からっぽの箪笥 山本周五郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)焼酎《しょうちゅう》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)ほぞ[#「ほぞ」に傍点] -------------------------------------------------------  男というものは、ときどき「おれはこんなばかな人間だったのか」と思って冷汗をかくものだ。男と言っては悪いかもしれない、私と言い直さなければならないかもしれないが、いまでもほぞ[#「ほぞ」に傍点]を噛みたいような思い出が、私の半生には幾十百たびとなくあった。その中の一例をここで告白するわけだが、――戦後まもなく、かすとり焼酎《しょうちゅう》さかんなりしころ、私は大森から横浜へ移って、ろくさま仕事もせず、訪ねて来る若い記者諸君と酒浸り(もちろんかすとり[#「かすとり」に傍点]浸りの意味)になっていた。  当時は大学校の創立と覇をきそうかの如く、雑誌社や出版社が乱立し、およそ原稿用紙に字の書ける人士なら、老若賢愚の差別なく追いまわされ、巨額な稿料印税でふところを肥大させたようである。私のように無能な末輩のところへも、ときたま(なにを勘ちがいしてか)そういう記者諸氏が来訪されたし、中には高額な原稿料を提供することによって知られた、新興数社の紳士もあったが、すると私は、いっしょに飲んでいる若い記者諸君に眼くばせをし、ほぼ次のような問答をとり交わしてたのしむのであった。  紳士、――私の社では原稿一枚についてしかじか[#「しかじか」に傍点]の(金額)額をお払い致します。  私、――ほう(嬉しそうな顔をする)それは有難いですな、それは(ここで物欲しそうな眼つきをする)しかしねえ、そこでもうちょっと、つまりこれこれ[#「これこれ」に傍点](金額)ぐらい高くしてもらえませんかねえ。  紳士、――これこれ[#「これこれ」に傍点]ですか(仔細《しさい》らしく横眼などを使う)ふむ、そうですね、一存ではいきませんが、たぶんいいでしょう(たいてい太っ腹をみせようとする)いや、大丈夫お出しできると思います。  私、――有難いですな、それは有難い(ここでおそるおそる相手を見る)それで、締切はいつごろですか。  紳士、――来月五日です。  私、――なんですか(聞きとれなかったふうをする)ぼくは締切をうかがっているんですがね。  紳士、――ですから来月の五日ですよ。  私、――来月五日、今年のですか。  紳士、――むろん今年の来月五日です。  私、――それはむりだ(溜息《ためいき》をついてみせる)いきなり来てそんな極端なことを言われてもだめです、それは全然むりですよ。  紳士、――ではいつごろならいいんですか。  私、――来年(ちょっと考える)再来年、(また考える)そうですね、三年ばかり経ったらまた来てみて下さい、どうも失礼しました。  紳士は憤然として去り、始終を見ていた若い記者諸君はかすとりを啜《すす》りながら、暫《しば》らくその紳士の評を肴《さかな》に酔をたかめるのであった。これら新興社はすでに亡び去ったし、それらの社にいた誇り高き紳士諸君も、いまはそれぞれ正業についておられるであろうが――そういうわけで、私はインフレ原稿料というものを、ついに一度も手にしたことがないうえに、或るときなど持って来た記者の出しかたが気に障ったので、かなり多額な(私としては)稿料を灰皿で燃してしまったことさえもあった。しかも酒浸りという状態だから、家計がどんなありさまであるかは想像するまでもないだろうのに、家人からなにも文句が出ないのを「これでいいのだろう」と暢気《のんき》に構えていた。そして或るとき、私は家人の箪笥《たんす》をあけてみて、自分の躯《からだ》が唐竹割りにされたようなショックを受けた。彼女の母親から譲られたその古風な箪笥は、五つある抽出《ひきだし》の全部がからっぽになっていたのである。私はたとえそれが妻であっても、女性の持物には触れたことがない。まして箪笥の中など覗《のぞ》いたためしはないので、どんな品がどれだけ入っていたかは知らない。けれどもおよそこのくらいという見当だけはつく。それが一と品も残らず、――ほんの常着用の物を幾らか残すだけで、きれいさっぱりなくなっていたのである。――私は感激の涙にくれもしなかったし、両手を突いて悔悟を誓いもしなかった。そしてそれからのちも、しばしばあやまちを重ねて来たのであるが、そのとき受けたショックは、死ぬまで忘れないだろうと思う。男にしんそこ勇気を与えるもの、男をしんじつふるい立たせるものはこういうふうな無言の愛と信頼である。と私はいまでも確信しているのであります。乞赦惚気。 [#地付き]「労働文化」(昭和三十六年三月) 底本:「暗がりの弁当」河出文庫、河出書房新社    2018(平成30)年6月20日初版発行 底本の親本:「雨のみちのく・独居のたのしみ」新潮文庫、新潮社    1984(昭和59)年12月20日発行 初出:「労働文化」労働文化社    1961(昭和36)年3月 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:noriko saito 2026年7月20日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。