我輩の智識吸収法 大隈重信 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)確《しか》と |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一|度《たび》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#1字下げ] ------------------------------------------------------- [#1字下げ]大隈は耳学問だろうと言うものがある[#「大隈は耳学問だろうと言うものがある」は中見出し]  日々幾十人の人に面接しているから、大隈は耳学問だろうというものがあるようだ。実際耳学問であるか、そうでないかということは、まだ確《しか》と考えてみたことはない。また考えてみる必要もなかったが、とかく耳の方で聞いたのは、碌《ろく》な学問になっていないことは事実だ。  一体学問というものは、目でも耳でもいずれでも出来るはずのものに相違ない。学生は主として耳で学問をしている。彼の教場に於て講師の講義を聞くというのは、これこそ真の耳学問である。そこへ行くと我輩は、耳学問の出来ぬ方の性質だと思う。というのは、我輩は元来剛情で短気で、なかなか人の話などをうんうんと傾聴することをせぬ。どうも人の話を聴いているのは間《ま》だらしくて堪《たま》らぬ。それであるから対手《あいて》が誰でもかまわぬ、御先にご免をして、此方《こちら》からさっさと独りで話し出すのである。  我輩は種々な方面の連中に会う機会が多い。まず日に随分種々な連中が見える。それだから耳学問をやろうと思えばそれは出来そうにもあるが、ところが今言った通り我輩が人の話を聴かぬから耳からの学問はあまりない。しかし我輩は全く耳を使っておらぬというのではないが、ただ使うのは口ばかりだ。それでは耳の学問でもなければ、また目の学問でもなく、口の学問になってしまう。まずこんな風であるから、我輩は考えてみた訳でもないが、耳からはあまり学問していまいと思う。 [#1字下げ]しかし我輩は耳はあまり使っておらぬ[#「しかし我輩は耳はあまり使っておらぬ」は中見出し]  それで、海外からの新帰朝者の土産《みやげ》話は、大いに耳学問になるだろうという人がある。それは此方《こちら》で注意して聴いていたならあるいは耳学問になるかも知れないが、我輩が土産話も聴きはしない。土産話をしに来ると此方から逆に海外の話を聴かしてやる。我輩の談が果して〔当って〕いるかどうかは知らぬが、構うことはない。洋行帰りの先生に海外の話を聴かしてやる。こんな調子で御土産《おみやげ》はとんと頂戴《ちょうだい》はせぬ。頂戴しないどころではない、御土産に熨斗《のし》をつけて返してやるのだ。  ところで若い時分はどうであったかというに、若い時分から我輩は剛情張りで、人の話などは聴かなかったのである。なんでも二十三、四の頃からは独りで先生気取りで盛んに講釈を聴かせて今日まで押し通して来たのだから、口は随分使っている。しかし耳はあまり使っておらぬ。 [#1字下げ]勿論暇さえあれば我輩は書物を読む[#「勿論暇さえあれば我輩は書物を読む」は中見出し]  それなら書物は読んでおるかと、勿論《もちろん》暇さえあれば書物を読む。暇さえあればその間酒でも飲んで騒ぐというようなことはしない。それよりか読書をする。また我輩は園芸に趣味をもっているから、暇があればまず庭園を歩き廻って見る。而《しか》してなお暇が得らるれば、今度は読書をするという風にしている。実は智識をうまく活用して行くのである。  一体我輩のところへはあまり怜悧なものは来ぬ。それだから我輩が独りで話してやるのだ。こういう風であるからなんで人から智識などが得られるものか。よしまた如何《いか》に怜悧なものが来ても、我輩が耳を傾けぬから駄目である。人の話は注意して聴いたらよい。学問にもなるだろうが、我輩の如き短気な剛情者には耳学問は誠に不適当である。次に書物は読むべきものであることについて一言しておこう。 [#1字下げ]社会と遠ざからぬ様に読書が必要である[#「社会と遠ざからぬ様に読書が必要である」は中見出し]  時代の進運というものは冷酷極まるもので、自分と一緒に駈けるだけの力のないものをば容赦もなく振棄《ふりす》ててずんずん変転してゆく。見給《みたま》え、一時は相当の声望信用あって世上に持囃《もてはや》された連中でもいつとはなく社会と遠ざかり、全然時勢後れの骨董物となりさがりて、辛《から》くも過去の惰力によりて旧位置を維持している者や、その惰力さえ尽き果てて、生きながら社会より埋葬せらるる如き悲境に沈淪《ちんりん》するものの多いのは、畢竟《ひっきょう》この時代の進運に伴うべき気力と智識とが欠乏しているからである。  されば苟《いやしく》も社会の表面に立ちて活動せんと欲するものは、政治家であれ、実業家であれ、教育家であれ、絶えず時代の趨勢《すうせい》に着目して、その消長変遷に応ずるだけの新智識を収容するに努めねばならぬ。それは勿論読書が必要である。  しかしなにほど読書が必要だからといっても、実際社会に活動するものは繁劇多忙なる中に零細《れいさい》の余暇を尋ね出してやるのであるから、日夕書斎に閉じ籠《こも》って、書籍と首っ引きをする専門学究の真似《まね》をする訳には行かぬ。彼は実際の必要不必要に頓着《とんちゃく》なく、純然たる研究的態度を以て隅から隅まで穿鑿《せんさく》するけれども、これは実際の必要を限度として大体の智識を得るに満足せねばならず、彼は何処《どこ》までも書籍を重位に置き、書籍の上に養われた眼目を以て社会を眺め渡さんとするけれども、これは事実を本位に置き、事実によって教えられた経験の眼を以て書籍を看下《みくだ》さんとする双方のやり方が根本よりして違っておるのである。 [#1字下げ]現代の青年にはこの悪い習慣がある[#「現代の青年にはこの悪い習慣がある」は中見出し]  厳格なる意味に於ていえば、この事実本位の読書法は無論《むろん》変則的であるかは知らぬけれども、実際の活智識を収容する上に於ては書籍本位のそれよりも有効である。  我輩等の育った旧幕時代には、各藩とも御儒者《おんじゅしゃ》というものがあって、読書講釈を専業とし、口癖のように修斎平治《しゅうさいへいち》を説いていたけれども、その言うところはただ書物の上の穿鑿《せんさく》にとどまり、毫《ごう》も実際に接触しなかったので何の役にも立たず、儒者といえば呆痴者《あほう》の異名の如く思わせたものだが、今日の新学問は無論昔の儒学などと同日に論ずべきものでないとしても、学究先生が書籍本位の読書法は、ややもすると実際にかけ離れて、空疎迂遠の弊《へい》に流れる傾きがある。  其処《そこ》になると実際的活動家が社会の事実によりて得たる経験と修練とを基礎とし、その力によりて読書するのは直《ただ》ちに事実と思想、経験と理論とを連結せしめて活溌溌地《かっぱつはっち》の作用をなすことが出来る。ただこの種の人が読書せざるを病とする。  一体我が国の青年には、至って悪い習慣がある。彼等は学校にいる間は随分勉強もすれば読書もするが、足一|度《たび》学校を去りて実際社会に出ると、書籍などは一切束ねてしまって振り向いて見ず、その癖不健全なる娯楽には随分|憂身《うきみ》を窶《やつ》して、これがために身心の打ち壊れるを知らず、とかくする中《うち》、社会の進運に振捨てられて無用の長物となってしまうが、いずれもそれほど六ヶ敷《むつかし》いことではない。新刊書なり新聞雑誌なり、時代の趨勢《すうせい》を知るものを備えて、業務の暇に新智識の吸収に努めたならどんなものであろうか。我輩は年老いたりといえども、まだまだ今の若いものなどに後れを取らぬつもりである。 底本:「大隈重信演説談話集」岩波文庫、岩波書店    2016(平成28)年3月16日第1刷発行 底本の親本:「大隈伯社會觀」文成社    1910(明治43)年10月20日発行 初出:「成功 第十七巻第三号」    1909(明治42)年11月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※〔 〕内の補足・注記は、編者による加筆です。 ※本文冒頭の編者による解題は省略しました。 入力:フクポー 校正:門田裕志 2018年2月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。