好い手紙 岡本かの子 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)古《ふ》り |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)白地|単衣《ひとえ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#ここから2字下げ] ------------------------------------------------------- [#ここから2字下げ] 場所、東京、山の手の一隅、造作いやしからねど古《ふ》りたる三間程の貸家建の茶の間、ささやかなれど掃き浄められて見好《みよ》げなる庭を前にす。 晴れたる夏の朝、食後卓上の器具とりかたづけられぬ前、卓上には器具の真中に夏花の一輪挿し。室内の壁間ところどころに金縁、或は白木の手製らしき額縁にはめられたる油画。ある一二ヶ所にヴァイオリン一二挺掛けてある。 男二十四五、武骨なれども垢抜けたる風貌、洗いたての白地|単衣《ひとえ》、煙草をくゆらして長閑《のどか》なる様。三分間の後、女出で来る。 女三十前後、美貌、ただし眼がかなり強い。片手に食後の果物皿、片手に、水色の小形封筒を持ち居る。派手なれどレファインされたる品よき着附、雪白のエプロン、男の傍に坐る。果実皿を卓上に置き封筒を突附ける様に男の前へ置く。男、一寸《ちょっと》あわてて直ぐ落ち付く。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 女。津田良雄様へ。第三信、松野すみ子よりって一たい何なの。 男。(封筒を一寸見やりて。)何でもありませんよ、こんなもの。 女。なんでもないことが……しかも第三信じぁないの。 男。(落ちつきて。)そうですよ。三本目の手紙ですもの。 女。まあ、私が外出勝ちなのを好いことにして、もう三本も手紙のやりとりしてるんですか。 男。やりとりじゃあありませんよ、向うから只呉れるだけなんですよ。 女。いくら只むこうから呉れるだけだって……ああ、私くやしい。 [#ここから2字下げ] 女横を向いて雪白のエプロンを眼にあてる。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 男。(困りて。)だめですよ、直ぐあなたはそれだから、これ、何でもありゃしませんよ。 女。(眼からエプロンを取り。)何でもないものが第三信なんて。 男。だって向うから呉れるもの仕方がないや。 女。仕方がないなんて理窟が、この世の中にありますか、よ、さあ、早くお云いなさい、誰が、どういうわけで、あなたに、こんな手紙寄越すんだか。 男。松野って、そら二度ばかり家へ来た学校時代の友達があるでしょう。 女。ああ、一寸顔のととのった。 男。うむ、あれの妹ですよ、これは。松野が馬鹿に僕を崇拝《すうはい》するんで、妹にその気持ちが乗り移ったんですよ。その上この間のN展覧会場で一寸僕に会ったんですよ。僕の気象、とりわけ、貴女という孤独な兄の未亡人を深切に守って暮らして居るという事情が、女のセンチメンタルに会ったんでしょう、そして見ればそのわりに僕の風采が男らしいし絵も前途有望だとか何とかね。 女。で、その妹さん美人? 男。いいや、成っとらん。(横を向く。) 女。(顔少し和らぐ。)だから、返事出さなかったわけなの。顔が好ければ出したのね。 男。(女をやや凝視して。)顔の好悪の問題じあ[#「問題じあ」はママ]ないじゃありませんか、僕にあ貴女というものが…… 女。(抑えるように。)まま、それは分っててよ。ではその手紙、とに角私に見せて。 男。さあどうぞ。 女。(読む。)御返事も頂けないのに幾度も押し進んで嘸《さぞ》あつかましく思召《おぼしめ》すでしょうが私の貴下様に対する心持ちは、貴下様のこれをおうけいれ下さる下さらぬ如何にかかわらず…………ああ、貴下様こそ、まことにまことに私が生れ出でて始めて見し処の…………ああ貴下様こそ進取にして優美、優美にして而《しか》も健実、芸術家の奇才と、普通紳士としての温情を備え給える…………お忘れいたそうとしてお忘れいたし得ぬ日夜の苦しみ…………もし神様が、あらゆる讃美と、犠牲と、従順とを捧げてあなた様に一生を仕え奉るべき幸福なる女性としての運命を私に下し給わるならば…………。 [#ここから2字下げ] 女、まあ、と溜息して手紙を置き男の額を見詰む、男さあらぬ体で煙草をふかす。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 女。(独白。)まったく真剣だわよ。(男に)で、あなた、これをどう思う。 男。(少し女に遠慮するごとく、しかし、事実ほんとうに無関心らしく。)別に何とも。(煙草をふかす。) 女。(かなり複雑な表情、やがてまったく軽蔑の表情に変りて。)生意気云ってるわよ。あなたなんかが、かりにも一人の淑女に、こんな真剣な手紙を貰う資格がありましたかよ。六年前、二十の年に兄様の亡くなられたあとへ田舎から出て来たあなたといったら、まるで犬ころの様な不様な田舎男だったじゃないの、私が淋しくって、ふっとあなたが可愛くなったからこそ、こんなに手塩にかけて、見違える様な男に仕立てて上げたじゃないの。それをさ、自分独りで、こんな立派な男になったかなんぞの様な気位でもって、こんな真剣な手紙を鼻であしらうなんて…………(また、手紙を拾い読みながら、喜悦の表情をもて室の空所を行き来しつつ独白。)おお、まったくだ、芸術的奇才と、普通紳士との温情! 優美にして進取、健実! まったくだ、死んだ夫に実現せられたかったものをこの弟で…………それには夫に捧げることを忘れていた私の芸術的パッションまでをこの弟の方へ遣ってこその理想の実現である。まったくこの男には何にもなかった。それだからこそ私の理想や芸術的パッションが、素直にこの男のなかに生きたのだ。私が、あれほど自負を持ち自惜した音楽を捨てて、この男の為に職業婦人となった甲斐が、今こそ完全に現われたのだ。おお讃められたのはこの男ではない、私だ。ああ讃められた。酬《むく》いられた、私は。好い手紙、好い手紙! ほんとうになんと素晴らしい手紙だろう。 [#ここで字下げ終わり] 底本:「岡本かの子全集1」ちくま文庫、筑摩書房    1994(平成6)年1月24日第1刷発行 底本の親本:「丸の内草話」青年書房    1939(昭和14)年5月20日発行 初出:「女性」    1925(大正14)年8月号 入力:門田裕志 校正:いとうおちゃ 2024年2月9日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。