仮寐の夢 永井荷風 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)空間《あきま》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)心|窃《ひそか》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)遝 ------------------------------------------------------- ○家が焼けてから諸処方々人の家の空間《あきま》をさがして仮寐《かりね》の夢を結ぶようになって、ここに再び日本在来の家の不便を知るようになった。襖《ふすま》障子《しょうじ》を境にしている日本の家の居室には鍵のかかる処がないので、外出した後の用心をすることができない。空巣《あきす》ねらいの事はさて置き、俄雨《にわかあめ》の用心には外出のたびごとに縁側と窓の雨戸をしめて帰るとまたそれをあけなくてはならない。むかしから雨戸と女房に具合の好いものはないという諺《ことわざ》がある。日本の家に住むにはまず雨戸の繰出し方から演習して行かねばならない。雨戸も二三枚ならばよほど楽であるが、五枚六枚とつづく長い縁側の雨戸と来たら、指先を傷めぬように手袋でもしてかからねばなるまい。ピエールロチのたしか日光紀行に旅館の女中が夕まぐれに何枚と知れぬ雨戸を巧みに繰出す技芸を見て嘆賞するくだりがあった。日本人が家居の様式は江戸時代から明治を経て昭和の今日に至るも、大体において変るところがない。政治は変っても日本人の生活は一二世紀前のむかしと一向《いっこう》変っていないのだ。戦いに負けて政体を云々《うんぬん》する人の声も聞かれるようだが、それらの人の住む家と雨戸の不便とはこの後も長くむかしのままにつづくのであろう。紙がないと言いながら襖や障子の代りになるものは誰も考案しないようである。政治は口と筆とさえあればこれを論ずるに難《かた》くはないが、戸障子の如何《いかん》は実際の問題で空論ではないからであろう。 ○半紙だか美濃紙《みのがみ》だか、また西の内だか何だか知らぬが、とにかく楮《こうぞ》の樹皮から製した日本紙を張った障子の美は、もう久しい前から、田舎の旧家とか寺とかいう特別な処に行かないかぎり見られないものになっていた。しかしわたくしにはその記憶だけは今でもどうやら消えずに残されている。暗く曇った日に、茶室の障子の白さを茂った若葉の蔭に見る快感は西洋の家には求めても得られない。昼過の軟《やわらか》な日光に、冬枯れした庭木の影が婆娑《ばさ》として白い紙の上に描かれる風趣。春の夜に梅の枝の影を窓の障子に見る時の心持。それはすでに清元浄瑠璃の外題《げだい》にも取入れられている。赤く霜に染みた木の葉や木の実に対照する縁先の障子の白さの如きはとうてい油絵には現せないものであろう。戦争は日本固有のさまざまなる好《よ》き物を滅した中に、障子の事も数え入れられるであろう。 ○人の家の貸間に住んで見ると、家屋も庭園も他人のものであるから、地震にも暴風雨にも何の心配もいらない。垣が倒れようが戸が破れようが、間借りの人は主人をさし置いてとやかく言うことはできない。差出口をするのは僭越《せんえつ》であり失礼であろう。雨漏《あまもり》がしていられなくなれば引越先をさがすより仕様がない。引越す目当がなければ枕元に盥《たらい》でも持出して徐《おもむろ》に空の晴れるのを待つばかりだ。国家社会に対するわれわれ庶民の生活もまずこれに似たものらしい。治世の如何《いかん》は台閣《たいかく》の諸公の任意に依《よ》るもので、庶民の力の及ぶべきところではない。間借の人の義務は滞《とどこお》りなく間代を払い畳《たたみ》に[#「畳に」は底本では「畳にに」]焼焦《やけこが》しをしなければよいのである。間代を払っても古家の雨漏りは速急に直るものではない。家賃や間代を先取した家主が店子《たなこ》に向って濡れた着物の損害を償《つぐな》ってやった話は聞いた事がない。大岡政談などにも無かったようである。庶民の蒙《こうむ》る敗戦の被害は貸間の雨漏りに似ていると思えば間違はないであろう。 ○二十余年前震災で東京が焼原になった時、誰が言出したのか頻《しきり》に遷都《せんと》の説が伝えられた。これを聞いてわたくしは心|窃《ひそか》によろこんでいた。帝都の遷《うつ》されるべき処のいずこであるかは知るよしもなかったが、もしその事が実行せられる日には、この東京に居残るものは直接社会に関係のないものと、ことに東京の風土を愛するものとばかりになるであろう。そして東京の町々はひっそりとして江戸のむかしを追憶するに適する処になるであろうと思った故であった。東京は徳川氏の都城にした処である事は言うに及ばない。薩長の軍隊は戦勝の結果この都城を占領し、諸侯の空屋敷を兵舎と官庁に当て、ここに新しい政府を建設した。何の事はない。他人の建てた古家に住込んで手当り次第《しだい》間に合せの手入をしたようなものである。かくして半世紀あまりの月日は過ぎ、間に合せの大都会は突然地震のために焼払われ、どうやら見直せるようになったかと思ったのもしばらくのあいだで、たちまちもとの焼原に還《かえ》ったのである。兵火を免《まぬか》れた町のところどころには今だに震災当時のバラックが立っているではないか。元来安政のむかし黒船の砲火に焼き払われるべきはずの都会であったのだから、事ついにここに至ったのも避け難い宿命であったのかも知れない。東京の町々が新《あらた》に建て直されるのはいずれの時誰の力に依《よ》るのであろう。隅田川はいかなる風景を現出するのであろう。浅草観音堂は永くむかしの場所に在ることを許されるだろうか。ここにふと思出したのは米国ボストンの美術館は江戸浮世絵を多く保存しているので世界に名を知られている事である。その研究者の中《うち》最も有名であったのは、フェノロサで、それは米国人であった。もし米国人が、将来東京の建直しに助力するような事があるとしたら、それは明治のむかし薩長人が手入をしたよりも遙《はるか》に美術的ではあるまいかというような気もする。 ○戦後復興するものの中でその最も目覚《めざま》しげに見えるのは文芸書類と雑誌の刊行である。在来われわれの見聞した国情から推《お》せば文芸の如きは微々《びび》としてますます振わぬはずのものであるが、物資欠乏の世に在って雨後雑草の生える勢を示している。その原因はそもそも奈辺《なへん》に在るか。売る者があっても買うものがなければ事は休《や》むわけである。図書出版の殷盛《いんせい》は購求者の多きを證《しょう》するもの。これ今の世において見る不可思議中の不可思議ではないか。むかしの人は世が衰えると、遊び場が栄えると言ったが、これが真実ならば現在は邦家衰頽《ほうかすいたい》の極《きわみ》に至ろうとしている時である。銀行預金の封鎖から、やがて平価切下《へいかきりさげ》の噂《うわさ》が事実となるに至れば、文芸はますますさかんになるのであろう。 ○一時古書の翻刻《ほんこく》がさかんに行われたころの事であった。古書も必ず読まねばならぬものは容易に翻刻されず、然らざるものばかりが行われると、鴎外先生の言われた事をおぼえている。昨今雑誌屋の店頭に並べられるものを見れば誰しもこの感を深くするであろう。わたくしは数年前から飯を炊く時、その煮える間鍋の傍《そば》に立って平素《へいそ》読まない書物を読むことにしていた。飯は鍋の傍についていないと知らぬ間に焦げつく恐れがあるからだ。わたくしは初め四書《ししょ》の仏蘭西《フランス》訳本を原本に対照して読むことにした。米の煮え終るまでに四五章はゆっくり読むことが出来た。四書をよみ終ってからはこれも和仏の両書を対照しながら新約聖書を読んだ。江戸時代を知るにはぜひとも儒学の一般を窺《うかが》って置かねばならない。それと同じく西洋の事を知ろうとするには何がさて置き基督《キリスト》教の何たるかを知って置かねばならぬと、晩蒔《おそまき》ながら心づいた故である。罹災《りさい》の後わたくしは今だに空しくそれらの書をさがしている。それにつけても遊戯の書は、砲火の歇《や》むと共に数知れず坊間《ぼうかん》に現われたのを見てわたくしは鴎外先生の言葉を思い出さねばならなかったのだ。去年岡山の町端《まちはず》れに避難していた頃、同行のS氏は朝夕炊事の際片手に仏蘭西文典をひらき、片手の団扇《うちわ》で七輪の火をあおぎながら、時たま初学者の読むものを読むと大《おおい》に得るところがあると言っておられた。 ○今年は五月の節句に武者《むしゃ》人形を飾ってもいいかしらと心配しているものがある。どうしようと問われてもわたくしには返事ができない。五節句の祝儀《しゅうぎ》はもともと封建時代の遺習で、明治のむかしすでに廃止の布告が出ている。よすもよさぬも各人思いのままにしてよい事であるのに、満洲占領の頃から百貨店やカフェーの店頭に神功《じんぐう》皇后や楠公《なんこう》の人形が飾り出されて旧習復興の有様を呈するようになった。節句につき物の柏餅も砂糖がなくて出来なければ、世は花より団子のたとえで節句の飾物もいらない訳である。その頃祭日に国旗を出さぬと獅子《しし》ならぬ志士があばれに来ると聞いて下町の横町などでは驚いて三越へ旗を買いに行ったという話をきいた事もあった。もしも節句の武者人形や鯉幟《こいのぼり》に軍閥《ぐんばつ》の臭味があるとしたら、鳥居の立っている日本国内の神社は稲荷《いなり》と天神とを除いて大方武将を祭ったものであるから、八幡様を初めとして十中の八九は片端から取払いをしなければなるまい。町内|氏神《うじがみ》の祭礼も七五三の祝儀も、自由主義を迎える世には遠慮しなくてはならなくなる。心配は参詣《さんけい》をする氏子《うじこ》よりも御幣《ごへい》を振る神主《かんぬし》と提灯屋《ちょうちんや》のふところ都合であろう。 ○わたくしは仏寺の庭や墓地に対するほど神社の境内《けいだい》については興味を感じていない。神社は何やらわたくしには縁もゆかりもない処のような気がする。いずこの寺の門内にもよく在る地蔵尊《じぞうそん》を始め、迷信の可笑味《おかしみ》を思い出させる淫祠《いんし》も、また文人風の禅味を覚えさせる風致も、共に神社の境内には見られない故でもあろう。華表《とりい》の形や社殿《しゃでん》の様式も寺の堂宇《どうう》や鐘楼《しょうろう》を見る時のような絵画的感興を催《もよお》さない。いずこの神社を見ても鳥居を前にした社殿の階前にはきまって石の狛犬《こまいぬ》が二つ向合いに置かれている。狛犬は後脚を折曲げて行儀《ぎょうぎ》好く居ずくまり、前の片足を上げて何やら人を招くような形をしていながら、吠《ほ》えでもするように角張った口を開いて牙《きば》を現し、近寄れば飛付きそうな恐しい顔と態度とを見せている。階下の賽銭箱《さいせんばこ》を見守るつもりかも知れない。通りがかりに交番に立っている巡査を見るといわれなく狛犬の態度が思い出される。神社の広大なものには寺の三門と同じような門があって、裸体の仁王尊《におうそん》の代りに矢を背負い弓を持った人形が塵《ちり》だらけになって金網の中に胡坐《あぐら》をかいているが、いやに取りすましたその顔は、受付口の役人のように、もし何かきかれたら係りがちがうから他所《よそ》へ行ってきけと言うようにしか見えない。神社の境内に在るものでわたくしの興をひくのは絵馬堂《えまどう》と神楽堂《かぐらどう》ばかりである。絵馬堂は奉納の絵額と俳諧の献句が見られ、神楽の催しには仮面の可笑味がある故である。日本人の面貌《めんぼう》は神楽に用《もちう》る面によって代表されていると言った人がある。色白く鼻の高い尊《みこと》の面は貴族を代表し、手拭《てぬぐい》で頬冠《ほおかむり》をした、口のまがった、目っかちのひょっとこ[#「ひょっとこ」に白丸傍点]は農夫、もしくは一般の人民の顔を代表したもの。般若《はんにゃ》はヒステリーの女、おかめ[#「おかめ」に白丸傍点]は普通一般の女の顔で、日本人男女の面貌はことごとくこの四種類の中に含められて、例外のものはほとんどないと云っても差閊《さしつかえ》はないというのである。わたくしはこの説に左袒《さたん》しているのであるが、近年神楽や馬鹿囃子《ばかばやし》もすっかりすたれて、お亀やひょっとこの仮面も玩具屋《おもちゃや》の店頭には見られぬようになった。男女衆議院議員当選者の容貌はどれに属するものだろう。 ○日本の文書に羅馬字綴《ローマじつづり》を用うべきや否や。これがまた近頃問題になっているそうだ。しかしこれはもう問題にすべき事ではあるまい。生活の全体がすでに勝者の手中にあるかぎり言語文字の如きは我らの考慮すべき問題ではない。つらつら思うに日本人の多くは維新以後自国の言語文字。自国の文化については何の考《かんがえ》をも持っていなかったようである。特にこれを愛重する心は無かったようにも見られる。祖国の風土草木に対してもまた確乎《かっこ》とした考はなかったようである。明治の初年日本人は電信を布設するために風土の美を顧《かえりみ》ず東海道の松並木を伐採しかけた。それを妨げ止めたのは英国の公使パークスであった。神道の研究を称《とな》え初めたのもまた英国人チャンバレンであった。博物館の創立もまた西欧人の勧告に基《もとづ》く所だと聞いている。吾々は今日吾々の生活や風俗について言うべき何物をも何らの権能をも持っていない。現在家族と共に起臥《おきふし》している家屋すらある場合にはこれを捨てねばならないのだ。国字国語の如きは時勢の趣《おもむ》くままに任《まか》すより外《ほか》はない。 ○明治二十三年初めて議会の開かれた時分にはいずこの学校にも官省にも西洋人が教師また顧問《こもん》として招聘《しょうへい》されていた。時の人が御雇《おやとい》教師と言ったものである。わたくしの通学していた神田一ツ橋の中学校にも元英国海軍士官であったシーモル先生という人がいた。その頃から内地雑居と称して外国人も邦人と同じく市中随意の処に住むことができるようになったのであるが、やはり旧居留地であった築地明石町《つきじあかしちょう》が主なる居住地で、次は麻布と小石川辺とであった。汽車停車場の掲示は皆英語で一等客車にはほとんど西洋人ばかりしか乗っていなかった。避暑地では軽井沢日光|逗子《ずし》鎌倉あたりが西洋人向で立派な別荘は大抵西洋人の建てたものであった。その頃の西洋人の生活に関する事は当時の英国公使フレーザーの夫人が著《あらわ》した書に委《くわ》しく述べられている。麻布今井町に住んでいた英国人アーノルドも日本に関する二三の書を著している。この人は日本の文字を解し和歌をよんだらしい。|海と陸《シーエンドランド》と題した書中、今井町の家の事があったので、わたくしは読過《どっか》の際手帳にその大意を訳載《やくさい》して置いた。幸に焼けなかったからここに次の如く写し直して置こう。 [#ここから2字下げ]  東京の市中には草の青々とした空地、庭園、小高き丘阜《きゅうふ》が随処に散在している。人家の密接している街路と小道とはただ一区域においてこれを見るばかりである。余の寓居《ぐうきょ》した今井町の高台などは遠い田舎に行ったようで空気は新鮮で煤烟《ばいえん》が無いから、住宅や商店のあるは黒くあるは白く引続いているあたりを越して、向側にも此方《こちら》と同じような青々とした坂が幾筋もある辺《あたり》までずっと見渡すことができる。坂の上には余の住んでいる此方の高地と同じように、樹木と庭園とに囲《かこま》れた軽快なる住宅、心地好げな別荘らしい家屋が幾軒も見える。余は家に置いてある人力車に乗って一走り走らせると、わけなく、絵画的な群集の雑遝《ざっとう》している真直《まっすぐ》な広い街路、また狭い町の只中《ただなか》に達することができる。それ故余は都会生活の煩累《はんるい》なくしてしかも万事に便宜《べんぎ》な田舎の生活をする事ができるのだ。日が暮れるとあたりは全く田舎の村のように静になって、門外を過る按摩《あんま》の声と、夜廻《よまわり》の打つ拍子木《ひょうしぎ》の響が聞えるばかり。空気はいつも清涼で、人口の多いにも係らずどこの家でも炭火の外《ほか》に燃《もや》すものがないから従って烟突《えんとつ》というものがないため、山岳中の女王とも称すべき富士の山は六十五マイル隔っているけれど、毎日西方の空に雪を戴《いただ》いたその頂上を見せている。今日この頃の時節は日本では厳寒の最中なので花の見られる時ではなく、夜の寒さは庭のささやかな蓮池《はすいけ》にも厚い氷をはらせるのであるが、それでも薔薇《ばら》と椿《つばき》の花を絶《たや》すことはない。またさまざまなる常磐木《ときわぎ》は、日本の風土に馴《な》れた蘇鉄《そてつ》や竹などと一緒になって、四季不変なる緑色の着物を着ている。春を待って紅白の花をつけるはずの梅と桜の梢はまだ裸のままで一枚の葉さえもない。(略) [#ここで字下げ終わり] わたくしがまだ焼かれずに麻布の家にいた時であるからこの記事に少からず興を催したのである。 ○東京市内から西洋人の姿の追々《おいおい》稀《まれ》になって行ったのは、日露戦役の頃からであろう。官省会社等に顧問として雇われていた西洋人は大方《おおかた》任を解かれるようになった。西洋人の教を待たなくとも日本人だけで差閊《さしつかえ》はないというようになったのだ。日本人のこの得意と慢心とが四十年の後《のち》今日の失敗を招いたのではあるまいか。それはともかく、今日より以後近き将来において、吾々は再び内地雑居の頃に似たような時勢の光景に接するのであろう。すばらしい最新式の自動車を走らせるものはこれ洋客。国内形勝の地に宏壮《こうそう》な楼閣《ろうかく》を築いて夜宴《やえん》を張るものはまたこれ洋客といったような光景を見るのであろう。むかし市中の寄席に英人ブラックの講談が毎夜聴衆をよろこばしたことがあった。倫理学者デニング先生の講義は江戸児《えどっこ》流の巻舌《まきじた》と滞りなき日本語とによって聴客を驚かせた。これから先の世の中にもそれに似たような事が続々として現われずにはいないであろう。 [#地から1字上げ](昭和廿一年四月廿五日稿) [#地から1字上げ]〔一九五四(昭和二九)年二月『裸体』〕 底本:「21世紀の日本人へ 永井荷風」晶文社    1999(平成11)年1月30日初版 底本の親本:「荷風全集 第十七卷」岩波書店    1964(昭和39)年7月13日第1刷発行 初出:「新生 第二卷第七號」    1946(昭和21)年7月 ※誤植を疑った箇所を、親本の表記にそって、あらためました。 入力:入江幹夫 校正:noriko saito 2023年3月13日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。