり]祟《たた》ります御神にてましますものを、など法師らが祈り奉らん。此の手足なくば、[#行右小書き]三四二[#行右小書き終わり]はた命失ひてんといふいふ[#行右小書き]三四三[#行右小書き終わり]絶え入りぬ。人々|扶《たす》け起すれど、すべて面《おもて》も肌《はだへ》も黒く赤く染めなしたるが如《ごと》に、熱き事|焚火《たきび》に[#行右小書き]三四四[#行右小書き終わり]手さすらんにひとし。毒気《あしきいき》にあたりたると見えて、後《のち》は只[#行右小書き]三四五[#行右小書き終わり]眼《め》のみはたらきて物いひたげなれど、声さへなさでぞある。水|灌《そそ》ぎなどすれど、つひに死にける。これを見る人、いよよ[#行右小書き]三四六[#行右小書き終わり]魂《たましひ》も身に添はぬ思ひして泣き惑ふ。  豊雄すこし[#行右小書き]三四七[#行右小書き終わり]心を収めて、かく験《げん》なる法師だも祈り得ず、執《しふ》ねく我を纏《まと》ふものから、[#行右小書き]三四八[#行右小書き終わり]天地《あめつち》のあひだにあらんかぎりは[#行右小書き]三四九[#行右小書き終わり]探し得られなん。おのが命ひとつに人々を苦しむるは[#行右小書き]三五〇[#行右小書き終わり]実《まめ》ならず。今は[#行右小書き]三五一[#行右小書き終わり]人をもかたらはじ。[#行右小書き]三五二[#行右小書き終わり]やすくおぼせとて閨房《ねや》にゆくを、庄司の人々、こは物に狂ひ給ふかといへど、更に聞かず顔にかしこにゆく。戸を静かに明くれば、物の騒《さわが》しき音もなくて、此の二人ぞむかひゐたる。富子、豊雄にむかひて、君[#行右小書き]三五三[#行右小書き終わり]何の讐《あた》に我を捉《とら》へんとて人をかたらひ給ふ。此の後も仇《あた》をもて報い給はば、君が御身のみにあらじ、此の郷《さと》の人々をもすべて苦しきめ見せなん。ひたすら[#行右小書き]三五四[#行右小書き終わり]吾が貞操《みさを》をうれしとおぼして、[#行右小書き]三五五[#行右小書き終わり]徒《あだ》々しき御《み》心をなおぼしそと、いと[#行右小書き]三五六[#行右小書き終わり]けさうじていふぞ[#行右小書き]三五七[#行右小書き終わり]うたてかりき。豊雄いふは、世の諺《ことわざ》にも聞ゆることあり。[#行右小書き]三五八[#行右小書き終わり]人かならず虎を害する心なけれども、虎|反《かへ》りて人を傷《やぶ》る意《こころ》ありとや。你《なんぢ》、[#行右小書き]三五九[#行右小書き終わり]人ならぬ心より、我を纏《まと》うて幾度かからきめを見するさへあるに、[#行右小書き]三六〇[#行右小書き終わり]かりそめ言《ごと》をだにも此の恐ろしき報《むく》いをなんいふは、いと[#行右小書き]三六一[#行右小書き終わり]むくつけなり。されど吾を慕ふ心ははた世人にもかはらざれば、[#行右小書き]三六二[#行右小書き終わり]ここにありて人々の嘆き給はんがいたはし。此の富子が命ひとつたすけよかし。[#行右小書き]三六三[#行右小書き終わり]然《さ》て我をいづくにも連れゆけといへば、いと喜《うれ》しげに点頭《うなづ》きをる。  又立ち出でて庄司にむかひ、かう[#行右小書き]三六四[#行右小書き終わり]浅ましきものの添ひてあれば、ここにありて人々を苦しめ奉らんはいと[#行右小書き]三六五[#行右小書き終わり]心なきことなり。只今|暇《いとま》給はらば、[#行右小書き]三六六[#行右小書き終わり]娘子《をとめ》の命も恙《つつが》なくおはすべしといふを、庄司|更《さら》に肯《う》けず、我[#行右小書き]三六七[#行右小書き終わり]弓の本末《もとすゑ》をもしりながら、かく[#行右小書き]三六八[#行右小書き終わり]いひがひなからんは、大宅《おほや》の人々のおぼす心もはづかし。猶《(なほ)》計較《はか》りなん。[#行右小書き]三六九[#行右小書き終わり]小松原の[#行右小書き]三七〇[#行右小書き終わり]道成寺に、[#行右小書き]三七一[#行右小書き終わり]法海和尚《ほふかいをしやう》とて貴き祈《いのり》の師おはす。今は[#行右小書き]三七二[#行右小書き終わり]老いて室《むろ》の外《と》にも出でずと聞けど、我が為には[#行右小書き]三七三[#行右小書き終わり]いかにもいかにも捨て給はじとて、馬にていそぎ出でたちぬ。道|遥《はるか》なれば夜なかばかりに蘭若《てら》に到る。老和尚[#行右小書き]三七四[#行右小書き終わり]眼蔵《めんざう》をゐざり出でて、此の物がたりを聞きて、そは浅ましくおぼすべし。今は老朽《おいく》ちて[#行右小書き]三七五[#行右小書き終わり]験《げん》あるべくもおぼえ侍《はべ》らねど、君が家の災《わざはひ》を黙《もだ》してやあらん。[#行右小書き]三七六[#行右小書き終わり]まづおはせ。法師も即《やが》て詣《まう》でなんとて、[#行右小書き]三七七[#行右小書き終わり]芥子《けし》の香《か》にしみたる袈裟《けさ》とり出でて、庄司にあたへ、畜《かれ》を[#行右小書き]三七八[#行右小書き終わり]やすくすかしよせて、これをもて頭《かしら》に打ち帔《かづ》け、力を出して押しふせ給へ。手弱《たよわ》くあらばおそらくは逃げさらん。よく[#行右小書き]三七九[#行右小書き終わり]念じて、よくなし給へと実《まめ》やかに教ふ。庄司[#行右小書き]三八〇[#行右小書き終わり]よろこぼひつつ馬を飛ばしてかへりぬ。  豊雄を密《ひそ》かに招きて、此の事よくしてよとて袈裟をあたふ。豊雄これを懐《ふところ》に隠して閨房《ねや》にいき、庄司今はいとま[#行右小書き]三八一[#行右小書き終わり]たびぬ、[#行右小書き]三八二[#行右小書き終わり]いざたまへ、出で立ちなんといふ。いと喜《うれ》しげにてあるを、此の袈裟とり出でてはやく打ち帔《かづ》け、[#行右小書き]三八三[#行右小書き終わり]力をきはめて押しふせぬれば、あな苦し、你《(なんぢ)》何とてかく[#行右小書き]三八四[#行右小書き終わり]情なきぞ。しばしここ放《ゆる》せよかしといへど、猶《(なほ)》力にまかせて押しふせぬ。法海和尚の輿《こし》やがて入り来る。庄司の人々に扶《たす》けられて[#行右小書き]三八五[#行右小書き終わり]ここにいたり給ひ、口のうち[#行右小書き]三八六[#行右小書き終わり]つぶつぶと念じ給ひつつ、豊雄を退《しりぞ》けて、かの袈裟とりて見給へば、富子は[#行右小書き]三八七[#行右小書き終わり]現《うつつ》なく伏《ふ》したる上に、白き蛇《をろち》の三|尺《たけ》あまりなる蟠《わだかま》りて動きだもせずてぞある。老和尚これを捉《とら》へて、徒弟《とてい》が捧《ささ》げたる[#行右小書き]三八八[#行右小書き終わり]鉄鉢《てつばち》に納《い》れ給ふ。猶《(なほ)》[#行右小書き]三八九[#行右小書き終わり]念じ給へば、屏風の背《うしろ》より、[#行右小書き]三九〇[#行右小書き終わり]尺《たけ》ばかりの小蛇《こへび》はひ出づるを、[#行右小書き]三九一[#行右小書き終わり]是をも捉《と》りて鉢に納《い》れ給ひ、かの袈裟をもてよく封《ふう》じ給ひ、そがままに輿に乗らせ給へば、人々|掌《て》をあはせ涙を流して敬《うやま》ひ奉る。  蘭若《てら》に帰り給ひて、[#行右小書き]三九二[#行右小書き終わり]堂の前を深く掘《ほ》らせて、鉢のままに埋《う》めさせ、[#行右小書き]三九三[#行右小書き終わり]永劫《えいごふ》があひだ世に出ることを戒《いまし》め給ふ。今猶[#行右小書き]三九四[#行右小書き終わり]蛇《をろち》が塚《つか》ありとかや。庄司が女子《むすめ》はつひに病にそみてむなしくなりぬ。豊雄は命|恙《つつが》なしとなんかたりつたへける。 [#ここから2字下げ] 一 蛇の化身が一青年につきまとう愛欲の執念を主題としたところからこの題がでた。 二 和歌山県新宮市三輪崎。海辺で、歌枕。 三 漁場で大いに儲けて。 四 大魚も小魚もすべて漁獲して。古事記・祝詞などに見える語。 五 太郎は名前とも長男の意ともとれるが、ここは太郎という名の長男ととっていい。 六 二番目の子。 七 風流なこと。 八 実直に生業を営む気持。 九 他人にとられてしまうだろう。 一〇 養子にやって他家をつがせるのも。 一一 いやなこと。 一二 心苦しい。 一三 したいことをさせながら。 一四 ここは、学者。 一五 ここは、僧侶。 一六 豊雄の一生は。 一七 厄介者。 一八 しつけ。 一九 新宮市にある熊野権現速玉神社。熊野三山(本宮・新宮・那智)の一。 二〇 ここは、神官。 二一 余波。 二二 この地方は東南から天気がくずれる。雷峯怪蹟「霧鎖[#二]東南[#一]、早落下微々的細雨来了」。 二三 雨傘。 二四 新宮市にある阿須賀神社。 二五 宝物殿であるが、ここは本殿とみてよい。 二六 旦那様の所の末の御子息。 二七 むさくるしいあばら家。 二八 円く渦に編んだ敷物。 二九 塵をはらって。 三〇 ほんのしばらく雨宿りする間だから何でもかまわない。 三一 髪の形が大層あでやかで。 三二 遠山の様を色うつくしく摺り出して模様とした着物。 三三 年若い侍女。中国白話小説の用字。 三四 ぐっしょりと濡れて。 三五 いかにも困った様子。 三六 思わずも。 三七 本宮・新宮・那智の熊野三山へ参詣すること。 三八 下僕らしい者。 三九 中途半端な。不用意な。 四〇 せまい住居。 四一 そろって並ぶ。 四二 近くでみると一層うつくしく見えること。 四三 心がぽーっとして。 四四 高貴の家の御方。 四五 和歌山県田辺市の西、四村にある湯の峰温泉。 四六 殺風景な。 四七 見物して一日をくらす。 四八 佐野は三輪崎の西南。万葉集三、長忌寸奥麻呂の歌。秋成は「金砂」でこの歌に注している。 四九 今日のこの風情とおなじである。 五〇 世話をしている男。 五一 心おきなく。くつろいで。 五二 おっしゃって下さる。 五三 御親切なあたたかい御情で濡れた着物をほしてまいりましょう。思ひの「ひ」を「火」にかけ、乾すは縁語。 五四 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある那智権現と青岸渡寺。熊野三山の一。 五五 見境もなく。分別もなく。 五六 しいて。無理に。 五七 何かのついでにいただきにまいりましょう。 五八 雨はいっこうに小やみになったとも思えないのに。 五九 使を出しましょう。 六〇 さし戴くに、傘の縁語「さす」をかけた。 六一 見送って。 六二 どうしても忘れられず。 六三 日光をよけ風雨を防ぐための横戸。ふつう上下二つになっていて、上はあげさげができ、下はとりはずせる。寝殿造りなどの高貴な邸宅に多い。 六四 簾をふかくおろして。簾は蔀の内側にかける。 六五 この夢が現実であったならば、どんなにうれしかろう。 六六 そわそわとしておちつかないので。 六七 心もそぞろにうきたって家を出た。 六八 昼すぎまで。 六九 お嬢さま。 七〇 思いながら。 七一 雨傘を貸して下さった方がいらしたのを御案内してまいりました。 七二 新宮に、の意にとっておく。 七三 学問の先生。 七四 ぶしつけながら、こちらから推参しました。 七五 丫鬟の名。 七六 けっして。必ず。 七七 表座敷。 七八 客があると板敷に敷く畳。 七九 台に柱を二本たて横木を渡してそこに帳をかけた家具。隔てのために座側にたてた。 八〇 調度品などをおさめる両びらきの置戸棚。 八一 壁のかわりに長押からおろし、また母屋の廂の間をさえぎった絹。御簾と併用した。 八二 身分のない人。 八三 主人のいない家とも、人手のない家とも解せる。 八四 行き届いたおもてなし。 八五 粗酒。謙辞。 八六 食物を盛る器。足のあるのが高坏、足のないのが平坏。 八七 酒器と素焼きの杯。 八八 「桜」の枕詞。 八九 映る。 九〇 巧みにあしらう。 九一 立ちくぐる。とびまわる。 九二 鶯の如く美しく妙なる声。 九三 恥かしいことだと打ちあけずに心悩み、焦れ死にでもしてしまったら。 九四 神のたたりだと、何もしらない神にまで無実の罪をきせることになるであろう。伊勢物語、八九「人知れずわれ恋ひ死なばあぢきなくいづれの神になき名おふせむ」。 九五 けっして浮気心でいうあだごととお聞き下さいますな。 九六 国守の下役人。 九七 四年の任期がまだ終らないこの春に。 九八 生まれ故郷の都も。 九九 思いますので。 一〇〇 今後の生涯をもって。 一〇一 妻としてあなたのそばにお仕えしたい。 一〇二 けがらわしい女だと。 一〇三 末長い夫婦の契り。 一〇四 心乱れるまでに思い慕っていた女であるから。 一〇五 「飛び立つ」の序詞。 一〇六 親がかりの身。 一〇七 つらく思って。 一〇八 おろかなこと。 一〇九 ひっこみのつかないのが恥かしい。 一一〇 冗談。たわむれごと。 一一一 自分の推測が当っていた。 一一二 熊野灘は鯨の寄る浜として名高い。 一一三 いつ聞く事ができようか。 一一四 即答。 一一五 結納。結婚費用。 一一六 財産。 一一七 孔子のような聖人でさえよろめく恋のためには。 一一八 お通い下さい。夫が妻の許に通う古代の結婚形態。 一一九 この上ない宝として。 一二〇 帯びるもの、太刀。 一二一 ものすごいまでに。 一二二 めでたいことのはじめに。 一二三 縁起がわるい。 一二四 しきりに。 一二五 親の許可をえていない外泊。 一二六 叱るでしょう。 一二七 口実をもうけてまいりましょう。 一二八 目がさえて安眠できずに。 一二九 網をひく漁師を召集してそれぞれの部署に配置するために。 一三〇 早朝。 一三一 どこから手に入れてきたのであろう。 一三二 不審に思って。 一三三 金をはらって。 一三四 人がくれたのを。 一三五 こむずかしい漢字の書籍を買い集めるのさえ。 一三六 ひどい無駄づかい 一三七 新宮速玉神社の祭礼の行列に加わってねり歩くつもりだろう。邌るは、ようすをつくって歩く。 一三八 何という狂気じみたことをするのか。 一三九 厄介者。豊雄をさす。 一四〇 問いただして下さい。 一四一 なまけるとこまるから、浜の方へ行ってくる。 一四二 何にしようと思って。 一四三 おまえ。対称代名詞。 一四四 するままにさせておいたが。 一四五 わきまえないのか。 一四六 しかるべき理由。 一四七 手柄。功績。 一四八 さっぱり腑におちないことだ。 一四九 恥かしいこと。面目ないこと。 一五〇 主婦。 一五一 私はふつつか者ですが。 一五二 一緒にたって。 一五三 相談して力になってもらおうと。 一五四 はやくも見つかって叱られてしまったことだ。 一五五 これこれこうした素姓の人の妻で、夫を失って頼りのない人が。 一五六 まだ独立せずに、部屋ずみの分際で。 一五七 勘当という重い処罰。勘当は父から絶縁放逐されること。 一五八 気の毒。あわれ。 一五九 うまくはなして承諾を得るようにしてみましょう。 一六〇 ここは村長、庄屋。 一六一 御祈願が成就なさってそのお礼として。 一六二 新宮(熊野権現)。 一六三 新宮はふるくは宝蔵なく、宝物は本殿に納めてあり、享保前後に宝蔵ができた。 一六四 「ダイグジ」と訓ませている。大社の神官の長。 一六五 国司の次官。 一六六 詮議する。 一六七 どうみても。 一六八 父の前に。 一六九 あるのは。 一七〇 とんでもないこと。たいへんなこと。 一七一 他人のものはたとえ毛一本なりともとらないのに。白娘子永鎮雷峰塔・孟子等にこの語がある。 一七二 自首しないで、他人の口から露顕したら。 一七三 情けないことだ。 一七四 国司の庁。役所。 一七五 真中にとりかこんで。 一七六 もとの意は、天津罪に対して、国土で行なわれた罪。ここでは国の掟をやぶった罪。祝詞に見える語。 一七七 どこに。 一七八 ようやく捕縛された理由がわかり。 一七九 けっして。 一八〇 どうか。なにとぞ。 一八一 この男(豊雄)を先におしたてていって。 一八二 忍草の一種。軒しのぶ。 一八三 まったく茫然自失とした状態。 一八四 近所の者たちをよびあつめた。 一八五 きこりの老人。 一八六 米搗(つ)き男。 一八七 うずくまる。古語。 一八八 ちっとも。ついぞ。 一八九 家豊かに人も大勢使って。 一九〇 ここは、九州。 一九一 漆細工をする職人。 一九二 ともかくも。 一九三 雑草が生え放題に生え茂っている藪。 一九四 高く茂っているので先が傾いている状態。 一九五 さっと。 一九六 驚愕のために声も出ずに。 一九七 度胸のすわった男。 一九八 板張りのゆか。 一九九 体外へ排出する意。 二〇〇 トバリとよめば垂れ絹、チョウとよめば几帳。どちらにもとれるが、几帳ととった方がよい。 二〇一 急にはげしくなる雷。 二〇二 高麗国より渡来した錦で、高価な舶来品。 二〇三 中国から渡来した綾織物で、高価な舶来品。 二〇四 穀や麻などで織った布で、青や赤の糸を用いて乱文を織りだし、帯などに用いた。 二〇五 固織。目のつんだ絹織物。 二〇六 突きさすのに用いる武器。 二〇七 矢を入れて背中に負う具。やなぐい、えびらの類で、木製・銅製がある。 二〇八 新宮から紛失した宝物。 二〇九 当面の罪。理由のいかんにかかわらず盗品をもっていたという罪。 二一〇 金品を贈って刑罰を軽くしてもらうこと。 二一一 世間と交際することも。故郷の人に顔むけすることも。豊雄のことば。 二一二 むこうへいって、何か月か暮してこい。 二一三 奈良県桜井市金屋から東方にあり、初瀬観音への参道で、門前市。椿市、海柘榴市とも書く。 二一四 この数か月来の災難に同情して。 二一五 親切に。手厚く。 二一六 奈良県桜井市初瀬にある、新義真言宗豊山派総本山、豊山神楽院長谷寺。名刹として平安朝以来、皇室・貴族の信仰がさかんであった。 二一七 諸仏の中では初瀬の観音こそとりわけ霊験あらたかであるということは、遠く中国にまでその評判が伝わっている。源氏物語、玉鬘「仏の御中には、はつせなん、日の本のうちには、あらたなるしるしあらはし給ふと、もろこしにだにきこえあんなる」。 二一八 店内も狭いほど客がたてこんでいる中に。 二一九 上品でうつくしい女。 二二〇 数種の香をねりあわせてつくった煉香。 二二一 旦那様。 二二二 妖怪、魔性をいう。 二二三 うろたえながらしきりに隠れようとするのを。 二二四 私のいたらない心から夫を罪におとしいれたこと。 二二五 御安心させようと思って。 二二六 人出の多いところ。 二二七 そのうえこんなのどかな昼日中に、どうしてあらわれることができようか。 二二八 妖怪変化が人間に化けたものは、その着物に縫目なく、太陽に照らされて影がないといわれる。白娘子永鎮雷峰塔に「我怎的是鬼怪、衣裳有[#レ]縫、対[#レ]日有[#レ]影」とある。 二二九 正しい道理をよく御判断になって。 二三〇 あきれるばかり。 二三一 青空の上天気に急にはげしく雷がなって。 二三二 主語は真女児。 二三三 私。女子の自称。 二三四 荒れ果てた野原のような家の様子。 二三五 はかりだましたこと。計略。 二三六 初瀬の観世音。 二三七 初瀬古川の川辺に向いあっている二本杉のように、祈りのかいあって二人は再会できた。古今集一九「初瀬川ふる川の辺に二本ある杉、年をへてまたもあひ見むふた本ある杉」。源氏物語、玉鬘・手習などにも記されている。 二三八 うれしくもまためぐりあうことができたのは。瀬は、機会、折。「瀬」「ながれあふ」は、川の縁語。源氏物語、玉鬘に見えている。 二三九 観世音菩薩の広大無辺なおめぐみ。 二四〇 あなたを慕う私の気持のほんのすこしでもおくみとり下さい。 二四一 女らしい可憐な。 二四二 妖怪変化などが人間に化けてあらわれるはずのないいまの時世。 二四三 あちこちと苦労してたずねる。 二四四 気にいるようにその機嫌をとって。 二四五 葛城の高間山に夜ごと立つ雲は、雨をふらせるが。奈良県と大阪府・和歌山県との境にある葛城山脈の主峰。葛城山・金剛山。夜と暁、雲と雨は対。雲雨で男女の契りをあらわす。新拾遺集、「葛城や高間の山にゐる雲のよそにもしるき夕立の空」。 二四六 初瀬寺の暁鐘とともに夜来の雨もやむ。文選、高唐賦「旦為[#二]朝雲[#一]、暮為[#二]行雨[#一]、朝々暮々、陽台之下」、唐詩選、劉廷芝の公子行「為[#レ]雲為[#レ]雨楚襄王」。 二四七 いまでは再会の日の遅かったことを恨んだ。白娘子永鎮雷峰塔「只恨相見之晩」。 二四八 なんといっても紀州路とくらべると景色がすぐれているであろう。 二四九 名も美しい。吉野の枕詞。 二五〇 奈良県吉野郡吉野町にある船形の山。歌枕。 二五一 吉野川の上流。歌枕。 二五二 万葉集九、「山高み白木綿花に落ち激つ夏身の川門見れど飽かぬかも」。秋成「名くはし吉野の国は……いきかひて見れども飽かずあそびせし」(岩橋の記)。 二五三 さあまいりましょう。 二五四 高貴の方がいいとおっしゃった。万葉集一、天武天皇「よき人のよしとよく見てよしといひし吉野よくみよよき人よく見つ」。 二五五 のぼせて。 二五六 おともをして。 二五七 山のおみやげ。 二五八 牛車こそもっていないが。 二五九 気がかりに思う事だろう。 二六〇 親切に。 二六一 途中で倒れてもどうして行かないですまされようか。 二六二 不本意ながら。 二六三 花やかに装って。 二六四 親しく交際していた。 二六五 晩春の流鶯。枝から枝へうつって乱れ啼く。 二六六 ご案内しましょう。 二六七 源氏、若紫「明け行く空はいといとう霞みて」。 二六八 源氏、若紫「少し立ち出でつつ見渡し給へば、高き所にて、ここかしこ、僧坊どもあらはに見おろさるる」。 二六九 どこということなく。 二七〇 吉野離宮。吉野郡吉野町宮滝にあった。 二七一 「滝」の枕詞。 二七二 檜板で作った弁当箱。 二七三 長くつないでよった麻糸。 二七四 丸くたばねた。 二七五 背を向けて。 二七六 雨足のはげしい形容。 二七七 おししずめて。 二七八 みすぼらしい家の軒下に身をかがめて。 二七九 そなた。対称代名詞。 二八〇 ここは、正体をくらまして人をたぶらかす邪神、妖神。 二八一 命をお助け下さい。 二八二 牛と交尾しては麟を生み、馬と交わっては竜馬を生む。「五雑組」巻九「与[#レ]牛交則生[#レ]麟、……与[#レ]馬交則生[#二]竜馬[#一]」。 二八三 この妖神がそなたに憑いてまどわせたのも。 二八四 みだらな、不義なまじわりをする。 二八五 ここは、凡人をはるかに超えた尊い神。 二八六 天理市新泉にある大和(オオヤマト)神社。 二八七 道中見送ってあげよう。 二八八 大和神社の付近。 二八九 恩をうけた礼をいい。 二九〇 岐阜県から産出した上等の絹。疋は、布帛・巻物を数える単位。二反を一疋とする。 二九一 九州産の真綿。古くより有名。屯は綿の量目の単位。二斤を一屯とする。 二九二 ここは、お祓い。 二九三 ここは、配下の神官たち。 二九四 真女児をさす。 二九五 そなたにまつわりつく。 二九六 男らしいしっかりした心。 二九七 雄雄しい勇気をふるいおこして。 二九八 お礼の言葉もいいつくせないほど感謝して。 二九九 厄介者。 三〇〇 理由のないことである。 三〇一 妻のない独身男。 三〇二 和歌山県田辺市栗栖川。旧熊野路、中辺路にある。道成寺説話の清姫の生誕地真砂の荘のそば。 三〇三 内裏、宮中。 三〇四 地方官の子女で天皇の陪膳に奉仕する女官。 三〇五 婚約を結んだ。 三〇六 万事に満足したにつけても。 三〇七 少しばかり。おぼろげに。 三〇八 きっと。やっぱり。 三〇九 かの御所などでは。 三一〇 近衛府の次官と参議。共に青年貴族が多く任じられた。 三一一 男女が契る。同衾。 三一二 すぐに。 三一三 すでに富子が真女児になっている。前からのふかい仲を忘れて。 三一四 特別に取柄もない女。富子をさす。 三一五 寵愛なさる。源氏、夕顔「かくことなる事なき人を率ておはして時めかし給ふこそ、いとめざましくつらけれ」。 三一六 あなたの方こそ憎らしく思われる。 三一七 あなた、そんなびっくりなさいますな。 三一八 海よりふかく山より高く、永くかわるまいとかたく誓った二人の契り。翠々伝「誓[#レ]海盟[#レ]山心已許」。 三一九 前世からこうなると定まった因縁。 三二〇 あかの他人のいうことをまにうけて。 三二一 むだに大切な御命をすてておしまいなさいますな。 三二二 ただふるえおののくばかりで。 三二三 とりころされてしまいそうな心持がして。 三二四 気を失った。 三二五 腹立ってじれるさま。 三二六 なだめたりおどしたり。 三二七 いいながらも。 三二八 京都市左京区鞍馬山にある名刹鞍馬寺。修験者の登山修行がさかんであった。 三二九 向いの山。万葉集によく見る語。 三三〇 寺院。梵語。 三三一 効験あらたかな。 三三二 流行病、妖怪、稲につく害虫。 三三三 お迎えしよう。 三三四 よびにやったところ。 三三五 ここは、人にとり憑いた妖怪、蛇性をいう。 三三六 安心しておいでなさい。 三三七 砒素の硫化物で、橙黄色の塊状または粒状をなし、石黄、鶏冠石ともよばれ、悪鬼毒虫などの邪毒をはらい殺すと信じられていた。白娘子永鎮雷峰塔「那先生装[#二]了一瓶雄黄薬水[#一]」。 三三八 どのくらいあるだろうか、とにかくすごいものである。 三三九 手にのせた。 三四〇 ころげまわり這い倒れて。 三四一 たんなる憑物やもののけではなく、祟りをなさる御神でいらっしゃる。 三四二 きっと。 三四三 気絶した。 三四四 手をかざす。 三四五 目を動かすだけで。 三四六 生きた心地もなく。 三四七 心をしずめて。 三四八 私がこの世に生きているかぎりは。 三四九 探し出されてつかまるであろう。 三五〇 誠実なことではない。 三五一 他人の力を頼むまい。 三五二 御安心下さい。 三五三 何のうらみで。 三五四 私があなたにつくす貞節をうれしいとおもって。 三五五 うわついた浮気心。 三五六 なまめかしい様子をつくって。しなをつくって。 三五七 いやらしかった。 三五八 白娘子永鎮雷峰塔「人無[#二]害[#レ]虎心[#一]、虎有[#二]傷[#レ]人意[#一]」。 三五九 人間とちがった魔性の執念ぶかい心から。 三六〇 ほんのちょっとしたたわむれごとをさえ。 三六一 恐ろしい気がする。 三六二 私がこの家にいて。 三六三 そのうえで。 三六四 情ない魔性のもの。 三六五 不本意。無思慮。 三六六 富子をさす。 三六七 武道の心得もある武士の身でありながら。 三六八 不甲斐ない。いくじない。 三六九 和歌山県御坊市湯川町小松原。厳密な意味では、道成寺は小松原にあるわけではないが、古来小松原の道成寺といわれてきた。 三七〇 和歌山県日高郡日高川町鐘巻にある名刹で、安珍清姫説話で名高く、熊野詣での順路にあたっていた。 三七一 白娘子永鎮雷峰塔も雷峯怪蹟も「金山寺法海禅師」としているが、それに拠ったのであろう。 三七二 年老いて僧坊の外にも出ない。源氏、若紫「老いかがまりて、室の外にもまかでずと」。 三七三 どんなにしてでもお見捨てなさいますまい。 三七四 仏家の寝室。 三七五 法力の効験。 三七六 先にお帰りなさい。 三七七 密教では芥子を焚いて加持祈祷をおこなう。 三七八 うまくだましよせて。 三七九 心に仏を祈念して。 三八〇 よろこびながら。 三八一 たまわった。 三八二 さあ、いらっしゃい。 三八三 力いっぱい。 三八四 つれないのか。 三八五 豊雄たちのいる部屋。 三八六 小声で呪文をとなえながら。 三八七 気を失って正体なく。 三八八 鉄製の鉢で、僧侶が食物をいれる器。 三八九 祈念をこらされると。 三九〇 一尺ほどの。 三九一 白娘子永鎮雷峰塔「禅師将[#二]二物[#一]置[#二]於鉢盂之内[#一]」。 三九二 白娘子、雷峯怪蹟ともに、鉢を地下に埋めたと記してある。 三九三 永久。永遠。 三九四 蛇塚は道成寺外西方百メートル余りの所にあるが、ここの文章は、本堂前の安珍塚(蛇榁)と混同しているようである。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#1字下げ][#中見出し]雨月物語 巻之五[#中見出し終わり] [#3字下げ][#小見出し][#行右小書き]一[#行右小書き終わり]青頭巾《あをづきん》[#小見出し終わり]  むかし[#行右小書き]二[#行右小書き終わり]快庵禅師《くわいあんぜんじ》といふ大徳《だいとこ》の聖《ひじり》おはしましけり。[#行右小書き]三[#行右小書き終わり]総角《わかき》より[#行右小書き]四[#行右小書き終わり]教外《けいぐわい》の旨《むね》をあきらめ給ひて、常に身を[#行右小書き]五[#行右小書き終わり]雲水にまかせたまふ。美濃《(みの)》の国の[#行右小書き]六[#行右小書き終わり]竜泰寺《りようたいじ》に[#行右小書き]七[#行右小書き終わり]一夏《いちげ》を満《みた》しめ、此の秋は奥羽のかたに住むとて、旅立ち給ふ。ゆきゆきて下野《(しもつけ)》の国に入り給ふ。  [#行右小書き]八[#行右小書き終わり]富田といふ里にて日入りはてぬれば、大きなる家の[#行右小書き]九[#行右小書き終わり]賑《にぎ》ははしげなるに立ちよりて一宿《ひとよ》をもとめ給ふに、田畑《たばた》よりかへる男|等《ら》、黄昏《たそがれ》にこの僧の立てるを見て、大きに怕《おそ》れたるさまして、山の鬼こそ来りたれ、人みな出でよと呼びののしる。家の内にも騒ぎたち、女|童《わらべ》は泣きさけび展転《こいまろ》びて隈《くま》々に竄《かく》る。あるじ[#行右小書き]一〇[#行右小書き終わり]山|枴《あふご》をとりて走り出で、外《と》の方を見るに、年紀《としのころ》[#行右小書き]一一[#行右小書き終わり]五旬《いそぢ》にちかき老僧の、頭《かしら》に紺染《あをぞめ》の[#行右小書き]一二[#行右小書き終わり]巾を帔《かづ》き、身に墨衣の破《や》れたるを穿《き》て、[#行右小書き]一三[#行右小書き終わり]裹《つつ》みたる物を背におひたるが、杖《つゑ》をもてさしまねき、[#行右小書き]一四[#行右小書き終わり]檀越《だんゑつ》なに事にてかばかり[#行右小書き]一五[#行右小書き終わり]備へ給ふや。[#行右小書き]一六[#行右小書き終わり]遍参《へんざん》の僧今夜ばかりの宿をかり奉らんとてここに人を待ちしに、おもひきやかく異《あやし》められんとは。[#行右小書き]一七[#行右小書き終わり]痩《やせ》法師の強盗などなすべきにもあらぬを、なあやしみ給ひそといふ。荘主《あるじ》枴《あふご》を捨てて手を拍《う》つて笑ひ、[#行右小書き]一八[#行右小書き終わり]渠等《かれら》が愚《おろか》なる眼より[#行右小書き]一九[#行右小書き終わり]客僧を驚《おど》しまゐらせぬ。[#行右小書き]二〇[#行右小書き終わり]一宿《ひとよ》を供養《くやう》して[#行右小書き]二一[#行右小書き終わり]罪を贖《あがな》ひたてまつらんと、[#行右小書き]二二[#行右小書き終わり]礼《ゐやま》ひて奥の方に迎へ、こころよく食をもすすめて饗《もてな》しけり。  荘主《あるじ》かたりていふ。さきに[#行右小書き]二三[#行右小書き終わり]下等《しづら》が御僧を見て、鬼来りしとおそれしも[#行右小書き]二四[#行右小書き終わり]さるいはれの侍るなり。ここに[#行右小書き]二五[#行右小書き終わり]希有《けう》の物がたりの侍る。[#行右小書き]二六[#行右小書き終わり]妖言《およづれごと》ながら人にもつたへ給へかし。此の里の[#行右小書き]二七[#行右小書き終わり]上の山に一宇の[#行右小書き]二八[#行右小書き終わり]蘭若《てら》の侍る。故《もと》は[#行右小書き]二九[#行右小書き終わり]小山氏の[#行右小書き]三〇[#行右小書き終わり]菩提院《ぼだいゐん》にて、代々《よよ》大|徳《とこ》の住み給ふなり。今の[#行右小書き]三一[#行右小書き終わり]阿闍梨《あじやり》は何某《なにがし》殿の[#行右小書き]三二[#行右小書き終わり]猶子《いうじ》にて、ことに[#行右小書き]三三[#行右小書き終わり]篤学修行の聞えめでたく、此の国の人は[#行右小書き]三四[#行右小書き終わり]香燭《かうしよく》をはこびて帰依《きえ》したてまつる。我が荘《いへ》にもしばしば詣《まう》で給うて、いとも[#行右小書き]三五[#行右小書き終わり]うらなく仕へしが、去年《こぞ》の春にてありける。[#行右小書き]三六[#行右小書き終わり]越《こし》の国へ[#行右小書き]三七[#行右小書き終わり]水丁《くわんぢやう》の[#行右小書き]三八[#行右小書き終わり]戒師《かいし》にむかへられ給ひて、百日あまり逗《とどま》り給ふが、他《か》の国《くに》より十二三歳なる童児《わらは》を倶《ぐ》してかへり給ひ、[#行右小書き]三九[#行右小書き終わり]起臥《おきふし》の扶《たすけ》とせらる。かの童児《わらは》が容《かたち》の秀麗《みやびやか》なるをふかく愛《め》でさせたまうて、[#行右小書き]四〇[#行右小書き終わり]年来《としごろ》の事どももいつとなく怠りがちに見え給ふ。さるに茲年《ことし》四月《うづき》の比《(ころ)》、かの童児《わらは》かりそめの病に臥しけるが、日を経《へ》ておもくなやみけるを[#行右小書き]四一[#行右小書き終わり]痛《いた》みかなしませ給うて、[#行右小書き]四二[#行右小書き終わり]国府《こうふ》の典薬《てんやく》の[#行右小書き]四三[#行右小書き終わり]おもだたしきをまで迎へ給へども、其のしるしもなく終《つひ》にむなしくなりぬ。[#行右小書き]四四[#行右小書き終わり]ふところの璧《たま》をうばはれ、挿頭《かざし》の花を[#行右小書き]四五[#行右小書き終わり]嵐にさそはれしおもひ、泣くに涙なく、叫ぶに声なく、あまりに嘆かせたまふままに、火に焼《や》き、土に葬《はうむ》る事をもせで、[#行右小書き]四六[#行右小書き終わり]臉《かほ》に臉をもたせ、手に手をとりくみて日を経《へ》給ふが、終《つひ》に心神《こころ》みだれ、生きてありし日に違《たが》はず戯《たはぶ》れつつも、其の肉の腐り爛《ただ》るるを吝《をし》みて、肉を吸ひ骨を嘗《な》めて、[#行右小書き]四七[#行右小書き終わり]はた喫《くら》ひつくしぬ。寺中の人々、[#行右小書き]四八[#行右小書き終わり]院|主《じゆ》こそ鬼になり給ひつれと、連忙《あわただ》しく逃げさりぬるのちは、夜《よな》々里に下りて人を[#行右小書き]四九[#行右小書き終わり]驚殺《おど》し、或は墓をあばきて腥《なま》々しき屍《かばね》を喫《くら》ふありさま、実《まこと》に鬼といふものは昔物がたりには聞きもしつれど、[#行右小書き]五〇[#行右小書き終わり]現《うつつ》にかくなり給ふを見て侍れ。されどいかがしてこれを[#行右小書き]五一[#行右小書き終わり]征《せい》し得ん。只|戸《いへ》ごとに[#行右小書き]五二[#行右小書き終わり]暮をかぎりて堅く関《とざ》してあれば、近曾《このごろ》は国中《くになか》へも聞えて、人の往来《いきき》さへなくなり侍るなり。さるゆゑのありてこそ客僧《きやくそう》をも過《あやま》りつるなりとかたる。 [#「人間の肉を食う悪鬼と化した山寺の僧が、里人を追いかけてとらえようとしている図」のキャプション付きの図(fig60609_10.png、横844×縦601)入る] [#ここからキャプション] 人間の肉を食う悪鬼と化した山寺の僧が、里人を追いかけてとらえようとしている図。(原本三丁裏、四丁表の挿絵) [#ここでキャプション終わり]  快庵この物がたりを聞かせ給うて、世には不|可思議《かしぎ》の事もあるものかな。凡そ人とうまれて、[#行右小書き]五三[#行右小書き終わり]仏菩薩の教《をしへ》の広大なるをもしらず、愚かなるまま、[#行右小書き]五四[#行右小書き終わり]慳《かだま》しきままに世を終るものは、其の[#行右小書き]五五[#行右小書き終わり]愛慾邪念の[#行右小書き]五六[#行右小書き終わり]業障《ごふしやう》に攬《ひ》かれて、或は[#行右小書き]五七[#行右小書き終わり]故《もと》の形《かたち》をあらはして恚《いかり》を報《むく》い、或は鬼となり蟒《みづち》となりて崇《たたり》をなすためし、往古《いにしへ》より今にいたるまで算《かぞ》ふるに尽しがたし。又人|活《い》きながらにして鬼に化《け》するもあり。[#行右小書き]五八[#行右小書き終わり]楚王《そわう》の宮人は蛇《をろち》となり、[#行右小書き]五九[#行右小書き終わり]王含《わうがん》が母は[#行右小書き]六〇[#行右小書き終わり]夜叉《やしや》となり、[#行右小書き]六一[#行右小書き終わり]呉生《ごせい》が妻は蛾《が》となる。又いにしへ[#行右小書き]六二[#行右小書き終わり]ある僧|卑《あや》しき家に旅寝せしに、其の夜雨風はげしく、灯《ともし》さへなきわびしさに[#行右小書き]六三[#行右小書き終わり]いも寝られぬを、夜ふけて羊《ひつじ》の鳴くこゑの聞えけるが、頃刻《しばらく》して僧のねぶりをうかがひてしきりに嗅《か》ぐものあり。僧|異《あや》しと見て、[#行右小書き]六四[#行右小書き終わり]枕におきたる禅杖《ぜんぢやう》をもてつよく撃《う》ちければ、大きに叫んでそこにたふる。この音に[#行右小書き]六五[#行右小書き終わり]主《あるじ》の嫗《うば》なるもの灯《あかし》を照し来るに見れば、若き女の打ちたふれてぞありける。嫗《うば》泣く泣く命を乞《こ》ふ。いかがせん。[#行右小書き]六六[#行右小書き終わり]捨てて其の家を出でしが、其ののち又[#行右小書き]六七[#行右小書き終わり]たよりにつきて其の里を過ぎしに、田中に人多く集《つど》ひてものを見る。僧も立ちよりて何なるぞと尋ねしに、里人いふ。鬼に化《け》したる女を捉《とら》へて、今土に瘞《うづ》むなりとかたりしとなり。されどこれらは皆|女子《をんなご》にて、男たるもののかかるためしを聞かず。凡そ女の性《さが》の慳《かだま》しきには、さる浅ましき鬼《もの》にも化するなり。又|男子《なんし》にも、[#行右小書き]六八[#行右小書き終わり]隋《ずゐ》の煬帝《やうだい》の臣家《しんか》に[#行右小書き]六九[#行右小書き終わり]麻叔謀《ましゆくぼう》といふもの、小児《せうに》の肉を嗜好《この》みて、潜《ひそか》に民の小児を偸《ぬす》み、これを蒸《む》して喫《くら》ひしも[#行右小書き]七〇[#行右小書き終わり]あなれど、是は浅ましき[#行右小書き]七一[#行右小書き終わり]夷《えびす》心にて、主《あるじ》のかたり給ふとは異《こと》なり。さるにてもかの僧の鬼になりつるこそ、過去の因縁にてぞあらめ。そも平生《つね》の[#行右小書き]七二[#行右小書き終わり]行徳《ぎやうとく》のかしこかりしは、仏につかふる事に志誠《まごころ》を尽せしなれば、其の童児《わらは》を[#行右小書き]七三[#行右小書き終わり]やしなはざらましかば、[#行右小書き]七四[#行右小書き終わり]あはれよき法師なるべきものを。一たび愛慾の迷路《めいろ》に入りて、[#行右小書き]七五[#行右小書き終わり]無明《むみやう》の[#行右小書き]七六[#行右小書き終わり]業火《ごふくわ》の熾《さかん》なるより鬼と化したるも、ひとへに[#行右小書き]七七[#行右小書き終わり]直《なほ》くたくましき性《さが》のなす所なるぞかし。[#行右小書き]七八[#行右小書き終わり]心|放《ゆる》せば妖魔《えうま》となり、[#行右小書き]七九[#行右小書き終わり]収むる則《とき》は[#行右小書き]八〇[#行右小書き終わり]仏果《ぶつくわ》を得るとは、此の法師が[#行右小書き]八一[#行右小書き終わり]ためしなりける。[#行右小書き]八二[#行右小書き終わり]老衲《らうなふ》もしこの鬼を[#行右小書き]八三[#行右小書き終わり]教化《けうげ》して本源《もと》の心にかへらしめなば、こよひの饗《あるじ》の報《むく》ひともなりなんかしと、たふときこころざしを発《おこ》し給ふ。荘主《あるじ》頭《かうべ》を畳《たたみ》に摺《す》りて、御僧この事をなし給はば、此の国の人は浄土にうまれ出でたるがごとしと、涙を流してよろこびけり。山里のやどり[#行右小書き]八四[#行右小書き終わり]貝鐘《かひがね》も聞えず。[#行右小書き]八五[#行右小書き終わり]廿日あまりの月も出でて、古戸の間《すき》に洩りたるに、夜の深きをもしりて、いざ休ませ給へとて[#行右小書き]八六[#行右小書き終わり]おのれも臥戸《ふしど》に入りぬ。  [#行右小書き]八七[#行右小書き終わり]山院人とどまらねば、[#行右小書き]八八[#行右小書き終わり]楼門《ろうもん》は[#行右小書き]八九[#行右小書き終わり]荊棘《うばら》おひかかり、[#行右小書き]九〇[#行右小書き終わり]経閣《きやうかく》も[#行右小書き]九一[#行右小書き終わり]むなしく苔蒸《こけむ》しぬ。蜘《くも》網《あみ》をむすびて[#行右小書き]九二[#行右小書き終わり]諸仏を繋ぎ、燕子《つばくら》の糞《くそ》[#行右小書き]九三[#行右小書き終わり]護摩《ごま》の牀《ゆか》をうづみ、[#行右小書き]九四[#行右小書き終わり]方丈《はうぢやう》[#行右小書き]九五[#行右小書き終わり]廊房《らうばう》すべて物すざましく荒れはてぬ。日の影[#行右小書き]九六[#行右小書き終わり]申《さる》にかたぶく比《(ころ)》、快庵禅師寺に入りて[#行右小書き]九七[#行右小書き終わり]錫《しやく》を鳴《なら》し給ひ、遍参《へんざん》の僧[#行右小書き]九八[#行右小書き終わり]今夜《こよひ》ばかりの宿をかし給へと、あまたたび叫《よ》べども[#行右小書き]九九[#行右小書き終わり]さらに応《こたへ》なし。[#行右小書き]一〇〇[#行右小書き終わり]眠蔵《めんざう》より[#行右小書き]一〇一[#行右小書き終わり]痩槁《やせが》れたる僧の[#行右小書き]一〇二[#行右小書き終わり]漸《よわ》々とあゆみ出で、咳《から》びたる声して、御僧は何地《(いづち)》へ通るとてここに来るや。此の寺はさる由縁《ゆゑ》ありて、かく荒れはて、人も住まぬ野らとなりしかば、一|粒《りふ》の[#行右小書き]一〇三[#行右小書き終わり]斎糧《ときりやう》もなく、一宿《ひとよ》をかすべき[#行右小書き]一〇四[#行右小書き終わり]はかりごともなし。はやく里に出でよといふ。禅師いふ。[#行右小書き]一〇五[#行右小書き終わり]これは美濃の国を出でて、みちの奥《く》へ[#行右小書き]一〇六[#行右小書き終わり]いぬる旅なるが、この麓《ふもと》の里を過ぐるに、山の霊《かたち》、水の流のおもしろさに、おもはずもここにまうづ。日も斜《ななめ》なれば里にくだらんも[#行右小書き]一〇七[#行右小書き終わり]はるけし。[#行右小書き]一〇八[#行右小書き終わり]ひたすら一宿《ひとよ》をかし給へ。あるじの僧云ふ。かく野らなる所は[#行右小書き]一〇九[#行右小書き終わり]よからぬ事もあなり。強《し》ひてとどめがたし。[#行右小書き]一一〇[#行右小書き終わり]強ひてゆけとにもあらず。僧のこころにまかせよとて、復《ふたた》び物をもいはず。こなたよりも一|言《こと》を問はで、あるじのかたはらに座をしむる。[#行右小書き]一一一[#行右小書き終わり]看《み》る看る日は入り果てて、[#行右小書き]一一二[#行右小書き終わり]宵闇《よひやみ》の夜のいとくらきに、灯《ひ》を[#行右小書き]一一三[#行右小書き終わり]点《あ》げざればまのあたりさへわかぬに、只|澗《たに》水の音ぞちかく聞ゆ。あるじの僧も又|眠蔵《めんざう》に入りて音なし。  夜更けて月の夜にあらたまりぬ。影[#行右小書き]一一四[#行右小書き終わり]玲瓏《れいろう》としていたらぬ隈《くま》もなし。[#行右小書き]一一五[#行右小書き終わり]子《ね》ひとつともおもふ比《(ころ)》、あるじの僧眠蔵を出でて、あわただしく[#行右小書き]一一六[#行右小書き終わり]物を討《たづ》ぬ。たづね得ずして大いに叫び、[#行右小書き]一一七[#行右小書き終わり]禿驢《とくろ》[#「禿驢」の左に「くそばうず」の注記]いづくに隠れけん。ここもとにこそありつれと、禅師が前を幾たび走り過ぐれども、更に禅師を見る事なし。堂の方に駆《かけ》りゆくかと見れば、庭をめぐりて躍《をど》りくるひ、遂《つひ》に疲れふして起き来らず。夜明けて朝日のさし出でぬれば、酒の醒めたるごとくにして、禅師がもとの所に在《いま》すを見て、只あきれたる形《さま》に、ものさへいはで、柱にもたれ長嘘《ためいき》をつぎて黙《もだ》しゐたりける。禅師ちかくすすみよりて、院主《ゐんじゆ》何をか嘆き給ふ。[#行右小書き]一一八[#行右小書き終わり]もし飢《う》ゑ給ふとならば、[#行右小書き]一一九[#行右小書き終わり]野僧が肉に腹《はら》をみたしめ給へ。あるじの憎いふ。師は夜もすがらそこに居させたまふや。禅師いふ。ここにありてねぶる事なし。あるじの憎いふ。我あさましくも人の肉を好めども、いまだ[#行右小書き]一二〇[#行右小書き終わり]仏身《ぶつしん》の肉味をしらず。師はまことに仏なり。[#行右小書き]一二一[#行右小書き終わり]鬼畜《きちく》のくらき眼《まなこ》をもて、[#行右小書き]一二二[#行右小書き終わり]活仏《くわつぶつ》の[#行右小書き]一二三[#行右小書き終わり]来迎《らいがう》を見んとするとも、[#行右小書き]一二四[#行右小書き終わり]見ゆべからぬ理《ことわり》なるかな。あなたふとと、頭《かうべ》を低《た》れて黙《もだ》しける。  禅師いふ。里人のかたるを聞けば、汝|一旦《ひとたび》の愛慾《あいよく》に心神《こころ》みだれしより、忽《(たちま)》ち鬼畜に[#行右小書き]一二五[#行右小書き終わり]堕罪《だざい》したるは、あさましとも哀《かな》しとも、[#行右小書き]一二六[#行右小書き終わり]ためしさへ希《(まれ)》なる悪因《あくいん》なり。夜《よひ》々里に出でて人を害《わざはひ》するゆゑに、ちかき里人は安き心なし。我これを聞きて[#行右小書き]一二七[#行右小書き終わり]捨つるに忍びず。特《わざわざ》来りて教化《けうげ》し、本源《もと》の心にかへらしめんとなるを、汝我がをしへを聞くや否《いな》や。あるじの憎いふ。師はまことに仏なり。かく浅ましき悪業《あくごふ》を頓《とみ》にわするべきことわりを教へ給へ。禅師いふ。汝[#行右小書き]一二八[#行右小書き終わり]聞くとならばここに来れとて、[#行右小書き]一二九[#行右小書き終わり]簀子《すのこ》の前のたひらなる石の上に座せしめて、みづから帔《かづ》き給ふ紺染《あをぞめ》の巾を脱ぎて僧が頭《かうべ》に帔かしめ、[#行右小書き]一三〇[#行右小書き終わり]証道《しようだう》の歌の二句を授け給ふ。 [#ここから3字下げ] [#行右小書き]一三一[#行右小書き終わり]江月照《かうげつてらし》松風吹《しようふうふく》   永夜清宵《えいやせいせう》何所為《なんのしよゐぞ》 [#ここで字下げ終わり] 汝ここを去らずして[#行右小書き]一三二[#行右小書き終わり]徐《しづか》に此の句の意《こころ》をもとむべし。意解けぬる則《とき》は、おのづから[#行右小書き]一三三[#行右小書き終わり]本来の仏心に会ふなるはと、[#行右小書き]一三四[#行右小書き終わり]念頃《(ねんごろ)》に教へて山を下り給ふ。此ののちは里人おもき災《わざはひ》をのがれしといへども、猶《(なほ)》僧が生死をしらざれば、疑ひ恐れて人々山にのぼる事をいましめけり。  一とせ速《はや》くたちて、[#行右小書き]一三五[#行右小書き終わり]むかふ年の冬|十月《かみなづき》の初旬《はじめ》、快庵大徳、[#行右小書き]一三六[#行右小書き終わり]奥路《あうろ》のかへるさに又ここを過ぎ給ふが、かの一宿《ひとよ》のあるじが荘《いへ》に立ちよりて、僧が[#行右小書き]一三七[#行右小書き終わり]消息《せうそこ》を尋ね給ふ。荘主《あるじ》よろこび迎へて、御僧の大徳によりて鬼ふたたび山をくだらねば、人皆浄土にうまれ出でたるごとし。されど山にゆく事はおそろしがりて、一人としてのぼるものなし。[#行右小書き]一三八[#行右小書き終わり]さるから消息をしり侍らねど、など今まで活《い》きては侍らじ。今夜《こよひ》の御|泊《とま》りに、[#行右小書き]一三九[#行右小書き終わり]かの菩提《ぼだい》をとぶらひ給へ。誰も[#行右小書き]一四〇[#行右小書き終わり]随縁《ずゐえん》したてまつらんといふ。禅師いふ。[#行右小書き]一四一[#行右小書き終わり]他《かれ》善果《ぜんくわ》に基《もとづ》きて遷化《せんげ》せしとならば、[#行右小書き]一四二[#行右小書き終わり]道に先達《せんだち》の師ともいふべし。又活きてあるときは[#行右小書き]一四三[#行右小書き終わり]我がために一個《ひとり》の徒弟《とてい》なり。[#行右小書き]一四四[#行右小書き終わり]いづれ消息《せうそこ》を見ずばあらじとて、復《ふたた》び山にのぼり給ふに、[#行右小書き]一四五[#行右小書き終わり]いかさまにも人のいきき絶《た》えたると見えて、去年《こぞ》ふみわけし道ぞとも思はれず。寺に入りて見れば、荻《をぎ》[#行右小書き]一四六[#行右小書き終わり]尾花のたけ人よりもたかく生茂《おひしげ》り、露は時雨めきて降りこぼれたるに、[#行右小書き]一四七[#行右小書き終わり]三つの径《みち》さへわからざる中に、堂閣の戸|右左《みぎひだり》に頽《たふ》れ、方丈《はうぢやう》[#行右小書き]一四八[#行右小書き終わり]庫裏《くり》に縁《めぐ》りたる廊《らう》も、[#行右小書き]一四九[#行右小書き終わり]朽目《くちめ》に雨をふくみて苔《こけ》むしぬ。さてかの僧を座《を》らしめたる簀子《すのこ》のほとりをもとむるに、影のやうなる人の、僧俗ともわかぬまでに髭《ひげ》髪《かみ》もみだれしに、葎《むぐら》[#行右小書き]一五〇[#行右小書き終わり]むすぼほれ、尾花[#行右小書き]一五一[#行右小書き終わり]おしなみたるなかに、蚊《か》の鳴くばかりのほそき音《こゑ》して、[#行右小書き]一五二[#行右小書き終わり]物とも聞えぬやうに、まれまれ唱《とな》ふるを聞けば、 [#ここから3字下げ] 江月照《かうげつてらし》松風吹《しようふうふく》   永夜清宵《えいやせいせう》何所為《なんのしよゐぞ》 [#ここで字下げ終わり]  禅師見給ひて、やがて禅杖を拿《と》りなほし、[#行右小書き]一五三[#行右小書き終わり]作麼生《そもさん》[#行右小書き]一五四[#行右小書き終わり]何所為《なんのしよゐ》ぞと、一|喝《かつ》して他《かれ》が頭《かうべ》を撃《う》ち給へば、忽《(たちま)》ち氷の朝日にあふがごとくきえうせて、かの青頭巾と骨《ほね》のみぞ草葉にとどまりける。[#行右小書き]一五五[#行右小書き終わり]現《げ》にも[#行右小書き]一五六[#行右小書き終わり]久しき念のここに消《せう》じつきたるにやあらん。たふときことわりあるにこそ。  されば禅師の大徳、[#行右小書き]一五七[#行右小書き終わり]雲の裏《うら》、海の外にも聞えて、[#行右小書き]一五八[#行右小書き終わり]初祖《しよそ》の肉いまだ乾かずとぞ称嘆しけるとなり。かくて里人あつまりて、寺内を清め、修理《しゆり》をもよほし、禅師を推《お》したふとみてここに住ましめけるより、[#行右小書き]一五九[#行右小書き終わり]故《もと》の密宗《みつしゆう》をあらためて、[#行右小書き]一六〇[#行右小書き終わり]曹洞《さうとう》の霊場《れいぢやう》をひらき給ふ。[#行右小書き]一六一[#行右小書き終わり]今なほ御《み》寺はたふとく栄えてありけるとなり。 [#ここから2字下げ] 一 僧侶のかぶる紺色の頭巾で、本篇の主人公快庵禅師がこれを鬼の僧にかぶらせた。 二 明応二年(一四九三)一二月没。七二歳。曹洞宗の高僧、名は妙慶、越後の顕聖寺、下野の大中寺等をひらく。禅師は、知徳高い禅僧で、官賜。 三 幼少より。髪を左右にわけて角のように揚げて結う小児の髪形による。 四 特に経典をもたず、不立文字・教外別伝・以心伝心を旨とする禅宗の本旨。 五 諸国を行脚すること。 六 岐阜県関市下有知にある曹洞宗の名刹。 七 夏行(四月一六日―七月一五日まで、室に籠って仏道修行すること。夏安居とも)をすまして。 八 栃木県下都賀郡大平町富田の宿。 九 使用人なども大勢いて裕福そうな家。 一〇 天秤棒の一種。 一一 年ごろ五〇歳にちかい。 一二 僧侶のかぶる頭巾。 一三 包み。旅行用の油単。 一四 檀家。信徒。ここは相手をよびかけた語。御主人。 一五 用心する。警戒する。 一六 諸国を遍歴参詣して修行する僧。 一七 私のような痩法師が。 一八 百姓たちをさす。 一九 旅の僧。 二〇 一夜の宿を提供して。 二一 おかした罪のつぐないをいたしましょう。 二二 礼を厚くして。 二三 小作人や下男。下僕たち。 二四 しかるべき理由。 二五 世にもまれな不思議な話。 二六 人をまどわすようなあやしいはなし。 二七 富田の西北にある大平山。 二八 寺院。のちの曹洞宗大平山大中寺をいう。 二九 藤原秀卿の後裔で栃木県小山市を本拠とした豪族。 三〇 家代々帰依して、財物を寄与する旦那寺。 三一 梵語。密教で秘法を伝授する僧職。 三二 甥。または養子。 三三 学問修行のふかいという評判が高く。 三四 香や蝋燭等の布施をあげ。 三五 わけへだてなく、うちとけてつきあっていたが。 三六 越後佐渡(新潟県)、越中(富山県)、加賀能登(石川県)、越前若狭(福井県)の総称。 三七 真言宗ではじめて受戒するとき、その頂に香水をそそぐ結縁灌頂、修道上進のときの伝法灌頂等の儀式。 三八 戒を授ける法師。阿闍梨がおこなう。 三九 身の回りの世話をする者。 四〇 長年勤めてきた修行の事。 四一 御心痛になり。 四二 ここは、国府所属の官医。 四三 立派な。名声の高い。 四四 大切なもの。 四五 嵐に吹き散らされる。 四六 顔をすりよせて。 四七 とうとう。 四八 寺院の主。住持。 四九 ひどく驚かし。 五〇 まのあたり。 五一 とりおさえる。 五二 日暮れとともに。 五三 仏と菩薩。 五四 心のまがった。 五五 肉欲・色欲にとらわれる。 五六 成仏正道のさまたげになる悪業にひきずられて。 五七 生前の姿。 五八 五雑組、巻五「化為[#レ]狼者、太原王含母也。化為[#二]夜叉[#一]者、呉生妾劉氏也。化為[#レ]蛾者、楚荘王宮人也。化為[#レ]蛇者、李勢宮人也」の読み違え。楚の荘王は中国紀元前六〇〇年頃の人。宮人は女官。 五九 太原にいた武将。 六〇 暴悪勇猛な鬼類の一。 六一 いつの人か不明。 六二 以下、五雑組、巻五に伝えられる話。 六三 寝るに寝られない。 六四 枕許においた警策。 六五 主人である老婆。 六六 そのままにしておいて。 六七 ついでがあったので。 六八 中国隋(五八一―六一八)の第二代皇帝。大運河などを作った。 六九 このはなしは五雑組、巻五に見える。 七〇 「あるなれど」の約。 七一 理非分別をわきまえない野蛮な心。 七二 仏道修行の結果身につけた徳。修行と学徳。 七三 側近く召して世話をしなかったならば。 七四 あっぱれ。ほんとに。 七五 煩悩のために一切の真理を知ることができなくなった暗さをいう。 七六 悪事悪業のために身を苦しめることを地獄の猛火にたとえた。 七七 一本気で、思いこんだらつらぬきとおす性質。 七八 心をゆるめて放任すれば妖しい魔物となり。 七九 心をひきしめれば。 八〇 成仏できる。 八一 そのよい実例である。 八二 老僧。快庵の自称。 八三 教え導いて善道に転化する。 八四 貝と鐘。ともに仏具。近くに寺院がないこと。 八五 二〇日すぎの、出のおそい下弦の月。 八六 この家の主人をさす。 八七 山寺は誰も住みついていないとみえて。 八八 二階造りの門。山門。 八九 いばら。雑草。 九〇 経典をおさめる建物。 九一 見捨てられたまま。 九二 たちならんだ仏像。 九三 護摩壇。本尊の前に設けられている。 九四 住持の居室。 九五 長廊下と僧侶の室。 九六 方角ととれば西南西、時刻ととれば午後四時より六時頃をいう。 九七 錫杖。 九八 今夜一夜だけの。 九九 いっこうに。 一〇〇 仏家でいう寝室。 一〇一 痩せこけた。 一〇二 力なくしずかに。 一〇三 食糧。斎は、僧侶の正食。 一〇四 用意、支度。 一〇五 私は。謡曲などでつねに用いる自称の代名詞。 一〇六 行く。 一〇七 遠いみちのりである。 一〇八 切に。ぜひに。 一〇九 よくないこともあるものです。 一一〇 さりとて、たって出て行けというわけでもない。 一一一 たちまち。秋の日はおちるのが早い。 一一二 月の出が遅くて、宵にまだ月のなく暗い状態。 一一三 つけないので。 一一四 月光が清くうつくしく輝くさま。 一一五 午前零時より零時半ごろまで。 一一六 何かさがしもとめる。 一一七 右によみ、左に意味を記している。白話小説などの注解に用いる方法。頭に毛のない坊主をののしることば。 一一八 もし飢えておいでだというならば。 一一九 僧が自分を卑下していう語。愚僧、拙僧。 一二〇 生き仏の肉の味をしらない。 一二一 鬼畜のような理非分別のつかない眼。 一二二 生き仏。 一二三 仏が衆生臨終の際に迎えにくることで、ここは、おいでになった、の意。 一二四 見ることができないのも当然のことである。 一二五 罪におちる。鬼畜になりさがる。 一二六 前例がないほどの悪因縁。 一二七 見捨てておくことができない。 一二八 聞くというならば。 一二九 堂の前の縁側。 一三〇 禅の本義を七言長詩の形で説いたもの。唐の玄覚の作。 一三一 現代語訳(一六四ページ)を見よ。[#現代語訳「月は入江をてらしてあかるく、岸辺の松を吹く風は松籟《しょうらい》を聞かせる。この秋の夜長、清らかな宵の景色はいったい何のためであろうか。自然のままのすがたである。しかし、大自然のすがたは結果において自他をきよめている。これ自然の摂理である。その真意を理解すれば、人はおのずから真理を会得できる。これが禅定である」] 一三二 おもむろに。じっくりと。 一三三 本来そなわっている仏心にあうのである。 一三四 親切に。 一三五 翌年。 一三六 奥州よりの帰途。 一三七 その後の様子。 一三八 それゆえに。 一三九 かの山寺の僧が成仏するように、冥福をお祈り下さい。 一四〇 私どももみんな一緒に回向いたしましょう。 一四一 彼が善行のむくいで往生したというのならば。遷化は、仏法念者の死去をいう。 一四二 仏道においては私より先に悟りに入った先輩ともいうべき人。 一四三 私にとっては、一人の弟子。 一四四 どちらにしてもその様子を見なければなるまい。 一四五 主人の言葉通り、なるほど人の往来が絶えているとみえて。 一四六 すすき。 一四七 庭の草生えた小径。門への道、井戸への道、厠への道の三径。漢の蒋詡が邸内の三径に遊んで仕えなかった故事がある。また陶淵明、帰去来辞に「三径就[#レ]荒、松菊猶存」とある。源氏、蓬生「このさびしき宿にも必ずわけたる跡あなる三つの径とたどる」。 一四八 寺院で雑事をつかさどる所。台所など。 一四九 朽ちたもくめ。 一五〇 雑草がからみあい。 一五一 倒れ伏しなびいている様。 一五二 何をいっているのかはっきりと聞えない状態。 一五三 禅家の用語。いかに。どうじゃ。 一五四 どうするのだ。 一五五 まことに。じつに。 一五六 長い間の執念がここにいたって全く消えつくしたのであろう。 一五七 遠い国々から海外にまで。 一五八 禅宗の開祖達磨大師は死んだが、その教法・精神はいまなお生き続けている。快庵はその教法を具現化した。 一五九 それまでの真言宗を改宗して。 一六〇 曹洞宗。禅宗の一派。道元の開創。 一六一 栃木県下都賀郡大平町西山田にある大平山大中寺。曹洞宗関東惣禄三か寺の一。現在も広大な境内に老杉繁茂し、快庵を祀った開山堂、根無しの藤等が残っている。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#3字下げ][#小見出し][#行右小書き]一[#行右小書き終わり]貧福論《ひんぷくろん》[#小見出し終わり]  [#行右小書き]二[#行右小書き終わり]陸奧《むつ》の国[#行右小書き]三[#行右小書き終わり]蒲生氏郷《がまふうぢさと》の家に、[#行右小書き]四[#行右小書き終わり]岡左内といふ武士《もののふ》あり。[#行右小書き]五[#行右小書き終わり]禄《ろく》おもく、誉《ほまれ》たかく、[#行右小書き]六[#行右小書き終わり]丈夫《ますらを》の名を[#行右小書き]七[#行右小書き終わり]関の東に震《ふる》ふ。此の士《し》いと[#行右小書き]八[#行右小書き終わり]偏固《かたは》なる事あり。富貴をねがふ心、[#行右小書き]九[#行右小書き終わり]常の武扁《ぶへん》にひとしからず。倹約を宗《むね》として[#行右小書き]一〇[#行右小書き終わり]家の掟《おきて》をせしほどに、年を畳《つ》みて富み昌《さか》えけり。かつ[#行右小書き]一一[#行右小書き終わり]軍《いくさ》を調練《たなら》す間《いとま》には、[#行右小書き]一二[#行右小書き終わり]茶味《さみ》翫香《ぐわんかう》を娯《たのし》まず。[#行右小書き]一三[#行右小書き終わり]庁上《ひとま》なる所に許多《あまた》の金《こがね》を布《し》き班《なら》べて、心を和《なぐさ》むる事、世の人の月花にあそぶに勝《まさ》れり。人みな左内が行跡《ふるまひ》をあやしみて、吝嗇《りんしよく》[#行右小書き]一四[#行右小書き終わり]野情《やじやう》の人なりとて、爪《つま》はじきをして悪《にく》みけり。  [#行右小書き]一五[#行右小書き終わり]家に久しき男《をのこ》に[#行右小書き]一六[#行右小書き終わり]黄金《わうごん》一枚かくし持ちたるものあるを聞きつけて、ちかく召していふ。[#行右小書き]一七[#行右小書き終わり]崑山《こんざん》の璧《たま》もみだれたる世には瓦礫《ぐわれき》にひとし。かかる世にうまれて弓矢とらん躯《み》には、[#行右小書き]一八[#行右小書き終わり]棠谿《たうけい》墨陽《ぼくやう》の剣《つるぎ》、[#行右小書き]一九[#行右小書き終わり]さてはありたきもの財宝《たから》なり。されど良《よき》剣《つるぎ》なりとて千人の敵《あた》には逆《むか》ふべからず。金の徳は天《あめ》が下の人をも従へつべし。武士たるもの[#行右小書き]二〇[#行右小書き終わり]漫《みだり》にあつかふべからず。かならず貯《たくは》へ蔵《をさ》むべきなり。你《なんぢ》賤《いや》しき身の分限《ぶげん》に過ぎたる財《たから》を得たるは[#行右小書き]二一[#行右小書き終わり]嗚呼《をこ》の事《わざ》なり。賞なくばあらじとて、十両の金を給ひ、[#行右小書き]二二[#行右小書き終わり]刀《かたな》をも赦《ゆる》して召しつかひけり。人これを伝へ聞きて、左内が金をあつむるは、[#行右小書き]二三[#行右小書き終わり]長啄《ちやうたく》にして飽かざる類《たぐひ》にはあらず。只《ただ》当世の一|奇士《きし》なりとぞ[#行右小書き]二四[#行右小書き終わり]いひはやしける。  其の夜、左内が枕上《まくらがみ》に人の来たる音しけるに、目さめて見れば、[#行右小書き]二五[#行右小書き終わり]灯台《とうだい》の下《もと》に、ちひさげなる翁の笑《ゑみ》をふくみて座《を》れり。左内枕をあげて、ここに来るは誰《た》そ。我に[#行右小書き]二六[#行右小書き終わり]糧《かて》からんとならば[#行右小書き]二七[#行右小書き終わり]力量《りきりやう》の男どもこそ参りつらめ。你がやうの[#行右小書き]二八[#行右小書き終わり]耄《ほ》げたる形《さま》してねぶりを魘《おそ》ひつるは、狐《きつね》狸《たぬき》などのたはむるるにや。[#行右小書き]二九[#行右小書き終わり]何のおぼえたる術《わざ》かある。秋の夜の目さましに、[#行右小書き]三〇[#行右小書き終わり]そと見せよとて、すこしも騒ぎたる[#行右小書き]三一[#行右小書き終わり]容色《いろめ》なし。翁いふ。かく参りたるは、[#行右小書き]三二[#行右小書き終わり]魑魅《ちみ》にあらず人にあらず。君が[#行右小書き]三三[#行右小書き終わり]かしづき給ふ黄金《わうごん》の精霊《せいれい》なり。年来《としごろ》篤《あつ》くもてなし給ふうれしさに、夜話《よがたり》せんとて推《お》してまゐりたるなり。君が今日家の子を賞《しやう》じ給ふに感《め》でて、翁が思ふ[#行右小書き]三四[#行右小書き終わり]こころばへをもかたり和《なぐさ》まんとて、仮《かり》に化《かたち》を見《あら》はし侍るが、十にひとつも益《やう》なき閑談《むだごと》ながら、[#行右小書き]三五[#行右小書き終わり]いはざるは腹みつれば、わざとにまうでて眠《ねぶり》をさまたげ侍る。 [#「枕許に立った黄金の精に、左内が、体をおこして応待している図」のキャプション付きの図(fig60609_11.png、横835×縦604)入る] [#ここからキャプション] 枕許に立った黄金の精に、左内が、体をおこして応待している図。「灯台」が行灯、黄金の精が「ちひさげなる翁」であることがわかる。(原本十三丁裏、十四丁表の挿絵) [#ここでキャプション終わり]  さても富みて驕《おご》らぬは大聖《おほきひじり》の道なり。さるを世の悪《さがな》きことばに、[#行右小書き]三六[#行右小書き終わり]富めるものはかならず慳《かだま》し。富めるものはおほく愚《おろか》なりといふは、晋《しん》の[#行右小書き]三七[#行右小書き終わり]石崇《せきそう》唐の[#行右小書き]三八[#行右小書き終わり]王元宝《わうげんぱう》がごとき、[#行右小書き]三九[#行右小書き終わり]豺狼《さいらう》蛇蝎《じやかつ》の徒《ともがら》のみをいへるなりけり。往古《いにしへ》に富める人は、[#行右小書き]四〇[#行右小書き終わり]天の時をはかり、地の利を察《あきら》めて、おのづからなる富貴《ふうき》を得るなり。[#行右小書き]四一[#行右小書き終わり]呂望《りよぼう》、斉《せい》に封《ほう》ぜられて民に産業《なりはひ》を教ふれば、海方《うなべ》の人利に走りて[#行右小書き]四二[#行右小書き終わり]ここに来朝《きむか》ふ。[#行右小書き]四三[#行右小書き終わり]管仲《くわんちゆう》、[#行右小書き]四四[#行右小書き終わり]九《ここの》たび諸侯をあはせて、身は[#行右小書き]四五[#行右小書き終わり]倍臣《やつこ》ながら富貴は列国の君に勝《まさ》れり。[#行右小書き]四六[#行右小書き終わり]范蠡《はんれい》、[#行右小書き]四七[#行右小書き終わり]子貢《しこう》、[#行右小書き]四八[#行右小書き終わり]白圭《はつけい》が徒《ともがら》、[#行右小書き]四九[#行右小書き終わり]財《たから》を鬻《ひさ》ぎ利を逐《お》うて、巨万《ここだく》の金《こがね》を畳《つ》みなす。これらの人をつらねて、[#行右小書き]五〇[#行右小書き終わり]貨殖伝《くわしよくでん》を書《しる》し侍るを、其のいふ所|陋《いや》しとて、のちの博士《はかせ》筆を競うて謗《そし》るは、ふかく頴《さと》らざる人の語《ことば》なり。[#行右小書き]五一[#行右小書き終わり]恒《つね》の産《なりはひ》なきは恒の心なし。[#行右小書き]五二[#行右小書き終わり]百姓《おたから》は勤《つと》めて穀《たなつもの》を出し、工匠等《たくみら》修《つと》めてこれを助け、商賈《あきびと》務《つと》めて此《これ》を通《かよ》はし、おのれおのれが[#行右小書き]五三[#行右小書き終わり]産《なり》を治《をさ》め家を富まして、祖《みおや》を祭り子孫《のち》を謀《はか》る外、人たるもの何をか為《な》さん。諺《ことわざ》にもいへり。[#行右小書き]五四[#行右小書き終わり]千金の子は市に死せず。[#行右小書き]五五[#行右小書き終わり]富貴の人は王者とたのしみを同じうすとなん。まことに[#行右小書き]五六[#行右小書き終わり]淵《ふち》深ければ魚よくあそび、山|長《なが》ければ獣《けもの》よくそだつは、[#行右小書き]五七[#行右小書き終わり]天《あめ》の随《まにまに》なることわりなり。只、[#行右小書き]五八[#行右小書き終わり]貧しうしてたのしむてふことばありて、[#行右小書き]五九[#行右小書き終わり]字を学び韻《ゐん》を探る人の惑《まどひ》をとる端《はし》となりて、弓矢とるますら雄《を》も富貴は国の基《もとゐ》なるをわすれ、[#行右小書き]六〇[#行右小書き終わり]あやしき計策《たばかり》をのみ調練《たねら》ひて、ものを戕《やぶ》り人を傷《そこな》ひ、おのが徳をうしなひて子孫を絶つは、財《たから》を薄《かろ》んじて名をおもしとする惑《まどひ》なり。顧《おも》ふに名とたからともとむるに心ふたつある事なし。[#行右小書き]六一[#行右小書き終わり]文字てふものに繋《つな》がれて、金の徳を薄《かろ》んじては、みづから清潔と唱《とな》へ、[#行右小書き]六二[#行右小書き終わり]鋤《すき》を揮《ふる》うて棄てたる人を賢《かしこ》しといふ。さる人はかしこくとも、さる事《わざ》は賢からじ。金《こがね》は[#行右小書き]六三[#行右小書き終わり]七《なな》のたからの最《つかさ》なり。土に瘞《うも》れては霊泉《れいせん》を湛《たた》へ、不浄を除き、妙《たへ》なる音《こゑ》を蔵《かく》せり。かく清《いさぎよ》きものの、いかなれば愚昧《ぐまい》[#行右小書き]六四[#行右小書き終わり]貪酷《どんこう》の人にのみ集《つど》ふべきやうなし。今夜《こよひ》此の憤《いきどほ》りを吐きて年来《としごろ》のこころやりをなし侍る事の喜《うれ》しさよといふ。  左内|興《きよう》じて席《むしろ》をすすみ、さてしもかたらせ給ふに、富貴の道のたかき事、己《おの》がつねにおもふ所露たがはずぞ侍る。ここに愚《おろか》なる問《とひ》事の侍るが、ねがふは詳《つばら》にしめさせ給へ。今[#行右小書き]六五[#行右小書き終わり]ことわらせ給ふは、専《もは》ら金の徳を薄《かろ》しめ、富貴の大業《たいげふ》なる事をしらざるを罪とし給ふなるが、かの[#行右小書き]六六[#行右小書き終わり]紙魚《しぎよ》がいふ所もゆゑなきにあらず。今の世に富めるものは、十が八ツまではおほかた貪酷残忍の人多し。おのれは俸禄《ほうろく》に飽きたりながら、兄弟《はらから》一属《やから》をはじめ、[#行右小書き]六七[#行右小書き終わり]祖《みおや》より久しくつかふるものの貧しきをすくふ事《わざ》をもせず、となりに栖《す》みつる人のいきほひをうしなひ、他《ひと》の援《たす》けさへなく[#行右小書き]六八[#行右小書き終わり]世にくだりしものの田畑《たばた》をも、価《あたひ》を賤《やす》くして[#行右小書き]六九[#行右小書き終わり]あながちに己《おの》がものとし、今おのれは村長《むらをさ》とうやまはれても、むかしかりたる人のものをかへさず、礼ある人の席《むしろ》を譲れば、其の人を[#行右小書き]七〇[#行右小書き終わり]奴《やつこ》のごとく見おとし、たまたま旧《ふる》き友の寒暑《かんしよ》を訪《とむら》ひ来れば、物からんためかと疑ひて、宿にあらぬよしを応《こた》へさせつる類《たぐひ》あまた見来りぬ。又君に忠なるかぎりをつくし、父母に[#行右小書き]七一[#行右小書き終わり]孝廉《かうれん》の聞えあり、貴きをたふとみ、賤《いや》しきを扶《たす》くる意《こころ》ありながら、[#行右小書き]七二[#行右小書き終わり]三冬のさむきにも[#行右小書き]七三[#行右小書き終わり]一|裘《きう》に起臥《おきふ》し、[#行右小書き]七四[#行右小書き終わり]三|伏《ぶく》のあつきにも[#行右小書き]七五[#行右小書き終わり]一|葛《かつ》を濯《すす》ぐいとまなく、年ゆたかなれども[#行右小書き]七六[#行右小書き終わり]朝《あした》に晡《くれ》に一|椀《わん》の粥《かゆ》にはらをみたしめ、さる人はもとより朋友《ともがき》の訪《とむら》ふ事もなく、かへりて兄弟《はらから》一属《やから》にも[#行右小書き]七七[#行右小書き終わり]通《みち》を塞《き》られ、まじはりを絶たれて、其の怨《うらみ》をうつたふる方さへなく、[#行右小書き]七八[#行右小書き終わり]汲《きふ》々として一生を終《を》ふるもあり。さらばその人は作業《なりはひ》に[#行右小書き]七九[#行右小書き終わり]うときゆゑかと見れば、夙《つと》に起きおそくふして[#行右小書き]八〇[#行右小書き終わり]性力《ちから》を凝《こら》し、西にひがしに走りまどふ[#行右小書き]八一[#行右小書き終わり]蹺蹊《ありさま》さらに閑《いとま》なく、その人|愚《おろか》にもあらで才をもちふるに[#行右小書き]八二[#行右小書き終わり]的《あた》るはまれなり。これらは[#行右小書き]八三[#行右小書き終わり]顔子《がんし》が一|瓢《ぺう》の味《あぢは》ひをもしらず。かく果《は》つるを、[#行右小書き]八四[#行右小書き終わり]仏家《ぶつか》には前業《ぜんごふ》をもて説きしめし、[#行右小書き]八五[#行右小書き終わり]儒門には天命と教ふ。もし未来あるときは、現世《げんぜ》の[#行右小書き]八六[#行右小書き終わり]陰徳善功も[#行右小書き]八七[#行右小書き終わり]来世のたのみありとして、人しばらくここに[#行右小書き]八八[#行右小書き終わり]いきどほりを休《やす》めん。されば富貴のみちは仏家にのみその理《ことわり》をつくして、儒門の教は[#行右小書き]八九[#行右小書き終わり]荒唐《くわうたう》[#「荒唐」の左に「とりじめなし」の注記]なりとやせん。[#行右小書き]九〇[#行右小書き終わり]霊《かみ》も仏の教にこそ[#行右小書き]九一[#行右小書き終わり]憑《よ》らせ給ふらめ。[#行右小書き]九二[#行右小書き終わり]否《いな》ならば詳《つばら》にのべさせ給へ。  翁いふ。君が問ひ給ふは、[#行右小書き]九三[#行右小書き終わり]往古《いにしへ》より論じ尽さざることわりなり。かの仏の御法《みのり》を聞けば、[#行右小書き]九四[#行右小書き終わり]富と貧しきは前生《さきのよ》の脩否《よきあしき》によるとや。此《こ》は[#行右小書き]九五[#行右小書き終わり]あらましなる教ぞかし。前生にありしときおのれをよく脩《をさ》め、慈悲の心|専《もは》らに、他人《ことひと》にもなさけふかく接《まじは》りし人の、その善報によりて、今此の生《しやう》に富貴の家にうまれきたり、おのがたからをたのみて[#行右小書き]九六[#行右小書き終わり]他人《ことひと》にいきほひをふるひ、[#行右小書き]九七[#行右小書き終わり]あらぬ狂言《まがごと》をいひののしり、あさましき[#行右小書き]九八[#行右小書き終わり]夷《えびす》ごころをも見するは、前生《さきのよ》の善心かくまでなりくだる事はいかなるむくいのなせるにや。仏菩薩《ぶつぼさつ》は[#行右小書き]九九[#行右小書き終わり]名聞利要《みやうもんりえう》を嫌《い》み給ふとこそ聞きつる物を、など貧福の事に[#行右小書き]一〇〇[#行右小書き終わり]係《かかづら》ひ給ふべき。さるを富貴は前生《さきのよ》のおこなひの善《よ》かりし所、貧賤は悪《あ》しかりしむくいとのみ説きなすは、[#行右小書き]一〇一[#行右小書き終わり]尼媽《あまかか》を蕩《とら》かす[#行右小書き]一〇二[#行右小書き終わり]なま仏法ぞかし。貧福をいはず、ひたすら善を積《つ》まん人は、その身に来らずとも、子孫はかならず幸福《さいはひ》を得《う》べし。[#行右小書き]一〇三[#行右小書き終わり]宗廟《そうべう》これを饗《う》けて子孫これを保《たも》つとは、此のことわりの細妙《くはしき》なり。おのれ善をなして、おのれその報《むく》ひの来るを待つは直《なほ》きこころにもあらずかし。又|悪業《あくごふ》慳貪《けんどん》の人の富《と》み昌《さか》ふるのみかは、寿《いのち》めでたくその終《をはり》をよくするは、[#行右小書き]一〇四[#行右小書き終わり]我に異《こと》なることわりあり。霎時《しばらく》聞かせたまへ。我今|仮《かり》に化《かたち》をあらはして話《かた》るといへども、神にあらず仏にあらず、もと[#行右小書き]一〇五[#行右小書き終わり]非情《ひじやう》の物なれば人と異なる慮《こころ》あり。いにしへに富める人は、天《あめ》の時に合《かな》ひ、地《くに》の利をあきらめて、[#行右小書き]一〇六[#行右小書き終わり]産を治めて富貴となる。これ天の随《まにまに》なる計策《たばかり》なれば、たからのここにあつまるも天のまにまになることわりなり。又[#行右小書き]一〇七[#行右小書き終わり]卑吝《ひりん》貪酷《どんこう》の人は、金銀を見ては父母のごとくしたしみ、食《くら》ふべきをも喫《くら》はず、[#行右小書き]一〇八[#行右小書き終わり]穿《き》べきをも着《き》ず、得がたきいのちさへ惜しとおもはで、起きておもひ臥してわすれねば、ここにあつまる事、[#行右小書き]一〇九[#行右小書き終わり]まのあたりなることわりなり。我もと神にあらず仏にあらず、只これ非情なり。非情のものとして、人の善悪を糺《ただ》し、それにしたがふべきいはれなし。善を[#行右小書き]一一〇[#行右小書き終わり]撫で悪を罪《つみ》するは、天なり、神なり、仏なり。[#行右小書き]一一一[#行右小書き終わり]三ツのものは道なり。我がともがらのおよぶべきにあらず。只[#行右小書き]一一二[#行右小書き終わり]かれらが[#行右小書き]一一三[#行右小書き終わり]つかへ傅《かしづ》く事のうやうやしきにあつまるとしるべし。これ金《かね》に霊あれども人とこころの異なる所なり。また富みて[#行右小書き]一一四[#行右小書き終わり]善根を種《う》うるにも[#行右小書き]一一五[#行右小書き終わり]ゆゑなきに恵みほどこし、その人の不義をも察《あきら》めず[#行右小書き]一一六[#行右小書き終わり]借《か》しあたへたらん人は、善根なりとも財《たから》はつひに散ずべし。これらは金の用を知りて、金の徳をしらず、かろくあつかふが故なり。又身のおこなひもよろしく、人にも志誠《まごころ》ありながら、[#行右小書き]一一七[#行右小書き終わり]世に窮《せば》められてくるしむ人は、[#行右小書き]一一八[#行右小書き終わり]天蒼氏《てんさうし》の賜《たまもの》すくなくうまれ出でたるなれば、精神を労しても、[#行右小書き]一一九[#行右小書き終わり]いのちのうちに富貴を得る事なし。さればこそいにしへの賢《かしこ》き人は、もとめて益《やう》あればもとめ、益なくばもとめず、己《おの》がこのむまにまに世を山林にのがれて、しづかに一生を終る。心のうち[#行右小書き]一二〇[#行右小書き終わり]いかばかり清《すず》しからんとはうらやみぬるぞ。かくいへど富貴のみちは術《わざ》にして、[#行右小書き]一二一[#行右小書き終わり]巧《たくみ》なるものはよく湊《あつ》め、不|肖《せう》のものは瓦の解くるより易《やす》し。且《かつ》我がともがらは、人の生産《なりはひ》につきめぐりて、[#行右小書き]一二二[#行右小書き終わり]たのみとする主《ぬし》もさだまらず。ここにあつまるかとすれば、その主《ぬし》のおこなひによりて、たちまちにかしこに走る。水のひくき方にかたぶくがごとし。[#行右小書き]一二三[#行右小書き終わり]夜に昼にゆきくと休《や》むときなし。ただ[#行右小書き]一二四[#行右小書き終わり]閑人《むだびと》の生産《なりはひ》もなくてあらば、[#行右小書き]一二五[#行右小書き終わり]泰山《たいざん》もやがて喫《く》ひつくすべし。[#行右小書き]一二六[#行右小書き終わり]江海《がうかい》もつひに飲みほすべし。いくたびもいふ、不徳の人のたからを積むは、[#行右小書き]一二七[#行右小書き終わり]これとあらそふことわり、君子は論ずる事なかれ。[#行右小書き]一二八[#行右小書き終わり]ときを得たらん人の、倹約を守りつひえを省《はぶ》きてよく務《つと》めんには、おのづから家富み人服すべし。我は仏家の前業《ぜんごふ》もしらず、儒門の天命にも拘《かかは》らず、[#行右小書き]一二九[#行右小書き終わり]異なる境《さかひ》にあそぶなりといふ。  左内いよいよ興に乗じて、霊《れい》の議論きはめて[#行右小書き]一三〇[#行右小書き終わり]妙なり。旧《ひさ》しき疑念《うたがひ》も今夜《こよひ》に消《せう》じつくしぬ。試《こころみ》にふたたび問はん。今[#行右小書き]一三一[#行右小書き終わり]豊臣の威風四海を靡《なみ》し、[#行右小書き]一三二[#行右小書き終わり]五畿七道[#行右小書き]一三三[#行右小書き終わり]漸《やや》しづかなるに似たれども、[#行右小書き]一三四[#行右小書き終わり]亡国の義士|彼此《をちこち》に潜《ひそ》み竄《かく》れ、或は大国の主《ぬし》に身を托《よ》せて世の変《へん》をうかがひ、かねて[#行右小書き]一三五[#行右小書き終わり]志《こころざし》を遂《と》げんと策《はか》る。民も又戦国の民なれば、[#行右小書き]一三六[#行右小書き終わり]耒《すき》を釈《す》てて矛《ほこ》に易《か》へ、[#行右小書き]一三七[#行右小書き終わり]農事《なりはひ》をこととせず。士たるもの枕を高くして眠《ねむ》るべからず。今の体《さま》にては長く不|朽《きう》の政《まつりごと》にもあらじ。誰か一統して民をやすきに居《を》らしめんや。又[#行右小書き]一三八[#行右小書き終わり]誰にか合《くみ》し給はんや。翁云ふ。これ又人道なれば我がしるべき所にあらず。只富貴をもて論ぜば、信玄《しんげん》がごとく智謀《はかりごと》は百《もも》が百|的《あた》らずといふ事なくて、[#行右小書き]一三九[#行右小書き終わり]一生の威を三国に震《ふる》ふのみ。しかも名将の聞えは世|挙《こぞ》りて賞《しやう》ずる所なり。その末期《まつご》の言《ことば》に、[#行右小書き]一四〇[#行右小書き終わり]当時信長は[#行右小書き]一四一[#行右小書き終わり]果報いみじき大将なり。我|平生《つね》に他《かれ》を侮《あなど》りて征伐を怠り、[#行右小書き]一四二[#行右小書き終わり]此の疾《やまひ》に係《かか》る。我が子孫も即《やが》て他《かれ》に亡《ほろぼ》されんといひしとなり。謙信《けんしん》は勇将なり。信玄死しては天《あめ》が下に[#行右小書き]一四三[#行右小書き終わり]対《つゐ》なし。不幸にして[#行右小書き]一四四[#行右小書き終わり]遽《はや》く死《みまか》りぬ。信長の器量人にすぐれたれども、信玄の智に及《し》かず、謙信の勇に劣れり。しかれども富貴を得て、天が下の事一|回《たび》は此の人に[#行右小書き]一四五[#行右小書き終わり]依《よ》ざす。[#行右小書き]一四六[#行右小書き終わり]任ずるものを辱《はづかし》めて命《いのち》を殞《おと》すにて見れば、文武を兼ねしといふにもあらず。秀吉《ひでよし》の志《こころざし》大《おほ》いなるも、[#行右小書き]一四七[#行右小書き終わり]はじめより天地《あめつち》に満つるにもあらず。[#行右小書き]一四八[#行右小書き終わり]柴田と丹羽《には》が富貴をうらやみて、羽柴と云ふ氏《うぢ》を設けしにてしるべし。今[#行右小書き]一四九[#行右小書き終わり]竜《りよう》と化《け》して太虚《みそら》に昇《のぼ》り、地中《ちちゆう》をわすれたるならずや。秀吉竜と化したれども[#行右小書き]一五〇[#行右小書き終わり]蛟蜃《かうしん》の類《たぐひ》なり。[#行右小書き]一五一[#行右小書き終わり]蛟蜃の竜と化したるは、寿《いのち》わづかに三歳《みとせ》を過ぎずと。これもはた後なからんか。それ驕《おごり》をもて治めたる世は、往古《いにしへ》より久しきを見ず。人の守るべきは倹約なれども、[#行右小書き]一五二[#行右小書き終わり]過ぐるものは卑吝《ひりん》に陥《お》つる。されば倹約と卑吝の境《さかひ》よくわきまへて務《つと》むべき物にこそ。今豊臣の政《まつりごと》久しからずとも、万民《ばんみん》[#行右小書き]一五三[#行右小書き終わり]和《にぎ》ははしく、戸々《ここ》に[#行右小書き]一五四[#行右小書き終わり]千秋楽を唱《うた》はん事ちかきにあり。君が望《のぞみ》にまかすべしとて八字の句を諷《うた》ふ。そのことばにいはく、 [#ここから3字下げ] [#行右小書き]一五五[#行右小書き終わり]堯蓂《げうめい》日杲《ひにあきらかに》   百姓《ひやくせい》|帰[#レ]家《いへによる》 [#ここで字下げ終わり]  数言《すげん》興《きよう》尽《つ》きて、遠寺《ゑんじ》の鐘《かね》[#行右小書き]一五六[#行右小書き終わり]五更を告ぐる。夜|既《すで》に曙《あ》けぬ。別《わか》れを給ふべし。こよひの長談《ながものがたり》まことに君が眠《ねむり》をさまたぐと、起《た》ちてゆくやうなりしが、かき消して見えずなりにけり。  左内つらつら[#行右小書き]一五七[#行右小書き終わり]夜もすがらの事をおもひて、かの句を案ずるに、百姓《ひやくせい》家に帰《き》すの句、[#行右小書き]一五八[#行右小書き終わり]粗《ほぼ》其の意《こころ》を得て、ふかくここに[#行右小書き]一五九[#行右小書き終わり]信《しん》を発《おこ》す。まことに[#行右小書き]一六〇[#行右小書き終わり]瑞草《ずいさう》の瑞あるかな。  雨月物語五之巻大尾 [#改ページ] [#2字下げ][#行右小書き]一六一[#行右小書き終わり]安永五歳[#1段階小さな文字]丙申[#小さな文字終わり][#行右小書き]一六二[#行右小書き終わり]孟夏吉旦 [#地から2字上げ][#1段階小さな文字]寺町通五条上ル町[#小さな文字終わり] [#地付き]京都    梅村判兵衛 [#1字下げ]書肆[#地から3字上げ] [#地から3字上げ][#1段階小さな文字]高麗橋筋壱町目[#小さな文字終わり] [#地付き]大坂    [#行右小書き]一六三[#行右小書き終わり]野村長兵衛 [#ここから2字下げ] 一 一人の武士と黄金の精の貧富に関する議論。 二 広く東北地方をさし、ここは会津地方。 三 戦国時代の武将。文禄四年(一五九五)没、四〇歳。会津四二万石に封ぜられ、のち九二万石に加増された。 四 実在の人物。岡野左内。諸家高名記、常山紀談、翁草等に詳しい。 五 高禄で。左内は氏郷に仕えて八千石であった。 六 武士としての勇名。 七 東国(関東・東北)。 八 人と違って偏った性質。 九 世間一般の武家。 一〇 家内を取締ったので。 一一 軍兵を訓練するひま。 一二 茶の湯や聞香などの趣味。 一三 一室に。 一四 ここは、卑しい根性の人。 一五 家に長く使っている下男。 一六 ここは、大判。 一七 天下の名宝崑山の璧も乱世ではその価値は瓦や小石に等しい。中国の伝説神話に出る崑崙山は名玉の産地。 一八 ともに中国の名剣の産地。 一九 その上更にほしいものは。 二〇 軽々しく。粗末に。 二一 殊勝なこと。 二二 帯刀をもゆるして。士分にとりたてて。 二三 長喙(チョウカイ)が正しい。長いくちばし。貪婪。 二四 ほめそやした。 二五 ここは、行灯。 二六 食糧がほしいのなら。 二七 腕っぷしの強い男。 二八 おいぼれた様子。 二九 何か習い覚えた術でもあるだろう。 三〇 ちょっと。 三一 様子。そぶり。 三二 山林の異気より生じて人に害を与える怪物。 三三 大切に取扱って下さる。 三四 心持。 三五 大鏡「思しき事いはぬはげにぞ腹ふくるる心地しける」。徒然草に同様な文がある。 三六 五雑組巻五「富者多慳、非[#レ]怪不[#レ]能[#レ]富也、富者多愚、非[#レ]愚不[#レ]能[#レ]富也」。 三七 晋の富豪で、豪奢な生活をして殺された。五雑組巻五「如[#二]石崇王元宝之流[#一]、迺豺狼蛇蝎」。 三八 唐の富豪で、金銀を積んで屋壁とした。 三九 やまいぬ・狼・蛇・さそり。猛悪、残忍、貪欲な輩。「だかつ」が正しい。 四〇 五雑組巻五「但古之致[#レ]富者、皆観[#二]天時[#一]、逐[#二]地利[#一]」。 四一 周代の太公望呂尚。ここは史記貨殖列伝の文章に拠る。 四二 斉の国にやってきた。 四三 斉の宰相。 四四 貨殖列伝「九[#二]合諸侯[#一]」。九合は糾合で、連合の意。秋成は九度あわせと誤読した。 四五 陪臣。諸侯の臣。 四六 越王勾践をたすけて呉を討ち、のち斉に入って鴟夷子皮と変名、巨万の富豪となり、さらに陶に入って陶朱公となり大富豪となる。 四七 衛の人。孔子の門人で貨殖に長じていた。 四八 周の人。商機の才あって、蓄財術の祖と称された。 四九 産物を売買して。 五〇 漢の太史司馬遷著「史記」の巻一二九が「貨殖列伝」。 五一 一定の生業財産のないものは定まった善心がない。孟子、梁恵王上「若[#レ]民則無[#二]恒産[#一]因無[#二]恒心[#一]」。 五二 貨殖列伝「故待[#レ]農而食[#レ]之、虞而出[#レ]之、工而成[#レ]之、商而通[#レ]之」。 五三 生業をはげみ。 五四 富豪の子弟は刑死して市中にさらされることはない。貨殖列伝「諺曰、千金之子不[#レ]死[#二]於市[#一]」。 五五 貨殖列伝「巨万者、乃与[#二]王者[#一]同[#レ]楽」。 五六 貨殖列伝「淵深而魚生[#レ]之、山深而獣往[#レ]之」。 五七 天然自然の道理。 五八 論語、学而篇「未[#レ]若[#二]貧而楽、富而好[#レ]礼者[#一]也」。 五九 学者や文人たちのまどいをひきおこすいとぐち。 六〇 つまらぬ軍略ばかり。 六一 学問・知識にとらわれて。 六二 俗世間を棄てて田畑に鋤をふるう人。 六三 七宝の筆頭。 六四 正しくは「どんこく」。欲深く残忍無慈悲なこと。 六五 ことの道理をはっきりさせてはなされたことは。 六六 書籍・衣類等を食う虫。ここは学者を罵った。 六七 先代よりながく家に仕えている者。 六八 零落した者。 六九 無理やりに。強引に。 七〇 下僕。 七一 孝行清廉との評判。 七二 冬期の三か月間。 七三 一枚のかわごろも。剪灯新話、富貴発跡司志「寒一裘暑一葛、朝晡粥飯一盂」。 七四 夏の土用。極暑の間。 七五 一枚の帷子を洗濯するひまもなく。着たきりで。 七六 朝夕一杯の粥で。 七七 出入りをさしとめられ。 七八 あくせくと働いて。 七九 不熱心。怠惰。 八〇 精神精力を集中し。 八一 従来は蹺蹺・蹺蹬とよむ。ここは蹺蹊とよんで、むずかしそうな有様に解しておく。 八二 的中することはまれで、大ていはずれる。 八三 孔子の高弟顔子が一つの瓢をいだいて清貧を楽しんだ心境もしらない。論語、雍也篇「賢哉回也、一箪食一瓢飲、在[#二]陋巷[#一]、人不[#レ]堪[#二]其憂[#一]、回也不[#レ]改[#二]其楽[#一]、賢哉回也」。 八四 仏教では前世の因縁をもって説明し。 八五 儒教では天の定めた運命であると教える。 八六 かくれた徳とよいおこない。 八七 来世でむくいられるであろうとそれを頼みに。 八八 腹立ちを我慢する。 八九 右側によみ、左側に意訳を示す白話小説注解書の用いた表現法。とりとめのないでたらめ。 九〇 黄金の精霊をさす。 九一 依る。信奉する。 九二 もしそうでないと否定されるならば。 九三 昔からいろいろ論じられて、しかもまだ結論の出ていない道理。 九四 五雑組、巻一五「使[#三]今世之富貴貧賤皆由[#二]前生之脩否[#一]乎」。 九五 おおざっぱでいいかげんな教え。 九六 他人にたいして権勢をふるい。 九七 道理にはずれた妄言をいいつのり。 九八 粗暴で情理にくらい野蛮な心。 九九 名誉とかわが身の利欲とかを。 一〇〇 関係する。とらわれる。こだわる。 一〇一 無知愚昧な女どもをたぶらかす。 一〇二 いいかげんな。未熟な。 一〇三 中庸、一七「宗廟饗[#レ]之、子孫保[#レ]之」。祖先の霊もこの徳をうけて天子の礼をもって祀られ、子孫もこの徳をうけて名と位、禄と寿を保った。 一〇四 私なりの異った意見。 一〇五 感情のないもの。 一〇六 産業をいとなんで。 一〇七 品性卑しくけちんぼ。 一〇八 「着るべきをも」の意。 一〇九 眼前に見るようなわかりきった道理。 一一〇 いつくしんでほめ。 一一一 天・神・仏は、人間の道をただし、教えるもの。 一一二 金銀を大切にする人々をさす。 一一三 黄金の霊に仕え奉仕する。 一一四 善果となるべき善行をしても。 一一五 恵む理由もないのに。 一一六 「貸」に同じ。 一一七 苦境においやられて。 一一八 造化の神のお恵み。 一一九 一生のうちに。 一二〇 どれほどすがすがしいことだろう。公任卿集「ささなみや滋賀の浦波いかばかり心のうちのすずしかりけむ」。 一二一 術に巧みなものはよく富をあつめ。貨殖列伝「能者輻湊、不肖者瓦解」。 一二二 貨殖列伝「富無[#二]軽業[#一]、則貨無[#二]常主[#一]」。 一二三 昼夜往来して。貨殖列伝「若[#二]水趨[#一レ]下、日夜無[#二]休時[#一]」。 一二四 遊んで暮すひま人が定職なく徒食すれば。 一二五 中国の名山。諺「坐してくらえば泰山も空し」。山の如く蓄積された食物。 一二六 河海の如く多量の飲料。 一二七 文意明確を欠く。かりに「不徳の人が財宝を積むのはその人の徳不徳とは無関係で、道徳とは相容れないことゆえ、君子の富貴は同日に論ずべきではない」としておく。 一二八 時運をえた人が。 一二九 別天地に生きている。 一三〇 すばらしい。 一三一 豊臣秀吉の威光が天下をあまねく靡かせ。 一三二 京都を中心とした五国、七つの行政区画。日本全国、津々浦々。 一三三 ようやく。どうやら。 一三四 国を亡ぼされた主君に忠義をつくす武士。 一三五 まえまえからの素志。 一三六 耒は鋤。矛は槍に似た兵器。 一三七 天職の農耕にいそしもうとしない。 一三八 誰に味方なさるのですか。 一三九 一生涯、その威勢を、甲斐・信濃・越後にふるったのみ。 一四〇 いまや。 一四一 非常に好運にめぐまれた。市井雑談集「とにもかくにも信長は果報いみじき者也……恐くは我子孫彼が為に滅亡せんか」。 一四二 いまこの病気にかかった。 一四三 肩をならべる好敵手。 一四四 信玄没後五年にして死去。 一四五 まかされた。天下統一の覇業をいう。 一四六 家臣。明智日向守光秀。 一四七 はじめから天下を征服してその志が天下に満ちるようなものではなかった。秋成は胆大小心録一二に「豊臣公の大器も、始より志の大なるにはあらざりし也、云云」という。 一四八 柴田勝家と丹羽長秀。 一四九 あたかも竜と化して大空に昇ったように位は人臣を極めているが、昔の境遇身分を忘れているのではなかろうか。 一五〇 蛟はみずちで、蛇に似た竜の一種。蜃は蛟の属。まだ竜になっていないもの。 一五一 五雑組、巻九「竜由[#二]蛟蜃[#一]化者寿不[#レ]過[#二]三歳[#一]」。 一五二 倹約が行きすぎると。 一五三 富み栄え豊かで。 一五四 雅楽の曲名。ここは御代泰平と家運繁栄をことほぐこと。 一五五 堯は中国古代の天子。蓂は聖代に生えた蓂莢という瑞草。杲はすでに日が高く。百姓は万民。帰家は、「帰[#二]家康[#一]」を暗示する。 一五六 午前四―六時。 一五七 この一夜中のこと。 一五八 どうやら精霊の言の真意が会得されて。 一五九 信ずるにいたった。 一六〇 瑞草の生ずるような聖代にめぐりあうべきめでたいしるしであり、めでたいはなしである。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから2字下げ] 一六一 一七七六年。後桃園天皇の代。将軍一〇代家治。秋成四三歳、大坂にて医を業としていた。 一六二 四月。 一六三 天明三年ごろから天明七年に、大坂心斎橋筋博労町の書肆名倉又兵衛と合板の形で、「雨月」を再版している。 [#ここで字下げ終わり] [#改丁] [#1字下げ][#大見出し]解説[#大見出し終わり] 「雨月物語《うげつものがたり》」は、安永五年(一七七六)に出版された、五巻五冊、全九話を収めた、いわば短篇小説集で、著者は上田秋成《うえだあきなり》であり、これを近世小説のジャンルでいえば読本《よみほん》とよばれるものであるが、その文学的性格にそくしていえば、伝奇小説、時代小説、怪異小説、翻案小説などとよんでいいものである。――このアウトラインにしたがって、簡単な解説をこころみておくことにしたい。 「雨月物語」が最初に出版されたのは安永五年四月、半紙本五巻五冊のかたちであった。奥付に「安永五歳[#1段階小さな文字]丙申[#小さな文字終わり]孟夏吉旦、書肆、[#1段階小さな文字]京都、寺町通五条上ル町[#小さな文字終わり]、梅村判兵衛、[#1段階小さな文字]大坂、高麗橋筋壱町目[#小さな文字終わり]、野村長兵衛」とあるように、これは野村・梅村両|書肆《しょし》の合刻本で、ふつう野梅堂《やばいどう》版とよばれている。その後、おなじ板木をもちいて、野村と名倉の合刻による再版本、名倉と藤沢の合刻による三版本等が出版されたが、これらはいずれも半紙本五巻五冊であった。  その後さらに大阪の河内屋源七郎を版元とした美濃版三冊の本が出版され、文栄堂《ぶんえいどう》版とよばれたが、このほかにもまだ奥付に数軒の書肆をならべた本などがあり、これら美濃版三冊本はだいたい天保以後の出版と推定されている。  すなわち、「雨月物語」は初版以後、幕末ちかくまでに数版を重ねたのであり、そのかたちこそ半紙本五冊から美濃版本三冊にかわったが、すべて一つの板木を用いたものであった。 「雨月物語」の序文をみると、「明和戊子晩春。雨霽月朦朧之夜。窓下編成。以畀梓氏。」とあって、この作品がいかにも明和五年(一七六八)三月に成立したように書かれている。明和五年というと作者秋成は数え年で三十五歳であり、明和五年から安永五年までには八年の歳月がある。従来の研究家は、この八年間を、推敲《すいこう》の時期――やや具体的にいうと、明和五年に雨月の草稿が書かれ、その後八年間、折をみて推敲に推敲をかさね、完成したのが安永五年であり、その完成したものがいま私たちのみる「雨月」である――と考えているが、明和五年に成立したということについては多分に疑問があり、その点に関して、私は「秋成文学の展開」[#1段階小さな文字](「国文学」第四巻第七号所収)[#小さな文字終わり]のなかに所見を述べておいたから参照されたい。ここで結論だけをいえば、秋成が「雨月物語」を書いたのは、明和八年に火災で家をうしなってから以後のことと推測される。 「雨月物語」という書名が、どうしてつけられたか、またそれがなにを意味しているか、ということについては、いくつかの説がある。たとえば、作者みずから序文に「雨[#「雨」に傍点]霽月[#「月」に傍点]朦朧之夜。窓下編成。以畀梓氏。題曰雨月物語。云。」とあるのがその由来であるという説、また、西行をワキとする謡曲「雨月」にちなんで、冒頭に西行法師と崇徳院の亡霊の問答を構想した「白峯《しらみね》」をおいたことが、その題名のもとづくところであるという説、また中国の怪異談「剪灯新話《せんとうしんわ》」の「牡丹灯記《ぼたんとうき》」に、妖怪出現の時刻を「天陰雨[#「雨」に傍点]湿之夜、月[#「月」に傍点]落参横之晨」としているところから、「雨」と「月」で怪異をあらわしたのだとする説などがそれである。にわかにはどれとさだめがたいが、おおよその見当はつくであろう。 「雨月物語」の著者は、序文に「剪枝畸人《せんしきじん》」と署名しているだけであるが、これが上田秋成の戯号であることにまちがいはない。文栄堂版の見返しには「上田秋成大人編輯」と明記している。剪枝というのは、木をきる鋏の意であるとともに、秋成は、これを剪肢(指)に通じさせて、みずからの不具の手を自嘲したのであろう。秋成は、五歳の折、重い痘瘡《とうそう》をわずらって、その痘毒のために、右の中指と左の人さし指がひどく短くなり、用にたたなくなっていた。醜《みにく》い両手をながめながら、そこから一時の戯号をおもいつくなどというのも、いかにも秋成らしい。 「雨月物語」の九つの短篇は、いずれも和漢の古典を典拠として開花結実した、いわば翻案小説であった。その内容と典拠を簡単にしるしておくと――  白峯――讃岐《さぬき》の国白峯にある崇徳院の陵に詣でた西行法師が、ありし日のすがたをあらわした院の亡霊と、初冬の一夜、その生き方について論争し、その怨恨を慰めようとしたはなし。謡曲「松山天狗」、西行関係の「撰集抄《せんじゅうしょう》」「山家集《さんかしゅう》」、白峯寺関係の「白峯寺縁起《はくほうじえんぎ》」、戦記文学の「保元物語」「国府台戦記《こうのだいせんき》」「太平記」、先縦《せんしょう》の読本「英草紙《はなぶさぞうし》」、中国白話小説「古今《ここん》小説」「警世通言《けいせいつうげん》」等の影響のもとに書かれた思想的な歴史小説。  菊花の約――旅先で重病にかかった赤穴《あかな》宗右衛門という武士は、丈部《はせべ》左門という学者から手厚い看護をうけ、やがて二人は義兄弟のちぎりをむすぶ。別れにのぞんで、赤穴は、重陽の佳節に再会することを約束する。しかし、郷里に幽閉されてしまった赤穴は、再会の日を迎えて自害し、魂魄《こんぱく》となってその約をはたす。亡魂と対面した丈部は、赤穴の郷里におもむいて赤穴の無念をはらす。全体の構想においても、部分的な叙述においても、中国白話小説「古今小説」に収められた「范巨卿鶏黍死生交《はんきょけいけいしょしせいのまじわり》」をかなり忠実に翻案した、文字通りの翻案小説である。ときに「陰徳太平記《いんとくたいへいき》」や「英草紙」が参酌され、「万葉集」の歌にたいする秋成の見解などが挿入されている。  浅茅が宿――下総真間の里にすむ勝四郎は、家運挽回のために上京したが、不慮の災難と戦乱勃発のために、妻の宮木と約束した時期に帰宅できず、おもわずも七年の歳月をすごしてしまう。そしてやっと帰国してみると、妻はひとりで夫のかえりを待ちうけ、さめざめと泣いて夫を迎えたが、一夜あけてみると、それは妻の亡霊であった。そこで勝四郎は妻の菩提《ぼだい》をとむらう。中国明代の「剪灯新話」中の「愛卿伝」に想をえた一篇である。この「愛卿伝」はすでに浅井了意によって「御伽婢子《おとぎぼうこ》」に「藤井清六遊女|宮城野《みやぎの》を娶《めと》る事」と題して翻案されており、「浅茅が宿」は「御伽婢子」をも参照している。また「今昔物語集」の「人妻死後会旧夫語」や、「万葉集」巻九にある高橋連虫麻呂の真間の手児奈の歌も、モティーフのひとつとなっている。このほか「徒然草」百三十七段、「源氏物語」蓬生の巻などの投影も指摘できる。  夢応の鯉魚――絵の名手、三井寺の僧興義は病で息絶え、三日にして蘇生したが、その間、鯉となって琵琶湖を泳ぎまわり、魚としての体験をするというはなし。中国宋代の説話集「太平広記《たいへいこうき》」中の薛偉《せつい》のはなし、明代説話集「古今説海《ここんせっかい》」にある「魚服記」、それらをもととした白話小説集「醒世恒言《せいせいこうげん》」中の「薛録事魚服証仙」等を典拠として構想した一篇で、「古今著聞集」や「宇治拾遺物語」等も参照されている。  仏法僧――夢然という男が、高野山で、関白秀次とその家臣たちの亡霊にあって、歌や句のはなしを聞く。出典は、「怪談とのゐ袋」巻四の「伏見桃山亡霊行列の事」をはじめとして、「剪灯新話」の「竜堂霊会録」、「剪灯余話」の「武平霊怪録」、およびその影響をうけた「御伽婢子」の「幽霊評[#二]諸将[#一]」のほか、「本朝神社考」「太平記」等があげられる。  吉備津の釜――道楽者の夫正太郎に裏切られた貞淑な妻の磯良が、怨霊《おんりょう》となって、夫の情婦を殺し、さらに夫までもとり殺すという凄惨な怪異小説。「剪灯新話」の「牡丹灯記」「翠々《すいすい》伝」、「御伽婢子」の「牡丹灯籠」、「奇異雑談集《きいぞうだんしゅう》」の「女人死後男を棺の内へ引込ころす事」、「日本霊異記」の「女人悪鬼見[#レ]点被[#二]食噉[#一]縁」等を典拠とし、さらに中国から舶載《はくさい》された「五雑組《ござっそ》」、わが国近世の「本朝神社考」にみえる吉備津神社の御釜祓いの神事、「新御伽婢子」等が参照引用されている。  蛇性の婬――豊雄という美青年が、美人に化けた蛇にみこまれ、つきまとわれて、すでに一命のあやうくなったのを、法力によって退治するという、妖しくも艶なるはなしで、紀州・吉野の美しい自然を舞台として長篇小説的構想をとっている。中国明末の白話小説集「警世通言」中の「白娘子永鎮雷峯塔」、それとほとんど同文の「西湖佳話」中の「雷峯怪蹟」等を典拠として、それに道成寺説話をからませ、「五雑組」をはじめとして、「伊勢物語」「源氏物語」等の古典を随所にかりている。  青頭巾――下野国|大中寺《だいちゅうじ》にいた人肉を食う僧を、快庵禅師が教誡をもって白骨と化すという、大中寺縁起、高僧説話のかたちをとった妖怪味あふるる一篇。「大中寺縁起」、「怪談とのゐ袋」の「禅坐を以て怪を伏す奥州の禅僧」「魔仏を以て一如とす悟道の聖人、附、すたれし寺を取たてし僧の事」、浮世草子「都鳥妻恋笛《みやこどりつまこいぶえ》」のはなしなどが典拠となっているが、部分的には「五雑組」、「今昔物語集」および「日本霊異記」中の「憶[#二]持法花経[#一]者舌著[#二]曝髑髏中[#一]不[#レ]朽縁」、「宇治拾遺物語」中の「三河入道遁世の事」、「世尊寺に死人を掘出す事」、「新著聞集《しんちょもんしゅう》」中の「僧屍肉を噉ふ」、「水滸伝《すいこでん》」、「剪灯新話」中の「天台訪陰録《てんだいほういんろく》」、その他の投影をみることができる。  貧福論――蒲生家の臣、岡左内と、左内が平生尊んでいる黄金の精との一問一答を構想して、貧福の論を展開したもの。「常山記談」にみえる岡野左内の逸話、「史記」の「貨殖列伝」、魯褒の「銭神論《せんしんろん》」、「御伽婢子」の「長柄僧都が銭の精霊に逢事」、「五雑組」等に典拠をもとめている。  こうして各短篇が、多かれすくなかれ、ある種の典拠の上に構想された翻案小説であったということは「雨月物語」のおもしろみのひとつが翻案の妙にあったということである。秋成が「雨月物語」を書くにさいしていだいた対読者意識は、すくなくとも自分と同程度の教養ある読者、同等ぐらいの具眼の士を想定していた。だから、賢明でものわかりのいい、そして文学鑑賞力のゆたかな読者は、それぞれの作品についても、それが何を典拠とし、その典拠がどのように翻案されているかということを読みとるとともに、その典拠をのりこえて、どのような独自の世界が創造され、構想されたかという点にまで鑑賞眼をひからし、翻案文学の妙味というものを十分味読してくれるであろうというのが、秋成の計算であり、「雨月物語」のひとつのねらいであった。その意味からいえば、「雨月物語」はインテリの文学であり、主知主義の文学であった。 「雨月物語」は、題材からみれば時代小説であった。作品でとりあげた「時代」は、おおむね「中世」であった。なかに近世の出来事とおもわれるものも一二ないではないが、それとても本質的にはけっして近世的現実や近世的性格をもつ題材ではなかった。  秋成がことさら中世的題材をえらんだ意図は、徳川封建社会の支配をうけない時代を設定することによって、儒教的封建道徳や官制の思想と真正面から対立することを極力回避しようとしたからにほかならない。ようやく国学的な世界観や人間観を身につけた秋成にとって、近世という歴史的現実からは、純粋も美も理想も、これをもとめることは不可能であった。ゆがめられた現実、おしつぶされた人間性、ワクにはめこまれた生活……そうしたものから眼をそむけて、はるかな時間的かなたをながめたときに、はじめて自己に忠実な世界、自己の抱懐するファンタジーの次元が構想されたのである。時代小説のひとつの重要な意義がここにあるとともに、それは「雨月物語」を怪異小説に仕立てた意図と軌を一にするものでもあった。  怪異小説としての「雨月物語」は、日本文学史上、もっともすぐれた怪異美と芸術性をうちたてた文学であった。  わが国における怪異文学や怪異談の歴史は、ふるくさかのぼれば、古代の「日本霊異記」や「今昔物語集」のなかにも、それをもとめることができる。さらに中世の説話文学群もいくつかの怪異談をおさめている。そして近世初期に書かれた「奇異雑談集」[#1段階小さな文字](刊行されたのは貞享四年)[#小さな文字終わり]は、「今昔物語集」や「宇治拾遺物語」を吸収しながら、あらたに中国から舶載された怪奇白話小説「剪灯新話」の中に収められた三つのはなしを訳出した。  それに続いて、浅井了意によって、「剪灯新話」その他を翻案した「御伽婢子」「剪灯余話」その他を翻案した「狗張子《いぬはりこ》」等が発表され、さらに「百物語」「怪談全書」等の怪談文学が公にされて、ここに怪異小説の系譜とよんでいいような流れが形成されたのである。  くわえるに、八代将軍吉宗の享保の改革政治がひとつのきっかけとなって、それまで漢学といえばむずかしい四書五経の経義がもっぱらであったのが、文学的色彩をおびた詩文・小説が流行し、しきりに中国小説が輸入され翻訳されはじめたのである。たとえば、前にあげた「剪灯新話」にしても、それがわが国に輸入されたのは中世も末期、十六世紀の中ごろであったらしいが、それがわが国で翻刻されたのは近世初期の慶安元年(一六四八)であり、それがひろく学者のあいだにもてはやされたのは、近世も中ごろ、十八世紀の初頭、宝永ごろからであった。  十八世紀も中ごろになると、ようやく中国小説の翻刻がさかんにおこなわれるようになった。長崎の通辞|岡島冠山《おかじまかんざん》は「忠義水滸伝」を訳した。播州の儒者|岡白駒《おかはっく》は明代の短編小説集「警世通言」「醒世恒言」「拍案驚奇《はくあんきょうき》」等から数編をえらんで注解をくわえ、「小説精言」[#1段階小さな文字](寛保三年刊)[#小さな文字終わり]「小説奇言」[#1段階小さな文字](宝暦三年刊)[#小さな文字終わり]の題名のもとに出版した。白駒の弟子沢田重淵はおなじ方法で「小説|粋言《すいげん》」[#1段階小さな文字](宝暦八年刊)[#小さな文字終わり]をあらわした。倚水楼《いすいろう》主人や柳里恭《りゅうりきょう》も清代小説の訳読をこころみ、西田維則も三言二拍[#1段階小さな文字](喩世明言・警世通言・醒世恒言と拍案驚奇初続編をいう)[#小さな文字終わり]を抄訳して「赤縄奇縁《せきじょうきえん》」[#1段階小さな文字](宝暦十一年刊)[#小さな文字終わり]をあらわした。  こうした中国白話小説の流行は、ようやくたかまってきた文人主義的傾向と中国趣味の波にのって、いっそう助長され、大阪の儒医であった都賀庭鐘《つがていしょう》[#1段階小さな文字](近路行者)[#小さな文字終わり]が、中国明末の「古今奇観」その他の中国短篇小説に題材をもとめて、それを和漢混淆文の文語体でわが国の出来事に翻案した「英草紙」[#1段階小さな文字](寛延二年刊)[#小さな文字終わり]を発表するにおよんで、一つの明確なかたちと方向を示したのである。しかも「英草紙」の好評は、その続編「繁野話《しげしげやわ》」[#1段階小さな文字](明和三年刊)[#小さな文字終わり]を後続させ、さらに「垣根草《かきねぐさ》」[#1段階小さな文字](明和七年刊)[#小さな文字終わり]「莠句冊《ひつじぐさ》」[#1段階小さな文字](天明六年刊)[#小さな文字終わり]を世におくり出した。怪異小説の流行期がおとずれたのである。  明和三年(一七六六)三十三歳の正月に、処女作「諸道聴耳世間狙《しょどうききみみせけんざる》」を発表し、ついで翌四年正月に、第二作「世間妾形気《せけんてかけかたぎ》」を刊行して、浮世草子界にはなばなしくデビューしながら、浮世草子界の元締《もとじめ》ともいうべき八文字屋の崩壊に遭遇して、はげしい自己反省と自己嫌悪のすえ、方向転換を考えなければならなくなった秋成に、怪異小説・翻案小説の流行は、ある種のつよい示唆《しさ》と指標を与えた。ようやく学問的にも文学的にも開眼しようとしていた秋成は、漢文の師ともいうべき都賀庭鐘の示した業績にたいして深く傾倒し、それに範を仰ごうとした。  折も折、秋成を加藤|宇万伎《うまき》に紹介した建部綾足《たけべあやたり》が、「西山物語」と題する和文調の主知的伝奇小説を発表した。明和五年二月である。秋成はこれにもつよい刺戟をうけた。綾足は、その後、安永二年(一七七三)には、中国の大伝奇小説「水滸伝」を翻案した「本朝水滸伝」をあらわして、ふたたび文壇に怪気焔をはいた。――「雨月物語」は、そうした直接間接の刺戟と示唆をうけて書かれたのである。  だから怪異小説とはいっても、たんに怪奇をえがき、怪異美を追求するというだけのものではなく、そこには秋成の旺盛な意欲と、なみなみならぬ意図がふかく秘められていたのである。  たとえば「吉備津の釜」の女主人公磯良は、道楽者の夫に裏切られたすえ、ついに嫉妬にくるって死に、怨霊となって憎い情婦を殺し、ついで夫をとりころすのであるが、生きているときにはまさに典型的な貞婦であり、封建婦道の権化ともいうべき模範的女性であった。いいかえれば、人間性とか自我とかいうものを徹底的に完封して、ひたすら忍従と貞淑と自己犠牲のモラルを遵奉して生きていた磯良は、死によって現世のあらゆる抑圧と制約から解放されたとたんに、生来のナイーブな人間性情をとりもどし、本来の純粋なすがたにたちもどったのである。このことはとりもなおさず、人間性そのものを強圧的なモラルや掟で縛りつけてゆがめてしまった儒教的封建性にたいする反撥であった。  つねにみずから潔癖であるとともに、純粋をもとめてやまなかった秋成は、加藤宇万伎との交渉によって、国学への造詣《ぞうけい》をふかめるとともに、国学的な世界観や人間観を身につけ、反封建的超俗的な思想を抱懐するようになった。秋成は、儒者の現実的合理主義を排撃し、封建思想の人間性抹殺をにくんだ。すくなくとも現実の封建社会は、儒教思想によって身うごきできないまでに膠着《こうちゃく》化し形式化してしまっている。そこには磯良の遭遇したような不幸や悲劇を救うみちは、完全にとざされていた。もし人間性を尊重し、いいかげんなゴマカシや妥協を排して、ひたすらに純粋であり、自己に忠実であろうとすれば、死によって封建支配をのがれる以外にみちはない。秋成が磯良を死においやったのはそのためであった。磯良は現実から解放されることによって、うまれてはじめて本来の純粋な人間性をとりもどしたのである。 「夢応の鯉魚」の興義が仮死状態のうちに、鯉となって琵琶湖を自由に游ぎまわるというはなしのなかには、自由へのつよいあこがれと解放された人間のよろこびをみることができる。「蛇性の婬」の真女児は蛇の化身なればこそ、この世の掟やモラルをのりこえて、ただひたむきに男を愛し、男を独占しようとする執念と愛情をつらぬきとおせたのである。 「雨月物語」に出現する化身や怨霊や亡魂や幽鬼は、いってみれば、素朴と純粋をひたむきに愛する秋成が、あくまで自己に忠実であろうとする精神を具象化したものであり、反封建的・反儒教的な思想を形象化したひとつのすがたであった。その意味では、「雨月物語」は意欲的な文学であり、夢と純粋にみちみちた浪漫主義的文学であった。そして秋成のめぐまれた詩人的資質と文学的才能が、それを安全に美的燃焼しつくしたところに、「雨月」の卓越した芸術性がうちたてられたのである。  文学史上|稀有《けう》な存在意義をもち、古典文学中比肩するもののないようなユニークな芸術性をうちたてながら、しかもなお「雨月物語」は孤高な文学であった。後世にいたって多くの愛読者と熱心な礼讃者をかちえたとはいうものの、当時においては、正統な後継者も追随者ももたず、ちょうど作者秋成のすがたがそうであったように、ひとりさびしくかがやきつづけた文学であった。それはひっきょうするに、「雨月物語」があくまで秋成個人の自我にねざしたきびしい文学だったからである。 「雨月物語」の文章は、和漢・雅俗を混淆融和させた、流麗優雅な説話体であり、吟誦にたえるものである。秋成の古典的教養が、わが国の古典をふまえ、漢籍をふまえて、故事・古語・漢語を縦横に駆使したからである。描写は幻想にとみ、つよい迫真力をもち、とくにその怪異描写は凄絶をきわめ、生彩をはなって、読者をして戦慄と恍惚をふたつながらおぼえさせるものがある。語感を複雑にするために、漢語に和訓をほどこしているのは、のちの読本の先蹤をなす表現方法であった。  また秋成独得の語法である係り結びの軽視、口語的発想、仮名づかいの表音化、独自の振り仮名、ユニークな接続法等も、みのがしえない特徴である。  本文に挿入された挿絵は、桂眉仙の筆と推定されている。眉仙、名は常政、字は雪典、大阪の画家で、秋成と交友関係があった。 [#地から2字上げ]鵜月 洋 底本:「改訂 雨月物語 現代語訳付き」角川文庫、KADOKAWA    2006(平成18)年7月25日初版発行    2020(令和2)年5月15日26版発行 底本の親本:「雨月物語」野梅堂    1776(安永5)年4月 初出:「雨月物語」角川文庫、角川書店    1959(昭和34)年11月30日初版発行 ※「手児女」と「手児奈」と「てごな」、「大倭神社」と「大和神社」の混在は、底本通りです。 ※各編現代語訳の冒頭の井上泰至による「あらすじ」は省略しました。 ※底本は校注が脚注の形で配置されています。このファイルでは小見出しごとに、本文、校注の順序で編成しました。その際、校注は二字下げとしました。 ※底本では脚注番号を見開きページごとにつけていますが、小見出しごとの連番としました。 ※本文の旧仮名は、底本通りです。 ※()内のルビは井上泰至氏によります。 ※底本では、校注の挿絵は現代語訳のページを参照とありますが、参照先の挿絵を掲載しました。 ※底本巻末の井上泰至氏による補注・上田秋成年表・改訂は省略しました。 入力:砂場清隆 校正:みきた 2023年10月9日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。