峠の手毬唄 山本周五郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)山峡《やまかい》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)国|最上《もがみ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#7字下げ] ------------------------------------------------------- [#7字下げ]一の一[#「一の一」は中見出し] [#ここから2字下げ] やぐら峠は七曲り  谷間七つは底知れず 峰の茶屋まで霧がまく……。 [#ここで字下げ終わり]  うっとりするような美しい声がどこからかきこえてくる。  夜はとうにあけているが、両方から切立った峰のせまっているこの山峡《やまかい》は、まだかすかに朝の光が動きはじめたばかりで、底知れぬ谷間から湧きあがる乳色の濃い霧は、断崖《きりぎし》の肌を濡《ぬ》らし、たかい檜《ひのき》の葉や落葉松《からまつ》の小枝に珠をつらね、渦巻き、ただよいつつ峠路の上まではいのぼっては流れて行く……。ここは出羽《でわ》の国|最上《もがみ》の郡《こおり》から、牡鹿《おが》の郡へぬける裏山道のうち、もっとも嶮《けわ》しいといわれるやぐら峠である。酢川岳《すがわだけ》の山々が北に走っていくつかにわかれ、その谿谷《けいこく》が深く切込んだところに雄物川《おものがわ》の上流が白い飛沫《しぶき》をあげている。峠道はその谿流にそって、断崖の上を曲り曲り南北に走っているのだ。 [#ここから2字下げ] お馬が七|疋《ひき》駕籠《かご》七丁  あれは姫さまお国入り 七峰のこらず晴れました……。 [#ここで字下げ終わり]  霧の中を唄声《うたごえ》が近づいて来たと思うと、やがて院内《いんない》のほうから、旅人を乗せた馬の口を取って、十四、五になる馬子が登って来た、――五郎吉《ごろきち》馬子と呼ばれて、この裏山道では名物のようにいわれている少年である。 「これこれ、馬子さん」  馬上の旅人は唄のくぎりをまって、 「いま唄ったのは新庄《しんじょう》あたりの武家屋敷で手毬唄《てまりうた》によく聞いたものだが、この辺では馬子唄に唄うのか」  と話しかけた。五郎吉ははしこそうな眼をふりむけながら、 「おっしゃるとおりこれは手毬唄ですよお客さん、峰の茶店のおゆきさんがいつも唄っているんで、おいらもいつか覚えてしまったんだよ」 「そうだろう、どうも馬子唄にしてはすこしへんだと思ったよ。――けれど、それにしてもこんな山奥の峠茶屋で、武家屋敷の手毬唄を聞くというのは、何かわけがありそうだな」 「そりゃあわけがあるさ」  五郎吉はひとつうなずいていった。 「その茶店のおゆきさんの家は、もと新庄の在で古くからある大きな郷士だったんだ。旦那《だんな》は伝堂久右衛門《でんどうきゅうえもん》といって、新庄のお殿さまから槍《やり》を頂戴《ちょうだい》したくらい威勢のある人だったよ」 「ほう、それがどうしてまた峠茶屋などへ出るようになったのだね」 「久右衛門の旦那にはおゆきさんのほかに、その兄さんで甲太郎《こうたろう》という跡取がいたんでさ、ところが今から五年まえ、その甲太郎さんが十八の年に酢川岳へ猪射に出たままゆくえ知れずになってしまったんです。谷川へ落ちて死んだともいうし、江戸へ上って浪人隊に加ったともいうし。……ほんとうのことは誰にもわからずじまいでしたが、旦那はそれからすっかり世の中がいやになったといって、屋敷や田地を手離したうえ、おゆきさんと二人でこの峰の峠茶屋をはじめたというわけですよ。――だが、おいらが思うには」  と五郎吉は話をつづけた。「旦那がこの茶屋をはじめたのは、ゆくえ知れずになった甲太郎さんをさがすためじゃないかと思うんだ。上り下りの旅人のなかにもしや甲太郎さんがいやあしないかってね」 「そうかも知れないな」  馬上の旅人はいくどもうなずいた。 「いや、ほんとうにそうかも知れない、……なんにしてもお気の毒な話だ、私もそこで茶をよばれて行くとしようか」 「そら、もうあすこへ見えてますよ」  霧がうすれて、峰のあいだから朝日の光がまぶしいばかりにさしつける峠道の頂上、断崖のほうに五、六本の櫟《くぬぎ》林があって、その中に一軒の茶店がたっていた。――五郎吉が馬を曳《ひ》いて近よりながら、 「おゆきさん、お客さまだよ」  というと、十五、六になる美しい娘が走り出て来て、 「おつかれでございましょう、どうぞお休みなさいまし、五郎さん御苦労さまねえ」  と愛想よくまねきいれた。――さかしげな眼をした色白の少女で、いかにも由緒ある郷士の末らしく、貧しげな姿こそしているが身ごなし、かっこうには争えぬ気品がそなわっていた。 「今日はいいお日和《ひより》でございます」 「よく晴れたね」 「御道中もこれならお楽でございましょう。ただ今お茶をいれまする、――五郎さん遠くまでお供かえ」  娘はまめまめしく茶釜の前で働きながら少年のほうへ笑顔を向けた。 「ああ岩崎《いわさき》までお送り申すんだよ」 「おやそう、では湯沢《ゆざわ》を通ったら帰りにまた蕗餅《ふきもち》を買って来ておくれな、父さまの好物が切れて困っていたところなの」 「いいとも、買ってきてあげるよ」  このとき茶店の裏を、すんだ声で叫びながら一羽の鳥が飛び過ぎた、――旅人がおやという眼つきでふり返ると、娘は茶を運んできながら、 「郭公《ほととぎす》でございます」  といった。 [#7字下げ]一の二[#「一の二」は中見出し]  五郎吉の曳いた馬が、峠を下りて見えなくなるまで見送っていたおゆきは、 「――おゆき、おゆき」  と呼ぶ声に気づいて、 「はい、ただ今」  あわてて茶盆を手にしながら中へ入った。――奥はふた間の、粗末ながら掃除のいきとどいた居間で、父の久右衛門は床の上に半身を起し、碁盤を脇へ置いてひとり石をならべていたが、娘がくるとあらぬほうを見ながら、 「いまのお客は上りかな」 「いえ岩崎へお下りですって、三十ぐらいのお商人《あきんど》ふうのかたでしたわ」 「……そうか」 「それより、ねえ、父さま」  さびしげな父の横顔を見て、おゆきはわざと元気な声をあげながら、 「いま五郎さんに頼みましたから、今夜は蕗餅が召上れますわよ」  そういって店先へ出て行った。  兄のゆくえが知れなくなって五年、ここへきてからすでに三年、口ではあきらめたといいながら、やっぱり父も兄の帰りを待っているのだ、……そう思うとおゆきの胸はかなしさにしめつけられるようだった。  久右衛門ははじめから甲太郎は酢川岳の谷へ落ちて死んだものときめていた。そして現にさがしに行った人たちは、谷川の底にしずんでいた甲太郎の鉄砲をみつけて帰ったのである。同時にまた一方では、じつは江戸へ上って浪人隊に加ったのだという妙な噂もあった。――けれどおゆきは両方とも信じなかった。山に馴《な》れた兄が酢川岳などで過《あやまち》をするはずはない、兄は生きている、きっと生きているのだ。それも噂のように江戸で浪人隊に加っているのではなく、ほんとうは京へ上って勤王党《きんのうとう》の人々と一緒に働いているに違いない、おゆきはかたくそう信じていた。  兄は日頃から王政復活ということを口にしていた。  新庄藩は佐幕派《さばくは》の勢力が強かったから、友達にも父にももらしはしなかったが、おゆきにはよく話した。  ――おまえにはまだわかるまいが。  と兄は幼いおゆきにいった。  ――日本はいま危い瀬戸際にいるのだぞ、いろいろ悪いたくらみを持った外国人が、四方八方から日本を狙っているのだ。しかも徳川幕府にはこれを防ぐ力がない、ただ一つの方法は、天子様をいただいて日本中の人間がひとつになり、力をあわせてこれにあたるほかはないんだ。  ――日本中がひとつになるんだ、幕府も大名もない。全部の日本人が天子様をいただいてひとつになり、力をあわせて御国《おくに》をまもるんだ。  面を正していった兄の、火のような語気が今でもおゆきの耳にありありと残っている。……兄がゆくえ知れずになった時、おゆきはまだ十歳でしかなかったが、お兄さまは死んだのではない、京へいらしったのだとすぐに思った。そして久右衛門も口ではあきらめながら、心ではやっぱり生きていることを信じているのであろう。ことにこの頃では、通りかかる旅人があるたびに弱くなった老の眼を光らせながらそれとなく見送っているのであった。  ――お気の毒な父さま。  おゆきはそっとつぶやいた。おゆきにはわかっている、兄はもどりはしないのだ、王政復活のために命を投出した兄だ、新しい日本ができあがるまでは帰るはずはない。けれど、それをいったら父はどんなに落胆するであろう。  ――おかわいそうな父さま。おゆきがもういちどそうつぶやいた時である。新庄のほうからすさまじいひづめの音が聞えてきたと思うと、馬をあおって二人の武士が店先へ現れた、――馬上の一人が手綱をしぼりながら、 「これ娘、――」  と呼びかけた、「今朝この道を武士が一人通りはしなかったか」 「あの、お侍さま……」 「いや姿はかえているかも知れぬ。見馴れぬ男が通ったかどうだ」 「今しがた一人」  とおゆきは軒先へ出て、「五郎吉馬子の馬でお商人ふうのかたが岩崎へお下りなされました、まだ杉坂までは行くまいと存じます」 「――それだ!」  とつれの者が叫んだ。 「おくれてはならぬ、追おう」 「心得た」  二人は馬首をめぐらせると、鞭《むち》をあげてまっしぐらに峠を下って行った。 [#7字下げ]二の一[#「二の一」は中見出し]  日はすでに高くあがって、深い谷底を流れる谿流《けいりゅう》の音が、断崖に反響しながらさわやかに聞えてくる、森から森へなきうつる郭公の声は、それでなくてさえさびしい山中の静けさを、いっそうものわびしくするばかりであった。  ――何があったのかしら。  駆け去った二騎のあとを見送って、おゆきは妙な胸騒を感じた。 「おゆき、今のはなんだ」 「新庄のお侍さんらしいかたたちよ、襷《たすき》がけで汗止をして、袴《はかま》の股立《ももだち》を取っていました、誰かを追いかけて……」  おゆきはぴたりと黙った。――道をへだてた眼の前の雑木林の斜面から、旅支度をした一人の武士がずるずるとすべり降りて来たのだ。  ――あっ!  驚いておゆきが奥へ入ろうとすると、その武士は脱兎《だっと》のようににげこんで来て、 「お願いです、こ、これを」  と、いきなり持っている物をおゆきの手に押しつけた。 「これをお預かりください、命にかえても守るべきたいせつな品ですが、前後を追手にかこまれて絶体絶命です、決してあやしい物ではありませんからどうかお預かりください」  笠《かさ》をかぶっているのでよくわからないが、まだ年若な武士である。  衣服は無残に引裂け、肩から土を浴びている。――必死の声音に胸をうたれて、おゆきは思わず、その品を受取った。それは螺鈿《らでん》ぢらしの立派な文匣《ふばこ》であった。 「――かたじけない」  若い武士は笠へ手をかけて、「七生かけて御恩は忘れません。もしまた明朝までに拙者が参らなかったら、湯沢の柏屋と申す宿に、沖田伊兵衛《おきたいへえ》という――あッ」  若い武士は身をひるがえして、 「追手がまいった、お願い申すぞ!」  いいざま道へ走り出た。  いま若い武士がすべり降りて来た斜面から、四、五人の追手の武士が現れたのである。おゆきは見るより早く、茶釜《ちゃがま》とならんでいる空の甘酒釜の中へ、その文匣を入れて蓋《ふた》をした。  若い武士は湯沢のほうへ飛礫《つぶて》のように走って行ったが、追手はすぐに追いついたらしい。 「えいッ」 「やあーッ」  というはげしい気合がきこえてきた。  おゆきは裸で水を浴びたように、爪《つま》さきからぞっと総毛立った、父がなにかいったらしい、けれどそれも耳に入らず、ただすさまじい斬合いの気配に全身をしばりつけられていたが、――なかば夢中でふらふらと軒先へ出て行った。  晴れあがった暖かい日差の中で、白虹《はっこう》のように刃《やいば》が閃《ひらめ》いた。人影がさっと入乱れ、鋭い叫声がきこえたと思うと、追手の一人が道の上に倒れ、若い武士は断崖のほうへ身をしりぞいた。四、五人いた追手が今は二人になっている。しかし若い武士のほうも手傷を受けたらしく、正眼にかまえた体がふらふらと揺れていた。――と、その時、湯沢のほうからかっかっと蹄《ひづめ》の音がして、さっき五郎吉の馬を追って行った馬上の武士が二人、何か大声にわめきながら乗りつけて来るのが見えた。  ――ああいけない。  思わずおゆきが心に叫ぶ、 「えいッ、とう!」  絶叫が起って、追手の一人が体ごと叩《たた》きつけるように斬込んだ。若い武士は危くかわしたが、体をひねった刹那、右足を断崖から踏外したので、あっ! と声をあげながら、毬《まり》のように谷底へ――。  おゆきははっと両の袖《そで》で面を蔽《おお》ったが、一時に体中の力がぬけてよろよろとよろめいた、――もしそのとき走り出て来た久右衛門が支えてやらなかったら、おゆきは気絶して倒れたに違いない。 「おゆき! 入れというのがわからぬか」 「……父さま」 「しっかりせい、家へ入るのだ」  久右衛門がおゆきをかかえるようにして家の中へ入ろうとすると、馬上の武士二人と、追手の者二人が足早に近寄って来て、 「待て待て、その娘待て」  と呼止めた。――おゆきはふり返って、父の手から静かに身を放しながら、 「……はい」と臆《おく》したふうもなく相手を見た。 「いま谷底へ落ちた若者が、ここへ立寄って何か預けたそうだな、その品を出せ」 「なんでございますか」  おゆきは色もかえずにいった。 「いまのお侍さまはたしかにお寄りになりましたけれど、湯沢へ行く道をおたずねなさいましたばかりで、べつになにもお預かりしたようなものは」 「ないとはいわさぬぞ」  馬上の一人がひらりと馬を下り、鞭を片手にづかづかとおゆきの前へ立塞《たちふさ》がった。 「――でもわたくし何も」 「黙れ、今おまえは湯沢へ行く道をきかれたといったな」 「はい」 「たしかに湯沢への道をきいたか」 「……はい、たしかに」 「嘘だッ」相手はぴしッと鞭で地面をうちながら叫んだ。 [#7字下げ]二の二[#「二の二」は中見出し] 「嘘だ、嘘の証拠を聞かせてやろうか、いまの男は新庄藩の家中でこの付近の地理はよく知っているのだ、なにを戸惑って湯沢へ行く道などをきくわけがある!」 「――――」 「何か預かったのであろう、おとなしく出せばよし、かくしだてをすると」  いいながらぐいとおゆきの腕を掴《つか》もうとする、その手をぱっと払いながら、 「待たれい」  と久右衛門が割って出た。 「貴公らは新庄の御藩士と見受けるが、年少の娘をとらえて乱暴をなさるのはもっての外であろう、今こそ茶店をいたしておるが、わしもかつてはお目見以上のお扱いを受けていた、伝堂久右衛門という名ぐらいはお聞きおよびであろう」 「伝堂……あ! 待て鹿島《かしま》」  その時まで馬上にいた一人が、あわてて飛下りざま近よって来た。 「お許しください、失礼|仕《つかまつ》った」  慇懃《いんぎん》に会釈して、「いずれも存ぜぬことでござる。ひらにおゆるし願いたい、拙者は新庄藩の家中にて渡部金蔵《わたべきんぞう》、これは鹿島|源四郎《げんしろう》と申します。じつは――お家に不忠を働いて脱走した者を追詰め、その者はただいま谷底へ蹴落《けおと》しましたが、持って逃げたたいせつな品が見あたらず、追手の者の申すにはこの家へお預けするのを見たとのことで、失礼をも顧みずおたずねいたしたしだいでござる」 「……不忠とは、どのような不忠をいたしたのか、してまたその品とは何でござる」 「それらのことはお答えがなりかねます。もし事実お預かりになったものなら、ぜひともお差出しが願いたい」 「おゆき――」  久右衛門はふりかえって、 「おまえ何か預かったのか」 「……はい!」  おゆきは恐れ気もなく眼をあげていった。 「たしかにお預かりいたしました」 「――――」 「父さまのお名が出ましたからは、もう嘘は申せませぬ、たしかにお預かりいたしました……けれど、あなたがたにお渡し申すことはできませぬ」 「それは、どうして――」 「お武家さまがわたくしに頼むと仰せられた品です。伝堂久右衛門の娘として、いちどお約束をした以上はどんなことがあってもそれを反古《ほご》にすることはできませぬ」  断乎《だんこ》たる態度であった。――鹿島源四郎はぎらりと眼を光らせ、大股《おおまた》に一歩進みながら、 「失礼だが、それでは賊臣の同類ともなることを御承知なのだな」 「お言葉が過ぎまする」  おゆきはきっぱりといった。「わたくしを賊臣の同類とおっしゃるまえに、あなたがたが御忠臣であるという証拠をお見せくださいまし。そのうえで御挨拶《ごあいさつ》をいたしましょう、――もしまたそれが御不服で、力づくでも受取ると仰せられるなら」 「どうするというのだ」  おゆきは身をひるがえして家の中へとびこんだが、すぐに真槍《しんそう》の鞘《さや》を払って現れた。 「これは新庄のお殿さまから拝領のお槍、かなわぬながらお相手を致しますゆえ、わたくしを斬伏せてから家さがしをあそばせ」 「うぬ、――無礼なことを」  源四郎が思わずふみ出すのを、 「待て、待て鹿島」  と渡部金蔵が押し止めた。「殿よりいただいたお槍だ。無礼があってはならぬ、待て」 「だがあの品を」 「よいから待てというに」  おさえておいてふり返り、 「いまいわれた賊臣でない証拠を見せろというお言葉、いかにも道理でござる。その証拠を見せたらお渡し願えましょうな!」 「わたくしに合点がまいりましたら、お渡し申します」 「では新庄まで立ちもどり、証拠となるべきものを持参仕る、そのあいだかの品は相違なくお預かり願いますぞ」 「わたくしは伝堂の娘でございます」 「――――」  じっとおゆきの眼をみつめながら、渡部金蔵は大きくうなずいて踵《きびす》をかえした。  つれの者をうながして四人は去った、久右衛門はさっきから黙って始終を見ていたが。――四人の者が手負を馬に乗せ、新庄のほうへ去って行くのを見すますと、静かに娘の肩へ手をかけていった。 「おゆき、おまえは何歳になる?」 「まあ――何をおっしゃいますの。十五だということは御存じのくせに」 「立派だったぞ」  久右衛門の眼に光るものがあった。 「何もいわぬ、……立派だったぞ」 「父さま!」  おゆきは槍をおいてひしと久右衛門の胸へすがりついた。――張りつめていたればこそ、大人も及ばぬつよさを見せたけれど、その張がゆるめばやっぱり十五の少女である。喜びとも悲しみともつかぬ涙でぬれた頬を、おゆきは赤子のように父の胸へすりつけていた。 [#7字下げ]二の三[#「二の三」は中見出し]  家の中へ入ると、久右衛門は改めて、 「だがおゆき、おまえ御家中の士にあれほどさからったのは、ただ約束を守るというだけなのか、ほかに何か考えがあってしたことなのか」 「――父さま」  おゆきはまだ涙にぬれている眼をあげて、けれど唇には静かな微笑を見せながらいった。 「わたくし、あの若いお侍さまのようすを見たときに、このかたは悪いことをなすっているのではないとすぐに思いました」 「どうしてそれがわかる?」 「自分で悪いことをするような人は、他人をも疑うのが普通でしょう? あのかたはすこしもおゆきを疑わず、命にかえても守らなければならぬというほどたいせつなお品を、見も知らぬわたくしにお預けなさいました。自分は死んでもこの品は渡せないという御立派な態度は、もし父さまがごらんになったとしても、きっとおゆきと同じようになすったと存じますわ」  久右衛門は黙ってうなずいた。――由緒ある郷士の娘として、おゆきはつよさだけでなく、ものをみる正しい眼も持っていた。 「それでよく分かった。けれど……預けた本人が谷底へ落ちて死んでしまったとなると、その品をおまえはどうするつもりなのか。やがて新庄藩の者がまたとりもどしに来ると思うが」 「新庄まで行って来るには、馬で走っても明日の午《ひる》まではかかりますわ。わたくしそのあいだに湯沢へ行ってまいります」  おゆきは若い武士の残した言葉を思出しながらいった。 「あのお侍さまは、もし明朝までに来なかったら、湯沢の柏屋にいる沖田伊兵衛という人のところへ、とおっしゃいました。追手が来たのでそのあとはうかがいませんでしたけれど、そこへとどけてくれというおつもりに違いないと思いますの」 「もし途中でみつかったら」 「いえ、裏の断崖の水汲《みずくみ》道をつたって、杉坂を越えれば佐竹《さたけ》様の御領分です。大丈夫みつからずに行って来られますわ」 「では早いほうがいいな、――いや待て!」  久右衛門はきっと道のほうを見やった。 「……なんですの」 「見張の者がいる」  おゆきが驚いてふり返ると、道をへだてた斜面の雑木林の中で、木陰にさっと身をかくした者があるのをみとめた。あいだが遠いので話はきこえまいが、今までこっちのようすを見張っていたらしい。  おゆきはそ知らぬ顔で立つと、茶釜《ちゃがま》の側へ行って焚木《たきぎ》をくべながら、静かな美しい声で唄《うた》いだした。 [#ここから2字下げ] やぐら峠は七曲り  谷間七つは底知れず 峰の茶屋まで霧がまく……。 [#ここで字下げ終わり] [#7字下げ]三の一[#「三の一」は中見出し]  雲ひとつない空にこうこうと月がかがやいていた。  谿谷《けいこく》をはさんだ峰々は墨絵のおぼろに似て、あるいはゆるやかな、あるいはけわしい線を描きつつ酢川岳のほうへ夢のように霞《かす》んでいく。……春とはいえ夜に入ると寒気はきびしく、枯草や道の石塊にむすんだ霜が、月を浴びてきらきらと光っていた。  おゆき茶屋のほうから猫のように足音を忍ばせて、黒い人影が峠路の折口にある大岩の陰へもどって来た。……そこには覆面の武士が三人かたまっていた。 「どうだ、あやしいようすはないか」 「何もない、――娘は居間で糸車を廻《まわ》しながら、例の手毬唄《てまりうた》を唄っている」 「ではほんとうに渡部氏の来るのを待っているのかな」 「そうとすれば」  と一人が身ぶるいしながらいった、「こうやって霜に打たれて見張をする必要はないぞ」 「いや、万一ということがある」 「そうだとも、渡部氏のもどって来るまでは油断してはならぬ」  そういって彼等は岩陰へ身を寄せた。  その時、――彼等のいるところから二、三十歩はなれた枯草の中を、するすると峠路の下のほうへ動いて行く影があった。身の丈に近い笹藪《ささやぶ》と雑草の中を、鼬《いたち》のようにす早くぬけて行くと、ひと曲り曲った峠路の上へひょいと姿を現した、……それは五郎吉馬子であった。  五郎吉は道傍《みちばた》の杉の木につないである馬に近寄って、平首をたたきながらひくく、 「おい兄弟、どうもへんだと思ったら、おゆきさんをねらってるやつがあるんだ、おいらはちょっと知らせに行くから、おめえここで待っててくんな、いいか、さびしくっても声を立てるんじゃねえぞ」  そういって五郎吉は側を離れた。  道を越して断崖のほうへ行くと、谷へ降りるあるかなきかの小道がある、五郎吉はまるで猿のように身軽く、その小道を伝っておゆき茶屋の裏手へと急いだ。――茶屋の裏はすぐ断崖で、その水汲道はちょうどその厨《くりや》の前へ出る、五郎吉がようすをうかがうと、ぶうんぶうんという糸車の静かなうなりのなかに、おゆきの手毬唄がきこえていた。 「……おゆきさん、――おゆきさん」  五郎吉は声をしのばせて呼んだ。 「五郎だよ、おゆきさん」  声がきこえたのか、唄がやんで厨へ出て来る娘の気配がした。――音もなく明ける雨戸、五郎吉は待ちかねてとびこむと、 「おゆきさん大へんだ、表であやしいやつが」 「静かになさい」  おゆきは急いでさえぎりながら、 「それよりあたし五郎さんの帰りを待っていたのよ、馬はどうして? 見張の人たちに気づかれやしなかった?」 「大丈夫だ」五郎吉は大きくうなずいて、 「へんなやつがいるもんだから馬をつないどいて先にようすを見たのさ、そうするとこの家をねらっていることがわかったから、裏道を伝って知らせに来たんだ。馬は大曲りの杉につないであるよ」 「ありがとう、よくそうしてくれたわね五郎さん、あたしあなたの馬を借りようと思って待っていたの、これで大切なお約束をはたすことができるわ」 「大切な約束ってなにさ」 「あとで父さまにきいてちょうだい、あたしはすぐに出かけるわ」  おゆきは若い武士の預けて行った文匣《ふばこ》を取って来ると、わけがわからずにぼんやりしている五郎吉を押しやって、 「それからお願いがあるの、あたしのかわりに糸車を廻して、あの手毬唄を唄っていてちょうだい、見張の者にあたしがいると思わせるのよ」 「いいとも。だけどおいら、とてもおゆきさんみたいな声じゃ唄えねえや」 「大丈夫よ、五郎さんの声はあたし以上だわ、頼んでよ!」  そういうともう、おゆきは裏手へとすべるように出て行った。  断崖の岩をえぐって造った桟道である。一歩をあやまっても千仞《せんじん》の谷底へ落ちてしまう。しかし馴《な》れているおゆきは身も軽く、五郎吉の通って来たのを逆になんなく峠路へ出た。……明るい月光は昼のようで、うっかりすると折口の岩にいる見張の者に発見される。おゆきは身を伏せながら、五郎吉の馬のつないであるところまで息もつまる思いでたどりついた。 [#7字下げ]三の二[#「三の二」は中見出し]  おゆきは肩で息をしていた。  湯沢の町はずれにある宿、柏屋の奥のひと間で、いま沖田伊兵衛と向かい合っているのだ。  ――伊兵衛は四十あまりの眼の鋭い武士で、言葉|訛《なまり》から察すると薩摩《さつま》の人らしかった。うすぐらい行燈《あんどん》の光でじっとおゆきは相手の面をみつめながら、……今朝からのできごとを手短に話した。 「――御苦労でした」  話をききおわった伊兵衛は、鋭い眼にありありと感動の色をうかべながら、 「同志の者のために思わぬ御迷惑をかけました。拙者からあつくお礼を申し上げます」 「つきましては」  おゆきは容《かたち》を正して、 「この文匣の中には何が入っているのか、お聞かせ願いたいと存じます」 「……それを聞いて、どうなさる」  伊兵衛はぴりっと眉《まゆ》をあげた。――おゆきは臆《おく》せずに相手を見て、 「わたくしはあのかたを正しいおかただと存じました、けれど万一にもそうでないとしたら、失礼ではございますけれど、あなたにお渡し申すことはできませぬ」 「……もし話さぬとしたら?」 「このまま持って帰ります」  伊兵衛はぴたっと沈黙した。おゆきはまたたきもせずに相手をみつめている、……行燈の油皿でじりじりと油の焼ける音が、寝しずまった家内に生物のつぶやきのごとくきこえている。 「――よろしい、話しましょう」  伊兵衛はやがていった。「この中には、新庄藩主|戸沢上総介《とざわかずさのすけ》殿の誓書が入っているのです。尊王|攘夷《じょうい》を朝廷に誓い奉る誓書です。――新庄藩は佐幕論でかたまっていますが藩主上総介殿は尊王の心にあつく、ひそかに京へこの御誓書を奉り、忠節の誠をお誓い申し上げるのです」 「……まあ」 「おわかりになりましたか」  伊兵衛は静かに眼をあげて、 「佐幕派の家老たちがそれと知って、八方から邪魔をしていたのですが、ようやく同志|新島貞吉《にいじまさだきち》がこれを受取る手はずをつけたのです」 「ではあのかたが……?」 「お預けした男が新島です、これで彼の役目は立派にはたせました、何もかもあんたのお蔭《かげ》です、――お礼を申します」  伊兵衛は両手を膝《ひざ》におじぎをした。  おゆきはほっと溜息《ためいき》をついた。やっぱり自分の眼は正しかった、よいことをしたのだ。……兄が生きているとすれば、この人たちと同じようにどこかで天子様のために働いているに違いない、そして自分のしたことがもし耳に入ったなら、兄もきっとほめてくれるであろう。 「ではこれでお暇《いとま》を申します」  おゆきは立ちあがった。 「お待ちなさい、――帰るのはいいが、もし新庄藩の者が受取りに来たらどうなさるか」 「さあ……それは」 「この文匣がなくてはいけないでしょう」  伊兵衛はそういって座をすべり、うやうやしく紐《ひも》をとくと、中に入っていた誓書を取出し、そのあとへ手早く偽筆の誓書を書いて入れた。 「これでよい、これを持ってお帰りなさい」  もとどおり紐をむすんで差出しながら、 「せっかくのお骨折にもお礼をすることができません、しかしこの御恩は終生忘れませんよ。……それから取りまぎれてうかがわなかったが、お名前を聞かせてください」 「はい、伝堂ゆきと申します」 「――伝堂、……おゆきどの、――」 「ただ今では茶店をいたしておりますけれど、以前は郷士で父は久右衛門と申します」  伊兵衛は急にあっとひくく叫んだ。そしてしばらくはおゆきの面を茫然《ぼうぜん》と見まもっていたが、やがて驚きをしずめながらいった。 「もしや、あなたに兄さんが……」 「あります、ありますわ」  おゆきも思わず膝をすり寄せた。「甲太郎と申しますの。五年以前ゆくえ知れずになりましたが、御存じでございますの?」 「――奇縁だ」伊兵衛はうめくようにいった。 「知っています、知っていますとも。伝堂甲太郎は拙者の親友です。京ではいま尊王志士のあいだになくてはならぬ人物として活躍していますよ。――故郷に久右衛門という父とおゆきという妹がいると、いつか聞いたのを覚えていました。あなただったのですね」 「まあ……兄さまが」  おゆきはうれしさにせきあげながら、 「そんなに、立派になっていますの?」 「倒幕の戦が始れば一方の旗頭です。あなたのことを話したらどんなによろこぶか、……じつに思いがけぬみやげができました」 「わたくしもこれで安心いたしました」  おゆきはそっと涙をふきながらいった、「どうぞ兄にお会いになりましたら、ゆきは父さまと一緒に元気で暮しているとお伝えくださいまし」 「承知しました、――やがて日本の新しい時代が来るまで、あなたもお父上もどうか御無事で」  伊兵衛の眼にも温かい涙が光っていた。 「おい、とうとう夜が明けたぞ」 「――ついに何ごともなしか」  峠路の岩陰から、見張役の三士がふるえながら現れた。  朝はふたたびやぐら峠に来た。谷間は渦巻く濃霧で、向こうの峰をすっかりつつんでいる。日の光はまだとどかないが、頭上の空はぬぐったように晴れて、今日もまたすばらしい晴だということを示している。 [#ここから2字下げ] やぐら峠は七曲り  谷間七つは底知れず……。 [#ここで字下げ終わり]  霧の中から唄声《うたごえ》が近づいて来た。馬を曳《ひ》いた五郎吉である。彼はちらと侍たちのほうへ嘲《あざけ》りの微笑をくれ、つんと鼻を突上げながら、 [#2字下げ]峰の茶屋まで霧が巻く……。  と唄って行く。――するとその時、茶店の表が明いて、おゆきが晴々とした笑顔を見せながら、五郎吉のあとにつけて唄った。 [#ここから2字下げ] お馬が七|疋《ひき》駕籠《かご》七丁  あれは姫さまお国入り……。 [#ここで字下げ終わり]  二人の声はまるで凱歌《がいか》のように、霧を揺《ゆす》り谷にひびいて高々と空までのぼっていった。 [#2字下げ]七峰のこらず晴れました……と。 底本:「春いくたび」角川文庫、角川書店    2008(平成20)年12月25日初版発行 初出:「少女倶楽部増刊号」大日本雄辯會講談社    1939(昭和14)年2月 ※表題は底本では、「峠の手毬唄《てまりうた》」となっています。 ※初出時の表題は「勤王手毬唄」です。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:noriko saito 2022年11月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。