椋のミハイロ ボレスラーフ、プルース 二葉亭四迷訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)既《も》う |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)貴様|銭《ぜに》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)迤 /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)そんだら/\ *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 -------------------------------------------------------  鉄道工事も既《も》う竣《をは》つた。  請負人《うけおひにん》は払ふべき手間《てま》を払ひ、胡魔化《ごまか》される丈け胡魔化してカスリを取り、労働者は皆一度に己《おの》が村々へ帰ることになつた。  路端《みちばた》の飯屋《めしや》は昼前の大繁昌《おほはんじやう》で、ビスケットを袋に詰める者もあれば、土産《みやげ》にウォットカを買ふ者もあり、又は其場で飲んで了《しま》ふ者もある。  それから上着を畳んで、肩へ投懸《なげか》けて出掛けるとて、口々に、 「そんだら、椋《むく》よ達者《たつしや》で暮らせ……そんだら/\!」  ……と、椋のミハイロ一人になつた。  どちら向いても野の中に唯一人取残されて、昨日《きのふ》迄の仲間が今日は散々《ちり/″\》になつて行く後影《うしろかげ》を見送るでもなく、磨いたように光る線路を熟々《つく/″\》と眺めれば線路は遠く/\走つて何処《いづく》ともなく消えて行く。風は髪を吹いて着物の裾が捲《ま》くれ、今分れた人達の歌ふ声が遠方で聞える……  その円《まる》い帽子の影は頓《やが》て木隠《こがく》れて見えなくなつたが、ミハイロは背後《うしろ》で手を組むで、まだ立つてゐる。何処へ行処《ゆきどころ》もない。親兄弟もない一人法師《ひとりぼつち》で、今線路を切つたあの兎のやうに、或時は野宿したり、或時は人の家の納屋《なや》に寝たり行当《ゆきあた》りばツたりに世を渡つて来た身の上だ。  と、砂山越しに汽笛が鳴つて、煤烟がむく/\と騰《あが》り、汽車の音がする。来たのは工事専用の汽車で、それがまだ普請中《ふしんちゆう》のステーションの側で停《とま》ると、屈強な機関手と其見習が機関車を飛降りて、突然《いきなり》飯屋へ駈付ける。他《ほか》の連中も其例に傚《なら》ふ。汽車に残つてゐるのは工事担当の技師ばかりだ。技師は物思はし気《げ》に四下《あたり》を眺めて汽罐《かま》の蒸気の音に耳を傾けてゐる。  見知《みし》り越《ご》しの人なので、ミハイロが丁寧に辞儀《じぎ》をすると、 「おゝ、椋か?……如何《どう》した?」 「如何もしましねえ。」 「何故《なぜ》村へ帰らん?」 「帰つたとつて、仕方ねえだもん。」  技師は何か鼻歌を唱《うた》ひ出したが、頓《やが》て、 「ワルソウへ行け、ワルソウへ。ワルソウなら、仕事に困る事はないぞ。」 「ワルソウツて何処だね? 私《わし》知んねえだが……」 「無蓋車《むがいしや》に乗れ、連れてツて遣《や》るから。」  椋は無蓋車へ身軽くひらりと飛乗つて、石を積むだ上に腰を卸《おろ》した。  技師が、 「貴様|銭《ぜに》を持つてるか?」 「銭《ぜに》かね! 銭は一両と銀貨が四貫、跡に銅貨で十五|文《もん》ばかし持つとりますだよ。」  技師はまた鼻歌を唱ひ出す。機関車は矢張ぶう/\小言《こごと》を言つてゐる……其中に先刻《さつき》の連中が酒の瓶や紙包みを提《さ》げて飯屋を出て来て、機関方《きくわんがた》が機関車へ這上《はひあが》ると……頓《やが》て汽車は動き出した。  三里程来て一曲《ひとまが》りすると、向ふの沼の中に痩村《やせむら》が見えて、其処から烟が立つてゐる。之を見ると、ミハイロは急に燥《はしや》ぎ出《だ》して、えへら/\笑つたり、遠方だから声は届かなかつたが、其方を向いて何か大声に喚《わめ》いたり、帽子を揮《ふ》つたりする……ブレーキの処に居た車掌が尖り声で、 「静かにしとれ! 何だつて騒ぐんだ?」 「だとつて……ほら、彼処《あすこ》に見える……あれがウラ達の村だもん……」 「ウラ達の村なら村で好いから、静かにしとれ!」  ミハイロは大人《おとな》しく言ふ事を聴いて静かになつたが、何だか悲しかつたので、お経の文句を称《とな》へてゐた。あゝ、生れた村は藁葺《わらぶき》荒壁《あらかべ》の沼の中の痩村だけれど、此儘帰れたら如何《どん》なに嬉しからう! たゞ、しかし、帰つたとて仕方がない。椋助《むくすけ》だの馬鹿だのと人は言ふけれど、ミハイロは能《よ》く心得てゐる。出稼ぎして諸方を彷徨《うろつ》いてゐた方が、ひもじい想《おもひ》をしない、寝泊《ねどま》りする処にも困らない。生れた村には食物《くひもの》が欠乏《たりな》くて皆《みんな》が難渋《なんじふ》してゐるけれど、余処《よそ》は其程《それほど》でもない。  ステーションを幾つか通越したが、長いこと停車してゐた処もあるし、直《ぢ》き発車した処もある。其中に日が暮れて、技師の情《なさ》けで物を食はされたから、ミハイロは丁寧に辞儀をして礼を言つた。  行つても/\知らん地方《ところ》だ。低地《ひくち》が高台になつて瀬の早い川が逶迤《うね/\》と通つてゐる処もあつた。烟突《けむだし》も無い小舎《こや》や木の枝を編むで拵《こしら》へた納屋が後《あと》になつて、立派な邸や石造《せきざう》の建物が見える。生れた村では見た事もないやうな会堂もあつた。  夜《よ》に入つてから、ト或る山の下へ来た。山の上は町で、家が家に負《おぶ》さつたやうに累《かさ》なり合つてゐて、燈火《あかり》が星のやうに見える。もう夜更《よふけ》だのに、何処でか奏楽の音《ね》がして、人通りが絶えない。話声や笑声も聞える。村ではもう犬も啼《な》かぬ時間《じぶん》だのに……  ミハイロはまだ起きてゐた。そしたら技師の指図《さしづ》だとて腸詰を一斤と麺包《パン》を一つ持つて来て呉れて、それから砂を積むだ別の無蓋車に移された。今度は軟かで坐り心地が羽蒲団のやうだ。で、砂の上に座つて腸詰を食ひながら、 「世の中には甘《うめ》い物《もん》が有れば有るもんだあ!」  汽車は久《しば》らく停つてゐたが、暁方《あけがた》になつて出ると、間もなく飛ぶやうに走る。と、森の中のステーションへ来て停つたまゝ、なか/\出ない。車掌の話だと、呼戻しの電報が来たから、技師は此処で降りるだらうと云ふ。  成程技師はミハイロを呼んで、 「己《おれ》はな、此処から戻らにやならんことになつたが、貴様一人でワルソウへ行くか?」  ミハイロは口の中でぐづり/\と、 「さうさねえ、如何《どう》すべえか……」 「ワルソウへ行きや人中《ひとなか》だ。消えて無くなりもすまい。」 「消えて無くなつたとつて、仔細ねえけどね。私《わし》一人だから。」  違ひない! お袋が有るとか、女房が有るといふのなら、跡に残つた者が困りもせうが、一人切《ひとりきり》なら誰に掛構《かけかま》ひもない話だ。  で、技師が、 「そんなら行《い》くが好い。丁度ステーションの側《そば》に何軒か普請中《ふしんちゆう》の家《うち》も有るから、煉瓦でも運んで居りや、餓《かつ》ゑもしまい。たゞ酒だけは慎《つゝし》むんだぞ。さうして辛抱して居りや、また其中《そのうち》に何ぞ好い仕事も見附かるだらう。さあ、一円|遣《や》るから、正可《まさか》の時の用意にしろ。」  ミハイロは一円貰つて、礼を言つて、また砂を盛つた無蓋車に乗ると、頓《やが》て汽車は出た。  途々《みち/\》車掌に聞いてみた、 「旦那、私《わし》が今迄稼いでたあのステンショね、彼処《あすこ》からもう余程《よつぽど》来ただんべえか?」 「さうさなあ、百五六十里も来たらうか。」 「此処から歩いて戻つたら、余程《えつと》掛るべえかね?」 「さうさなあ、半月は掛るだらうな。」  と聞くと、ミハイロは心細くなつて来た。家《うち》へ帰るに半月掛る! 何だと云つて此様《こん》な遠方へ来た事か。  やれ、大変な事になつちまつたと、始めて気が附いたが、もう取返しが附かぬ。尤《もつと》も取返しが附いて旧《もと》の身の上になつたからつて、些《ちつ》とも好い事はない、もつと不好《いけな》い事もあつた……で、臥反《ねがへ》りを打つて、心の中で、 「仕方ねえだ。」  汽笛が消魂《けたゝ》ましく鳴つたから、ひよいと見たら、向ふに家《うち》が沢山見える。 「彼《あれ》は何ちふ処《とこ》だかね?」  と車掌に聞くと、 「あれがワルソウよ。」  さう聞くと、また心細くなつた。如何して此様《こん》な処へ来る気になつたらう?  ステーションに着いた。無蓋車を降りて、車掌に暇乞《いとまごひ》して、きよろ/\と見廻して、それから向ふの酒瓶《さかびん》の絵看板の出てゐる見世《みせ》の方へ行つた。固《もと》より酒を飲みにぢやない。其見世の先に普請場《ふしんば》があつて、煉瓦職人の姿が其の前に見えたから、技師の話を憶出《おもひだ》して、仕事をさせて貰はうと思つたからで。  煉瓦職人は皆威勢の好い石灰《いしばひ》だらけの若衆《わかいしゆ》達で、先方《さき》から言葉を掛けた、 「お前《めへ》は何だ? 何処の者《もん》だ? 此様《こん》な帽子を誰に拵《こせ》へて貰つた?」  などゝ云ひながら、袖を引張《ひつぱ》つたり、帽子を取つて又ポンと冠《かぶ》せたり、ちやうさいばうにされて……ミハイロはうろ/\する。 「何処の者《もん》だツてば?」 「うらウオロコウ※[#小書き片仮名ヰ、368-上-16]ツキの者《もん》だがね……」とまだ面《めん》を喰《く》つてゐる。  囲繞《たか》つた職人達は高笑《たかわらひ》をした。ミハイロも一緒になつて高笑をして、心の中で、 「皆《みんな》面白れえ人達だ。些《ちつ》とも可恐《おつかね》え事ねえ。」  ミハイロの罪の無い笑声や、人の好ささうな眼色《めつき》が皆の気に入つて、弄《なぶ》らずに真面目に事情《わけ》を聞出したから、仕事をさせて貰ひたいのだといふと、そんなら己達《おれたち》の跡に随《つ》いて来なと云ふ。 「少《ちつ》とばかし愚鈍《おかつたる》いやうだが、人が好ささうだ。」  と一人がいふと、今一人が、 「遣《や》らせて見ようぢやねえか?」  すると又一人がミハイロに、 「渡りを附けるだらうな?」 「渡りツて何《あん》だね?」 「一|杯《ぺい》飲ませるかといふことよ。」  側から一人が笑ひながら、 「酒を振舞《ふるま》はなきや、此方《こつち》から拳固《げんこ》を振舞つてやら。」  ミハイロは考へて見て、 「振れ舞ふよか振れ舞はれた方が好《え》えね。」  言草《いひぐさ》が皆の気に入つて、帽子の上から軽《かろ》く二つほど喰《くら》はせて、酒の事はお流れになつた。かうして調戯《からか》ひながら普請場へ来て皆仕事に掛つたが、職人達は見上《みや》げるやうな足場へ上《あが》り、娘や子供が煉瓦を運ぶ。ミハイロは新参《しんまい》だからといふので、石灰《いしばひ》に砂を入れて捏《こ》ねさせられた。  かうして到頭煉瓦職の手間取《てまとり》になつた。  翌日《あくるひ》手伝の娘を一人附けて呉れた。矢張《やつぱり》ミハイロ同様な貧乏人で、古ぼけた頭巾《づきん》に穴の開《あ》いた腰巻に、襯衣《しやつ》と、それで身上《しんしやう》有りツ丈《たけ》だといふ。色の浅黒い、痩せツぽちの、ちよツぽり鼻の空を向いた、額の引込んだ、随分不器量な娘《こ》だつたが、ミハイロは女に掛けては贅沢でないから、此娘《このこ》が道具を持つて側《そば》へ来た時から全然《すつかり》気に入つて了《しま》つて、頭巾の蔭から瞥《ぢろり》と面《かほ》を見られた時には、何だか恍然《ぼつ》となつた……はて、便《たよ》りねえ身の上は己《うら》ばかしでねえ、一人法師《ひとりぼつち》が二人寄りや、もう一人法師でねえちふもんだ、といふやうな気にもなる。段々大胆になつて来て、終《つひ》には身の上話を始めた。 「汝《にし》何処の人《ふと》だかね? ワルソウの人《ふと》だか、それとも更《もつ》と遠くの人《ふと》だか? いつから煉瓦積になつたのけ?」  などゝいふのが口切りで、最後《はて》は不覚《つい》深入して、 「何も心配《しんぺえ》しるでねえ。己《うら》が汝《にし》の分まで稼いでやるだから。」  成程汗みづくになつて自分ばかり働いて、娘にはほんの上面《うはつら》ばかり撫でるやうに捏《こ》ねさせて人前を取繕《とりつくろ》つて置く。  毎日|斯《か》うして二人で働いてゐたが、時々飛入りに手伝に来る職人があつた。此奴《こいつ》が手伝に来ると、屹度《きつと》娘を叱り飛ばす、而《さう》してミハイロに調戯《からか》ふ。  ミハイロは夜は普請小舎《ふしんごや》の隅に寝る事にしてゐた。木賃《きちん》に泊る程の贅沢も出来ないのだ、手伝の娘は外の娘達と連立つて何処へか帰つて行く、時には例の職人と一緒に帰つて行く事もある。其癖其職人は娘を口で叱るばかりでなく、動《やゝ》ともすると手込《てご》めにする事もあるのだ。 「何故《なんで》彼様《あんねえ》目の敵《かたき》にしるだんべえ?」と椋は不審に思つて、出来るだけ娘を勦《いたは》つて遣《や》つてゐた。娘の分まで働いて遣るばかりでなく、朝飯のパンも半分分けてやり、昼飯には屹度何かしら煖《あつた》かな物を二銭が所《とこ》買つてやつてゐた。娘は始終一文無しなのだ。  煉瓦を運ばされるやうになつてからは、番頭が喧《やか》ましくて、もう娘の分まで働いてやれなくなつたが、其代り娘が躓《つまづ》きはせぬか、煉瓦の重味《おもみ》に潰《つぶ》されはせぬかと、始終|其様《そん》な事ばかり気にしてゐた。其様子を例の意地悪の職人が認めて、二人の事を彼此《かれこれ》言つては調戯《からか》ひ、仲間中に触れ廻る。仲間の者も笑つて、 「やい、椋、しツかりしろい!」  と足場から声を掛ける。  一度昼時分意地悪の職人が娘を片蔭へ呼んで何か声を荒《あら》らげて言つてゐた事がある。  と、娘が泪《なみだ》ながらミハイロの処へ来て、十銭ばかり貸して呉れといふ。  何がさて娘の頼みだ、聴いて遣《や》らん法はないと、ミハイロは財布の紐を解いて、稼《かせ》ぎ溜《た》めた金の中から、十銭|丸《だま》を一つ出して遣つた。  その十銭を娘は意地悪の職人に渡したが、それからは娘は毎日屹度|若干《なにがし》づゝの無心を言ふ事になつた。 「何故《なんで》汝《にし》や彼様《あんねえ》した奴に銭《ぜに》遣るだか?」  と怯《おつ》かな恟《びつく》り聴いて見ると、 「だつて仕方が無いンだもの。」  と娘はいふ。  或日意地悪の職人が番頭と喧嘩をして、仕事を止《や》めて出て行かうとした。其時自分が止《よ》すばかりでなく、娘にも止せと、うぬが雇つた者のやうに、権高《けんだか》に言つたが、娘は渋つた。番頭が晩迄働かなきや手間は払はないと、かう言つたさうだ。一文だつて汗の出た銭だから、労働する身になつては、惜しい。で、娘はまた仕事に掛らうとした。  男は腹を立てゝ、大きな声で、 「やい、一緒に行くのか、行かねえのか、判然《はつきり》返事をしろい!」  娘は煉瓦積む手を止《と》めて、男の面《かほ》を瞥《ぢろり》と見た。もう眼には泪を一杯溜めて居たが、それでも男の跡に随《つ》いて行つて了《しま》つた。惚れてゐるのだ。  たゞミハイロには其《それ》が分らなかつた。  娘が居たからつて、格別嬉しい想《おもひ》をさせられた訳ではなかつたが、居なくなつて見ると、切《しき》りに淋しい。また一人法師《ひとりぼつち》になつて了つた。  其晩は眠られなかつた。翌日《あくるひ》平生《いつも》の通り仕事に掛つて見たが、仕事が手に附かない。普請場《ふしんば》からがもう厭になつて来た。何処へ行つて見ても、何に触《さは》つて見ても、眺めても、娘の事が想出されて、生別《わかれ》の辛さを犇《ひし》と思知る。それだのに皆は笑つて、 「やい、椋、ワルソウの新造《しんぞ》は如何《どう》だ?……気に入つたか?」 [#地から2字上げ](明治四十一年四月) 底本:「現代日本文學大系 1 政治小説・坪内逍遙・二葉亭四迷集」筑摩書房    1971(昭和46)年2月5日初版第1刷発行    1971(昭和46)年12月30日初版第2刷発行 ※表題は底本では、「椋《むく》のミハイロ」となっています。 入力:高崎隼 校正:hitsuji 2020年4月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。