榎物語 永井荷風 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)町《まち》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)市外|荏原郡《えばらごおり》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)〻 /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)うか/\ -------------------------------------------------------  市外|荏原郡《えばらごおり》世田《せた》ヶ|谷《や》町《まち》に満行寺《まんぎょうじ》という小さな寺がある。その寺に、今から三、四代前とやらの住職が寂滅《じゃくめつ》の際に、わしが死んでも五十年たった後《のち》でなくては、この文庫は開けてはならない、と遺言《ゆいごん》したとか言伝えられた堅固な姫路革《ひめじがわ》の篋《はこ》があった。  大正某年の某月が丁度その五十年になったので、その時の住持《じゅうじ》は錠前を打破《うちこわ》して篋をあけて見た。すると中には何やら細字《さいじ》でしたためた文書が一通収められてあって、次のようなことがかいてあったそうである。  愚僧《ぐそう》儀《ぎ》一生涯の行状、懺悔《ざんげ》のためその大略を此《ここ》に認《したた》め置候《おきそうろう》もの也《なり》。  愚僧儀はもと西国《さいこく》丸円藩《まるまるはん》の御家臣《ごかしん》深沢重右衛門《ふかざわじゅうえもん》と申《もうし》候者の次男にて有之《これあり》候。不束《ふつつか》ながら行末は儒者とも相《あい》なり家名を揚げたき心願にて有之候処、十五歳の春、父上は殿様御帰国の砌《みぎり》御供廻《おともまわり》仰付《おおせつ》けられそのまま御国詰《おくにづめ》になされ候に依《よ》り、愚僧は芝山内《しばさんない》青樹院《せいじゅいん》と申す学寮の住職|雲石殿《うんせきどの》、年来《ねんらい》父上とは昵懇《じっこん》の間柄にて有之候まゝ、右の学寮に寄宿|仕《つかまつ》り、従前通り江戸|御屋敷《おやしき》御抱《おかかえ》の儒者松下先生につきて朱子学《しゅしがく》出精|罷在《まかりあり》候処、月日たつにつれ自然|出家《しゅっけ》の念願起り来《きた》り、十七歳の春|剃髪《ていはつ》致し、宗学|修業《しゅぎょう》専念に心懸《こころがけ》候|間《あいだ》、寮主雲石殿も末|頼母《たのも》しき者に思召《おぼしめ》され、殊《こと》の外《ほか》深切《しんせつ》に御指南なし下され候処、やがて愚僧二十歳に相なり候頃より、ふと同寮の学僧に誘はれ、品川宿《しながわじゅく》の妓楼《ぎろう》に遊び仏戒《ぶっかい》を破り候てより、とかく邪念に妨げられ、経文《きょうもん》修業も追々おろそかに相なり、果《はて》は唯うか/\とのみ月日を送り申候。或夜いつもの如く品川宿よりの帰り途《みち》、連《つれ》の者にもはぐれ、唯一人|牛町《うしまち》の一筋道《ひとすじみち》を大急ぎに歩み参《まいり》候と思《おもい》の外《ほか》何処《どこ》まで行き候ても同じやうなる街道にて海さへ見え申さず候|故《ゆえ》、これはてつきり、狐《きつね》のわるさなるべしと心付き足の向《むき》次第、唯《と》有る横道に曲り候処、いよ/\方角を失ひ、かつはまた夜も次第にふけ渡り、月も雲間に隠れ候|故《ゆえ》、聊《いささ》か途法に暮れ、路端《みちばた》の草の上に腰をおろし、一心に念仏致をり候処、突然|彼方《かなた》より女の泣声聞え来り候|間《あいだ》弥〻《いよいよ》妖魔《ようま》の仕業《しわざ》なるべしと、その場にうづくまり、歯の根も合はず顫《ふる》へをり候に、やがて男の声も聞え、人の跫音《あしおと》次第に近づき来るにぞ、此方《こなた》は生きたる心地もなく繁《しげ》りし草むらの間にもぐり込み、様子|如何《いかに》と窺《うかがい》をり候処、一人の侍《さむらい》無理|遣《や》りに年頃の娘を引連れ参り、隙《すき》を見て逃出《にげだ》さむとするを草の上に引据《ひきす》ゑ、最前よりいろ/\事の道理を分けて御意見申上|候得《そうらえ》ども、御聞入れ無之候得者《これなくそうらえば》、是非なき次第に候間、このまゝ手足を縛りてなりとお屋敷へ連れ帰り、御不憫《ごふびん》ながら不義密通の訴《うったえ》をなし申《もうす》べしと、何やら申聞《もうしきか》しをり候処へ、また一人の侍《さむらい》息を切らして駈《かけ》来り、以前の侍に向ひ、今夜の事は貴殿より外《ほか》には屋敷中誰一人知るものも無之《これなき》事に候なり。われら駈落者《かけおちもの》を捕へ候とて、さほど貴殿の御手柄になり候|訳《わけ》にてもあるまじく候間、何とぞ日頃の誼《よし》みにこのまゝお見逃し下されよと、袂《たもと》に縋《すが》り、地に額《ひたい》を摺《す》り付けて頼み候様子なれど、以前の侍|一向《いっこう》聞入れ申さず。貴殿に対しては恩も恨《うらみ》もなき身なれど、このお小夜殿《おさよどの》は恩儀ある我が師の娘御《むすめご》なり。道ならぬ恋に迷ひ家中《かちゅう》の者と手に手を取り駈落致したりとの噂《うわさ》、世に立ち候時は、師匠の御身分にもかゝはり申べく候。今の中《うち》なれば拙者《せっしゃ》の外は誰一人知るものなきこそ幸《さいわい》なれ。このまゝそつと御帰宅なされ候はゞ、親御様も上部《うわべ》はとにかく、必《かならず》手ひどい折檻《せっかん》などはなされまじ。かくいふ中にも時刻移り候ては取返しの付かぬ一大事、疾《と》く/\拙者と御一緒にお帰り遊ばされ候へと、泣沈《なきしず》む娘を引立て行かむとするにぞ、一人の侍今はこれまでなりと覚悟致し候様子にて、突《つ》と立上り、下手《したて》に出《い》でをれば空々《そらぞら》しきその意見、聞いてはをられぬ。ない/\御嬢様に色文《いろぶみ》つけ、弾《はじ》かれたを無念に思ひ、よくも邪魔をしをつたな。かうなれば、刀にかけて娘御はやらぬ。覚悟をしやれと、引抜く一刀。此方《こなた》も心得たりと抜き放ち、二、三|合《ごう》切結《きりむす》ぶ中《うち》、以前の侍足を踏み滑べらせ路の片側なる崖《がけ》の方《かた》へと落ち込む途端《とたん》裾《すそ》を払ひし早業《はやわざ》に、一人は脚にても斬《き》られ候や、しまつたと叫びてよろめきながら同じく後《うしろ》の崖に落ち、路傍《みちばた》に取残されしは、娘御ひとりとなり候処、この時手に手に、提灯《ちょうちん》持ちたる家中の侍とも覚しき人数《にんず》駈け来り、娘御の姿を見候て、皆々驚く中《うち》にも安堵《あんど》の体《てい》にて一人の男の背に娘御をかつぎ載せ、そのまゝもと来《きた》りし方《かた》へと立去り候一場の光景。愚僧は始より終まで、草むらの中にて見定め、夢に夢見る心持にて有之候。但し固《もと》より夢にては無之《これなき》事に候間、とかくする中、東の空白みかゝり塒《ねぐら》を離るゝ鴉《からす》の声も聞え候ほどに、すこしは安心致し草むらの中より這出《はいだ》し、崖下へ落ち候二人の侍、生死のほども如何《いかが》相なり候|哉《や》と、恐る/\覗《のぞ》き申候に、崖はなか/\険岨《けんそ》にて、大木《たいぼく》横《よこ》ざまに茂り立ち候間より広々としたる墓場見え候のみにて、一向に人影も無御座《ござなく》候。その辺に血にても流れをり候哉と見廻し候へども、これまたそれらしき痕《あと》も相《あい》見え申さず候。さては両人共崖に墜《お》ち候が勿怪《もっけ》の仕合《しあわせ》にて、手|疵《きず》も負はず立去り候もの歟《か》など思ひながら、ふと足元を見候に、草の上に平打《ひらうち》の銀簪《ぎんかんざし》一本落ちをり候は、申すまでもなくかの娘御の物なるべくと、何心なく拾取《ひろいと》り、そのまゝ一歩二歩、歩み出し候処、またもや落ちたるもの有之候|故《ゆえ》、これも取上げ候に革の財布にて、大分目方も有之候故、中を改め候処、大枚の小判、数ふれば正しく百両ほども有之候。これ必定《ひつじょう》、駈落の侍が路用《ろよう》の金なるべしと心付き候へば、なほ更空恐しく相なり、後日《ごじつ》の掛り合になり候ては一大事と、そのまゝ捨て置き立去らむと致せしが、ふとまた思直《おもいなお》せば、この大金このまゝこゝに捨て置き候へば、誰か通がゝりの者に拾はるゝは知れた事なり。かつはまた金の持主は駈落者にて、今は生死のほども知れずに相なり候者故、これぞ正しく天の与《あとう》る所。これを受けずばかへつて禍《わざわい》をや蒙《こうむ》らむと、都合|好《よ》き方へと理をつけ、右の金子《きんす》財布のまゝ懐中に致し候ものゝ、俄《にわか》に底知れず恐しき心地致し、夢が夢中にて走り出し候|中《うち》、夜は全く明けはなれ、その辺の寺々より鉦《かね》や木魚《もくぎょ》の音|頻《しきり》に聞え、街道筋とも覚しき処を、百姓|供《ども》高声に話しながら、野菜を積み候荷車を曳《ひ》き行くさま、これにて漸《ようや》く二本榎《にほんえのき》より伊皿子辺《いさらごへん》へ来かゝり候事と、方角も始《はじめ》て判明致候間、急ぎ芝山内《しばさんない》へ立戻り候へども、実は今日《こんにち》まで、身は持崩《もちくず》し候てもさすがに外泊致候事は一度も無之、いつも夜の明けぬ中立戻り、人知れず寝床にもぐりをり候事故、今はその時刻にも遅れ候て、わが学寮へは忍入る事も叶ひ申さず。かつはまた百両の金の隠し場所にも困《こまり》候故、そのまゝ引返し、とぼ/\と大門《だいもん》のあたりまで参《まいり》候処、突然|後《うしろ》より、モシ良乗殿《りょうじょうどの》、早朝より何処《いずこ》へお出《い》でかと、声掛けられ、びっくり致し振返れば、浄光寺《じょうこうじ》と申す山内《さんない》末院《まついん》の所化《しょけ》にて、これも愚僧などゝ同様、折々|悪所場《あくしょば》へ出入《でいり》致し候|得念《とくねん》と申す坊主にて有之候。京橋まで用事有之候趣にて、同道致候|道々《みちみち》、愚僧の様子何となくいつもとは変りをり候ものと見え、何か仔細《しさい》のある事ならむと頻《しきり》に問掛《といか》け、果《はて》は得念自身問はれもせぬに、その身の事|供《ども》打明け話し候を聞くに、得念は木挽町《こびきちょう》に住居致候商家の後家《ごけ》と、年来道ならぬ契《ちぎり》を結び、人の噂《うわさ》にも上り候ため度々《たびたび》師匠よりも意見を加へられ候由。しかる処後家の方にても不身持の事につき、親戚中にてもいろ/\悶着《もんちゃく》有之候が、万一間違など有之候ては、かへつて外聞にもかかはり候事とて、結局得念に還俗《げんぞく》致させ候上、入夫《にゅうふ》致させ申すべき趣《おもむき》。内談《ないだん》も既にきまり候に付《つき》、浄光寺の住職|方《がた》へは改めて挨拶《あいさつ》致し、両|三日中《さんにちちゅう》には抹香《まっこう》臭き法衣《ころも》はサラリとぬぎ捨て申すべき由。人間若い時は一度より外無之《ほかこれなき》もの故、愚僧にも今の中とくと思案致すが好《よ》いなど申し続け候。その日は得念に誘はれそのまゝ後家|方《かた》へ立寄り候処、いろ/\馳走《ちそう》に預り候上、風呂《ふろ》に入《いり》候処、昨夜よりの疲労一時に発し、覚えずうと/\と眠《ねむり》を催し驚きて目を覚し候へば、日も早や晩景に相なり候故、なほ/\驚き、後家を始め得念にはいづれ両三日中|重《かさね》て御礼に参上致すべき旨申し、厚く礼を陳《の》べ候て立出《たちい》で候ものゝ、山内の学寮へは弥〻《いよいよ》時刻おくれて帰りにくゝ、さりとて差当り行くべき当《あて》も無之身の上。足の向くがまゝ芝口《しばぐち》へ出《いで》候に付き、堀端《ほりばた》づたひに虎《とら》の門《もん》より溜池《ためいけ》へさし掛り候時は、秋の日もたっぷりと暮れ果て、唯さへ寂しき片側道。人通《ひとどおり》も早や杜断《とだ》え池一面の枯蓮《かれはす》に夕風のそよぎ候|響《ひびき》、阪上《さかうえ》なる葵《あおい》の滝の水音に打まじりいよ/\物寂しく耳立ち候ほどに、わが身の行末|俄《にわか》に心細く相《あい》なり土手|際《ぎわ》の石に腰をかけ、ただ惘然《ぼうぜん》として水の面《おもて》を眺めをり候処、突然|後《うしろ》より愚僧の肩を叩《たた》きコレサ良乗殿。大方《おおかた》こんな事と思ひし故、心配して後をつけて参つたのだ。と申し候は今方木挽町なる後家の許《もと》にて別れ候得念なり、得念は愚僧をば身投げにても致す心に相違なしといろ/\に申候末、あたりを見廻し急に言葉を改め、愚僧が懐中に大金を所持致すは、大方山内の宝蔵より盗みし金なるべし。友達の誼《よし》みに他言は致さぬ故、半分山分けに致せと申出で候。さては最前風呂より上り、居眠り致候節見抜かれしと思ひ、昨夜の顛末《てんまつ》委《くわ》しく語りきかせ、実はこれよりその屋敷を尋ね、金子《きんす》を返却致したき趣《おもむき》申聞かせ候へども、得念一向承知せず。果は押問答の末無法にも力づくにて金子を奪《うばい》取らむと致候間、掴《つか》み合の喧嘩《けんか》に相なり候処、愚僧はとにかく十五歳までは武術の稽古《けいこ》も一通《ひととおり》は致候者なれば、遂に得念を下に引据《ひきす》ゑ申候。得念最早や敵《かな》はずと思ひ候にや、忽《たちまち》大声にて人殺しだ。泥棒だと呼続《よびつづ》け候故、愚僧も狼狽《ろうばい》の余り、力一杯得念が咽喉《のど》を締め候に、そのまゝぐたりと相なり、如何《いか》ほど介抱致候ても息を吹返す様子も相見え申さず候故、今は如何《いかん》とも致しがたく、幸《さいわい》闇夜《やみよ》にて人通《ひとどおり》なきこそ天の佑《たすけ》と得念が死骸《しがい》を池の中へ蹴落《けおと》し、そつと同所を立去り戸田様《とださま》御屋敷前を通り過ぎ、麻布《あざぶ》今井谷《いまいだに》湖雲寺《こうんじ》門前に出《い》で申候処、当時はまだ御改革以前の事とて長垂阪《なだれざか》上の女郎屋《じょろうや》いたって繁昌《はんじょう》の折から、木戸前を通りかゝり呼び込まれ候まゝ、こゝに一夜を明し申候。誠に人間一生の浮沈は測《はか》りがたきものなり。偶然大金を拾ひ候ばかりに人殺《ひとごろし》の大罪を犯す身となり果《はて》候上は、最早や如何ほど後悔致候ても及びもつかぬ仕儀《しぎ》にて、今は自首致して御仕置《おしおき》を受け申すべきか。さらずば、運を天に任せて逃げられ候処まで逃げ申すかの二ツより外《ほか》に道は無之候。今更懐中の金子を道に棄《す》て行き候とも、人殺の罪は免れぬ処と、夜中《やちゅう》まんじりとも致さず案じ累《わずら》ひ候末、とにかく一先《ひとまず》何地《いずち》へなり姿を隠し、様子を窺《うかが》ひ候上、覚悟相定め申べしと存じ、翌朝麻布の娼家《しょうか》を立出で、渋谷村《しぶやむら》羽根沢《はねざわ》の在所《ざいしょ》に、以前愚僧が乳母《うば》にて有之候お蔦《つた》と申す老婆《ろうば》。いたつて実直なる農婦にて、二度目の婿《むこ》を取り候後も、年々寒暑の折には欠かさず屋敷へ見舞に参《まいり》候ほどにて、愚僧山内の学寮へ寄宿の後も、有馬様《ありまさま》御長屋《おながや》外の往来《おうらい》にて、図らず行逢《ゆきあ》ひ候事など思ひ浮べ、その日の昼下り、同処へ尋《たずね》行き申候。思《おもい》の外《ほか》手びろく生計《くらし》も豊かに相見え候のみならず、掛離《かけはな》れたる一軒家にて世を忍ぶには屈竟《くっきょう》の処と存ぜられ候間、お蔦夫婦の者には、愚僧同寮の学僧と酒の上口論に及び、師《し》の坊《ぼう》にも御迷惑相掛け、追放同様の身と相なり候に依《よ》り、一先《ひとまず》国許《くにもと》へ立退《たちの》きたき考《かんがえ》なれば、四、五日厄介になりたき趣を頼み候処、心好く承知致しくれ候故、ゆっくり疲労を休め、縞《しま》の衣服、合羽《かっぱ》など買求め候得《そうらえ》ども、円き頭ばかりは何とも致方無御座《いたしかたござなく》候間、俳諧師《はいかいし》かまたは医者の体《てい》に粧《よそお》ひ、旅の支度万端とゝのひ候に付き、お蔦夫婦の者に別れを告げ、教へられ候道を辿《たど》りて、その夜は川崎宿《かわさきじゅく》に泊り申候。しかしながら始より国許へ立帰り候所存とては無之事《これなきこと》に候間、東海道を小田原《おだわら》まで参り、そのまゝ御城下に数日滞在の上、豆州《ずしゅう》の湯治場を遊び廻り、大山《おおやま》へ参詣《さんけい》致し、それより甲州路へ出で、江戸に立戻らむと志し候途中、図らず道づれに相なり候は、これ即ち当山《とうざん》満行寺《まんぎょうじ》先代の住職|了善上人殿《りょうぜんしょうにんどの》にて御座候。殊の外愚僧を愛せられ、是非とも満行寺に立寄れよと御勧《おすす》めなされ候により、そのまゝ御厄介に相なり候処、当山は申すまでもなく西本願寺派《にしほんがんじは》丸円寺《まるまるじ》の分れにて、肉食《にくじき》妻帯の宗門なり。了善上人には御連合《おつれあい》も先年|寂滅《じゃくめつ》なされ、娘御《むすめご》お一人御座候のみにて、法嗣《ほうし》に立つべき男子なく、遂に愚僧を婿養子《むこようし》になされたき由申出され候|中《うち》、急病にて遷化《せんげ》遊ばされ候。尤《もっと》もこれは愚僧|当山《とうざん》の厄介に相なり候てより三年の後にて、愚僧は御遺言《ごゆいごん》に基《もとづ》き当山八代目の住職に相なり候次第にて有之候。これより先、愚僧はかの百両の大金、豆州《ずしゅう》の湯治場を遊び廻り候ても、僅《わずか》拾両とは使ひ申さず。殆《ほとんど》そのまゝ所持致をり候事故、当山の御厄介に相なり候に付いては、またもやその隠《かくし》場所に困りをり候処、唯今にても当寺|表惣門《おもてそうもん》の旁《かたわら》に立ちをり候|榎《えのき》の大木に目をつけ、夜中《やちゅう》攀上《よじのぼ》り、幹の穴に隠し置き申候。さて先代|御成仏《ごじょうぶつ》の後は愚僧住職の身に御座候へば、他出他行《たしゅつたぎょう》も自由|気儘《きまま》に相なり候故、夜中再び人知れずかの大木に攀上り、九拾両の中四拾両ほど取出し、残り五十両はそのまゝ旧《もと》の通り幹の穴に隠し、右の四拾両を以て、一時|妾《めかけ》を囲ひ、淫楽《いんらく》に耽《ふけ》りをり候処、その妾も数年にして病死致し、続いて先代住職の形見なる梵妻《ぼんさい》もとかく病身の処これまた世を去り申候。その時は愚僧もいつか年四十を越し、檀家《だんか》中の評判も至極|宜《よろ》しく、近郷の百姓|供《ども》一同愚僧が事を名僧知識のやうに敬ひ尊び候やうに相なりをり申候。何事も知らぬが仏とは誠にこの事なるべく候。それにつけても月日経ち候につけ、先年|溜池《ためいけ》にて愚僧が手にかゝり相果て候かの得念が事、また百両の財布|取落《とりおと》し候|侍《さむらい》の事も、その後は如何《いかが》相なり候|哉《や》と、折々夢にも見申《みもうし》候間、所用にて江戸表へ参り候節はそれとなく心を付けをり候へども、一向にこれと申すほどの風聞も無之模様にて、更に様子相知れ申さず候故、次第に安心も致すやう相なり候事に御座候。なほまた愚僧が先年寄宿|罷《まかり》あり候芝山内青樹院の様子につきては、その後聞き及び候処によれば、愚僧突然|行衛《ゆくえ》不明に相なり候に付き、その節学寮にては、心あたり漏れなく問合せ候ても一向に相知れ申さず候につき、殺され候|歟《か》、または神隠しにでも遇《あ》ひ候歟、いずれにも致せ、不憫《ふびん》の事なりとて、雲石師《うんせきし》は愚僧が出奔《しゅっぽん》の日を命日と相定め、寮内に墓まで御建てなされ候趣に御座候。さて、愚僧は右の如く僅《わずか》一、二年の間に妻妾《さいしょう》両人共|喪《うしな》ひ申候に付き、またもや妾を囲ひたきものと心には思ひをり候ものゝ、早や分別盛《ふんべつざかり》の年輩に相なり候ては、何となく檀家を始め人の噂《うわさ》も気にかゝり候て、血気の時のやうに思切つた事も出来兼ね、唯《ただ》折もあらばと、時節をのみ待ち暮し申候。時々は遠からぬ新宿《しんじゅく》へなりと人知れず遊びに出掛けたき心持にも相なり候へども、これまた同様にて埒《らち》明き申さず。空しく門前の大木を打仰ぎ候て、幹の穴に五拾両有之候上は、時節到来の砌《みぎり》は、如何なる浮世の楽しみも思ひのまゝなる身の上。別に急ぎ候には及ばぬ事と我慢致し月日を送り申候。人間の慾心は可笑《おか》しきものにて、いつにても思ひのまゝになると安心致をり候時は、案外我慢の出来るものにて有之候。唯心にかゝり候事は、風雨雷鳴の時にて、門前の大木万一風にて打折らるゝか、または落雷に砕かれ候て隠置《かくしおき》候大金、木の葉の如く地上に墜《お》ち来り候やうの事有之候ては一大事なりと、天気|宜《よろ》しからざる折には夜中《やちゅう》にも時折|起出《おきい》で、書院の窓《まど》を明け、大木の梢《こずえ》を眺め候事も度々にて有之候。とかくする中、数《かぞう》れば今より十余年ほど前の事に相なり候。彼岸《ひがん》も過ぎて、野も山も花盛りに相なり候|頃《ころ》、白昼《はくちゅう》俄《にわか》に風雨吹起り、近村へ落雷十余箇処にも及び候事有之。当山門内の大榎は、幸《さいわい》にも無事にて有之候ひしかど、その後両三|日《にち》は引続き空曇りて晴れ申さず。また/\嵐《あらし》来り申すべくなど人々申をり候を聞き、愚僧心痛一方ならず。深夜そつと起き出で、大金を取出し置かむものと、大木の幹に登りかけ候処、血気の頃には猿《ましら》の如くする/\と攀昇《よじのぼ》り候その樹《き》の幹には変りはなけれども、既に初老を過ぎ候身は、いつか手足思ひのまゝならず、二、三|間《げん》登り候処にて片足を滑らせ、そのまゝ瞠《どう》とばかり地上に堕《お》ち申候。静《しずか》なる夜にて有之候はゞ、この物音に人々|起出《おきい》で参り大騒ぎにも相なるべきの処、幸《さいわい》にも風大分|烈《はげ》しく吹《ふき》いで候折とて、誰一人心付き候者も無之。愚僧は地上に落ち候まゝ、殆《ほとん》ど気絶も致さむばかりにて、漸《ようや》く起直《おきなお》り候ものゝ、烈しく腰を打ち、その上片足を挫《くじ》き、四《よ》ツ這《ばい》になりて人知れず寝所《しんじょ》へ戻り候仕末。その夜は医者を呼び迎へ候事も叶《かな》ひ申さず。翌朝に至るを待ち始《はじめ》て療治を受け申候。それより時候の変目《かわりめ》ごとに打身に相悩み候やうに相なり、最早《もは》や二度とはかの大木には登れそうにもなき身に相なり申候。左候得者《さそうらえば》、樹上の大金は再び手にすることも出来|兼《かね》候|訳《わけ》なり。人に頼めばわが身のむかしを怪しまるゝ虞《おそれ》有之。かの五拾両は樹上に有之候とも、最早やわが身には生涯何のやくにも立たざる物になり候よと思へば、満身の気力一時に抜落《ぬけお》ち候やうなる心地致され、唯|惘然《ぼうぜん》として榎の梢を眺め暮すばかりにて有之候。今までは一向気にも留めざりし鴉《からす》の鳴声も、かの大木の梢に聞付け候時は、和尚奴《おしょうめ》、ざま見ろ。いゝ気味だと嘲弄《ちょうろう》致すものゝやうに聞きなされ、秋蝉《あきぜみ》の鳴きしきる声は、惜しよ惜しよ。御愁傷《ごしゅうしょう》といふやうに聞え候て、物寂しき心地致され申候。雨あがりの三日月《みかづき》、夕焼雲の棚曳《たなび》くさまも彼《か》の大木の梢に打眺め候へば誠に諸行無常《しょぎょうむじょう》の思ひに打たれ申候。しかしながらいかほど嘆《なげ》き候ても、もと/\わが身の手にて隠し候|金子《きんす》。わが身の手にて取出す力なくなり候事なれば、誰を怨むにも及ばざる事に候間、月日を経《ふ》るに従ひ、これぞ正《まさ》しく因果《いんが》応報の戒《いましめ》なるべくやと、自然に観念致すように相なり申候。とにかくに半金の五拾両は面白|可笑《おか》しく遣《つか》ひ棄《す》て候事なれば、唯今の中《うち》諦《あきら》めを付け申さず候ては、思ひもかけぬ禍《わざわい》を招《まね》ぐも知れずと、樹上の金子の事はきつぱり思切るやうにと心掛け申候。然《しか》る処また/\別の考《かんがえ》いつともなく胸中《きょうちゅう》に浮び来り申候。それは彼《か》の金子今も果して樹上の穴に有之候|哉《や》否や。愚僧の心付かぬ中《うち》盗み去りし者は無之候哉と、この事ばかり気にかゝり候て、一応金の有無だけはしかと見定め置きたき心地致し候。次にはまた、もし彼の金子今以て別条|無之《これなき》においては、天下の通宝《つうほう》を無用に致し置く訳《わけ》なれば、誰なりと取出し、勝手に遣へばよきものをといふ心にも相なり申候。但し軽々しく口外致すべき事には無御座《ござなく》候|間《あいだ》これまたそのまゝに致し、唯たゞ時節の来るを待ちをり申候処、或日の事、当村の庄屋殿《しょうやどの》より即刻代官所へ同道致されたき趣《おもむき》、使《つかい》を以て申越され候間、直様《すぐさま》参り申候処、御役人|御出《おいで》有之|其許方《そのもとかた》に慶蔵《けいぞう》と申候|寺男《てらおとこ》召使ひ候事有之候哉との御尋《おたずね》なり。御仰《おおせ》の通り昨年冬頃まで召使ひ候旨|御答《おこたえ》申上候処、御役人申され候には、かの慶蔵事|新宿《しんじゅく》板橋辺《いたばしへん》の女郎屋《じょろうや》にて昨年来身分不相応の遊興致し候のみならず、あまつさへ大金所持致しをり候|故《ゆえ》、不審の廉《かど》を以て吟味《ぎんみ》致し候処、右慶蔵申立て候処によれば、慶蔵事盗み候金子は満行寺境内に有之候|子育地蔵尊《こそだてじぞうそん》の賽銭《さいせん》ばかりにて、所持の大金は以前より満行寺門内の大木の穴に有之候ものゝ由にて、当夜慶蔵事地蔵尊の賽銭を盗み取りこれを隠し置かむと存じ、門内の榎に登り候処、何時頃《いつごろ》何者の隠し置き候もの歟《か》、幹の穴には五拾両の大金差込み有之候を、慶蔵図らず見付出し、寺方へはそれとなく暇《ひま》を取り候|趣《おもむき》申立て候得《そうらえ》どもなほ不審の廉《かど》少なからざるにつき、一応住職に聞たゞし候|上《うえ》、江戸|表《おもて》へ送り申すべき手筈《てはず》なりとの事に御座候。愚僧は大《おおい》に驚き慶蔵の申開きにはいさゝかの偽りも無之旨《これなきむね》申述べたくは存じ候ものゝ、然《しか》らば樹上の五拾両は誰が隠し置き候哉と御詮議《ごせんぎ》に相なり候ては大変なりと、何事も申上げずそのまゝ立帰り申候。当村はその時分|小普請組《こぶしんぐみ》御支配|綱島右京様《つなじまうきょうさま》御領分にて有之候間、寺男慶蔵は伝馬町《てんまちょう》御牢屋《おろうや》へ送られ、北の御奉行所《ごぶぎょうしょ》御掛《おかか》りにて、厳しく御吟味《ごぎんみ》に相なり候処、慶蔵事十余年前|麹町辺《こうじまちへん》通行の折拾ひ候処|隠場所《かくしばしょ》にこまり当山満行寺へ住込《すみこ》み候を幸《さいわい》、大木へ上り隠し置き候|旨《むね》申立て候由。勿論《もちろん》この儀《ぎ》は拷問《ごうもん》の苦痛に堪へかね偽りの申立を致候事なれど、いづれに致せ、賽銭を盗み候儀は明白に御座候間、そのまゝ入牢《じゅろう》と相きまり候処、十日ばかりにて牢内において病死致候。右の次第につき、五拾両の金子は慶蔵の遣ひ残り弐拾両余り有之候処、右は愚僧御呼出しの上落し人明白に相なり候時まで当山において、しかと御預り致すべき趣にて、そのまゝ御下げ渡しに相なり候。これにて愚僧が犯せる罪科の跡は自然|立消《たちぎ》えになり候事とて、ほつと一息付き候ものゝ、実はまんまとわが身の悪事を他人に塗付《ぬりつ》け候次第に候間、日数《ひかず》経《たち》候につれていよいよ寝覚《ねざめ》あしく、遂に夜な/\恐しき夢に襲はれ候やうに相なり候間、せめて罪滅《つみほろぼ》しにと、慶蔵の墓のみならず、往年|溜池《ためいけ》にて絞殺《しめころ》し候浄光寺の所化《しょけ》得念《とくねん》が墓をも、立派に建て、厚く供養《くよう》は致し候へども、両人が怨念《おんねん》なか/\退散致さゞるものと見え、先年大木より滑り落ち候時の打身《うちみ》その年の秋より俄《にわか》に烈《はげ》しく相なり候上、引続き余病もいろ/\差加《さしくわ》はり、一日起きては三日ほど寝ると申すやうなる身体《からだ》になり果て候。この分にては到底元の身体には本復致すまじくやと覚束《おぼつか》なく存ぜられ申候。増して年も追々《おいおい》六十に迫り候老体の事に御座候へば、いづれにも致せ、余命のほどは最早や幾《いくば》くも無之事と観念致をり候間、せめて今の中|懺悔《ざんげ》のあらまし認《したた》め置きたく右の通り書き続け申候也。なほ以て当山満行寺住職|後継《あとつ》ぎの件につきては別紙に委細落ちなきやう認め置き申候。なほ/\愚僧実家の儀に付きては、往年|三縁山《さんえんざん》学寮出奔この方《かた》、何十年|音信《いんしん》不通に相なり候間、これまた別簡|一封《いっぷう》認め置申候也。以上。南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》南無阿弥陀仏。慶応 年 月 日。武州《ぶしゅう》荏原郡《えばらごおり》荏原村。円光山《えんこうざん》満行寺《まんぎょうじ》住職|釈良乗《しゃくりょうじょう》書。 [#地から2字上げ]昭和四年三月稿 昭和六年二月訂正 底本:「雨瀟瀟・雪解 他七篇」岩波文庫、岩波書店    1987(昭和62)年10月16日第1刷発行    1991(平成3)年8月5日第6刷発行 底本の親本:「荷風小説 六」岩波書店    1986(昭和61)年10月9日 初出:「中央公論」    1931(昭和6)年5月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※表題は底本では、「榎《えのき》物語」となっています。 入力:入江幹夫 校正:酒井裕二 2018年3月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。