流血船西へ行く 山本周五郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)伊藤次郎《いとうじろう》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)三本|帆檣《マスト》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)‼ ------------------------------------------------------- [#3字下げ][#中見出し]人影なき血塗れ船[#中見出し終わり] 「船長、至急無電報が入りました」  太平洋沿海の救護船、太平丸の船長室へ、元気に無電係の伊藤次郎《いとうじろう》青年が入って来た。 「この凪《なぎ》に難波船でも有るまい、何だ」 「流血船の報告です」 「え? ――又か‼」  太平洋の鮫《さめ》と異名を取った樫原《かしはら》太市船長の顔が、急にぴんと引緊《ひきし》まった。――伊藤青年は報告紙を見ながら、 「発信はアメリカの豪華船P・F号です、簡単に読みます。……本船は三月二日午前七時十分、東経百五十度、北緯二十度三分の海上に於《おい》て、三本|帆檣《マスト》の一漂流船あるを発見せり、依《よ》って直《ただ》ちに船員を派して検分せしに、船内には全く人影無く、船室、甲板、歩廊等、悉《ことごと》く鮮血にまみれ居れり、恐らく大殺人惨劇の行われたるものと思わる。救助すべきもの無きに依り、本船は是《これ》を放置せしまま母港に向け進航せり」 「又か、――又か、くそっ!」  樫原船長は卓子《テーブル》を叩いて立上《たちあが》った。  この奇怪な「流血船」の話は、もう半年も前から伝わっていた。――太平洋のまん中に亡霊の如く漂っている三本|帆檣《マスト》の船、その中には全く人の姿無く、然《しか》も船内は到るところ生々しい鮮血にまみれていると……無気味な、血腥《ちなまぐさ》い話なのである。  職務上の必要ばかりでなく、冒険好きな樫原船長はずっとこの奇妙な報知に注意していたが、季節風と海流とに関係なく、「流血船」は或る一定の線を西へ西へと流れている事が分った。太平丸が最初に報告を受けた時には、その船は加奈陀《かなだ》の北西二百|浬《カイリ》の海上にあったが、それから半年のあいだに二千|浬《カイリ》以上も西へ来ているのだ。 「こんな馬鹿な話があるか」  船長が屹《きっ》と眉をあげて云《い》った。 「誰も乗っていない船が、半年間少しも針路を変えずに二千|浬《カイリ》以上も同じ方向へ漂流するなんて、そんな馬鹿げた事があるか、――そのうえ鮮血だ、兇悪な殺人だ、惨劇だ、まるで百年も昔の海洋小説のような事を云う、近頃の船乗《ふなのり》はみんな頭がどうかしたに違いない」 「でなければ船長が臆病になられたのでしょう」 「な、なんだと⁉」 「失礼――」  若い伊藤青年は、にこにこ笑いながら一歩退いて云った。 「僕は斯《こ》う云いたかったんです、流血船の話は半年も前から聞いています。そして船長は太平洋の鮫と異名のある人です。――どうして噂の実否を確めに行かないのですかと」 「馬鹿な事を、我々には沿海救護という大事な任務がある」 「P・F号の無電に依ると、流血船の位置は領海へ迫ること三百|浬《カイリ》ですよ船長、そこに何か惨劇があったとすれば、救護に行くのは我々の任務ではないでしょうか」 「ふうむ、――領海から三百|浬《カイリ》か、……」  船長は眤《じっ》と伊藤の眼を覓《みつ》めた。伊藤青年は力に溢れた微笑を見せている。――如何《いか》にもさあ行きましょうと云いたそうだ。 「貴様に計られたな」  船長はやがて呶鳴《どな》るように云った。 「宜《よ》し、臆病者と云われては俺の名が廃《すた》る。出掛けよう」 「しめたッ」 「直《す》ぐ無電で横浜の本部へ報告しろ、領海附近に漂流船あり、救護のため進路を変更す、と云うんだ、流血船の事には触れるな」 「畏《かしこま》りました、船長」  伊藤次郎は活溌《かっぱつ》に答えて踵《きびす》を返した。  彼は得意であった。なにしろこの半年以来ずっと好奇心の的だった「流血船」を、愈々《いよいよ》探険する運びになったのだ。――実を云うと、同じ救護船浦島丸の無電技師で川本順吉という友達と、何方《どっち》が先に流血船の真相探険をするか、もう五週間も前から賭けをしていた。そのうえ当の浦島丸はいま、北部沿海に出動しているので、P・F号の無電は此方《こっち》と同様に聴いた筈《はず》である。だから賭けをした手前にも、浦島丸に先立って流血船探険を決行する必要があったのだ。 「しめしめ、是で川本の奴をあっと云わせてやれるぞ」  伊藤青年は本部へ無電を打ちながら、会心の笑をもらすのであった。  太平丸は進路を西北西に変えた。海はすばらしい凪である。千二百|噸《とん》の小さな船だが救護船の特徴として荒天航行の設備は充分だし、速力も普通船より五割がた早い――大きなゆるい波のうねりを引裂きつつ、まるで辷《すべ》るように航《はし》って行く。  その日の暮れがた、恐ろしい濃霧に襲われた。そして冒険の第一歩が始まった。 [#3字下げ][#中見出し]海坊主に注意せよ[#中見出し終わり]  無電室で附近の海上に船のいない事を確めた伊藤青年は、後の係を助手に命じて置いて甲板へ出た。時は黄昏《たそがれ》である。船の周囲は壁のように濃密な霧に包まれている。雨帽子や外套は忽《たちま》ち濃霧に濡れ、雨の中にでもいるように、ぽとぽとと滴《しずく》になって垂れて来る、――と、不意に、 「船がいるぞ、停れ」  と云う叫びが見張所から聞えて来た。 「船だ船だ、ゴースタン」 「ゴースタン」  喚きは喚きを呼んで、忽ち太平丸は速力を緩め、推進機の逆廻転をしながら舳《へさき》をやや右へ転じた。その刹那に、霧の中からぽっかりと一艘の船影が現われた。 「船長三本|帆檣《マスト》ですぜ」  伊藤青年は船長の側へ近寄って云った。 「うん、だがまだ予定の位置じゃない」 「それに舷灯も点けていません」 「まあ待て」  太平丸は号笛《ホイッスル》を鳴らしながら、相手の方へ近寄って行った。そして両方の舷が殆《ほと》んど触合《ふれあ》うほど接近した時、相手の船上に風雨灯の光が見え、四五人の船員が舷門の方へ走って来た。太平丸の探照灯を真向《まっこう》から浴びたこれらの船員たちはみんな赤髭の外人だった。 「何故《なぜ》、霧笛を鳴らさんのか」  船長が英語で叫んだ。 「我々は[#「我々は」はママ]あらすか[#「あらすか」に傍点]ノ漁夫デス」  相手が答えた。「五時間ホド前ニ、巨《おお》キナ海坊主ニ出会ッタノデス。皆ソレデ船内ニ隠レテイマシタノデ、何ニモ知リマセンデシタ」 「他に怪しい船は見なかったか?」  相手はひそひそと何か暫《しばら》く囁合《ささやきあ》っていたが、今度は別の声が答えた。 「昨日ノ朝、妙ナ船ニ会イマシタ、三本|帆檣《マスト》ノ二千|噸《トン》バカリノ奴デス。船内ニハ誰モ居ナイ様子デ……何処《どこ》も[#「何処も」はママ]彼処《かしこ》モ血ダラケデシタ」 「その船は停っていたか?」 「西ノ方ヘ漂流シテイマシタ。――ソレヨリ、此《この》附近ニ巨《おお》キナ海坊主ガ出マスカラ注意シテ下サイ。奴ハ船ヘ襲イ掛ッテ来マス」  船長は嘲るように肩を竦《すく》め、振返《ふりかえ》って出発を命じた。――伊藤次郎は霧の彼方《かなた》へ消えて行く漁船を見送りながら、変にぞくぞくと背筋の寒くなるのを覚えた。多少でも海上生活をしたもので、海坊主の話を聞かない者はないだろう。殊《こと》に霧や靄《もや》の多い海では屡々《しばしば》見られる現象である。それは物の影が霧に映るからで、決して超自然のものではない。――然《しか》し今、伊藤青年はアラスカ漁夫の話を聞いていて、妙に生々しい印象を受けたのだ。  ――奴は船へ襲い掛って来ます。  という言葉は特に強く響いた。 「無気味だ、なんだか妙な気持がする、普通の海坊主とは違うのではないか……」  そんな事を思いながら無電室へ戻ってみると、丁度《ちょうど》助手が何処《どこ》からかの無電を受けているところだった。助手は伊藤青年の顔を見るなり、 「浦島丸の川本さんです」  と云ってレシイバアを渡した。 「よう伊藤か」  相手は正に川本順吉だった。 「五週間まえの賭けは忘れないだろうな」 「それがどうした」 「驚くなよ、浦島丸は一昨日から流血船を捜していたんだが、一時間ばかり前に到頭《とうとう》捉えたぞ」  伊藤青年は思わずしまった[#「しまった」に傍点]と呻《うめ》いた。 「おい、それは本当か」 「現に僕の船窓《まど》から見えている、いま船員たちが乗込んで行ったところさ、気の毒だが賭けは僕の勝利らしいな、はははは」  既に海上は暮れている。この無気味な夜を冒して、彼等はいま流血船の探険を始めたのであろうか、――先手を打たれた口惜《くや》しさよりも、伊藤次郎にはそれが心配になった。 「賭けに負けたのは認めるよ。それより川本、こんな夜の冒険は危い、朝になってからするように云って、早く皆を引揚げさせろ」 「なんだ、君は遠くにいて怯気《おじけ》づいているのか、大丈夫だよ。相手は……」  そこ迄《まで》云って、不意に川本の声が聞えなくなった。 「おい川本、どうしたんだ」 「川本、川本、……」  突然向うでガシャン! と硝子《ガラス》器でも壊れるような音がした。同時に川本の声で、 「う、海坊主が来た、あッ あ――ッ、血みどろの手が……助けて呉《く》れ」 「どうしたんだ、川本ッ」 「殺されるッ、海坊主だ、助けて呉れッ」  ばりばり[#「ばりばり」に傍点]ッと板の裂ける音と共に、ぎゃっ[#「ぎゃっ」に傍点]という川本順吉の断末魔の悲鳴が聞えた。そして凡《す》べてが森閑《しん》と鎮まりかえった。  伊藤次郎は水を浴びたように、慄然《りつぜん》と居竦《いすく》んだ。アラスカ漁夫の話――奴は船へ襲い掛って来ます。……という無気味な言葉が、まざまざと耳の底へ蘇えって来た。 「大変だ!」  伊藤青年は脱兎の如く無電室からとび出して行った。 [#3字下げ][#中見出し]眼前に見る怪奇の船[#中見出し終わり]  樫原船長も顔色を変えた。  川本の言葉から推すと、海坊主が浦島丸へ侵入して、川本を惨殺したとしか思えない。川本は判《はっ》きり海坊主だと云った。  ――血みどろの手だ。  とさえ云った。 「全速力だ、霧などに構わずやれ」  船長は断乎《だんこ》として叫んだ。  伊藤次郎は直ぐ戻り、無電で浦島丸を呼び続けた。然し遂《つい》に答えは無かった。――船の位置だけでも先に聞いて置けば宜かったと思うが、もう今更《いまさら》どうにも仕様がない。ただ、出来るだけ早く現場《げんじょう》へ行って、危急の友を救うことである。  天の与えと云おうか、海の荒れる季節にも関《かか》わらず風も無く、海上には緩いうねりがあるだけ、然も夜半前には全く霧も霽《は》れたので、太平丸は湖上を行くように快走を続けることが出来た。――重苦しい夜が明けて朝が来た。四方は水平線の涯《はて》まで眼を遮る物もない。 「もうそろそろ予定の位置だが」  船長は夜明け前から船橋に立って、望遠鏡を眼から離さず監視している。 「無電はどうだ――?」 「幾ら呼んでも応答がありません」 「間に合わないかな」  船長の声は呻くようだった。  午前十時、太平丸は進路を南方に変えて逆航を始めた。P・F号の示した位置を過ぎても流血船に会わないのだ。――それに浦島丸の姿が見えないのも訝《いぶか》しい。 「この通り晴れているんだし、何方《どっち》か一艘はみつかりそうなもんだな」  そう云っている内にも時間はずんずん経って午後三時になった。――もう少しすると霧の来る時間になる、そうなったら益々仕事が困難になる基《もと》だ。どうかして霧の来ない内にと、全速力で逆航を続ける……と、それから間もなく、西方海上にぽつりと一艘の船影を発見した。――伊藤青年は双眼鏡を覗いたまま、 「船長、三本|帆檣《マスト》ですね」 「――うん」 「今度こそ流血船ですぜ」  遂に発見した。近寄るに従って、灰色に塗った船体、三本|帆檣《マスト》、半ばから折れた煙突などが段々はっきりして来る。正に噂の流血船だ、怪奇の船だ。――約一時間にして、太平丸は百メートルまで接近して停まる。 「総員甲板へ集れ」  船長の命令一下、定位置員を除いて二十名の屈強な船員たちは上甲板へ集った。――その時既に、北方から猛烈な濃霧の押寄《おしよ》せて来るのが見られた。 「本船は昨夜、浦島丸から無電を接受した。それに依ると我が友船は、この附近に於て奇怪な事件のため遭難したかに思われる、――その原因は向うに見える船だ。諸君も噂は聞いているだろう、あれこそ流血船だ」 「え、――流血船」 「流血船!」  船員たちのあいだにざわざわ[#「ざわざわ」に傍点]と囁きが交わされた。 「俺は、是から彼《あ》の船へ乗込んで、怪奇の真相を探査しようと思う。我らの海上から迷蒙の噂を除こうと思う、併せて友船浦島丸の安否をも探るのだ。――然し是には多少の危険が伴うかも知れない。指命はしないから俺《わし》と一緒に行きたい者は前へ出て呉れ」 「船長!」「船長!」「船長‼」  言下に全員が進出《すすみで》た。――船長は頷いて、 「有難《ありがと》う、然し五名だけは船へ残って貰わなければならん、それは此《この》船にも危険が無い訳ではない。寧《むし》ろ此方《こっち》の方にこそ恐るべき怪異があると思われるからだ」  海坊主の事を云っているのだな、――伊藤青年はそう思いながら、自分は船長の蔭の方へ回っていた。  人選が定《きま》って、短艇が下された時、濃霧が海上を密閉した。伊藤青年はそう云っては船長に許されぬ事が分っていたので、この霧を幸い、無電室を助手に頼んで置いて、素早く短艇の中へもぐり込んだ。  濃霧は渦を巻いて流れる。牛乳の中へでも浸っているようで、すっかり見透《みとお》しが利かない。流血船の形も、ぼんやりとして、幻のように薄く、影のように揺れている……  絶海の洋上に浮く怪奇の船、半年のあいだ海上の謎だった惨劇の船、それが今、眼前に在《あ》るのだ。 「あ! ひどい油だ」  舷側《ふなべり》にいた一人が叫んだ。 「船長、一面に重油が浮かんでいます」 「重油だって?」  船長が身を乗出した、――なる程、四辺《あたり》の海面は見渡す限り重油で蔽《おお》われている。伊藤次郎も隅の方でそれを見た。 「浦島丸だ、浦島丸は此処《ここ》で沈没したのだ」  彼は見る見る蒼白《あおざ》めてそう呟《つぶ》やき、眤《じっ》と瞑目した。 [#3字下げ][#中見出し]わッ、みんな死んでいる![#中見出し終わり]  お互いに位置を失わぬため、太平丸は絶えず霧笛を鳴らしていた。――ぼう、ぼう……という低い笛の音は、濃い霧の彼方《かなた》から訴えるように咽《むせ》ぶように淋しく響いて来る。場合が場合だけにその音色は、まるで地獄の呼声《よびごえ》のようにさえ思われるのだった。  短艇は流血船の周囲をひと廻りした。そして右舷舷側に、半ば壊れた梯子《タラップ》があるのをみつけて艇を繋いだ。 「先任、君は艇に残れ、何か怪しい事があったら拳銃《ピストル》で合図するんだ」 「は、――」 「油断するなよ」  そう云って一人を短艇へ残し、船長は真先《まっさき》に梯子《タラップ》を登って行った。――甲板へ一歩|踏出《ふみだ》したとたん[#「とたん」に傍点]に、人々は思わず息詰るような光景を見た。甲板は眼の届く限り、ぬらぬらと生々しい鮮血にまみれている。死骸を引摺ったかと思われるところや、池のような血溜りさえ見られる。そして……胸の悪くなるような血の匂いがむっ[#「むっ」に傍点]と鼻を衝《つ》くのだ。 「是はひどい――」  誰かが思わず叫んだ。然し他の者は唇の色を蒼くしたまま、石のように固く立竦んでいた。――船長は声を励まして、 「みんな拳銃《ピストル》を出せ、安全錠を外して、俺《わし》が射てと云ったら遠慮なくぶっ放せ、――是から船内を探査する」  云われるままに、皆は夫々《それぞれ》拳銃《ピストル》を取出《とりだ》し、いつでも射てるように確《しっか》りと右手に握った。船長は血溜りを避けつつ片手に懐中電灯、片手に拳銃《ピストル》を持って船内へ下りて行く、――矢張《やは》り血だ。歩廊も、壁も、天井までも生々しい血痕で埋まっている。どんな奇想天外の空想も、それだけの血を流す惨劇は考える事が出来まい。ネブカドネットの大虐殺でさえ、恐らくこの惨状には及ばぬだろう……遉《さすが》に海の猛者《もさ》たちも、この凄絶な光景には眼を外向《そむ》けた。  流血船、流血船、――正に是こそ流血の船と呼ぶ以外に呼名はない。  船長は先に立って、中甲板から下甲板、船底に至るまで隈《くま》なく調べ廻った。何処《どこ》にも人の姿はない、死体の影も無い。到る処に壊れた船具や、木材の破片が散らばっているだけである。――荷物と思われる物さえ無いのだ。全くの無人船、ただ生々しい血潮だけが、恐るべき事件の跡を物語っている。  船底から中甲板まで戻って来た時だ。 「船長、銃声です!」と伊藤青年がとび出した。 「や、伊藤、君は一緒に来たのか」 「そんな事より、そら、――」  タン! タン‼ 左舷の外に鋭い拳銃《ピストル》の音が聞えた。 「短艇で射っているんです」 「――来いッ」  何か起ったと思うより早く、船長は脱兎の如く上甲板へ駈上《かけあが》っていた。――更に梯子《タラップ》を下りると、短艇の中に残された一人が、 「船長、早く来て下さい」 「どうしたんだ、何かあったのか⁉」 「いま本船で銃声と悲鳴が聞えました」  云われて恟《ぎょっ》としながら見やった、――霧笛がいつか絶えている。 「船長、直ぐ帰りましょう」  伊藤次郎が叫んだ。船長はじめ一同は、追われるように短艇へとび込んだ。――浦島丸の運命が、ありありと伊藤の頭に浮んで来た。何かあったのだ、川本が無電をかけて寄来《よこ》した時と同じように、自分たちが流血船へ行っている後で、何か怪事が持上《もちあが》ったのだ。怪事……そうだ、海坊主の――。 「ぎゃあ――ッ」霧の彼方《かなた》から、再び凄《すさま》じい悲鳴が聞えて来た。船長は身を乗出しながら、 「早く、早くしろ、もっと早く」と喚き続けた。  短艇が太平丸の舷側へ着くなり、伊藤次郎は船長より先に飛移《とびうつ》っていた。見よ、――其処《そこ》には残留した船員たちの死体が転げている、あたり一面の鮮血だ。 「あッ 殺《や》られた」  人々は恐怖の叫びをあげながら、思わず後へたじたじとなった。 「みんな四辺《あたり》に注意しろ、怪しい者が見えたら構わずぶっ放すんだ」  船長は喚きながら死体の側へ跼《しゃが》んだ。  なんという無慙《むざん》な殺し方であろう、みんな頭蓋骨を一撃で粉砕されている。震える手で次々と調べて行くうち一人だけ微《かす》かに息のある者がいた。そして船長が急いで抱き起すと、――彼は恐怖で剥出《むきだ》された眼を海の方へ向けながら、 「海……海から――来た、彼奴《あいつ》が……」  もつれる舌で、ようやくそこ迄《まで》云ったが、そのままがくり[#「がくり」に傍点]と息絶えて了《しま》った。  伊藤次郎はこのあいだに無電室へ駈けつけたが、哀れや其処《そこ》でも助手が、……恐らく川本順吉もそうであったろうと思われるように、無電機にのめりかかったまま、頭を砕かれて絶命していた。 「海坊主だ、海坊主だ」  伊藤次郎は憑かれたように、慄然としながら外へ跳出《とびだ》した。  奇怪、奇怪、怪しい流血船と、船を襲う殺人怪魔、眼路《めじ》の限り波また波の洋上に行われた、この亡霊の如き事件の謎は、果してどう解くべきであろうか? ――伊藤次郎は茫然として戻って来た。と其時《そのとき》、 「見ろ、海坊主がいる」という叫びが聞えた。はっ[#「はっ」に傍点]として振向いたとたんに、――本船の左舷殆ど十メートルほどの波間に、巨《おお》きな、凡《およ》そ十|呎《フィート》もあるかと思われる灰色の怪物が浮上《うきあが》っていた。 「海坊主!」と見るなり、伊藤青年は拳銃を取直して、たんたんたん[#「たんたんたん」に傍点]‼ 続けさまに三発狙撃した。同時に、弾丸《たま》が当ったか否か、件《くだん》の怪物はずぶり[#「ずぶり」に傍点]と波間へ沈んだのである。 [#3字下げ][#中見出し]現われた十六名の怪外人[#中見出し終わり] 「やったぞ」 「海坊主を仕止めたぞ」  船員たちは歓声をあげながら、舷側に殺到して海面を眺めた、――その時、不意に濃霧が切れて、斜陽を決びた[#「決びた」はママ]流血船の姿が判《はっ》きりと見えた。  ――今の弾丸《たま》は当らなかった。だが今度浮いて来たら、と伊藤次郎は眤《じっ》と海面を見戍《みまも》っていたが、ふとその眼を流血船へ移したとたんに、 「――おや?」と不審そうな声をあげた。  急に伊藤次郎の眼色が変って来た。何かを発見したのだ。何かを! 見よ、彼の眉がきりきりと痙攣《ひきつ》った。そして固く引結んだ唇に活々《いきいき》とした微笑《ほほえみ》が彫《きざ》まれて来た。 「そうか、そうか、分ったぞ畜生!」  そう叫ぶと、伊藤青年は船長の側へ走《は》せつけて、 「船長、もう一度流血船へ戻って下さい」 「なに? どうするって⁉」 「直ぐ流血船へ踏込むんです、謎は解けました。憎むべき殺人鬼、海坊主の仮面をひん剥いてみせます、流血船のトリックを発《あば》いてやるんです。急いで下さい!」 「本当か、大丈夫か⁉」 「瓦斯《がす》弾を用意して、早く、直ぐです」  船長は伊藤の手腕を信じていた。――時を移さず瓦斯《がす》弾を積込《つみこ》み、決死の同志十名と共に、短艇は波を蹴って流血船へ向った。  同じ梯子《タラップ》から猿《ましら》のように、甲板へ上るとそのまま、伊藤次郎は先へ立って、ずんずん船底まで下りて行った。其処《そこ》は塗料の腐る匂いで息が詰りそうである――然し伊藤次郎は、懐中電灯を差しつけながら、散らばっている船具や板片《いたきれ》を掻退《かきの》け蹴飛《けと》ばし、塵も見逃すまじと船底の鉄板を検《しら》べ廻った。 「どうするんだ」  船長は不服そうに、「此処《ここ》は船底だぞ、その鉄板のもう一重《ひとえ》下は海だぞ」「そうでしょうか……」と落着《おちつ》いた声で答えた時、伊藤青年は思わず占《し》めた! と叫び、 「瓦斯《がす》弾の用意」と振返った、「僕が今|此処《ここ》を明《あ》けるから構わず中へ瓦斯《がす》弾を叩き込んで呉れ」 「鼠でも追出《おいだ》そうと云うのか」 「そう、巨《おお》きな鼠が出て来ますぜ、――そらッ」  叫びながら伊藤次郎が、うん――と鉄板の一部を持上げる。刹那! 待構《まちかま》えていた連中が手に手に瓦斯《がす》弾を持って、その穴の中へ叩込《たたきこ》んだ。――ばあん、ばあん、ばあん‼ 瓦斯《がす》弾の破裂する音が、大きく聞えた。 「みんな射撃の用意!」  伊藤青年が身を退けて叫ぶ。 「いま出て来るぞ」と、言い終らぬ間に、船底から大きく、 「助ケテ下サイ、手向イシマセン」 「命ダケハ、助ケテ下サイ」という英語の悲鳴が聞えて来た。呆気に取られて暫くは口も利けなかった船長は、急に穴の入口へ近づくと、 「出て来い、武器を捨てて出て来い、少しでも反抗すると射殺するぞ、早くしろ」  と喚きたてた。――その声に応ずる如く、苦しそうに咳をしながら、次々と十六名の外国人が現われて来た。  謎は解かれた。  彼等は×××国の密令を帯び、日本在住の間諜と密接な連絡をとるため、アラスカの某地から、日本の某海岸まで海底電線を敷設していたのである。――流血船という怪奇を装ったのは、他の船を近寄せぬためで、船底の下に、もう一つの敷設船が取付けてあった。また海坊主というのは敷設用の特殊な潜水服(軽金属で出来ている)であって、この潜水服は酸素管を持った自働式の物であり、両手は鋭い鋼鉄の鉤《かぎ》になっている。多くの殺人を犯したのはこの鋼鉄の鉤であったのだ。そして浦島丸は、流血船の秘密を探知したために、全員虐殺のうえ沈められたという事である。 「すばらしい手柄だ」  帰航の途につきながら、船長は伊藤青年の手を固く固く握緊《にぎりし》めて云った。 「だが夫《それ》にしても、――どうして彼《あ》の船底に隠れていた事が分ったのかね」 「偶然ですね、全くのところ偶然です」  伊藤青年は会心の笑をうかべながら、 「あの海坊主を射った時、ちょっと霧が切れて、流血船が判《はっ》きり見えたでしょう? 船長、あの時僕は、流血船の吃水《きっすい》がいやに深いのに気がついたんです。荷物も無し人もいないのに、吃水はまるで貨物満載の船ほど深くなっているんです、――それが発見の緒口《いとぐち》でした。船内に何もなく、然も船があんなに深く入っているとすれば、船底の下に重量が懸っているに違いないと……」 「偉い、遉《さすが》に無電技師だけあって観察が細いぞ、遉《さすが》の俺もそこ迄は気がつかなかった。――今度は全く君に手柄を樹《た》てられたよ」  船長は頼もしそうに伊藤青年を見守った。 「ただ残念なのは……浦島丸の危急に間に合わなかった事です。――親友の川本を死なした事です……」  伊藤次郎の眼にふっと涙が浮んだ。――帰航の海も、すばらしい凪であった。 底本:「山本周五郎探偵小説全集 第四巻 海洋冒険譚」作品社    2008(平成20)年1月15日第1刷発行 底本の親本:「少年少女譚海」博文館    1938(昭和13)年3月 初出:「少年少女譚海」博文館    1938(昭和13)年3月 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:北川松生 2022年7月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。