生けるものと死せるものと ノワイユ夫人 Comtesse de Noailles 堀辰雄訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)汝《なれ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)心|踈《うと》ましく ------------------------------------------------------- 汝《なれ》は生けり。なが面《おも》おほへる青空を呑みつつ、 なが笑《ゑ》まひをわれは佳《よ》き小麥のごとき糧《かて》とす。 われは知らず、汝《なれ》が心|踈《うと》ましくなりて、    われを饑《う》ゑ死なしむるはいつの日か。 孤獨に、絶えず脅《おびや》かされつつ、さすらひゆく われには、未來もなく、屋根ももはやあらじ。 われはひたすら恐るなり、家も、日も、年も、    汝がためにわれの苦しみし…… われをとり繞《めぐ》らせる空氣のうちに、われのなほ 汝を見、心ちよげに汝の見ゆるときすら、 汝がうちなる何物かはわれを棄ててやまず、    そこに在《あ》りながら、汝は既に去りゆく身なれば。 汝は去り、われは止《とど》まる、もの怯《お》づる犬のごと、 日に赫《かがや》ける砂のうへに額《ひたひ》すりよせ、 口うごかして、その影を捉《とら》へんとすれば、    蝶は飛び立つてひらひら…… 汝は去りゆく、なつかしき船よ。汝を搖《ゆ》すりつつ、 海は誇《ほこ》りてをらん、遙かかなたなる樂土《らくど》を。 されども、此の世の重き荷《に》はいよいよ増さん、    わが靜かなる廣き港に。 みじろがずにあれ。汝がせはしげなる吐息《といき》、 汝が身ぶりは、蘆間《あしま》を分くる泉に似て、 わが心のそとに出づれば、盡《ことごと》く涸《か》れん。いましばし止まれ、    わが憩《いこ》ひなる、この胸騷《むなさわ》ぎのうちに。 わが目《まな》ざしのなが目ざしとひとつになりて燃ゆるとき、 わが瞳《ひとみ》の汝に見するは、いかなる旅か。 そはガラタのゆふべか、アルデンヌの森か、    あるひはまた印度の蓮《はちす》の花か ああ、汝が飛躍、汝が出立に胸|壓《お》しつぶされ、 われの手にてはもはや汝をこの世に止め得ずなりしとき、 われは思ふ、やがては汝にも襲ひかからん    倦怠《けんたい》の凄《すさ》まじさやいかに。 快闊にして、心|充《み》ち足《た》り、勇氣ありし汝《なれ》、 王者のごとくにすべての希望を意のままにせし汝、 汝もまた遂にはかの奴隷《どれい》の群れに入るか。    默默《もくもく》として、耐へて臥《こ》やせる…… 野を、水を、時間を超《こ》えて、彼處《かしこ》に、 明瞭なる一點として、われは見る、 孤立せるピラミッドに似て、何か魅《み》するがごとく、    汝の小さき墓の立てるを。 されど、悲しいかな、その墓のかなた、 汝の最後に往きつく先はわれには見えず、 汝を押《お》し戻して、其處に歩み止まらしむるその限界《げんかい》、    汝を憩《いこ》はしむる床《ふしど》やいかに。 汝は其處にて死してあらん、かのダビテの[#「ダビテの」はママ]輩《やから》や、 槍投げするテエベびとの死すごとく。 あるは海べの博物館にて、その灰の目方をわが量《はか》りてみし    希臘《ぎりしや》の踊り子の死すごとく。 ――われは嘗《かつ》て、或太古の岸邊《きしべ》に立ちて、 烈日《れつじつ》の熱《あつ》さを天の侮《あなど》りのごとく耐へつつ、 石棺《せきくわん》の底にここだ殘れる人骨を見しことあり。    そが額《ひたひ》とおぼしきあたりの骨にもわれは手觸れつ。 そのとき、それら遺骨をうち眺むるわれとても、 すでに死者と異《こと》ならず、ただわれには脈搏あるのみなるを覺えき わがしなやかなる身の、かかる骨に化するは、    束《つか》の間《ま》のうつろひに過ぎざれば…… われはかかる恐ろしき暗き運命をも否《いな》まじ、 われはそれらの底なき穴の穿《うが》たれし眼《まなこ》となるもよし。 されど、わが生の悦びたりし棕梠《しゆろ》の樹よ、    わが孤獨の伴侶《とも》たりし汝よ ナイル河のごとく、わが心の擴《ひろ》がれる、 神祕なる王國を汝の手にして治《をさ》むるやう、 あたかも打ち負けし王子のおのが劍を與ふるごと    ものいはずしてわれの赦《ゆる》せし汝よ。 絶えまなく搖《ゆ》らげる湖《うみ》に影をうつして、 みづからの姿を千々《ちぢ》にうちくだく宮殿のごとく、 わが夢も、わが苦しみも、わが悦びも、すべてうち挫《くだ》きつつ、    われの向ひてゐし水の流れ、汝よ。 汝もまた、運命に引き入れられて、 かの痲痺したる灰色の群れの一人となりて、 肩に首をうづめしまま、佇みてゐるほかなきか、    いたく怯《おび》えたる容子《やうす》して。 氷よりも冷たく、目も見えず、耳も聞えず、 宇宙の卵のうちに胚種《はいしゆ》のまどろむがごとく、 汝はにがき蝋になれかし! さらば、親しげに寄りくる    蜜蜂もすみやかに飛び立たん。 それら亡靈どもの間に無氣力に立ちまじりて 彼らと歎《なげ》きを共にするのみにては、われは足らじ。 アンドロマク、或《ある》はスパルタのヘレナにも増して、    人びとの諍《いさか》ふ目ざしを見しわれは。 わがいとしきものよ、われはわれを厭《いと》ひ、 又、王女らのもてるにも似し、わがはかなき矜持《ほこり》を蔑《さげ》しむ。 いたましき死より汝を隔つる障屏《しやうへい》の    炎とすらもなりえぬ我ならずや。 されども、生を超ゆるものはすべて過ぎゆかざれば、 われは夢む、この暮れなんとする夕空の下に、 汝のもはや其處より出づることなき    時間と空間との永遠を。 ――おお、春のごとく美しかれ。雪のごとく愉《たの》しかれ。 大いなる壺《つぼ》のやすらかに閉ざされし内部に在りて、 すべての歌聲《うたごゑ》の、よろこばしきアルペジオとなりて、    絶えず涌《わ》きあがるがごとくにあれ。 底本:「繪はがき」角川書店    1946(昭和21)年7月20日初版発行 ※国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/)で公開されている当該書籍画像に基づいて、作業しました。 入力:かな とよみ 校正:The Creative CAT 2020年10月31日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。