金銭について 山本周五郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)小舅《こじゅうと》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#7字下げ] ------------------------------------------------------- [#7字下げ]――勤倹貯蓄は美徳でない――[#「――勤倹貯蓄は美徳でない――」は中見出し] [#太字]問[#太字終わり] ふるくから、勤倹貯蓄というのは、人間の美徳のひとつであるといわれるんですが、どうお考えになりますか? [#太字]答[#太字終わり] 勤倹貯蓄が美徳だということはよく言われてきたことですが、たいへんこれには言葉のアヤが多いので、実際には美徳でもなんでもないと私は考えます。貯蓄というものは、ある家庭が、生活に必要なものを充分に使い、生活をエンジョイする方面にも充分に使い、そうして余ったものを貯めるのが、貯蓄だと私は思うのでありまして、着るものをツメる、飲むものをツメる、食べるものをツメるというふうにして貯める金は、貯蓄ではなくして、命のあっちを削り、こっちを削れ、という吝嗇のすすめだと私は考えます。貯蓄とは本来そういうものではないというふうに私は考えているので、勤倹というような言葉、これは最大多数の衆智からでた言葉ではなくって、支配階級からふり下された言葉だと私は解釈しています。 [#太字]問[#太字終わり] そうすると、爪に火をともすような生活をしながら金を貯めるのは、つまらないことであるとおっしゃるのですね。世の中には、そういう生活態度をきわめて意義があるというように考えている人間もいると思うのですが―― [#太字]答[#太字終わり] 私は爪に火をともすような生活をして意義を見出しているような人も、事実、存在すると思うのですが、それがその人にとって最もうるわしく、充実した、極めてエキサイティングな情熱で打ちこんでいるのであれば、他所のひとが、奴は爪に火をともしているとかケチだとかいうのは余計なことなんであると思います。  たとえば蚤のサーカスというのがありますが、蚤をあそこまで訓練するということを考えると、だいたいならば、その馬鹿馬鹿しさにあきれるだろうと思います。この場合、爪に火をともす生活と、蚤のサーカスをこしらえることとは、決して区別すべき問題ではないんで、人間があるひとつのことに情熱をついやすということになれば、それは金を貯めようと蚤のサーカスをつくろうと同じだと考えます。 [#7字下げ]――金銭は附帯的なもの――[#「――金銭は附帯的なもの――」は中見出し] [#太字]問[#太字終わり] すると、先生は金銭というものをどうお考えになりますか? [#太字]答[#太字終わり] 金銭というものは、あってしばしば便利である。しかし、なければ絶対に生活できないものではない。ただ生活するのには、便宜上あるほうが、たまたま便利である、という程度のものであると思う。金銭というものは、こちらの欲しいもの、向うの欲しいものをお互いに交換しあう際、いちいち秤にかけて計量するよりも、その代価として考えられた手っ取り早い流通手段である。……きわめて原始的な経済論なんですが、そういったものなんですから金銭それ自身には何らの意味もないので、これを以て役にたたせるか、たたせないかということは、人間の各人の暮し方、ないしは金銭に対する考え方によって決定することだと思います。金銭自身には何の意味もないと思います。 [#太字]問[#太字終わり] ――すると、近松門左衛門の『梅忠』だったと思いますが、梅川の『金が仇の世の中や』という科白ですね、金が万事を解決するとまではいかなくても、人間社会では、金があれば、相当解決できる問題もあるという意味が含まれていると思うのですが。 [#太字]答[#太字終わり] これはね、まあ、いつでも絶えず問題になっていることですけれども、これは極めて馬鹿な話で、明治初期ですか、上野で首をくくって死んだ乞食がいて、その足の下に辞世があった。五銭の金に困って俺は首をくくって死ぬのである。『死んでみりゃ、タッタ五銭とヌカすだろう、生きてるうちは百もくれまい』。――結局、金というものはそうじゃないか。生きているうちは貰いに行っても一銭もやらない。で、死んでしまうと、たった五銭で死にやがった。……  だから、金にもし固執する場合には、金銭が万事を決定する面も持っていると思う。しかし、人間生活を支えているものは金ではなくて、金は附帯的な条件にすぎない。人間、本当に生きようと思って、実際にその生きることに情熱を感じて仕事をしていれば、金というものは附帯的についてくるものです。金をもうけることを目的としている守銭奴、ないしは利殖家、そういうものは別として、普通の最大多数の人間の生活では、金は従属的なものであって、主体性はないものである。  金さえあれば何かができる、と思ったら大きな間違いで、金があったって何もできない、というのが私の考えです。 [#7字下げ]――人生借り方にまわれ――[#「――人生借り方にまわれ――」は中見出し] [#太字]問[#太字終わり] 先生の場合は、長いこと借家住いをしていらっしゃるということで、作家として小説一本にうちこむという生活態度をとっておられるわけなんですが、今日では、作家の中には証券投資を自分でやって、それを他人にPRしてみたりする人もあれば、永井荷風さんのように、何千万円もの預金通帳を死ぬまで買物カゴのなかに入れて歩いていた……というような例もあるわけなんですが、そういった作家の生活をどう考えておいでですか? [#太字]答[#太字終わり] 私は、借家住いはしておりますが、ものを書くという立場は、これは産業でもないし、工業でもないし事業をやっているのでもないので、人間全体、社会全体ないしはそういうものをひっくるめて、将来どうあったらいいか、というような、より広汎なテーマをたえず頭に描き、それを検討しようとする生活ですから、自分の家をつくるとか、自動車をかうとか、または競馬馬をもつとかそういう暇がないのが私の場合は原則なのである。ところで、ここの借家といいますのは、これはおかしな話なんですが私が借りていることは事実ですが、つまり、私は借りていますけれども、借りているという気がしないんですな。もっともこれは、家主がたいへん寛大なものですから、自分の勝手放題に、畳の部屋を板の間にしちゃったりなんかやっておりますから、そうかも知れませんが、要するに人生では、借り方にまわるほうがよろしい、貸し方にまわったらおしまいだ、ということを考えます。私ならば借り方にまわります。  永井荷風さんのお話しがでましたけれども、永井荷風さんが亡くなったときに二千万円とか三千万円とかいう遺産があった。荷風はひじょうにケチであったとか、何のためにそうしたのかという議論もおこなわれたようでありますけれども、これは実に余計な話で、永井さんはいい小説を書いて亡くなられた。そのとき、たまたま三千万円のこってたというだけなんで、これは永井さん自身の小説、小説家という永井さん自身と、その残された二千万、三千万という金とは全然、別個の問題だと考えます。そういう人ののこした金についてカレコレいうのは余計なおせっかい[#「おせっかい」に傍点]なので、これぐらい馬鹿げた話しはないと私は思います。 [#太字]問[#太字終わり] そうすると、あの一連の、証券作家と申しましょうか、あの人たちは―― [#太字]答[#太字終わり] これはもう実に問題にならない……。いま、あなたのおっしゃった証券作家、という言葉は、ちょっと表現がすぎると思いますが、証券作家などというものはいないと思うんです。ただ、たまたま小説を書いてた者が、証券ブームにのってPRに乗り出してきた。そのほうが小説よりもうれるというんで、証券に関する原稿を書いていらっしゃる。この人たちは作家でも何でもなくって、たまたま書いていた小説が、書けなくなってきたときに証券をはじめて、マネービルなんていうことをやったらば、オイソレと相手が飛びついてきただけなんで、兜町へゆくとこういう人間が、いつでも路地にウロウロしています。で、客をつかまえて、いい株がありますよ、教えてあげますよ、というのがたくさんいます。これは、彼が作家だから通用するとかしないとかの問題じゃないと思います。その種類の人たちが、もうけた、もうけた、と話しをしていますけれども、実際もうかった証拠を私はみていないし、おそらく儲かっていないだろうと思います。かれらはむしろ、政府や支配階級のたくらみ、零細なる最大多数の庶民の財布から召しあげようというたくらみの、お先棒をかついでいる最も劣等なる種類の人間だと思います。 [#7字下げ]――原稿料は収入でない――[#「――原稿料は収入でない――」は中見出し] [#太字]問[#太字終わり] そうしますと、原稿料のことなんですが、先生もまた原稿料でもって、やはり生活をたてていらっしゃるということだと思うんですが、先生の原稿料というものに対するお考えを伺いたいのですが――。 [#太字]答[#太字終わり] 私は原稿料で生活をたてているなどというようなことを考えたことは今まで一遍もありません。おそらく(原稿料で)たてていないんじゃないかと思う。  私のもらう原稿料というものは、これは収入ではなくして、ジャーナリズムが、私につぎの仕事をするために投資をしてくれているんだと思う。これは原稿料をもらった初めっからの気持であって、今でもその通り考えていますし、将来もおそらくそうでしょう。  小説を書き、原稿料をとるということは、これは事業ではなくて、したがってはいってくる原稿料は収入ではありません。このような私の考えは、家人、子供たちも幸いにして諒解してくれておりますから、私はたいへん気が楽に仕事に打ちこむことができるのであります。原稿料は金銭ではない、と私は考えております。 [#太字]問[#太字終わり] 原稿料は収入ではない……ということは日頃の先生の生活態度が実証しておるわけなんですけれども、たとえば一枚一万円の原稿料と五千円のそれとでは、どちらがベターとお考えでしょうか? [#太字]答[#太字終わり] 一万円の原稿料と五千円の原稿料ではどっちのほうがベターであるか。たしかに一万円のほうがベターである。――ということは、私についてだけ言えば、私はもともとあんまり枚数が書けない性質だから、作品の数もすくない。だから、生活ないし、つぎの仕事をやるための準備をまかなうことができれば、高い稿料のほうがもちろんよろしいわけです。しかし、実際に私が原稿用紙に向う段になれば、――たとえばここでもって、一万円の原稿料と三千円の原稿料とある。その場合に、コレコレのテーマで書くという問題になってくると、――三千円であろうが、二千円であろうが、一万円であろうが差別は実際には存在しない。ただ、安いよりか高いほうがベターであるということは、現在やっている仕事と、将来の仕事に対して余裕がもてるという意味で、そういうことは考えます。安いよりか高いほうがよいと思います。私はそんな高い原稿料はいただいたことはございませんけれども……。 [#7字下げ]――タイム・イズ・ゴールド――[#「――タイム・イズ・ゴールド――」は中見出し] [#太字]問[#太字終わり] 勤倹貯蓄は美徳ならず――とすると、“浪費”ということを先生はどうお考えになりますか。 [#太字]答[#太字終わり] 浪費という問題がでますと、よくひきあいに出される話しなんですが、アレキサンドル・デューマ、彼はなかなかの浪費家であった。ステッキの頭にダイヤモンドを嵌めていたとか、一晩に何千フランも使って宴会をひらいたとか、たいへんな浪費のおん大将といわれておったのですが、死ぬときに、自分の子供のデューマ・フィスを呼んで、『俺は浪費家だといわれているが、マントルピースのうえを見ろ』と。で、フィスが行ってみたらマントルピースの上に五フランの金貨があった。『俺はパリーにでてくるときに五フランの金貨ひとつを持って出て来たのだ。その五フランの金貨はそこにある。俺はなんにも浪費はしていない』と。  ……これは実に見事に浪費という言葉、(これは勤倹貯蓄というものの反語でございますけれども)浪費というもののいい見本だと思います。つまり、浪費をするかしないかということは、これは要するに意地わるな小舅《こじゅうと》がいうことであって、それが浪費であるかないかということは、その人が死んでその人がしたことと、その人が残したこととを相殺した場合におこることであって、しかもそれは当人には関係のないことなんであると思います。浪費のない人生というものがもしあるとすれば、それは人生ではないので、これは刑務所の生活だと私は考えます。 [#太字]問[#太字終わり] さいごにちょっとおたずねしたいのですが、福沢諭吉さんが『タイム・イズ・マネー』ということをおっしゃっている。あの譬えを、そうすると先生はどう解釈なさいますか? [#太字]答[#太字終わり] 福沢さんはあの言葉をたいへん名言と思って塾生たちにお教えになり、なかんずく、大きな夢、出る金。というふうな掛軸を書いて、それを自慢にして方々にお配りになった。タイム(大夢)、イズ(出ず)、マネー(金)という洒落《しゃれ》らしいんですが、これは実に馬鹿馬鹿しい話しで、タイム(時間)は黄金の価値はあるけれども、金銭ではありません。  福沢さんという人は、本質的に商人だから、ああいうことをおっしゃったんで、福沢さんが哲学者でもなく、社会科学者でもない証拠がそこにあると私は考えます。  時間は黄金のごとくに貴いものです。しかし、けっして金銭ではありません。タイム・イズ・マネーではなくして、タイム・イズ・ゴールドならば、私は大賛成ですけれども、タイム・イズ・マネーほど軽蔑すべき考え方はないと思います。 [#地付き](昭和三十六年十月・談) 底本:「暗がりの弁当」河出文庫、河出書房新社    2018(平成30)年6月20日初版発行 底本の親本:「雨のみちのく・独居のたのしみ」新潮文庫、新潮社    1984(昭和59)年12月20日発行 初出:「労働文化」労働文化社    1961(昭和36)年10月 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:noriko saito 2026年6月1日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。