のろまのハンス ――むかしばなしの再話―― ハンス・クリスチャン・アンデルセン Hans Christian Andersen 矢崎源九郎訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)お屋敷《やしき》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)Ⅰ -------------------------------------------------------  あるいなかに、古いお屋敷《やしき》がありました。そのお屋敷には、年をとった地主が住んでいました。地主にはふたりの息子《むすこ》がありましたが、ふたりとも、ものすごくおりこうで、その半分でもたくさんなくらいでした。ふたりは、王さまのお姫《ひめ》さまに結婚《けっこん》を申しこもうと思いました。どうしてそんなことを考えたかというと、じつは、こうなのです。お姫さまは、だれよりもじょうずにお話のできる人をお婿《むこ》さんにする、と、国じゅうにふれまわらせていたからです。  そこで、ふたりは、一週間のあいだ、いろいろと準備をしました。つまり、それだけしか、ひまがなかったのです。でも、それだけあればたくさんでした。なぜって、ふたりには予備知識というものがあったからです。しかも、この予備知識というものは、いつでも役に立つものなのです。ひとりは、ラテン語の辞書を全部と、町の新聞を三年分、すっかり、そらでおぼえていました。おまけにそれが、前からでも後からでも、自由じざいだったのです。もうひとりは、組合の規則を残らずおぼえていて、組合長ならだれでも知っていなければならないことを、ちゃんと心得ていました。ですから、政治のことなら、だれとでも話すことができるつもりでいました。それに、じょうひんで、手先も器用でしたから、ウマのひきがわにししゅうをすることもできました。 「お姫さまは、わたしがもらう!」と、ふたりとも言いました。おとうさんは、めいめいに、りっぱなウマを一頭ずつやりました。辞書と新聞とをそらでおぼえているほうの息子は、炭のように黒いウマをもらい、組合長のようにりこうで、ししゅうのできる息子は、乳色の白いウマをもらいました。それから、ふたりは口ばたに肝油《かんゆ》をぬって、よくすべるようにしました。召使《めしつかい》の者はみんな中庭へ出て、ふたりがウマに乗るのを見ていました。  そのとき、三番めの息子が出てきました。じつをいうと、兄弟《きょうだい》は三人だったのです。しかし、この三番めの息子を兄弟の中にかぞえる者は、ひとりもありませんでした。というのは、ふたりのにいさんたちのように、いろいろな知識というものを、持っていませんでしたから。そして、この息子は、みんなから、のろまのハンスと呼ばれていました。 「そんないい着物なんか着て、どこへ行くんだ?」と、ハンスがたずねました。 「王さまの御殿《ごてん》へ行って、お姫さまと話をするのさ。たいこを鳴らして、国じゅうにふれまわっていたのを、おまえ、聞かなかったのか?」そう言って、ふたりはハンスにそのことを話してやりました。 「こいつぁあ、たまげた! じゃあ、おれもいっしょに行くべえ」と、のろまのハンスは言いました。にいさんたちは、ハンスを笑って、そのままウマに乗って行ってしまいました。 「とっちゃん、おれにもウマをくだせえ」と、のろまのハンスは大きな声で言いました。「おれも嫁《よめ》さんをもらいてえ。お姫さまがおれをもらうんなら、おれをもらやあいい。お姫さまがおれをもらわなくったって、おれのほうでお姫さまをもらってやらあ!」 「何をつまらんことを言ってるんだ!」と、おとうさんが言いました。「ウマはやれん。おまえにゃ、話なんぞできっこない! だがな、にいさんたちはりっぱな若者だ!」 「ウマがもらえねえんなら」と、のろまのハンスは言いました。「じゃあ、ヤギに乗ってくよ。あいつはおれのもんだし、それに、あいつだって、おれを乗せて行くぐらいできるさ!」こう言って、ヤギの背中にまたがると、その横っ腹をかかとでけとばして、大通りをいっさんにかけだしました。うわあ! その速いこと、速いこと! 「ここだよお!」と、のろまのハンスはどなりました。それから、あたりに鳴りひびくような大声で、歌をうたいました。  しかし、にいさんたちは黙《だま》って、ウマを先に進ませて行きました。ふたりはひとことも言いませんでした。いまはそれどころではありません。お姫さまの前へ出たときに、話そうと思っているうまい思いつきを、はじめから念には念をいれて、考えなおさなければならなかったのです。 「オーイ、オーイ!」と、のろまのハンスがどなりました。「ここだよお! おれが大通りで見つけたものを見てくれ」そう言いながら、途中《とちゅう》で見つけてきた、死んだカラスを見せました。 「のろま!」と、ふたりは言いました。「それで、どうしようっていうんだ?」 「お姫さまにあげようと思うだ」 「うん、そうしな」ふたりはそう言って、笑いながら、なおもウマを進めていきました。 「オーイ、オーイ! ここだよお! いま見つけたものを見てくれ。まいんち[#「まいんち」はママ]、大通りで見つかるようなもんじゃあねえ」  そこで、にいさんたちは、またうしろを振《ふ》り返って、こんどは何だろうと、ながめてみました。「のろま!」と、ふたりは言いました。「古い木靴《きぐつ》だな。おまけに、上のほうが取れちゃってるじゃないか! それも、お姫さまにあげるってのかい?」 「そうだよ」と、のろまのハンスが言いました。にいさんたちは笑いながら、どんどんウマを進めていきました。こうして、だいぶ先へ行きました。 「オーイ、オーイ! ここだあ!」と、のろまのハンスがどなりました。「いやどうも、今度は、だんだんひどくなったぞ。オーイ、オーイ! こいつぁあ、すげえ!」 「今度は、何を見つけたんだ?」と、ふたりの兄弟がたずねました。 「ああ!」と、のろまのハンスが言いました。「言うほどのこたあねえ! お姫さま、どんなにうれしがるかしれねえ!」 「チェッ!」と、ふたりの兄弟は言いました。「そりゃあ、どぶから掘《ほ》り出してきた、どろんこじゃないか」 「うん、そうさ」と、のろまのハンスは言いました。「それに、こりゃあ、いちばんじょうひんなもんよ。手に持ってるわけにもいかねえ」こう言って、ポケットに、ぎゅうぎゅうつめこみました。  しかし、にいさんたちは、できるだけ早くウマを走らせて、たっぷり一時間も先に、町の門のところへ着きました。見れば、そこには、お姫さまに結婚を申しこむ人たちが、着いた順に番号をもらって、ならんでいました。一列に六人ずつ、それこそ腕《うで》も動かせないくらい、ぎっしりとならんでいるのでした。けれども、かえって、それでよかったのです。でないと、だれもかれも先になろうとして、おたがいに着物の背中を引きさきっこしていたかもしれませんからね。  その国のほかの人たちは、みんな御殿《ごてん》のまわりに集まって、窓のほうを見上げていました。お姫さまが、結婚を申しこみにやってきた人たちをどんなふうに迎《むか》えるか、それを見物していたのです。ところが、どうしたというのでしょう。結婚を申しこむ人たちは、お部屋の中へはいったとたん、きゅうに、なんにも話すことができなくなってしまうのです。 「なんの役にも立たないわ」と、お姫さまは言いました。「おさがり!」  いよいよ、辞書をそらでおぼえている、にいさんの番になりました。ところが、長いあいだ列の中に並《なら》んでいたものですから、なにもかもきれいさっぱり、忘れてしまいました。それに、床《ゆか》はぎしぎし鳴りますし、天井《てんじょう》は鏡のガラスでつくられているので、自分の姿が、さかさまにうつって見えるしまつです。それから、どの窓のところにも、三人の書記と、ひとりの書記長がいて、ここで話すことを、一つのこらず書き取っていました。そして、すぐにそれが新聞にのって、町かどで二シリングで売られるのです。まったく、恐《おそ》ろしいことではありませんか。しかも、ストーブの中では、火がかんかんに燃えていて、胴《どう》のところがまっかになっているのです! 「このお部屋は、じつに暑うございますね」と、このにいさんは言いました。 「それはね、おとうさまが、きょう、ひな鳥をお焼きになるからよ」と、お姫さまが言いました。 「ヒェー!」この男は、ぼんやり立ちつくしてしまいました。こんな返事をされようとは、思いもしなかったのです。もう、ひとことも言うことができません。だって、そうでしょう。自分では、なにか面白《おもしろ》いことを言おうと思っていたのですもの。おや、おや! 「なんの役にも立たないわ」と、お姫さまが言いました。「おさがり!」こうして、この男は、引きさがらなければなりませんでした。今度は、もうひとりのにいさんが、はいってきました。 「ここは、ひどく暑うございますね」と、その男は言いました。 「ええ、きょうはひな鳥を焼くのよ」と、お姫さまが言いました。 「な、な、なんですって?」と、その男が言いましたので、書記たちはみんな、な、な、なんですって、と、書きました。 「なんの役にも立たないわ」と、お姫さまは言いました。「おさがり!」  とうとう、のろまのハンスの番がやってきました。ハンスはヤギの背中にまたがったまま、お部屋の中へはいってきました。「こりゃあまあ、ひでえ暑さですね」と、ハンスが言いました。 「それはね、あたしがひな鳥を焼くからよ」と、お姫さまが言いました。 「そいつぁ、うめえこった!」と、のろまのハンスが言いました。「じゃあ、このカラスも焼いてくれますかね?」 「ああ、いいわよ」と、お姫さまが言いました。「だけど、焼くのに、なにか入れ物を持っておいでかい? あたしには、おなべも、フライパンもないのよ」 「なあに、ちゃんと持ってますだ」と、のろまのハンスが言いました。「すずの手のついた、料理道具があるんでさ」こう言いながら、古い木靴《きぐつ》を取り出して、カラスをそのまんなかに入れました。 「まあ、すばらしいお食事だわね!」と、お姫さまが言いました。「でも、ソースはどうしたらいいの?」 「そいつなら、ポケットにありますよ」と、のろまのハンスが言いました。「うんとあるから、ちったあ、むだにしたってかまいませんさ」そう言って、ポケットから、どろをすこしこぼしてみせました。 「いいわよ」と、お姫さまが言いました。「あなたは返事ができるわ! それに、お話もできるから、あたし、あなたを夫にするわ! でもね、あなた、ごぞんじ? あたしたちが今までに言ったり、これから言う言葉は、ぜんぶ書き取られて、あしたの新聞にのるのよ。ごらんなさい、どの窓のところにも、書記が三人と、年とった書記長がひとりいるでしょう。ことに、あの書記長ったら、いちばんいやな人よ。だって、ひとの言うことなんか、なんにもわからないんだから!」こう言って、お姫さまはハンスをこわがらせようとしました。すると、書記たちはへんな声で笑って、床の上にインキのしみ[#「しみ」に傍点]をつけてしまいました。 「みんな、りっぱな人たちだ」と、のろまのハンスが言いました。「じゃあ、おれも、書記長さんに、いちばんいいものをあげにゃあなるめえ!」こう言うと、ポケットをひっくりかえして、いきなり、書記長の顔にどろを投げつけました。 「まあ、すてき!」と、お姫さまが言いました。「とてもそんなこと、あたしにはできないわ! でも、そのうちに習いましょう」――  こうして、のろまのハンスは王さまになりました。お姫さまをお妃《きさき》さまにして、王冠《おうかん》をかぶって、玉座についたのです。ただ、これは、書記長の新聞から見てきたことなんですよ。――ですから、あんまりあてにはできませんがね。 底本:「人魚の姫 アンデルセン童話集Ⅰ」新潮文庫、新潮社    1967(昭和42)年12月10日発行    1989(平成元)年11月15日34刷改版    2011(平成23)年9月5日48刷 入力:チエコ 校正:木下聡 2021年1月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。