猫と庄造と二人のをんな 谷崎潤一郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)此《こ》の |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)約|二寸《にすん》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)苼 /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)いえ/\ *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 ------------------------------------------------------- [#中扉の画(fig59300_01.png、横435×縦298)入る] [#改ページ] [#猫・カーテン・窓の画(fig59300_02.png、横225×縦435)入る] [#改ページ] 福子さんどうぞゆるして下さい此《こ》の手紙雪ちやんの名借りましたけどほんたうは雪ちやんではありません、さう云《い》ふたら無論《むろん》貴女《あなた》は私が誰だかお分りになつたでせうね、いえ/\貴女は此《こ》の手紙の封切つて開けたしゆん間「扨《さて》はあの女か」ともうちやんと気がおつきになるでせう、そしてきつと腹立てゝ、まあ失礼な、………友達の名前無断で使つて、私に手紙よこすとは何と云ふ厚かましい人と、お思ひになるでせう、でも福子さん察して下さいな、もしも私が封筒の裏へ自分の本名書いたらきつとあの人が見つけて、中途で横取りしてしまふことよう分つてるのですもの、是非共《ぜひとも》あなたに読んで頂《いただ》かう思ふたらかうするより外《ほか》ないのですもの、けれど安心して下さいませ、私決して貴女に恨み云ふたり泣《な》き言《ごと》聞かしたりするつもりではないのです。そりや、本気で云ふたら此の手紙の十倍も二十倍もの長い手紙書いたかて足りない位《くらい》に思ひますけど、今更《いまさら》そんなこと云ふても何にもなりわしませんものねえ。オホヽヽヽヽヽ、私も苦労しましたお蔭《かげ》で大変強くなりましたのよ、さういつも/\泣いてばかりゐませんのよ、泣きたいことや口惜《くや》しいことたんと/\ありますけど、もう/\考へないことにして、できるだけ朗《ほがら》かに暮らす決心しましたの。ほんたうに、人間の運命云ふものいつ誰がどうなるか神様より外知る者はありませんのに、他人の幸福を羨《うらや》んだり憎んだりするなんて馬鹿げてますわねえ。 私がなんぼ無教育な女でも直接貴女に手紙上げたら失礼なことぐらゐ心得てますのよ、それかて此の事は塚本さんからたび/\云ふて貰《もら》ひましたけど、あの人どうしても聞き入れてくれませんので、今は貴女にお願ひするより手段ないやうになりましたの。でもかう云ふたら何やたいそうむづかしいお願ひするやうに聞えますけど、決して/\そんな面倒なことではありません。私あなたの家庭から唯一《ただひと》つだけ頂きたいものがあるのです。と云ふたからとて、勿論《もちろん》貴女のあの人を返せと云ふのではありません。実はもつと/\下らないもの、つまらないもの、………リヽーちやんがほしいのです。塚本さんの話では、あの人はリヽーなんぞくれてやつてもよいのだけれど、福子さんが離すのいやゝ云ふてなさると云ふのです、ねえ福子さん、それ本当でせうか? たつた一つの私の望み、貴女が邪魔してらつしやるのでせうか。福子さんどうぞ考へて下さい私は自分の命よりも大切な人を、………いゝえ、そればかりか、あの人と作つてゐた楽しい家庭のすべてのものを、残らず貴女にお譲りしたのです。茶碗のかけ一つも持ち出した物はなく、輿入《こしいれ》の時に持つて行つた自分の荷物さへ満足に返しては貰ひません。でも、悲しい思ひ出の種になるやうなものない方がよいかも知れませんけれど、せめてリヽーちやん譲つて下すつてもよくはありません? 私は外に何も無理なこと申しません、蹈《ふ》まれ蹴《け》られ叩かれてもじつと辛抱《しんぼう》して来たのです。その大きな犠牲に対して、たつた一匹の猫を頂きたいと云ふたら厚かましいお願ひでせうか。貴女に取つてはほんにどうでもよいやうな小さい獣《けもの》ですけれど、私にしたらどんなに孤独慰められるか、………私、弱虫と思はれたくありませんが、リヽーちやんでもゐてゝくれなんだら淋しくて仕様がありませんの、………猫より外に私を相手にしてくれる人間世の中に一人もゐないのですもの。貴女は私をこんなにも打ち負かしておいて、此の上苦しめようとなさるのでせうか。今の私の淋しさや心細さに一点の同情も寄せて下さらないほど、無慈悲《むじひ》なお方《かた》なのでせうか。 いえ/\貴女はそんなお方ではありません、私よく分つてゐるのですが、リヽーちやんを離さないのは、あなたでなくて、あの人ですわ、きつと/\さうですわ。あの人はリヽーちやんが大好きなのです。あの人いつも「お前となら別れられても、此の猫とやつたらよう別れん」と云ふてたのです。そして御飯の時でも夜寝る時でも、リヽーちやんの方がずつと私より可愛がられてゐたのです。けど、そんなら何で正直に「自分が離しともないのだ」と云はんと、あなたのせゐにするのでせう? さあその訳《わけ》をよう考へて御覧なさりませ、……… あの人は嫌な私を追ひ出して、好きな貴女と一緒になりました。私と暮してた間こそリヽーちやんが必要でしたけど、今になつたらもうそんなもん邪魔になる筈《はず》ではありませんか。それともあの人、今でもリヽーちやんがゐなかつたら不足を感じるのでせうか。そしたら貴女も私と同じに、猫以下と見られてるのでせうか。まあ御免なさい、つい心にもないこと云ふてしまうて。………よもやそんな阿呆らしいことあらうとは思ひませんけれど、でもあの人、自分の好きなこと隠して貴女のせゐにする云ふのは、やつぱりいくらか気が咎《とが》めてゐる証拠では、………オホヽヽヽヽヽ、もうそんなこと、どつちにしたかて私には関係ないのでしたわねえ、けどほんたうに御用心なさいませ、たかゞ猫ぐらゐと気を許していらしつたら、その猫にさへ見かへられてしまふのですわ。私決して悪いことは申しません、私のためより貴女のため思ふて上げるのです、あのリヽーちやんあの人の側《そば》から早《はよ》う離してしまひなさい、あの人それを承知しないならいよ/\怪しいではありませんか。……… 福子は此の手紙の一字一句を胸に置いて、庄造とリヽーのすることにそれとなく眼をつけてゐるのだが、小鰺《こあじ》の二杯酢を肴《さかな》にしてチビリ/\傾けてゐる庄造は、一《ひ》と口《くち》飲んでは猪口《ちょく》を置くと、 「リヽー」 と云つて、鰺の一つを箸《はし》で高々と摘《つ》まみ上げる。リヽーは後脚で立ち上つて小判型のチヤブ台の縁《ふち》に前脚をかけ、皿の上の肴をじつと睨《にら》まへてゐる恰好は、バアのお客がカウンターに倚《よ》りかゝつてゐるやうでもあり、ノートルダムの怪獣のやうでもあるのだが、いよ/\餌《えさ》が摘まみ上げられると、急に鼻をヒクヒクさせ、大きな、悧巧《りこう》さうな眼を、まるで人間がびつくりした時のやうにまん円《まる》く開いて、下から見上げる。だが庄造はさう易々《やすやす》とは投げてやらない。 「そうれ!」 と、鼻の先まで持つて行つてから、逆に自分の口の中へ入れる。そして魚《さかな》に滲《し》みてゐる酢をスツパスツパ吸ひ取つてやり、堅さうな骨は噛《か》み砕《くだ》いてやつてから、又もう一遍摘まみ上げて、遠くしたり、近くしたり、高くしたり、低くしたり、いろ/\にして見せびらかす。それにつられてリヽーは前脚をチヤブ台から離し、幽霊の手のやうに胸の両側へ上げて、よち/\歩き出しながら追ひかける。すると獲物をリヽーの頭の真上へ持つて行つて静止させるので、今度はそれに狙ひを定めて、一生懸命に跳び着かうとし、跳び着く拍子に素早く前脚で目的物を掴《つか》まうとするが、アハヤと云ふ所で失敗しては又跳び上る。かうしてやう/\一匹の鰺をせしめる迄に五分や十分はかゝるのである。 此の同じことを庄造は何度も繰り返してゐるのだつた。一匹やつては一杯飲んで、 「リヽー」 と呼びながら次の一匹を摘まみ上げる。皿の上には約|二寸《にすん》程の長さの小鰺が十二三匹は載つてゐた筈だが、恐らく自分が満足に食べたのは三匹か四匹に過ぎまい、あとはスツパスツパ二杯酢の汁をしやぶるだけで、身はみんなくれてやつてしまふ。 [#リヽーと庄造の挿画(fig59300_03.png、横325×縦454)入る] 「あ、あ、あ痛《いた》! 痛いやないか、こら!」 やがて庄造は頓興《とんきょう》な声を出した。リヽーがいきなり肩の上へ跳び上つて、爪を立てたからなのである。 「こら! 降り! 降りんかいな!」 残暑もそろ/\衰へかけた九月の半ば過ぎだつたけれど、太つた人にはお定まりの、暑がりやで汗《あせ》ツ掻《か》きの庄造は、此の間の出水で泥だらけになつた裏の縁鼻《えんはな》へチヤブ台を持ち出して、半袖のシヤツの上に毛糸の腹巻をし、麻の半股引《はんももひき》を穿《は》いた姿のまゝ胡坐《あぐら》をかいてゐるのだが、その円々と膨らんだ、丘のやうな肩の肉の上へ跳び着いたリヽーは、つる/\滑り落ちさうになるのを防ぐために、勢ひ爪を立てる。と、たつた一枚のちゞみのシヤツを透して、爪が肉に喰《く》ひ込むので、 「あ痛! 痛!」 と、悲鳴を挙げながら、 「えゝい、降りんかいな!」 と、肩を揺す振つたり一方へ傾けたりするけれども、さうすると猶《なお》落ちまいとして爪を立てるので、しまひにはシヤツにポタポタ血がにじんで来る。でも庄造は、 「無茶しよる。」 とボヤキながらも決して腹は立てないのである。リヽーはそれをすつかり呑み込んでゐるらしく、頬《ほっ》ぺたへ顔を擦りつけてお世辞を使ひながら、彼が魚《さかな》を啣《ふく》んだと見ると、自分の口を大胆に主人の口の端《はた》へ持つて行く。そして庄造が口をもぐ/\させながら、舌で魚を押し出してやると、ヒヨイとそいつへ咬《か》み着くのだが、一度に喰ひちぎつて来ることもあれば、ちぎつたついでに主人の口の周りを嬉しさうに舐《な》め廻すこともあり、主人と猫とが両端を咬《くわ》へて引つ張り合つてゐることもある。その間庄造は「うツ」とか、「ペツ、ペツ」とか、「ま、待ちいな!」とか合《あい》の手《て》を入れて、顔をしかめたり唾液《つばき》を吐いたりするけれども、実はリヽーと同じ程度に嬉しさうに見える。 「おい、どうしたんや?―――」 だが、やつとのことで一と休みした彼は、何気なく女房の方へ杯をさし出すと、途端に心配さうな上眼使《うわめづか》ひをした。どうした訳か今しがたまで機嫌の好かつた女房が、酌をしようともしないで、両手を懐《ふところ》に入れてしまつて、真正面からぐつと此方《こちら》を視詰《みつ》めてゐる。 「そのお酒、もうないのんか?」 出した杯を引つ込めて、オツカナビツクリ眼の中を覗き込んだが、相手はたじろぐ様子もなく、 「ちよつと話があるねん。」 と、さう云つたきり、口惜《くや》しさうに黙りこくつた。 「なんや? え、どんな話?―――」 「あんた、その猫品子さんに譲つたげなさい。」 「何でやねん?」 藪《やぶ》から棒に、そんな乱暴な話があるものかと、つゞけざまに眼をパチクリさせたが、女房の方も負けず劣らず険悪な表情をしてゐるので、いよ/\分らなくなつてしまつた。 「何で又急に、………」 「何でゞも譲つたげなさい、明日塚本さん呼んで、早《は》よ渡してしまひなさい。」 「いつたい、それ、どう云ふこツちやねん?」 「あんた、否《いや》やのん?」 「ま、まあ待ち! 訳も云はんとさう云うたかて無理やないか。何ぞお前、気に触つたことあるのんか。」 リヽーに対する焼餅《やきもち》?―――と、一応思ひついてみたが、それも腑《ふ》に落ちないと云ふのは、もと/\自分も猫が好きだつた筈なのである。まだ庄造が前の女房の品子と暮してゐた時分、品子がとき/″\猫のことで焼餅を焼く話を聞くと、福子は彼女の非常識を笑つて、嘲弄《ちょうろう》の種にしたものだつた。そのくらゐだから、勿論庄造の猫好きを承知の上で来たのであるし、それから此方、庄造ほど極端ではないにしても、自分も彼と一緒になつてリヽーを可愛がつてゐたのである。現にかうして、三度々々の食事には、夫婦さし向ひのチヤブ台の間へ必ずリヽーが割り込むのを、今迄|兎《と》や角《かく》云つたことは一度もなかつた。それどころか、いつでも今日のやうな風に、夕飯の時にはリヽーとゆつくり戯れながら晩酌を楽しむのであるが、亭主と猫とが演出するサーカスの曲藝にも似た珍風景を、福子とても面白さうに眺めてゐるばかりか、時には自分も餌を投げてやつたり跳び着かせたりするくらゐで、リヽーの介在することが、新婚の二人を一層仲好く結び着け、食卓の空気を明朗化する効能はあつても、邪魔になつてはゐない筈だつた。とすると一体、何が原因なのであらう。つい昨日まで、いや、ついさつき、晩酌を五六杯重ねるまでは何のこともなかつたのに、いつの間にか形勢が変つたのは、何かほんの些細《ささい》なことが癪《しゃく》に触つたのでもあらうか。それとも「品子に譲つてやれ」と云ふのを見ると、急に彼女が可哀さうにでもなつたのか知らん。 さう云へば、品子が此処《ここ》を出て行く時に、交換条件の一つとしてリヽーを連れて行きたいと云ふ申し出でがあり、その後も塚本を仲に立てゝ、二三度その希望を伝へて来たことは事実である。だが庄造はそんな云ひ草は取り上げない方がよいと思つて、そのつど断つてゐるのであつた。塚本の口上《こうじょう》では、連れ添ふ女房を追ひ出して余所《よそ》の女を引きずり込むやうな不実な男に、何の未練もないと云ひたいところだけれども、やつぱり今も庄造のことが忘れられない、恨んでやらう、憎んでやらうと努めながら、どうしてもそんな気になれない、ついては思ひ出の種になるやうな記念の品が欲しいのだが、それにはリヽーちやんを此方へ寄越して貰へまいか、一緒に暮してゐた時分には、あんまり可愛がられてゐるのが忌《い》ま/\しくて、蔭でいぢめたりしたけれども、今になつては、あの家の中にあつた物が皆なつかしく、分けてもリヽーちやんが一番なつかしい、せめて自分は、リヽーちやんを庄造の子供だと思つて精一杯可愛がつてやりたい、さうしたら辛い悲しい気持がいくらか慰められるであらう。――― 「なあ、石井君、猫一匹ぐらゐ何だんね、そない云はれたら可哀さうやおまへんか。」 と、さう云ふのだつたが、 「あの女の云ふこと、真《ま》に受けたらアキまへんで。」 と、いつも庄造はさう答へるに極《き》まつてゐた。あの女は兎角《とかく》懸引《かけひき》が強くつて、底に底があるのだから、何を云ふやら眉唾物《まゆつばもの》である。第一|剛情《ごうじょう》で、負けず嫌ひの癖に、別れた男に未練があるの、リヽーが可愛くなつたのと、しをらしいことを云ふのが怪しい。彼奴《あいつ》が何でリヽーを可愛がるものか。きつと自分が連れて行つて、思ふさまいぢめて、腹癒《はらい》せをする気なのだらう。さうでなかつたら、庄造の好きな物を一つでも取り上げて、意地悪をしようと云ふのだらう。―――いや、そんな子供じみた復讐心より、もつと/\深い企みがあるのかも知れぬが、頭の単純な庄造には相手の腹が見透せないだけに、変に薄気味が悪くもあれば、反感も募《つの》るのだつた。それでなくてもあの女は、随分勝手な条件を沢山持ち出してゐるではないか。しかしもと/\此方に無理があるのだし、一日も早く出て貰ひたいと思つたればこそ、大概なことは聞いてやつたのに、その上リヽーまで連れて行かれて溜《たま》るものか。それで庄造は、いくら塚本が執拗《しつッこ》く云つて来ても、彼一流の婉曲《えんきょく》な口実でやんはり逃げてゐるのであつたが、福子もそれに賛成なのは無論のことで、庄造以上に態度がハツキリしてゐたのである。 「訳を云ひな! 何のこツちや、僕さつぱり見当が付かん。」 さう云ふと庄造は、銚子を自分で引き寄せて、手酌で飲んだ。それから股をぴた[#「ぴた」に傍点]ツと叩いて、 「蚊遣線香《かやりせんこう》あれへんのんか。」 と、ウロ/\その辺を見廻しながら、半分ひとりごとのやうに云つた。あたりが薄暗くなつたので、つい鼻の先の板塀の裾から、蚊がワン/\云つて縁側の方へ群がつて来る。少し食ひ過ぎたと云ふ恰好でチヤブ台の下にうづくまつてゐたリヽーは、自分のことが問題になり出した頃こそ/\と庭へ下りて、塀の下をくゞつて、何処かへ行つてしまつたのが、まるで遠慮でもしたやうで可笑《おか》しかつたが、鱈《たら》ふく御馳走になつた後では、いつでも一遍すうつと姿を消すのであつた。 福子は黙つて台所へ立つて行つて、渦巻の線香を捜して来ると、それに火をつけてチヤブ台の下へ入れてやつた。そして、 「あんた、あの鰺、みんな猫に食べさせなはつたやろ? 自分が食べたのん二つか三つよりあれしまへんやろ?」 と、今度は調子を和《やわら》げて云ひ出した。 「そんなこと僕、覚えてエへん。」 「わてちやんと数へてゝん。そのお皿の上に最初十三匹あつてんけど、リヽーが十匹食べてしもて、あんたが食べたのん三匹やないか。」 「それが悪かつたのんかいな。」 「何で悪い云ふこと、分つてなはんのんか。なあ、よう考へて御覧。わて猫みたいなもん相手にして焼餅《やきもち》焼くのんと違ひまつせ。けど、鰺の二杯酢わては嫌ひや云ふのんに、僕好きやよつてに拵《こしら》へてほしい云ひなはつたやろ。そない云うといて、自分ちよつとも食べんとおいといてからに、猫にばつかり遣《や》つてしもて、………」 彼女の云ふのは、かうなのである。――― 阪神電車の沿線にある町々、西宮《にしのみや》、蘆屋《あしや》、魚崎《うおざき》、住吉《すみよし》あたりでは、地元《じもと》の浜で獲《と》れる鰺や鰯《いわし》を、「鰺の取れ/\」「鰯の取れ/\」と呼びながら大概毎日売りに来る。「取れ/\」とは「取りたて」と云ふ義で、値段は一杯十銭から十五銭ぐらゐ、それで三四人の家族のお数《かず》になるところから、よく売れると見えて一日に何人も来ることがある。が、鰺も鰯も夏の間は長さ一寸《いっすん》ぐらゐのもので、秋口《あきぐち》になるほど追ひ/\寸が伸びるのであるが、小さいうちは塩焼にもフライにも都合が悪いので、素焼きにして二杯酢に漬け、苼莪《しょうが》を刻んだのをかけて、骨ごと食べるより仕方がない。ところが福子は、その二杯酢が嫌ひだと云つて此の間から反対してゐた。彼女はもつと温かい脂《あぶら》ツこいものが好きなので、こんな冷めたいモソモソしたものを食べさせられては悲しくなると、彼女らしい贅沢《ぜいたく》を云ふと、庄造は又、お前はお前で好きなものを拵へたらよい、僕は小鰺が食べたいから自分で料理すると云つて、「取れ/\」が通ると勝手に呼び込んで買ふのである。福子は庄造と従兄弟《いとこ》同士で、嫁に来た事情が事情だから、姑《しゅうとめ》には気がねが要《い》らなかつたし、来た明くる日から我《わ》が儘《まま》一杯に振舞つてゐたけれど、まさか亭主が庖丁《ほうちょう》を持つのを見てゐる訳に行かないから、結局自分がその二杯酢を拵へて、いや/\ながら一緒にたべることになつてしまふ。おまけにそれが、もう此処のところ五六日も続いてゐるのであるが、二三日前にふと気が付いたことゝ云ふのは、女房の不平を犯してまでも食膳に上《のぼ》せる程のものを、庄造は自分で食べることか、リヽーにばかり与へてゐる。それでだん/\考へて見たら、成《な》る程《ほど》あの鰺は姿が小さくて、骨が柔かで、身をむしつてやる面倒がなくて、値段のわりに数がある、それに冷めたい料理であるから、毎晩あんな風にして猫に食はせるには最も適してゐる訳で、つまり庄造が好きだと云ふのは、猫が好きだと云ふことなのである。此処の家では、亭主が女房の好き嫌ひを無視して、猫を中心に晩のお数をきめてゐたのだ。そして亭主のためと思つて辛抱してゐた女房は、その実猫のために料理を拵へ、猫のお附き合ひをさせられてゐたのだ。 「そんなことあれへん、僕、いつかて自分が食べよう思うて頼むねんけど、リヽーの奴があないに執拗《ひつこ》う欲しがるさかいに、ついウカツとして、後から/\投げてまうねんが。」 「譃《うそ》云ひなさい、あんた始めからリヽーに食べささう思うて、好きでもないもん好きや云うてるねんやろ。あんた、わてより猫が大事やねんなあ。」 「ま、ようそんなこと。………」 仰山《ぎょうさん》に、吐き出すやうにさう云つたけれど、今の一言ですつかり萎《しお》れた形だつた。 「そんなら、わての方が大事やのん?」 「きまつてるやないか! 阿呆《あほ》らしなつて来るわ、ほんまに!」 「口でばつかりそない云はんと、証拠見せてエな。そやないと、あんたみたいなもん信用せエへん。」 「もう明日から鰺買ふのん止めにせう。な、そしたら文句ないねんやろ。」 「それより何より、リヽー遣《や》つてしまひなはれ。あの猫ゐんやうになつたら一番えゝねん。」 まさか本気で云ふのではないだらうけれど、タカを括《くく》り過《す》ぎて依怙地《えこじ》になられては厄介なので、是非なく庄造は膝頭《ひざがしら》を揃へ、キチンと畏《かしこ》まつてすわり直すと、前屈《まえかが》みに、その膝の上へ両手をつきながら、 「さうかてお前、虐《いじ》められること分つてゝあんな所《とこ》へやれるかいな。そんな無慈悲なこと云ふもんやないで。」 と、哀れツぽく持ちかけて、[#「持ちかけて、」は底本では「持ちかけて。」]嘆願するやうな声を出した。 「なあ、頼むさかいに、そない云はんと、………」 「ほれ御覧、やつぱり猫の方が大事なんやないかいな。リヽーどないぞしてくれへなんだら、わて去《い》なして貰ひまつさ。」 「無茶云ひな!」 「わて、畜生と一緒にされるのん嫌ですよつてにな。」 あんまりムキになつたせゐか、急に涙が込み上げて来たのが、自分にも不意討ちだつたらしく、福子は慌てゝ亭主の方へ背中を向けた。 雪子の名を使つた品子のあの手紙が届いた朝、最初に彼女が感じたのは、こんないたづらをして私達の間へ水を挿《さ》さうとするなんて、何と云ふ嫌な人だらう、誰がその手に乗つてやるもんか、と云ふことだつた。品子の腹は、かう云ふ風に書いてやつたら、結局福子はリヽーのゐることが心配になつて、此方へ寄越すかも知れない、さうなつたら、それ見たことか、人を笑つたお前さんも猫に焼餅を焼くぢやないか、やつぱりお前さんだつてさう御亭主に大事にされてもゐないのだねえと、手を叩いて嘲《あざけ》つてやらう、そこまで巧く行かないとしても、此の手紙をキツカケに家庭に風波が起るとしたら、それだけでも面白いと、さう思つてゐるに違ひないので、その鼻を明かしてやるのには、いよ/\夫婦が仲好く暮すやうにして、こんな手紙などてんで問題にならなかつたと云ふ所を見せてやり、二人が同じやうにリヽーを可愛がつて、とても手放す気がないことをもつとハツキリ知らしてやる、―――もうそれに越したことはないのであつた。 だが、生憎《あいにく》なことに此の手紙の来た時期が悪かつた。と云ふのは、ちやうど此の二三日小鰺の二杯酢の一件が福子の胸につかへてゐて、一遍亭主を取つちめてやらうと考へてゐた矢先だつたのである。一体、彼女は庄造が思つてゐるほど猫好きではないのだが、庄造の気持を迎へるためと、品子への面当《つらあ》てと、両方の必要から自然猫好きになつてしまひ、自分もさう思へば人にも思はせてゐたのであつて、それは彼女がまだ此の家へ乗り込まない時分、蔭で姑のおりんなどとグルになつて専《もっぱ》ら品子の追ひ出し策にかゝつてゐる間のことだつた。そんな次第で、此処へ来てからもリヽーを可愛がつてやつて、精々《せいぜい》猫好きで通してゐたのだが、だん/\彼女はその一匹の小さい獣の存在を、呪はしく思ふやうになつた。何でも此の猫は西洋種だと云ふことだつたが、以前、此処へお客で遊びに来て膝の上などへ乗せてやると、手触りの工合が柔かで、毛なみと云ひ、顔だちと云ひ、姿と云ひ、ちよつと此の辺には見当らない綺麗な雌猫であつたから、その時はほんたうに愛らしいと思ひ、こんなものを邪魔にするとは品子さんと云ふ人も変つてゐる、やつぱり亭主に嫌はれると、猫にまで僻《ひが》みを持つのか知らんと、面当てゞなくさう感じたものだつたけれど、今度自分が後釜《あとがま》へ直つてみると、自分は品子と同じ扱ひを受ける訳でもなく、大切にされてゐることは分つてゐながら、どうも品子を笑へない気持になつて来るのが不思議であつた。それと云ふのは、庄造の猫好きが普通の猫好きの類《たぐい》ではなくて、度を越えてゐるせゐなのである。実際、可愛がるのもいゝけれども、一匹の魚を(而《しか》も女房の見てゐる前で!)口移しにして、引張り合つたりするなどは、あまり遠慮がなさすぎる。それから晩の御飯の時に割り込んで来られることも、正直のところは愉快でなかつた。夜は姑が気を利かして、自分だけ先に食事を済まして二階へ上つてくれるのだから、福子にしてみればゆつくり水入らずを楽しみたいのに、そこへ猫奴が這入《はい》つて来て亭主を横取りしてしまふ。好いあんばいに今夜は姿が見えないなと思ふと、チヤブ台の脚を開く音、皿小鉢のカチヤンと云ふ音を聞いたら直ぐ何処かゝら帰つて来る。たまに帰らないことがあると、怪《け》しからないのは庄造で、「リヽー」「リヽー」と大きな声で呼ぶ。帰つて来る迄は何度でも、二階へ上つたり、裏口へ廻つたり、往来へ出たりして呼び立てる。今に帰るだらうから一杯飲んでいらつしやいと、彼女がお銚子を取り上げても、モヂ/\してゐて落ち着いてくれない。さう云ふ場合、彼の頭はリヽーのことで一杯になつてゐて、女房がどう思ふかなどと、ちよつとも考へてみないらしい。それにもう一つ愉快でないのは、寝る時にも割り込んで来ることである。庄造は今迄猫を三匹飼つたが、蚊帳《かや》をくゞることを知つてゐるのはリヽーだけだ、全くリヽーは悧巧だと云ふ。成る程、見てゐると、ぴつたり頭を畳《たたみ》へ擦《す》り付けて、する/\と裾《すそ》をくゞり抜けて這入る。そして大概は庄造の布団の側で眠《ねむ》るけれども、寒くなれば布団の上へ乗るやうになり、しまひには枕の方から、蚊帳をくゞるのと同じ要領で夜具の隙間へもぐり込んで来ると云ふ。そんな風だから、此の猫にだけは夫婦の秘密を見られてしまつてゐるのである。 それでも彼女は、今更猫好きの看板を外して嫌ひになり出すキツカケがないのと、「相手はたか[#「たか」に傍点]が猫だから」と云ふ己惚《うぬぼ》れに引き擦られて、腹の虫を押さへて来たのであつた。あの人はリヽーを玩具《おもちゃ》にしてゐるだけなので、ほんたうは私が好きなのである、あの人に取つて天にも地にも懸け換へのないのは私なのだから、変な工合に気を廻したら、自分で自分を安つぽくする道理である。もつと心を大きく持つて、何の罪もない動物を憎むことなんか止めにしようと、さう云ふ風に気を向けかへて、亭主の趣味に歩調を合はせてゐたのだが、もと/\怺《こら》へ性《しょう》のない彼女にそんな我慢が長つゞきする筈がなく、少しづゝ不愉快さが増して来て顔に出かゝつてゐたところへ、降つて湧いたのが今度の二杯酢の一件だつた。亭主が猫を喜ばすために、女房の嫌ひなものを食膳に上せる、而も自分が好きなふりをして、女房の手前を繕《つくろ》つてまでも!―――これは明かに、猫と女房とを天秤《てんびん》にかけると猫の方が重い、と云ふことになる。彼女は見ないやうにしてゐた事実をまざ/\と鼻先へ突き付けられて、最早《もは》や己惚れの存する余地がなくなつてしまつた。 ありていに云ふと、そこへ品子の手紙が舞ひ込んで来たことは、彼女の焼餅を一層|煽《あお》つたやうでもあるが、一面には又、それを爆発の一歩手前で抑制すると云ふ働きをした。品子さへおとなしくしてゐたら、リヽーの介在をもう一日も黙視出来なくなつた彼女は、早速亭主に談判して品子の方へ引き渡させる積《つも》りでゐたのに、あんないたづらをされてみると、素直に註文を聴いてやるのが忌《い》ま/\しい。つまり亭主への反感と、品子への反感と、孰方《どちら》の感情で動いたらよいか板挟みになつてしまつたのである。手紙の来たことを亭主に打ち明けて相談すれば、事実はさうでないにも拘はらず品子にケシカケられたやうな形になるのが心外であるから、それは内証にして置いて、孰方が余計憎らしいかと考へると、品子の遣《や》り方も腹が立つけれども、亭主の仕打ちも堪忍《かんにん》がならない。殊《こと》に此の方は毎日眼の前で見てゐるのだから、どうにもムシヤクシヤする訳だし、それに、本当のことを云ふと、「用心しないと貴女も猫に見換へられる」と書いてあつたのが、案外ぐん[#「ぐん」に傍点]と胸にこたへた。まさかそんな馬鹿げたことがとは思ふけれども、リヽーを家庭から追ひ払つてしまひさへすれば、イヤな心配をしないでも済む。たゞさうすると品子に溜飲《りゅういん》を下げさせることになるのが、いかにも残念でたまらないので、その方の意地が昂《こう》じて来ると、猫のことぐらゐ辛抱しても誰があの女の計略なんぞにと、云ふ風になる。―――で、今日の夕方チヤブ台の前にすわる迄は、彼女はさう云ふグル/\廻りの状態に[#「状態に」は底本では「状態の」]置かれて懊《じ》れてゐたのだが、皿の上の鰺が減つて行くのを数へながらいつものいちやつき[#「いちやつき」に傍点]を眺めてゐると、ついかあ[#「かあ」に傍点]ツとして亭主の方へ鬱憤《うっぷん》を破裂させてしまつたのである。 しかし最初は嫌がらせにさう云つた迄で、本気でリヽーを追ひ出す積りはなかつたらしいのであるが、へんに問題をコジレさせて退《の》つ引《ぴ》きならないやうにしたのは、庄造の態度が大いに原因してゐるのである。庄造としては、福子が腹を立てたのは至極|尤《もっと》もなのであるから、イザコザなしに、あつさり彼女の希望を入れて納得《なっとく》してしまへば一番よかつた。さうして意地を通してさへやつたら、却《かえ》つて後は機嫌が直つて、それには及ばぬと云ふことになつたかも知れないのに、道理のないところへ道理をつけて、逃げを打つた。これは庄造の悪い癖なので、イヤならイヤときつぱり云つてしまふならいゝのだが、なるたけ相手を怒らせないやうに、追ひ詰められるまでは瓢箪鯰《ひょうたんなまず》に受け流してゐて、土壇場《どたんば》へ来るとヒヨイと寝返る。もう少しで承知しさうな口ぶりを見せて、その実決して「うん」と云はない。気が弱さうで、案外ネチネチした狡《ずる》い人だと云ふ印象を与へる。福子は亭主が、外のことなら彼女の我が儘を通すくせに、此の問題に関する限り、「たか[#「たか」に傍点]が猫なんぞ」と何でもなさゝうに云ひながら、中々同意しないのを見ると、リヽーに対する愛着が想像以上に深いものとしか思へないので、いよ/\捨てゝ置けない気がした。 「ちよつと、あんた!………」 その晩彼女は、蚊帳の中に[#「中に」は底本では「中へ」]這入つてから又始めた。 「ちよつと、此方《こっち》向きなさい。」 「あゝ、僕眠たい、もう寝さして。………」 「あかん、さつきの話きめてしまはなんだら、寝させへん。」 「今夜に限つたことあるかいな、明日にして。」 表は四枚の硝子戸《ガラスど》にカーテンを引いてあるだけなので、軒燈《けんとう》のあかりがぼんやり店の奥へ洩れて来て、もや/\と物が見える中で、庄造は掛け布団をすつかり剥《は》いで仰向きに臥てゐたが、さう云ふと女房の方へ背中を向けた。 「あんた、そつち向いたらあかん!」 「頼むさかいに寝さしてエな、ゆうべ僕、蚊帳ん中に蚊ア這入つてゝちよつとも寝られへなんでん。」 「そしたら、わての云ふ通りしなはるか。早う寝たいなら、それきめなさい。」 「殺生《せっしょう》やなあ、何をきめるねん。」 「そんな、寝惚《ねぼ》けたふりしたかて、胡麻化《ごまか》され[#「胡麻化され」は底本では「誤麻化され」]まつかいな。リヽー遣《や》んなはるのんか孰方《どっち》だす? 今はつきり云うて[#「云うて」は底本では「云ふて」]頂戴。」 「明日、―――明日まで考へさして貰《もら》を。」 さう云つてゐるうちに、早くも心地よさゝうな寝息を立てたが、 「ちよつと!」 と云ふと、福子はムツクリ起き上つて亭主の側にすわり直すと、いやと云ふ程|臀《しり》の肉を抓《つね》つた。 「痛い! 何をするねん!」 「あんた、いつかてリヽーに引つ掻かれて、生傷《なまきず》絶やしたことないのんに、わてが抓つたら痛いのんか。」 「痛! えゝい、止めんかいな!」 「此れぐらゐ何だんね、猫に掻かすぐらゐやつたら、わてかて体ぢゆう引つ掻いたるわ!」 「痛、痛、痛、………」 庄造は、自分も急に起き直つて防禦《ぼうぎょ》の姿勢を取りながら、続けざまに叫んだ。二階の年寄に聞かせたくないので、大きな声は立てなかつたが、抓るかと思ふと今度は引つ掻く。顔、肩、胸、腕、腿、所嫌はず攻めて来るので、慌てゝ避ける度毎《たびごと》にバタン! と云ふ地響きが家ぢゆうへ伝はる。 「どないや?」 「もう堪忍、………堪忍!」 「眼エ覚めなはつたか?」 「覚めいでかいな! あゝ痛、ヒリ/\するわ。………」 「そしたら、今のこと返事しなさい、孰方《どっち》だす?」 「あゝ痛、………」 それには答へないで、顔をしかめながら方々をさすつてゐると、 「又だつか、胡麻化《ごまか》したら此れだつせ!」 と、二三本の指でモロに頬つぺたをがり[#「がり」に傍点]ツと行かれたのが、飛び上るほど痛かつたらしく、思はず、 「いたア―――」 と泣き声を出したが、途端にリヽーまでがびつくりして、蚊帳の外へ逃げ出して行つた。 「僕、何でこんな目に遭はんならん。」 「ふん、リヽーのためや思うたら、本望だつしやろが。」 「そんな阿呆らしいこと、まだ云うてるのんか。」 「あんたがはつきりせんうちは、何ぼでも云ひまつせ。―――さあ、わてを去《い》なすかリヽー遣《や》んなはるか、孰方だす?」 「誰がお前を去なす云うた?」 「そんならリヽー遣んなはるのんか?」 「そない孰方かにきめんならんこと………」 「あかん、きめて欲しいねん。」 さう云ふと福子は、胸倉《むなぐら》を取つて小突き始めた。 「さあ孰方や、返事しなさい、早う! 早う!」 「何とまあ手荒な、………」 「今夜はどないなことしたかて堪忍《かんにん》せエしまへんで。さあ、早う! 早う!」 「えゝ、もう、シヨウがない、リヽー遣つてしもたるわ。」 「ほんまだつかいな。」 「ほんまや。」 庄造は眼をつぶつて、観念の臍《ほぞ》を固めたと云ふ顔つきをした。 「―――その代り、あと一週間待つてくれへんか。なあ、こないに云うたら又怒られるか知れへんけど、なんぼ畜生にしたかて、此処の家に十年もいてたもん、今日云うて今日追ひ出す訳に行くかいな。そやさかいに、心残りのないやうにせめてもう一週間置いてやつて、たんと好きなもん食べさして、出来るだけのことしてやりたいねん。なあ、どないや? お前かてその間ぐらゐ機嫌直して可愛がつてやりいな。猫は執念深いよつてにな。」 いかにも懸引《かけひき》のない真情らしく、さうしんみりと訴へられてみると、それには反対が出来なかつた。 「そしたら一週間だつせ。」 「分つてる。」 「手エ出しなさい。」 「何や?」 と云つてゐる隙に、素早く指切りをさせられてしまつた。 「お母《かあ》さん」 それから二三日過ぎた夕方、福子が銭湯《せんとう》へ出かけた留守に、店番をしてゐた庄造は奥の間へ声をかけながら這入つて来ると、自分だけの小さなお膳で食事してゐる母親の側へ、モヂ/\しながら中腰にかゞんだ。 「お母さん、ちよつと頼みがありまんねん。―――」 毎朝別に炊《た》いてゐる土鍋の御飯の、お粥《かゆ》のやうに柔かいのがすつかり冷えてしまつたのを茶碗に盛つて、塩昆布を載せて食べてゐる母親は、お膳の上へ背を円々と蔽《おお》ひ[#「蔽《おお》ひ」は底本では「蔽《おお》い」]かぶさるやうにしてゐた。 「あのなあ、福子が急にリヽー嫌ひや云ひ出してなあ、品子んとこへ遣つてしまへ云ひまんね。………」 「此のあひだ、えらい騒ぎしてたやないか。」 「お母さん知つてなはつたんか。」 「夜中にあんな音さすよつて、わてびつくりして、地震か思うたわ。あれ、そのことでかいな?」 「さうだんが。これ見て御覧、―――」 と、庄造は両腕を突き出して、シヤツの袖をまくり上げた。 「これ、そこらぢゆう蚯蚓脹《みみずばれ》や痣《あざ》だらけだ。顔にかて此れ、まだ痕《あと》残つてるやろ。」 「何でそんなことしられたんや?」 「焼餅だんが。―――阿呆らしい、猫可愛がり過ぎる云うて焼餅やくもん、何処の国にあるか知らん、気違ひ沙汰や。」 「品子かてよう何の彼《か》んの云うてたやないか。お前みたいに可愛がつたら、誰にしたかて焼餅ぐらゐ起すわいな。」 「ふうん、―――」 幼い時から母親に甘える癖がついてゐるのが、此の歳になつてもまだ抜け切れない庄造は、だゞ[#「だゞ」に傍点]ツ児《こ》のやうに鼻の孔《あな》を膨《ふく》らがして、さも面白くなさゝうに云つた。 「―――お母さん福子のこと云うたら、味方ばつかりするねんなあ。」 「けどお前、猫であらうと人間であらうと、外のもん可愛がつてゝ、来たばかりの嫁のこと思うてやらなんだら、気イ悪うするのん当り前やで。」 「そら可笑《おか》しい。僕、いつかて福子のこと思うてまんが。一番大事にしてまんが。」 「さうに違ひないのんやつたら、ちよつとぐらゐの無理聴いてやりいな。わてあの娘《こ》からもその話聞かされてるねんが。」 「それ、いつのことだんね?」 「昨日そない云うてなあ、―――リヽーいてたらよう辛抱せんさかい、五六日うちに品子の方へ渡すことに、もうちやんと約束したある云ふねんけど、ほんまかいな。」 「それや。―――したことはしたけど、そんな約束実行せんかて済むやうに、何とかそこんとこ、あんぢよう云うて貰へんやろか。僕お母さんにそれ頼まう思うてゝん。」 「さうかて、約束通りしてくれなんだら、去なして貰ふ云うてるねんで。」 「威嚇《おどか》しや、そんなこと。」 「威嚇しかも知れんけど、そないまでに云ふもん聴いてやつたらどないや? 又うるさいで、約束|違《たが》へたら。―――」 庄造は酸《す》つぱいやうな顔をして、口を尖《とが》らせて俯向《うつむ》いてしまつた。母から云はせて福子を宥《なだ》める目算《もくさん》でゐたのが、すつかり外れてしまつたのである。 「あの娘《こ》あんな気象やよつてに、ほんまに逃げて行くかも知れん。それもえゝけど、嫁を放つといて猫可愛がるやうなとこへ内の娘《むすめ》遣《や》つとけん! 云はれたらどないする? お前よりわてが困るわいな。」 「そしたら、お母さんもリヽー追ひ出してしまへ云やはりまんのんか。」 「そやさかいにな、兎に角こゝのとこはあの娘《こ》の気持済むやうに、一遍すう[#「すう」に傍点]ツと品子の方へ遣つてしまひイな。そないしといて、えゝ折を見て、機嫌直つた時分に取り戻すこと出来んもんかいな。―――」 そんな、渡してしまつたものを先方が返す筈もなし、受け取る筋でもないことは分つてゐながら、庄造が母親に甘えるやうに、母親も見え透いた気休めを云つて、子供を賺《すか》すやうな風に庄造をあやなす癖があつた。そして彼女は、いつでも結局此の忰《せがれ》を自分の思ひ通りに動かしてゐるのだつた。 もう若い者はセルを着出した頃だのに、袷《あわせ》の上に薄綿の這入つたジンベエを着て、メリヤスの足袋《たび》を穿いてゐる彼女は、小柄で、痩せてゐて、生活力の衰へきつた老婆のやうに見えるけれども、頭の働きは案外確かで、云ふことやすることにソツがないので、「息子よりも婆さんの方がしつかりしてゐる」と、近所ではさう云ふ評判だつた。品子が追ひ出されたのも、実は彼女が糸を操《あやつ》つたからなので、庄造にはまだ未練があつたのだと云ふ人もある。それやこれやで、此の附近では母親を憎む者が多く、一般の同情は品子の方に集まつてゐたが、彼女に云はせると、いくら姑の気に入らない嫁でも、忰が好きなものならば、出る筈もないし出せる訳もない、やつぱりあれは庄造に飽かれたからだと云ふ。なるほどそれもさうだけれども、彼女と福子の父親が手を貸さなければ、庄造一人であの女房をいびり出す勇気はなかつたと云ふのが、間違ひのない事実であつた。 いつたい母親と品子とは、どう云ふものか初めから反《そ》りが合はなかつた。勝気な品子は、落ちどを拾はれないやうに気を附けて、随分姑には勤めてゐたけれども、さう云ふ風に抜け目なく立ち廻つて行かれることが、又母親の癪《しゃく》に触《さわ》つた。うちの嫁は何処と云つて悪いところはないやうなものゝ、何だか親身《しんみ》に世話をして貰ふ気になれない、それと云ふのが、心から年寄を労《いた》はつてやらうと云ふ優しい情愛がないからなのだと、母親はよくさう云つたが、つまり嫁も姑も、孰方《どちら》もしつかり者だつたのが不和の原因になつたのである。それでも一年半ばかりの間は、表面だけは無事に治まつてゐたのだつたが、その時分から母親のおりんは嫁が面白くないと云つて、始終|今津《いまづ》の兄の所、庄造には伯父に当る中島の家へ泊まりに行つて、二日も三日も帰つて来ないやうになつた。あまり逗留《とうりゅう》が長いので、品子が様子を見に行くと、お前は帰つて庄造を迎ひに寄越せと云ふ。庄造が行くと、伯父や福子までが一緒になつて引き止めて、晩になつても帰してくれない。それには何か魂胆《こんたん》があるらしいことは、庄造もうす/\気が付いてゐながら、甲子園の野球だの、海水浴だの、阪神パークだのと、福子に誘はれるまゝに、何処へでもふら/\と喰つ着いて行つて、呑気《のんき》に遊んでゐるうちに、とう/\彼女と妙な仲になつてしまつた。 此の伯父と云ふのは菓子の製造販売をしてゐて、今津の町に小さな工場を持つてゐたばかりでなく、国道沿線に五六軒の家作《かさく》を建てたりして裕福に暮らしてゐたのだつたが、福子のことでは大分《だいぶ》今迄に手を焼いてゐた。母親が早く亡くなつたせゐもあるのだらうが、女学校を二年の途中で止めさせられたか、勝手に止めてしまつたかしてから、さつぱり尻が落ち着かない。家出をしたことも二度ぐらゐあつて、神戸の新聞に素ツ葉抜かれたりしたものだから、縁付けようと思つても中々貰ひ手がなかつたし、自分も窮屈な家庭などへは行きたくない。そんなこんなで、何とか早く身を固めさせなければと、父親が焦《あせ》つてゐる事情に眼を付けたのがおりんであつた。福子は自分の娘のやうなもので、気心はよく分つてゐるから、アラがあることは差支《さしつか》へない、品行《ひんこう》の悪いのは困るけれども、もうそろ/\分別が出てもいゝ歳《とし》だから、亭主を持つたらまさか浮気をすることもあるまい、それにそんなことは大した問題でないと云ふのは、此の娘にはあの国道の家作が二軒附いてゐて、そこから上る家賃が六十三円になる。おりんの計算だと、父親がそれを福子の名義に直したのが二年も前のことであるから、その積立が元金だけでも一千五百十二円ある、それだけのものは持参金として持つて来る上に、月々今の六十三円が這入るとすると、それらを銀行へ預けておいたら、十年もすれば一《ひ》と財産出来るので、これが何よりの附けめであつた。 尤《もっと》も彼女は老い先の短かい体であるから慾張つたところで仕方がないが、甲斐性《かいしょう》のない庄造が此の先どうして凌《しの》いで行くつもりか、それを考へると安心して死んで行けないのであつた。何しろ蘆屋の旧国道は、阪急《はんきゅう》の方が開けたり新国道が出来たりしてから、年々さびれつゝあるので、こんなところでいつ迄荒物屋|渡世《とせい》をしてゐても思はしい訳はないのだけれど、動くには此の店を売り退《の》かなければならないし、さて売り退いても何処で何を始めようと云ふ成算がない。庄造はそんなことについてひどく呑気に生れついた男で、貧乏を苦にしない代りには、一向商売に身を入れない。十三四の頃、夜学へ通ひながら西宮の銀行の給仕に使はれ、青木《あおぎ》のゴルフ練習場のキャディーにも雇はれ、年頃になつてからはコツクの見習を勤めたりしたけれど、何処も長つゞきがしないで怠けてゐるうちに父親が亡くなつて、それから此方《こちら》荒物屋の亭主で納まつてしまつた。ぜんたい店の商売などは母親に任して置いて、兎に角男一匹が何かしら職を求めたらよいのに、国道筋でカフェエを始めたいからと伯父に出資を申し込んで、意見されたことがあつた外には、猫を可愛がることゝ、球《たま》を撞《つ》くことゝ、盆栽《ぼんさい》をいぢくることゝ、安カフェエの女をからかひに行くことぐらゐより、何の仕事も思ひ付かない。さうして今から足かけ四年前、二十六の歳に畳屋の塚本を仲人に立てゝ、山蘆屋の或る邸に奉公してゐた品子を嫁に貰つたのだが、その時分から商売の方がいよ/\上つたりになつて、毎月の遣り繰りに骨が折れて来た。親の代から蘆屋に住んでゐるお蔭で、長年《ながねん》の顔があるところから、暫《しばら》くは無理が利《き》いたけれども、坪《つぼ》十五銭の地代が二年近くも滞《とどこお》つて、百二三十円にもなつてゐるのは、どうにも返済の見込みが立たない。で、もう庄造をアテにしないことにきめた品子は、仕立物などを頼まれたりして暮らしの補ひをつけてゐたばかりか、折角お給金を溜めて一通り拵へて来た荷物にさへ手をつけて、僅かの間に減らしてしまつた。そんな訳だから、今更その嫁を追ひ出さうと云ふのは無慈悲な話で、近所の同情が彼女の方へ集まつたのも当然であるが、おりんにしてみれば、背に腹は換へられなかつたし、子種《こだね》のないと云ふことが難癖をつけるのに都合が好かつた。それに福子の父親迄が、さうすれば娘の身が固まるし、甥《おい》の一家を救つてもやれるし、双方のためだと考へたのが、おりんの工作に油を注ぐ結果となつた。 それ故《ゆえ》福子が庄造と出来てしまつたのには、父親やおりんの取り持ちがあつたに違ひないのであるが、一体そんなことがなくとも、庄造は割りに誰にでも好かれるたちであつた。別に美男子なのではないが、幾つになつても子供つぽいところがあつて、気だてが優しいせゐかも知れない。キャディーの時代にはゴルフ場へ来る紳士や夫人たちに可愛がられて、盆暮《ぼんくれ》の附け届を誰よりも余計貰つたし、カフェエなどでも案外持てるので、僅かなお金で長く遊んで来ることを覚えてしまひ、そんなところからのらくら[#「のらくら」に傍点]の癖がついたのだつた。が、何にしてもおりんから云へば、自分がいろ/\細工をしてやつと我が家へ迎へ入れる迄に漕ぎ付けた、持参金附きの嫁御寮《よめごりょう》であるから、尻の軽い彼女に逃げられないやうに、忰と二人で精々機嫌を取らなければならない訳で、猫のことなどは勿論始めから問題でなかつた。いや、実を云ふと、おりんも内々猫には閉口してゐたのであつた。元来リヽーと云ふ猫は、神戸の洋食屋に住み込んでゐた庄造が帰つて来る時に連れて来たのだが、これがゐるために家の中が汚れること夥《おびただ》しい。庄造に云はせると、此の猫は決して粗匇《そそう》をしない、用をする時は必ずフンシへ這入ると云ふ。いかにもその点は感心だけれど、戸外にゐてもわざ/\フンシへ這入るために戻つて来ると云ふ調子なので、フンシが非常に臭くなつて、その悪臭が家中に充満するのである。おまけに臀《しり》の端《はた》へ砂を着けたまゝ歩き廻るので、畳がいつもザラ/\になる。雨の日などは臭が一層強く籠《こも》つてむツとするところへ持つて来て、おもてのぬかるみを歩いたまゝで上つて来るから、猫の脚あとが此処彼処《ここかしこ》に点々とする。庄造は又、此の猫は戸でも襖《ふすま》でも障子でも、引き戸でさへあれば人間と同じに開ける、こんな賢いのは珍しいと云ふ。だが畜生の浅ましさには、開けるばかりで締めることを知らないから、寒い時分には通つたあとを一々締めて廻らなければならない。それもいゝけれども、そのために障子は穴だらけ、襖や板戸は爪の痕だらけになる。それから困るのは、生物《なまもの》、煮物、焼物の類をうつかりその辺へ置くことが出来ない、[#「出来ない、」は底本では「出来ない。」]ぼんやりしてゐると直ぐ食べられてしまふので、お膳立てをするほんの僅かな間でも、水屋か蠅帳《はいちょう》へ一応入れて置かなければならない。いや/\、もつとひどいことは、此の猫は臀の始末はよいが、口の始末が悪くて、とき/″\嘔吐するのである。それと云ふのは、庄造が例の曲藝に熱中して幾らでも餌を投げてやるので、つい食ひ過ぎるせゐなのであるが、晩飯の後でチヤブ台を除けると、その辺に一杯毛が落ちてゐて、食ひかけの魚の頭だの尻尾だのがたくさん散らばつてゐるのである。 品子が嫁に来る迄は、台所の世話や拭き掃除は一切おりんの役だつたから、リヽーのためには随分泣かされてゐる訳なのだが、今日まで我慢してゐたのは一つの出来事があつたからだつた。と云ふのは、たしか五六年前に、無理に庄造を説き付けて、一度此の猫を尼ヶ崎の八百屋へ遣つたことがあつたが、やがて一と月もした時分に、或る日ヒヨツコリ蘆屋の家へ独りで帰つて来たのである。犬なら不思議はないけれども、猫が前の主人を慕つて五六里の道を戻つて来るとは、あまりイヂラシイ話なので、それ以来庄造の可愛がりやうは旧に倍したのみならず、おりんも流石《さすが》に不憫《ふびん》を感じたのか、或は多少薄気味悪く思つたのか、もうそれからは何も云はないやうになつた。そして品子が来てからは、福子と同じ理由から、―――と云ふのは嫁をいぢめるために、却つてリヽーの存在が便利を与へることがあるので、やさしい言葉の一つぐらゐは時々かけてやつてゐたのである。だから庄造は、その母親までが突然福子の味方をし出した様子を見ては、心外でたまらないのであつた。 「けど、リヽーやつたら遣《や》つたかて又戻つて来まつせ。なんせ尼ヶ崎からでも戻つて来る猫やさかいにな。」 「ほんになあ、今度はまるきり知らん人やあれへん[#「あれへん」は底本では「あらへん」]よつて、そこは何とも分らんけど、戻つて来たら又置いてやつたらえゝがな。ま、兎も角も遣つてみてみいな。―――」 「あゝ、どうしよう、困つたなあ。」 庄造は頻りに溜息をついて、まだ何かしら粘《ねば》つてみようとしてゐたが、その時おもてに足音がして、福子が風呂から帰つて来た。 「塚本君、分つてまんなあ? これ、なるべくそつ[#「そつ」に傍点]と持つて行かんと、乱暴に振つたらあきまへんで。猫かて乗物に酔ふさかいになあ。」 「そない何遍も云はんかて、分つてまんが。」 「それから、此れや、」 と、新聞紙にくるんだ、小さな平べつたい包みを出して、 「実はなあ、いよ/\これがお別れやさかいに、出がけに何ぞおいしいもん食べさしてやりたい思ひまんねんけど、乗物に乗る前に物食べさしたら、えらい苦しみまんねん。それでなあ、此の猫|鶏《かしわ》の肉が好きやよつてに、僕、自分でこれ買《こ》うて来て、水煮《みずだ》きにしときましたさかい、彼方《あっち》へ着いたら直《じ》き食べさしてやるやうに云うとくなはれしまへんか。」 「よろしおます。あんぢよう持つて行きますよつて安心しなはれ。―――そんなら、もう用事おまへんか。」 「ま、ちよつと待つとくなはれ。」 さう云ふと庄造は、バスケツトの蓋を開けて、もう一度しつかり抱き上げて、 「リヽー」 と云ひながら頬擦りをした。 「お前な、彼方へ行つたらよう云ふこと聴くんやで。彼方のあの人、もう先《せん》みたいにいぢめたりせんと、大事にして可愛がつてくれるさかいに、ちよつとも恐いことないで。えゝか、分つたなあ。―――」 抱かれることが嫌ひなリヽーは、あまり強く締められたので脚をバタ/\やらしたが、バスケツトの中へ戻されると、二三度周囲を突ツついてみたゞけで、とても出られないとあきらめたらしく、急に静まり返つてしまつたのが、ひとしほ哀れをそゝるのであつた。 庄造は、国道のバスの停留所まで送つて行きたかつたのであるが、今日から当分の間、風呂へ行く以外は一歩も外出してはならぬと、女房から堅く止められてゐるので、バスケツトを提げた塚本が出て行つたあと、気抜けがしたやうにぽつねんと店にすわつてゐた。福子が外出を禁じた訳は、リヽーの様子を気遣ふ余りついふら/\と品子の家の近所ぐらゐまで行くかも知れないからであつたが、事実庄造自身にも、さう云ふ懸念《けねん》がないことはなかつた。そして此の迂濶《うかつ》な夫婦は、猫を渡してしまつてから、始めて品子のほんたうの腹が分りかけて来たのである。 成る程、リヽーを囮《おとり》に己《おれ》を呼び寄せようと云ふ気だつたのか。あの家の近所をうろ/\したら、掴《つか》まへて口説き落さうとでも云ふのか。―――庄造はそこへ気がついてみると、いよ/\品子の陰険さ加減が憎くなつたが、そんな道具に使はれるリヽーの身の上に、一層可哀さが増して来た。唯一の望みは、尼ヶ崎から逃げて帰つて来たやうに、阪急の六甲《ろっこう》にある品子の家から逃げて来はせぬかと云ふことであつた。実は水害の後の仕事で忙しい塚本が、夜《よる》受け取りに来ると云つたのを、朝にして貰つたのも、明るい時に連れて行かれたら道を覚えてゐるであらう、さうしたら逃げて来るのも容易であらうと、そんな心積りがあつたからだが、それにつけても思ひ出されるのは、此の前、尼ヶ崎から戻つて来たあの朝のことだつた。何でもあれは秋の半ば時分であつたが、或る日、やう/\夜が明けたばかりの頃、眠つてゐた庄造は「ニヤア」「ニヤア」と云ふ耳馴れた啼き声に眼を覚ました。その時分は独身者の庄造が二階に寝、母親が階下《した》に寝てゐたが、朝が早いのでまだ雨戸が締まつてゐるのに、つい近いところで「ニヤア」「ニヤア」と猫が啼いてゐるのを、夢うつゝのうちに聞いてゐると、どうもリヽーの声のやうに思へて仕方がない。一と月も前に尼ヶ崎へ遣つてしまつたものが、まさか今頃こんな所にゐる筈はないが、聞けば聞くほどよく似てゐる。バリ/\と裏のトタン屋根を蹈《ふ》む音がして、直ぐ窓の外に来てゐるので、兎に角正体を突き止めようと急いで跳ね起きて、窓の雨戸を開けてみると、つい鼻の先の屋根の上を往つたり来たりしてゐるのが、たいそう窶《やつ》れてはゐるけれどもリヽーに違ひないのであつた。庄造はわが眼を疑ふ如く、 「リヽー」 と呼んだ。するとリヽーは 「ニヤア」 と答へて、あの大きな眼を、さも嬉しげに一杯に開いて見上げながら、彼が立つてゐる肘掛窓の真下まで寄つて来たが、手を伸ばして抱き上げようとすると、体《たい》を躱《かわ》してすう[#「すう」に傍点]ツと二三|尺《じゃく》向うへ逃げた。しかし決して遠くへは行かないで、 「リヽー」 と呼ばれると、 「ニヤア」 と云ひながら寄つて来る。そこを掴まへようとすると、又する/\と手の中を脱けて行つてしまふ。庄造は猫のかう云ふ性質がたまらなく好きなのであつた。わざ/\戻つて来るくらゐだから、余程恋ひしかつたのであらうに、そのなつかしい家に着いて、久しぶりで主人の顔を見たのでありながら、抱かうとすれば逃げてしまふ。それは愛情に甘えるしぐさ[#「しぐさ」に傍点]のやうでもあるし、暫く会はなかつたのがキマリが悪くて、羞渋《はにか》んでゐるやうでもある。リヽーはさう云ふ風にして、呼ばれる度に「ニヤア」と答へつゝ屋根の上をうろ/\した。庄造は、彼女が痩せてゐることは最初から気が付いてゐたけれど、なほよく見ると、一と月前よりは毛の色つやが悪くなつてゐるばかりでなく、頸の周りだの尾の周りだのが泥だらけになつてゐて、ところ/″\に薄《すすき》の穂などが喰つ着いてゐた。貰はれて行つた八百屋の家も猫好きだと云ふ話であつたから、虐待されてゐた筈はないので、これは明かに、一匹の猫が尼ヶ崎から此処までひとりで辿つて来る道中《どうちゅう》の難儀を語るものだつた。こんな時刻に此処へ着いたのは、昨夜ぢゆう歩きつゞけたのに違ひないけれども、多分一と晩ぐらゐではあるまい、もう幾晩も/\、恐らくは数日前に八百屋の家を逃げ出して、方々で道に迷ひながら、やう/\此処まで来たのであらう。彼女が人家つゞきの街道を一直線に来たのでないことは、あのすゝきの穂を見ても分る。それにしても、猫は寒がりなものであるのに、朝夕の風はどんなに身に沁《し》みたことであらう。おまけに今は村しぐれの多い季節でもあるから、定めし雨に打たれて叢《くさむら》へもぐり込んだり、犬に追はれて田圃《たんぼ》の中へ隠れたりして、食ふや食はずの道中をつゞけて来たのだ。さう思ふと、早く抱き上げて撫でゝやりたくて、何度も窓から手を出したが、そのうちにリヽーの方も、羞渋みながらだん/\体を擦り着けて来て、主人の為《な》すが儘《まま》に任せた。 その時のリヽーは、一週間ほど前から尼ヶ崎の方で姿を見なくなつてゐたことが、後に問ひ合はせて知れたのであつたが、今も庄造は、あの朝の啼《な》きごゑと顔つきとを忘れることが出来ないのである。そればかりでなく、此の猫についてはまだ此の外にも数々の逸話があつて、あの時はあんな顔をした、あんな声を出したと云ふ記憶が、いろ/\の場合に残つてゐるのである。たとへば庄造は、初めて此の猫を神戸から連れて来た日のことをはつきりと思ひ出すのであるが、それは最後に奉公をしてゐた神港軒から暇を貰つて蘆屋へ帰つた時であるから、彼がちやうど二十歳《はたち》の年、つまり父親が亡くなつた年の、四十九日の頃だつた。その前彼は、三毛猫を一度、それが死んでからは「クロ」と呼んでゐた真つ黒な雄猫を、コツク場で飼つてゐたのであるが、そこへ出入の肉屋から、欧洲種の可愛らしいのがゐるからと云つて、生後三ヶ月ばかりになる雌の仔猫を貰つたのが、リヽーだつたのである。それで暇を貰ふ時にもクロはコツク場へ置いて来てしまつたが、仔猫の方は手放すのが惜しくて、行李《こうり》と一緒に或る商店のリヤカーの隅へ積んで貰つて、蘆屋の家へ運んだのであつた。 肉屋の主人の話だと、英吉利人《イギリスじん》はかう云ふ毛並みの猫のことを鼈甲猫《べっこうねこ》と云ふさうであるが、茶色の全身に鮮明な黒の斑点が行き亙《わた》つてゐて、つや/\と光つてゐるところは、成る程研いた鼈甲の表面に似てゐる。何にしても庄造は、今日までこんな毛並みの立派な、愛らしい猫を飼つたことがなかつた。ぜんたい欧洲種の猫は、肩の線が日本猫のやうに怒《いか》つてゐないので、撫《な》で肩《がた》の美人を見るやうな、すつきりとした、イキな感じがするのである。顔も日本種の猫だと一般に寸が長くつて、眼の下あたりに凹《くぼ》みがあつたり、頬の骨が飛び出てゐたりするけれども、リヽーの顔は丈が短かく詰まつてゐて、ちやうど蛤《はまぐり》を倒《さかさ》まにした形の、カツキリとした輪郭の中に、すぐれて大きな美しい金眼《きんめ》と、神経質にヒク/\蠢《うご》めく鼻が附いてゐた。だが庄造が此の仔猫に惹き附けられたのは、さう云ふ毛なみや顔だちや体つきのためではなかつた。もしも外形だけで云ふなら、庄造だつてもつと美しい波斯《ぺるしゃ》猫だの暹羅《しゃむ》猫だのを知つてゐるが、でも此のリヽーは性質が実に愛らしかつた。蘆屋へ連れて来た当座は、まだほんたうに小さくて、掌《てのひら》の上へ乗る程であつたが、そのお転婆でやんちや[#「やんちや」に傍点]なことは、とんと七つか八つの少女、―――いたづら盛りの、小学校一二年生ぐらゐの女の児《こ》と云ふ感じだつた。そして彼女は今よりもずつと身軽で、食事の時に食物を摘まんで頭の上へ翳《かざ》してやると、三四尺の高さまで跳び上つたので、すわつてゐては直ぐ跳び着かれてしまふから、しば/\食事の最中に立ち上らねばならなかつた。彼はその時分からあの曲藝を仕込んだのであるが、箸の先に摘まんだ物を、三尺、四尺、五尺、と云ふ風に、跳び着く毎にだん/\高くして行くと、しまひには着物の膝へ跳び着いて、胸から肩へすばしツこく這ひ上つて、鼠が梁《はり》を渡るやうに、箸の先まで腕を渡つて行つたりした。或る時などは店のカーテンに跳び着いて、天井の方までクル/\と這ひ上つて、端から端へ渡つて行つて、又カーテンに掴まつて降りて来る、―――そんな動作を水車のやうに繰り返した。それに、さう云ふ幼い時から非常に表情が鮮やかで、眼や、口元や、小鼻の運動や、息づかひなどで心持の変化をあらはすことは、人間と少しも違はなかつた。就中《なかんずく》そのぱつちりした大きな眼球は、いつも生き/\とよく動いて、甘える時、いたづらをする時、物に狙ひを付ける時、どんな時でも愛くるしさを失はなかつたが、一番|可笑《おか》しいのは怒る時で、小さい体をしてゐる癖に、やはり猫なみに背を円くして毛を逆立て、尻尾をピンと跳ね上げながら、脚を蹈ん張つてぐつ[#「ぐつ」に傍点]と睨まへる恰好と云つたら、子供が大人の真似をしてゐるやうで、誰でもほゝ笑んでしまふのであつた。 庄造は又、リヽーが始めてお産をした時の、あの訴へるやうなやさしい眼差《まなざし》を、忘れることが出来ないのであつた。それは蘆屋へ連れて来てから半年ほど過ぎた時分であつたが、或る日の朝、産気《さんけ》づいた彼女はしきりにニヤア/\云ひながら彼の後を追つて歩くので、サイダの空《あ》き函《ばこ》へ古い座布団《ざぶとん》を敷いたのを押入の奥の方に据ゑて、そこへ抱いて行つてやると、暫くの間は函に這入つてゐるけれども、直きに襖を開けて出て来て、又啼きながら追ひかける。その啼きごゑは今まで彼が聞いたことのない声だつた。「ニヤア」とは云つてゐるのだが、その「ニヤア」の中に、今までの「ニヤア」が含んでゐなかつた異様な意味が籠つてゐた。まあ云つてみれば、「あゝどうしたらいゝでせう、何だか急に体の工合が変なのです、不思議な事が起りさうな予感がします、こんな気持はまだ覚えがありません、ねえ、どうしたと云ふのでせう、心配なことはないのでせうか?」―――と、さう云ふやうに聞えるのであつた。でも庄造が、 「心配せんかてえゝねんで。もう直きお前、お母さんになるねんが。………」 と、さう云つて頭を撫でゝやると、前脚を膝へ乗せて来て、縋《すが》り着くやうな様子をして、 「ニヤア」 と云ひながら、彼の言葉を一生懸命理解しようとするかのやうに、眼の球をキヨロ/\させた。それからもう一度押入の所へ抱いて行つて、函の中へ入れてやつて、 「えゝか、此処にじつとしてるねんで。出て来たらあかんで。えゝなあ? 分つてるなあ?」 と、しんみり云つて聴かせてから、襖を締めて立たうとすると、「待つて下さい、何卒《どうぞ》そこにゐて下さい」とでも云ふやうに、又 「ニヤア」 と云つて悲しげに啼いた。だから庄造もついその声に絆《ほだ》されて、細目に開けて覗いてみると、行李《こうり》だの風呂敷包みだのいろ/\な荷物が積んである押入の、一番奥の突きあたりにある函の中から首を出して、 「ニヤア」 と云つては此方を見てゐる。畜生ながらまあ何と云ふ情愛のある眼つきであらうと、その時庄造はさう思つた。全く、不思議のやうだけれども、押入の奥の薄暗い中でギラ/\光つてゐるその眼は、最早《もは》やあのいたづらな仔猫の眼ではなくなつて、たつた今の瞬間に、何とも云へない媚《こ》びと、色気《いろけ》と、哀愁とを湛へた、一人前の雌の眼になつてゐたのであつた。彼は人間の女のお産を見たことはないが、もしその女が年の若い美しい人であつたら、きつと此の通りの、恨めしいやうな切ないやうな眼つきをして、夫を呼ぶに違ひないと思つた。彼は幾度も襖を締めて立ち去りかけては、又戻つて来て覗いてみたが、その度毎にリヽーも函から首を出して、子供が「居ない/\ばあ」をするやうに此方を見た。 さうしてそれが、もう十年も前のことなのである。而《しか》も品子が嫁に来たのがやう/\四年前であるから、それまで六年の間と云ふもの、庄造は蘆屋の家の二階で、母親の外にはたゞ此の猫を相手にしつゝ暮らしたのである。それにつけても猫の性質を知らない者が、猫は犬よりも薄情であるとか、不愛想《ぶあいそう》であるとか、利己主義であるとか云ふのを聞くと、いつも心に思ふのは、自分のやうに長い間猫と二人きりの生活をした経験がなくて、どうして猫の可愛らしさが分るものか、と云ふことだつた。なぜかと云つて、猫と云ふものは皆幾分か羞渋《はにか》みやのところがあるので、第三者が見てゐる前では、決して主人に甘えないのみか、へんに余所々々《よそよそ》しく振舞ふのである。リヽーも母親が見てゐる時は、呼んでも知らんふりをしたり、逃げて行つたりしたけれども、さし向ひになると、呼びもしないのに自分の方から膝へ乗つて来て、お世辞を使つた。彼女はよく、額を庄造の顔にあてゝ、頭ぐるみぐいぐい[#「ぐいぐい」に傍点]と押して来た。さうしながら、あのザラ/\した舌の先で、頬だの、頤《あご》だの、鼻の頭だの、口の周りだのを、所嫌はず舐め廻した。夜は必ず庄造の傍に寝て、朝になると起してくれたが、それも顔ぢゆうを舐めて起すのであつた。寒い時分には、掛け布団の襟をくゞつて、枕の方からもぐり込んで来るのであつたが、寝勝手のよい隙間を見付け出す迄は、懐の中へ這入つてみたり、股ぐらの方へ行つてみたり、背中の方へ廻つてみたりして、やう/\或る場所に落ち着いても、工合が悪いと又直ぐ姿勢や位置を変へた。結局彼女は、庄造の腕へ頭を乗せ、胸のあたりへ顔を着けて、向ひ合つて寝るのが一番都合がよいらしかつたが、もし庄造が少しでも身動きをすると、勝手が違つて来ると見えて、そのつど体をもぐ/\させたり、又別の隙間を捜したりした。だから庄造は、彼女に這入つて来られると、一方の腕を枕に貸してやつたまゝ、なるべく体を動かさないやうに行儀よく寝てゐなければならなかつた。そんな場合に、彼はもう一方の手で、猫の一番喜ぶ場所、あの頸《くび》の部分を撫でゝやると、直ぐにリヽーはゴロ/\云ひ出した。そして彼の指に噛み着いたり、爪で引つ掻いたり、涎《よだれ》を垂らしたりしたが、それは彼女が興奮した時のしぐさなのであつた。 さう云へば一度庄造が布団の中で放屁を鳴らすと、その布団の上の裾の方に寝てゐたリヽーが、びつくりして眼を覚まして、何か奇態な啼き声を出す怪しい奴が隠れてゐるとでも思つたのであらう、さも不審さうな眼をしながら、大急ぎで布団の中を捜し始めたことがあつた。又或る時は、嫌がる彼女を無理に抱き上げようとしたら、手から脱け出て、体を伝はつて降りて行く拍子に、非常に臭い瓦斯《ガス》を洩らしたのが、まともに庄造の顔にかゝつた。たしかその時は食事の後で、今御馳走を食べたばかりの、ハチ切れさうにふくらんだリヽーのお腹を、偶然庄造が両手でギユツと押さへたのである。そして運悪くも、ちやうど彼女の肛門が彼の顔の真下にあつたので、膓《ちょう》から出る息が一直線に吹き上げたのだが、その臭かつたことゝ云つたら、いかな猫好きもその時ばかりは、 「うわツ」 と云つて彼女を床へ放り出した。鼬《いたち》の最後ツ屁と云ふのも恐らくこんな臭さであらうが、全くそれは執拗な臭ひで、[#「臭ひで、」は底本では「臭ひで。」]一旦鼻の先へこびり着いたら、拭いても洗つても、シャボンでゴシ/\擦つても、その日一日ぢゆう抜けないのであつた。 庄造はよく、リヽーのことで品子といさかひをした時分に、「僕リヽーとは屁まで嗅《か》ぎ合《お》うた仲や」などゝ、嫌味《いやみ》めかして云つたものだが、十年の間も一緒に暮らしてゐたとすれば、たとひ一匹の猫であつても、因縁の深いものがあるので、考へやうでは、福子や品子より一層親しいとも云へなくはない。事実品子と連れ添うてゐたのは、足かけ四年と云ふけれども正味は二年半ほどであるし、福子も今のところでは、来てからやつと一と月にしかならないのである。さうしてみれば長の年月を共にしてゐたリヽーの方が、いろ/\な場合の回想と密接につながつてゐる訳で、つまりリヽーと云ふものは、庄造の過去の一部なのである。だから庄造は、今更《いまさら》手放すのが辛いのは当り前の人情ではないか、それを物好きだの、猫気違ひだのと、何か大変非常識のやうに云はれる理由がないと思ふのであつた。そして福子の迫害と、母親の説教ぐらゐで、脆《もろ》くも腰が挫《くじ》けてしまつて、あの大切な友達をむざ/\他人の手へ渡した自分の弱気と腑甲斐《ふがい》なさとが、恨めしくなつて来るのであつた。何で自分はもつと正直に、男らしく、道理を説いてみなかつたのだらう。何で女房にも母親にも、もつと/\剛情を張り通さなかつたのであらう。さうしたところで最後には矢張《やはり》負かされて、同じ結果を見たかも知れぬが、でもそれだけの反抗もせずにしまつたのでは、リヽーに対して如何にも義理が済まないのであつた。 もしもリヽーが、あの尼ヶ崎へ遣つた時代にあれきり戻つて来なかつたとしたら?―――あの時だつたら、彼も一旦《いったん》同意を与へて他家へ譲つたのであるから、きれいにあきらめもしたであらう。だがあの朝、トタン屋根の上で啼いてゐたのをやつと掴まへて、頬ずりをしながら抱き締めた瞬間に、あゝ、不憫なことをした、己は残酷な主人だつた、もうどんなことがあつても誰にもやるものか、死ぬまで此処に置いてやるのだと、心に誓つたばかりでなく、リヽーとも堅い約束をした気持だつた。それを今度、又あんな風にして追ひ出してしまつたかと思ふと、非常に薄情な、むごいことをしたと云ふ感じが胸に迫つて来るのであつた。その上可哀さうなのは、此の二三年めつきり歳を取り出して、体のこなしや、眼の表情や、毛の色つやなどに、老衰のさまがあり/\と見えてゐたのである。全く、それもその筈で、庄造が彼女をリヤカーへ乗せて此処へ連れて来た時は、彼自身がまだ二十歳《はたち》の青年だつたのに、もう来年は三十に手が届くのである。まして猫の寿命から云へば、十年と云ふ歳月は、多分人間の五六十年に当るであらう。それを思へば、もう一と頃の元気がないのも道理であるとは云ふものの、カーテンの頂辺《てっぺん》へ登つて行つて綱渡りのやうな軽業《かるわざ》をした仔猫の動作が、つい昨日のことのやうに眼に残つてゐる庄造は、腰のあたりがゲツソリと痩せて、俯向《うつむ》き加減に首をチヨコ/\振りながら歩く今日此の頃のリヽーを見ると、諸行無常《しょぎょうむじょう》の理《ことわり》を手近《てぢか》に示された心地がして、云ふに云はれず悲しくなつて来るのであつた。 彼女がいかに衰へたかと云ふことを証明する事実はいくらもあるが、たとへば跳び上り方が下手になつたのもその一つの例なのである。仔猫の時分には、実際庄造の身の丈ぐらゐ迄は鮮やかに跳んで、過《あやま》たずに餌《えさ》を捉へた。又必ずしも食事の時に限らないで、いつ、どんな物を見せびらかしても、直ぐ跳び上つた。ところが歳を取る毎に跳び上る度数が少くなり、高さが低くなつて行つて、もう近頃では、空腹な時に何か食物を見せられると、それが自分の好物であるか否かをたしかめた上で、始めて跳び上るのであるが、それでも頭上一尺ぐらゐの低さにしなければ駄目なのである。もしもそれより高くすると、もう跳ぶことをあきらめて、庄造の体を登つて行くか、それだけの気力もない時は、たゞ食べたさうに鼻をヒクヒクさせながら、あの特有な哀れつぽい眼で彼の顔を見上げるのである。「もし、どうか私を可哀さうだと思つて下さい。実はお腹がたまらないほど減つてゐるので、あの餌に跳び着きたいのですが、何を云ふにも此の歳になつて、とても昔のやうな真似は出来なくなりました。もし、お願ひです、そんな罪なことをしないで、早くあれを投げて下さい。」―――と、主人の弱気な性質をすつかり呑み込んでゐるかのやうに、眼に物を云はせて訴へるのだが、品子が悲しさうな眼つきをしてもそんなに胸を打たれないのに、どう云ふものかリヽーの眼つきには不思議な傷ましさを覚えるのであつた。 仔猫の時にはあんなに快活に、愛くるしかつた彼女の眼が、いつからさう云ふ悲しげな色を浮かべるやうになつたかと云ふと、それがやつぱりあの初産の時からなのである。あの、押入の奥のサイダの函から首を出して術《すべ》なさゝうに見てゐた時、―――あの時から彼女の眼差に哀愁の影が宿り始めて、そのゝち老衰が加はるほどだん/\濃くなつて来たのである。それで庄造は、とき/″\リヽーの眼を視詰めながら、悧巧だと云つても小さい獣に過ぎないものが、どうしてこんな意味ありげな眼をしてゐるのか、何かほんたうに悲しいことを考へてゐるのだらうかと、思ふ折があつた。前に飼つてゐた三毛だのクロだのは、もつと馬鹿だつたせゐかも知れぬが、こんな悲しい眼をしたことは一度もない。さうかと云つて、リヽーは格別陰鬱な性質だと云ふのでもない。幼い頃は至つてお転婆だつたのだし、親猫になつてからだつて、相当に喧嘩も強かつたし、活溌に暴れる方であつた。たゞ庄造に甘えかゝつたり、退屈さうな顔をして日向ぼつこなどをしてゐる時に、その眼が深い憂ひに充《み》ちて、涙さへ浮かめてゐるかのやうに、潤《うるお》ひを帯びて来ることがあつた。尤《もっと》もそれも、その時分にはなまめかしさの感じの方が強かつたのだが、年を取るに従つて、ぱつちりしてゐた瞳も曇り、眼のふちには眼脂《めやに》が溜つて、見るもトゲ/\しい、露《あら》はな哀傷を示すやうになつたのである。で、これは事に依ると、彼女の本来の眼つきではなくて、その生ひ立ちや環境の空気が感化を与へたのかも知れない、人間だつて苦労をすると顔や性質が変るのだから、猫でもそのくらゐなことがないとは云へぬ、―――と、さう考へると、尚更《なおさら》庄造はリヽーに済まない気がするのである。それと云ふのは、今迄十年の間と云ふもの、成る程随分可愛がつてはやつたけれども、いつでもたつた二人ぎりの、淋しい心細い生活ばかり味《あじわ》はせて来たのであつた。何しろ彼女が連れて来られたのは、母親と庄造と、親一人子一人の時代だつたから、とても神港軒のコツク場のやうに賑やかではなかつた。そこへ持つて来て母親が彼女をうるさがるので、忰と猫とは二階でしんみり暮らさなければならなかつた。さう云ふ風にして六年の歳月を送つた後に、品子が嫁に来たのであるが、それは結局、此の新しい侵入者から邪魔者扱ひされることになつて、一層リヽーを肩身の狭い者にしてしまつた。 いや、もつと/\済まないことをしたと思ふのは、せめて仔猫を置いてやつて、養育させればよかつたのに、仔が生れると成るべく早く貰ひ手を捜して分けてしまひ、一匹も家へ残さない方針を取つたのであつた。そのくせ彼女は実によく生んだ。外の猫が二度お産をする間に、三度お産をした。相手は何処の猫か分らなかつたが、生れた仔猫たちは混血児《あいのこ》で、鼈甲猫の俤《おもかげ》を幾分か備へてゐるものだから、割合に希望者が多かつたけれども、時にはそうつと海岸へ持つて行つたり、蘆屋川の堤防の松の木蔭などへ捨てゝ来たりした。これは母親への気がねのためであることは云ふ迄もないが、庄造自身も、リヽーが早く老衰するのは、一つは多産のせゐかも知れぬ、だから姙娠を止めることが出来ないなら、乳を飲ませることだけでも控へさせた方がよいと、さう云ふ頭で取り計らひもしたのであつた。実際彼女は、お産の度毎に眼に見えて老けて行つた。庄造は、彼女がカンガルーのやうに腹を膨らして、切なげな眼つきをしてゐるのを見ると、 「阿呆やなあ、そないに何遍も腹ぼて[#「ぼて」に傍点]になつたら、お婆さんになるばかりやないか。」 と、いつも不憫さうな口調で云つた。雄なら去勢して上げるが、雌では手術しにくいと云はれて、 「そんなら、エツキス光線かけとくなはれしまへんか。」 と、さう云つて獣医に笑はれたこともあつた。だが庄造にしてみれば、それやこれやも彼女のためを思つてのことで、無慈悲な扱ひをした積りではなかつたのだが、何と云つても、身の周りから血族を奪つてしまつたことは、彼女をへんにうら淋しい、影の薄いものにしたことは否《いな》まれなかつた。 さう云ふ風に数へて行くと、彼は随分リヽーに「苦労」をかけたと云ふ気がするのである。彼の方が彼女のお蔭で慰められてゐるわりに、リヽーの方は一向楽をしてゐないやうに思へるのである。殊《こと》に最近の一二年、夫婦の不和と生計の困難とで始終家の中がゴタ/\してゐた間、リヽーもそれに捲き込まれて、どうしたらよいか身の置きどころがないやうに狼狽《うろた》へてゐたことがあつた。母親が今津の福子の家から迎ひを寄越して、庄造に呼び出しをかけたりすると、品子より先にリヽーが彼の裾へ縋つて、あの悲しい眼で引き止めたりした。それでも振り切つて出て行くと、犬のやうに後を追ひかけて、一丁も二丁も附いて来た。だから庄造も、品子のことよりは彼女のことが心配になつて、なるべく早く帰るやうにしたのであつたが、二日も三日も泊まつて来た時などは、気のせゐ[#「気のせゐ」は底本では「気のせい」]かも知れぬが、その眼の色に又一段と暗い影が添はつてゐた。 もう此の猫も余命|幾何《いくばく》もないのではないか、―――と、此の頃になつて彼はしば/\そんな予感を覚えるにつけ、さう云ふ夢を見たことも一度や二度ではないのであつた。その夢の中の庄造は、親兄弟に死に別れでもしたやうな悲嘆に沈み、涙で顔を濡らしてゐるのだが、もしほんたうにリヽーの死に遭ふことがあつたら、彼の嘆き方は夢の中のそれにも劣らないやうな気がするのである。で、そんな工合にそれからそれへと考へ始めると、彼女をおめ/\譲つてしまつたことが、又もう一度口惜しく、情なく、腹立たしくなつて来るのであつた。そして彼女のあの眼つきが、何処かの隅から恨めしさうに此方を見てゐるやうに思へて仕方がなかつた。今更悔んでも追つ付かないことだけれども、あんなに老衰してゐたものを、なぜむごたらしく追ひ遣つてしまつたのだらう。なぜ此の家で死なしてやらなかつたのだらう。……… 「あんた、何で品子さんあの猫欲しがつてたのんか、その訳分つてなはるか。―――」 その日の夕方、例になくひつそりとしたチヤブ台に向つて、しよんぼり杯のふちを舐めてゐる亭主を見ながら、福子が照れ臭さうな調子で云ふと、 「さあ、何でやろ。」 と、庄造はちよつと空惚《そらとぼ》けた。 「リヽー自分のとこへ置いといたら、きつとあんたが会ひに来るやろ云ふところやねん。なあ、さうだつしやろが。」 「まさか、そんな阿呆らしいこと、………」 「きつとさうに違ひないねん。わて今日やつと気イ付いたわ。あんたその手に乗らんやうにしとくなはれや。」 「分つてる、誰が乗るかいな。」 「きつとやなあ?」 「ふふ」 と庄造は鼻の先で笑つて、 「念押すまでもないこツちやないか。」 と、又杯のふちを舐めた。 今日は忙しおますさかいに、もう上らんと帰りますわと、玄関先にバスケツトを置いて、塚本が出て行つてしまつてから、品子はそれを提げたまゝ狭い急な段梯子を上つて、自分の部屋に当てられた二階の四畳半に這入つて行つた。そして、出入口の襖だのガラス障子だのをすつかり締め切つてしまつてから、バスケツトを部屋のまん中に据ゑて、蓋を開けた。 [#バスケツトの中のリヽーの挿画(fig59300_04.png、横319×縦297)入る] 奇妙な事に、リヽーは窮屈な籠の中から直ぐには外へ出ようとせずに、不思議さうに首だけ伸ばして暫《しばら》く室内を見廻してゐた。それから漸《ようや》く、ゆる/\とした足どりで出て来て、かう云ふ場合に多くの猫がするやうに、鼻をヒクつかせながら部屋ぢゆうの匂を嗅ぎ始めた。品子は二三度、 「リヽー」 と呼んでみたけれども、彼女の方へはチラリとそつけない流眄《ながしめ》を与へたきりで、先《ま》づ出入口と押入の閾際《しきいぎわ》へ行つて匂を嗅いで見、次ぎには窓の所へ行つてガラス障子を一枚づゝ嗅いで見、針箱、座布団、物差、縫ひかけの衣類など、その辺にあるものを一々丹念に嗅いで廻つた。品子はさつき、鶏肉の新聞包を預かつたことを思ひ出して、その包のまゝ通り路へ置いてみたけれども、それには興味を感じないらしく、ちよつと嗅いたゞけで、振り向きもしない。そして、バサリ、バサリ、………と、畳の上に無気味な足音をさせながら、一と通り室内捜索をしてしまふと、もう一遍出入口の襖の前へ戻つて来て、前脚をかけて開けようとするので、 「リヽーや、お前けふからわての猫になつたんやで。もう何処へも行つたらあかんねんで。」 と、さう云つてそこに立ち塞がると、又仕方なくバサリ、バサリと歩き廻つて、今度は北側の窓際へ行き、恰好な所に置いてあつた小裂箱《こぎればこ》の上に上つて、背伸びをしながらガラス障子の外を眺めた。 九月も昨日でおしまひになつて、もうほんたうの秋らしく晴れた朝であつたが、少し寒いくらゐの風が立つて、裏の空地に聳えてゐる五六本のポプラーの葉が白くチラ/\顫《ふる》へてゐる向うに、摩耶山《まやさん》と六甲の頂が見える。人家がもつと建て込んでゐる蘆屋の二階の景色とは、大分様子が違ふのだけれども、リヽーはいつたいどんな気持で見てゐるのだらうか。品子は図らずも、よく此の猫と二人きりで置き去りにされたことがあつたのを思ひ出した。庄造も、母親も、今津へ出かけたきり帰らないので、一人ぼつちでお茶漬を掻つ込んでゐると、その音を聞いてリヽーが寄つて来る。あゝ、さうだつた、御飯をやるのを忘れてゐたが、お腹が減つてゐるのだらうと、さすがに可哀さうになつて、残飯の上に出し雑魚《じゃこ》を載せてやると、贅沢な食事に馴れてゐるせゐか嬉しさうな顔もしないで、ほんの申訳ぐらゐしか食べないものだから、つい腹が立つて、折角の愛情も消し飛んでしまふ。夜は夫の寝床を敷いて、帰るかどうか分らない人を待ち佗《わ》びてゐると、その寝床の上へ遠慮|会釈《えしゃく》もなく乗つて来て、のう/\と脚を伸ばす憎らしさに、寝かけたところを叩き起して追ひ立てゝやる。そんな工合に、随分此の猫には当り散らしたものだけれども、再びかうして一緒に暮すやうになつたのは、やつぱり因縁と云ふのであらう。品子は自分が蘆屋の家を追ひ出されて来て、始めて此の二階に落ち着いた時にも、あの北側の窓から山の方を眺めながら、夫恋ひしさの思ひに駈られたことがあるので、今のリヽーがあゝして外を見てゐる心持もぼんやり分るやうな気がして、ふと眼頭が熱くなつて来るのであつた。 「リヽーや、さ、此方へ来て、これ食べなさい。―――」 やがて彼女は、押入の襖を開けて、かねて用意をしておいたものを取り出しながら云ふのであつた。彼女は昨日塚本の端書《はがき》を受け取つたので、いよ/\此処へ連れて来られる珍客を欵待《かんたい》するために、今朝はいつもより早起きをして、牧場から牛乳を買つて来るやら、皿やお椀を揃へておくやら、―――此の珍客にはフンシが必要だと気が付いて、昨夜慌てゝ炮烙《ほうらく》を買ひに行つたのはいゝが、砂がないのには困つてしまつて、五六丁先の普請場《ふしんば》から、コンクリートに使ふ砂を闇にまぎれて盗んで来るやらして、そんなものまで押入の中にこつそり忍ばせて置いたのである。で、その牛乳と、花鰹節《はながつお》をふりかけた御飯のお皿と、剥げちよろけの、縁《ふち》のかけたお椀《わん》を取り出すと、罎《びん》の牛乳をお椀へ移して、部屋のまん中へ新聞紙をひろげた。それからお土産の包を開いて、水煮《みずだ》きにしてある鶏《かしわ》の肉を、筍《たけ》の皮ぐるみそれらの御馳走と一緒に並べた。そして「リヽーや、リヽーや」とつゞけさまに呼びながら、皿と罎とをカチヤ/\[#「カチヤ/\」は底本では「カチャ/\」]打ちつけてみたりしたけれども、リヽーはてんで聞えないふりをして、まだ窓ガラスにしがみ着いてゐるのであつた。 「リヽーや」 と、彼女は躍起《やっき》になつて呼んだ。 「お前、何でそない[#「そない」は底本では「しない」]表《おもて》ばかり見てんのん? お腹すいてエへんのんか?」 さつきの塚本の話では、乗物に酔ふといけないと云ふ庄造の心づかひから、今朝は朝飯を与へてゐないのださうであるから、余程空腹を訴へなければならない筈で、本来ならば皿小鉢の鳴る音を聞いたら忽ち飛んで来るところだのに、今はその音も耳に這入らず、ひもじいことも感じないくらゐ、此処を逃れたい一念に駆られてゐるのであらうか。彼女は嘗て此の猫が尼ヶ崎から戻つて来た一件を聞かされてゐるので、当分の間は眼が放されないことであらうと、覚悟してゐたものゝ、でも食べものを食べてくれて、フンシへ小便を垂れるやうになつてくれたら大丈夫だと、それを頼みにしてゐたのだが、来る匇々《そうそう》からこんな調子では、直ぐにも逃げられてしまひさうに思へた。そして動物を手なづけるには、自分のやうに性急《せっかち》にしてはいけないのだと知りながら、何とかして食べるところを見届けたさに、無理に窓際から引き離して、部屋のまん中へ抱いて来て、食べものゝ上へ順々に鼻を押しつけてやると、リヽーは脚をバタ/\やらして、爪を立てたり引つ掻いたりするので、仕方がなしに放してしまふと、又窓際へ戻つて行つて、小裂箱《こぎればこ》の上へ登る。 「リヽーや、これ、これを見て御覧。こゝにお前のいつち[#「いつち」に傍点]好きなもんあるのんに、これが分らんかいな。」 と、此方も依怙地《えこじ》に追ひかけて行つて、鶏の肉だの牛乳だのを執拗《しつッこ》く持ち廻りながら、鼻の先へ擦《こす》り着けるやうにしてやつても、今日ばかりはその好物の匂にも釣られなかつた。 これが全く見も知らぬ人に預けられたと云ふのではなし、兎も角も足かけ四年の間同じ屋根の下に住み、同じ竈《かまど》の御飯をたべて、時にはたつた二人ぎりで三日も四日も留守番をさせられた仲であるのに、あんまり無愛想過ぎるではないか。それとも私にいぢめられたことを今も根に持つてゐるのだとすれば、畜生の癖に生意気なと、つい腹も立つて来るのであつたが、こゝで此の猫に逃げられてしまつたら、折角の計劃《けいかく》が水の泡になつた上、蘆屋の方でそれ見たことかと手を叩いて笑ふであらう、もう此の上は根較《こんくら》べをして、気が折れて来るのを待つより外に仕方がない、なあに、あゝして食ひ物とフンシとを眼の前に当てがつておきさへすれば、いくら剛情を張つたつて、しまひにはお腹が減つて来るから食はずにゐられないであらうし、小便だつて垂れるであらう、そんなことより今日は私は忙しいのだ、是非晩までにと請け合つた仕事があつたのに、朝から何一つ手を付けてゐないのだつたと、やう/\彼女は思ひ返して、針箱の傍にすわつた。そして男物の銘仙の綿入を、それからせツせと縫ひにかゝつたが、ものゝ一時間もさうしてゐるうちに、直ぐ又心配になつて来るので、とき/″\様子に気を付けてゐると、やがてリヽーは部屋の隅ツこの方へ行つて、壁にぴつたり寄り添うてうづくまつたまゝ、身動き一つしないやうになつてしまつた。それは全く、畜生ながらも逃れる道のないことを悟つて、観念の眼を閉ぢたとでも云ふのであらうか。人間だつたら、大きな悲しみに鎖《とざ》された余り、あらゆる希望を抛《なげう》つて、死を覚悟したと云ふところでもあらうか。品子は薄気味悪くなつて、生きてゐるかどうかを確かめるために、そうつと傍へ寄つて行つて、抱き起して見、呼吸を調べて見、突き動かして見ると、何をされても抵抗もしない代りに、まるで鮑《あわび》の身のやうに体ぢゆうを引き締めて、固くなつてゐる様が指先に感じられる。まあ、ほんたうに、何と云ふ剛情な猫であらう。こんな工合で、いつになつたら懐《なつ》く時があるであらう。だが事に依《よ》ると、わざとあゝ云ふ風をして、此方の油断を見すましてゐるのではないか。今はあゝして、あきらめたやうにしてゐるけれども、重い板戸をさへ開ける猫であるから、うつかり部屋を留守にしたら、その間にゐなくなつてしまふのではないか。さう思ふと彼女は、他人のことよりも自分自身が、御飯を食べに行くことも厠《かわや》へ立つことも出来ないのであつた。 お午《ひる》になつて、妹の初子が 「姉さん、御飯」 と、段梯子の下から声をかけると、 「はい」 と品子は立ち上りながら、暫く部屋の中をうろ/\した。そして結局、メリンスの腰紐を三本つないで、リヽーの肩から腋の下へ、十文字に襷《たすき》をかけて、強く緊め過ぎないやうに、さうかと云つてスツポリ抜けられないやうに、何度も念を入れて締め直して、背中でしつかり結び玉を作つた。それからその紐のもう一方の端を持つて、又ひとしきりうろ/\してゐたが、とう/\天井から下つてゐる電燈のコードに括《くく》り着けると、やつと安心して階下《した》へ降りた。が、食事の間も気にかゝるので、そこ/\にして上つて来てみると、縛られたまゝ矢張隅ツこの方へ行つて、前よりもなほ体をちゞめてゐるではないか。彼女はいつそ、自分がゐない方がいゝのかも知れない、暫くひとりにしておいたら、その間に食べるものは食べ、垂れるものは垂れるかも知れないと、さうも期待してゐたのであつたが、勿論そんな形跡もない。彼女は「チヨツ」と舌打ちをして、今も部屋のまん中に空しく置かれてある御馳走のお皿と、砂が少しも濡れてゐない綺麗なフンシとを恨めしさうに睨みながら、針箱の傍にすわる。かと思ふと、あゝ、さうだつた、[#「さうだつた、」は底本では「さうだつた。」]あんまり長く縛つておいては可哀さうだと、又立ち上つて、解《ほど》きに行つて、ついでに撫でゝみたり、抱いてみたり、駄目と知りながらも食べものをすゝめてみたり、フンシの位置を換へてみたり、それを幾度か繰り返すうちに日が暮れて来て、夕方の六時頃になると、階下《した》から初子が晩の御飯を知らせるので、又紐を持つて立ち上る。そんな風にして、その日は一日猫のことにかまけて、請け合つた仕事も出来ないまゝに秋の夜長が更けてしまつた。 十一時が鳴ると、品子は部屋を片づけてから、もう一度リヽーを縛つて、座布団を二枚も敷いた上へ臥かして、御飯と便器とを身近な所へ並べてやつた。それから自分の寝床を伸べ、あかりを消して眠りに就いたが、せめて朝になるまでには、牛乳でも鶏《かしわ》でも何でもいゝから、孰《ど》れか一つぐらゐ食べてゐてくれないだらうか、明日の朝眼を開いた時あのお皿が空になつてゐてくれたら、さうしてフンシが濡れてゐてくれたら、どんなに嬉しいであらうなどゝ思ふと、眼が冴えて来て寝られないまゝに、リヽーの寝息が聞えるか知らんと闇の中で耳を澄ますと、しーんと水を打つたやうで、微かな音もしてゐない。あまり静か過ぎるのが気になつて、枕から首を擡《もた》げると、窓の方は薄ぼんやりと明るいけれども、リヽーがゐる筈の隅ツこの方は生憎《あいにく》真つ暗で何も見えない。ふと思ひついて、頭の上を手さぐりして、天井から斜《はす》ツかひに引つ張られてゐる紐を掴んで、手繰《たぐ》り寄せると、大丈夫手答へがある。でも念のために電燈を付けて見ると、成る程ゐることはゐるけれども、あの、拗《す》ねたやうにちゞこまつて、円くなつてゐる姿勢が、昼間と少しも変つてゐないし、食べ物もフンシもそつくりそのまゝ並んでゐるので、又がつかりして明りを消す。そのうちに漸《ようや》くとろ/\としかけて、暫くしてから眼を覚ますと、もういつの間にか夜が明けてゐて、見ればフンシの砂の上に大きな塊が落してあり、牛乳のお皿と御飯のお皿がすつかり平げられてゐるので、しめたと思ふとそれが夢だつたりするのである。 だが、一匹の猫を手なづけるのは、こんなに骨の折れることなのだらうか。それともリヽーと云ふ猫が特別に剛情なのだらうか。尤《もっと》もこれがまだ頑是《がんぜ》ない仔猫であつたら、訳なく懐《なつ》くのであらうけれども、かう云ふ老猫になつて来ると、人間と同じで、習慣や環境の違つた場所へ連れて来られると云ふことが、非常な打撃なのかも知れない。そして遂には、それが原因で死ぬやうなことになるのかも知れない。品子はもと/\、腹に一つの目算があつて好きでもない猫を引き取つたので、こんなに手数が懸るものとは知らなかつたが、云はゞ以前は敵同士であつた獣のお蔭で、夜もおち/\寝られないほど苦労をさせられる因縁を思ひ合はせると、不思議にも腹が立たないで、猫も可哀さうなら自分も可哀さうだと云ふ気持が湧いて来るのであつた。考へてみれば、自分だつて蘆屋の家を出て来た当座は、此処の二階にひとりでしよんぼりしてゐることが此の上もなく悲しくつて、妹夫婦が見てゐない時は、毎日毎晩泣いてばかりゐたではないか。自分だつて、二日三日は何をする元気もなく、ろく/\物も食べなかつたではないか。さうしてみれば、リヽーにしたつて蘆屋が恋ひしいのは当り前だ。庄造さんにあんなに可愛がられてゐたのだものを、そのくらゐな情がなければ恩知らずだ。ましてこんなに年を取つて、住み馴れた家を追はれ、嫌ひな人の所へなんか連れて来られて、どんなに遣《や》る瀬《せ》ないであらう。もしほんたうにリヽーを手なづけようと云ふなら、その心持を察してやり、何よりも安心と信頼を持たせるやうに仕向けなければならない。悲しい感情で胸が一杯になつてゐる時に、無理に御馳走をすゝめたら、誰だつて腹が立つではないか。だのに自分は、「食べるのが嫌なら小便をしろ」と、フンシ迄も突き付けた。あまりと云へば手前勝手な、心なしの遣り方だつた。いや、そのくらゐはまだいゝとして、縛つたのが一番よくなかつた。相手に信頼されたかつたら、先づ此方から信頼してかゝらなければならないのに、あれではます/\恐怖心を起させる。いくら猫でも、縛られてゐては食慾も出ないであらうし、小便も詰まつてしまふであらう。 明くる日になると、品子は縛ることを止めにして、逃げられたら逃げられたで仕方がないと、度胸《どきょう》をきめた。そしてとき/″\、五分か十分ぐらゐの間、試しに独り放つておいて、部屋を留守にしてみると、まだ剛情にちゞこまつてはゐるけれども、いゝ塩梅《あんばい》に逃げ出しさうな風も見えない。それで俄《にわ》かに気を許したことが悪かつたのだが、お午《ひる》の御飯に、今日はゆつくり食べようと思つて、三十分ほど階下《した》へ降りてゐる時だつた、二階で何か、ガサツと云ふ音がしたやうなので、急いで上つて来てみると、襖が五寸ほど開いてゐる。多分リヽーは、そこから廊下へ出て、南側の、六畳の間を通り抜けて、折悪く開け放しになつてゐたそこの窓から屋根へ飛び出したのであらう、もうその辺には影も形も見えなかつた。 「リヽーや、………」 彼女はさすがに大きな声で喚《わめ》かうとして、ついその声が出ずにしまつた。あんなに辛苦したかひもなく、やつぱり逃げられたかと思ふと、もう追ひかける気力もなく、何だかホツとして、荷が下りたやうな工合であつた。どうせ自分は動物を馴らすのが下手なのだから、晩《おそ》かれ早かれ逃げられるにきまつてゐるものなら、早く片がついた方がいゝかも知れない。これで却つてサバ/\して、今日からは仕事も捗《はかど》るであらうし、夜ものんびり寝られるであらう。それでも彼女は、裏の空地へ出て行つて、雑草の中を彼方此方掻き分けながら、 「リヽーや、リヽーや」 と、暫く呼んでみたけれども、今頃こんな所に愚図々々してゐる筈がないことは、分りきつてゐたのであつた。 リヽーが逃げて行つてから、当日の晩も、その明くる晩も、又その明くる晩も、品子は安心して寝られるどころか、さつぱり眠れないやうになつてしまつた。いつたい彼女は癇性《かんしょう》のせゐか、二十六と云ふ歳《とし》のわりには眼《め》ざとい方で、下女奉公をしてゐた時代から、どうかすると寝られない癖があつたものだが、今度も此の二階に引き移つてから、多分寝所の変つたのが原因であらう、殆《ほとん》ど正味三四時間しか寝ない晩が長い間つゞいてゐて、やう/\十日ばかり前から少し寝られるやうになりかけた所だつたのである。それがあの晩から、又眠れなくなつたのはどうしてか知らん? 彼女は詰めて仕事をすると、直きに肩が凝つて来たり興奮したりするのであるが、此の間からリヽーのためにおくれてゐたのを取り返さうとして、余り縫ひ物に熱中し過ぎたせゐか知らん? それに元来が冷え性なので、まだ十月の初めだと云ふのにそろ/\足が冷えて来て、布団へ這入つても容易に温《ぬく》もらないのである。彼女は夫に疎《うと》んぜられたそのそも/\のキツカケを、ふと想ひ出して来るのであるが、それも今から考へれば、全く自分の冷え性から起つたことなのであつた。ひどく寝つきのいゝ庄造は、布団へ這入つて五分もすれば眠つてしまふのに、そこへ突然氷のやうな足に触られて、起されてしまふのが溜《たま》らないから、お前はそつちで寝てくれろと云ふ。そんなことからつい別々に寝るやうになつたが、寒い時分には湯たんぽのことでよく喧嘩をした。なぜかと云つて、庄造は彼女と反対に、人一倍|上気《のぼ》せ性なのである。分けても足が熱いと云つて、冬でも少し布団の裾へ爪先を出すくらゐにしないと、寝られない男なのである。だから湯たんぽで暖めてある布団へ這入ることを嫌つて、五分と辛抱してゐなかつた。勿論それが不和を醸《かも》した根本の理由ではないけれども、しかしさう云ふ体質の相違がよい口実に使はれて、だん/\独り寝の習慣を付けられてしまつたのであつた。 彼女は右の首筋から肩の方へしこり[#「しこり」に傍点]が出来て恐しく張つてゐるやうなので、とき/″\そこを揉んでみたり、寝返りを打つて枕の当るところを換へてみたりした。毎年夏から秋へかけて、陽気の変り目に右の下頤の虫歯が痛んで困るのであるが、昨夜あたりから少しズキ/\し出したやうである。さう云へば、此の六甲と云ふ所は、これから冬になつて来ると、毎年六甲|颪《おろし》が吹いて、蘆屋などよりずつと寒さが厳しいのであると聞いてゐたけれども、もう此の頃でも夜は相当に冷え込むので、同じ阪神の間でありながら、何だか遠い山国へでも来たやうな気がする。彼女は体を海老のやうにちゞこめて、無感覚になりかけた両方の足を擦り合はした。蘆屋時代には、もう十月の末になると、夫と喧嘩しながらも湯たんぽを入れて寝たのであつたが、こんな工合だと、ことしはそれまで待てないかも知れない。……… 寝付かれないものとあきらめてしまつて、電燈を付けて、妹から借りた先月号の「主婦之友」を、横向きに臥ながら読み出したのが、ちやうど夜中の一時であつたが、それから間もなく、遠くの方からざあツと云ふ音が近寄つて来て、直きにざあツと通り過ぎて行くのが聞えた。おや、時雨《しぐれ》かな、と思つてゐると、又ざあツとやつて来て、屋根の上を通る時分には、パラ/\と疎《まば》らな音を落して、忍び足に消えて行く。暫くすると、又ざあツとやつて来る。それにつけても、リヽーは今頃何処にゐるか、蘆屋へ帰つてゐるならいゝが、もしさうでもなく、路に迷つてゐるなら、こんな晩には嘸《さぞ》雨に濡れてゐるであらう。実を云ふと、まだ塚本には逃げられたことを知らせてやらないのであるが、あれから此方、ずつとそのことが頭に引つかゝつてゐるのであつた。彼女としては早く知らしてやつた方が行き届いてゐることは分つてゐたのだが、「憚《はばか》りながら、とうに戻つて来てをりますから御安心下すつて結構です、いろ/\お手数をかけましたが、もう御入用はありますまいな」と、皮肉交りに云はれさうなのが業腹《ごうはら》で、つい延び/\にしてゐたのである。しかし戻つてゐるとしたら、此方の通知を待つ迄もなく、向うからも挨拶がありさうなものだのに、何とも云つて来ないのをみると、何処かにまごついてゐるのであらうか。尼ヶ崎の時は、姿が見えなくなつてから一週間目に戻つたと云ふのだが、今度はそんなに遠い所ではないのだし、つい三日前に通つて来たばかりの路なのだから、よもや迷ふことはないであらう。たゞ近頃は耄碌《もうろく》してゐて、あの時分よりはカンも悪く、動作も鈍くなつてゐるから、三日かゝるところが四日かゝるやうなことはあるかも知れない。さうだとしても、おそくも明日か明後日のうちには無事に戻つて行くであらう。するとあの二人がどんな喜びやうをするか。そしてどんなに溜飲を下げるか。きつと塚本さんまでが一緒になつて、「それ見ろ、あれは亭主に捨てられるばかりか、猫にまで捨てられるやうな女だ」と云ふであらう。いや/\、階下の妹夫婦もお腹の中ではさう思ふであらうし、世間の人がみんな笑ひ物にするであらう。 その時、しぐれがまた屋根の上をパラ/\と通つて行つた後から、窓のガラス障子に、何かがばたんと打《ぶ》つかるやうな音がした。風が出たな、あゝ、イヤなことだ、と、さう思つてゐるうちに、風にしては少し重みのあるやうなものが、つゞいて二度ばかり、ばたん、ばたんと、ガラスを叩いたやうであつたが、かすかに、 「ニヤア」 と云ふ声が、何処かに聞えた。まさか今時分、そんなことが、………と、ぎく[#「ぎく」に傍点]ツとしながら、気のせゐかも知れぬと耳を澄ますと、矢張、 「ニヤア」 と啼いてゐるのである。そしてそのあとから、あのばたんと云ふ音が聞えて来るのである。彼女は慌てゝ跳ね起きて、窓のカーテンを開けてみた。と、今度はハツキリ、 「ニヤア」 と云ふのがガラス戸の向うで聞えて、ばたん、………と云ふ音と同時に、黒い物の影がさつと掠《かす》めた。さうか、やつぱりさうだつたのか、―――彼女はさすがに、その声には覚えがあつた。此の間こゝの二階にゐた時は、とう/\一度も啼かなかつたが、それは確かに、蘆屋時代に聞き馴れた声に違ひなかつた。 [#窓の挿画(fig59300_05.png、横294×縦455)入る] 急いで挿し込みのネヂを抜いて、窓から半身を乗り出しながら、室内から射す電燈のあかりをたよりに暗い屋根の上を透かしたけれども、一瞬間、何も見えなかつた。想像するに、その窓の外に手すりの附いた張り出しがあるので、リヽーは多分そこへ上つて、啼きながら窓を叩いてゐたのに違ひなく、あのばたんと云ふ音とたつた今見えた黒い影とは正しくそれだつたと思へるのであるが、内側からガラス戸を開けた途端に、何処かへ逃げて行つたのであらうか。 「リヽーや、………」 と、階下《した》の夫婦を起さないやうに気がねしながら、彼女は闇に声を投げた。瓦が濡れて光つてゐるので、さつきのあれが時雨だつたことは疑ふ余地がないけれども、それがまるで譃《うそ》だつたやうに、空には星がきら/\してゐる。眼の前を蔽ふ摩耶山の、幅広な、真つ黒な肩にも、ケーブルカアのあかりは消えてしまつてゐるが、頂上のホテルに灯の燈つてゐるのが見える。彼女は張り出しへ片膝をかけて、屋根の上へノメリ出しながら、もう一度、 「リヽーや」 と、呼んだ。すると、 「ニヤア」 と云ふ返辞をして、瓦の上を此方へ歩いて来るらしく、燐色《りんいろ》に光る二つの眼の玉がだん/\近寄つて来るのである。 「リヽーや」 「ニヤア」 「リヽーや」 「ニヤア」 何度も/\、彼女が頻繁に呼び続けると、その度毎《たびごと》にリヽーは返辞をするのであつたが、こんなことは、つひぞ今迄にないことだつた。自分を可愛がつてくれる人と、内心嫌つてゐる人とをよく知つてゐて、庄造が呼べば答へるけれども、品子が呼ぶと知らん顔をしてゐたものだのに、今夜は幾度でも億劫《おっくう》がらずに答へるばかりでなく、次第に媚びを含んだやうな、何とも云へない優しい声を出すのである。そして、あの青く光る瞳を挙げて、体に波を打たせながら手すりの下まで寄つて来ては、又すうつと向うへ行くのである。大方猫にしてみれば、自分が無愛想にしてゐた人に、今日から可愛がつて貰はうと思つて、いくらか今迄の無礼を詑《わ》びる心持も籠めて、あんな声を出してゐるのであらう。すつかり態度を改めて、庇護を仰ぐ気になつたことを、何とかして分つて貰はうと、一生懸命なのであらう。品子は初めて此の獣からそんな優しい返辞をされたのが、子供のやうに嬉しくつて、何度でも呼んでみるのであつたが、抱かうとしてもなか/\掴まへられないので、暫くの間、わざと窓際を離れてみると、やがてリヽーは身を躍らして、ヒラリと部屋へ飛び込んで来た。それから、全く思ひがけないことには、寝床の上にすわつてゐる品子の方へ一直線に歩いて来て、その膝に前脚をかけた。 これはまあ一体どうしたことか、―――彼女が呆れてゐるうちに、リヽーはあの、哀愁に充ちた眼差でじつと彼女を見上げながら、もう胸のあたりへ靠《もた》れかゝつて来て、綿フランネルの寝間着の襟へ、額をぐいぐい[#「ぐいぐい」に傍点]と押し付けるので、此方からも頬ずりをしてやると、頤だの、耳だの、口の周りだの、鼻の頭だのを、やたらに舐め廻すのであつた。さう云へば、猫は二人きりになると接吻をしたり、顔をすり寄せたり、全く人間と同じやうな仕方で愛情を示すものだと聞いてゐたのは、これだつたのか、いつも人の見てゐない所で夫がこつそりリヽーを相手に楽しんでゐたのは、これをされてゐたのだつたか。―――彼女は猫に特有な日向臭《ひなたくさ》い毛皮の匂を嗅がされ、ザラ/\と皮膚に引つかゝるやうな、痛痒《いたがゆ》い舌ざはりを顔ぢゆうに感じた。そして、突然、たまらなく可愛くなつて来て、 「リヽーや」 と云ひながら、夢中でぎゆツと抱きすくめると、何か、毛皮のところ/″\に、冷めたく光るものがあるので、扨《さて》は今の雨に濡れたんだなと、初めて合点が行つたのであつた。 それにしても、蘆屋の方へ帰らないで、此方へ帰つたのはなぜであらう。恐らく最初は蘆屋をめざして逃げ出したのが、途中で路が分らなくなつて、戻つて来たのではないであらうか。僅《わず》か三里か四里のところを、三日もかゝつてうろ/\しながら、とう/\目的地へ行き着けないで引つ返して来るとは、リヽーにしては余り意気地がないやうだけれども、事に依ると此の可哀さうな獣は、もうそれほどに老衰してゐるのであらう。気だけは昔に変らないつもりで、逃げてみたことはみたものゝ、視力だの、記憶力だの、嗅覚だのと云ふものが、もはや昔の半分もの働きもしてくれないので、どつちの路を、どつちの方角から、どう云ふ風に連れて来られたのか見当が付かず、彼方へ行つては踏み迷ひ、此方へ行つては踏み迷ひして、又もとの場所へ戻つて来る。昔だつたら、一旦かうと思ひ込んだらどんなに路のない所でもガムシヤラに突進したものが、今では自信がなくなつて、様子の知れない所へ分け入ると怖気《おじけ》がついて、ひとりでに足がすくんでしまふ。きつとリヽーは、そんな風にして案外遠くの方までは行くことが出来ず、此の界隈《かいわい》をまご/\してゐたのであらう。さうだとすれば、昨日の晩も、一昨日の晩も、夜な/\此の二階の窓の近くへ忍び寄つて、入れて貰はうかどうしようかと躊躇《ためら》ひながら、中の様子を窺《うか》がつてゐたのかも知れない。そして今夜も、あの屋根の上の暗い所にうづくまつて長い間考へてゐたのであらうが、室内にあかりが燈つたのと、俄かに雨が降つて来たのとで、急にあゝ云ふ啼き声を出して障子を叩く気になつたのであらう。でもほんたうに、よく帰つて来てくれたものだ。よつぽど辛い目に遭つたればこそであらうけれども、矢張私をアカの他人とは思つてゐない証拠なのだ。それに私も、今夜に限つてこんな時刻に電燈をつけて、雑誌を読んでゐたと云ふのは、虫が知らしたせゐなのだ。いや、考へれば、此の三日間ちよつとも眠れなかつたのも、実はリヽーの帰つて来るのが何となく待たれたからだつたのだ。さう思ふと彼女は、涙が出て来て仕方がないので、 「なあ、リヽーや、もう何処へも行けへんなあ。」 と、さう云ひながら、もう一遍ぎゆ[#「ぎゆ」に傍点]つと抱きしめると、珍しいことにリヽーはじつと大人しくして、いつまでも抱かれてゐるのであつたが、その、物も云はずに唯悲しさうな眼つきをしてゐる年老いた猫の胸の中が、今の彼女には不思議なくらゐはつきり見透せるのであつた。 「お前、きつとお腹《なか》減つてるやろけど、今夜はもう遅いよつてにな。―――台所捜したら何なとあるやろ思ふけど、ま、仕方ない、此処わての家と違ふよつてに、明日の朝まで待ちなされや。」 彼女は一《ひ》と言《こと》/\に頬ずりをしてから、漸《ようよ》うリヽーを下に置いて、忘れてゐた窓の戸締まりをし、座布団で寝床を拵へてやり、あの時以来まだ押入に突つ込んであつたフンシを出してやりなどすると、リヽーはその間も始終後を追つて歩いて、足もとに絡み着くやうにした。そして少しでも立ち止まると、直ぐその傍へ走り寄つて、首を一方へ傾けながら、何度も耳の附け根のあたりを擦り着けに来るので、 「えゝ、もうえゝがな、分つてるがな。さ、此処へ来て寝なさい/\。」 と、座布団の上へ抱いて来てやつて、大急ぎであかりを消して、やつと彼女は自分の寝床へ這入つたのであつたが、それから一分とたゝないうちに、忽《たちま》ちすう[#「すう」に傍点]ツと枕の近くにあの日向臭《ひなたくさ》い匂がして来て、掛け布団をもく/\持ち上げながら、天鵞絨《びろうど》のやうな柔かい毛の物体が這入つて来た。と、ぐいぐい頭からもぐり込んで、脚の方へ降りて行つて、裾のあたりを暫くの間うろ/\してから、又上の方へ上つて来て、寝間着のふところへ首を入れたなり動かないやうになつてしまつたが、やがてさも気持の好さゝうな、非常に大きな音を立てゝ咽喉をゴロ/\鳴らし始めた。 さう云へば以前、庄造の寝床の中でこんな工合にゴロ/\云ふのを、いつも隣で聞かされながら云ひ知れぬ嫉妬を覚えたものだが、今夜は特別にそのゴロ/\が大きな声に聞えるのは、よつぽど上機嫌なのであらうか、それとも自分の寝床の中だと、かう云ふ風にひゞくのであらうか。彼女はリヽーの冷めたく濡れた鼻のあたまと、へんにぷよ/\した蹠《あしのうら》の肉とを胸の上に感じると、全く初めての出来事なので、奇妙のやうな、嬉しいやうな心地がして、真つ暗な中で手さぐりしながら頸のあたりを撫でゝやつた。するとリヽーは一層大きくゴロ/\云ひ出して、とき/″\、突然人差指の先へ、きゆツと噛み着いて歯型を附けるのであつたが、まだそんなことをされた経験のない彼女にも、それが異常な興奮と喜びの余りのしぐさ[#「しぐさ」に傍点]であることが分るのであつた。 その明くる日から、リヽーはすつかり品子と仲好しになつてしまつて、心から信頼してゐる様子が見え、もう牛乳でも、花鰹節の御飯でも、何でもおいしさうに食べた。そしてフンシの砂の中へ日に幾度か排泄物を落すので、いつもその匂が四畳半の部屋の中へむう[#「むう」に傍点]ツと籠るやうになつたが、彼女はそれを嗅いでゐると、いろ/\な記憶が思ひがけなくよみがへつて、蘆屋時代のなつかしい日が戻つて来たやうに感ずるのであつた。なぜかと云つて、蘆屋の家では明けても暮れても此の匂がしてゐたではないか。あの家の中の襖にも、柱にも、壁にも、天井にも、皆此の匂が滲《し》みついてゐて、彼女は夫や姑と一緒に四年の間これを嗅ぎながら、口惜しいことや悲しいことの数々に堪へて来たのではないか。だが、あの時分には、此の鼻持ちのならない匂を呪つてばかりゐたくせに、今はその同じ匂が何と甘い回想をそゝることよ。あの時分には此の匂故にひとしほ憎らしかつた猫が、今はその反対に、此の匂故に如何にいとほしいことよ。彼女はそのゝち毎晩のやうにリヽーを抱いて眠りながら、此の柔順で可愛らしい獣を、どうして昔はあんなにも嫌つたのかと思ふと、あの頃の自分と云ふものが、ひどく意地の悪い、鬼のやうな女にさへ見えて来るのであつた。 さて此の場合、品子が此の猫の身柄について福子に嫌味な手紙を出したり、塚本を通してあんなに執拗《しつッこ》く頼んだりした動機と云ふものを、一寸説明しておかなければならないのであるが、正直のところ、そこにはいたづら[#「いたづら」に傍点]や意地悪の興味が手伝つてゐたことも確かであり、又庄造が猫に釣られて訪ねて来るかも知れないと云ふ万一の望みもあつたであらうが、そんな眼の前のことよりも、実はもつと遠い/\先のこと、―――ま、早くて半年、おそくて一年か二年もすれば、多分福子と庄造の仲が無事に行く筈はないのだからと、その時を見越してゐるのであつた。それと云ふのが、もと/\塚本の仲人口《なこうどぐち》に乗せられて嫁に行つたのが不覚だつたので、今更あんな怠け者の、意気地なしの、働きのない男なんぞに、捨てられた方が仕合はせだつたかも知れないのだが、でも彼女としてどう考へても忌ま/\しく、あきらめきれない気がするのは、当人同士が飽きも飽かれもした訳ではないのに、ハタの人間が小細工をして追ひ出したのだと、さう云ふ一念があるからだつた。尤《もっと》もそんなことを云ふと、いや、さう思ふのはお前さんの己惚《うぬぼ》れだ、それは成る程、姑との折合も悪かつたに違ひないけれども、夫婦仲だつてちつとも良いことはなかつたではないか、お前さんは御亭主をのろま[#「のろま」に傍点]だと云つて低能児扱ひにするし、御亭主はお前さんを我《が》が強いと云つて鬱陶《うっとう》しがるし、いつも喧嘩ばかりしてゐたのを見ると、よく/\性《しょう》が合はないのだ、もし御亭主がほんとにお前さんを好いてゐるなら、いくらハタから押し付けたつて、外に女を拵へる訳がありますまいと、さう露骨には云はない迄も、塚本などのお腹の中は大概《たいがい》さうにきまつてゐるのだが、それは庄造と云ふ人の性質を知らないからのことなので、彼女に云はせれば、いつたいあの人はハタから強く押し付けられたら、否《いや》も応《おう》もないのである。呑気と云ふのか、ぐうたらと云ふのか、其の人よりも此の人がいゝと云はれると、すぐふら/\とその気になつてしまふのだけれども、自分から女を拵へて古い女房を追ひ出したりする程、一途に思ひ詰める性分ではないのである。だから品子は熱烈に惚れられた覚えはないが、嫌はれたと云ふ気もしないので、周《まわ》りの者が智慧をつけたりそゝのかしたりしなかつたら、よもや不縁にはならなかつたらう、自分がこんな憂き目を見るのは、全くおりんだの、福子だの、福子の親父《おやじ》だのと云ふものがお膳立てをしたからなのだと、さう思はれて、少し誇張した云ひ方をすれば、生木《なまき》を割《さ》かれたやうな感じが胸の奥の方にくすぶつてゐるので、未練がましいやうだけれども、どうも此のまゝでは堪忍出来ないのであつた。 しかし、それなら、うす/\おりんなどのしてゐることを感付かないでもなかつた時分に、何とか手段の施《ほどこ》しやうがあつたゞらうに、―――いよ/\蘆屋を追ひ出される間際にだつて、もつと頑張つてみたらよかつたらうに、―――じたいさう云ふ策略にかけては姑のおりんと好い取組だと云はれた彼女が、案外あつさり旗を巻いて、おとなしく追ん出てしまつたのはなぜであらうか、日頃の負けず嫌ひにも似合はないと云ふことになるが、そこにはやつぱり彼女らしい思はくがないでもなかつた。ありていに云ふと、今度の事は彼女の方に最初幾分の油断があつたから斯《こ》うなつたので、それと云ふのも、あの多情者の、不良少女上りの福子を、何ぼ何でも忰の嫁にしようと迄はおりんも考へてゐないであらうし、又尻の軽い福子が、まさか辛抱する気もあるまいと、たかをくゝつてゐたからなのだが、そこに多少の目算違ひがあつたとしても、どうせ長続きのする二人でないと云ふ見透《みとお》しに、今も変りはないのであつた。尤《もっと》も福子は年も若いし、男好きのする顔だちだし、鼻にかける程の学問はないが女学校へも一二年行つてゐたのだし、それに何より持参金が附いてゐるのだから、庄造としては据《す》ゑ膳《ぜん》の箸《はし》を取らぬ筈はなく、先《ま》づ当分は有卦《うけ》に入つた気でゐるだらうけれども、福子の方がやがて庄造では喰ひ足らなくなつて、浮気をせずにはゐないであらう。何しろあの女は男一人を守れないたち[#「たち」に傍点]で、もうその方では札附《ふだつ》きになつてゐるのだから、どうせ今度も始まることは分りきつてゐるのだが、それが眼に余るやうになれば、いくら人の好い庄造だつて黙つてゐられないであらうし、おりんにしても匙《さじ》を投げるにきまつてゐる。ぜんたい庄造は兎に角として、シツカリ者と云はれるおりんにそのくらゐなことが見えない筈はないのだけれども、今度は慾が手伝つたので、つい無理な細工をしたのかも知れない。だから品子は、こゝでなまじな悪あがきをするよりは、一と先づ敵に勝たしておいて、徐《おもむ》ろに後図《こうと》を策しても晩《おそ》くはないと云ふ腹なので、中々あきらめてはゐないのだつたが、でもそんなことは、無論塚本に対しても噫《おくび》にも出しはしなかつた。うはべは同情が寄るやうに、なるべく哀れつぽいところを見せて、心の中では、どうしてもゝう一遍だけ彼処《あそこ》の家へ戻つてやる、今に見てゐろと思ひもし、又その思ひがいつかは遂げられるだらうと云ふ望みに生きてもゐるのだつた。 それに、品子は、庄造のことをたよりない人とは思ふけれども、どう云ふものか憎むことが出来なかつた。あんな工合に、何の分別もなくふら/\してゐて、周りの人達が右と云へば右を向き、左と云へば左を向くと云ふ風だから、今度にしてもあの連中のいゝやうにされてゐるのであらうが、それを考へると、子供を一人歩きさせてゐるやうな、心許《こころもと》ない、可哀さうな感じがするのである。そしてもと/\、さう云ふ点にへんな[#「へんな」は底本では「へんに」]可愛気のある人なので、一人前の男と思へば腹が立つこともあつたけれども、幾らか自分より下に見下して扱ふと、妙にあたりの柔かい、優しい肌合があるものだから、だん/\それに絆《ほだ》されて抜きさしがならないやうになり、持つて来た物までみんな注ぎ込んで、裸にされて放り出されてしまつたのだが、彼女としてはそんなにまでして尽してやつたと云ふところに、尚更《なおさら》未練が残るのである。全く、此の一二年間のあの家の暮らしは、半分以上は彼女の痩せ腕で支へてゐたやうなものではないか。好いあんばいにお針が達者だつたから、近所の仕事を貰つて来ては夜の眼も寝ずに縫ひ物をして、どうやら凌《しの》ぎをつけてゐたので、彼女の働きがなかつたら、母親なぞがいくら威張つてもどうにもなりはしなかつたではないか。おりんは土地での嫌はれ者、庄造はあの通りでさつぱり信用がなかつたから、諸払ひの滞《とどこお》りなどもやかましく催促されたものだが、彼女への同情があつたればこそ節季《せっき》が越せて行つたのではないか。それだのにあの恩知らずの親子が、慾に眼がくれてあゝ云ふ者を引ずり込んで、牛を馬に乗り換へた気でゐるけれども、まあ見てゐるがいゝ、あの女にあの家の切り盛りが出来るかどうか、持参金附きは結構だけれど、なまじそんなものがあつたら、一層嫁の気随気儘《きずいきまま》が募《つの》るであらうし、庄造もそれをアテにして怠けるであらうし、結局親子三人の思はくが皆それ/″\に外れて来るところから、争ひの種が尽きないであらう。その時分になつて、前の女房の有難みが始めてほんたうに分るのだ。品子はこんなふしだらではなかつた、かう云ふ時にあゝもしてくれた、かうもしてくれたと、庄造ばかりでなく、母親までがきつと自分の失策を認めて、後悔するのだ。あの女は又あの女で、さん/″\あの家を掻き廻した揚句の果てに、飛び出してしまふのが落ちなのだ。さうなることは今から明々白々で、太鼓判を捺《お》してやりたいくらゐであるのに、それが分らないとは憐れな人達もあればあるものよと、内心せゝら笑ひながら時機を待つ積りでゐるのだが、しかし用心深い彼女は、待つにつけてはリヽーを預かつておくと云ふ一策を考へついたのであつた。 彼女はいつも、上の学校を一二年でも覗いたことがあると云ふ福子に対して、教育の点では退《ひ》け目を感じてゐたのであるが、でもほんたうの智慧くらべなら、福子にだつておりんにだつて負けるものかと云ふ自負心があるので、リヽーを預かると云ふ手段を思ひついた時は、我ながらの妙案にひとりで感心してしまつた。なぜかといつて、リヽーさへ此方へ引き取つて置いたら、恐らく庄造は雨につけ、風につけ、リヽーのことを思ひ出す度に彼女のことを思ひ出し、リヽーを不憫と思ふ心が、知らず識らず彼女を憐れむ心にもならうからである。そして、さうすれば、いつ迄たつても精神的に縁が切れない理窟であるし、そこへ持つて来て福子との仲がシツクリ行かないやうになると、いよ/\リヽーが恋ひしいと共に前の女房が恋ひしくならう。彼女が未だに再縁もせず、猫を相手に佗《わ》びしく暮らしてゐると聞いては、一般の同情が集まるのは無論のこと、庄造だつて悪い気持はする筈がなく、ます/\福子に嫌気がさすやうになるであらうから、手を下さずして彼等の仲を割くことに成功し、復縁の時期を早めることが出来る。―――ま、さうお誂《あつら》へ向きに行つてくれたら仕合せであるが、彼女自身はさうなる見込みを立てゝゐた。たゞ問題はリヽーを素直に引き渡すかどうかと云ふことであつたが、それとても、福子の嫉妬心を煽り立てたら大丈夫うまく行くつもりでゐた。だからあの手紙の文句なんぞも、さう云ふ深謀遠慮を以て書かれてゐたので、単純ないたづらや嫌がらせではなかつたのであるが、お気の毒ながら頭の悪い連中には、どうして私が好きでもない猫を欲しがるのか、とてもその真意が掴めツこあるまい、そしていろ/\滑稽《こっけい》極まる邪推をしたり、子供じみた騒ぎ方をするであらうと云ふところに、抑へきれない優越感を覚えたのであつた。 兎に角、そんな訳であるから、その折角のリヽーに逃げられた時の落胆と、思ひがけなくそれが戻つて来た時の喜びとがどんなに大きかつたとしても、畢竟《ひっきょう》それは得意の「深謀遠慮」に基づく打算的な感情であつて、ほんたうの愛着ではない筈なのだが、あの時以来、一緒に二階で暮らすやうになつてみると、全く予想もしなかつた結果が現はれて来たのである。彼女は夜な/\、その一匹の日向臭い獣を抱へて同じ寝床の中に臥ながら、どうして猫と云ふものはこんなにも可愛らしいのであらう、それだのに又、昔はどうして此の可愛さが理解出来なかつたのであらうと、今では悔恨と自責の念に駆られるのであつた。大方《おおかた》蘆屋時代には、最初に変な反感を抱いてしまつたので、此の猫の美点が眼に這入らなかつたのであらうが、それと云ふのも、焼餅があつたからなのである。焼餅のために、本来可愛らしいしぐさが唯《ただ》もう憎らしく見えたのである。たとへば彼女は、寒い時分に夫の寝床へもぐり込んで行く此の猫を憎み、同時に夫を恨んだものだが、今になつてみれば何の憎むことも恨むこともありはしない。現に彼女も、もう此の頃では独り寝の寒さがしみ/″\こたへてゐるではないか。まして猫と云ふ獣は人間よりも体温が高いので、ひとしほ寒がりなのである。猫に暑い日は土用の三日間だけしかないと云はれるのである。さうだとすれば、今は秋の半ばであるから、老年のリヽーが暖かい寝床へ慕ひ寄るのは当然ではないか。いや、それよりも、彼女自身が、かうして猫と寝てゐると、此の暖かいことはどうだ! 例年ならば、今夜あたりは湯たんぽなしでは寝られないであらうのに、今年はまだそんなものも使はないで、寒い思ひもせずにゐるのは、リヽーが這入つて来てくれるお蔭ではないか。彼女自身が、夜毎々々にリヽーを放せなくなつてゐるではないか。その外昔は、此の猫の我が儘を憎み、相手に依つて態度を変へるのを憎み、蔭日向のあるのを憎んだけれども、それもこれも、みんな此方の愛情が足らなかつたからなのだ。猫には猫の智慧があつて、ちやんと人間の心持が分る。その証拠には、此方が今迄のやうでなく、ほんたうの愛情を持つやうになつたら、直ぐ戻つて来て此の通り馴れ/\しくするではないか。彼女が自分の気持の変化を意識するより、リヽーの方がより早く嗅ぎつけたくらゐではないか。 品子は今迄、猫は愚か人間に対しても、こんなにこまやかな情愛を感じたこともなく、示したこともないやうな気がした。それは一つには、おりんを始めいろ/\な人から情《じょう》の強《こわ》い女だと云はれてゐたものだから、いつか自分でもさう思はされてゐたせゐであつたが、此の間からリヽーのために捧げ尽した辛労と心づかひとを考へる時、自分の何処にこんな暖かい、優しい情緒が潜んでゐたのかと、今更驚かれるのであつた。さう云へば昔、庄造が此の猫の世話を決して他人の手に委《ゆだ》ねず、毎日食事の心配をし、二三日置きにフンシの砂を海岸まで取り換へに行き、暇があると蚤《のみ》を取つてやつたりブラシをかけてやつたりし、鼻が乾いてゐはしないか、便が軟か過ぎはしないか、毛が脱けはしないかと始終気をつけて、少しでも異状があれば薬を与へると云ふ風に、まめ/\しく尽してやるのを見て、あの怠け者によくあんな面倒が見られることよと、ます/\反感を募らしたものだが、あの庄造のしたことを今は自分がしてゐるではないか。而《しか》も彼女は、自分の家に住んでゐるのではないのである。自分の食べるだけのものは、自分で儲《もう》けて妹夫婦へ払ひ込むと云ふ条件だから、まるきりの居候《いそうろう》ではないが、何かと気が置ける中にゐて、此の猫を飼つてゐるのである。これが自分の家であつたら、台所を漁《あさ》つて残り物を捜すけれども、他人の家ではさうも出来ないところから、自分が食べるものを食べずに置くか、市場へ行つて何かしら見つけて来てやらねばならない。さうでなくても、つましい上にもつましくしてゐる場合であるのに、たとひ僅かの買ひ物にもせよ、リヽーのために出銭《でせん》が殖《ふ》えると云ふことは、随分|痛事《いたごと》なのである。それにもう一つ厄介なのは、フンシであつた。蘆屋の家は浜まで五六丁の距離だつたから、砂を得るには便利であつたが、此の阪急の沿線からは、海は非常に遠いのである。尤《もっと》も最初の二三回は、普請場の砂があつたお蔭で助かつたけれども、生憎《あいにく》近頃は何処にも砂なんかありはしない。さうかと云つて、砂を換へずに放つておくと、とても臭気が激しくなつて、しまひに階下《した》へまで匂つて来るので、妹夫婦が嫌な顔をする。よんどころなく、夜が更けてから彼女はそうツとスコツプを持つて出かけて行つて、その辺の畑の土を掻いて来たり、小学校の運動場から滑り台の砂を盗んで来たり、そんな晩には又よく犬に吠えられたり、怪しい男に尾《つ》けられたり、―――全く、リヽーのためでなかつたら、誰に頼まれてこんな嫌な仕事をしよう、だが又リヽーのためならばかう云ふ苦労を厭《いと》はないとは、何としたことであらうと思ふと、返す/″\も、蘆屋の時分に、なぜ此の半分もの愛情を以て、此の獣をいつくしんでやらなかつたか、自分にさう云ふ心がけがあつたら、よもや夫との仲が不縁になりはしなかつたであらうし、此のやうな憂き目は見なかつたであらうものをと、今更それが悔まれてならない。考へてみれば、誰が悪かつたのでもない、みんな自分が至らなかつたのだ。此の罪のない、やさしい一匹の獣をさへ愛することが出来ないやうな女だからこそ、夫に嫌はれたのではないか。自分にさう云ふ欠点があつたからこそ、ハタの人間が附け込んだのではないか。……… 十一月になると、朝夕の寒さがめつきり加はつて、夜はとき/″\六甲の方から吹きおろす風が、戸の隙間から冷え/″\と沁み込むやうになつて来たので、品子とリヽーとは前よりも一層|喰《く》つ着《つ》いて、ひしと抱き合つて、ふるへながら寝た。そしてとう/\怺《こら》へきれずに、湯たんぽを使ひ始めたのであつたが、その時のリヽーの喜び方と云つたらなかつた。品子は夜な/\、湯たんぽの温《ぬく》もりと猫の活気とでぽか/\してゐる寝床の中で、あのゴロ/\云ふ音を聞きながら、自分のふところの中にゐる獣の耳へ口を寄せて、 「お前の方がわてよりよつぽど人情があつてんなあ。」 と云つてみたり、 「わてのお蔭で、お前にまでこんな淋しい思ひさして、堪忍なあ。」 と云つてみたり、 「けどもう直《じ》きやで。もうちよつと辛抱してゝくれたら、わてと一緒に蘆屋の家へ帰れるやうになるねんで。そしたら今度と云ふ今度は、三人仲よう暮らさうなあ。」 と云つてみたりして、ひとりでに涙が湧《わ》いて来ると、夜更《よふ》けの、真つ暗な部屋の中で、リヽーより外《ほか》には誰に見られる訳でもないのに、慌てゝ掛け布団をすつぽり被つてしまふのであつた。 福子が午後の四時過ぎに、今津《いまづ》の実家へ行つて来ると云つて出かけてしまふと、それまで奥の縁側で蘭の鉢をいぢくつてゐた庄造は、待ち構へてゐたやうに立ち上つて、 「お母さん」 と、勝手口へ声をかけたが、洗濯をしてゐる母親には、水の音が邪魔になつて聞えないらしいので、 「お母さん」 と、もう一度声を張り上げて云つた。 「店を頼むで。―――ちよつと其処《そこ》まで行つて来るよつてになあ。」 と、ヂヤブ/\云ふ音がふいと[#「ふいと」は底本では「ふいに」]止まつて、 「何やて?」 と、母親のしつかりした声が障子越しに聞えた。 「僕、ちよつと其処まで行つて来るよつてに―――」 「何処《どこ》へ?」 「つい其処や。」 「何しに?」 「そないに執拗《ひつこ》う聞かんかて―――」 さう云つて、一瞬間むつ[#「むつ」に傍点]とした顔つきで、鼻の孔をふくらましたが、直ぐ又思ひ返したらしく、あの持ち前の甘えるやうな口調になつて、 「あのなあ、ちよつと三十分ほど、球撞《たまつ》きに行かしてくれへんか。」 「さうかてお前、球は撞かんちふ約束したのんやないか。」 「一遍だけ行かしてエな。何せもう半月も撞いてエへんよつてに。頼みまつさ、ほんまに。」 「えゝか、悪いか、わてには分らん。福子のゐる時に、答へて行つとくなはれ。」 「何でエな。」 その妙に力張《りきば》つたやうな声を聞くと、裏口の方で盥《たらい》の上につくばつてゐる母親にも、忰が怒つた時にするだゞツ児じみた表情が、はつきり想像出来るのであつた。 「何で一々、女房に答へんなりまへんねん。えゝも悪いも福子に聞いてみなんだら、お母さんには云はれしまへんのんか。」 「さうやないけど、気をつけてゝ下さいて頼まれてるねんが。」 「そしたらお母さん、福子の廻し者だつかいな。」[#「そしたらお母さん、福子の廻し者だつかいな。」は底本には無い、『谷崎潤一郎全集 第十八巻』中央公論新社(2016年5月10日初版発行)及び底本の親本『猫と庄造と二人のをんな』創元社(昭和21年9月20日再版発行)による。] 「阿呆らしいもない。」 さう云つたきり取り合はないで、又水の音を盛んにヂヤブ/\と立て始めた。 「いつたいお母さん[#「お母さん」は底本では「お母さんは」]僕のお母さんか、福子のお母さんか、孰方《どっち》だす? なあ、孰方だすいな。」 「もう止めんかいな、そんな大きな声出して、近所へ[#「近所へ」は底本では「近所に」]聞えたら見つともないがな。」 「そしたら、洗濯|後《あと》にして、一寸《ちょっと》こゝへ来とくなはれ。」 「もう分つてる、もう何も云はへんさかいに、何処なと好きなとこへ行きなはれ。」 「ま、そない云はんと、一寸来なはれ。」 何と[#「何と」は底本では「何を」]思つたか庄造は、いきなり勝手口へ行つて、流し元にしやがんでゐる母親の、シヤボンの泡だらけな手頸《てくび》を掴むと、無理に奥の間へ引き立てゝ来た。 「なあ、お母さん、えゝ折やよつてに、一寸これ見て貰ひまつさ。」 「何や、急《せ》からしう、………」 「これ、見て御覧、―――」 夫婦の居間になつてゐる奥の六畳の押入を開けると、下の段の隅ツこの、柳行李《やなぎごうり》と用箪笥《ようだんす》の隙間の暗い穴ぼこ[#「ぼこ」に傍点]になつた所に、紅くもく/\かたまつてゐるものが見える。 「あすこにあるのん、何や思ひなはる。」 「あれかいな。………」 「あれみんな福子の汚れ物だつせ。あんな工合に後から/\突つ込んどいて、ちよつとも洗濯せエへんので、穢《きたな》いもんが彼処《あそこ》に一杯溜つてゝ、箪笥《たんす》の抽出《ひきだし》かて[#「抽出かて」は底本では「抽斗かて」]開けられへんねんが。」 「をかしいなあ、あの娘《こ》のもんは先繰《せんぐ》り洗濯屋へ出してるのんに、………」 「さうかて、まさかお腰《こし》だけは出されへんやろが。」 「ふうむ、あれはお腰かいな。」 「さうだんが。なんぼなんでも女の癖にあんまりだらしないさかいに、僕もう呆れてまんねんけど、お母さんかて様子見てたら分つてるのんに、何で叱言《こごと》云うてくれしまへん? 僕にばつかりやかましいこと云うといて、福子にやつたら、こないな道楽されてゝも見ん振りしてなはんのんか。」 「こんな所にこんなもんが突つ込んであること、わてが何で知るかいな。………」 「お母さん」 不意に庄造はびつくりしたやうな声を挙げた。母が押入の段の下へもぐり込んで行つて、その汚れ物をごそ/\引き出し始めたからである。 「それ、どないするねん?」 「此の中《なか》綺麗にしてやろ思うて、………」 「止めなはれ、穢い!………止めなはれ!」 「えゝがな、わてに任しといたら、………」 「何ぢやいな、姑が嫁のそんなもん触《いろ》うたりして! 僕お母さんにそんなことしてくれ云へしまへんで。福子にさしなはれ云うてんで。」 おりんは聞えない振りをして、その薄暗い奥の方から、円くつくねてある紅い英ネルの束《たば》を凡《およ》そ五つ六つ取り出すと、それを両手に抱へながら勝手口へ運んで行つて、洗濯バケツの中へ入れた。 「それ、洗うてやんなはんのんか?」 「そんなこと気にせんと、男は黙つてるもんや。」 「自分のお腰の洗濯ぐらゐ、何で福子にさゝれまへん、なあお母さん。」 「うるさいなあ、わてはこれをバケツに入れて、水張つとくだけや。こないしといたら、自分で気イ付いて洗濯するやろが。」 「阿呆らしい、気イ付くやうな女だつかいな。」 母はあんなことを云つてゐるけれど、きつと自分が洗つてやる気に違ひないので、尚更《なおさら》庄造は腹の虫が納まらなかつた。そして着物も着換へずに、厚司《あつし》姿のまゝ土間の板草履を突つかけると、ぷいと自転車へ飛び乗つて、出かけてしまつた。 さつき球撞きに行きたいと云つたのは、ほんたうにそのつもりだつたのであるが、今の一件で急に胸がムシヤクシヤして来て、球なんかどうでもよくなつたので、何と云ふアテもなしに、ベルをやけに鳴らしながら蘆屋川沿ひの遊歩道を真つすぐ新国道へ上ると、つい業平橋《なりひらばし》を渡つて、ハンドルを神戸の方へ向けた。まだ五時少し前頃であつたが、一直線につゞいてゐる国道の向うに、早くも晩秋の太陽が沈みかけてゐて、太い帯になつた横流れの西日が、殆ど路面と平行に射してゐる中を、人だの車だのがみんな半面に紅い色を浴びて、恐ろしく長い影を曳きながら通る。ちやうど真正面《まとも》にその光線の方へ向つて走つてゐる庄造は、鋼鉄のやうにぴか/\光る舗装道路の眩しさを避けて、俯向き加減に、首を真横にしながら、森の公設市場前を過ぎ、小路《しょうじ》の停留所へさしかゝつたが、ふと、電車線路の向う側の、とある病院の塀外に、畳屋の塚本が台を据ゑてせつせ[#「せつせ」に傍点]と畳を刺してゐるのが眼に留まると、急に元気づいたやうに乗り着けて行つて、 「忙しおまつか。」 と、声をかけた。 「やあ」 と塚本は、手は休めずに眼で頷《うなず》いたが、日が暮れぬ間に仕事を片附けてしまはうと、畳へきゆ[#「きゆ」に傍点]ツと針を刺し込んでは抜き取りながら、 「今時分、何処へ行きはりまんね?」 「別に何処へも行かしまへん。ちよつと此の辺まで来てみましてん。」 「僕に用事でもおましたんか。」 「いゝえ、違ひま。―――」 さう云つてしまつてはつ[#「はつ」に傍点]としたが、仕方がなしに眼と鼻の間へクシヤ/\とした皺を刻《きざ》んで、曖昧な作り笑ひをした。 「今此処通りかゝつたのんで、声かけてみましたんや。」 「さうだつか。[#「さうだつか。」は底本では「そうだつか。」]」 そして塚本は、自分の眼の前に自転車を停《と》めて突つ立つてゐる人間になんか、構つてゐられないと云はんばかりに、直ぐ下を向いて作業を続けたが、庄造の身になつてみれば、いくら忙しいにしたところで、「近頃どうしてゐるか」とか、「リヽーのことはあきらめたか」とか、そのくらゐな挨拶はしてくれてもよさゝうなものだのに、心外な気がしてならなかつた。それと云ふのが、福子の前ではリヽー恋ひしさを一生懸命に押し隠して、リヽーの「リ」の字も口に出さないでゐるものだから、それだけ千万無量の思ひが胸に鬱積してゐる訳で、今|図《はか》らずも塚本に出遭つてみると、やれ/\此の男に少しは切ない心の中を聞いて貰はう、さうしたら幾らか気が晴れるだらうと、すつかり当て込んでゐたのであつたが、塚本としてもせめて慰めの言葉ぐらゐ、でなければ無沙汰の詑びぐらゐ、云はなければならない筈なのである。なぜかと云つて、抑《そもそ》もリヽーを品子の方へ渡す時に、その後どう云ふ待遇を受けつゝあるか、とき/″\塚本が庄造の代りに見舞ひに行つて、様子を見届けて、報告をすると云ふ堅い約束があつたのである。勿論それは二人の間だけの申し合はせで、おりんや福子には絶対秘密になつてゐたのだが、しかしさう云ふ条件があつたからこそ大事な猫を渡してやつたのに、あれきり一度もその約束を実行してくれたことがなく、うま/\人をペテンにかけて、知らん顔をしてゐるのであつた。 だが、塚本は、空惚《そらとぼ》けてゐる訳ではなくて、日頃の商売の忙しさに取り紛れてしまつたのであらうか。こゝで遇《あ》つたのを幸ひに、一と言ぐらゐ恨みを云つてやりたいけれども、こんなに夢中で働いてゐる者に、今更呑気らしく猫のことなんぞ云ひ出せもしないし、云ひ出したところで、あべこべに怒鳴り付けられはしないであらうか。庄造は、夕日がだん/\鈍くなつて行く中で、塚本の手にある畳針ばかりがいつ迄もきら/\光つてゐるのを、見惚《みと》れるともなく見惚れながらぼんやり彳《たたず》んでゐるのであつたが、ちやうど此のあたりは国道筋でも人家《じんか》が疎《まば》らになつてゐて、南側の方には食用蛙を飼ふ池があり、北側の方には、衝突事故で死んだ人々の供養のために、まだ真新しい、大きな石の国道地蔵が立つてゐるばかり。此の病院のうしろの方は田圃つゞきで、ずうと向うに阪急沿線の山々が、ついさつきまでは澄み切つた空気の底にくつきりと襞《ひだ》を重ねてゐたのが、もう黄昏《たそがれ》の蒼い薄靄《うすもや》に包まれかけてゐるのである。 「そんなら、僕、失敬しまつさ。―――」 「ちとやつて来なはれ。」 「そのうちゆつくり寄せて貰ひま。」 片足をペダルへかけて、二三歩とツとツと行きかけたけれども、やつぱりあきらめきれないらしく、 「あのなあ、―――」 と云ひながら、又戻つて来た。 「塚本君、えらいお邪魔しまつけど、実はちよつと聞きたいことがおまんねん。」 「何だす?」 「僕これから、六甲まで行つてみたろか思ひまんねんけど、………」 やつと一畳縫ひ終へたところで、立ち上りかけてゐた塚本は、 「何しにいな?」 と呆れた顔をして、かゝへた畳をもう一遍トンと台へ戻した。 「さうかて、あれきりどないしてるやら、さつぱり様子分れしまへんさかいにな。………」 「君、そんなこと、真面目で云うてなはんのんか。置きなはれ、男らしいもない!」 「違ひまんが、塚本君!………さうやあれへんが。」 「そやさかいに僕あの時にも念押したら、あの女に何の未練もない、顔見るだけでもケツタクソが悪い云ひなはつたやおまへんか。」 「ま、塚本君、待つとくなはれ! 品子のことやあれへんが。猫のことだんが。」 「何と、猫?―――」 塚本の眼元と口元に、突然ニツコリとほゝ笑みが浮かんだ。 「あゝ、猫のことだつか。」 「さうだんが。―――君あの時に、品子があれを可愛がるかどうか、とき/″\様子見に行つてくれる云ひなはつたのん、覚えたはりまつしやろ?」 「そんなこと云ひましたかいな、何せ今年は、水害から此方えらい忙しおましたさかいに、―――」 「そら分つてま。そやよつてに、君に行つて貰はう思うてエしまへん。」 せい/″\皮肉にさう云つた積りだつたのであるが、相手は一向感じてくれないで、 「君、まだあの猫のこと忘れられしまへんのんか。」 「何で忘れまつかいな。あれから此方、品子の奴がいぢめてエへんやろか、あんぢよう懐《なつ》いてるやろか思うたら、もうその事が心配でなあ、毎晩夢に見るぐらゐだすねんけど、福子の前やつたら、そんなことちよつとも云はれしまへんよつてに、尚のことこゝが辛《つろ》うて/\、………」 と、庄造は胸を叩いてみせながらべそ[#「べそ」に傍点]を掻いた。 「………ほんまのとこ、もう今迄にも一遍見に行こ思うてましてんけど、何せ此のところ一と月ほど、ひとりやつたらめつたに出して貰はれしまへん。それに僕、品子に会はんならんのん叶《かな》ひまへんよつてに、彼奴《あいつ》に見られんやうにして、リヽーにだけそうツと会うて来るやうなこと、出来しまへんやろか?」 「そら、むづかしいおまんなあ。―――」 好い加減に堪忍してくれと云ふ催促のつもりで、塚本はおろした畳へ手をかけながら、 「どないしたかて見られまんなあ。それに第一、猫に会ひに来た思はんと、品子さんに未練あるのんや思はれたら、厄介なことになりまんがな。」 「僕かてそない思はれたら叶ひまへんねん。」 「もうあきらめてしまひなはれ。人にやつてしまうたもん、どない思うたかてシヨウがないやおまへんか、なあ石井君。―――」 「あのなあ、」 と、それには答へないで、別なことを聞いた。 「あの、品子はいつも二階だつか、階下《した》だつか?」 「二階らしおまつけど、階下へかて降りて来まつしやろ。」 「家《うち》空《あ》けることおまへんやろか?」 「分りまへんなあ。―――裁縫したはりますさかいに、大概《たいがい》家らしおまつけど。」 「風呂へ行く時間、何時頃だつしやろ?」 「分りまへんなあ。」 「さうだつか。そしたら、えらいお邪魔しましたわ。」 「石井君」 塚本は、畳を抱へて立ち上つた間に、早くも一二間離れかけた自転車の後姿に云つた。 「君、ほんまに行きはりまんのか。」 「どうするかまだ分れしまへん。兎に角近所まで行つてみまつさ。」 「行きなはるのんは勝手だすけど、後でゴタゴタ起つたかて、係り合ふのんイヤだつせ。」 「君もこんなこと、福子やお袋に云はんと置いとくなはれ[#「置いとくなはれ」は底本では「置いてくなはれ」]。頼みまつさ。」 そして庄造は、首を右左《みぎひだり》へ揺さ振り/\、電車線路を向う側へ渡つた。 これから出かけて行つたところで、あの一家の者達に顔を合はせないやうにして、こつそりリヽーに遇ふなんと云ふ巧《うま》い寸法に行くであらうか。いゝあんばいに裏が空地になつてゐるから、ポプラーの蔭か雑草の中にでも身を潜めて、リヽーが外へ出て来るのを気長に待つてゐるより外に手はないのだが、生憎なことに、かう暗くなつてしまつては、出て来てくれても中々発見が困難であらう。それにもうそろ/\初子の亭主が勤務先から帰つて来るであらうし、晩飯の支度で勝手口の方が忙しくなるであらうから、さういつ迄も空巣狙《あきすねら》ひみたいにうろ/\してゐる訳にも行かない。とすると、もつと時間の早い時に出直す方がいゝのだけれども、しかしリヽーに会へる会へないは二の次として、久し振に女房の眼を偸《ぬす》んで、彼方此方を乗り廻せると云ふことだけでも、愉快でたまらないのであつた。実際、今日を外してしまふと、かう云ふ時はもう半月待たないと来ないのである。福子はをり/\親父の所へお小遣ひをセビリに行くのだが、それが大体一と月に二度、お朔日《ついたち》前後と十五日前後とにきまつてゐて、行けば必ず夕飯を呼ばれ、早くて八九時頃に帰るのが例であるから、今日も今から三四時間は自由が楽しまれるのであつて、もし自分さへ飢ゑと寒さに堪へる覚悟なら、あの裏の空地に、少くとも二時間は立つてゐる余裕があるのである。だからリヽーが晩飯の後でぶらつきに出かける習慣を、今も改めないでゐるものとすれば、ひよつとしたら彼処で会へるかも知れない。さう云へばリヽーは、食後に草の生えてゐる所へ行つて、青い葉を食べる癖があるので、尚更あの空地は有望な訳だ。―――そんなことを考へながら、甲南学校前あたり迄やつて来ると、国粋堂と云ふラヂオ屋の前で自転車を停めて、外から店を覗いてみて、主人がゐるのを確かめてから、 「今日は」 と、表のガラス戸を半分ばかり開けた。 「えらい済んまへんけど、二十銭貸しとくなはれしまへんか。」 「二十銭でよろしおまんのか。」 知らない顔ではないけれども、いきなり飛び込んで来て心やすさうに云はれる程の仲やあれへん、と、さう云ひたげに見えた主人は、二十銭では断りもならないので、手提金庫から十銭玉を二つ取り出して、黙つて掌《てのひら》へ載せてやると、直ぐ向う側の甲南市場へ駈け込んで、アンパンの袋と筍《たけ》の皮包を懐ろに入れて戻つて来て、 「ちよつと台所使はしとくなはれ。」 人が好いやうでへんにづう/\しいところのある彼は、さう云ふことには馴れたものなので、「何しなはんね」と云はれても「訳がありまんねん[#「ありまんねん」は底本では「ありますねん」]」とばかり、ニヤ/\しながら勝手口へ廻つて行つて、筍《たけ》の皮包の[#「皮包の」は底本では「包皮の」]鶏《かしわ》の肉をアルミニユームの鍋へ移すと、瓦斯《ガス》の火を借りて水煮《みずだ》きにした。そして「済んまへんなあ」を二十遍ばかりも繰り返しながら、 「いろ/\無心云ひまつけど、今一つ聴いとくなはれしまへんか。」 と、自転車に附けるラムプの借用を申し込んだが、「此れ持つて行きなはれ」と主人が奥から出して来てくれたのは、「魚崎町三好屋」と云ふ文字のある、何処《どこ》かの仕出屋《しだしや》の古提灯《ふるぢょうちん》であつた。 「ほう、えらい骨董物だんなあ。」 「それやつたら大事おまへん。ついでの時に返しとくなはれ。」 庄造は、まだおもてが薄明るいので、その提灯を腰に挿して出かけたが、阪急の六甲の停留所前、「六甲登山口」と記した大きな標柱の立つてゐる所まで来て、自転車を角の休み茶屋に預けて、そこから二三丁上にある目的の家の方へ、少し急なだら/\路を登つて行つた。そして家の北側の、裏口の方へ廻つて、空地の中へ這入り込むと、二三尺の高さに草がぼう/\と生えてゐる一とかたまりの叢《くさむら》のかげにしやがんで、息を殺した。 [#叢の庄造の挿画(fig59300_06.png、横323×縦276)入る] こゝでさつきのアンパンを咬《かじ》りながら、二時間の間辛抱してみよう、そのうちにリヽーが出て来てくれたら、お土産の鶏《かしわ》の肉を与へて、久しぶりに肩へ飛び着かせたり、口の端を舐めさせたり、楽しいいちやつき[#「いちやつき」に傍点]合ひをしようと、さう云ふ積りなのであつた。 いつたい今日は面白くないことがあつたのでアテもなく外へ飛び出したら、足が自然に西の方へ向いたばかりでなく、塚本なんぞに出遭つたものだから、とう/\途中で決心をして、此処まで延《の》してしまつたのだが、かうなることゝ分つてゐたら外套を着て来ればよかつたのに、厚司《あつし》の下に毛糸のシヤツを着込んだだけでは、流石《さすが》に寒さが身に沁みる。庄造は肩をぞく[#「ぞく」に傍点]ツとさせて、星がいちめんに輝き始めた夜空を仰いだ。板草履を穿《は》いた足に冷めたい草の葉が触れるので、ふと気が付いて、帽子だの肩だのを撫でゝみると、夥《おびただ》しい露が降りてゐる。成《な》る程《ほど》、これでは冷える訳だ、かうして二時間もうづくまつてゐたら、風邪を引いてしまふかも知れない。だが庄造は、台所の方から魚を焼く匂が匂つて来るので、リヽーがあれを嗅ぎ付けて何処かゝら帰つて来さうな気がして、異様な緊張を覚えるのであつた。彼は小さな声を出して、「リヽーや、リヽーや」と呼んでみた。何か、あの家の人達には分らないで、猫にだけ分る合図の方法はないものかとも思つたりした。彼がつくばつてゐる叢の前の方に、葛の葉が一杯に繁つてゐて、その葉の中でとき/″\ピカリと光るものがあるのは、多分夜露の玉か何かが遠くの方の電燈に反射してゐるせゐなのだけれども、さうと知りつゝ、その度毎に猫の眼か知らんとはつ[#「はつ」に傍点]と胸を躍らせた。………あ、リヽーかな、やれ嬉しや! さう思つた途端に動悸が搏《う》ち出して、鳩尾《みぞおち》の辺がヒヤリとして、次の瞬間に直ぐ又がつかりさせられる。かう云ふと可笑《おか》しな話だけれども、まだ庄造はこんなヤキモキした心持を人間に対してさへ感じたことはないのであつた。せい/″\カフェエの女を相手に遊んだぐらゐが関の山で、恋愛らしい経験と云へば、前の女房の眼を掠《かす》めて福子と逢引してゐた時代の、楽しいやうな、懊《じ》れつたいやうな、変にわく/\した、落ち着かない気分、―――まああれぐらゐなものなのだが、それでもあれは両方の親が内々で手引をしてくれ、品子の手前を巧く胡麻化してくれたので、無理な首尾をする必要もなく、夜露に打たれてアンパンを咬るやうな苦労をしないでもよかつたのだから、それだけ真剣味に乏しく、逢ひたさ見たさもこんなに一途《いちず》ではなかつたのであつた。 庄造は、母親からも女房からも自分が子供扱ひにされ、一本立ちの出来ない低能児のやうに見做《みな》されるのが、非常に不服なのであるが、さればと云つてその不服を聴いてくれる友達もなく、悶々の情を胸の中に納めてゐると、何となく独りぽつちな、頼りない感じが湧いて来るので、そのために尚リヽーを愛してゐたのである。実際、品子にも、福子にも、母親にも分つて貰へない淋しい気持を、あの哀愁に充ちたリヽーの眼だけがほんたうに見抜いて、慰めてくれるやうに思ひ、又あの猫が心の奥に持つてゐながら、人間に向つて云ひ現はす術《すべ》を知らない畜生の悲しみと云ふやうなものを、自分だけは読み取ることが出来る気がしてゐたのであつたが、それがお互ひに別れ/\にされてしまつて四十余日になるのである。そして一時は、もうそのことを考へないやうに、なるべく早くあきらめるやうに努めたことも事実だけれども、母や女房への不平が溜つて、その鬱憤の遣り場がなくなつて来るに従ひ、いつか再び強い憧れが頭を擡《もた》げて、抑へきれなくなつたのであつた。全く、庄造の身になつてみると、あゝ云ふ厳しい足止めをされて、出るにも入るにも干渉を受けたのでは、却《かえ》つて恋ひしさを焚《た》き付けられるやうなもので、忘れようにも忘れる暇がなかつたのであるが、それにもう一つ気になつたのは、あれきり塚本から何の報告もないことであつた。あんなに約束しておきながら、どうして何とも云つて来てくれないのか。仕事が忙しいのなら已《や》むを得ないが、ひよつとするとさうでなく、彼に心配させまいとして、何か隠してゐるのではないか。たとへば品子にいぢめられて、食ふや食はずでゐるためにひどく衰弱してしまつたとか、逃げて出たきり行衛《ゆくえ》不明になつたとか、病死したとか、云ふやうなことがあるのではないか。あれから此方、庄造はよくそんな夢を見て、夜中にはつ[#「はつ」に傍点]と眼を覚ますと、何処かで「ニヤア」と啼いてゐるやうに思へるので、便所へ行くやうな風をしながら、そうつと起きて雨戸を開けてみたことも、一度や二度ではないのであるが、あまりたび/\さう云ふ幻に欺《あざむ》かれると、今聞いた声や夢に見た姿は、リヽーの幽霊なのではないか、逃げて来る路《みち》で野たれ死にをして、魂だけが戻つたのではないのかと、そんな気がして、ぞう[#「ぞう」に傍点]つと身ぶるひが出たこともある。だが又、いくら品子が意地の悪い女でも、塚本が無責任でも、まさかリヽーに変つたことが起つたら黙つてゐる筈もあるまいから、便りのないのは無事に暮らしてゐる証拠なのだと、不吉な想像が浮かぶたびに打ち消し/\して来たのであるが、それでも感心に女房の云ひつけを忠実に守つて、一度も六甲の方角へ足を向けたことがなかつたと云ふのは、監視が厳しかつたばかりでなく、品子の網に引つかゝるのが不愉快だからであつた。彼にはリヽーを引き取つた品子の真意と云ふものが、今でもハツキリしないのだけれども、事に依つたら、塚本が報告を怠つてゐるのも品子のさしがね[#「さしがね」に傍点]ではないのか、彼奴《あいつ》はさう云ふ風にしてわざと己に気を揉ませて、おびき寄せようと云ふ腹ではないのかと、そんな邪推もされるので、リヽーの安否を確かめたいと願ふ一方、見す/\彼奴の罠に篏《は》まつて溜るものかと云ふ反感が、それと同じくらゐ強かつたのであつた。彼は何とかしてリヽーには会ひたいが、品子に掴まることはイヤで溜らなかつた。「とう/\やつて来ましたね」と、彼奴がへんに利口ぶつて、得意の鼻をうごめかすかと思ふと、もうその顔つきを浮かべたゞけでムシヅが走つた。元来庄造には彼一流の狡《ずる》さがあつて、いかにも気の弱い、他人の云ふなり次第になる人間のやうに見られてゐるのを、巧みに利用するのであるが、品子を追ひ出したのが矢張その手で、表面はおりんや福子に操られた形であるけれども、その実誰よりも彼が一番彼女を嫌つてゐたかも知れない。そして庄造は、今考へても、いゝことをした、いゝ気味だつたと思ふばかりで、不憫《ふびん》と云ふ感じは少しも起らないのであつた。 [#家の画(fig59300_07.png、横211×縦323)入る] 現に品子は、電燈のともつてゐる二階のガラス窓の中にゐるのに違ひないのだが、雑草のかげにつくばひながらじつとその灯を見上げてゐると、又してもあの、人を小馬鹿にしたやうな、賢女振つた顔が眼先にちらついて、胸糞が悪くなつて来る。折角こゝまで来たのであるから、せめて「ニヤア」と云ふなつかしい声を余所《よそ》ながらでも聞いて帰りたい、無事に飼はれてゐることが分りさへしたら、それだけでも安心であるし、こゝへ来た念が届くのであるから、いつそのことそうつと裏口を覗いてみたら、………アハよく行つたら、初子をこつそり呼び出して、おみやげの鶏《かしわ》の肉を渡して、近状を聞かして貰つたら、………と、さう思ふのであるが、あの窓の灯を見て、あの顔を心に描くと、足がすくんでしまふのである。うつかりそんな真似をしたら、初子がどう云ふ感違ひをして、二階の姉を呼びに行かないものでもないし、少くとも後でしやべることは確かであるから、「そろ/\計略が図に中《あた》つて来た」などと、己惚れるだけでも癪《しゃく》に触る。とすると、矢張此の空地に根気よくうづくまつてゐて、リヽーがこゝを通りかゝる偶然の機会を捉へるより外はないのであるが、しかし今迄待つて駄目なら、とても今夜は覚《おぼ》つかない。庄造はもう、袋の中のアンパンをみんな食べてしまつた。そしてさつきから一時間半ぐらゐは経つたやうな気がするので、だん/\家の方の首尾が心配になつて来た。母親だけなら面倒はないが、福子が先に帰つて来てゐたら、今夜一と晩ぢゆう寝かして貰へないで、痣《あざ》だらけにされる。それもいゝけれども、又明日から監視が厳重になる。だが、一時間半も待つあひだに微《かす》かな啼きごゑも洩れて来ないのは、何だか変だ、ひよつとしたら、此の間からたび/\見た夢が正夢で、もう此の家にゐないのではないか。さつき魚を焼く匂がした時が一家の夕飯だつたとすると、リヽーもあの時何かしら与へられるであらうし、さうすればきつと草を食べに出て来るのだが、来ないのを見るとどうも怪しい。……… 庄造は、とう/\怺《こら》へきれなくなつて、雑草の中から身を起すと、裏木戸の際《きわ》まで忍んで行つて、隙間へ顔をあてゝみた。と、階下《した》はすつかり雨戸が締まつてゐて、子供を寝かしつけてゐるらしい初子の声がとぎれ/\に聞えて来る外には、何の物音もしない。二階のガラス障子にでも、ほんの一瞬間でいゝからさつ[#「さつ」に傍点]と影が写つてくれたらどんなに嬉しいか知れないのに、ガラスの向うに白いカーテンが静かに垂れてゐるばかりで、その上の方が薄暗く、下の方が明るくなつてゐるのは、品子が電燈を低く下して、夜作《よなべ》をしてゐるのであらう。ふと庄造は、あかりの下で一心に針を運びつゝある彼女の傍《そば》に、リヽーがおとなしく背中を円めて、「の」の字なりに臥《ね》ころびながら、安らかな眠を貪《むさぼ》つてゐる平和な光景を眼前に浮かべた。秋の夜長の、またゝきもせぬ電燈の光が、リヽーと彼女とたゞ二人だけを一つ圏《わ》の中に包んでゐる外は、天井の方までぼうつと暗くなつてゐる室内。………夜が次第に更けて行く中で、猫はかすかに鼾《いびき》を掻き、人は黙々と縫ひ物をしてゐる、佗びしいながらもしんみりとした場面。………あのガラス窓の中に、さう云ふ世界が繰りひろげられてゐるとしたら、―――何か奇蹟的なことが起つて、リヽーと彼女とがすつかり仲好しになつてゐたとしたら、―――もしほんたうにそんな光景を見せられたら、焼餅を焼かずにゐられるだらうか。正直のところ、リヽーが昔を忘れてしまつて現状に満足してゐられても、矢張腹が立つであらうし、さうかと云つて、虐待されてゐたり死んでゐたりしたのでは尚悲しいし、孰方にしても気が晴れることはないのだから、いつそ何も聞かない方がいゝかも知れない。庄造は、途端《とたん》に階下の柱時計が「ぼん、………」と、半を打つのを聞いた。七時半だ、―――と思ふと、彼は誰かに突き飛ばされたやうに腰を浮かしたが、二た足三足行つてから引つ返して来て、まだ大事さうに懐に入れてゐた筍の皮包を取り出すと、それを木戸口や、五味箱の上や、彼方此方へ持つて行つてウロ/\した。何処か、リヽーだけが気が付いてくれるやうな所へ置いて行きたいが、叢の中では犬に嗅ぎ付けられさうだし、此の辺へ置いたら家の者が見つけるであらうし、巧い方法はないか知らん。いや、もうそんなことに構つてはゐられぬ。遅くも今から三十分以内に帰らなかつたら、又一と騒ぎ起るかも知れぬ。「あんた、今頃まで[#「今頃まで」は底本では「今まで」]何してゝん!」―――と、さう云ふ声が俄《にわ》かに耳のハタで聞えて、福子のイキリ立つた剣幕があり/\と見える。彼は慌てゝ葛の葉の繁つてゐる間へ、筍の皮を開いて置いて、両端へ小石を載せて、又その上から適当に葉を被《かぶ》せた。そして空地を横ツ飛びに、自転車を預けた茶屋のところまで夢中で走つた。 その晩、庄造よりも二時間程おくれて帰つて来た福子は、弟を連れて拳闘を見に行つた話などをして、ひどく機嫌が好かつた。そして明くる日、少し早めに夕飯を済ますと、 「神戸へ行かして貰ひまつせ。」 と、夫婦で新開地の聚楽館《じゅらくかん》へ出かけた。 おりんの経験だと、福子はいつも今津の家へ行つて来た当座、つまり懐《ふところ》にお小遣のある五六日か一週間のあひだと云ふものは、きまつて機嫌がいゝのである。此のあひだに彼女は盛んに無駄使ひをして、活動や歌劇見物などにも、二度ぐらゐは庄造を誘つて行く。従つて夫婦仲も睦じく、至極円満に治まつてゐるのだが、一週間目あたりからそろ/\懐が淋しくなつて、一日家でごろ/\しながら、間食《あいだぐ》ひをしたり雑誌を読んだりするやうになり出すと、とき/″\亭主に口叱言《くちこごと》を云ふ。尤《もっと》も庄造も、女房の景気のいゝ時だけ忠実振りを発揮して、だん/\出るものが出なくなると、現金に態度を変へ、浮かぬ顔をして生返事《なまへんじ》をする癖があるのだが、結局双方から飛《と》ばつちりを食ふ母親が、一番割が悪いことになる。だからおりんは、福子が今津へ駈け付ける度に、やれ/\これで当分は安心だと思つて、内々ほつとするのであつた。 で、今度もちやうどさう云ふ平和な一週間が始まつてゐたが、神戸へ行つてから三四日たつた或る日の夕方、亭主と二人晩飯のチヤブ台に向つてゐた福子は、 「こなひだの活動、ちよつとも面白いことあれへなんだなあ。」 と、自分も行ける口なので、ほんのり眼のふちへ酔ひを出しながら、 「―――なあ、あんたどない思うた?」 と、さう云つて銚子を取り上げると、庄造がそれを引つたくるやうにして此方からさした。 「一つ行こ。」 「もう、あかん。………酔うたわ、わて。」 「まあ、行こ、もう一つ。………」 「家で飲んだかて、おいしいことあれへん。それより明日何処ぞへ行けへん?」 「えゝなあ、行きたいなあ。」 「まだお小遣ちよつとも使うてエへんねんで。………こなひだの晩、家で御飯たべて出て、活動見たゞけやつたやろ、そやさかいに、まだたあん[#「たあん」に傍点]と持つてるねん。」 「何処にせう、そしたら?………」 「宝塚、今月は何やつてるやろ?」 「歌劇かいな。―――」 後《あと》に旧温泉と云ふ楽しみはあるにしてからが、何だかもう一つ気が乗らない顔つきをした。 「―――そないにたんとお小遣あるのんやつたら、もつと面白いことないやろか。」 「何ぞ考へてエな。」 「紅葉見に行けへん?」 「箕面《みのお》かいな。」 「箕面はあかんねん、こなひだの水ですつくりやられてしもてん。それより僕、久し振りで有馬《ありま》へ行つてみたいねんけど、どうや、賛成せエへんか。」 「ほんに、………あれ、いつやつたやろ?」 「もうちやうど一年ぐらゐ………いや、さうやないわ、あの時|河鹿《かじか》が啼いてたわ。」 「さうや、もう一年半になるで。」 それは二人が人目を忍ぶ仲になり出して間もない時分、或る日|瀧道《たきみち》の終点で落ち合ひ、神有《しんゆう》電車で有馬へ行つて、御所《ごしょ》の坊《ぼう》の二階座敷で半日ばかり遊んで暮らしたことがあつたが、涼しい渓川《たにがわ》の音を聞きながら、ビールを飲んでは寝たり起きたりして過した、楽しかつた夏の日のことを、二人ともはつきり思ひ出した。 「そしたら、又御所の坊の二階にせうか。」 「夏より今の方がえゝで。紅葉見て、温泉に這入つて、ゆつくり晩の御飯食べて、―――」 「さうせう、さうせう、もうそれにきめたわ。」 その明くる日は早お昼の予定であつたが、福子は朝の九時頃からぽつ/\身支度に取りかゝりながら、 「あんた、汚い頭やなあ。」 と、鏡の中から庄造に云つた。 「さうかも知れん、もう半月ほど床屋へ行けへんさかいにな。」 「そしたら大急ぎで行つて来なはれ、今から三十分以内に。―――」 「そらえらいこツちや。」 「そんな頭してたら、わてよう一緒に歩かんわ。―――早うしなはれ!」 庄造は、女房が渡してくれた一円札を、左の手に持つてヒラ/\させながら、自分の店から半丁程東にある床屋の前まで駈けて行つたが、いゝあんばいに客が一人も来てゐないので、 「早いとこ頼みまつさ。」 と、奥から出て来た親方に云つた。 「何処ぞ行きはりまんのんか。」 「有馬へ紅葉見に行きまんね。」 「そら宜《よろ》しおまんなあ、奥さんも一緒だつか?」 「さうだんね。―――早お昼たべて出かけるさかい、三十分で頭刈つて来なはれ云はれてまんね。」 が、それから三十分過ぎた時分、 「お楽しみだんなあ、ゆつくり行つて来なはれ。」 と、背中から親方が浴びせる言葉を聞き流して、家の前まで戻つて来て、何心なく店へ一と足踏み込むと、そのまゝ土間に立ちすくんでしまつた。 「なあ、お母さん、何で今日までそれ隠してはりましてん。………」 と、突然さう云ふたゞならぬ声が奥から聞えて来たからである。 「………何でそんなことがあつたら、わてに云うとくなはれしまへん。………そしたらお母さん、わての味方してるみたいに見せかけといて、いつもそんなことさせてはつたんと違ひまつか。………」 福子が大分お冠《かんむり》を曲げてゐるらしいことは甲高《かんだか》い物の云ひ方で分る。母親の方は明かに遣り込められてゐる様子で、たまに一と言二た言ぐらゐ口返答をするけれども、胡麻化すやうにコソ/\と云ふので、よく聞えない。福子の怒鳴る声ばかりが筒抜けに響いて来るのである。 「………何? 行つたとは限らん?………阿呆らしい! 人の家の台所借つて、鶏《かしわ》の肉|煮《た》いたりして、リヽーの所《とこ》やなかつたら、何所《どこ》へ持つて行きまんね。………それにしたかて、あの提灯《ちょうちん》持つて帰つて、あんな所に直してあつたこと、お母さん知つたはりましたんやろ?………」 彼女が母親を掴まへて、あんなキン/\した声を張り上げることはめつたにないのだが、しかしたつた今、彼が床屋へ行つてゐた僅かな間に、どうやら先日の国粋堂が、あの時の立て換へと古提灯とを取り返しに来たのだと見える。ありていに云ふと、あの晩庄造はあの提灯を自転車の先にぶら下げて帰つて、福子に見咎《みとが》められないやうに、物置小屋の棚の上に押し上げて置いたのであるが、お袋には見当がついてゐた筈だから、出して渡してやつたのかも知れない。だが国粋堂は、いつでもいゝやうにと云つてゐながら、何で取り返しに来たのだらう。まさかあんな古提灯が惜しいこともあるまいに、此の辺についでゞもあつたのだらうか、[#「だらうか、」は底本では「だらうか。」]それとも二十銭を借りつ放しにされたのが、腹が立つたのだらうか。それに又、親父が来たのか、小僧が来たのか知らないが、鶏《かしわ》の話までして行かないでもいゝではないか。 「………わてはなあ、相手がリヽーだけやつたら、何もうるさいこと云へしまへんで。リヽーに会ひに行く云うても、リヽーだけやあれへんさかいに、云ひまんねんで。いつたいお母さん、あの人とグルになつて、わてを欺《だま》すやうなことして、済むと思うたはりまんのんか。」 さう云はれると、流石《さすが》のおりんもグウの音も出ないで、小さくなつてゐるのであるが、忰の代りに怒られてゐるのは可哀さうのやうでもあり、一寸いゝ気味のやうでもある。何にしても庄造は、自分がゐたら中々福子の怒り方が此のくらゐでは済むまいと思ふと、危《あやう》く虎口《ここう》を逃れた気がして、スハといへば戸外《おもて》へ飛び出せるやうに、身構へをしながら立つてゐると、 「………いゝえ、分つてま! あの人六甲へ遣つたりして、今度はわてを追ひ出す相談してなはるねん。」 と、云ふのにつゞいてどたん[#「どたん」に傍点]と云ふ物音がして、 「待ちいな!」 「放しとくなはれ!」 「さうかて、何処へ行くねんな。」 「お父さん所《とこ》へ行つて来ます、わての云ふことが無理か、お母さんの云ふことが無理か、―――」 「ま、今庄造が戻るさかいに―――」 どたん[#「どたん」に傍点]、どたん[#「どたん」に傍点]、と、二人が盛んに争ひながら店の方へ出て来さうなので、慌てゝ庄造は往来へ逃げ延びて、五六丁の距離を夢中で走つた。それきり後がどうなつたことやら分らなかつたが、気が付いてみると、いつか自分は新国道のバスの停留所の前に来て、さつき床屋で受け取つた釣銭の銀貨を、まだしつかりと手の中に握つてゐた。 ちやうどその日の午後一時頃、品子が朝のうちに仕上げた縫物を、近所まで届けて来ると云つて、不断着の上に毛糸のシヨールを引つかけて、小走りに裏口から出て行つたあと、初子がひとり台所で働いてゐると、そこの障子をごそ[#「ごそ」に傍点]ツと一尺ばかり開けて、せい/\息を切らしながら庄造が中を覗き込んだので、 「あらツ」 と、飛び上りさうにすると、ピヨコンと一つお時儀《じぎ》をしながら笑つてみせて、 「初ちやん、………」 と云つてから、後ろの方に気を配りつゝ急にひそ/\声になつて、 「………あの、今此処から品子出て行きましたやろ?」 と、セカ/\した早口で云つた。 「………僕今そこで会うてんけど、品子は気イ付けしまへなんだ。僕あのポプラーの蔭に隠れてましたよつてにな。」 「何ぞ姉さんに用だつか?」 「滅相《めっそう》な! リヽーに会ひに来ましてんが。―――」 そして、そこから庄造の言葉は、さも思ひ余つた、哀れつぽい切ない声に変つた。 「なあ、初ちやん、あの猫何処にいてます?………済んまへんけど、ほんのちよつとでえゝさかい、会はしとくなはれ!」 「何処ぞ、その辺にいてしまへんか。」 「そない思うて、僕此の近所うろ/\して、もう二時間も彼処に立つてましてんけど、ちよつとも出て来よれしまへんねん。」 「そしたら、二階にいてるかしらん?」 「品子もう直ぐ戻りまつしやろか? 今頃何処へ行きましたんや?」 「ほんそこまで仕立物届けに。―――二三丁の所だすよつて、直ぐ帰りまつせ。」 「あゝ、どうしよう、あゝ困つた。」 さう云つて仰山に体をゆすぶつて、地団駄《じだんだ》を踏みながら、 「なあ、初ちやん、頼みます、此の通りや。―――」 と、手を擦り合はせて拝む真似をした。 「―――後生一生のお願ひだす、今の間に連れて来とくなはれ。」 「会うて、どないしやはりまんね。」 「どうもかうもせえしまへん。無事な顔一と眼見せてもろたら、気が済みまんねん。」 「連れて帰りはれしまへんやろなあ?」 「そんなことしまつかいな。今日見せてもろたら、もうこれつきり来《け》えしまへん。」 初子は呆れた顔をして、穴の明くほど庄造を視詰めてゐたが、何と思つたか黙つて二階へ上つて行つて、直ぐ段梯子の中段まで戻つて来ると、 「いてまつせ。―――」 と、台所の方へ首だけ突ん出した。 「いてまつか?」 「わて、よう抱きまへんよつて、見に来とくなはれ。」 「行つても大事おまへんやろか。」 「直《す》ぐ降りとくなはれや。」 「宜《よろ》しおま。―――そしたら、上らして貰ひまつさ。」 「早いことしなはれ!」 庄造は、狭い、急な段梯子を上る間《ま》も胸がドキ/\した。やう/\日頃の思ひが叶つて、会ふことが出来るのは嬉しいけれども、どんな風に変つてゐるだらうか。野たれ死にもせず、行くへ不明にもならないで、無事に此の家《や》にゐてくれたのは有難いが、虐待されて、痩せ衰へてゐなければいゝが、………まさか一と月半の間に忘れる筈はないだらうけれど、なつかしさうに傍へ寄つて来てくれるか知らん? それとも例の、羞渋《はにか》んで逃げて行くか知らん?………蘆屋の時代に、二三日家を空けたあとで帰つて来ると、もう何処へも行かせまいとして、縋《すが》り着いたり舐め廻したりしたものであつたが、もしもあんな風にされたら、それを振り切るのに又もう一度辛い思ひをしなければならない。……… 「此処だつせ。―――」 [#座布団の上のリヽーの挿画(fig59300_08.png、横166×縦509)入る] 晴れ/\とした午後の外光を遮つて、窓のカーテンが締まつてゐるのは、大方用心深い品子が出て行く時にさうしたのであらうか。―――そのために室内がもや/\と翳《かげ》つて、薄暗くなつてゐる中に、信楽焼《しがらきやき》のナマコの火鉢が置いてあつて、なつかしいリヽーはその傍に、座布団を重ねて敷いて、前脚を腹の下へ折り込んで、背を円くしながらうつら/\眼をつぶつてゐた。案じた程に痩せてもゐないし、毛なみもつや/\としてゐるのは、相当に優遇されてゐるからであらう。思つたよりも大事にされてゐる証拠には、彼女のために専用の座布団が二枚も設けてあるばかりではない、たつた今、お昼の御馳走に生卵を貰つたと見えて、きれいに食べ尽した御飯のお皿と、卵の殻とが、新聞紙に載せて部屋の片隅に寄せてあり、又その横には、蘆屋時代と同じやうなフンシさへ置いてあるのである。と、突然庄造は、久しい間忘れてゐたあの特有の匂を嗅いだ。嘗《かつ》て我が家の柱にも壁にも床にも天井にも沁み込んでゐたあの匂が、今は此の部屋に籠つてゐるのであつた。彼は悲しみがこみ上げて来て、 「リヽー、………」 と覚えず濁声《だみごえ》を挙げた。するとリヽーはやう/\それが聞えたのか、どんよりとした慵《ものう》げな瞳を開けて、庄造の方へひどく無愛想な一瞥《いちべつ》を投げたが、たゞそれだけで、何の感動も示さなかつた。彼女は再び、前脚を一層深く折り曲げ、背筋の皮と耳朶《じだ》とをブルン! と寒さうに痙攣させて、睡《ねむ》くて溜《たま》らぬと云ふやうに眼を閉ぢてしまつた。 今日はお天気がいゝ代りに、空気が冷え/\と身に沁むやうな日であるから、リヽーにしたら火鉢の傍を離れるのがイヤなのであらう。それに胃の腑がふくらんでゐるので、尚更《なおさら》大儀なのでもあらう。此の動物の無精な性質を呑み込んでゐる庄造は、かう云ふそつけない態度には馴れてゐるので、格別|訝《あや》しみはしなかつたが、でも気のせゐか[#「気のせゐか」は底本では「気のせいか」]、その夥《おびただ》しく眼やに[#「やに」に傍点]の溜つた眼のふちだの、妙にしよんぼりとうづくまつてゐる姿勢だのを見ると、僅かばかり会はなかつた間に、又いちじるしく老いぼれて、影が薄くなつたやうに思へた。分けても彼の心を打つたのは、今の瞳の表情であつた。在来とてもこんな場合に睡さうな眼をしたとは云へ、今日のはまるで行路病者《こうろびょうしゃ》のそれのやうな、精《せい》も根《こん》も涸《か》れ果てた、疲労しきつた色を浮かべてゐるではないか。 「もう覚えてエしまへんで。―――畜生だんなあ。」 「阿呆らしい、人が見てたらあないに空惚《そらとぼ》けまんねんが。」 「さうだつしやろか。………」 「さうだんが。………そやさかいに、………済んまへんけど、ほんちよつとの間《ま》、初ちやん此処に待つてゝくれて、此の襖《ふすま》締めさしとくなはれしまへんか。………」 「そないして[#「そないして」は底本では「そないにして」]、何しやはりまんね。」 「何もせえしまへん。………たゞ、あの、ちよつと、………膝の上に抱いてやりまんねん。………」 「さうかて、姉さん帰つて来まつせ。」 「そしたら、初ちやん、そつちの部屋から門《かど》見張つてゝ、見えたら直ぐに知らしとくなはれ。頼みまつさ。………」 襖に手をかけてさう云つてゐるうちに、もう庄造はずる/\と部屋へ這入つて、初子を外へ締め出してしまつた。そして、 「リヽー」 と云ひながら、その前へ行つて、さし向ひにすわつた。 リヽーは最初、折角《せっかく》昼寝してゐるのにうるさい! と云ふやうな横着さうな眼をしばだたいたが、彼が眼やに[#「やに」に傍点]を拭いてやつたり、膝の上に乗せてやつたり、頸すぢを撫でゝやつたりすると、格別嫌な顔もしないで、される通りになつてゐて、暫くするうちに咽喉《のど》をゴロ/\鳴らし始めた。 「リヽーや、どうした? 体の工合悪いことないか? 毎日々々、可愛がつてもろてるか?―――」 庄造は、今にリヽーが昔のいちやつき[#「いちやつき」に傍点]を思ひ出して、頭を押し着けに来てくれるか、顔を舐め廻しに来てくれるかと、一生懸命いろ/\の言葉を浴びせかけたが、リヽーは何を云はれても、相変らず眼をつぶつたまゝゴロ/\云つてゐるだけであつた。それでも彼は背中の皮を根気よく撫でゝやりながら、少し心を落ち着けて此の部屋の中を眺めてみると、あの几帳面《きちょうめん》で癇性《かんしょう》な品子の遣り方が、ほんの些細な端々《はしばし》にもよく現はれてゐるやうに感じた。たとへば彼女は、僅か二三分の間留守にするにも、ちやんとかうしてカーテンを締めて行くのである。のみならず此の四畳半の室内に、鏡台だの、箪笥だの、裁縫の道具だの、猫の食器だの、便器だの、さま/″\なものを並べて置きながら、それらが一糸乱れずに、それ/″\整然と片寄せられて、鏝《こて》の突き刺してある火鉢の中を覗いてみても、炭火を深くいけ込んだ上に、灰が綺麗に筋目を立てゝならしてあり、三徳の上に載せてある瀬戸引の薬鑵《やかん》までが、研ぎ立てたやうにピカ/\光つてゐるのである。が、それはまあ不思議はないとしても、奇妙なのはあの皿に残つてゐる卵の殻だつた。彼女は自分で食《く》ひ扶持《ぶち》を稼いでゐるので、決して楽ではないであらうに、貧しい中でもリヽーに滋養分を与へると見える。いや、さう云へば、彼女が自分で敷いてゐる座布団に比べて、リヽーの座布団の綿の厚いことはどうだ。いつたい彼女は何と思つて、あんなに憎んでゐた猫を大事にする気になつたのであらう。 考へてみると庄造は、云はゞ自分の心がらから前の女房を追ひ出してしまひ、此の猫にまでも数々の苦労をかけるばかりか、今朝は自分が我が家の閾《しきい》を跨《また》ぐことが出来ないで、ついふら/\と此処へやつて来たのであるが、此のゴロ/\云ふ音を聞きながら、咽《む》せるやうなフンシの匂を嗅いでゐると、何となく胸が一杯になつて、品子も、リヽーも、可哀さうには違ひないけれども、誰にもまして可哀さうなのは自分ではないか、自分こそほんたうの宿なしではないかと、さう思はれて来るのであつた。 と、その時ばた/\と足音がして、 「姉さんもうついそこの角まで来てまつせ。」 と、初子が慌しく襖を開けた。 「えツ、そら大変や!」 「裏から出たらあきまへん!………表へ、………表へ廻んなはれ!………穿《は》き物《もの》わてが持つて行《い》たげる! 早よ、早よ![#「早よ、早よ!」は底本では「早よ! 早よ!」]」 彼は転げるやうに段梯子を駈け下りて、表玄関へ飛んで行つて、初子が土間へ投げてくれた板草履を突つかけた。そして往来へ忍び[#「忍び」は底本では「飛び」]出た途端に、チラと品子の後影が、一と足違ひで裏口の方へ曲つて行つたのが眼に留まると、恐い物にでも追はれるやうに反対の方角へ一散に走つた。 [#地付き](昭和十一年一月号、七月号「改造」) 底本:「猫と庄造と二人のをんな」中公文庫、中央公論新社    2013(平成25)年7月25日初版発行 底本の親本:「谷崎潤一郎全集 第十四巻」中央公論社    1982(昭和57)年6月25日 初出:「改造 新年号 第十八巻第一号」    1936(昭和11)年1月1日発行    「改造 七月特大号 第十八巻第七号」    1936(昭和11)年7月1日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。 ※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。なお、底本の親本と初刊本「猫と庄造と二人のをんな」創元社(1946(昭和21)年9月20日再版発行)と「谷崎潤一郎全集 第十八巻」中央公論新社(2016(平成28)年5月10日初版発行)との表記は同じでした。 ※安井曾太郎(1888年5月17日〜1955年12月14日)の挿絵を同梱しました。 ※猫・カーテン・窓の画は「猫と庄造と二人のをんな」創元社、昭和14年9月10日普及版第13版発行からとりました。底本は白黒画像です。 入力:砂場清隆 校正:悠悠自炊 2019年12月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。