見開いた眼 モーリス・ルヴェル Maurice Level 田中早苗訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)頭髪《かみ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)今夜|此家《ここ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)きゃっ[#「きゃっ」に傍点] -------------------------------------------------------  寝床に仰向きになっていたその死人は、実に物凄い形相だった。  体はもう硬直していたが、頭髪《かみ》は逆立ち、口を歪め、唇は上反《うわぞ》って、両手で喉を掻きむしる恰好をしていた。そして小さなランプが一つ点《とも》っている薄暗い室《へや》の中に、なお生けるがごとくかっと見開いた両眼には、最後に何か恐ろしいものを目撃した恐怖の跡が、まざまざと残っていた。  その傍《そば》で、警部や警察医や刑事達に取囲まれた一人の下男が、不気味な屍体を見まいとして、自分の顔へ手を翳《かざ》しながら、話をつづけた。 「十一時頃だったと思います。旦那様はもうお臥《やす》みでしたが、私は自分の部屋へ退《さが》ろうとしていると、叫び声がしました。ハイ、たしかに叫び声です。私はいきなり階段を駆け登《あが》って、旦那様のこのお室《へや》の戸を叩きましたが、御返事がないものですから、室内《なか》へ入って御様子を見ると、思わず後退《あとすざ》りをして大声で助けを呼びました。ところが、そのとき、ランプのあたりに二個《ふたつ》の人影がちらついたのを認めました。で、私は飛ぶように階段を降りて、庭を突切って、お届けに行ったんですが、その間に誰も此室《ここ》から逃げ出せる筈がありません。何故って、私は戸口を二重鍵で締めておきましたし、どの窓も厳重な格子付になっておりますので」 「うむ、お前の考えで怪しいと思う者がないかね。その人影っていうのは、判然《はっきり》と見たんじゃないのか」  下男は漠然たる身振りをやって、少しもじもじしながら、言葉をつづけた。 「実は、こうなんです――二年前から小間使が一人住込んでおりまして、つまりお妾《めかけ》ですが、旦那様は六十四で、その女はまだ若いものですから、とうとうお気に入りになって、鍵を預るといったようなわけで、いずれ遺産を相続するだろうなんて噂もありました。それだのに、その女は夜分に男を引入れたりなんかしまして……私達もこれまでは秘密《ないしょ》にしておきましたが、どうも警察の方がお出《いで》になった上は、何もかも申し上げないわけに行きません……それで先刻《さっき》私が見た人影というのも、実はその男女《ふたり》だったのでございます」 「それは重大なことだぞ。間違いがあるまいな」 「わかっております」  下男はきっぱりと答えた。 「よしっ、その小間使をつれて来い」  小間使は寝乱れ姿の髪も整えずに、ふるえる手先で下着の襟をかき合せながら入って来たが、 「わたしは何も存じません」  と問われぬ前《さき》から、はや涙ぐんで弁解した。 「ドクトル、屍体を検案して下さい、成るだけ動かさんようにしてね」  警部は警察医にそういってから、女の方へふり向いて、 「お前を呼びにやったとき、お前は何処にいたのだ」 「わたしの部屋におりました」 「お前だけか」 「あら……」  それは全く自然に出た調子であった。  寸時《ちょっと》皆が黙りこんだ。と、女は俄かに歯の根も合わぬほどがたがたふるえだした。 「何故怖がるんだ。何がそんなに怖いのか」  彼女は頤《あご》で屍体の方を指して、 「あれ、あれ……旦那様が……わたしを睨んで……」 「なアんだ、馬鹿馬鹿しい。確《しっ》かりしろ。ところで、お前はこの人のお妾だったそうだな」  彼女はちぢこまって、両手を喉へあてたまま、死人の眼をじっと見つめたが、 「わたしはもう、怖くて見ていられません」 「お前も、情夫も――お前には他に情夫がある筈だ――この人が大変な金満家《ものもち》っていうことを知っていただろう」 「存じません。それに、わたしは情夫なんかございません」 「今夜|此家《ここ》へ忍びこんだ男は何人《だれ》だい」 「存じません」 「お前は先刻《さっき》誰と一緒に階段を逃げたのか」 「存じません」 「そんなら、今この室《へや》の外で二人の警官に捕まっている男は何者《なん》だい」 「相済みません……わたしは嘘を申しました」彼女は首をうな垂れて、口ごもりながらいった。「けれども、その外のことは何も存じません」  そのとき警察医が、 「ちょっと此処《ここ》へ」  と警部に声をかけた。  女はまたふるえだし、両手に顔を押しかくして、 「おお怖わ……旦那様が、わたしを睨んでいます……どうぞ、わたしを彼方《あっち》へつれて行って下さい……」  警察医は屍体にかがみこんで指で触りながら、低声《こごえ》でいった。 「何でもなさそうです。別段に変った点もありません。暴行をうけたらしい形跡は全然ないし、擦過傷すらもないんですからね」 「そんなら毒殺かな」 「毒殺といっても、暴力による毒殺なら、やはり一種の暴行ですよ。何故って、毒を嚥下させるためには、喉を引絞めるとか、鼻を押えなければならないもので、随《したが》ってそこに何か徴《しるし》が残らねばならんわけです。鼻の上に爪痕があるとか、掻き痕《きず》とか、頸を絞めつけた痕《あと》とか、とにかく、そうした痕跡がなければならんわけです」 「そんなら、死因をどう説明しますか」 「まず脈管閉塞か、心臓痲痺か、でなければ動脈瘤破裂でしょうな」 「つまり自然死なんですか」 「勿論そうです」 「だが併《しか》し……」  そのとき、まだ両手に顔をかくしていた女が、一層はげしく喚き立てた。 「彼方《あっち》へつれて行って下さい……旦那様が、わたしを睨んで……おお怖わ……」 「だが併《しか》し」警部は低声《こごえ》になって、「この女が怖がるのも無理がありませんよ。死人を御覧なさい。いったい自然死で、こんな物凄い顔になりましょうか。不気味な死人には慣れっこになっているわしでさえ、真正面《まとも》に見られんくらいですからね。わしは、ピストルで脳天を射抜いた奴も見たし、脳漿が血潮に浸っている部屋へ踏みこんだり、女子供の惨殺された屍体だの、松火《たいまつ》のように燃えながら死んだ焼死者も見たが、この死人のような物凄い顔は、見たことも想像したこともありません。どうです、この眼、この表情、そしてこの開いた口は。貴方が何といったって、自然死でこんなひどい形相になるとは思えないんですがね」 「おお怖わ……わたしを睨んで……」  と女は相変らず口走っていた。 「それに、この女は狂気《きちがい》でもないのに、こんな風です。お聴きなさい、『わたしを睨んでいる』なんて喚いています。そら、まるで魔攻《まぜめ》か、歌曲《うた》の|折返し《ルフラン》でも唱えているような調子じゃありませんか。犯罪者はよくこれをやりますよ。被害者の傍《そば》へ引きだすと、彼等はきっとこんなことを口走るもんです。自分で殺した者が断末魔の形相や姿勢のままで死んでいるのを見たら、そりゃ堪《たま》らんでしょう。とにかく、わしを信じて下さい、間違いっこありませんよ」  警部はちょっと黙りこんで、女から死人の方へ視線をうつした。死人の眼は相変らず不可思議な闇を見すえていた。  女は間断《ひっきり》なしに例の忌わしい歎願をくりかえした。 「彼方《あっち》へつれて行って下さい……わたしを睨んでいます……彼方《あっち》へつれて行って下さい……」  しかし誰もそれに取合おうとしなかった。  警部はまた声をひそめて、 「ああドクトル、解った、解った。そこで最後の叫びが何のためで、何故暴行の痕跡が残らないかを説明しましょう。まず、女が情夫と二人で此室《ここ》へ忍びこんだことは、疑う余地がありませんね。彼等は主人が眠っていると思ってそっと戸を開けました。その目的が物盗りであったか、殺人であったかは審問の上で判りましょう。ところが主人はその時まだ眠らずに半醒《うとうと》していたんです。ランプが消されていなかったのが何よりの証拠です。つまり主人は、戸の蔭から、多分兇器を所持した不気味な二箇《ふたつ》の人影が室内へ忍びこんだのを見て、きゃっ[#「きゃっ」に傍点]と声を立てたのです」 「もう我慢が出来ません……」女はか細い声で呻いた。「もう可《い》けない……わたしを睨んで……」 「この女を彼方《あっち》へ連れだしましょうか」  一人の刑事が訊くと、警部は、 「いや、此奴《こいつ》狂言がうまいんだ。こっちへ連れて来い、寝台の頭《さき》へ。そうそう、そこなら死人の顔が見えまい。死人は寝がえりを打ちはしないからな……どうだ、これで気が落ちついたか。もう怖い顔が見えんぞ」  女はほっと溜息をして、それっきり例の歎願をやめた。  そこで警部は説明をつづけた。 「今もいったように、老人は恐怖の叫びをあげたのです。殺されかけたのでなければ、夜中にそんな消魂《けたたま》しい声を立てるわけがないんですよ。ところが忍びこんだ二人は、その叫び声にぎょっとして階段の方へ逃げだしたがそのときに、下男が二人の姿を認めたのです。だから文字通りに殺人が行われたのではないが、主人は彼等が手を下す前に、恐怖のために死んだのです。医学上から見て貴方の御意見はどうですか」 「それは、医学上あり得ないことではない。大方そんなことに違いないと思いますがね、たった一つ腑におちない点があります。屍体を御覧なさい、首を縮めたなりで正面を向いていますね。そしてこの視線を辿ると、まっすぐに寝台の裾の方を睨んでいます。ところが、犯人|等《たち》が入って来たという戸口は別の側にあって、三メートル以上も右へ片寄っているじゃありませんか。そこで死人のかっと開いている眼は、果してその戸口を見ていますかね、どうです」 「それで?」  警部が問いかえしたとき、人々はきゃっ[#「きゃっ」に傍点]という叫び声を聞いた。見ると、女が突然に鯱《しゃち》こばって、口を歪めて両手で喉を掻きむしりながら、はや呼吸《いき》を引取るところだった。人々は彼女が仰向けに打倒《ぶったお》れるのを恐れて早速抱きとめたが、彼女は首を縮め、眼玉をかっと剥いて前方を凝視したまま、体はもう硬ばっていた。  下男はふるえあがって、 「不思議ですね、今のこの女《ひと》の叫び声は旦那様のと酷似《そっくり》でございました」  すると寝台の裾の方に立っていた誰かが、ふと主人の死顔と女の死顔とを見くらべて、 「この二人の死人は、眼付が酷似《そっくり》ですね……ひょっとすると、死際に同じものを見たんじゃないでしょうか」 「おお君のいうとおりだ。此女《これ》に罪はない」  と女の屍体を運ぼうとして胴中《どうなか》を抱えていたドクトルが、だしぬけに叫んだ。 「そら、いたぞ、いたぞ……老人の見たものが……そして、この女の見たものが……」  羽毛《はね》布団の下から、真黒なものがむくむくと姿を現わした。それは一|疋《ぴき》の大蜘蛛《おおぐも》だった。腹のふくれた、背の盛りあがった、恐ろしく巨大なその天鵞絨《びろうど》色の生物《いきもの》が、逞ましい毛むくじゃらな肢《あし》を毛布にふん張って、寂然《ひっそり》した沈黙《しじま》にかさこそ[#「かさこそ」に傍点]と音を立てながら、死人の不気味な顔へのっそりと這いあがって来たのであった。 底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社    2003(平成15)年2月14日初版 底本の親本:「夜鳥」春陽堂    1928(昭和3)年6月23日 初出:「夜鳥」春陽堂    1928(昭和3)年6月23日 入力:ノワール 校正:栗田美恵子 2024年3月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。