戦国会津唄 山本周五郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)稗《ひえ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)父|岡野左内《おかのさない》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)‼ ------------------------------------------------------- [#7字下げ]一[#「一」は中見出し] 「おい見ろ、稗《ひえ》食い虫が行くぞ」 「やあ本当だ、おーいみんな来いよ。岡野の稗食いが通るからからかってやれ」  ばらばらと悪童たちが集まって来て小房《こふさ》の周囲を取巻いた。 「やい稗食いの痩《や》せっぽち」 「蕨《わらび》のねっこ[#「ねっこ」に傍点]でも掘りに来たんか」 「晩の御飯は楢《なら》の実だろ」  手を拍《う》ちながら声々に囃《はや》したてる、小房はどうする事も出来ず、ついには両の袂《たもと》を顔に押当て、わっと泣きながら逃げて帰るのが例であった。  小房の父|岡野左内《おかのさない》は、上杉|景勝《かげかつ》の重臣で猪苗代《いなわしろ》城代を勤める一万石の大身だったが、実に思い切った倹約家で、自分はじめ娘や家来たちにも、夏は生麻《きあさ》の帷子《かたびら》、冬は木綿|布子《ぬのこ》よりほかに着せなかったし、食べ物は稗や粟《あわ》が常食で、それに蕨の根や蜀黍《もろこし》団子や楢の実などというどんな貧しい農家でも嫌うような物を、主従上下の差別なく食べていた。――一万石という大身でこの倹約、というよりは吝嗇《りんしょく》に近い生活をしていたから、自然と莫大《ばくだい》な金がたまる道理である。左内はそれがまた何よりも楽しいとみえ、月に一度ずつ金蔵へ入っては、あるほどの金銀を山と積んで、ただ一人それを数えるのが例であった。  豪放と恬淡《てんたん》を以《も》って誇りとした戦国武士のあいだにあって、左内のような吝嗇や、金銭を愛する気風が蔑《さげす》まれるのは当然である。  ――左内ではない吝内《りんない》殿だ。  ――いかにも、稗野吝内であろう。  そういう陰口が頻《しき》りに飛んだ。  しかもそれに輪をかけるような事がもう一つあった。――常に多くの家来を養っていた当時の武将たちは、平時、金銭を軽んじて豪放な生活《くらし》をしていたから、少し戦争のない年でも続くと大抵は金に窮し、鎧兜《よろいかぶと》や重代の武器を手放して、辛くも家計を支えるという人々が珍しくなかった。――そこで左内の所へも金を借りに来る者が少なくない、左内はそういうとき一応は快く貸してやるが、しかしそれには厳重な期限があって、約束の日が来るとびしびし取立てるし、期日を違《たが》えるような事があると自ら相手の屋敷へ押掛けて行って、四辺《あたり》近所へ聞こえよがしに罵《ののし》りたてるのだった。……借りる時には一生の恩にきた連中も、そうなると逆に立腹して、  ――岡野は武士に似合わぬ、まるで金貸|商人《あきんど》のような奴だ。  と悪口を言うようになるのだった。  常の左内は世間にいかなる悪評が飛ぼうと平気だった。けれど――まだ髪あげをしたばかりで、ようやく羞《は》ずかしさというものを知り始めた十五の乙女小房には、それがどんなに辛《つら》く、悲しい事か知れなかったのである。  それは立秋を過ぎて間のない、八月はじめのある日のことだった。  会津若松《あいづわかまつ》城下の崇伝《すうでん》寺へ、母の墓参に行った帰り道、小房は久しぶりに土岐六郎右衛門《ときろくろうえもん》の屋敷を訪ねようとして、残暑の日射しを避けながら武家屋敷の方へ歩いていた。――土岐六郎右衛門は藩の侍大将で、市之丞《いちのじょう》と菊枝という二人の子がある。兄妹とも小房とは幼い頃からの友達で、殊に兄の市之丞とは幼い頃から親同志のあいだに許嫁《いいなずけ》の約束が結ばれた間柄であった。  小房が大松の辻《つじ》へさしかかった時である。向こうから悪戯《いたずら》盛りの少年たち七、八名を伴《つ》れて、体の恐ろしく大きな、日に焼けた真っ黒な顔に眼ばかり光らせた武家の子が、往来狭しと押して来るのに会った。――それは鉄砲組頭|林茂左衛門《はやしもざえもん》の倅《せがれ》大九郎《だいくろう》といって、城下きっての悪童の大将である。 「おい待て、向こうから面白い奴が来る」  大九郎は早くも小房をみつけた。 「稗食いじゃないか」 「そうだ。おいみんな手を繋《つな》げ。円くなるんだ、――よし、あいつを巻いちゃえ!」  大九郎が命ずると、悪童たちはわっ[#「わっ」に傍点]と鬨《とき》の声をあげながら、素早く小房の周りを取巻いてしまった。――そして、驚いて逃げようとするのを四方から小突きたてて、 「やい稗食い、どこへ行くんだ」 「栃《とち》の実でも拾いに来たんだろ、やい袂を明けて見せろ」 「それとも立ち穂を抜きに行くんか」 「吝内の娘だからお吝《りん》と名をかえたらどうだい」  わいわいと囃したてられた小房は堪えがたいはずかしさに怒ることも忘れ、早くもぐっ[#「ぐっ」に傍点]と涙がこみあげてくる。大九郎はそれを見るとますます図に乗り、小房の前へ仁王立ちになった。 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し] 「やい、みんな、貴様たちは稗飯を食う奴がどんな声で泣くか知っているか」 「おいらまだ聞いたことがねえや」 「おれもまだ聞いたことがない。ちょうどいいからこいつを泣かしてみようぜ。そうすりゃあ米の飯と稗飯とどう違うかはっきりすらあ」 「――止せッ」  突然、悪童たちの後ろで叫ぶ声がしたと思うと、十七あまりの美少年が、さっと人垣を破って踏込んで来た、――小房は見るより、 「あ! 市之丞さま」  と縋《すが》りつく、少年はそれを背に庇《かば》いながら鈴を張ったような眼でじろりと一同を見廻《みまわ》した。侍大将土岐六郎右衛門の子市之丞である――大九郎は恟《ぎょ》っとしたが、 「な、なんだ貴様、余計な事をするな」 「黙れ大九郎、ほかの町人共は知らぬこと、貴様は苟《いやし》くも武士の子ではないか、往来なかで弱い女を虐《いじ》めるやつがあるか」 「そんな事、貴様の指図は受けねえや」 「何でもいい、ここを引取れ」 「厭《いや》だ、おれはさっきからここにいるんだ。引取るなら貴様引取れ」  市之丞は再びじろりと見やって、 「よし、では引取るから邪魔をするな、変な真似をすると痛いめ[#「め」に傍点]をみるぞ、――小房どの参りましょう」 「……はい、――」  市之丞の背へ縋るようにして、小房が歩きだすのを見ると、大九郎はちぇッと舌打ちをしていきなり、 「やいみんな、殴っちまえ!」  と喚《わめ》きざま、自分から先に棒切れをふるってだっ[#「だっ」に傍点]と殴りかかった。――そのくらいの事は覚悟していた市之丞だ。 「――卑怯者《ひきょうもの》!」  と叫んで体を躱《かわ》したと思うと、伸びて来る相手の脾腹《ひばら》へ拳《こぶし》が飛ぶ。同時に身を、翻えしたと思うと、大九郎の大きな体はぶざまに四、五米つんのめって倒れ、市之丞はいつ奪い取ったか相手の棒を右手にぬっと立って、 「おのれ曲者《くせもの》、手向かいするかッ」  大声に喚きながら睨《ね》め廻した。勢いの凄《すさ》まじさに悪童たちは、ひと堪《たま》りもなく、 「かなわねえ、逃げろ」  と大九郎を置捨てにして見返りもせず逃散ってしまった。――地面に這《は》って脾腹を押さえながら意気地なく呻《うな》っている大九郎をちらと見やった市之丞、 「大九郎、会津武士は恥を知るものぞ。これに懲りて再びこんな事はするなよ。貴公の父は鉄砲組頭という立派な武人だ、――それを忘れるな」  そう言い捨てると、小房を促して足早にそこを立去った。 「――有難う存じました、市さま」 「危ないところでした。大九郎は仕様のない暴れ者です。怪我はありませんでしたか?」 「いいえ……」  小房は悲し気に頭《かぶり》を振ったが、 「でも、あの方ばかりが悪いのではありません。父にも悪いところがあるんです。――父があんな変わった性質でなかったら、世間の方たちも小房をこんなに憎みは致しますまいに」 「それは違います、小房どの――」  言いかけた時、 「お兄さま」  と叫びながら、市之丞の妹菊枝が、屋敷の門から小走りに出て来た。 「まあ小房さまもいらしったの?」 「菊枝さま、――」 「しばらくですわね、ようこそ」  二人は走り寄って手をとり合った。  小房を家へ伴い入れた菊枝は、久しぶりの親友の訪れにすっかりはしゃいで、半刻《はんとき》あまりは息もつかずに、会わぬあいだの事を訊《たず》ねたり話したり、また買って貰った京渡りの髪道具や、新しい衣裳《いしょう》を並べて見せたりしたが、――ふと小房の浮かぬ様子に気付いて、 「あなたどうかなさいまして? 今日はちっとも浮き浮きなさいませんのね」  と心配そうに訊《き》いた。 「ええ、――いいえ、別に……」 「また大九郎の奴が悪さをしたのだ」  と側から市之丞が言った。 「まあ悪いのねえあの方、何か……」 「菊枝さま、あたしもう、――」  小房は袂《たもと》で面を蔽《おお》いながら、 「もう本当に、足軽の娘にでも生まれて来ればよかったと思いますわ。父が一万石の城代でなければ、たとえ稗《ひえ》を頂こうと粟《あわ》を頂こうと、世間は黙って抛《ほう》っておいてくれるはずです。なまじ父が大身であるために」 「違います、小房どのそれは違います」  市之丞は強く制した。 「あなたにも似合わぬそんな事をみだりに言うものではありません。岡野左内といえば伊達政宗《だてまさむね》侯と一騎打ちの勝負をして、政宗侯の兜《かぶと》へ二太刀まで斬りつけ、上杉家に岡野ありと海内に名を轟《とどろ》かせたほどの勇士、――世間の馬鹿者がどんな悪評をしようと、心ある者はみな推服しているのです」  左内と政宗の一騎打ちは有名な話だ。  それは慶長《けいちょう》二年秋、上杉家と伊達とが阿武隈《あぶくま》川の支流、松川を挟んでの合戦の折、岡野左内は偶然伊達政宗と会った。政宗はまず馬を寄せて岡野を斬った。岡野は猩々緋《しょうじょうひ》の陣羽織を斬裂かれて振返り、政宗の兜の真っ向から鞍の前輪へかけて一太刀、二の太刀と返しざまに兜の錣《しころ》を半ばかけて斬払った。――その時政宗の大剣が折れたので、岡野左内はすかさず右の膝口《ひざぐち》へ斬りつけたが、政宗の馬が狂奔したのと、着ていた物の具があまりに見苦しかったので、それが敵軍の大将伊達政宗であることに気付かなかった岡野は、別に追討ちもかけずに逃がしてしまった。 「あの時は全く命拾いをしたよ」  と後になって政宗はしばしばそう述懐したという。 [#7字下げ]三[#「三」は中見出し] 「現にこの市之丞も」  と市之丞は言葉を継いだ。 「左内殿に劣らぬ武士になろうと、いつもそれを心に誓っているくらいです。稗を食おうと粟を拾おうと、武士が武道の面目を正している限り、いささかも恥ずる事はありません、――小房どの、あなたはかえって父上を誇りに思わなければならぬはずですよ。お分かりですか」 「――はい、……」 「さあ、もう機嫌を直して、今日はゆっくり菊枝と遊んでいらっしゃい」  菊枝もいそいそと、 「小房さま双六《すごろく》を致しましょうか」  と立ちかかった折だった。表の客間の方からにわかに高く、人の喚きたてる声が聞こえて来た。 「言訳は沢山だ。言訳などは聞いたところで仕方がない。貴公は八月五日限り返済すると約束した。その約束を守って貰《もら》いたいのだ。もう期日に三日も遅れているぞ」 「――だから……」 「いや聞かぬ、だからも糞《くそ》もない。たとえ儂《わし》の娘と貴公の息子とが許嫁《いいなずけ》の間柄であろうと、それとこれとは訳が違う」  小房はあっ[#「あっ」に傍点]と息をのんだ。――父である、父左内の声である、菊枝も市之丞もさっと顔色が変わった。 「だいたい貴公は食禄《しょくろく》はどうしているのか」左内は隣屋敷まで筒抜けの高声で罵《ののし》りたてた。 「上杉家の侍大将として五千石を頂戴《ちょうだい》していながら、他人に借銭《かりせん》せねばならぬというのからして不取締まり、まして返済の当てのない金を借りるなどとは武道のたしなみにも外れた致し方ではないか。それでは大事な御役が勤まるまいぞ」 「左内、それは少々言葉が過ぎよう」  六郎右衛門の声も高くなった。 「言葉が過ぎたら何とした。貴公を友と思えばこそ忠告もする。家事不取締まりと言った儂の言葉に嘘があるか」 「嘘だとは言わぬ。しかし同家中といい年来の交誼《こうぎ》から推しても、いま少し穏やかに話してくれていいはずだ。貴公の声は六郎右衛門の恥を世間へ曝《さら》しているぞ」 「左内の声は戦場できたえた声だ、人の機嫌をとる猫撫《ねこなで》声は持合わさぬ」  小房は全身が恥ずかしさで戦《おのの》いてきた。――いまの今までここで市之丞が、「左内殿のような勇士になりたい」と言っていた。その当の父が、現在許嫁の約のある家へ来てこの始末、……小房はどうにも居堪《いたたま》れなくなって、 「菊枝さま、市之丞さま、――お赦《ゆる》し遊ばせ。どうぞお赦し遊ばして」  と言うと、こみあげて来る涙を抑えながら、夢中でそこから走りだしてしまった。  どこをどうして帰ったか覚えがなかった。家へ着いて自分の居間へ入ると、怪しむ乳母の問いにも答えず、そこへうち伏して小房はわっと泣き沈んだ。  ――あんまりだ、あんまりだわととさま。あなたをあんなに褒め、立派な武士、天下の勇士と言っている市さまのお家まで、なんのために辱《はずかし》める必要があるんですの?  小房は身を揉《も》んで怨《うら》んだ。  ――たとえお金をお貸しなされても、小房と市さまは許嫁、本当なら返すに及ばぬとおっしゃって下さるのが小房のためではありませんか。もしこんな事が因《もと》で、市さまとのお約束に間違いでも出来たら、そうしたら小房は……。  まがしい予感が乙女の心をぞっとさせた。六郎右衛門の怒った声音、震えていた菊枝、屈辱に蒼《あお》ざめていた市之丞の顔――それが消すことの出来ない幻のように、小房の眼からいつまでも離れなかった。  その事があってから三日めの黄昏《たそがれ》ごろであった、……父の顔を見るのが厭《いや》さに、食事も居間へ運ばせていた小房が、庭へ下りて秋草に水を打っていると、――広縁を踏んで客間へ入って行く市之丞の姿をみつけた。 「あ、……市さま」  小房は恟《ぎょ》っと胸の躍るのを感じた。 [#7字下げ]四[#「四」は中見出し] 「ああ市之丞か、よく来たな」  左内は客間へ入りながら、愛想よく言って市之丞の前へ坐《すわ》った。 「武芸|出精《しゅっしょう》という噂で、儂も陰ながら悦《よろこ》んでいるぞ。久しく戦いもなかったが、どうやら西の方の雲行きが怪しくなって来た。近いうちにひと荒れ……」 「お言葉中ですが、そのようなお話はまたの折に伺いましょう」  市之丞はずばりと左内を遮った。 「今日は父が拝借の金子《きんす》をお返しに参りました。五百金と承知|仕《つかまつ》りましたが、それに相違ござりませぬか」 「五百金には相違ないが、どうしてまた」 「いざ、――お改め下さい」  相手の言葉を押切って、持参の金包みをずしりとそこへ差出した。――左内は金包みと市之丞の顔とを見比べていたが、 「市之丞、この金は六郎右衛門が返済せよと申したのか。それともその方一存で致すのか?」 「左様な穿鑿《せんさく》には及びますまい。金さえお返し申せばほかに何も御異存はないはず、――したが御城代、こなたは金子を受取られてそれで済もうが、我らの方に済まぬ事がござりまするぞ」 「まあ待て、そちには話がある」 「聞かぬ! 父の恥辱思い知れ‼」  叫ぶよと見るや席を蹴《け》る、差添を抜きざま飛礫《つぶて》のように、市之丞はだっ[#「だっ」に傍点]と体ごと相手へ叩《たた》きつけて行った。左内は上体を右へ捻《ひね》って、 「――無法な!」  と叫ぶ、体当りに来た市之丞が、すかされてのめる、その右腕をひたと執るなり、足を払ってだあっ[#「だあっ」に傍点]と広縁まで薙《な》ぎ飛ばした。 「う、くそっ!」  はね起きようとするところを、走り寄って押さえつけた左内、「馬鹿者、馬鹿者め! 貴様こんな事をして先日の恥を雪《そそ》ぐつもりか、左内を斬れば貴様も生きてはおられぬぞ、貴様の命はこんなつまらぬ事で捨てるような安いものか、――市之丞、貴様……見損ったぞ」 「――――」 「今日までの交わりに免じて、左内が一言教えてやる、武士の命というものは、君の御馬前よりほかに捨て場所はないものだぞ」 「――――」 「心底見えるまで差添は預かっておく、帰れ」  だっ[#「だっ」に傍点]と市之丞を庭へ突落としておいて、左内は足早に居間の方へ立去った。――小庭の方から顫《ふる》えながら見ていた小房、父の姿が見えなくなると転げるように走り寄って、 「市之丞さま――」  と叫びながら、倒れている市之丞の体を抱起こした。 「おお小房どの」 「市之丞さま、お赦し下さいませ、どうぞ……」  と泣きながら縋《すが》りつくのを、静かに押しやった市之丞、手早く立上がって衣服の塵《ちり》をはたくと、なおも小房が狂おしく、 「我慢のならないところでしょうけれど、小房を可哀相と思《おぼ》し召して、どうぞ、どうぞお赦し遊ばして――」  と寄り縋るのを、外向《そむ》いたまま、 「あなたにはお気の毒ながら、何もかもこれまでの事でござる。さらば」 「いいえ、いいえ、小房は厭です。世間から嘲《あざけ》り罵《ののし》られても、市さま御兄妹があればこそ耐忍んで来た小房、今もしお二人に見放されましたら、小房は生きていられませぬ」 「小房どの!」  市之丞は振返って、思わずぐっと小房の手を握ったが、すぐに身を離して、 「いや! 今は何も申すまい、口で申せば愚痴になる、――小房どの、どうかお体を堅固に、くれぐれも逸《はや》まった事をなさらぬよう、さらば」 「待って、待って、市さま」  追い縋る小房の手を、振切るようにして市之丞は立去った。  庭の秋草の上に、泣伏していた小房は、やがて乳母に援《たす》けられて居間へ戻ったが、傷つきやすい乙女心の、今はもう世に縋る者もないと思う悲しさに、それからはただ明け暮れ泣いて送るばかりだった。  土岐六郎右衛門との不和が伝わると、世の悪評はますますつのって、岡野家の者といえば下僕や婢女《はしため》に至るまで、人々の嘲笑《ちょうしょう》と悪罵《あくば》を浴びる有様であった。それにもかかわらず、当の左内は蛙の顔へ水の譬《たとえ》で、そんな不評判は耳にも入らぬという様子、近ごろでは家来たちを八方へ遣《や》って、槍《やり》、鉄砲、甲冑《かっちゅう》、刀など、多くの武具をどうするかと思われるほど買込むことに専念していた。  岡野左内は果して「稗野吝内《ひえのりんない》」であったろうか、果して人々の言う通り「金貸商人のような男」であったろうか?――その謎の解かれる日はついに来た。時はこれ慶長五年九月、治部少輔《じぶしょうう》石田三成は、豊家《ほうけ》恩顧の諸勇を擁して起《た》ち、徳川家康また幕下の全勢力を集めて、互いに天下の権を争奪すべく、両軍はまさに関ヶ原へと出陣することになった。 [#7字下げ]五[#「五」は中見出し]  会津若松城の大書院には、城主上杉|景勝《かげかつ》を前に、直江山城守《なおえやましろのかみ》、藤田|信吉《のぶよし》、安田|壱岐《いき》はじめ老職十三人が額を集めて会議中だった。  石田三成はかねて使者を景勝に送り、徳川家康が故|太閤《たいこう》の盟約に背く罪十箇条を陳《の》べ、一朝事ある時には豊家のため援助を乞《こ》う――と言いよこしてあった。そこでこの度、家康と三成とがいよいよ手切れになり、戦端が開かれるという通知を得たので、景勝は徳川軍の背後を潰滅《かいめつ》させるため、急遽《きゅうきょ》会津に兵を挙げることになったのである。なにしろ四隣に強敵を控えての挙兵だから、それには武器、弾薬、軍用の金が莫大《ばくだい》に必要である。ところが当時会津藩の財政はかなり窮乏していて、急の挙兵に十分の手当てをする事がむずかしかった。 「これではとても一時に大軍を動かす事は出来まい」 「なにしろ家中の武士で、甲冑にも不足している者が沢山ある」 「藩としても武具は足りない状態だ」 「しかし、ここで挙兵が遅れたら、かえって徳川軍のために先手を打たれて、会津は逆に滅亡せねばならぬぞ」  と老臣たちは苦策を練りつつ、凝議《ぎょうぎ》に夜を明かしたのである。 「岡野はまだ出ないのか」  景勝はいらいらと叫んだ。 「左内はどうした、使いは帰らぬのか」  この急の場合に、どうした事か猪苗代城の岡野左内だけは、再三使いをやったのにかかわらずいまだに登城しないのである。 「稗野殿は戦争どころではあるまい」 「吝内のことだから、今ごろは他領へ逃げ支度でもしているだろう」  ひそひそ悪口を言う者さえあった。 「誰かもう一度迎えにやれ」  堪《たま》りかねて景勝が喚《わめ》いた時、――若侍が辷《すべ》るように入って来て、 「猪苗代殿、御登城にござります」  と伝えた。癇癖《かんぺき》の強い景勝は、額へ青筋を立てていたが、入って来る左内を見ると坐《すわ》るのも待たずに、 「遅いぞ左内、急を要する総登城と申してやったに、重役の身を以《も》って何故の遅参だ。仔細《しさい》によっては赦し難いぞ」 「お怒りまことに恐れ入り奉る」左内は平伏して、 「実は急を要することゆえ、いささか支度に手間取ってござります」 「まだ評議も決せぬに何の支度だ。このたびの挙兵は、上杉家にとって故太閤殿下に御報恩申すべき大事の場合、家中政治向き不如意の折から、どうすれば大軍を起こすことが出来るか、重役共も余も寝ずに評議を続けているのだぞ」 「お言葉のほど重々恐れ入り奉る。しかし、それゆえにこそ、支度に暇取《ひまど》りました次第にて」 「ええ、支度支度とどれほどの事をした」 「老耄《おいぼれ》岡野左内、戦場においてはもはや昔ほどの、働きは及びませぬ。これを最後の御奉公と存じていささかばかりの支度、御覧下さるよう」そう言って左内が座を辷り、間《あい》の襖《ふすま》を押開くと、――控えの広間に積上げた箱の山。 「なんだそれは」 「このたびの軍用として永楽《えいらく》銭一万貫、黄金十五万両、――確かに御返上申し上げまする」  景勝はじめ並居る重役、近習《きんじゅ》の侍たちまで、この黄金の山を見て思わずあっ[#「あっ」に傍点]と驚歎《きょうたん》の叫びをあげた。 「永楽銭一万貫、黄金十五万両」  景勝は舌を巻いて、「この、――この莫大な金子を、……そちひとりでか?」 「恐れながら、年来|頂戴《ちょうだい》致しました一万石は、老骨左内に過ぎました大|禄《ろく》、食うと着るとに費やしましたほかは、皆これ我が君よりのお預かりと存じ、いささかも分散せぬよう苦心のうえ持|貯《た》めた次第でござります。なにとぞお心おきなくお納め下さりまするよう」  旱天《ひでり》に慈《めぐ》みの雨だった、救いの舟だった、地獄へ現れた仏であった。――人々は今こそ知った、稗を食い楢《なら》の実を食べ、乙女盛りの一人娘に正月の晴着も与えず、木綿|布子《ぬのこ》を着せて済ましたのも吝嗇《りんしょく》ではなく、一朝事ある時の用意に、営々として軍用の資《もと》を貯えるためだったのだ、――貸した金を外聞も構わず取立てたのは、主君から預かった大事な軍用金を、いたずらに分散させたくなかったからである。 「――左内、そちゃ……うい奴じゃの」  そう言う景勝の眼から、はらはらと熱い涙が滾《こぼ》れた。 「稗食い虫という噂も聞いた。金貸商人という評判も聞いた。心の修業の足らぬ景勝は、それを聞いて実は不快に思っていたのだ。――左内、そちは自分の悪評で、天晴《あっぱ》れ上杉家の面目を保ってくれたぞ」 「恐れ……恐れ入り奉る――」  景勝は両手で眼を押さえた、左内も泣いた。そして列座の人々も、みんな面をあげ得ず、しばらくのあいだあたりは、ひそかな嗚咽《おえつ》の音に満たされていた。 [#7字下げ]六[#「六」は中見出し]  やがて景勝は涙を押|拭《ぬぐ》い、 「これまで大抵な事に負けなかった余も、今度ばかりはまさに冑《かぶと》を脱いだ、忝《かたじけ》ないぞ左内、――これだけあれば家中の困窮している者にも十分に分配が届くであろう」 「憚《はばか》りながらその御配慮には及びませぬ」 「そうでない、諸士の中には困って甲冑も手放した者が多いと言うぞ」 「それらへは左内から応分の手当てをそれぞれ送ってござります。また軍兵に用うる槍鉄砲、物の具の類《たぐい》も、心掛けて買集めましたれば、この方の御心配ももはや――」 「どうして、どうしてそこまで?」  驚く景勝を見上げて、左内は微笑しながら言った。 「太閤殿下御他界以来、この日のある事は必至と存じ、武器物の具の類だけは十分に買集めておきました」 「聞いたか皆の者」景勝は膝《ひざ》を打って言った。 「治《ち》にいて乱を案ずるは武人のたしなみ、左内こそ余が天下に誇る家臣だぞ、――見よ、日ごろ彼を『稗野吝内』と嘲っていた者たちは、武士|一期《いちご》の大事に臨んで、嘲り嗤《わら》った左内からかえって救いあげられたのだ。景勝ばかりではない、今度こそ会津家中の者は挙《こぞ》って、岡野左内に冑を脱がされたのう」  そう言って景勝、明るくはればれと微笑しながら立上がった。 「評議は終わった、出陣は三日後と触れよ。座を変えて祝宴としよう」 「それでは左内が猿楽を寄進仕ります」 「ほう、そんな支度があるか?」 「は、――」左内は苦笑して、 「すべて遊楽の類は、戦争が起こると雇人《やといこ》のなくなるもの、それゆえ常よりはずっと安く雇えまするから、これ幸いと集めましてござります」 「安く雇えるから猿楽を集めた?」  景勝はわっ[#「わっ」に傍点]と笑いだした。 「こいつ――左内、なるほどそちは、どこやら吝内の素質があるな。わははははは、猿楽を安く雇うなどとは、天下にそちが始めてであろう、わははははは」  左内も思わずふきだした。列座の人々も始めて、甦《よみが》えったように、体をゆすって、声高々と笑いどよめいた。  ちょうどそのころ――下僕《しもべ》に兜《かぶと》と鎧《よろい》の櫃《ひつ》を担がせて、乳母と共に小房が、土岐六郎右衛門家の玄関を訪れていた。  ――これを持って市之丞の許《もと》へ行け、そちは市之丞の妻だ、もし屋敷へ入れなかったらこれで自害せよ。  そう言って父から渡された差添|一口《ひとふり》。それに婿引出《むこひきで》としての甲冑一領、否応《いやおう》もなく急《せ》きたてられて家を出たが、  ――あんなに怒っていらした市さまにどうして今更お眼にかかれよう。お眼にかかったところでお怒りの解けるはずはなし……いっそこのまま自害して。  と何度心に思い詰めたか知れなかった。しかし乳母がついてたってと促すので、進まぬ足を引摺《ひきず》るようにして来たのであった。――案内を乞《こ》うて待つ間がどんなに長かったろう。  ――今にも会わぬと言われようか。  と血も冷える思いで待っていた。  その時であった、表の方に戛々《かつかつ》と馬蹄《ばてい》の音がしたと思う間に、屋敷の門へ馬を乗入れて来た土岐市之丞、――早くも小房の姿を認めるや馬から跳び下りて、 「小房どの、来て下すったか」  と叫びながら走り寄った、――家にいるとばかり思った人が不意に表から現れたので、小房は狼狽《ろうばい》しながらも、しかし相手の顔色のいきいきと晴れているのを見て、生返ったように、 「市之丞さま」と呼び返しながらすり寄った。 「お父上のお申し附けで来たのですね。この鎧櫃は私への贈物ではありませんか?」 「まあ、御存じですの?」 「分かったのです」市之丞は湧上がる歓喜を抑えきれぬように拳《こぶし》を高く挙げながら叫んだ。 「何もかも分かったのです。私はいま城中ですっかり聞きました。あなたのお父上は、市之丞が信じた通り天下無双の勇士でした。たとえ一時にもせよ、それを疑った私は馬鹿者です。馬鹿者の骨頂です、――しかし私はいま、自分が馬鹿者だった事を悦《よろこ》びます。岡野左内は二人とない武人の亀鑑《きかん》だ。そしてその人はやがて私の義父《ちち》になる……」  と言いかけてから慌てて、 「小房どの、お父上は市之丞を許して下すったでしょうか。いつかお預けを食った差添は戻して下さいましたか」 「――はい、これでございましょう?」  小房の差出す一口《ひとふり》を、奪い取るようにした市之丞は、 「しめた、これを返して下さる以上、市之丞は赦されたに相違ない、――そうするとあなたがいらしったのは、甲冑一領を婿引出に、再び岡野家へ戻るなという仰せでは」 「まあ厭《いや》、厭、市さま」  小房はあどけなく耳まで染めながら、乳母の支える胸へ面を伏せてしまった。――少しまえから玄関へ出ていた市之丞の妹菊枝が、このとき静かに笑みを含みながら声をかけた。 「お待ち申しておりました小房さま、いえ、美しい蕾《つぼみ》の花嫁さま、どうぞお上がり遊ばしませ、ここがあなたのお家でございます」 「まあ、菊枝さま」  小房は驚いて、けれど胸におどる歓《よろこ》びを隠しきれずに、菊枝を睨《にら》み、そして市之丞の方へと振返った。――市之丞は差添を抜いて、高く空へと挙げていた、まるで今度の一戦にはこうして兜首を挙げるのだというように……。 底本:「美少女一番乗り」角川文庫、角川書店    2009(平成21)年3月25日初版発行 初出:「少女倶楽部」    1937(昭和12)年9月号 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:noriko saito 2026年6月8日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。