屋根の上 原民喜 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)羽子板《はごいた》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)Ⅱ -------------------------------------------------------  かちんと、羽子板《はごいた》にはねられると、羽子《はご》は、うんと高く飛び上《あが》ってみました。それから、また板に戻ってくると、こんどはもっと思いきって高く飛び上りました。何度も何度も飛び上っているうちに、ふと羽子は屋根の樋《とい》のところにひっかかってしまいました。はじめ羽子はくるっと廻《まわ》って、わけなく下に飛び降りようとしました。しかし、そう思うばかりで、身体《からだ》がちょっとも動きません。  しばらくすると、下の方では、また賑《にぎ》[#ルビの「にぎ」は底本では「にぎや」]やかに、羽子《はご》つきの響《ひびき》がきこえてきました。別の新しい羽子が高く舞い上っているのです。 「モシ モシ」と、樋《とい》にひっかかっている羽子は、眼の前に別の羽子が見えてくるたびに呼びかけてみました。しかし、それはすぐ見えなくなって、下の方におりてゆきます。 「モシ モシ」「モシ モシ」何度よびかけてみても、相手にはきこえません。そのうちに下の方では羽子つきの音もやんでいました。 「もう、おうちへ帰ろうッと」という声がして、玄関の戸がガラッとあく音がしました。あたりは薄暗《うすぐら》くなり家の方では灯《あかり》がつきました。樋にひっかかっている羽子はだんだん心細くなりました。屋根の上の空には三月《みかづき》が見え、星がかがやいてきました。とうとう夜になったのです。ああどうしよう、どうしよう、どうしたらいいのかしら、と、羽子は小さなためいきをつきました。  星の光はだんだん、はっきり見えて来ます。空がこんなに深いのを羽子《はご》は今はじめて知りました。一《ひと》つ一つの星はみんな、それぞれ空の深いことを考えつづけているのでしょう。一つ二つ三つ四つ五つ……と、羽子は数を数えてゆきました。百、二千、三千、いくつ数えて行っても、まだ夜は明けませんでした。夜がこんなに長いということを羽子は今しみじみと知りました。  今あの羽子板《はごいた》の少女はどうしているかしら、と羽子は考へました。眼のくりくりっとした、羽子板の少女の顔がはっきりと思い出せるのでした。羽子板は今、家のなかに静かに置かれていることでしょう。羽子は、あの羽子板の少女がとても好きなのでした。もう一度あの少女のところへ帰って行きたい。あの少女も多分、僕のことを心配しているだろう、と羽子は思いました。  一つ二つ三つ四つ五つ……羽子は何度もくりかえして数を数えてゆきました。  東の方の空が少しずつ明《あか》るんできました。やがて、雲の間から太陽が現れました。薔薇《ばら》色の雲の間から洩《も》れて来る光は、樋《とい》のところの羽子を照らしました。すると、羽子はまた急に元気が出てくるのでした。 底本:「原民喜童話集」イニュニック    2017(平成29)年11月15日第1刷発行 底本の親本:「定本原民喜全集Ⅱ」青土社    1978(昭和53)年9月20日発行    「新装版原民喜全集第三巻」芳賀書店    1969(昭和44)年10月5日発行 ※底本では「羽子は小さなためいきをつきました。」の後に空行が一行はいりますが、誤植を疑い、いれておりません。 ※誤植を疑った箇所を、親本の表記にそって、あらためました。 入力:竹井真 校正:砂場清隆 2023年10月9日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。