畸形の天女 江戸川乱歩 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)鬘下地《かつらしたじ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#5字下げ] ------------------------------------------------------- [#5字下げ]1[#「1」は中見出し]  宮城貿易商社々長、宮城圭助は、客の商談を熱心に聴いている顔をしながら、映画の二重写しのような感じで、まったく別のことを考えていた。  何ヵ月もつづいて同じ場所を夢見ることがある。きょうもまた、あすこへ行くんだなと思うと、きっと、その同じ陰欝な、しかしふしぎな魅力のある場所へ来ている。何か怖いものが待ちかまえているような気がするけれども、それが出てくるわけではない。そして、どんな現実の場所よりも懐かしい。まるで母の胎内のように懐かしい。  宮城圭助は、そういう懐かしい夢と同じものを人為的に作っていた。きょうはその夢の国に遊ぶ日であった。夢の国には「畸形の天女」がいる。彼女との逢う瀬を思うと、矢も盾もたまらない。四十五歳の商社々長の彼が、青年のように、矢も盾もたまらなかった。  歯の質が弱いということは、その人間の犯罪的性格と何か因果関係があるのだろうか。宮城圭助は、いつもそれを考えた。彼が自由気儘な夢の世界を作り出すことができるのは、彼の歯が、手におえない虫歯だったからだ。そして、数年前から、総入れ歯になっていたからだ。  客は、額に青筋を立てて、弁じつづけていたが、やっと話しおわると、 「そういうわけです。一つ好意あるご考慮を願いたい。僕の方では、社の浮沈に関する問題ですからね」  と、宮城社長に哀願の眼を向けた。 「わかりました。できるだけ、ご希望に添うように考えてみます。よく相談して、二、三日うちに、こちらから、お電話しますから」  立ちあがって、客を見送る用意をした。客はちょっと失望の色を見せたが、丁寧に挨拶して、もう一度哀願の目遣いをして、社長室を出て行った。  宮城圭助は、それを見送ると、今の商談をまったく忘れ去ることにきめた。すべてを記憶していたのでは仕事ができない。覚えておくことと、忘れてしまうことを機敏に判断して区別けするのが、彼の商売上の習慣であった。  それから、隅の席にいるタイピストに、簡単な手紙を三通ほど口述して、帽子掛けの前に行った。そこの鏡で、赤い糸のまじった派手なネクタイを、ちょっといじくり、目がねをかけなおしてから、合オーバーに手を通し、ソフトの前とうしろを両手で持って、丁寧にかむった。それから、デスクにもどって、一ばん下の大引出しから、ひどく大きな書類鞄を取り出して、大事そうに小脇にかかえた。宮城社長の大鞄は有名だった。彼の唯一の道楽は古本蒐集で、ひまさえあれば古本屋あさりをやった。そのとき次々と買い求めた古本を入れるための大鞄なのだ。社員や彼の友人は、その鞄の中にぎっしりつまった、珍らしい和本などを、自慢らしく見せつけられることが、よくあった。  彼は、おじぎしているタイピストに、右手をあげて挨拶して、社長室のドアをひらいた。社員たちは、まだ仕事をしていた。机にかじりついているもの、電話で話しているもの、今そとから帰って鞄の中の書類を取り出しているもの、タバコのけむりをもうもうと漂わせながら立ち話ししているもの、全体に活気にみちていた。宮城社長は、そのあいだを、ニコニコして、おじぎをする社員に右手で挨拶を返しながら、出口の方へ歩いて行った。ボーイのひとりが駈け出してきて、ドアをひらいた。べつに社員たちに言いのこすこともなかった。宮城貿易商社はアメリカのスコット商会とうまくやっているので、この不況時代にも、社運は上昇線をたどっていた。  ビルの石段をおりると、運転手がキャディラックのドアをひらいて待っていた。 「東京会館」  ここで中学の同窓が五、六人集まるということにしてあった。どうせ二次会になるから、おそくなるかもしれないと、家には言いおいてある。夜の一時頃までに帰宅すれば、別状はないはずだ。  呉服橋の社からは、五分もかからなかった。 「今夜はおそくなるかもしれないと、奥さんに言っておいてくれたまえ。じゃあ、これで、君は帰ってもいい」  圭助は車をおりて、東京会館のグリルで簡単な食事をとった。そして、そこを出ると、通りかかった中型タクシーを呼びとめて乗りこんだ。 「上野駅」  ボロタクシーは、ひどく振動したが、これからの楽しみを思えば、少しぐらいの不愉快は問題でなかった。車が走っているうちに、彼はソフトをぬいで、ほそく折りたたみ、鞄に入れた。そして、鞄の中からハンチングを取り出して冠った。車の中では、それ以上のことはしなかった。  車をおりると、上野駅にはいって行った。彼は複雑な迷路のような上野駅の、こみ合っている群集の中を、わざと選んだ。迷路をグルグル廻ってから、人の少ない手洗所にはいった。そして、十分ほどして、出てきたときには、彼はまったくの別人になっていた。松永昌吉というのが、これからの彼の名前であった。  変装の種は、古本蒐集用の鞄の中に、そろっていた。今まで着ていたオーバーや、背広や、ワイシャツ、ネクタイ、靴下、靴にいたるまで、鞄の中におしこみ、あらかじめそこに入れてあった別の服装と着更えたのだ。  襟のあぶらじんだ、肘のすれて光った紺サージの背広、ワイシャツはなくて、赤茶色の太い横縞のセーター、折り目のない薄よごれた綿ギャバジンのズボン、赤黒いドタ靴、頭には、さっきのハンチング。そのハンチングの下から、なんだか黒い鉢巻のようなものが見えていた。  夢の国にはいるのには、それだけでは足りなかった。彼は顔を変えなければならなかった。一と組の義歯。すべてがここから出発していた。彼は一年ほど前、総入れ歯がいたんだので、別の歯科医に新らしいのを作らせた。それを入れて鏡を見ると、自分の相好が変わっているのに気づいた。家内のものもそのように言った。前の入れ歯に比べて、歯の植え方が少しちがっていて、いくらか出っ歯になっていたからだ。その鏡の顔をつくづくながめているうちに、彼は大発見をしたような気持になった。歯の植え方をずっとちがえて、いろいろ工夫をこらせば、別人になれるかもしれない。すると、誰かに聞いた上山草人のことが思い出された。草人も総入れ歯だった。彼がその昔、ハリウッドで、怪奇な役々を演じた時には、役ごとに、別の入れ歯をはめて効果を出した。草人がアメリカで、あれほど有名になったのは、総入れ歯のお蔭だという説であった。圭助も子供の頃、草人の出るアメリカ映画を幾つか見た。そして、役ごとに、彼の容貌が一変するのに驚いた記憶がある。  その時圭助は、夢の国を作り出す下心を、すでに持っていた。彼が謹直居士で通っていたのは、生来、気が弱くて、恥かしがりやだったからだ。彼のおしゃれも、実はここに由来していた。家族や世間への気兼ねからくる抑制が、絶えず彼をしめつけていた。破りたくても、彼の性格では破ることができなかった。もし世間にまったく知られないで、これを破るすべがあったら! 抑圧が強いだけに、その願望も烈しかった。ジーキル博士が、心の底でハイドの生活にあこがれるように、それをあこがれていた。入れ歯による容貌の変化という大発見が、いま彼の心の中で、この多年のあこがれに結びついた。  それから間もなく、彼は遠方の歯科医に、変名で通よって、変装用義歯を作らせることに成功した。新劇の俳優と称し、舞台顔を変えるためだといつわった。そして、何度も作り直させ、やっと思う形のものが出来上がった。それは二度目の義歯よりも、ずっと出っ歯になっていた。歯の色も黄色くし、はぐきも黒ずんだ色に作らせ、その上、上下の義歯のふくらみによって、頬の形が変わるように工夫した。それをはめて鏡を見ると、顔の下半分が一変して見えた。その上、眉と眼になんとか工夫すれば、宮城圭助はまったく消えうせてしまうにちがいないと思った。  彼は江戸川乱歩の随筆で、アメリカの「大統領探偵小説」の筋を読んだことがある。それは整形外科手術によって、容貌を一変させて生れ変わる話であった。乱歩は、この生れ変わりたい心理は万人通有のもので、「隠れ蓑願望」と呼ぶべきだと書いていた。圭助は異常の興味をもって繰り返し読んだ。だが、圭助の場合は、宮城商社の社長をやめたいのではない。また妻子と離れたいのでもない。ある一定の時間、まったく抑制から解放されて、ハイドになり、それが絶対に世間に知られなければよいのであった。夢を見ればよいのであった。そういう彼の立場から、「大統領探偵小説」の中で参考になるのは、瞼の中へ入れてしまう合成樹脂の目がねであった。あれを使えば、虹彩《こうさい》の大きさと色を自由に変えることができる。知り合いの眼科医に尋ねてみると、それはアメリカでは実用化されているらしいが、日本にはまだないということであった。アメリカに註文するにしても眼球の彎曲度を計らなければならないので、事面倒であった。圭助は、そんな小細工はしない方がいい、もっと簡単なことがあると考えた。  彼は近眼鏡をかけていた。それも縁の太い特徴のある目がねであった。これを取り去って鏡を見ると、なんだかショボショボした別人の眼のように見えた。それだけでもいくらか相好が変わるのだが、彼はその上に、煤煙で瞼や目尻に目立たない隈をつけた。そのほか昼間近くで見られても、化粧とわからないような化粧を、顔の各所にほどこした。更らに、仕上げとして、彼は目尻を少しつり上げる工夫を加わえた。役者の鬘下地《かつらしたじ》の応用だ。黒い絹でナイト・キャップを作り、その内がわへ、帽子の鬢皮のように、薄い銅の帯を入れ、両方のコメカミを圧えつけるようにした。それで眉と目尻を、つりあげておくことができた。彼は眉も目尻もいくらか下がり気味だったので、つり上げると大体一直線になり、相好が変わった。ナイト・キャップなれば、どんな場合にもぬがなくてすむ。質問されたら、頭に醜い傷があるからだと答えておけばよい。そして、その上から、古ぼけたハンチングをかぶることにした。  これだけの変装を十分間ですませるのには、相当の練習を要したが、今ではもう慣れっこになっていた。それを汚ならしい駅の手洗所などでやるというのは、日頃の贅沢でおしゃれな彼の趣味からは想像もできないことだったが、人間が入れ替わるのだから、宮城の趣味とはまったく逆の手段をとることが、かえってふさわしかった。彼は夢の国にはいるためなら、どんなことでもやる気だった。ひそかにアパートを借りておいて、そこで変装するなんて、ちょろっこい考えでは、ほんとうの人間入れ替わりなど、できるものではなかった。  宮城圭助を抹殺し、生れ替わった松永昌吉となって手洗所を出た彼は、駅の荷物預り所に行って、大鞄に鍵をかけて預けてから、今度は小型タクシーを探して乗りこんだ。それが彼の服装にふさわしかったからだ。 「南千住の駅の近く」  車の振動は一そうはげしかった。しかし、夢の国の入口に近づいているのだと思えば、なんでもなかった。ジーキル博士はハイド氏に一変したのだ。もうお上品な趣味とは縁を切ったのだ。どんな乱暴にも耐えられるし、どんな恥さらしだって平気でやれるのだ。 [#5字下げ]2[#「2」は中見出し]  宮城圭助は、ガタガタゆれる小型タクシーの中で、彼が「畸形の天女」と呼んでいる少女との、最初の出あいを思い出していた。  彼がこのふしぎな人間入れ替わりを実行しはじめてから、もう八ヵ月ほどになるが、少女と出会ったのは、つい一と月ほど前であった。  少女に逢う前には、浅草や、尾久や、池袋や、千住や、そのほか場末のゴミゴミした町を選んで歩きまわり、思う存分のヨタモン生活をした。彼は宮城社長としてはストリップ劇場にさえ、はいり得ないような性格だったので、まず手はじめに、浅草の最も下品なストリップ小屋に入りびたり、最前列に腰かけて、ストリッパーの裸体に触れることを楽しんだ。架空の人間である松永昌吉は、阿呆な顔でストリップに見とれているところを、写真にとられ、新聞や雑誌にのせられても、少しもさしつかえなかった。  それから、彼はだんだん、ストリップ以上の世界にはいって行った。あらゆる猥褻なるもの、醜悪なものに親しんで行った。松永は一文なしの無籍者だけれど、宮城がいくらでも資金を提供したので、費用には事欠かなかった。  彼は、できるだけ汚ならしい酒場を選んで、慣れぬ焼酎を飲み、ニコヨンの爺さんや、あんちゃんと仲よしになった。そのうちに、バクチ場のありかを知って、出入りするようになり、はじめはカモ扱いをされたが、風体に似合わぬ大胆な張り方をするので、だんだん半玄人の扱いを受けるようになった。飲み友だちもできた。羽振りのいい親分が盃をやろうとさえ言った。  しかし、喧嘩と盗みだけはしなかった。警察に引っぱられることを恐れたからだ。警察で根掘り葉掘り尋問されたら、正体がばれるにきまっている。ほんとうは、ハイド氏になりきるためには、喧嘩も、泥棒も、殺人さえも平気でなければならないのだが、そこまでは徹底できなかった。宮城圭助を捨て去ることはできなかった。いくら夢の国を楽しんでも、やはり昼間の世界がなくてはいけない。その二つの別世界の両棲動物であるところにこそ、この上もない魅力があるのだった。しかし、いくら用心深くしても、どんな巻きぞえで、警察に引っぱられるようなことが、起こるまいものでもない。そういう場合には、彼は機敏に逃げ出すつもりだった。そして、松永昌吉というものを抹殺してしまえばよい。二度と変装をしなければよい。そうすれば、警察がいくら探しても、彼の所在はわからないからだ。だが、それでは、折角の二重生活の楽しみが打ち切られてしまう。やっぱり、この異常な魅力を持つ別世界の生活は、いつまでもつづけたかった。  それをつづけるために、彼はあらゆる用心をしていた。たとえば、松永昌吉になるのは、一と月に三度、多くて一週間に一度ぐらいにとどめ、それ以上頻繁になることを避けていた。その都度、家庭にも会社にも疑われない口実を設けた。彼は商売上、毎晩のように宴会で帰宅がおそくなる生活だったから、月に三度ぐらいのごまかしをするのは、わけのないことだった。やろうと思えばもっとできたかもしれないが、それ以上の冒険はしなかった。  今から一と月あまり前の夕方、彼は松永昌吉になって、千住のゴミゴミした裏町を、ほっつき歩いていた。そしていつの間にか、小さい工場の黒いトタン塀の前の、妙にガランとした場所に出た。トタン塀の反対がわには、手入れの届かない生垣がつづき、黒ずんだ平家がポツンポツンと建っていた。人通りはごくたまにしかなかった。工場のトタン塀に沿って古い電柱が二、三本、ほうり出してあった。松永はそれに腰かけて、一と休みしていた。  きょうは少し早く出すぎたようだ。うちに帰るまでに、まだ五、六時間ある。何かすばらしいことはないかな。あたりは妙に白っぽく見えた。秋の夕方には、よくこういう白さに出会う。すがすがしいが、物淋しい白さだ。少年時代を思い出させる郷愁の白さだ。 「おじさんは、このへんの人じゃないわね」  びっくりして、ふりむくと、同じ電柱の彼から一間ほどはなれた所に、女学生服を着た少女が腰かけていた。いつのまに来たのか、少しも気づかなかった。なんだか魔性のものでも現われたような感じだった。十五、六かな。まだ中学生だろうと思った。 「ウン、この辺のものじゃないよ。君は近くかい」 「ええ、じきそこに高等学校があるの」 「何年だい」 「二年生」  それにしては子供子供していた。 「おじさんは、遠くの人でしょう。ずっとずっと遠くの人でしょう。あたしたちと、ちがう世界の人でしょう」  松永は、なにかギョッとして少女の顔を眺めた。子供がふしぎな直感力を持つことを知っていたからだ。少女は栄養不良のような青い顔をしていた。セーラー服もよごれてみすぼらしかった。そして、からだ全体に、なにかしら畸形な感じがあった。殊に顔がそうだった。べつに片輪なところはなかったし、顔も不愉快な顔ではなかった。可愛らしくさえあった。それでいて、どこか畸形なものがあった。ひょっとしたら、彼女の心の畸形が、なんとなく外面に漂っていたのかもしれない。眼が大きくて、ちょっとおでこだった。鼻は低く、口が大きかった。頬から頸にかけては、ほっそりしたいい線を持っていた。 「おじさんはほんとうを言うでしょう。ウソを言わないでしょう。あたし、そう思うわ」 「なぜだい」 「顔でわかるの。あたしの知ってる男の人たちと、ちがうんだもの。ちがう世界の、ほんとうの人だもの」 「じゃあ、君の知っている男の人たちは、ウソの人なの?」 「ウン、そうよ。ウソの人よ。だから、ほんとうのことが言えないの。学校の先生が、一等そうよ」  松永はこの少女に興味を感じ出した。言葉づかいは幼いが、なにか畸形的に早熟な心を持っているような気がした。 「恋愛ってへんなものね」  少女はポツンと言った。松永は又もギョッとさせられたが、だまっていると、 「結婚しなければ、どうして恋愛しちゃ、いけないの? 結婚すれば、もう一生、ほかの人と恋愛できないじゃありませんか。どうしてなの」  小首をかしげているのが可憐に見えた。 「そういう世間の約束だからさ。人間は一生に一度だけ恋愛して、結婚して、それでおしまいという言い伝えだからさ」 「言い伝えなんか信用しない。おじさんはどうおもうの?それでいいとおもっているの?」 「仕方がないんだよ」 「あら、おじさんは、やっぱりウソをつかないわね。あたいおじさん好きになっちゃった」  松永の心を、お半長右衛門という古めかしい連想が、チラとかすめた。 「あたい、学校で鶏を飼っているのよ。鶏はどの鶏とだってつがうわ。鶏は恋愛しないのでしょうか。人間は恋愛するから、ひとりだけとしか結婚できないのでしょうか。恋愛てなんなの? ひとりだけとするものなの? どうして?」  松永はハイド氏の心で、この少女がすっかり気に入ってしまった。 「きみ、なんて名?」 「北野ふみ子。おじさんは?」 「松永昌吉」 「仕事なんなの?」 「仕事はないよ」 「失業してるの?」 「ウン、まあ、そうだね」 「泥棒しないの?」 「しないよ。してはいけないことになっているからね」 「どうしてなの? したいでしょう」 「したくもないね」 「つかまるとこわいからなの? そんなの、卑怯だわ。したいけれども怖いから、みんな我慢してるのね。あたいだって、ショーウィンドーにあるいろんなものが、盗みたいわ。でも、やっぱり怖いのよ。あたいも卑怯ものだわ。人間って、みんな卑怯ものだわ」 「君は面白いことをいうね。おとうさんは?」 「おとうさんがどうなの?」 「なんの商売だい?」 「靴屋」 「おかあさんもいるの? 兄弟は?」 「おかあさんも兄弟もいるわ。弟がふたりよ」 「きみ、楽しいかい、楽しく暮らしてるかい?」 「楽しいって、どういうこと? したいことを、みんな我慢しているのを、忘れること? そういう時もあるわ」 「きみ、おじさんが好きかい?」 「ちゃあんと知ってるくせに。すきよ」  ふたりはじっと眼を見合わせた。少女は恥じらっていなかったが、松永は妙に恥かしくなってきた。宮城社長がチラと心の隅に顔を出した。  しばらくだまっていてから、少女は突然立ちあがって、 「あたし、おどり好きよ。見せたげましょうか」  と言ったかと思うと、非常に可愛い顔になって、両手を腰にあて、尻をクネクネゆすりながら、見たこともない異様な踊りを踊った。一分もつづかなかった。そして、ニヤッと顔一ぱいに笑うと、大いそぎで、松永にピッタリからだをくっつけて、電柱に腰かけた。松永のからだに、柔かい圧力と温かみが伝わってきた。少女は乾草の匂いがした。  少女の踊りは、アッというまの一と踊りだったが、そこには一生忘れられないようなものがあった。日はもうほとんど暮れきっていた。夕焼けもうすれて、人顔もさだかに見分けられぬ時刻だった。その夕もやの中で、少女はまるで、よごれた天女のように、微妙に猥褻に踊った。そのあるポーズが、松永の眼底に焼きついて離れなかった。むろん作法にかなわぬ自己流の踊りだったが、そこにも畸形なものが、つきまとっていた。畸形ゆえの言いがたき美があった。彼はこんな異様な美しさを、生れてはじめて経験した。恍惚となって、からだじゅうがしびれるような気がした。  彼はしばらくのあいだ、じっと少女のからだの感触を味わっていたが、ふとわれに返ってつぶやいた。 「すっかり暗くなったね」 「ウン……おじさん、あたいの秘密のうちを、見せたげようか」 「ひみつのうちだって?」 「ウン、あたいだけの、ひみつのかくれ場所よ。見たくない?」 「見たいね」 「じゃあ、行きましょう。近いのよ」  ふたりは手を引き合って、もうまっ暗になった街を歩いて行った。逢う魔がどきの、夢の国の旅であった。こんどはあの角をまがるな。そうすると、天理教会の提灯が見えるぞ、と思うと、その通りにそれがあった。今とまったく同じことを遠い昔に経験したと感じるあの錯覚だった。きっと空き家だ、古い一軒建ちの空き家だと考えていると、やっぱりその通りであった。廃墟のような空地に、塀も何もない一軒の空き家が、ポツンと建っていた。軒が傾いて、今にもくずれそうな古家だった。 「化け物屋敷みたいだね」 「そうよ。お化けが出るといって、誰も借りる人がないの。でも、あたい、お化けなんか怖くない。おじさんは?」 「おれも怖くないよ」  半びらきの板戸のすきまから、少女に導かれながら、手さぐりで、そこへはいって行った。ひどくカビ臭かった。クモの巣が顔にまといついた。上にあがると、じめじめした古い畳が敷いたままになっていることがわかった。 「電灯がないけど、いいでしょう、暗くても」  少女がかすれた情慾のこもった声でささやいた。  その闇の空き家の中で、松永昌吉は、いまだ嘗つて経験したこともない、甘美な悪夢に酔いしれた。十六歳の少女が、どうしてあのような妖婦になり得たか、常識ではまったく判断もつかなかった。それは神秘で、神々しくさえあった。夜ふけて、少女に別かれるのが、そして、宮城圭助に戻るのが、彼には、甘美な夢からさめるときのようにつらく、もの憂かった。 [#5字下げ]3[#「3」は中見出し]  宮城圭助は、夢の国の畸形の天女を恋することが烈しかったけれども、決して、一週間に一度という掟《おきて》を破らなかった。彼の別世界を永続させるためには、この自制が必要欠くべからざる条件だった。  きょうは天女との四度目の逢う瀬であった。一週間前の晩には、ちょっと気になる出来事があった。十時頃、少女と別かれて、千住の裏町を歩いていると、うしろから呼びかけるものがあった。 「おじさん、今晩は。おじさんは、ふみ子を可愛がってくれてるんだってね。ありがとうよ。おれからもお礼をいうぜ」  そして、前に廻って、立ちはだかった。  二十五、六歳のヨタモン風の青年だ。ギャバジンのズボンに、茶色のジャンパーを着ている。雑貨屋の店の電灯が、青年の顔を照らした。狭い額に傷痕のあるいやな顔だった。テカテカ光らせた髪、眼が細くて、顎が張っていた。物を言うたびに、唇のはじを、いやな恰好にまげるくせがあった。青年は相当酔っているようだった。 「きみは、ふみ子のなんだね?」 「なんでもない。まあ、兄弟みてえなもんだね。おじさん、ふみ子に逢うのを、止してくんないか」 「ふみ子には兄はなかったはずだ。なぜふみ子に逢っちゃいけないんだね」 「ちょっと、おじさんにはわからないわけがあるんだ。たのむから、あの子に手を出さないでくれ。よ、たのむからよう」  最初はつつもたせかと、ギクッとしたが、ふみ子は娼婦ではないのだし、つつもたせなんかするはずはない。このヨタモンは、ふみ子に惚れているのだ。ひょっとしたら、関係ができているのかもしれない。 「ウン、よし、よし、なるべく逢わないようにするよ。だがきみは、ふみ子の色なのかい。それで、こんなことを、おれにたのむのかい」 「そんな関係じゃねえ。だが、よしてもらいてえんだ。たのんだぜ。くれぐれもたのんだぜ」 「ウン、わかったよ」  青年は、松永をほそい眼でジロリと、気味わるく睨みつけておいて、どこかへ立ち去って行った。  この出来事が、一週間、心のひっかかりになっていた。あいつは、どうもふみ子と関係があるらしい。むろん現在ではない。その点は彼に自信があった。ふみ子はふたりの男を同時にあやつれるような性格ではない。しかし、以前のことはわからない。今夜は一つ尋ねてみよう。 「お客さん、南千住ですよ。これから、どっちへやるんです」  運転手が彼の方を振り向いて、怒ったような顔をしていた。松永は回想からさめて、小型タクシーの窓から、あたりを見まわした。向こうに南千住駅の灯火が見えている。すっかり夜になっていた。 「よし、ここで降りる」  天女と出会いの場所までは、五、六丁もあるが、わざとそこで降りて、大いそぎで歩いた。彼女はあのまっ暗な空き家の古畳の上に寝そべって、待ちくたびれているにちがいない。  電灯の光もうす暗い裏町を幾まがり、彼は夢の細道を、憑かれたように歩いていた。 「おじさん、今晩は」  聞きおぼえのある声がして、このあいだの額に傷痕のある青年が、目の前に立っていた。やっぱり酔っているらしかった。暗い横町なので、この前のように、顔がはっきりは見えなかった。松永は、なんだか無気味なものを感じて、立ち止まった。 「このあいだの約束、守ってくれるだろうね。ふみ子に手を出さないでもらいてえんだ。え、おじさん、だいじょうぶだろうね」  だまっていると、 「きょうは、まさか、あの子に逢うんじゃないだろうね。おじさん、たのむから、おれのじゃましないでくれ」  脅迫ではない。やっぱり頼んでいるのだ。まったく自信のない口ぶりだ。これなら、こっちで嫉妬することはない。 「きみは、よっぽど、あの子に惚れているね」  青年はだまって、松永の顔を見ていたが、ニヤリと笑ったように思われた。 「惚れていちゃ悪いかい。あいつはおれのもんだ。だれにも手出しはさせねえ。おじさん、おれは命がけなんだぜ。あんな子は、この世にふたりといねえや。な、そうだろう。おじさん、たのむ、遊び半分に、あの子をおもちゃになんかしないでくれ。おれにとっちゃ宝もんだ。おれ、ほんとうに、あの子のためなら……」  声の調子が妙にかわって、とぎれたかと思うと、キクッ、キクッという変な音がした。なんだかギョッとするような音だった。しばらくして、やっと青年が泣いていることがわかった。  松永は気味のわるい夢を見ているような気がした。彼のいわゆる「夢の世界」と、ほんものの夢とが、ごっちゃになっているような気がした。  ふたりは、長いあいだ、暗闇の中で、向かい合ったまま、立ちつくしていた。「おれは、こいつに殺されるんじゃないかな」松永はふとそんなことを考えていた。 「おじさん。わかったね、おれのきもち。たのんだよ。ほんとにたのんだよ」  青年は、ねばっこい言いかたで、そういうと、プイと、うしろ向きになって、そのまま立ち去って行った。  青年の少し猫背になった黒い影が、町角をまがると、松永は急ぎ足にそこまで行って、物影からのぞいて見た。青年はふりむきもせず、スタスタと歩いて行く。そして、間もなく、また向こうの角をまがってしまった。  いやあな後味が残った。今夜はふみ子に逢うのをやめて、このまま帰ってしまおうかとさえ考えた。しかし、ふみ子が、空き家の中で待ちこがれていることを思うと、帰る決心はつかなかった。おれだって、さめざめと泣きたいほど好きなんだ。あんなヨタモンにまけて、スゴスゴ帰ることがあるもんかと思った。  空き家の前までくると、青年がつけてきたのではないかと、よくあたりを見廻したが、そのけはいもなかった。  半びらきの板戸のすきまから、手さぐりではいって行くと「松永さん?」と、少女とも思えない淫蕩な低い声が、奥の方からきこえてきた。  双方から手さぐりで近づき、しっかりと抱き合った。少女のきゃしゃなからだは、彼の両腕の中で消えてしまいそうだった。甘い乾草の匂いがした。「逢いたかったわ、逢いたかったわ」淫蕩な声がささやいて、彼の唇を求めた。彼女のは、母の乳首のように、なめらかで、弾力があって、甘い唇だった。彼の方で離そうとしても、少女の唇はいつまでもはなれなかった。 「きみ、額に傷痕のある青年を知っているだろう。あれ誰だい?」  やっと息をついて言った。腕の中の少女のからだが、少し固くなった。 「おじさん、会ったの?」 「ウン、このあいだの帰りと、今くる道と、二度会ったよ」  少女はだまっていた。 「きみに惚れているから、おれに手を引けっていうんだよ。涙を流してたのんでたよ」 「まあ、いやな泣き虫。あいつ、あたいにも泣くのよ。きっとおじさんに言ったのと同じだわ。あたいにも、そういってたのむのよ」 「あいつ、おれのこと、どうしてわかったのだろう。この空き家を知っているの?」 「知るはずないわ。きっと、おじさんと手を引いて歩いているの、見られたんだわ」 「どこのやつだい」 「もと自転車屋に勤めてたけど、今、失業してるの。自転車屋にいるころから、あたいを好きだ好きだってついてくるのよ」 「なんて名?」 「斎田五郎」 「で、きみ、あの青年と寝たことあるの?」 「ある。いちど。無理によ。八幡さまの森の中で、あたいを倒したの。それで、あいつ、あたいを恋人だと思っているのよ。あたいの方じゃ、あいつと寝たなんて考えてないわ。ひとりできめているのよ。あんなやつ、ちっとも好きじゃない。ゾッとするわ。松永さんが百倍も千倍も万倍も好きだわ」  そして、きゃしゃな手が、力いっぱい、彼を抱きしめるのだった。 [#5字下げ]4[#「4」は中見出し]  二時間ほどが、またたくうちにたってしまった。ふたりは古畳の上に寝ころがって、たわいもないことをささやき合っていた。その頃は、眼が暗闇になれて、お互の顔も、部屋の中も、はっきり見えた。雨戸はしまっていたけれど、方々破れているので、遠方の光が、うっすらと室内にさしこんでいた。  ふたりの足の方に、破れ障子が、ひらいたままになっていて、ふと気がつくと、その障子の向こうに、何か動いていた。松永は心臓の鼓動が烈しくなるのを意識した。やっぱりそうだった。あいつはここを知っていたのだ。いつのまにか、ここへ忍びこんで、さっきから、長いあいだ辛抱づよく、障子の蔭で、ふたりを見ていたのだ。 「誰だ」  意気地なく声がかすれた。 「きさま、よくも、きさま……」  我慢に我慢していたのが破裂したような、泣きわめきだった。そして、アッと思うまに、頑丈なからだが、松永にぶつかってきた。キラッと光ったものがある。ナイフを握っているのだ。  こちらは、とっさに起きなおって、相手のナイフを持つ手を掴むのがやっとだった。青年は恐ろしい力を持っていた。起きなおったばかりで、腰に力がはいっていなかったので、すぐあお向きに倒されてしまった。青年は彼の上に馬乗りになった。  松永は両手で、青年のナイフを持つ手を支えていた。全身の力をふりしぼって支えていた。青年は左手で、彼の手を押しのけようとあせった。骨の太い鉄のような手だった。手先ではだめだと思ったのか、左の肱をまげて松永の両手のあいだに入れて、梃のようにねじった。松永の右手がはなれた。もう支えるものは左手だけになった。ナイフの鋭い刃先が、ジリリ、ジリリと目の前に迫まってくる。そして、青年の臭い熱い息が、ハッハッと彼の顔に襲いかかってきた。  もうだめだと思った。おれは今殺されるのだ。妻の良子の顔、長男の弘一の顔、次女のるり子の顔、宮城貿易商社の誰彼の顔が、非常に鮮明に、頭の中に映った。ナイフは目の前一寸のところにあった。その刃先がブルブルふるえて幾つにも見えた。今にも眼の中へ突きささってきそうだった。  そのとき、「クーッ」というような、なんとも言えない不吉な音がした。そして、青年の憎悪に燃えた醜悪な顔が、スーッと遠ざかって行った。同時にナイフを持つ手の圧力が、急に消えてしまった。松永の疲れきった左手で、たやすく押しのけることができた。  半身を起こすと、青年の歪んだ顔のうしろに、ふみ子の顔がかさなって見えた。 「おじさん、早く……」  ふみ子は青年の頸に何かをまきつけて、両手で、力一ぱいしめつけていることがわかった。  松永は、はね起きて、青年のうしろに廻ると、ふみ子に力を添えて、夢中にそれをしめつけた。いつまでも、不必要なほど長く、しめつけていた。  青年のからだが、グッタリとなった。醜い顔が異様にふくれ上がって、ポカンとあいた口から舌がのぞいていた。  頸に巻いたのは、ふみ子の皮ベルトだった。とっさの気転で、少女は自分のベルトをはずし、うしろから、青年の頸をしめたのだ。なんという度胸のすわった少女だろうと、松永はあきれて彼女を見つめた。  ふたりは、暗闇の中に腰をおろしたまま、長いあいだ、じっとしていた。 「死んじゃったのね」 「ウン」  松永はまだ思考力が回復しなかった。 「生きかえりやしない?」  松永が返事をしないでいると、少女はそこに落ちていたナイフを拾って、死体の胸を刺そうとした。それを見ると松永はハッと正気に返った。 「いけない。血を流しちゃいけない」  あわてて少女の手を押さえ、ナイフを取り上げてしまった。  少女は、いきなりそとへ駈け出して行った。非常に素早かったので、引きとめるひまもなかった。どうしたのだろう。死体がこわくて、逃げ出したのだろうか。それとも、松永に罪を着せて、自分だけのがれるつもりだろうか。いや、そんなはずはない。あれはそんな娘じゃない。  死体の胸に手を当ててみると、心臓はまったく止まっていた。とうとうハイド氏は人を殺した。いわば正当防衛だった。しかし自首する必要はない。ただ消えてしまえばいいのだ。松永昌吉が、この世から消滅してしまえばいいのだ。ふみ子はだまっているだろう。たとえしゃべっても、松永昌吉は、もうこの世にはいないのだ。しかし、これが大切な夢の国の終焉だと思うと悲しかった。何よりも畸形の天女と別れるのがつらかった。  そこへ小さな妖精のようにふみ子の黒い影が帰ってきた。 「おじさん。息を吹き返すといけないから、これでしめつけておくの。手伝って」  どこで拾ってきたのか、さびた針金を手にしていた。もしこれが二十歳の娘だったら、松永は戦慄したであろう。しかし、ふみ子の場合は、ままごと遊びでもしているような、無邪気な感じだった。彼女の精神にも行動にも、あくまで畸形がともなっていた。  少女は死体の頸に針金を二重に巻きつけて、力一ぱいしめつけると、そのはじを幾つもねじった。 「これじゃ、ゆるいかしら」  助けを求めるように松永を見上げた。松永にも、もし蘇生したらという心配が幾らかあったので、針金をもっと強くねじって、死体の頸に深く食いこむようにした。 「おじさん、これ、どうするつもり?」  ふみ子が無邪気にたずねた。松永はそれを、これから考えようとしているところだった。むろん、このままにはしておけない。死体を隠さなければならない。松永昌吉は消えてしまっても、ふみ子は残っている。ふみ子に嫌疑がかからないように工夫しなければならぬ。もし、ふみ子がつかまれば、彼女がいくら強情でも、結局は松永昌吉のことを白状しないわけには行くまい。そして、大がかりな捜査がはじまれば、宮城圭助が絶対に安全だとは言い切れない。ふみ子への嫌疑はどんなことがあっても、防がなければならぬ。  松永はあわただしく頭を働かせて、古来行なわれた死体隠匿のあらゆる方法を思い出してみた。しかし、どれも、この場合実行のできないものばかりだった。結局、最も古い最も平凡な手段をとるほかなかった。 「きみ、鍬とスコップかシャベルがほしいんだが、この近くにないだろうか。借りるんじゃない。盗み出すんだよ。盗み出せるようなところはない?」 「死体を埋めるの?」 「ウン、この畳の下へ埋めるんだ。そうすれば、当分気づかれる心配はない」  ふみ子は、しばらく考えていたが、「あるわ」と言った。 「そこまで一丁もないわ。生垣のあるうちよ。いつも、縁側のそとの戸袋のところに、スコップや鍬が立てかけてある。そこのおじさん菜園を作っているの。生垣のこわれたところがあるから、はいるのわけないわ」 「そのうちに犬はいないか」 「いないわ」 「じゃあ、そこへ行こう。まだ寝てないだろうな」 「大丈夫よ。縁側の方はもう戸がしまってると思うわ」  ふたりは死体をそのままにして、空き家を出た。死体を残しておくのは不安だったが、ふみ子に番をさせておくとしても、もし見つかった場合には、その方がかえって危険だった。  その家の生垣のそとで、ふたりはささやき合った。 「きみ、見えるかい。スコップや鍬はあるかい」 「あすこよ。置いてあるようだわ。あたい取ってこようか」 「ウン、おれはここにしゃがんで、待ってるからね。きみの方が、からだが小さくて目立たないから、ここまで持ってきてくれ。あとはおれが持つよ。音を立てないようにね」  小柄なふみ子は、器用に生垣の破れをくぐって、庭へはいって行った。紺のセーラー服を着ているので、少しも目立たなかった。  ほどなく、カサカサとかすかな音がして、ふみ子が戻ってきた。両方の肩にスコップと鍬を一本ずつかついでいる。  幸い、その辺は人通りが少ないので、途中で怪しまれるようなこともなく、空き家に帰りついた。死体にも異常がなかった。ふみ子に手伝わせて、古畳をあげ、根太板をとりはずして、暗闇の中で墓掘りをはじめた。土は軟かくて、三十分も掘っていると、相当深い穴ができた。  死体を穴におとすと、スコップで土を埋め、地ならしをした。青年は靴ばきのまま飛びかかってきたのだから、世話はなかった。帽子は冠っていなかった。ナイフも忘れないで、死体といっしょに埋めた。それから、根太板をはめ、畳を敷いて、暗闇に慣れた眼で、その辺を充分見廻って、何も残っていないことを確かめた。あとは鍬とスコップの土をおとしてもとの場所へ戻しておくだけだった。ふたりとも、すっかり疲れきっていたが、最後の力をふりしぼって、それをやってのけた。そして誰にも見とがめられないですんだ。  空き家に帰ると、もう一度、家の内外を見て廻った。松永は這うようにして、土の上の足跡をしらべたが、天気つづきなので、足跡らしいものも見当たらなかった。  ふたりはもう一度、空き家の畳の上に腰をおろした。もう一つだけ面倒な仕事が残っているのだ。それは、松永昌吉がこのまま行方をくらまして、永久にふみ子に逢えなくなるのだと、彼女に言いわたすことだった。彼女がそれを承知しないで、いっしょに連れて逃げてくれなどとだだをこねたら、どうすればいいのだ。彼の方でも決して別かれたくはないのだ。うっかりすると引き入れられまいものでもない。これが最大の難関だった。 「ねえ、ふみちゃん、きみは、今夜のことを、誰にも言わないだろうね。決して漏らさないだろうね。もしちょっとでも人に疑われるようなそぶりをしたら、ふたりの身の破滅なんだよ。わかる?」 「大丈夫よ。おじさんの方があぶないくらいだわ。おじさん、これからどうする? もうこなくなるの?」  畸形少女の洞察力は怖いようだった。しかし、そう切り出してくれたので、話はしやすくなった。 「ウン、とにかく殺人事件だからね、発見されたら大変なことになる。だから、おれはしばらくこないつもりだ。きみは今まで通り学校へ行っていないといけない。なんにもなかったと信じるんだ。おれに逢ったことも忘れてしまうんだ。もし万一、君が疑われるようなことがあっても、こんな小さな子に、あの青年が殺せるはずがないから大丈夫だ。きみは、おれがどこに住んでいるかさえ知らない。だから、いくら問いつめられても、答えられっこない。おれの名前だって、変名かもしれない。おれというものの証拠は、ふたりが別かれてしまえば、何一つ残らないのだよ」 「わかってるわ。おじさんは、ずっとずっと遠くの、あたいたちと違う世界の人だってこと、はじめから知ってたわ。だから、いつか別かれるときがくると思っていた。それが少し早く来ただけのことよ」  この少女が神のような洞察力を持っていて、直感で何もかも悟っていたのは、松永にとって、なんという幸運だろう。彼は自分の方がかえって未練らしい気持なのを、恥かしく思った。 「じゃあ、お別かれだよ」 「ウン、いいわ。でも、ちょっと抱いてね」  ふたりは暗闇の中で、抱き合い、唇を合わせた。この甘い乾草の匂いとも永久のお別かれかと思うと、悲しかった。ふみ子は、死にもの狂いに抱きついていた。唇はまるで一つになったように離れなかった。彼の頬に何か流れてきた。彼女の涙だった。それがひっきりなしに溢れて、彼の頬を伝わった。ふたりの合わせた口の中にも流れこんだ。彼女の肩が、彼の腕の中で、ピクンピクンと動き出した。しゃくりあげているのだ。それが声になった。今まで一度も聞いたことのないような狂熱的な恐ろしい泣き声だった。  そして、ふたりは別かれた。表へ出るとふみ子は、暗い街を、あとをも見ずに駈け出して行った。無邪気な小学生のように駈け出して行った。松永は、その場に立ちつくして、そのうしろ姿が見えなくなるまで、じっと見送っていた。  それから、彼は正確に、夕方とは逆のコースをたどって、伊達者の宮城圭助に立ち返ると、上野駅から大型のタクシーを拾って、渋谷の自宅に急いだ。自宅の玄関についたときにはもう十二時をすぎていた。 底本:「江戸川乱歩全集11 化人幻戯」講談社    1970(昭和45)年2月10日第1刷発行 初出:「宝石 第八巻第十一号」    1953(昭和28)年10月 入力:入江幹夫 校正:山田順子 2026年7月30日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。