二人の母親 モーリス・ルヴェル Maurice Level 田中早苗訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)莞爾《にっこり》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)碌々|談話《はなし》 ------------------------------------------------------- 「坊ちゃん、いくつ?」  通りがかりの老紳士が問いかけると、 「四つ」  砂いじりに夢中になっていた男の子が答えた。 「名前は何ていうの」 「ジャン」 「苗字は?」 「ジャン」 「それだけじゃ、わからないね」老紳士は莞爾《にっこり》して、「ジャンという名前の子供は沢山いるからね。お父さんの苗字は何というの」 「僕、ジャンていうのよ」  と子供は無邪気に紳士の顔を見あげた。  そのとき、傍《そば》の共同椅子で縫ものをしていた一人の女が、仕事を膝の上へおきながら、 「この子はジャンという名前でございますの。苗字はございません」  言葉の調子が悲しそうで、何となく愁いに窶《やつ》れた顔をしていた。  老紳士は気の毒になって、ちょっと帽子をあげて詫言《わびごと》をいうと、彼女は首をふって、 「いいえ、どういたしまして……坊や、此処《ここ》へいらっしゃい」  子供を傍《そば》へひきよせ、頭を軽く撫でて額にキスをしてやってから、 「さア、彼方《あっち》へ行ってお遊び、少し駆けて御覧」そういって再び仕事を取りあげながら、「何といっても、子供は活溌に駆け廻るのが、体のために一等でございますのね」 「それはそうですとも。失礼ですが、あなたのお子さんですか」  女は黙ってうなずいた。  老紳士は駆けてゆく子供をじっと見送っていたが、 「よく似ておられますね」  女はかすかに手先がふるえた。と思うと針の手を休めて、 「ほんとうに似ているでしょうか」 「ええ、あなたに似て可愛い坊ちゃんです。もっとも、あのくらいのときは漠然と似ている場合が多いので、細かい特徴になると、お父さんと較べてみなければわかりませんがね」  女は如何にもといったようにもう一度うなずいて、それから沁々《しみじみ》と語りだした。 「実は彼《あれ》がわたしの子かどうか、わかりませんのです。こう申しますと、そんな馬鹿なことがあるものかと仰《おっ》しゃるか知れませんが、事実ですから仕方がありません。何もかも運命でございます。ときどき、わたしは彼《あれ》が父親かわたしかに似ている点を見つけだそうとして、しげしげとあの小さな顔を見つめますの。また時としては、そんな迷った考えは断然捨ててしまわねばならぬと思いまして、じっと眼をつぶることもございます。  あの子は千九百十八年の四月に、産科病院で生れました。恰度戦争の真最中で、独逸《ドイツ》の軍隊が遠くから巴里《パリ》を砲撃しているときでした。わたしの外にもう一人産婦が同じ産室に入っておりましたが、その二人が殆んど同じ時刻に、どちらも男の子を産みおとして、間もなく、敵の砲弾がわたし達の寝台のすぐ傍《そば》で破裂したものですから、それはひどい騒ぎでございました。  産科病院では、お産がありますとすぐに、母親の寝台の番号を書いたものを赤ん坊の腕へまきつけることになっています。そうしませんと、生れたての赤ん坊は大てい同じで、見わけがつかなくなるからです。ところがわたし達の場合は、今申したように、お産の後始末もつかないうちに砲弾が破裂して、それがために、其処《そこ》にいた産婆と生れた赤ん坊の一人が即死してしまったのです。  わたしたち産婦は二人とも気が遠くなっていたものですから、痛みも疲れも夢中で、敵弾が破裂したことは微かに覚えていますけれど、その恐ろしい実況はまるっきり知りませんでした。病院では、今にも天井が陥《お》ちそうになったので、大急ぎでわたし達を安全な場所へ搬《はこ》びだしてくれたそうですが、わたし達が正気にかえったときは、赤ん坊は一人っきりで、しかも腕に番号がついていないものですから、わたしの子か、それとももう一人の産婦の子か、誰にもわかりません。わたしの赤ん坊は、たしかに右の方の欄《かこい》の中に寝かしてあって、砲弾は左の方で破裂したんですから、死ぬるわけがないと思いますが、もう一人の産婦も同じようなことを云い張るので、結局わけがわからなくなってしまいました。何分にも主任の産婆が即死してしまったので、外の看護婦達には実際の事情がわかりませんでした。  わたし達はそれについて訊問をうけましたが、証拠となるべきものは何もありません。それはもう赤ん坊はわたしの子にちがいないのです。わたしは堅く信じています。けれど、信ずるというだけでは証拠になりません。もう一人の産婦も、やはりわたしと同じように信じているのです。  その当座、わたし達は夜も昼も泣きの涙で暮らしました。それにもう一つ悲しいことには、わたし達はそのとき、二人とも寡婦《やもめ》になっていました。何方《どちら》も、良人《おっと》が戦争に出て戦死したのです。それで頼りになるのは子供だけなんでございますから、わたし達は、死んだ赤ん坊が可憫《かわい》そうだといっては泣き、生き残った赤ん坊が判らないといっては泣きました」  彼女は涙をふいて、 「ジャンや、遠くへ行くんじゃないよ。そこに遊んでおいで、いい子だね」  子供の方へ声をかけたが、またそぞろに遣る瀬ない気持になって、話のつづきを語った。 「わたし達二人の産婦は知らない仲でしたから、碌々|談話《はなし》もしませんでした。お互いに何か盗まれたような気がして、睨み合っていたのです。看護婦は、わたし達が自暴《やけ》になって無分別な真似でもしはしないかという心配から、成るたけわたし達に赤ん坊を抱かせないようにしました。実際、わたし達はどんなことでもしかねないような荒《すさ》んだ気持になっていたので、看護婦が要心したのも無理がないと思います。そうしているうちに病院でも持てあまして、赤ん坊を寧《いっ》そ孤児院へやってしまおうという話がはじまりました。  さアそれを聞くとわたし達はびっくりして、たった一ト目でいいから見せて下さい、触らせて下さい、キスをさせて下さい……そして最後《しまい》には、何がどうあろうとも、わたし達の傍《そば》へおいて下さいと歎願しました。それで、赤ん坊は結局わたし達の手に残されることになりました。  赤ん坊は、初めは只もう、ぎゃアぎゃア泣いてばかりいました。やがて欄《かこい》の中へ入れると、きょろきょろわたし達|両女《ふたり》の顔を見ているようでした。赤ん坊はそのときまだ判然《はっきり》と眼が利きはしませんが、わたし達の思い做《な》しでそんな風に見えたのです。とにかく、赤ん坊が大変幸福そうに見えたものですから、わたし達|両女《ふたり》もやっと安心して、お互いに口を利くようになりました……尤も、初めはごく慎ましく『難有《ありがと》うございます、奥様《マダム》』とか『御免あそばせ、奥様《マダム》』といったような風でしたが、だんだん赤ん坊の話になりますと、自分の子供のことをいっているような調子で、親身に語り合いました。  床上げをした日に、お互いに容貌《かお》を見合って、年齢《とし》をくらべてみましたが、何方《どちら》もめっきり老けたようでした。結局、わたし達はもう、世間の女《ひと》のようにはなれないということを悟りましたので、赤ん坊を両女《ふたり》の所有《もの》にして育ててゆこうと相談しました。それで、あの子は彼女《あのひと》とわたしの共同の子供なのです。出産証明書にも『父不明――母不明』と記入されています。  わたし達は、子供をつれて病院を出ますと、共同で一つの部屋を借りて住まうことになりました。わたし達は今は同じ勤め先に働いていますが、一人は子供のお守りをしなければなりませんので、交代で一日おきに出勤しています。子供は両女《ふたり》に同じように懐《なつ》いていて、よくいうことをききます。わたし達も、今はそれを不自然と思わぬようになりました。子供は何も知らずに、一つのキスの代りに二つのキスをうけています。あの子は幸福でございます」 「それで、あなた方はどうですかね」 「わたし達?」女は両手を堅く握って、溜息をつきながら、「お察し下さい、貴方《ムッシュウ》。お互いに口へ出してはいいませんが、それはもう、しょっちゅう、あの小さな顔の中に何か昔の思い出がありはせぬかと探しています。どうかすると突然《だしぬけ》に『この眼は良人《あのひと》の眼付に似ている。口元といい、頭の恰好といい、そっくりだ』そんなような想像に囚われることがあります。夜寝床へ入ってからも、彼《あれ》が誰の子か永久にわかりそうもないのを、ひそかに歎きます。もっともそれが判明《はっきり》すると、却って恐ろしいことかも知れません。そしてあの子がもっと大きくなったら、何ぞ新らしい証拠――例えば声とか性癖《くせ》とか、動作とか、死んだ良人《おっと》の血をうけている争われない証拠が出て来はせぬかと、待ちもうけていますけれど、よしんばそうした証拠が出て来たって、わたし達はお互いに何も云いだせないでしょう。何故って、両女《ふたり》で育ててみますと、彼子《あれ》が可愛くて可愛くて、お互いに手離せるものでもなし、片一方が独り占めにするということも出来ないようになってしまったのでございます」  いつの間にか日が暮れかけて、四辺《あたり》が仄《ほの》ぐらくなって来た。と、並木の向うからもう一人の女がやって来た。彼女《それ》も打萎《うちしお》れた侘しそうな風をしていたが、その姿をちらと見ると前の女が子供の方へ声をかけた。 「ジャンや、母ちゃんが帰って来たよ」 「そう、母ちゃん」  子供は木製の玩具《おもちゃ》の鋤《すき》をもって起《た》ちあがった。  それから、今来た女の方へとっとと駆けて行って、 「お帰んなさい、母ちゃん」  と活溌な声でいった。  やがて二人の女はその子を中に挿んで、両方から小さな手をひきながら公園を出て、彼等の住室《へや》の方へ帰って行った。 底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社    2003(平成15)年2月14日初版 底本の親本:「夜鳥」春陽堂    1928(昭和3)年6月23日 初出:「夜鳥」春陽堂    1928(昭和3)年6月23日 入力:ノワール 校正:栗田美恵子 2022年1月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。