無法な火葬 VIOLENT CREMATION 小泉八雲 佐藤春夫訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)前《さき》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)勿論|應《こた》へ [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)煑 /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)カリ/\ ------------------------------------------------------- [#ページの左右中央] [#ここから8字下げ] [#ここから1段階小さな文字] 一八七四年十一月九日 エンクワイヤラア紙上に社會面記事として執筆せしもの。 [#ここで小さな文字終わり] [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#ここから3字下げ] 無法な火葬 土曜日夜の恐るべき犯罪 慘殺されて竈で燒かれた男 恐ろしき父の復讐 殺人容疑者の逮捕 情況證據の環 戰く馬の憫れな證據 戰慄すべき惡魔的所爲の詳細 被告の陳述と名刺型寫眞 [#ここで字下げ終わり] 「災禍は踵を追ふて襲ひ來る」、しかく災禍は迅速に相次いで起るものだ。前《さき》に我々は過去數年間中當市に起つた最も大きな火災の一つの顛末を報道したばかりであるのに今又茲に我が州の紋章に千古の汚點を印した兇惡無比の殺人事件の記載を要求された。何人も戰慄すべきその詳報には嘔吐を催すほど殘忍にして恐るべき殺人事件――恐らく火によつてその目的を急がれたらしい兇行。もとより二人の被告殺人犯の後見役は復讐であつたが一方漸次本記事の進行につれて明白なる如く [#4字下げ]恐るべき秘密暴露の恐怖[#「恐るべき秘密暴露の恐怖」は中見出し] がこの血腥い犯行に第三者を使嗾した促迫の動機となつたものであらう。兇行の場所は中央並木通りの眞西、舊ワアク蝋燭製造會社工場跡の眞向なるリヴィングストン街とギャムブル横町に跨るフリイベルグ製革工場内であつた。 [#4字下げ]登場人物。[#「登場人物。」は中見出し]  被害者はヘルマン・シリングと云ふ男。アンドレアス・エグナア、ジョオヂ・ルウファー、フレデリック・エグナアの三者が殺人容疑者である。  我々の獲た報道によれば不必要な冗語を一切除いた事件の眞相は次の如くである。被害者ヘルマン・シリングはフリイベルグ方に暫く雇はれてゐたもので製革工場の西隣りで工場とは木戸續きのフィンドレイ街一五三番地に酒場兼下宿業のエグナア方に嘗て止宿してゐた。エグナアにはジュリアといふ十五歳ばかりの娘があり世上の噂では餘り身状のよくない蓮葉娘であつたが被害者シリングと彼女とは非常に懇ろになつた。事實二人の交情は或夜遲く父親のために [#3字下げ]彼女の寢室で[#「彼女の寢室で」は中見出し] 密通の證據たる現場を發見されたがシリングはその時窗を破つて地上に飛び降り辛くも父親の復讐を逃れて一時事なきを得た。エグナアはシリングが娘を誘惑したのだと強硬に主張したが被告は娘との密通は素直に認めながらも自分が最初の密通者でもなく且愛された唯一の相手ではないと申立ててその責任は拒否した。兎に角娘は懷姙し本年八月六日姙娠七ヶ月で子宮癌のために病院で死亡した。同日エグナアと息子のフレデリックとは樫材の桶割板をもつてシリングを製革工場に襲ひ恐らく局外者の妨害がなかつたら殆ど彼を致死せしめたであらう。シリングはエグナア父子を毆打罪の科で拘引せしめ彼等は保安官の前で審理の結果有罪と決し五十弗の科料並びに一年間彼に對して治安を妨げぬ印として二百弗の保證を負はされた。審理後自家の酒場の部屋で [#3字下げ]エグナア親父は誓言して曰く[#「エグナア親父は誓言して曰く」は中見出し] この怨みの返報にシリングの命は吃度取つてくれると、その後もこの威嚇を彼は數度の機會に繰返してゐた。シリングは娘との密通が露顯した後はエグナア方を去り以後はフィン[#「フィン」に「(元ノマヽ)」の注記]デイ街一二六番地なるシイ・ウェステンブロオク方で食事をし製革工場の小屋の一室に寢泊りしてゐた。先週土曜日の夜十時頃シリングは宿所へ歸るためにウェステンブロオク方を出たがこれが目下知り得る限りでは加害者以外の彼の知人が [#3字下げ]生きてゐる彼を見た最終[#「生きてゐる彼を見た最終」は中見出し] であつた。當夜十時半頃リヴィングストン街上ル中央並木通りに住むジョン・ホルレルバッハ([#割り注]十  六[#割り注終わり])といふ屈強の若者が自宅に歸りギャムブル横町に面する庭裏の住居へ這人つた[#「這人つた」はママ]。彼は裏二階の自室に入り寢ようと思つて着物を脱いだ。脱ぎ終るか終らぬうちに彼は明らかに自分の家の後の横町から格鬪の物音を聞いたので急いで着物を引掛け階段を駈け降りたが物音は製革工場の小屋の中から聞えて來るので豫てシリングとは顏馴染の彼は「ヘルマン、君か」と獨逸語で呼びかけた。答は「さうだ、ジョン。ジョン、ジョン、早く助けに來てくれ、誰か僕を殺さうとしてゐる」とまるで咽を締められたか息でも詰つたやうな聲だつた。「誰が」と次に訊いた。その時の答は甚だ不明瞭で要領を得なかつたのでホルレルバッハは大聲で「人殺し人殺し野郎、その男を放してやらぬと俺が行つて撃ち殺すぞ」と怒鳴りつけた。この威嚇には何等應へもなく唯 [#3字下げ]絞殺する男のドタバタいふ物音が[#「絞殺する男のドタバタいふ物音が」は中見出し] 聞えるばかりだつた。ホルレルバッハは殆ど死ぬばかりに驚愕し直ちに横町を飛び出し警官を探しにリヴィングストン街を下つた。彼はワアク會社跡の火の番の提灯の灯を見たが火の番に逮捕の力のある事を知らずと云ふ少年の申分は奇怪だが兎に角火の番の注意も呼ばず數多の町を呼ばはりも怒鳴りもせずに警官を探し歩いたが見當らず仕方なく兇行の演ぜられた厩の傍を通つて空しく自分の部屋に戻つた。厩の傍を通つた時何物かを引摺る音が聞えたやうに思はれた。部屋へ歸つたものゝ其儘眠る事は不安なので其夜一晩中恐怖と戰慄とのうちに坐つた儘夜を明かした。 [#4字下げ]昨朝の七時頃[#「昨朝の七時頃」は中見出し] シリングの宿所の親方であり且フリイベルグ工場の雇傭人たるウェステンブロオクが厩の馬の手入にギャムブル横町の格子戸へ出た。彼は木戸に錠が下りてゐるのを見てシリングを呼んだ。勿論|應《こた》へはなかつた。幾度か呼んでゐるうち其聲がホルレルバッハの注意を惹き窓から覗いて云つた。「ヘルマンはてつきり昨夜|殺《ばら》されましたぜ」ウェステンブロオクは「早く出て來て木戸へ登れ」と云つた。云はれる儘にホルレルバッハは木戸を明けて相手を中へ入れた。二人は直ちに血腥い兇行の跡を發見した。厩は血痕が四散し死物狂ひの格鬪の跡を示し、 [#4字下げ][#中見出し]六ツ叉《また》の熊手[#中見出し終わり] に大きな杖をそへて一緒に箒を立てた如く血と髮の毛とがべつとりと附着した儘片壁に立てかけてあつた。血痕は厩から百呎以上離れた汽鑵室の入口まで續いてをり更に調べて見るとそれらの血痕は竈の瓦斯室の入口へ眞直に導いてゐた。恐怖に撃たれた兩人は最惡の戰慄が事實となつて俄かに目前に現はれた如く悚然として立ちすくみ、軈て出來る限りの迅速をもつて八方に急報を飛ばした。傳令者は直ちにオリヴァア街の警察署に急報したのでビエルボオム中尉は役員ノエップを引率して八時半現場に到着した。幾何《いくばく》ならずして被害者の慘殺體は竈中に投入せられたことが推定され、それより現場に蝟集せる幾百の觀衆の手を藉りて竈の火に水をかけた上死體引出に着手した、死體は頭部と胴體部と腸とで成り立つてゐることが發見され何れもカリ/\に焦げて識別がつかなくなつてゐた。ウェステンブロオクとホルレルバッハとが構内へ這入つた時製革工場と中庭との境の木戸が明け放しになつてゐた[#「明け放しになつてゐた」に傍点]事實から嫌疑は直ちにエグナア父子の上に懸つた。 [#4字下げ]彼等は直ちに逮捕され[#「彼等は直ちに逮捕され」は中見出し] 殺人嫌疑の告訴が彼等の名前に對して手筈されてあつたオリヴァア街の警察署へ送られた。死體檢視官マレイは通達により即時呼出に應じた。管内の警察官は悉く不在だつたので彼はサムエル・ブルウムを特任し、且ジョン・カッタア、ヘンリイ・ブリット、ジョオヂ・グウルド、デニス・オーキイフ、ジョン・ウエッセル、ビイ・エフ・シヨットの諸氏を選任登録した。今朝九時迄で彼等は一と先づ散會した。屍體はその間に西六番街なるハビッグ葬儀社に送附された。數時間の後エンクヮイヤラア記者はマレイ博士に隨行して葬儀社を訪問し發見されたヘンリイ・シリングの黒焦死體の一切を檢視した。 [#4字下げ]死臭鼻を衝く見るだに恐ろしい死塊[#「死臭鼻を衝く見るだに恐ろしい死塊」は中見出し] は野獸の如き殺人犯が兇行の跡を晦まさんと百方手を盡したにも係はらず彼等に不利な恐ろしい證據として手もつけぬまゝ殘つてゐた。  棺の蓋を明けると燒いた牛肉の匂ひに頗る似て一層重厚な強烈に鼻を刺す惡臭が室内に充滿し觀者をして殆ど嘔吐を催さしめた。が黒焦死體の慘状は更に/\酸鼻を極めてゐた。棺中の清潔な白布に安置されてゐる死體は初め急いで瞥見した目には形の崩れた燃えさしの瀝青炭の大きな塊に似てゐたが、これを更に接近してその恐るべき代物を探知するのは餘程の健胃者によつて初めて成し得る觀察であつたに相違ない。――半焦の腱によつて互に引吊られ或ひは半ば溶《とろ》けた肉塊の粘りで共に膠着し合つてゐるボロ/\に折れ崩れた人骨、煑沸された腦髓、石炭と交《ま》ざつて煮凝《にこごり》になつた血、強烈な竈の火熱の中で [#4字下げ]頭蓋骨は貝殼の如く裂け割れ[#「頭蓋骨は貝殼の如く裂け割れ」は中見出し] 顱頂部全體はブク/\煑えくり返つた腦漿から沸騰する蒸氣のために吹きとばされたかの如く見えた。僅かに殘つてゐるのは後頭骨と顱頂骨との後方部と上下の顎骨と顏面骨の或物のみ――頭蓋骨の頂部はギザ/\を呈し或部分は茶褐色に他の部分は焦げて黒い灰になつてゐた。腦髓は煑沸し盡し唯僅かに頭蓋の底部に檸檬《れもん》大ほどの小さな滓《かす》の塊が殘つてゐた。それはカリ/\になつてゐて觸れるとまだ温かつた。カリ/\の部分に指を押し込んで見ると内部はバナヽの實の如き密度の軟かさが感ぜられ、その黄色い纎維が檢死官の掌の中で蛆蟲が蠢いてゐるやうに見えた。兩眼は眼窩の中で煮え泡立つたまゝカリ/\になり、鼻骨は失せてその跡がボコンと大きな見苦しい穴に落ち窪んでゐた。  顎骨と顏面骨の下部とは石炭と乾いた血と粘々した肉とに全部蔽はれてゐるので檢死官は初め下顎骨は燒失したものと思つた位であつた。併も肉と石炭と黒焦げの軟骨とから成る恐ろしい髑髏の面を剥《は》いで見ると [#4字下げ][#中見出し]剥《む》き出した齒が物凄くも白く光つて[#中見出し終わり] 兩顎はその儘になつてゐることが發見された。兩顎は非常に固く結ばれてゐるので引離すことが出來ず無理をすれば全部を灰に崩してしまう惧れがあつた。檢死官が指で上齒を一本缺き取ることが出來たほど火熱は猛烈だつたのである。  頭蓋骨の破片の外に右の骼骨六枚、左の骼骨四枚、脊柱の中央部、肝臟、脾臟、腎臟、骨盤骨、左右の上膊骨、大腿骨、兩脚の脛骨、脚骨等があつた。胴體は胸のところで炸烈し心臟と肺臟とは完全に燒き盡されてゐた。肝臟は手輕にもローストになり腎臟はうまくフライになつてゐた。恐らく不幸な被害者は [#4字下げ]生きたまゝ竈中に押込まれ[#「生きたまゝ竈中に押込まれ」は中見出し] 燃え熾《さか》る焔管に突込まれてゐる間に人間が經驗した限りでの最も慘苦な死の苦悶を嘗めたに違ひない恐るべき形迹があつた。齒は物凄くも食ひしばつてゐたから、恐ろしい頭蓋骨を見た目撃者の中には最も恐ろしい苦悶がこれらの顎を食ひしばらせたのだと表白してゐたものも多くあつた。恐らく加害者の慘殺的打撃によつて卒倒し爭鬪力を失つたまゝ意識を失つたこの哀れな獨逸人の體躯は無理矢理竈の中へ押し込まれたのだつたらう。さうして恐らく更に恐ろしい地獄へ彼を押込んだ暗殺者の熊手の滅多突き或ひは血塗れの衣服へ火の燃えついた時の最初の苦悶は、火焔の死に逢ふべく彼を蘇生させたであつたらう。助けを呼ぶ叫喚の聲、狂亂の抗論、生命のための恐ろしい挑戰、生存のための超人的爭鬪、――一瞬に群がり起る千の苦悶、――叫喚は次第に微かになつて行き――斷末魔の爭鬪は次第に微かな身悶えに消え滅び行くその有樣を想像して見よ。さうして彼等は殘忍冷酷なる殺人者の通性として鬼の如く無情に惡魔の如く暴戻に一個の哀れな人間の生命を滅戮する努力に喘ぎながら、 [#4字下げ]無言の勝鬨のうちに凝視してゐたのだ![#「無言の勝鬨のうちに凝視してゐたのだ!」は中見出し] 頭蓋骨は割れ裂け煮えたぎる五體が破れ裂けるまで竈の中を、幾百の惡蛇の如き炎々たる焔の音を覗き込んでゐたのだ! 恐らくそんな事は本當にはなかつたらうし我々は哀れな人道のために本當でなかつたことを望むが、しかし恐怖の一夜の恐ろしい秘密は加害者のみが知るばかりである。彼等は恐らく多く認知してゐただらう。しかし吃度我々が暗示した程に多くは認知してはゐなかつたらう。 [#4字下げ]新しい手懸り。[#「新しい手懸り。」は中見出し]  エグナア父子の逮捕後間もなく派出所は製革工場の雇傭人で土曜日の夜解雇されたジョオヂ・ルウファアなる男が彼の解雇についてシリングを問責してゐたといふ報告を得た。搜査は直ちにロオガン街九十番地の彼の住居に向つて開始せられたが彼は不在で女房が訊問に答へて初めに云ふに、夫は昨夜は晩飯後は外出しなかつたと答へた。後彼女は良心が咎《とが》めたか、昨夜、夫は自分を連れてスプリング街の友達の家に行き十時に向ふを引揚げたと述べた。  兇行の報道は非常な迅速さで傳播した。その恐るべき慘状は信ずべく餘りに恐しく思はれたがその時に限つて話は十二の唇を傳はりながらもその推移によつて何等の變化をも生ぜず、 [#4字下げ]その時に限り現實は[#「その時に限り現實は」は中見出し] 人間の最も熾烈な想像の追從をすらも許さなかつたのである。  正午になると現場附近の街路は兇行の話を知つてゐる人から洩れるどんな言葉でも熱心に聞き迯さず、それを又熱心に傾聽する新しい群衆に息を殺して受賣すると云つた人々で雜沓した。折柄の晴天で午後にはほんの火事の燒跡を見物に來た途中※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、73-5]らずも更に恐しいこの事件を聞き知つた近在の人達が幾百人となく入り込んで來たゝめ群集の數は一層増大しそれが製革工場の周圍を波濤の如く [#4字下げ][#中見出し]前後に押し合ひ動いてゐた。[#中見出し終わり]  四時半頃に數日來暫く催してゐた雨が沛然と降り出し、それがために群衆は四散し屋敷の周圍を警戒する警官は大いに助かつた。  五時頃バアン[#「バアン」に「(元ノマヽ)」の注記]ボオム中尉は更めてルウフア搜査のために出動した。いまだ彼の住居に到着せぬうち警察署へ行く途中で中尉はポオラス、ノエップ兩官の手によりロオガン街とフィン[#「フィン」に「(元ノマヽ)」の注記]レイ街の角で逮捕されたルウフアに會つた。かくて警察署へ引致された後キエルステッド大佐によつて對審され大佐は彼を素裸にして身體檢査を行つた。彼の顏面には物凄い掻傷と打撲傷とがあり [#4字下げ]或恐ろしい長時間の爭鬪[#「或恐ろしい長時間の爭鬪」は中見出し] をやつた跡を顯はしてゐた。彼は己れの受けた嫌疑の恐ろしいにしては外見はいかにも冷然と落着き拂つてゐた。上着には何處にも血痕は附着してゐなかつたが軈てズボンを脱ぐと猿股の膝の部分が [#4字下げ]鮮血でゴハ/\になつてゐた。[#「鮮血でゴハ/\になつてゐた。」は中見出し]  彼は慌てゝ叫んだ。「これは私の扱つた獸皮の血です」血痕は襯衣の胸にも發見せられた。 [#4字下げ]彼の陳述[#「彼の陳述」は中見出し] は下手な英語と獨逸語との交つた言葉で大體左の如きものであつた。「土曜日の晩にフリイベルグさんがどうも仕事が鈍《のろ》いから四五日暇を出すと仰言いました。ヘエ、それで晩飯を食つてから餓鬼をつれエグナアさんの家へ行き麥酒を一杯引掛け勘定を拂ひました。それから又二杯ばかり引掛け餓鬼をつれて家の方へ出掛けました。ローガン街とフィンドレイ街の角に出てゐる屋臺の飮み屋で又麥酒を二杯と酒を一杯やりそれから床に就きました。日曜の朝は七時頃起き朝飯を食つてからコロンビアまで仕事を探しに家具會社の監督さんに會ひに歩いて出掛けました。河向ふに住む二人の男が教へてくれた通り監督は留守でした。コロンビアでは知人には誰にも會はず麥酒を二三杯引掛け私《わつし》は家の方へ歩いて歸つて來ました。草臥れたんで電車に乘りエルム街の停車場で降り家の方へ歸つて來るところを捕まつたのです。シリングとは別に悶着なぞした覺えはありませんや。土曜日の夕方工場を去る時に皮を鞣してゐる彼奴を見かけたのが最後でした。彼奴はいつも夜業をしてゐました。彼奴がどこに泊つてゐたか私《わつし》は知りません。一度エグナアからシリングとエグナアとの密通の事を聞きましたがその時エグナアはシリングの野郎は [#4字下げ][#中見出し]熊手で突刺して[#中見出し終わり] やらなきや負《お》へねえ奴だと云つてゐました。又別の時エグナアの忰のフレッドからもその話を聞きましたがフレッドもシリングのやうな奴は首へ繩をかけて [#4字下げ][#中見出し]竈の中へ燻《く》べてやる[#中見出し終わり] のが當り前だなんて云つてゐました」  顏面の掻傷について訊問された時最初はワアク蝋蠋工場の火事の晩納屋から飛び降りた時の怪我痕だと述べ、更に土曜日の晩女房に一錢も金を持つて歸らなかつた爲夫婦喧嘩をして引掻かれたと云ひ、更に往來で轉んだ痕だと述べ甚だ辻褄が合はなくなつて來た。彼は身長約五呎七吋筋骨逞しき屈強の男で年齡三十七歳位。掲載の肖像(編者註、社内畫工フアニイ筆)は昨夜警察署の留置場で描いたものの複寫である。  彼に對する最も有力な報告は金曜日夜ワアク蝋蠋會社工場に [#4字下げ][#中見出し]ルウファアが放火した[#中見出し終わり] といふ事實を被害者ヘルマン・シリングが知つてをりシリングはこの事を派出所へ密告すべしと思つてゐたといふ事實である。この報告の眞否は今の所述べ得る限りでないが若し眞實としたらこの事實はルウファアを殺人の深き罪に誘つた理由の決定的證據を提出するものであらう。 [#4字下げ]エグナア親父[#「エグナア親父」は中見出し] は獨逸人で年齡四十三歳、痩形の男で容貌險惡で果斷な面構をしてゐる男。息子は無髯の少年で己れの因果に全く無神經に無頓着な陰鬱な容貌をしてゐる外には著しい特徴のない男。息子の話によると土曜日の晩は九時頃まで「鬼ごつご[#「鬼ごつご」はママ]」や「捕《つかま》へつこ」をして遊んでゐたからその晩は何の物音も聞かずぐつすり熟睡し今朝七時に起き八時頃になつて初めて殺人事件を聞いたと云ふ。  エグナアは製革工場の眞向ひで珈琲店と樽商とを經營し、酒場の方はフィンドレイ街一五三番地にある。 [#4字下げ]被害者ヘルマン・シリング[#「被害者ヘルマン・シリング」は中見出し] はウェストフェリアの生れで年齡二十五歳、身長五呎八吋均衡の取れた體格、紅顏で濃き顎髯あり斜視である。昨夜は概して非常に機嫌よく交際《つきあひ》の面白い男らしく談笑してゐた。未婚で當市に親戚らしいものはない。血醒い[#「血醒い」はママ]兇行の演ぜられた [#4字下げ]屋敷[#「屋敷」は中見出し] には一脚の卓子と馬具と被害者の寢室それに大きな鞣皮置場二棟と煑沸場一棟とがあり、この煑沸場の竈の中へシリングは火葬されたのである。厩はギャムブル横町に接し間口約八呎奧行約十呎で人の頭とすれ/\の二階がついてゐる。厩には一頭の馬が飼はれてゐて、内部は恐ろしい血腥い格鬪の跡を一々示してゐる。それに隣りして馬具部屋に用ひられてゐる部屋があり犯人は恐らく此部屋で餌食を待つてゐたものであらう。西隣は馬小屋でそこの西側の壁に入口があり被害者が寢室に使つてゐる部屋がその通路に當つてゐる。以上の部屋は何れも鞣皮置場の建増でその西に煑沸場、竈、汽鑵室がある。以上の建物と工場との間には東西に擴がる廣い空地がある。構内には三匹の大きな猛犬が番犬として飼はれてゐる。 [#4字下げ][#中見出し]殺害の手口。[#中見出し終わり]  あらゆる證據から判ずるに加害者は屋敷の勝手口と番犬とを熟知する者で、若し然もなくばかの通路へ忍び込む迄に番犬に出會つて囓み裂かれてしまつたに相違ない。恐らく彼等はエグナアの家から製革工場に通ずる木戸を明けて入り込み必ずや被害者が寢室へ入るに通ると知つた馬具部屋に身を忍ばせてゐたものであらう。被害者が例の如くギャムブル横町に面する小さな木戸から這入つて來た時彼等は機を窺ひ待つてゐた馬具部屋の開いた戸口から覗いてゐたらう。闇と沈默の中を二歩三歩歩み來るや突如|見廻《みまは》りの咽喉は鐵の如き頑強な掴扼をもつて締め上げられた。かくて [#4字下げ]命がけの恐ろしい格鬪[#「命がけの恐ろしい格鬪」は中見出し] が始まる。夜は眞暗で暗黒な兇行には持つて來いの朦朧さが四下に張《とばり》を下ろしてゐる。被害者は若い強力なヘラキュレスの如き筋骨を持つ男ではあつたが一切が思ひがけなく起つた事だし且無手ではある。彼は咽喉を扼する力によつて相手の膂力は到底己れの敵對し得る所でないと知つた。突然背後から喰《くら》つた昏倒するほどの打撃は相手が二人であることを彼に告げた。その時初めて己れの命が覘はれゐると[#「覘はれゐると」はママ]いふ恐ろしい自覺が浮んだ。厩の慘状はその時被害者が兇猛な加害者に敵對する力なしと諦め馬の蹄の後へ逃げ場を求めた事實を示してゐる。彼は少くともさうする事によつて助けを呼ぶ時間を持たうと望んだのだらう。が茲で證據物件は格鬪が甚だ猛烈だつた事を示してゐる。厩の壁は處々熊手の叉を突刺したギザ/\の深い穴――餘程強猛な力でなければあかない穴があいてゐる。被害者の生命を芋刺にせんとした突迹《つきあと》である。ホルレルバッハ少年の注意を引いたのはこの格鬪の物音だつたのだ。事の眞相を誰かは知る。だが少年が目にし耳にした説明は既述した通りである。彼が陳述した如き尋常ならぬ彼のその時の行動は確かに奇異に思はれる。彼が指示する兇行の時刻にはこの附近十數の酒場は何れもまだ闌な頃で常連の一杯ゐた時刻である。否、彼の寢た――いやその晩は寢たのではない寢ずの番をしてゐたのだが――その家にも酒場があり夜半過まで營業してゐるのだから被害者を救ひ出す義勇兵は大勢得られた譯である。ジョン・ホルレルバッハ君は明らかに彼が兇行について陳述したよりもつと多くの事を知つてゐるのだ。苟も正氣の心をもつた者にして彼の如き行動を執ると考へるのは言語道斷である。さて瀕死の人間の生命の潮が最早運命に抗する事が叶はぬほど遠く退いて行くので加害者は屍體の處置場に [#4字下げ]竈の中[#「竈の中」は中見出し] を絶好の場所と考へたのであつた。  厩と百呎とは離れぬ所に煑沸場がありこの煑沸器は溶鐵の瓦斯爐と同一の仕掛の特別な構造をもつた竈で加熱されるのである。燃料は鞣皮用の樹皮でそれが竈の天邊にある丸い二個の口から爐格子の中に明けられ、煑沸器の下の火室へ瓦斯の這入る道として煉瓦製の煙道が設けてある。この火室の中へ直徑約十二吋の開閉する四角な節氣扉が備へてあり、この狹い口まで被害者は加害者に運ばれて來た。竈の火は既に弱めてあつたが兇漢等はその構造を熟知してゐたから狹い口から屍體を突込み煙道の中へ押込まうと努めた。然し何分大きさがつかえるので次には手を換へて屍體を火で燒き棄てる爲に竈の用意に取かゝつた。我々が今述べた事を彼等は如何に手際よく成し遂げたらう。 [#4字下げ]情況證據[#「情況證據」は中見出し] はいまだ疑惑の餘地もあるけれども併し乍ら我々にはそれが最も決定的なものに思はれると斷言する。殊にアンドレアス・エグナアの場合に於ける事實が然りである。  厩の屋根下の床をなしてゐる汚れた板は厚い蜘蛛の巣の花綵《はななは》で蔽はれ天井の隙間からは絶えず秣の種子のポロ/\落ちたのが灰色の蜘蛛のかけた粘膜に無數に懸つてゐる。その上厩の床はポプラの鋸屑が厚く積つてゐる。嫌疑は先づアンドレアス・エグナアの上に動かぬ所となつたので、衣類その他犯行の跡を辿り詰める手懸りとなるべき物品のために彼の家の家宅搜査が開始された、第一に押收されたのは一|絡《くゝ》りの衣類その中には古帽子安靴粗いカシミアの穿き古したズボンなぞあつた。ズボンには夥しい蝋の汚點《しみ》が附着してゐたほか何やら黒い奇妙な汚點が嚴密な檢査に遭つた以外に血痕はどこにもなかつた。が他の衣類は彼に不利な恐るべき證據を提供した。帽子には厩の屋根にかゝつてゐたと同じ蜘蛛の巣と秣の種子が一杯ついてゐることが發見され、靴には厩の床に積つてゐたポプラの鋸屑が一杯附着してゐることが發見された。  ルウファアの衣類も警官の方の手にあつたがこれは唯 [#4字下げ]血痕[#「血痕」は中見出し] を提供してゐるだけで而も多量に附着してゐた。粗い市松格子の襯衣の胸はドロ/\に紅く染つてゐた。綿綾織のズボンの腿にはダラ/\濃い血の流れかゝつた痕があり膝から下はそれが黒く乾いてこびりついてゐる。彼はこの襯衣の血痕を製革工場に於ける自分の仕事が生皮《なまかは》を鞣すにあつたからと云つて云ひ拔けてゐる。ズボンの方の血痕は前夜ひねつた雞の血だと述べてゐる。フレッド・エグナアに關しては通常の嫌疑以上の何物もなさゝうである。 [#4字下げ]震へる馬[#「震へる馬」は中見出し]  この他に當然情況證據の項目中に入るべきこの恐ろしい慘劇に關聯せる數個の例がある。吾々は屋敷に飼つてある番犬の巨大なこと獰猛なこと且兇行中不思議にもこれら番犬が鎭まつてゐた所から見て斷定的證據として犯人が構内と番犬とを熟知してゐたに違ひない事は既に述べた。昨夕我々は建物のスケッチを取りにフアニイ、デュヴェネック兩氏と共に製革工場を訪問したが番犬の兇猛なるため遂に入ることが出來なかつた。今一つ不思議な事は恐るべき兇行の唖の證人たる馬が今朝は全身徹頭徹尾震え戰き恐怖のために眼も兇暴になつてゐた事實である。如何ほど撫でさすりあやしてやつても無效で午前中彼は全く恐怖の戰慄の中にあつた。 [#4字下げ][#中見出し]五ツ叉[#「五ツ叉」に「(元ノマヽ)」の注記]の熊手[#中見出し終わり] は犯人が被害者を慘殺するため又屍體を竈の中へ押し込むために使用されたものでまだ生々《なま/\》と血と毛髮のべつとり附着せる儘竈の中より發見され、四本目の叉には染革を吊す金具が引懸つてゐた。不思議な事にはそれと同一の金具が竈の灰の中からも出て來た。  熊手の外に槍の如く先端の尖つた長い⌿《くひ》が一本その細く尖つた先端は血に染つてをりこれも兇行に使用されたものの如く思はれる。小さな箒が一本、これは濃厚な血塊で塗られてゐる所から見て明らかに流血を掃くために用ひられたもの、どうして犯人等がたま/\かゝる罪跡證據品を遺棄する如き輕率をなしたものか吾々は想像に苦しむものである。 [#4字下げ]最後報[#「最後報」は中見出し]  ジョン・ホルレルバッハはキェルステッド長官の命によりペニンガア中尉の手で今朝二時就寢中を逮捕され證人としてオリヴァア街警察署内に監禁された。彼は曖昧な陳述を固執した。今朝記者が會談した所によれば、ルウファアは若し自分がシリングを殺害したとしたらもつと適當な場所――製革工場の下の鹽水槽あたりへ屍體を隱匿したらう。彼處なら嗅ぎ出されなかつたらう。あの水槽は血に染つた衣類を引き出すのに格好な場所ではないかと云つた。  今朝檢死官の訊問で左の證人達が調べられた。ウィリアム・ホルレルバッハ、シイ・ウェステンブロオク少年、エヌ・ウェステンブロオク、バン・フルインク、ジョス・シリングロップ、アール・メルレンブローク、ヘンリイ・コルテ、イー・ケル、ウィリアム・オスターヘイヂ、ヘンリイ・コオト、イサドラ・フリイベルグ孃、ヘンリイ・フリイベルグ少年。ルウフアの妻の搜査に數名の役員が派遣されたがダンラツプ街の彼女の實家には見當らなかつたところルウファアは女房は實妹のピイタア・エッケルト夫人の許にゐると陳述した。  エッケルト夫人の居所をルウファアは告げなかつた。ウエルゼル中尉はエケッルト夫人の[#「エケッルト夫人の」はママ]夫が陶工だと云ふ事實以外何等の手引もなきまゝ搜査に出動し三四哩歩き廻つた末十數軒の家を訪ねて漸く並木通りで彼女を見付けた。  夫人は云ふのにルウファアの細君は自分の所にはゐない。暫く家へは來ない。近頃仲違ひしてゐるのでお亙ひに往來しないと語つた。かくてルウファアの女房の行方は今尚不明である。  夜半少し過ぎオリヴァア警察署の一役員が監禁者を留置場より出して私刑《リンチ》に處すべしと市民が團結して來るとの噂ありと急報した。署内では後刻警官豫備隊を編成した。 [#4字下げ]市史の記録によれば(以下譯者註)[#「市史の記録によれば(以下譯者註)」は中見出し]  この事件に關する記事はその後數ヶ月間紙上でその調査の進展を發表しつづけてゐるが、原文の編者アルベルト・モルデル氏によれば、審理の結果はシンシナアテイ市史の一つに次の如く記録されてゐる。――アンドレアス・エグナーの息子は後に陳述を飜したので親父のエグナーとその共犯者ジョオヂ・ルウファアとは終身刑を宣告された。後にエグナーは結核に犯されたために許されたが、この異常な犯罪者は終に氣が違つて一八八九年に死したと云ふ。 底本:「小泉八雲 初期文集 尖塔登攀記 外四篇」白水社    1934(昭和9)年11月20日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「蝋燭」と「蝋蠋」、「ルウファー」と「ルウファア」と「ルウフア」、「ロオガン」と「ローガン」、「キエルステッド」と「キェルステッド」、「エグナア」と「エグナー」、「群衆」と「群集」、「恐しい」と「恐ろしい」の混在は、底本通りです。 ※国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/)で公開されている当該書籍画像に基づいて、作業しました。 入力:有戸 来夢 校正:深白 2022年8月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。