堀口さんとメドック 山本周五郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)邸《やしき》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)全|蒐集《しゅうしゅう》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)もの[#「もの」に傍点] -------------------------------------------------------  昭和二十年の五月だと思うが、ある人を介して堀口九萬一さんからお招きをうけた。私の愚にもつかないもの[#「もの」に傍点]を読んでおられて、そこで会いたいといわれるのである。酒が不自由だろうから来れば飲ませてやる、という付帯条件もあった。お断わりをすると(中に立った人の口車かもしれないが)しからばこっちからゆくといわれるそうで、それでは恐縮でもあり敬老精神にも反するので、防空服装でもって恐る恐る、小石川の高台にあるお邸《やしき》へ参上した。翁はたしかもう九十歳にちかいお年だったと思う。がっしりした体に古びたような畝織のガウンをひっかけて、めがね[#「めがね」に傍点]の奥で眼を光らせながら、私の愚にもつかないもの[#「もの」に傍点]について、たいへん熱心におしかりなされた。書だなにぎっしりフランスのロマン派の全|蒐集《しゅうしゅう》だと聞いたように思う本の詰っている古風な書斎であった。私は付帯条件のほうのメドックを頂戴しながら、約二時間ほど翁のおしかりを楽しく拝聴し、まるでアメ玉のようにまるめられてしまった。おまえには多少みどころがあるからしっかりやれ、などといわれたものだから、私は抵抗ができなかった。長い外交官生活の身についた翁の親しさと無関心とのうまく混りあった話しぶりは、極めて印象の深いものであったし、私にはあらゆる意味を含めて忘れがたい。近ごろでもひと仕事したあとには、翁が生きておられたら読んでもらえるのだが、と思うことがしばしばある。それと同時に、翁がめがね[#「めがね」に傍点]の奥のこわい眼を光らせて「おまえにはもうみどころがない、やめてしまえ」とおしかりになるだろうとも想像されるが。 [#地付き]「朝日新聞」(昭和二十七年十月) 底本:「暗がりの弁当」河出文庫、河出書房新社    2018(平成30)年6月20日初版発行 底本の親本:「小説の効用・青べか日記」新潮文庫、新潮社    1985(昭和60)年4月25日発行 初出:「朝日新聞」    1952(昭和27)年10月 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:noriko saito 2025年10月23日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。