新歸朝者日記 永井荷風 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)歐羅巴《ヨーロツパ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)丁度|半年目《はんとしめ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)𢌞 /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)いよ/\ *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ (例)〔Ge'rome〕 アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください https://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html ------------------------------------------------------- 十一月廿八日[#「十一月廿八日」は中見出し]  あゝ丁度|半年目《はんとしめ》だ。月日のたつのは早い。日本に歸つてからもう半年たつた。また今日も風か。何といふ寒い風だらう。十一月悲しき十一月、冬が來ると世界中何處へ行つても寒い。亞米利加から歐羅巴《ヨーロツパ》、地中海から印度洋を旅して來た經驗から考へても、要するに神の作つた地球上の天候は至る處人類の生活に適して居ない事が分る。暑くもなく寒くもなく、人間をして他の動物と同じやうに青草の上に横はつて心持よく青空を眺めさせるやうな時節は、春の末から夏の初めにかけてほんの一箇月ほどしかない。火を焚いたり衣服《きもの》を着たりして、永世自然の迫害と戰つてゐる人間に向つて、神に謝せよ、神の光榮を歌へなどと、西洋人は實に妙な宗教を信じたものだ。  鐵と石ばかりの紐育《ニユーヨーク》に居た時分、炎暑の爲めには幾人も人死があるやうな恐しい日には、自分はよく青々した日本の海邊《うみべ》を思出したが、いざ日本に歸つて此樣《こんな》寒い風に吹かれると又反對に、日夜絶えず蒸氣《スチーム》で暖めた外國の居室の心持を思ひ返さずには居られない。衣服改良、家屋改良、何でも改良呼ばゝりの空しい聲も、もう久しいものだ。事實に於て日本人は何時まで、此の不完全な住居を永續させるつもりであらう。外を吹く寒風は疊のすき間、障子の隙間到る處から這入つて來る。其れをば火鉢の炭火一ツで凌がうと云ふ。讀書も思索も快樂も、又事業の活動も出來たものぢやない。私は椰子の葉蔭の庵室に裸體の儘|胡坐《こざ》してゐた印度の僧を今もつて忘れない。彼の僧は春が來れば茫然として開いて散る花を眺め、夏が來れば烈しい日光《ひかげ》に眼《まなこ》を閉ぢ、冬が來れば暖爐の傍《かたはら》から暗い日の過ぎ行くのを悲し氣に見送るのであらう。此れが固有なる東洋的生活の本質であつたのだ。いや、自分が日本に歸つて來て新しく感ずるのは、この東洋的と云ふ目に見えない空氣ばかりである。宇宙百般の現象は果して偶發したものか否かは暫く論じまい。よし偶發したものにもせよ、其れが發展永續する状態を考へると、必ず此處に何かの理由がなくてはならぬ。日本は賢明なる維新の改革者の志に基き、日一日と歐洲に見る如き近代的の生活を營まうとして居る。然し諸行無常の鐘の音が今もつて聞える東洋の土上《どじやう》に、それは果して最後の勝利を占むべき性質を有して居るであらうか。サハラの沙漠に稻の田を作らうと企てたものは一人もない。自分は日比谷に立つて居る帝國議會を目に見ても、日本の社會が過去幾世紀の間政治的變革を經來つた西洋現代の通りになつたとはどうしても思ふ事が出來ない。 十一月二十九日[#「十一月二十九日」は中見出し]  父はもう悉皆《すつかり》健康になつた。相模灣の暖い日和に葉山の別莊から長者岬《ちやうじやみさき》近くまで散歩した位だと手紙にも書いてある。こんなに早く健康を囘復する位なら、自分はあんなに周章《あわて》て日本に歸つて來ないでもよかつたのだ。然し考へると海外に遊んで居たのも八年の長きに及んだ。直接の父母よりも親類のものなどが却て心配したに違ひない。それであんな電報を寄越したのであらう。自分は西洋の女と結婚してゐる。結婚しないまでも何か女があつて、其の爲めに歸つて來ないのだと大變心配して居たさうだ。無理はない。普通の日本人から考へたら、さう長く外國に居るものもなし、居られもしないから。然し自分が此《か》くまで長く外國に居て、猶且つ故郷を思はなかつたのは、決して女の爲めのみぢやない。外國と云ふ空氣全體を愛して居たからで、外國と云ふ空氣全體が自分を醉《ゑ》はして居たからである。  多く論ずる必要はあるまい。昔から生れた郷土の迫害を憤つたものゝ心に、「外國」と云ふ一語は何《ど》れだけ強い慰藉であつたらうか。亡命者放浪者の傳記を讀めば想像するに難くはあるまい。詩人バイロンは何故に故國の山河を罵つて遠く希臘《ギリシヤ》の陣中に病歿したか。小説家スタンダルはナポレオンに從つて共に魯西亞《ロシア》の都から退却した佛蘭西人である。彼は伊太利《イタリー》を愛して己れの墳墓にミランの人|某《なにがし》と刻せしめた。現實を重《おもん》じた彼の孔子すら道行はれずば舟に乘つて去らうと云つたでは無いか。自國に於てすら道を行はしめる事が出來ないなら、同じ人間の住む何處《いづこ》に道を行はしめる國があらう。冷靜殘酷な條理を以て論ずべき問題ではない。不條理であり矛盾であるが故に、熱もあり涙もあるのだ。  自分は父に對する返事を書かなければならぬ。自分にはいつも此れが一通りならぬ努力である。維新前の教育を受けた父の書體、趙子昂《てうすがう》の書體を味つた草行《さうぎやう》の名筆は、全文の意味を推測する以外に、自分には殆んど讀み得ない。輸入煙草の箱に書いてあるアラビヤ文字を見るやうな心持がする。よし又讀み得たにした處が、幾個《いくつ》も返り點をつけて見ねばならぬ古典的な文體が、少しも自分の感情に伴はないので、血族の情愛どころか、同じ時代に生きてゐる人の心持さへしない事がある。  自分はこれに對して返書を認《したゝ》めるに當つては、先づ第一に自分の漢字を書くことの拙《つたな》さに閉口し、次には綴り馴れぬ文體に苦しまなければならぬ。卷紙に毛筆を以て書くよりも、比較的その拙劣を目立たせない爲めに、自分は歸朝の後も、父に對しては必ず西洋の書翰用紙にペンで文法の筆記でも書くやうに返事を書いてゐる。時代の變遷を此《か》くまで激しく感じる處は、世界中日本を除いては何處にもあるまい。自分を生んだ父は、「拜啓|陳者《のぶれば》」に初まつて「早々頓首」に終るのが、古今を通じて動かすべからざる書翰文の定形だと信じてゐる。然るに自分は、英語の My Dear Father を取つて直ちに、親愛なる父よ、と呼びかけ Your affectionate son おん身の愛する子よりと結びたい。それが親子の感情を發表する最も自然な書方であると信ずる。何たる相違であらう。寧ろ滑稽と云ふべきだ。 十二月二日[#「十二月二日」は中見出し]  苦學生補助會の慈善音樂會はいよ/\明日《みやうにち》の午後青年會館に開かれる。自分はピアノの演奏を依頼されて居るので、午前中は其の練習に餘念もなかつた。演ずべき曲は第一部と第二部と共に Chopin の作で、「小夜曲《ノクチユールン》」と Sonate(op. 35)の第三節「埋葬曲《マルシユ・フユネーブル》」とを出す事にしてある。「小夜曲」の方は何れかと云へば彈じ易い。夢想的な「夜」といふ全體の心持を傳へればよいのだが、「埋葬曲」は洋琴《ピアノ》作曲家として何人《なんびと》も企て及ばざる Chopin が藝術の極致を示したもので、波蘭土革命《ポーランドかくめい》の騷亂に殉死した一青年の埋葬に戀する許嫁《いひなづけ》の少女《をとめ》が會葬の人々の立去つた後《あと》、夜《よる》の來るのも知らず戀人の墳墓に泣倒れると云ふ、劇的な叙景音樂である。自分は各國の名家の演奏も幾度《いくたび》となく聽いた上に、久しい間練習しては居るが、初《はじま》りの進行曲だけは何《ど》うやら無難に行きながら、いざ最後に夜《よる》となつて秋の木の葉が墳墓に散りかゝる處になると、全く絶望しなければならぬ。日本の座敷に据付けた古物のピアノの恐しく音色の惡いばかりでない。自分の手腕の未熟なばかりでない。日本の居室全體の心持が斯《かゝ》る種類の音樂にはどうしても一致しない。天井、壁、柱、襖、障子、疊、各自異なる不快な汚れた色を露出《むきだし》にして居る日本の居室には、色彩の統一がないと同時に、又内部と外部との限界も立つて居ない。戸外《おもて》の物音は車の響、人の聲から木の葉のそよぎまでが自由に傳《つたは》つて來るし、家人は何時でも勝手に、何の會釋もなく襖を引開ける。光線は何等屈折の妙味もなく、正面の障子から這入つて來て、室内の空氣と家具の輪廓を單調平坦にしてしまふ。敢へて音樂のみでない。日本の居室は凡て沈思冥想恍惚等の情緒生活に適しない。黄昏《たそがれ》の窓に近く幽明の境に椅子を連ねて、しんみりした會話を夢心地に取交すなぞ云ふあの云ひ難い情味は、日本の居室では到底感じ得らるべき事でない。  自分はもうピアノを見るさへ厭な心持がする。兩足を折敷いて坐る事は我慢にも苦しくて堪らぬ所から、椅子、机、長椅子なぞ西洋の家具を据竝べてあるが、日本座敷の天井や襖を見ると、ピアノの嚴めしく重い形とはどうしても調和しない。殊に其の黒く塗つた漆の面に、袖のある和服を着た自分の姿の映つてゐるのを眺めると、自分は泣きたいやうな情無さと、同時に思はず吹出したくなる程な滑稽を感じる。此の服裝、此の居室、そして此の遠い/\東洋のはづれまで來てあの悲しい北歐の音樂を彈じやうと云ふ。あゝ何たる無謀の企てゞあらう。自分は氣を變《かへ》るためピアノを離れて、取寄せた外國の雜誌を開いたが、插繪の景色《けいしよく》や流行服の廣告畫なぞ見ると、徒らに堪へ難い當時の追想に沈められるばかりで、益《ます/\》現在の自分が情けなくなる。散歩に行きたい、と思つたところで、何處へも行くべき場所がない。腰掛の少い公園には冬中は休茶屋も見當るまい。往來は電柱の森林、電車は昇降《あがりおり》の秩序もない雜沓………。  こんな午後《ひるすぎ》に折よくも、巴里《パリー》で懇意になつた高佐《たかさ》文學士が來訪された。自分よりは一箇月ばかり後れて歸朝した大學の助教授である。自分は恰《あだか》も姑の不平を訴へる若い嫁のやうに、來訪者の顏を見るや否や、既に此れまで幾度《いくたび》となく聞かした歸朝後の不平、日本の生活の不便を繰返して話した。すると高佐君は獨逸式の口髯ばかり嚴めしいが、目元に愛嬌のある微笑を浮べて、 「まア君、そんなに悲觀しないでもいゝでせう。日本も最う直き西洋の通《とほり》になつてしまひます。丸の内に國立劇場が出來るぢやありませんか。」と云つた。  自分はいつも高佐君が深刻な諷刺を喜ぶ人である事を知つて居るので其れに對して眞面目に答へた。 「劇場は石と材木さへあれば何時でも出來ます。然し日本の國民が一體に演劇、演劇に限らず凡ての藝術を民族の眞正《まこと》の聲であると思ふやうな時代は、今日の教育政治の方針で進んで行つたら何百年たつても來《く》るべき望みはないだらうと思ふのです。日本人が今日新しい劇場を建てやうと云ふのは僕の考へぢや、丁度二十年前に帝國議會が出來たのも同樣で國民一般が内心から立派な民族的藝術を要求した結果からではなくて、社會一部の勢力者が國際上外國に對する淺薄な虚榮心無智な模倣から作つたものだ。つまり明治の文明全體が虚榮心の上に體裁よく建設されたものです。それだから、若し國民が個々に自覺して社會の根本思想を改革しない限りには、百の議會、百の劇場も、會堂も、學校も、其れ等は要するに新形輸入の西洋小間物に過ぎない。直ぐと色のさめる贋物《いかもの》同樣でせう。あなたの、大學の方にだつて隨分不平な學者があるでせう。」 「ありますとも。滿足して居るものは一人もないでせう。」高佐君は再び例の微笑を浮べて、「然し日本の學者は西洋と違つて皆《みん》な貧乏ですから、生活問題と云ふ事が微妙な力で其の邊《へん》の處を調和させて行くのです。」 「いつの世にも殉教者の氣慨がなけりやア駄目ですな。」自分は的《あて》もなく書生の慷慨を漏すと、高佐君は突然首を傾《かし》げて、 「あの彫刻はたしかルキザンブルの美術館でしたつけね。「殉教者」と云ふ木彫《きぼり》の像のあつたのは。」  自分は餘りに唐突《だしぬけ》な話題の變轉に唯だ首を頷付《うなづか》せたまゝ高佐君の顏を見た。 「あの彫刻は痩せた爺さんの殉教したと云ふ點から見て、石材を使はず、黒ずんだ木材を用ひた處に非常な價値がある。日本の彫刻は昔から木材に限つたものだけれど、到底《とても》あゝ云ふ風に作品の内容と外形の材料とを深刻に一致させたものはない。」 「要するに日本人には頭が無いんでせう。」 「私は日本人には、藝術家として、空想と情熱が乏しいのぢや無いかと思つてゐます。」 「空想と情熱………さうかも知れませんね。此間日本歴史を讀返して見たですが、實に厭な淋しい氣がしました。日本人は一度だつて空想に惱まされた事はないんですね。眼に見える敵に對して復讐の觀念から戰爭したばかりで、眼に見えない空想や迷信から騷出した事は一度もない。つまり日本人は饑饉で苦んだ事はあるが精神の不安から動搖した事はない。」 「はゝゝゝ。思切つた酷評を下したもんですね。はゝゝは。」さも可笑《をか》しさうに笑ひ續けたが、軈《やが》て靜に葉卷の煙を吹きながら、「其れだから要するに日本人は幸福なユウトピアの民なんですよ。自覺させると云ふ事も惡くはないですがね、私は一方から考へて、平和な幸福な堯舜《げうしゆん》のやうな人民に文明々々と怒鳴つて、自由だの權利だのを教へて煩悶の種を造らせるのはどうかと思ひます。戰慄すべき罪惡のやうな氣もします。支那人も書を知るは憂の始めと云つた通り、無智ほど完全な幸福はないのですからね。あなたも御覽でしたらう。Port-Said を通つた時、眞赤な合歡花《ねぶのはな》の咲いて居る沙漠の水際に、埃及人《エジプトじん》が何時覺めるとも知らず、ごろ/\晝寢をしてゐるのを見て、私は囘々教《ふい/\けう》と云ふものは基督教《キリストけう》より遙に悟つたものだ。少くとも審美的に見て高雅なものだと感じたです。此の頃に學校の講座で、歐洲近代藝術の Exotisme について論じて見やうと思つて居るのです。」  高佐君は調子づいて Exotisme の類例として Fromentin や 〔Ge'rome〕 や Cabanel の繪畫だの、Gautier や Baudelaire や Loti の文學なぞを論じ出す。自分は最初は無智乃ち幸福と斷言した其の人が餘りに專門的な論議の矛盾に對して、冗談半分の駁撃《ばくげき》を試みやうと思つて居たが、聞いて居る中に自然と愛好する藝術の問題に引き入れられて、自分も音樂上の熱帶趣味の類例として、Verdi の 〔Ai:da〕, 〔Saint-Sae:ns〕 の Fantaisie, L'Afrique 其れから Massenet の 〔L'Alge'rienne〕 なぞを論じた。  實に愉快な半日であつた。 十二月三日[#「十二月三日」は中見出し]  音樂會は思つたより滿足に濟んだ。自分は歸國して以來、西洋音樂の演奏會に赴く度々《たび/\》、いつも其處に少からぬ聽衆の集つて居るのを見て感ずるのは、「西洋」と云ふ一語がいかに強く、或る一部の若い日本人の心を魅してゐるかと云ふ事である。自分も嘗ては同じ日本の學生であつた。其の過去の經驗から推測して誤らずんば、重に學生ばかりの聽衆は、今日とても同じく、演奏される西洋音樂の意義をば滿足に了解しては居まい。彼等にはもつと了解し易い詩吟もあり薩摩琵琶歌もありながら、彼等は單純に西洋音樂は日本音樂よりも高尚である深遠であると云ふ盲目的判斷、寧ろ迷信に支配されて馳せ集るのだ。あゝ「西洋」何たる不思議の聲であらう。自分は忘れない。まだ無邪氣な小學生の時分からペンでもインキでも書物でも、何《なん》に限らず舶來の品物は日本のものより上等であると信じて居た。「和製」と云ふ言葉は直ちに粗惡劣等を意味するものであつた。西洋造りの家屋には偉い人しか住んでゐないやうに思つて居た。中學校に進んでも、自分の頭腦には英語の教師は國語漢文の教師より偉い人であるやうな判斷がどうしても失せ無かつた。少くとも英語の教師は國語漢文の教師より品格風采もよく、教官としての等級も上である事は事實であつた。高等學校入學試驗の結果も國語漢文より外國語の成績の如何によつて定められた。これ亦爭はれぬ事實である。日本人が日本を知る必要は少しもない。明治の現代に高い地位名望を得やうとしたなら、自國の凡てを捨てゝも西洋の知識に學ばねばならぬ。てにをは[#「てにをは」に傍点]を知るよりまづ ABC を知らねばならぬ。歐米を旅行して、自分は歐文を綴り得るだけの才能に止《とゞま》り、日本の手紙すら滿足には書き得ない知名の外交官に幾人《いくたり》邂逅したであらう。後代の歴史家は此の奇妙な現象をどう研究するであらうか。 十二月十日[#「十二月十日」は中見出し]  また香風會《かうふうくわい》から出席の催促が來た。自分はもう人中に顏を出したくない。「西洋はどうです。」「何を御研究です。」「日本は駄目でせうな。」何時もきまつた無意味な質問にはもう自分は疲れきつて居る。世間の人はどうして那樣《あんな》に、何の用意もなく無意味無目的な質問を亂發するのだらう。彼等は洋行した人とさへ云へば、希臘《ギリシヤ》の太古から幾千年たつた今日までの何から何までを、僅數年間にして知り盡してしまつた人のやうに問ひかける。そして若しか自分が知識の交換を重んじて其の知る處を秩序立てゝ辯じやうとすれば、忽ち飽きて直ぐ又|他《ほか》の事を問ひかける。自分は世間並みの挨拶質問には實際もう閉口しきつて居る。香風會は其等世間並の會合とは違つて、親睦を主とする舊學友の懇談會であるけれど、あゝ然し自分は矢張《やは》り、どう云ふものか氣が進まないのである。  香風會と云へば其の起源は十年もつと以上になるかも知れぬ。其頃自分等は高等學校の學生で、日曜日毎に不忍池《しのばずのいけ》の貸席に會合して蕪村派の俳句を樂しんだ。其の會合を名付けて香風會と云つて居たが、やがて自分が外國へ行く頃から一同は大學へ進み、次第々々に出席者がなくなつて遂に解散して了つた。と幹事からの手紙にも書いてある。それから幾年かたつて一同が大學を卒業し、それぞれ社會上の地位を得るやうになると、何々倶樂部《なに/\クラブ》とか何々會議所とかで再び顏を見合す舊友連が、誰《た》れ云出すともなく昔の香風會を再興しやうと云出して、その第一囘をこの夏の初め向島の料理屋で催した處が非常の好結果を得た。そこで第二囘は丁度舊會員の自分が久し振の歸朝でもあり、且つ早手𢌞しの忘年會をも兼ねて、思切つて箱根塔の澤で一泊の宴會を開くと云ふ次第である。  あゝ幸福なるは彼等だ。彼等の學生時代は其の生涯の最も幸福なる記念の一ツであらう。然し、自分に取つては全く反對で、過去の囘想は無限の痛苦と憤怒とを呼び戻すのみである。自分は大學へ進むべき其の年に教師と衝突して退校を命ぜられた。それが外國に赴くべき直接の原因である。自分の生涯は米國大陸の地を踏んだ其の日から始つたものゝやうに、自分は全く夢の如くに日本に於ける過去の記念を忘却したいと願つて居る。舊友の顏が懷かしく思はれるにつけて、其れを見るのが如何にも辛い氣がする。自分は鄭重なる案内状に對して已に二度まで斷りの返事を書いた。それだのに、折返して復《また》も勸誘の手紙である……… 十二月十四日[#「十二月十四日」は中見出し]  室《へや》の障子に冬の日が差込んで來た。置時計が優しい小さな音でもう三時を打つた。午後《ひるすぎ》の冬の日は黄《きいろ》い色をしていかにも軟く穩かに輝いてゐる。十二月の半ばと云へば彼《か》の國ではもうクリスマス前の雪や風や霧ばかり。終日室内には瓦斯燈《ガスとう》を點ずる暗い日の續くのに自分はこの長閑《のどか》な日本の冬の日影を見ると、靜な公園の橡《とち》の葉が眞白な石像の肩に散りかゝる巴里《パリー》の十一月、咽び泣く噴水のほとりの冷い腰掛けに、悲しい顏した詩人が眺める晩秋の日光《ひかげ》を思ひ出さずには居られない。  幾日も障子襖を閉切《しめき》つたまゝ炭の火で無暗と暖める爲めであらう、室内の空氣は多量の炭酸瓦斯を含んで重く沈滯してゐる。輕い頭痛を促す氣分の不快が、今では却て身動きするのも懶《ものう》いやうな不健全の快感に人を陷入れる。香風會の箱根行は三時半|新橋停車場《しんばしステイシヨン》に會合の筈である。自分は已に洋服の仕度まですましながら唯ぼんやり時計を眺めるばかりで、いざ出掛ける勇氣がどうしても起らない。起らないばかりか此れから今日の一夜《いちや》を箱根なぞで費すのが餘りに馬鹿々々しく思はれる。日本人の亂雜無禮な宴會のさまが堪へられぬ程不愉快に目に浮ぶ。美しい女、美しい寶石、明い燈火、愉快な音樂、西洋の夜會は見事なものだ。さう云ふ風習を有する國民が羨ましい。あの箱根が瑞西《スイス》の山間か湖の畔であつたなら、どんなに自分の心は勇立つであらう。自分は一層《いつそう》の事行くまいと決心して、氣をまぎらす爲にピアノの前に坐つて、よく諳記してゐるオペラ Rigoretto《リゴレツト》 の處々を何といふ事もなく彈きつゞけた。  彈いて居る中だけは全く忘れて居たが、彈き終ると又直ぐ箱根の事が思返されて來る。何ぼ厭でも此儘無斷で行かないのは好くない。友達はさぞ新橋で今頃は自分を待つてゐる事であらう………あゝ到底《とても》もう間に合はぬ。三時半はとうに過ぎてしまつた。一同先へ出發して呉れたか知ら、もし空しく待つて居るやうな事があつては其れこそ申譯がない。とにかく新橋の停車場《ステイシヨン》まで行つて見るつもりで、自分は命じた車に乘つて急いで家《うち》を出た。  幸ひ入口の階段にも待合室にも、嘗て自分の歸朝を新橋に迎へて呉れた見覺えのある友人の顏は一ツも見えなかつた。安心して家へ戻らうかと思つたが其の時、丁度驛夫が鐘を鳴らして國府津行《こふづゆき》の發車を知らして居たので、つい又其の氣になつて、自分は切符を買ふより早く列車に乘つてしまつた。  列車が動き出すと共に直樣《すぐさま》自分は止せばよかつたと後悔した。丁度夕日の悲しく照す品川の入海と水田の間々《あひだ/\》に冬枯れした雜木の林をば、自分は遣瀬のない心持で眺め遣つた。然し其の心持は嘗て北米の冬の荒原《くわうげん》を汽車から眺めた時とは全く味ひを異にして居る。北米の荒原は偉大なる悲哀寂寞の中《うち》に自分を恍惚たらしめた。哲理的冥想に沈ましめた。其れが同じ冬でありながら、祖國の自然は、敢て其の規模の大小に原因するばかりでは無い。自分に對して殆ど何等情緒の變動をも與へない、人家は人家、樹木は唯だ樹木として眼に映ずるばかりだ。形ばかりで、心持は少しもない。あゝ何故《なにゆゑ》であらう。  車中には二三人の乘客が混雜しない腰掛を幸に早くも股引や毛脛を露出したまゝ横になつて居る。二等列車の事とて風采だけは其れ相當にして居るが、私生涯と公生涯との差別を知らない國民の常とて、中にはもう大きな鼾《いびき》を遠慮なく轟かせるものがある。自分は其の樣子を見ると二三日前に議論した高佐助教授の言葉を思出さずには居られなかつた。日本人はユウトピアの國民だ。新しい思想の煩悶を教へるのは罪惡だ。全く其れに違ひない。自分がこれまで新しい日本に新しい國民音樂を興さうなぞと思つて居たのは全く無用な笑ふべき夢であらう。今|目前《もくぜん》の腰掛にいぎたなく寢そべつて居る國民の顏をば暗澹たる車中の燈火に照して眺めながら、試に Wagner《ワグナア》 が大なる藝術を創作するものは一般の民衆であつて、藝術家の唯一の任務は民衆が無意識に創作したものを採り集めて此れを按排する事であると云つた話なぞを思ひ合せたなら、如何なる感慨に打たれるのであらうか。  丁度日が暮れて暗い夜《よる》と共に、車の窓の隙間から寒い風が襟元に吹き込む。自分は僅か三四時間の道を宛《さなが》ら端《はて》のない絶望の國へ流されて行くやうな心持で、漸く國府津の停車場《ステイシヨン》につき、其れからは又極めて進行の遲い電氣鐵道に乘つた。  塔之澤の福住《ふくずみ》に着いて女中に案内されるまゝ座敷へ這入ると、丁度|浴衣《ゆかた》に着換へて宴席を開きかけた會員一同は、後《おく》れ走《ば》せに思ひも掛けない自分の姿を見ると殆ど總立ちになつて歡迎してくれた。十年以前自分が高等學校を退校される時分には白筋の制帽に衣服《きもの》袴《はかま》の汚れたのを殊更自慢に着けて居た書生が、今ではいづれも頭髮《かみ》を分け八字髯を生《はや》して居る。お互ひに跡方もないまでに變つてしまつた顏立眼付の中に幾分か殘つてゐる遠い昔の記念を搜出す心持。自分はさすがに暖い懷しい感動に胸を打たれた。  會員中には政府や會社から派遣されて、已に外國で自分と出會つたものも二三人は交つてゐる。其れ等の人達が自分を相手に巴里《パリー》の料理屋では贋金を掴ませられたとか、獨逸では汽車を乘り違へたとか云ふ、いつでも極《きま》つた歸朝者の得意滿々たる失敗談が始まつたが、然しその一通り濟むのを待つものゝ如く、一座の談話は忽ち自分の高等學校退校事件の昔に遡つた。 「あの當時は少しも事情が分らなかつたけれども、一體どう云ふ譯で、あんな亂暴な事をしたんだ。」ときくものがある。 「つまり血氣盛りの無分別からさ。どう云ふ事情だつたか、もうよく覺えて居らん。」  自分は輕く笑ひに紛らしたけれど、然し内心では今だに自分の暴行を悔ゆる氣は少しもない。自分は校友會の雜誌に、學士の肩書を得んとする事ばかりが吾々の目的の全部ではないと云ふ事を論じた。其れが學生の議論として穩かでないと云ふ事から教師と衝突し激論のあまり遂に腕力に訴へた。自分は已に尋常中學の頃から何となしに、當時の教育者が生徒をして心服敬慕せしめる丈けの徳望もない癖に、職業的に校則のみを云々する態度に深い嫌惡《けんを》憤懣《ふんまん》の情を抱いて居たので、其等の反感が一時に機會を得て爆發したまでの事である。 「君に撲られたあの教師は其の後地方の高等學校長に轉任してから收賄事件でやられたよ。今ぢや滿洲で何かやつとるさうぢや。」 「さうか。」自分は返事をしたなり默つて居たが、何か重大な問題を提出されたやうな安からぬ心持がした。  一同は其れから自分に向つて、西洋の大學の樣子や學生の生活や又自分の研究した音樂なぞについて質問した。自分は西洋の事とさへ云へば、一般に日本現在の状態に比較して自然と彼方《かなた》を稱美し此方《こなた》を謗《そし》るやうな傾きになる。從つてつまらぬ誤解を招き安いと思ふので、なりたけ話の深入せぬやうに心を勞した。自分の西洋崇拜は眼に見える市街の繁華とか工場の壯大とか凡て物質文明の状態からではない。個人の胸底に流れて居る根本の思想に對してである。宴席や會合の坐談としてこれを論ずるには餘りに深過ぎ餘りに複雜すぎる。口を噤《つぐ》むに如《し》くはあるまい。 十二月十四日夜[#「十二月十四日夜」は中見出し]  知らず/\呑んだ酒の爲めか寢床の變つた爲めか、入浴した後のつかれにも係らず精神が昂奮してどうしても眠る事が出來ない。會員は多數の事とて二三人づゝ座敷を分けて寢床に就いたのであるが、自分の座敷は殊更谷川に近いかして夜の深けると共に水の音がます/\耳につく。自分は座敷中を隈なく照す天井の電燈を夜具の中から眺めて高等學校を退校された當時の事、其れから引續いて自分の親しく見た外國の學校とを比較するともなく比較して、しみ/″\自分の過去を思返した。巴里の大學では往々にして學生と教師との間に學理の爭論が起ると其れを賛否する書生の黨派が示威運動の行列をする。時には警察官が鎭撫に出張する事もある位だ。米國の大學では學年試驗の答案を草する最中にも生徒は隨時に筆を休めて教室外に散歩する事を許されてある。其れに對して生徒は一人として日本の學生のするやうな狡猾手段を取らない。自由自治獨立の美徳は學校内に殆ど何等の規則をも設けさせない。無規則無條件は懲罰の網目を免《のが》るゝ隙なく張りつめたよりも却つて結果よく一人の違反者をも出さない。西洋の大學の腰掛は冷い木ながらに天鵞絨《びろうど》の蒲團を敷いたよりも温い氣がする。其れに反して日本の學校では腰掛ばかりか四方の壁からも身動きの出來ないやうに恐しい釘が出て居る。同じ人間と生れて教育されるなら、温かい自然の性情を傷付けられないやうに、自分は如何なる不幸の家にでもよい。辨慶のやうな強い國の人たるよりは、自分は頭を打たれたら、打たれた痛さだけ遠慮なく泣ける樣な國に生れたかつた。自分は決して自分の生れた國を謗るのではない。自分は唯だ人の心の常として、美しいもの麗しいものを敬慕するに止まる。國民の義務は祖國の萬事を絶對無上に讃美する事ばかりならば、善男善女は最上の愛國者である。判斷比較の知識を與へる教育は恐るべき罪惡の教唆《けうさ》であらう。  眠られぬ苦しさに自分は幾度《いくたび》か寢返りした末、仰向《あふむき》になると、丁度自分の頭の上の鴨居に大きな字で「青山白雲」と書いた額がかゝつて居る。夜深けと共にます/\明くなるやうに思はれる電燈の光で題書家の氏名と落欵《らくくわん》までが餘す處なく讀まれる。誰《たれ》あらう、維新改革者の一人たる元老の名である。其れを見ると自分はます/\激昂して到底《とても》もう眠られるものではない。あんな人間の書いた字の下で一夜を明す事は無限の屈辱であるやうな感じさへする。自分は幼い子供の時分から何時とはなく維新の元老の社會的地位名聲と日々《にち/\》の新聞紙が傳へる其の私行上の相違から、斯《か》う云ふ人達ほど憎むべき僞善者はないと思つて居たので、今だにもし偉大なる政治家としての人物を思ふ時には、眞面目なる崇拜の觀念は祖國を去つて直ちに Hugo や Gladstone や誰《た》れに限らず泰西の偉人物の上に注がれるのである。自分は巴里の 〔Panthe'on〕 を見物に行つた時、一人の老人が孫らしい小兒《こども》の手を引き、ユウゴオの遺骨を收めた石の柩を指《ゆびさ》しつゝ何か物語つて居たのを見て如何に切ない羨望の情に迫られたであらう。幸福なるは佛蘭西の國民である。彼等は己れの子孫に向つて、君子として詩人として政治家として愛國者として、凡そ人間の最も完全なる模範を示すべき人物をば己れと同じ國民の中《うち》に幾人となく擧げ數へる事が出來る。然るに明治の國民、自分は其の子孫に對する誇りとするには極めて拙惡なる九段坂上の銅像より外に何物をも持たない。近代思潮の變遷よりも株相場の高低に注意する大政治家より外には語るべき人物を一人も見出し得ない。  堪へられずして自分は又もや寢返りを打つたばかりでなく、夜具の上に坐り直つて見た。丁度その時、自分の隣に寢て居た一人の男がふと眼を覺して掌《てのひら》で瞼をこすり、枕元の時計を引寄せながら始めて自分の起き直つてゐるのに心付いて、 「君どうしたです。」頗る驚いたらしい樣子である。 「何時です。」 「二時半。」と答へて彼は卷煙草に火をつけ、「ひどい水の音だ。まるで雨のやうですね。」 「句になりませんか。」何心なく云ふと彼は己れを嘲けるやうに唯だ「はゝゝゝ」と笑つた。  自分は今夜席上の會話で、昔の香風會以來今日まで俳句を捨てないものは、宇田流水《うだりうすゐ》此の人一人である事を知つてゐた。流水は國文科出身の學士で徳川文學に關する著述を尠《すくなか》らず公にし又絶えず新聞に小説の筆を執つて居る事をも聞知つて居たので、眠られぬ儘に日本の文學界の事など質問した。すると流水は筆をもつて衣食して居るけれど、現代の日本文學の新傾向とは全く無關係であると答へた。純粹の日本人から生れた純粹の日本文學は明治三十年頃までに全く滅びて了つた。其の以後の文學は日本の文學ではない。形式だけ日本語によつて書かれた西洋文學である。其の西洋文學も十七世紀の貴族的な端麗典雅なものではない。今日若い書生の頻に稱道する自然主義の文藝の如きは、到底吾々の了解し得られぬものである。彼等は美辭麗句を連ねて微妙の思想を現はす事を虚僞だとか遊戲だとか云つて此れを卑むらしく思はれるが、文學の眞髓はつまる處虚僞と遊戲この二つより外にはない。其れを卑むならば、寧ろ文學に關與《たづさ》はらぬ方がよいのである。若し眞實の世相が觀たいと思ふならば小説を讀むより己れ自ら世相を觀るに如《し》くはない。人間の作つた言語文章が完全に眞實を傳へ得ると思ふのが大《だい》なる誤謬である。文學の興味は人間の知識が凡そ不完全な言語をもつて、虚僞と不眞實を何《ど》れ程眞實らしく語り得るかと云ふ其の手腕を見るのにある。この滑稽な遊戲が乃ち文學と稱するものだ。 「だから私は支那の西遊記のやうなものを文學の最上なものだと思ふのです。」 「はゝア、君は近代文學の科學主義に反抗してネオロマンチズムを稱道するんですね、文藝全體から見て然《さ》う云ふ傾向も無論なくてはならん。兎に角自分の信ずる處を遠慮なく發揮されるがいゝです。」  流水は頷付《うなづ》いたのみで別に答へはせず更に新しい卷煙草に火をつけて居た。自分は其の儘眠りたいと思つて横になつたまゝ暫く眼を閉ぢて見たが、矢張り眠られない。宇田流水も煙草を呑み終つた後、頻りと寢返りばかり打つて居た。やがて、何《いづ》れが話しかけるともなく二人は再び話し出した。 「君はまだ獨身ですか。」と流水が云ふ。 「えゝ、まだどうして。」と答へて、「君は?」 「御同樣です。ぢや、昔の友達で獨身なのは君と僕二人だけだ。君も御存じでせう。あの山口なぞは、尤も大學に這入る以前から結婚して居たんだが、令孃がもう二三年|中《うち》にはお嫁入の口を搜す時分だと云つて居る。」 「結婚なぞは急《いそが》ないでもいゝ。日本人は三十の聲を聞くと青春の時期が過ぎて了つたやうに云ふけれども、熱情さへあれば人間は一生涯青春で居られる。熱情がなければ二十歳《はたち》で結婚したつて仕樣がないです。」 「さう。全くですね。僕は外國の事は知らないが、日本の結婚ほど不愉快なものはない。僕の友達で新聞社に居た男だが、高等文官試驗に及第して官吏になつた、すると財産まで持つて嫁に來やうと云ふ相當な容貌《きりやう》のものが澤山出て來たさうだ。其友達と云ふのは色の眞黒な眇視《やぶにらみ》の又とない醜男《ぶをとこ》なので、無職同樣の記者時代には、水轉藝者《みづてんげいしや》にまで振り飛ばされた。そんな事を思合せると、流石《さすが》に實利主義な世の中には呆れ返つたと云つて居るです。今時の日本の女には八百屋お七見たやうに男の容貌《きりやう》に恍惚《うつとり》して身を過《あやま》つやうな優しい情愛と云ふものは微塵もない。自分で自分を滿足させると云ふ望みは少しもない。何も彼も世間體《せけんてい》で、愛國婦人會の徽章でも下げる事ばかり考へて居る………。」  流水の憤慨に對して自分はさう云ふ惡風の起つて來た根本は明治の僞善的文明の致す處であらうと論じた。敢て日本ばかりぢやない。生活の困難な西洋ではさう云ふ利害の結婚 Mariage de raison は數へられぬ程である。七十八十の老人に結婚して其死ぬのを待つて財産だけ取らうと思つて居る若い細君なぞは、ちつとも珍しくない。然し其れと同時に愛情の爲めに一生を賭して社會の習慣と戰つた少女の話も、到る處で聞きもするし、目にも見る。つまり西洋人は善惡にかゝはらず、自分の信ずる處を飽くまで押通さうとする熱情がある。僕はこの熱情をうれしく思ふので。日本人は此れに反して何かと云ふと、直ぐ世間を憚つたり自分を反省したりする。常識に富んで居る點から云へば結構な事だが、深く考へて行くと、常識の日本人はいつも現實の利害に汲々としてゐるばかりで、とても理想的の大きい國民になれやう筈がない。歴史を見ると日本人は天に昇らうと思つて、バベルの塔を建てたり、又は支那人が不老不死の藥を得たいと煩悶したやうな、そんな馬鹿馬鹿しい事を一度も企てた事がない。人間としても國民としても、目前の利害を離れて物にあこがれると云ふ事が無くてはならぬと思ふ。然し日本人はさう云ふ架空な事をば、月の影を掴まうとして水に落ちた猿に譬へて居るではないか。僕は日本人の根本思想に對して慊《あき》たらないのだ。洋行した日本人は工業でも政治でも何《なん》に限らず、唯だ其の外形の方法ばかりを應用すれば、それで立派な文明は出來るものだと思つて居る。形ばかり持つて來ても内容がなければ何《なん》になるものか。これが日本の今日の文明だ。眞《まこと》の文明の内容を見ないから、解しないから、感じないから、日本の歐洲文明の輸入は實に醜惡を極めたものになつたのだ。一番近い例は東京の電車であらう。電車は電氣の學問を學んだ日本人が立派にあの通りの經營をした。然し其れを實用する人間が社會的共同生活の意義を知らないから、あの通りの亂雜な醜態を極める事になる。僕は日本人が文明の内容に省みない以上は、どんな美しい外形を粧つても何の役にも立たないと思ふ………。 「革新されないか知ら、君のやうな人物が叫んだら。」と流水はお義理らしく答へた。 「然し僕は政治家でないから。」と自分は其れとなく適任者でない事を暗示して云紛《いひまぎら》したが内心では一種の痛苦を感じた。何故《なぜ》と云つて自分は直接日本を改革しやうと云ふ目的を以て論じたのでもなければ又自ら立つて改革しやうと云ふ程の勇氣もない。唯だ今日まで、少年時代を頑固な漢學塾で苦しめられ青年時代を學校の規則で束縛された憤慨のあまり、漫然として東洋の思想習慣の凡てに反抗して居るばかりである。此の反抗が殆ど何等の理由なく外國の生活を理想的に美しく見せると同時に、丁度過渡期の亂雜な日本の状態を堪へられぬ程醜惡不潔に感じさせ、其の結果は寧ろ此の儘祖國の生活の改善されぬ方がよいとまで呪はせる事がある。嗚呼《あゝ》、自分はどうして昔の奴隷の如く柔順に盲目的に生きる事が出來ないのであらう。反感を抱くだけの力のないほど幸福な事はない………自分が其れ等の感慨の一端を漏すと、流水も非常に感動したらしい調子になつて、 「僕の生涯なども全く反抗の一語に蔽はれて居る。小説など書き初めたのが、そも/\冷靜な他の學問に對する反抗からで、其れからは兩親と衝突して其の望むやうな正業を求めず、今日まで獨身で放浪して居るのも矢張反抗に過ぎない。到頭自分の研究して居る文學にまで反抗し出した。文學が活きた人生に接觸しなければ眞《まこと》の價値のない事を感じるだけ其れが何となく癪に觸つてならない。人生其のものに同情も興味もなければ、つまり文學も何も成立つものぢやない。最後にはどうなるんだか、僕は自分の行末までが分らない。反抗ほど恐しい幸福の破壞者はあるまい。」 「然し、反抗は同時に進歩の源泉にもなる。自由と云ふ近世の福音《ふくいん》は反抗から生れたのだ。」  自分は流水に對して自然と同氣相求むる親愛を感じて互に其の宿所なぞを語り合つた。 十二月十五日[#「十二月十五日」は中見出し]  香風會の會合はその翌日の午飯《ひるめし》と共に散會する事となつた。會員の中の二三人は出掛けついでにもう一晩ゆつくり骨休めをしやうと云ふものもあり、同じ歸りの列車に乘つた連中も或者は大磯や茅《ち》ヶ|崎《さき》邊を通りがけに局長とか社長とかの別莊を訪問しやうとて下車したものも多かつた。自分も大船で乘換へて鎌倉の別莊に兩親を訪ねやうかとも思つたが、たつた一晩外泊したばかりなのに今朝方から何と云ふ譯もなく自分の書齋が戀しくなつて堪らない氣がしだした。歐米の各地で其の時々に買集め其の時々の感慨を托した書籍が美しい背皮と金文字とを竝べ輝《かゞやか》してゐる本棚や又床の間や壁に掛けた風景畫、古名畫の寫眞、書棚の上に置いた小さなタナグラの陶像。ランプの光で鏡のやうにひかるピアノの塗色《ぬりいろ》なぞを思ひ浮べると、其れ等のものが何《いづ》れも聲を出して自分の歸りを呼んで居るやうな氣がする。殊に通過ぎる列車の窓から、無殘な冬の日光に照された冬枯の畠や雜木の岡の景色を眺めて居ると、自分はピアノの上に置いた櫻草の柔い緑の葉と、室咲《むろざ》きにした優しい桃色の花や、縁側に釣した鸚鵡の眞白い羽の色なぞが一瞬間も早く見たくなつて、列車の進行をば寒さと暗さに苦しめられた昨夜の旅よりも更にもどかしく思つた。で、新橋へ下りると、前夜を語り明した宇田流水が何處かで晩餐を共にしたいと勸めたにも係らず自分は再會を約して、急いで車を命じた。  一番町の屋敷へ歸つて來ると、冬の日が丁度暮れ果てたところで、女中が桃色の花笠をつけた大きなランプと座敷の隅の石油ストウブに火をともした。 「林檎かオレンヂはなかつたか。」 「もう、みんなになりました。」 「さうか。ぢや急いで珈琲《コーヒー》を入れてくれ。非常に強くして。」と自分は命じた。實は昨夜《ゆうべ》から唯《た》つた一日一晩《いちにちひとばん》、温泉場の日本食に、今日午過ぎの列車の中でも、咽喉が乾いて來ると殆ど我慢の出來ぬ程匂のいゝ甘い果物と珈琲とが味ひたくて堪らなく思はれたのだ。自分は今や唯だの一日すらも、日本在來の飮食物には滿足する事が出來ぬ身體《からだ》になつたのかと思ふと、寧ろ淋しい悲愁を感ぜずには居られない。世界に類例のない「茶の湯」といふヱチケツトを作つた日本人、魚の腸《はらわた》の鹽漬を稱美する日本人とは、自分は如何に思想上のみではなく肉體の組織からしても異《ちが》つて了つたのであらう。パンと葡萄酒をばキリストの肉キリストの血と云ふ語《ことば》を思出せば其れ程深い信仰がなくても其處に云ひ難い神祕が生ずる。然し神主《かんぬし》が拍手《かしはで》を打つて祖先の祭典に捧げる御酒徳利《おみきどくり》は自分の眼にはもう全く無意義となつた………。  女中のお花が珈琲を持つて來た。自分は珈琲の中に強いアルコオル性のコニヤツクを注《そゝ》いで、立上《たちのぼ》る湯氣と共に其の薫りを深く吸ひ込んだ。一時の悲愁は忽ち消えて心がうつとりとなる。ランプの靜な光が、戀しくて堪らなかつた書齋のさまをいかにも意味深く照す。日本に歸つて以來、絶えず外から犯され亂されやうとする我が感想の唯一の避難所は、漫遊の紀念品に飾られた此の書齋ばかりである。自分は安樂椅子に片肱をついてぢつと身のまはりを眺めた。  机の上には快樂の女神バツカントの小さな石像が、牧場とも見る緑の敷布《しきふ》の上に眞白く立つて居る。直ぐ傍に置いたランプの笠の影になつて、髮を亂した顏は暗いけれど、兩手を上げて後頭部をさゝへた脇の下から兩乳《りやうちゝ》のふくらみが、燈《ともしび》の光を正面《まとも》に受けて、柔い線をば浮立つばかり鮮かにさせて居る。其の足元には積重ねた五六册の愛讀書が色さま/″\な柔革《なめしがは》の背の上に金文字で、詩人の詩集や音樂家の傳記の名をばぴか/\光らしてゐる。自分は片手を伸して、書物の小口の不揃ひになつたのや、上下《うへした》の倒さに置かれたのを揃へ直して、差覗くやうに身をかゞめて表題の文字を讀んだ。自分には此れ等の書物が殊に日本へ歸つて來てからは、生きた友達のやうに懷しく思はれる事がある。聲なき此れ等の書物によつて世界の新思想は、丁度牢獄の中に何處《いづこ》からとも知れず、漏《も》れ來《きた》る日光のやうに、若い吾々の頭に沁込んで來るのだ。振向くと床の間の壁には石版摺の彩色した大きな田園の風景畫が掛けてある。ノルマンデイあたりの麥畠を描いた佛蘭西の景色である。八月頃の午過ぎと思はれて見渡す限り廣がつた麥畠の麥は、驚く程強い光澤を含んだ黄色《くわうしよく》に彩られて、其の上には大空が一面思ふさま青く輝き、地平線の境には眞白な雲の列と緑色の白楊樹《はくやうじゆ》が二三本離れ離れに突立《つゝた》つて居るばかり。極めて單純な布局は唯だ夏の烈しい日光の印象を味《あぢは》はせるつもりと見えて、眺望が如何にも廣く色彩がいかにも強烈に感じられる。あゝ佛蘭西の夏はこの繪の通りだと、自分は深い追想に打たれてぢツと見詰めて居た。すると思ふともなく比較するのは、今日の午後《ひるすぎ》、箱根から歸り道に見た相模灘、酒匂川《さかはがは》、馬入川《ばにふがは》、箱根の連山、其の上に聳えた富士の山の景色であつた。自分は神戸に上陸して其の夜《よ》の汽車で東京に歸つて來たなり、今日《こんにち》まで一度も東京を離れた事がなかつたので、冬の日光に見た道中の景色は珍しくもあり、美しくもあつたけれど、其の小く狹苦しい事は、驚かれるよりも悲しい心地のするほどであつた。北米の原野に雜草を頂いたばかり木も石もない土地の起伏は、縮緬の皺を見るやうな刺々しい箱根の山脈よりどれほどのび/\して居たであらう。人もさう思へば自分も亦傳説から神聖視して居た富士の靈山は、丁度巴里の大道から其の端《はづ》れに望むマドレーンの寺院の三角形をなす屋根位にしか高く見えなかつた。自分は其の瞬間の感想を同じ車中の流水に吐露しやうと思つたのであるが、何となく語りにくい氣がして默つてゐた。日本人に生れたからには最《もう》一度あの富士山を子供の時のやうな心持で神々《かう/″\》しく打仰いで見たいと思ひながらそれが最う不可能になつてしまつたのかと思ふと情ない氣がしてならなかつたのである。  小間使の花が靜かに襖を明けて、いつも云付けてある通り、竹細工の食卓《テイブル》に白い布《きれ》を敷き其の上に洋食の皿、食器、葡萄酒、麺麭《パン》までを一ツ々々竝べて居る。其の物音に自分は沈思の中《うち》から振向いて眺めやると、机の上のランプの光が斜めに流れて、折《を》り屈《かゞ》んで働いて居る小間使花の横顏を照す。庇髮に赤いリボンをさし荒い矢絣の衣服《きもの》を着た影が長くピアノの上から後の壁に映つて居る。自分は斯《か》うして獨り淋しく食事する度談話の賑かな外國の食卓《テイブル》の事が思返されて、誰《た》れと相手選ばず話がして見たい。 「お花、お前、家《うち》は東京かね。」 「はい。」とお花は正しく答へた。 「いくつになる。」 「十九で御在ます。」 「日本では厄年と云ふんだね。」  お花は何故《なにゆゑ》か顏を眞赤にして俯向いたまゝ立去つた。自分は椅子を移して其の邊に捨てゝあつた新聞を拾取り、讀むでもなく目をそゝぎながら一人食事をしはじめたが、日本の女は氣の毒なものだと何がなしに思つた。その思ひの底には自分もお花のやうな女をいづれは妻にすべく家系を重ずる周圍の人から強ひられるのであらうと、他人に對するよりは寧ろ自身に對する憐憫《れんびん》の情を感じたのだ。お花はスウプの皿を片付けて直樣煮た肉の皿を持つて來て呉れる。襖の明《あ》け閉《た》てや前かゞまりの歩きつきが、斜に照らされるランプの光でいかにも物靜におとなしやかに服從と云ふ事より外には何にも知らない人形のやうに思はれた。勞働と賃銀の問題をば自然とよく解釋して、いつも自己の權利の主張を誤らない米國の召使の事なぞが、其れとなく比較されて、かうした日本の女はどうしてその一生涯を送るのだらうかと、不思議な心持もして、自分は遠慮なく尋ねて見た。 「お花、お前はいつ頃まで家《うち》に居るつもりなんだね。」  お花は何年でもお使ひ下さればお暇《ひま》の出るまで居たいと答へた。 「何年でもと云つて、お前も最うぢき結婚する年頃ぢやないか。」  お花は再び顏を赤くして俯向いてしまつた。 「獨身主義かね。」自分は笑ひかけたがお花の樣子が餘りに氣の毒に見えたので、「もう好《い》い片付けて呉れ。其れから直ぐ彼方《あつち》へ蒲團を敷いて置いて呉れ。」  一人になると自分はピアノの前に坐つて樂器の蓋を明けたけれど、何か知ら思ひが胸の底に蟠《わだかま》つてゐるやうで、大方|昨夜《ゆうべ》眠られなかつた箱根のつかれでもあらう。何を彈いて見たいのやら、彈くべき曲が指先にも頭にも浮んで來なかつた。  寂《しん》とした夜《よ》を遠く門外の往來をば、最初に義太夫の流しが「柳《やなぎ》」の合手《あひのて》を彈いて通ると、其の次には、何時頃から流行《はや》り出したとも知れぬ俗惡な流行唄《はやりうた》を歌つて行く男がある。暫く寂《しん》とすると今度は書生の詩吟が聞えて、寺の時の鐘が長く尾を引く中に、九段坂上の兵營の喇叭《らつぱ》が交つて響いた。  冬の夜《よ》の悲しい此れ等の物音人聲は、整頓した徳川時代の文明が破壞されて、新しい明治の文明の未だ起らざる混沌亂雜な現代の内容を目に見るやうにあり/\と思浮ばせる。日本歴史の誇とする元祿の文明が戰國時代の後百年ならずして起つたやうに、明治の時代はいつになつたら獨特の文明を發揮するのであらう。今から絶望するには早過《はやすぎ》るかも知れぬ。然し明治は已に半世紀に近い時間を過した。其れにも拘らず歐洲文明の完全な模倣すら爲し得ない。明治は政治教育美術凡ての方面に歐洲文明の外形ばかりを極めて粗惡にして國民に紹介したばかりである。自分は理由もなく深い吐息をついて再び座敷を見𢌞した。 十二月十六日[#「十二月十六日」は中見出し]  前日の疲れで九時近くまで寢て居た所を、自分は私立洋樂院の經營者黒川誠也氏の來訪に驚かされた。朝飯《あさはん》の珈琲《コーヒー》もそこ/\に啜り終つて書齋の襖をあけると、ぼんやり天井を眺めて卷煙草を遠慮なしに吹《ふか》して居た黒川は椅子から立ち、 「早朝から伺ひまして、先達《せんだつて》は又お手紙を頂戴いたしまして有難う御在いました。」 「まアお掛け下さい。」と自分は先に腰をかけ、長たらしく挨拶されるのが辛いので早速に、 「御用向は學校の事ですか。」 「はア。」とフロツクコオトを着た黒川は重々しい調子で、ぢゝむさい頬髯を撫でながら、「是非御盡力を願ひたいと思つて居ります。」 「あなたは官立の音樂學校においでぢや無かつたですか。」 「居りました。然し感ずる處がありまして今では斷然關係を斷つて居ります。どうも獨力で學校を起さんければ思ふやうに行《ゆ》かないと感じましてな。」 「さうでせう。學校に限らず何事でも政府に依頼して居ちや駄目です。して、あなたの學校はどう云ふ御方針です。兎に角實利的な現社會には音樂學校の經營なぞはなか/\困難でせう。」  すると黒川は自分の質問を待構へて居たと云ふ風で、聞いて居ても肩の張るやうな例の調子で終局《とめど》なく語り出した。 「いや一通りの苦心ぢやないです。他の女學校なぞとは違つて、第一必要な樂器の設置にも非常な費用を要するのです。どうしてもピアノ一臺が四五百圓、其れも少くて二三臺は無ければなりませんし。其れから教員ですが、これが又誠に適當な人物がないので實に困難するのです。信用するに足りるやうな人物は重に文部省の學校に奉職して居りますし、さもなければ給料の點が目下經營したばかりの私《わたくし》の學校ではちと支辨しかねるやうな譯で。と云つて、若い人の中《なか》には技藝も却つて優れて居るものもあるですが、私の學校は女の生徒が重なので、萬一の事があつては其れこそ取返しの付かん次第ですから、今では止むを得ず私《わたくし》と他《た》に女の助手を二名置きまして、何も彼もそれだけで切𢌞して居るのです。」  黒川は暫く息をついて、「さう云ふ次第ですから、あなたに一ツ御助力を願へれば私の學校の名譽ばかりではない。日本の音樂界の爲めにも實に喜ばしい事だと思ひます。」  自分は默つて頷付《うなづ》いてゐた。すると黒川は猶も疲れずに、「さう云ふ次第ですから御報酬の點は甚だどうも………ほんのお車代位しか差上げられんでせうが、日本の音樂界に對する博愛慈善のお心で、是非一ツ御教授を願ひたいと思つて居るのです。」  黒川は煙草を一吹《ひとふき》して其の煙の中から返事を促すらしく自分の顏を見詰める。 「報酬なぞはまア別問題として、一體どんな事を教授すればよいのです。音樂の理論ですか、其れとも技藝の方面ですか。」 「願へるなら兩方やつて頂きたいですな。何分にも………その適任者が見當らんので。」 「理論の方なら少しは本も讀みましたし、又古來の有名な管絃樂《サンフオニイ》や歌劇《オペラ》なぞも實例だけは聽いて居ましたから、少しは纏まつたお話が出來るかと思ふですが、技藝の方なら全く私は不適任ですよ。まだ人に教へる程とても上達して居ないんですから。」 「いや、其樣《そんな》事は厶《ござ》いません。先達《せんだつて》も青年會館でお彈きになつたシヨウパンを拜聽したですが實に驚嘆しました。私《わたくし》の學校の生徒なぞには勿體ない位の御手腕です。」  自分は又默つた。相手は着々歩を進めて、 「あなたのお名前を掲示したゞけでも何《ど》れ程學校の信用を強めるか知れないです。子爵と云ふお名前だけでも………。」  自分は覺えず聲を強めて遮つた。「黒川さん。私はまだ子爵ぢやない。父がまだ生きて居《を》る。」 「それでは。」と黒川は驚くほど惡びれず、「それでは新歸朝と云ふお名前だけでも………それでも非常な信用になるです。實は二三日|中《うち》に生徒募集の廣告を新聞に出しますから、是非お名前を拜借したいので、如何でせう、御承諾下さいますまいか。」 「さうですね。もう暫く考へさせて頂きたい。いづれ私の方から御返事しますから。」 「實は教授と云ふお名前だけで、若し御面倒のやうでしたら、實地の御教授は別の事として、唯だお名前だけ廣告に出して置きたいのです。」  然し自分は飽くまで辭退した。單に黒川の音樂學校ばかりではなく、日本人の經營する事業には何に限らず關係したくないと云ふ考へが談話《はなし》して居る最中に動し難く定められた。黒川は「日本帝國音樂界の爲め」と云ふやうな誇大な壯語を繰返して、椅子を立ち際には、室内の畫額《ゑがく》やピアノや石像なぞを義務的に口輕く、さも珍らし氣に賞讃して歸つた。自分は玄關まで送出して門外に消去る來訪者の後姿を見送つてしまふと、胸一杯に滿渡つた嫌惡の情が、覺えず玄關前の砂利の上に唾を吐かせた。其の物音に驚いて二三羽の雀が地の上から植込《うゑごみ》の蔭に飛び立つ。今日も又柔い冬の日光が穩かに輝いて居る。木の葉は動かない。植込の向うの井戸端で他愛もなく下女供の笑ひ騷ぐ聲が聞える。自分は身を支へる元氣も失せたやうな絶望を感じて、部屋に戻るが否やどつさりピアノの前に腰を落した。左から右へと眞白な鍵《クレフ》の上に二三度も繰返して指先を走《はしら》したが、心は上の空で、樂器の響は耳に入らず、來訪者に對する欝憤の情がます/\烈しく煮返《にえかへ》つて來る。自分の心には、黒川誠也は單純なる黒川一個人ではなく、明治的人物の代表者として映じたのだ。彼《か》の洋樂院經營は音樂教育の普及を名として私利を營むに過ぎない。自分の父が嘗て世の所謂《いはゆる》伴食大臣《ばんしよくだいじん》となつて爵位を得て居るのを幸ひ、それをば賣藥的廣告の道具に使はうと思つて居る。眞率誠實《しんそつせいじつ》は全く明治時代から逃去つて仕舞つた。眞率誠實は明治と調和しないものらしく思はれる。歐米の社會は或點に於ては日本よりも甚しく墮落して居るのは明であるが、猶動し難いトラヂシオンがあつて、安心して信頼するに足るべき點が少くない。日本は一般の公共事業から些細な商品に至るまで、羊頭をかかげて狗肉《くにく》を賣るものではないかとの不安を感じさせないものは殆ど無い。この不安に對する彌縫策《びぼうさく》として日本人の慣用する手段は改良々々と呼ぶ空虚な聲ばかりである。政府は嘗て拓殖務省を設けるが早いか忽ちにお廢止となし、大學の名稱を創立以來|幾度《いくたび》となく變更させ、郵便切手の色模樣を三年毎に變化させる。新聞紙や雜誌は毎年の正月毎に大進歩大刷新を呼號して、插繪を入れたり廢したり、振假名を付けたり取つたりして居《を》る。市街の道路はいつも/\砂利を敷いては掘り返される。日本人は何故に今日まで皮膚と眼の色の改革を叫ばなかつたであらう。 一月一日[#「一月一日」は中見出し]  年は新しくなつたが、單調な自分の生涯には何等の新しい生活の興味をも呼び起しては呉れない。一時病氣危篤であつた自分の父は今もつて東京の本邸に居ない事を、世間の人も既に知つて居ると見えて年賀の名刺をくばりに來るものも至つて少い。表門の潜戸《くゞりど》ばかりを開《あ》けた家中は空屋敷《あきやしき》のやうに寂《しん》として居る。自分は日頃から腹案して居る歌劇《オペラ》脚本の第一頁に筆を下して見た。其れは「隅田川」と題して梅若丸の事蹟を仕組まうとするので、水の流れ、落葉《おちば》の響、蘆のそよぐ音なぞに秋の黄昏の寂寞悲哀を示す短い序曲《ウウベルチユール》を聞かせた後《のち》は、伊太利《イタリー》近代の歌劇作家 Mascagni の Cavalleria Rusticana にならつて、幕を引上げない以前に、濁つた流れに終日《ひねもす》絲を垂れて居ても魚《うを》はつれないと云ふ貧しい漁夫の歌を獨唱させるつもりである。然し自分には書き馴れない韻文の事で、歌ふべきメロデイだけは既に頭の中に綴られて居ながら、午前中にたつた二三行しか書き得なかつた。其れでも自分は新しい年の朝《あした》に新しい仕事の幾分かに着手し得たと云ふ事だけで、何よりも嬉しく何よりも幸福であつた。 一月二日[#「一月二日」は中見出し]  去年箱根で胸中を談じた宇田流水が長い手紙を寄越した。恭賀新年の語を聞く毎に堪へざる寂寞を感じ候と云ふ書出しで、年の進み改まる毎に明治の生活は淺薄俗惡になつて行く。年の進み改まる毎に彼は其の避難所なる江戸時代に向つて退隱して行くと云ふやうな文字《もんじ》が痛切に讀まれた。 一月十日[#「一月十日」は中見出し]  伊太利大使夫人の應接日である。歸朝の折同船して來た同國の書記官ガルビアニ氏の紹介で、自分も二三度「午後五時《サンクアール》」の茶會に呼ばれた事がある。西洋人の眼には定めし、自分も立派な家柄の貴族に見えたのであらう。成程自分の父は維新の際に功勞があつたとかで早く男爵に叙せられ、其の後は世の所謂伴食大臣になつて居た爲めに、當時の内閣大臣一同の叙爵につれて子爵に昇つたのは事實である。然し自分は西洋人の口から若き子爵閣下《ヴヰコント》よなぞと呼びかけられると、其度に何と云ふ理由もなく冷汗の出るやうな氣がしてならない。貴族などゝ云つても日本人はあなたの國の靴師よりも貧乏な位だ。大臣は政府から特別の手當を貰はなければ馬車にも乘れないのだと、正直に種を割つて説明してやりたい位、心の中《うち》に國家全體の假面に對して一種の痛苦を感ずる事がある。同時に又自分は祖國の社會状態の亂雜不整頓を目撃しつゝ、外國人から日本の時事問題なぞを質問されると何とも返事の出來ない迷惑を感じるので、敢て其れ等が直接の原因と云ふでもないが、自分は二月《ふたつき》三月《みつき》とたつ内に折角紹介された大使館へも自然と足を入れぬやうになつて居たのである。  二三日前ガルビアニ氏は佛蘭西文の手紙を寄越して、漫遊のある音樂者が大使館でヴイオロンの演奏をする旨を傳へて來た。自分も音樂を專門に研究する身の直に返書を認めて其の日の來るのを待つて居た。かう云ふ事には何時も無頓着な日本の新聞紙はまだ何等の報道をもしないらしい。  自分はフロツクコオトに久振りのシルクハツトを冠り、車を霞ヶ關に走《はしら》した。平日は晴れた日の午過《ひるすぎ》にも門内に敷詰めた小砂利の上には馬蹄や車輪の跡もなく鳥の聲のみ靜に囀る大使館の玄關前には、此の日已に二三臺の馬車の待つてゐるのを見た。呼鈴《よびりん》の音《ね》と共に立出《たちいづ》る日本人の給仕《ヴワレエ》に案内されて直樣廣い客間に這入ると、高い天井、眞直な壁、平な敷物、重々しく垂下る窓の窓掛に、室内一體の沈靜した明い空氣の感覺が、日本の邸宅では決して味《あぢは》はれない靜肅整頓の快感を呼起す。この道具立《デコオル》に取卷かれて、華美《はでやか》な帽子を冠り繻子や天鵞絨《びろうど》の裾を引く外國の婦人が、各自異る自然の姿態《ポオズ》を作つて、或は椅子に或は長椅子に席を占めて居ると、一樣に眞黒な服裝の男子は隨意に彼方此方《あなたこなた》に直立して、何れも純化された技巧的の中音で徐《おもむろ》に雜談して居る。其の人聲の中には少しの遠慮もない甲高《かんだか》な女の笑聲《わらひごゑ》も聞えて、いかにも自由に、樂しく、心置きなく見えながら、其れで居て些かの喧《かしま》しい亂雜をも來《きた》さない。自分はいつも微妙な調和の美を保つ外國人の會合に赴くと、公衆と云ふ共同生活は個人的私生涯から離れた技巧的生活の舞臺面である事が能く了解されて、自然と自分も、かゝる舞臺に出る以上には、少くとも人に不快を起させない役柄を勤める俳優であるやうな心持になる。  主人の大使と大使夫人は來客の婦人連に對する應接に急《いそが》しい最中、自分は傍に居たフランスの海軍士官と最初に會話を交へた。其處へ今日《こんにち》の席上では一番懇意な書記官のガルビアニ氏が加はる。やがて大使の夫人に挨拶の機會を待つて自分は同時に二三の婦人と話しかけたが、其の時には已に再會の握手をして席を立つものもあつた。其の人達を客間の戸口まで主人の大使が送り出して居た時に、自分は意外にも裾模樣の三枚重《さんまいがさね》を着た令孃らしい日本人の婦人が、誰《たれ》の眼にも米國人と知られる髯のない老人と其の妻らしい婦人と連立つて這入つて來るのを見た。令孃は少しも惡びれる樣子もなく而も自由な佛蘭西語で大使の夫人と挨拶する。自分は猶更驚いて思はず其の顏を打目戍《うちまも》つたが、折好くも身近に立つて居た其の場の機會で、自分は大使の夫人から、「此の方もあなたと同じやうに半分|歐羅巴人《ヨオロツパじん》になつた方です。」と紹介された。  手紙に書いてあつた來遊の音樂者が、此時來客との應接を辭して室《しつ》の片隅に据ゑられたピヤノの上からヴイオロンを取上げた。伴奏のピアノに着いたのはガルビアニ氏自身で、囁く如き短い前奏《まへびき》につゞいて、ヴイオロンは直樣泉の流るゝ如くに響き出す。 「何と云ふ曲で御在ます。」聞き澄しながら令孃は窃《そつ》と自分の耳に囁いた。自分は、 「シユマンのユウモレスク。」  默つて輕く禮をした後、令孃はぱつちりした眼を充分に睜《みは》つて遠い處の見えない物の影を見詰めるやうに瞬きもせぬ。音樂に惱ませられる若い女の眼の輝きほど美しいものはない。自分は歸朝して以來初めて日本の婦人に對して外國の女詩人の畫像なぞに對すると同樣の感動を覺えた。つまり外形容貌の美に打《うた》れると共に、直ちに何の理由もなく其の人の思想知識、凡ての人格に對して深い敬慕の念に迫《せ》められるのである。自分は音樂がすむと其れに對する賞讃の會話、其の他の機會を逃さず、何《なに》や彼《か》やと心の行くかぎり令孃と話をして見た。で、自分は先方に對して自己の地位思想の幾分を傳へ得たと同時に、令孃の身分は現代富豪の一二に數へられる某《なにがし》銀行の頭取の長女で、幼《ちひさ》い時分から天主教の女學校で教育された事をも知り得た。其れのみならず自分はやがて、來賓の一同が大使館を辭し去る折には、今日《こんにち》令孃と同道して來た米國人フオオト氏の邸宅で、此の次の火曜日に再び面會しやうと云ふ約束までした。 一月十五日[#「一月十五日」は中見出し]  男と女とが偶然に出會つて、其の後《ご》男の心の中からその女の事が不思議と消え去らずに居る。此の精神の状態を戀の第一歩とするならば、自分は已にかの令孃を戀して居たと云はねばならない。自分は實際待ち焦れるやうにして今日と云ふ約束の火曜日を待つて、築地なる米人フオオト氏の邸宅に赴いた。フオオト氏夫妻は五年程も日本に居留して佛像の研究にまださして老いもせぬ半生を樂しんで居る。其處へかの令孃は天主教の佛蘭西女學校を出て後《のち》英語の會話を學びたい目的で半年ほども寄寓して居るとの事である。自分は家《うち》へ歸つて來てからも他愛なく其の日の事を思返したが、同時にフオオト氏夫人の弟だと云ふ二十三四の若い青年がまるで兄妹のやうに親しく令孃と話して居る樣子をば、殆ど何の理由もなしに羨しく思つた。自分は戀しないまでも、毎日同じ食事のテイブルでかの青年の樣に令孃と會話して居たい。現在の自分の生涯は餘りに退屈である。餘りに淋しさを感じ過る。あまりに周圍の空氣が不快でならない。あゝ此れに對する慰藉として自分は今、日本中にかの令孃より外には何物をも見出し得ないやうな氣がする。語學の練習法としてお互の文通は英吉利文《イギリスぶん》か佛蘭西文にのみ限ると約束したのを幸ひに、自分は明日と云はず其の夜《よ》早速に手紙を認めた。春子と云ふ令孃の名までを、Mademoiselle Printemps と翻譯して、 [#ここから2字下げ] [#ここから1段階小さな文字] 日本に歸りて以來小生の最も幸福なりし一日は貴孃と語り興じたる今日《こんにち》の午後に有之《これあり》候。最初|伊太利亞大使館《イタリヤたいしくわん》にてお目にかゝりし時、貴孃の如くに半ば歐洲化したる人として小生を紹介されし同國大使令夫人の言は如何にも嬉しく我が心に響き申候。小生は小生と同じき人種中に貴孃|一人《いちにん》を見出し得たる事を以て小生が生涯の最大幸福、最大光榮と信じ候。今日《こんにち》貴孃の語られたる談片中には小生の永久忘れ得ざる處のもの多く御座候。貴孃は何が故とも知らざれど春の花と云へば、我等の祖先が讃美したる朝日に匂ふ櫻の花よりも、外國の詩集にてのみ知るリラの薫《かをり》をなつかしく思ひ、鳥の囀りと云へば梅の木に鳴く鶯よりも、南歐の五月の夜《よ》に聞くと云はるゝ駒鳥にあこがるゝと申され候お言葉は、小生に取りて如何に意味深く、如何に悲しく聞え候か――― [#ここで小さな文字終わり] [#ここで字下げ終わり]  自分は此の邊で長たらしく日本の樹木と西洋の樹木の姿を論じ出した。丈《せ》が低くて枝が棘々《とげ/\》して幹が捩曲《ねぢく》れて居る日本の樹木よりも、セエヌの河畔に立つ白楊樹は Corot の名畫にも描《ゑが》かれた通り如何に優美温和に見えるであらう。日本人が昔から不朽なる光榮の象徴とした「松の老木《おいき》」よりも、唯だ一語 Linden(菩提樹)と云ふ獨逸語は、何程《どれほど》無限の感想を呼起すかと云ふやうな事から、古來からの東洋思想の壓迫に堪へ得なかつた吾々には、その歴史傳説などは殆んど權威を失つて仕舞つたやうに云ひなした。 [#ここから2字下げ] [#ここから1段階小さな文字] ………武藏坊辨慶とは如何なる英雄なりしか。木曾義仲とは如何なる將軍なりしか。吾々は其等自國の歴史的人物に對して、全く其の字義通りに唯だ「隔世」の感あるのみに御座候。今日の吾々が愛國武勇の熱情に感動するは、餘りに傳説的に、餘りに教訓的に、神聖視せられ、理想化せられ、偶像視せられたる東洋歴史中の人物の感化にあらず、彼等に比較すれば甚だ卑俗に、甚だ女々しく、要するに甚だ人間らしきワシントンやユウゴウの傳記に打《うた》れたる結果に御座候。 [#ここで小さな文字終わり] [#ここで字下げ終わり]  最後に再び令孃に對する讃辭を數限りなく書き連ねて、自分が及ばずながら將來の國民音樂を起さうとする過渡時代の犧牲にならうと云ふ其の覺悟を眞底《しんそこ》から了解し同情して呉れる日本人は、誤れる方向に指導せられやうとして居る現代に於て、令孃唯|一人《ひとり》あるのみであらう。其で自分は心から滿足して居ると云ふ事を以て全文の結尾となし、猶最後には貴孃の手に接吻すとまで書き添へた。 一月十七日[#「一月十七日」は中見出し]  令孃春子からの返書を得た。實は一昨夜手紙を書終つた時には、一瞬間も早く返書に接したい爲めに讀返す暇《ひま》さへなく其れなり郵送して仕舞つたが、後になつて考へて見ると、一時の感激に任して、婦人に送る最初の手紙としては餘りに、「わが愛する君よ」と云ふやうな文字が多過ぎたやうで、少からず不安の情に苦しめられた。然し苦しめられただけに自分は封筒の上書きだけ日本字で書かれた令孃の返書に接した瞬間の喜びは、全く言葉に現せない位であつた。自分は洋劇の舞臺で見る戀人が愛するものゝたよりを讀む時のやうに室《へや》の中央《まんなか》に立つたまゝ二折《ふたつを》りにした小い紙片《かみきれ》を兩手に持つて、滿腔の感激を出來る限り優しい作り聲の中《うち》に沈壓させて、Tsukiji《ツキジ》, le《ル》 16《セヱズ》 janvier《ジヤンビヱー》 ――― Cher《シヱール》 Monsieur《ムツシウ》 の日付まで落さずに朗讀した。 [#ここから2字下げ] [#ここから1段階小さな文字] うるはしき佛蘭西語もて綴られたるお手紙はいたくわが心を動し候。拙きわが文《ふみ》御覽に入れ候は誠にお恥しき次第に御座候。されど我が身には萬葉ぶりの大和言葉より使ひ馴れぬ外國語が何となくわが心のさまを僞らず飾らず又意味深く云ひ現し呉るゝやう思はれ候。もし語格上の誤りも候はゞ御教示のほどお願ひ申上候。まこと貴兄の云はるゝ通りわれ等は哀むべき思想上の追放者に御座候。言語文字まで自國のものより外國のものを愛すると云ふ國民は世界中|何處《いづこ》にも無かるべくと存じ候。 [#ここで小さな文字終わり] [#ここで字下げ終わり]  令孃はフオオト氏夫妻が何故にかくまで日本の骨董品を愛玩するか其の理由が分らない。我々は西洋にあこがれる。西洋人は日本をば此の上もない美しい夢の國だと獨斷して居る。人間は自分より遠《とほざ》かつたものを愛する自然の性情の爲す處であらうかと論じて、 [#ここから2字下げ] [#ここから1段階小さな文字] わが身は昔の人の云囃《いひはや》せし日本の三景、松島、嚴島、天の橋立を見ずとも、左程殘念に存ぜず候へども、人と生れし上は、いかにもして一度《ひとたび》は折を得て、アルプスの山と地中海の水の色とを見たく存じ候。それ等のお話うけたまはるだけにても、此上なき樂しみに御座候へば、いつにても午後《ひるすぎ》に御出で下され度く、フオオト氏も日本の事情につきて、いろ/\お伺ひ致し度き事も有之候由。是非にもお出でのほどお願ひ申上候。 [#ここで小さな文字終わり] [#ここで字下げ終わり]  自分は其の日の午後再び令孃を訪問した。 一月二十日[#「一月二十日」は中見出し]  Richard Strauss の新作オペラ Elektra の樂譜と、彼の地に居た時から讀まうと思つてまだ讀まずに居た Bazaillas の著述「音樂沒我論」其の他二三の書物を註文しに、丸善書店に出掛けた。その歸り道日本橋通りは電柱の行列と道普請と兩側の粗惡な建築物とで豫想外の醜惡な光景に、自分は呆然として却て物珍らしく彼方此方《かなたこなた》を眺めながら歩いて行くと偶然にも向うから來掛る宇田流水に出會つた。流水は自分の顏を見ると、胸一杯に蟠《わだかま》つた不快の情を訴ふべき好《い》い相手を見出したと云ふ風で、 「世界中何處へ行つても此樣《こんな》往來は見られますまい。」 「さすがに東洋第一の大都會です。」と自分も口輕く冷笑《あざわら》つた。  流水は築地の自宅《うち》へ歸る處だからと云つて自分と連立つて一緒に話しながら歩く。取廣げられた往來の石塊《いしころ》や瓦の破片《かけら》に躓いたり、水溜りに驚いたり、捨てゝある鋼線《はりがね》に足を取られたり、亂雜に歩いて來る通行人を避《よ》けそくなつたりする度び毎に、自分は歐米の市街の美麗を説くと、流水は文明化されなかつた江戸時代の整頓に對する追慕の聲を放つた。最後には二人一緒に、現代の日本人は何と思つて居るのだらう。これで立派な世界の一等國になつたつもりで、得意になつて居るのか知ら、改良でも進歩でも建設でもない、明治は破壞だ。舊態の美を破壞して一夜作りの亂雜粗惡を以て此れに代へただけの事だ。此れ位の事なら電車にまで通行税をかけて人民の膏血《かうけつ》を絞らないでもよささうなものだと云つた。  然し事實自分等は新時代の市街に對して嫌惡ばかりでなく、同時に多大なる興味をも感ずるのである。新時代の商店は其の正面だけどうやら體裁をつくろつてゐるが、歩いて行く中直ぐ其の側面からは壁の薄さと石材の粗惡がまざ/\しく見透されるので、丁度化け損なつた狐の繪を見るやう。覺えず自分等をして、「明治は誠に無邪氣な滑稽な欺僞《さぎ》時代だ。」と一笑せしめた。此の興味に引かれて銀座通を新橋邊までも歩いて行かうと思つたが、京橋の河岸通から吹いて來る折からの風と共に目も開《あ》けない砂煙《すなけむり》を喰《くら》つて、自分等二人は休むともなく其の邊のビイヤホオルに這入つた。客は一人も居ない。命じたビイル二杯を眠むさうな顏した女中が恐しく手間取つた後やう/\に草履を引摺りながら持つて來る。二人とも默つて、しみだらけの鼠色になつたテイブルクロオスに肱をついて、ペンキの剥げた窓の曇つた硝子戸から、電車の通る毎に地面一體がぶる/\震へる街の混雜を見下して居た。流水は何か深く決心した處があるやうに自分の顏を見て、 「日本人で今日の時代に心底《しんそこ》から滿足して居るものがあるでせうか。」と質問した。 「それア有るでせう。吾々が堪へられない程不快に感ずるだけ、此の機會に乘じやうと急《あせ》り狂つて居るものが無くてはならない筈だ。社會の現象、時代の傾向は國民大多數の心理を示すものだから、つまり斯《か》う云ふ風な表面の體裁ばかり扮《つくろ》つて居る市街の外觀は、一個人の生涯とすれば恐しい道徳の廢頽だと思はなければならない。」 「君は明治の國民として一生涯をどう云ふ風に送つて行くつもりです。」 「極端に云へばもう疾《と》うに憤死して居なければならない。それが何《なん》の彼《か》のと不快ながらに斯うして生きて居られる處を見ると自分も知らず/\惡時代に生れた感化を受けて居るのだ。僕は強ひても然《さ》う云ふ事は考へまいとして居る。Prosper《プロスペル》 〔Me'rime'e〕《メリメヱ》 と云ふ文學者は決して人道其のものを厭《い》み輕んずるのではないが、然し自分だけは苦しみ惱む人から隔離して居られるやうに富裕でありたいと云つたし、Ibsen《イブセン》 の劇の Hedda はあらゆる醜いものを我より遠ざけよ。と云つて居る。一般に對して絶望した一個人の取るべき道は『超然』と云ふ事のみだ。高く淋しい冷かな貴族的態度を取るより外に方法はあるまい。」 「伯夷叔齊《はくいしゆくせい》を夢みるのですな。」 「さうです。國家と云ふ團體は國民多數の赴く儘にして置くより仕樣がない。法律は寛大なものだから、行爲に現はれない一個人の思想については特別に干渉はしない。君は現代を離れて過去の文明に遊ぶし、僕は海を隔てた他國の藝術にあこがれて居れば其れでいゝぢやないか。」  食卓《テヱブル》を二三度續けさまに音高く叩いて女中を呼ぶと、暫くしてから階下《した》の方で「お二階のお客樣だよ。」と云ふ亭主らしい聲がして、漸くの事で女中が來た。一圓紙幣を渡して勘定して貰ふと、これが又驚くほど手間取つて剩錢《つりせん》を持つて來た。冬の日は早くも暮れて見渡す街の上には電車の柱につけた小さい電燈やら、道端の瓦斯燈《ガスとう》やらさま/″\な燈火が高く低く入亂れて引續くのと、鋭い冬の星が寒むさうな光を放つ夜《よる》の空に不揃ひな屋根の影、恐しく太い電信柱の影が突立つて居るのとで、差詰めブウルワアルとも云ふべき都會の大道が、自分の眼には倉庫の暗い蔭に荷物汽車が亂雜に置いてある停車場《ガアル》の裏手のやうに見えた。然し流水は京橋を渡りかけた時、荷船の灯が見える靜な堀割の水を眺めて、 「僕は堀割の景色が大好《だいすき》だ、東京も此れあるが爲めにやつと市街の美を保つて居る。堀割ばかりではない。要するに東京の市街が今日一國の首府らしい美麗と威嚴を保つて居るところは、宮城を初めとして皆江戸の人の建設したものばかりだ。僕は時々、眞正の野蠻と云ふ事は明治のやうな時代を云ふのぢや無いかと思ふ。西洋でも電氣や汽車を發明した近代と云ふものは皆明治のやうなものか知ら。君はどう感じて來られた。」 「近代の社會状態と都市の美麗と云ふ事とは、どうしても一致しにくい處がある。然し僕の見た處西洋の社會と云ふ者は何處から何處まで悉く近代的ではない。近代的がどんな事をしても冒す事の出來ない部分が如何なるものにもチヤンと殘つて居る。つまり西洋と云ふ處は非常に昔臭い國だ。歴史臭い國だ。巴里《パリー》は新しく地下鐵道や空中飛行船を作つたばかりでない。〔Sacre' Coe&ur〕 のやうな大寺院をも造り上げやうとして居る。一方で製造所を作れば同時に一方では千載に殘すべき實利以外の永遠な事業を企てゝゐる。紐育《ニユウヨオク》の市中でも竣工無期限と云ふ寺院《カテドラル》の足場がコロンビヤ大學の傍に立つて居る位だ。金がないと云ふ事を日本人は唯一の辯解にするけれども、よし金があつたにした處で、日本人には、到底《とても》馬鹿々々しくつて、そんな實利以外の考へは起りはしまい。」  とう/\尾張町まで歩いて、銀座通を左右に流水と別れ、自分は電車の來るのを待つた。電車はなか/\來ない。路傍《みちばた》に待つてゐる多數の男女は夜の寒さに身を顫《ふるは》しながら、動いて來る車の灯を見る事もやと眞直な往來のかなたを伸び上るやうにして眺めてゐる。されば已に乘客を滿載した車が四辻の線路の上を、がた/\搖れながら進んで來ると、待ちあぐんだ群集は乘りきれない事をよく知つてゐるにも係らず無理にも乘らうと爭ふ。まるで絶海の孤島に流された囚人がこの船一艘|逃《のが》しては一生涯本國へ歸る望みがないと必死に先を爭ふと同樣な有樣である。自分は程なく人のすいた電車の來る事と別に驚きもせず、取殘された人達と猶も路傍《みちばた》に立つて居たが、いや今度こそは眞個《ほんとう》に來る樣子はない。「停電だ。」と云ふ絶望の聲が人々の口から寒い風の中に傳へられた。成程來たもの勝負に先を爭ふのも無理はないと自分は初めて感じた。信用の出來ない不完全な凡ての設備に馴らされた日本人は自然と其に對する方法をよく會得《ゑとく》して居るのだ。自分は人力車を雇はうかとも思つたが、又觀察の興味を思返して、小半時間も待つた後遂に一輛の電車に乘り得た。壯士見たやうな風采の醉《ゑ》つた男が一人でぶつ/\小言を云つてゐる。其の足元には「へど」が吐き捨てゝある。其れでも乘客は平然として中には心地よく居眠つてゐるものさへあつた。日比谷の乘換場《のりかへば》で車掌が田舍ものゝ老婆を捕へて、切符に指定された場所以外で乘換する事は出來ないと云立てゝ、無殘に規則を勵行して居たが、半藏門へ來ると二重𢌞しを着た薄髯の紳士が、三宅坂で下りべき處を下りそこなつたから、乘戻しの切符を出せと云ふ事から、車掌と爭論を始め、遂に其の姓名を手帳に書き留めて去つた。自分は日本人の性情中には好んで人の缺點を指摘しやうとする恐しい特徴のある事を發見したやうに思つた。正義を名として人の私行のみを訐《あば》く日本の新聞紙の態度は社會道徳の墮落した結果からではなくて、必然さう云ふ風になるべき一般の國民性に基《もとゐ》したものに相違ない………つい此樣《こんな》事を考へて自分は危く五番町の停留場を通過ぎやうとして急いで電車を下りた。 [#1字下げ][#中見出し]一月二十五日[#中見出し終わり]  まだ充分に彫琢《てうたく》せねばならないのであるが、兎に角腹案の樂劇「すみだ川」の歌謠だけを書き終つた。朗讀して聞かした上令孃春子の意見も聞いて見たいと、さう云ふ意味の手紙を書きかけた處へ、思ひがけず築地のフオオト夫人からの手紙が屆いた。寢耳に水の何と云ふ驚くべき事件であらう。春子はフオオト夫人の弟なる若いジエヱムスと相愛《あひあい》してゐて遂に婚約の意志を發表した。其の爲め春子の兩親はフオオト夫人の監督の行き屆かない事を攻めて春子を早速實家に引取つてしまつた。其の場の所置が米國婦人の心には非常に不愉快に感じられたので一家は遠からず愛する日本を去りたいとの文言《もんごん》である。自分は夢中で車を走らした。フオオト夫人は事情を語る―――夫人は單に弟の依頼を受けて姉と云ふ義務と責任を帶びて、春子の兩親に春子が將來外國人と結婚する事を許される意志があるか否かを質問したばかりである。其れをば春子の兩親は已にジエヱムスと春子の間に何等か卑しい關係の結ばれてゐたやうに、奪ふが如く其の娘を連れて去つた。夫人は日本人の性情の或る部分をどうしても解釋する事が出來ないと云ふ。  自分は出來る事なら日本を辯護したいと思つた。少くとも來遊の外人をして不快な印象を以て日本を去らしめたくないと思つた。然し自分は自分の感情を欺く道がない。日本と云ふ處は嘗て高等學校の學生中に兄と妹との並んで散歩したものを曲解して此に鐵拳制裁を加へた程の野蠻國である。春子の兩親も日本の國民たる以上には戀愛の純美を肉慾以外に認めることの出來なかつたのは蓋《けだ》し當然のことであらう。西藏《チベツト》では死人の肉を鳥に喰はせるのが禮式だと云ふし、南洋のある島では老父母を殺して其の肉を喰ふのが子たるものの義務になつて居るさうだ。人種には人種特別の習慣があるから致し方がない。  自分は然《さ》う云ふ結論を殘してフオオト夫人と別れた。自分は車の道すがら春子の事を思つた。ジエヱムスとの關係を想像した。然し最初感じたやうなジエヱムスに對する羨望の情は、自分ながら怪しむほど消滅してしまつて、今では二人の絶望に對する同情の涙に迫《せ》められるばかりである。自分が今日まで春子に對して感じて居た熱情は、單に個人的幸福を夢みる兩性間の戀愛とは全く別樣のものである事を初めて悟つた。春子は佛蘭西語と英吉利語《イギリスご》とを語り得る異樣なる變り花として自分の眼を射たのだ。自分は春子が外國人を其の戀人に撰んだと云ふ事實を、唯だ/\嬉しく思ふ。頼もしく思ふ。日本にも然《さ》う云ふ女性が現れて來たかと云ふ事が、何物にも換へがたい勝利の念を起させる。あゝ春子は遂に日本に滿足しなかつたのだ。虐げられ辱しめられたる日本の妻たり母たる事を喜ばなかつたのだ。自分は全力をあげて此の結婚を成立せしめたいと思つた。それについてはどうかして今一度春子に出會つて、春子が飽くまで其の思ふ處を斷行する決心があるか否かを確めて見たい。自分は何《ど》れほど熱心に春子の希望を讃美して居るかを知らしめたいと思つた。然し今日《こんにち》では春子に面會するには其の實家をたづねるより外に道がない。其の子弟に對する猜疑と臆斷に滿たされた日本の家庭に春子を訪問するのは此の場合どうであらうかと躊躇もされる。自分は止むを得ない處から、一先づ手紙を送つて見る事にした。 一月三十日[#「一月三十日」は中見出し]  五日間は空しく過ぎた。春子からの返書は遂に來ない。どうしたのであらう。兩親か監督者のやうなものが自分の手紙を遮つた爲めではないかと思ふと、自分はもう腹の中が煮返《にえかへ》るやうだ。日本の青年は信書の自由すら與へられないのであらうか。封建時代の專制主義を取るなら取るで其も決して惡くはない。自分は何も近代の個人主義のみを謳歌するのではない。自分は唯だ日本人が外國人に對してはいやに體裁よく近代的文明を見せびらかして、例へば日露戰爭の當時世界の同情を引く爲めには外國に向つて妙に取り立てゝ日本の軍人中にもクリスト信者の多い事を申譯らしく廣告しながら外に見えない處では依然として舊弊を固持しやうとして居る。此《かく》の如き僞善的態度を自分は憎むのだ。若し已むを得ない方便として假面を冠る必要があるなら、もう少し上手に冠つて貰ひたい。直ぐに奧の見えすく山師の玄關は閉口《へいこう》である。野蠻なら野蠻、文明なら文明と、何れにとも心持よく片をつけて貰ひたいのだ。  勉強しやうと思つても精神が昂奮してゐて靜に坐つて居る事が出來ない。曇つた冬の日は薄暗く、風はないと見えて、障子や戸をゆする例の不愉快な音は幸ひに絶えてゐるが、庭先の樹に集る鴉の聲が殆ど人を狂氣させる程に騷しく、垣根を越した隣の家《うち》では―――多分此頃に引越して來たものであらう―――以前にはすこしも聞えなかつた子供の泣聲が又しても火のつく樣に叫び立てる。其れをば泣き止ませる爲めか、又は叱りつける爲めか、何にしても鋭い女親の聲、ぴしやりと手で打つ音。其の度び度びに子供の泣聲は一段激しく高まる。自分はとても居たゝまらず往來へ飛出した。と云つて散歩すべき處もない。堀端《ほりばた》を眞直に歩いて行けば、あの不愉快な銅像の立つてゐる九段坂へ出なければならぬと氣がついて、其れを避けるために、自分は急に半藏門の方へ踵《きびす》を𢌞《めぐら》した。何の氣なしに電車に乘つてから築地に居《を》る宇田流水の事を思出して、在宅か否かは知らぬが兎に角無聊を慰める爲めに彼を訪問した。  すると流水は丁度何處へか出掛ける處と見えて、狹い借家の潜門《くゞりもん》で、「珍らしいぢやないですか。別に用事ぢやない。まア上つて下さい。」 「散歩しませう。何方《どちら》の方へお出でゝす。」  流水は少時《しばし》躊躇《ためら》つた後、「實は飮みに行く處です。」 「一人で………。」 「えゝ。」と頷付《うなづ》いて、「僕は時々一人で飮みに行くです。時々妙に淋しくなつて仕樣がないですから。」 「僕も今日は不愉快で仕方がないから、酒でも飮まうかと思つて居たんです。」 「其ア好機會だ。ぢやア一ツ柳橋邊まで出ませうか。」 「この近邊………新橋邊にはいゝ家はないんですか。」 「いくらもあるが、所謂《いはゆる》明治的で到底僕等の足を踏入れべき處でない。」 「ぢや、柳橋は餘程保守的なんですね。」 「たいして然《さ》う云ふ譯でもないが、然し僕には柳橋と云ふ聲が優美な歴史を思出させるから………。」 「成程トラヂシヨンの如何に因るのですね。亞米利加と英吉利の詩壇と云つたやうな風に………。」自分は高く笑つた後、「君は日本の藝者といふものを能く知つてゐるでせうな。」 「十年も遊んで居るから、まア知つて居る方でせう。」 「そんなに藝者といふものは人をチヤアムするものですか。」 「どうだか。僕にはもう馴れツこになつて居るから、大して美しいとも思はれない。」 「其れぢやアどうして、君は其樣《そんな》に遊んだんです。」 「僕は花柳界と云ふ一種の社會全體の空氣が好きだから。好きと云ふよりか、尊敬してゐると云つた方がいゝかも知れん。」  丁度日暮前の電車は何《いづ》れも滿員で乘れない處から、流水は歩きながら自分に語つた。彼が何故《なにゆゑ》に日本の花柳界を愛するかと云へば、最初は無論、單純に女と云ふ事からであつたが、今日では江戸文明の保護者なるが爲めである。今日の藝者は云ふまでもなく明治に生れた人間であるけれど、盡く舊時代の迷信惡弊の中《うち》に棲息して居るもので、其れはつまる處、明治の威光が彼等を感化する事の出來ない事をば氣味よく世間に發表してゐるも同樣である。彼等は明治の法律では不良の醜業婦であるが、然し一方では今日も猶都會の裝飾として殘つて居る神社や佛閣に對して種々の物品を寄贈して其の美觀を助ける、同時に引幕や幟を作つて日本の演劇を奬勵した。一時歐化主義の盛な時代に花柳界がなかつたなら、江戸の音樂演劇は全く絶滅してしまつたであらう。此の點に於て吾々は永久彼等に向つて感謝の意を表しなければならない。 「日本といふ處は實に不思議な國だ。」と自分は流水の話についで獨言《ひとりごと》のやうに呟いた。「君の議論によると日本文明の精華は社會の不正當な方面から維持されて居たといふ事になる。」 「さうだとも。歴史が證明して居るから間違ひはない。今日から見ても價値のある歌舞伎|所作事《しよさごと》、三絃本位の音樂、さういふものは皆醜業婦を中心とした江戸の下層社會から生れたものだ。そもそもの根本がさう云ふ次第なんだから、僕は明治の今日になつても文藝が政府から社會不良の分子として取扱はれるのは無論當然の事で又其れが日本文藝界の特徴だらうと思ふ。この頃の文學者は西洋にかぶれて文藝を高い品位のあるものにしやうとして居るが、僕は全く無益な事だと思ふね。」 「どうして。」 「どうしてと云つて、出來ない事を出來るやうに思つたつて始まらない話だから、平民は平民、貴族は貴族と物事は萬事生れによるものだ。最初の生れが惡いものは中年になつて體裁をつくろツた處で、何處にか昔の生地《きぢ》が出るものだ。」  流水はそれなり默つて卷煙草に火をつけながら、人のすいた電車でも搜す爲めか後の方を振向いた。低い人家の軒にはもう灯がつき初《そ》めて、曇つたまゝに暮れて行く冬の空は、西の端《はづ》ればかりが黒い瓦屋根の上に色もなく光つて居る。自分は口に出しては云はなかつたが、眞正の藝術の意義は流水の絶望してゐるが如く日本の國土には遂に解釋せられずに終るのかも知れない。自分は歸朝の途中にアラビヤの沙漠を眺めた時、開拓好きの英吉利人、機械の萬能を信ずる米國人、彼等は何故《なにゆゑ》此廣々した空地に果樹園を作らなかつたのだらう。雨がなければ機械で雨を送ればよいぢやないか。日光が餘りに強ければ無邊の天幕《テント》を作ればよいぢやないか。土地が惡るければ他國から土壤を運搬して來ればよいぢやないか。然らば此處に青々した樂土を作る事が出來るだらうと思つた。日本から眞正の詩人を出さうと云ふのは、つまり此れ等と同樣の難事ではあるまいか。國民の性情や社會の状態に乖《もと》り乖《もと》つた揚句の果てに無理やりに作出さねばならぬ不自然の大事業ではあるまいか。成程勞して功なきもので有るかも知れない……… 「大分くたびれた。車に乘りませう。」流水は堀割にかゝつた質粗な鐵橋の手前で再び立止つた。直樣人力車を呼んで、流水は先きに車を走らせる。其の後から自分は獨りで猶も思ひつゞけた。  自分は西洋の藝術が日本の國土に移し植ゑられたにした處で、果して其れが爛漫たる花を開き得べきものか否かを考へた。これは久しい以前から自分の心中に往來して居る問題で、今に始つた事ではない。巴里に居た時留學して居る畫家某氏の云つた議論が今だに思出される。氏は日本人の女の顏ばかりは到底表情深く描く事が出來ない。もし表情のない寫生其まゝを見せれば寫生としてだけの價値は保たれやうけれど、例へばかのモナ・リザの畫像に對する時の如き神祕高雅の氣に打たれる事は全く不可能である。いくら我々は洋畫を研究しても一度《ひとたび》歐洲の地を去れば、忽ち描くべきモデルを見出す事が出來なくなる。我々日本の洋畫家が島田や銀杏返《いてふがへし》の女の裸體畫に成功しない限り洋畫は日本の生活とは一致しないものだと云ふやうな事であつた。  自分は三絃とピアノと其の何《いづ》れが果して日本人の情緒を最も適切に現し得べきかを疑つてゐる。今夜流水が招いて呉れる藝者とその音樂とを自分は熱心に聞かねばならぬと思つた。 二月十五日[#「二月十五日」は中見出し]  何の氣なしに新聞を見ると高佐君の著書の廣告が大きく出て居る。「市街美論」としてある。巴里にゐた頃高佐君は自分に向つて、日本人の歐米旅行記、觀察記、漫遊記のやうなものは此れまでに隨分澤山出て居るから、自分の洋行土産としては純然たる審美學者の立脚地から世界都市の美觀に就いて論じて見たいと語られた事がある。この書は乃《すなは》ちそれに違ひない。自分は急に當時の事を想ひ出して高佐君の顏が見たくなつた。サンジエルマンやヴエルサイユの庭を二人して歩いた時の話がして見たくなつた。午後《ひるすぎ》になるのを待つて西片町何番地何號へ車を命じた。  自分は坂を上《あが》つて本郷と云ふ一區域の空氣をかぐと必ず一種の反抗を感ずる。元氣のない顏をした書生が迷つた羊のやうにぞろ/\歩いて居る。髮の毛をぼう/\させた女學生が、後から物に追はれでもする樣に、おど/\した眼付で人家の軒下や溝際《どぶぎは》を俯向きながら歩いて行く。これが新しい時代を作るべき新しい國民かと思ふと自分は實に厭な氣がしてならない。高等文官試驗を生涯第一の大事件と心得て居る男の學生、三面記事の犧牲になりはせぬかと人の評判ばかり苦に病んでゐる女生徒、何れにしても「自己」のない影のやうな幽靈である。車が大學の門前を過ぎる時、自分は又もや十年前の憤慨の歴史を追想した。よく世間に傳へられる陋劣な教授連の内訌《ないこう》を想像した。そして自分は高佐君と云ふ人はどうして此の腐敗した空氣の中《なか》に、かくも平然と不平なしにやつて行くのかと不思議に感じた。尤も高佐君は西洋にゐる時に、世間のつまらぬ不平や不愉快を忘れるには學問に遊ぶのが第一の方法であると云はれた事がある。留學中の生活を見ても、高佐君はいつも自分と云ふものをも客觀的に眺めて居て、凡ての矛盾を心配なしに味はつたり解剖したりして行く人であつた。巴里の七月塔の下では革命《レボリユツシヨン》と云ふ語《ことば》は其の發音が音樂的刺㦸を人に與へると論じながら、ヴエルサイユの肅然たる庭苑を眺めると忽ち王政は美しいと叫んだ。彼の國の大學に提出する爲めに、宗教的悲哀美を論じて人生最高の理想的生活は寂寞たる放浪漂泊の生涯であると云ふやうな草稿を書いて居た時にも、實際の生活では、晩餐を食ふ時には細君が居ないと寂しいものだと嘆じて居《を》られた。  いつも尋ねにくい西片町の番地を尋ね當てると、縁側で七八《なゝや》ツの愛らしい令孃を相手に遊んで居た高佐君は、優しい微笑を以つて自分を迎へて呉れた。自分は早速新刊の書物「市街美論」の事を話すと、「つい、お送りしませんでした。こんなものです。」と云つて、氏は次の間からクロース製の一部を持つて來た。 「いつか佛國《あつち》でお話した時とは大部全體の調子を變へて通俗にしてしまひましたよ。序文だけは然し振《ふる》つたつもりです。」  自分は書物を手に取つて小聲で讀み出した―――日本の首府も電燈や電車や銅像や煉瓦造りや鐵橋などに飾られて歐米第一の都會と同一の壯觀を呈するのも一二年の中であらう。されば自分が今囘歐米の各市を巡覽して、其の市街美の比較研究を試みんとするのも全く世間に無用の事ではあるまい。文明の都會は單に人の住む處車の通ずる處と云ふ意味ばかりではない。一國の歴史的光榮と國民の過去將來に對する抱負氣慨の凡てを最も有力に發揮するものである。佛蘭西にとつてはゴチツクの寺院の塔が永久に高く市街の上に聳えて居なければならぬものとすれば、日本の都市は到る處、寺院の屋根より高く電柱の丸太を聳かし電線の網を以て張り詰められねばならぬ。此れ乃ち日本帝國が文明の爲めに過去二千年の特有なる歴史に告別した悲慘なる苦痛の記念である。黒幕に蔽はれたコンコルドの石像よりも猶ほ悲慘なる記念碑であるから……… 「もつと先の方を讀んで御覽なさい。」と高佐君は笑ひながら云つた。 「………雜然たる東京の市街の外觀は云ふ迄もなく國民一般の思想の混惑を示すものであるが然し自分は世人の屡論ずる如くに悲觀してはゐない。寧ろ感謝する處が多いのである。何故《なにゆゑ》と云ふに、もしこれが西洋であるならば少くも一世紀二世紀を要すべき思想の變化をば自分は僅か五年十年の短時間に見る事が出來る。其のみならず、全然一致されない幾多の思想を同時に味ふ事さへ出來る。人間の最大幸福は短い一生の間に最も多くの變化と最も珍奇なものを見る事であるならば此の點に於て自分は頑固保守の英國に生れなかつた事を神に謝する。」  讀み終るのを待つて、「どうです。」と高佐君は再び笑つた。 「あなたは實に巧妙な諷刺家です。」 「文部省では大學の教授が書物を出版するのを喜ばないさうです………然しこれなら大丈夫でせう。日本には昔から落首だの狂句だのと、比較的に諷刺文學が發達したわけです。」  諷刺と云ふ事からアナトオル・フランスの事が話題になつて、「人生を觀ずれば觀ずるに從ひ、自分は人生に對して諷刺と同情とを證人と裁判官にする必要を感ずる。諷刺と同情とは惡氣のない相談相手で、一ツは微笑して人生を愛らしくさせ、他は涙で人生を神聖にする。」と云つた有名な格言をば二人は云合はしたやうに感嘆して繰返した。 二月十七日[#「二月十七日」は中見出し]  フオオト氏の一家はいよ/\日本を去るべき由を手紙で知らして來た。先づ印度《インド》に赴いて其れから埃及《エヂプト》と希臘《ギリシヤ》を巡遊して歸國すると云ふ事である。春子はどうしたのであらう。遂に音信《たより》がない………。 [#地から1字上げ][#1段階小さな文字]明治四十二年七月作[#小さな文字終わり] 底本:「荷風全集第四卷」岩波書店    1964(昭和39)年8月12日発行 底本の親本:「牡丹の客」籾山書店    1916(大正5)年2月5日 初出:「中央公論 第二十四年第十號」    1909(明治42)年10月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「廿」と「二十」、「世間並み」と「世間並」、「ピヤノ」と「ピアノ」、「伊太利亞」と「伊太利」の混在は、底本通りです。 ※「食卓」に対するルビの「テイブル」と「テヱブル」の混在は、底本通りです。 ※初出時の表題は「帰朝者の日記」です。 入力:きりんの手紙 校正:入江幹夫 2021年3月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。