国民性の問題 永井荷風 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)検閲《けんえつ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)場合《ばめん》[#ルビの「ばめん」はママ] -------------------------------------------------------  現代における芸術の問題は要するに日本の国民性全体についての問題である。芸術をお上の役人が検閲《けんえつ》するのが好《よ》いとか悪いとかいって議論して見たところで、いまの一般社会がよくもならなければ悪くもなるまい。依然としていまの状態をつづけて行くにきまっている。しかし、社会に対する一つの刺戟《しげき》にするのなら、問題にしてもいいと思うが、一体日本の現在の社会状態は女の腐ったようなもので、絶えず愚痴《ぐち》をいってみたり、泣言《なきごと》をいってみたりするが、いざそれをはっきりと片付けようとすると、どこかが神経衰弱で何《どう》にも出来ないといったような状態である。近い例が政治問題にしてもその当事者だけはいろいろ議論をしたり何かするけれども輿論《よろん》は少しも、それによって真底から動きはしない。芝居のこと、文学のこと美術のことなどは分けてそうである。  芝居のことでいえば、どんな芝居を見せても、見物《けんぶつ》は何ともいわずに見ている。もしあったところで、その見物人にとってはどうでもいいことなのであるから、結局なんでもないことになる。近頃の新劇と昔の黙阿弥《もくあみ》の芝居と一所《いっしょ》に並べて見せられても何とも思わない見物なのである。  美術のことにしてもそうである。文部省でこしらえたり、美術院でやったりする展覧会に、特別室を設《もう》ける必要があり、その特別室へも陳列《ちんれつ》を許さない作品もある。政府で選定した専門家である審査員が選定したものでも警視庁なり、内務省なりの役人が検査をしてそのために陳列を撤回《てっかい》させたり、その検査の後《のち》でないと一般にも公開を許さない世の中である。といって、審査員が、そんなに顔をつぶされても、そのために辞職もしないで、平気な顔をして審査員の職にいるし、出品者も、それに憤慨《ふんがい》して出品しなくなるわけでもない。またそのために美術学校へ入る生徒がなくなるわけでもない世の中である。  文学でもそうである。作家の書いたものを政府でいけないといって発売を禁止する。後で叱言《こごと》をいう位で事がすむ。作家の方でも、それに対して真剣になりもしない。  一たいにこんな風である。これではいけないから西洋風にせよ、ということも言えるけれども、それも私には疑問に思われる。  西洋では――といって私の知っているのは米国と仏国だけであるが、――芸術家が社会に対して自分の作品を発表することに政府は何の干渉もしない。しかし、発表したものに対して、政府は社会の批判によって禁止を命ずる事務を取扱うだけであるが、一度禁止する時はそれが裁判になって、負けた時は罰金とか体刑を受けることになるのである。負けないまでも裁判事件のために半年位の時間はそのために邪魔《じゃま》をされる。フローベルのボワリイ夫人が仏蘭西《フランス》で裁判になった時は半年位かかって解決した。この時はフローベルの方が勝ったけれども、他《た》の場合でも、控訴《こうそ》するとか、上告するとかまで行かなければ承知しないのだから時間はかかる。だから、両方が真剣になって信ずるところを主張する。このボワリイ夫人の事件での検事の論告と弁護士の意見が、この事件後出版されたのを見ると、この保守派の検事の論告は弁護士の意見より面白い。しっかりした批評であった。例えばボワリイ夫人が情夫に逢《あ》う場合《ばめん》[#ルビの「ばめん」はママ]や、裸体になるところなどの細かい描写や、助動詞、副詞に至るまで、いちいち指摘して、作者の書く心持に遊戯がある。そこまで書く必要はないといっている。こんな風な根強い信念から論じるのはこの方面ばかりではない。いまになっても王政時代そのままの習慣で生活している共和党嫌いの人もある。婦人の帽子の鍔《つば》が一時ひどく大きくなった時も、劇場などで、後《あと》の方にいる者の迷惑になるからといって文句をいう者が出た。しかし、帽子を冠《かぶ》っている者は、これは仏蘭西《フランス》の習慣で、どこにいても帽子を冠っていても差支えない。流行であるから鍔の広い帽子も好いといって争ったことがある。こんな風で一体に強情ではあるが、一度議論に負けたとなると思い切りは非常に好い、すぐ対手《あいて》のいう通りにする。  米国でサロメを始めて舞台へ出した時も、社会の民衆が二日目に興行《こうぎょう》を差止めた。その後、音楽だけやり、また後に元通り上場したこともあった。  結局西洋では民衆の輿論が本《もと》になるのである。  私は、民衆がこういうことになってしまうのも、そのために好《い》い芸術が生れるとは限っていないと思う。支那のように、文学などというものは病人の慰《なぐさ》みか、年寄の隠居仕事か乃至《ないし》道楽のように一般社会から認められ、作をする者もそれを認めているに関わらず立派な芸術品を生んだ時代がある。  だから、日本の現在の状態に倦《あ》き足らない者はあくまで反抗して戦えばいいのである。また、戦うのが嫌なら社会から引退すればいいではないかと思う。あくまで政府に反抗して戦っている者が必ず立派な芸術を生むとは思えないし、社会から引退している者でもいい芸術を生んで持っている者もある。政府のやり方に不満があれば社会から引退してしまえばいいのである。生活のために困るという者があっても喰うということぐらいはそう困難なことではないと私には思われる。  前にいったような、日本人の生温《なまぬる》い、てきぱきしない、何事もあなたまかせな性質が、西洋に比較して悪いといってみたところで、日本人の国民性を西洋人のようにすることは大問題でもあり、そうしてみたところで今の日本よりよくもなると限られはしない。社会の一般の者がいつかしら、こんな風になってきてしまったのであるから、このままどうにかなってゆくのを見ているより他に仕方がない。私には、この日本人の生温いすべてに対しての態度が、決して不真面目なのだからだとは思えない。これが日本人の特長でもあるのだと思う。  そこで問題の脚本の検閲ということにかえるが、警視庁が作家の新作を風紀紊乱《ふうきぶんらん》だといって上場を禁止するまえに、社会に対して取締るべき風紀紊乱程度のことはもっともっと重大なことがあるはずだと思う。芸術が社会や人間の真相を最も実際のように写すことがいい芸術であるとしたなら、いまの芸術は実に一少部分の社会の真相人間の真相しか写していないことだと思う。それを指摘して、それがために社会が害されるという理窟《りくつ》は考えが狭すぎる。また、そのことが劇場にとって、決して、その脚本をやれないからどうという大きな問題も起らないだろうし、少し位の金の損害で、後は何でもなくなると思う。それをもって不服をいう前に、興行師はなぜもっといい芝居をやらないのかと言わなければならない。興行師がもしそんなことをいえば、そんなことが言えた義理かといいたくなる。作家の方にも、禁止されるようなものばかりが名作とは限っていない。禁止されないものにでも立派なものはある。これは脚本の作家にばかりいうことではなく、すべての芸術家に対して言うのである。  結局、日本の国民性が生温《なまぬる》で、社会の一般民衆が、それで少しも不自由しない、いや不自由しても愚痴をいいながら生活してゆけるうちは、このままの状態が続くだろうと思う。どっちにしても好い芸術が生れるか、生れないかということには、現在の日本の社会状態のように芸術家と――これは政治、経済での問題と同じである――民衆との生活がこうかけ離れていては何の関係もない。いい芸術が生れたとしたところで社会にとっては社会がよくもなるまいし、悪くもならないであろう。(談・閲) [#地から1字上げ]〔一九二二(大正十一)年九月「新演藝」〕 底本:「21世紀の日本人へ 永井荷風」晶文社    1999(平成11)年1月30日初版 初出:「新演藝」    1922(大正11)年9月 入力:入江幹夫 校正:noriko saito 2022年4月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。