麦畑 モーリス・ルヴェル Maurice Level 田中早苗訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)緩《ゆっ》くり |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)年|老《と》った [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)顬 -------------------------------------------------------  ジャン・マデックは、緩《ゆっ》くり調子をとってさっくさっく[#「さっくさっく」に傍点]と鎌を打ちこんでゆくと、麦穂は末端《はし》をふるわせ、さらさらと絹ずれのような音を立てつつ素直に伏《ふせ》るのであった。  ジャンは歩調を按排《あんばい》しながら、器用な手捌きで前へ前へと刈りこんで行った。背《うし》ろには刈られたあとの畑が鳶色の地肌を現わし、そのところどころに小石原があって、褐色になった麦藁が厚く毛羽立っていた。  年|老《と》った母親は、ジャンの後から腰をかがめて、散らばった落穂を拾いあつめていたが、彼女の重い木履《サボ》を引きずっている足や、皺だらけの節くれだった手や、襤褸衣物《ぼろきもの》を着たその胴体だけを見ると、まるで獣が四つ足で這っている恰好だった。  太陽が地平線から昇ると、炎熱があらゆるものを押しつつんで、田園全体が痲痺したようになり、そして耕地は爛熟した大きな果実のごとく、何ともいえない甘酸《あまずっ》ぱい香気を発散するのであった。  婆さんは落穂をひろいながら、口の中でぶつぶつと呟いた。 「コレ、嫁は今時分まで何をしくさるだ。何時になったら来るかの」 「正午《おひる》には皆んなの弁当をもって来るよ」  婆さんは肩をゆすぶって、 「何にしても、楽なもんじゃのう」 「なアに何家《どこ》の嬶《かかあ》も同じことよ。彼女《あれ》はここへ来ても、小舎《うち》にいても、せっせと仕事をしているだ」 「ふむ、彼様《あねえ》な仕事をな」  婆さんはなお地面を掻きながら、独りごとのようにいった。 「旦那は今朝はまだここへ来ねえようだの。大方|彼女《あれ》の傍《そば》にべたべたとくっついて、手助けでもしてござらっしゃるだろうさ」  ジャンは鎌の手を休めて、 「何いうだ」 「うんにゃ、何でもねえだよ。話がさ……ただ……」  ジャンはまた刈り進んで行った。が、婆さんはもう一度独りごとのように呟いた。 「お前の死んだ父親《てておや》という人は、彼様《あねえ》な真似大嫌いでのう。あの人が野良へ出たあとでは、わしは只の一度だって、旦那の話相手になんかなったことねえだよ」  ジャンはまた顔をあげた。 「何だっておれに其様《そねえ》な話をするだ」 「何でもねえがの、父親《てておや》はお前なんかよりも気が廻っていたっていうことよ」  するとジャンはすっくと立ち直って、 「な、何だって? そねえなこと云うからには、何か理由《わけ》があるべえ」 「あるとも」婆さんは相変らず腰をかがめたままで、「皆がお前やセリーヌの噂をしているだ。何のかのと煩《うる》さくいっているだよ」 「誰がさ」 「誰ってこともねえがの……皆ながよ……もっとも無理アねえだ、眼にあまることは見まいとしても見えるものだで」 「出鱈目いっているだ」  しかし、婆さんは倅《せがれ》の打消しを聞かぬふりをして、爪先で土塊《つちくれ》を弾きながら、 「お前のためを思えばこそ、此様《こねえ》なこともいうだよ。わしはお前の母親でねえか。隠し立ては厭だからのう、後で怨まれるか知んねえが、云うだけはいっておくだ」 「皆んな出鱈目だっていうことよ。セリーヌはいい女房《かかあ》で、よく働いてくれるだ。それに、おれはこれっぱかりも彼女《あれ》に不自由はさせてねえだから、彼女《あれ》が何でおれを袖にするもんか」  婆さんはどっちつかずの身振りをして、 「知れたもんじゃねえわさ」  といったが、ふと調子をかえて、 「うんにゃ、わしは悪口をいうでねえ。利益《ため》を思えばこそいうだよ。彼女《あれ》なんかは若い盛りでのう、まだ面白い思いがしたい年頃じゃ。土曜日っていうと、市場へ行くのに、しゃれた服装《みなり》もしたいじゃろ。誘惑《まどわし》にかかるのは早いもんでな。それに、初めは何でもないように思われるもんじゃ。男の方でリボンだ、ショールだ、櫛だ、時計の鎖だと、いろんなものを与《く》れる。そんで貰った女は、出物を安く買ったとか、往来で拾ったとかいうだ。それは左様《そう》かも知れねえがの……」  婆さんの一語一語がジャンの胸をえぐった。先日《こないだ》女房が地主の旦那と一緒に町へ出かけて行って、夜になってから帰って来たことがあったが、その日曜日には、彼女が木理《もくめ》リボンをつけ、薄紗《うすしゃ》のショールをかけていたのを彼は思いだした。殊に黄金《きん》の鎖が目立った。しかも彼女はそれを往来で拾ったといっていたのだ。  婆さんは例の単調な声で話しつづけた。 「わしは彼女《あれ》の悪口などいいともねえがの、亭主っていうものは、年中|嬶《かかあ》の傍《そば》にばかりくっついていられるもんじゃねえだ。毎日野良へ出なけりゃなんねえし、また兵隊の召集で、一月も小舎《うち》を空けることもあるべえに」  ジャンはもう、母親の言葉なんか聞いてはいなかった。鎌を杖《つ》いてその上に腕をくみ合せ、何処を見るともなくきょとんとした眼つきをして、涯《はて》しもなく種々《いろいろ》なことを思いだしていた。些細な出来事までも記憶にうかんで来たが、それ等はみんな母親の暗示を裏書きする材料なのであった。  女たらしの主人は、他の作男にはがみがみ小言をいうくせに、自分にだけ特に優しく目をかけてくれる。それというのも、女房《かかあ》が婀娜女《あだもの》なせいにちがいない――そう考えて来てふと思いだしたのは、もう一週間経てば軍隊の方へ一ヶ月も召集されて、その間留守にせねばならぬことであった。  そのとき、耕地の端《はず》れの大木の下から人の呼び声がしたので、ジャンはふと顔をあげると、黄金《こがね》色の麦穂の上から、彼の女房の上体がちらと浮きあがった。と思うとその背《うし》ろの数歩離れたところに、つば広の帽子をかぶった赭《あか》ら顔の主人が、太短いステッキを振りながら畑の間を歩いているのが見えた。 「昼食《おひる》だよう」  晴々した声がひびきわたると、麦畑の処々からぽつぽつ起《た》ちあがった作男等は、皆んな木蔭に集まって来て、やがて昼食《ちゅうじき》をはじめた。  その中で、ジャンは独り黙りこくって麺麭《パン》を割《さ》いていると、 「どうしたんだ、マデック、いやに沈黙《むっつり》しているじゃないか」  主人が声をかけると、 「お前さん、気分がわるいんじゃないの」  と女房も聞いた。 「うんにゃ、お日様にひどく照りつけられたせいだよ。小舎《こや》で休んだらええかも知んねえ」  すると主人は莞爾《にっこり》して、 「うむうむ、それがよかろう」  昼食《ちゅうじき》を終えると皆んなが昼寝をした。少し涼しくなるまで骨休めをする習慣になっているのだ。  ジャンはしかし、眠らなかった。腹ん這いになって頬杖をついて、じっと考えこんでいた。  二時が鳴ると、作男等は起きだして仕事にかかった。そよとの風もない黄金《こがね》色の麦畑に、さっくさっく[#「さっくさっく」に傍点]と刈り込む節調的《リズメ》な鎌の歌がまたつづいた。  皆んなが仕事をやっている間、主人は長々と寝そべって、眠そうな声でジャンの女房を呼んだ。 「おいセリーヌ、お前縫針を持ってるかい」 「ござりますよ、旦那さま」 「そんならここへ来て、わしのブルーズを繕うてくれ。乳牛《うし》は皆んな牧場《まきば》へ放してあるし、あれ等を牛舎《こや》へ入れるまでにはまだまだ間がある。おお、ここも暑くなって来たぞ。わしは林檎《りんご》の樹の下へ行っているから、お前も束《たば》ねが済んだら彼処《あすこ》へ来てくれないか。畦《あぜ》を歩くんだぞ、麦を倒すと可《い》けないからな」  男女《ふたり》は窃《ぬす》み笑いをした。ジャンは注意していたので早くもそれを見て取った。そして彼は何か物をいいそうにしたが、そのまま黙って首をうな垂れて自分の持場の方へ歩いて行った。  婆さんが小舎《こや》へ帰ってしまったので、今度は女房が彼の後について来た。  女房が束をしめあげたとき、彼は振りむきもしずに声をかけた。 「お前は先刻《さっき》旦那の仰《おっ》しゃったことを聞いたかね」 「ああ聞いたよ」 「そんなら、何でぐずぐずしているだ」 「今行くよ」  かがんだままに、乱れた後れ毛を掻きあげてから、両手を腰へあてて、派手な裾着《すそぎ》の下でくるっと胴体をひねると、彼女は矢車菊を一本|唇《くち》に啣《くわ》えて、畦づたいにすたすた歩きだした。  彼女の姿は海にでも入るように、次第に草の中へかくれて行った。そして彼方《むこう》の林檎の樹のところで全く見えなくなったとき、ジャンは再び刈り方をつづけた。  彼はしかし、午前中のような落ちついた軽快さを失っていた。性急《せっかち》に進んだかと思うと、突然手を休めたり、また思いだしたように遣りはじめたりするのであった。うつ向いて、口を堅く結んで、額にはむずかしそうな八の字をよせていた。  婆さんに聞いた言葉の一つ一つが、胸の中で新酒のように醗酵して来た。顳顬《こめかみ》のあたりがずきんずきんして、総身が憤恚《いかり》で酔っぱらっているようであった。最初は半信半疑だったけれど、今の先目撃した事実によって、それが間違いのない、しかもいよいよ確かなことのように思われて来たのだ。  彼は前へ前へと刈り進んで行ったが、何だかあの林檎の木蔭で女房と主人が笑い交わしたり、接吻したりしている容子《ようす》がまざまざと眼に見えるような気がした。  全身の力を腕にこめてぐんぐん刈ってゆくと、後ろには麦穂の束が続々ところがり、そして、鎌に喰われたあとの畑が急に広々となって見えた。彼は血気|旺《さか》んな時分でさえ、こんなに仕事の捗《はかど》ったことがなかった。 「おうい、一日で刈り仕舞いにするかよう」  遠くの方から、作男の一人が声をかけると、 「そうかも知んねえ」  とジャンは腰ものばさずに答えた。  やがて、かの林檎の樹から数メートルのところまで進んで行ったとき、彼はふと手を休めて、聴き耳をたてると、そこにひそひそ話が聞えた。それは確かに女房の声で、 「厭……あの人に見つかると大変よ」 「しっ、彼《あれ》はまだ向うの端《はず》れにぐずぐずしているんだよ。ここまで刈って来るには、半時間も間のあることだ……どれ、もっと傍《そば》へお寄り」  ジャンは陽に炎《や》けた顔を真蒼にして数秒間立ちすくんだが、屹度《きっと》思い定めた風で再び刈り進んだ。しかし今度は歩調をゆるめて、音を立てないように静かに鎌を捌きながらやってゆくと、もう少しでかの林檎の樹の下へ出ようとするとたんに、ふと接吻の音が聞えて来た。  ジャンはすっくと起《た》ちあがると、物すごい形相で鎌を振りあげたが、その刃先が陽にきらめくよと見る間に風を切って打ちおろされた。きゃっ[#「きゃっ」に傍点]と消魂《たまぎ》る叫びとともに宙に飛んだ二つの首級《くび》がもんどり打って地面へころげ落ちると、さらさらという音がして、折れた麦穂を鮮血《あけ》に染めた。と、真紅《まっか》になった鎌が高く投《ほう》りだされた。  ジャンは鎌を投げ棄てると、血染めの両手を振りながら叫んだ。 「誰か来てくれい。人がいたとは知らねえで、おらアどえれえことをやっただ!」 底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社    2003(平成15)年2月14日初版 底本の親本:「夜鳥」春陽堂    1928(昭和3)年6月23日 初出:「夜鳥」春陽堂    1928(昭和3)年6月23日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:ノワール 校正:栗田美恵子 2022年2月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。