日本婦道記 二十三年 山本周五郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)新沼靱負《にいぬまゆきえ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一|刻《とき》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#6字下げ] ------------------------------------------------------- [#6字下げ]一[#「一」は中見出し] 「いやそうではない」新沼靱負《にいぬまゆきえ》はしずかに首を振った、「……おかや[#「おかや」に傍点]に過失があったとか、役に立たぬなどというわけでは決してない、事情さえ許せばいて貰いたいのだ。隠さずに云えばいま出てゆかれてはこちらで困るくらいなのだから」 「それでお暇が出るというのはどういうわけでございましょうか」律義に坐った膝《ひざ》をいっそう固くしながら多助はこう云った、「……あちらで今よく話してみたのですが妹はただ泣くばかりで、悪い処《ところ》はどのようにも直して御奉公します、お暇だけはどうか勘弁して頂けますように、兄《あに》さんからもお詫《わび》を申上げて下さい、こう申しまして、どうしても家へは帰らぬと云い張っているのでございます」 「仔細《しさい》はよく話したのだ、然しまるで聞分けがないので其方に来て貰ったのだが、実はこんど此処《ここ》をひき払って伊予の松山へ参ることになったのだ」  新沼靱負は会津《あいづ》蒲生《がもう》家の家臣で、御蔵奉行《おくらぶぎょう》に属し、食禄《しょくろく》二百石あまりで槍刀預という役を勤めていた。亡き父の郷左衛門《ごうざえもん》は偏屈にちかいほど古武士的な人で、善い意味にも余り善くない意味にも多くの逸話を遣しているが、靱負はごく温厚な、まるで父とは反対の性質をもっていた。これというぬきんじた才能も無い代りに、まじめで謹直なところが上からも下からも買われて、平凡ながら極めて安穏な年月を過して来た。六年まえ二十五歳で結婚し、臣之助という長男をあげてから、去年の秋二男の牧二郎の生れるまでは、ずっとその安穏な生活が続いたのである。……然し二男を産むと間もなく、妻のみぎは[#「みぎは」に傍点]が病みついたのをきっかけのように、その平安無事な生活はがらがらと崩れ始めた。第一は主家の改易であった、その年、つまり寛永《かんえい》四年正月、下野守忠郷《しもつけのかみたださと》が二十五歳で病歿《びょうぼつ》すると、嗣子《しし》の無いことが原因で会津六十万石は取潰《とりつぶ》しとなった。家中の動揺と混乱はひじょうなものだったが、幸い世を騒がすような紛擾《ふんじょう》も起こらず、多くの者が或いは志す寄辺《よるべ》を頼り、また他家へ仕官したりして、思い思いに城下を離散した。然しこういうなかで、別にひとつの希望をもつ少数の人びとがあった。それは亡き下野守の弟に当る中務大輔忠知《なかつかさたいふただとも》が、伊予のくに松山に二十万石で蒲生の家系を立てている、詰り会津の支封ともいうべきその松山藩に召抱えられたい、例《たと》え身分は軽くとも主続きの蒲生家に仕えたいというのだ。新沼靱負もそのなかの一人だった、そしてその仲間の人びとと一緒に、ひとまず会津城下の郊外に住居を移して時節を待つことにした。……病みついていた妻は新らしい住居に移ってからも床を離れることができず、夏のはじめには医者から恢復《かいふく》の望みのないことを告げられた。どんなに靱負のまいった[#「まいった」に傍点]ことだろう。生れて十月にも満たない牧二郎はよく夜泣きをした。彼はなかなか泣きやまない嬰児《えいじ》を抱きあげ、馴れぬ子守唄を歌いながら、仄暗《ほのぐら》い行燈の光の下にうつらうつらまどろんでいる病床の妻の窶《やつ》れはてた寝顔を見ては、息苦しい絶望にうたれた幾夜かの記憶を忘れることができない。けれども不幸はそれだけではなかった、新秋八月にはいると間もなく、長男の臣之助が悪質の時疫《じえき》にかかり、僅か三日病んで急死したのである。――不幸は伴をともなう、靱負はその言葉を現実に耳許《みみもと》で囁《ささや》かれるような気持だった。そして妻のみぎは[#「みぎは」に傍点]は臣之助に三十日ほど後《おく》れて亡き人となった。  こういう状態のなかで、靱負の唯一のたのみは婢《はしため》のおかや[#「おかや」に傍点]であった。会津を退転するとき、貯えも多からず病妻を抱えての浪人なので、家士召使にはみな暇を遣ったが、おかや[#「おかや」に傍点]独りはどうしても出てゆかず、殆んど縋《すが》りつくようにして一緒に付いて来た。……十五の年から仕えてもう二十歳になる、縹緻《きりょう》も悪くはないし、性質の明るい、疲れることを知らないかと思うほどよく働く娘で、妻のみぎは[#「みぎは」に傍点]はまるで妹のように愛していた。両親はなかったが多助という兄がすぐ近在に百姓をしていて、三年ほどまえから度たび、「良縁があるからお暇を頂くように」と云って来たが、おかや[#「おかや」に傍点]はまだ早すぎると答えるばかりで、到頭その頃としては婚期に後れたといってもよい年まで新沼家に奉公し続けて来たのだった。……病める妻と乳呑み児を抱え、五歳の長男を育てる生活はなまやさしいものではなかった。医者から病ちゅう授乳を止められたので、日に三度ずつ乳貰いをして、あとは重湯や水飴《みずあめ》を与えるのだが、それを薄めたり温《あたた》めたりする加減が、男の手ではなかなか旨《うま》くゆかないし、襁褓《むつき》や肌着の取替え、病人の看護、炊事、洗濯など、実際に当ってみるとなにもかも男ひとりの手には余る事ばかりであった。おかや[#「おかや」に傍点]がいて呉《く》れなかったらどうしたろう、靱負はそう思うだけで、背筋の寒くなるようなことが度たびだったのである。 [#6字下げ]二[#「二」は中見出し]  松山の蒲生家に仕えようという同じ希望をもった人びとの多くがこのあいだに二人三人と欠けていった。それは連絡をとっている松山藩の老職から思わしい知らせがなく、いつになったら望みが協《かな》えられるか段だん不安になりだしたからだ。臣之助の急死に次ぐ妻の死で、暫く虚脱したような状態にいた靱負は、そうして仲間から欠けてゆく人たちを見送りながら、やがて、――これは便々とこんな処で待っている時ではない、ということに気づいた。望みが協うにしろ協わぬにしろ、とにかく松山へ行くべきだ、こんな遠隔の土地にいては纏《まと》まる話も纏まらなくなる惧《おそ》れがある、彼はそう思ったのですぐに残っている仲間と相談をした。みんなその意見には頷《うなず》いた、けれどもそれでは行こうと決めるには、四国松山は余りに遠すぎる、――行ってみてもし不調に終ったら、……そう考えると躊躇《ちゅうちょ》せざるを得なかった。靱負にはそういう迷いはなかった。もし不調に終るようだったら武士をやめる、蒲生家のほかに奉公はしたくはない、彼は初めからそう決心していたのである。  以上のようなゆくたてがあり、彼は単独で松山へ行くことに決めた。そしてその仔細をよく語っておかや[#「おかや」に傍点]に暇を遣《や》ろうとした、おかや[#「おかや」に傍点]は肯《き》かなかった。「松山へお供させて頂きます」強情にそう云い張って動かなかった。「できればそうしたいのだ」靱負は懇《ねんご》ろに訓《さと》した、「然し松山へまいってもいつ仕官が協うか見当もつかぬ、貯えも乏しく、浪人の身の上では、おまえの給金さえ遣り兼ねる時が来るだろう、ましておまえはもう二十という年になっている、家へ帰って嫁にゆくことも考えなくてはいけない、この場合それが女としては正しい道なのだから」こういう意味を繰返し云って聞かせた、するとおかや[#「おかや」に傍点]は、「ではせめて坊さまが立ち歩きをなさるようになるまで……」と云いだし、どうしても聞分けようとしないのである、それでどうにも法が尽きて兄の多助を呼んだのであった。 「さようでございますか、よくわかりました」始終の話を聞いて、多助はひどく律義に幾たびも頭を下げた、「……そういうことでしたら、私からもういちどよく申し聞かせましょう、幸い今ひとつ縁談もあることでございますから」「それならなお更のことだ、然し叱ったり無理押し付けでなく、よく納得のゆくように申し訓して呉れ」「できるだけ思召《おぼしめ》しのように致します」そう答えて多助は座を立った。  多助の訓し方がよかったのか、それともようやく諦《あきら》めがついたものか、こんどはおかや[#「おかや」に傍点]は案外すなおに云うことを肯いた。そして、「ながい御道中ではあり寒さに向かいますから、坊さまのお肌着を少し余分にお作り申しましょう」と云い、それから数日のあいだまめまめと縫い物や洗濯に精をだすのだった。……もう悲しそうなそぶりはみせなかった、針を運びながら側に寝かせてある牧二郎をあやす言葉など、蔭《かげ》で聞いていると寧《むし》ろ浮き浮きしている者のようにさえ感じられた、――これでいい、靱負はそう頷いてほっとしたのであった。  おかや[#「おかや」に傍点]は靱負の出立する前の日に暇を取った。迎えに来た兄と一緒にいよいよ別れるという時、彼女はなんども牧二郎を抱き緊め、声を忍ばせて泣いた。けれどもそれ以上みれんなようすは見せず、思いきりよく多助に伴《つ》れられて去っていった。十五歳で来て六年、殊に妻が病みついてからのおかや[#「おかや」に傍点]の尽して呉れた辛労を思うと、満足に酬いてやることもできないこのような別れが、靱負にとってはこの上もなく心痛むものだった。彼は牧二郎を抱いて門まで見送り、「早く良縁を得て仕合せになるように」と繰返しそのうしろ姿に向かって祈った。……然しそれから一|刻《とき》も経ったであろうか、ちょうど牧二郎に昼の薄粥《うすがゆ》を与えているところへ、息を切らして多助が戻って来た。 「おかや[#「おかや」に傍点]がまいりましたろうか」「此処へは来ないが」靱負はおかや[#「おかや」に傍点]という言葉に恟々《きょうきょう》として出ていった、「……どうかしたのか」「はい、途中で見えなくなりましたので」「先に家へ帰ったのではないか」「いいえ荷物が置いた儘《まま》ですからそんなことはないと思います」不吉な予感が靱負の心を刺した。彼の頭には村はずれを流れている大川の早瀬が想い浮び、杉の杜《もり》の裏にある沼の淀《よど》んだ蒼黒《あおぐろ》い水が見えるように思った。「ともかく人を集めて捜さなければ……」彼はそう云い、村人たちの助力を求めるために出ていった。けれどその必要はなかった、靱負が用水堀に沿った堤道へ出てゆくと、向うから顔見知りの村人たち四五人の者――が、おかや[#「おかや」に傍点]を戸板に載せて運んで来るのと会った。多助はなにか叫びながらそっちへ駆けつけていった、靱負はそこへ棒立になったが、すぐに踵《くびす》を返して家の中へ戻った。 「八幡様の崖《がけ》の下に倒れていたのです」村人たちは口ぐちに云った、「……どうかして崖から墜ちたのでしょう、みつけた時は死んだように息も止まっておりました」「それでもたいした怪我はしていないようです、息もすぐ吹返しましたし、別に血の出ているところもありませんから」南村にいる名庵《めいあん》という医者にはすぐ知らせて来た、もう間もなく此処へ来るであろう。村人たちはこう語りながら、半身土まみれになったおかや[#「おかや」に傍点]の躯《からだ》を家の中へ担ぎ入れて来た。 [#6字下げ]三[#「三」は中見出し]  馬で駆けつけた医者は、必要と思われる有らゆる手当を試みた。外傷もなく骨折もないようだった、意識も恢復して、頻《しき》りに起きようとする、結局どこにも故障はないのだが、然し、……おかや[#「おかや」に傍点]は口が利けなくなっていた。「それだけならようござるが」と医者はなんども首を傾《かし》げながら云った、「……そしてまだ確言はできませぬけれど、今のところでは脳の傷み方がひどい、ひと口に申せば白痴のようになっております」 「白痴と申すと」靱負は自分の耳を疑った、 「……つまり」 「そうでござる、意識はちゃんとしておるが判断力というものがまったくござらぬ、崖から落ちた時に頭を打ったのが原因でござろう、口が利けなくなったのもそのためで、悪くするとこれは生涯治らぬかも知れません」  靱負は改めておかや[#「おかや」に傍点]を見た。おかや[#「おかや」に傍点]は仰むけに寝たまま放心したように天床を見まもっていた、焦点がぼやけて、どろんと濁った眸子《ひとみ》、緊りのなくなった、涎《よだれ》で濡れて半ば開いている唇、そして時おり歯の間からもれる無意味な、唖者《あしゃ》に特有の喉音《こうおん》など、すべてが医者の言葉を裏付けているようにみえた。――そうだ、正しくこれは白痴になる。靱負は心のうちに繰返しそう呟《つぶや》いた。そしてどういうわけでか、その責任がすべて自分にあるという考えを避けることができなかった。  頭を冷して安静に寝かして置くよう、また明日にでも見舞うから、そう云って医者が去るとすぐ、靱負と多助が止めるひまもなく、おかや[#「おかや」に傍点]は起き出してしまった。なんとしても寝床へは戻らなかった、頻りに牧二郎を負いたがるので、紐《ひも》で背負わせてやると、こんどは松山へ立つために支度のできている荷物を持ちだして、「ああ、ああ」と外を指さしながら、すぐにも旅立ってゆこうという意味を身振りで示した。 「こんなにもお供をしてまいりたかったのでございましょうか」多助は哀れな妹の姿から眼を外《そ》らせながら云った、「……一旦は家へ帰ると申しましたが、本心はやっぱり御奉公がしていたかったのでございましょう、途中からひき返してまいりましたのは、たぶんもうひと眼坊さまにお暇乞《いとまご》いでもする積りだったのでしょうが、それがこんな分別もつかぬ者になった、……ごらん下さいまし、自分では松山へお供をする気だとみえます」  靱負には答える言葉がなかった、多助はいちど帰って妻を伴れて来ると云い、折から降りだした時雨《しぐれ》のなかへと小走りに出ていった。……然しそのとき既に靱負の考えはきまっていた、彼はおかや[#「おかや」に傍点]を松山へ伴れてゆこうと思い決めたのである。多助の云うとおりおかや[#「おかや」に傍点]は暇を取りたくなかった、困窮している主人への義理か、幼弱な牧二郎への愛着か、理由はわからないが、ともかく新沼家から出たくなかった、思いがけぬ奇禍で白痴になってさえ、松山へ供をしてゆく積りでいる。  ――もうこの儘では嫁にゆくこともできまい。靱負はそう思った。寧ろ松山へ伴れてゆくほうが、心がおちついて治る望みが出るかも知れない。  これほど思い詰めている気持も哀れだし、今日までの辛労に酬ゆるためにも、多少の不便は忍んで伴れてゆくのが本当だ。 「おかや[#「おかや」に傍点]」と彼は側へいって呼びかけた、 「……いっしょに松山へ行こう、おまえにはずいぶん苦労をかけた、松山へ行って、治ったら新沼から嫁に遣ろう、もし治らなかったら一生新沼の人間になれ、わかるか」  おかや[#「おかや」に傍点]はけらけらと笑った。さっきから抱えたままの荷物を持って、背中に負った牧二郎をあやすかと思えば、いそいそと土間へ下りて、すぐにも出立しようと促すような身振りを繰返すのだった。そのとき戸外は本降りになっていた、空は鉛色の重たげな雲に閉され、黄昏《たそがれ》ちかいうら寂しい光のなかを、さあさあと肌寒い音をたてながらかなり強く降りしきっていた。  予定より七日ほど後れて靱負は出立した。おかや[#「おかや」に傍点]を伴れてゆくに就いて、多助には少しも異存はなかった、「ただこんなお役に立たぬ者になり、また遠国のことでなにか有ってもお伺い申すことができません、どうぞ呉ぐれも宜《よろ》しくおたのみ申します」領分境まで見送りながら、多助夫妻は諄《くど》いほど同じたのみを繰返すのだった。……冬にかかる季節で、旅は幸いと日和に恵まれた。主君の供で江戸までは出たことがある、けれど江戸から西は初めての道だった、名のみ聞いていた名所旧跡の数かず、野山のたたずまいも、宿じゅく町々の風俗も、すべてが珍らしく、旅情を慰めて呉れるように思えた。  おかや[#「おかや」に傍点]は考えたより足手纏いにならなかった、却《かえ》って案外なほど役に立ったと云っても嘘ではない。口が利けないのと、物ごとの理解が遅鈍なので、他の用には間に合わぬことが多かったけれど、靱負の身のまわりや牧二郎の世話ぶりには欠けたところがなかった。靱負はここでもまた「もしおかや[#「おかや」に傍点]を伴れて来なかったら」と思うことがしばしばだったのである。 [#6字下げ]四[#「四」は中見出し]  松山に着いたのは師走《しわす》中旬のことだった。予《かね》て書信だけ取り交わしていた老職を訪ねると、会うことは会ったが、「無謀なことを」と云いたげな表情を明らさまに示した。 「蒲生家のほかに主取りを致す所存はこざいません」靱負は臆せずにそう云った、「……もし御当家にお召抱えの儀が協いませんければ、御領地の端で百姓をする覚悟でまいりました」 「とにかく住居が定《きま》ったら知らせて置くがよい」相手は困惑した調子でひどく事務的にそう云うだけだった。「……余り当にされても困るが、なに事かあったら知らせるから」  覚悟はして来たものの、実際に老職と会って、予想外に冷やかなあしらいを受けた落胆は大きかった。もちろんそれで希望を抛《なげう》ったわけではない、――こんなことで挫《くじ》けてはならぬ、と自分を叱りつけたが、これからの生活がよほど困難なものになるだろうということは考えないわけにいかなかった。そしてこれは彼にとって却って幸いだった、靱負は城下から北東に離れた道後《どうご》村に住居をきめると、坐食していてはならぬと思って、すぐに収入の道を捜してみた。道後は古代から名高い温泉場で、諸国から湯治に来る客が四時絶えない、またそういう客を相手の土産店もたいそう繁昌しているが、その名物の一つに土焼の人形があった。手づくね[#「づくね」に傍点]のごく単純な土偶《でく》を素焼きにし、それへ荒く泥絵具《どろえのぐ》を塗っただけのものである。靱負が選んだのはその絵具塗りの内職だった、むろん賃銭は些々《ささ》たるものだが、幾らかは食い減らしてゆく貯えの足しになるだろう。――時節の来るまでの辛抱だ、彼は自分にそう云い聞かせながら、まず懸命に刷毛《はけ》使いから習いはじめた、――時節の来るまで。  然しこうして始まった松山での生活も平穏な日は少なかった。それから五年のあいだ靱負は三度も病床に臥《ふ》し、一度などは半年も寝たきりのことがあった。そのときおかや[#「おかや」に傍点]がどんなに頼みだったことだろう、彼女は依然として口が利けず、白痴のほうもその儘だったが、牧二郎の養育や家の内外の世話には申し分のない働きぶりをみせた。靱負の仕事を見覚えていたのだろう、彼がながく病臥《びょうが》したときなどは、止めるのも肯かず、自分で材料を取って来て内職をした。牧二郎の守をし、靱負の看病をし。炊事や薬|煎《せん》じをする片手間で、……然もそれはさほど見劣りのしない出来であった。 「なんという皮肉だ」靱負はそのとき泣くような苦笑をうかべながら云った、「……会津を立つまえおまえの病が治ったら新沼から嫁に遣ろう、治らなかったら一生面倒をみてやる、おれはあのときそう云ったのを覚えている、それがどうだ、今では逆におれがおまえの世話になっているではないか、こんなことなら伴れて来るのではなかった、おまえにこんな苦労をさせるくらいなら」  おかや[#「おかや」に傍点]には主人の言葉がわかったろうか、彼女はやはりけらけらとただ笑うだけだった。なんの感動もない、虚《うつ》ろな乾いた声で、……そして表情もそぶりも、同じように無内容な白じらしいものだったのである。  新沼の家族が経験した多難の年月はちょうど九年続いた。そして最も大きく靱負をうちのめした「松山藩の改易」という出来事にゆき当った。即《すなわ》ち寛永十一年八月、城主蒲生忠知が三十歳で病死すると、こんども世子《せいし》が無いというのを理由に、松山二十万石は取潰しとなったのだ。靱負の失望と落胆はここに書くまでもないだろう、かれは会津で亡き妻が病みついて以来の、烈しい連打にも似た不運の一々を想い、それがまったく徒労だったことに気づいて慄然《りつぜん》とした。徒労といえば、九年というながいあいだ、彼が泥絵具で塗りあげた無数の土偶も同じことではないか、湯治客に買われていった土焼き人形の多くは、納戸や棚の隅に押込まれているか、かたちも留めず毀《こわ》れ去ったに違いない、よしまたその全部が完きまま遺っていて、眼の前へ堆高《うずたか》く積みあげたとしても、それはただ夥《おびただ》しい土偶の数だけというだけで、少しも彼の苦難の日々に意義があったという証《あかし》にはならない、――なんという徒労だ、なんという取返しのつかない徒労だ。靱負は絶望のあまり時々はげしく死を思うようになった。  それは遽《にわ》かに涼風の立ちはじめる中秋九月の或る夜半のことであった。靱負はひじょうに重苦しい夢をみて覚めると、えたいの知れぬ力でたぐり込まれるように「今だ、今だ」と思い、手を伸ばして枕頭の刀を取ろうとした。すると殆んど同時に、彼のうしろで云いようもなく悲痛な絶叫がおこり、暴あらしくじだんだを踏む音が聞えた。靱負は殴りつけられたように振返った、そこにはおかや[#「おかや」に傍点]が立っていた。恐怖のために顔はひき歪《ゆが》み、双《ふた》つの眼はとび出すかと疑えるほど大きく瞠《みひら》かれていた、その眼で靱負をひたと覓《みつ》めながら、おかや[#「おかや」に傍点]は「ああ、ああ」と意味をなさぬ声をあげ、激しく身悶《みもだ》えをした。 「おかや[#「おかや」に傍点]、……」靱負は水を浴びたような気持でそう呟いた、「……おかや[#「おかや」に傍点]、おまえか」 [#6字下げ]五[#「五」は中見出し]  靱負はその夜かぎりもはや死を思うようなことはなかった。恐怖にひき歪《ゆが》んだおかや[#「おかや」に傍点]の顔を見たとき彼はおのれの思量の浅はかさを知ったのである。人間にとって大切なのは「どう生きたか」ではなく「どう生きるか」にある、来《こ》し方を徒労にするかしないかは、今後の彼の生き方が決定するのだ、――そうだ、死んではならない、ここで死んでは今日までのおかや[#「おかや」に傍点]の辛労を無にしてしまう。彼はそう思い返した、――生きよう、これまでの苦難を意義あるものにするか徒労に終らせるかはこれからの問題だ、生きてゆこう。……後から考えるとそれが彼の運命の岐《わか》れめだった、有らゆる事に終りがあるように、新沼靱負の不運もようやく終るときが来たのであった。  その年十月、改易された蒲生氏の後へ隠岐守松平定行《おきのかみまつだいらさだゆき》が封ぜられて来た。これは世に久松家とも呼ばれる徳川親藩の一で、定行の父は従《じゅ》四位少将定勝といい、家康の異父弟に当っていた。……隠岐守が入国すると間もなく、靱負は使者を受けて老臣役宅に招かれた、そして鄭重《ていちょう》なもてなしをされたうえ、「松平家へ仕官をする気はないか」と問われた。先方では彼が会津蒲生の旧臣だということから、松山へ来た目的や、今日までその目的一つを堅く守ってきた仔細をよく知っていた。 「蒲生家でなければ再び主取りはしないという、その珍重な志操を生かしたい、残念ながら蒲生家にはもう再興の望みはござらぬ、熟《よ》く御思案のうえ当家へお仕えなすってはどうか」  食禄も会津の旧|扶持《ふち》だけは約束する、そういう懇切な話だった。靱負はいちど帰って考えた結果、仕官の勧めを受けることにした。蒲生氏がまったく滅びてしまい、松平家から今そのように望まれるものを、なお「蒲生ならでは」と固持するのは頑迷か片意地に類する、――すなおに好意を受けるのが至当だ、こう決心したのであった。そして彼は食禄二百石で松平家に仕え、馬廻りとして勤めはじめた。  それからの春秋は平穏なもので、格別なにも記すような事はない、牧二郎は無事に成長した、十二歳のとき児小姓《こごしょう》に上って、数年は江戸国許ともに側勤めだったが、十六歳になると学問武芸を修業するためいったん御殿を下り、二十歳で再び召し出された。そのときは小姓番支配心得で、父とは別に百石の役料を賜わった、新参者の子としてはかなり稀《まれ》な殊遇である、「これで新沼の家も大丈夫だ」靱負はさすがに喜びの色が隠せなかった、「……思えばながい苦労であったが、これでどうやら苦労の甲斐《かい》があったと云える、今後はこれをどう生かしぬくかだ」彼は繰返しそれを牧二郎に云うのだった。  靱負は慶安二年五十三歳で死んだ。牧二郎は相続して父の名を襲い、その年の冬、同家中の菅原いね[#「いね」に傍点]というむすめを妻に迎えた。その祝言の夜のことである、列席の客が去り、後片付けも終って、更けた夜空を渡る風の音が、冴《さ》えかえって聞えるほど家の中が鎮まったとき、牧二郎はおのれの居間へおかや[#「おかや」に傍点]を呼んで対坐した。おかや[#「おかや」に傍点]はもう四十三という年になっていた、健康な彼女は血色もよく、肉付のひき緊った小柄な躯つきは昔のままだったが、ながい労苦を語るかのように、鬢《びん》のあたりには白いものがみえだしていた。 「おかや[#「おかや」に傍点]、牧二郎もこれで一人前になった」彼はしずかにそう口を切った、「……今日まで二十三年、新沼の家のためにおまえの尽して呉れた事は大きい、おれが幼弱だった頃のことは父上に聞いたし、物ごころがついてからはおれ自身の眼で見ている、父上のことは云うまい、牧二郎はおまえの力で育ったのだ、牧二郎が今日あることはみんなおまえのおかげだ、有難う」 「…………」おかや[#「おかや」に傍点]は声を立てずに笑った、それは毎《いつ》もの愚かしい無感動な笑い方である。「今宵おれは妻を迎えた」彼はさらに続けて云った、「……明日からは妻がおまえに代る、おまえは牧二郎にとって母以上の者だ、妻にも姑と思って仕えるように云った、部屋も父上のお居間に移って貰おう、明日からおまえは新沼家の隠居だ、今こそおまえの休む番が来たのだ」  だからと云いかけて、彼はじっとおかや[#「おかや」に傍点]の眼を覓《みつ》めた。それは彼女の眼を透して心のなかまで覗《のぞ》くような烈しい視線だった、そうして相手の眼を覓めながら彼は云い継いだ。 「だからおかや[#「おかや」に傍点]、おれはおまえに白痴の真似をやめて貰いたいのだ」 「…………」おかや[#「おかや」に傍点]は顔色を変えた。 「おまえは白痴でもなし唖者でもない、おれはそれを知っているんだ」 「…………」おかや[#「おかや」に傍点]は驚愕《きょうがく》の余り身を震わせ、大きく眼を瞠りながら座をしさった。 「おれは知っているんだ」彼は激してくる感情を押えながら云った、「……おまえは新沼の家にいたかった、暇を出されたくなかった、それは乳呑み児を抱えて窮迫している父上から去るに忍びなかったから、けれど父上の御思案があり、そしてそれが動かし難いものだとみて、おまえはおまえなりの方法を思いついた、崖から墜ちて頭を打ったのもみせかけだし、白痴となり唖者となったのもみせかけだ、みんな新沼の家にとどまるための拵《こしら》えごとなのだ。白痴になればいうことを肯かなくとも済む、唖者になれば返事をせずに済む、……他の者ならもっと違ったことを考えたろう、然しおかや[#「おかや」に傍点]はそれが精いっぱいの思案だった、そしておまえは望みを達したのだ、自分の一生を注ぎ込むことになると承知したうえで」  抑えきれなくなった感動のために、その声はよろめき、ふつふっと涙がこみあげてきた。彼は手をあげて面を掩《おお》った、そしてしずかに涙を押しぬぐい、膝を正しながら言葉を続けた。 「おれがその事に気づいたのは七歳のときだった、前にも後にも知らないが唯いちど、おまえは夜なかに寝言を云った、子供のことでそのときはなんとも思わなかったが、ずっと後になってふと疑いがおこり、なにか事情があるものと察して父上に訊《たず》ねた、そして会津このかたの精《くわ》しい話を伺うと、すべてが眼の前にはっきり見えるように思えたのだ、それ以来ずっと、日夜おまえの挙措に注意してみて、おれの推察が間違いでないことを信ずるようになった、父上には申上げられなかったが、いつかおまえ自身にたしかめたいと思っていた、……おかや[#「おかや」に傍点]、云って呉れ、このながい年月、おまえにこんな異常な決心を持続けさせた原因はなんだ、単に主従の義理だけか、母上の恩に報ずるためか、隠さずに云うのだおかや[#「おかや」に傍点]、今こそおまえは口を利いてもいいのだから」 「ああ、……ああ、……」おかや[#「おかや」に傍点]の口を衝いて、唖者に独特の哀しい喉声《こえ》が洩れた。たしかに、おかや[#「おかや」に傍点]はいま若い主人に答えようとしている、云うべき言葉は喉まで出ているのだ「……ああ」貴方《あなた》の御推察は本当です、私は白痴でもなく唖でもありません、そしてなぜこんな愚かな真似をしたかといえば「ああ、……」それは奥さまが亡くなるときの、辛いお気持を見たからです、まだ乳も離れぬ坊さまと、世事に疎《うと》い旦那さまを遺して死ななければならない、それがどんなにお辛いことか、私には骨に徹るほどよくわかりました、女同志でなければわからない辛さが、私には熟《よ》くわかったのです、「ああ……」主従の義理でもなく、御恩に報ゆるためでもありませんでした、奥さまのお辛い気持を身に耐えた私は心のなかで奥さまにお誓い申したのです、旦那さまと坊さまのことはおかや[#「おかや」に傍点]がおひきうけ申しますと、「ああ……」それだけの言葉が今、おかや[#「おかや」に傍点]の胸いっぱいに溢《あふ》れているのだ、そしてそれを口に語ろうとするのだが、出るものは「ああ」という空《むな》しい喉声ばかりだった。 「ああ」おかや[#「おかや」に傍点]は自分で自分を訝《いぶか》るように眼をみひらいた、「ああ、……ああ、……」「おかや[#「おかや」に傍点]、おかや[#「おかや」に傍点]」牧二郎は思わず叫び声をあげた、「……おまえ口が利けないのか」「…………」彼女は大きくみひらいた眼で牧二郎を見あげた「…………」それから不意に両手で面を隠し、崩れるように前へ俯伏《うつぶ》した。  二十三年というとしつきはかりそめのものではない、そうだ、おかや[#「おかや」に傍点]は唖者になっていた。 底本:「山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語」新潮社    1981(昭和56)年9月15日発行    1981(昭和56)年10月25日2刷 初出:「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社    1945(昭和20)年10月 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:酒井和郎 2019年11月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。