最も早熟な一例 佐藤春夫 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)滅相《めつそう》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#8字下げ] ------------------------------------------------------- [#8字下げ](一)[#「(一)」は中見出し]  いやしくもレディの雑誌に、滅相《めつそう》もないこんな欄を設けたものだ。しかもそれが読者によつて迎へられると聞いては、もうすつかり顔まけで、また何をか言はんやといふ気持である。わたくしはそんな時代おくれの老人であると、先づそれをご承知置きありたい。  小島政二郎だの[#「小島政二郎だの」は底本では「小嶋政二郎だの」]さては舟橋聖一、その他、こんな話題を巧みにこなす諸公がおほぜいゐるなかから、何でわたくしに白羽の矢を立てたものやら。それをまたわたくしが引き受けるはめ[#「はめ」に傍点]になつたのは取次ぎの電話の聞き方の不十分による行き違いの結果なのである。  ままよ、五枚や十枚の原稿など、ひらりと体をかわし顧みて他を言つてゐるうちにすんでしまふだらう。  と言つて決して敵にうしろは見せない、引き受けた以上、書くべきことはずばりと書くには書く。ただ喜んで読むとかいふ連中にとつては思ひのほかに面白くない、読みがいのないシロモノになるかも知れないが、そんなことはもとよりわたくしの知つたことではない。わたくしにそんなこと題目を[#「そんなこと題目を」はママ]書かせようとした編集者の見当違ひなのだから。  そもそも「ヰタ・セクスアリス」といふ言葉はもと森林太郎が性欲的自叙伝ともいふべき哲学[#「哲学」に傍点]小説に使つた題であつた。その哲学小説を色情小説化して通俗的に世にひろめたのは、時の文部大臣某のしわざであつた。文部大臣といふ者は、昔も今も時々こんなおもしろいことをしでかす道化役人らしい。文部大臣や雑誌編集人は鴎外の用語を色情生活打明け話といふふうに思つてゐるらしい。しかし鴎外の孫弟子を以て自任するわたくしは大師匠の用語を使ひ誤つてはなるまい。あれを哲学小説として読んだやうに、わが与へられたこの題をもまた哲学的に取扱ひたいと思ふ。では、先づ、  性欲は人間のなかに潜んでゐる野獣性である。鴎外はこの野獣を家畜のやうに飼ひならすための参考資料としてあの小説を書いたので、先生は先生の内部に住む野獣の活動状態を世人の見せ物にするのが目的ではなかつたに相違ない。  わたくしはプライバシーを尊重する者である。他人のプライバシーとともに、自分のプライバシーをも尊重する。原稿料と称するはした金のために、この尊重すべき己のプライバシーを冒涜し、こんな題目に正直に立ち向ふ気にはならない。  ある時、わたくしが性欲は尊厳なものであると言つたら舟橋聖一がそんなことを貴公が言ふのは「神がかり」であると言つたから、わたくしは「さうして貴公が申せば下《しも》がかり」ですかと対句をもつてやりかへして笑つたものであつた。  そもそも性欲は自然があらゆる生物に課して種属保存の義務を負はせた苛税《かぜい》であるが、ずるい自然はにがい薬を糖衣でくるむやうに、この苛酷《かこく》きわまる重税の表面を快楽みたいなものでくるんで人間を誘惑する。  性欲はわれわれのすべてが遠い祖先から受け継いだ神秘きわまる力で、自然が課した生産への生命的苛税であることを、従つて尊厳なものであるのを知らない者はバカ者で、こんなバカ者だけが自他のイタ・セクスアリスを何か愉快な面白い話ででもあるかのやうに語りまた耳を傾けるのである。この種のバカ者どもに恥あれ。  性欲などはバカ者でない限り、好んで好話題にすべきものではなく、むしろ不言実行すべきたぐひのものなのである。実行するだけの力のない者だけが、語ること聞くことによつてその意欲の一端を辛うじて満足させるのである。姫ごぜ[#「ごぜ」に傍点]のあられもなくこんな話を聞きたがるのかと思つたが、実は姫ごぜなるがために、見るからおそろしい人生の深淵に飛び込むだけの勇気もなく、ただその糖衣的表面の誘惑に駆られてせめては人の話でも聞きたいというので[#「いうので」はママ]あらう。銭の持ち合せのない気の毒な人が店の表でうなぎのにほひをかいでよろこんでゐるのに似たやうな話でもあらうか。  一口に野獣と言つても猫の雌などでもすぐ雄に身を任すのではなく、さんざわたり合つて相手と闘い、その力を試して種属保存上価値のある相手と認めない以上身を許さない。犬猫とてもただ本能的に身を任してゐない。この点ある種の人間の雌よりは賢いかに見える。  朱鷺《とき》といふ美しい鳥があるが、この鳥は種族の見さかひなく挑まれる限りどの鳥の相手にでもなつて交尾する。さうしてこの鳥は今や絶滅に瀕してゐる。「性欲的なる一切の点に於いて人間は動物に学ばざるべからず」と言つてゐるトルストイの名言はまことに味ふべきである。  さあもう大ぶん考へた。このわたくしの考へのわかつた人にだけならわがイタ・セクスアリスを語つてもよいと思つてゐるところで紙が尽きた。 [#8字下げ](二)[#「(二)」は中見出し]  わたくしの家では、父が南国の田舎町《いなかまち》で、ささやかな私立病院を営んでゐた。  田舎町であらうと、ささやかであらうと、私立であらうとも、病院はやつぱり病院である。看護婦も車夫も薬局生も若い医員たちもゐる。十人も若い男女が毎日顔をつき合してゐると、必ず少々はいかがはしい性的話題が出るのは、自然な現象である。特に医者や看護婦たちは職業として人間の肉体を取扱ひ、生理に注目する者だけに、一般よりは立ち入つたあけすけな話ぶりだし、話だけではなく生活のなかにもさういふムードがただよつてゐた。彼らの間に立ちまじつてわたくしもその空気にふれてゐた。  努めて主家の子供たるわたくしの耳目を避けてゐる様子ではあつたが、何しろ毎日の事だし、何かこそこそ秘密げにふるまつたり、さては子供などにわかるものかとタカをくくつてゐる奴などもゐたが、それらはどちらもわたくしの目を見張らせ耳を傾けさせて、彼らの様子や話の内容などもごくぼんやり漠然とではあるが、期せずしてわたくしに初期性欲教育の手引となつたもので、わたくしはまるでその温床のなかで育つたやうなものかも知れない。  性に対して人々が秘密にしたがるのは単に社会的儀礼ではなくこれも本能で、これを神秘化して魅力を加へ、好奇心をそそるための自然の詐術《さじゆつ》なのかも知れない。  わが小学校以来の竹馬の友といふのは色の蒼白い癇ぺきの強い少年であつたが、わたくしが中学へ入るころ、彼はすばらしい画才を発揮しはじめて、家庭は彼を中学へ進学させる代りに京都の某日本画の大家の家に送つて、その内弟子《うちでし》に住み込ませた。それが百日ぐらゐで家に帰つたのは、師家《しか》を追はれたのではなく脚気《かつけ》の気味で帰つてゐるのだとか、Yは病気にもかかはらず、いつも熱心に画の勉強をしてゐるといふ近所の少年たちの評判なので、わたくしはYの病気見舞をかねてその勉強ぶりを見たいと思つて出かけた。わたくしはそのころから画が好きであつたから。  わたくしの声を聞きつけるとYはさつそく出て来たが、何やら妙な表情をしてゐた。  Yの表情は導かれた部屋へ行つて見てすぐ合点《がてん》が行つたが、彼はこんなに取散らしてと言ひながら、描きかけてゐた画を手早く取りかたづけるのを、ちらと見たわたくしは相撲《すもう》の画でも描いてゐたのかと思つて聞くと手本をうつしてゐたといふのは何と男女が半裸でからみ合つてゐるやうな妙な図柄《ずがら》であつた。そんなへんな絵をけいこするのかといふと、Yはこれがお手本だと示したのを見てわたくしは今まで漠然と感じてゐた知識に一道の光線が当つてはつきりわかつたやうな気がした。へん[#「へん」に傍点]なものを描くのだねと言ふとYは申しわけらしく、洋画の練習に女の裸体を写生するやうに、日本画では美しい線を自由にひくけいこに、はじめしばらくはこれを臨模するのだと答へたものであつた。  わたくしはまた倉の片隅に捨てられたやうに積み上げた雑誌などの間から「色情狂編」といふ妙な題の本を引つぱり出して愛読した。たしかクラフト・エービングの著書の訳本であつたかとおぼえてゐるが、科学書にも似ず美文調で訳されてゐた。明治二十六七年ごろの本であつた。これは十分に読み尽さない間に誰かにかくされてしまつた。  紙員も乏しくなつたし、くどくどと詳細に記述すべき事がらでもないらしいから、単刀直入に言へば、わたくしは数へ年十四のころには性的知識はほぼ十分に備へてゐたばかりか、その年の晩春の一夜には一人前の男子としての体験をも持つてゐた。相手は、看護婦のうちの最も美しいのではなく、最も身持の悪い奴であつたのも忌々《いまいま》しい。入院患者の誰彼などとの浮名も絶えず、また後に町の遊廓のできた時には遊女を志願してバレたものであつた。それに挑まれたのでも挑んだのでもなくごく無邪気、無自覚に自然な成り行きであつた。わたくしはその二三年前から、ある美少女と相知つてこれにプラトニックな愛情を捧げてゐた。さうして最初の相手が悪かつたせいか、わたくしは恋愛と色情とはきつぱりと区別して、恋愛の方をずつと楽しいものに感じ、この感情はその後も年久しく私を支配した。  わたくしは二十二歳で試験結婚をして以来同棲した女子は三人あつたが、子供はなく、彼女らとは捨てるでも捨てられるでもなく、お互に誤を改めるに憚《はばか》らぬ気持で別れた。これがわがイタ・セクスアリスのダイゼスト版である。「浮世六記」といふ中国の小説のなかで「姦ハ殺ニ似タリ」といふ語を見て性欲哲学として甚だ感心し、またヴェデキントの「春の目ざめ」を詩的傑作と思つてゐるものである。 底本:「定本 佐藤春夫全集 第26巻」臨川書店    2000(平成12)年9月10日初版発行 底本の親本:(一)「週刊女性セブン 第一巻第一七号」小学館    1963(昭和38)年8月28日    (二)「週刊女性セブン 第一巻第一八号」小学館    1963(昭和38)年9月4日 初出:(一)「週刊女性セブン 第一巻第一七号」小学館    1963(昭和38)年8月28日    (二)「週刊女性セブン 第一巻第一八号」小学館    1963(昭和38)年9月4日 入力:朱 校正:よしの 2023年3月20日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。