三四郎 夏目金之助 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)眼《め》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)此|爺《ぢい》さん [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)〻 /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)うと/\ *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ (例)〔ve'rite'〕 アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください https://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html ------------------------------------------------------- [#7字下げ]一の一[#「一の一」は中見出し]  うと/\として眼《め》が覚《さ》めると女は何時《いつ》の間にか、隣《とな》りの爺さんと話《はなし》を始めてゐる。此|爺《ぢい》さんは慥《〔たし〕》かに前の前の駅から乗つた田舎者《いなかもの》である。発車|間際《まぎは》に頓狂な声を出して、馳け込んで来《き》て、いきなり肌《はだ》を抜《ぬ》いだと思つたら脊中《せなか》に御灸の痕《あと》が一杯あつたので、三四郎の記憶に残つてゐる。爺さんが汗《あせ》を拭いて、肌《はだ》を入れて、女の隣《とな》りに腰を懸《か》けた迄よく注意して見てゐた位である。  女とは京都からの相乗《あひのり》である。乗つた時から三四郎の眼《め》に着《つ》いた。第一色が黒い。三四郎は九州から山陽線に移つて、段〻京大坂へ近付いてくるうちに、女の色が次第に白くなるので何時《いつ》の間《ま》にか故郷を遠|退《の》く様な憐れを感じてゐた。それで此女が車室に這入つて来た時は、何となく異性の味方を得た心持がした。此女の色は実際九州|色《いろ》であつた。  三輪田の御光さんと同《おんな》じ色である。国を立つ間際《まぎは》迄は、御光さんは、うるさい女であつた。傍《そば》を離れるのが大いに難有《〔ありがた〕》かつた。けれども、斯《か》うして見ると、御光さんの様なのも決して悪《わる》くはない。  唯顔|立《だち》から云ふと、此女の方が余程上等である。口に締りがある。眼が判明《はつきり》してゐる。額《ひたひ》が御光さんの様にだゞつ広《ぴろ》くない。何となく好《い》い心持に出来上つてゐる。それで三四郎は五|分《ふん》に一度位は眼《め》を上《あ》げて女の方を見てゐた。時々《とき/″\》は女と自分の眼《め》が行き中《あた》る事もあつた。爺さんが女の隣りへ腰を掛けた時などは、尤《〔もっと〕》も注意して、出来る丈長い間、女の様子を見てゐた。其時女はにこりと笑つて、さあ御掛けと云つて爺さんに席を譲つてゐた。夫《それ》からしばらくして、三四郎は眠くなつて寐《ね》て仕舞つたのである。  其|寐《ね》てゐる間《あひだ》に女と爺さんは懇意になつて話《はなし》を始めたものと見える。眼《め》を開《あ》けた三四郎は黙《だま》つて二人《ふたり》の話《はなし》を聞いて居た。女はこんな事を云ふ。――  小供の玩具《おもちや》は矢っ張り広島より京都の方が安くつて善いものがある。京都で一寸《ちよつと》用があつて下《お》りた序《ついで》に、蛸《たこ》薬師の傍《そば》で玩具《おもちや》を買つて来た。久し振で国へ帰つて小供に逢《あ》ふのは嬉しい。然し夫《おつと》の仕送《しおく》りが途切れて、仕方なしに親《おや》の里へ帰るのだから心配だ。夫《おつと》は呉《くれ》に居て長《なが》らく海軍の職工をしてゐたが戦争中は旅順の方に行つてゐた。戦争が済んでから一旦帰つて来た。間《ま》もなくあつちの方が金が儲かると云つて、又大連へ出稼《でかせ》ぎに行つた。始めのうちは音信《たより》もあり、月々《つき/″\》のものも几帳面《ちやん/\》と送つて来《き》たから好《よ》かつたが、此|半歳許《はんとしばかり》前から手紙も金《かね》も丸で来なくなつて仕舞つた。不実《ふじつ》な性質《たち》ではないから、大丈夫だけれども、何時迄《いつまで》も遊んで食《たべ》てゐる訳には行かないので、安否のわかる迄は仕方がないから、里《さと》へ帰つて待《まつ》てゐる積《つもり》だ。  爺さんは蛸薬師《たこやくし》も知らず、玩具《おもちや》にも興味がないと見えて、始めのうちは只はい/\と返事丈してゐたが、旅順以後急に同情を催ふして、それは大いに気の毒だと云ひ出した。自分の子も戦争中兵隊にとられて、とう/\彼地《あつち》で死んで仕舞つた。一体戦争は何の為にするものだか解《わか》らない。後《あと》で景気でも好《よ》くなればだが、大事な子は殺される、物価《しよしき》は高くなる。こんな馬鹿気《ばかげ》たものはない。世《よ》の好《い》い時分に出稼《でかせ》ぎなどゝ云ふものはなかつた。みんな戦争の御|蔭《かげ》だ。何しろ信心《しんじん》が大切だ。生きて働らいてゐるに違《ちがひ》ない。もう少し待つてゐれば屹度《〔きっと〕》帰つて来る。――爺さんはこんな事を云つて、頻りに女を慰めて居た。やがて汽車が留《とま》つたら、では御大事にと、女に挨拶をして元気よく出《で》て行つた。 [#7字下げ]一の二[#「一の二」は中見出し]  爺《ぢい》さんに続《つゞ》いて下《お》りたものが四人程あつたが、入れ易《かは》つて、乗つたのはたつた一人《ひとり》しかない。固《もと》から込み合つた客車でもなかつたのが、急に淋しくなつた。日の暮れた所為《せゐ》かも知れない。駅夫が屋根をどし/\踏んで、上から灯《ひ》の点《つ》いた洋燈《らんぷ》を挿《さ》し込んで行く。三四郎は思ひ出した様に前の停車場で買つた弁当を食ひ出した。  車が動き出して二分《にふん》も立つたらうと思ふ頃例の女はすうと立つて三四郎の横を通り越して車室《しやしつ》の外《そと》へ出て行つた。此時女の帯の色が始めて三四郎の眼に這入《はい》つた。三四郎は鮎の煮浸《にびたし》の頭《あたま》を啣《〔くわ〕》へた儘女の後姿《うしろすがた》を見送つてゐた。便所に行つたんだなと思ひながら頻《しき》りに食つてゐる。  女はやがて帰つて来《き》た。今度は正面が見えた。三四郎の弁当はもう仕舞|掛《がけ》である。下《した》を向いて一生懸命に箸《はし》を突込んで二口三口《ふたくちみくち》頬張つたが、女は、どうもまだ元《もと》の席へ帰らないらしい。もしやと思つて、ひよいと眼を挙げて見ると矢っ張り正面に立つてゐた。然し三四郎が眼を挙げると同時に女は動き出した。只三四郎の横を通つて、自分の座へ帰るべき所を、すぐと前へ来て、身体《からだ》を横へ向けて、窓から首を出して、静かに外《そと》を眺め出した。風が強くあたつて、鬢《びん》がふわ/\する所が三四郎の眼《め》に這入《はい》つた。此時三四郎は空《から》になつた弁当の折《をり》を力《ちから》一杯に窓から放り出した。女の窓と三四郎の窓は一軒|置《おき》の隣であつた。風に逆《さから》つて抛《な》げた折《をり》の蓋《ふた》が白《しろ》く舞ひ戻つた様に見えた時、三四郎は飛んだ事をしたのかと気が付いて、不途《〔ふと〕》女の顔を見た。顔は生憎《〔あいにく〕》列車の外《そと》に出てゐた。けれども女は静かに首を引《ひ》っ込めて更紗《〔さらさ〕》の手帛《はんけち》で額《ひたひ》の所を丁寧に拭き始めた。三四郎は兎も角も謝《あや》まる方が安全だと考へた。 「御|免《めん》なさい」と云つた。  女は「いゝえ」と答へた。まだ顔を拭いてゐる。三四郎は仕方なしに黙《だま》つて仕舞つた。女も黙《だま》つて仕舞つた。さうして又首を窓から出した。三四人の乗客は暗《くら》い洋燈《らんぷ》の下《した》で、みんな寐《ね》ぼけた顔をしてゐる。口《くち》を利いてゐるものは誰《だれ》もない。汽車丈が凄じい音《おと》を立てゝ行く。三四郎は眼《め》を眠《ねむ》つた。  しばらくすると「名古屋はもう直《ぢき》でせうか」と云ふ女の声がした。見ると何時《いつ》の間《ま》にか向き直《なほ》つて、及《およ》び腰になつて、顔を三四郎の傍《そば》迄持つて来てゐる。三四郎は驚ろいた。 「さうですね」と云つたが、始めて東京へ行くんだから一向要領を得ない。 「此分《このぶん》では後《おく》れますでせうか」 「後《おく》れるでせう」 「あんたも名古屋へ御下《おおり》で……」 「はあ、下《お》ります」  此汽車は名古屋|留《どま》りであつた。会話は頗《〔すこぶ〕》る平凡であつた。只女が三四郎の筋向《すぢむか》ふに腰を掛けた許《〔ばかり〕》である。それで、しばらくの間は又汽車の音《おと》丈になつて仕舞ふ。  次《つぎ》の駅で汽車が留つた時、女は漸く三四郎に名古屋へ着いたら迷惑でも宿屋へ案内して呉れと云ひだした。一人《ひとり》では気味が悪《わる》いからと云つて、頻《しき》りに頼む。三四郎も尤もだと思つた。けれども、さう快《こゝろ》よく引き受ける気にもならなかつた。何しろ知らない女なんだから、頗る蹰躇《〔ちゅうちょ〕》したにはしたが、断然断わる勇気も出なかつたので、まあ好《い》い加減な生返事《なまへんじ》をして居た。其うち汽車は名古屋へ着いた。 [#7字下げ]一の三[#「一の三」は中見出し]  大きな行李《こり》は新橋迄預けてあるから心配はない。三四郎は手頃なズツクの革鞄《かばん》と傘《かさ》丈持つて改札場を出た。頭《あたま》には高等学校の夏帽を被つてゐる。然し卒業したしるしに徽章丈は捥《も》ぎ取つて仕舞つた。昼間《ひるま》見ると其処《そこ》丈色が新らしい。後《うしろ》から女が尾《つ》いて来る。三四郎は此帽子に対して少々極りが悪《わる》かつた。けれども尾《つ》いて来るのだから仕方がない。女の方では、此帽子を無論たゞの汚《きた》ない帽子と思つて居る。  九時半に着くべき汽車が四十分程|後《おく》れたのだから、もう十時は過《まは》つてゐる。けれども暑い時分だから町はまだ宵の口の様に賑やかだ。宿屋《やどや》も眼の前に二三軒ある。たゞ三四郎にはちと立派過ぎる様に思はれた。そこで電気燈の点《つ》いてゐる三階作りの前を澄して通り越して、ぶら/\歩行《ある》いて行つた。無論不案内の土地だから何所《どこ》へ出《で》るか分らない。只|暗《くら》い方へ行つた。女は何とも云はずに尾《つ》いて来《く》る。すると比較的淋しい横町の角《かど》から二軒目に御宿《おやど》と云ふ看板が見えた。之《〔これ〕》は三四郎にも女にも相応な汚《きた》ない看板であつた。三四郎は鳥渡《ちよつと》振り返つて、一口《ひとくち》女にどうですと相談したが、女は結構だと云ふんで、思ひ切つてずつと這入つた。上がり口で二人連《ふたりづれ》ではないと断わる筈の所を、入《〔い〕》らつしやい、――どうぞ御上《おあが》り――御案内――梅の四番|抔《〔など〕》とのべつに喋舌《しやべ》られたので、已《〔やむ〕》を得ず無言の儘|二人《ふたり》共梅の四番へ通されて仕舞つた。  下女が茶を持つてくる間《あひだ》二人《ふたり》はぼんやり向《むか》ひ合つて坐つてゐた。下女が茶を持つて来《き》て、御風呂をと云つた時は、もう此婦人は自分の連《つれ》ではないと断わる丈の勇気が出なかつた。そこで手拭をぶら下《さ》げて、御先《おさき》へと挨拶をして、風呂場へ出て行つた。風呂場は廊下の突き当りで便所の隣りにあつた。薄暗《うすぐら》くつて、大分不潔の様である。三四郎は着物を脱《ぬ》いで、風呂桶の中へ飛び込んで、少し考へた。こいつは厄介だとぢやぶ/\遣《や》つてゐると、廊下に足音がする。誰《だれ》か便所へ這入《〔はい〕》つた様子である。やがて出て来た。手を洗ふ。それが済んだら、ぎいと風呂場の戸を半分|開《あ》けた。例の女が入口《いりぐち》から「ちいと流《なが》しませうか」と聞いた。三四郎は大きな声で、 「いえ沢山です」と断わつた。然し女は出て行かない。却《〔かえ〕》つて這入つて来た。さうして帯を解き出した。三四郎と一所に湯を使ふ気と見える。別に恥づかしい様子も見えない。三四郎は忽《〔たちま〕》ち湯槽《ゆぶね》を飛び出した。そこそこに身体《からだ》を拭いて座敷へ帰つて、坐蒲団の上に坐《すは》つて、少なからず驚ろいてゐると、下女が宿《やど》帳を持つて来た。  三四郎は宿《やど》帳を取り上げて、福岡県|京都郡《〔みやこぐん〕》真崎村小川三四郎二十三年学生と正直に書いたが、女の所へ行つて全く困つて仕舞つた。湯から出る迄待つて居れば好《よ》かつたと思つたが、仕方がない。下女がちやんと控えてゐる。已を得ず同県同郡同村同姓|花《はな》二十三年と出鱈目《〔でたらめ〕》を書いて渡した。さうして頻りに団扇《〔うちわ〕》を使つてゐた。  やがて女は帰つて来た。「どうも、失礼致しました」と云つてゐる。三四郎は「いゝや」と答へた。  三四郎は革鞄《かばん》の中《なか》から帳面を取り出して日記をつけ出した。書く事も何にもない。女がゐなければ書く事が沢山ある様に思はれた。すると女は「一寸《ちよいと》出て参ります」と云つて部屋を出て行つた。三四郎は益《〔ますます〕》日記が書けなくなつた。何所《どこ》へ行つたんだらうと考へ出した。 [#7字下げ]一の四[#「一の四」は中見出し]  そこへ下女が床《とこ》を延《の》べに来《く》る。広い蒲団を一枚しか持つて来ないから、床《とこ》は二つ敷かなくては不可《いけ》ないと云ふと、部屋が狭いとか、蚊帳《かや》が狭いとか云つて埒《〔らち〕》が明かない。面倒がる様にも見える。仕舞には只今番頭が一寸《ちよつと》出《で》ましたから、帰つたら聞いて持つて参りませうと云つて、頑固に一枚の蒲団を蚊帳《かや》一杯に敷いて出て行つた。  夫から、しばらくすると女が帰つて来《き》た。どうも遅《おそ》くなりましてと云ふ。蚊帳《かや》の影で何かしてゐるうちに、がらん/\といふ音《おと》がした。小供に見舞《みやげ》の玩具《おもちや》が鳴つたに違ない。女はやがて風呂敷包を元の通りに結んだと見える。蚊帳《かや》の向ふで「御先《おさき》へ」と云ふ声がした。三四郎はたゞ「はあ」と答へた儘で、敷居に尻を乗せて、団扇を使つてゐた。いつそ此儘で夜を明《あ》かして仕舞ふかとも思つた。けれども蚊がぶん/\来《く》る。外《そと》ではとても凌《しの》ぎ切れない。三四郎はついと立つて、革鞄《かばん》の中《なか》から、キヤラコの襯衣《しやつ》と洋袴下《づぼんした》を出して、それを素肌《すはだ》へ着けて、其上から紺の兵児帯《〔へこおび〕》を締《し》めた。それから西洋手拭《タウエル》を二筋《ふたすぢ》持つた儘《まゝ》蚊帳《かや》の中《なか》へ這入つた。女は蒲団の向ふの隅でまだ団扇を動かしてゐる。 「失礼ですが、私《わたし》は疳《かん》性で他人《ひと》の布団に寐るのが嫌だから……少し蚤除《のみよけ》の工夫を遣《や》るから御免なさい」  三四郎はこんな事を云つて、あらかじめ、敷《し》いてある敷布《シート》の余つてゐる端《はじ》を女の寐てゐる方へ向けてぐる/\捲《ま》き出した。さうして布団の真中《まんなか》に白い長い仕切りを拵《〔こし〕》らへた。女は向《むかふ》へ寐返りを打つた。三四郎は西洋手拭《タウエル》を広《ひろ》げて、これを自分の領分に二枚続きに長く敷いて、其上に細長く寐た。其晩は三四郎の手も足も此幅の狭い西洋手拭《タウエル》の外《そと》には一寸も出《で》なかつた。女とは一言《ひとこと》も口《くち》を利かなかつた。女も壁を向いた儘|凝《じつ》として動かなかつた。  夜はやう/\明けた。顔を洗つて膳に向つた時、女はにこりと笑つて、「昨夜《ゆふべ》は蚤《のみ》は出ませんでしたか」と聞いた。三四郎は「えゝ、難有《〔ありがと〕》う、御蔭さまで」と云ふ様な事を真面目《まじめ》に答へながら、下《した》を向いて、御猪口《おちよく》の葡萄|豆《まめ》をしきりに突つつき出した。  勘定をして宿《やど》を出《で》て、停車場へ着いた時、女は始めて、関西線で四日市の方へ行くのだと云ふ事を三四郎に話した。三四郎の汽車は間《ま》もなく来《き》た。時間の都合で女は少し待ち合せる事となつた。改札場の際《きは》迄送つて来た女は、 「色々御厄介になりまして、……では御機嫌よう」と丁寧に御辞儀をした。三四郎は革鞄《かばん》と傘《かさ》を片手に持つた儘、空《あい》た手で例の古《ふる》帽子を取つて、只《たゞ》一言《ひとこと》、 「左様《さよ》なら」と云つた。女は其顔を凝《じつ》と眺《なが》めてゐたが、やがて落付いた調子で、 「あなたは余つ程度胸のない方《かた》ですね」と云つて、にやりと笑つた。三四郎はプラツト、フオームの上へ弾《はぢ》き出された様な心持がした。車の中《なか》へ這入つたら両方の耳が一層|熱《ほて》り出した。しばらくは凝《じ》つと小さくなつてゐた。やがて車掌の鳴らす口《くち》笛が長い列車の果《はて》から果《はて》迄響き渡つた。列車は動き出す。三四郎はそつと窓から首《くび》を出した。女はとくの昔《むかし》に何処《どこ》かへ行つて仕舞つた。大きな時計ばかりが眼《め》に着《つ》いた。三四郎は又そつと自分の席に返つた。乗合《のりあひ》は大分居る。けれども三四郎の挙動に注意する様なものは一人《ひとり》もない。只筋向ふに坐《すは》つた男が、自分の席に返《かへ》る三四郎を一寸《ちよいと》見た。 [#7字下げ]一の五[#「一の五」は中見出し]  三四郎は此男に見られた時、何となく極《きま》りが悪《わる》かつた。本《ほん》でも読んで気を紛らかさうと思つて、革鞄《かばん》を開《あ》けて見ると、昨夜《ゆふべ》の西洋手拭《タウエル》が、上《うへ》の所にぎつしり詰《つま》つてゐる。そいつを傍《わき》へ掻き寄せて、底《そこ》の方から、手に障《さわ》つた奴《やつ》を何でも構はず引き出すと、読んでも解《わか》らないベーコンの論文集が出た。ベーコンには気の毒な位薄つぺらな粗末な仮綴《かりとぢ》である。元来汽車の中《うち》で読む了見もないものを、大きな行李に入れ損《そく》なつたから、片付《かたづ》ける序に提革鞄《さげかばん》の底へ、外《ほか》の二三冊と一所に放り込んで置いたのが、運悪《うんわる》く当選したのである。三四郎はベーコンの二十三|頁《ページ》を開《ひら》いた。他《ほか》の本《ほん》でも読めさうにはない。ましてベーコン抔は無論読む気にならない。けれども三四郎は恭しく二十三|頁《ページ》を開《ひら》いて、万遍《まんべん》なく頁《ページ》全体を見廻してゐた。三四郎は二十三|頁《ページ》の前で一応|昨夜《ゆふべ》の御浚《おさらひ》をする気である。  元来あの女は何《なん》だらう。あんな女が世の中《なか》に居るものだらうか。女と云ふものは、ああ落付いて平気でゐられるものだらうか。無教育なのだらうか、大胆なのだらうか。それとも無邪気なのだらうか。要するに行ける所迄行つて見なかつたから、見当が付かない。思ひ切つてもう少し行つて見ると可《よ》かつた。けれども恐ろしい。別れ際にあなたは度胸のない方だと云はれた時には、喫驚《びつくり》した。二十三年の弱点が一度に露見した様な心持であつた。親《おや》でもあゝ旨《うま》く言ひ中《あ》てるものではない。……  三四郎は此所《こゝ》迄|来《き》て、更《さら》に悄然《しよげ》て仕舞つた。何所《どこ》の馬の骨だか分《わか》らないものに、頭《あたま》の上《あ》がらない位|打《どや》された様な気がした。ベーコンの二十三|頁《ページ》に対しても甚《〔はなは〕》だ申訳がない位に感じた。  どうも、あゝ狼狽しちや駄目だ。学問も大学生もあつたものぢやない。甚だ人格に関係してくる。もう少しは仕様があつたらう。けれども相手が何時《いつ》でもあゝ出《で》るとすると、教育を受けた自分には、あれより外《ほか》に受け様がないとも思はれる。すると無暗に女に近付いてはならないと云ふ訳になる。何だか意気地《いくぢ》がない。非常に窮屈だ。丸で不具《かたわ》にでも生れた様なものである。けれども……  三四郎は急に気を易《〔か〕》へて、別の世界の事を思ひ出した。――是から東京に行く。大学に這入る。有名な学者に接触する。趣味品性の具《そなは》つた学生と交際する。図書館で研究をする。著作をやる。世間が喝采する。母が嬉しがる。と云ふ様な未来をだらしなく考へて、大いに元気を回復して見ると、別に二十三|頁《ページ》の中《なか》に顔《かほ》を埋《うづ》めてゐる必要がなくなつた。そこでひよいと頭《あたま》を上《あ》げた。すると筋向ふにゐたさつきの男がまた三四郎の方を見てゐた。今度は三四郎の方でも此男を見|返《かへ》した。  髭《ひげ》を濃《こ》く生《は》やしてゐる。面長《おもなが》の瘠《やせ》ぎすの、どことなく神主《かんぬし》じみた男であつた。たゞ鼻筋が真直《まつすぐ》に通つてゐる所丈が西洋らしい。学校教育を受けつゝある三四郎は、こんな男を見ると屹度教師にして仕舞ふ。男は白地の絣《かすり》の下《した》に、丁重に白い繻絆《〔じゅばん〕》を重ねて、紺足袋を穿《は》いてゐた。此服装から推して、三四郎は先方を中学校の教師と鑑定した。大きな未来を控へてゐる自分から見ると、何だか下《くだ》らなく感ぜられる。男はもう四十だらう。是より先《さき》もう発展しさうにもない。 [#7字下げ]一の六[#「一の六」は中見出し]  男はしきりに烟草《〔たばこ〕》をふかしてゐる。長い烟りを鼻の穴から吹き出して、腕組をした所は大変悠長に見える。さうかと思ふと無暗に便所か何かに立つ。立つ時にうんと伸《のび》をする事がある。さも退屈さうである。隣《となり》に乗り合せた人が、新聞の読み殻《がら》を傍《そば》に置くのに借りて看《み》る気も出さない。三四郎は自《おのづ》から妙になつて、ベーコンの論文集を伏せて仕舞つた。外《ほか》の小説でも出《だ》して、本気に読んで見様とも考へたが面倒だから、已《や》めにした。それよりは前にゐる人の新聞を借りたくなつた。生憎《あいにく》前の人はぐう/\寐てゐる。三四郎は手を延《の》ばして新聞に手を掛けながら、わざと「御|明《あ》きですか」と髭のある男に聞いた。男は平気な顔で「明《あ》いてるでせう。御読みなさい」と云つた。新聞を手に取つた三四郎の方は却つて平気でなかつた。  開《あ》けて見ると新聞には別に見る程の事も載《の》つてゐない。一二分で通読して仕舞つた。律義に畳んで元《もと》の場所へ返しながら、一寸《ちよつと》会釈すると、向《むかふ》でも軽く挨拶をして、 「君は高等学校の生徒ですか」と聞いた。  三四郎は、被《かぶ》つてゐる古《ふる》帽子の徽章の痕《あと》が、此男の眼《め》に映《うつ》つたのを嬉しく感じた。 「えゝ」と答へた。 「東京の?」と聞き返《かへ》した時、始めて、 「いえ、熊本です。……然し……」と云つたなり黙《だま》つて仕舞つた。大学生だと云ひたかつたけれども、云ふ程の必要がないからと思つて遠慮した。相手も「はあ、さう」と云つたなり烟草を吹かしてゐる。何故《なぜ》熊本の生徒が今頃東京へ行くんだとも何とも聞いて呉れない。熊本の生徒には興味がないらしい。此時三四郎の前に寐てゐた男が「うん、成程」と云つた。それでゐて慥かに寐てゐる。独言《ひとりごと》でも何でもない。髭《ひげ》のある人は三四郎を見てにや/\と笑つた。三四郎はそれを機会《しほ》に、 「あなたは何方《どちら》へ」と聞いた。 「東京」とゆつくり云つた限《ぎり》である。何だか中学校の先生らしく無くなつて来た。けれども三等へ乗つてゐる位だから大《たい》したものでない事は明《あき》らかである。三四郎はそれで談話を切り上げた。髭《ひげ》のある男は腕組をした儘、時々《とき/″\》下駄の前歯で、拍子を取つて、床《ゆか》を鳴らしたりしてゐる。余程退屈に見える。然し此男の退屈は話したがらない退屈である。  汽車が豊橋へ着いた時、寐てゐた男がむつくり起きて眼《め》を擦《こす》りながら下《お》りて行つた。よくあんなに都合よく眼《め》を覚ます事が出来るものだと思つた。ことによると寐ぼけて停車場を間違へたんだらうと気遣《きづか》ひながら、窓から眺めてゐると、決してさうでない。無事に改札場を通過して、正気の人間の様に出て行つた。三四郎は安心して席を向ふ側へ移した。是で髭《ひげ》のある人と隣り合《あは》せになつた。髭のある人は入れ換《かは》つて、窓から首《くび》を出して、水蜜桃を買つてゐる。  やがて二人《ふたり》の間に果物《くだもの》を置いて、 「食《た》べませんか」と云つた。  三四郎は礼を云つて、一つ食《た》べた。髭《ひげ》のある人は好《す》きと見えて、無暗《〔むやみ〕》に食《た》べた。三四郎にもつと食《た》べろと云ふ。三四郎は又一つ食《た》べた。二人《ふたり》が水蜜桃を食《た》べてゐるうちに大分親密になつて色々な話を始めた。 [#7字下げ]一の七[#「一の七」は中見出し]  其男の説によると、桃《もゝ》は果物《くだもの》のうちで一番仙人めいてゐる。何だか馬鹿見た様な味《あぢ》がする。第一|核子《たね》の恰好《〔かっこう〕》が無器用だ。且《〔か〕》つ穴だらけで大変面白く出来上つてゐると云ふ。三四郎は始めて聞く説だが、随分詰らない事を云ふ人だと思つた。  次に其男がこんな事を云ひ出《だ》した。子規《しき》は果物《くだもの》が大変|好《す》きだつた。且《か》ついくらでも食《く》へる男だつた。ある時大きな樽柿《たるがき》を十六|食《く》つた事がある。それで何ともなかつた。自分抔は到底《とても》子規の真似は出来ない。――三四郎は笑つて聞いてゐた。けれども子規の話丈には興味がある様な気がした。もう少し子規の事でも話さうかと思つてゐると、 「どうも好《すき》なものには自然と手が出《で》るものでね。仕方がない。豚《ぶた》抔は手が出《で》ない代りに鼻《はな》が出《で》る。豚《ぶた》をね、縛《しば》つて動《うご》けない様にして置いて、其|鼻《はな》の先《さき》へ、御馳走を並《なら》べて置くと、動《うご》けないものだから、鼻《はな》の先《さき》が段〻延びて来《く》るさうだ。御馳走に届く迄は延びるさうです。どうも一念程恐ろしいものはない」と云つて、にやにや笑つてゐる。真面目《まじめ》だか冗談だか、判然と区別しにくい様な話し方《かた》である。 「まあ御互に豚《ぶた》でなくつて仕合せだ。さう欲しいものゝ方へ無暗に鼻が延びて行つたら、今頃は汽車にも乗れない位長くなつて困るに違《ちがひ》ない」  三四郎は吹き出した。けれども相手は存外静かである。 「実際|危険《あぶな》い。レオナルド、ダ、ヸンチと云ふ人は桃の幹《みき》に砒石《ひせき》を注射してね、其実《そのみ》へも毒が回《まは》るものだらうか、どうだらうかと云ふ試験をした事がある。所が其桃を食《く》つて死んだ人がある。危険《あぶな》い。気を付けないと危険《あぶな》い」と云ひながら、散〻食ひ散らした水蜜桃の核子《たね》やら皮やらを、一纏めに新聞に包《くる》んで、窓の外《そと》へ抛《な》げ出《だ》した。  今度は三四郎も笑ふ気が起《おこ》らなかつた。レオナルド、ダ、ヸンチと云ふ名を聞いて少しく辟易《〔へきえき〕》した上に、何だか昨夕《ゆふべ》の女の事を考へ出して、妙に不愉快になつたから、謹《つゝ》しんで黙《だま》つて仕舞つた。けれども相手はそんな事に一向気が付かないらしい。やがて、 「東京は何所《どこ》へ」と聞き出した。 「実は始めてで様子が善く分《わか》らんのですが……差し当り国の寄宿舎へでも行かうかと思つてゐます」と云ふ。 「ぢや熊本はもう……」 「今度卒業したのです」 「はあ、そりや」と云つたが御目出たいとも結構だとも付けなかつた。たゞ「すると是から大学へ這入るのですね」と如何《〔いか〕》にも平凡であるかの如くに聞いた。  三四郎は聊《〔いささ〕》か物足りなかつた。其代り、 「えゝ」と云ふ二字で挨拶を片付《かたづけ》た。 「科は?」と又聞かれる。 「一部です」 「法科ですか」 「いゝえ文科です」 「はあ、そりや」と又云つた。三四郎は此《〔この〕》はあそりやを聞くたびに妙になる。向ふが大いに偉《えら》いか、大いに人を踏み倒してゐるか、さうでなければ大学に全く縁故も同情もない男に違ない。然しそのうちの何方《どつち》だか見当が付かないので此男に対する態度《たいど》も極めて不明瞭であつた。 [#7字下げ]一の八[#「一の八」は中見出し]  浜松で二人《ふたり》とも申し合せた様に弁当を食《く》つた。食つて仕舞つても汽車は容易に出ない。窓から見ると、西洋人が四五人列車の前を往つたり来たりしてゐる。其うちの一組《ひとくみ》は夫婦と見えて、暑《あつ》いのに手を組み合せてゐる。女は上下《うへした》とも真白な着物で、大変美くしい。三四郎は生れてから今日《こんにち》に至るまで西洋人と云ふものを五六人しか見た事がない。其うちの二人《ふたり》は熊本の高等学校の教師で、其|二人《ふたり》のうちの一人《ひとり》は運|悪《わる》く脊虫《せむし》であつた。女では宣教師を一人《ひとり》知つてゐる。随分|尖《とん》がつた顔で、鱚《きす》又は魳《かます》に類してゐた。だから、かう云ふ派出な奇麗な西洋人は珍《めづ》らしい許《ばか》りではない。頗る上等に見える。三四郎は一生懸命に見惚《みと》れてゐた。是では威張るのも尤もだと思つた。自分が西洋へ行つて、こんな人の中《なか》に這入つたら定めし肩身《かたみ》の狭い事だらうと迄考へた。窓の前を通る時|二人《ふたり》の話《はなし》を熱心に聞いて見たが些《〔ちっ〕》とも分らない。熊本の教師とは丸で発音が違ふ様だ。  所へ例の男が首《くび》を後ろから出して、 「まだ出《で》さうもないですかね」と言ひながら、今行き過ぎた、西洋の夫婦を一寸《ちよいと》見て、 「あゝ美《うつ》くしい」と小声に云つて、すぐに生欠伸《なまあくび》をした。三四郎は自分が如何にも田舎ものらしいのに気が着いて、早速首を引き込めて、着坐した。男もつゞいて席に返つた。さうして、 「どうも西洋人は美《うつ》くしいですね」と云つた。  三四郎は別段の答も出《で》ないので只《たゞ》はあと受けて笑つてゐた。すると髭の男は、 「御互は憐れだなあ」と云ひ出した。「こんな顔をして、こんなに弱つてゐては、いくら日露戦争に勝《か》つて、一等国になつても駄目ですね。尤も建物《たてもの》を見ても、庭園を見ても、いづれも顔《かほ》相応の所だが、――あなたは東京が始めてなら、まだ富士山《ふじさん》を見た事がないでせう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれより外に自慢するものは何もない。所が其富士山は天然《てんねん》自然《しぜん》に昔《むかし》からあつたものなんだから仕方がない。我々《われ/\》が拵《こしら》へたものぢやない」と云つて又にや/\笑つてゐる。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出逢ふとは思ひも寄《よ》らなかつた。どうも日本人ぢやない様な気がする。 「然し是からは日本も段々発展するでせう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、 「亡《ほろ》びるね」と云つた。熊本でこんな事を口《くち》に出《だ》せば、すぐ擲《な》ぐられる。わるくすると国賊取扱《こくぞくどりあつかひ》にされる。三四郎は頭《あたま》の中《なか》の何処《どこ》の隅《すみ》にも斯《〔こ〕》う云ふ思想を入れる余裕はない様な空気の裡《うち》で生長した。だから、ことによると自分の年齢《とし》の若《わか》いのに乗じて、他《ひと》を愚弄するのではなからうかとも考へた。男は例の如くにや/\笑つてゐる。其癖言葉つきはどこ迄も落付いてゐる。どうも見当が付かないから、相手になるのを已《や》めて黙つて仕舞つた。すると男が、かう云つた。 「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」で一寸《ちよつと》切《き》つたが、三四郎の顔を見ると耳を傾けてゐる。 「日本より頭《あたま》の中《なか》の方が広《ひろ》いでせう」と云つた。「囚《とら》はれちや駄目だ。いくら日本の為めを思つたつて贔負《〔ひいき〕》の引き倒しになる許りだ」  此言葉を聞《き》いた時、三四郎は真実《しんじつ》に熊本を出た様な心持ちがした。同時に熊本に居た時の自分は非常に卑怯であつたと悟つた。  其晩三四郎は東京に着いた。髭の男は分れる時迄名前を明《あ》かさなかつた。三四郎は東京へ着きさへすれば、此位の男は到る所に居るものと信じて、別に姓名を尋ね様ともしなかつた。 [#7字下げ]二の一[#「二の一」は中見出し]  三四郎が東京で驚ろいたものは沢山ある。第一電車のちん/\鳴るので驚ろいた。それから其ちん/\鳴る間《あひだ》に、非常に多くの人間が乗つたり降《お》りたりするので驚ろいた。次に丸のうちで驚ろいた。尤も驚ろいたのは、何処《どこ》迄行つても東京が無くならないと云ふ事であつた。しかも何処《どこ》をどう歩《あ》るいても、材木が放り出《だ》してある、石が積んである、新らしい家《いへ》が往来から二三間引っ込んでゐる、古《ふる》い蔵《くら》が半分|取《と》り崩《くづ》されて心細く前の方に残つてゐる。凡ての物が破壊されつゝある様に見える。さうして凡ての物が又同時に建設されつつある様に見える。大変な動き方《かた》である。  三四郎は全く驚ろいた。要するに普通の田舎者《いなかもの》が始めて都《みやこ》の真中《まんなか》に立つて驚ろくと同じ程度に、又同じ性質に於て大いに驚ろいて仕舞つた。今迄の学問は此驚ろきを預防《〔よぼう〕》する上に於て、売薬程の効能もなかつた。三四郎の自信は此驚ろきと共に四割|方《がた》減却《げんきやく》した。不愉快でたまらない。  此劇烈な活動そのものが取《と》りも直さず現実世界だとすると、自分が今日迄の生活は現実世界に毫も接触してゐない事になる。洞※[#濁点付き小書き平仮名か、293-12]峠で昼寐《ひるね》をしたと同然である。それでは今日限り昼寐《ひるね》をやめて、活動の割前が払へるかと云ふと、それは困難である。自分は今活動の中心に立つてゐる。けれども自分はたゞ自分の左右前後に起る活動を見なければならない地位に置き易へられたと云ふ迄で、学生としての生活は以前と変る訳はない。世界はかやうに動揺する。自分は此動揺を見てゐる。けれどもそれに加はる事は出来ない。自分の世界と、現実の世界は一つ平面に並んで居りながら、どこも接触してゐない。さうして現実の世界は、かやうに動揺して、自分を置き去《ざ》りにして行つて仕舞ふ。甚だ不安である。  三四郎は東京の真中に立つて電車と、汽車と、白い着物を着た人と、黒い着物を着た人との活動を見て、かう感じた。けれども学生々活の裏面《りめん》に横はる思想界の活動には毫も気が付かなかつた。――明治の思想は西洋の歴史にあらはれた三百年の活動を四十年で繰り返してゐる。  三四郎が動《うご》く東京の真中《まんなか》に閉ぢ込められて、一人《ひとり》で鬱《〔ふさ〕》ぎ込んでゐるうちに、国元の母から手紙が来た。東京で受取《うけと》つた最初のものである。見ると色々書いてある。まづ今年《ことし》は豊作で目出度《〔めでたい〕》と云ふ所から始まつて、身体《からだ》を大事にしなくつては不可《いけ》ないと云ふ注意があつて、東京のものはみんな利口で人が悪《わる》いから用心しろと書いて、学資は毎月月末に届く様にするから安心しろとあつて、勝田の政さんの従弟に当る人が大学校を卒業して、理科大学とかに出《で》てゐるさうだから、尋ねて行つて、万事よろしく頼むがいゝで結んである。肝心の名前を忘れたと見えて、欄外と云ふ様な所に野々宮宗八どのとかいてあつた。此欄外には其外二三件ある。作《さく》の青馬《あを》が急病で死んだんで、作は大弱りでゐる。三輪田の御光さんが鮎をくれたけれども東京へ送ると途中で腐つて仕舞ふから、家内《うち》で食《た》べて仕舞つた。等である。  三四郎は此手紙を見て、何だか古《ふる》ぼけた昔《むかし》から届いた様な気がした。母には済まないが、こんなものを読んでゐる暇《ひま》はないと迄考へた。それにも拘《〔かか〕》はらず繰り返して二返読んだ。要するに自分がもし現実世界と接触してゐるならば、今の所母より外にないのだらう。其母は古《ふる》い人で古《ふる》い田舎に居《お》る。其外には汽車の中《なか》で乗り合はした女がゐる。あれは現実世界の稲妻《いなづま》である。接触したと云ふには、あまりに短かくつて且あまりに鋭過《するどす》ぎた。――三四郎は母の云《い》ひ付《つけ》通り野々宮宗八を尋ねる事にした。 [#7字下げ]二の二[#「二の二」は中見出し]  あくる日は平生よりも暑い日であつた。休暇中だから理科大学を尋ねても野々宮君は居るまいと思つたが、母が宿所を知らせて来ないから、聞き合せ旁《かた/″\》行つて見様と云ふ気になつて、午後四時頃、高等学校の横を通つて弥生町の門から這入つた。往来は埃《ほこり》が二寸も積《つも》つてゐて、其上に下駄の歯や、靴《くつ》の底や、草鞋《わらじ》の裏《うら》が奇麗に出来上つてる。車の輪と自転車の痕《〔あと〕》は幾筋だか分らない。むつとする程|堪《たま》らない路だつたが、構内へ這入ると流石《さすが》に樹の多い丈に気分が晴〻した。取《と》っ付《つき》の戸をあたつて見たら錠が下《お》りてゐる。裏へ廻つても駄目であつた。仕舞に横へ出た。念の為《た》めと思つて推《〔お〕》して見たら、旨《うま》い具合に開《あ》いた。廊下の四っ角《かど》に小使が一人《ひとり》居眠りをしてゐた。来意を通じると、しばらくの間《あひだ》は、正気を回復する為めに、上野の森を眺《なが》めてゐたが、突然「御出《おいで》かも知れません」と云つて奥へ這入つて行つた。頗る閑静である。やがて又出て来た。「御出《おいで》でやす。御這入んなさい」と友達見た様に云ふ。小使に食《く》つ付《つ》いて行くと四《よ》っ角《かど》を曲《ま》がつて和土《たゝき》の廊下を下《した》へ居《〔お〕》りた。世界が急に暗くなる。炎天で眼《め》が眩《くら》んだ時の様であつたが少時《しばらく》すると瞳《ひとみ》が漸く落ち付いて、四辺《あたり》が見える様になつた。穴倉だから比較的涼しい。左の方に戸があつて、其戸が明《あ》け放《はな》してある。其所《そこ》から顔《かほ》が出た。額《ひたい》の広《ひろ》い眼《め》の大きな仏教に縁のある相である。縮《ちゞみ》の襯衣《しやつ》の上へ脊広《せびろ》を着てゐるが、脊広《せびろ》は所々《ところ/″\》に染《しみ》がある。脊《せい》は頗る高い。瘠せてゐる所が暑さに釣り合つてゐる。頭《あたま》と脊中を一直線に前の方へ延ばして、御辞儀をした。 「此方《こつち》へ」と云つた儘、顔を室《へや》の中へ入れて仕舞つた。三四郎は戸の前迄|来《き》て室《へや》の中《なか》を覗《〔のぞ〕》いた。すると野々宮君はもう椅子へ腰を掛けてゐる。もう一遍「此方《こつち》へ」と云つた。此方《こつち》へと云ふ所に台《だい》がある。四角な棒を四本立てて、其上を板で張つたものである。三四郎は台の上へ腰を掛けて初対面の挨拶をする。それから何分|宜敷《〔よろしく〕》願ひますと云つた。野々宮君は只《たゞ》はあ、はあと云つて聞いてゐる。其様子が幾分か汽車の中《なか》で水蜜桃を食つた男に似てゐる。一通り口上を述べた三四郎はもう何も云ふ事がなくなつて仕舞つた。野々宮君もはあ、はあ云はなくなつた。  部屋の中《なか》を見廻すと真中《まんなか》に大きな長い樫《かし》の机《テーブル》が置いてある。其上には何だか込み入つた、太《ふと》い針線《はりがね》だらけの器械が乗つかつて、其|傍《わき》に大きな硝子《がらす》の鉢《はち》に水が入れてある。其外にやすり[#「やすり」に傍点]と小刀《ないふ》と襟飾《えりかざり》が一つ落ちてゐる。最後《さいご》に向《むかふ》の隅《すみ》を見ると、三尺位の花崗石《〔みかげいし〕》の台の上に、福神漬《ふくじんづけ》の缶《くわん》程な込み入つた器械が乗せてある。三四郎は此缶の横腹《よこつぱら》に開《あ》いてゐる二《ふた》つの穴に眼《め》をつけた。穴が蟒蛇《うはばみ》の眼玉《めだま》の様に光《ひか》つてゐる。野々宮君は笑ひながら光《ひか》るでせうと云つた。さうして、斯《〔こ〕》う云ふ説明をして呉れた。 「昼間《ひるま》のうちに、あんな準備をして置いて、夜《よる》になつて、交通其他の活動が鈍《にぶ》くなる頃に、此静かな暗い穴倉で、望遠鏡の中《なか》から、あの眼玉《めだま》の様なものを覗くのです。さうして光線の圧力を試験する。此年《ことし》の正月頃から取り掛つたが、装置が中々《なか/\》面倒なのでまだ思ふ様な結果が出て来《き》ません。夏は比較的堪へ易いが、寒夜になると、大変|凌《〔しの〕》ぎにくい。外套を着て襟巻をしても冷《つめ》たくて遣り切れない。……」  三四郎は大いに驚ろいた。驚ろくと共に光線にどんな圧力があつて、其圧力がどんな役に立つんだか、全く要領を得るに苦しんだ。 [#7字下げ]二の三[#「二の三」は中見出し]  其時野々宮君は三四郎に、「覗いて御覧なさい」と勧めた。三四郎は面白半分、石の台の二三間手前にある望遠鏡の傍《そば》へ行つて、右の眼をあてがつたが、何にも見えない。野々宮君は「どうです、見えますか」と聞く。「一向見えません」と答へると、「うんまだ蓋《ふた》が取らずにあつた」と云ひながら、椅子を立つて望遠鏡の先《さき》に被《かぶ》せてあるものを除《の》けて呉れた。  見ると、ただ輪廓のぼんやりした明《あか》るいなかに、物差《ものさし》の度盛《どもり》がある。下《した》に2の字が出た。野々宮君がまた「どうです」と聞いた。「2の字が見えます」と云ふと、「今に動きます」と云ひながら向《むかふ》へ廻《まは》つて何かしてゐる様であつた。  やがて度盛《どもり》が明《あか》るい中《なか》で動き出《だ》した。2が消えた。あとから3が出《で》る。其あとから4が出《で》る。5が出《で》る。とう/\10[#「10」は縦中横]迄出た。すると度盛《どもり》がまた逆《ぎやく》に動き出した。10[#「10」は縦中横]が消え、9が消え、8から7、7から6と順々に1迄来て留《とま》つた。野々宮君は又「どうです」と云ふ。三四郎は驚ろいて、望遠鏡から眼《め》を放《はな》して仕舞つた。度盛《どもり》の意味を聞く気にもならない。  丁寧に礼を述べて穴倉を上《あ》がつて、人の通る所へ出て見ると世の中《なか》はまだかん/\してゐる。暑《あつ》いけれども深い呼息《いき》をした。西の方へ傾いた日が斜めに広い坂を照らして、坂上《さかうへ》の両側にある工科の建築の硝子窓《がらすまど》が燃える様に輝やいてゐる。空《そら》は深く澄《す》んで、澄んだなかに、西《にし》の果《はて》から焼ける火の焔《ほのほ》が、薄赤く吹き返して来て、三四郎の頭《あたま》の上《うへ》迄|熱《ほて》つてゐる様に思はれた。横に照《て》り付ける日を半分《はんぶん》脊中《せなか》に受けて、三四郎は左りの森の中《なか》へ這入つた。其森も同じ夕日《ゆふひ》を半分|脊中《せなか》に受けて入《〔い〕》る。黒ずんだ蒼い葉と葉の間《あひだ》は染めた様に赤い。太《ふと》い欅の幹で日暮しが鳴いてゐる。三四郎は池の傍《そば》へ来てしやがんだ。  非常に静かである。電車の音《おと》もしない。赤門《あかもん》の前を通る筈《はづ》の電車は、大学の抗議で小石川を回《まは》る事になつたと国にゐる時分新聞で見た事がある。三四郎は池の端《はた》にしやがみながら、不図此事件を思ひ出した。電車さへ通《とほ》さないと云ふ大学は余程社会と離れてゐる。  たま/\其|中《なか》に這入つて見ると、穴倉《あなぐら》の下《した》で半年余りも光線の圧力の試験をしてゐる野々宮君の様な人もゐる。野々宮君は頗る質素な服装《なり》をして、外《そと》で逢へば電燈会社の技手位な格である。それで穴倉の底を根拠地として欣然とたゆまずに研究を専念に遣つてゐるから偉《えら》い。然し望遠鏡のなかの度盛《どもり》がいくら動いたつて現実世界と交渉のないのは明らかである。野々宮君は生涯現実世界と接触する気がないのかも知れない。要するに此静かな空気を呼吸するから、自《おのづ》からあゝ云ふ気分にもなれるのだらう。自分もいつその事気を散らさずに、活《い》きた世の中と関係のない生涯を送つて見様かしらん。  三四郎が凝《じつ》として池の面《おもて》を見詰めてゐると、大きな木が、幾本となく水の底に映《うつ》つて、其又底に青い空が見える。三四郎は此時電車よりも、東京よりも、日本よりも、遠く且つ遥かな心持がした。然ししばらくすると、其心持のうちに薄雲《うすぐも》の様な淋《さみ》しさが一面に広《ひろ》がつて来《き》た。さうして、野々宮君の穴倉に這入つて、たつた一人《ひとり》で坐《すは》つて居るかと思はれる程な寂寞を覚えた。熊本の高等学校に居る時分も是より静かな龍田山に上《のぼ》つたり、月見草ばかり生えてゐる運動場に寐たりして、全く世の中を忘れた気になつた事は幾度となくある。けれども此孤独の感じは今始めて起つた。  活動の劇しい東京を見たためだらうか。或は――三四郎は赤くなつた。汽車で乗り合はした女の事を思ひ出したからである。――現実世界はどうも自分に必要らしい。けれども現実世界は危《あぶ》なくて近寄れない気がする。三四郎は早く下宿に帰つて、母に手紙を書いてやらうと思つた。 [#7字下げ]二の四[#「二の四」は中見出し]  不図|眼《め》を上《あ》げると、左手《ひだりて》の岡の上《うへ》に女が二人《ふたり》立つてゐる。女のすぐ下《した》が池で、池の向ふ側が高《たか》い崖《がけ》の木立《こだち》で、其後ろが派出な赤錬瓦のゴシツク風の建築である。さうして落ちかゝつた日が、凡ての向ふから横に光《ひかり》を透《とほ》してくる。女は此夕日に向いて立つてゐた。三四郎のしやがんでゐる低《ひく》い陰《かげ》から見ると岡の上は大変|明《あか》るい。女の一人《ひとり》はまぼしいと見えて、団扇を額《ひたひ》の所に翳《かざ》してゐる。顔はよく分らない。けれども着物の色、帯の色は鮮《あざや》かに分《わか》つた。白い足袋の色も眼についた。鼻緒の色はとにかく草履を穿いてゐる事も分《わか》つた。もう一人《ひとり》は真白《まつしろ》である。是は団扇も何も持つて居ない。只|額《ひたひ》に少し皺を寄《よ》せて、対岸《むかふぎし》から生ひ被《かぶ》さりさうに、高《たか》く池の面《おもて》に枝を伸《のば》した古木の奥を眺めてゐた。団扇を持つた女は少し前へ出てゐる。白い方は一歩《ひとあし》土堤《どて》の縁《ふち》から退《さ》がつてゐる。三四郎が見ると、二人《ふたり》の姿《すがた》が筋違《すぢかひ》に見える。  此時三四郎の受けた感じは只奇麗な色彩だと云ふ事であつた。けれども田舎者《いなかもの》だから、此色彩がどういふ風に奇麗なのだか、口《くち》にも云へず、筆にも書けない。たゞ白い方が看護婦だと思つた許りである。  三四郎は又|見惚《みと》れてゐた。すると白い方が動き出した。用事のある様な動き方《かた》ではなかつた。自分の足《あし》が何時《いつ》の間《ま》にか動いたといふ風であつた。見ると団扇を持《も》つた女も何時《いつ》の間《ま》にか又動いてゐる。二人《ふたり》は申し合せた様に用のない歩《ある》き方《かた》をして、坂《さか》を下《お》りて来《く》る。三四郎は矢っ張り見てゐた。  坂《さか》の下《した》に石橋《いしばし》がある。渡らなければ真直に理科大学の方へ出る。渡れば水際《みづぎは》を伝《つた》つて此方《こつち》へ来る。二人《ふたり》は石橋を渡つた。  団扇はもう翳《かざ》して居ない。左りの手に白《しろ》い小さな花を持つて、それを嗅《か》ぎながら来《く》る。嗅《か》ぎながら、鼻の下《した》に宛《あ》てがつた花を見ながら、歩《ある》くので、眼《め》は伏せてゐる。それで三四郎から一|間許《けんばかり》の所へ来てひよいと留つた。 「是は何《なん》でせう」と云つて、仰向《あほむ》いた。頭《あたま》の上《うへ》には大きな椎《しい》の木が、日の目《め》の洩《も》らない程|厚《あつ》い葉を茂《しげ》らして、丸い形《かたち》に、水際《みづぎは》迄張り出してゐた。 「是《これ》は椎《しい》」と看護婦が云つた。丸で子供に物を教へる様であつた。 「さう。実《み》は生《な》つてゐないの」と云ひながら、仰向いた顔《かほ》を元《もと》へ戻《もど》す、其拍子に三四郎を一目《ひとめ》見た。三四郎は慥かに女の黒眼《くろめ》の動く刹那を意識した。其時色彩の感じは悉《〔ことごと〕》く消えて、何とも云へぬ或物に出逢つた。其或物は汽車の女に「あなたは度胸のない方《かた》ですね」と云はれた時の感じと何所《どこ》か似通つてゐる。三四郎は恐ろしくなつた。  二人《ふたり》の女は三四郎の前を通り過ぎる。若《わか》い方《ほう》が今迄|嗅《か》いで居た白い花を三四郎の前へ落して行つた。三四郎は二人《ふたり》の後姿《うしろすがた》を凝《じつ》と見詰めて居た。看護婦は先《さき》へ行く。若い方が後《あと》から行く。華《はな》やかな色《いろ》の中《なか》に、白い薄《すゝき》を染め抜いた帯が見える。頭《あたま》にも真白な薔薇《ばら》を一つ挿《さ》してゐる。其|薔薇《ばら》が椎《しい》の木陰《こかげ》の下《した》の、黒《くろ》い髪《かみ》の中《なか》で際立《きはだ》つて光《ひか》つてゐた。  三四郎は茫然《ぼんやり》してゐた。やがて、小《ちい》さな声で「矛盾だ」と云つた。大学の空気とあの女が矛盾なのだか、あの色彩とあの眼付が矛盾なのだか、あの女を見て、汽車の女を思ひ出したのが矛盾なのだか、それとも未来に対する自分の方針が二途《ふたみち》に矛盾してゐるのか、又は非常に嬉しいものに対して恐を抱く所が矛盾してゐるのか、――この田舎出《いなかで》の青年には、凡て解《わか》らなかつた。たゞ何だか矛盾であつた。  三四郎は女の落して行つた花を拾つた。さうして嗅《か》いで見た。けれども別段の香《にほひ》もなかつた。三四郎は此花を池の中《なか》へ投《な》げ込んだ。花は浮いてゐる。すると突然向ふで自分の名を呼んだものがある。 [#7字下げ]二の五[#「二の五」は中見出し]  三四郎は花から眼《め》を放《はな》した。見ると野々宮君が石橋の向《むか》ふに長く立つてゐる。 「君まだ居たんですか」と云ふ。三四郎は答をする前に、立つてのそ/\歩《ある》いて行つた。石橋《いしばし》の上《うへ》迄|来《き》て、 「えゝ」と云つた。何となく間《ま》が抜けてゐる。けれども野々宮君は、少しも驚ろかない。 「涼しいですか」と聞いた。三四郎は又 「えゝ」と云つた。  野々宮君は少時《しばらく》池の水を眺めてゐたが、右の手を隠袋《ぽつけつと》へ入れて何か探《さが》し出した。隠袋《ぽつけつと》から半分封筒が食《は》み出してゐる。其上に書いてある字が女の手蹟らしい。野々宮君は思ふ物を探《さが》し宛《あ》てなかつたと見えて、元の通りの手を出してぶらりと下《さ》げた。さうして、かう云つた。 「今日《けふ》は少し装置が狂つたので晩の実験は已《〔や〕》めだ。是から本郷の方を散歩して帰らうと思ふが、君どうです一所にあるきませんか」  三四郎は快よく応じた。二人《ふたり》で坂《さか》を上《あ》がつて、岡の上へ出《で》た。野々宮君はさつき女の立つてゐた辺《あたり》で一寸《ちよつと》留《とま》つて、向ふの青《あを》い木立の間から見える赤い建物と、崖《がけ》の高い割に、水の落ちた池を一面に見渡して、 「一寸《ちよつと》好《い》い景色でせう。あの建築《ビルヂング》の角度《アングル》の所丈が少し出てゐる。木《き》の間《あひだ》から。ね。好《い》いでせう。君気が付いてゐますか。あの建物は中々《なか/\》旨《うま》く出来てゐますよ。工科もよく出来てるが此方《このほう》が旨《うま》いですね」  三四郎は野々宮君の鑑賞力に少々驚ろいた。実を云ふと自分には何方《どつち》が好《い》いか丸で分《わか》らないのである。そこで今度は三四郎の方が、はあ、はあと云ひ出した。 「それから、此木と水の|感じ《エフフエクト》がね。――大したものぢやないが、何しろ東京の真中《まんなか》にあるんだから――静かでせう。かう云ふ所でないと学問をやるには不可《いけ》ませんね。近頃は東京があまり八釜間敷《〔やかましく〕》なり過ぎて困る。是が御殿」とあるき出《だ》しながら、左手の建物を指《さ》して見せる。「教授会を遣《や》る所です。うむなに、僕なんか出ないで好《い》いのです。僕は穴倉生活を遣つてゐれば済むのです。近頃の学問は非常な勢で動いてゐるので、少し油断すると、すぐ取り残されて仕舞ふ。人が見ると穴倉のなかで冗談をしてゐる様だが、是でも遣つてゐる当人の頭《あたま》の中《なか》は劇烈に働いてゐるんですよ。電車より余っ程烈しく働らいてゐるかも知れない。だから夏でも旅行をするのが惜しくつてね」と言ひながら仰向いて大きな空を見た。空にはもう日の光りが乏しい。  青い空の静まり返つた、上皮《うはかは》に、白い薄雲《うすぐも》が刷毛先《はけさき》で掻き払つた痕《あと》の様に、筋違《すぢかひ》に長く浮いてゐる。 「あれを知つてますか」と云ふ。三四郎は仰いで半透明の雲を見た。 「あれは、みんな雪の粉ですよ。かうやつて下《した》から見ると、些《ちつ》とも動いて居ない。然し、あれで地上に起る颶風《〔ぐふう〕》以上の速力で動いてゐるんですよ。――君ラスキンを読みましたか」  三四郎は憮然として読まないと答へた。野々宮君はたゞ 「さうですか」と云つた許りである。しばらくしてから、 「此|空《そら》を写生したら面白いですね。――原口にでも話してやらうかしら」と云つた。三四郎は無論原口と云ふ画工の名前を知らなかつた。 [#7字下げ]二の六[#「二の六」は中見出し]  二人《ふたり》はベルツの銅像の前から枳殻寺《からたちでら》の横を電車の通りへ出た。銅像の前で、此銅像はどうですかと聞かれて三四郎は又弱つた。表は大変賑やかである。電車がしきりなしに通る。 「君電車は煩《うる》さくはないですか」と又聞かれた。三四郎は煩《うる》さいより凄《すさ》まじい位である。然したゞ「えゝ」と答へて置いた。すると野々宮君は「僕もうるさい」と云つた。然し一向|煩《うる》さい様にも見えなかつた。 「僕は車掌に教はらないと、一人《ひとり》で乗換《のりかへ》が自由に出来ない。此二三年来無暗に殖えたのでね。便利になつて却つて困る。僕の学問と同じ事だ」と云つて笑つた。  学期の始まり際《ぎは》なので新らしい高等学校の帽子を被つた生徒が大分通る。野々宮君は愉快さうに、此連中を見てゐる。 「大分新らしいのが来ましたね」と云ふ。「若い人は活気があつて好《い》い。時に君は幾何《いくつ》ですか」と聞いた。三四郎は宿帳へ書いた通りを答へた。すると、 「それぢや僕より七つ許り若い。七年もあると、人間は大抵の事が出来る。然し月日《つきひ》は立《た》ち易いものでね。七年位|直《ぢき》ですよ」と云ふ。どつちが本当なんだか、三四郎には解《わか》らなかつた。  四っ角近くへ来《く》ると左右に本屋と雑誌屋が沢山ある。そのうちの二三軒には人が黒山《くろやま》の様にたかつてゐる。さうして雑誌を読んでゐる。さうして買はずに行つて仕舞ふ。野々宮君は、 「みんな狡猾《ずる》いなあ」と云つて笑つてゐる。尤も当人も一寸《ちよいと》太陽を開《あ》けて見た。  四っ角へ出ると、左手《ひだりて》の此方《こちら》側に西洋小間物屋があつて、向側に日本小間物屋がある。其|間《あひだ》を電車がぐるつと曲《まが》つて、非常な勢で通る。ベルがちん/\ちん/\云ふ。渡りにくい程雑沓する。野々宮君は、向ふの小間物屋を指《さ》して、 「あすこで一寸《ちよいと》買物をしますからね」と云つて、ちりん/\と鳴る間を馳け抜けた。三四郎も食つ付いて、向ふへ渡つた。野々宮君は早速|店《みせ》へ這入つた。表に待つてゐた三四郎が、気が付いて見ると、店先《みせさき》の硝子張《がらすばり》の棚《たな》に櫛だの花簪《はなかんざし》だのが列《なら》べてある。三四郎は妙に思つた。野々宮君が何を買つてゐるのかしらと、不審を起して、店《みせ》の中《なか》へ這入つて見ると、蝉《せみ》の羽根の様なリボンをぶら下《さ》げて、 「どうですか」と聞かれた。三四郎は此時自分も何か買つて、鮎の御礼に三輪田の御光さんに送つてやらうかと思つた。けれども御光さんが、それを貰つて、鮎の御礼と思はずに、屹度何だかんだと手前勝手の理窟を附けるに違ないと考へたから已めにした。  それから真砂町で野々宮君に西洋料理の御馳走になつた。野々宮君の話では本郷で一番|旨《うま》い家《うち》ださうだ。けれども三四郎にはたゞ西洋料理の味《あぢ》がする丈であつた。然し食《た》べる事はみんな食《た》べた。  西洋料理屋の前で野々宮君に別れて、追分に帰る所を丁寧にもとの四っ角迄出て、左りへ折れた。下駄を買はうと思つて、下駄屋を覗き込んだら、白熱|瓦斯《〔ガス〕》の下《した》に、真白に塗り立てた娘が、石膏の化物《ばけもの》の様に坐つてゐたので、急に厭《いや》になつて已めた。それからうちへ帰る間《あひだ》、大学の池の縁《ふち》で逢つた女の、顔の色ばかり考へてゐた。――其色は薄く餅《もち》を焦《こ》がした様な狐色であつた。さうして肌理《きめ》が非常に細《こま》かであつた。三四郎は、女の色は、どうしてもあれでなくつては駄目だと断定した。 [#7字下げ]三の一[#「三の一」は中見出し]  学年は九月十一日に始まつた。三四郎は正直に午前十時半頃学校へ行つて見たが、玄関前の掲示場に講義の時間割がある許で学生は一人《ひとり》も居ない。自分の聴くべき分丈を手帳に書き留めて、それから事務室へ寄《よ》つたら、流石に事務員丈は出て居た。講義はいつから始まりますかと聞くと、九月十一日から始まると云つてゐる。澄ましたものである。でも、どの部屋を見ても講義がない様ですがと尋ねると、それは先生が居ないからだと答へた。三四郎は成程と思つて事務室を出た。裏へ廻つて、大きな欅の下から高《たか》い空《そら》を覗いたら、普通の空《そら》よりも明《あきら》かに見えた。熊笹の中《なか》を水際《みずぎは》へ下《お》りて、例の椎の木の所迄来て、又しやがんだ。あの女がもう一遍通れば可《い》い位に考へて、度々《たび/\》岡の上《うへ》を眺めたが、岡の上には人影もしなかつた。三四郎はそれが当然だと考へた。けれども矢張りしやがんでゐた。すると午砲《どん》が鳴つたんで驚ろいて下宿へ帰つた。  翌日は正八時に学校へ行つた。正門を這入ると、取突《とつつき》の大通りの左右に植《う》ゑてある銀杏の並木が眼に付いた。銀杏が向ふの方で尽きるあたりから、だら/\坂に下《さ》がつて、正門の際《きは》に立つた三四郎から見ると、坂の向ふにある理科大学は二階の一部しか出てゐない。其屋根の後ろに朝日を受けた上野の森が遠く輝やいてゐる。日は正面にある。三四郎は此奥行のある景色を愉快に感じた。  銀杏の並木が此方《こちら》側で尽きる右手には法文科大学がある。左手には少し退《さ》がつて博物の教室がある。建築は双方共に同じで、細長い窓の上に、三角に尖《とが》つた屋根が突き出してゐる。其三角の縁《ふち》に当る赤錬瓦と黒《くろ》い屋根の接目《つぎめ》の所が細《ほそ》い石の直線で出来てゐる。さうして其石の色が少し蒼味《あをみ》を帯びて、すぐ下《した》にくる派出な赤錬瓦に一種の趣を添へてゐる。さうして此長い窓と、高い三角が横にいくつも続《つゞ》いてゐる。三四郎は此間野々宮君の説を聞いてから以来、急に此建物を難有く思つてゐたが、今朝《けさ》は、此意見が野々宮君の意見でなくつて、初手から自分の持説である様な気がし出した。ことに博物室が法文科と一直線に並んでゐないで、少し奥へ引つ込んでゐる所が不規則で妙だと思つた。こんど野々宮君に逢つたら自分の発明として此説を持ち出さうと考へた。  法文科の右のはづれから半町程前へ突き出してゐる図書館にも感服した。よく分らないが何でも同じ建築だらうと考へられる。其赤い壁に添《つ》けて、大きな棕櫚《しゆろ》の木を五六本植ゑた所が大いに好《い》い。左り手のずつと奥にある工科大学は封建時代の西洋の御城から割り出した様に見えた。真っ四角に出来上つてゐる。窓も四角である。只四隅と入口が丸い。是は櫓《やぐら》を片取《かたど》つたんだらう。御城丈に堅牢《しつかり》してゐる。法文科見た様に倒れさうでない。何だか脊《せい》の低《ひく》い相撲取に似て居る。  三四郎は見渡す限り見渡して、此外にもまだ眼《め》に入らない建物が沢山ある事を勘定に入れて、何所《どこ》となく雄大な感じを起《おこ》した。「学問の府はかうなくつてはならない。かう云ふ構《かまへ》があればこそ研究も出来る。えらいものだ」――三四郎は大学者になつた様な心持がした。  けれども教室へ這入つて見たら、鐘は鳴つても先生は来《こ》なかつた。其代り学生も出て来ない。次の時間も其通りであつた。三四郎は疳癪を起して教場を出た。さうして念の為めに池の周囲《まはり》を二遍許り廻つて下宿へ帰つた。 [#7字下げ]三の二[#「三の二」は中見出し]  夫から約十日許|立《たつ》てから、漸く講義が始まつた。三四郎が始めて教室へ這入《はいつ》て、外《ほか》の学生と一所に先生の来《く》るのを待《ま》つてゐた時の心持は実に殊勝なものであつた。神主《かんぬし》が装束を着けて、是から祭典でも行はうとする間際《まぎは》には、かう云ふ気分がするだらうと、三四郎は自分で自分の了見を推定した。実際学問の威厳に打たれたに違ない。それのみならず先生が号鐘《ベル》が鳴つて十五分立つても出て来ないので益《〔ますます〕》予期から生ずる敬畏の念を増した。そのうち人品のいゝ御爺さんの西洋人が戸を開《あ》けて這入つて来て、流暢な英語で講義を始めた。三四郎は其時 answer《アンサー》 と云ふ字はアングロ、サクソン語の and-swaru《アンド、スワル》 から出たんだと云ふ事を覚えた。それからスコツトの通《かよ》つた小学校の村の名を覚えた。いづれも大切に筆記帳に記《しる》して置いた。其次には文学論の講義に出た。此先生は教室に這入つて、一寸《ちよいと》黒板《ボールド》を眺めてゐたが、黒板《ボールド》の上に書いてある、Geschehen《ゲシエーヘン》 と云ふ字と Nachbild《ナハビルド》 と云ふ字を見て、はあ独乙語かと云つて、笑《わら》ひながらさつさと消して仕舞つた。三四郎は之が為めに独乙語に対する敬意を少し失つた様に感じた。先生は、それから古来文学者が文学に対して下した定義を凡そ二十許り列《なら》べた。三四郎は是も大事に手帳に筆記して置いた。午後は大教室に出た。其教室には約七八十人程の聴講者が居た。従つて先生も演説口調であつた。砲声一発浦賀の夢を破つてと云ふ冒頭であつたから、三四郎は面白がつて聞いてゐると、仕舞には独乙の哲学者の名が沢山出て来て甚だ解《げ》しにくゝなつた。机の上を見ると、落第と云ふ字が美事に彫《ほ》つてある。余程|閑《ひま》に任《まか》せて仕上《しあ》げたものと見えて、堅い樫《かし》の板を奇麗に切《き》り込んだ手際は素人《しらうと》とは思はれない。深刻の出来である。隣の男は感心に根気よく筆記をつゞけてゐる。覗いて見ると筆記ではない。遠くから先生の似顔をポンチにかいてゐたのである。三四郎が覗くや否や隣の男はノートを三四郎の方に出して見せた。画は旨《うま》く出来てゐるが、傍《そば》に久方《ひさかた》の雲井の空の子規《ほとゝぎす》と書いてあるのは、何の事だか判じかねた。  講義が終つてから、三四郎は何となく疲労した様な気味で、二階の窓から頬杖を突いて、正門内の庭を見下《みおろ》してゐた。只大きな松や桜を植ゑて其間に砂利を敷いた広い道を付《つ》けた許であるが、手を入れ過ぎてゐない丈に、見てゐて心持が好い。野々宮君の話によると此所《こゝ》は昔《むかし》はかう奇麗ではなかつた。野々宮君の先生の何とか云ふ人が、学生の時分馬に乗つて、此所《こゝ》を乗り廻すうちに、馬が云ふ事を聞かないで、意地を悪《わる》くわざと木の下《した》を通るので、帽子が松の枝に引つかゝる。下駄の歯が鐙《あぶみ》に挟《はさ》まる。先生は大変困つてゐると、正門前の喜多床と云ふ髪結床の職人が大勢|出《で》て来《き》て、面白がつて笑つてゐたさうである。其時分には有志のものが醵金して構内に厩をこしらへて、三頭の馬と、馬の先生とを飼《か》つて置いた。所が先生が大変な酒呑で、とう/\三頭のうちの一番|好《い》い白い馬を売つて飲んで仕舞つた。それはナポレオン三世時代の老馬であつたさうだ。まさかナポレオン三世時代でも無《な》からう。然し呑気な時代もあつたものだと考へてゐると、さつきポンチ画をかいた男が来て、 「大学の講義は詰らんなあ」と云つた。三四郎は好加減な返事をした。実は詰るか詰らないか、三四郎には些《〔ちっ〕》とも判断が出来ないのである。然し此時から此男と口を利く様になつた。 [#7字下げ]三の三[#「三の三」は中見出し]  其日は何となく気が鬱《〔うっ〕》して、面白くなかつたので、池の周囲《まはり》を回《まは》る事は見合せて家《うち》へ帰つた。晩食後筆記を繰り返して読《よ》んで見たが、別に愉快にも不愉快にもならなかつた。母に言文一致の手紙をかいた。――学校は始まつた。是から毎日出る。学校は大変広い好《い》い場所で、建物《たてもの》も大変美くしい。真中《まんなか》に池がある。池の周囲《まはり》を散歩するのが楽しみだ。電車には近頃漸く乗り馴れた。何か買つて上げたいが、何が好《い》いか分からないから、買つて上げない。欲《ほ》しければ其方《そつち》から云つて来《き》て呉れ。今年《ことし》の米《こめ》は今《いま》に価《ね》が出るから、売らずに置く方が得《とく》だらう。三輪田の御光さんにはあまり愛想《あいそ》を善《よ》くしない方が好《よ》からう。東京へ来て見ると人はいくらでもゐる。男も多いが女も多い。と云ふ様な事をごた/\並べたものであつた。  手紙を書いて、英語の本を六七|頁《ページ》読んだら厭《いや》になつた。こんな本を一冊位読んでも駄目だと思ひ出した。床《とこ》を取つて寐る事にしたが、寐つかれない。不眠症になつたら早く病院に行つて見て貰はう抔と考へてゐるうちに寐て仕舞つた。  翌日《あくるひ》も例刻に学校へ行つて講義を聞いた。講義の間に今年《ことし》の卒業生が何所其所《どこそこ》へ幾何《いくら》で売れたと云ふ話を耳にした。誰《だれ》と誰《だれ》がまだ残つてゐて、それがある官立学校の地位を競争してゐる噂だ抔と話してゐるものがあつた。三四郎は漠然と、未来が遠くから眼前に押し寄せる様な鈍い圧迫を感じたが、それはすぐ忘れて仕舞つた。寧《〔むし〕》ろ昇之助が何とかしたと云ふ方の話が面白かつた。そこで廊下で熊本出の同級生を捕《つら》まへて、昇之助とは何だと聞いたら、寄席へ出る娘義太夫だと教へて呉れた。夫から寄席の看板はこんなもので、本郷のどこにあると云ふ事迄云つて聞かせた上、今度の土曜に一所に行かうと誘つて呉れた。よく知つてると思つたら、此男は昨夜《ゆふべ》始めて、寄席《よせ》へ這入つたのださうだ。三四郎は何だか寄席《よせ》へ行つて昇之助が見度なつた。  昼飯《ひるめし》を食《く》ひに下宿へ帰らうと思つたら、昨日《きのふ》ポンチ画をかいた男が来て、おい/\と云ひながら、本郷の通りの淀見《よどみ》軒と云ふ所に引つ張つて行つて、ライスカレーを食はした。淀見軒と云ふ所は店《みせ》で果物《くだもの》を売つてゐる。新らしい普請《ふしん》であつた。ポンチを画《か》いた男は此建築の表を指《ゆびさ》して、是がヌーボー式だと教へた。三四郎は建築にもヌーボー式があるものかと始めて悟つた。帰り路《みち》に青木堂も教はつた。矢張り大学生のよく行く所ださうである。赤門を這入つて、二人《ふたり》で池の周囲《まはり》を散歩した。其時ポンチ画の男は、死《し》んだ小泉|八雲《やくも》先生は教員控室へ這入るのが嫌で講義が済むといつでも此|周囲《まはり》をぐる/\廻《まは》つてあるいたんだと、恰《〔あたか〕》も小泉先生に教はつた様な事を云つた。何故《なぜ》控室へ這入らなかつたのだらうかと三四郎が尋ねたら、 「そりや当り前ださ。第一彼等の講義を聞いても解《わか》るぢやないか。話せるものは一人《ひとり》もゐやしない」と手痛《てひど》い事を平気で云つたには三四郎も驚ろいた。此男は佐々木与次郎と云つて、専門学校を卒業して、ことし又撰科へ這入つたのださうだ。東片町の五番地の広田と云ふうちに居るから、遊びに来《こ》いと云ふ。下宿かと聞くと、なに高等学校の先生の家《うち》だと答へた。 [#7字下げ]三の四[#「三の四」は中見出し]  それから当分の間《あひだ》三四郎は毎日学校へ通つて、律義に講義を聞いた。必修課目以外のものへも時々出席して見た。それでも、まだ物足りない。そこで遂には専攻課目に丸で縁故のないもの迄へも折々は顔を出した。然し大抵は二度か三度で已めて仕舞つた。一ヶ月と続《つゞ》いたのは少しも無かつた。それでも平均一週に約四十時間程になる。如何《〔いか〕》な勤勉な三四郎にも四十時間はちと多過ぎる。三四郎は断へず一種の圧迫を感じてゐた。然るに物足りない。三四郎は楽しまなくなつた。  或日《あるひ》佐々木与次郎に逢つて其話をすると、与次郎は四十時間と聞いて、眼を丸くして、「馬鹿々々」と云つたが、「下宿屋のまづい飯《めし》を一日に十|返《ぺん》食つたら物足りる様になるか考へて見ろ」といきなり警句でもつて三四郎を打《どや》しつけた。三四郎はすぐさま恐れ入つて、「どうしたら善《よ》からう」と相談をかけた。 「電車に乗るがいゝ」と与次郎が云つた。三四郎は何か寓意でもある事と思つて、しばらく考へて見たが、別に是と云ふ思案も浮ばないので、 「本当の電車か」と聞き直した。其時与次郎はげら/\笑つて、 「電車に乗つて、東京を十五六|返《ぺん》乗り回《まは》してゐるうちには自《おのづ》から物足りる様になるさ」と云ふ。 「何故《なぜ》」 「何故《なぜ》つて、さう、活《い》きてる頭《あたま》を、死んだ講義で封じ込めちや、助からない。外《そと》へ出て風を入れるさ。其上に物足りる工夫はいくらでもあるが、まあ電車が一番の初歩で且《〔かつ〕》尤も軽便だ」  其日の夕方、与次郎は三四郎を拉《らつ》して、四丁目から電車に乗つて、新橋へ行つて、新橋から又引き返して、日本橋へ来て、そこで下《お》りて、 「どうだ」と聞いた。  次に大通りから細い横町へ曲《まが》つて、平《ひら》の家《や》と云ふ看板のある料理屋へ上《あ》がつて、晩食《ばんめし》を食つて酒を呑んだ。其所《そこ》の下女はみんな京都弁を使ふ。甚だ纏綿《〔てんめん〕》してゐる。表へ出た与次郎は赤い顔をして、又 「どうだ」と聞いた。  次に本場《ほんば》の寄席《よせ》へ連《つ》れて行つてやると云つて、又細い横町へ這入つて、木原店《きはらだな》と云ふ寄席《よせ》へ上《あ》がつた。此所《こゝ》で小さんといふ話し家《か》を聞いた。十時過ぎ通りへ出た与次郎は、又 「どうだ」と聞いた。  三四郎は物足りたとは答へなかつた。然し満更物足りない心持もしなかつた。すると与次郎は大いに小さん論を始めた。  小さんは天才である。あんな芸術家は滅多に出るものぢやない。何時《いつ》でも聞けると思ふから安《やす》つぽい感じがして、甚だ気の毒だ。実は彼と時を同じうして生きてゐる我々は大変な仕合せである。今から少し前に生れても小さんは聞けない。少し後れても同様だ。――円遊も旨《うま》い。然し小さんとは趣が違《ちが》つてゐる。円遊の扮《ふん》した太鼓持は、太鼓持になつた円遊だから面白いので、小さんの遣《や》る太鼓持は、小さんを離れた太鼓持だから面白い。円遊の演ずる人物から円遊を隠せば、人物が丸で消滅して仕舞ふ。小さんの演ずる人物から、いくら小さんを隠したつて、人物は活溌々地に躍動する許りだ。そこがえらい。  与次郎はこんな事を云つて、又 「どうだ」と聞いた。実を云ふと三四郎には小さんの味《あぢは》ひが善《よ》く分らなかつた。其上円遊なるものは未だ嘗《〔かつ〕》て聞いた事がない。従つて与次郎の説の当否は判定しにくい。然し其比較のほとんど文学的と云ひ得る程に要領を得たには感服した。  高等学校の前で分《わか》れる時、三四郎は、 「難有《〔ありがと〕》う、大いに物足りた」と礼を述べた。すると与次郎は、 「是から先《さき》は図書館でなくつちや物足りない」と云つて片町《かたまち》の方へ曲《ま》がつて仕舞つた。此一言で三四郎は始めて図書館に這入る事を知つた。 [#7字下げ]三の五[#「三の五」は中見出し]  其翌日から三四郎は四十時間の講義を殆んど、半分に減《へら》して仕舞つた。さうして図書館に這入つた。広く、長く、天井が高く、左右に窓の沢山ある建物であつた。書庫は入口《いりぐち》しか見《み》えない。此方《こつち》の正面から覗くと奥《おく》には、書物がいくらでも備へ付けてある様に思はれる。立つて見てゐると、時々書庫の中《なか》から、厚い本を二三冊抱へて、出口《でぐち》へ来て左へ折れて行くものがある。職員閲覧室へ行く人である。中《なか》には必要の本を書棚《しよだな》から取り卸《おろ》して、胸一杯にひろげて、立ちながら調べてゐる人もある。三四郎は羨《うら》やましくなつた。奥迄行つて二階へ上《のぼ》つて、それから三階へ上《のぼ》つて、本郷より高い所で、生きたものを近付《ちかづ》けずに、紙の臭《にほひ》を嗅《か》ぎながら、――読んで見たい。けれども何を読むかに至つては、別に判然した考がない。読んで見なければ分らないが、何かあの奥に沢山ありさうに思ふ。  三四郎は一年生だから書庫へ這入る権利がない。仕方なしに、大きな箱入《はこい》りの札《ふだ》目録を、こゞんで一枚々々調べて行くと、いくら捲《めく》つても後《あと》から後《あと》から新らしい本の名が出て来《く》る。仕舞に肩が痛くなつた。顔を上《あ》げて、中休《なかやす》みに、館内を見廻すと、流石《さすが》に図書館丈あつて静かなものである。しかも人が沢山ゐる。さうして向ふの果《はづれ》にゐる人の頭《あたま》が黒く見える。眼口《めくち》は判然しない。高い窓の外《そと》から所々《ところ/″\》に樹が見える。空《そら》も少し見える。遠くから町《まち》の音《おと》がする。三四郎は立ちながら、学者の生活は静かで深いものだと考へた。それで其日は其儘帰つた。  次の日は空想をやめて、這入ると早速本を借りた。然し借り損《そく》なつたので、すぐ返した。後《あと》から借りた本は六※[#濁点付き小書き平仮名つ、319-10]かし過ぎて読めなかつたから又返した。三四郎はかう云ふ風にして毎日本を八九冊|宛《〔ずつ〕》は必ず借りた。尤も会《たま》には少し読んだのもある。三四郎が驚ろいたのは、どんな本を借りても、屹度誰か一度は眼を通して居ると云ふ事実を発見した時であつた。それは書中|此所彼所《こゝかしこ》に見える鉛筆の痕で慥かである。ある時三四郎は念の為め、アフラ、ベーンと云ふ作家の小説を借りて見た。開《あ》ける迄は、よもやと思つたが、見ると矢張り鉛筆で丁寧にしるしが付けてあつた。此時三四郎はこれは到底遣り切れないと思つた。所へ窓の外《そと》を楽隊が通つたんで、つい散歩に出る気になつて、通りへ出て、とう/\青木堂へ這入つた。  這入つて見ると客が二組あつて、いづれも学生であつたが、向ふの隅にたつた一人離れて茶を飲んでゐた男がある。三四郎が不図其横顔を見ると、どうも上京の節汽車の中《なか》で水蜜桃を沢山食つた人の様である。向ふは気がつかない。茶を一口《ひとくち》飲《の》んでは烟草を一|吸《すひ》すつて、大変|悠然《ゆつくり》構へてゐる。今日《けふ》は白地の浴衣《ゆかた》を已《や》めて、背広《せびろ》を着てゐる。然し決して立派《りつぱ》なものぢやない。光線の圧力の野々宮君より白襯衣《しろしやつ》丈が増しな位なものである。三四郎は様子を見てゐるうちに慥かに水蜜桃だと物色した。大学の講義を聞いてから以来、汽車の中《なか》で此男の話した事が何だか急に意義のある様に思はれ出した所なので、三四郎は傍《そば》へ行つて挨拶を仕様かと思つた。けれども先方は正面を見たなり、茶を飲んでは、烟草をふかし、烟草をふかしては茶を飲んでゐる。手の出し様がない。  三四郎は凝《じつ》と其横|顔《がほ》を眺めてゐたが、突然|手杯《こつぷ》にある葡萄酒を飲み干して、表へ飛び出した。さうして図書館に帰つた。 [#7字下げ]三の六[#「三の六」は中見出し]  其日は葡萄酒の景気と、一種の精神作用とで例になく面白い勉強が出来たので、三四郎は大いに嬉しく思つた。二時間程読書三昧に入つた後、漸く気が付いて、そろ/\帰る支度をしながら、一所に借りた書物のうち、まだ開《あ》けて見なかつた、最後の一冊を何気《なにげ》なく引つぺがして見ると、本の見返しの空《あ》いた所に、乱暴にも、鉛筆で一杯何か書いてある。 「ヘーゲルの伯林《ベルリン》大学に哲学を講じたる時、ヘーゲルに毫も哲学を売るの意なし。彼《かれ》の講義は真を説くの講義にあらず、真を体せる人の講義なり。舌の講義にあらず、心の講義なり。真と人と合して醇化一致せる時、其説く所、云ふ所は、講義の為めの講義にあらずして、道の為めの講義となる。哲学の講義は茲《〔ここ〕》に至つて始めて聞くべし。徒らに真を舌頭に転ずるものは、死したる墨を以て、死したる紙の上に、空しき筆記を残すに過ぎず。何の意義かこれあらん。……余今試験の為め、即ち麺麭《ぱん》の為めに、恨を呑み涙を呑んで此書を読む。岑々《しんしん》たる頭《かしら》を抑へて未来永劫に試験制度を呪咀する事を記憶せよ」  とある。署名は無論ない。三四郎は覚えず微笑した。けれども何所《どこ》か啓発された様な気がした。哲学ばかりぢやない、文学も此通りだらうと考へながら、頁《ページ》をはぐると、まだある。「ヘーゲルの……」余程ヘーゲルの好きな男と見える。 「ヘーゲルの講義を聞かんとして、四方より伯林《ベルリン》に集まれる学生は、此講義を衣食の資に利用せんとの野心を以て集まれるにあらず。唯哲人ヘーゲルなるものありて、講壇の上に、無上普遍の真を伝ふると聞いて、向上|求道《ぐどう》の念に切なるがため、壇下《だんか》に、わが不穏《ふおん》底の疑義を解釈せんと欲したる清浄心の発現に外《ほか》ならず。此故に彼等はヘーゲルを聞いて、彼等の未来を決定《けつじよう》し得たり。自己の運命を改造し得たり。のつぺらぽう[#「のつぺらぽう」に傍点]に講義を聴《き》いて、のつぺらぽう[#「のつぺらぽう」に傍点]に卒業し去る公等《〔こうら〕》日本の大学生と同じ事と思ふは、天下の己惚《〔うぬぼれ〕》なり。公|等《ら》はタイプ、ライターに過ぎず。しかも慾張つたるタイプ、ライターなり。公等のなす所、思ふ所、云ふ所、遂に切実なる社会の活気運に関せず。死に至る迄のつぺらぽう[#「のつぺらぽう」に傍点]なるかな。死に至る迄のつぺらぽう[#「のつぺらぽう」に傍点]なるかな」  と、のつぺらぽう[#「のつぺらぽう」に傍点]を二遍|繰返《くりかへ》してゐる。三四郎は黙然として考へ込んでゐた。すると、後《うしろ》から一寸《ちよいと》肩を叩いたものがある。例の与次郎であつた。与次郎を図書館で見掛けるのは珍《めづ》らしい。彼は講義は駄目だが、図書館は大切だと主張する男である。けれども主張通りに這入る事も少ない男である。 「おい、野々宮宗八さんが、君を探《さが》してゐた」と云ふ。与次郎が野々宮君を知らうとは思ひがけなかつたから、念の為め理科大学の野々宮さんかと聞き直すと、うんと云ふ答を得た。早速本を置いて入口《いりぐち》の新聞を閲覧する所迄出て行つたが、野々宮君が居ない。玄関迄出て見たが矢っ張り居ない。石階《いしだん》を下《お》りて、首を延《の》ばして其辺《そのへん》を見廻したが影《かげ》も形《かたち》も見えない。已を得ず引き返した。元の席へ来て見ると、与次郎が、例のヘーゲル論を指《さ》して、小さな声で、 「大分|振《ふる》つてる。昔しの卒業生に違ない。昔《むかし》の奴《やつ》は乱暴だが、どこか面白い所がある。実際此通りだ」とにや/\してゐる。大分気に入つたらしい。三四郎は 「野々宮さんは居らんぜ」と云ふ。 「先刻《さつき》入口《いりくち》に居たがな」 「何か用がある様だつたか」 「ある様でもあつた」  二人《ふたり》は一所に図書館を出た。其時与次郎が話した。――野々宮君は自分の寄寓してゐる広田先生の、元《もと》の弟子《でし》でよく来《く》る。大変な学問好きで、研究も大分ある。其道の人なら、西洋人でもみんな野々宮君の名を知つてゐる。  三四郎は又、野々宮君の先生で、昔《むか》し正門内で馬に苦しめられた人の話《はなし》を思ひ出して、或はそれが広田先生ではなからうかと考へ出した。与次郎に其事を話《はな》すと、与次郎は、ことによると、家《うち》の先生だ、そんな事を遣りかねない人だと云つて笑つてゐた。 [#7字下げ]三の七[#「三の七」は中見出し]  其|翌日《よくじつ》は丁度日曜なので、学校では野々宮君に逢《あ》ふ訳《わけ》に行かない。然し昨日《きのふ》自分を探してゐた事が気掛《きがゝり》になる。幸ひまだ新宅を訪問した事がないから、此方《こつち》から行つて用事を聞いて来《き》様と云ふ気になつた。  思ひ立つたのは朝《あさ》であつたが、新聞を読んで愚図々々してゐるうちに午《ひる》になる。午飯《ひる》を食《た》べたから、出掛様とすると、久し振に熊本|出《で》の友人が来《く》る。漸くそれを帰したのは彼是《かれこれ》四時過ぎである。ちと遅《おそ》くなつたが、予定の通り出た。  野々宮の家《いへ》は頗る遠い。四五日前大久保へ越した。然し電車を利用すれば、すぐに行かれる。何でも停車場の近辺と聞いてゐるから、探《さが》すに不便はない。実を云ふと三四郎はかの平野家行《ひらのやゆき》以来飛んだ失敗をしてゐる。神田の高等商業学校へ行く積りで、本郷四丁目から乗つた所が、乗り越して九段迄来て、序でに飯田橋迄持つて行かれて、其所《そこ》で漸く外濠線へ乗り換へて、御茶の水から、神田橋へ出て、まだ悟らずに鎌倉|河岸《がし》を数寄屋橋の方へ向いて急いで行つた事がある。それより以来電車は兎角《〔とかく〕》物騒な感じがしてならないのだが、甲武線は一筋だと、かねて聞いてゐるから安心して乗つた。  大久保の停車場を下りて、仲《なか》百人の通りを戸山学校の方へ行かずに、踏切りからすぐ横へ折れると、ほとんど三尺許りの細い路《みち》になる。それを爪先上《つまさきあが》りにだら/\と上《のぼ》ると、疎《まばら》な孟宗|藪《やぶ》がある。其|藪《やぶ》の手前と先《さき》に一軒づゝ人が住んでゐる。野々宮の家《いへ》は其手前の分であつた。小《ちい》さな門《もん》が路《みち》の向《むき》に丸で関係のない様な位置に筋違《すぢかひ》に立つてゐた。這入ると、家《うち》が又見当|違《ちがひ》の所にあつた。門も入口《いりくち》も全く後《あと》から付《つ》けたものらしい。  台所の傍《わき》に立派な生垣《いけがき》があつて、庭の方には却つて仕切りも何にもない。只大きな萩が人の脊《せい》より高く延びて、座敷の縁側を少し隠してゐる許である。野々宮君は此縁側に椅子を持ち出して、それへ腰を掛けて西洋の雑誌を読んでゐた。三四郎の這入つて来たのを見て、 「此方《こつち》へ」と云つた。丸で理科大学の穴倉の中《なか》と同じ挨拶である。庭から這入るべきのか、玄関から廻るべきのか、三四郎は少しく蹰躇《〔ちゅうちょ〕》してゐた。すると又 「此方《こつち》へ」と催促するので、思ひ切つて庭から上《あが》る事にした。座敷は即ち書斎で、広さは八畳で、割合に西洋の書物が沢山ある。野々宮君は椅子を離れて坐つた。三四郎は、閑静な所だとか、割合に御茶の水迄早く出られるとか、望遠鏡の試験はどうなりましたとか、――締りのない当座の話をやつたあと、 「昨日《きのふ》私《わたくし》を探《さが》して御出《おいで》だつたさうですが、何か御用ですか」と聞いた。すると野々宮君は、少し気の毒さうな顔をして、 「何《なに》実は何でもないですよ」と云つた。三四郎はたゞ「はあ」と云つた。 「それでわざ/\来《き》て呉《く》れたんですか」 「なに、さう云ふ訳《わけ》でもありません」 「実は御国の御母《おつか》さんがね、悴《せがれ》が色々御世話になるからと云つて、結構なものを送つて下《くだ》さつたから、一寸《ちよつと》あなたにも御礼を云はうと思つて……」 「はあ、さうですか。何か送つて来《き》ましたか」 「えゝ赤い魚《さかな》の粕漬《かすづけ》なんですがね」 「ぢやひめいち[#「ひめいち」に傍点]でせう」  三四郎は詰《つま》らんものを送つたものだと思つた。しかし野々宮君はかのひめいち[#「ひめいち」に傍点]に就いて色々な事を質問した。三四郎は特《とく》に食《く》ふ時の心得を説明した。粕共《かすごと》焼いて、いざ皿へ写すと云ふ時に、粕《かす》を取らないと味《あぢ》が抜けると云つて教へてやつた。  二人《ふたり》がひめいち[#「ひめいち」に傍点]に就て問答をしてゐるうちに、日が暮れた。三四郎はもう帰らうと思つて挨拶をしかける所へ、どこからか電報が来《き》た。野々宮君は封を切つて、電報を読んだが、口《くち》のうちで、「困つたな」と云つた。 [#7字下げ]三の八[#「三の八」は中見出し]  三四郎は澄《すま》してゐる訳にも行かず、と云つて無暗に立入《たちい》つた事を聞く気にもならなかつたので、たゞ、 「何か出来ましたか」と棒の様に聞いた。すると野々宮君は、 「なに大した事でもないのです」と云つて、手に持つた電報を、三四郎に見せて呉れた。すぐ来《き》てくれとある。 「何所《どこ》かへ御出《おいで》になるのですか」 「えゝ、妹が此間から病気をして、大学の病院に這入つてゐるんですが、其奴《そいつ》がすぐ来てくれと云ふんです」と一向騒ぐ気色もない。三四郎の方は却つて驚ろいた。野々宮君の妹と、妹の病気と、大学の病院を一所に纏《まと》めて、それに池の周囲《まはり》で逢《あ》つた女を加へて、それを一《いち》どきに掻《か》き廻《まは》して、驚ろいてゐる。 「ぢや余程御|悪《わる》いんですな」 「なに左様《さう》ぢやないんでせう。実は母が看病に行つてるんですが、――もし病気の為《ため》なら、電車へ乗《の》つて馳《か》けて来た方が早い訳《わけ》ですからね。――なに妹の悪戯《いたづら》でせう。馬鹿だから、よくこんな真似をします。此所《こゝ》へ越《こ》してからまだ一|遍《ぺん》も行《い》かないものだから、今日《けふ》の日曜には来《く》ると思つて待つてゞもゐたのでせう、それで」と云つて首《くび》を横に曲《ま》げて考へた。 「然し御出《おいで》になつた方が可《い》いでせう。もし悪《わる》いと不可《いけ》ません」 「左様《さやう》。四五日行かないうちにさう急に変る訳もなささうですが、まあ行つて見るか」 「御出《おいで》になるに若《し》くはないでせう」  野々宮は行く事にした。行くと極《き》めたに就ては、三四郎に依頼《たのみ》があると云ひ出した。万一病気の為めの電報とすると、今夜は帰れない。すると留守が下女|一人《ひとり》になる。下女が非常に臆病で、近所が殊の外物騒である。来合せたのが丁度幸だから、明日《あす》の課業に差支がなければ泊《とま》つて呉れまいか、尤も只《たゞ》の電報ならば直《すぐ》帰つてくる。前から分《わか》つてゐれば、例の佐々木でも頼《たの》む筈だつたが、今からではとても間に合はない。たつた一晩《ひとばん》の事ではあるし、病院へ泊《とま》るか、泊《とま》らないか、まだ分《わか》らない先《さき》から、関係もない人に、迷惑を掛けるのは我儘過ぎて、強ひてとは云ひかねるが、――無論野々宮はかう流暢には頼まなかつたが、相手の三四郎が、さう流暢に頼まれる必要のない男だから、すぐ承知して仕舞つた。  下女が御飯はと云ふのを、「食《く》はない」と云つた儘、三四郎に「失敬だが、君|一人《ひとり》で、後《あと》で食《く》つて下《くだ》さい」と夕食《ゆふめし》迄置き去りにして、出て行つた。行つたと思つたら暗《くら》い萩《はぎ》の間から大きな声を出して、 「僕の書斎にある本は何でも読んで可《い》いです。別に面白いものもないが、何か御覧なさい。小説も少しはある」  と云つた儘消えてなくなつた。縁側迄見送つて三四郎が礼を述べた時は、三坪程な孟宗藪の竹が、疎《まばら》な丈に一本宛まだ見えた。  間《ま》もなく三四郎は八畳敷の書斎の真中《まんなか》で小さい膳を控へて、晩食《ばんめし》を食つた。膳の上を見ると、主人の言葉に違《たが》はず、かのひめいち[#「ひめいち」に傍点]が附《つ》いてゐる。久し振で故郷《ふるさと》の香《にほひ》を嗅《か》いだ様で嬉しかつたが、飯《めし》は其割に旨《うま》くなかつた。御給仕に出た下女の顔を見ると、是も主人の言つた通り、臆病に出来た眼鼻であつた。 [#7字下げ]三の九[#「三の九」は中見出し]  飯《めし》が済むと下女は台所へ下《さ》がる。三四郎は一人《ひとり》になる。一人《ひとり》になつて落ち付くと、野々宮君の妹の事が急に心配になつて来《き》た。危篤な様な気がする。野々宮君の馳け付《つ》け方が遅《おそ》い様な気がする。さうして妹が此間見た女の様な気がして堪らない。三四郎はもう一遍《いつぺん》、女の顔付《かほつき》と眼付《めつき》と、服《ふく》装とを、あの時あの儘に、繰り返して、それを病院の寝台の上に乗せて、其|傍《そば》に野々宮君を立たして、二三の会話をさせたが、兄《あに》では物足らないので、何時《いつ》の間《ま》にか、自分が代理になつて、色々親切に介抱してゐた。所へ汽車が轟と鳴つて孟宗藪のすぐ下《した》を通つた。根太《ねだ》の具合か、土質《どしつ》の所為《せゐ》か座敷が少し震《ふる》へる様である。  三四郎は看病をやめて、座敷を見廻した。いか様《さま》古《ふる》い建物《たてもの》と思はれて、柱《はしら》に寂《さび》がある。其代り唐紙《からかみ》の立附《たてつけ》が悪い。天井は真黒だ。洋燈許《らんぷばかり》が当世に光《ひか》つてゐる。野々宮君の様な新式な学者が、物数奇《〔ものずき〕》にこんな家《うち》を借《か》りて、封建時代の孟宗藪を見て暮らすのと同格である。物数奇ならば当人の随意だが、もし必要に逼《せま》られて、郊外に自《みづから》を放逐したとすると、甚だ気の毒である。聞く所によると、あれ丈の学者で、月にたつた五十五円しか、大学から貰つてゐないさうだ。だから已を得ず私立学校へ教へに行くのだらう。それで妹に入院されては堪《たま》るまい。大久保へ越したのも、或はそんな経済上の都合かも知れない。……  宵《よひ》の口ではあるが、場所が場所丈にしんとしてゐる。庭の先《さき》で虫の音《ね》がする。独りで坐《すは》つてゐると、淋《さみ》しい秋の初《はじめ》である。其時遠い所で誰《だれ》か、 「あゝあゝ、もう少《すこ》しの間だ」  と云ふ声がした。方角は家《いへ》の裏手《うらて》の様にも思へるが、遠いので確《しつ》かりとは分《わか》らなかつた。また方角を聞き分《わ》ける暇《ひま》もないうちに済《す》んで仕舞つた。けれども三四郎の耳には明《あき》らかに、此一句が、凡てに捨てられた人の、凡《すべ》てから返事を予期しない、真実の独白と聞えた。三四郎は気味が悪《わる》くなつた。所へ又汽車が遠くから響《ひゞ》いて来た。其|音《おと》が次第に近付いて孟宗藪の下《した》を通るときには、前の列車より倍《ばい》も高《たか》い音《おと》を立てゝ過《す》ぎ去つた。座敷の微震がやむ迄は茫然としてゐた三四郎は、石火の如く、先刻《さつき》の嘆声と今の列車の響とを、一種の因果で結び付けた。さうして、ぎくんと飛び上がつた。其因果は恐るべきものである。  三四郎は此時、凝《じつ》と座に着いてゐる事の極めて困難なのを発見した。脊筋から足の裏迄が疑惧《ぎく》の刺激でむづ/\する。立つて便所に行つた。窓から外《そと》を覗くと、一面の星月夜で、土手|下《した》の汽車道は死んだ様に静かである。それでも竹格子の間《あひだ》から鼻を出す位にして、暗《くら》い所を眺めてゐた。  すると停車場の方から提燈を点《つ》けた男が鉄軌《レール》の上を伝《つた》つて此方《こつち》へ来る。話《はな》し声で判《はん》じると三四人らしい。提燈の影は踏切りから土手下《どてした》へ隠れて、孟宗藪の下《した》を通る時は、話し声丈になつた。けれども、其言葉は手に取る様に聞えた。 「もう少し先《さき》だ」  足音《あしおと》は向ふへ遠退《〔とおの〕》いて行く。三四郎は庭先《にはさき》へ廻つて下駄を突掛《つゝか》けた儘孟宗藪の所から、一間余の土手を這ひ下りて、提燈のあとを追掛《おつか》けて行つた。 [#7字下げ]三の十[#「三の十」は中見出し]  五六間行くか行かないうちに、又|一人《ひとり》土手から飛び下《お》りたものがある。―― 「轢死ぢやないですか」  三四郎は何か答へやうとしたが一寸《ちよつと》声が出なかつた。其うち黒い男は行き過ぎた。是は野々宮君の奥に住んでゐる家《いへ》の主人《あるじ》だらうと、後《あと》を跟《つ》けながら考へた。半町程くると提燈が留《とま》つてゐる。人《ひと》も留《とま》つてゐる。人は灯《ひ》を翳《かざ》した儘|黙《だま》つてゐる。三四郎は無言で灯《ひ》の下《した》を見た。下《した》には死骸が半分ある。汽車は右の肩から乳《ちゝ》の下《した》を腰《こし》の上迄|美事《みごと》に引き千切《ちぎ》つて、斜掛《はすかけ》の胴を置き去りにして行つたのである。顔《かほ》は無創《むきず》である。若い女だ。  三四郎は其時の心持を未《いま》だに覚えてゐる。すぐ帰らうとして、踵《かゝと》を回《めぐ》らしかけたが、足がすくんで殆んど動けなかつた。土堤《どて》を這ひ上《あが》つて、座敷《ざしき》へ戻《もど》つたら、動悸が打ち出した。水《みづ》を貰《もら》はうと思つて、下女を呼ぶと、下女は幸ひに何にも知らないらしい。しばらくすると、奥《おく》の家《うち》で、何だか騒ぎ出《だ》した。三四郎は主人が帰つたんだなと覚《さと》つた。やがて土手の下《した》ががや/\する。それが済むと又静かになる。殆んど堪え難い程の静かさであつた。  三四郎の眼《め》の前には、あり/\と先刻《さつき》の女の顔が見える。其顔と「あゝあゝ……」と云つた力のない声と、其二つの奥に潜んで居るべき筈の無残な運命とを、継《つ》ぎ合はして考へて見ると、人生と云ふ丈夫さうな命《いのち》の根《ね》が、知らぬ間《ま》に、ゆるんで、何時《いつ》でも暗闇《くらやみ》へ浮《う》き出して行きさうに思はれる。三四郎は慾も得《とく》も入《〔い〕》らない程|怖《こわ》かつた。たゞ轟と云ふ一瞬間である。其前《そのまへ》迄は慥かに生きてゐたに違ない。  三四郎は此時不図汽車で水蜜桃を呉れた男が、危《あぶ》ない/\、気を付けないと危《あぶ》ない、と云つた事を思ひ出した。危《あぶ》ない/\と云ひながら、あの男はいやに落付いて居た。つまり危《あぶ》ない/\と云ひ得る程に、自分は危《あぶ》なくない地位に立つてゐれば、あんな男にもなれるだらう。世の中《なか》にゐて、世の中を傍観してゐる人は此所《こゝ》に面白味があるかも知れない。どうもあの水蜜桃の食ひ具合から、青木堂で茶を呑んでは烟草を吸ひ、烟草を吸つては茶を呑んで、凝《じ》つと正面を見てゐた様子は、正に此種の人物である。――批評家である。――三四郎は妙な意味に批評家と云ふ字を使つて見た。使つて見て自分で旨《うま》いと感心した。のみならず自分も批評家として、未来に存在しやうかと迄考へ出した。あの凄い死顔《しにがほ》を見るとこんな気も起る。  三四郎は室《へや》の隅《すみ》にある洋机《テーブル》と、洋机《テーブル》の前にある椅子と、椅子の横にある本箱と、其本箱の中《なか》に行儀よく並《なら》べてある洋書を見廻して、此静かな書斎の主人《あるじ》は、あの批評家と同じく無事で幸福であると思つた。――光線の圧力を研究する為《ため》に、女を轢死させる事はあるまい。主人の妹は病気である。けれども兄《あに》の作《つく》つた病気ではない。自《みづ》から罹《かゝ》つた病気である。抔《〔など〕》と夫から夫へと頭《あたま》が移つて行くうちに、十一時になつた。中野|行《ゆき》の電車はもう来ない。或は病気がわるいので帰らないのかしらと、又心配になる。所へ野々宮から電報が来《き》た。妹《いもと》無事《ぶじ》、明日《あす》朝《あさ》帰《かへ》るとあつた。  安心して床《とこ》に這入つたが、三四郎の夢は頗る危険であつた。――轢死を企てた女は、野々宮に関係のある女で、野々宮はそれと知つて家《うち》へ帰つて来ない。只三四郎を安心させる為に電報だけ掛けた。妹無事とあるのは偽はりで、今夜《こんや》轢死のあつた時刻に妹も死んで仕舞つた。さうして其妹は即ち三四郎が池の端《はた》で逢つた女である。……  三四郎は明日《あくるひ》例になく早く起きた。 [#7字下げ]三の十一[#「三の十一」は中見出し]  寐慣《ねつけ》ない所に寐た床《とこ》のあとを眺《なが》めて、烟草《たばこ》を一本|吸《の》んだが、昨夜《ゆふべ》の事は、凡て夢の様である。縁側へ出《で》て、低い廂《ひさし》の外《そと》にある空《そら》を仰ぐと、今日《けふ》は好《い》い天気だ。世界が今|朗《ほが》らかに成つた許りの色をしてゐる。飯《めし》を済《す》まして茶を飲《の》んで、縁側に椅子を持ち出して新聞を読んでゐると、約束通り野々宮君が帰つて来た。 「昨夜《ゆふべ》、そこに轢死があつたさうですね」と云ふ。停車場か何かで聞いたものらしい。三四郎は自分の経験を残らず話した。 「それは珍《めづ》らしい。滅多に逢へない事だ。僕も家《うち》に居れば好《よ》かつた。死骸はもう片付けたらうな。行つても見られないだらうな」 「もう駄目でせう」と一口《ひとくち》答へたが、野々宮君の呑気なのには驚ろいた。三四郎は此無神経を全く夜《よる》と昼《ひる》の差別から起るものと断定した。光線の圧力を試験する人の性癖が、かう云ふ場合にも、同じ態度であらはれてくるのだとは丸で気が付かなかつた。年が若《わか》いからだらう。  三四郎は話《はなし》を転じて、病人の事を尋ねた。野々宮君の返事によると、果して自分の推測通り病人に異状はなかつた。只五六日以来行つてやらなかつたものだから、それを物足りなく思つて、退屈|紛《まぎ》れに兄を釣り寄せたのである。今日《けふ》は日曜だのに来《き》て呉れないのは苛《ひど》いと云つて怒《おこ》つてゐたさうである。それで野々宮君は妹を馬鹿だと云つてゐる。本当に馬鹿だと思つてゐるらしい。此|忙《いそが》しいものに大切な時間を浪費させるのは愚だと云ふのである。けれども三四郎には其意味が殆んど解《わか》らなかつた。わざ/\電報を掛けて迄逢ひたがる妹なら、日曜の一晩《ひとばん》や二晩《ふたばん》を潰《つぶ》したつて惜しくはない筈である。さう云ふ人《ひと》に逢《あ》つて過《す》ごす時間が、本当の時間で、穴倉で光線の試験をして暮《くら》す月日《つきひ》は寧ろ人生に遠い閑生涯と云ふべきものである。自分が野々宮君であつたならば、此妹の為めに勉強の妨害をされるのを却つて嬉しく思ふだらう。位に感じたが、其時は轢死の事を忘れてゐた。  野々宮君は昨夜《ゆふべ》よく寐られなかつたものだから茫然《ぼんやり》して不可《いけ》ないと云ひ出した。今日《けふ》は幸ひ午《ひる》から早稲田の学校へ行く日で、大学の方は休みだから、それ迄寐やうと云つてゐる。「大分|遅《おそ》く迄|起《お》きてゐたんですか」と三四郎が聞くと、実は偶然高等学校で教はつた、もとの先生の広田といふ人が妹の見舞に来《き》て呉れて、みんなで話《はなし》をしてゐるうちに、電車の時間に後《おく》れて、つい泊《とま》る事にした。広田のうちへ泊《とま》るべきのを、又妹が駄々を捏《こ》ねて、是非病院に泊《とま》れと云つて聞かないから、已を得ず狭《せま》い所へ寐たら、何だか苦しくつて寐《ね》つかれなかつた。どうも妹は愚物《〔ぐぶつ〕》だ。と又妹を攻撃する。三四郎は可笑《おかし》くなつた。少し妹の為に弁護しやうかと思つたが、何だか言ひ悪《にく》いので已めにした。  其代り広田さんの事を聞いた。三四郎は広田さんの名前を是で三四遍|耳《みゝ》にしてゐる。さうして、水蜜桃の先生と青木堂の先生に、ひそかに広田さんの名を付けてゐる。それから正門内で意地の悪い馬に苦しめられて、喜多床の職人に笑はれたのも矢張り広田先生にしてある。所が今承つて見ると、馬の件は果して広田先生であつた。それで水蜜桃も必ず同先生に違《ちがひ》ないと極《き》めた。考へると、少し無理の様でもある。  帰るときに、序でだから、午前中に届けて貰ひたいと云つて、袷《〔あわせ〕》を一枚病院迄頼まれた。三四郎は大いに嬉しかつた。 [#7字下げ]三の十二[#「三の十二」は中見出し]  三四郎は新らしい四角な帽子を被《かぶ》つてゐる。此帽子を被《かぶ》つて病院に行けるのが一寸《ちよつと》得意である。冴々《さえ/″\》しい顔をして野々宮君の家《いへ》を出た。  御茶の水《みづ》で電車を降《お》りて、すぐ俥《くるま》に乗つた。いつもの三四郎に似合はぬ所作《しよさ》である。威勢よく赤門を引き込ませた時、法文科の号鐘《ベル》が鳴り出した。いつもなら手帳《のーと》と印気《いんき》壺を以て、八番の教室に這入る時分である。一二時間の講義位聴き損《そく》なつても構はないと云ふ気で、真直《ますぐ》に青山内科の玄関迄乗り付けた。  上《あが》り口《ぐち》を奥へ、二つ目《め》の角《かど》を右へ切《き》れて、突当《つきあた》りを左へ曲《まが》ると東側《ひがしがは》の部屋《へや》だと教つた通り歩《ある》いて行くと、果してあつた。黒塗の札に野々宮よし子と仮名でかいて、戸口に懸《か》けてある。三四郎は此名前を読んだ儘、しばらく戸口の所で佇《たゞず》んでゐた。田舎者《いなかもの》だから敲《のつく》するなぞと云ふ気の利いた事はやらない。 「此|中《なか》にゐる人が、野々宮君の妹で、よし子と云ふ女である」  三四郎は斯《か》う思つて立つてゐた。戸を開《あ》けて顔が見度《〔みたく〕》もあるし、見て失望するのが厭《いや》でもある。自分の頭《あたま》の中《なか》に往来する女の顔は、どうも野々宮宗八さんに似てゐないのだから困る。  後《うし》ろから看護婦が草履の音《おと》を立てゝ近付《ちかづ》いて来た。三四郎は思ひ切つて戸を半分程|開《あ》けた。さうして中《なか》にゐる女と顔を見合せた。(片手《かたて》に|握り《ハンドル》を把《も》つた儘)  眼《め》の大きな、鼻の細い、唇の薄い、鉢《はち》が開《ひら》いたと思ふ位に、額《ひたひ》が広くつて顎《あご》が削《こ》けた女であつた。造作《ぞうさく》は夫丈《それだけ》である。けれども三四郎は、かう云ふ顔《かほ》だちから出《で》る、此時にひらめいた咄嗟の表情を生れて始めて見た。蒼白《あをじろ》い額《ひたひ》の後《うしろ》に、自然の儘《まゝ》に垂《た》れた濃《こ》い髪が、肩迄見える。それへ東窓《ひがしまど》を洩《も》れる朝日の光《ひかり》が、後《うしろ》から射すので、髪《かみ》と日光《ひ》の触《ふ》れ合《あ》ふ境《さかい》の所が菫《すみれ》色に燃《も》えて、活《い》きた暈《つきかさ》を脊負《しよ》つてる。それでゐて、顔《かほ》も額《ひたひ》も甚だ暗《くら》い。暗《くら》くて蒼白《あをしろ》い。其中《そのなか》に遠い心持のする眼《め》がある。高《たか》い雲が空《そら》の奥にゐて容易に動かない。けれども動かずにも居られない。たゞ崩《なだ》れる様に動く。女が三四郎を見た時は、かう云ふ眼付であつた。  三四郎は此表情のうちに嬾《ものう》い憂鬱と、隠《かく》さゞる快活との統一を見出した。其統一の感じは三四郎に取つて、最も尊き人生の一片である。さうして一大発見である。三四郎は|握り《ハンドル》を把《も》つた儘、――顔《かほ》を戸の影《かげ》から半分部屋の中《なか》に差し出した儘、此刹那の感に自己《みづから》を放下《げ》し去つた。 「御這入りなさい」  女は三四郎を待《ま》ち設けた様に云ふ。其調子には初対面の女には見出す事の出来ない、安《やす》らかな音色《ねいろ》があつた。純粋の小供か、あらゆる男児に接しつくした婦人でなければ、かうは出られない。馴々《なれ/\》しいのとは違ふ。初《はじめ》から旧《ふる》い相識《しりあひ》なのである。同時に女は肉《にく》の豊《ゆたか》でない頬《ほゝ》を動かしてにこりと笑つた。蒼白いうちに、なつかしい暖味《あたゝかみ》が出来た。三四郎の足は自然《しぜん》と部屋の内《うち》へ這入つた。其時青年の頭《あたま》の裡《うら》[#ルビの「うら」はママ]には遠い故郷《ふるさと》にある母の影が閃《ひら》めいた。 [#7字下げ]三の十三[#「三の十三」は中見出し]  戸の後《うしろ》へ廻《まは》つて、始めて正面に向いた時、五十あまりの婦人《ふじん》が三四郎に挨拶をした。此婦人は三四郎の身体《からだ》がまだ扉《とびら》の影を出《で》ない前《まへ》から席《せき》を立《た》つて待《ま》つてゐたものと見える。 「小川さんですか」と向《むかふ》から尋ねて呉れた。顔は野々宮君に似てゐる。娘にも似てゐる。然したゞ似てゐるといふ丈である。頼まれた風呂敷包を出《だ》すと、受取つて、礼を述べて、 「どうぞ」と云ひながら椅子をすゝめた儘、自分は寝台《ベツド》の向側《むかふがは》へ回《まは》つた。  寝台《ベツド》の上に敷《し》いた蒲団を見ると真白《まつしろ》である。上《うへ》へ掛けるものも真白《まつしろ》である。それを半分《はんぶ》程|斜《はす》に捲《は》ぐつて、裾《すそ》の方が厚《あつ》く見える所を、避《よ》ける様に、女は窓を背《せ》にして腰を掛けた。足は床《ゆか》に届かない。手に編針《あみばり》を持つてゐる。毛糸《けいと》のたま[#「たま」に傍点]が寝台の下《した》に転《ころ》がつた。女の手から長い赤い糸が筋《すぢ》を引いてゐる。三四郎は寝台の下《した》から毛糸のたま[#「たま」に傍点]を取り出してやらうかと思つた。けれども、女が毛糸には丸で無頓着でゐるので控《ひか》へた。  御母《おつか》さんが向側から、しきりに昨夜《ゆふべ》の礼を述べる。御|忙《いそ》がしい所を抔と云ふ。三四郎は、いゝえ、どうせ遊《あそ》んでゐますからと云ふ。二人《ふたり》が話をしてゐる間《あひだ》、よし子は黙《だま》つてゐた。二人《ふたり》の話《はなし》が切れた時、突然、 「昨夜《ゆふべ》の轢死を御覧になつて」と聞いた。見ると部屋の隅《すみ》に新聞がある。三四郎が、 「えゝ」と云ふ。 「怖《こわ》かつたでせう」と云ひながら、少し首を横に曲げて、三四郎を見た。兄《あに》に似て頸《くび》の長い女である。三四郎は怖《こわ》いとも怖《こわ》くないとも答へずに、女の頸《くび》の曲《まが》り具合を眺めてゐた。半分は質問があまり単純なので、答へに窮したのである。半分は答へるのを忘れたのである。女は気が付いたと見えて、すぐ頸《くび》を真直《まつすぐ》にした。さうして蒼白い頬《ほゝ》の奥を少し紅《あか》くした。三四郎はもう帰るべき時間だと考へた。  挨拶をして、部屋を出て、玄関正面へ来《き》て、向を見ると、長い廊下の果《はづれ》が四角《しかく》に切れて、ぱつと明《あか》るく、表《おもて》の緑《みどり》が映《うつ》る上《あが》り口《ぐち》に、池の女が立つてゐる。はつと驚ろいた三四郎の足は、早速《さそく》の歩調に狂《くるひ》が出来た。其時透明な空気の画布《カンヷス》の中《なか》に暗《くら》く描《ゑが》かれた女の影《かげ》は一歩《ひとあし》前へ動《うご》いた。三四郎も誘《さそ》はれた様に前へ動いた。二人《ふたり》は一|筋道《すぢみち》の廊下の何所《どこ》かで擦《す》れ違《ちが》はねばならぬ運命を以て互ひに近付いて来《き》た。すると女が振《ふ》り返つた。明《あか》るい表《おもて》の空気のなかには、初|秋《あき》の緑《みどり》が浮いてゐる許《ばかり》である。振り返つた女の眼《め》に応じて、四角のなかに、現《あら》はれたものもなければ、これを待ち受けてゐたものもない。三四郎は其間に女の姿勢と服装を頭《あたま》のなかへ入れた。  着物の色は何と云ふ名か分らない。大学の池の水へ、曇つた常磐木《〔ときわぎ〕》の影が映《うつ》る時の様である。それを鮮《あざ》やかな縞《しま》が、上から下へ貫ぬいてゐる。さうして其縞が貫《つら》ぬきながら波を打つて、互に寄つたり離れたり、重《かさ》なつて太《ふと》くなつたり、割れて二筋《ふたすぢ》になつたりする。不規則だけれども乱れない上から三分一の所を、広い帯で横に仕切つた。帯の感じには暖味《あたゝかみ》がある。黄を含んでゐるためだらう。  後《うしろ》を振り向いた時、右の肩が、後《あと》へ引けて、左の手が腰《こし》に添《そ》つた儘前へ出た。手帛《はんけち》を持つてゐる。其|手帛《はんけち》の指《ゆび》に余つた所が、さらりと開《ひら》いてゐる。絹《きぬ》の為《ため》だらう。――腰から下《した》は正しい姿勢にある。 [#7字下げ]三の十四[#「三の十四」は中見出し]  女はやがて元の通りに向き直つた。眼《め》を伏《ふ》せて二足許《ふたあしばかり》三四郎に近付いた時、突然|首《くび》を少し後《うしろ》に引いて、まともに男を見た。二重瞼《ふたへまぶち》の切《きれ》長の落付いた恰好である。目立《めだ》つて黒い眉毛《まゆげ》の下《した》に活《い》きてゐる。同時に奇麗な歯があらはれた。此歯と此|顔色《かほいろ》とは三四郎に取つて忘るべからざる対照であつた。  今日《けふ》は白いものを薄く塗《ぬ》つてゐる。けれども本来の地《ぢ》を隠《かく》す程に無趣味ではなかつた。濃《こま》やかな肉《にく》が、程よく色づいて、強《つお》い日光《ひ》に負《め》げない様に見える上を、極めて薄く粉が吹いてゐる。てら/\照《ひか》る顔ではない。  肉は頬《ほゝ》と云はず顎《あご》と云はずきちりと締《しま》つてゐる。骨《ほね》の上に余つたものは沢山《たんと》ない位である。それでゐて、顔全体が柔《やわら》かい。肉が柔らかいのではない、骨《ほね》そのものが柔らかい様に思はれる。奥行《おくゆき》の長い感じを起させる顔である。  女は腰《こし》を曲《かゞ》めた。三四郎は知らぬ人に礼をされて驚ろいたと云ふよりも、寧ろ礼の仕方《しかた》の巧みなのに驚ろいた。腰から上《うへ》が、風に乗る紙の様にふわりと前に落ちた。しかも早い。それで、ある角度迄来て苦もなく確然《はつきり》と留《とま》つた。無論習つて覚えたものではない。 「一寸《ちよつと》伺ひますが……」と云ふ声が白い歯の間から出た。きりゝとしてゐる。然し鷹揚である。たゞ夏《なつ》のさかりに椎《しい》の実《み》が生《な》つてゐるかと人に聞《き》きさうには思はれなかつた。三四郎はそんな事に気のつく余裕はない。 「はあ」と云つて立ち留《どま》つた。 「十五号室はどの辺《へん》になりませう」  十五号は三四郎が今出て来た室《へや》である。 「野々宮さんの室《へや》ですか」  今度は女の方が「はあ」と云ふ。 「野々宮さんの部屋はね、其|角《かど》を曲《まが》つて突《つ》き当《あた》つて、又左へ曲《ま》がつて、二番目の右側《みぎがは》です」 「其角《そのかど》を……」と云ひながら女は細い指《ゆび》を前へ出した。 「えゝ、つい其|先《さき》の角《かど》です」 「どうも難有《〔ありがと〕》う」  女は行き過ぎた。三四郎は立つたまゝ、女の後姿《うしろすがた》を見守つてゐる。女は角《かど》へ来《き》た。曲《ま》がらうとする途端に振り返つた。三四郎は赤面する許りに狼狽した。女はにこりと笑つて、此角《このかど》ですかと云ふ様な相図を顔でした。三四郎は思はず首肯《うなづ》いた。女の影は右へ切れて白い壁の中《なか》へ隠れた。  三四郎はぶらりと玄関を出た。医科大学生と間違へて室《へや》の番号を聞いたのかしらんと思つて、五六歩あるいたが、急に気が付いた。女に十五号を聞かれた時、もう一|辺《ぺん》よし子の室《へや》へ後戻《あともど》りをして、案内すればよかつた。残念な事をした。  三四郎は今更取つて帰《かへ》す勇気は出《で》なかつた。已を得ず又五六歩あるいたが、今度はぴたりと留《とま》つた。三四郎の頭《あたま》の中《なか》に、女の結《むす》んでゐたリボンの色が映《うつ》つた。其リボンの色も質も、慥《たし》かに野々宮君が兼安で買つたものと同じであると考へ出した時、三四郎は急に足が重くなつた。図書館の横をのたくる様に正門の方へ出ると、どこから来たか与次郎が突然声を掛けた。 「おい何故《なぜ》休《やす》んだ。今日《けふ》は以太利《〔イタリー〕》人がマカロニーを如何にして食ふかと云ふ講義を聞いた」と云ひながら、傍《そば》へ寄《よ》つて来て三四郎の肩を叩いた。  二人《ふたり》は少し一所にあるいた。正門の傍《そば》へ来《き》た時、三四郎は、 「君、今頃でも薄いリボンを掛けるものかな。あれは極暑に限るんぢやないか」と聞いた。与次郎はアハヽヽと笑つて、 「○○教授に聞くがいゝ。何でも知つてる男だから」と云つて取り合はなかつた。  正門の所で三四郎は具合が悪いから今日《けふ》は学校を休むと云ひ出した。与次郎は一所に跟《つ》いて来《き》て損《そん》をしたと云はぬ許りに教室の方へ帰つて行つた。 [#7字下げ]四の一[#「四の一」は中見出し]  三四郎の魂《たましい》がふわつき出した。講義を聞いてゐると、遠方に聞《きこ》える。わるくすると肝要な事を書き落す。甚しい時は他人《ひと》の耳《みゝ》を損料で借りてゐる様な気がする。三四郎は馬鹿々々しくつて堪《たま》らない。仕方なしに、与次郎に向つて、どうも近頃は講義が面白くないと言ひ出した。与次郎の答はいつも同じ事であつた。―― 「講義が面白い訳がない。君は田舎者《いなかもの》だから、今に偉《えら》い事になると思つて、今日迄辛防して聞いてゐたんだらう。愚の至りだ。彼等の講義は開闢《かいびやく》以来こんなものだ。今更失望したつて仕方がないや」 「さう云ふ訳《わけ》でもないが……」と三四郎は弁解する。与次郎のへら/\調と、三四郎の重苦《おもくる》しい口《くち》の利き様が、不釣合で甚だ可笑《おか》しい。  かう云ふ問答を二三度繰り返してゐるうちに、いつの間にか半月許り経過《たつ》た。三四郎の耳は漸々《ぜんぜん》借《か》りものでない様になつて来た。すると今度は与次郎の方から、三四郎に向つて、 「どうも妙な顔だな。如何にも生活に疲れてゐる様な顔だ。世紀|末《まつ》の顔だ」と批評し出《だ》した。三四郎は、此批評に対しても依然として、 「さう云ふ訳でもないが……」を繰り返してゐた。三四郎は世紀|末《まつ》抔と云ふ言葉を聞いて嬉《うれ》しがる程に、まだ人工的の空気に触れてゐなかつた。またこれを興味ある玩具《おもちや》として使用し得る程に、ある社会の消息に通じてゐなかつた。たゞ生活に疲れてゐるといふ句が少し気に入つた。成程疲れ出した様でもある。三四郎は下痢の為め許りとは思はなかつた。けれども大いに疲れた顔《かほ》を標榜するほど、人生観のハイカラでもなかつた。それで此会話はそれぎり発展しずに済んだ。  そのうち秋は高くなる。食慾は進む。二十三の青年が到底人生に疲《つか》れてゐる事が出来ない時節が来た。三四郎は能《よ》く出《で》る。大学の池の周囲《まはり》も大分《だいぶん》廻《まは》つて見たが、別段の変《へん》もない。病院の前も何遍《なんべん》となく往復したが普通の人間に逢ふ許《ばか》りである。又理科大学の穴倉へ行つて野々宮君に聞いて見たら、妹はもう病院を出たと云ふ。玄関で逢つた女の事を話さうと思つたが、先方《さき》が忙《いそが》しさうなので、つい遠慮して已めて仕舞つた。今度大久保へ行つて緩《ゆつ》くり話せば、名前も素性も大抵は解《わか》る事だから、焦《せ》かずに引き取つた。さうして、ふわ/\して諸方《ほう/″\》歩《ある》いてゐる。田端《たばた》だの、道灌山だの、染井の墓地だの、巣鴨の監獄だの、護国寺だの、――三四郎は新井《あらゐ》の薬師《やくし》迄も行つた。新井の薬師の帰りに、大久保へ出て、野々宮君の家《うち》へ廻《まは》らうと思つたら、落合《おちあひ》の火葬場《やきば》の辺《へん》で途《みち》を間違へて、高田へ出たので、目白から汽車へ乗つて帰つた。汽車の中《なか》で見舞《みやげ》に買つた栗《くり》を一人《ひとり》で散々《さん/″\》食つた。其|余《あま》りは翌日《あくるひ》与次郎が来《き》て、みんな平げた。  三四郎はふわ/\すればする程愉快になつて来《き》た。初めのうちは余《あま》り講義に念を入れ過《す》ぎたので、耳が遠くなつて筆記に困つたが、近頃は大抵に聴いてゐるから何ともない。講義中に色々な事を考へる。少し位|落《おと》しても惜《お》しい気も起らない。よく観察して見ると与次郎始めみんな同じ事である。三四郎は此位で好《い》いものだらうと思ひ出した。  三四郎が色々考へるうちに、時々《とき/″\》例のリボンが出て来る。さうすると気掛《きがゝ》りになる。甚だ不愉快になる。すぐ大久保へ出掛けて見たくなる。然し想像の連鎖やら、外界の刺激やらで、しばらくすると紛《まぎ》れて仕舞ふ。だから大体は呑気である。それで夢を見てゐる。大久保へは中々行かない。 [#7字下げ]四の二[#「四の二」は中見出し]  ある日の午後三四郎は例の如くぶら付いて、団子坂の上から、左へ折れて千駄木林町の広い通りへ出た。秋晴と云つて、此頃は東京の空《そら》も田舎《いなか》の様に深く見える。かう云ふ空《そら》の下《した》に生《い》きてゐると思ふ丈でも頭《あたま》は明確《はつきり》する。其上《そのうへ》野へ出《で》れば申し分はない。気が暢《の》び/\して魂《たましい》が大空《おほそら》程の大《おほ》きさになる。それで居て身体《からだ》惣体が緊《しま》つて来《く》る。だらしのない春の長閑《のどか》さとは違ふ。三四郎は左右の生垣《いけがき》を眺めながら、生《うま》れて始めての東京の秋を嗅《か》ぎつゝ遣つて来た。  坂下《さかした》では菊人形が二三日前開業したばかりである。坂を曲《まが》る時は幟《のぼり》さへ見えた。今はたゞ声丈聞える。どんちやん/\遠くから囃《はや》してゐる。其|囃《はやし》の音《おと》が、下《した》の方から次第に浮き上がつて来《き》て、澄み切つた秋の空気のなかへ広《ひろ》がり尽《つく》すと、遂には極めて稀薄な波になる。其又余波が三四郎の鼓膜の傍《そば》迄|来《き》て自然に留《とま》る。騒がしいといふよりは却つて好《い》い心持である。  時に突然左りの横町から二人《ふたり》あらはれた。その一人《ひとり》が三四郎を見て、「おい」と云ふ。  与次郎の声は今日《けふ》に限つて、几帳面である。其|代《かは》り連《つれ》がある。三四郎は其|連《つれ》を見たとき、果して日頃の推察通り、青木堂で茶を飲んでゐた人が、広田さんであると云ふ事を悟つた。此人とは水蜜桃以来妙な関係がある。ことに青木堂で茶を飲んで烟草を呑んで、自分を図書館に走らしてよりこのかた、一層よく記憶に染《し》みてゐる。いつ見ても神主の様な顔に西洋人の鼻を付けてゐる。今日《けふ》も此間の夏服《なつふく》で、別段|寒《さむ》さうな様子もない。  三四郎は何とか云つて、挨拶をしやうと思つたが、あまり時間が経《た》つてゐるので、どう口《くち》を利《き》いていゝか分《わか》らない。たゞ帽子を取つて礼をした。与次郎に対しては、あまり丁寧過ぎる。広田に対しては、少し簡略すぎる。三四郎は何方《どつち》付かずの中間に出《で》た。すると与次郎が、すぐ、 「此男は私《わたし》の同級生です。熊本の高等学校から始めて東京へ出《で》て来た――」と聴かれもしない先《さき》から田舎ものを吹聴して置いて、それから三四郎の方を向いて、 「是が広田先生。高等学校の……」と訳《わけ》もなく双方を紹介して仕舞つた。  此時広田先生は「知つてる、/\」と二返繰り返して云つたので、与次郎は妙な顔をしてゐる。然し、何故《なぜ》知つてるんですか抔と面倒な事は聞かなかつた。たゞちに、 「君、此辺に貸家《かしや》はないか。広くて、奇麗な、書生部屋のある」と尋ねだした。 「貸家《かしや》はと……ある」 「どの辺だ。汚《きた》なくつちや不可《いけ》ないぜ」 「いや奇麗なのがある。大きな石の門が立つてゐるのがある」 「そりや旨《うま》い。どこだ。先生、石の門は可《い》いですな。是非それに仕様ぢやありませんか」と与次郎は大いに進んでゐる。 「石の門は不可《いか》ん」と先生が云ふ。 「不可《いか》ん? そりや困《こま》る。何故《なぜ》不可《いかん》です」 「何故《なぜ》でも不可《いか》ん」 「石の門は可《い》いがな。新らしい男爵の様で可《い》いぢやないですか、先生」  与次郎は真面目《まじめ》である。広田先生はにや/\笑つてゐる。とう/\真面目《まじめ》の方が勝《か》つて、兎も角も見る事に相談が出来て、三四郎が案内をした。 [#7字下げ]四の三[#「四の三」は中見出し]  横《よこ》町を後《あと》へ引き返《かへ》して、裏通りへ出ると、半町ばかり北へ来《き》た所に、突き当りと思はれる様な小路がある。其|小路《こうぢ》の中へ三四郎は二人《ふたり》を連《つ》れ込んだ。真直《まつすぐ》に行くと植木屋の庭へ出て仕舞ふ。三人は入口《いりぐち》の五六間手前で留つた。右手《みぎて》に可なり大きな御影の柱が二本立つてゐる。扉《とびら》は鉄である。三四郎が是《これ》だと云ふ。成程|貸家札《かしやふだ》が付いてゐる。 「こりや恐《おそ》ろしいもんだ」と云ひながら、与次郎は鉄の扉《とびら》をうんと推《お》したが、錠が卸りてゐる。「一寸《ちよつと》御待ちなさい聞いてくる」と云ふや否や、与次郎は植木屋の奥の方へ馳け込んで行つた。広田と三四郎は取り残された様なものである。二人《ふたり》で話を始めた。 「東京は如何《どう》です」 「えゝ……」 「広《ひろ》い許《ばかり》で汚《きた》ない所でせう」 「えゝ……」 「富士山に比較する様なものは何《なん》にもないでせう」  三四郎は富士山の事を丸で忘れてゐた。広田先生の注意によつて、汽車の窓から始めて眺《なが》めた富士は、考へ出すと、成程崇高なものである。たゞ今自分の頭《あたま》の中《なか》にごた/\してゐる世相とは、とても比較にならない。三四郎はあの時の印象を何時《いつ》の間《ま》にか取り落してゐたのを恥《は》づかしく思つた。すると、 「君、不二山を翻訳《ほんやく》して見た事がありますか」と意外な質問を放《はな》たれた。 「翻訳とは……」 「自然を翻訳すると、みんな人間《にんげん》に化《ば》けて仕舞ふから面白い。崇高だとか、偉大だとか、雄壮だとか」  三四郎は翻訳の意味を了した。 「みんな人格上の言葉《ことば》になる。人格上の言葉に翻訳する事の出来ない輩《もの》には、自然が毫も人格上の感化を与へてゐない」  三四郎はまだあとが有《あ》るかと思つて、黙《だま》つて聞いてゐた。所が広田さんは夫《それ》で已めて仕舞つた。植木屋の奥の方を覗いて、 「佐々木は何《なに》をしてゐるのか知ら。遅《おそ》いな」と独り言《ごと》の様に云ふ。 「見て来《き》ませうか」と三四郎が聞いた。 「なに、見に行《い》つたつて、それで出《で》て来《く》る様な男ぢやない。それより此所《こゝ》に待つてる方が手間《てま》が掛《かゝ》らないでいゝ」と云つて枳殻《からたち》の垣根の下《した》に跼《しや》がんで、小石を拾つて、土《つち》の上へ何か描《か》き出した。呑気な事である。与次郎の呑気とは方角が反対で、程度が略《ほゞ》相似てゐる。  所へ植込の松の向から、与次郎が大きな声を出した。 「先生々々」  先生は依然として、何か描《か》いてゐる。どうも燈明台の様である。返事をしないので、与次郎は仕方なしに出《で》て来た。 「先生|一寸《ちよつと》見て御覧なさい。好《い》い家《うち》だ。この植木屋で持つてるんです。門《もん》を開《あ》けさせても好《い》いが、裏から廻《まは》つた方が早い」  三人は裏から廻つた。雨戸を明《あ》けて、一間《ひとま》々々見て歩《ある》いた。中流の人が住んで恥づかしくない様に出来てゐる。家賃が四十円で、敷金が三ヶ月分だと云ふ。三人はまた表へ出た。 「何《なん》で、あんな立派な家《うち》を見るのだ」と広田さんが云ふ。 「何《なん》で見るつて、たゞ見る丈だから好《い》いぢやありませんか」と与次郎は云ふ。 「借りもしないのに……」 「なに借りる積で居たんです。所が家賃をどうしても弐十五円にしやうと云はない……」  広田先生は「当り前さ」と云つた限《ぎり》である。すると与次郎が石の門の歴史を話し出《だ》した。此間《このあひだ》迄ある出入りの屋敷の入口《いりぐち》にあつたのを、改築のとき貰《もら》つて来て、直《すぐ》あすこへ立てたのだと云ふ。与次郎丈に妙な事を研究して来た。 [#7字下げ]四の四[#「四の四」は中見出し]  それから三人は元《もと》の大通りへ出て、動坂から田端《たばた》の谷《たに》へ下《お》りたが、下《お》りた時分には三人ともただ歩《ある》いてゐる。貸家《かしや》の事はみんな忘れて仕舞つた。ひとり与次郎が時々《とき/″\》石の門の事を云ふ。麹町からあれを千駄木迄引いてくるのに、手間が五円程かゝつた抔と云ふ。あの植木屋は大分金持らしい抔とも云ふ。あすこへ四十円の貸家《かしや》を建てゝ、全体|誰《だれ》が借《か》りるだらう抔と余計なこと迄云ふ。遂には、今に借手《かりて》がなくつて屹度|家賃《やちん》を下《さ》げるに違《ちがひ》ないから、其時もう一遍談判して是非借りやうぢやありませんかと云ふ結論であつた。広田先生は別に、さういふ料簡もないと見えて、かう云つた。 「君が、あんまり余計な話ばかりしてゐるものだから、時間が掛《かゝ》つて仕方がない。好加減《いゝかげん》にして出て来《く》るものだ」 「余程長くかゝりましたか。何《なに》か画《ゑ》をかいてゐましたね。先生も随分呑気だな」 「何方《どつち》が呑気か分《わか》りやしない」 「ありや何の画《ゑ》です」  先生は黙《だま》つてゐる。其時三四郎が真面目《まじめ》な顔をして、 「燈台ぢやないですか」と聞いた。画手《かきて》と与次郎は笑ひ出した。 「燈台は奇抜だな。ぢや野々宮宗八さんを画《か》いて入《〔い〕》らしつたんですね」 「何故《なぜ》」 「野々宮さんは外国ぢや光《ひか》つてるが、日本ぢや真暗《まつくら》だから。――誰《だれ》も丸で知らない。それで僅ばかりの月給を貰つて、穴倉へ立籠つて――、実に割に合はない商買だ。野々宮さんの顔を見る度に気の毒になつて堪《たま》らない」 「君なぞは自分の坐《すは》つてゐる周囲方二尺位の所をぼんやり照らす丈だから、丸行燈の様なものだ」  丸行燈に比較された与次郎は、突然三四郎の方を向いて、 「小川君、君《きみ》は明治何年生れかな」と聞いた。三四郎は単簡に、 「僕は二十三だ」と答へた。 「そんなものだらう。――先生僕は丸行燈だの、雁首《がんくび》だのつて云ふものが、どうも嫌《きらひ》ですがね。明治十五年以後に生れた所為《せゐ》かも知れないが、何だか旧式で厭《いや》な心持がする。君はどうだ」と又三四郎の方を向く。三四郎は、 「僕は別段嫌でもない」と云つた。 「尤も君は九州の田舎《いなか》から出た許《ばかり》だから、明治元年位の頭《あたま》と同じなんだらう」  三四郎も広田も是に対して別段の挨拶をしなかつた。少し行くと古《ふる》い寺の隣《とな》りの杉|林《ばやし》を切り倒して、奇麗に地平《ぢならし》をした上に、青ペンキ塗の西洋館を建てゝゐる。広田先生は寺とペンキ塗を等分に見てゐた。 「時代錯誤《アナクロニズム》だ。日本の物質界も精神界も此通りだ。君、九段の燈明台を知つてゐるだらう」と又燈明台が出た。「あれは古いもので、江戸名所図絵に出てゐる」 「先生冗談云つちや不可《いけ》ません。なんぼ九段の燈明台が旧《ふる》いたつて、江戸名所図絵に出ちや大変だ」  広田先生は笑ひ出した。実は東京名所と云ふ錦絵の間違だと云ふ事が解《わか》つた。先生の説によると、こんなに古い燈台が、まだ残つてゐる傍《そば》に、階行社と云ふ新式の錬瓦作りが出来た。二つ並《なら》べて見ると実に馬鹿気てゐる。けれども誰も気が付かない、平気でゐる。是が日本の社会を代表してゐるんだと云ふ。  与次郎も三四郎も成程と云つた儘、御寺《おてら》の前を通り越《こ》して、五六町|来《く》ると、大きな黒い門がある。与次郎が、此所《こゝ》を抜けて道灌山へ出様と云ひ出した。抜けても可《い》いのかと念を押すと、なに是は佐竹の下《しも》屋敷で、誰でも通れるんだから構はないと主張するので、二人共其気になつて門を潜《くゞ》つて、藪《やぶ》の下を通つて古《ふる》い池の傍《そば》迄来ると、番人が出て来て、大変に三人を叱り付けた。其時与次郎はへい/\と云つて番人に詫《あや》まつた。  それから谷中《やなか》へ出て、根津《ねづ》を廻《まは》つて、夕方に本郷の下宿へ帰つた。三四郎は近来にない気楽な半日を暮した様に感じた。 [#7字下げ]四の五[#「四の五」は中見出し]  翌日《よくじつ》学校へ出て見ると与次郎が居《ゐ》ない。午《ひる》から来《く》るかと思つたが来《こ》ない。図書館へも這入つたが矢っ張り見当らなかつた。五時から六時迄純文科共通の講義がある。三四郎はこれへ出た。筆記をするには暗《くら》過ぎる。電燈が点《つ》くには早過ぎる。細長い窓の外《そと》に見える大きな欅の枝の奥が、次第に黒くなる時分だから、室《へや》の中《なか》は講師の顔《かほ》も聴講生の顔も等《ひと》しくぼんやりしてゐる。従つて暗闇《くらやみ》で饅頭を食《く》ふ様に、何となく神秘的である。三四郎は講義が解《わか》らない所が妙だと思つた。頬杖を突《つ》いて聴いてゐると、神経が鈍《にぶ》くなつて、気が遠くなる。これでこそ講義の価値がある様な心持がする。所へ電燈がぱつと点《つ》いて、万事が稍《〔やや〕》明瞭になつた。すると急に下宿へ帰つて飯《めし》が食ひたくなつた。先生もみんなの心を察して、好《い》い加減に講義を切り上《あ》げて呉れた。三四郎は早足《はやあし》で追分迄帰つてくる。  着物を脱《ぬ》ぎ換えて膳に向ふと、膳の上《うへ》に、茶碗|蒸《むし》と一所に手紙が一本載せてある。其|上封《うはふう》を見たとき、三四郎はすぐ母から来たものだと悟つた。済まん事だが此半月あまり母の事は丸で忘れてゐた。昨日《きのふ》から今日《けふ》へ掛けては時代錯誤《アナクロニズム》だの、不二山の人格だの、神秘的な講義だので、例の女の影も一向|頭《あたま》の中《なか》へ出て来《こ》なかつた。三四郎は夫で満足である。母の手紙はあとで緩《ゆつ》くり覧《み》る事として、取り敢ず食事を済まして、烟草を吹《ふ》かした。其|烟《けむ》を見ると先刻《さつき》の講義を思ひ出す。  そこへ与次郎がふらりと現はれた。どうして学校を休んだかと聞くと、貸家探《かしやさが》しで学校|所《どころ》ぢやないさうである。 「そんなに急《いそ》いで越《こ》すのか」と三四郎が聞くと、 「急《いそ》ぐつて先月|中《ぢう》に越す筈《はづ》の所を明後日《あさつて》の天長節迄待たしたんだから、どうしたつて明日中《あしたぢう》に探《さが》さなければならない。どこか心当りはないか」と云ふ。  こんなに忙《いそが》しがる癖《くせ》に、昨日《きのふ》は散歩だか、貸家探《かしやさが》しだか分らない様にぶら/\潰《つぶ》してゐた。三四郎には殆んど合点が行かない。与次郎は之を解釈して、それは先生が一所だからさと云つた。「元来先生が家《いへ》を探《さが》すなんて間違《まちが》つてゐる。決して探《さが》した事のない男なんだが、昨日《きのふ》はどうかしてゐたに違ない。御蔭で佐竹の邸《やしき》で苛《ひど》い目に叱《しか》られて好《い》い面《つら》の皮《かは》だ。――君|何所《どこ》かないか」と急に催促する。与次郎が来たのは全くそれが目的らしい。能《〔よ〕》く/\原因を聞いて見ると、今《いま》の持主《もちぬし》が高利貸で、家賃《やちん》を無暗《むやみ》に上《あ》げるのが、業腹《ごうはら》だと云ふので、与次郎が此方《こつち》から立退《たちのき》を宣告したのださうだ。それでは与次郎に責任がある訳だ。 「今日《けふ》は大久保迄行つて見たが、矢っ張りない。――大久保と云へば、序《ついで》に宗八さんの所《ところ》へ寄《よ》つて、よし子さんに逢《あ》つて来《き》た。可哀さうにまだ色光沢《いろつや》が悪《わる》い。――辣薑《らつきやう》性の美人――御母《おつか》さんが君に宜しく云つて呉れつてことだ。しかし其|後《ご》はあの辺も穏やかな様だ。轢死もあれぎりないさうだ」  与次郎の話はそれから、それへと飛んで行く。平|生《ぜい》から締《しま》りのない上《うへ》に、今日《けふ》は家探《やさが》しで少し焦《せ》き込んでゐる。話が一段落つくと、相の手の様に、何所《どこ》かないか/\と聞く。仕舞には三四郎も笑ひ出した。 [#7字下げ]四の六[#「四の六」は中見出し]  そのうち与次郎の尻《しり》が次第に落ち付いて来《き》て、燈火親しむべし抔といふ漢語さへ借用して嬉《うれ》しがる様になつた。話題は端なく広田先生の上に落ちた。 「君の所《ところ》の先生の名は何と云ふのか」 「名は萇《ちよう》」と指《ゆび》で書《か》いて見せて、「艸冠《くさかんむり》が余計だ。字引《じびき》にあるか知らん。妙な名を付けたものだね」と云ふ。 「高等学校の先生か」 「昔《むかし》から今日《こんにち》に至る迄高等学校の先生。えらいものだ。十年一日の如しと云ふが、もう十二三年になるだらう」 「子供は居《お》るのか」 「小供どころか、まだ独身だ」  三四郎は少し驚ろいた。あの年迄|一人《ひとり》で居《ゐ》られるものかとも疑つた。 「何故《なぜ》奥さんを貰はないのだらう」 「そこが先生の先生たる所で、あれで大変な理論家なんだ。細君を貰つて見ない先《さき》から、細君はいかんものと理論で極《きま》つてゐるんださうだ。愚だよ。だから始終矛盾ばかりしてゐる。先生、東京程|汚《きた》ない所はない様に云ふ。それで石の門《もん》を見ると恐れを作《な》して、不可《いか》ん/\とか、立派過ぎるとかいふだらう」 「ぢや細君も試みに持つて見たら好《よ》からう」 「大いに佳《よ》しとか何とかいふかも知れない」 「先生は東京が汚《きた》ないとか、日本人が醜《みにく》いとか云ふが、洋行でもした事があるのか」 「なにするもんか。あゝ云ふ人なんだ。万事|頭《あたま》の方が事実より発達してゐるんだから、あゝなるんだね。其代り西洋は写真で研究してゐる。巴理《〔パリ〕》の凱旋門だの、倫敦《〔ロンドン〕》の議事堂だの沢山|持《も》つてゐる。あの写真で日本を律するんだから堪《たま》らない。汚《きた》ない訳さ。それで自分の住んでる所は、いくら汚《きた》なくつても存外平気だから不思議だ」 「三等汽車へ乗《の》つて居つたぞ」 「汚《きた》ない/\つて不平を云やしないか」 「いや別に不平も云はなかつた」 「然し先生は哲学者だね」 「学校で哲学でも教へてゐるのか」 「いや学校ぢや英語丈しか受持つてゐないがね、あの人間が、自《おのづ》から哲学に出来上つてゐるから面白い」 「著述でもあるのか」 「何にもない。時々《とき/″\》論文を書く事はあるが、ちつとも反響がない。あれぢや駄目だ。丸で世間が知らないんだから仕様がない。先生、僕の事を丸行燈だといつたが、夫子《〔ふうし〕》自身は偉大な暗闇《くらやみ》だ」 「どうかして、世の中《なか》へ出《で》たら好《よ》ささうなものだな」 「出《で》たら好《よ》ささうなものだつて、――先生、自分ぢや何にも遣《や》らない人だからね。第一僕が居なけりや三度《さんど》の飯《めし》さへ食《く》へない人なんだ」  三四郎は真逆《まさか》と云はぬ許に笑ひ出した。 「嘘《うそ》ぢやない。気の毒な程何にも遣《や》らない人でね。何でも、僕が下女に命じて、先生の気に入る様に始末を付けるんだが――そんな瑣末な事は兎に角、是から大いに活動して、先生を一つ大学教授にして遣《や》らうと思ふ」  与次郎は真面目《まじめ》である。三四郎は其大言に驚ろいた。驚ろいても構はない。驚ろいた儘に進行して、仕舞に、 「引越《ひつこし》をする時は是非手伝に来て呉れ」と頼《たの》んだ。丸で約束の出来た家《いへ》が、とうからある如き口吻である。さうして直《すぐ》帰つた。 [#7字下げ]四の七[#「四の七」は中見出し]  与次郎の帰つたのは彼是十時近くである。一人《ひとり》で坐《すは》つて居ると、何処《どこ》となく肌寒《はださむ》の感じがする。不図気が付いたら、机の前の窓がまだ閉《た》てずにあつた。障子を明《あ》けると月夜だ。目に触れるたびに不愉快な檜《ひのき》に、蒼《あを》い光《ひか》りが射《さ》して、黒《くろ》い影《かげ》の縁《ふち》が少し烟《けむ》つて見える。檜《ひのき》に秋が来《き》たのは珍《めづ》らしいと思ひながら、雨戸を閉《た》てた。  三四郎はすぐ床《とこ》へ這入つた。三四郎は勉強家といふより寧ろ彽徊家《〔ていかいか〕》なので、割合書物を読まない。其代りある掬《〔きく〕》すべき情景に逢ふと、何遍もこれを頭《あたま》の中《なか》で新《あら》たにして喜《よろ》こんでゐる。其《その》方が命《いのち》に奥行がある様な気がする。今日《けふ》も、何時《いつ》もなら、神秘的講義の最中《さいちう》に、ぱつと電燈が点《つ》く所などを繰返して嬉《うれ》しがる筈《はづ》だが、母の手紙があるので、まづ、それから片付《かたづけ》始めた。  手紙には新蔵が蜂蜜を呉れたから、焼酎を混《ま》ぜて、毎晩|盃《さかづき》に一杯づゝ飲んでゐるとある。新蔵は家《うち》の小作人で、毎|年《とし》冬《ふゆ》になると年貢米を二十俵づゝ持つてくる。至つて正直ものだが、疳癪が強いので、時々女房を薪《まき》で擲《なぐ》る事がある。――三四郎は床《とこ》の中《なか》で新蔵が蜂《はち》を飼《か》ひ出した昔《むかし》の事迄思ひ浮べた。それは五年程前である。裏の椎《しい》の木に蜜蜂が二三百疋ぶら下《さ》がつてゐたのを見付けて、すぐ籾漏斗《〔もみじょうご〕》に酒を吹きかけて、悉《〔ことごと〕》く生捕《いけどり》にした。それから之を箱へ入れて、出入《ではい》りの出来る様な穴《あな》を開《あ》けて、日当りの好《い》い石の上に据ゑてやつた。すると蜂が段々|殖《ふ》えて来る。箱が一《ひとつ》では足《た》りなくなる。二つにする。又足りなくなる。三つにする。と云ふ風に殖《ふや》して行つた結果、今では何でも六|箱《はこ》か七|箱《はこ》ある。其うちの一箱《ひとはこ》を年に一度《いちど》づゝ石から卸して蜂の為《ため》に蜜を切り取ると云つてゐた。毎|年《とし》夏休みに帰るたびに蜜を上《あ》げませうと云はない事はないが、ついに持つて来た例《ためし》がなかつた。が今年《ことし》は物覚が急に善くなつて、年来の約束を履行したものであらう。  平太郎が親爺《おやぢ》の石塔を建てたから見に来《き》て呉れろと頼《たの》みにきたとある。行つて見ると、木も草も生えてゐない庭の赤土の真中《まんなか》に、御影石《みかげいし》で出来てゐたさうである。平太郎は其御影石が自慢なのだと書《か》いてある。山から切《き》り出すのに幾日《いくか》とか掛《かゝ》つて、それから石屋《いしや》に頼《たの》んだら十円|取《と》られた。百姓や何かには分《わか》らないが、貴所《あなた》のとこの若旦那は大学校へ這入つてゐる位だから、石《いし》の善悪《よしあし》は屹度|分《わか》る。今度《こんど》手紙の序《ついで》に聞いて見て呉れ、さうして十円も掛けて親爺《おやぢ》の為に拵《こしら》へてやつた石塔を賞《ほめ》て貰つてくれと云ふんださうだ。――三四郎は独りでくす/\笑ひ出した。千駄木の石門より余程烈しい。  大学の制服を着た写真を寄《よ》こせとある。三四郎は何時《いつ》か撮《と》つて遣らうと思ひながら、次《つぎ》へ移ると、案の如く三輪田の御光さんが出て来た。――此間《このあひだ》御光さんの御母《おつか》さんが来《き》て、三四郎さんも近々大学を卒業なさる事だが、卒業したら宅《うち》の娘《むすめ》を貰つて呉れまいかと云ふ相談であつた。御光さんは器量もよし気質《きだて》も優しいし、家《うち》に田地も大分あるし、其|上《うへ》家《うち》と家《うち》との今迄の関係もある事だから、さうしたら双方共都合が好《い》いだらうと書いて、そのあとへ但し書《がき》が付けてある。――御光さんも嬉しがるだらう。――東京のものは気心《きごゝろ》が知れないから私《わたし》はいやぢや。  三四郎は手紙を巻《ま》き返《かへ》して、封に入れて、枕元へ置いた儘|眼《め》を眠つた。鼠《ねずみ》が急に天井で暴《あば》れ出したが、やがて静まつた。 [#7字下げ]四の八[#「四の八」は中見出し]  三四郎には三《みつ》つの世界が出来た。一つは遠くにある。与次郎の所謂《〔いわゆる〕》明治十五年以前の香《か》がする。凡てが平穏である代りに凡てが寐坊気《ねぼけ》てゐる。尤《〔もっと〕》も帰るに世話は入《〔い〕》らない。戻《もど》らうとすれば、すぐに戻《もど》れる。たゞ、いざとならない以上は戻《もど》る気がしない。云はゞ立退場《たちのきば》の様なものである。三四郎は脱《ぬ》ぎ棄《す》てた過去を、此|立退場《たちのきば》の中《なか》へ封じ込めた。なつかしい母さへ此所《こゝ》に葬つたかと思ふと、急に勿体《〔もったい〕》なくなる。そこで手紙が来《き》た時丈は、しばらく此世界に彽徊して旧歓を温める。  第二の世界のうちには、苔《こけ》の生《は》えた錬瓦造りがある。片隅《かたすみ》から片隅を見渡すと、向ふの人の顔がよく分《わか》らない程に広い閲覧室がある。梯子《はしご》を掛《か》けなければ、手の届きかねる迄高く積み重ねた書物がある。手摺《てず》れ、指《ゆび》の垢《あか》、で黒くなつてゐる。金文字で光《ひか》つてゐる。羊皮、牛皮、二百年前の紙、それから凡ての上に積《つも》つた塵《ちり》がある。此塵《このちり》は二三十年かゝつて漸く積《つも》つた貴とい塵《ちり》である。静かな月日《つきひ》に打ち勝つ程の静かな塵《ちり》である。  第二の世界に動く人の影を見ると、大抵|不《ぶ》精な髭《ひげ》を生《は》やしてゐる。あるものは空《そら》を見て歩《ある》いてゐる。あるものは俯《うつ》向いて歩《ある》いてゐる。服装《なり》は必ず穢《きた》ない。生計《くらし》は屹度貧乏である。さうして晏《あん》如としてゐる。電車に取り巻《ま》かれながら、太平の空気を、通天に呼吸して憚からない。このなかに入るものは、現世を知らないから不幸で、火宅を逃れるから幸である。広田先生は此|内《うち》にゐる。野々宮君も此内《このうち》にゐる。三四郎は此内《このうち》の空気を略《ほゞ》解し得た所にゐる。出《で》れば出《で》られる。然し折角|解《げ》し掛《か》けた趣味を思ひ切つて捨てるのも残念だ。  第三の世界は燦として春の如く盪《うご》いてゐる。電燈がある。銀匙《〔ぎんさじ〕》がある。歓声がある。笑語《〔しょうご〕》がある。泡立《あはだ》つ三鞭《〔シャンパン〕》の盃《さかづき》がある。さうして凡ての上《うへ》の冠《かんむり》として美くしい女性がある。三四郎はその女性の一人《ひとり》に口を利《き》いた。一人《ひとり》を二遍見た。此世界は三四郎に取つて最も深厚な世界である。此世界は鼻の先にある。たゞ近《ちか》づき難い。近づき難い点に於て、天外の稲妻と一般である。三四郎は遠くから此世界を眺めて、不思議に思ふ。自分が此世界のどこかへ這入らなければ、其世界のどこかに陥欠が出来る様な気がする。自分は此世界のどこかの主人公であるべき資格を有してゐるらしい。それにも拘《〔かか〕》はらず、円満の発達を冀《〔こいねが〕》ふべき筈の此世界が、却つて自《みづか》らを束縛して、自分が自由に出入すべき通路を塞いでゐる。三四郎にはこれが不思議であつた。  三四郎は床《とこ》のなかで、此|三《みつ》の世界を並《なら》べて、互に比較して見た。次に此|三《みつ》の世界を掻き混《ま》ぜて、其|中《なか》から一《ひと》つの結果を得た。――要するに、国から母を呼び寄せて、美くしい細君を迎へて、さうして身を学問に委ねるに越した事はない。  結果は頗る平凡である。けれども此結果に到着する前に色々考へたのだから、思索の労力を打算して、結論の価値を上下しやすい思索家自身から見ると、夫程平凡ではなかつた。  たゞかうすると広い第三の世界を眇《〔びょう〕》たる一個の細君で代表させる事になる。美くしい女性は沢山ある。美くしい女性を翻訳すると色々になる。――三四郎は広田先生にならつて、翻訳と云ふ字を使つて見た。――苟《〔いや〕》しくも人格上の言葉に翻訳の出来る限りは、其翻訳から生ずる感化の範囲を広くして、自己の個性を完《〔まった〕》からしむる為《ため》に、なるべく多くの美しい女性に接触しなければならない。細君|一人《ひとり》を知つて甘んずるのは、進んで自己の発達を不完全にする様なものである。  三四郎は論理を此所《こゝ》迄延長して見て、少し広田さんにかぶれたなと思つた。実際の所は、これ程痛切に不足を感じてゐなかつたからである。 [#7字下げ]四の九[#「四の九」は中見出し]  翌日学校へ出ると講義は例によつて詰《つま》らないが、室内の空気は依然として俗を離れてゐるので、午後三時迄の間に、すつかり第二の世界の人となり終せて、さも偉人の様な態度を以て、追分の交番の前迄|来《く》ると、ぱつたり与次郎に出逢つた。 「アハヽヽ。アハヽヽ」  偉人の態度は是が為に全く崩れた。交番の巡査さへ薄笑ひをしてゐる。 「なんだ」 「なんだも無いものだ。もう少し普通の人間らしく歩《ある》くがいゝ。丸で浪漫的《ロマンチツク》アイロニーだ」  三四郎には此洋語の意味がよく分《わか》らなかつた。仕方がないから、 「家《いへ》はあつたか」と聞いた。 「その事で今君の所へ行つたんだ――明日《あす》愈《〔いよいよ〕》引越す。手伝《てつだひ》に来《き》て呉れ」 「何所《どこ》へ越《こ》す」 「西片町十番地への三号。九時迄に向へ行つて掃除をしてね。待つてゝ呉れ。あとから行くから。いゝか、九時迄だぜ。への三号だよ。失敬」  与次郎は急《いそ》いで行き過《す》ぎた。三四郎も急《いそ》いで下宿へ帰つた。其晩取つて返して、図書館で浪漫的《ロマンチツク》アイロニーと云ふ句を調べて見たら、独乙《〔ドイツ〕》のシユレーゲルが唱へ出した言葉で、何でも天才と云ふものは、目的も努力もなく、終日ぶら/\ぶら付いて居なくつては駄目だと云ふ説だと書いてあつた。三四郎は漸く安心して、下宿へ帰つて、すぐ寐《ね》た。  翌日《あくるひ》は約束だから、天長節にも拘はらず、例刻に起きて、学校へ行く積りで西片町十番地へ這入つて、への三号を調べて見ると、妙に細い通りの中程にある。古《ふる》い家だ。  玄関の代りに西洋|間《ま》が一つ突き出してゐて、それと鉤《かぎ》の手に座敷がある。座敷の後ろが茶の間で、茶の間の向が勝手、下女部屋と順に並んでゐる。外《〔ほか〕》に二階がある。但し何畳だか分らない。  三四郎は掃除を頼まれたのだが、別に掃除をする必要もないと認めた。無論奇麗ぢやない。然し何と云つて、取つて捨てべきものも見当らない。強ひて捨てれば畳建具位なものだと考へながら、雨戸丈を明けて、座敷の縁側へ腰を掛けて庭を眺めて居た。  大きな百日紅がある。然し是は根が隣りにあるので、幹《みき》の半分以上が横に杉垣から、此方《こつち》の領分を冒してゐる丈である。大きな桜がある。是は慥かに垣根の中《なか》に生えてゐる。其代り枝が半分往来へ逃げ出して、もう少しすると電話の妨害になる。菊が一株ある。けれども寒菊と見えて、一向咲いて居ない。此外には何にもない。気の毒な様な庭である。たゞ土《つち》丈は平らで、肌理《きめ》が細《こま》かで甚だ美くしい。三四郎は土《つち》を見てゐた。実際|土《つち》を見る様に出来た庭である。  そのうち高等学校で天長節の式の始まる号鐘《ベル》が鳴り出した。三四郎は号鐘《ベル》を聞きながら九時が来《き》たんだらうと考へた。何もしないでゐても悪《わる》いから、桜《さくら》の枯葉《かれは》でも掃《は》かうかしらんと漸く気が付いた時、箒がないといふ事を考へ出した。また縁側へ腰を掛けた。掛けて二分もしたかと思ふと、庭木戸がすうと明《あ》いた。さうして思も寄らぬ池の女が庭の中《なか》にあらはれた。 [#7字下げ]四の十[#「四の十」は中見出し]  二方は生垣《いけがき》で仕切つてある。四角な庭は十坪《とつぼ》に足りない。三四郎は此狭い囲《かこひ》の中《なか》に立つた池《いけ》の女を見るや否や、忽《〔たちま〕》ち悟つた。――花は必ず剪《き》つて、瓶《へい》裏に眺《なが》むべきものである。  此時三四郎の腰《こし》は縁側を離れた。女は折戸を離れた。 「失礼で御座いますが……」  女は此句を冒頭に置いて会釈した。腰から上を例の通り前へ浮かしたが、顔《かほ》は決《けつ》して下《さ》げない。会釈しながら、三四郎を見詰めてゐる。女の咽喉《のど》が正面から見ると長く延《の》びた。同時に其|眼《め》が三四郎の眸《ひとみ》に映《うつ》つた。  二三日前三四郎は美学の教師からグルーズの画を見せてもらつた。其時美学の教師が、此人の画《か》いた女の肖像は悉《こと/″\》く※[#濁点付き片仮名オ、369-5]ラプチユアスな表情に富んでゐると説明した。※[#濁点付き片仮名オ、369-5]ラプチユアス! 池の女の此時の眼付を形容するには是より外に言葉がない。何か訴へてゐる。艶なるあるものを訴へてゐる。さうして正しく官能に訴へてゐる。けれども官能の骨を透して髄に徹する訴へ方である。甘《あま》いものに堪え得る程度を超えて、烈しい刺激と変ずる訴へ方である。甘《あま》いと云はんよりは苦痛である。卑《いや》しく媚びるのとは無論違ふ。見られるものの方が是非媚びたくなる程に残酷な眼付《めつき》である。しかも此女にグルーズの画と似た所は一つもない。眼はグルーズのより半分も小さい。 「広田さんの御|移転《こし》になるのは、此方《こちら》で御座いませうか」 「はあ、此所《こゝ》です」  女の声と調子に較《くら》べると、三四郎の答は頗るぶつきら棒である。三四郎も気が付いてゐる。けれども外《ほか》に云ひ様がなかつた。 「まだ御|移《うつ》りにならないんで御座いますか」女の言葉は明確《はつきり》してゐる。普通の様に後《あと》を濁《にご》さない。 「まだ来《き》ません。もう来《く》るでせう」  女はしばし逡巡《ためら》つた。手に大きな籃《バスケツト》を提《さ》げてゐる。女の着物は例によつて、分《わか》らない。ただ何時《いつ》もの様に光《ひか》らない丈が眼についた。地が何だかぶつ/\してゐる。夫《それ》に縞《しま》だか模様だかある。その模様が如何にも出鱈目である。  上《うへ》から桜の葉が時〻《とき/″\》落ちて来《く》る。其一つが籃《バスケツト》の蓋《ふた》の上に乗《の》つた。乗《の》つたと思ふうちに吹かれて行つた。風が女を包《つゝ》んだ。女は秋の中《なか》に立つてゐる。 「あなたは……」  風《かぜ》が隣りへ越《こ》した時分、女が三四郎に聞いた。 「掃除に頼《たの》まれて来たのです」と云つたが、現に腰を掛けてぽかんとしてゐた所を見られたのだから、三四郎は自分でも可笑《おか》しくなつた。すると女も笑ひながら、 「ぢや私《わたくし》も少《すこ》し御待ち申しませうか」と云つた。其云ひ方が三四郎に許諾を求める様に聞えたので、三四郎は大いに愉快であつた。そこで「あゝ」と答へた。三四郎の料簡では、「ああ、御待ちなさい」を略した積である。女はそれでもまだ立つてゐる。三四郎は仕方がないから、 「あなたは……」と向《むかふ》で聞《き》いた様な事を此方《こつち》からも聞いた。すると、女は籃《ばすけつと》を椽《〔えん〕》の上へ置いて、帯の間から、一枚の名刺を出《だ》して、三四郎に呉れた。 [#7字下げ]四の十一[#「四の十一」は中見出し]  名刺には里見美禰子《〔さとみみねこ〕》とあつた。本郷真砂町だから谷を越すとすぐ向である。三四郎が此名刺を眺めてゐる間《あひだ》に、女は椽に腰を卸した。 「あなたには御目に掛りましたな」と名刺を袂《たもと》へ入れた三四郎が顔を挙げた。 「はあ。いつか病院で……」と云つて女も此方《こつち》を向いた。 「まだある」 「それから池の端《はた》で……」と女はすぐ云つた。能く覚えてゐる。三四郎はそれで云ふ事がなくなつた。女は最後に、 「どうも失礼致しました」と句切りをつけたので、三四郎は、 「いゝえ」と答へた。頗る簡潔である。両人《ふたり》は桜の枝を見てゐた。梢に虫の食つた様な葉が僅《〔わずか〕》ばかり残つてゐる。引越の荷物は中々《なかなか》遣つて来ない。 「何か先生に御用なんですか」  三四郎は突然かう聞いた。高い桜の枯《かれ》枝を余念なく眺めて居た女は、急に三四郎の方を振り向く。あら喫驚《びつくり》した、苛《ひど》いわ、といふ顔付であつた。然し答は尋常である。 「私《わたくし》も御|手伝《てつだひ》に頼《たの》まれました」  三四郎は此時始めて気が付いて見ると、女の腰を掛けてゐる椽に砂が一杯たまつてゐる。 「砂《すな》で大変だ。着物《きもの》が汚《よご》れます」 「えゝ」と左右を眺《なが》めた限《ぎり》である。腰を上《あ》げない。しばらく椽を見廻はした眼《め》を、三四郎に移すや否や、 「掃|除《じ》はもうなすつたんですか」と聞いた。笑《わら》つてゐる。三四郎は其|笑《わらひ》の中《なか》に馴《な》れ易いあるものを認《みと》めた。 「まだ遣《や》らんです」 「御手伝をして、一所に始めませうか」  三四郎はすぐに立つた。女は動《うご》かない。腰を掛けた儘、箒やハタキの在家《ありか》を聞く。三四郎は、たゞ空手《てぶら》で来《き》たのだから、どこにもない。何なら通りへ行つて買つて来やうかと聞《き》くと、それは徒費《むだ》だから、隣で借りる方が好《よ》からうと云ふ。三四郎はすぐ隣へ行つた。早速箒とハタキと、それから馬尻《ばけつ》と雑巾迄借りて急いで帰つてくると、女は依然として故《もと》の所へ腰をかけて、高い桜の枝を眺めてゐた。 「あつて……」と一口《ひとくち》云つた丈である。  三四郎は箒を肩《かた》へ担《かつ》いで、馬尻《ばけつ》を右の手にぶら下《さ》げて、「えゝ、ありました」と当り前の事を答へた。  女は白|足袋《たび》の儘|砂《すな》だらけの縁側へ上《あ》がつた。あるくと細い足の痕が出来る。袂《たもと》から白い前垂《〔まえだれ〕》を出して帯の上から締《し》めた。其前垂の縁《ふち》がレースの様に縢《かゞ》つてある。掃除をするには勿体ない程奇麗な色である。女は箒を取つた。 「一旦|掃《は》き出《だ》しませう」と云ひながら、袖《そで》の裏《うら》から右の手を出《だ》して、ぶらつく袂《たもと》を肩の上へ担《かつ》いだ。奇麗な手が二の腕迄出た。担《かつ》いだ袂《たもと》の端《はじ》からは美くしい襦袢の袖《そで》が見える。茫然として立つてゐた三四郎は、突然|馬尻《ばけつ》を鳴らして勝手口へ廻《まは》つた。 [#7字下げ]四の十二[#「四の十二」は中見出し]  美禰子が掃《は》くあとを、三四郎が雑巾を掛ける。三四郎が畳を敲《〔たた〕》く間《あひだ》に、美禰子が障子をはたく。どうかかうか掃除が一通り済んだ時は二人《ふたり》共大分親しくなつた。  三四郎が馬尻《ばけつ》の水を取《と》り換《かへ》に台所へ行つたあとで、美禰子がハタキと箒を持つて二階へ上《のぼ》つた。 「一寸《ちよつと》来《き》て下《くだ》さい」と上《うへ》から三四郎を呼ぶ。 「何ですか」と馬尻《ばけつ》を提《さ》げた三四郎が、楷子段《はしごだん》の下《した》から云ふ。女は暗《くら》い所に立つてゐる。前垂だけが真白だ。三四郎は馬尻《ばけつ》を提《さ》げた儘二三段|上《のぼ》つた。女は凝《じつ》としてゐる。三四郎は又二段|上《のぼ》つた。薄暗い所で美禰子の顔と三四郎の顔が一尺許りの距離に来《き》た。 「何ですか」 「何だか暗《くら》くつて分《わか》らないの」 「何故《なぜ》」 「何故《なぜ》でも」  三四郎は追窮する気がなくなつた。美禰子の傍《そば》を擦《す》り抜《ぬ》けて上《うへ》へ出た。馬尻《ばけつ》を暗《くら》い縁側へ置いて戸を明ける。成程|桟《さん》の具合が善《よ》く分《わか》らない。そのうち美禰子も上《あ》がつて来《き》た。 「まだ開《あ》からなくつて」  美禰子は反対の側《がは》へ行つた。 「此方《こつち》です」  三四郎はだまつて、美禰子の方へ近寄つた。もう少しで美禰子の手に自分の手が触れる所で、馬尻《ばけつ》に蹴爪《けつま》づいた。大きな音《おと》がする。漸くの事で戸を一枚|明《あ》けると、強い日がまともに射《さ》し込んだ。眩《まぼ》[#ルビの「まぼ」はママ]しい位である。二人《ふたり》は顔を見合せて思はず笑ひ出《だ》した。  裏《うら》の窓も開《あ》ける。窓には竹の格子が付いてゐる。家主《やぬし》の庭が見える。鶏《にはとり》を飼つてゐる。美禰子は例の如く掃《は》き出した。三四郎は四つ這《ばい》になつて、後《あと》から拭き出した。美禰子は箒を両手で持つた儘、三四郎の姿を見て、 「まあ」と云つた。  やがて、箒を畳の上《うへ》へ抛《な》げ出して、裏の窓の所へ行つて、立つた儘|外面《そと》を眺めてゐる。そのうち三四郎も拭《ふ》き終つた。濡れ雑巾を馬尻《ばけつ》の中《なか》へぼちやんと擲《たゝ》き込んで、美禰子の傍《そば》へ来《き》て、並《なら》んだ。 「何を見てゐるんです」 「中《あ》てゝ御覧なさい」 「鶏《とり》ですか」 「いゝえ」 「あの大きな木ですか」 「いゝえ」 「ぢや何を見てゐるんです。僕には分らない」 「私《わたくし》先刻《さつき》からあの白い雲《くも》を見て居《お》りますの」  成程白い雲が大きな空《そら》を渡《わた》つてゐる。空《そら》は限《かぎ》りなく晴れて、どこ迄も青く澄《す》んでゐる上を、綿《わた》の光《ひか》つた様な濃《こ》い雲がしきりに飛んで行く。風の力が烈しいと見えて、雲の端《はし》が吹き散《ち》らされると、青《あを》い地《ぢ》が透《す》いて見える程に薄くなる。あるひは吹き散《ち》らされながら、塊《かた》まつて、白く柔らかな針《はり》を集めた様に、さゝくれ立《だ》つ。美禰子は其|塊《かたまり》を指《ゆび》さして云つた。 「駝鳥《〔だちょう〕》の襟巻《ボーア》に似てゐるでせう」  三四郎はボーアと云ふ言葉を知らなかつた。それで知らないと云つた。美禰子は又、 「まあ」と云つたが、すぐ丁寧にボーアを説明してくれた。其時三四郎は、 「うん、あれなら知つとる」と云つた。さうして、あの白い雲はみんな雪の粉で、下から見てあの位に動く以上は、颶風《〔ぐふう〕》以上の速度でなくてはならないと、此間野々宮さんから聞いた通りを教へた。美禰子は、 「あらさう」と云ひながら三四郎を見たが、 「雪ぢや詰《つま》らないわね」と否定を許さぬ様な調子であつた。 「何故《なぜ》です」 「何故《なぜ》でも、雲は雲でなくつちや不可《いけ》ないわ。かうして遠くから眺めてゐる甲斐がないぢやありませんか」 「さうですか」 「さうですかつて、あなたは雪でも構はなくつて」 「あなたは高い所を見るのが好《すき》の様ですな」 「えゝ」  美禰子は竹の格子の中《なか》から、まだ空《そら》を眺めてゐる。白い雲はあとから、あとから、飛んで来《く》る。 [#7字下げ]四の十三[#「四の十三」は中見出し]  所へ遠くから荷車《にぐるま》の音《おと》が聞える。今、静かな横町を曲《まが》つて、此方《こつち》へ近付いて来《く》るのが地響《ぢひゞき》でよく分《わか》る。三四郎は「来《き》た」と云つた。美禰子は「早《はや》いのね」と云つた儘|凝《じつ》としてゐる。車の音《おと》の動くのが、白い雲の動くのに関係でもある様に耳を澄《すま》してゐる。車は落付いた秋の中《なか》を容赦なく近付いて来《く》る。やがて門の前へ来《き》て留《とま》つた。  三四郎は美禰子を捨てゝ二階を馳《か》け降《お》りた。三四郎が玄関へ出るのと、与次郎が門を這入るのとが同時同刻であつた。 「早いな」と与次郎が先づ声を掛けた。 「遅《おそ》いな」と三四郎が応《こた》へた。美禰子とは反対である。 「遅《おそ》いつて、荷物を一度に出《だ》したんだから仕方がない。それに僕|一人《ひとり》だから。余《あと》は下女と車屋《くるまや》許でどうする事も出来ない」 「先生は」 「先生は学校」  二人《ふたり》が話《はなし》を始めてゐるうちに、車屋《くるまや》が荷物を卸《おろ》し始めた。下女も這入つて来た。台所の方を下女と車屋《くるまや》に頼《たの》んで、与次郎と三四郎は書物を西洋間へ入れる。書物が沢山ある。並《なら》べるのは一仕事《ひとしごと》だ。 「里見の御嬢さんは、まだ来《き》てゐないか」 「来《き》てゐる」 「何所《どこ》に」 「二階にゐる」 「二階に何をしてゐる」 「何をしてゐるか、二階にゐる」 「冗談ぢやない」  与次郎は本を一冊|持《も》つた儘、廊下伝ひに階子段の下《した》迄行つて、例の通りの声で、 「里見さん、里見さん。書物を片付《かたづけ》るから、一寸《ちよつと》手伝つて下さい」と云ふ。 「たゞ今参ります」  箒とハタキを持《も》つて、美禰子は静かに降《お》りて来《き》た。 「何をして居《ゐ》たんです」と下から与次郎が焦《せ》き立てる様に聞く。 「二階の御掃|除《じ》」と上から返事があつた。  降《お》りるのを待ち兼ねて、与次郎は美禰子を西洋|間《ま》の戸口《とぐち》の所へ連《つ》れて来た。車力《しやりき》の卸《おろ》した書物が一杯積んである。三四郎が其|中《なか》へ、向ふむきに跼《しや》がんで、しきりに何か読み始めてゐる。 「まあ大変ね。是《これ》をどうするの」と美禰子が云つた時、三四郎は跼《しや》がみながら振り返つた。にや/\笑つてゐる。 「大変も何もありやしない。これを室《へや》の中《なか》へ入れて、片付けるんです。今に先生も帰つて来《き》て手伝ふ筈だから訳はない。――君、跼《しや》がんで本なんぞ読み出《だ》しちや困る。後《あと》で借りて行つて緩《ゆつ》くり読《よ》むがいゝ」と与次郎が小言《こごと》を云ふ。  美禰子と三四郎が戸口で本を揃へると、それを与次郎が受取つて室《へや》の中《なか》の書棚へ並《なら》べるといふ役割が出来た。 「さう乱暴に、出《だ》しちや困《こま》る。まだ此|続《つゞ》きが一冊ある筈だ」と与次郎が青い平《ひら》たい本を振り廻《まは》す。 「だつて無《な》いんですもの」 「なに無《な》い事があるものか」 「有《あ》つた、有つた」と三四郎が云ふ。 「どら、拝見」と美禰子が顔《かほ》を寄せて来《く》る。「ヒストリー、オフ、インテレクチユアル、デ※[#濁点付き片仮名エ、380-5]ロツプメント。あら有《あ》つたのね」 「あら有《あ》つたも無《な》いもんだ。早く御|出《だ》しなさい」 [#7字下げ]四の十四[#「四の十四」は中見出し]  三人は約三十分|許《ばかり》根気《こんき》に働いた。仕舞にはさすがの与次郎もあまり焦《せ》つ付かなくなつた。見ると書|棚《だな》の方を向いて胡坐《あぐら》をかいて黙《だま》つてゐる。美禰子は三四郎の肩《かた》を一寸《ちよつと》突《つ》つ付《つ》いた。三四郎は笑ひながら、 「おい如何《どう》した」と聞く。 「うん。先生もまあ、斯《〔こ〕》んなに入《〔い〕》りもしない本を集めて如何《どう》する気かなあ。全く人泣《ひとな》かせだ。今|之《〔これ〕》を売つて株でも買つて置くと儲かるんだが、仕方がない」と嘆息した儘、矢っ張り壁を向いて胡坐《あぐら》をかいてゐる。  三四郎と美禰子は顔を見合せて笑つた。肝心の主脳が動かないので、二人《ふたり》共書物を揃へるのを控へてゐる。三四郎は詩の本をひねくり出した。美禰子は大きな画帖を膝の上《うへ》に開《ひら》いた。勝手の方では臨時雇の車夫と下女がしきりに論判してゐる。大変騒〻しい。 「一寸《ちよつと》御|覧《らん》なさい」と美禰子が小《ちい》さな声で云ふ。三四郎は及び腰になつて、画帖の上へ顔《かほ》を出した。美禰子の髪《あたま》で香水の匂《にほひ》がする。  画はマーメイドの図である。裸体の女の腰から下《した》が魚《さかな》になつて、魚《さかな》の胴《どう》が、ぐるりと腰を廻《まは》つて、向ふ側《がは》に尾だけ出てゐる。女は長い髪《かみ》を櫛《くし》で梳《す》きながら、梳《す》き余つたのを手に受けながら、此方《こつち》を向いてゐる。背景は広い海である。 「人魚《マーメイド》」 「人魚《マーメイド》」  頭《あたま》を擦《す》り付けた二人《ふたり》は同じ事をさゝやいだ。此時|胡坐《あぐら》をかいてゐた与次郎が何と思つたか、 「何だ、何を見てゐるんだ」と云ひながら廊下へ出《で》て来《き》た。三人は首《くび》を鳩《あつ》めて画帖を一枚毎に繰《く》つて行《い》つた。色々な批評が出る。みんな好加減《いゝかげん》である。  所へ広田先生がフロツクコートで天長節の式から帰つて来た。三人は挨拶をするときに画帖を伏せて仕舞つた。先生が書物丈早く片付様といふので、三人が又根気に遣《や》り始めた。今度は主人公がゐるので、さう油を売る事も出来なかつたと見えて、一時間後には、どうか、かうか廊下の書物が、書棚の中《なか》へ詰《つま》つて仕舞つた。四人は立ち並《なら》んで奇麗に片付いた書物を一応眺めた。 「あとの整理は明日《あした》だ」と与次郎が云つた。是で我慢なさいと云はぬ許である。 「大分御集めになりましたね」と美禰子が云ふ。 「先生是丈みんな御読みになつたですか」と最後に三四郎が聞いた。三四郎は実際参考の為め、この事実を確めて置く必要があつたと見える。 「みんな読めるものか、佐々木なら読むかもしれないが」  与次郎は頭《あたま》を掻いてゐる。三四郎は真面目《まじめ》になつて、実《じつ》は此間《このあひだ》から大学の図書館で、少し宛本を借りて読むが、どんな本を借りても、必ず誰《だれ》か目を通してゐる。試《ため》しにアフラ、ベーンといふ人の小説を借りて見たが、矢っ張りだれか読んだ痕《あと》があるので、読書範囲の際限が知りたくなつたから聞いて見たと云ふ。 「アフラ、ベーンなら僕も読んだ」  広田先生の此一言には三四郎も驚ろいた。 「驚ろいたな。先生は何でも人の読まないものを読む癖がある」と与次郎が云つた。  広田は笑つて座敷の方へ行く。着物を着換へる為《ため》だらう。美禰子も尾《つ》いて出《で》た。あとで与次郎が、三四郎にかう云つた。 「あれだから偉大な暗闇《くらやみ》だ。何でも読んでゐる。けれども些《ちつ》とも光《ひか》らない。もう少し流行《はや》るものを読んで、もう少し出娑婆《でしやば》つて呉れると可《い》いがな」  与次郎の言葉は決して冷評ではなかつた。三四郎は黙《だま》つて本箱《ほんばこ》を眺めてゐた。すると座敷から美禰子の声が聞えた。 「御馳走を上《あ》げるから、御|二人《ふたり》とも入《〔い〕》らつしやい」 [#7字下げ]四の十五[#「四の十五」は中見出し]  二人《ふたり》が書斎から廊下伝ひに、座敷へ来《き》て見ると、座敷の真中《まんなか》に美禰子の持つて来《き》た籃《バスケツト》が据ゑてある。蓋《ふた》が取つてある。中《なか》にサンドヰツチが沢山這入つてゐる。美禰子は其|傍《そば》に坐《すは》つて、籃《かご》の中《なか》のものを小皿へ取り分けてゐる。与次郎と美禰子の問答が始つた。 「能《〔よ〕》く忘れずに持つて来《き》ましたね」 「だつて、わざ/\御注文ですもの」 「其|籃《かご》も買つて来《き》たんですか」 「いゝえ」 「家《うち》にあつたんですか」 「えゝ」 「大変大きなものですね。車夫でも連《つ》れて来《き》たんですか。序でに、少しの間《あひだ》置いて働らかせれば可《い》いのに」 「車夫は今日《けふ》は使に出《で》ました。女だつて此位なものは持てますわ」 「あなただから持つんです。外《ほか》の御嬢さんなら、まあ已《や》めますね」 「さうでせうか。夫《それ》なら私《わたくし》も已めれば可《よ》かつた」  美禰子は食物《くひもの》を小皿へ取りながら、与次郎と応対してゐる。言葉に少しも淀《よどみ》がない。しかも緩《ゆつ》くり落付いてゐる。殆んど与次郎の顔を見ない位である。三四郎は敬服した。  台所から下女が茶を持つてくる。籃《かご》を取り巻《ま》いた連中は、サンドヰツチを食《く》ひ出《だ》した。少《すこ》しの間《あひだ》は静であつたが、思ひ出《だ》した様に与次郎が又広田先生に話しかけた。 「先生、序だから一寸《ちよつと》聞いて置きますが先刻《さつき》の何とかベーンですね」 「アフラ、ベーンか」 「全体何です、そのアフラ、ベーンと云ふのは」 「英国の閨秀作家だ。十七世紀の」 「十七世紀は古《ふる》過ぎる。雑誌の材料にやなりませんね」 「古《ふる》い。然し職業として小説に従事した始めての女だから、それで有名だ」 「有名ぢや困るな。もう少し伺《うかが》つて置かう。どんなものを書いたんですか」 「僕はオルノーコと云ふ小説を読んだ丈だが、小川さん、さういふ名の小説が全集のうちにあつたでせう」  三四郎は奇麗に忘れてゐる。先生に其梗概を聞いて見ると、オルノーコと云ふ黒ん坊の王族が英国の船長に瞞《だま》されて、奴隷に売られて、非常に難義をする事が書いてあるのださうだ。しかも是は作家の実見譚だとして後世に信ぜられてゐたといふ話である。 「面白いな。里見さん、どうです、一つオルノーコでも書《か》いちやあ」と与次郎は又美禰子の方へ向《むか》つた。 「書《か》いても可《よ》ござんすけれども、私《わたくし》にはそんな実見譚がないんですもの」 「黒《くろ》ん坊の主人公が必要なら、その小川君でも可《い》いぢやありませんか。九州の男で色が黒いから」 「口《くち》の悪《わる》い」と美禰子は三四郎を弁護する様に言つたが、すぐあとから三四郎の方を向いて、 「書《か》いても可《よ》くつて」と聞いた。其|眼《め》を見た時に、三四郎は今朝《けさ》籃《かご》を提《さ》げて、折戸からあらはれた瞬間の女を思ひ出《だ》した。自《おのづ》から酔つた心地である。けれども酔つて竦《すく》んだ心地である。どうぞ願ひます抔とは無論云ひ得なかつた。 [#7字下げ]四の十六[#「四の十六」は中見出し]  広田先生は例によつて烟草を呑み出《だ》した。与次郎は之を評して鼻から哲学の烟《けむ》を吐くと云つた。成程|烟《けむ》の出方《でかた》が少し違《ちが》ふ。悠然として太く逞ましい棒が二本穴を抜《ぬ》けて来《く》る。与次郎は其|烟柱《えんちう》を眺めて、半分背を唐紙《からかみ》に持たした儘|黙《だま》つてゐる。三四郎の眼《め》はぼんやり庭《には》の上《うへ》にある。引越ではない。丸で小集の体に見える。談話も従つて気楽なものである。たゞ美禰子丈が広田先生の蔭《かげ》で、先生がさつき脱《ぬ》ぎ棄てた洋服を畳み始めた。先生に和服を着せたのも美禰子の所為《〔しょい〕》と見える。 「今のオルノーコの話だが、君は疎忽《そゝつか》しいから間違へると不可《いけ》ないから序に云ふがね」と先生の烟が一寸《ちよつと》途切れた。 「へえ、伺つて置きます」と与次郎が几帳面に云ふ。 「あの小説が出《で》てから、サヾーンといふ人が其話を脚本に仕組んだのが別にある。矢張り同《おな》じ名でね。それを一所にしちや不可《いけ》ない」 「へえ、一所にしやしません」  洋服を畳んで居た美禰子は一寸《ちよつと》与次郎の顔を見た。 「その脚本のなかに有名な句がある。|Pity's akin to love《ピチーズ、アキン、ツー、ラツヴ》 といふ句だが……」それ丈で又哲学の烟《けむり》を熾《さかん》に吹き出した。 「日本にもありさうな句ですな」と今度は三四郎が云つた。外《ほか》のものも、みんな有りさうだと云ひ出した。けれども誰《だれ》にも思ひ出せない。では一《ひと》つ訳して見たら好《よ》からうといふ事になつて、四人が色々に試みたが一向纏まらない。仕舞に与次郎が、 「これは、どうしても俗謡で行《い》かなくつちや駄目ですよ。句の趣が俗謡だもの」と与次郎らしい意見を呈出した。  そこで、三人が全然翻訳権を与次郎に委任する事にした。与次郎はしばらく考へてゐたが、 「少し無理ですがね、かう云ふなどうでせう。可哀想だた惚《ほ》れたつて事よ」 「不可《いか》ん、不可《いか》ん、下劣《げれつ》の極《きよく》だ」と先生が忽《〔たちま〕》ち苦《にが》い顔をした。その云ひ方が如何《〔いか〕》にも下劣らしいので、三四郎と美禰子は一度に笑ひ出《だ》した。此笑ひ声がまだ已《や》まないうちに、庭の木戸がぎいと開《あ》いて、野々宮さんが這入つて来《き》た。 「もう大抵片付いたんですか」と云ひながら、野々宮さんは縁側の正面の所迄|来《き》て、部屋のなかにゐる四人を覗く様に見渡した。 「まだ片付きませんよ」と与次郎が早速《さつそく》云ふ。 「少し手伝つて頂きませうか」と美禰子が与次郎に調子を合せた。野々宮さんはにや/\笑ひながら、 「大分《だいぶ》賑《にぎ》やかな様ですね。何か面白い事がありますか」と云つて、ぐるりと後向《うしろむき》に縁側へ腰を掛けた。 「今僕が翻訳をして先生に叱《しか》られた所です」 「翻訳を? どんな翻訳ですか」 「なに詰《つま》らない――可哀想だた惚れたつて事よと云ふんです」 「へえ」と云つた野々宮君は縁側で筋違《すぢかひ》に向き直つた。「一体そりや何ですか。僕にや意味が分らない」 「誰《だれ》にだつて分《わか》らんさ」と今度は先生が云つた。 「いや、少《すこ》し言葉をつめ過《すぎ》たから――当り前に延ばすと、斯《か》うです。可哀想だとは惚れたと云ふ事よ」 「アハヽヽ。さうして其原文は何と云ふのです」 「|Pity's akin to love《ピチーズ、アキン、ツー、ラツヴ》」と美禰子が繰り返した。美くしい奇麗な発音であつた。  野々宮さんは、縁側から立つて、二三歩庭の方へ歩《ある》き出したが、やがて又ぐるりと向き直つて、部屋を正面に留《とま》つた。 「成程|旨《うま》い訳だ」  三四郎は野々宮君の態度と視線とを注意せずには居られなかつた。 [#7字下げ]四の十七[#「四の十七」は中見出し]  美禰子は台所へ立つた。茶碗を洗《あら》つて、新らしい茶を注《つ》いで、縁側の端《はた》迄持つて出《で》る。 「御茶を」と云つた儘、其所《そこ》へ坐《すは》つた。「よし子さんは、どうなすつて」と聞く。 「えゝ、身体《からだ》の方はもう回復しましたが」と又腰を掛けて茶を飲む。それから、少《すこ》し先生の方へ向《む》いた。 「先生、折角大久保へ越したが、又|此方《こつち》の方へ出《で》なければならない様になりさうです」 「何故《なぜ》」 「妹《いもと》が学校へ行き帰りに、戸山の原を通るのが厭《いや》だといひ出《だ》しましてね。それに僕が夜《よる》実験をやるものですから、遅《おそ》く迄|待《ま》つてゐるのが淋《さむ》しくつて不可《いけ》ないんださうです。尤も今のうちは母が居るから構《かま》ひませんが、もう少しして、母が国へ帰ると、あとは下女丈になるものですからね。臆病もの二人《ふたり》では到底《とても》辛抱し切れないのでせう。――実に厄介だな」と冗談半分の嘆声を洩らしたが、「どうです里見さん、あなたの所へでも食客《ゐさうらう》に置いて呉れませんか」と美禰子の顔《かほ》を見た。 「何時《いつ》でも置いて上《あ》げますわ」 「何方《どつち》です。宗八さんの方をですか、よし子さんの方をですか」と与次郎が口《くち》を出《だ》した。 「何方《どちら》でも」  三四郎丈|黙《だま》つてゐた。広田先生は少し真面目《まじめ》になつて、 「さうして君はどうする気なんだ」 「妹の始末さへ付けば、当分下宿しても可《い》いです。それでなければ、又|何所《どこ》かへ引越さなければならない。一層《いつそ》学校の寄宿舎へでも入れ様かと思ふんですがね。何しろ小供だから、僕が始終行けるか、向ふが始終|来《こ》られる所でないと困《こま》るんです」 「それぢや里見さんの所《ところ》に限《かぎ》る」と与次郎が又注意を与へた。広田さんは与次郎を相手にしない様子で、 「僕の所《ところ》の二階へ置いて遣《や》つても好《い》いが、何しろ佐々木の様なものがゐるから」と云ふ。 「先生、二階へは是非佐々木を置いてやつて下《くだ》さい」と与次郎自身が依頼した。野々宮君は笑ひながら、 「まあ、どうかしませう。――身長《なり》ばかり大きくつて馬鹿だから実に弱る。あれで団子坂の菊人形が見たいから、連れて行《い》けなんて云ふんだから」 「連《つ》れて行《い》つて御|上《あ》げなされば可《い》いのに。私《わたくし》だつて見たいわ」 「ぢや一所に行きませうか」 「えゝ是非。小川さんも入《〔い〕》らつしやい」 「えゝ行きませう」 「佐々木さんも」 「菊人形は御免だ。菊人形を見る位なら活動写真を見に行きます」 「菊人形は可《い》いよ」と今度は広田先生が云ひ出した。「あれ程に人工的なものは恐らく外国にもないだらう。人工的によく斯《〔こ〕》んなものを拵らへたといふ所を見て置く必要がある。あれが普通の人間に出来て居たら、恐らく団子坂へ行くものは一人《ひとり》もあるまい。普通の人間なら、どこの家《うち》でも四五人は必ずゐる。団子坂へ出掛けるには当らない」 「先生一流の論理だ」と与次郎が評した。 「昔し教場で教はる時にも、よく、あれで遣《や》られたものだ」と野々宮君が云つた。 「ぢや先生も入《〔い〕》らつしやい」と美禰子が最後に云ふ。先生は黙つてゐる。みんな笑ひ出した。  台|所《どころ》から婆さんが「どなたか一寸《ちよいと》」と云ふ。与次郎は「おい」とすぐ立つた。三四郎は矢っ張り坐つてゐた。 「どれ僕も失礼しやうか」と野々宮さんが腰を上《あ》げる。 「あらもう御帰り。随分ね」と美禰子が云ふ。 「此間《このあひだ》のものはもう少し待つて呉れ玉へ」と広田先生が云ふのを、「えゝ、宜《よ》うござんす」と受けて、野々宮さんが庭から出て行つた。其|影《かげ》が折戸の外《そと》へ隠れると、美禰子は急に思ひ出した様に「さう/\」と云ひながら、庭先に脱《ぬ》いであつた下駄を穿《は》いて、野々宮の後《あと》を追掛た。表で何か話してゐる。  三四郎は黙《だま》つて坐つてゐた。 [#7字下げ]五の一[#「五の一」は中見出し]  門を這入ると、此間《このあひだ》の萩が、人の丈《たけ》より高く茂《しげ》つて、株《かぶ》の根《ね》に黒い影が出来てゐる。此黒い影《かげ》が地の上《うへ》を這《は》つて、奥の方へ行くと、見えなくなる。葉と葉の重《かさ》なる裏《うら》迄|上《のぼ》つて来《く》る様にも思《〔おもわ〕》れる。夫程表には濃《こ》い日が当《あた》つてゐる。手洗水《てあらひみづ》の傍《そば》に南天がある。是も普通よりは脊《せ》が高い。三|本《ぼん》寄つてひよろ/\してゐる。葉は便所の窓の上《うへ》にある。  萩と南天の間に縁側が少し見える。縁側は南天を基点として斜《はす》に向ふへ走つてゐる。萩の影になつた所は、一番遠いはづれになる。それで萩は一番手前にある。よし子は此萩の影にゐた。縁側に腰を掛けて。  三四郎は萩とすれ/\に立つた。よし子は縁から腰を上《あ》げた。足《あし》は平《ひら》たい石の上《うへ》にある。三四郎は今更その脊の高いのに驚ろいた。 「御這入りなさい」  依然として三四郎を待《ま》ち設けた様な言葉|遣《づかひ》である。三四郎は病院の当時を思ひ出《だ》した。萩を通り越して縁鼻迄来た。 「御掛けなさい」  三四郎は靴《くつ》を穿《は》いてゐる。命《〔めい〕》の如く腰を掛けた。よし子は座布団を取つて来た。 「御敷きなさい」  三四郎は布団を敷いた。門を這入つてから、三四郎はまだ一言《ひとこと》も口《くち》を開《ひら》かない。此単純な少女はたゞ自分の思ふ通りを三四郎に云ふが、三四郎からは毫も返事を求めてゐない様に思はれる。三四郎は無邪気なる女王の前に出た心持がした。命を聴《き》く丈である。御世辞を使ふ必要がない。一言《ひとこと》でも先方の意を迎へる様な事をいへば、急に卑《いや》しくなる。唖《おし》の奴隷の如く、さきの云ふが儘に振舞つてゐれば愉快である。三四郎は小供の様なよし子から小供扱ひにされながら、少しもわが自尊心を傷けたとは感じ得なかつた。 「兄《あに》ですか」とよし子は其次《そのつぎ》に聞《き》いた。  野々宮を尋ねて来た訳でもない。尋ねない訳でもない。何で来《き》たか三四郎にも実は分《わ》からないのである。 「野々宮さんはまだ学校ですか」 「えゝ、何時《いつ》でも夜《よる》遅《おそ》くでなくつちや帰りません」  是は三四郎も知つてる事である。三四郎は挨拶に窮した。見ると縁側に絵の具|函《ばこ》がある。描《か》きかけた水彩がある。 「画《ゑ》を御|習《なら》ひですか」 「えゝ、好《す》きだから描《か》きます」 「先生は誰《だれ》ですか」 「先生に習《なら》ふ程上手ぢやないの」 「一寸《ちよつと》拝見」 「是? 是《これ》まだ出来てゐないの」と描《か》き掛《かけ》を三四郎の方へ出す。成程自分のうちの庭《には》が描《か》き掛けてある。空《そら》と、前の家《いへ》の柿の木と、這入り口《ぐち》の萩丈が出来てゐる。中《なか》にも柿の木は甚だ赤く出来てゐる。 「中々《なか/\》旨《うま》い」と三四郎が画《ゑ》を眺めながら云ふ。 「是《これ》が?」とよし子は少し驚ろいた。本当に驚ろいたのである。三四郎の様なわざとらしい調子は少しもなかつた。  三四郎は今更自分の言葉を冗談にする事も出来ず、又|真面目《まじめ》にする事も出来なくなつた。何方《どつち》にしても、よし子から軽蔑されさうである。三四郎は画《ゑ》を眺めながら、腹のなかで赤面した。 [#7字下げ]五の二[#「五の二」は中見出し]  縁側から座敷《ざしき》を見廻《みまは》すと、しんと静かである。茶の間《ま》は無論、台所にも人はゐない様である。 「御母《おつか》さんはもう御国へ御帰りになつたんですか」 「まだ帰りません。近いうちに立《た》つ筈ですけれど」 「今、入《いら》つしやるんですか」 「今《いま》一寸《ちよつと》買物に出《で》ました」 「あなたが里見さんの所《ところ》へ御移りになると云ふのは本当ですか」 「何《ど》うして」 「何《ど》うしてつて――此間《このあひだ》広田先生の所でそんな話がありましたから」 「まだ極《きま》りません。事によると、さうなるかも知れませんけれど」  三四郎は少しく要領を得た。 「野々宮さんは元《もと》から里見さんと御懇意なんですか」 「えゝ。御友達なの」  男と女の友達といふ意味かしらと思つたが、何だか可笑《おか》しい。けれども三四郎はそれ以上を聞き得なかつた。 「広田先生は野々宮さんの元《もと》の先生ださうですね」 「えゝ」  話しは「えゝ」で塞《つか》へた。 「あなたは里見さんの所《ところ》へ入《〔い〕》らつしやる方が可《い》いんですか」 「私《わたくし》? さうね。でも美禰子さんの御|兄《あに》いさんに御気の毒ですから」 「美禰子さんの兄《にい》さんがあるんですか」 「えゝ。宅《うち》の兄《あに》と同年の卒業なんです」 「矢っ張り理学士ですか」 「いゝえ、科は違ひます。法学士です。其又|上《うへ》の兄《にい》さんが広田先生の御友達だつたのですけれども、早《はや》く御|亡《な》くなりになつて、今《いま》では恭助さん丈なんです」 「御父《おとつ》さんや御母《おつか》さんは」  よし子は少し笑ひながら、 「ないわ」と云つた。美禰子の父母の存在を想像するのは滑稽であると云はぬ許である。余程早く死んだものと見える。よし子の記憶には丸でないのだらう。 「さう云ふ関係で美禰子さんは広田先生のうちへ出入《でいり》をなさるんですね」 「えゝ。死《し》んだ兄《にい》さんが広田先生とは大変|仲善《なかよし》だつたさうです。それに美禰子さんは英語がすきだから、時々英語を習ひに入らつしやるんでせう」 「此方《こちら》へも来《き》ますか」  よし子は何時《いつ》の間《ま》にか、水彩画の続《つゞ》きを描《か》き始めた。三四郎が傍《そば》にゐるのが丸で苦になつてゐない。それでゐて、能《〔よ〕》く返事をする。 「美禰子さん?」と聞きながら、柿の木の下《した》にある藁|葺《ぶき》屋根に影《かげ》をつけたが、 「少し黒過《くろすぎ》ますね」と画を三四郎の前へ出《だ》した。三四郎は今度《こんど》は正直に、 「えゝ、少し黒過《くろすぎ》ます」と答へた。すると、よし子は画筆《ゑふで》に水を含《ふく》ませて、黒い所を洗ひながら、 「入《〔い〕》らつしやいますわ」と漸く三四郎に返事をした。 「度々《たび/\》?」 「えゝ度々《たび/\》」とよし子は依然として画紙に向つてゐる。三四郎は、よし子が画のつゞきを描《か》き出してから、問答が大変楽になつた。 [#7字下げ]五の三[#「五の三」は中見出し]  しばらく無言の儘、画の中《なか》を覗いてゐると、よし子は丹念に藁葺家根の黒い影を洗つてゐたが、あまり水《みづ》が多過ぎたのと、筆の使ひ方が中《なか》/\不慣《ふなれ》なので、黒いものが勝手に四方へ浮き出して、折角赤く出来た柿が、蔭干《かげぼし》の渋柿の様な色になつた。よし子は画筆《ゑふで》の手を休《やす》めて、両手を伸《の》ばして、首《くび》をあとへ引いて、ワツトマンを成るべく遠くから眺めてゐたが、仕舞に、小さな声で、 「もう駄目ね」と云ふ。実際駄目なのだから、仕方がない。三四郎は気の毒になつた。 「もう御|廃《よ》しなさい。さうして、又新らしく御|描《か》きなさい」  よし子は顔を画に向けた儘、尻眼《しりめ》に三四郎を見た。大きな潤《うるほひ》のある眼《め》である。三四郎は益《〔ますます〕》気の毒になつた。すると女が急に笑ひ出した。 「馬鹿ね。二時間許り損をして」と云ひながら、折角|描《か》いた水彩の上《うへ》へ、横縦に二三本|太《ふと》い棒を引いて、絵の具函の蓋《ふた》をぱたりと伏せた。 「もう廃《よ》しませう。座敷へ御這入りなさい、御茶を上《あ》げますから」と云ひながら、自分は上《うへ》へあがつた。三四郎は靴を脱《ぬ》ぐのが面倒なので、矢っ張り縁側に腰を掛けてゐた。腹の中《なか》では、今になつて、茶を遣《や》るといふ女を非常に面白いと思つてゐた。三四郎に度外《どはづ》れの女を面白がる積は少しもないのだが、突然御茶を上《あ》げますと云はれた時には、一種の愉快を感ぜぬ訳に行かなかつたのである。其感じは、どうしても異性に近づいて得られる感じではなかつた。  茶の間《ま》で話し声がする。下女は居たに違ない。やがて襖《ふすま》を開《ひら》いて、茶器を持つて、よし子があらはれた。其顔を正面から見たときに、三四郎は又、女性中の尤も女性的な顔であると思つた。  よし子は茶を汲んで縁側へ出《だ》して、自分は座敷の畳の上《うへ》へ坐つた。三四郎はもう帰らうと思つてゐたが、此女の傍《そば》にゐると、帰らないでも構はない様な気がする。病院では曾《かつ》て此女の顔を眺め過ぎて、少し赤面させた為めに、早速引き取つたが、今日《けふ》は何ともない。茶を出したのを幸ひに縁側と座敷で又談話を始めた。色々話してゐるうちに、よし子は三四郎に妙な事を聞き出《だ》した。それは、自分の兄の野々宮が好《すき》か嫌かと云ふ質問であつた。一寸《ちよつと》聞くと丸で頑是《〔がんぜ〕》ない小供の云ひさうな事であるが、よし子の意味はもう少し深い所にあつた。研究心の強い学問|好《ず》きの人は、万事を研究する気で見るから、情愛が薄くなる訳である。人情で物をみると、凡てが好き嫌ひの二つになる。研究する気なぞが起るものではない。自分の兄は理学者だものだから、自分を研究して不可《いけ》ない。自分を研究すればする程、自分を可愛《かあい》がる度は減《へ》るのだから、妹に対して不親切になる。けれども、あの位研究|好《ずき》の兄《あに》が、この位自分を可愛がつて呉れるのだから、それを思ふと、兄《あに》は日本中で一番|好《い》い人に違ないと云ふ結論であつた。  三四郎は此説を聞いて、大いに尤もな様な、又|何所《どこ》か抜《ぬ》けてゐる様な気がしたが、偖《〔さて〕》何所《どこ》が抜《ぬ》けてゐるんだか、頭《あたま》がぼんやりして、一寸《ちよつと》分《わか》らなかつた。それで表向此説に対しては別段の批評を加へなかつた。たゞ腹の中《なか》で、これしきの女の云ふ事を、明瞭に批評し得ないのは、男児として腑甲斐ない事だと、いたく赤面した。同時に、東京の女学生は決して馬鹿に出来ないものだと云ふ事を悟つた。  三四郎はよし子に対する敬愛の念を抱いて下宿へ帰つた。端書が来《き》てゐる。「明日午後一時頃から菊人形を見に参りますから、広田先生のうち迄|入《〔い〕》らつしやい。美禰子」  其字が、野々宮さんの隠袋《ぽつけつと》から半分|食《は》み出してゐた封筒の上書《うはがき》に似てゐるので、三四郎は何遍も読《よ》み直《なほ》して見た。 [#7字下げ]五の四[#「五の四」は中見出し]  翌日は日曜である。三四郎は午飯《ひるめし》を済ましてすぐ西片町へ来た。新調の制服を着て、光《ひか》つた靴を穿《は》いてゐる。静かな横町を広田先生の前迄|来《く》ると、人声がする。  先生の家《いへ》は門を這入ると、左り手がすぐ庭で、木戸をあければ玄関へかゝらずに、すぐ座敷の縁へ出られる。三四郎は要目《かなめ》垣の間《あひだ》に見える桟《さん》を外《はづ》さうとして、ふと、庭のなかの話し声を耳にした。話しは野々宮と美禰子の間に起りつゝある。 「そんな事をすれば、地面の上《うへ》へ落ちて死ぬ許《ばか》りだ」是は男の声である。 「死んでも、其《その》方が可《い》いと思ひます」是は女の答である。 「尤もそんな無謀な人間は、高い所から落ちて死ぬ丈の価値は充分ある」 「残酷な事を仰《〔おっ〕》しやる」  三四郎は此所《こゝ》で木戸を開けた。庭の真中に立つてゐた会話の主は二人《ふたり》とも此方《こつち》を見た。野々宮はたゞ「やあ」と平凡に云つて、頭《あたま》を首肯《うなづ》かせた丈である。頭《あたま》に新らしい茶の中折帽を被つてゐる。美禰子は、すぐ、 「端書《はがき》は何時《いつ》頃着きましたか」と聞いた。二人《ふたり》の今迄|遣《や》つてゐた会話は、これで中絶した。  縁側には主人が洋服を着て腰を掛けて、相変らず哲学を吹《ふ》いてゐる。是は西洋の雑誌を手にしてゐた。傍《そば》によし子がゐる。両手を後ろへ突《つ》いて、身体《からだ》を空《くう》に持《も》たせながら、伸《の》ばした足に穿《は》いた厚い草履を眺めてゐた。――三四郎はみんなから待ち受けられてゐたと見える。  主人は雑誌を抛《な》げ出した。 「では行くかな。とう/\引|張《ぱ》り出された」 「御苦労様」と野々宮さんが云つた。女は二人《ふたり》で顔を見合せて、他《ひと》に知れない様な笑を洩らした。庭を出るとき、女が二人《ふたり》つゞいた。 「脊《せい》が高いのね」と美禰子が後《あと》から云つた。 「のつぽ」とよし子が一言《ひとこと》答へた。門の側《わき》で並んだ時、「だから、なり丈《たけ》草履を穿《は》くの」と弁解をした。三四郎もつゞいて、庭を出様とすると、二階の障子ががらりと開《あ》いた。与次郎が手欄《てすり》の所迄出て来た。 「行くのか」と聞く。 「うん、君は」 「行《い》かない。菊細工なんぞ見て何になるものか。馬鹿だな」 「一所に行かう。家《うち》に居たつて仕様がないぢやないか」 「今論文を書いてゐる。大論文を書いてゐる。中々《なか/\》それ所《どころ》ぢやない」  三四郎は呆《あき》れ返つた様な笑ひ方をして、四人の後《あと》を追掛た。四人は細い横町を三分の二程広い通りの方へ遠ざかつた所である。此一団の影を高い空気の下《した》に認めた時、三四郎は自分の今の生活が、熊本当時のそれよりも、ずつと意味の深いものになりつゝあると感じた。曾《かつ》て考へた三個の世界のうちで、第二第三の世界は正に此一団の影で代表されてゐる。影の半分は薄黒い。半分は花野《はなの》の如く明かである。さうして三四郎の頭《あたま》のなかでは此両方が渾然として調和されてゐる。のみならず、自分も何時《いつ》の間《ま》にか、自然と此|経緯《よこたて》のなかに織り込まれてゐる。たゞそのうちの何所《どこ》かに落ち付かない所がある。それが不安である。歩《ある》きながら考へると、今《いま》さき庭《には》のうちで、野々宮と美禰子が話してゐた談柄《〔だんぺい〕》が近因である。三四郎は此不安の念を駆《か》る為めに、二人《ふたり》の談柄を再び剔抉《ほぢくり》出して見たい気がした。  四人は既に曲《まが》り角へ来《き》た。四人とも足を留《と》めて、振り返つた。美禰子は額に手を翳《かざ》してゐる。 [#7字下げ]五の五[#「五の五」は中見出し]  三四郎は一|分《ぷん》かゝらぬうちに追付いた。追付いても誰《だれ》も何とも云はない。只|歩《ある》き出《だ》した丈である。しばらくすると、美禰子が、 「野々宮さんは、理学者だから、なほそんな事を仰しやるんでせう」と云ひ出《だ》した。話しの続《つゞ》きらしい。 「なに遣《や》らなくつても同じ事です。高く飛ばうと云ふには、飛べる丈の装置を考へた上《うへ》でなければ出来ないに極つてゐる。頭《あたま》の方が先《さき》に要《い》るに違ないぢやありませんか」 「そんなに高く飛びたくない人は、それで我慢するかも知れません」 「我慢しなければ、死ぬ許ですもの」 「さうすると安全で地面の上《うへ》に立つてゐるのが一番|好《い》い事になりますね。何だか詰らない様だ」  野々宮さんは返事を已《や》めて、広田先生の方を向いたが、 「女には詩人が多いですね」と笑ひながら云つた。すると広田先生が、 「男子の弊は却つて純粋の詩人になり切《き》れない所にあるだらう」と妙な挨拶をした。野々宮さんはそれで黙《だま》つた。よし子と美禰子は何か御互の話を始める。三四郎は漸く質問の機会を得た。 「今のは何の御話しなんですか」 「なに空中飛行器の事です」と野々宮さんが無造作に云つた。三四郎は落語のおち[#「おち」に傍点]を聞く様な気がした。  それからは別段の会話も出《で》なかつた。又長い会話が出来かねる程、人がぞろ/\歩《ある》く所《ところ》へ来《き》た。大《おほ》観音の前に乞食《こじき》が居る。額《ひたひ》を地《ぢ》に擦《す》り付けて、大きな声をのべつに出《だ》して、哀願を逞《〔たくま〕》しうしてゐる。時々《とき/″\》顔を上《あ》げると、額《ひたひ》の所丈が砂《すな》で白《しろ》くなつてゐる。誰《だれ》も顧《かへりみ》るものがない。五人も平気で行き過《す》ぎた。五六間も来《き》た時に、広田先生が急に振り向いて三四郎に聞いた。 「君あの乞食《こじき》に銭《ぜに》を遣《や》りましたか」 「いゝえ」と三四郎が後《あと》を見ると、例の乞食は、白《しろ》い額《ひたひ》の下《した》で両手を合《あは》せて、相変らず大きな声を出《だ》してゐる。 「遣《や》る気にならないわね」とよし子がすぐに云つた。 「何故《なぜ》」とよし子の兄《あに》は妹を見た。窘《たしな》める程に強い言葉でもなかつた。野々宮の顔付《かほつき》は寧ろ冷静である。 「あゝ始終|焦《せ》つ着《つ》いて居《ゐ》ちや、焦《せ》つ着《つ》き栄《ばえ》がしないから駄目ですよ」と美禰子が評した。 「いえ場所が悪《わる》いからだ」と今度は広田先生が云つた。「あまり人通りが多|過《す》ぎるから不可《いけ》ない。山の上の淋しい所で、あゝいふ男に逢《あ》つたら、誰《だれ》でも遣《や》る気になるんだよ」 「其代り一日《いちにち》待《ま》つてゐても、誰《だれ》も通らないかも知れない」と野々宮はくす/\笑ひ出した。  三四郎は四人の乞食《こじき》に対する批評を聞いて、自分が今日迄養成した徳義上の観念を幾分か傷けられる様な気がした。けれども自分が乞食の前を通るとき、一銭も投《な》げてやる料簡が起らなかつたのみならず、実を云へば、寧ろ不愉快な感じが募つた事実を反省して見ると、自分よりも是等四人の方が却つて己れに誠《まこと》であると思ひ付いた。又彼等は己れに誠《まこと》であり得る程な広い天地の下《した》に呼吸する都会人種であるといふ事を悟つた。 [#7字下げ]五の六[#「五の六」は中見出し]  行くに従つて人が多くなる。しばらくすると一人《ひとり》の迷子《まひご》に出逢つた。七つ許りの女の子である。泣《な》きながら、人の袖《そで》の下《した》を右へ行《い》つたり、左りへ行つたりうろ/\してゐる。御|婆《ばあ》さん、御|婆《ばあ》さんと無暗に云ふ。是には往来の人もみんな心を動かしてゐる様に見える。立ち留《どま》るものもある。可哀想だといふものもある。然し誰《だれ》も手を付けない。小供は凡ての人の注意と同情を惹《ひ》きつゝ、しきりに泣き号《さけ》んで御婆さんを探《さが》してゐる。不可思議の現象である。 「これも場所が悪《わる》い所為《せゐ》ぢやないか」と野々宮君が小供の影を見送りながら云つた。 「今に巡査が始末をつけるに極つてるから、みんな責任を逃れるんだね」と広田先生が説明した。 「私《わたし》の傍《そば》迄|来《く》れば交番迄送つてやるわ」とよし子が云ふ。 「ぢや、追掛《おつかけ》て行《い》つて、連《つ》れて行《い》くがいゝ」と兄《あに》が注意した。 「追掛《おつかけ》るのは厭《いや》」 「何故《なぜ》」 「何故《なぜ》つて――こんなに大勢《おほぜい》人《ひと》がゐるんですもの。私《わたし》に限《かぎ》つた事はないわ」 「矢っ張り責任を逃れるんだ」と広田がいふ。 「矢っ張り場所が悪《わる》いんだ」と野々宮がいふ。男は二人《ふたり》で笑つた。団子坂の上《うへ》迄|来《く》ると、交番の前へ人が黒山《くろやま》の様に集《たか》つてゐる。迷子《まひご》はとう/\巡査の手に渡つたのである。 「もう安心大丈夫です」と美禰子が、よし子を顧みて云つた。よし子は「まあ可《よ》かつた」といふ。  坂の上から見ると、坂は曲《まが》つてゐる。刀《かたな》の切先《きつさき》の様である。幅は無論狭い。右側の二階|建《だて》が左側の高い小屋《こや》の前を半分遮ぎつてゐる。其|後《うしろ》には又高い幟《のぼり》が何本となく立ててある。人《ひと》は急に谷底《たにそこ》へ落ち込む様に思はれる。其落ち込むものが、這《は》い上《あ》がるものと入り乱れて、路《みち》一杯に塞《ふさ》がつてゐるから、谷の底にあたる所は幅《はゞ》をつくして異様に動く。見てゐると眼《め》が疲《つか》れるほど不規則に蠢《うごめ》いてゐる。広田先生は此坂の上《うへ》に立つて、 「是は大変だ」と、さも帰りたさうである。四人はあとから先生を押す様にして、谷へ這入《はい》つた。其|谷《たに》が途中からだら/\と向《むかふ》へ廻《まは》り込む所に、右にも左にも、大きな葭簀掛《よしずがけ》の小屋を、狭い両側から高く構へたので、空《そら》さへ存外窮屈に見える。往来は暗《くら》くなる迄込み合つてゐる。其中《そのなか》で木戸番が出来る丈大きな声を出す。「人間から出る声ぢやない。菊人形から出《で》る声だ」と広田先生が評した。それ程彼等の声は尋常を離れてゐる。  一行は左りの小屋へ這入つた。曾我の討入がある。五郎も十郎も頼朝もみな平等に菊の着物を着《き》てゐる。たゞし顔や手足は悉く木彫りである。其次は雪が降つてゐる。若い女が癪を起してゐる。是も人形の心《しん》に、菊を一面に這はせて、花と葉が平らに隙間《すきま》なく衣装の恰好となる様に作つたものである。  よし子は余念なく眺めてゐる。広田先生と野々宮君はしきりに話しを始めた。菊の培養法が違ふとか何とかいふ所で、三四郎は外《ほか》の見物《けんぶつ》に隔《へだ》てられて、一間ばかり離れた。美禰子はもう三四郎より先《さき》にゐる。見物は概して町家のものである。教育のありさうなものは極めて少ない。美禰子は其間《そのあひだ》に立つて、振り返つた。首《くび》を延《の》ばして、野々宮のゐる方を見た。野々宮は右の手を竹の手欄《てすり》から出して、菊の根を指《さ》しながら、何か熱心に説明してゐる。美禰子は又|向《むかふ》をむいた。見物に押されて、さつさと出口《でぐち》の方へ行く。三四郎は群集《〔くん〕じゆ》[#ルビの「〔くん〕じゆ」はママ]を押し分けながら、三人を棄てゝ、美禰子の後《あと》を追つて行つた。 [#7字下げ]五の七[#「五の七」は中見出し]  漸くの事で、美禰子の傍《そば》迄|来《き》て、 「里見さん」と呼んだ時に、美禰子は青竹の手欄《てすり》に手を突いて、心持《こゝろもち》首《くび》を戻《もど》して、三四郎を見た。何とも云はない。手欄《てすり》のなかは養老の滝である。丸い顔の、腰に斧を指《さ》した男が、瓢簟を持つて、滝壺の傍《そば》に跼《かゞ》んでゐる。三四郎が美禰子の顔を見た時には、青竹のなかに何があるか殆んど気が付かなかつた。 「どうかしましたか」と思はず云つた。美禰子はまだ何とも答へない。黒い眼を左《〔さ〕》も物憂《ものう》さうに三四郎の額《ひたひ》の上《うへ》に据ゑた。其時三四郎は美禰子の二重瞼《ふたへまぶた》に不可思議なある意味を認めた。其意味のうちには、霊《れい》の疲《つか》れがある。肉《にく》の弛《ゆる》みがある。苦痛に近き訴へがある。三四郎は、美禰子の答へを予期しつゝある今の場合を忘れて、此|眸《ひとみ》と此|瞼《まぶた》の間に凡てを遺却した。すると、美禰子は云つた。 「もう出《で》ませう」  眸《ひとみ》と瞼《まぶた》の距離が次第に近づく様に見えた。近づくに従つて、三四郎の心には女の為《ため》に出《で》なければ済まない気が萌《きざ》して来《き》た。それが頂点に達した頃、女は首《くび》を投《な》げる様に向ふをむいた。手を青竹の手欄《てすり》から離《はな》して、出口《でぐち》の方へ歩《ある》いて行く。三四郎はすぐ後《あと》から跟《つ》いて出《で》た。  二人《ふたり》が表てゞ並《なら》んだ時、美禰子は俯向《うつむい》て右の手を額《ひたひ》に当《あ》てた。周|囲《ゐ》は人が渦《うづ》を捲《ま》いてゐる。三四郎は女の耳へ口《くち》を寄せた。 「どうかしましたか」  女は人込《ひとごみ》のなかを谷中《やなか》の方へ歩《ある》き出《だ》した。三四郎も無論一所に歩《ある》き出した。半町ばかり来《き》た時、女は人《ひと》の中《なか》で留つた。 「此所《こゝ》は何所《どこ》でせう」 「此方《こつち》へ行くと谷中《やなか》の天王寺の方へ出《で》て仕舞ひます。帰《かへ》り路《みち》とは丸で反対です」 「さう。私《わたくし》心持《こゝろもち》が悪《わる》くつて……」  三四郎は往来の真中《まんなか》で扶《たすけ》なき苦痛を感じた。立つて考へてゐた。 「何所《どこ》か静《しづ》かな所はないでせうか」と女が聞いた。  谷中《やなか》と千駄木が谷《たに》で出逢ふと、一番低い所に小川が流れてゐる。此小川を沿ふて、町《まち》を左りへ切れるとすぐ野に出《で》る。河《かは》は真直に北へ通つてゐる。三四郎は東京へ来《き》てから何遍此小川の向側を歩《ある》いて、何遍|此方《こちら》側を歩《ある》いたか善く覚えてゐる。美禰子の立つてゐる所は、此小川が、丁度|谷中《やなか》の町を横切《よこぎ》つて根津へ抜ける石橋の傍《そば》である。 「もう一町ばかり歩《ある》けますか」と美禰子に聞いて見た。 「歩《ある》きます」  二人《ふたり》はすぐ石橋《いしばし》を渡つて、左へ折れた。人《ひと》の家《いへ》の路次《ろじ》の様な所を十間程行き尽して、門の手前から板橋を此方側《こちらがは》へ渡り返して、しばらく河《かは》の縁《ふち》を上《のぼ》ると、もう人は通らない。広い野である。  三四郎は此静かな秋のなかへ出《で》たら、急に嘵舌《しやべ》り出した。 「どうです具合は。頭痛でもしますか。あんまり人が大勢《おほぜい》ゐた所為《せゐ》でせう。あの人形を見てゐる連中のうちには随分下等なのがゐた様だから――何か失礼でもしましたか」  女は黙《だま》つてゐる。やがて河《かは》の流れから、眼を上《あ》げて、三四郎を見た。二重瞼《ふたへまぶた》にはつきりと張《は》りがあつた。三四郎は其眼付で半ば安心した。 「難有《〔ありがと〕》う、大分|好《よ》くなりました」と云ふ。 「休みませうか」 「えゝ」 「もう少し歩《ある》けますか」 「えゝ」 「歩《ある》ければ、もう少《すこ》し御|歩《ある》きなさい。此所《こゝ》は汚《きた》ない。彼所《あすこ》迄行くと丁度休むに好《い》い場所があるから」 「えゝ」 [#7字下げ]五の八[#「五の八」は中見出し]  一丁|許《ばかり》来《き》た。又橋がある。一尺に足らない古板《ふるいた》を造|作《さ》なく渡した上を、三四郎は大|股《また》に歩《ある》いた。女もつゞいて通つた。待ち合せた三四郎の眼《め》には、女の足が常《つね》の大地を踏むと同じ様に軽く見えた。此女は素直《すなほ》な足を真直《まつすぐ》に前へ運《はこ》ぶ。わざと女らしく甘《あま》へた歩《ある》き方《かた》をしない。従つて無暗に此方《こつち》から手を貸す訳に行かない。  向ふに藁屋根がある。屋根の下《した》が一面に赤い。近寄つて見ると、唐辛子を干したのであつた。女は此赤いものが、唐辛子であると見分けのつく所迄|来《き》て留《とま》つた。 「美《うつ》くしい事」と云ひながら、草の上《うへ》に腰を卸《おろ》した。草は小河の縁《ふち》に僅かな幅《はば》を生《は》えてゐるのみである。夫すら夏の半《なかば》の様に青くはない。美禰子は派出な着物《きもの》の汚《よご》れるのを、丸で苦にしてゐない。 「もう少し歩《ある》けませんか」と三四郎は立ちながら、促がす様に云つて見た。 「難有《〔ありがと〕》う。是で沢山」 「矢っ張り心持が悪《わる》いですか」 「あんまり疲《つか》れたから」  三四郎もとう/\汚《きた》ない草の上に坐《すは》つた。美禰子と三四郎の間《あひだ》は四尺|許《ばかり》離れてゐる。二人《ふたり》の足《あし》の下《した》には小《ちい》さな河《かは》が流れてゐる。秋になつて水が落ちたから浅い。角《かど》の出《で》た石の上《うへ》に鶺鴒が一羽とまつた位である。三四郎は水の中《なか》を眺《なが》めてゐた。水が次第に濁《にご》つて来《く》る。見ると河上《かはかみ》で百姓が大根を洗つてゐた。美禰子の視線は遠くの向ふにある。向ふは広い畠で、畠の先《さき》が森で、森の上が空《そら》になる。空《そら》の色《いろ》が段々変つて来《く》る。  たゞ単調に澄んでゐたものの中《うち》に、色が幾通りも出来《でき》てきた。透《す》き徹《とほ》る藍《あゐ》の地《ぢ》が消える様に次第に薄《うす》くなる。其上に白い雲が鈍《にぶ》く重《かさ》なりかゝる。重《かさ》なつたものが溶けて流《なが》れ出《だ》す。何所《どこ》で地《ぢ》が尽《つ》きて、何所《どこ》で雲《くも》が始まるか分《わか》らない程に嬾《ものう》い上《うへ》を、心持《こゝろもち》黄《き》な色がふうと一面にかゝつてゐる。 「空《そら》の色が濁《にご》りました」と美禰子が云つた。  三四郎は流れから眼《め》を放《はな》して、上《うへ》を見た。かう云ふ空《そら》の模様を見たのは始めてゞはない。けれども空《そら》が濁《にご》つたといふ言葉を聞いたのは此時が始めてゞある。気が付いて見ると、濁《にご》つたと形容するより外に形容しかたのない色であつた。三四郎が何か答へやうとする前に、女は又言つた。 「重《おも》い事《こと》。大理石《マーブル》の様に見えます」  美禰子は二重瞼《ふたへまぶた》を細《ほそ》くして高い所を眺《なが》めてゐた。それから、その細《ほそ》くなつた儘の眼《め》を静《しづ》かに三四郎の方に向けた。さうして、 「大理石《マーブル》の様に見えるでせう」と聞いた。三四郎は、 「えゝ、大理石《マーブル》の様に見えます」と答へるより外《ほか》はなかつた。女はそれで黙《だま》つた。しばらくしてから、今度は三四郎が云つた。 「かう云ふ空《そら》の下《した》にゐると、心《こゝろ》が重《おも》くなるが気は軽くなる」 「どう云ふ訳ですか」と美禰子が問ひ返した。  三四郎には、どう云ふ訳もなかつた。返事はせずに、又かう云つた。 「安心して夢を見てゐる様な空《そら》模様だ」 「動く様で、なか/\動きませんね」と美禰子は又遠くの雲を眺《なが》め出《だ》した。 [#7字下げ]五の九[#「五の九」は中見出し]  菊人形で客を呼ぶ声が、折々|二人《ふたり》の坐《すは》つてゐる所迄聞える。 「随分大きな声ね」 「朝《あさ》から晩迄あゝ云ふ声を出《だ》してゐるんでせうか。豪《えら》いもんだな」と云つたが、三四郎は急に置き去《ざ》りにした三人《さんにん》の事を思ひ出《だ》した。何か云はうとしてゐるうちに、美禰子は答へた。 「商買ですもの。丁度|大《おほ》観音の乞食《こじき》と同《おな》じ事なんですよ」 「場所が悪《わる》くはないですか」  三四郎は珍らしく冗談を云つて、さうして一人《ひとり》で面白さうに笑つた。乞食に就て下した広田の言葉を余程|可笑《〔おか〕》しく受けたからである。 「広田先生は、よく、あゝ云ふ事を仰《おつし》やる方《かた》なんですよ」と極めて軽く独り言《ごと》の様に云つたあとで、急に調子を更《か》へて、 「かう云ふ所に、かうして坐《すは》つてゐたら、大丈夫及第よ」と比較的活溌に付け加へた。さうして、今度は自分の方で面白さうに笑つた。 「成程野々宮さんの云つた通り、何時《いつ》迄待つてゐても誰《だれ》も通りさうもありませんね」 「丁度|好《い》いぢやありませんか」と早口《はやくち》に云つたが、後《あと》で「御|貰《もらひ》をしない乞食なんだから」と結んだ。是は前句の解釈の為めに付けた様に聞えた。  所へ知らん人《ひと》が突然あらはれた。唐辛子の干《ほ》してある家《いへ》の影《かげ》から出《で》て、何時《いつ》の間《ま》にか河を向へ渡つたものと見える。二人《ふたり》の坐《すは》つてゐる方へ段々《だん/\》近付いて来《く》る。洋服を着《き》て髯《ひげ》を生《は》やして、年輩から云ふと広田先生位な男である。此男が二人《ふたり》の前へ来た時、顔《かほ》をぐるりと向け直して、正面から三四郎と美禰子を睨《にら》め付けた。其|眼《め》のうちには明《あき》らかに憎悪《ぞうお》の色がある。三四郎は凝《じつ》と坐《すは》つてゐにくい程な束縛《そくばく》を感じた。男はやがて行き過《す》ぎた。其|後《うし》ろ影を見送りながら、三四郎は、 「広田先生や野々宮さんは嘸《さぞ》後《あと》で僕等を探《さが》したでせう」と始めて気が付いた様に云つた。美禰子は寧《むし》ろ冷《ひやゝ》かである。 「なに大丈夫よ。大きな迷子《まひご》ですもの」 「迷子《まひご》だから探《さが》したでせう」と三四郎は矢張り前説を主張した。すると美禰子は、なほ冷やかな調子で、 「責任を逃《のが》れたがる人だから、丁度|好《い》いでせう」 「誰が? 広田先生がですか」  美禰子は答へなかつた。 「野々宮さんがですか」  美禰子は矢っ張り答へなかつた。 「もう気分は宜《よ》くなりましたか。宜《よ》くなつたら、そろ/\帰りませうか」  美禰子は三四郎を見た。三四郎は上《あ》げかけた腰《こし》を又草の上《うへ》に卸《おろ》した。其時三四郎は此女にはとても叶《かな》はない様な気が何所《どこ》かでした。同時に自分の腹《はら》を見抜《みぬ》かれたといふ自覚に伴《ともな》ふ一種の屈《くつ》辱をかすかに感じた。 「迷子《まひご》」  女は三四郎を見た儘で此|一言《ひとこと》を繰返《くりかへ》した。三四郎は答へなかつた。 「迷子《まひご》の英訳を知つて入《〔い〕》らしつて」  三四郎は知るとも、知らぬとも云ひ得ぬ程に、此|問《とひ》を予期してゐなかつた。 「教へて上《あ》げませうか」 「えゝ」 「|迷へる子《ストレイ、シープ》――解《わか》つて?」 [#7字下げ]五の十[#「五の十」は中見出し]  三四郎は斯《〔こ〕》う云ふ場合になると挨拶に困る男である。咄嗟の機が過ぎて、頭《あたま》が冷《ひやゝ》かに働き出した時、過去を顧みて、あゝ云へば好《よ》かつた、斯《か》うすれば好《よ》かつたと後悔する。と云つて、此後悔を予期《よき》して、無理に応急の返事を、左も自然らしく得意に吐《は》き散らす程に軽薄ではなかつた。だから只《たゞ》黙《だま》つてゐる。さうして黙《だま》つてゐる事が如何にも半間《はんま》であると自覚してゐる。  |迷へる子《ストレイ、シープ》といふ言葉は解《わか》つた様でもある。又|解《わか》らない様でもある。解《わか》る解《わか》らないは此言葉の意味よりも、寧ろ此言葉を使《つか》つた女の意味である。三四郎はいたづらに女の顔を眺めて黙つてゐた。すると女は急に真面目《まじめ》になつた。 「私《わたくし》そんなに生《なま》意気に見えますか」  其調子には弁解の心持がある。三四郎は意外の感に打たれた。今迄は霧の中《なか》にゐた。霧が晴れゝば好《い》いと思つてゐた。此言葉で霧《きり》が晴れた。明瞭な女が出《で》て来た。晴れたのが恨めしい気がする。  三四郎は美禰子の態度を故《もと》の様な、――二人《ふたり》の頭《あたま》の上《うへ》に広《ひろ》がつてゐる、澄むとも濁るとも片付《かたづ》かない空《そら》の様な、――意味のあるものにしたかつた。けれども、それは女の機嫌を取るための挨拶位で戻《もど》せるものではないと思つた。女は卒然として、 「ぢや、もう帰りませう」と云つた。厭味《いやみ》のある言ひ方《かた》ではなかつた。たゞ三四郎にとつて自分は興味のないものと諦《あきら》めた様に静《しづ》かな口調であつた。  空《そら》は又|変《かは》つて来《き》た。風が遠くから吹いてくる。広い畠《はたけ》の上《うへ》には日が限《かぎ》つて、見てゐると、寒い程淋しい。草《くさ》からあがる地意気《ぢいき》で身体《からだ》は冷《ひ》えてゐた。気が付けば、こんな所に、よく今迄べつとり坐《すは》つて居られたものだと思ふ。自分|一人《ひとり》ならとうに何所《どこ》かへ行《い》つて仕舞つたに違《ちがひ》ない。美禰子も――美禰子はこんな所へ坐《すは》る女かも知れない。 「少し寒《さ》むくなつた様ですから、兎に角立ちませう。冷えると毒だ。然し気分はもう悉皆《すつかり》直《なほ》りましたか」 「えゝ、悉皆《すつかり》直《なほ》りました」と明《あきら》かに答へたが、俄《〔にわ〕》かに立ち上《あ》がつた。立ち上《あ》がる時、小さな声で、独り言《ごと》の様に、 「|迷へる子《ストレイ、シープ》」と長く引つ張《ぱ》つて云つた。三四郎は無論答へなかつた。  美禰子は、さつき洋服を着た男の出て来《き》た方角を指《さ》して、道《みち》があるなら、あの唐辛子の傍《そば》を通つて行きたいといふ。二人《ふたり》は、その見当へ歩《ある》いて行つた。藁葺《わらぶき》の後《うしろ》に果して細《ほそ》い三尺程の路《みち》があつた。其|路《みち》を半分程|来《き》た所で三四郎は聞いた。 「よし子さんは、あなたの所へ来《く》る事に極《きま》つたんですか」  女は片頬《かたほゝ》で笑つた。さうして問返した。 「何故《なぜ》御聞きになるの」  三四郎が何か云はうとすると、足の前に泥濘《ぬかるみ》があつた。四尺許りの所、土が凹《へこ》んで水がぴた/\に溜《たま》つてゐる。其|真中《まんなか》に足掛りの為に手頃《てごろ》な石を置いたものがある。三四郎は石の扶《たすけ》を藉《か》らずに、すぐに向へ飛んだ。さうして美禰子を振り返つて見た。美禰子は右の足を泥濘《ぬかるみ》の真中《まんなか》にある石の上へ乗せた。石の据《すわ》りがあまり善《よ》くない。足《あし》へ力を入れて、肩を揺《ゆす》つて調子を取つてゐる。三四郎は此方側《こちらがは》から手を出した。 「御捕《おつか》まりなさい」 「いえ大丈夫」と女は笑つてゐる。手を出してゐる間は、調子を取る丈で渡らない。三四郎は手を引込めた。すると美禰子は石の上にある右《みぎ》の足に、身体《からだ》の重みを托して、左の足でひらりと此方側《こちらがは》へ渡つた。あまりに下駄を汚《よご》すまいと念を入れ過ぎた為め、力が余つて、腰が浮《う》いた。のめりさうに胸が前へ出る。其|勢《いきほい》で美禰子の両手が三四郎の両腕の上へ落ちた。 「|迷へる子《ストレイ、シープ》」と美禰子が口《くち》の内《うち》で云つた。三四郎は其|呼吸《いき》を感ずる事が出来た。 [#7字下げ]六の一[#「六の一」は中見出し]  号鐘《ベル》が鳴《な》つて、講師は教室から出《で》て行つた。三四郎は印気《いんき》の着いた洋筆《ペン》を振《ふ》つて、帳面《ノート》を伏《ふ》せ様とした。すると隣りにゐた与次郎が声を掛けた。 「おい一寸《ちよつと》借《か》せ。書《か》き落《おと》した所がある」  与次郎は三四郎の帳面《ノート》を引き寄せて上《うへ》から覗き込んだ。stray《ストレイ》 sheep《シープ》 といふ字が無暗《〔むやみ〕》にかいてある。 「何《なん》だこれは」 「講義を筆記するのが厭《いや》になつたから、いたづらを書いてゐた」 「さう不勉強では不可《いか》ん。カントの超絶唯心論がバークレーの超絶実在論にどうだとか云つたな」 「どうだとか云つた」 「聞いてゐなかつたのか」 「いゝや」 「全然 stray《ストレイ》 sheep《シープ》 だ。仕方がない」  与次郎は自分の帳面《ノート》を抱《かゝ》へて立ち上《あ》がつた、机の前を離れながら、三四郎に、 「おい一寸《ちよつと》来《こ》い」と云ふ。三四郎は与次郎に跟《つ》いて教室を出た。階子段を降《お》りて、玄関前の草原へ来《き》た。大きな桜がある。二人《ふたり》は其|下《した》に坐つた。  此所《こゝ》は夏の初めになると苜蓿《うまこやし》が一面に生える。与次郎が入学願書を持つて事務へ来《き》た時に、此桜の下《した》に二人《ふたり》の学生が寐転《ねころ》んでゐた。其|一人《ひとり》が一人《ひとり》に向つて、口答試験を都々逸で負けて置いて呉れると、いくらでも唄《うた》つて見せるがなと云ふと、一人《ひとり》が小《こ》声で、粋《〔すい〕》な捌《〔さば〕》きの博士の前で、恋《こひ》の試験がして見たいと唄《うた》つてゐた。其時から与次郎は此桜の木の下《した》が好《すき》になつて、何か事があると、三四郎を此所《こゝ》へ引張り出《だ》す。三四郎は其歴史を与次郎から聞いた時に、成程与次郎は俗謡で pity's《ピチーズ》 love《ラツヴ》 を訳す筈だと思つた。今日《けふ》は然し与次郎が事の外|真面目《まじめ》である。草の上に胡坐《あぐら》をかくや否や、懐中から、文芸時評といふ雑誌を出《だ》して開《あ》けた儘の一|頁《ページ》を逆《さか》に三四郎の方へ向けた。 「どうだ」と云ふ。見ると標題に大きな活字で「偉大なる暗闇《くらやみ》」とある。下《した》には零余子《〔れいよし〕》と雅号を使《つか》つてゐる。偉大なる暗闇《くらやみ》とは与次郎がいつでも広田先生を評する語で、三四郎も二三度聞かされたものである。然し零余子は全く知らん名である。どうだと云はれた時に、三四郎は、返事をする前提として一先づ与次郎の顔を見た。すると与次郎は何にも云はずに其扁平な顔を前へ出して、右の人|指《さ》し指《ゆび》の先《さき》で、自分の鼻の頭《あたま》を抑へて凝《じつ》としてゐる。向に立つてゐた一人《ひとり》の学生が、此様子を見てにや/\笑ひ出した。それに気が付いた与次郎は漸く指《ゆび》を鼻から放《はな》した。 「己《おれ》が書《か》いたんだ」と云ふ。三四郎は成程さうかと悟つた。 「僕等が菊細工を見に行く時|書《か》いてゐたのは、是《これ》か」 「いや、ありや、たつた二三日前ぢやないか。さう早く活版になつて堪《たま》るものか。あれは来月|出《で》る。これは、ずつと前に書いたものだ。何を書いたものか標題で解るだらう」 「広田先生の事か」 「うん。かうして輿論《〔よろん〕》を喚起して置いてね。さうして、先生が大学に這入れる下地《したぢ》を作《つく》る……」 「其雑誌はそんなに勢力のある雑誌か」  三四郎は雑誌の名前さへ知らなかつた。 「いや無勢力だから、実は困る」と与次郎は答へた。三四郎は微笑《わら》はざるを得なかつた。 「何部位売れるのか」  与次郎は何部売れるとも云はない。 「まあ好《い》いさ。書《か》ゝんより増しだ」と弁解してゐる。 [#7字下げ]六の二[#「六の二」は中見出し]  段々聞いて見ると、与次郎は従来から此雑誌に関係があつて、閑暇《ひま》さへあれば殆んど毎号筆を執つてゐるが、其代り雅名も毎号変へるから、二三の同人の外《ほか》、誰《だ》れも知らないんだと云ふ。成程さうだらう。三四郎は今始めて、与次郎と文壇との交渉を聞いた位のものである。然し与次郎が何の為《ため》に、悪戯《いたづら》に等しい慝名《〔とくめい〕》を用ひて、彼の所謂《〔いわゆる〕》大論文をひそかに公けにしつつあるか、其所《そこ》が三四郎には分《わか》らなかつた。  幾分か小遣取《こづかひどり》の積で、遣《や》つてゐる仕事かと無遠慮に尋ねた時、与次郎は眼《め》を丸《まる》くした。 「君は九州の田舎から出た許だから、中央文壇の趨勢を知らない為に、そんな呑気な事を云ふのだらう。今の思想界の中心に居て、その動揺のはげしい有様を目撃しながら、考のあるものが知らん顔をしてゐられるものか。実際|今日《こんにち》の文|権《けん》は全く吾〻《われ/\》青年の手にあるんだから、一言でも半句でも進んで云へる丈云はなけりや損ぢやないか。文壇は急転直下の勢で目覚しい革命を受けてゐる。凡てが悉く揺《〔うご〕》いて、新気運に向つて行くんだから、取り残されちや大変だ。進んで自分から此気運を拵《〔こし〕》らへ上《あ》げなくつちや、生きてる甲斐はない。文学々々つて安《やす》つぽい様に云ふが、そりや大学なんかで聞く文学の事だ。新らしい吾々の所謂《〔いわゆる〕》文学は、人生そのものゝ大反射だ。文学の新気運は日本全社会の活動に影響しなければならない。又現にしつゝある。彼等が昼寐をして夢を見てゐる間《ま》に、何時《いつ》か影響しつゝある。恐ろしいものだ。……」  三四郎は黙《だま》つて聞いてゐた。少し法螺の様な気がする。然し法螺でも与次郎は中々熱心に吹いてゐる。すくなくとも当人丈は至極真面目らしく見える。三四郎は大分動かされた。 「さう云ふ精神でやつてゐるのか。では君は原稿料なんか、どうでも構はんのだつたな」 「いや、原稿料は取るよ。取れる丈取る。然し雑誌が売れないから中々|寄《よ》こさない。どうかして、もう少し売れる工夫をしないと不可《いけ》ない。何か好《い》い趣向はないだらうか」と今度は三四郎に相談を掛けた。話《はなし》が急に実際問題に落ちて仕舞つた。三四郎は妙な心持がする。与次郎は平気である。号鐘《ベル》が烈しく鳴り出した。 「兎も角此雑誌を一部君にやるから読んで見てくれ。偉大なる暗闇《くらやみ》と云ふ題が面白いだらう。此|題《だい》なら人が驚ろくに極つてゐる。――驚ろかせないと読まないから駄目だ」  二人《ふたり》は玄関を上《のぼ》つて、教室へ這入つて、机に着いた。やがて先生が来《く》る。二人《ふたり》とも筆記を始めた。三四郎は「偉大なる暗闇《くらやみ》」が気にかかるので、帳面《ノート》の傍《わき》に文芸時評を開《あ》けた儘、筆記の相間《あひま》々々に、先生に知れない様に読み出した。先生は幸ひ近眼である。のみならず自己の講義のうちに全然埋没してゐる。三四郎の不心得《ふこゝろえ》には丸で関係しない。三四郎は好《い》い気になつて、此方《こつち》を筆記したり、彼方《あつち》を読んだりして行つたが、もと/\二人《ふたり》でする事を一人《ひとり》で兼《か》ねる無理な芸だから仕舞には「偉大なる暗闇《くらやみ》」も講義の筆記も双方ともに関係が解からなくなつた。たゞ与次郎の文章が一句丈|判然《はつきり》頭《あたま》へ這入つた。 「自然は宝石を作るに幾年の星霜を費やしたか。又此宝石が採掘の運に逢ふ迄に、幾年の星霜を静《しづ》かに輝《かゞ》やいてゐたか」といふ句である。其他は不得要領に終つた。其代り此時間には |stray sheep《ストレイ、シープ》 といふ字を一つも書《か》かずに済んだ。 [#7字下げ]六の三[#「六の三」は中見出し]  講義が終るや否や、与次郎は三四郎に向つて、 「どうだ」と聞いた。実はまだ善く読まないと答へると、時間の経済を知らない男だといつて非難した。是非読めといふ。三四郎は家《うち》へ帰つて是非読むと約束した。やがて午《ひる》になつた。二人《ふたり》は連《つ》れ立《だ》つて門を出た。 「今晩出席するだらうな」と与次郎が西片町へ這入《はい》る横町の角《かど》で立《た》ち留《どま》つた。今夜は同級生の懇親会がある。三四郎は忘れてゐた。漸く思ひ出《だ》して、行く積りだと答へると、与次郎は、 「出《で》る前に一寸《ちよつと》誘《さそ》つて呉れ。君に話す事がある」と云ふ。耳《みゝ》の後《うしろ》へ洋筆軸《ペンじく》を挟《はさ》んでゐる。何となく得意である。三四郎は承知した。  下宿へ帰つて、湯に入つて、好い心持になつて上《あ》がつて見ると、机の上《うへ》に絵端書がある。小川《おがは》を描《か》いて、草をもぢや/\生《は》やして、其縁《そのふち》に羊《ひつじ》を二匹|寐《ね》かして、其向ふ側《がは》に大きな男が洋杖《ステツキ》を持つて立つてゐる所を写したものである。男の顔《かほ》が甚だ獰猛に出来てゐる。全く西洋の絵にある悪魔《デヸル》を模《も》したもので、念の為め、傍《そば》にちやんとデヸルと仮名が振つてある。表は三四郎の宛名の下《した》に、迷へる子と小《ちい》さく書《か》いた許である。三四郎は迷へる子の何者かをすぐ悟つた。のみならず、端書《はがき》の裏《うら》に、迷へる子を二匹|描《か》いて、其一匹を暗に自分に見立てゝ呉れたのを甚だ嬉《うれ》しく思つた。迷へる子のなかには、美禰子のみではない、自分ももとより這入つてゐたのである。それが美禰子の思《おも》はくであつたと見える。美禰子の使つた stray《ストレイ》 sheep《シープ》 の意味が是《これ》で漸く判然した。  与次郎に約束した「偉大なる暗闇《くらやみ》」を読まうと思ふが、一寸《ちよつと》読む気にならない。しきりに絵端書を眺めて考へた。イソツプにもない様な滑稽趣味がある。無邪気にも見える。洒落でもある。さうして凡ての下《した》に、三四郎の心を動かすあるものがある。  手際《てぎは》から云つても敬服の至である。諸事明瞭に出来上てゐる。よし子の描《か》いた柿の木の比ではない。――と三四郎には思はれた。  しばらくしてから、三四郎は漸く「偉大なる暗闇《くらやみ》」を読み出した。実はふわ/\して読み出したのであるが、二三頁|来《く》ると、次第に釣り込まれる様に気が乗つてきて、知らず/\の間《ま》に、五頁六頁と進んで、ついに二十七頁の長論文を苦もなく片付けた。最後《さいご》の一句を読了した時、始めて是で仕舞だなと気が付いた。眼《め》を雑誌から離して、あゝ読んだなと思つた。  然し次《つぎ》の瞬間に、何を読んだかと考へて見ると、何にもない。可笑《おか》しい位何にもない。たゞ大いに且《〔か〕》つ熾《〔さか〕》んに読んだ気がする。三四郎は与次郎の技倆に感服した。  論文は現今の文学者の攻撃に始まつて、広田先生の讃辞に終つてゐる。ことに大学文科の西洋人を手痛く罵倒してゐる。早く適当の日本人を招聘して、大学相当の講義を開かなくつては、学問の最高府たる大学も昔の寺小屋同然の有様になつて、錬瓦石のミイラと撰ぶ所がない様になる。尤も人がなければ仕方がないが、こゝに広田先生がある。先生は十年一日の如く高等学校に教鞭を執つて、薄給と無名に甘んじて居る。然し真正の学者である。学海の新気運に貢献して、日本の活社会と交渉のある教授を担任すべき人物である。――煎じ詰めると是丈であるが、其是丈が、非常に尤もらしい口吻《〔こうふん〕》と、燦爛たる警句とによつて前後二十七頁に延長してゐる。  その中《なか》には「禿《はげ》を自慢にするものは老人に限る」とか「ヸーナスは波《なみ》から生れたが、活眼の士は大学から生れない」とか「博士を学界の名産と心得るのは、海月《くらげ》を田子の浦の名産と考へる様なものだ」とか色々面白い句が沢山ある。然しそれより外《ほか》に何にもない。殊に妙なのは、広田先生を偉大なる暗闇《くらやみ》に喩《〔たと〕》へた序に、他《ほか》の学者を丸行燈に比較して、たか/″\方二尺位の所をぼんやり照らすに過ぎない抔と、自分が広田から云はれた通りを書いてゐる。さうして、丸行燈だの雁首抔は凡て旧時代の遺物で吾々青年には全く無用であると、此間《このあひだ》の通りわざ/\断わつてある。 [#7字下げ]六の四[#「六の四」は中見出し]  能《〔よ〕》く考へて見ると、与次郎の論文には活気がある。如何にも自分|一人《ひとり》で新日本を代表してゐる様であるから、読んでゐるうちは、つい其気になる。けれども全く味《み》がない。根拠地のない戦争の様なものである。のみならず悪《わる》く解釈すると、政略的の意味もあるかも知れない書方《かきかた》である。田舎|者《もの》の三四郎にはてつきり其所《そこ》と気取《けど》る事は出来なかつたが、たゞ読んだあとで、自分の心を探《さぐ》つて見て何所《どこ》かに不満足がある様に覚えた。また美禰子の絵端書を取つて、二匹の羊と例の悪魔《デヸル》を眺め出した。すると、此方《こつち》のほうは万事が快感である。此快感につれて前の不満足は益|著《いちぢる》しくなつた。それで論文の事はそれぎり考へなくなつた。美禰子に返事を遣《や》らうと思ふ。不幸にして絵がかけない。文章にしやうと思ふ。文章なら此絵端書に匹敵する文句でなくつては不可《いけ》ない。それは容易に思ひ付《つ》けない。愚図々々してゐるうちに四時過になつた。  袴を着けて、与次郎を誘《さそ》ひに、西片町へ行く。勝手|口《ぐち》から這入ると、茶の間《ま》に、広田先生が小さな食卓を控へて、晩食《ばんめし》を食つてゐた。傍《そば》に与次郎が畏《かしこ》まつて御給仕をしてゐる。 「先生|何《ど》うですか」と聞いてゐる。  先生は何か硬《かた》いものを頬張つたらしい。食卓の上《うへ》を見ると、袂《たもと》時計程な大きさの、赤くつて黒くつて、焦《こ》げたものが十ばかり皿の中《なか》に並んでゐる。  三四郎は座に着いた。礼をする。先生は口《くち》をもが/\させる。 「おい君も一つ食《く》つて見ろ」と与次郎が箸《はし》で撮《つま》んで出《だ》した。掌《てのひら》へ載せて見ると、馬鹿貝の剥身《むきみ》の干《ほ》したのをつけ焼《やき》にしたのである。 「妙なものを食《く》ふな」と聞くと、 「妙なものつて、旨《うま》いぜ食《く》つて見ろ。是《これ》はね、僕がわざ/\先生に見舞《みやげ》に買つて来《き》たんだ。先生はまだ、これを食《く》つた事がないと仰《おつ》しやる」 「何所《どこ》から」 「日本橋から」  三四郎は可笑《おか》しくなつた。かう云ふ所になると、さつきの論文の調子とは少し違ふ。 「先生、どうです」 「硬《かた》いね」 「硬《かた》いけれども旨《うま》いでせう。よく噛《か》まなくつちや不可《いけ》ません。噛《か》むと味《あぢ》が出《で》る」 「味《あぢ》が出《で》る迄|噛《か》んでゐちや、歯《は》が疲れて仕舞ふ。何でこんな古風なものを買つて来《き》たものかな」 「不可《いけ》ませんか。こりや、ことによると先生には駄目かも知れない。里見の美禰子さんなら可《い》いだらう」 「何故《なぜ》」と三四郎が聞いた。 「あゝ落ち付いてゐりや、味《あぢ》の出《で》る迄屹度|噛《か》んでるに違ない」 「あの女は落ち付いて居て、乱暴だ」と広田が云つた。 「えゝ乱暴です。イブセンの女の様な所がある」 「イブセンの女は露骨だが、あの女は心《しん》が乱暴だ。尤も乱暴と云つても、普通の乱暴とは意味が違《ちが》ふが。野々宮の妹の方が、一寸見ると乱暴の様で、矢っ張り女らしい。妙なものだね」 「里見のは乱暴の内訌《〔ないこう〕》ですか」  三四郎は黙つて二人《ふたり》の批評を聞いてゐた。何方《どつち》の批評も腑に落ちない。乱暴といふ言葉が、どうして美禰子の上に使《つか》へるか、それからが第一不思議であつた。 [#7字下げ]六の五[#「六の五」は中見出し]  与次郎はやがて、袴《はかま》を穿《は》いて、改まつて出て来《き》て、 「一寸《ちよつと》行《い》つて参ります」と云ふ。先生は黙《だま》つて茶を飲んでゐる。二人《ふたり》は表へ出《で》た。表《おもて》はもう暗《くら》い。門を離れて二三間|来《く》ると、三四郎はすぐ話しかけた。 「先生は里見の御嬢さんを乱暴だと云つたね」 「うん。先生は勝手な事をいふ人だから、時と場合によると何でも云ふ。第一先生が女を評するのが滑稽だ。先生の女に於る知識は恐らく零《れい》だらう。ラツヴをした事がないものに女が分《わか》るものか」 「先生はそれで可《い》いとして、君は先生の説に賛成したぢやないか」 「うん乱暴だと云つた。何是《なぜ》」 「何《ど》う云ふ所を乱暴と云ふのか」 「何《ど》う云ふ所も、斯《〔こ〕》う云ふ所もありやしない。現代の女性はみんな乱暴に極つてる。あの女ばかりぢやない」 「君はあの人をイブセンの人物に似てゐると云つたぢやないか」 「云つた」 「イブセンの誰《だれ》に似て居る積なのか」 「誰《だれ》つて……似てゐるよ」  三四郎は無論納得しない。然し追窮もしない。黙《だま》つて一間|許《〔ばかり〕》歩《ある》いた。すると突然与次郎がかう云つた。 「イブセンの人物に似てゐるのは里見の御嬢さん許ぢやない、今の一般の女性はみんな似てゐる。女性ばかりぢやない。苟《〔いや〕》しくも新らしい空気に触れた男はみんなイブセンの人物に似た所がある。たゞ男も女もイブセンの様に自由行動を取らない丈だ。腹のなかでは大抵かぶれてゐる」 「僕はあんまり、かぶれてゐない」 「ゐないと自《みづか》ら欺《〔あざ〕》むいてゐるのだ。――どんな社会だつて陥欠のない社会はあるまい」 「それは無《な》いだらう」 「無いとすれば、その中《なか》に生息してゐる動物は何所《どこ》かに不足を感《かん》じる訳だ。イブセンの人物は、現代社会制度の陥欠を尤も明らかに感じたものだ。吾々も追々あゝ成《な》つて来《く》る」 「君はさう思ふか」 「僕ばかりぢやない。具眼の士はみんなさう思つてゐる」 「君の家《うち》の先生もそんな考か」 「うちの先生? 先生は解《わか》らない」 「だつて、先刻《さつき》里見さんを評して、落ち付いてゐて乱暴だと云つたぢやないか。それを解釈して見ると、周囲に調和して行けるから、落ち付いてゐられるので、何所《どこ》かに不足があるから、底《そこ》の方が乱暴だと云ふ意味ぢやないのか」 「成程。――先生は偉《えら》い所があるよ。あゝいふ所へ行くと矢っ張り偉《えら》い」と与次郎は急に広田先生を賞《ほ》め出した。三四郎は美禰子の性格に就てもう少し議論の歩を進めたかつたのだが、与次郎の此一言で全くはぐらかされて仕舞つた。すると与次郎が云つた。 「実は今日《けふ》君に用があると云つたのはね。――うん、夫より前に、君あの偉大なる暗闇《くらやみ》を読んだか。あれを読んで置かないと僕の用事が頭《あたま》へ這入り悪《にく》い」 「今日《けふ》あれから家《うち》へ帰つて読《よ》んだ」 「どうだ」 「先生は何と云つた」 「先生は読むものかね。丸で知りやしない」 「さうさな。面白い事は面白いが、――何だか腹の足《たし》にならない麦酒《ビール》を飲んだ様だね」 「それで沢山だ。読んで景気が付きさへすれば可《い》い。だから慝名にしてある。どうせ今は準備時代だ。かうして置いて、丁度|宜《〔い〕》い時分に、本名を名乗つて出《で》る。――夫《それ》は夫《それ》として、先刻《さつき》の用事を話して置かう」 [#7字下げ]六の六[#「六の六」は中見出し]  与次郎の用事といふのは斯《か》うである。――今夜の会で自分達の科の不振の事をしきりに慨嘆するから、三四郎も一所に慨嘆しなくつては不可《いけ》ないんださうだ。不振は事実であるから外《ほか》のものも慨嘆するに極つてゐる。それから、大勢《おほぜい》一所に挽回策を講ずる事となる。何しろ適当な日本人を一人《ひとり》大学へ入れるのが急務だと云ひ出《だ》す。みんなが賛成する。当然だから賛成するのは無論だ。次に誰《だれ》が好《よ》からうといふ相談に移る。其時広田先生の名を持ち出す。其時三四郎は与次郎に口を添えて極力先生を賞賛しろと云ふ話《はなし》である。さうしないと、与次郎が広田の食客《ゐさうらふ》だといふ事を知つてゐるものが疑《うたがひ》を起さないとも限らない。自分は現《げん》に食客《ゐさうらふ》なんだから、どう思はれても構はないが、万一煩ひが広田先生に及ぶ様では済まん事になる。尤も外に同志が三四人はゐるから、大丈夫だが、一人《ひとり》でも味方は多い方が便利だから、三四郎も成るべく嘵舌《しやべ》るに若《〔し〕》くはないとの意見である。偖愈《〔さていよいよ〕》衆議一決の暁には、総代を撰んで学長の所へ行く、又総長の所へ行く。尤も今夜中に其所迄《そこまで》は運ばないかも知れない。又運ぶ必要もない。其辺は臨機応変である。……  与次郎は頗る能弁である。惜しい事に其能弁がつる/\してゐるので重みがない。ある所へ行くと冗談を真面目《まじめ》に講釈してゐるかと疑はれる。けれども本来が性質《たち》の好《い》い運動だから、三四郎も大体の上《うへ》に於て賛成の意を表した。たゞ其方法が少しく細工に落ちて面白くないと云つた。其時与次郎は往来の真中《まんなか》へ立ち留つた。二人《ふたり》は丁度森川町の神社の鳥居の前にゐる。 「細工に落ちると云ふが、僕のやる事は、自然の手順が狂はない様にあらかじめ人力《じんりよく》で装置をする丈だ。自然に背いた没分暁《〔ぼつぶんぎょう〕》の事を企てるのとは質《たち》が違ふ。細工だつて構はん。細工が悪《わる》いのではない。悪《わる》い細工が悪《わる》いのだ」  三四郎はぐうの音《ね》も出《で》なかつた。何だか文句がある様だけれども、口《くち》へ出《で》て来ない。与次郎の言草《いひぐさ》のうちで、自分がいまだ考へてゐなかつた部分丈が判然《はつきり》頭《あたま》へ映《うつ》つてゐる。三四郎は寧ろ其方に感服した。 「それもさうだ」と頗る曖昧な返事をして、又肩を並べて歩《ある》き出《だ》した。正門を這入ると、急に眼《め》の前《まへ》が広くなる。大きな建物が所々《ところ/″\》に黒く立つてゐる。其|屋根《やね》が判然《はつきり》尽きる所《ところ》から明《あきら》かな空《そら》になる。星が夥《〔おびただ〕》しく多い。 「うつくしい空《そら》だ」と三四郎が云つた。与次郎も空《そら》を見ながら、一間|許《〔ばかり〕》歩《ある》いた。突然、 「おい、君」と三四郎を呼んだ。三四郎は又さつきの話しの続《つゞ》きかと思つて、「なんだ」と答へた。 「君、かう云ふ空《そら》を見て何《ど》んな感じを起す」  与次郎に似合はぬ事を云つた。無限とか永久とかいふ持ち合せの答へはいくらでもあるが、そんな事を云ふと与次郎に笑はれると思つて、三四郎は黙《だま》つてゐた。 「詰らんなあ我々は。あしたから、斯《〔こ〕》んな運動をするのはもう已めにしやうか知ら。偉大なる暗闇を書いても何の役にも立ちさうにもない」 「何故《なぜ》急にそんな事を云ひ出《だ》したのか」 「此|空《そら》を見ると、さう云ふ考になる。――君、女に惚れた事があるか」  三四郎は即答が出来なかつた。 「女は恐ろしいものだよ」と与次郎が云つた。 「恐ろしいものだ、僕も知つてゐる」と三四郎も云つた。すると与次郎が大きな声で笑ひ出した。静かな夜《よる》の中《なか》で大変高く聞える。 「知りもしない癖に。知りもしない癖に」  三四郎は憮然としてゐた。 「明日《あす》も好《い》い天気だ。運動会は仕合せだ。奇麗な女が沢山|来《く》る。是非見にくるがいゝ」  暗《くら》い中《なか》を二人《ふたり》は学生集会所の前迄|来《き》た。中《なか》には電燈が輝やいてゐる。 [#7字下げ]六の七[#「六の七」は中見出し]  木造《もくぞう》の廊下を回《まは》つて、部屋《へや》へ這入ると、早く来《き》たものは、もう塊《かた》まつてゐる。其|塊《かたま》りが大きいのと小《ちい》さいのと合《あは》せて三つ程ある。中《なか》には無言で備付《そなへつけ》の雑誌や新聞を見ながら、わざと列を離れてゐるのもある。話《はなし》は方々《ほう/″\》に聞える。話の数《かず》は塊《かた》まりの数より多い様に思はれる。然し割合に落付いて静かである。烟草《たばこ》の烟《けむり》の方が猛烈に立ち上《のぼ》る。  其中《そのうち》だん/\寄《よ》つて来《く》る。黒い影《かげ》が闇《やみ》の中《なか》から吹き曝《さら》しの廊下の上《うへ》へ、ぽつりと現はれると、それが一人《ひとり》々々に明《あか》るくなつて、部屋の中《なか》へ這入つて来《く》る。時《とき》には五六人|続《つゞ》けて、明《あか》るくなる事もある。やがて人数は略《ほゞ》揃つた。  与次郎は、さつきから、烟草の烟《けむ》りの中《なか》を、しきりに彼方此方《あちこち》と往来してゐた。行《ゆ》く所で何か小声に話《はな》してゐる。三四郎は、そろ/\運動を始めたなと思つて眺めて居た。  しばらくすると幹事が大きな声で、みんなに席へ着けと云ふ。食卓は無論前から用意が出来てゐた。みんな、ごた/\に席へ着いた。順序も何もない。食事は始まつた。  三四郎は熊本で赤酒許《あかざけばか》り飲んでゐた。赤酒《あかざけ》といふのは、所《ところ》で出来《でき》る下等な酒である。熊本の学生はみんな赤酒《あかざけ》を呑む。それが当然と心得てゐる。たま/\飲食店へ上《あ》がれば牛肉屋である。その牛肉屋の牛が馬肉かも知れないといふ嫌疑がある。学生は皿に盛つた肉を手攫《てづか》みにして、座敷の壁《かべ》へ抛《たゝ》き付ける。落ちれば牛肉で、貼付《ひつつ》けば馬肉だといふ。丸で呪《まじなひ》見た様な事をしてゐた。其三四郎に取つて、かう云ふ紳士的な学生親睦会は珍らしい。悦《よろこ》んで肉刀《ナイフ》と肉叉《フオーク》を動かしてゐた。其|間《あひだ》には麦酒《ビール》をさかんに飲んだ。 「学生集会所の料理は不味《まづ》いですね」と三四郎の隣りに坐つた男が話しかけた。此男は頭《あたま》を坊主に刈つて、金縁《きんぶち》の眼鏡《めがね》を掛けた大人しい学生であつた。 「さうですな」と三四郎は生《なま》返事をした。相手が与次郎なら、僕の様な田舎者《いなかもの》には非常に旨《うま》いと正直な所をいふ筈であつたが、其正直が却つて皮肉に聞えると悪《わる》いと思つて已めにした。すると其男が、 「君は何所《どこ》の高等学校ですか」と聞き出した。 「熊本です」 「熊本ですか。熊本には僕の従弟も居たが、随分ひどい所ださうですね」 「野蛮な所です」  二人《ふたり》が話してゐると、向《むか》ふの方で、急に高い声がし出した。見ると与次郎が隣席の二三|人《にん》を相手に、しきりに何か弁じてゐる。時々《とき/″\》ダーター、フアブラと云ふ。何の事だか分らない。然し与次郎の相手は、此言葉を聞くたびに笑ひ出《だ》す。与次郎は益得意になつて、ダーター、フアブラ我々新時代の青年は……とやつてゐる。三四郎の筋向に坐《すは》つてゐた色の白い品の好《い》い学生が、しばらく肉刀《ナイフ》の手を休《や》めて、与次郎の連中を眺めてゐたが、やがて笑ひながら、Il《イル》 a《ア》 le《ル》 diable《デイアブル》 au《オー》 corps《コル》(悪魔が乗り移つてゐる)と冗談半分に仏蘭西《〔フランス〕》語を使つた。向ふの連中には全く聞えなかつたと見えて、此時|麦酒《ビール》の洋盃《コツプ》が四つ許《ばか》り一度に高く上《あ》がつた。得意さうに祝盃を挙げてゐる。 「あの人は大変賑やかな人ですね」と三四郎の隣《とな》りの金縁眼鏡を掛けた学生が云つた。 「えゝ。よく嘵舌《しやべり》ます」 「僕はいつか、あの人に淀見軒でライスカレーを御馳走になつた。丸で知らないのに、突然|来《き》て君淀見軒へ行かうつて、とう/\引張つて行つて……」  学生はハヽヽと笑つた。三四郎は、淀見軒で与次郎からライスカレーを御馳走になつたものは自分ばかりではないんだなと悟つた。 [#7字下げ]六の八[#「六の八」は中見出し]  やがて咖啡《〔コーヒー〕》が出《で》る。一人《ひとり》が椅子を離れて立つた。与次郎が烈《はげ》しく手を敲《たゝ》くと、他《ほか》のものも忽《〔たちま〕》ち調子を合せた。  立つたものは、新らしい黒の制服を着て、鼻の下《した》にもう髭《ひげ》を生《は》やしてゐる。脊《せい》が頗る高い。立つには恰好の好《い》い男である。演説めいた事を始めた。  我々が今夜|此所《こゝ》へ寄つて、懇親の為めに、一夕の歓をつくすのは、それ自身に於て愉快な事であるが、此懇親が単に社交上の意味ばかりでなく、それ以外に一種重要な影響を生じ得ると偶然ながら気が付いたら自分は立ちたくなつた。此会合は麦酒《ビール》に始つて咖啡に終つてゐる。全く普通の会合である。然し此|麦酒《ビール》を飲んで咖啡を飲んだ四十人近くの人間は普通の人間ではない。しかも其|麦酒《ビール》を飲み始めてから咖啡を飲み終る迄の間に既に自己の運命の膨脹を自覚し得た。  政治の自由を説いたのは昔の事である。言論の自由を説いたのも過去の事である。自由とは単に是等の表面にあらはれ易い事実の為めに専有されべき言葉ではない。吾等新時代の青年は偉大なる心の自由を説かねばならぬ時運に際会したと信ずる。  吾々は旧《ふる》き日本の圧迫に堪へ得ぬ青年である。同時に新らしき西洋の圧迫にも堪へ得ぬ青年であるといふ事を、世間に発表せねば居られぬ状況の下《もと》に生きて居る。新らしき西洋の圧迫は社会の上に於ても文芸の上《うへ》に於ても、我等新時代の青年に取つては旧き日本の圧迫と同じく、苦痛である。  我々は西洋の文芸を研究するものである。然し研究は何所《どこ》迄も研究である。その文芸のもとに屈従するのとは根本的に相違がある。我々は西洋の文芸に囚はれんが為に、これを研究するのではない。囚はれたる心を解脱せしめんが為に、これを研究してゐるのである。此方便に合《〔がっ〕》せざる文芸は如何なる威圧の下《もと》に強ひらるゝとも学ぶ事を敢《〔あえ〕》てせざるの自信と決心とを有して居る。  我々は此自信と決心とを有するの点に於て普通の人間とは異つてゐる。文芸は技術でもない、事務でもない。より多く人生の根本義に触れた社会の原動力である。我々は此意味に於て文芸を研究し、此意味に於て如上《〔じょじょう〕》の自信と決心とを有し、此意味に於て今夕の会合に一般以上の重大なる影響を想見するのである。  社会は烈しく揺《うご》きつゝある。社会の産物たる文芸もまた揺きつゝある。揺《うご》く勢《いきほひ》に乗じて、我々の理想通りに文芸を導くためには、零砕なる個人を団結して、自己の運命を充実し発展し膨脹しなくてはならぬ。今夕の麦酒《ビール》と咖啡は、かゝる隠れたる目的を、一歩|前《まへ》に進めた点に於て、普通の麦酒《ビール》と咖啡よりも百倍以上の価ある貴とき麦酒と咖啡である。  演説の意味はざつと斯《〔こ〕》んなものである。演説が済んだ時、席に在つた学生は悉く喝采した。三四郎は尤も熱心なる喝采者の一人《ひとり》であつた。すると与次郎が突然立つた。 「ダーターフアブラ、沙翁《シエクスピヤ》の使つた字数《じかず》が何万字だの、イブセンの白髪《しらが》の数《かず》が何千|本《ぼん》だのと云つてたつて仕方がない。尤もそんな馬鹿げた講義を聞いたつて囚はれる気|遣《づかひ》はないから大丈夫だが、大学に気の毒で不可《いけ》ない。どうしても新時代の青年を満足させる様な人間を引張つて来《こ》なくつちや。西洋人ぢや駄目だ。第一幅が利かない。……」  満堂は又悉く喝采した。さうして悉く笑つた。与次郎の隣りにゐたものが、 「ダーターフアブラの為に祝盃を挙げやう」と云ひ出した。さつき演説をした学生がすぐに賛成した。生憎|麦酒《ビール》がみな空《から》である。よろしいと云つて与次郎はすぐ台所の方へ馳けて行つた。給仕が酒を持つて出る。祝盃を挙げるや否や、 「もう一つ。今度は偉大なる暗闇《くらやみ》の為に」と云つたものがある。与次郎の周囲にゐたものは声を合して、アハヽヽヽと笑つた。与次郎は頭《あたま》を掻《か》いてゐる。  散会の時刻が来《き》て、若い男がみな暗《くら》い夜《よる》の中《なか》に散つた時に、三四郎が与次郎に聞いた。 「ダーターフアブラとは何の事だ」 「希臘《ギリシヤ》語だ」  与次郎はそれより外《ほか》に答へなかつた。三四郎も夫より外《ほか》に聞かなかつた。二人《ふたり》は美《うつく》しい空《そら》を戴いて家《いへ》に帰つた。 [#7字下げ]六の九[#「六の九」は中見出し]  あくる日は予想の如く好天気である。今年《ことし》は例年より気候がずつと緩《ゆる》んでゐる。殊更|今日《けふ》は暖《あたゝ》かい。三四郎は朝《あさ》のうち湯に行つた。閑人《ひまじん》の少《すく》ない世の中《なか》だから、午前は頗《すこぶ》る空《す》いてゐる。三四郎は板《いた》の間《ま》に懸《か》けてある三越呉服店の看板を見た。奇麗な女が画《か》いてある。其女の顔が何所《どこ》か美禰子に似てゐる。能く見ると眼付《めつき》が違《ちが》つてゐる。歯並《はならび》が分《わか》らない。美禰子の顔で尤も三四郎を驚《おどろ》かしたものは眼付《めつき》と歯並《はならび》である。与次郎の説によると、あの女は反《そ》つ歯《ぱ》の気味だから、あゝ始終|歯《は》が出るんださうだが、三四郎には決してさうは思へない。……  三四郎は湯に浸《つか》つてこんな事を考へてゐたので、身体《からだ》の方はあまり洗《あら》はずに出《で》た。昨夕《ゆふべ》から急に新時代の青年といふ自覚が強くなつたけれども、強いのは自覚丈で、身体《からだ》の方は元《もと》の儘である。休《やすみ》になると他《ほか》のものよりずつと楽にしてゐる。今日《けふ》は午《ひる》から大学の陸上運動会を見に行く気である。  三四郎は元来あまり運動|好《ず》きではない。国《くに》に居るとき兎狩《うさぎがり》を二三度した事がある。それから高等学校の端艇《〔ボート〕》競争のときに旗振《はたふり》の役を勤めた事がある。其時青と赤と間違へて振つて大変苦情が出た。尤も決勝の鉄砲を打つ掛《かゝ》りの教授が鉄砲を打ち損《そく》なつた。打つには打つたが音《おと》がしなかつた。これが三四郎の狼狽《あはて》た源因である。それより以来三四郎は運動会へ近づかなかつた。然し今日《けふ》は上京以来始めての競技会だから是非|行《い》つて見る積である。与次郎も是非行つて見ろと勧めた。与次郎の云ふ所によると競技より女の方が見に行く価値があるのださうだ。女のうちには野々宮さんの妹がゐるだらう。野々宮さんの妹と一所に美禰子もゐるだらう。其所《そこ》へ行つて、今日《こんち》はとか何とか挨拶をして見たい。  午過《ひるすぎ》になつたから出掛けた。会場の入口《いりぐち》は運動場の南の隅にある。大きな日の丸と英吉利の国旗が交叉してある。日の丸は合点が行くが、英吉利の国旗は何の為だか解《わか》らない。三四郎は日英同盟の所為《せゐ》かとも考へた。けれども日英同盟と大学の陸上運動会とはどう云ふ関係があるか、頓《〔とん〕》と見当が付かなかつた。  運動場は長方形の芝生である。秋が深いので芝の色が大分|褪《さ》めてゐる。競技を看る所は西側にある。後《うし》ろに大きな築山《つきやま》を一杯に控へて、前は運動場の柵《さく》で仕切られた中《なか》へ、みんなを追ひ込む仕掛《しかけ》になつてゐる。狭い割に見物人が多いので甚だ窮屈である。幸ひ日和が好《い》いので寒くはない。然し外套を着てゐるものが大分ある。其代り傘をさして来た女もある。  三四郎が失望したのは婦人席が別になつてゐて、普通の人間には近寄れない事であつた。それからフロツクコートや何か着た偉《えら》さうな男が沢山集まつて、自分が存外幅の利かない様に見えた事であつた。新時代の青年を以て自《みづ》から居る三四郎は少し小さくなつてゐた。それでも人《ひと》と人《ひと》の間《あひだ》から婦人席の方を見渡す事は忘れなかつた。横からだから能《〔よ〕》く見えないが、此所《こゝ》は流石《さすが》に奇麗である。悉く着飾つてゐる。其上遠距離だから顔《かほ》がみんな美くしい。その代り誰《だれ》が目立つて美くしいといふ事もない。只総体が総体として美くしい。女が男を征服する色である。甲の女が乙の女に打ち勝つ色ではなかつた。そこで三四郎は又失望した。然し注意したら、何所《どこ》かにゐるだらうと思つて、能く見渡すと、果して前列の一番柵に近い所に二人《ふたり》並んでゐた。 [#7字下げ]六の十[#「六の十」は中見出し]  三四郎は眼《め》の着《つ》け所が漸く解《わか》つたので、先《ま》づ一段落|告《つ》げた様な気で、安心してゐると、忽《〔たちま〕》ち五六人の男が眼《め》の前に飛んで出《で》た。二百メートルの競走が済んだのである。決勝点は美禰子とよし子が坐《すは》つてゐる真正面《ましようめん》で、しかも鼻《はな》の先《さき》だから、二人《ふたり》を見詰めてゐた三四郎の視線のうちには是非共|是等《これら》の壮漢《〔そうかん〕》が這入つて来《く》る。五六人はやがて十二三人に殖えた。みんな呼吸《いき》を喘《はず》ませてゐる様に見える。三四郎は是等の学生の態度と自分の態度とを比《くら》べて見て、其相違に驚ろいた。どうして、あゝ無分別に走《か》ける気になれたものだらうと思つた。然し婦人連は悉く熱心に見てゐる。そのうちでも美禰子とよし子は尤も熱心らしい。三四郎は自分も無分別に走《か》けて見たくなつた。一番に到着したものが、紫の猿股《さるまた》を穿《は》いて婦人席の方を向いて立つてゐる。能く見ると昨夜《ゆふべ》の親睦会で演説をした学生に似てゐる。あゝ脊《せい》が高くては一番になる筈である。計測掛が黒板に二十五秒七四と書いた。書き終つて、余りの白墨を向《むかふ》へ抛《な》げて、此方《こつち》をむいた所を見ると野々宮さんであつた。野々宮さんは何時《いつ》になく真黒なフロツクを着《き》て、胸に掛《かゝり》員の徽章を付《つ》けて、大分《だいぶ》人品が宜《い》い。手帛《ハンケチ》を出して、洋服の袖《そで》を二三度はたいたが、やがて黒板を離れて、芝生の上を横切つて来《き》た。丁度美禰子とよし子の坐《すは》つてゐる真前《まんまへ》の所へ出《で》た。低い柵の向側から首《くび》を婦人席の中《なか》へ延《の》ばして、何か云つてゐる。美禰子は立つた。野々宮さんの所迄|歩《ある》いて行く。柵の向《むか》ふと此方《こちら》で話《はな》しを始めた様に見える。美禰子は急に振り返つた。嬉しさうな笑《わらひ》に充ちた顔である。三四郎は遠くから一生懸命に二人《ふたり》を見守つてゐた。すると、よし子が立つた。又柵の傍《そば》へ寄つて行く。二人《ふたり》が三人《さんにん》になつた。芝生の中《なか》では砲丸|抛《なげ》が始つた。  砲丸抛程腕の力の要《い》るものはなからう。力の要《い》る割に是程面白くないものも沢山《たんと》ない。たゞ文字通り砲丸を抛げるのである。芸でも何でもない。野々宮さんは柵の所で、一寸《ちよつと》此様子を見て笑つてゐた。けれども見物の邪魔になると悪《わる》いと思つたのであらう。柵を離れて芝生の中《なか》へ引き取つた。二人《ふたり》の女も元の席へ復《ふく》した。砲丸は時々《とき/″\》抛《な》げられてゐる。第一どの位遠く迄行くんだか殆んど三四郎には分《わか》らない。三四郎は馬鹿々々しくなつた。それでも我慢して立つてゐた。漸やくの事で片《かた》が付いたと見えて、野々宮さんは又黒板へ十一メートル三八と書いた。  それから又競走があつて、長飛《ながとび》があつて、其次には槌《つち》抛げが始まつた。三四郎は此|槌抛《つちなげ》に至つて、とう/\辛抱が仕切《しき》れなくなつた。運動会は各自《めい/\》勝手に開《ひら》くべきものである。人に見せべきものではない。あんなものを熱心に見物する女は悉く間違つてゐると迄思ひ込んで、会場を抜《ぬ》け出《だ》して、裏《うら》の築山の所迄来た。幕《まく》が張つてあつて通れない。引き返して砂利の敷いてある所を少《すこ》し来《く》ると、会場から逃げた人がちらほら歩《ある》いてゐる。盛装した婦人も見える。三四郎は又右へ折れて、爪先上《つまさきのぼ》りを岡の頂点《てつぺん》迄来た。路《みち》は頂点《てつぺん》で尽きてゐる。大きな石がある。三四郎は其上へ腰を掛けて、高い崖《がけ》の下にある池を眺めた。下《した》の運動会場でわあといふ多勢の声がする。  三四郎はおよそ五分|許《〔ばかり〕》石へ腰を掛けた儘ぼんやりしてゐた。やがて又動く気になつたので腰を上《あ》げて、立ちながら、靴の踵《かゝと》を向け直すと、岡の上《のぼ》り際《ぎは》の、薄《うす》く色づいた紅葉《もみぢ》の間《あひだ》に、先刻《さつき》の女の影が見えた。並《なら》んで岡の裾《すそ》を通る。 [#7字下げ]六の十一[#「六の十一」は中見出し]  三四郎は上《うへ》から、二人《ふたり》を見下《みおろ》してゐた。二人《ふたり》は枝の隙《すき》から明《あき》らかな日向《ひなた》へ出《で》て来《き》た。黙《だま》つてゐると、前を通り抜《ぬ》けて仕舞ふ。三四郎は声を掛けやうかと考へた。距離があまり遠過ぎる。急いで二三歩芝の上を裾《すそ》の方へ下《お》りた。下《お》り出《だ》すと好《い》い具合に女の一人《ひとり》が此方《こつち》を向《む》いて呉れた。三四郎はそれで留《とま》つた。実は此方《こちら》からあまり御機嫌を取りたくない。運動会が少し癪に障つてゐる。 「あんな所《ところ》に……」とよし子が云ひ出《だ》した。驚ろいて笑つてゐる。この女はどんな陳腐なものを見ても珍《めづ》らしさうな眼付《めつき》をする様に思はれる。其代り、如何《いか》な珍《めづ》らしいものに出逢つても、やはり待ち受けてゐた様な眼付《めつき》で迎へるかと想像される。だから此女に逢《あ》ふと重苦《おもくる》しい所が少しもなくつて、しかも落ち付いた感じが起る。三四郎は立つた儘、これは全く、この大きな、常に濡れてゐる、黒い眸《ひとみ》の御蔭だと考へた。  美禰子も留《とま》つた。三四郎を見た。然し其|眼《め》は此時《このとき》に限《かぎ》つて何物をも訴へてゐなかつた。丸で高い木を眺める様な眼《め》であつた。三四郎は心の裡《うち》で、火の消えた洋燈《ランプ》を見る心持がした。元《もと》の所に立ちすくんでゐる。美禰子も動かない。 「何故《なぜ》競技を御覧にならないの」とよし子が下《した》から聞いた。 「今迄見てゐたんですが、詰《つま》らないから已《や》めて来《き》たのです」  よし子は美禰子を顧みた。美禰子はやはり顔色《かほいろ》を動かさない。三四郎は、 「夫《それ》より、あなた方《がた》こそ何故《なぜ》出《で》て来《き》たんです。大変熱心に見て居たぢやありませんか」と当《あて》た様な当《あて》ない様な事を大きな声で云つた。美禰子は此時始めて、少し笑つた。三四郎には其|笑《わら》ひの意味が能《よ》く分《わか》らない。二|歩《ほ》ばかり女の方に近付《ちかづ》いた。 「もう家《うち》へ帰るんですか」  女は二人《ふたり》とも答へなかつた。三四郎は又二歩ばかり女の方へ近付《ちかづ》いた。 「何所《どこ》かへ行《ゆ》くんですか」 「えゝ、一寸《ちよつと》」と美禰子が小《ちい》さな声で云ふ。よく聞《きこ》えない。三四郎はとう/\女の前迄|下《お》りて来《き》た。しかし何所《どこ》へ行くとも追窮もしないで立つてゐる。会場の方で喝采の声が聞える。 「高飛《たかとび》よ」とよし子が云ふ。「今度は何メートルになつたでせう」  美禰子は軽く笑《わら》つた許である。三四郎も黙《だま》つてゐる。三四郎は高飛《たかとび》に口《くち》を出《だ》すのを屑《いさぎよ》しとしない積である。すると美禰子が聞いた。 「此上《このうへ》には何か面白いものが有《あ》つて?」  此上《このうへ》には石があつて、崖《がけ》がある許《ばか》りである。面白いものがあり様筈がない。 「何にもないです」 「さう」と疑《うたがひ》を残《のこ》した様に云つた。 「一寸《ちよいと》上《あ》がつて見ませうか」とよし子が、快《こゝろよ》く云ふ。 「あなた、まだ此所《こゝ》を御存じないの」と相手の女は落ち付いて出《で》た。 「宜《い》いから入《いら》つしやいよ」  よし子は先《さき》へ上《のぼ》る。二人《ふたり》は又|跟《つ》いて行つた。よし子は足《あし》を芝生の端《はし》迄出して、振り向きながら、 「絶壁ね」と大袈裟な言葉を使つた。「サツフオーでも飛び込みさうな所ぢやありませんか」  美禰子と三四郎は声を出して笑つた。其癖三四郎はサツフオーがどんな所から飛び込んだか能く知らなかつた。 「あなたも飛び込んで御覧なさい」と美禰子が云ふ。 「私《わたくし》? 飛び込みませうか。でも余《あん》まり水《みづ》が汚《きた》ないわね」と云ひながら、此方《こつち》へ帰つて来《き》た。  やがて女|二人《ふたり》の間に用談が始つた。 「あなた、入《〔い〕》らしつて」と美禰子がいふ。 「えゝ。あなたは」とよし子がいふ。 「何《ど》うしませう」 「どうでも。なんなら私《わたし》一寸《ちよつと》行《い》つてくるから、此所《こゝ》に待つて入《い》らつしやい」 「さうね」  中々|片付《かたづ》かない。三四郎が聞いて見ると、よし子が病院の看護婦の所へ、序だから、一寸礼に行つてくるんだと云ふ。美禰子は此夏自分の親戚が入院してゐた時|近付《ちかづき》になつた看護婦を訪《たづ》ねれば訪《たづ》ねるのだが、是《これ》は必要でも何でもないのださうだ。 [#7字下げ]六の十二[#「六の十二」は中見出し]  よし子は、素直に気の軽い女だから、仕舞にすぐ帰つて来《き》ますと云ひ捨てゝ、早足《はやあし》に一人《ひとり》丘《をか》を下《お》りて行つた。止《と》める程の必要もなし、一所に行く程の事件でもないから、二人《ふたり》は自然《しぜん》後《あと》に遺《のこ》る訳になつた。二人《ふたり》の消極な態度から云へば、遺《のこ》るといふより、遺《のこ》されたかたちにもなる。  三四郎は又石に腰を掛けた。女は立つてゐる。秋の日は鏡《かゞみ》の様に濁《にご》つた池の上《うへ》に落ちた。中《なか》に小《ちい》さな島《しま》がある。島《しま》にはたゞ二本の樹《き》が生《は》えてゐる。青い松と薄《うす》い紅葉《もみぢ》が具合よく枝を交《かは》し合つて、箱庭の趣がある。島を越して向側《むかふがは》の突き当りが蓊鬱《こんもり》とどす黒《ぐろ》く光《ひか》つてゐる。女は丘《おか》の上《うへ》から其|暗《くら》い木蔭《こかげ》を指した。 「あの木《き》を知つて入《い》らしつて」といふ。 「あれは椎《しい》」  女は笑ひ出《だ》した。 「能《よ》く覚えて入《い》らつしやる事」 「あの時の看護婦ですか、あなたが今|訪《たづ》ねやうと云つたのは」 「えゝ」 「よし子さんの看護婦とは違《ちが》ふんですか」 「違《ちが》ひます。是《これ》は椎《しい》――といつた看護婦です」  今度は三四郎が笑ひ出《だ》した。 「彼所《あすこ》ですね。あなたがあの看護婦と一所に団扇を持つて立つてゐたのは」  二人《ふたり》のゐる所は高く池の中《なか》に突き出してゐる。此|丘《をか》とは丸で縁《えん》のない小山が一段低く、右側《みぎがは》を走つてゐる。大きな松と、御殿の一角《ひとかど》と、運動会の幕の一部と、なだらな芝生が見える。 「熱い日でしたね。病院があんまり暑《あつ》いものだから、とう/\堪《こら》へ切れないで出て来《き》たの。――あなたは又何であんな所に跼《しや》がんで入《い》らしつたの」 「熱《あつ》いからです。あの日は始めて野々宮さんに逢つて、それから、彼所《あすこ》へ来《き》てぼんやりして居たのです。何だか心細くなつて」 「野々宮さんに御|逢《あ》ひになつてから、心細く御成《おなり》になつたの」 「いゝえ、左《さ》う云ふ訳ぢやない」と云ひ掛けて、美禰子の顔《かほ》を見たが、急に話頭を転じた。 「野々宮さんと云へば、今日《けふ》は大変働らいてゐますね」 「えゝ、珍らしくフロツクコートを御|着《き》になつて――随分御迷惑でせう。朝から晩迄ですから」 「だつて大分得意の様ぢやありませんか」 「誰《だれ》が。野々宮さんが。――あなたも随分ね」 「何故《なぜ》ですか」 「だつて、真逆《まさか》運動会の計測掛になつて得意になる様な方《かた》でもないでせう」  三四郎は又話頭を転じた。 「先刻《さつき》あなたの所へ来《き》て何か話してゐましたね」 「会場で?」 「えゝ、運動場の柵の所で」と云つたが、三四郎は此問を急に撤回したくなつた。女は「えゝ」と云つた儘男の顔を凝《じつ》と見てゐる。少し下唇《したくちびる》を反《そ》らして笑ひ掛けてゐる。三四郎は堪《たま》らなくなつた。何か云つて紛《まぎ》らかさうとした時に、女は口《くち》を開《ひら》いた。 「あなたは未《ま》だ此間の絵端書の返事を下《くだ》さらないのね」  三四郎は迷付《まごつき》ながら「上《あ》げます」と答へた。女は呉《く》れとも何とも云はない。 「あなた、原口さんといふ画工《ゑかき》を御存《ごぞん》じ?」と聞《き》き直《なほ》した。 「知りません」 「さう」 「何《ど》うかしましたか」 「なに、その原口《はらぐち》さんが、今日《けふ》見に来《き》て入らしつてね。みんなを写生してゐるから、私達《わたくしたち》も用心しないと、ポンチに画《か》ゝれるからつて、野々宮さんがわざ/\注意して下《くだ》すつたんです」  美禰子は傍《そば》へ来《き》て腰を掛けた。三四郎は自分が如何にも愚物の様な気がした。 「よし子さんは兄《にい》さんと一所に帰らないんですか」 「一所に帰《かへ》らうつたつて帰《かへ》れないわ。よし子さんは、昨日《きのふ》から私《わたくし》の家《うち》にゐるんですもの」 [#7字下げ]六の十三[#「六の十三」は中見出し]  三四郎は其時始めて美禰子から野々宮の御母《おつか》さんが国へ帰つたと云ふ事を聞いた。御母《おつか》さんが帰ると同時に、大久保を引払つて、野々宮さんは下宿をする、よし子は当分美禰子の宅《うち》から学校へ通ふ事に、相談が極つたんださうである。  三四郎は寧ろ野々宮さんの気楽なのに驚ろいた。さう容易《たやす》く下宿生活に戻《もど》る位なら、始めから家《いへ》を持たない方が善《よ》からう。第一|鍋《なべ》、釜《かま》、手桶抔といふ世帯道具の始末はどう付《つ》けたらうと余計な事迄考へたが、口《くち》に出《だ》して云ふ程の事でもないから、別段の批評は加へなかつた。其|上《うへ》、野々宮さんが一家《いつか》の主人《あるじ》から、後戻《あともど》りをして、再び純書生と同様な生活状態に復するのは、取《とり》も直《なほ》さず家族制度から一歩遠退いたと同じ事で、自分に取つては、目前の疑惑を少し長距離へ引き移した様な好都合にもなる。其代りよし子が美禰子の家《いへ》へ同居して仕舞つた。此|兄妹《けうだい》は絶えず往来してゐないと治《おさま》らない様に出来|上《あが》つてゐる。絶えず往来してゐるうちには野々宮さんと美禰子との関係も次第次第に移つて来《く》る。すると野々宮さんが又いつ何時《なんどき》下宿生活を永久に已《や》める時機が来《こ》ないとも限らない。  三四郎は頭《あたま》の中に、かう云ふ疑《うたがひ》ある未来を、描《ゑが》きながら、美禰子と応対をしてゐる。一向に気が乗らない。それを外部の態度丈でも普通の如く繕《〔つくろ〕》ふとすると苦痛になつて来《く》る。其所《そこ》へ旨《うま》い具合によし子が帰つて来《き》て呉れた。女同志の間には、もう一遍競技を見に行かうかと云ふ相談があつたが、短《みぢ》かくなりかけた秋の日が大分|回《まは》つたのと、回《まは》るに連れて、広《ひろ》い戸外《こぐわい》の肌寒《はださむ》が漸く増してくるので、帰《かへ》る事に話が極まる。  三四郎も女|連《れん》に別《わか》れて下宿へ戻《もど》らうと思つたが、三人が話しながら、ずる/\べつたりに歩《ある》き出したものだから、際立《きはだ》つて、挨拶をする機会がない。二人《ふたり》は自分を引張つて行く様に見える。自分も亦《〔また〕》引張られて行きたい様な気がする。それで二人《ふたり》に食《く》つ付《つ》いて池の端《はた》を図書館の横から、方角違ひの赤門の方へ向いて来《き》た。其時三四郎は、よし子に向つて、 「御兄《おあに》いさんは下宿をなすつたさうですね」と聞いたら、よし子は、すぐ、 「えゝ。とう/\。他《ひと》を美禰子さんの所へ押《お》し付《つ》けて置いて。苛《ひど》いでせう」と同意を求める様に云つた。三四郎は何か返事をしやうとした。其前に美禰子が口《くち》を開《ひら》いた。 「宗八さんの様な方《かた》は、我々《われ/\》の考ぢや分《わか》りませんよ。ずつと高い所に居て、大きな事を考へて居らつしやるんだから」と大いに野々宮さんを賞《ほ》め出した。よし子は黙《だま》つて聞いてゐる。  学問をする人が煩瑣《うるさ》い俗《ぞく》用を避けて、成るべく単純な生活に我慢するのは、みんな研究の為め已《〔やむ〕》を得ないんだから仕方がない。野々宮の様な外国に迄聞える程の仕事《しごと》をする人が、普通の学生同様な下宿に這入つてゐるのも必竟《〔ひっきょう〕》野々宮が偉《えら》いからの事で、下宿が汚《きた》なければ汚《きた》ない程尊敬しなくつてはならない。――美禰子の野々宮に対する讃辞のつゞきは、ざつと斯《〔こ〕》うである。  三四郎は赤門の所で二人《ふたり》に別れた。追分の方へ足を向けながら考へ出《だ》した。――成程美禰子の云つた通である。自分と野々宮を比較して見ると大分段が違ふ。自分は田舎から出て大学へ這入つた許りである。学問といふ学問もなければ、見識と云ふ見識もない。自分が、野々宮に対する程な尊敬を美禰子から受け得ないのは当然である。さう云へば何だか、あの女から馬鹿にされてゐる様でもある。先刻《さつき》、運動会はつまらないから、此所《こゝ》にゐると、丘《おか》の上で答へた時に、美禰子は真面目な顔をして、此上《このうへ》には何か面白いものがありますかと聞いた。あの時は気が付かなかつたが、今解釈して見ると、故意に自分を愚弄した言葉かも知れない。――三四郎は気が付《つ》いて、今日迄美禰子の自分に対する態度や言語を一々繰り返して見ると、どれも是もみんな悪《わる》い意味が付けられる。三四郎は往来の真中《まんなか》で真赤《まつか》になつて俯向《うつむ》いた。不図《ふと》、顔を上《あ》げると向ふから、与次郎と昨夕《ゆふべ》の会で演説をした学生が並んで来た。与次郎は首を竪に振つたぎり黙つてゐる。学生は帽子を脱《と》つて礼をしながら、 「昨夜《さくや》は。何《ど》うですか。囚《とら》はれちや不可《いけ》ませんよ」と笑つて行き過ぎた。 [#7字下げ]七の一[#「七の一」は中見出し]  裏《うら》から回《まは》つて婆《ばあ》さんに聞くと、婆《ばあ》さんが小《ちい》さな声で、与次郎さんは昨日《きのふ》から御帰りなさらないと云ふ。三四郎は勝手|口《ぐち》に立つて考へた。婆さんは気《き》を利《き》かして、まあ御這入りなさい。先生は書斎に御出《おいで》ですからと云ひながら、手を休《やす》めずに、膳椀《〔ぜんわん〕》を洗つてゐる。今|晩食《ゆふめし》が済んだ許の所らしい。  三四郎は茶の間《ま》を通り抜けて、廊下伝ひに書斎の入口迄|来《き》た。戸が開《あ》いてゐる。中《なか》から「おい」と人を呼ぶ声がする。三四郎は敷居のうちへ這入つた。先生は机に向《むか》つてゐる。机の上には何があるか分《わか》らない。高い脊が研究を隠《かく》してゐる。三四郎は入口《いりぐち》に近く坐《すは》つて、 「御勉強ですか」と丁寧に聞いた。先生は顔丈|後《うしろ》へ捩《ね》ぢ向けた。髭《ひげ》の影《かげ》が不明瞭にもぢや/\してゐる。写真版で見た誰《だれ》かの肖像に似てゐる。 「やあ、与次郎かと思つたら、君ですか、失敬した」と云つて、席を立つた。机の上には筆と紙がある。先生は何か書いてゐた。与次郎の話に、うちの先生は時々《とき/″\》何か書いてゐる。然し何を書いてゐるんだか、他《ほか》の者《もの》が読んでも些《ちつ》とも分《わか》らない。生きてゐるうちに、大著述にでも纏められゝば結構だが、あれで死んで仕舞つちやあ、反古《ほご》が積《たま》る許だ。実に詰らない。と嘆息してゐた事がある。三四郎は広田の机の上を見て、すぐ与次郎の話を思ひ出した。 「御邪魔なら帰ります。別段の用事でもありません」 「いや、帰つてもらふ程邪魔でもありません。此方《こつち》の用事も別段の事でもないんだから。さう急に片付ける性質《たち》のものを遣《や》つてゐたんぢやない」  三四郎は一寸《ちよつと》挨拶が出来なかつた。然し腹のうちでは、此人の様な気分になれたら、勉強も楽に出来《でき》て好《よ》からうと思つた。しばらくしてから、斯《〔こ〕》う云つた。 「実は佐々木君の所へ来たんですが、居なかつたものですから……」 「あゝ。与次郎は何でも昨夜《ゆふべ》から帰《かへ》らない様だ。時々《とき/″\》漂泊して困る」 「何か急に用事でも出来《でき》たんですか」 「用事は決して出来《でき》る男ぢやない。たゞ用事を拵《こしら》へる男でね。あゝ云ふ馬鹿は少《すく》ない」  三四郎は仕方がないから、 「中々《なか/\》気楽ですな」と云つた。 「気楽なら好《い》いけれども。与次郎のは気楽なのぢやない。気が移《うつ》るので――例へば田《た》の中《なか》を流れてゐる小川の様なものと思つてゐれば間違《〔まちがい〕》はない。浅《あさ》くて狭《せま》い。しかし水《みづ》丈は始終変つてゐる。だから、する事が、ちつとも締《しま》りがない。縁日へひやかしになど行くと、急に思ひ出した様に、先生松を一鉢《ひとはち》御買ひなさいなんて妙な事を云ふ。さうして買ふとも何とも云はないうちに値切《ねぎ》つて買つて仕舞ふ。其代り縁日ものを買ふ事なんぞは上手でね。あいつに買はせると大変安く買へる。さうかと思ふと、夏になつてみんなが家《うち》を留守にするときなんか、松を座敷へ入れたまんま雨戸《あまど》を閉《た》てて錠を卸して仕舞ふ。帰つて見ると、松が温《うん》気で蒸《む》れて真赤になつてゐる。万事さう云ふ風で洵《まこと》に困る」  実を云ふと三四郎は此間与次郎に弐十円借した。二週間後には文芸時評社から原稿料が取れる筈だから、それ迄立替てくれろと云ふ。事理《わけ》を聞いて見ると、気の毒であつたから、国から送つて来《き》た許《ばか》りの為替《かはせ》を五円引いて、余りは悉く借《か》して仕舞つた。まだ返す期限ではないが、広田の話を聞いて見ると少々心配になる。しかし先生にそんな事は打ち明けられないから、反対に、 「でも佐々木君は、大いに先生に敬服して、蔭では先生の為に中々尽力してゐます」と云ふと、先生は真面目になつて、 「どんな尽力をしてゐるんですか」と聞き出した。所が「偉大なる暗闇」其他凡て広田先生に関する与次郎の所為《〔しょい〕》は、先生に話してはならないと、当人から封じられてゐる。やり掛けた途中でそんな事が知れると先生に叱《しか》られるに極つてるから黙《だま》つて居るべきだといふ。話して可《い》い時には己《おれ》が話すと明言してゐるんだから仕方がない。三四郎は話を外《そ》らして仕舞つた。 [#7字下げ]七の二[#「七の二」は中見出し]  三四郎が広田の家《うち》へ来《く》るには色々な意味がある。一《ひと》つは、此人《このひと》の生活其他が普通のものと変つてゐる。ことに自分の性情とは全く容れない様な所がある。そこで三四郎は何《ど》うしたらあゝなるだらうと云ふ好奇心から参考の為め研究に来《く》る。次《つぎ》に此人《このひと》の前へ出《で》ると呑気《のんき》になる。世の中《なか》の競争があまり苦にならない。野々宮さんも広田先生と同じく世外の趣はあるが、世外の功名心の為めに、流俗の嗜慾《〔しよく〕》を遠ざけてゐるかの様に思はれる。だから野々宮さんを相手に二人限《ふたりぎり》で話してゐると、自分も早く一人《いちにん》前の仕事をして、学海に貢献しなくては済まない様な気が起る。焦慮《いらつ》いて堪《たま》らない。そこへ行くと広田先生は太平である。先生は高等学校でたゞ語学を教へる丈で、外に何の芸もない――と云つては失礼だが、外に何等の研究も公けにしない。しかも泰《たい》然と取り澄ましてゐる。其所《そこ》に、此呑気の源は伏在してゐるのだらうと思ふ。三四郎は近頃《ちかごろ》女に囚《とらは》れた。恋人《こひびと》に囚《とら》はれたのなら、却《かへ》つて面白いが、惚《ほ》れられてゐるんだか、馬鹿にされてゐるんだか、怖《こわ》がつて可《い》いんだか、蔑《さげす》んで可《い》いんだか、廃《よ》すべきだか続《つゞ》けべきだか訳《わけ》の分《わか》らない囚《とら》はれ方《かた》である。三四郎は忌々敷《いま/\しく》なつた。さう云ふ時は広田さんに限《かぎ》る。三十分程先生と相対してゐると心持が悠揚になる。女の一人《ひとり》や二人《ふたり》どうなつても構はないと思ふ。実を云ふと、三四郎が今夜《こんや》出掛《でか》けて来《き》たのは七分|方《がた》此意味である。  訪問理由の第三は大分矛盾してゐる。自分は美禰子に苦しんでゐる。美禰子の傍《そば》に野々宮さんを置くと猶《〔なお〕》苦しんで来《く》る。その野々宮さんに尤も近いものは此先生である。だから先生の所へ来《く》ると、野々宮さんと美禰子との関係が自《おのづ》から明瞭になつてくるだらうと思ふ。これが明瞭になりさへすれば、自分の態度も判然|極《き》める事が出来る。其癖|二人《ふたり》の事を未だ曾《〔かつ〕》て先生に聞いた事がない。今夜は一つ聞いて見やうかしらと、心を動かした。 「野々宮さんは下宿なすつたさうですね」 「えゝ、下宿したさうです」 「家《うち》を持《も》つたものが、又下宿をしたら不便だらうと思ひますが、野々宮さんは能《よ》く……」 「えゝ、そんな事には一向無頓着な方《ほう》でね。あの服装を見ても分る。家庭的な人ぢやない。其代り学問にかけると非常に神経質だ」 「当分あゝ遣《や》つて御出《おいで》の積《つもり》なんでせうか」 「分《わか》らない。又|突然《とつぜん》家《いへ》を持つかも知れない」 「奥さんでも御貰《おもらひ》になる御考へはないんでせうか」 「あるかも知れない。佳《い》いのを周旋して遣《や》り玉へ」  三四郎は苦笑《にがわらひ》をした。余計な事を云つたと思つた。すると広田さんが、 「君はどうです」と聞いた。 「私《わたくし》は……」 「まだ早いですね。今から細君を持つちやあ大変だ」 「国《くに》のものは勧《すゝ》めますが」 「国《くに》の誰《だれ》が」 「母《はゝ》です」 「御母《おつか》さんの云ふ通り持つ気になりますか」 「中々《なか/\》なりません」  広田さんは髭《ひげ》の下《した》から歯《は》を出《だ》して笑つた。割合に奇麗な歯《は》を持《も》つてゐる。三四郎は其時急になつかしい心持がした。けれども其なつかしさは美禰子を離れてゐる。野々宮を離れてゐる。三四郎の眼前の利害には超絶したなつかしさであつた。三四郎は是《これ》で、野々宮抔の事を聞くのが恥《は》づかしい気がし出《だ》して、質問を已《や》めて仕舞つた。すると広田先生が又話し出《だ》した。―― [#7字下げ]七の三[#「七の三」は中見出し] 「御母《おつか》さんの云ふ事は成《なる》べく聞《き》いて上《あ》げるが可《い》い。近頃の青年は我々時代の青年と違つて自我の意識が強過ぎて不可《いけ》ない。吾々の書生をして居る頃には、する事|為《〔な〕》す事|一《いつ》として他《ひと》を離れた事はなかつた。凡てが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他《ひと》本位であつた。それを一口《ひとくち》にいふと教育を受けるものが悉く偽善家であつた。その偽善が社会の変化で、とう/\張り通せなくなつた結果、漸々《〔ぜんぜん〕》自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展し過ぎて仕舞つた。昔しの偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。――君、露悪家といふ言葉を聞いた事がありますか」 「いゝえ」 「今僕が即席に作つた言葉だ。君も其露悪家の一人《いちにん》――だかどうだか、まあ多分さうだらう。与次郎の如きに至ると其最たるものだ。あの君の知つてる里見といふ女があるでせう。あれも一種の露悪家で、それから野々宮の妹ね。あれはまた、あれなりに露悪家だから面白い。昔しは殿様と親父《おやぢ》丈が露悪家で済んでゐたが、今日《こんにち》では各自《めい/\》同等の権利で露悪家になりたがる。尤も悪《わる》い事でも何でもない。臭《くさ》いものの蓋《ふた》を除《と》れば肥桶《こえたご》で、美事な形式を剥《は》ぐと大抵は露悪になるのは知れ切つてゐる。形式丈美事だつて面倒な許だから、みんな節約して木地《きぢ》丈で用を足してゐる。甚だ痛快である。天醜|爛漫《らんまん》としてゐる。所が此|爛漫《らんまん》が度を越すと、露悪家同志が御互に不便を感じて来る。其不便が段〻|高《かう》じて極端に達した時利他主義が又復活する。それが又形式に流れて腐敗すると又利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はさう云ふ風にして暮して行くものと思へば差支ない。さうして行くうちに進歩する。英国を見給へ。此両主義が昔からうまく平衡が取れてゐる。だから動かない。だから進歩しない。イブセンも出なければニイチエも出ない。気の毒なものだ。自分丈は得意の様だが、傍《はた》から見れば堅《かた》くなつて、化石しかゝつてゐる。……」  三四郎は内心感心した様なものゝ、話が外《そ》れて飛んだ所へ曲《ま》がつて、曲《ま》がりなりに太《ふと》くなつて行くので、少し驚ろいてゐた。すると広田さんも漸く気が付いた。 「一体何を話《はな》してゐたのかな」 「結婚の事です」 「結婚?」 「えゝ、私《わたくし》が母《はゝ》の云ふ事を聞いて……」 「うん、左《さ》う/\。なるべく御母《おつか》さんの言《い》ふ事を聞かなければ不可《いけ》ない」と云つてにこ/\してゐる。丸で小供に対する様である。三四郎は別に腹も立《た》たなかつた。 「我々が露悪家なのは、可《い》いですが、先生時代の人が偽善家なのは、どういふ意味ですか」 「君、人から親切にされて愉快ですか」 「えゝ、まあ愉快です」 「屹度? 僕はさうでない、大変親切にされて不愉快な事がある」 「どんな場合ですか」 「形式丈は親切に適《かな》つてゐる。然し親切自身が目的でない場合」 「そんな場合があるでせうか」 「君、元日《がんじつ》に御目出|度《たう》と云はれて、実際御目出たい気がしますか」 「そりや……」 「しないだらう。それと同じく腹を抱へて笑ふだの、転《ころ》げかへつて笑ふだのと云ふ奴《やつ》に、一人《ひとり》だつて実際笑つてる奴《やつ》はない。親切も其通り。御役目に親切をして呉れるのがある。僕が学校で教師をしてゐる様なものでね。実際の目的は衣食にあるんだから、生徒から見たら定めて不愉快だらう。之に反して与次郎の如きは露悪党の領袖だけに、度々《たび/\》僕に迷惑を掛けて、始末に了《〔お〕》へぬいたづらものだが、悪気《にくげ》がない。可愛らしい所がある。丁度|亜米利加《〔アメリカ〕》人の金銭に対して露骨なのと一般だ。それ自身が目的である。それ自身が目的である行為程正直なものはなくつて、正直程|厭味《いやみ》のないものは無《な》いんだから、万事正直に出《で》られない様な我々《われ/\》時代の小六《こむ》づかしい教育を受けたものはみんな気障《きざ》だ」  此所《こゝ》迄の理窟は三四郎にも分つてゐる。けれども三四郎に取つて、目下痛切な問題は、大体にわたつての理窟ではない。実際に交渉のある或《ある》格段な相手が、正直か正直でないかを知りたいのである。三四郎は腹の中《なか》で美禰子の自分に対する素振《そぶり》をもう一遍考へて見た。所が気障《きざ》か気障《きざ》でないか殆んど判断が出来ない。三四郎は自分の感受性が人一倍鈍いのではなからうかと疑がひ出した。 [#7字下げ]七の四[#「七の四」は中見出し]  其時広田さんは急にうんと云つて、何か思ひ出《だ》した様である。 「うん、まだある。此二十世紀になつてから妙なのが流行《はや》る。利他本位の内容を利己本位で充《み》たすと云ふ六※[#濁点付き小書き平仮名つ、467-5]かしい遣口《やりくち》なんだが、君そんな人に出逢つたですか」 「何《ど》んなのです」 「外《ほか》の言葉で云ふと、偽善を行ふに露悪を以てする。まだ分《わか》らないだらうな。ちと説明し方《かた》が悪《わる》い様だ。――昔しの偽善家はね。何でも人に善《よ》く思はれたいが先《さき》に立《た》つんでせう。所が其反対で、人の感触を害する為めに、わざ/\偽善をやる。横から見ても縦《たて》から見ても、相手には偽善としか思はれない様に仕向けて行く。相手は無論|厭《いや》な心持がする。そこで本人の目的は達せられる。偽善を偽善其儘で先方に通用させ様とする正直な所が露悪家の特色で、しかも表面上の行為言語は飽迄も善に違ないから、――そら、二位一体といふ様な事になる。此方法を巧妙に用ひるものが近来大分|殖《〔ふ〕》えて来《き》た様だ。極めて神経の鋭敏になつた文明人種が、尤も優美に露悪家にならうとすると、これが一番|好《い》い方法になる。血を出《だ》さなければ人が殺せないといふのは随分野蛮な話だからな君、段々|流行《はや》らなくなる」  広田先生の話し方《かた》は、丁度案内者が古戦場を説明する様なもので、実際を遠くから眺めた地位に自《みづ》からを置いてゐる。それで頗る楽天の趣《おもむき》がある。恰《〔あたか〕》も教場で講義を聞くと一般の感を起させる。然し三四郎には応《こた》へた。念頭に美禰子といふ女があつて、此理論をすぐ適用|出来《でき》るからである。三四郎は頭《あたま》の中《なか》に此標準を置いて、美禰子の凡てを測つて見た。然し測り切れない所が大変ある。先生は口《くち》を閉《と》ぢて、例の如く鼻から哲学の烟《けむり》を吐き始《はじ》めた。  所へ玄関に足音《あしおと》がした。案内も乞はずに廊下伝ひに這入つて来《く》る。忽《〔たちま〕》ち与次郎が書斎の入口《いりくち》に坐《すは》つて、 「原口さんが御出《おいで》になりました」と云ふ。只今帰りましたといふ挨拶を省《はぶ》いてゐる。わざと省《はぶ》いたのかも知れない。三四郎には存在《ぞんざい》な目礼をした許ですぐに出《で》て行つた。  与次郎と敷居|際《ぎは》で擦《す》れ違《ちが》つて、原口さんが這入つて来《き》た。原口さんは仏蘭西式の髭《ひげ》を生《は》やして、頭《あたま》を五分刈にした、脂肪の多い男である。野々宮さんより年《とし》が二つ三つ上《うへ》に見える。広田先生よりずつと奇麗な和服を着てゐる。 「やあ、暫《しばら》く。今迄佐々木が宅《うち》へ来てゐてね。一所に飯《めし》を食つたり何かして――それから、とう/\引張り出《だ》されて、……」と大分楽天的な口調である。傍《そば》にゐると自然陽気になる様な声を出《だ》す。三四郎は原口と云ふ名前を聞いた時から、大方《おほかた》あの画工《ゑかき》だらうと思つてゐた。夫《それ》にしても与次郎は交際家だ。大抵な先輩とはみんな知合《しりあひ》になつてゐるから豪《えら》いと感心して硬《かた》くなつた。三四郎は年長者の前へ出ると硬《かた》くなる。九州流の教育を受けた結果だと自分では解釈してゐる。  やがて主人が原口に紹介して呉れる。三四郎は丁寧に頭《あたま》を下《さ》げた。向《むか》ふは軽く会釈した。三四郎はそれから黙《だま》つて二人《ふたり》の談話を承はつてゐた。  原口さんは先づ用談から片付《かたづ》けると云つて、近いうちに会をするから出《で》て呉れと頼《たの》んでゐる。会員と名のつく程の立派なものは拵《こし》らへない積だが、通知を出すものは、文学者とか芸術家とか、大学の教授とか、僅かな人数に限つて置くから差支はない。しかも大抵|知《し》り合《あひ》の間だから、形式は全く不必要である。目的はたゞ大勢寄つて晩餐を食ふ。それから文芸上有益な談話を交換する。そんなものである。  広田先生は一口《ひとくち》「出《で》やう」と云つた。用事は夫で済んで仕舞つた。用事は夫《それ》で済《す》んで仕舞つたが、それから後《あと》の原口さんと広田先生の会話が頗る面白かつた。 [#7字下げ]七の五[#「七の五」は中見出し]  広田先生が「君近頃何をしてゐるかね」と原口さんに聞くと、原口さんがこんな事を云ふ。 「矢っ張り一中節《いつちうぶし》を稽古してゐる。もう五つ程|上《あ》げた。花紅葉吉原《はなもみぢよしはら》八景だの、小稲《こいな》半兵衛唐崎|心中《しんぢう》だのつて中々《なか/\》面白いのがあるよ。君も少し遣《や》つて見ないか。尤もありや、余《あま》り大きな声を出《だ》しちや、不可《いけ》ないんだつてね。本来が四畳半の座敷に限つたものださうだ。所が僕が此通り大きな声だらう。それに節廻《ふしまは》しがあれで中々《なか/\》込み入つてゐるんで、何《ど》うしても旨《うま》く不可《いか》ん。今度《こんだ》一つ遣《や》るから聞いて呉れ玉へ」  広田先生は笑つてゐた。すると原口さんは続《つゞき》をかう云ふ風に述べた。 「それでも僕はまだ可《い》いんだが、里見恭助と来《き》たら、丸で片無《かたな》しだからね。どう云ふものか知らん。妹はあんなに器用だのに。此間はとうとう降参して、もう唄《うた》は已《や》める、其代り何か楽器を習はうと云ひ出《だ》した所が、馬鹿囃《ばかばやし》を御習ひなさらないかと勧《すゝ》めたものが有《あ》つてね。大笑《おほわら》ひさ」 「そりや本当かい」 「本当とも。現に里見が僕に、君が遣《や》るなら遣《や》つても好《い》いと云つた位だもの。あれで馬鹿|囃《ばやし》には八通《やとほ》り囃《はやし》かたがあるんださうだ」 「君、遣《や》つちや何《ど》うだ。あれなら普通の人間にでも出来さうだ」 「いや馬鹿|囃《ばやし》は厭《いや》だ。それよりか鼓《つゞみ》が打《う》つて見たくつてね。何故《なぜ》だか鼓《つゞみ》の音《おと》を聞いてゐると、全く二十世紀の気がしなくなるから可《い》い。どうして今の世にあゝ間《ま》が抜けてゐられるだらうと思ふと、それ丈で大変な薬になる。いくら僕が呑気でも、鼓《つゞみ》の音《おと》の様な画《ゑ》はとても描《か》けないから」 「描《か》かうともしないんぢやないか」 「描《か》けないんだもの。今の東京にゐるものに悠揚《おほよう》な画《ゑ》が出来るものか。尤も画《ゑ》にも限《かぎ》るまいけれども。――画《ゑ》と云へば、此間大学の運動会へ行つて、里見と野々宮さんの妹のカリカチユアーを描《か》いて遣《や》らうと思つたら、とうとう逃げられて仕舞つた。こんだ一つ本当の肖像画を描《か》いて展覧会にでも出さうかと思つて」 「誰《だれ》の」 「里見の妹の。どうも普通の日本の女の顔は歌麿式や何かばかりで、西洋の画布《カンヷス》には移《うつり》が悪《わる》くつて不可《いけ》ないが、あの女や野々宮さんは可《い》い。両方共|画《ゑ》になる。あの女が団扇を翳《かざ》して、木立《こだち》を後《うしろ》に、明《あか》るい方を向いてゐる所を等身《ライフ、サイズ》に写して見様かしらと思つてる。西洋の扇は厭味《いやみ》で不可《いけ》ないが、日本の団扇は新《あたら》しくつて面白いだらう。兎に角早くしないと駄目だ。今に嫁《よめ》にでも行《い》かれやうものなら、さう此方《こつち》の自由に行かなくなるかも知れないから」  三四郎は多大な興味を以て原口の話を聞いてゐた。ことに美禰子が団扇を翳してゐる構図は非常な感動を三四郎に与へた。不思議の因縁が二人《ふたり》の間に存在してゐるのではないかと思ふ程であつた。すると広田先生が、「そんな図はさう面白い事もないぢやないか」と無遠慮な事を云ひ出した。 「でも当人の希望なんだもの。団扇を翳《かざ》してゐる所は、どうでせうと云ふから、頗る妙でせうと云つて承知したのさ。何《なに》わるい図どりではないよ。描《か》き様にも因《よ》るが」 「あんまり美くしく描《か》くと、結婚の申込が多くなつて困《こま》るぜ」 「ハヽヽぢや中位《ちうぐらゐ》に描《か》いて置かう。結婚と云へば、あの女も、もう嫁《よめ》に行く時期だね。どうだらう、何所《どこ》か好《い》い口《くち》はないだらうか。里見にも頼《たの》まれてゐるんだが」 「君|貰《もら》つちや何《ど》うだ」 「僕か。僕で可《よ》ければ貰《もら》ふが、どうもあの女には信用がなくつてね」 「何故《なぜ》」 「原口さんは洋行する時には大変な気込で、わざ/\鰹節《かつぶし》を買ひ込んで、是で巴理《〔パリ〕》の下宿に籠城するなんて大威張だつたが、巴理へ着くや否や、忽《〔たちま〕》ち豹変したさうですねつて笑ふんだから始末がわるい。大方《おほかた》兄《あにき》からでも聞いたんだらう」 「あの女は自分の行きたい所でなくつちや行《い》きつこない。勧《すゝ》めたつて駄目だ。好《すき》な人がある迄独身で置くがいゝ」 「全く西洋流だね。尤もこれからの女はみんな左《さ》うなるんだから、それも可《よ》からう」  夫《それ》から二人《ふたり》の間に長い絵画談があつた。三四郎は広田先生の西洋の画工の名を沢山知つてゐるのに驚ろいた。帰るとき勝手口で下駄を探してゐると、先生が階子段の下《した》へ来《き》て「おい佐々木|一寸《ちよつと》下《お》りて来《こ》い」と云つてゐた。 [#7字下げ]七の六[#「七の六」は中見出し]  戸外《そと》は寒《さむ》い。空《そら》は高く晴《は》れて、何処《どこ》から露《つゆ》が降《ふ》るかと思ふ位である。手が着物に触《さは》ると、触《さは》つた所だけが冷《ひや》りとする。人通りの少ない小路《こうぢ》を二三度折れたり曲《まが》つたりして行くうちに、突然|辻占《つぢうら》屋に逢つた。大きな丸い提灯《てふちん》を点《つ》けて、腰から下《した》を真赤《まつか》にしてゐる。三四郎は辻占が買つて見たくなつた。然し敢て買はなかつた。杉垣に羽織の肩が触《さわ》る程に、赤い提燈を避《よ》けて通した。しばらくして、暗い所を斜《はす》に抜けると、追分《おひわけ》の通《とほり》へ出《で》た。角《かど》に蕎麦《そば》屋がある。三四郎は今度は思ひ切つて暖簾《のれん》を潜《くゞ》つた。少し酒を飲む為である。  高等学校の生徒が三人ゐる。近頃学校の先生が午《ひる》の弁当に蕎麦《そば》を食ふものが多くなつたと話してゐる。蕎麦屋《そばや》の担夫《かつぎ》が午砲《どん》が鳴ると、蒸籠《せいろ》や種《たね》ものを山の様に肩へ載せて、急いで校門を這入つてくる。此所《こゝ》の蕎麦屋はあれで大分儲かるだらうと話してゐる。何とかいふ先生は夏でも釜《かま》揚|饂飩《うどん》を食ふが、どう云ふものだらうと云つてゐる。大方《おほかた》胃が悪《わる》いんだらうと云つてゐる。其外色々の事を云つてゐる。教師の名は大抵呼び棄《ずて》にする。中《なか》に一人《ひとり》広田さんと云つたものがある。それから何故《なぜ》広田さんは独身でゐるかといふ議論を始めた。広田さんの所へ行くと女の裸体画が懸《か》けてあるから、女が嫌なんぢやなからうと云ふ説である。尤も其裸体画は西洋人だから当《あて》にならない。日本の女は嫌かも知れないといふ説である。いや失恋の結果に違ないと云ふ説も出《で》た。失恋してあんな変人になつたのかと質問したものもあつた。然し若い美人が出入するといふ噂があるが本当かと聞き糺《〔ただ〕》したものもあつた。  段々聞いてゐるうちに、要するに広田先生は偉《えら》い人だといふ事になつた。何故《なぜ》偉《えら》いか三四郎にも能く解《わか》らないが、兎に角此三人は三人ながら与次郎の書いた「偉大なる暗闇」を読んでゐる。現にあれを読んでから、急に広田さんが好《すき》になつたと云つてゐる。時々《とき/″\》は「偉大なる暗闇」のなかにある警句抔を引用して来《く》る。さうして盛んに与次郎の文章を賞《ほ》めてゐる。零余子とは誰《だれ》だらうと不思議がつてゐる。何しろ余程よく広田さんを知つてゐる男に相違ないといふ事には三人共同意した。  三四郎は傍《そば》に居て成程と感心した。与次郎が「偉大なる暗闇《くらやみ》」を書く筈《はづ》である。文芸時評の売れ高の少ないのは当人の自白した通であるのに、例々しく彼《かれ》の所謂大論文を掲げて得意がるのは、虚栄心の満足以外に何の為になるだらうと疑つてゐたが、是で見ると活版の勢力は矢張り大《たい》したものである。与次郎の主張する通り、一言でも半句でも云はない方が損になる。人の評判はこんな所から揚《あ》がり、又こんな所から落《お》ちると思ふと、筆を執るものゝ責任が恐ろしくなつて、三四郎は蕎麦屋《そばや》を出《で》た。  下宿へ帰《かへ》ると、酒はもう醒めて仕舞つた。何だか詰《つま》らなくつて不可《いけ》ない。机の前に坐《すは》つて、ぼんやりしてゐると、下女が下《した》から湯沸《ゆわかし》に熱い湯を入れて持つて来《き》た序《ついで》に、封書を一通置いて行《い》つた。又母の手紙である。三四郎はすぐ封を切つた。今日《けふ》は母の手蹟を見るのが甚だ嬉しい。  手紙は可《か》なり長いものであつたが、別段の事も書いてない。ことに三輪田の御光さんについては一口《ひとくち》も述べてないので大いに難有《〔ありがた〕》かつた。けれども中《なか》に妙な助言がある。  御|前《まへ》は小供の時から度胸がなくつて不可《いけ》ない。度胸の悪《わる》いのは大変な損で、試験の時なぞにはどの位困るか知れない。興津の高《たか》さんは、あんなに学問が出来て、中学校の先生をしてゐるが、検定試験を受けるたびに、身体《からだ》が顫《ふる》へて、うまく答案が出来ないんで、気の毒な事に未《いま》だに月給が上《あ》がらずにゐる。友達の医学士とかに頼《たの》んで顫《ふる》への留《とま》る丸薬を拵らへて貰つて、試験前に飲んで出《で》たが矢っ張り顫《ふる》へたさうである。御|前《まへ》のはぶる/\顫《ふる》へる程でもない様だから、平生から治薬《〔じやく〕》に度胸の据《すわ》る薬《くすり》を東京の医者に拵らへて貰つて飲んで見ろ。癒《なほ》らない事もなからうと云ふのである。  三四郎は馬鹿々々しいと思つた。けれども馬鹿〻〻しいうちに大いなる慰藉を見出《みいだ》した。母は本当に親切なものであると、つくづく感心した。其晩一時頃迄かゝつて長い返事を母に遣《や》つた。其なかには東京はあまり面白い所ではないと云ふ一句があつた。 [#7字下げ]八の一[#「八の一」は中見出し]  三四郎が与次郎に金を借した顛末は、斯《か》うである。  此|間《あひだ》の晩九時頃になつて、与次郎が雨の中《なか》を突然|遣《や》つて来《き》て、冒頭から大いに弱つたと云ふ。見ると、例になく顔の色が悪い。始めは秋雨《あきさめ》に濡れた冷《つめ》たい空気に吹《ふ》かれ過《す》ぎたからの事と思つてゐたが、座に就いて見ると、悪《わる》いのは顔色《かほいろ》ばかりではない。珍《めづ》らしく銷沈してゐる。三四郎が「具合でも好《よ》くないのか」と尋ねると、与次郎は鹿《しか》の様な眼《め》を二度《にど》程ぱちつかせて、かう答へた。 「実は金《かね》を失《な》くなしてね。困《こま》つちまつた」  そこで、一寸《ちよつと》心配さうな顔《かほ》をして、烟草の烟《けむり》を二三本|鼻《はな》から吐《は》いた。三四郎は黙《だま》つて待つてゐる訳にも行《い》かない。どう云ふ種類の金を、どこで失《な》くなしたのかと段々聞いて見ると、すぐ解《わか》つた。与次郎は烟草の烟《けむり》の、二三本|鼻《はな》から出切《でき》る間丈|控《ひか》へてゐたばかりで、その後《あと》は、一部始終を訳《わけ》もなくすら/\と話して仕舞つた。  与次郎の失《な》くした金《かね》は、額《たか》で弐拾円、但し人《ひと》のものである。去年広田先生が此前《このまへ》の家《いへ》を借りる時分に、三ヶ月の敷金《しききん》に窮して、足《た》りない所を一時野々宮さんから用|達《だ》つて貰《もら》つた事がある。然るに其|金《かね》は野々宮さんが、妹《いもと》にヷイオリンを買《か》つて遣《や》らなくてはならないとかで、わざ/\国|元《もと》の親父《おやぢ》さんから送《おく》らせたものださうだ。それだから今日《けふ》が今日《けふ》必要といふ程でない代りに、延《の》びれば延《の》びる程よし子が困《こま》る。よし子は現に今《いま》でもヷイオリンを買はずに済ましてゐる。広田先生が返《かへ》さないからである。先生だつて返《かへ》せればとうに返《かへ》すんだらうが、月々余裕が一文《いちもん》も出《で》ない上《うへ》に、月給以外に決《けつ》して稼《かせ》がない男だから、つい夫なりにしてあつた。所が此夏《このなつ》高等学校の受験生の答案|調《しらべ》を引き受けた時の手当《てあて》が六十円此頃になつて漸く受け取れた。それで漸く義理を済ます事になつて、与次郎が其|使《つかひ》を云ひ付《つ》かつた。 「その金を失《な》くなしたんだから済まない」と与次郎が云つてゐる。実際|済《す》まない様な顔付《かほつき》でもある。何所《どこ》へ落《おと》したんだと聞くと、なに落《おと》したんぢやない。馬券を何枚とか買つて、みんな無《な》くなして仕舞つたのだと云ふ。三四郎も是《これ》には呆《あき》れ返つた。あまり無分別の度を通り越してゐるので意見をする気にもならない。其上本人が悄然としてゐる。是を平常《いつも》の活溌々地と比《くら》べると、与次郎なるものが二人《ふたり》居るとしか思はれない。其対照が烈《はげ》し過《す》ぎる。だから可笑《おかし》いのと気の毒《どく》なのとが一所になつて三四郎を襲つて来《き》た。三四郎は笑《わら》ひ出した。すると与次郎も笑《わら》ひ出した。 「まあ可《い》いや、どうかなるだらう」と云ふ。 「先生はまだ知らないのか」と聞くと、 「まだ知らない」 「野々宮さんは」 「無論、まだ知らない」 「金《かね》は何時《いつ》受取つたのか」 「金《かね》は此月始《このつきはじま》りだから、今日《けふ》で丁度二週間程になる」 「馬券を買つたのは」 「受け取つた明《あく》る日だ」 「夫《それ》から今日《けふ》迄|其儘《そのまゝ》にして置いたのか」 「色々奔走したが出来《でき》ないんだから仕方がない。已を得なければ今月末迄|此儘《このまゝ》にして置かう」 「今月|末《すえ》になれば出来る見込でもあるのか」 「文芸時評社から、どうかなるだらう」  三四郎は立つて、机の抽出《ひきだし》を開《あ》けた。昨日《きのふ》母から来《き》たばかりの手紙の中《なか》を覗《のぞ》いて、 「金《かね》は此所《こゝ》にある。今月は国から早く送つて来《き》た」と云つた。与次郎は、 「難有《〔ありがた〕》い。親愛なる小川君」と急に元気の好《い》い声で落語家の様な事を云つた。  二人《ふたり》は十時|過《すぎ》雨《あめ》を冒して、追分の通りへ出《で》て、角《かど》の蕎麦屋へ這入つた。三四郎が蕎麦《そば》屋で酒を飲む事を覚えたのは此時である。其晩は二人《ふたり》共愉快に飲んだ。勘定は与次郎が払つた。与次郎は中々《なか/\》人に払はせない男である。 [#7字下げ]八の二[#「八の二」は中見出し]  夫から今日《こんにち》に至る迄与次郎は金《かね》を返さない。三四郎は正直だから下宿屋の払《はらひ》を気にしてゐる。催促はしないけれども、どうかして呉れれば可《い》いがと思つて、日を過《すご》すうちに晦日《みそか》近くなつた。もう一日《いちにち》二日《ふつか》しか余つてゐない。間違つたら下宿の勘定を延《の》ばして置かう抔といふ考はまだ三四郎の頭《あたま》に上《のぼ》らない。必ず与次郎が持つて来《き》て呉れる――と迄は無論彼を信用してゐないのだが、まあどうか工面して見様位の親切|気《ぎ》はあるだらうと考へてゐる。広田先生の評によると与次郎の頭《あたま》は浅瀬《あさせ》の水《みづ》の様に始終移つてゐるのださうだが、無暗に移る許で責任を忘れる様では困る。まさかそれ程の事もあるまい。  三四郎は二階の窓から往来を眺めてゐた。すると向から与次郎が足早にやつて来《き》た。窓の下《した》迄|来《き》て仰向《あほむ》いて、三四郎の顔を見上げて、「おい、居《お》るか」と云ふ。三四郎は上から、与次郎を見下《みおろ》して「うん、居《お》る」と云ふ。此馬鹿見た様な挨拶が上下《うへした》で一句交換されると、三四郎は部屋の中《なか》へ首《くび》を引込める。与次郎は階子段《はしごだん》をとん/\上《あ》がつて来《き》た。 「待《ま》つてゐやしないか。君の事だから下宿の勘定を心配してゐるだらうと思つて、大分奔走した。馬鹿|気《げ》てゐる」 「文芸時評から原稿料を呉れたか」 「原稿料つて。原稿料はみんな取つて仕舞《しまつ》た」 「だつて此間《このあひだ》は月末に取《と》る様に云つてゐたぢやないか」 「さうかな。夫《それ》は聞違《きゝちがひ》だらう。もう一文も取るのはない」 「可笑《おか》しいな。だつて君は慥かに左《さ》う云つたぜ」 「なに、前借《まへがり》をしやうと云つたのだ。所が中中《なかなか》貸《か》さない。僕に貸《か》すと返さないと思つてゐる。怪《け》しからん。僅か二十円|許《ばかり》の金《かね》だのに。いくら偉大なる暗闇《くらやみ》を書《か》いて遣つても信用しない。詰《つま》らない。厭《いや》になつちまつた」 「ぢや金《かね》は出来ないのか」 「いや外《ほか》で拵《こし》らへたよ。君が困《こま》るだらうと思つて」 「さうか。それは気の毒だ」 「所が困つた事が出来た。金《かね》は此所《こゝ》にはない。君が取《と》りに行《い》かなくつちや」 「何所《どこ》へ」 「実は文芸時評が可《い》けないから、原口《はらぐち》だの何だの二三軒|歩《ある》いたが、何所《どこ》も月末《げつまつ》で都合がつかない。それから最後に里見の所へ行つて――里見といふのは知らないかね。里見恭助。法学士だ。美禰子さんの兄《にい》さんだ。あすこへ行《い》つた所が、今度は留守《るす》で矢っ張り要領を得ない。其うち腹《はら》が減《へ》つて歩《ある》くのが面倒になつたから、とう/\美禰子さんに逢つて話しをした」 「野々宮さんの妹が居やしないか」 「なに午《ひる》少し過ぎだから学校に行《いつ》てる時分だ。それに応接|間《ま》だから居《ゐ》たつて構《かま》やしない」 「さうか」 「それで美禰子さんが、引受けてくれて、御用立て申しますと云ふんだがね」 「あの女は自分の金《かね》があるのかい」 「そりや、何《ど》うだか知らない。然し兎に角大丈夫だよ。引き受けたんだから。ありや妙な女で、年《とし》の行《い》かない癖に姉《ねえ》さんじみた事をするのが好《す》きな性質《たち》なんだから、引き受けさへすれば、安心だ。心配しないでも可《い》い。宜《〔よろ〕》しく願《ねが》つて置けば構はない。所が一番仕舞になつて、御金《おかね》は此所《ここ》にありますが、あなたには渡《わた》せませんと云ふんだから驚《おど》ろいたね。僕はそんなに不信用なんですかと聞くと、えゝと云つて笑つてゐる。厭《いや》になつちまつた。ぢや小川を遣《よこ》しますかなと又聞いたら、えゝ小川さんに御手渡し致しませうと云はれた。どうでも勝手にするが可《い》い。君取りに行けるかい」 「取りに行かなければ、国へ電報でも掛けるんだな」 「電報はよさう。馬鹿|気《げ》てゐる。いくら君だつて借りに行《い》けるだらう」 「行《い》ける」  是で漸く弐拾円の埒《〔らち〕》が明《あ》いた。それが済むと、与次郎はすぐ広田先生に関する事件の報告を始めた。 [#7字下げ]八の三[#「八の三」は中見出し]  運動は着々歩を進めつゝある。暇《ひま》さへあれば下宿へ出掛《でかけ》て行つて、一人一人《ひとりひとり》に相談する。相談は一人一人《ひとりひとり》に限《かぎ》る。大勢《おほぜい》寄《よ》ると、各自《めいめい》が自分の存在を主張しやうとして、稍《やゝ》ともすれば異を樹《た》てる。それでなければ、自分の存在を閑却《かんきやく》された心持になつて、初手から冷淡に構へる。相談はどうしても一人《ひとり》、一人《ひとり》に限《かぎ》る。其代り暇《ひま》は要《い》る。金も要《い》る。それを苦にしてゐては運動は出来ない。それから相談中には広田先生の名前を余り出《だ》さない事にする。我々《われ/\》の為《ため》の相談でなくつて、広田先生の為《ため》の相談だと思はれると、事《こと》が纏まらなくなる。  与次郎は此方法で運動の歩を進めてゐるのださうだ。それで今日《こんにち》迄の所は旨《うま》く行《い》つた。西洋人|許《ばかり》では不可《いけ》ないから、是非共日本人を入れて貰《もら》はうといふ所迄話は来《き》た。是から先《さき》はもう一遍|寄《よ》つて、委員を撰んで、学長なり、総長なりに、我々の希望を述《の》べに遣《や》る許《ばかり》である。尤も会合丈はほんの形式だから略しても可《い》い。委員になるべき学生も大体は知れてゐる。みんな広田先生に同情を持つてゐる連中だから、談判の模様によつては、此方《こつち》から先生の名を当局者へ持《も》ち出《だ》すかも知《し》れない。……  聞いてゐると、与次郎|一人《ひとり》で天下が自由になる様に思はれる。三四郎は尠《すくな》からず与次郎の手腕に感服した。与次郎は又|此間《このあひだ》の晩、原口さんを先生の所へ連れて来《き》た事に就いて、弁《べん》じ出《だ》した。 「あの晩、原口さんが、先生に文芸家の会《くわい》をやるから出《で》ろと、勧めてゐたらう」と云ふ。三四郎は無論覚えてゐる。与次郎の話《はなし》によると、実はあれも自身の発起に係《かゝ》るものださうだ。其理由は色々あるが、まづ第一に手近な所を云へば、あの会員のうちには、大学の文科で有力な教授がゐる。其男と広田先生を接触させるのは、此際先生に取つて、大変な便利である。先生は変人だから、求《もと》めて誰《だれ》とも交際しない。然し此方《こつち》で相当の機会を作《つく》つて、接触させれば、変人なりに附合《つきあ》つて行く。…… 「左《さ》う云ふ意味があるのか、些《ちつ》とも知らなかつた。それで君が発起人だと云ふんだが、会《くわい》をやる時、君の名前で通知を出《だ》して、さう云ふ偉《えら》い人達《ひとたち》がみんな寄《よ》つて来《く》るのかな」  与次郎は、しばらく真面目《まじめ》に、三四郎を見てゐたが、やがて苦《にが》笑ひをして傍《わき》を向いた。 「馬鹿《ばか》云つちや不可《いけ》ない。発起人つて、表向《おもてむき》の発起人ぢやない。たゞ僕がさう云ふ会《くわい》を企だてたのだ。つまり僕が原口さんを勧《すゝ》めて、万事《ばんじ》原口さんが周旋する様に拵《こしら》へたのだ」 「さうか」 「さうかは田臭《でんしう》だね。時に君もあの会へ出《で》るが可《い》い。もう近いうちに有る筈《はづ》だから」 「そんな偉《えら》い人ばかり出《で》る所へ行《い》つたつて仕方がない。僕は廃《よ》さう」 「又田臭を放《はな》つた。偉《えら》い人も偉《えら》くない人も社会へ頭《あたま》を出《だ》した順序が違《ちが》ふ丈だ。なにあんな連中、博士とか学士とか云つたつて、会《あ》つて話して見ると何でもないものだよ。第一|向《むかふ》がさう偉《えら》いとも何とも思つてやしない。是非|出《で》て置くが可《い》い。君の将来の為《ため》だから」 「何所《どこ》であるのか」 「多分上野の西洋軒になるだらう」 「僕はあんな所へ這入《はい》つた事がない。高《たか》い会費を取《と》るんだらう」 「まあ弐円位だらう。なに会費なんか、心配しなくつても可《い》い。無《な》ければ僕が出《だ》して置くから」  三四郎は忽《〔たちま〕》ちさきの弐拾円の件を思ひ出《だ》した。けれども不思議に可笑《おか》しくならなかつた。与次郎は其上《そのうへ》銀座の何所《どこ》とかへ天麩羅を食ひに行かうと云ひ出《だ》した。金《かね》はあると云ふ。不思議な男である。云ひなり次第になる三四郎も是は断わつた。其代り一所に散歩に出《で》た。帰りに岡野へ寄つて、与次郎は栗饅頭を沢山買つた。これを先生に見舞《みやげ》に持つて行くんだと云つて、袋を抱へて帰つていつた。 [#7字下げ]八の四[#「八の四」は中見出し]  三四郎は其晩与次郎の性格を考へた。永く東京に居るとあんなになるものかと思つた。それから里見へ金《かね》を借《か》りに行く事を考へた。美禰子の所へ行く用事が出来たのは嬉しい様な気がする。然し頭《あたま》を下《さ》げて金を借りるのは難有《〔ありがた〕》くない。三四郎は生れてから今日《こんにち》に至る迄、人に金を借りた経験のない男である。其上貸すと云ふ当人が娘である。独立した人間ではない。たとひ金《かね》が自由になるとしても、兄《あに》の許諾を得ない内証の金を借りたとなると、借りる自分は兎《〔と〕》に角、あとで、貸した人の迷惑になるかも知れない。或はあの女の事だから、迷惑にならない様に始《はじめ》から出来《でき》てゐるかとも思へる。何しろ逢《あ》つて見やう。逢《あ》つた上《うへ》で、借りるのが面白くない様子だつたら、断わつて、少時《しばらく》下宿の払を延《の》ばして置いて、国から取り寄せれば事《こと》は済む。――当用は此所《こゝ》迄考へて句切りを付けた。あとは散漫に美禰子の事が頭《あたま》に浮《うか》んで来《く》る。美禰子の顔《かほ》や手《て》や、襟や、帯や、着物《きもの》やらを、想像に任せて、乗《か》けたり除《わ》つたりしてゐた。ことに明日《あした》逢ふ時に、どんな態度で、どんな事を云ふだらうと其光景が十《と》通りにも廿《にじつ》通りにもなつて色々に出《で》て来《く》る。三四郎は本来から斯《こ》んな男である。用談があつて人と会見の約束などをする時には、先方が何《ど》う出《で》るだらうといふ事許り想像する。自分が、こんな顔をして、こんな事を、こんな声で云つて遣《や》らう抔とは決して考へない。しかも会見が済むと後《あと》から屹度|其方《そのほう》を考へる。さうして後悔する。  ことに今夜は自分の方を想像する余地がない。三四郎は此間から美禰子を疑つてゐる。然し疑ふばかりで一向埒が明《あ》かない。さうかと云つて面と向つて、聞き糺《〔ただ〕》すべき事件は一つもないのだから、一刀両断の解決抔は思ひも寄らぬ事である。もし三四郎の安心の為《ため》に解決が必要なら、それはたゞ美禰子に接触する機会を利用して、先方の様子から、好《い》い加減に最後の判決を自分に与へて仕舞ふ丈である。明日《あした》の会見は此判決に欠くべからざる材料である。だから、色々に向《むかふ》を想像して見る。しかし、どう想像しても、自分に都合の好《い》い光景ばかり出て来《く》る。それでゐて、実際は甚だ疑《うたが》はしい。丁度|汚《きた》ない所を奇麗な写真に取つて眺めてゐる様な気がする。写真は写真として何所《どこ》迄も本当に違《ちがひ》ないが、実物の汚《きた》ない事も争《あらそ》はれないと一般で、同じでなければならぬ筈の二《ふた》つが決して一致しない。  最後に嬉《うれ》しい事を思ひ付《つ》いた。美禰子は与次郎に金《かね》を貸すと云つた。けれども与次郎には渡さないと云つた。実際与次郎は金銭の上《うへ》に於ては、信用し悪《にく》い男かも知れない。然し其意味で美禰子が渡さないのか、どうだか疑はしい。もし其意味でないとすると、自分には甚だ頼母《たのも》しい事になる。たゞ金《かね》を貸して呉れる丈でも充分の好意である。自分に逢つて手渡しにしたいと云ふのは――三四郎は此所《こゝ》迄|己惚《おのぼれ》て見たが、忽《〔たちま〕》ち、 「矢っ張り愚弄ぢやないか」と考へ出《だ》して、急に赤くなつた。もし、ある人があつて、其女は何の為《ため》に君を愚弄するのかと聞いたら、三四郎は恐らく答へ得なかつたらう。強ひて考へて見ろと云はれたら、三四郎は愚弄其物に興味を有《も》つてゐる女だからと迄は答へたかも知れない。自分の己惚《おのぼれ》を罰する為《ため》とは全く考へ得なかつたに違ない。――三四郎は美禰子の為《ため》に己惚《おのぼれ》しめられたんだと信じてゐる。 [#7字下げ]八の五[#「八の五」は中見出し]  翌日《よくじつ》は幸ひ教師が二人《ふたり》欠席して、午《ひる》からの授業が休《やす》みになつた。下宿へ帰るのも面倒だから、途中で一品料理の腹を拵《こし》らへて、美禰子の家《いへ》へ行つた。前を通つた事は何遍でもある。けれども這入《はい》るのは始てゞある。瓦葺《〔かわらぶき〕》の門の柱に里見恭助といふ標札が出《で》てゐる。三四郎は此所《こゝ》を通る度《たび》に、里見恭助といふ人はどんな男だらうと思ふ。まだ逢《あ》つた事がない。門は締《しま》つてゐる。潜《くゞ》りから這入ると玄関迄の距離は存外短かい。長方形の御影《みかげ》石が飛《と》び々々《とび》に敷いてある。玄関は細い奇麗な格子で閉《た》て切つてある。電鈴《ベル》を押す。取次の下女に、「美禰子さんは御宅ですか」と云つた時、三四郎は自分ながら気恥《きはづ》かしい様な妙な心持がした。他《ひと》の玄関で、妙齢の女の在否《ざいひ》を尋ねた事はまだない。甚だ尋ね悪《にく》い気がする。下女の方は案外真面目である。しかも恭《〔うやうや〕》しい。一旦奥へ這入つて、又|出《で》て来《き》て、丁寧に御辞儀をして、どうぞと云ふから尾《つ》いて上《あ》がると応接間へ通した。重《おも》い窓掛《まどかけ》の懸《かゝ》つてゐる西洋室である。少し暗《くら》い。  下女は又、「暫《しば》らく、どうか……」と挨拶をして出《で》て行つた。三四郎は静かな室《へや》の中《なか》に席を占《し》めた。正面に壁《かべ》を切り抜いた小さい暖炉がある。其上が横に長い鏡《かゞみ》になつてゐて、前に蝋|燭《そく》立《たて》が二本ある。三四郎は左右の蝋燭|立《たて》の真中《まんなか》に自分の顔を写して見て、又|坐《すは》つた。  すると奥の方でヷイオリンの音《おと》がした。それが何所《どこ》からか、風が持つて来《き》て捨てゝ行つた様に、すぐ消えて仕舞つた。三四郎は惜い気がする。厚く張つた椅子の脊に倚《よ》りかゝつて、もう少し遣《や》れば可《い》いがと思つて耳を澄《す》ましてゐたが、音《おと》は夫限《それぎり》で已《や》んだ。約一分も立つうちに、三四郎はヷイオリンの事を忘れた。向ふにある鏡《かゞみ》と蝋燭|立《たて》を眺めてゐる。妙に西洋の臭《にほ》ひがする。それから加徒力《カゾリツク》の連想がある。何故《なぜ》加徒力《カゾリツク》だか三四郎にも解《わか》らない。其時ヷイオリンが又鳴つた。今度は高《たか》い音《ね》と低《ひく》い音《ね》が二三度急に続《つゞ》いて響《ひゞ》いた。それでぱつたり消えて仕舞つた。三四郎は全く西洋の音楽を知らない。然し今の音《おと》は、決して、纏つたものゝ一部分を弾《ひ》いたとは受け取れない。たゞ鳴らした丈である。その無作法にたゞ鳴らした所が、三四郎の情緒によく合《あ》つた。不意に天から二三|粒《つぶ》落ちて来《き》た、出鱈目の雹《〔ひょう〕》の様である。  三四郎が半ば感覚を失つた眼《め》を鏡《かゞみ》の中《なか》に移すと、鏡《かゞみ》の中《なか》に美禰子が何時《いつ》の間《ま》にか立つてゐる。下女が閉《た》てたと思つた戸が開《あ》いてゐる。戸の後《うしろ》に掛けてある幕《まく》を片手で押し分けた美禰子の胸から上《うへ》が明《あき》らかに写つてゐる。美禰子は鏡の中《なか》で三四郎を見た。三四郎は鏡の中《なか》の美禰子を見た。美禰子はにこりと笑つた。 「入《い》らつしやい」  女の声は後《うしろ》で聞《きこ》えた。三四郎は振《ふ》り向《む》かなければならなかつた。女と男は直《ぢか》に顔を見合せた。其時女は廂《ひさし》の広い髪《かみ》を一寸《ちよつと》前に動《うご》かして礼をした。礼をするには及ばない位に親《した》しい態度であつた。男の方は却つて椅子から腰を浮かして頭《あたま》を下《さ》げた。女は知らぬ風をして、向ふへ廻《まは》つて、鏡《かゞみ》を脊《せ》に、三四郎の正面に腰を卸した。 「とう/\入《い》らしつた」  同じ様な親しい調子である。三四郎には此|一言《いちげん》が非常に嬉しく聞えた。女は光《ひか》る絹《きぬ》を着《き》てゐる。先刻《さつき》から大分《だいぶ》待《ま》たしたところを以て見ると、応接|間《ま》へ出《で》る為《ため》にわざわざ奇麗なのに着換へたのかも知れない。それで端然と坐《すは》つてゐる。眼《め》と口《くち》に笑を帯びて無言の儘三四郎を見守つた姿《すがた》に、男は寧ろ甘《あま》い苦しみを感じた。凝《じつ》として見らるゝに堪《た》へない心の起つたのは、其癖《〔そのくせ〕》女の腰を卸《おろ》すや否やである。三四郎はすぐ口《くち》を開《ひら》いた。殆んど発作《ほつさ》に近い。 「佐々木が……」 [#7字下げ]八の六[#「八の六」は中見出し] 「佐々木さんが、あなたの所《ところ》へ入《い》らしつたでせう」と云つて例の白い歯を露《あらは》した。女の後《うしろ》には前《さき》の蝋燭|立《たて》が暖炉台《マントルピース》の左右に並んでゐる。金《きん》で細工をした妙な形《かたち》の台《だい》である。是を蝋|燭《そく》立《たて》と見たのは三四郎の臆断で、実は何だか分《わか》らない。此不可思議の蝋燭|立《たて》の後《うしろ》に明《あき》らかな鏡《かゞみ》がある。光線は厚《あつ》い窓掛《まどかけ》に遮ぎられて、充分に這入らない。其上天気は曇つてゐる。三四郎は此間《このあひだ》に美禰子の白い歯を見た。 「佐々木が来《き》ました」 「何と云つて入《い》らつしやいました」 「僕にあなたの所へ行《い》けと云つて来《き》ました」 「左《さ》うでせう。――夫《それ》で入《い》らしつたの」とわざわざ聞いた。 「えゝ」と云つて少し躊躇した。あとから「まあ、左《さ》うです」と答へた。女は全く歯《は》を隠した。静かに席を立つて、窓の所へ行つて、外面《そと》を眺め出《だ》した。 「曇りましたね。寒いでせう、戸外《そと》は」 「いゝえ、存外|暖《あたゝ》かい。風は丸でありません」 「さう」と云ひながら席《せき》へ帰つて来《き》た。 「実は佐々木が金《かね》を……」と三四郎から云ひ出《だ》した。 「分《わか》つてるの」と中途でとめた。三四郎も黙《だま》つた。すると 「何《ど》うして御失《おな》くしになつたの」と聞いた。 「馬券を買つたのです」  女は「まあ」と云つた。まあと云つた割に顔は驚ろいてゐない。却つて笑つてゐる。すこし経《た》つて、「悪《わる》い方《かた》ね」と附け加へた。三四郎は答へずにゐた。 「馬券で中《あて》るのは、人《ひと》の心《こゝろ》を中《あて》るより六※[#濁点付き小書き平仮名つ、491-13]かしいぢやありませんか。あなたは索引の付《つ》いてゐる人の心さへ中《あて》て見様となさらない呑《のん》気な方《かた》だのに」 「僕が馬券を買つたんぢやありません」 「あら。誰《だれ》が買つたの」 「佐々木が買つたのです」  女は急に笑ひ出《だ》した。三四郎も可笑《〔おか〕》しくなつた。 「ぢや、あなたが御|金《かね》が御|入《いり》用ぢやなかつたのね。馬鹿々々しい」 「要《い》る事は僕が要《い》るのです」 「本当に?」 「本当に」 「だつて夫ぢや可笑《おかし》いわね」 「だから借《か》りなくつても可《い》いんです」 「何故《なぜ》。御厭《おいや》なの?」 「厭《いや》ぢやないが、御兄《おあに》いさんに黙《だま》つて、あなたから借《か》りちや、好《よ》くないからです」 「何《ど》ういふ訳《わけ》で? でも兄《あに》は承知してゐるんですもの」 「左《さ》うですか。ぢや借《か》りても好《い》い。――然し借りないでも好《い》い。家《うち》へさう云つて遣《や》りさへすれば、一週間位すると来《き》ますから」 「御迷惑なら、強《し》ひて……」  美禰子は急に冷淡になつた。今迄|傍《そば》にゐたものが一町許|遠退《〔とおの〕》いた気がする。三四郎は借《か》りて置けば可《よ》かつたと思つた。けれども、もう仕方がない。蝋燭|立《たて》を見て澄《すま》してゐる。三四郎は自分から進んで、他《ひと》の機嫌を取つた事のない男である。女も遠《とほ》ざかつたぎり近付《ちかづ》いて来《こ》ない。しばらくすると又立ち上《あ》がつた。窓《まど》から戸外《そと》をすかして見て、 「降《ふ》りさうもありませんね」と云ふ。三四郎も同じ調子で、「降りさうもありません」と答へた。 「降《ふ》らなければ、私《わたくし》一寸《ちよつと》出《で》て来《き》やうかしら」と窓の所で立つた儘云ふ。三四郎は帰つてくれといふ意味に解釈した。光《ひか》る絹《きぬ》を着換たのも自分の為《ため》ではなかつた。 「もう帰りませう」と立ち上《あ》がつた。美禰子は玄関迄送つて来た。沓脱《〔くつぬぎ〕》へ下《お》りて、靴《くつ》を穿《は》いてゐると、上《うへ》から美禰子が、 「其所迄《そこまで》御|一所《いつしよ》に出《で》ませう。可《い》いでせう」と云つた。三四郎は靴の紐《ひも》を結びながら、「えゝ、何《ど》うでも」と答へた。女は何時《いつ》の間にか、和土《たゝき》の上《うへ》へ下《お》りた。下《お》りながら三四郎の耳《みゝ》の傍《そば》へ口《くち》を持つて来《き》て、「怒《おこ》つて入《い》らつしやるの」と私語《さゝや》いだ。所へ下女が周章《あわて》ながら、送《おく》りに出《で》て来《き》た。 [#7字下げ]八の七[#「八の七」は中見出し]  二人《ふたり》は半町程|無言《むげん》の儘《まゝ》連《つ》れ立《だ》つて来《き》た。其間《そのあひだ》三四郎は始終美禰子の事を考へてゐる。此女は我儘に育《そだ》つたに違《ちがひ》ない。それから家庭にゐて、普通の女性以上の自由を有して、万事意の如く振舞ふに違ない。かうして、誰《だれ》の許諾も経《へ》ずに、自分と一所に、往来を歩《ある》くのでも分《わか》る。年寄の親《おや》がなくつて、若《わか》い兄《あに》が放任主義だから、斯《か》うも出来《でき》るのだらうが、是が田舎《いなか》であつたら嘸《〔さぞ〕》困ることだらう。此女に三輪田の御光さんの様な生活を送れと云つたら、何《ど》うする気かしらん。東京は田舎《いなか》と違《ちが》つて、万事が明《あ》け放《はな》しだから、此方《こちら》の女は、大抵|斯《か》うなのかも分《わか》らないが、遠くから想像して見ると、もう少しは旧式の様でもある。すると与次郎が美禰子をイブセン流と評したのも成程と思ひ当る。但し俗礼《ぞくれい》に拘《かゝ》はらない所丈がイブセン流なのか、或は腹の底の思想迄も、さうなのか。其所《そこ》は分《わか》らない。  そのうち本郷の通へ出《で》た。一所に歩《ある》いてゐる二人《ふたり》は、一所に歩《ある》いてゐながら、相手が何所《どこ》へ行くのだか、全く知らない。今迄に横町を三つ許《ばかり》曲《まが》つた。曲《まが》るたびに、二人《ふたり》の足は申し合せた様に無言の儘同じ方角へ曲《まが》つた。本郷の通りを四丁目の角《かど》へ来《く》る途中で、女が聞《き》いた。 「何処《どこ》へ入《〔い〕》らつしやるの」 「あなたは何所《どこ》へ行くんです」  二人《ふたり》は一寸《ちよつと》顔を見合せた。三四郎は至極真面目である。女は堪《こら》へ切《き》れずに又白い歯を露《あら》はした。 「一所に入らつしやい」  二人《ふたり》は四丁目の角《かど》を切り通しの方へ折れた。三十間程行くと、右側《みぎがは》に大きな西洋館がある。美禰子は其前に留《とま》つた。帯の間から薄《うす》い帳面と、印形《〔いんぎょう〕》を出《だ》して、 「御願ひ」と云つた。 「何ですか」 「是で御金《おかね》を取つて頂戴」  三四郎は手を出《だ》して、帳面を受取つた。真中《まんなか》に小口《こぐち》当座|預金《あづかりきん》通帳とあつて、横に里見美禰子殿と書いてある。三四郎は帳面と印形を持つた儘、女の顔を見て立つた。 「三拾円」と女が金高《きんだか》を云つた。恰《〔あたか〕》も毎日銀行へ金《かね》を取《と》りに行き慣《つ》けた者に対する口振《くちぶり》である。幸ひ、三四郎は国《くに》にゐる時分、かう云ふ帳面を以て度々《たび/\》豊津《とよつ》迄出|掛《か》けた事がある。すぐ石段を上《のぼ》つて、戸を開《あ》けて、銀行の中《なか》へ這入つた。帳面と印形を掛《かゝり》のものに渡して、必要の金額《きんがく》を受取つて出《で》て見ると、美禰子は待つてゐない。もう切り通しの方へ二十間|許《ばかり》歩《ある》き出《だ》してゐる。三四郎は急《いそ》いで追《お》い付《つ》いた。すぐ受取つたものを渡さうとして、隠袋《ぽつけつと》へ手を入れると、美禰子が、 「丹青会の展覧会を御覧になつて」と聞いた。 「まだ覧《み》ません」 「招待券を二枚|貰《もら》つたんですけれども、つい閑《ひま》がなかつたものだから、まだ行《い》かずにゐたんですが、行《い》つて見ませうか」 「行つても可《い》いです」 「行《い》きませう。もう、ぢき閉会になりますから。私《わたくし》、一遍は見て置かないと原口さんに済《す》まないのです」 「原口さんが招待券を呉れたんですか」 「えゝ。あなた原口さんを御存じなの?」 「広田先生の所で一度|会《あ》ひました」 「面白い方《かた》でせう。馬鹿囃《ばかばやし》を稽古なさるんですつて」 「此間《このあひだ》は鼓《つゞみ》を稽《なら》ひたいと云つてゐました。夫《それ》から――」 「夫《それ》から?」 「夫《それ》から、あなたの肖像を描《か》くとか云つてゐました。本当ですか」 「えゝ、高等モデルなの」と云つた。男は是より以上に気の利いた事が云へない性質《たち》である。それで黙つて仕舞つた。女は何とか云つて貰ひたかつたらしい。 [#7字下げ]八の八[#「八の八」は中見出し]  三四郎は又|隠袋《かくし》へ手を入れた。銀行の通帳と印形を出《だ》して、女に渡した。金《かね》は帳面の間《あひだ》に挟《はさ》んで置《お》いた筈である。然《しか》るに女が、 「御金《おかね》は」と云つた。見ると、間《あひだ》にはない。三四郎は又|衣嚢《ポツケツト》を探《さぐ》つた。中《なか》から手摺《てずれ》のした札を攫《つか》み出《だ》した。女は手を出《だ》さない。 「預《あづ》かつて置いて頂戴」と云つた。三四郎は聊《〔いささ〕》か迷惑の様な気がした。然しこんな時に争ふ事を好まぬ男である。其上往来だから猶更《〔なおさら〕》遠慮をした。折角|握《にぎ》つた札を又|元《もと》の所へ収めて、妙な女だと思つた。  学生が多く通る。擦《す》れ違ふ時に屹度|二人《ふたり》を見る。中には遠くから眼《め》を付けて来《く》るものもある。三四郎は池の端へ出《で》る迄の路《みち》を頗る長く感じた。それでも電車に乗《の》る気にはならない。二人《ふたり》共のそ/\歩《ある》いてゐる。会場へ着《つ》いたのは殆んど三時近くである。妙な看板が出《で》てゐる。丹青会と云ふ字も、字の周囲《まはり》についてゐる図案も、三四郎の眼《め》には悉く新らしい。然し熊本では見る事の出来ない意味で新らしいので、寧ろ一種異様の感がある。中《なか》は猶更である。三四郎の眼《め》には只油絵と水彩画の区別が判然と映ずる位のものに過ぎない。  それでも好悪《こうお》はある。買つてもいゝと思ふのもある。然し巧拙は全く分《わか》らない。従つて鑑別力のないものと、初手から諦《あき》らめた三四郎は、一向|口《くち》を開《ひら》かない。  美禰子が是は何《ど》うですかと云ふと、左《さ》うですなといふ。是は面白いぢやありませんかと云ふと、面白さうですなといふ。丸で張合《はりあひ》がない。話しの出来《でき》ない馬鹿か、此方《こつち》を相手にしない偉《えら》い男か、何方《どつち》かに見える。馬鹿とすれば衒《てら》はない所に愛嬌がある。偉《えら》いとすれば、相手にならない所が悪《にく》らしい。  長《なが》い間《あひだ》外国を旅行して歩《ある》いた兄妹《きようだい》の画が沢山ある。双方共同じ姓で、しかも一つ所《ところ》に並《なら》べて掛けてある。美禰子は其一枚の前に留《とま》つた。 「※[#濁点付き片仮名エ、498-10]ニスでせう」  是は三四郎にも解《わか》つた。何だか※[#濁点付き片仮名エ、498-11]ニスらしい。画舫《ゴンドラ》にでも乗つて見たい心持がする。三四郎は高等学校に居る時分|画舫《ゴンドラ》といふ字を覚えた。それから此字が好《すき》になつた。画舫《ゴンドラ》といふと、女と一所に乗らなければ済まない様な気がする。黙《だま》つて蒼《あを》い水《みづ》と、水《みづ》の左右の高い家《いへ》と、倒《さか》さに映《うつ》る家の影《かげ》と、影《かげ》の中《なか》にちらちらする赤《あか》い片《きれ》とを眺めてゐた。すると、 「兄《あに》さんの方が余程|旨《うま》い様ですね」と美禰子が云つた。三四郎には此意味が通じなかつた。 「兄《あに》さんとは……」 「此|画《ゑ》は兄《あに》さんの方でせう」 「誰《だれ》の?」  美禰子は不思議さうな顔をして、三四郎を見た。 「だつて、彼方《あつち》の方が妹《いもうと》さんので、此方《こつち》の方が兄《あに》さんのぢやありませんか」  三四郎は一歩|退《しりぞ》いて、今通つて来た路《みち》の片側《かたがは》を振り返つて見た。同じ様に外国の景色を描《か》いたものが幾点となく掛《かゝ》つてゐる。 「違《ちが》ふんですか」 「一人《ひとり》と思つて入《〔い〕》らしつたの」 「えゝ」と云つて、呆《ぼん》やりしてゐる。やがて二人《ふたり》が顔を見合した。さうして一度に笑ひ出《だ》した。美禰子は、驚ろいた様に、わざと大きな眼《め》をして、しかも一段と調子を落《おと》した小声《こごゑ》になつて、 「随分ね」と云ひながら、一間ばかり、ずん/\先《さき》へ行《い》つて仕舞つた。三四郎は立ち留つた儘、もう一遍※[#濁点付き片仮名エ、499-13]ニスの堀割《ほりわり》を眺め出《だ》した。先《さき》へ抜けた女は、此時振り返つた。三四郎は自分の方を見てゐない。女は先《さき》へ行く足をぴたりと留《と》めた。向《むかふ》から三四郎の横顔《よこがほ》を熟視してゐた。 「里見さん」  出《だ》し抜《ぬけ》に誰《だれ》か大きな声で呼んだ者《もの》がある。 [#7字下げ]八の九[#「八の九」は中見出し] 美禰子も三四郎も等しく顔を向け直した。事務室と書《か》いた入口《いりぐち》を一間許|離《はな》れて、原口さんが立つてゐる。原口さんの後《うしろ》に、少し重《かさ》なり合つて、野々宮さんが立つてゐる。美禰子は呼ばれた原口よりは、原口より遠くの野々宮を見た。見るや否や、二三歩|後戻《あともど》りをして三四郎の傍《そば》へ来《き》た。人《ひと》に目立《めだゝ》ぬ位に、自分の口を三四郎の耳へ近寄せた。さうして何か私語《さゝや》いた。三四郎には何を云つたのか、少しも分《わか》らない。聞き直さうとするうちに、美禰子は二人《ふたり》の方へ引き返して行《い》つた。もう挨拶をしてゐる。野々宮は三四郎に向つて、 「妙な連《つれ》と来《き》ましたね」と云つた。三四郎が何か答へやうとするうちに、美禰子が、 「似合《にあ》ふでせう」と云つた。野々宮さんは何とも云はなかつた。くるりと後《うし》ろを向いた。後ろには畳《たゝみ》一枚程の大きな画がある。其画は肖像画である。さうして一面に黒い。着物も帽子も背景から区別の出来ない程光線を受けてゐない中《なか》に、顔《かほ》ばかり白い。顔《かほ》は瘠せて、頬《ほゝ》の肉が落ちてゐる。 「模写ですね」と野々宮さんが原口さんに云つた。原口は今しきりに美禰子に何か話してゐる。――もう閉会である。来観者も大分減つた。開会の初めには毎日事務へ来《き》てゐたが、此頃は滅多に顔を出さない。今日《けふ》は久し振りに、此方《こつち》へ用があつて、野々宮さんを引張つて来《き》た所だ。うまく出《で》つ食《く》はしたものだ。此会を仕舞ふと、すぐ来年の準備にかゝらなければならないから、非常に忙《いそ》がしい。何時《いつ》もは花の時分に開くのだが、来年は少し会員の都合で早くする積りだから、丁度会を二つ続《つゞ》けて開くと同じ事になる。必死の勉強をやらなければならない。それ迄に是非美禰子の肖像を描《か》き上げて仕舞ふ積である。迷惑だらうが大晦日《おほみそか》でも描《か》ゝして呉れ。 「其代り此所《こゝ》ん所《ところ》へ掛ける積です」  原口さんは此時始めて、黒い画の方を向いた。野々宮さんは其間《そのあひだ》ぽかんとして同じ画を眺めてゐた。 「どうです。※[#濁点付き片仮名エ、501-10]ラスケスは。尤も模写ですがね。しかも余り上出来ではない」と原口が始めて説明する。野々宮さんは何にも云ふ必要がなくなつた。 「どなたが御写しになつたの」と女が聞いた。 「三井です。三井はもつと旨《うま》いんですがね。此画はあまり感服出来ない」と一二歩|退《さ》がつて見た。「どうも、原画が技巧の極点に達した人のものだから、旨《うま》く行《い》かないね」  原口は首《くび》を曲《ま》げた。三四郎は原口の首《くび》を曲《ま》げた所を見てゐた。 「もう、皆《みんな》見たんですか」と画工が美禰子に聞いた。原口は美禰子に許《ばかり》話しかける。 「まだ」 「どうです。もう廃《よ》して、一所《いつしよ》に出《で》ちや。西洋軒で御茶でも上《あ》げます。なに私《わたし》は用があるから、どうせ一寸《ちよつと》行かなければならない。――会の事《こと》でね、マネジヤーに相談して置きたい事がある。懇意の男だから。――今丁度御茶に好《い》い時分です。もう少しするとね、御茶には遅《おそ》し晩餐《ヂンナー》には早し、中途半|端《ぱ》になる。どうです。一所に入《〔い〕》らつしやいな」  美禰子は三四郎を見た。三四郎はどうでも可《い》い顔をしてゐる。野々宮は立つた儘関係しない。 「折角|来《き》たものだから、皆《みんな》見て行きませう。ねえ、小川さん」  三四郎はえゝと云つた。 「ぢや、斯《か》うなさい。此奥の別室にね。深見《ふかみ》さんの遺画があるから、それ丈見て、帰りに西洋軒へ入らつしやい。先《さき》へ行《い》つて待つてゐますから」 「難有《〔ありがと〕》う」 「深見さんの水彩は普通の水彩の積で見ちや不可《いけ》ませんよ。何所《どこ》迄も深見さんの水彩なんだから。実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になつてゐると、中々《なか/\》面白い所が出《で》て来《き》ます」と注意して、原口は野々宮と出て行つた。美禰子は礼を云つて其|後影《うしろかげ》を見送つた。二人《ふたり》は振り返《かへ》らなかつた。 [#7字下げ]八の十[#「八の十」は中見出し]  女は歩を回《めぐ》らして、別室へ入《はい》つた。男は一足《ひとあし》後《あと》から続《つゞ》いた。光線の乏しい暗《くら》い部屋である。細長い壁《かべ》に一列に懸《かゝ》つてゐる深見先生の遺画を見ると、成程原口さんの注意した如く殆んど水彩ばかりである。三四郎が著《いちじ》るしく感じたのは、其水彩の色が、どれも是も薄《うす》くて、数《かず》が少《すく》なくつて、対照に乏しくつて、日向《ひなた》へでも出《だ》さないと引《ひ》き立たないと思ふ程|地味《ぢみ》に描《か》いてあるといふ事である。其代り筆《ふで》が些《ちつ》とも滞つてゐない。殆んど一気|呵成《〔かせい〕》に仕上《しあげ》た趣がある。絵《ゑ》の具《ぐ》の下《した》に鉛筆の輪廓が明《あき》らかに透《す》いて見えるのでも、洒落な画《ぐわ》風がわかる。人間抔になると、細くて長くて、丸で殻竿《からさほ》の様である。こゝにも※[#濁点付き片仮名エ、503-9]ニスが一《いち》枚ある。 「是も※[#濁点付き片仮名エ、503-10]ニスですね」と女が寄《よ》つて来た。 「えゝ」と云つたが、※[#濁点付き片仮名エ、503-11]ニスで急に思ひ出《だ》した。 「さつき何を云つたんですか」  女は「さつき?」と聞き返した。 「さつき、僕が立つて、彼方《あつち》の※[#濁点付き片仮名エ、503-14]ニスを見てゐる時です」  女は又真白な歯《は》を露はした。けれども何とも云はない。 「用でなければ聞かなくつても可《い》いです」 「用ぢやないのよ」  三四郎はまだ変な顔をしてゐる。曇つた秋の日はもう四時《よじ》を越《こ》した。部屋は薄暗くなつてくる。観覧人は極めて少ない。別室の中《うち》には、只《たゞ》男女|二人《ふたり》の影があるのみである。女は画を離れて、三四郎の真《ま》正面に立《た》つた。 「野々宮さん。ね、ね」 「野々宮さん……」 「解《わか》つたでせう」  美禰子の意味は、大濤《おほなみ》の崩れる如く一度に三四郎の胸を浸《ひた》した。 「野々宮さんを愚弄したのですか」 「何《な》んで?」  女の語気は全く無邪気である。三四郎は忽然として、後《あと》を云ふ勇気がなくなつた。無|言《ごん》の儘二三歩|動《うご》き出《だ》した。女は縋《すが》る様に付《つ》いて来《き》た。 「あなたを愚弄したんぢや無いのよ」  三四郎は又立ち留《どま》つた。三四郎は脊《せい》の高い男である。上《うへ》から美禰子を見下《みおろ》した。 「それで宜《い》いです」 「何故《なぜ》悪《わる》いの?」 「だから可《い》いです」  女は顔を背《そむ》けた。二人《ふたり》共|戸口《とぐち》の方へ歩《ある》いて来《き》た。戸口《とぐち》を出《で》る拍子に互《たがひ》の肩が触れた。男は急に汽車で乗り合はした女を思ひ出《だ》した。美禰子の肉《にく》に触《ふ》れた所が、夢《ゆめ》に疼《うづ》く様な心持がした。 「本当に宜《い》いの?」と美禰子が小《ち》さい声で聞いた。向ふから二三|人連《にんづれ》の観覧者が来《く》る。 「兎も角|出《で》ませう」と三四郎が云つた。下足を受取つて、出《で》ると戸外《そと》は雨《あめ》だ。 「西洋軒へ行きますか」  美禰子は答《こた》へなかつた。雨《あめ》の中《なか》を濡《ぬ》れながら、博物館|前《まへ》の広《ひろ》い原の中《なか》に立つた。幸ひ雨は今|降《ふ》り出《だ》した許である。其上《そのうへ》烈しくはない。女は雨の中《なか》に立つて、見廻《みまは》しながら、向ふの森《もり》を指《さ》した。 「あの樹《き》の蔭《かげ》へ這入《はい》りませう」  少し待てば歇《や》みさうである。二人《ふたり》は大きな杉の下《した》に這《はい》つた[#「這《はい》つた」はママ]。雨を防《ふせ》ぐには都合の好《よ》くない樹《き》である。けれども二人《ふたり》とも動《うご》かない。濡《ぬ》れても立つてゐる。二人《ふたり》共|寒《さむ》くなつた。女が「小川さん」と云ふ。男は八の字を寄《よ》せて、空《そら》を見てゐた顔を女の方へ向けた。 「悪《わる》くつて? 先刻《さつき》のこと」 「可《い》いです」 「だつて」と云ひながら、寄《よ》つて来《き》た。「私《わたくし》、何故《なぜ》だか、あゝ為《し》たかつたんですもの。野々宮さんに失礼する積《つもり》ぢやないんですけれども」  女は瞳《ひとみ》を定《さだ》めて、三四郎を見た。三四郎は其|瞳《ひとみ》の中《なか》に言葉よりも深き訴を認めた。――必竟《〔ひっきょう〕》あなたの為《ため》にした事ぢやありませんかと、二重瞼《ふたへまぶた》の奥で訴へてゐる。三四郎は、もう一遍、 「だから、可《い》いです」と答へた。  雨は段々|濃《こ》くなつた。雫《しづく》の落《お》ちない場所は僅かしかない。二人《ふたり》は段々《だん/\》一つ所へ塊《かた》まつて来《き》た。肩と肩と擦《す》れ合ふ位にして立ち竦《すく》んでゐた。雨の音《おと》の中《なか》で、美禰子が、 「さつきの御金《おかね》を御|遣《つか》ひなさい」と云つた。 「借りませう。要《い》る丈《だけ》」と答へた。 「みんな、御|遣《つか》ひなさい」と云つた。 [#7字下げ]九の一[#「九の一」は中見出し]  与次郎が勧《すゝ》めるので、三四郎はとう/\西洋軒の会へ出《で》た。其時三四郎は黒い紬《つむぎ》の羽織を着《き》た。此羽織は、三輪田の御光さんの御母《おつか》さんが織つて呉れたのを、紋付《もんつき》に染めて、御|光《みつ》さんが縫ひ上《あ》げたものだと、母《はゝ》の手紙に長い説明がある。小包《こづゝみ》が届《とゞ》いた時、一応|着《き》て見て、面白くないから、戸棚へ入れて置いた。それを与次郎が、勿体ないから是非|着《き》ろ/\と云ふ。三四郎が着《き》なければ、自分が持つて行つて着《き》さうな勢であつたから、つい着《き》る気になつた。着て見ると悪《わる》くはない様だ。  三四郎は此|出立《いでたち》で、与次郎と二人《ふたり》で西洋軒の玄関に立つてゐた。与次郎の説によると、御客は斯《〔こ〕》うして迎へべきものださうだ。三四郎はそんな事とは知らなかつた。第一自分が御客の積《つもり》でゐた。かうなると、紬《つむぎ》の羽織では何だか安《やす》つぽい受附の気がする。制服を着《き》て来《く》れば善《よ》かつたと思つた。其うち会員が段々|来《く》る。与次郎は来《く》る人《ひと》を捕《つら》まへて屹度《きつと》何とか話《はな》しをする。悉《ことごと》く旧知の様にあしらつてゐる。御客が帽子と外套を給仕に渡して、広い階子《はしご》段の横を、暗《くら》い廊下の方へ折れると、三四郎に向つて、今のは誰某《だれそれがし》だと教へて呉れる。三四郎は御|蔭《かげ》で知名な人の顔《かほ》を大分覚えた。  其内《そのうち》御客は略《ほゞ》集つた。約三十人足らずである。広田先生もゐる。野々宮さんもゐる。――是は理学者だけれども、画や文学が好《すき》だからと云ふので、原口さんが、無理に引つ張り出《だ》したのださうだ。原口さんは無論ゐる。一番|先《さき》へ来《き》て、世話を焼《や》いたり、愛嬌を振り蒔《ま》いたり、仏蘭西式の髯《ひげ》を撮《つま》んで見たり、万事|忙《いそ》がしさうである。  やがて着席となつた。各自《めい/\》勝手な所へ坐《すは》る。譲るものもなければ、争ふものもない。其|内《うち》でも広田先生はのろいにも似合はず一番に腰を卸《おろ》して仕舞つた。たゞ与次郎と三四郎丈が一所になつて、入口《いりぐち》に近く座を占めた。其他は悉く偶然の向ひ合せ、隣り同志であつた。  野々宮さんと広田先生の間に縞《しま》の羽織を着た批評家が坐《すは》つた。向ふには庄司と云ふ博士が座に着《つ》いた。是は与次郎の所謂《〔いわゆる〕》文科で有力な教授である。フロツクを着《き》た品格のある男であつた。髪《かみ》を普通の倍以上長くしてゐる。それが電燈の光《ひかり》で、黒《くろ》く渦《うず》を捲いて見《み》える。広田先生の坊主|頭《あたま》と較《くら》べると大分相違がある。原口さんは大分離れて席を取つた。彼方《あちら》の角《かど》だから、遠く三四郎と真向《まむかひ》になる。折襟《をりえり》に、幅《はゞ》の広い黒繻子《くろしゆす》を結《むす》んだ先《さき》がぱつと開《ひら》いて胸|一杯《いつぱい》になつてゐる。与次郎が、仏蘭西の画工《アーチスト》は、みんなあゝ云ふ襟飾《えりかざり》を着《つ》けるものだと教へて呉れた。三四郎は肉汁《そつぷ》を吸《す》ひながら、丸で兵児《へこ》帯の結目《むすびめ》の様だと考へた。其うち談話が段々|始《はじ》まつた。与次郎は麦酒《ビール》丈|飲《の》む。何時《いつ》もの様に口《くち》を利かない。流石《さすが》の男も今日《けふ》は少々|謹《つゝ》しんでゐると見える。三四郎が、小さな声で、 「些《ち》と、ダーター、フアブラを遣《や》らないか」と云ふと、「今日《けふ》は不可《いけ》ない」と答へたが、すぐ横を向いて、隣りの男と話を始めた。あなたの、あの論文を拝見して、大いに利益を得ましたとか何とか礼を述べてゐる。所が其論文は、彼が自分の前で、盛んに罵倒したものだから、三四郎には頗る不思議の思ひがある。与次郎は又|此方《こつち》を向いた。 「其羽織は中々《なか/\》立派だ。能《よ》く似合ふ」と白い紋を殊更《〔ことさら〕》注意して眺めてゐる。其時向ふの端《はじ》から、原口さんが、野々宮に話しかけた。元来が大きな声の人だから、遠くで応対するには都合が好《い》い。今迄|向《むか》ひ合せに言葉を換《かは》してゐた広田先生と庄司といふ教授は、二人《ふたり》の応答を途中で遮《さへ》ぎる事を恐れて、談話をやめた。其他の人もみんな黙《だま》つた。会の中心点が始めて出来|上《あが》つた。 [#7字下げ]九の二[#「九の二」は中見出し] 「野々宮さん光線の圧力の試験はもう済みましたか」 「いや、まだ中々《なか/\》だ」 「随分手数が掛《か》ゝるもんだね。我々《われ/\》の職業も根気仕事だが、君《きみ》の方はもつと劇《はげ》しい様だ」 「画《ゑ》はインスピレーシヨンで直《す》ぐ描《か》けるから可《い》いが、物理の実験はさう旨《うま》くは不可《いか》ない」 「インスピレーシヨンには辟易《〔へきえき〕》する。此|夏《なつ》ある所を通つたら婆さんが二人《ふたり》で問答をしてゐた。聞《き》いて見ると梅雨《つゆ》はもう明《あ》けたんだらうか、どうだらうかといふ研究なんだが、一人《ひとり》の婆《ばあ》さんが、昔《むかし》は雷《かみなり》さへ鳴れば梅雨《つゆ》は明《あ》けるに極《き》まつてゐたが、近頃ぢや左《さ》うは不可《いか》ないと不平《こぼ》してゐる。すると一人《ひとり》が何《ど》うして、/\[#「何《ど》うして、/\」はママ]雷《かみなり》位で明《あ》ける事ぢやありやしないと憤慨してゐた。――画も其通り、今の画はインスピレーシヨン位で描《か》ける事ぢやありやしない。ねえ田村さん、小説だつて、左《さ》うだらう」  隣りに田村といふ小説家が坐《すは》つて居た。此男が自分のインスピレーシヨンは原稿の催促以外に何にもないと答へたので、大笑ひになつた。田村は、それから改《あら》たまつて、野々宮さんに、光線に圧力があるものか、あれば、どうして試験するかと聞き出《だ》した。野々宮さんの答は面白かつた。――  雲母《マイカ》か何かで、十六|武蔵《むさし》位の大きさの薄《うす》い円盤を作《つく》つて、水晶の糸《いと》で釣《つる》して、真空の中《うち》に置いて、此円盤の面《めん》へ弧光《〔アーク〕》燈の光《ひかり》を直角にあてると、此円盤が光《ひかり》に圧《お》されて動く。と云ふのである。  一座は耳を傾けて聞いてゐた。中《なか》にも三四郎は腹の中《なか》で、あの福神漬の缶のなかに、そんな装置がしてあるのだらうと、上京の際、望遠鏡で驚ろかされた昔を思ひ出《だ》した。 「君、水晶の糸があるのか」と小《ちい》さな声で与次郎に聞いて見た。与次郎は頭《あたま》を振《ふ》つてゐる。 「野々宮さん、水晶の糸がありますか」 「えゝ、水晶の粉をね。酸水素吹管の焔《ほのほ》で溶かして置《お》いて、かたまつた所を両方の手で、左右へ引つ張ると細《ほそ》い糸が出来るのです」  三四郎は「左《さ》うですか」と云つたぎり、引つ込んだ。今度は野々宮さんの隣にゐる縞の羽織の批評家が口を出した。 「我々はさう云ふ方面へ掛けると、全然無学なんですが、そんな試験を遣《や》つて見様と、始め何《ど》うして気が付《つ》いたものでせうな」 「始め気が付《つ》いたのは、何でも瑞典《〔スウェーデン〕》か何処《どこ》かの学者ですが。あの彗星の尾が、太陽の方へ引き付けられべき筈であるのに、出《で》るたびに何時《いつ》でも反対の方角に靡《なび》くのは変だと考へ出《だ》したのです。それから、もしや光《ひかり》の圧力で吹き飛ばされるんぢやなからうかと思ひ付いたのです」  批評家は大分感心したらしい。 「思ひ付きも面白いが、第一大きくて可《い》いですね」と云つた。 「大きい許《ばかり》ぢやない、罪がなくつて愉快だ」と広田先生が云つた。 「それで其思ひ付が外《はづ》れたら猶《〔なお〕》罪がなくつて可《い》い」と原口さんが笑つてゐる。 「否《いや》、どうも中《あた》つてゐるらしい。光線の圧力は半径の二乗に比例するが、引力の方は半径の三乗に比例するんだから、物が小《ちい》さくなればなる程引力の方が負けて、光線の圧力が強くなる。もし彗星の尾が非常に細かい小片《ペーチクル》から出来てゐるとすれば、どうしても太陽とは反対の方へ吹き飛ばされる訳だ」  野々宮は、つい真面目《まじめ》になつた。すると原口が例の調子で、 「罪がない代りに、大変計算が面倒になつて来《き》た。矢っ張一利一害だ」と云つた。此一言で、人々《ひと/″\》は元の通り麦酒《ビール》の気分に復した。広田先生が、斯《こ》んな事を云ふ。 「どうも物理学者は自然派ぢや駄目の様だね」  物理学者と自然派の二字は少なからず満場の興味を刺激した。 [#7字下げ]九の三[#「九の三」は中見出し] 「それは何《ど》う云ふ意味ですか」と本人の野々宮さんが聞き出《だ》した。広田先生は説明しなければならなくなつた。 「だつて、光線の圧力を試験する為《ため》に、眼《め》丈|明《あ》けて、自然を観察してゐたつて、駄目だからさ。彗星でも出《で》れば気が付く人もあるかも知れないが、それでなければ、自然の献立のうちに、光線の圧力といふ事実は印刷されてゐない様ぢやないか。だから人巧的に、水晶の糸だの、真空だの、雲母《マイカ》だのと云ふ装置をして、其圧力が物理学者の眼に見えるやうに仕掛けるのだらう。だから自然派ぢやないよ」 「然し浪漫《ローマン》派でもないだらう」と原口さんが交《ま》ぜ返《かへ》した。 「いや浪漫派だ」と広田先生が勿体らしく弁解した。「光線と、光線を受けるものとを、普通の自然界に於ては見出せない様な位地関係に置く所が全く浪漫派ぢやないか」 「然し、一旦さういふ位地関係に置いた以上は、光線固有の圧力を観察する丈だから、それからあとは自然派でせう」と野々宮さんが云つた。 「すると、物理学者は浪漫的自然派ですね。文学の方で云ふと、イブセンの様なものぢやないか」と筋向ふの博士が比較を持《も》ち出した。 「左様、イブセンの劇は野々宮君と同じ位な装置があるが、其装置の下《した》に働らく人物は、光線の様に自然の法則に従つてゐるか疑はしい」是は縞《しま》の羽織の批評家の言葉であつた。 「左《さ》うかも知れないが、斯《か》う云ふ事は人間の研究上記憶して置くべき事だと思ふ。――即ち、ある状況の下《もと》に置かれた人間は、反対の方向に働らき得る能力と権利とを有してゐる。と云ふ事なんだが。――所が妙な習慣で、人間も光線も同じ様に器械的の法則に従つて活動すると思ふものだから、時々飛んだ間違が出来る。怒らせやうと思つて装置をすると、笑つたり。笑はせやうと目論《もくろ》んで掛《か》ゝると、怒つたり。丸で反対だ。然しどつちにしても人間に違ない」と広田先生が又問題を大きくして仕舞つた。 「ぢや、ある状況の下《もと》に、ある人間が、どんな所作をしても自然だと云ふ事になりますね」と向《むかふ》の小説家が質問した。広田先生は、すぐ、 「えゝ、えゝ。どんな人間を、どう描《か》いても世界に一人《ひとり》位はゐる様ぢやないですか」と答へた。「実際人間たる吾々は、人間らしからざる行為動作を、何《ど》うしたつて想像出来るものぢやない。たゞ下手《へた》に書《か》くから人間《にんげん》と思はれないのぢやないですか」  小説家は夫で黙つた。今度は博士が又|口《くち》を利《き》いた。 「物理学者でも、ガリレオが寺院の釣り洋燈《らんぷ》の一振動の時間が、振動の大小に拘《かゝ》はらず同じである事に気が付いたり、ニユートンが林檎が引力で落ちるのを発見したりするのは、始めから自然派ですね」 「さう云ふ自然派なら、文学の方でも結構でせう。原口さん、画の方でも自然派がありますか」と野々宮さんが聞いた。 「あるとも。恐るべきクールベエと云ふ奴《やつ》がゐる。|〔ve'rite'〕 vraie《※[#濁点付き片仮名エ、514-9]リテ、ヴレイ》、何でも事実でなければ承知しない。然しさう猖獗《〔しょうけつ〕》を極めてゐるものぢやない。たゞ一派として存在を認められる丈さ。又|左《さ》うでなくつちや困るからね。小説だつて同《おな》じ事だらう、ねえ君。矢っ張りモローや、シヤヷンヌの様なのもゐる筈《はづ》だらうぢやないか」 「居る筈《はづ》だ」と隣《となり》の小説家が答へた。  食後には卓上演説も何もなかつた。たゞ原口さんが、しきりに九段の上の銅像の悪口を云つてゐた。あんな銅像を無暗に立てられては、東京市民が迷惑する。それより、美くしい芸者の銅像でも拵らへる方が気が利《き》いてゐるといふ説であつた。与次郎は三四郎に九段の銅像は原口さんと仲《なか》の悪《わる》い人が作《つく》つたんだと教へた。  会が済んで、外《そと》へ出ると好い月であつた。今夜《こんや》の広田先生は庄司博士に善い印象を与へたらうかと与次郎が聞いた。三四郎は与へたらうと答へた。与次郎は共同水道栓の傍《そば》に立つて、此夏《このなつ》、夜《よる》散歩に来《き》て、あまり暑《あつ》いから、此所《こゝ》で水を浴《あ》びてゐたら、巡査に見付かつて、擂鉢《すりばち》山へ馳け上《あ》がつたと話した。二人《ふたり》は擂鉢山の上で月を見て帰つた。 [#7字下げ]九の四[#「九の四」は中見出し]  帰り路《みち》に与次郎が三四郎に向つて、突然借金の言訳《いひわけ》をし出《だ》した。月の冴えた比較的|寒《さむ》い晩である。三四郎は殆んど金《かね》の事などは考へてゐなかつた。言訳を聞くのでさへ本気ではない。どうせ返《かへ》す事はあるまいと思つてゐる。与次郎も決して返《かへ》すとは云はない。たゞ返《かへ》せない事情を色々に話す。其話し方《かた》のほうが三四郎には余程面白い。――自分の知つてる去る男が、失恋の結果、世の中《なか》が厭《いや》になつて、とう/\自殺を仕様と決心したが、海もいや河もいや、噴火口は猶《〔なお〕》いや、首を縊《くゝ》るのは尤もいやと云ふ訳で、已《〔やむ〕》を得ず短銃《ピストル》を買つて来《き》た。買つて来《き》て、まだ目的を遂行しないうちに、友達が金を借りに来《き》た。金はないと断わつたが、是非どうかして呉れと訴へるので、仕方なしに、大事の短銃《ピストル》を借《〔か〕》して遣《や》つた。友達はそれを質《しち》に入れて一時を凌《しの》いだ。都合がついて、質を受出《うけだ》して返《かへ》しに来《き》た時は、肝心の短銃《ピストル》の主はもう死ぬ気がなくなつて居た。だから此男の命《いのち》は金《かね》を借《か》りに来《こ》られた為《ため》に助《たす》かつたと同じ事である。 「さう云ふ事もあるからなあ」と与次郎が云つた。三四郎には只|可笑《〔おか〕》しい丈である。其|外《ほか》には何等の意味もない。高い月を仰いで大きな声を出《だ》して笑つた。金《かね》を返されないでも愉快である。与次郎は、 「笑《わら》つちや不可《いか》ん」と注意した。三四郎は猶可笑しくなつた。 「笑はないで、よく考へて見ろ。己《おれ》が金《かね》を返《かへ》さなければこそ、君が美禰子さんから金《かね》を借《か》りる事が出来たんだらう」  三四郎は笑ふのを已《や》めた。 「それで?」 「それ丈で沢山ぢやないか。――君、あの女を愛してゐるんだらう」  与次郎は善く知つてゐる。三四郎はふんと云つて、又高い月を見た。月の傍《そば》に白い雲が出《で》た。 「君、あの女には、もう返したのか」 「いゝや」 「何時《いつ》迄も借りて置いてやれ」  呑気な事を云ふ。三四郎は何とも答へなかつた。しかし何時《いつ》迄も借《か》りて置く気は無論|無《な》かつた。実は必要な弐拾円を下宿へ払《はら》つて、残りの拾円を其|翌日《あくるひ》すぐ里見の家《うち》へ届けやうと思つたが、今|返《かへ》しては却つて、好意に背いて、よくないと考へ直して、折角門内に這入《はい》られる機会を犠牲《ぎせい》にして迄、引き返した。其時何かの拍子で、気が緩《〔ゆる〕》んで、其十円をくづして仕舞つた。実は今夜の会費も其内《そのうち》から出《で》てゐる。自分の許《ばかり》ではない。与次郎のもその内《うち》から出《で》てゐる。あとには、漸やく二三円残つてゐる。三四郎は夫で冬|襯衣《シヤツ》を買はうと思つた。  実は与次郎が到底|返《かへ》しさうもないから、三四郎は思ひ切つて、此間《このあひだ》国元へ三十円の不足を請求した。充分な学資を月々《つき/″\》貰《もら》つてゐながら、たゞ不足だからと云つて請求する訳には行かない。三四郎はあまり嘘《うそ》を吐《つ》いた事のない男だから、請求の理由に至つて困却した。仕方がないからたゞ友達が金《かね》を失《な》くして弱つてゐたから、つい気の毒になつて貸《か》してやつた。其結果として、今度は此方《こつち》が弱る様になつた。どうか送つて呉れと書《か》いた。  直《すぐ》返事を出《だ》して呉《く》れゝば、もう届《とゞ》く時分であるのにまだ来《こ》ない。今夜あたりは殊《〔こと〕》によると来《き》てゐるかも知れぬ位に考へて、下宿へ帰つて見ると、果して、母の手蹟《て》で書いた封筒がちやんと机の上に乗つてゐる。不思議な事に、何時《いつ》も必ず書留で来《く》るのが、今日《けふ》は三銭切手一枚で済ましてある。開《ひら》いて見ると、中《なか》は例になく短かい。母としては不親切な位、用事丈で申し納めて仕舞つた。依頼の金は野々宮さんの方へ送つたから、野々宮さんから受取れといふ差図に過ぎない。三四郎は床《とこ》を取つて寐た。 [#7字下げ]九の五[#「九の五」は中見出し]  翌日《よくじつ》も其|翌日《よくじつ》も三四郎は野々宮さんの所へ行《い》かなかつた。野々宮さんの方でも何《なん》とも云つて来《こ》なかつた。さうしてゐる内《うち》に一週間程|経《た》つた。仕舞に野々宮さんから、下宿の下女を使《つかひ》に手紙を寄《よ》こした。御母《おつか》さんから頼《たの》まれものがあるから、一寸《ちよつと》来《き》て呉れろとある。三四郎は講義の隙《すき》を見て、又理科大学の穴倉へ降《お》りて行《い》つた。其所《そこ》で立談《〔たちばなし〕》の間に事を済ませやうと思つた所が、左《さ》う旨《うま》くは行《い》かなかつた。此夏《このなつ》は野々宮さん丈《だけ》で専領してゐた部屋に、髭《ひげ》の生《は》えた人が二三人ゐる。制服を着《き》た学生も二三人ゐる。それが、みんな熱心に、静粛に、頭《あたま》の上《うへ》の日の当《あた》る世界を余所《よそ》にして、研究を遣《や》つてゐる。其内《そのうち》で野々宮さんは尤も多忙に見えた。部屋の入口に顔を出《だ》した三四郎を、一寸《ちよつと》見て、無言《むげん》の儘|近寄《ちかよ》つて来《き》た。 「国《くに》から、金《かね》が届《とゞ》いたから、取《と》りに来《き》て呉れ玉へ。今|此所《こゝ》に持つてゐないから。それからまだ外《ほか》に話す事もある」  三四郎ははあと答へた。今夜でも好《い》いかと尋ねた。野々宮は少し考へてゐたが、仕舞に思ひ切つて、宜《よ》ろしいと云つた。三四郎は夫《それ》で穴倉を出《で》た。出《で》ながら、流石《さすが》に理学者は根気の能《い》いものだと感心した。此夏《このなつ》見た福神漬の缶と、望遠鏡が依然として故《もと》の通りの位地に備へ付けてあつた。  次の講義の時間に与次郎に逢つて是々《これ/\》だと話すと、与次郎は馬鹿だと云はない許に三四郎を眺めて、 「だから何時迄《いつまで》も借《か》りて置いてやれと云つたのに。余計な事をして年寄には心配を掛ける。宗八さんには御談義をされる。是位《〔これくらい〕》愚な事はない」と丸で自分から事が起つたとは認《みと》めてゐない申分である。三四郎も此問題に関しては、もう与次郎の責任を忘れて仕舞つた。従つて与次郎の頭《あたま》に掛《かゝ》つて来《こ》ない返事をした。 「何時《いつ》迄も借《か》りて置くのは、厭《いや》だから、家《うち》へさう云つて遣《や》つたんだ」 「君は厭《いや》でも、向《むか》ふでは喜《よろこ》ぶよ」 「何故《なぜ》」  此|何故《なぜ》が三四郎自身には幾分か虚偽の響《ひゞき》らしく聞えた。然し相手には何等の影響も与へなかつたらしい。 「当り前ぢやないか。僕を人にしたつて、同じ事だ。僕に金《かね》が余つてゐるとするぜ。左《さ》うすれば、其|金《かね》を君《きみ》から返《かへ》して貰《もら》ふよりも、君に貸して置く方が善い心持《こゝろもち》だ。人間はね、自分が困らない程度内で、成る可《〔べ〕》く人に親切がして見たいものだ」  三四郎は返事をしないで、講義を筆記し始めた。二三行書き出《だ》すと、与次郎が又、耳の傍《そば》へ口《くち》を持《も》つて来《き》た。 「おれだつて、金のある時は度々《たび/\》人に貸した事がある。然し誰《だれ》も決して返《かへ》したものがない。夫《それ》だからおれは此通り愉快だ」  三四郎は真逆《まさか》、左《さ》うかとも云へなかつた。薄《うす》笑ひをした丈で、又|洋筆《ペン》を走《はし》らし始めた。与次郎も夫《それ》からは落付《おちつ》いて、時間の終る迄|口《くち》を利《き》かなかつた。  号鐘《ベル》が鳴《な》つて、二人《ふたり》肩を並《なら》べて教場を出《で》るとき、与次郎が、突然|聞《き》いた。 「あの女は君に惚《ほ》れてゐるのか」  二人《ふたり》の後《あと》から続々《ぞく/\》聴講生が出《で》て来《く》る。三四郎は已《〔やむ〕》を得ず無言の儘|階子《はしご》段を降《お》りて横手の玄関から、図書館|傍《わき》の空地《あきち》へ出《で》て、始めて与次郎を顧《かへり》みた。 「能《よ》く分《わか》らない」  与次郎は暫らく三四郎を見てゐた。 「左《さ》う云ふ事もある。然し能く分《わか》つたとして。君《きみ》、あの女の夫《ハスバンド》になれるか」  三四郎は未《いま》だ曾て此問題を考へた事がなかつた。美禰子に愛せられるといふ事実其物が、彼女の夫《ハスバンド》たる唯一の資格の様な気がしてゐた。云はれて見ると、成程疑問である。三四郎は首を傾けた。 「野々宮さんならなれる」と与次郎が云つた。 「野々宮さんと、あの人とは何か今迄に関係があるのか」  三四郎の顔は彫《ほ》り付けた様に真面目《まじめ》であつた。与次郎は一口《ひとくち》、 「知らん」と云つた。三四郎は黙《だま》つてゐる。 「まあ野々宮さんの所《ところ》へ行《い》つて、御談義を聞いて来《こ》い」と云ひ棄てゝ、相手は池の方へ行き掛けた。三四郎は愚劣《ぐれつ》の看板《かんばん》の如く突立《つゝた》つた。与次郎は五六歩|行《い》つたが、又笑ひながら帰つて来《き》た。 「君《きみ》、いつそ、よし子さんを貰《もら》はないか」と云ひながら、三四郎を引つ張つて、池の方へ連《つ》れて行《い》つた。歩《ある》きながら、あれなら好《い》い、あれなら好《い》いと、二度《にど》程繰り返した。其内《そのうち》又|号鐘《ベル》が鳴つた。 [#7字下げ]九の六[#「九の六」は中見出し]  三四郎は其|夕方《ゆふがた》野々宮さんの所へ出掛けたが、時間がまだ少し早過《はやす》ぎるので、散歩かた/″\四丁目迄|来《き》て、襯衣《シヤツ》を買ひに大きな唐物《とうぶつ》屋へ入《はい》つた。小僧が奥から色々《いろ/\》持つて来《き》たのを撫《な》でゝ見たり、広《ひろ》げて見たりして、容易に買《か》はない。訳《わけ》もなく鷹揚に構へてゐると、偶然美禰子とよし子が連《つ》れ立《だ》つて香水を買ひに来《き》た。あらと云つて挨拶をした後《あと》で、美禰子が、 「先達《せんだつ》ては難有《〔ありがと〕》う」と礼《れい》を述《の》べた。三四郎には此御礼の意味が明《あき》らかに解《わか》つた。美禰子から金《かね》を借《か》りた翌日《あくるひ》もう一遍訪問して余分をすぐに返すべき所を、一先《ひとまづ》見合せた代りに、二日《ふつか》ばかり待《ま》つて、三四郎は丁寧な礼状を美禰子に送つた。  手紙の文句は、書《か》いた人の、書《か》いた当時の気分を素直に表《あら》はしたものではあるが、無論|書《か》き過《す》ぎてゐる。三四郎は出来る丈の言葉を層々と排列して感謝の意を熱烈に致した。普通のものから見れば殆んど借金の礼状とは思はれない位に、湯気《ゆげ》の立《た》つたものである。然し感謝以外には、何にも書いてない。夫だから、自然の勢、感謝が感謝以上になつたのでもある。三四郎は、此手紙を郵函《ポスト》に入れるとき、時《とき》を移さぬ美禰子の返事を予期《よき》してゐた。所が折角の封書はたゞ行《い》つた儘《まゝ》である。夫《それ》から美禰子に逢ふ機会は今日迄なかつた。三四郎はこの微弱なる「此間は難有う」といふ反響に対して、確乎《はつきり》した返事をする勇気も出《で》なかつた。大《〔おおき〕》な襯衣《シヤツ》を両手で眼《め》の先《さき》へ広《ひろ》げて眺《なが》めながら、よし子が居《ゐ》るからあゝ冷淡なんだらうかと考へた。それから此|襯衣《シヤツ》も此女の金《かね》で買うんだなと考へた。小僧はどれになさいますと催促した。  二人《ふたり》の女は笑ひながら傍《そば》へ来《き》て、一所に襯衣《シヤツ》を見て呉れた。仕舞に、よし子が「是《これ》になさい」と云つた。三四郎はそれにした。今度は三四郎の方が香水の相談を受けた。一向|分《わか》らない。ヘリオトロープと書《か》いてある罎《びん》を持《も》つて、好加減に、是はどうですと云ふと、美禰子が、「それに為《し》ませう」とすぐ極めた。三四郎は気の毒な位であつた。  表へ出《で》て分《わか》れやうとすると、女の方が互《たがひ》に御辞儀を始めた。よし子が「ぢや行《い》つて来《き》てよ」と云ふと、美禰子が「御早く……」と云つてゐる。聞いて見て、妹《いもと》が兄《あに》の下宿へ行く所《ところ》だといふ事が解《わか》つた。三四郎は又奇麗な女と二人連《ふたりづれ》で追分の方へ歩《ある》くべき宵《よひ》となつた。日はまだ全く落ちてゐない。  三四郎はよし子と一所に歩《ある》くよりは、よし子と一所に野々宮の下宿で落ち合はねばならぬ機会を聊《〔いささ〕》か迷惑に感じた。いつその事|今夜《こんや》は家《うち》へ帰つて、又出直さうかと考へた。然し、与次郎の所謂《〔いわゆる〕》御談義を聞くには、よし子が傍《そば》に居て呉れる方が便利かも知れない。まさか人《ひと》の前で、母《はゝ》から、斯《か》ういふ依頼があつたと、遠慮なしの注意を与へる訳《わけ》はなからう。ことに依ると、たゞ金《かね》を受取る丈で済《す》むかも解《わか》らない。――三四郎は腹《はら》の中《なか》で、一寸《ちよつと》狡《ずる》い決心をした。 「僕《ぼく》も野々宮さんの所《ところ》へ行くところです」 「さう。御|遊《あそ》びに?」 「いえ、少し用があるんです。あなたは遊《あそ》びですか」 「いゝえ、私《わたくし》も御用なの」  両方が同じ様な事を聞いて、同じ様な答《こたへ》を得た。しかも両方共迷惑を感じてゐる気色《けしき》が更《さら》にない。三四郎は念の為め、邪魔ぢやないかと尋ねて見た。些《ちつ》とも邪魔にはならないさうである。女は言葉《ことば》で邪魔を否定した許ではない。顔《かほ》では寧ろ何故《なぜ》そんな事を質問するかと驚ろいてゐる。三四郎は店先《みせさき》の瓦斯の光《ひかり》で、女の黒い眼《め》のなかに、其驚きを認めたと思つた。事実としては、たゞ大きく黒く見えた許である。 「ヷイオリンを買ひましたか」 「何《ど》うして御存じ」  三四郎は返答に窮した。女は頓着なく、すぐ、斯《か》う云つた。 「いくら兄《にい》さんに左《さ》う云つても、たゞ買つてやる、買《か》つてやると云ふ許《ばかり》で、些《ちつ》とも買《か》つて呉れなかつたんですの」  三四郎は腹の中《なか》で、野々宮よりも広田よりも、寧ろ与次郎を非難した。 [#7字下げ]九の七[#「九の七」は中見出し]  二人《ふたり》は追分《おひわけ》の通りを細い露路《ろぢ》に折れた。折れると中《なか》に家《いへ》が沢山ある。暗《くら》い路《みち》を戸毎《こごと》の軒燈が照らしてゐる。其軒燈の一《ひと》つの前に留《とま》つた。野々宮は此奥にゐる。  三四郎の下宿とは殆んど一丁程の距離である。野々宮が此所《こゝ》へ移《うつ》つてから、三四郎は二三度訪問した事がある。野々宮の部屋は広《ひろ》い廊下を突《つ》き当《あた》つて、二段ばかり真直《まつすぐ》に上《のぼ》ると、左手《ひだりて》に離れた二間《ふたま》である。南向に余所《よそ》の広い庭を殆んど縁の下《した》に控《ひか》へて、昼《ひる》も夜《よる》も至極静かである。此離座敷に立て籠つた野々宮さんを見た時、成程家を畳んで、下宿をするのも悪《わる》い思付ではなかつたと、始めて来《き》た時から、感心した位、居心地《ゐこゝち》の好《い》い所である。其時《そのとき》野々宮さんは廊下へ下《お》りて、下《した》から自分の部屋の軒《のき》を見上《みあ》げて、一寸《ちよつと》見給へ藁葺《わらぶき》だと云つた。成程|珍《めづ》らしく屋根に瓦を置《お》いてなかつた。  今日《けふ》は夜《よる》だから、屋根は無論見えないが、部屋の中《なか》には電燈が点《つ》いてゐる。三四郎は電燈を見るや否や藁葺を思ひ出《だ》した。さうして可笑《〔おか〕》しくなつた。 「妙な御客が落ち合《あ》つたな。入口《いりくち》で逢《あ》つたのか」と野々宮さんが妹に聞いてゐる。妹は然らざる旨《むね》を説明してゐる。序に三四郎の様な襯衣《シヤツ》を買《か》つたら好《よ》からうと助|言《げん》してゐる。夫《それ》から、此間《このあひだ》のヷイオリンは和製で音《ね》が悪《わる》くつて不可《いけ》ない、買ふのを是迄延期したのだから、もう少し良《い》いのと買ひ易《〔か〕》へて呉れと頼《たの》んでゐる。責《〔せ〕》めて美禰子さん位のなら我慢すると云つてゐる。其|外《ほか》似たり寄つたりの駄々をしきりに捏《こ》ねてゐる。野々宮さんは別段|怖《こわ》い顔もせず、と云つて、優《やさ》しい言葉も掛けず、たゞ左《さ》うか/\と聞いてゐる。  三四郎は此間《このあひだ》何にも云はずにゐた。よし子は愚《ぐ》な事ばかり述《の》べる。且《〔か〕》つ少しも遠慮をしない。それが馬鹿とも思へなければ、我儘とも受取れない。兄《あに》との応対を傍《そば》にゐて聞《き》いてゐると、広《ひろ》い日当《ひあたり》の好《い》い畠《はたけ》へ出《で》た様な心持がする。三四郎は来《きた》るべき御談義の事を丸で忘れて仕舞つた。其時突然驚ろかされた。 「あゝ、私《わたし》忘れてゐた。美禰子さんの御|言伝《ことづて》があつてよ」 「左《さ》うか」 「嬉《うれ》しいでせう。嬉《うれ》しくなくつて?」  野々宮さんは痒《かゆ》い様な顔をした。さうして、三四郎の方を向いた。 「僕の妹は馬鹿ですね」と云つた。三四郎は仕方なしに、たゞ笑つてゐた。 「馬鹿ぢやないわ。ねえ、小川さん」  三四郎は又笑つてゐた。腹の中《なか》ではもう笑ふのが厭《いや》になつた。 「美禰子さんがね、兄《にい》さんに文芸協会の演芸会に連れて行《い》つて頂戴つて」 「里見さんと一所に行つたら宜《よ》からう」 「御用が有るんですつて」 「御|前《まへ》も行《い》くのか」 「無論だわ」  野々宮さんは行くとも行かないとも答へなかつた。又三四郎の方を向いて、今夜《こんや》妹《いもうと》を呼んだのは真面目《まじめ》な用のあるのだのに、あんな呑気ばかり云つてゐて困《こま》ると話した。聞いて見ると、学者丈あつて、存外淡泊である。よし子に縁談の口《くち》がある。国へさう云つてやつたら、両親も異存はないと返事をして来《き》た。夫《それ》に就て本人の意見をよく確める必要が起《おこ》つたのだと云ふ。三四郎はたゞ結構ですと答へて、成るべく早く自分の方を片付けて帰らうとした。そこで、 「母《はゝ》からあなたに御面倒を願《ねが》つたさうで」と切り出した。野々宮さんは、 「何《なに》、大《たい》して面倒でもありませんがね」とすぐに机の抽出《ひきだし》から、預《あづ》かつたものを出《だ》して、三四郎に渡《わた》した。 [#7字下げ]九の八[#「九の八」は中見出し] 「御母《おつか》さんが心配して、長い手紙を書いて寄《よ》こしましたよ。三四郎は余義ない事情で月々《つき/″\》の学資を友達《ともだち》に貸したと云ふが、いくら友達だつて、さう無暗に金《かね》を借《か》りるものぢやあるまいし、よし借《か》りたつて返《かへ》す筈《はづ》だらうつて。田舎《いなか》のものは正直だから、さう思ふのも無理はない。それからね、三四郎が貸すにしても、あまり貸し方《かた》が大袈裟だ。親《おや》から月々《つき/″\》学資を送つて貰ふ身分でゐながら、一度《いちど》に弐拾円の三十円のと、人に用立てるなんて、如何《いか》にも無分別だとあるんですがね――何だか僕に責任が有《あ》る様に書《か》いてあるから困る。……」  野々宮さんは三四郎を見て、にや/\笑つてゐる。三四郎は真面目《まじめ》に「御気の毒です」といつた許である。野々宮さんは、若《わか》いものを、極め付ける積で云つたんで無《な》いと見えて、少し調子を変《か》へた。 「なに、心配する事はありませんよ。何でもない事なんだから。たゞ御母《おつか》さんは、田舎《いなか》の相場で、金《かね》の価値《かち》を付《つ》けるから、三拾円が大変|重《おも》くなるんだね。何でも参拾円あると、四人の家族が半年|食《く》つて行《い》けると書《か》いてあつたが、そんなものかな、君」と聞いた。よし子は大きな声を出《だ》して笑つた。三四郎にも馬鹿気《ばかげ》てゐる所が頗る可笑《〔おか〕》しいんだが、母《はゝ》の言《いひ》条が、全く事実を離れた作り話《ばなし》でないのだから、其所《そこ》に気が付いた時には、成程軽卒な事をして悪《わる》かつたと少しく後悔した。 「さうすると、月《つき》に五円の割だから、一人《ひとり》前一円二十五銭に当《あた》る。それを三十日に割り付けると、四銭ばかりだが――いくら田舎《いなか》でも少し安過《やすすぎ》る様だな」と野々宮さんが計算を立てた。 「何を食《た》べたら、その位《くらゐ》で生きてゐられるでせう」とよし子が真面目《まじめ》に聞き出《だ》した。三四郎も後悔する暇《ひま》がなくなつて、自分の知つてゐる田舎《いなか》生活の有様を色々|話《はな》して聞かした。其中《そのなか》には宮籠《みやごもり》といふ慣例もあつた。三四郎の家《うち》では、年に一度《いちど》づゝ村《むら》全体へ十円寄附する事になつてゐる。其時には六十戸から一人《ひとり》づゝ出て、其六十人が、仕事を休《やす》んで、村《むら》の御宮へ寄《よ》つて、朝から晩迄、酒を飲みつゞけに飲んで、御馳走を食ひつゞけに食《く》ふんだといふ。 「それで十円」とよし子が驚ろいてゐた。御談義は是で何所《どこ》かへ行《い》つたらしい。それから少し雑談をして一段落付いた時に、野々宮さんが改めて、斯《か》う云つた。 「何しろ、御母《おつか》さんの方ではね。僕が一応事情を調べて、不都合がないと認めたら、金を渡して呉れろ。さうして面倒でも其事情を知らせて貰《もら》ひたいといふんだが、金《かね》は事情も何《な》にも聞かないうちに、もう渡《わた》して仕舞つたしと、――何《ど》うするかね。君|慥《〔たし〕》か佐々木に貸したんですね」  三四郎は美禰子から洩れて、よし子に伝《つた》はつて、それが野々宮さんに知れてゐるんだと判じた。然し其金《そのかね》が巡《めぐ》り巡《めぐ》つてヷイオリンに変形したものとは兄妹《けうだい》とも気が付かないから一種妙な感じがした。たゞ「左《さ》うです」と答へて置いた。 「佐々木が馬券を買つて、自分の金《かね》を失《な》くなしたんだつてね」 「えゝ」  よし子は又大きな声を出《だ》して笑つた。 「ぢや、好加減に御母《おつか》さんの所《ところ》へさう云つて上《あ》げやう。然し今度《こんど》から、そんな金《かね》はもう貸さない事に為《し》たら好《い》いでせう」  三四郎は貸さない事にする旨《むね》を答へて、挨拶をして、立ち掛けると、よし子も、もう帰らうと云ひ出《だ》した。 「先刻《さつき》の話《はなし》をしなくつちや」と兄《あに》が注意した。 「能《よ》くつてよ」と妹が拒絶した。 「能《よ》くはないよ」 「能《よ》くつてよ。知らないわ」  兄《あに》は妹《いもうと》の顔を見て黙《だま》つてゐる。妹は、また斯《か》う云つた。 「だつて仕方がないぢや、ありませんか。知りもしない人《ひと》の所《ところ》へ、行《ゆ》くか行《ゆ》かないかつて、聞《き》いたつて。好《すき》でも嫌《きらひ》でもないんだから、何《なん》にも云ひ様はありやしないわ。だから知《し》らないわ」  三四郎は知らないわの本意を漸く会得《えとく》した。兄妹《けうだい》を其|儘《まゝ》にして急いで表へ出《で》た。 [#7字下げ]九の九[#「九の九」は中見出し]  人《ひと》の通らない軒燈《〔けんとう〕》ばかり明《あき》らかな露地《ろぢ》を抜けて表へ出《で》ると、風が吹く。北へ向き直ると、まともに顔《かほ》へ当《あた》る。時を切つて、自分の下宿の方から吹《ふ》いてくる。其時三四郎は考へた。此風のなかを、野々宮さんは、妹を送つて里見迄|連《つ》れて行《い》つて遣《や》るだらう。  下宿の二階へ上《あが》つて、自分の室《へや》へ這入《はい》つて、坐《すは》つて見ると、矢っ張り風の音《おと》がする。三四郎は斯《か》う云ふ風の音《おと》を聞く度《たび》に、運命といふ字を思ひ出《だ》す。ごうと鳴つて来《く》る度《たび》に竦《すく》みたくなる。自分ながら決して強い男とは思つてゐない。考へると、上京以来自分の運命は大概与次郎の為《た》めに製《こしら》へられてゐる。しかも多少の程度に於て、和気|靄然《〔あいぜん〕》たる翻弄を受ける様に製《こし》らへられてゐる。与次郎は愛すべき悪戯《いたづら》ものである。向後も此愛すべき悪戯《いたづら》ものゝ為《ため》に、自分の運命を握《にぎ》られてゐさうに思ふ。風がしきりに吹く。慥かに与次郎以上の風である。  三四郎は母《はゝ》から来《き》た三拾円を枕元へ置いて寐た。此三拾円も運命の翻弄が産《う》んだものである。此三拾円が是から先《さき》どんな働《はた》らきをするか、丸で分《わか》らない。自分はこれを美禰子に返《かへ》しに行《ゆ》く。美禰子がこれを受取《うけと》るときに、又|一煽《ひとあほ》り来《く》るに極つてゐる。三四郎は成るべく大きく来《く》れば好《い》いと思つた。  三四郎はそれなり寐付《ねつ》いた。運命も与次郎も手を下《くだ》し様のない位すこやかな眠《ねむり》に入つた。すると半鐘の音《おと》で眼が覚《さ》めた。何所《どこ》かで人声《ひとごゑ》がする。東京の火事は是で二返目である。三四郎は寐巻の上《うへ》へ羽織を引掛けて、窓を明《あ》けた。風は大分|落《お》ちてゐる。向ふの二|階《かい》屋《や》が風の鳴るなかに、真黒に見える。家《いへ》が黒い程、家《いへ》の後《うしろ》の空《そら》は赤《あか》かつた。  三四郎は寒《さむ》いのを我慢して、しばらく此|赤《あか》いものを見詰《みつめ》てゐた。其時三四郎の頭《あたま》には運命があり/\と赤《あか》く映《うつ》つた。三四郎は又|暖《あたゝ》かい布団《ふとん》のなかに潜《もぐ》り込んだ。さうして、赤い運命のなかで狂《くる》ひ回《まは》る多くの人《ひと》の身の上《うへ》を忘れた。  夜が明《あ》ければ常《つね》の人である。制服を着けて、帳面《ノート》を持つて、学校へ出《で》た。たゞ三拾円を懐《ふところ》にする事だけは忘《〔わすれ〕》なかつた。生憎時間割の都合が悪《わる》い。三時迄ぎつしり詰《つま》つてゐる。三時|過《すぎ》に行けば、よし子も学校から帰つて来《き》てゐるだらう。ことに依れば里見恭助といふ兄《あに》も在宅《うち》かも知れない。人《ひと》がゐては、金《かね》を返《かへ》すのが、全く駄目の様な気がする。  又与次郎が話し掛けた。 「昨夜《ゆふべ》は御談義を聞いたか」 「なに御談義といふ程でもない」 「左《さ》うだらう、野々宮さんは、あれで理由《わけ》の解《わか》つた人だからな」と云つて何所《どこか》へ行つて仕舞つた。二時間後《にじかんご》の講義のときに又出逢つた。 「広田先生の事は大丈夫|旨《うま》く行《い》きさうだ」と云ふ。どこ迄|事《こと》が運《はこ》んだかと聞いて見ると、 「いや心配しないでも好《い》い。いづれ緩《ゆつ》くり話《はな》す。先生が君がしばらく来《こ》ないと云つて、聞いてゐたぜ。時々|行《い》くが好《い》い。先生は一人《ひとり》ものだからな。吾々《われ/\》が慰めて遣《や》らんと、不可《いか》ん。今度《こんだ》何か買つて来《こ》い」と云ひつ放《ぱな》して、それなり消えて仕舞つた。すると、次《つぎ》の時間に又|何処《どこ》からか現《あらは》れた。今度《こんど》は何と思つたか、講義の最中《さいちう》に、突然、 「金《かね》受取《うけとり》たりや」と電報の様なものを白紙《しらかみ》へ書《か》いて出《だ》した。三四郎は返事を書《か》かうと思つて、教師の方を見ると、教師がちやんと此方《こつち》を見てゐる。白紙《しらかみ》を丸めて足《あし》の下《した》へ抛《な》げた。講義が終るのを待つて、始めて返事をした。 「金《かね》は受取《うけと》つた。此所《こゝ》にある」 「左《さ》うか夫《それ》は好《よ》かつた。返《かへ》す積りか」 「無論返すさ」 「それが好《よ》からう。早く返《かへ》すが好《い》い」 「今日《けふ》返《かへ》さうと思ふ」 「うん午過《ひるすぎ》遅くならゐるかもしれない」 「何所《どこ》かへ行くのか」 「行《い》くとも、毎日々々|画《ゑ》に描《か》かれに行《い》く。もう余っ程出来たらう」 「原口さんの所《ところ》か」 「うん」  三四郎は与次郎から原口さんの宿所を聞き取つた。 [#7字下げ]十の一[#「十の一」は中見出し]  広田先生が病気だと云ふから、三四郎が見舞に来《き》た。門を這入ると、玄関に靴が一足揃へてある。医者かも知れないと思つた。いつもの通り勝手|口《ぐち》へ回《まは》ると誰《だれ》もゐない。のそ/\上《あが》り込んで茶の間《ま》へ来《く》ると、座敷で話し声がする。三四郎はしばらく佇《たゞず》んでゐた。手に可《か》なり大きな風呂敷|包《づゝみ》を提《さ》げてゐる。中《なか》には樽柿《たるがき》が一杯|入《はい》つてゐる。今度《こんど》来《く》る時は、何か買《か》つてこいと、与次郎の注意があつたから、追分の通で買つて来《き》た。すると座敷のうちで、突然どたり、ばたりと云《い》ふ音《おと》がした。誰《だれ》か組打を始めたらしい。三四郎は必定《〔ひつじょう〕》喧嘩と思ひ込んだ。風呂敷包を提《さ》げた儘、仕切りの唐紙《からかみ》を鋭《する》どく一尺許|明《あ》けて屹《〔きっ〕》と覗き込んだ。広田先生が茶の袴を穿《は》いた大きな男《をとこ》に組み敷《し》かれてゐる。先生は俯伏《うつぶし》の顔《かほ》を際《きは》どく畳から上《あ》げて、三四郎を見たが、にやりと笑《わら》ひながら、 「やあ、御出《おいで》」と云つた。上《うへ》の男《をとこ》は一寸《ちよつと》振り返つた儘《まゝ》である。 「先生、失礼ですが、起《お》きて御覧なさい」と云ふ。何でも先生の手を逆《ぎやく》に取つて、肘《ひぢ》の関節《つがひ》を表《おもて》から、膝頭《ひざがしら》で圧《お》さへてゐるらしい。先生は下《した》から、到底|起《お》きられない旨《むね》を答《こた》へた。上《うへ》の男は、それで、手を離《はな》して、膝《ひざ》を立《た》てゝ、袴の襞《ひだ》を正《たゞ》しく、居住居《ゐずまゐ》を直した。見れば立派な男である。先生もすぐ起き直《なほ》つた。 「成程」と云つてゐる。 「あの流で行《い》くと、無理に逆《さか》らつたら、腕《うで》を折る恐れがあるから、危険です」  三四郎は此問答で、始めて、此両人の今何をしてゐたかを悟つた。 「御病気ださうですが、もう宜《よろ》しいんですか」 「えゝ、もう宜《よろ》しい」  三四郎は風呂敷包を解《と》いて、中《なか》にあるものを、二人《ふたり》の間に広《ひろ》げた。 「柿を買《か》つて来《き》ました」  広田先生は書斎へ行《い》つて、小刀《ナイフ》を取つて来《く》る。三四郎は台所から庖丁を持つて来《き》た。三人で柿《かき》を食ひ出した。食ひながら、先生と知らぬ男はしきりに地方の中学の話《はなし》を始めた。生活難の事、紛擾《〔ふんじょう〕》の事、一《ひと》つ所《ところ》に長く留《とま》つてゐられぬ事、学科以外に柔術の教師をした事、ある教師は、下駄の台《だい》を買つて、鼻緒は古《ふる》いのを、着《す》げ更《か》へて、用ひられる丈用ひる位にしてゐる事、今度《こんど》辞職した以上は、容易に口《くち》が見付《みつ》かりさうもない事、已《〔やむ〕》を得ず、それ迄妻を国|元《もと》へ預《あづ》けた事――中々《なか/\》尽きさうもない。  三四郎は柿《かき》の核《たね》を吐《は》き出《だ》しながら、此《この》男の顔《かほ》を見てゐて、情《なさけ》なくなつた。今の自分と、此男と比較して見ると、丸で人種《じんしゆ》が違《ちが》ふ様な気がする。此男の言葉のうちには、もう一遍学生生活がして見たい。学生生活程気楽なものはないと云《い》ふ文句《もんく》が何度《なんど》も繰《く》り返《かへ》された。三四郎は此|文句《もんく》を聞くたびに、自分の寿命も僅《わづ》か二三年の間《あひだ》なのか知らんと、盆槍《ぼんやり》考へ始めた。与次郎と蕎麦《そば》などを食《く》ふ時《とき》の様に、気が冴《さ》えない。  広田先生は又立つて書斎に入《い》つた。帰《かへ》つた時は、手に一巻の書物を持つてゐた。表紙が赤黒《あかぐろ》くつて、切《き》り口《くち》の埃《ほこり》で汚《よご》れたものである。 「是が此間《このあひだ》話《はな》したハイドリオタフヒア。退屈なら見てゐ玉へ」  三四郎は礼を述べて書物を受け取つた。 「寂寞《じやくまく》の罌粟花《けし》を散らすや頻《しきり》なり。人の記念に対《たい》しては、永劫に価《あたひ》すると否とを問ふ事なし」といふ句が眼《め》に付《つ》いた。先生は安心して柔術の学士と談話をつゞける。――中学教師抔の生活状態を聞いて見ると、みな気の毒なもの許《ばかり》の様だが、真に気の毒と思ふのは当人丈である。なぜといふと、現代人は事実を好むが、事実に伴ふ情操は切り棄てる習慣である。切り棄てなければならない程、世間が切迫してゐるのだから仕方がない。其証拠には新聞を見ると分《わか》る。新聞の社会記事は十の九迄悲劇である。けれども我々は此悲劇を悲劇として味はう余裕がない。たゞ事実の報道として読む丈である。自分の取る新聞抔は、死人十何人と題して、一日に変死した人間の年齢、戸籍、死因を六号活字で一行づゝに書く事がある。簡潔明瞭の極《きよく》である。又泥棒|早見《はやみ》と云ふ欄があつて、何所《どこ》へどんな泥棒が入《はい》つたか、一目《ひとめ》に分《わか》る様に泥棒がかたまつてゐる。是も至極便利である。すべてが、この調子と思はなくつちや不可《いけ》ない。辞職もその通り。当人には悲劇に近い出来|事《ごと》かも知れないが、他人には夫《それ》程痛切な感じを与へないと覚悟しなければなるまい。其積りで運動したら好《よ》からう。 「だつて先生位余裕があるなら、少《すこ》しは痛切に感じても善《よ》ささうなものだが」と柔術の男が真面目《まじめ》な顔をして云つた。此時は広田先生も三四郎も、さう云つた当人も一度に笑つた。此男が中《なか》々|帰《かへ》りさうもないので三四郎は、書物を借《か》りて、勝手から表へ出《で》た。 [#7字下げ]十の二[#「十の二」は中見出し] 「朽ちざる墓《はか》に眠《ねむ》り、伝《つた》はる事《こと》に生《い》き、知らるる名に残り、しからずは滄桑《〔そうそう〕》の変に任せて、後《のち》の世《よ》に存《そん》せんと思ふ事、昔《むかし》より人の願《ねがひ》なり、此|願《ねがひ》のかなへるとき、人は天国にあり。去れども真《まこと》なる信仰の教法より視れば、此|願《ねがひ》も此|満足《まんぞく》も無《な》きが如くに果敢《はか》なきものなり。生《い》きるとは、再《ふたたび》の我《われ》に帰《かへ》るの意にして、再《ふたゝび》の我《われ》に帰るとは、願《ねがひ》にもあらず、望《のぞみ》にもあらず、気高《けだか》き信者の見たる明白《あからさま》なる事実《じじつ》なれば、聖徒イノセントの墓地に横《よこた》はるは猶《〔なお〕》埃及《エジプト》の砂中《さちう》に埋まるが如し。常住の吾身《わがみ》を観じ悦《よろこ》べば、六尺の狭きもアドリエーナスの大廟《〔たいびょう〕》と異《こと》なる所あらず。成るが儘に成るとのみ覚悟せよ」  是はハイドリオタフヒアの末節である。三四郎はぶら/\白山《はくさん》の方へ歩《ある》きながら、往来のなかで、此一節を読んだ。広田先生から聞く所によると、此著者は有名な名文家で、此一篇は名文家の書いたうちの名文であるさうだ。広田先生は其話《そのはなし》をした時に、笑ひながら、尤も是は私《わたし》の説《せつ》ぢやないよと断《こと》わられた。成程三四郎にも何処《どこ》が名文だか能《よ》く解《わか》らない。只|句切《くぎ》りが悪くつて、字遣《じづかひ》が異様で、言葉の運《はこ》び方《かた》が重《おも》苦しくつて、丸で古い御寺《おてら》を見る様な心持がした丈である。此一節丈読むにも道程《みちのり》にすると、三四町も掛《かゝ》つた。しかも判然《はつきり》とはしない。  贏《か》ち得た所は物|寂《さ》びてゐる。奈良の大仏《だいぶつ》の鐘《かね》を撞《つ》いて、其|余波《なごり》の響《ひゞき》が、東京にゐる自分の耳に微《かす》かに届《とゞ》いたと同じ事である。三四郎は此一節の齎《もたら》す意味よりも、其意味の上に這《〔は〕》ひかゝる情|緒《しよ》の影《かげ》を嬉《うれ》しがつた。三四郎は切実に生死の問題を考へた事のない男である。考へるには、青春の血が、あまりに暖《あたゝ》か過《す》ぎる。眼《め》の前には眉を焦《こが》す程な大きな火が燃《も》えてゐる。其感じが、真の自分である。三四郎は是から曙町《あけぼのちやう》の原口《はらぐち》の所へ行く。  小供の葬式が来《き》た。羽織を着《き》た男がたつた二人《ふたり》着《つ》いてゐる。小《ち》さい棺は真白な布《ぬの》で巻《ま》いてある。其|傍《そば》に奇麗な風車《かざぐるま》を結《ゆ》ひ付けた。車《くるま》がしきりに回《まは》る。車《くるま》の羽瓣《はね》が五|色《しき》に塗《ぬ》つてある。それが一色《いつしき》になつて回《まは》る。白《しろ》い棺は奇麗な風車《かざぐるま》を断間《たえま》なく揺《うご》かして、三四郎の横を通り越した。三四郎は美《うつ》くしい葬《とむらひ》だと思つた。  三四郎は他《ひと》の文章と、他《ひと》の葬式を余所《よそ》から見た。もし誰《だれ》か来《き》て、序《ついで》に美禰子を余所《よそ》から見ろと注意したら、三四郎は驚ろいたに違《ちがひ》ない。三四郎は美禰子を余所《よそ》から見《み》る事が出来《でき》ない様な眼《め》になつてゐる。第一|余所《よそ》も余所《よそ》でないもそんな区別は丸で意識してゐない。たゞ事実として、他《ひと》の死に対しては、美《うつく》しい穏やかな味《あぢはひ》があると共に、生きてゐる美禰子に対しては、美《うつく》しい享楽の底《そこ》に、一種の苦悶がある。三四郎は此苦悶を払《はら》はうとして、真直《まつすぐ》に進んで行く。進んで行けば苦悶が除《と》れる様に思ふ。苦悶を除《と》る為めに一歩《ひとあし》傍《わき》へ退《の》く事は夢にも案じ得ない。これを案じ得ない三四郎は、現に遠くから、寂滅《じやくめつ》の会《ゑ》を文字の上に眺《なが》めて、夭折の憐れを、三尺の外《そと》に感じたのである。しかも、悲しい筈の所を、快《こゝろ》よく眺めて、美《うつ》くしく感じたのである。  曙《あけぼの》町へ曲《まが》ると大きな松がある。此松を目標《めじるし》に来《こ》いと教はつた。松の下《した》へ来《く》ると、家が違《ちが》つてゐる。向ふを見ると又松がある。其|先《さき》にも松がある。松が沢山ある。三四郎は好《い》い所だと思つた。多くの松を通り越して左へ折れると、生垣《いけがき》に奇麗な門がある。果して原口といふ標札が出てゐた。其標札は木理《もくめ》の込《こ》んだ黒《くろ》つぽい板に、緑《みどり》の油《あぶら》で名前を派出《はで》に書《か》いたものである。字だか模様だか分《わか》らない位|凝《こ》つてゐる。門から玄関迄はからりとして何にもない。左右に芝が植ゑてある。 [#7字下げ]十の三[#「十の三」は中見出し]  玄関には美禰子の下駄が揃へてあつた。鼻緒の二本が右左《みぎひだり》で色が違ふ。それで能く覚えてゐる。今《いま》仕事中《しごとちう》だが、可《よ》ければ上《あが》れと云ふ小女《こをんな》の取次《とりつぎ》に尾《つ》いて、画室へ這入《はい》つた。広《ひろ》い部屋である。細長《ほそなが》く南北《みなみきた》に延びた床《ゆか》の上《うへ》は、画家らしく、取り乱れてゐる。先づ一部分には絨氈《じうたん》が敷いてある。それが部屋の大きさに較《くら》べると、丸で釣《つ》り合が取れないから、敷物《しきもの》として敷《し》いたといふよりは、色の好《い》い、模様の雅《が》な織物として放《ほう》りだした様に見える。離れて向《むかふ》に置いた大きな虎《とら》の皮も其通り、坐《すは》る為《ため》の、設けの座《ざ》とは受け取れない。絨氈とは不調和な位置に筋違《すぢかひ》に尾を長く曳《ひ》いてゐる。砂《すな》を錬《ね》り固《かた》めた様な大きな甕《かめ》がある。其|中《なか》から矢が二本|出《で》てゐる。鼠色の羽根と羽根の間《あひだ》が金箔で強《つよ》く光《ひか》る。其傍《そのそば》に鎧《よろひ》もあつた。三四郎は卯の花|縅《おど》しと云ふのだらうと思つた。向ふ側《がは》の隅にぱつと眼《め》を射るものがある。紫《むらさき》の裾模様《すそもやう》の小|袖《そで》に金糸の刺繍《ぬひ》が見える。袖から袖《そで》へ幔幕《まんまく》の綱《つな》を通して、虫干《むしぼし》の時の様に釣《つ》るした。袖《そで》は丸くて短《みぢ》かい。是が元禄《げんろく》かと三四郎も気が付《つ》いた。其外《そのほか》には画《ゑ》が沢山ある。壁《かべ》に掛けたの許《ばかり》でも大小|合《あは》せると余程になる。額縁《がくぶち》を附《つ》けない下画《したゑ》といふ様なものは、重《かさ》ねて巻《ま》いた端《はじ》が、巻《ま》き崩《くづ》れて、小口《こぐち》をしだらなく露《あら》はした。  描《ゑが》かれつゝある人の肖像は、此|彩色《いろどり》の眼《め》を乱《みだ》す間《あひだ》にある。描《ゑが》かれつゝある人は、突き当りの正面に団扇を翳《〔かざ〕》して立つた。描《ゑが》く男は丸い脊《せ》をぐるりと返《かへ》して、調色板《パレツト》を持《も》つた儘、三四郎に向つた。口《くち》に太《ふと》い烟管《パイプ》を啣《〔くわ〕》へてゐる。 「遣《や》つて来《き》たね」と云つて烟管《パイプ》を口《くち》から取つて、小《ち》さい丸卓《まるテーブル》の上《うへ》に置いた。燐寸《マツチ》と灰皿が載《の》つてゐる。椅子もある。 「掛け給へ。――あれだ」と云つて、描《か》き掛けた画布《カンヷス》の方を見た。長さは六尺もある。三四郎はたゞ、 「成程大きなものですな」と云つた。原口さんは、耳《みゝ》にも留《と》めない風で、 「うん、中《なか》々」と独言《ひとりごと》の様に、髪《かみ》の毛《け》と、背景の境の所を塗り始めた。三四郎は此時漸く美禰子の方を見た。すると女の翳《かざ》した団扇の陰《かげ》で、白い歯がかすかに光《ひか》つた。  それから二三分は全《まつた》く静かになつた。部屋は煖炉《だんろ》で温《あたゝ》めてある。今日《けふ》は外面《そと》でも、さう寒くはない。風《かぜ》は死に尽した。枯《か》れた樹《き》が音《おと》なく冬の日《ひ》に包《つゝ》まれて立つてゐる。三四郎は画室へ導《みちび》かれた時、霞《かすみ》の中《なか》へ這入つた様な気がした。丸卓《まるテーブル》に肘《ひぢ》を持《も》たして、此|静《しづ》かさの夜《よ》に勝《まさ》る境《さかひ》に、憚《〔はばか〕》りなき精神《こゝろ》を溺れしめた。此|静《しづ》かさのうちに、美禰子がゐる。美禰子の影《かげ》が次第に出来|上《あが》りつゝある。肥《ふと》つた画工の画筆《ブラツシ》丈《だけ》が動く。夫《それ》も眼《め》に動《うご》く丈で、耳《みゝ》には静かである。肥《ふと》つた画工も動《うご》く事がある。然し足音《あしおと》はしない。  静《しづ》かなものに封じ込められた美禰子は全く動《うご》かない。団扇を翳して立つた姿《すがた》その儘が既に画である。三四郎から見ると、原口さんは、美禰子を写してゐるのではない。不可思議に奥行のある画から、精|出《だ》して、其奥行|丈《だけ》を落《おと》して、普通の画に美禰子を描《か》き直してゐるのである。にも拘《〔かか〕》はらず第二の美禰子は、この静さのうちに、次第《しだい》と第一に近《ちか》づいて来《く》る。三四郎には、此二人《このふたり》の美禰子の間《あひだ》に、時計の音《おと》に触れない、静かな長い時間《じかん》が含まれてゐる様に思はれた。其時間が画家の意識にさへ上《のぼ》らない程|音無《おとな》しく経《た》つに従つて、第二の美禰子が漸やく追《お》ひ付《つ》いて来《く》る。もう少《すこ》しで双方がぴたりと出合《であ》つて一《ひと》つに収《おさ》まると云ふ所で、時《とき》の流《なが》れが急に向《むき》を換へて永久の中《なか》に注《そゝ》いで仕舞ふ。原口さんの画筆《ブラツシ》は夫《それ》より先には進めない。三四郎は其所迄《そこまで》跟《つ》いて行つて、気が付《つ》いて、不図美禰子を見た。美禰子は依然として動かずに居る。三四郎の頭《あたま》は此静かな空気のうちで覚えず動いてゐた。酔つた心持である。すると突然原口さんが笑ひ出《だ》した。 [#7字下げ]十の四[#「十の四」は中見出し] 「又|苦《くる》しくなつた様ですね」  女は何にも云はずに、すぐ姿勢を崩《くづ》して、傍《そば》に置《お》いた安楽椅子へ落ちる様にとんと腰を卸した。其時白い歯が又|光《ひか》つた。さうして動《うご》く時の袖《そで》と共《とも》に三四郎を見た。其|眼《め》は流星の様に三四郎の眉間《みけん》を通り越して行《い》つた。  原口《はらぐち》さんは丸卓《まるテーブル》の傍《そば》迄|来《き》て、三四郎に、 「何《ど》うです」と云ひながら、燐寸《マツチ》を擦《す》つて、先刻《さつき》の烟草《パイプ》に火を付《つ》けて、再び口《くち》に啣へた。大きな木《き》の雁首《がんくび》を指《ゆび》で抑《おさ》へて、二吹許《ふたふきばか》り濃い烟《けむり》を髭《ひげ》の中《なか》から出《だ》したが、やがて又丸い脊中《せなか》を向けて画《ゑ》に近付《ちかづ》いた。勝手な所を自由に塗つてゐる。  絵は無論|仕上《しあが》つてゐないものだらう。けれども何処《どこ》も彼所《かしこ》も万遍なく絵の具が塗《ぬ》つてあるから、素人《しらうと》の三四郎が見ると、中々立派である。旨《うま》いか無味《まづ》いか無論|分《わか》らない。技巧の批評の出来ない三四郎には、たゞ技巧の齎《〔もた〕》らす感じ丈がある。それすら、経験がないから、頗る正鵠《〔せいこく〕》を失してゐるらしい。芸術の影響に全然無頓着な人間でないと自《みづから》を証拠|立《だ》てる丈でも三四郎は風流人である。  三四郎が見ると、此画は一体にぱつとしてゐる。何だか一面に粉が吹《ふ》いて、光沢《つや》のない日光《ひ》に当《あた》つた様に思はれる。影《かげ》の所《ところ》でも黒くはない。寧ろ薄《うす》い紫《むらさき》が射《さ》してゐる。三四郎は此画を見て、何となく軽快な感じがした。浮いた調子は猪牙《ちよき》船に乗つた心持がある。それでも何処《どこ》か落ち付いてゐる。剣呑でない。苦《にが》つた所、渋《しぶ》つた所、毒々しい所は無論ない。三四郎は原口さんらしい画だと思つた。すると原口さんは無雑作に画筆《ブラツシ》を使ひながら、こんな事を云ふ。 「小川さん面白い話がある。僕の知つた男にね、細君が厭《いや》になつて離縁を請求したものがある。所が細君が承知をしないで、私《わたくし》は縁あつて、此家《このうち》へ方付《かたづ》いたものですから、仮令《たとひ》あなたが御厭《おいや》でも私《わたくし》は決して出て参《まい》りません」  原口さんは其所《そこ》で一寸《ちよつと》画を離れて、画筆《ブラツシ》の結果を眺《なが》めてゐたが、今度《こんど》は、美禰子に向つて、 「里見さん。あなたが単衣《ひとへもの》を着《き》て呉れないものだから、着物《きもの》が描《か》き悪《にく》くつて困《こま》る。丸で好加減《いゝかげん》にやるんだから、少し大胆|過《す》ぎますね」 「御気の毒さま」と美禰子が云つた。  原口さんは返事もせずに又画面へ近寄つた。「それでね、細君の御尻が離縁するには余り重くあつたものだから、友人が細君に向つて、斯《か》う云つたんだとさ。出《で》るのが厭《いや》なら、出《で》ないでも好《い》い。何時《いつ》迄でも家《うち》にゐるが好《い》い。其代り己《おれ》の方が出《で》るから。――里見さん一寸《ちよつと》立《た》つて見て下《くだ》さい。団扇は何《ど》うでも好《い》い。ただ立てば。さう。難有《〔ありがと〕》う。――細君が、私《わたくし》が家《うち》に居つても、貴方《あなた》が出《で》て御仕舞になれば、後《あと》が困るぢやありませんかと云ふと、何《なに》構はないさ、御前《おまへ》は勝手に入夫《にうふ》でもしたら宜《よ》からうと答《こた》へたんだつて」 「それから、何《ど》うなりました」と三四郎が聞いた。原口さんは、語《かた》るに足りないと思つたものか、まだ後《あと》をつけた。 「何《ど》うもならないのさ。だから結婚は考へ物だよ。離合|聚散《〔しゅうさん〕》、共に自由にならない。広田先生を見給へ、野々宮さんを見給へ、里見恭助君を見給へ、序《ついで》に僕を見給へ。みんな結婚をしてゐない。女《をんな》が偉《えら》くなると、かう云ふ独身ものが沢山|出来《でき》て来《く》る。だから社会の原則は、独身ものが、出来《でき》得ない程度内に於て、女が偉《えら》くならなくつちや駄目だね」 「でも兄《あに》は近々《きん/\》結婚致しますよ」 「おや、左《さ》うですか。すると貴方《あなた》は何《ど》うなります」 「存《ぞん》じません」  三四郎は美禰子を見た。美禰子も三四郎を見て笑つた。原口さん丈は画に向いてゐる。「存《ぞん》じません。存《ぞん》じません――ぢや」と画筆《ブラツシ》を動《うご》かした。 [#7字下げ]十の五[#「十の五」は中見出し]  三四郎は此機会を利用して、丸卓《まるテーブル》の側《わき》を離れて、美禰子の傍《そば》へ近寄《ちかよ》つた。美禰子は椅子の脊に、油気《あぶらけ》のない頭《あたま》を、無雑作に持《も》たせて、疲《つか》れた人《ひと》の、身繕《みづくろひ》に心《こゝろ》なき放擲《なげやり》の姿《すがた》である。明《あか》らさまに襦袢の襟から咽喉頸《のどくび》が出てゐる。椅子には脱《ぬ》ぎ捨《す》てた羽織を掛《か》けた。廂髪《ひさしがみ》の上《うへ》に奇麗な裏《うら》が見える。  三四郎は懐《ふところ》に三拾円入れてゐる。此三拾円が二人《ふたり》の間《あひだ》にある、説明しにくいものを代表してゐる。――と三四郎は信じた。返《かへ》さうと思つて、返《かへ》さなかつたのも是が為である。思ひ切つて、今|返《かへ》さうとするのも是が為である。返《かへ》すと用がなくなつて、遠《とほ》ざかるか、用がなくなつても、一層《いつそう》近付《ちかづ》いて来《く》るか、――普通の人《ひと》から見ると、三四郎は少《すこ》し迷信家の調子を帯びてゐる。 「里見さん」と云つた。 「なに」と答へた。仰向《あほむ》いて下《した》から三四郎を見た。顔《かほ》を故《もと》の如《ごと》くに落ち付《つ》けてゐる。眼《め》丈は動《うご》いた。それも三四郎の真正面で穏やかに留《とま》つた。三四郎は女を多少疲れてゐると判じた。 「丁度|序《ついで》だから、此所《こゝ》で返《かへ》しませう」と云ひながら、釦《ボタン》を一つ外《はづ》して、内懐《うちぶところ》へ手を入れた。女は又、 「なに」と繰り返した。故《もと》の通り、刺激のない調子である。内懐《うちぶところ》へ手を入れながら、三四郎は何《ど》うしやうと考へた。やがて思ひ切つた。 「此間《このあひだ》の金《かね》です」 「今|下《くだ》すつても仕方《しかた》がないわ」  女は下《した》から見上《みあ》げた儘である。手も出《だ》さない。身体《からだ》も動《うご》かさない。顔《かほ》も元《もと》の所《ところ》に落ち付《つ》けてゐる。男は女の返事さへ能《〔よ〕》くは解《げ》し兼《か》ねた。其時、 「もう少しだから、何《ど》うです」と云ふ声が後《うしろ》で聞《きこ》えた。見ると、原口さんが此方《こつち》を向いて立つてゐる。画筆《ブラツシ》を指《ゆび》の股《また》に挟《はさ》んだまゝ、三角に刈り込んだ髯《ひげ》の先《さき》を引っ張つて笑つた。美禰子は両手を椅子の肘《ひぢ》に掛けて、腰《こし》を卸《おろ》したなり、頭《あたま》と脊《せ》を真直《まつすぐ》に延ばした。三四郎は小《ちい》さな声で、 「まだ余程|掛《かゝ》りますか」と聞いた。 「もう一時間ばかり」と美禰子も小《ちい》さな声で答へた。三四郎は又|丸卓《まるテーブル》に帰つた。女はもう描《ゑが》かるべき姿勢を取つた。原口さんは又|烟管《パイプ》を点《つ》けた。画筆《ブラツシ》は又動き出《だ》す。脊《せ》を向《む》けながら、原口さんが斯《か》う云つた。 「小川さん。里見さんの眼《め》を見て御覧《ごらん》」  三四郎は云はれた通りにした。美禰子は突然|額《ひたひ》から団扇を放《はな》して、静《しづ》かな姿勢を崩した。横《よこ》を向いて硝子越《がらすごし》に庭を眺めてゐる。 「不可《いけ》ない。横《よこ》を向《む》いてしまつちや、不可《いけ》ない。今|描《か》き出《だ》した許《ばかり》だのに」 「何故《なぜ》余計な事を仰《おつ》しやる」と女は正面に帰つた。原口さんは弁解をする。 「冷《ひや》かしたんぢやない。小川さんに話す事があつたんです」 「何を」 「是から話《はな》すから、まあ元《もと》の通りの姿勢に復《ふく》して下《くだ》さい。さう。もう少し肘《ひぢ》を前へ出《だ》して。夫《それ》で小川さん、僕の描《か》いた眼《め》が、実物の表情通り出来てゐるかね」 「何《ど》うも能く分《わか》らんですが。一体|斯《か》うやつて、毎日毎日|描《か》いてゐるのに、描《か》かれる人《ひと》の眼《め》の表情が何時《いつ》も変らずにゐるものでせうか」 「それは変るだらう。本人が変るばかりぢやない、画工《ゑかき》の方の気分も毎日変るんだから、本当を云ふと、肖像画が何枚でも出来|上《あ》がらなくつちやならない訳だが、さうは行《い》かない。又たつた一枚で可《か》なり纏つたものが出来るから不思議だ。何故《なぜ》と云つて見給へ……」  原口さんは此間《このあひだ》始終筆を使《つか》つてゐる。美禰子の方も見てゐる。三四郎は原口さんの諸機関が一度に働らくのを目撃して恐れ入つた。 [#7字下げ]十の六[#「十の六」は中見出し] 「かう遣《や》つて毎日|描《か》いてゐると、毎日の量が積《つも》り積《つも》つて、しばらくする内《うち》に、描《か》いてゐる画に一定の気分が出来《でき》てくる。だから、たとひ外《ほか》の気分で戸外《そと》から帰《かへ》つて来《き》ても、画室へ這入つて、画に向ひさへすれば、ぢきに一種一定の気分になれる。つまり画《ゑ》の中《なか》の気分が、此方《こつち》へ乗《の》り移《うつ》るのだね。里見さんだつて同じ事だ。自然の儘《まゝ》に放《ほう》つて置けば色々の刺激で色々《いろ/\》の表情になるに極《きま》つてゐるんだが、それが実際|画《ゑ》の上《うへ》に大《たい》した影響を及ぼさないのは、あゝ云ふ姿勢や、斯《か》う云ふ乱雑な鼓《つゞみ》だとか、鎧だとか、虎の皮だとかいふ周囲のものが、自然に一種一定の表情を引き起す様になつて来《き》て、其習慣が次第に他《ほか》の表情を圧迫する程強くなるから、まあ大抵なら、此|眼付《めつき》を此儘で仕上《しあ》げて行《い》けば好《い》いんだね。それに表情と云つたつて……」  原口さんは突然|黙《だま》つた。何所《どこ》か六※[#濁点付き小書き平仮名つ、549-4]かしい所《ところ》へ来《き》たと見える。二歩許《ふたあしばかり》立ち退《の》いて、美禰子と画を頻《しきり》に見較《みくら》べてゐる。 「里見さん、何《ど》うかしましたか」と聞いた。 「いゝえ」  此答は美禰子の口《くち》から出《で》たとは思へなかつた。美禰子はそれ程|静《しづ》かに姿勢を崩《くづ》さずにゐる。 「それに表情と云つたつて」と原口さんが又始めた。「画工《ゑかき》はね、心《こゝろ》を描《か》くんぢやない。心《こゝろ》が外《そと》へ見世《みせ》を出《だ》してゐる所《ところ》を描《か》くんだから、見世《みせ》さへ手落《ておち》なく観察すれば、身代《しんだい》は自《おのづ》から分《わか》るものと、まあ、さうして置くんだね。見世で窺《うかゞ》へない身代《しんだい》は画工《ゑかき》の担任区域以外と諦《あき》らめべきものだよ。だから我々は肉《にく》ばかり描《か》いてゐる。どんな肉《にく》を描《か》いたつて、霊《れい》が籠《こも》らなければ、死肉だから、画として通有しない丈だ。そこで此里見さんの眼《め》もね。里見さんの心《こゝろ》を写す積《つもり》で描《か》いてゐるんぢやない。たゞ眼《め》として描《か》いてゐる。此|眼《め》が気に入つたから描《か》いてゐる。此|眼《め》の恰好だの、二重|瞼《まぶち》の影《かげ》だの、眸《ひとみ》の深さだの、何《なん》でも僕に見える所丈を残りなく描《か》いて行く。すると偶然の結果として、一種の表情が出《で》て来《く》る。もし出《で》て来《こ》なければ、僕の色の出《だ》し具合が悪《わる》かつたか、恰好の取り方《かた》が間違がつてゐたか、何方《どつち》かになる。現にあの色あの形そのものが一種の表情なんだから仕方がない」  原口さんは、此時又|二歩《ふたあし》ばかり後《あと》へ退《さが》つて、美禰子と画とを見較《みくら》べた。 「何《ど》うも、今日《けふ》は何《ど》うかしてゐるね。疲《つか》れたんでせう。疲《つか》れたら、もう廃《よ》しませう。――疲《つか》れましたか」 「いゝえ」  原口さんは又画へ近寄つた。 「それで、僕が何故《なぜ》里見さんの眼《め》を択《えら》んだかと云ふとね。まあ話すから聞き給へ。西洋画の女の顔《かほ》を見ると、誰《だれ》の描《か》いた美人でも、屹度大きな眼《め》をしてゐる。可笑《〔おか〕》しい位大きな眼《め》ばかりだ。所が日本では観音様を始めとして、お多福、能の面、もつとも著るしいのは浮世絵にあらはれた美人、悉く細《ほそ》い。みんな象に似てゐる。何故《なぜ》東西で美の標準がこれ程|違《ちが》ふかと思ふと、一寸《ちよつと》不思議だらう。所が実は何でもない。西洋には眼《め》の大きい奴ばかりゐるから、大きい眼《め》のうちで、美的淘汰が行はれる。日本は鯨《くじら》の系統ばかりだから――ピエルロチーといふ男は、日本人の眼《め》は、あれで何《ど》うして開《あ》けるだらうなんて冷《ひや》かしてゐる。――そら、さう云ふ国柄だから、どうしたつて材料の寡《すく》ない大きな眼《め》に対する審美眼が発達しやうがない。そこで撰択の自由の利《き》く細《ほそ》い眼《め》のうちで、理想が出来て仕舞つたのが、歌麿になつたり、祐信《〔すけのぶ〕》になつたりして珍重がられてゐる。然しいくら日本的でも、西洋画には、あゝ細《ほそ》いのは盲目《めくら》を描《か》いた様で見共《〔みとも〕》なくつて不可《いけ》ない。と云つて、ラフアエルの聖母《マドンナ》の様なのは、天《てん》でありやしないし、有《あ》つた所が日本人とは云はれないから、其所《そこ》で里見さんを煩《〔わずら〕》はす事になつたのさ。里見さんもう少時《すこし》ですよ」  答はなかつた。美禰子は凝《じつ》としてゐる。 [#7字下げ]十の七[#「十の七」は中見出し]  三四郎は此画家の話《はなし》を甚だ面白く感じた。とくに話《はなし》丈聴きに来《き》たのならば猶《〔なお〕》幾倍の興味を添へたらうにと思つた。三四郎の注意の焼点は、今、原口さんの話《はなし》の上にもない、原口さんの画《ゑ》の上《うへ》にもない。無論|向《むかふ》に立《た》つてゐる美禰子に集まつてゐる。三四郎は画家の話に耳を傾けながら、眼《め》丈は遂に美禰子を離れなかつた。彼《かれ》の眼《め》に映じた女の姿勢は、自然の経過を、尤も美《うつ》くしい刹那に、捕虜《とりこ》にして動けなくした様である。変《かは》らない所に、永《なが》い慰藉がある。然るに原口さんが突然|首《くび》を捩《ひね》つて、女に何《ど》うかしましたかと聞《き》いた。其時三四郎は、少し恐《おそ》ろしくなつた位である。移《うつ》り易《やす》い美《うつくし》さを、移《うつ》さずに据ゑて置く手段が、もう尽きたと画家から注意された様に聞《きこ》えたからである。  成程さう思つて見ると、何《ど》うかしてゐるらしくもある。色光沢《いろつや》が好《よ》くない。眼尻《めじり》に堪へ難い嬾《ものう》さが見える。三四郎は此活人画から受ける安慰の念を失《うしな》つた。同時にもしや自分が此変化の源因ではなからうかと考へ付《つ》いた。忽《〔たちま〕》ち強烈な個性的の刺激が三四郎の心を襲つて来《き》た。移《うつ》り行《ゆ》く美《び》を果敢《はか》なむと云ふ共通性の情緒は丸で影を潜めて仕舞つた。――自分はそれ程の影響を此女の上《うへ》に有して居る。――三四郎は此自覚のもとに一切《いつさい》の己《おの》れを意識した。けれどもその影響が自分に取つて、利益か不利益かは未決の問題である。  其時原口さんが、とう/\筆を擱《お》いて、 「もう廃《よ》さう。今日《けふ》は何《ど》うしても駄目《だめ》だ」と云ひ出《だ》した。美禰子は持《も》つてゐた団扇を、立ちながら、床《ゆか》の上《うへ》に落《おと》した。椅子に掛《か》けた、羽織を取《と》つて着《き》ながら、此方《こちら》へ寄《よ》つて来《き》た。 「今日《けふ》は疲《つか》れてゐますね」 「私《わたくし》?」と羽織の裄《ゆき》を揃《そろ》へて、紐《ひも》を結《むす》んだ。 「いや実は僕《ぼく》も疲《つか》れた。また明日《あした》元気の好《い》い時《とき》に遣《や》りませう。まあ御茶でも飲《の》んで、緩《ゆつくり》なさい」  夕暮には、まだ間《ま》があつた。けれども美禰子は少《すこ》し用があるから帰るといふ。三四郎も留《と》められたが、わざと断わつて、美禰子と一所に表へ出《で》た。日本の社会状態で、かう云ふ機会を、随意に造《つく》る事は、三四郎に取つて困難である。三四郎は成るべく此機会を長《なが》く引き延《の》ばして利用しやうと試みた。それで、比較的|人《ひと》の通《とほ》らない、閑静な曙町《あけぼのちやう》を、一廻《ひとまは》り散歩しやうぢや無《な》いかと女を誘《いざな》つて見た。所が相手は案外にも応じなかつた。一直線に生垣《いけがき》の間《あひだ》を横切《よこぎ》つて、大通《おほどほ》りへ出《で》た。三四郎は、並《なら》んで歩《ある》きながら、 「原口さんも左《さ》う云つてゐたが、本当に何《ど》うかしたんですか」と聞《き》いた。 「私《わたくし》?」と美禰子が又云つた。原口さんに答《こた》へたと同じ事である。三四郎が美禰子を知つてから、美禰子はかつて、長い言葉を使《つか》つた事がない。大抵の応対は一句か二句で済《す》ましてゐる。しかも甚だ単簡なものに過ぎない。それでゐて、三四郎の耳には、一種の深い響《ひゞき》を与へる。殆んど他《ほか》の人《ひと》からは、聞き得る事の出来ない色《いろ》が出《で》る。三四郎はそれに敬服した。それを不思議がつた。 「私《わたくし》?」と云つた時、女は顔《かほ》を半分程三四郎の方へ向《む》けた。さうして二重瞼《ふたへまぶた》の切れ目から男を見た。其眼《そのめ》には暈《かさ》が被《かゝ》つてゐる様に思はれた。何時《いつ》になく感じが生温《なまぬる》く来《き》た。頬《ほゝ》の色《いろ》も少し蒼《あを》い。 「色《いろ》が少《すこ》し悪《わる》い様です」 「左《さ》うですか」  二人《ふたり》は五六歩|無言《むげん》であるいた。三四郎は何《ど》うともして、二人《ふたり》の間《あひだ》に掛《か》かつた薄《うす》い幕の様なものを裂《さ》き破《やぶ》りたくなつた。然し何と云つたら破《やぶ》れるか、丸で分別が出《で》なかつた。小説などにある甘《あま》い言葉は遣《つか》いたくない。趣味の上《うへ》から云つても、社交上|若《わか》い男女の習慣としても、遣《つか》い度《たく》ない。三四郎は事実上不可能の事を望んでゐる。望んでゐる許《ばかり》ではない、歩《ある》きながら工夫してゐる。 [#7字下げ]十の八[#「十の八」は中見出し]  やがて、女の方から口《くち》を利《き》き出《だ》した。 「今日《けふ》何《なに》か原口《はらぐち》さんに御用が御|有《あ》りだつたの」 「いゝえ、用事は無《な》かつたです」 「ぢや、たゞ遊《あそ》びに入《〔い〕》らしつたの」 「いゝえ、遊《あそ》びに行《い》つたんぢやありません」 「ぢや、何《な》んで入らしつたの」  三四郎は此瞬間を捕《とら》へた。 「あなたに会《あ》ひに行《い》つたんです」  三四郎は是《これ》で云へる丈の事を悉《ことごと》く云つた積りである。すると、女はすこしも刺激に感じない、しかも、例《いつも》の如く男を酔はせる調子で、 「御金《おかね》は、彼所《あすこ》ぢや頂《いたゞ》けないのよ」と云つた。三四郎は落胆《がつかり》した。  二人《ふたり》は又|無言《むげん》で五六間|来《き》た。三四郎は突然|口《くち》を開《ひら》いた。 「本当は金《かね》を返《かへ》しに行《い》つたのぢやありません」  美禰子はしばらく返事をしなかつた。やがて、静《しづ》かに云つた。 「御|金《かね》は私《わたくし》も要《い》りません。持つて入らつしやい」  三四郎は堪《た》へられなくなつた。急に、 「たゞ、あなたに会《あ》ひたいから行《い》つたのです」と云つて、横に女の顔を覗《のぞ》き込《こ》んだ。女は三四郎を見なかつた。其時三四郎の耳に、女の口《くち》を洩《も》れた微《かす》かな溜息《ためいき》が聞《きこ》えた。 「御金《おかね》は……」 「金《かね》なんぞ……」  二人《ふたり》の会話《くわいわ》は双方共意味を成《な》さないで、途中で切《き》れた。それなりで、又小半町程|来《き》た。今度《こんど》は女から話し掛《か》けた。 「原口さんの画《ゑ》を御覧になつて、どう御思ひなすつて」  答へ方《かた》が色々あるので、三四郎は返事をせずに少《すこ》しの間《あひだ》歩《ある》いた。 「余《あんま》り出来方《できかた》が早《はや》いので御驚ろきなさりやしなくつて」 「えゝ」と云つたが、実は始めて気が付いた。考へると、原口が広田先生の所へ来《き》て、美禰子の肖像を描《か》く意志を洩《も》らしてから、まだ一ヶ月|位《ぐらゐ》にしかならない。展覧会で直接に美禰子に依頼してゐたのは、夫《それ》より後《のち》の事である。三四郎は画の道《みち》に暗《くら》いから、あんな大《おほ》きな額《がく》が、何《ど》の位な速度で仕上《しあげ》られるものか、殆んど想像の外《ほか》にあつたが、美禰子から注意されて見ると、余り早く出来過《できす》ぎてゐる様に思はれる。 「何時《いつ》から取掛《とりかゝ》つたんです」 「本当に取《と》り掛《かゝ》つたのは、つい此間《このあひだ》ですけれども、其前《そのまへ》から少《すこ》し宛《づゝ》描《か》いて頂《いた》だいてゐたんです」 「其前《そのまへ》つて、何時頃《いつごろ》からですか」 「あの服装《なり》で分《わか》るでせう」  三四郎は突然として、始めて池の周囲《まはり》で美禰子に逢つた暑《あつ》い昔《むかし》を思ひ出《だ》した。 「そら、あなた、椎《しゐ》の木の下《した》に跼《しや》がんでゐらしつたぢやありませんか」 「あなたは団扇を翳《かざ》して、高《たか》い所に立《たつ》てゐた」 「あの画《ゑ》の通りでせう」 「えゝ。あの通りです」  二人《ふたり》は顔を見合はした。もう少しで白山《はくさん》の坂《さか》の上へ出《で》る。  向《むかふ》から車《くるま》が走《か》けて来《き》た。黒い帽子を被《かぶ》つて、金縁《きんぶち》の眼鏡《めがね》を掛けて、遠くから見ても色光沢《いろつや》の好《い》い男が乗《の》つてゐる。此|車《くるま》が三四郎の眼《め》に這入《はい》つた時から、車の上の若《わか》い紳士は美禰子の方を見詰めてゐるらしく思はれた。二三間|先《さき》へ来《く》ると、車《くるま》を急に留《と》めた。前掛《まへかけ》を器用に跳《は》ね退《の》けて、蹴込みから飛《と》び下《お》りた所を見ると、脊のすらりと高い細面《ほそおもて》の立派な人であつた。髭《ひげ》を奇麗に剃《す》つてゐる。それでゐて、全く男《をとこ》らしい。 「今迄|待《ま》つてゐたけれども、余《あんま》り遅《おそ》いから迎《むかひ》に来《き》た」と美禰子の真前《まんまへ》に立つた。見下《みおろ》して笑つてゐる。 「さう、難有《〔ありがと〕》う」と美禰子も笑つて、男の顔を見返したが、其眼《そのめ》をすぐ三四郎の方へ向けた。 「何誰《どなた》」と男が聞いた。 「大学の小川さん」と美禰子が答へた。  男は軽《かる》く帽子を取つて、向《むかふ》から挨拶をした。 「早く行《い》かう。兄《にい》さんも待つてゐる」  好《い》い具合に三四郎は追分《おひわけ》へ曲《まが》るべき横町の角《かど》に立つてゐた。金《かね》はとう/\返《かへ》さずに分《わか》れた。 [#7字下げ]十一の一[#「十一の一」は中見出し]  此頃与次郎が学校で文芸協会の切符を売つて回《まは》つてゐる。二三日|掛《か》かつて、知つたものへは略《ほゞ》売《う》り付《つ》けた様子である。与次郎はそれから知らないものを捕《つら》まへる事にした。大抵は廊下で捕《つら》まへる。すると中々《なか/\》放《はな》さない。どうか、斯《か》うか買《か》はせて仕舞ふ。時《とき》には談判中に号鐘《ベル》が鳴《な》つて取り逃《にが》す事もある。与次郎は之《これ》を時《とき》利《り》あらずと号してゐる。時には相手が笑つてゐて、何時《いつ》迄も要領を得ない事がある。与次郎は之《これ》を人《ひと》利《り》あらずと号してゐる。或時《あるとき》便所から出《で》て来《き》た教授を捕《つら》まへた。其教授は手帛《ハンケチ》で手を拭《ふ》きながら、今《いま》一寸《ちよつと》と云つた儘急いで図書館へ這入つて仕舞つた。夫《それ》ぎり決《けつ》して出《で》て来《こ》ない。与次郎は之《これ》を――何とも号しなかつた。後影《うしろかげ》を見送《みおく》つて、あれは腸|加答児《カタル》に違ないと三四郎に教へて呉れた。  与次郎に切符の販売|方《かた》を何枚|托《たの》まれたのかと聞くと、何枚でも売れる丈|托《たの》まれたのだと云ふ。余《あま》り売れ過《す》ぎて演芸場に這入《はい》り切れない恐れはないかと聞くと、少《すこ》しは有《あ》ると云ふ。それでは売つたあとで困るだらうと念を推すと、何《なに》大丈夫だ、中《なか》には義理で買《か》ふものもあるし、事故で来《こ》ないものもあるし、それから腸加答児も少しは出来《でき》るだらうと云つて、澄ましてゐる。  与次郎が切符を売る所を見てゐると、引き易《かへ》に金《かね》を渡すものからは無論即座に受け取るが、さうでない学生には只《たゞ》切符丈|渡《わた》してゐる。気の小《ち》さい三四郎が見ると、心配になる位|渡《わた》して歩《ある》く。あとから思ふ通り金《かね》が寄《よ》るかと聞《き》いて見ると、無論|寄《よ》らないといふ答だ。几帳面に僅《〔わず〕》か売《う》るよりも、だらしなく沢山売る方が、大体の上《うへ》に於て利益だから斯《か》うすると云つてゐる。与次郎は之《これ》をタイムス社が日本で百科全書を売つた方法に比較してゐる。比較丈は立派に聞《きこ》えたが、三四郎は何《なん》だか心元《こゝろもと》なく思つた。そこで一応与次郎に注意した時に、与次郎の返事は面白かつた。 「相手は東京帝国大学々生だよ」 「いくら学生だつて、君の様に金《かね》に掛《か》けると呑《のん》気なのが多いだらう」 「なに善意《ぜんゐ》に払《はら》はないのは、文芸協会の方でも八釜敷《やかましく》は云はない筈《はづ》だ。何《ど》うせ幾何《いくら》切符が売れたつて、とゞの詰《つま》りは協会の借金になる事は明《あき》らかだから」  三四郎は念の為《ため》、それは君の意見か、協会の意見かと糺《たゞ》して見た。与次郎は、無論僕の意見であつて、協会の意見であると都合のいゝ事を答へた。  与次郎の説を聞くと、今度の演芸会を見ないものは、丸《まる》で馬鹿の様な気がする。馬鹿の様な気がする迄与次郎は講釈をする。それが切符を売る為《ため》だか、実際演芸会を信仰してゐる為《ため》だか、或はたゞ自分の景気を付《つ》け、かねて相手の景気をつけ、次いでは演芸会の景気をつけて、世上一般の空気を出来る丈|賑《にぎ》やかにする為《ため》だか、そこの所が一寸《ちよつと》明晰に区別が立たないものだから、相手は馬鹿の様な気がするにも拘《〔かか〕》はらず、あまり与次郎の感化を蒙らない。  与次郎は第一に会員の練習に骨を折つてゐる話《はなし》をする。話《はなし》通りに聞いてゐると、会員の多数は、練習の結果として、当日前《たうじつぜん》に役に立たなくなりさうだ。それから背景の話をする。其背景が大《たい》したもので、東京にゐる有為の青年画家を悉く引き上《あ》げて、悉く応分の技倆を振はした様な事になる。次《つぎ》に服装の話をする。其服装が頭《あたま》から足の先《さき》迄|古実《こじつ》づくめに出来|上《あが》つてゐる。次に脚本の話をする。それが、みんな新作で、みんな面白い。其外《そのほか》幾何《いくら》でもある。  与次郎は広田先生と原口さんに招待券を送つたと云つてゐる。野々宮|兄妹《けうだい》と里見兄妹《さとみけうだい》には上等の切符を買はせたと云つてゐる。万事が好都合だと云つてゐる。三四郎は与次郎の為に演芸会万歳を唱へた。 [#7字下げ]十一の二[#「十一の二」は中見出し]  万歳を唱へた晩、与次郎が三四郎の下宿へ来《き》た。昼間《ひるま》とは打《う》つて変つてゐる。堅くなつて火鉢の傍《そば》へ坐《すは》つて寒《さむ》い寒いと云ふ。其|顔《かほ》がたゞ寒《さむ》いのでは無《な》いらしい。始めは火鉢へ乗《の》り掛《か》ゝる様に手を翳《かざ》してゐたが、やがて懐手《ふところで》になつた。三四郎は与次郎の顔を陽気にする為《た》めに、机の上《うへ》の洋燈《ランプ》を端《はじ》から端《はじ》へ移した。所が与次郎は顎《あご》をがつくり落《おと》して、大きな坊主|頭《あたま》丈を黒く灯《ひ》に照《て》らしてゐる。一向|冴《さ》えない。何《ど》うかしたかと聞いた時に、首《くび》を挙《あ》げて洋燈《ランプ》を見た。 「此家《このうち》ではまだ電気を引《ひ》かないのか」と顔付《かほつき》には全く縁のない事《こと》を聞《き》いた。 「まだ引《ひ》かない。其内《そのうち》電気にする積《つもり》ださうだ。洋燈《ランプ》は暗《くら》くて不可《いか》んね」と答《こた》へてゐると、急に、洋燈《ランプ》の事は忘れたと見えて、 「おい、小川、大変な事が出来《でき》て仕舞つた」と云ひ出《だ》した。  一応|理由《わけ》を聞《き》いて見る。与次郎は懐《ふところ》から皺だらけの新聞を出《だ》した。二枚|重《かさ》なつてゐる。其一枚を剥《は》がして、新らしく畳み直《なほ》して、此所《こゝ》を読んで見ろと差し付けた。読む所を指《ゆび》の頭《あたま》で抑へてゐる。三四郎は眼《め》を洋燈《ランプ》の傍《そば》へ寄《よ》せた。見出《みだし》に大学の純文科とある。  大学の外国文学科は従来西洋人の担当で、当事者は一切の授業を外国教師に依頼してゐたが、時勢の進歩と多数学生の希望に促《うな》がされて、今度|愈《〔いよいよ〕》本邦人の講義も必須課目として認めるに至つた。そこで此間中《このあひだぢう》から適当の人物を人撰中であつたが、漸く某氏に決定して、近々発表になるさうだ。某氏は近き過去に於て、海外留学の命を受けた事のある秀才だから至極適任だらう。と云ふ内容である。 「広田先生ぢや無《な》かつたんだな」と三四郎が与次郎を顧《かへり》みた。与次郎は矢っ張り新聞の上《うへ》を見てゐる。 「是は慥《たしか》なのか」と三四郎が又聞いた。 「何《ど》うも」と首《くび》を曲《ま》げたが、「大抵大丈夫だらうと思つてゐたんだがな。遣《や》り損《そく》なつた。尤《もつと》も此男《このをとこ》が大分運動をしてゐると云ふ話《はなし》は聞《き》いた事もあるが」と云ふ。 「然し是丈《これだけ》ぢや、まだ風説ぢやないか。愈《〔いよいよ〕》発表になつて見なければ分《わか》らないのだから」 「いや、それ丈《だけ》なら無論構はない。先生の関係した事ぢやないから、然し」と云つて、又残りの新聞を畳み直《なほ》して、標題《みだし》を指《ゆび》の頭《あたま》で抑《おさ》へて、三四郎の眼《め》の下《した》へ出《だ》した。  今度《こんど》の新聞にも略《ほゞ》同様の事が載つてゐる。そこ丈は別段に新《あた》らしい印象を起《おこ》しやうもないが、其後《そのあと》へ来《き》て、三四郎は驚ろかされた。広田先生が大変な不徳義漢の様に書いてある。十年間語学の教師をして、世間には杳《〔よう〕》として聞えない凡材の癖《くせ》に、大学で本邦人の外国文学講師を入《い》れると聞くや否や、急に狐鼠々々《〔こそこそ〕》運動を始めて、自分の評判記を学生間に流布した。のみならず其門下生をして「偉大なる暗闇《くらやみ》」などと云ふ論文を小雑誌《こざつし》に草せしめた。此論文は零余子なる慝名《〔とくめい〕》の下《もと》にあらはれたが、実は広田の家《いへ》に出入《しつにう》する文科大学生小川三四郎なるものゝ筆《ふで》である事迄分つてゐる。と、とう/\三四郎の名前が出《で》て来た。  三四郎は妙な顔をして与次郎を見た。与次郎は前から三四郎の顔を見てゐる。二人共《ふたりとも》しばらく黙《だま》つてゐた。やがて、三四郎が、 「困《こま》るなあ」と云つた。少《すこ》し与次郎を恨《うら》んでゐる。与次郎は、そこは余《あまり》構《かま》つてゐない。 「君、これを何《ど》う思ふ」と云ふ。 「何《ど》う思ふとは」 「投書を其儘|出《だ》したに違《ちがひ》ない。決して社の方で調《しら》べたものぢやない。文芸時評の六号活字の投書に斯《〔こ〕》んなのが、いくらでも来《く》る。六号活字は殆んど罪悪のかたまりだ。よくよく探《さぐ》つて見ると嘘《うそ》が多い。目に見えた嘘《うそ》を吐《つ》いてゐるのもある。何故《なぜ》そんな愚《ぐ》な事をやるかと云ふとね、君。みんな利害問題が動機になつてゐるらしい。それで僕が六号活字を受持つてゐる時には、性質《たち》の好《よ》くないのは、大抵|屑籠《くづかご》へ放《ほう》り込んだ。此記事も全くそれだね。反対運動の結果だ」 [#7字下げ]十一の三[#「十一の三」は中見出し] 「何故《なぜ》、君の名が出《で》ないで、僕《ぼく》の名が出《で》たものだらうな」  与次郎は「左《さ》うさ」と云つてゐる。しばらくしてから、 「矢っ張り何《なん》だらう。君は本科生で僕は撰科生だからだらう」と説明した。けれども三四郎には、是《これ》が説明にも何《なん》にもならなかつた。三四郎は依然として迷惑である。 「全体僕が零余子なんて稀知《けち》な号を使はずに、堂々と佐々木与次郎と署名して置けば好《よ》かつた。実際あの論文は佐々木与次郎以外に書《か》けるものは一人《ひとり》もないんだからなあ」  与次郎は真面目《まじめ》である。三四郎に「偉大なる暗闇《くらやみ》」の著作権を奪はれて、却つて迷惑してゐるのかも知れない。三四郎は馬鹿々々しくなつた。 「君、先生に話《はな》したか」と聞いた。 「さあ、其所《そこ》だ。偉大なる暗闇の作者なんか、君だつて、僕《ぼく》だつて、どつちだつて構はないが、事《こと》先生の人格に関係してくる以上は、話《はな》さずにはゐられない。あゝ云ふ先生だから、一向知りません、何か間違でせう、偉大なる暗闇といふ論文は雑誌に出《で》ましたが、慝名《〔とくめい〕》です、先生の崇拝者が書いたものですから御安心なさい位に云つて置けば、さうかで直《すぐ》済んで仕舞ふ訳《わけ》だが、此際|左《さ》うは不可《いか》ん。どうしたつて僕が責任を明《あき》らかにしなくつちや。事が旨《うま》く行《い》つて、知らん顔《かほ》をしてゐるのは、心持が好《い》いが、遣《や》り損《そく》なつて黙《だま》つてゐるのは不愉快で堪《たま》らない。第一自分が事を起して置いて、あゝ云ふ善良な人を迷惑な状態に陥らして、それで平気に見物がして居られるものぢやない。正邪曲直なんて六※[#濁点付き小書き平仮名つ、564-12]かしい問題は別として、たゞ気の毒で、痛《いた》はしくつて不可《いけ》ない」  三四郎は始めて与次郎を感心な男だと思つた。 「先生は新聞を読んだんだらうか」 「家《うち》へ来《く》る新聞にやない。だから僕も知《し》らなかつた。然し先生は学校へ行つて色々《いろ/\》な新聞を見るからね。よし先生が見なくつても誰《だれ》か話すだらう」 「すると、もう知つてるな」 「無論知つてるだらう」 「君には何とも云はないか」 「云はない。尤も碌《ろく》に話《はなし》をする暇《ひま》もないんだから、云はない筈だが。此間《このあひだ》から演芸会の事で始終奔走してゐるものだから――あゝ演芸会も、もう厭《いや》になつた。已《や》めて仕舞はうかしらん。御白粉《おしろい》を着《つ》けて、芝居なんかやつたつて、何が面白いものか」 「先生に話《はな》したら、君、叱《しか》られるだらう」 「叱《しか》られるだらう。叱《しか》られるのは仕方がないが、如何にも気の毒でね。余計な事をして迷惑を掛《か》けてるんだから。――先生は道|楽《らく》のない人でね。酒は飲まず、烟草《たばこ》は」と云ひかけたが途中で已《や》めて仕舞つた。先生の哲学を鼻から烟《けむ》にして吹き出す量は月に積ると、莫大なものである。 「烟草丈は可《か》なり呑《の》むが、其外に何にも無《な》いぜ。釣《つり》をするぢやなし、碁を打つぢやなし、家庭の楽《たのしみ》があるぢやなし。あれが一番|不可《いけ》ない。小供でもあると可《い》いんだけれども。実に枯淡だからなあ」  与次郎は夫《それ》で腕組をした。 「たまに、慰め様と思つて、少し奔走すると、斯《こ》んな事になるし。君も先生の所へ行つて遣《や》れ」 「行つて遣《や》る所《どころ》ぢやない。僕にも多少責任があるから、謝罪《あやま》つて来《く》る」 「君《きみ》は謝罪《あやま》る必要はない」 「ぢや弁解して来《く》る」  与次郎は夫《それ》で帰つた。三四郎は床《とこ》に這入《はい》つてから度々《たび/\》寐返りを打つた。国にゐる方が寐易《〔ねやす〕》い心持がする。偽りの記事――広田先生――美禰子――美禰子を迎に来て連れて行《い》つた立派な男――色々の刺激がある。 [#7字下げ]十一の四[#「十一の四」は中見出し]  夜中《よなか》からぐつすり寐《ね》た。何時《いつ》もの様に起きるのが、ひどく辛《つら》かつた。顔《かほ》を洗《あら》ふ所で、同じ文科の学生に逢《あ》つた。顔丈は互に見知り合《あ》ひである。失敬と云ふ挨拶のうちに、此男は例の記事を読んで居るらしく推《すい》した。然し先方では無論話頭を避けた。三四郎も弁解を試みなかつた。  暖《あたゝ》かい汁《しる》の香《か》を嗅《か》いでゐる時に、又|故里《ふるさと》の母からの書信に接した。又例の如《ごと》く長《なが》かりさうだ。洋服を着換へるのが面倒だから、着《き》たまゝの上《うへ》へ袴を穿《は》いて、懐《ふところ》へ手紙を入れて、出《で》る。戸外《そと》は薄《うす》い霜で光《ひか》つた。  通りへ出《で》ると、殆《ほと》んど学生|許《ばかり》歩《ある》いてゐる。それが、みな同じ方向へ行《ゆ》く。悉く急《いそ》いで行《ゆ》く。寒い往来は若《わか》い男の活気で一杯になる。其|中《なか》に霜降《しもふり》の外套を着た広田先生の長い影《かげ》が見えた。此青年の隊伍に紛《まぎ》れ込んだ先生は、歩調に於て既に時代錯誤《アナクロニズム》である。左右前後に比較すると頗る緩漫に見える。先生の影《かげ》は校門のうちに隠れた。門内に大きな松がある。巨人の傘《からかさ》の様に枝を拡《ひろ》げて玄関を塞《ふさ》いでゐる。三四郎の足が門前迄来た時は、先生の影が、既に消えて、正面に見えるものは、松と、松の上にある時計台|許《ばかり》であつた。此|時計《とけい》台の時計は常に狂《くる》つてゐる。もしくは留《とま》つてゐる。  門内《もんない》を一寸覗き込んだ三四郎は、口《くち》の内《うち》で、「ハイドリオタフヒア」と云ふ字を二度繰り返した。此字は三四郎の覚えた外国語のうちで、尤も長い、又尤も六※[#濁点付き小書き平仮名つ、567-9]かしい言葉《ことば》の一《ひと》つであつた。意味はまだ分《わか》らない。広田先生に聞《き》いて見る積《つもり》でゐる。かつて与次郎に尋ねたら、恐らくダーターフアブラの類《たぐひ》だらうと云つてゐた。けれども三四郎から見ると、二つの間《あひだ》には大変な違《ちがひ》がある。ダーターフアブラは躍るべき性質のものと思へる。ハイドリオタフヒアは覚えるのにさへ暇《ひま》が入《い》る。二返繰り返すと歩調が自《おのづ》から緩慢になる。広田先生の使《つか》ふために古人が作つて置いた様な音《おん》がする。  学校へ行《い》つたら、「偉大なる暗闇《くらやみ》」の作者として、衆人の注意を一身に集めてゐる気色《きしよく》がした。戸外《そと》へ出様としたが、戸外《そと》は存外寒いから廊下にゐた。さうして講義の間《あひだ》に懐《ふところ》から母の手紙を出《だ》して読んだ。  此冬休みには帰つて来《こ》いと、丸で熊本にゐた当時と同様な命令がある。実は熊本にゐた時分にこんな事があつた。学校が休みになるか、ならないのに、帰れと云ふ電報が掛《か》かつた。母の病気に違ないと思ひ込んで、驚ろいて飛んで帰ると、母の方では此方《こつち》に変《へん》がなくつて、まあ結構だつたと云はぬ許に喜《よろ》こんでゐる。訳《わけ》を聞くと、何時《いつ》迄|待《ま》つてゐても帰らないから、御稲荷様へ伺《うかゞひ》を立《た》てたら、こりや、もう熊本を立《た》つてゐるといふ御託宣であつたので、途中で何《ど》うかしはせぬだらうかと非常に心配してゐたのだと云ふ。三四郎は其当時を思ひ出《だ》して、今度も亦《〔また〕》伺《うかゞ》ひを立てられる事かと思つた。然し手紙には御稲荷様の事は書《か》いてない。たゞ三輪田の御光さんも待つてゐると割《わり》註見た様なものが付《つ》いてゐる。御光さんは豊津の女学校をやめて、家《うち》へ帰つたさうだ。又御光さんに縫つて貰つた綿入が小包《こづゝみ》で来《く》るさうだ。大工の角三《かくぞう》が山で賭博《ばくち》を打つて九十八円取られたさうだ。――其顛末が委《〔くわ〕》しく書いてある。面倒だから好《い》い加減に読んだ。何でも山を買ひたいといふ男が三人|連《づれ》で入り込んで来《き》たのを、角三が案内をして、山を廻《まは》つてあるいてる間《あひだ》に取《と》られて仕舞つたのださうだ。角三はうちへ帰つて、女房に何時《いつ》の間《ま》に取られたか分《わか》らないと弁解した。すると、女房がそれぢや御前さん眠り薬でも嗅《か》がされたんだらうと云つたら、角三が、うん左《さ》う云へば何だか嗅《か》いだ様だと答へたさうだ。けれども村のものはみんな賭博《ばくち》をして巻《ま》き上《あ》げられたと評判してゐる。田舎《いなか》でも斯《か》うだから、東京にゐる御前なぞは、本当によく気を付けなくては不可《いけ》ないと云ふ訓戒が付《つ》いてゐる。  長い手紙を巻き収めてゐると、与次郎が傍《そば》へ来《き》て、「やあ女の手紙だな」と云つた。昨夕《ゆふべ》よりは冗談をいふ丈元気が可《い》い。三四郎は、 「なに母からだ」と、少し詰《つま》らなささうに答へて、封筒ごと懐《ふところ》へ入れた。 「里見の御嬢さんからぢやないのか」 「いゝや」 「君、里見の御嬢さんの事を聞いたか」 「何を」と問ひ返してゐる所へ、一人《ひとり》の学生が、与次郎に、演芸会の切符を欲《ほ》しいといふ人が階下《した》に待つてゐると教へに来《き》てくれた。与次郎はすぐ降《お》りて行《い》つた。 [#7字下げ]十一の五[#「十一の五」は中見出し]  与次郎は夫《それ》なり消えてなくなつた。いくら捕《つら》まへやうと思つても出《で》て来《こ》ない。三四郎は已《〔やむ〕》を得ず精出して講義を筆記してゐた。講義が済《す》んでから、昨夕《ゆふべ》の約束通り広田先生の家《うち》へ寄《よ》る。相変らず静かである。先生は茶の間《ま》に長くなつて寐てゐた。婆さんに、どうか為《な》すつたのかと聞くと、左《さ》うぢや無《な》いのでせう、昨夕《ゆふべ》余り遅くなつたので、眠《ねむ》いと云つて、先刻《さつき》御帰りになると、すぐ横《よこ》に御|成《な》りなすつたのだと云ふ。長い身躯《からだ》の上《うへ》に小夜着《こよぎ》が掛けてある。三四郎は小《ちい》さな声で、又婆さんに、どうして、さう遅《おそ》くなつたのかと聞《き》いた。なに何時《いつ》でも遅《おそ》いのだが、昨夕《ゆふべ》のは勉強ぢやなくつて、佐々木さんと久しく御話をして御出《おいで》だつたのだといふ答である。勉強が佐々木に代《かは》つたから、昼寐をする説明にはならないが、与次郎が、昨夕《ゆふべ》先生に例の話をした事丈は是で明瞭になつた。序でに与次郎が、どう叱《しか》られたか聞《き》いて置きたいのだが、それは婆さんが知らう筈がないし、肝心の与次郎は学校で取り逃《にが》して仕舞つたから仕方がない。今日《けふ》の元気の好《い》い所を見ると、大《たい》した事件には成らずに済んだのだらう。尤も与次郎の心理現象は到底三四郎には解《わか》らないのだから、実際どんな事があつたか想像は出来ない。  三四郎は長火鉢の前へ坐《すは》つた。鉄瓶《てつびん》がちん/\鳴つてゐる。婆さんは遠慮をして下女部屋へ引き取つた。三四郎は胡坐《あぐら》をかいて、鉄瓶《てつびん》に手を翳《かざ》して、先生の起きるのを待つてゐる。先生は熟睡してゐる。三四郎は静かで好《い》い心持になつた。爪《つめ》で鉄瓶《てつびん》を敲《たゝ》いて見た。熱《あつ》い湯を茶碗に注《つ》いでふう/\吹《ふ》いて飲んだ。先生は向《むかふ》をむいて寐てゐる。二三日前に頭《あたま》を刈つたと見えて、髪《かみ》が甚だ短《みぢか》い。髭《ひげ》の端《はじ》が濃く出てゐる。鼻《はな》も向《むか》ふを向《む》ひてゐる。鼻の穴がすうすう云ふ。安眠だ。  三四郎は返《かへ》さうと思つて、持《も》つて来《き》たハイドリオタフヒアを出《だ》して読み始めた。ぽつぽつ拾ひ読をする。中々《なか/\》解《わか》らない。墓《はか》の中《なか》に花を投《な》げる事が書《か》いてある。羅馬《〔ローマ〕》人は薔薇《ばら》を affect《アツフエクト》 すると書《か》いてある。何の意味だか能く知らないが、大方《おほかた》好《この》むとでも訳するんだらうと思つた。希臘《〔ギリシア〕》人は Amaranth《アマランス》 を用ひると書いてある。是も明瞭でない。然し花の名には違ない。夫《それ》から少し先《さき》へ行くと、丸で解《わか》らなくなつた。頁《ページ》から眼《め》を離して先生を見た。まだ寐てゐる。何《なん》で斯《こ》んな六づかしい書物を自分に借《〔か〕》したものだらうと思つた。それから、此六※[#濁点付き小書き平仮名つ、571-6]かしい書物が、何故《なぜ》解《わか》らないながらも、自分の興味を惹《〔ひ〕》くのだらうと思つた。最後に広田先生は必竟ハイドリオタフヒアだと思つた。  さうすると、広田先生がむくりと起《お》きた。首《くび》丈|持上《もちあ》げて、三四郎を見た。 「何時《いつ》来《き》たの」と聞いた。三四郎はもつと寐て御出《おいで》なさいと勧《すゝ》めた。実際退屈ではなかつたのである。先生は、 「いや起《おき》る」と云つて起《お》きた。それから例の如《ごと》く哲学の烟《けむり》を吹き始めた。烟《けむり》が沈黙の間に、棒になつて出《で》る。 「難有《〔ありがと〕》う。書物を返します」 「あゝ。――読んだの」 「読んだけれどもよく解《わか》らんです。第一|標題《ひようだい》が解《わか》らんです」 「ハイドリオタフヒア」 「何の事ですか」 「何の事か僕にも分《わか》らない。兎に角希臘語らしいね」  三四郎はあとを尋ねる勇気が抜《ぬ》けて仕舞つた。先生は欠《あくび》を一《ひと》つした。 「あゝ眠《ねむ》かつた。好《い》い心持に寐た。面白い夢を見てね」  先生は女の夢だと云つてゐる。それを話すのかと思つたら、湯に行《い》かないかと云ひ出《だ》した。二人《ふたり》は手拭を提げて出掛けた。 [#7字下げ]十一の六[#「十一の六」は中見出し]  湯から上《あが》つて、二人《ふたり》が、板《いた》の間《ま》に据ゑてある器械の上《うへ》に乗《の》つて、身長《たけ》を測《はか》つて見た。広田先生は五尺六寸ある。三四郎は四寸五分しかない。 「まだ延《の》びるかも知れない」と広田先生が三四郎に云つた。 「もう駄目です。三年来この通です」と三四郎が答へた。 「左《さ》うかな」と先生が云つた。自分を余っ程小供の様に考へてゐるのだと三四郎は思つた。家《うち》へ帰つた時、先生が、用が無《な》ければ話《はな》して行《い》つても構《かま》はないと、書斎の戸を開《あ》けて、自分《じぶん》が先《さき》へ這入つた。三四郎は兎に角、例の用事を片付ける義務があるから、続《つゞ》いて這入《はい》つた。 「佐々木は、まだ帰《かへ》らない様ですな」 「今日《けふ》は遅《おそ》くなるとか云つて断《こと》わつてゐた。此間《このあひだ》から演芸会の事で大分奔走してゐる様だが、世話|好《ず》きなんだか、馳《か》け回《まは》る事が好《す》きなんだか、一向要領を得ない男だ」 「親切なんですよ」 「目的丈は親切な所も少しあるんだが、何《なに》しろ、頭《あたま》の出来《でき》が甚だ不親切だものだから、碌な事は仕出《しで》かさない。一寸《ちよつと》見ると、要領を得てゐる。寧ろ得過ぎてゐる。けれども終局へ行くと、何の為に要領を得て来《き》たのだか、丸で滅茶苦茶になつて仕舞ふ。いくら云つても直《なほ》さないから放《ほう》て置く。あれは悪戯《いたづら》をしに世の中へ生れて来《き》た男だね」  三四郎は何とか弁護の道がありさうなものだと思つたが、現に結果の悪《わる》い実例があるんだから、仕様がない。話《はなし》を転じた。 「あの新聞の記事を御覧でしたか」 「えゝ、見た」 「新聞に出《で》る迄は些《ちつ》とも御|存《ぞん》じなかつたのですか」 「いゝえ」 「御驚ろきなすつたでせう」 「驚ろくつて――夫《それ》は全く驚ろかない事もない。けれども世の中の事はみんな、彼《あ》んなものだと思つてるから、若い人程正直に驚ろきはしない」 「御迷惑でせう」 「迷惑でない事もない。けれども僕位世の中《なか》に住《す》み古《ふ》るした年配の人間なら、あの記事を見て、すぐ事実だと思ひ込む人許《ひとばかり》もないから、矢《や》っ張《ぱり》若い人程正直に迷惑とは感じない。与次郎は社員に知つたものがあるから、其男に頼んで真相を書《か》いて貰《もら》ふの、あの投書の出所を探《さが》して制裁を加へるの、自分の雑誌で充分反駁を致しますのと、善後策の了見で下《くだ》らない事を色々云ふが、そんな手数《てかず》をするならば、始めから余計な事を起《おこ》さない方が、いくら好《い》いか分《わか》りやしない」 「全く先生の為《ため》を思つたからです。悪気《わるぎ》ぢやないです」 「悪気《わるぎ》で遣《や》られて堪《たま》るものか。第一僕の為めに運動をするものがさ、僕の意向も聞かないで、勝手な方法を講じたり、勝手な方針を立てた日には、最初から僕の存在を愚弄してゐると同じ事ぢやないか。存在を無視されてゐる方が、どの位体面を保つに都合が好《い》いか知れやしない」  三四郎は仕方なしに黙《だま》つてゐた。 「さうして、偉大なる暗闇《くらやみ》なんて愚にも付《つ》かないものを書《か》いて。――新聞には君が書《か》いたとしてあるが、実際は佐々木が書《か》いたんだつてね」 「左《さ》うです」 「昨夜《ゆふべ》佐々木が自白した。君こそ迷惑だらう。あんな馬鹿な文章は佐々木より外《ほか》に書《か》くものはありやしない。僕も読んで見た。実質もなければ、品位もない、丸で救世軍の太鼓の様なものだ。読者の悪感情を引き起す為めに、書いてるとしか思はれやしない。徹頭徹尾|故意《こい》だけで成り立つてゐる。常識のあるものが見れば、何《ど》うしても為《ため》にする所があつて起稿したものだと判定がつく。あれぢや僕が門下生に書《か》ゝしたと云はれる筈《はづ》だ。あれを読んだ時には、成程新聞の記事は尤もだと思つた」 [#7字下げ]十一の七[#「十一の七」は中見出し]  広田先生は夫で話《はなし》を切つた。鼻から例によつて烟《けむり》を吐《は》く。与次郎は此|烟《けむり》の出方《でかた》で、先生の気分を窺《〔うかが〕》ふ事が出来《でき》ると云つてゐる。濃く真直《まつすぐ》に迸《ほとば》しる時は、哲学の絶高頂に達した際《さい》で、緩《ゆる》く崩れる時は、心気平穏、ことによると冷《ひや》かされる恐れがある。烟《けむり》が、鼻の下に彽徊して、髭《ひげ》に未練がある様に見える時は、冥想に入る。もしくは詩的感興がある。尤も恐るべきは孔《あな》の先《さき》の渦《うづ》である。渦《うづ》が出《で》ると、大変に叱《しか》られる。与次郎の云ふ事だから、三四郎は無論|当《あて》にはしない。然し此際だから気を付《つ》けて烟《けむ》りの形状《かたち》を眺めてゐた。すると与次郎の云つた様な判然たる烟《けむり》は些《ちつ》とも出《で》て、来《こ》ない。其代り出《で》るものは、大抵な資格をみんな具《そな》へてゐる。  三四郎が何時《いつ》迄|立《た》つても、恐れ入つた様に控えてゐるので、先生は又|話《はな》し始めた。 「済《す》んだ事は、もう已《や》めやう。佐々木も昨夜《ゆふべ》悉く詫《あや》まつて仕舞つたから、今日《けふ》あたりは又|晴々《〔せいせい〕》して例の如く飛んで歩《ある》いてるだらう。いくら蔭で不心得を責めたつて、当人が平気で切符なんぞ売つて歩《ある》いて居ては仕方がない。夫《それ》よりもつと面白い話《はなし》を仕様《しやう》」 「えゝ」 「僕がさつき昼寐をしてゐる時、面白い夢を見た。それはね、僕が生涯にたつた一遍逢つた女に、突然夢の中《なか》で再会したと云ふ小説|染《じ》みた御話だが、其方《そのほう》が、新聞の記事より、聞いてゐても愉快だよ」 「えゝ。何《ど》んな女ですか」 「十二三の奇麗な女だ。顔に黒子《ほくろ》がある」  三四郎は十二三と聞いて少し失望した。 「何時頃《いつごろ》御|逢《あ》ひになつたのですか」 「廿年《にじうねん》許|前《まへ》」  三四郎は又驚ろいた。 「善《よ》く其女と云ふ事が分《わか》りましたね」 「夢《ゆめ》だよ。夢《ゆめ》だから分《わか》るさ。さうして夢だから不思議で好《い》い。僕が何《なん》でも大きな森の中《なか》を歩《ある》いて居る。あの色の褪《さ》めた夏の洋服を着てね、あの古《ふる》い帽子を被《かぶ》つて。――さう其時は何でも、六づかしい事を考へてゐた。凡て宇宙の法則は変らないが、法則に支配される凡て宇宙のものは必ず変る。すると其法則は、物の外《ほか》に存在してゐなくてはならない。――覚《さ》めて見ると詰《つま》らないが、夢の中《なか》だから真面目《まじめ》にそんな事を考へて森の下《した》を通《とほ》つて行くと、突然其女に逢つた。行き逢《あ》つたのではない。向《むかふ》は凝《じつ》と立《た》つてゐた。見ると、昔の通りの顔をしてゐる。昔の通りの服装《なり》をしてゐる。髪《かみ》も昔しの髪《かみ》である。黒子《ほくろ》も無論あつた。つまり二十年|前《まへ》見た時と少しも変らない十二三の女である。僕が其女に、あなたは少《すこ》しも変らないといふと、其女は僕に大変年を御|取《と》りなすつたと云ふ。次に僕が、あなたは何《ど》うして、さう変らずに居るのかと聞くと、此|顔《かほ》の年《とし》、此|服装《なり》の月、此|髪《かみ》の日が一番|好《す》きだから、かうして居ると云ふ。それは何時《いつ》の事かと聞くと、二十年|前《まへ》、あなたに御目にかゝつた時だといふ。それなら僕は何故《なぜ》斯《〔こ〕》う年《とし》を取《と》つたんだらうと、自分で不思議がると、女が、あなたは、其時よりも、もつと美《うつ》くしい方《ほう》へ方《ほう》へと御移りなさりたがるからだと教へて呉れた。其時僕が女に、あなたは画だと云ふと、女が僕に、あなたは詩だと云つた」 「それから何《ど》うしました」と三四郎が聞いた。 「それから君《きみ》が来《き》たのさ」と云ふ。 「二十年|前《まへ》に逢《あ》つたと云ふのは夢ぢやない、本当の事実なんですか」 「本当の事実なんだから面白い」 「何所《どこ》で御|逢《あ》ひになつたんですか」  先生の鼻は又烟を吹《ふ》き出《だ》した。其|烟《けむり》を眺《なが》めて、当分|黙《だま》つてゐる。やがて斯《か》う云つた。 [#7字下げ]十一の八[#「十一の八」は中見出し] 「憲法発布は明治二十三年だつたね。其時森文部大臣が殺《ころ》された。君は覚えてゐまい。幾年《いくつ》かな君は。さう、それぢや、まだ赤ん坊の時分だ。僕は高等学校の生徒であつた。大臣の葬式に参列するのだと云つて、大勢《おほぜい》鉄砲を担《かつ》いで出《で》た。墓地へ行くのだと思つたら、さうではない。体操の教師が竹橋内《たけばしうち》へ引張《ひつぱ》つて行つて、路傍《みちばた》へ整列さした。我々は其所《そこ》へ立つたなり、大臣の柩《ひつぎ》を送る事《こと》になつた。名は送るのだけれども、実は見物したのも同然だつた。其日は寒い日でね、今でも覚えてゐる。動《うご》かずに立つてゐると、靴の下《した》で足が痛《いた》む。隣《となり》の男が僕の鼻《はな》を見ては赤い赤いと云つた。やがて行列が来《き》た。何でも長いものだつた。寒《さむ》い眼《め》の前を静かな馬車や俥《くるま》が何台となく通る。其中《そのなか》に今話した小《ちい》さな娘がゐた。今、其時の模様を思ひ出《だ》さうとしても、ぼうとして迚《〔とて〕》も明瞭に浮《うか》んで来《こ》ない。たゞこの女|丈《だけ》は覚えてゐる。夫《それ》も年を経《た》つに従つて段々|薄《うす》らいで来《き》た。今では思ひ出す事も滅多にない。今日《けふ》夢に見る前迄は、丸で忘れてゐた。けれども其当時は頭《あたま》の中《なか》へ焼き付けられた様に、熱《あつ》い印象を持つてゐた。――妙なものだ」 「それから其女には丸で逢はないんですか」 「丸で逢はない」 「ぢや、何処《どこ》の誰《だれ》だか全く分《わか》らないんですか」 「無論|分《わか》らない」 「尋ねて見なかつたですか」 「いゝや」 「先生は夫《それ》で……」と云つたが急に痞《つか》へた。 「夫《それ》で?」 「夫《それ》で結婚をなさらないんですか」  先生は笑ひ出《だ》した。 「それ程|浪漫的《ロマンチツク》な人間ぢやない。僕は君よりも遥かに散文的に出来《でき》てゐる」 「然し、もし其女が来《き》たら御|貰《もら》ひになつたでせう」 「さうさね」と一度《いちど》考へた上で、「貰《もら》つたらうね」と云つた。三四郎は気の毒な様な顔をしてゐる。すると先生が又話し出《だ》した。 「その為《ため》に独身を余儀なくされたといふと、僕が其女の為《ため》に不具《ふぐ》にされたと同じ事になる。けれども人間には生《うま》れ付《つ》いて、結婚の出来《でき》ない不具《ふぐ》もあるし。其外色々結婚のしにくい事情を持つてゐるものがある」 「そんなに結婚を妨《さまた》げる事情が世の中に沢山あるでせうか」  先生は烟《けむり》の間《あひだ》から、凝《じつ》と三四郎を見てゐた。 「ハムレツトは結婚したく無《な》かつたんだらう。ハムレツトは一人《ひとり》しか居ないかも知れないが、あれに似た人は沢山ゐる」 「例へばどんな人です」 「例《たと》へば」と云つて、先生は黙《だま》つた。烟《けむり》がしきりに出《で》る。「例《たと》へば、こゝに一人《ひとり》の男がゐる。父《ちゝ》は早く死んで、母《はゝ》一人《ひとり》を頼《たより》に育《そだ》つたとする。其母が又病気に罹《かゝ》つて、愈《〔いよいよ〕》息《いき》を引き取るといふ、間際《まぎは》に、自分が死んだら誰某《だれそれがし》の世話になれといふ。子供が会《あ》つた事もない、知りもしない人を指名する。理由《わけ》を聞くと、母が何とも答へない。強ひて聞くと、実は誰某《だれそれがし》が御前の本当の御父《おとつさん》だと微《かす》かな声で云つた。――まあ話だが、さういふ母を持つた子がゐるとする。すると、其子が結婚に信仰を置かなくなるのは無論だらう」 「そんな人は滅多にないでせう」 「滅多には無いだらうが、居る事はゐる」 「然し先生のは、そんなのぢや無いでせう」  先生はハヽヽヽと笑つた。 「君は慥か御母《おつか》さんが居《ゐ》たね」 「えゝ」 「御父《おとつ》さんは」 「死《し》にました」 「僕の母は憲法発布の翌年に死んだ」 [#7字下げ]十二の一[#「十二の一」は中見出し]  演芸会は比較的|寒《さむ》い時に開かれた。歳《〔とし〕》は漸く押し詰《つま》つて来《く》る。人は二十日《はつか》足らずの眼《め》の先《さき》に春《はる》を控えた。市《いち》に生《い》きるものは、忙《いそが》しからんとしてゐる。越年《えつねん》の計《はかりごと》は貧者《ひんしや》の頭《かうべ》に落ちた。演芸会は此間《このあひだ》に在つて、凡ての長閑《のどか》なるものと、余裕あるものと、春と暮《くれ》の差別を知らぬものとを迎へた。  それが、幾何《いくら》でもゐる。大抵は若《わか》い男女である。一日目《いちじつめ》に与次郎が、三四郎に向つて大成功と叫《さけ》んだ。三四郎は二日目《ふつかめ》の切符《きつぷ》を持つてゐた。与次郎が広田先生を誘《さそ》つて行《い》けと云《い》ふ。切符が違《ちが》ふだらうと聞けば、無論違ふと云ふ。然し一人《ひとり》で放《ほう》つて置くと、決して行《い》く気遣《きづかひ》がないから、君が寄《よ》つて引張出《ひつぱりだ》すのだと理由《わけ》を説明して聞《き》かせた。三四郎は承知した。  夕刻《ゆふこく》に行《い》つて見ると、先生は明《あか》るい洋燈《ランプ》の下《した》に大きな本《ほん》を拡《ひろ》げてゐた。 「御出《おいで》になりませんか」と聞《き》くと、先生は少《すこ》し笑《わらひ》ながら、無言《むごん》の儘、首《くび》を横《よこ》に振《ふ》つた。小供《こども》の様な所作をする。然し三四郎には、それが学者らしく思はれた。口《くち》を利《き》かない所が床《ゆか》しく思はれたのだらう。三四郎は中腰《ちうごし》になつて、ぼんやりしてゐた。先生は断わつたのが気の毒になつた。 「君|行《い》くなら、一所に出様《でやう》。僕も散|歩《ぽ》ながら、其所《そこ》迄|行《い》くから」  先生は黒《くろ》い廻套《まわし》を着《き》て出《で》た。懐手《ふところで》らしいが分《わか》らない。空《そら》が低《ひく》く垂《た》れてゐる。星の見えない寒《さむ》さである。 「雨になるかも知れない」 「降《ふ》ると困るでせう」 「出入《ではい》りにね。日本の芝居|小屋《ごや》は下足があるから、天気の好《い》い時ですら大変な不便だ。それで小屋《こや》の中《なか》は、空気が通《かよ》はなくつて、烟草《たばこ》が烟《けむ》つて、頭痛がして、――よく、みんな、彼《あれ》で我慢が出来《でき》るものだ」 「ですけれども、真逆《まさか》戸外《こぐわい》で遣《や》る訳《わけ》にも行《い》かないからでせう」 「御神楽《おかぐら》は何時《いつ》でも外《そと》で遣《や》つてゐる。寒《さむ》い時《とき》でも外《そと》で遣《や》る」  三四郎は、こりや議論にならないと思つて、答《こたへ》を見合せて仕舞つた。 「僕は戸外《こぐわい》が好《い》い。暑《あつ》くも寒《さむ》くもない、奇麗な空《そら》の下《した》で、美《うつ》くしい空気を呼吸して、美《うつ》くしい芝居が見たい。透明な空気の様な、純粋で単簡な芝居が出来さうなものだ」 「先生の御覧になつた夢でも、芝居にしたらそんなものが出来るでせう」 「君|希臘《ギリシヤ》の芝居を知つてゐるか」 「能《〔よ〕》く知りません。慥《たし》か戸外《こぐわい》で遣《や》つたんですね」 「戸外《こぐわい》。真昼間《まつぴるま》。嘸《さぞ》好《い》い心持《こゝろもち》だつたらうと思ふ。席は天然の石《いし》だ。堂々としてゐる。与次郎の様なものは、さう云ふ所へ連《つ》れて行《い》つて、少し見せてやると好《い》い」  又与次郎の悪口《わるくち》が出《で》た。其与次郎は今頃窮屈な会場のなかで、一生懸命に、奔走し且つ斡旋《あつせん》して大得意なのだから面白い。もし先生を連《つ》れて行《い》かなからうものなら、先生|果《はた》して来《こ》ない。会《たま》には斯《か》う云ふ所へ来《き》て見るのが、先生の為《ため》には何《ど》の位|好《い》いか分《わか》らないのだのに。いくら僕が云つても聞かない。困つたものだなあ。と嘆息するに極つてゐるから猶《〔なお〕》面白い。  先生はそれから希臘《ギリシヤ》の劇場の構造を委《〔くわ〕》しく話して呉れた。三四郎は此時先生から、Theatron《テアトロン》, 〔Orche^stra〕《オルケストラ》, 〔Ske^ne^〕《スケーネ》, 〔Proske^nion〕《プロスケニオン》 などゝ云ふ字の講釈を聞いた。何とか云ふ独乙人の説によると亜典《〔アテン〕》の劇場は一万七千人を容れる席があつたと云ふ事も聞いた。それは小《ち》さい方である。尤も大きいのは、五万人を容れたと云ふ事も聞いた。入場券は象牙と鉛《なまり》と二通りあつて、何《いづ》れも賞牌《メダル》見たやうな恰好で、表に模様が打《う》ち出《だ》してあつたり、彫刻が施《ほど》こしてあると云ふ事も聞いた。先生は其入場券の価《あたひ》迄知つてゐた。一日丈の小芝居は十二銭で、三日|続《つゞき》の大芝居は三十五銭だと云《い》つた。三四郎がへえ、へえと感心してゐるうちに、演芸会場の前へ出《で》た。  盛んに電燈が点《つ》いてゐる。入場者は続々|寄《よ》つて来《く》る。与次郎の云つたよりも以上の景気である。 「どうです、折角だから御這入になりませんか」 「いや這入《はい》らない」  先生は又|暗《くら》い方へ向いて行つた。 [#7字下げ]十二の二[#「十二の二」は中見出し]  三四郎は、しばらく先生の後影《うしろかげ》を見送つてゐたが、あとから、車《くるま》で乗《の》り付《つ》ける人が、下足の札《ふだ》を受け取る手間《てま》も惜《お》しさうに、急《いそ》いで這入《はい》つて行《い》くのを見て、自分も足早《あしばや》に入場した。前へ押されたと同じ事である。  入口《いりぐち》に四五人用のない人が立つてゐる。そのうちの袴《〔はかま〕》を着《つ》けた男が入場券を受け取つた。其男の肩《かた》の上《うへ》から場内を覗《のぞ》いて見ると、中《なか》は急に広《ひろ》くなつてゐる。且つ甚だ明《あか》るい。三四郎は眉《まゆ》に手を加《くは》へない許《ばかり》にして、導《みちび》かれた席に着《つ》いた。狭《せま》い所に割り込みながら、四方を見廻《みまは》すと、人間《にんげん》の持《も》つて来《き》た色《いろ》で眼《め》がちら/\する。自分の眼《め》を動《うご》かすから許《ばかり》ではない。無数の人間《にんげん》に付着《ふちやく》した色が、広い空間《くうかん》で、絶えず各自《めい/\》に、且つ勝手に、動《うご》くからである。  舞台《ぶたい》ではもう始《はじ》まつてゐる。出《で》て来《く》る人物が、みんな冠《かんむり》を被《かむ》つて、沓《くつ》を穿《は》いて居た。そこへ長い輿《こし》を担《かつ》いで来《き》た。それを舞台の真中《まんなか》で留《と》めたものがある。輿《こし》を卸すと、中《なか》から又|一人《ひとり》あらはれた。其男が刀《かたな》を抜《ぬ》いて、輿を突き返《かへ》したのと斬合《きりあひ》を始めた。――三四郎には何の事か丸で分《わか》らない。尤も与次郎から梗概を聞いた事はある。けれども好加減に聞いてゐた。見れば分《わか》るだらうと考へて、うん成程と云つてゐた。所が見れば毫も其意を得ない。三四郎の記憶にはたゞ入鹿《いるか》の大臣《おとゞ》といふ名前が残つてゐる。三四郎はどれが入鹿《いるか》だらうかと考へた。それは到底|見込《みこみ》が付《つ》かない。そこで舞台全体を入鹿《いるか》の積《つもり》で眺めてゐた。すると冠でも、沓でも、筒袖の衣服《きもの》でも、使ふ言葉でも、何となく入鹿《いるか》臭《くさ》くなつて来《き》た。実を云ふと三四郎には確然たる入鹿《いるか》の観念がない。日本歴史を習《なら》つたのが、あまりに遠い過去であるから、古い入鹿《いるか》の事もつい忘れて仕舞つた。推古天皇の時の様でもある。欽明天皇の御代《みよ》でも差支ない気がする。応神天皇や称武天皇では決してないと思ふ。三四郎はたゞ入鹿《いるか》じみた心持《こゝろもち》を持つてゐる丈である。芝居を見るには夫で沢山だと考へて、唐《から》めいた装束や背景を眺めてゐた。然し筋《すぢ》はちつとも解《わか》らなかつた。其うち幕になつた。  幕になる少し前に、隣りの男が、其又隣りの男に、登場人物の声が、六畳敷で、親子《おやこ》差向ひの談話の様だ。丸で訓練《くんれん》がないと非難してゐた。そつち隣りの男は登場人物の腰《こし》が据《すわ》らない。悉《ことごと》くひよろ/\してゐると訴へてゐた。二人《ふたり》は登場人物の本名をみんな暗《そら》んじてゐる。三四郎は耳を傾けて二人《ふたり》の談話を聞いてゐた。二人《ふたり》共立派な服装《なり》をしてゐる。大方《おほかた》有名な人《ひと》だらうと思つた。けれどももし与次郎に此談話を聞かせたら定めし反対するだらうと思つた。其時|後《うしろ》の方で旨《うま》い/\中々《なか/\》旨《うま》いと大きな声を出《だ》したものがある。隣の男は二人《ふたり》とも後《うしろ》を振り返つた。それぎり話《はなし》を已《や》めて仕舞つた。そこで幕が下《お》りた。  彼所《あすこ》、此所《こゝ》に席を立つものがある。花道《はなみち》から出口《でぐち》へ掛けて、人《ひと》の影《かげ》が頗《すこぶ》る忙《いそ》がしい。三四郎は中腰《ちうごし》になつて、四方《しほう》をぐるりと見廻《みまは》した。来《き》てゐる筈《はづ》の人《ひと》は何処《どこ》にも見えない。本当を云ふと演芸中にも出来る丈は気を付けてゐた。それで知れないから、幕になつたらばと内々心|当《あて》にしてゐたのである。三四郎は少し失望した。已《〔やむ〕》を得ず眼《め》を正面に帰《かへ》した。  隣の連中は余程世間が広い男達と見えて、右左《みぎひだり》を顧《かへり》みて、彼所《あすこ》には誰《だれ》がゐる、茲所《こゝ》には誰《だれ》がゐると頻《しき》りに知名な人の名を口《くち》にする。中《なか》には離れながら、互に挨拶をしたのも一二人《いちににん》ある。三四郎は御蔭で此等知名な人の細君を少し覚えた。其中《そのなか》には新婚した許《ばかり》のもあつた。是は隣《となり》の一人《いちにん》にも珍《めづら》しかつたと見えて、其男はわざ/\眼鏡《めがね》を拭き直《なほ》して、成程々々と云つて見てゐた。  すると、幕の下《お》りた舞台《ぶたい》の前を、向ふの端《はじ》から此方《こつち》へ向《む》けて、小走《こばしり》に与次郎が走《か》けて来《き》た。三分の二程の所で留《とま》つた。少し及び腰《ごし》になつて、土間《どま》の中《なか》を覗《のぞ》き込みながら、何か話《はな》してゐる。三四郎はそれを見当に覘《ねらひ》を付けた。――舞台の端《はじ》に立つた与次郎から一直線に二三|間《げん》隔てゝ美禰子の横顔《よこがほ》が見えた。 [#7字下げ]十二の三[#「十二の三」は中見出し]  其|傍《そば》にゐる男は脊中《せなか》を三四郎に向けてゐる。三四郎は心のうちに、此男が何《なに》かの拍子に、どうかして此方《こつち》を向いて呉れゝば好《い》いと念じてゐた。旨《うま》い具合《ぐあひ》に其男は立つた。坐《すは》り疲《くた》びれたと見えて、枡の仕切《しきり》に腰《こし》を掛けて、場内《じようない》を見廻《みまは》し始めた。其時三四郎は明《あき》らかに野々宮さんの広い額《ひたい》と大きな眼《め》を認める事が出来《でき》た。野々宮さんが立つと共に、美禰子の後《うしろ》にゐたよし子の姿《すがた》も見えた。三四郎は此三人の外《ほか》に、まだ連《つれ》が居るか居ないかを確《たしか》めやうとした。けれども遠くから見ると、たゞ人《ひと》がぎつしり詰《つま》つてゐる丈で、連《つれ》と云へば土間《どま》全体が連《つれ》と見える迄だから仕方がない。美禰子と与次郎の間《あひだ》には、時々《とき/″\》談話が交換されつゝあるらしい。野々宮さんも折々|口《くち》を出《だ》すと思はれる。  すると突然原口さんが幕《まく》の間《あひだ》から出《で》て来《き》た。与次郎と並んでしきりに土間《どま》の中《なか》を覗《のぞ》き込《こ》む。口《くち》は無論|動《うご》かしてゐるのだらう。野々宮さんは相図の様な首《くび》を竪《たて》に振つた。其時原口さんは後《うしろ》から、平手《ひらて》で、与次郎の脊中《せなか》を叩《たゝ》いた。与次郎はくるりと引《ひ》つ繰《く》り返《かへ》つて、幕《まく》の裾《すそ》を潜《もぐ》つて何所《どこ》かへ消え失せた。原口さんは、舞台を降《お》りて、人と人の間《あひだ》を伝《つた》はつて、野々宮さんの傍《そば》迄|来《き》た。野々宮さんは、腰を立てゝ原口さんを通した。原口さんはぽかりと人《ひと》の中《なか》へ飛び込んだ。美禰子とよし子のゐる辺《あたり》で見えなくなつた。  此|連中《れんぢう》の一挙一動を演芸以上の興味を以て注意してゐた三四郎は、此時急に原口流の所作が羨《うらや》ましくなつた。あゝ云ふ便利な方法で人《ひと》の傍《そば》へ寄《よ》る事が出来やうとは毫も思ひ付《つ》かなかつた。自分も一つ真似て見様かしらと思つた。然し真似ると云ふ自覚が、既に実行の勇気を挫《くじ》いた上《うへ》に、もう入《はい》る席《せき》は、いくら詰めても、六《む》づかしからうといふ遠慮が手伝つて、三四郎の尻《しり》は依然として、故《もと》の席を去り得なかつた。  其うち幕が開《あ》いて、ハムレツトが始《はじま》つた。三四郎は広田先生のうちで西洋の何とかいふ名優の扮《〔ふん〕》したハムレツトの写真を見た事がある。今三四郎の眼《め》の前にあらはれたハムレツトは、是と略《ほゞ》同様の服装をしてゐる。服装ばかりではない。顔迄似てゐる。両方共八の字を寄せてゐる。  此ハムレツトは動作が全く軽快で、心持が好《い》い。舞台の上《うへ》を大いに動いて、又大いに動《うご》かせる。能掛りの入鹿《いるか》とは大変趣を異にしてゐる。ことに、ある時、ある場合に、舞台の真中《まんなか》に立つて、手を広《ひろ》げて見たり、空《そら》を睨《にら》んで見たりするときは、観客の眼中《がんちう》に外《ほか》のものは一切入り込む余地のない位強烈な刺激を与へる。  其代り台詞《せりふ》は日本語である。西洋語を日本語に訳した日本語である。口調には抑揚がある。節奏《〔せっそう〕》もある。ある所は能弁過ぎると思はれる位流暢に出《で》る。文章も立派である。それでゐて、気が乗らない。三四郎はハムレツトがもう少し日本人じみた事を云つて呉れゝば好《い》いと思つた。御母《おつか》さん、それぢや御父《おとつ》さんに済《す》まないぢやありませんかと云ひさうな所で、急にアポロ抔を引合に出《だ》して、呑気に遣《や》つて仕舞ふ。それでゐて顔付《かほつき》は親子《おやこ》とも泣き出《だ》しさうである。然し三四郎は此矛盾をたゞ朧|気《げ》に感じたのみである。決して詰《つま》らないと思ひ切る程の勇気は出《で》なかつた。  従つて、ハムレツトに飽きた時は、美禰子の方を見てゐた。美禰子が人の影《かげ》に隠れて見えなくなる時は、ハムレツトを見てゐた。  ハムレツトがオフェリヤに向つて、尼寺へ行け尼寺へ行けと云ふ所へ来た時、三四郎は不図広田先生の事を考へ出《だ》した。広田先生は云つた。――ハムレツトの様なものに結婚が出来るか。――成程|本《ほん》で読むと左《さ》うらしい。けれども、芝居では結婚しても好《よ》ささうである。能く思案して見ると、尼寺《あまでら》へ行けとの云ひ方《かた》が悪《わる》いのだらう。其証拠には尼寺《あまでら》へ行けと云はれたオフェリヤが些《ちつ》とも気の毒にならない。  幕が又|下《お》りた。美禰子とよし子が席を立つた。三四郎もつゞいて立つた。廊下迄来て見ると、二人《ふたり》は廊下の中程《なかほど》で、男と話をしてゐる。男は廊下から出入《ではい》りの出来る左側の席の戸口に半分|身体《からだ》を出《だ》した。男の横|顔《がほ》を見た時、三四郎は後《あと》へ引き返した。席へ返《かへ》らずに下足を取つて表へ出《で》た。 [#7字下げ]十二の四[#「十二の四」は中見出し]  本来は暗い夜である。人《ひと》の力《ちから》で明《あか》るくした所を通り越すと、雨《あめ》が落ちてゐるやうに思ふ。風《かぜ》が枝を鳴《な》らす。三四郎は急いで下宿に帰つた。  夜半から降《ふ》り出《だ》した。三四郎は床《とこ》の中《なか》で、雨《あめ》の音《おと》を聞きながら、尼寺へ行けと云ふ一句を柱《はしら》にして、其|周囲《まわり》にぐる/\彽徊した。広田先生も起きてゐるかも知れない。先生はどんな柱《はしら》を抱《だ》いてゐるだらう。与次郎は偉大なる暗闇《くらやみ》の中《なか》に正体なく埋《うま》つてゐるに違ない。……  明日《あくるひ》は少し熱《ねつ》がする。頭《あたま》が重《おも》いから寐《ね》てゐた。午飯《ひるめし》は床《とこ》の上《うへ》に起き直つて食《く》つた。又|一寐入《ひとねいり》すると今度は汗《あせ》が出《で》た。気がうとくなる。そこへ威勢よく与次郎が這入《はい》つて来《き》た。昨夕《ゆふべ》も見えず、今朝《けさ》も講義に出《で》ない様だから何《ど》うしたかと思つて訪《たづ》ねたと云ふ。三四郎は礼を述《の》べた。 「なに、昨夕《ゆふべ》は行《い》つたんだ。行《い》つたんだ。君が舞台の上《うへ》に出《で》て来《き》て、美禰子さんと、遠くで話《はなし》をしてゐたのも、ちやんと知つてゐる」  三四郎は少し酔《よ》つた様な心持である。口《くち》を利《き》き出《だ》すと、つる/\と出《で》る。与次郎は手を出《だ》して、三四郎の額《ひたひ》を抑へた。 「大分《だいぶ》熱がある。薬《くすり》を飲まなくつちや不可《いけ》ない。風邪《かぜ》を引いたんだ」 「演芸場があまり暑過《あつす》ぎて、明《あか》る過《す》ぎて、さうして外《そと》へ出《で》ると、急に寒過《さむす》ぎて、暗過《くらす》ぎるからだ。あれは可《よ》くない」 「可《い》けないたつて、仕方《しかた》がないぢやないか」 「仕方《しかた》がないたつて、可《い》けない」  三四郎の言葉は段〻短かくなる、与次郎が好加減にあしらつてゐるうちに、すう/\寐て仕舞つた。一時間程して又|眼《め》を開《あ》けた。与次郎を見て、 「君、其所《そこ》にゐるのか」と云ふ。今度《こんど》は平生の三四郎の様である。気分はどうかと聞くと、頭《あたま》が重《おも》いと答へた丈である。 「風邪《かぜ》だらう」 「風邪《かぜ》だらう」  両方で同じ事を云つた。しばらくしてから、三四郎が与次郎に聞いた。 「君、此間《このあひだ》美禰子さんの事を知つてるかと僕に尋ねたね」 「美禰子さんの事を? 何処《どこ》で?」 「学校で」 「学校で? 何時《いつ》」  与次郎はまだ思ひ出《だ》せない様子である。三四郎は已《〔やむ〕》を得ず、其前後の当時を詳しく説明した。与次郎は、 「成程そんな事が有《あ》つたかも知れない」と云つてゐる。三四郎は随分無責任だと思つた。与次郎も少《すこ》し気の毒になつて、考へ出《だ》さうとした。やがて斯《か》う云つた。 「ぢや、何《なん》ぢやないか。美禰子さんが嫁《よめ》に行《い》くと云ふ話《はなし》ぢやないか」 「極《きま》つたのか」 「極《きま》つた様に聞《き》いたが、能《〔よ〕》く分《わか》らない」 「野々宮さんの所か」 「いや、野々宮さんぢやない」 「ぢや……」と云ひ掛けて已めた。 「君、知《し》つてるのか」 「知らない」と云ひ切つた。すると与次郎が少し前へ乗《の》り出《だ》して来《き》た。 「何《ど》うも能《よ》く分《わか》らない。不思議な事があるんだが。もう少《すこ》し立《た》たないと、何《ど》うなるんだか見当が付《つ》かない」  三四郎は、其不思議な事を、すぐ話せば好《い》いと思ふのに、与次郎は平気なもので、一人《ひとり》で呑《の》み込《こ》んで、一人《ひとり》で不思議がつてゐる。三四郎は少時《しばらく》我慢してゐたが、とう/\焦《じ》れつたくなつて、与次郎に、美禰子に関する凡ての事実を隠《かく》さずに話《はな》して呉れと請求した。与次郎は笑《わら》ひ出《だ》した。さうして慰藉の為《ため》か何だか、飛んだ所へ話頭を持つて行つて仕舞つた。 [#7字下げ]十二の五[#「十二の五」は中見出し] 「馬鹿だなあ、あんな女を思つて。思つたつて仕方《しかた》がないよ。第一、君と同年《おないどし》位ぢやないか。同年《おないどし》位の男に惚れるのは昔《むかし》の事だ。八百屋御七時代の恋だ」  三四郎は黙《だま》つてゐた。けれども与次郎の意味は能く分《わか》らなかつた。 「何故《なぜ》と云ふに。廿前後《はたちぜんご》の同じ年の男女を二人《ふたり》並《なら》べて見ろ。女の方が万事|上《うは》手だあね。男は馬鹿にされる許《ばかり》だ。女だつて、自分の軽蔑する男の所へ嫁《よめ》に行く気は出《で》ないやね。尤も自分が世界で一番|偉《えら》いと思つてる女は例外だ。軽蔑する所へ行《い》かなければ独身で暮《くら》すより外《ほか》に方法はないんだから。よく金持の娘《むすめ》や何かにそんなのがあるぢやないか、望んで嫁《よめ》に来《き》て置きながら、亭主を軽蔑してゐるのが。美禰子さんは夫《それ》よりずつと偉《えら》い。其代り、夫《おつと》として尊敬の出来ない人の所へは始から行《い》く気はないんだから、相手になるものは其気で居なくつちや不可《いけ》ない。さう云ふ点で君だの僕だのは、あの女の夫《おつと》になる資格はないんだよ」  三四郎はとう/\与次郎と一所にされて仕舞つた。然し依然として黙《だま》つてゐた。 「そりや君だつて、僕だつて、あの女より遥かに偉《えら》いさ。御互に是でも、なあ。けれども、もう五六年|経《た》たなくつちや、其|偉《えら》さ加減が彼《か》の女の眼《め》に映《うつ》つて来《こ》ない。しかして、かの女は五六年|凝《じつ》としてゐる気遣《きづかひ》はない。従つて、君があの女と結婚する事は風馬牛だ」  与次郎は風馬牛と云ふ熟字を妙な所へ使《つか》つた。さうして一人《ひとり》で笑《わら》つてゐる。 「なに、もう五六年もすると、あれより、ずつと上等なのが、あらはれて来《く》るよ。日本ぢや今女の方が余《あま》つてゐるんだから。風邪《かぜ》なんか引《ひ》いて熱を出《だ》したつて始まらない。――なに世の中《なか》は広《ひろ》いから、心配するがものはない。実は僕にも色々あるんだが。僕の方であんまり煩《うるさ》いから、御用で長崎へ出張すると云つてね」 「何《なん》だ、それは」 「何《なん》だつて、僕の関係した女さ」  三四郎は驚ろいた。 「なに、女だつて、君なんぞの曾《〔かつ〕》て近寄つた事のない種類の女だよ。それをね、長崎へ黴菌《〔ばいきん〕》の試験に出張するから当分駄目だつて断わつちまつた。所が其女が林檎を持つて停車場まで送りに行《ゆ》くと云ひ出《だ》したんで、僕《ぼく》は弱つたね」  三四郎は益《〔ますます〕》驚いた。驚ろきながら聞いた。 「それで、何《ど》うした」 「何《ど》うしたか知らない。林檎を持つて、停車場に待《ま》つてゐたんだらう」 「苛《ひど》い男だ。よく、そんな悪《わる》い事が出来《でき》るね」 「悪《わる》い事で、可哀想な事だとは知つてるけれども、仕方《しかた》がない。始《はじめ》から次第〻〻に、そこ迄運命に持つて行《い》かれるんだから。実はとうの前から僕が医科の学生になつてゐたんだからなあ」 「なんで、そんな余計な嘘《うそ》を吐《つ》くんだ」 「そりや、又それ/″\事情のある事なのさ。それで、女が病気の時に、診断を頼《たの》まれて困つた事もある」  三四郎は可笑《をか》しくなつた。 「其時は舌を見て、胸を叩《たゝ》いて、好《い》い加減に胡魔化したが、其次に病院へ行《い》つて、見て貰ひたいが好《い》いかと聞かれたには閉口した」  三四郎はとう/\笑ひ出《だ》した。与次郎は、 「さう云ふ事も沢山あるから、まあ安心するが好《よ》からう」と云つた。何《なん》の事だか分《わか》らない。然し愉快になつた。  与次郎は其時始めて、美禰子に関する不思議を説明した。与次郎の云ふ所によると、よし子にも結婚の話がある。それから美禰子にもある。それ丈ならば好《い》いが、よし子の行く所と、美禰子の行く所が、同じ人らしい。だから不思議なのださうだ。  三四郎も少し馬鹿にされた様な気がした。然しよし子の結婚丈は慥かである。現に自分が其話を傍《そば》で聞いてゐた。ことによると其話を美禰子のと取り違へたのかも知れない。けれども美禰子の結婚も、全く嘘《うそ》ではないらしい。三四郎は判然《はつきり》した所が知りたくなつた。序だから、与次郎に教へて呉れと、頼んだ。与次郎は訳なく承知した。よし子を見舞に来《く》る様にしてやるから、直《ぢか》に聞いて見ろといふ。旨《うま》い事を考へた。 「だから、薬《くすり》を飲んで、待つて居なくつては不可《いけ》ない」 「病気が癒《なほ》つても、寐《ね》て待つてゐる」  二人《ふたり》は笑つて別《わか》れた。帰りがけに与次郎が、近所の医者に来《き》て貰《もら》ふ手続をした。 [#7字下げ]十二の六[#「十二の六」は中見出し]  晩になつて、医者が来《き》た。三四郎は自分で医者を迎へた覚がないんだから、始めは少し狼狽した。そのうち脈を取られたので漸く気が付《つ》いた。年の若《わか》い丁寧な男である。三四郎は代診と鑑定した。五分《ごふん》の後病症はインフルエンザと極《きま》つた。今夜|頓服《〔とんぷく〕》を飲んで、成る可《べ》く風《かぜ》に当《あた》らない様にしろと云ふ注意である。  翌日|眼《め》が覚めると、頭《あたま》が大分|軽《かろ》くなつてゐる。寐てゐれば、殆んど常体《じようたい》に近い。たゞ枕を離れると、ふら/\する。下女が来《き》て、大分《だいぶ》部屋の中《なか》が熱臭《ねつくさ》いと云つた。三四郎は飯《めし》も食はずに、仰向《あほむけ》に天井を眺《なが》めてゐた。時々《とき/″\》うと/\眠《ねむ》くなる。明《あき》らかに熱と疲《つかれ》とに囚はれた有様である。三四郎は、囚《とら》はれた儘、逆《さか》らはずに、寐たり覚《さめ》たりする間《あひだ》に、自然に従《したが》ふ一種の快感を得た。病症が軽《かる》いからだと思つた。  四時間、五時間と経《た》つうちに、そろ/\退屈を感《かん》じ出《だ》した。しきりに寐|返《がへ》りを打《う》つ。外《そと》は好《い》い天気である。障子に当《あた》る日が、次第に影《かげ》を移《うつ》して行《ゆ》く。雀が鳴《な》く。三四郎は今日《けふ》も与次郎が遊《あそ》びに来《き》て呉れゝば好《い》いと思つた。  所へ下女が障子を開《あ》けて、女の御客様だと云ふ。よし子が、さう早く来《き》やうとは待ち設けなかつた。与次郎丈に敏捷な働《はたら》きをした。寐《ね》た儘、開《あ》け放《はな》しの入口《いりくち》に眼《め》を着《つ》けてゐると、やがて高《たか》い姿《すがた》が敷居の上《うへ》へあらはれた。今日《けふ》は紫《むらさき》の袴《はかま》を穿《は》いてゐる。足《あし》は両方共廊下にある。一寸《ちよつと》這入るのを蹰躇した様子が見える。三四郎は肩《かた》を床《とこ》から上《あ》げて、「入《〔い〕》らつしやい」と云つた。  よし子は障子を閉《た》てゝ、枕元へ坐《すは》つた。六畳の座敷が、取り乱《みだ》してある上《うへ》に、今朝《けさ》は掃除《さうじ》をしないから、猶《〔なお〕》狭苦《せまくる》しい。女は、三四郎に、 「寐て入らつしやい」と云つた。三四郎は又|頭《あたま》を枕へ着《つ》けた。自分丈は穏《おだや》かである。 「臭《くさ》くはないですか」と聞いた。 「えゝ、少し」と云つたが、別段|臭《くさ》い顔もしなかつた。「熱が御有《おあり》なの。何《なん》なんでせう、御病気は。御医者は入らしつて」 「医者は昨夕《ゆふべ》来《き》ました。インフルエンザださうです」 「今朝《けさ》早く佐々木さんが御|出《いで》になつて、小川が病気だから見舞に行つて遣《や》つて下《くだ》さい。何《なに》病だか分《わか》らないが、何《なん》でも軽くはない様だ。つて仰《おつし》やるものだから、私《わたくし》も美禰子さんも吃驚《びつくり》したの」  与次郎が又|少《すこ》し法螺を吹《ふ》いた。悪《わる》く云へば、よし子を釣り出《だ》した様なものである。三四郎は人が好《い》いから、気の毒でならない。「どうも難有《〔ありがと〕》う」と云つて寐てゐる。よし子は風呂敷包の中《なか》から、蜜柑の籃《かご》を出《だ》した。 「美禰子さんの御注意があつたから買《か》つて来《き》ました」と正直な事を云ふ。どつちの御|見舞《みやげ》だか分《わか》らない。三四郎はよし子に対して礼を述べて置いた。 「美禰子さんも上《あが》る筈《はづ》ですが、此頃少し忙《いそが》しいものですから――どうぞ宜《よろ》しくつて……」 「何か特別に忙《いそ》がしい事が出来《でき》たのですか」 「えゝ。出来《でき》たの」と云つた。大きな黒い眼《め》が、枕《まくら》に着《つ》いた三四郎の顔の上《うへ》に落ちてゐる。三四郎は下《した》から、よし子の蒼白《あをしろ》い額《ひたひ》を見上げた。始めて此女《このをんな》に病院で逢つた昔《むかし》を思ひ出《だ》した。今でも物憂《ものう》げに見える。同時に快活である。頼《たより》になるべき凡ての慰藉を三四郎の枕《まくら》の上《うへ》に齎《もた》らして来《き》た。 「蜜柑を剥《む》いて上《あ》げませうか」  女は青い葉の間《あひだ》から、果物《くだもの》を取り出《だ》した。渇《かは》いた人は、香《か》に迸《ほとば》しる甘い露を、したゝかに飲んだ。 「美味《おいし》いでせう。美禰子さんの御見舞《おみやげ》よ」 「もう沢山」  女は袂《たもと》から白い手帛《ハンケチ》を出《だ》して手を拭いた。 「野々宮さん、あなたの御縁談はどうなりました」 「あれ限《ぎ》りです」 「美禰子さんにも縁談の口《くち》があるさうぢやありませんか」 「えゝ、もう纏《まとま》りました」 「誰《だれ》ですか、先《さき》は」 「私《わたくし》を貰《もら》ふと云つた方《かた》なの。ほゝゝ可笑《をかし》いでせう。美禰子さんの御兄《おあに》いさんの御友達よ。私《わたくし》近《ちか》い内《うち》に又|兄《あに》と一所に家《うち》を持ちますの。美禰子さんが行《い》つて仕舞ふと、もう御厄介になつてる訳《わけ》に行かないから」 「あなたは御|嫁《よめ》には行《い》かないんですか」 「行きたい所がありさへすれば行きますわ」  女は斯《か》う云ひ棄てゝ心持よく笑《わら》つた。まだ行きたい所がないに極《きま》つてゐる。 [#7字下げ]十二の七[#「十二の七」は中見出し]  三四郎は其日から四日《よつか》程|床《とこ》を離れなかつた。五日《いつか》目に怖々《こわ/″\》ながら湯に入《はい》つて、鏡を見た。亡者の相がある。思ひ切つて床屋《とこや》へ行《い》つた。其《その》明《あく》る日《ひ》は日曜である。  朝食後《あさめしご》、襯衣《しやつ》を重《かさ》ねて、外套を着《き》て、寒《さむ》くない様にして、美禰子の家《うち》へ行《い》つた。玄関によし子が立つて、今|沓脱《くつぬぎ》へ降《お》りやうとしてゐる。今|兄《あに》の所へ行く所だと云ふ。美禰子はゐない。三四郎は一所に表へ出《で》た。 「もう悉皆《すつかり》好《い》いんですか」 「難有《〔ありがと〕》う。もう癒《なほ》りました。――里見さんは何所《どこ》へ行《い》つたんですか」 「兄《にい》さん?」 「いゝえ、美禰子さんです」 「美禰子さんは会堂《チヤーチ》」  美禰子の会堂《チヤーチ》へ行く事は始めて聞いた。何処《どこ》の会堂《チヤーチ》か教へて貰《もら》つて、三四郎はよし子に別《わか》れた。横町を三つ程|曲《まが》ると、すぐ前《まへ》へ出《で》た。三四郎は全く耶蘇《〔ヤソ〕》教に縁のない男である。会堂《チヤーチ》の中《なか》は覗《のぞ》いて見た事もない。前《まへ》へ立つて、建物を眺めた。説教の掲示を読んだ。鉄柵の所を往つたり来《き》たりした。ある時は寄《よ》り掛《か》かつて見た。三四郎は兎も角もして、美禰子の出《で》てくるのを待《ま》つ積《つもり》である。  やがて唱歌の声が聞《きこ》へた。讃美歌といふものだらうと考へた。締切《しめき》つた高い窓のうちの出来事《できごと》である。音《おん》量から察すると余程の人数らしい。美禰子の声もそのうちにある。三四郎は耳を傾けた。歌は歇《や》んだ。風が吹く。三四郎は外套の襟を立てた。空《そら》に美禰子の好《すき》な雲《くも》が出《で》た。  かつて美禰子と一所に秋の空《そら》を見た事もあつた。所は広田先生の二階であつた。田端《たばた》の小川の縁《ふち》に坐《すは》つた事もあつた。其時も一人《ひとり》ではなかつた。迷羊《ストレイシープ》。迷羊《ストレイシープ》。雲《くも》が羊《ひつじ》の形《かたち》をしてゐる。  忽然として会堂《チヤーチ》の戸が開《あ》いた。中《なか》から人《ひと》が出《で》る。人は天国《てんごく》から浮世《うきよ》へ帰る。美禰子は終りから四番目であつた。縞《しま》の吾妻コートを着《き》て、俯向《うつむ》いて、上《あが》り口《くち》の階段を降《お》りて来《き》た。寒《さむ》いと見えて、肩《かた》を窄《すぼ》めて、両手を前で重ねて、出来《でき》る丈外界との交渉を少《すく》なくしてゐる。美禰子は此凡てに揚《あ》がらざる態度を門際《もんぎは》迄持続した。其時、往来の忙《いそが》しさに、始めて気が付《つ》いた様に顔《かほ》を上《あ》げた。三四郎の脱《ぬ》いだ帽子の影《かげ》が、女の眼《め》に映《うつ》つた。二人《ふたり》は説教の掲示のある所で、互に近寄《ちかよ》つた。 「何《ど》うなすつて」 「今《いま》御|宅《たく》迄|一寸《ちよつと》出《で》た所です」 「さう、ぢや入《〔い〕》らつしやい」  女は半《なか》ば歩《ほ》を回《めぐら》しかけた。相変らず低《ひく》い下駄《げた》を穿《は》いてゐる。男はわざと会堂《チヤーチ》の垣《かき》に身を寄せた。 「此所《こゝ》で御|目《め》に掛《か》かればそれで好《い》い。先刻《さつき》から、あなたの出《で》て来《く》るのを待《ま》つてゐた」 「御|這入《はい》りになれば好《い》いのに。寒《さむ》かつたでせう」 「寒《さむ》かつた」 「御|風邪《かぜ》はもう好《い》いの。大事になさらないと、ぶり返《かへ》しますよ。まだ顔色《かほいろ》が好《よ》くない様ね」  男は返事をしずに、外套の隠袋《かくし》から半紙に包《つゝ》んだものを出《だ》した。 「拝借した金《かね》です。永々《なが/\》難有《〔ありがと〕》う。返《かへ》さう/\と思つて、つい遅くなつた」  美禰子は一寸《ちよつと》三四郎の顔《かほ》を見たが、其儘|逆《さか》らはずに、紙包《かみづゝみ》を受け取つた。然し手に持つたなり、納《しま》はずに眺《なが》めてゐる。三四郎もそれを眺めてゐる。言葉が少《すこ》しの間《あひだ》切《き》れた。やがて、美禰子が云つた。 「あなた、御不自由ぢや無《な》くつて」 「いゝえ、此間から其積で国から取り寄せて置いたのだから、何《ど》うか取つて下《くだ》さい」 「さう。ぢや頂《いたゞ》いて置きませう」  女は紙包《かみづゝみ》を懐《ふところ》へ入れた。其手を吾妻《あづま》コートから出《だ》した時、白い手帛《ハンケチ》を持つてゐた。鼻の所へ宛てゝ、三四郎を見てゐる。手帛《ハンケチ》を嗅《か》ぐ様子でもある。やがて、其手を不意に延《の》ばした。手帛《ハンケチ》が三四郎の顔《かほ》の前《まへ》へ来《き》た。鋭《する》どい香《かほり》がぷんとする。 「ヘリオトロープ」と女が静かに云つた。三四郎は思はず顔《かほ》を後《あと》へ引《ひ》いた。ヘリオトロープの壜《びん》。四丁目の夕暮《ゆふぐれ》。迷羊《ストレイシープ》。迷羊《ストレイシープ》。空《そら》には高《たか》い日が明《あき》らかに懸《かゝ》る。 「結婚なさるさうですね」  美禰子は白い手帛《ハンケチ》を袂《たもと》へ落した。 「御存じなの」と云ひながら、二重瞼《ふたへまぶち》を細目《ほそめ》にして、男の顔《かほ》を見た。三四郎を遠くに置いて、却つて遠くにゐるのを気遣《きづか》い過《す》ぎた眼付《めつき》である。其癖|眉《まゆ》丈は明確《はつきり》落ちついてゐる。三四郎の舌《した》が上顎《うはあご》へ密着《ひつつい》て仕舞つた。  女はやゝしばらく三四郎を眺めた後《のち》、聞兼《ききかね》る程の嘆息《ためいき》をかすかに漏《も》らした。やがて細い手を濃い眉の上《うへ》に加へて、云つた。 「われは我《わ》が愆《とが》を知る。我が罪は常に我が前にあり」  聞き取れない位な声であつた。それを三四郎は明らかに聞き取つた。三四郎と美禰子は斯様《〔かよう〕》にして分《わか》れた。下宿へ帰つたら母からの電報が来《き》てゐた。開《あ》けて見ると、何時《いつ》立つとある。 [#7字下げ]十三[#「十三」は中見出し]  原口さんの画は出来上《できあ》がつた。丹青会は之を一室の正面に懸けた。さうして其前に長い腰掛を置いた。休《やす》む為《ため》でもある。画を見る為《ため》でもある。休み且つ味ふ為《ため》でもある。丹青会はかうして、此大作に彽徊する多くの観覧者に便利を与へた。特別の待遇である。画が特別の出来《でき》だからだと云ふ。或は人の目を惹《ひ》く題《だい》だからとも云ふ。少数のものは、あの女を描《かい》たからだと云つた。会員の一二は全く大きいからだと弁解した。大きいには違《ちがひ》ない。幅五寸に余る金の縁《ふち》を付《つ》けて見ると、見違《みちが》へる様に大きくなつた。  原口さんは開会の前日検分の為|一寸《ちよつと》来《き》た。腰掛に腰を卸して、久《ひさ》しい間《あひだ》烟管《パイプ》を啣へて眺めてゐた。やがて、ぬつと立つて、場内を一順丁寧に回《まは》つた。夫から又|故《もと》の腰掛へ帰つて、第二の烟管《パイプ》を緩《ゆつ》くり吹《ふ》かした。 「森の女」の前には開会の当日から人が一杯|集《たか》つた。折角の腰掛は無用の長物となつた。たゞ疲れたものが、画を見ない為《ため》に休んでゐた。それでも休みながら「森の女」の評をしてゐたものがある。  美禰子は夫《おつと》に連《つ》れられて二日《ふつか》目に来《き》た。原口さんが案内をした。「森の女」の前へ出《で》た時、原口さんは「何《ど》うです」と「二人《ふたり》」を見た。夫《おつと》は「結構です」と云つて、眼鏡《めがね》の奥からじつと眸《ひとみ》を凝《こ》らした。 「此団扇を翳《かざ》して立つた姿勢が好《い》い。流石《さすが》専門家は違《ちがひ》ますね。能《よ》く茲所《こゝ》に気が付《つ》いたものだ。光線が顔へあたる具合が旨《うま》い。陰《かげ》と日|向《なた》の段落《だんらく》が確然《かつきり》して――顔丈でも非常に面白い変化がある」 「いや皆《みんな》御当人の御好みだから。僕の手柄ぢやない」 「御|蔭《かげ》さまで」と美禰子が礼を述べた。 「私《わたくし》も、御蔭さまで」と今度は原口さんが礼を述《の》べた。  夫《おつと》は細君の手柄だと聞いて左《〔さ〕》も嬉しさうである。三人のうちで一番鄭重な礼を述べたのは夫《おつと》である。  開会後第一の土曜の午過《ひるすぎ》には大勢《おほぜい》一所に来《き》た。――広田先生と野々宮さんと与次郎と三四郎と。四人《よつたり》は余所《よそ》を後廻《あとまは》しにして、第一に「森の女」の部屋に這入つた。与次郎が「あれだ、あれだ」と云ふ。人が沢山|集《たか》つてゐる。三四郎は入口《いりぐち》で一寸《ちよつと》蹰躇した。野々宮さんは超然として這入《はい》つた。  大勢《おほぜい》の後《うしろ》から、覗《のぞ》き込んだ丈で、三四郎は退《しり》ぞいた。腰掛に倚つてみんなを待ち合はしてゐた。 「素敵に大きなもの描《か》いたな」と与次郎が云つた。 「佐々木に買つて貰《もら》ふ積《つもり》ださうだ」と広田先生が云つた。 「僕より」と云ひ掛けて、見ると、三四郎は六づかしい顔をして腰掛にもたれてゐる。与次郎は黙《だま》つて仕舞つた。 「色の出《だ》し方が中々|洒落《しやれ》てゐますね。寧ろ意気な画だ」と野々宮さんが評した。 「少し気が利き過ぎてゐる位だ。是ぢや鼓《つゞみ》の音《ね》の様にぽん/\する画は描《か》けないと自白する筈だ」と広田先生が評した。 「何ですぽん/\する画と云ふのは」 「鼓《つゞみ》の音《ね》の様に間《ま》が抜けてゐて、面白い画の事さ」  二人《ふたり》は笑つた。二人《ふたり》は技巧の評ばかりする。与次郎が異を樹《た》てた。 「里見さんを描《か》いちや、誰《だれ》が描《か》いたつて、間《ま》が抜けてる様には描《か》けませんよ」  野々宮さんは目|録《ろく》へ記号《しるし》を付《つ》ける為《ため》に、隠袋《かくし》へ手を入れて鉛筆を探《さが》した。鉛筆がなくつて、一枚の活版|摺《ずり》の端書《はがき》が出《で》て来《き》た。見ると、美禰子の結婚披露の招待状であつた。披露はとうに済《す》んだ。野々宮さんは広田先生と一所にフロツクコートで出席した。三四郎は帰京の当日此招待状を下宿の机の上に見た。時期は既に過《す》ぎてゐた。  野々宮さんは、招待状を引き千切《ちぎ》つて床《ゆか》の上に棄てた。やがて先生と共に外《ほか》の画の評に取《と》り掛る。与次郎丈が三四郎の傍《そば》へ来《き》た。 「どうだ森の女は」 「森の女と云ふ題が悪《わる》い」 「ぢや、何とすれば好《い》いんだ」  三四郎は何《なん》とも答へなかつた。たゞ口《くち》の内《うち》で迷羊《ストレイシープ》、迷羊《ストレイシープ》と繰り返《かへ》した。 底本:「定本 漱石全集 第五巻」岩波書店    2017(平成29)年4月7日第1刷発行 初出:「東京朝日新聞」    1908(明治41)年9月1日〜12月29日 ※底本のテキストは、著者自筆稿によります。 ※「矢っ張り」と「矢張り」と「矢っ張」、「余程」と「余つ程」と「余っ程」、「余《あま》り」と「余《あん》まり」と「余《あんま》り」と「余《あまり》」、「引《ひ》っ込め」と「引き込め」、「引つ込んで」と「引っ込んで」、「引っ張つて」と「引つ張つて」と「引張つて」、「提燈」と「提灯」、「何所《どこ》」と「何処《どこ》」、「子供」と「小供」、「暫《しば》らく」と「少時《しばらく》」、「吃驚《びつくり》」と「喫驚《びつくり》」」、「美《うつ》くしい」と「美《うつく》しい」、「背《せ》」と「脊《せ》」、「蹰躇」と「躊躇」、「六※[#濁点付き小書き平仮名つ]かし」と「六づかし」、「後《うし》ろ」と「後《うしろ》」、「一《ひとつ》」と「一《ひと》つ」の混在は、底本通りです。 ※「二重瞼」に対するルビの「ふたえまぶた」と「ふたえまぶち」、「洋燈」に対するルビの「らんぷ」と「ランプ」、「一寸」に対するルビの「ちよつと」と「ちよいと」、「籃」に対するルビの「かご」と「バスケツト」と「ばすけつと」、「私」に対するルビの「わたくし」と「わたし」、「兄妹」に対するルビの「きようだい」と「けうだい」、「戸外」に対するルビの「そと」と「こぐわい」、「再」に対するルビの「ふたたび」と「ふたゝび」の混在は、底本通りです。 ※初出時の署名は「漱石」です。 ※〔 〕内のルビは、編集部による加筆です。 ※〔 〕内のルビは新仮名とする底本の扱いにそって、〔 〕内のルビの拗音、促音は小書きしました。 ※底本巻末の吉田凞生氏による注解、宗像和重氏による新注、編集部による補注は省略しました。 入力:砂場清隆 校正:木下聡 2022年11月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。