日本婦道記 箭竹 山本周五郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)家綱《いえつな》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)三代|家光《いえみつ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)垜 ------------------------------------------------------- [#6字下げ]一[#「一」は中見出し]  矢はまっすぐに飛んだ、晩秋のよく晴れた日の午後で、空気は結晶体のようにきびしく澄みとおっている、矢はそのなかを、まるで光の糸を張ったように飛び、垜《あずち》のあたりで小さな点になったとみると、こころよい音をたてて的につき立った。――やはりあの矢だ。家綱《いえつな》はそううなずきながら、的につき立った矢をしばらく見まもっていたが、やがて脇につくばっている扈従《こしょう》にふりかえって、 「そこにある矢をみなとってみせい」  といった、扈従の者が矢立に残っているのをすべて取ってさしだした。四本あった。かれはその筈巻《はずまき》の下にあたるところを一本ずつ丁寧にしらべてみた、すると、はたしてそのなかにも一本あった、筈巻の下のところに「大願」という二字が、ごく小さく銘のように彫りつけてある。いま射た矢にもそれがあった、去年あたりからときどきその矢にあたる、はじめは気づかなかったが、持ったときの重さや、弦をはなれるときの具合や、いかにもこころよい飛びざまなど、いろいろなよい条件がそろっているので、ああまたこの矢かと思いあたるようになった。矢にもずいぶん癖のあるものだが、それほどはっきりと性《しょう》のそろったものはめずらしい、それでよく注意してみると、思いあたる矢にはきまったように「大願」という文字が彫りつけてあるのだった。 「たずねることがある、丹後《たんご》をよんでまいれ、西尾《にしお》丹後だ」  そう云って家綱は床几《しょうぎ》にかけた。扈従のひとりが走っていった。  御弓矢槍奉行《おゆみややりぶぎょう》の丹後守忠長《たんごのかみただなが》はすぐに伺候した。家綱はまだ十九歳であるが、三代|家光《いえみつ》の濶達《かったつ》な気性をうけてうまれ、父に似てなかなか峻厳《しゅんげん》なところがおおかった。弓矢奉行などがじかに呼びつけられる例は稀《まれ》なことなので、丹後守は叱責《しっせき》されるものと思ったのであろう、平伏した額のあたりは紙のように白かった。 「ゆるす、近う」  二度まで促されて膝行《しっこう》する丹後守に、家綱は持っていた一本の矢をわたした。 「その筈巻のすぐ下のところをみい、なにやら銘のような文字が彫ってある」 「はっ……」 「読めたか」 「はっ、仰せのごとく大願と彫りつけてあるかに覚えます」 「一年ほどまえより折おりにその矢をみる、どこから出たものか、いかなる者の作か、とり糺《ただ》してまいれ」 「恐れながら」  丹後守は平伏して云った。 「御上意の旨は御不興にございましょうや、もしさようなれば御道具吟味の役目として丹後いかようにもお詫《わ》びをつかまつります」 「いやそのほうは申付けたとおりにすればよい、なるべく早く致せ」  丹後守はその矢を持ってさがった。  将軍の御用の矢は、諸国の大名たちから献上されるものを精選し、もっともよい作だけをすすめることは云うまでもない、丹後守はみずから御蔵へいって、献上別になっている矢箱を念いりにしらべはじめた。ずいぶんの数だからそう早急にはわからなかった。それでしたやく[#「したやく」に傍点]の者にも手伝わしたが、三日めになってようやく問題の品のはいっている矢箱がみつかった。それは三河《みかわ》のくに岡崎の水野けんもつ忠善《ただよし》から献納されたものであった。枠《わく》に嵌《は》めて十本ずつ十重ねになっている箱が五つある。つまり五百本あるわけだが、そのなかから「大願」という文字を彫りつけた矢が五十本あまり出てきた。  丹後守はその矢を持って水野家をおとずれた。けんもつ忠善もひじょうにおどろいた。大願とはなにを祈念するのか分らないけれど、将軍の手に触れるものだけに、そのような品を気付かないで献上したことは重大な粗忽《そこつ》である。 「うえさまには御不興のようにござったか」 「そう存じまして、当座のお詫びを言上《ごんじょう》つかまつりましたところ、ただ申付けたとおり吟味せよ、急ぐぞ、との仰せにございました、それでとりあえず、お知らせにまいったしだいでございます」  忠善はぐっと唇をひきむすび、なにか思案をしていたようすだったが、 「これは家来どもには知らせたくないと思う、さいわいこの月末は参覲《さんきん》のおいとまに当るから、日を早めて頂き、自分で帰国してすぐとり糺すとしよう、それまで御前をたのむ」 「承知つかまつりました、できるだけ早く吟味のしだいお知らせねがいます」  念を押して丹後守は帰った。けんもつ忠善はじっとながいこと矢筈のきわの小さな文字をみつめていた。  これは万治《まんじ》二年[#1段階小さな文字](一六五九)[#小さな文字終わり]十月なかばのことである。話はここで十八年まえ、すなわち寛永《かんえい》十八年[#1段階小さな文字](一六四一)[#小さな文字終わり]にかえる、ところは駿河《するが》のくに田中城下、新秋の風ふきそめる八月のある日の午後のことであった。 [#6字下げ]二[#「二」は中見出し]  その時みよ[#「みよ」に傍点]は縁側から庭の柿をみていた。まだ若木のきざはし[#「きざはし」に傍点]で、今年はじめて五つほど実をつけたが、雨や風のために落ちてもう二つしか残っていない、それも熟すまで枝についているかどうかわからないけれど、いまはまだ葉簇《はむら》のあいだに、つやつやとした堅そうな光をみえかくれさせている。初生《はつな》りの柿を青竹で作った小さな籠にいれ、子供に背負わせると息災にそだつという俗習がある、みよ[#「みよ」に傍点]は青柿をながめながらそれを空想した。二歳の誕生を迎える安之助《やすのすけ》が、柿をいれた青竹の小さな籠を背にして、よちよちとあるく姿は考えるだけでも愛らしくたのしいものだった。――どうか一つでもよいから残って呉《く》れるとよい。若い母親には酔うほどの空想だった。そこへ家士の足守忠七郎《あしもりちゅうしちろう》がはせ入って来た、旅支度のままで脇の折戸からいきなり庭へ駆けこんで来たのである。埃《ほこり》まみれの髪、痩《や》せて落ちくぼんだ頬、血の気のない顫《ふる》える唇、それはひと眼で悪い出来事を直感させるものだった。 「御挨拶はごめん蒙《こうむ》ります」  かれは庭さきに膝《ひざ》をおろして云った、 「旦那さまには、久能山《くのうざん》にて御生害《ごしょうがい》にございます」  あまりに突然すぎたし、またあまりに思いがけない言葉だった、みよ[#「みよ」に傍点]はわれ知らず「えっ」ときき返しそうにしてようやく自分を抑え、膝の上に置いた手にぐっと力をいれた、鼓動が胸膈《きょうかく》をつきやぶりそうに思えた。忠七郎は乾いた唇をうちふるわせながら続けた。 「まちがいのもとは些細《ささい》なことでございましたが、賀川弥左衛門《かがわやざえもん》さまが云いつのり、ついに抜き合わせて、旦那さまにはみごとに賀川さまをお仕止めなさいました。見ていた者も旦那さまに非分はない、賀川さまが悪いと申し合っておりましたが、旦那さまは勤役ちゅうの不始末を申しわけなしと思召《おぼしめ》し、結末のことを詳しく目付役へお書き遺しのうえ、その夜半、宿所にて御切腹にございました」  みよ[#「みよ」に傍点]は昂奮《こうふん》を抑えたこわねでたずねた。 「それで、その大変は、お役目をおはたしあそばしてから後か、それともお役目はまだ残っていてか」 「不幸ちゅうのさいわいには、すでに奉納のお役は滞《とどこお》りなく終ったあとでございました」  ああそれでお名にかかわることはない、みよ[#「みよ」に傍点]はそう思うと同時に、はじめてぶるぶるとつきあげてくる身顫いをとめられなくなった。良人の百記《ももき》がお役を申付かって家を出かけたのは七日まえのことだった。その月二日に将軍家光に世子《せいし》が誕生した、水野けんもつ忠善はその祝儀として久能山東照宮へ石の鳥居を奉納することになり、茅野《かやの》百記はその事務がしらとして久能山へ出張したのである、なみなみの場合でないから、お役をはたしたかどうかということは、悲嘆のなかにもなによりみよ[#「みよ」に傍点]の気懸りなところだったのである。 「安之助への御遺言などはなかったか」 「……はい」  若い家士はつらそうに眼を伏せた、 「目付役へ始末書をお遺しあそばしましたほかは、一通の御遺書もなく、御遺言のこともございませんでした」  みよ[#「みよ」に傍点]は寂しそうに頷《うなず》いた、いかにも寂しそうな眼だった。  すぐにもお咎《とが》めの使者があるであろう、そう思ったので、召使たちにその旨を告げ、家内の始末にかかった。二百石の書院番で家財といっても多くはない、お上に収められるもののほかは僅かな衣類と仏壇だけがめぼしいものだった。ふだんつましく家計を守ったけれど、結婚して三年めであるし、安之助が生れたりして貯蓄は乏しかった、それで売れるものは売って、召使たちの餞別《せんべつ》の足しにしなければならなかった。  城から上使が来たのはその翌々日の朝のことだった、みよ[#「みよ」に傍点]は水髪に結い、着替えをさせた安之助を抱いて上使を迎えた。 「べっして大切なるお役目ちゅう、私の争いによって刃傷《にんじょう》に及びたる始末、重罪をも申付くべきところ、即座に自裁して責《せめ》を負いたる仕方しんみょうに思召され、よって食禄《しょくろく》召上げ遺族には領内追放を申付くるものなり」おたっしの趣意はそういうものだった。それから上使の役人は久能山で没収した百記の遺品のうち、金二枚に小銭のはいっている金嚢《かねぶくろ》と、大小ひと腰のかたな、それにひとつかみの遺髪をとりだして渡した。上使をおくりだしてから、みよ[#「みよ」に傍点]は仏壇にあかしをいれ、良人の遺髪をあげて、香を炷《た》いた。そして安之助とふたりしてその前に坐ったとき、はじめて思うままに、しかしこえをしのんで泣いた。 「安之助、さあ、お手を合わせて、よくおがむのですよ、こうして」  幼ない者の手を合わせてやり、低く唱名《しょうみょう》念仏しながら、みよ[#「みよ」に傍点]は涙のなかからしっかりと遺髪を見あげて云った。 「旦那さま、安之助の事は御安心あそばせ、かならずりっぱなさむらいに育てあげてごらんにいれます。御遺言のなかったのは、わたくしをお信じあそばしてのこととぞんじます。みよ[#「みよ」に傍点]はそのお心を決して忘れませぬ」  そのとき襖《ふすま》のかなたで、耐えかねたように誰かのすすり泣くこえが聞えた。 [#6字下げ]三[#「三」は中見出し]  あくる日の朝、みよ[#「みよ」に傍点]は安之助を背に負って家を出ていった。美濃《みの》のくに加納藩《かのうはん》に実家があるので、ひとまずそこへ落ち着くことにきめたのである。お咎めによる追放なので、知りびとは云うまでもなく、召使たちも見送ることはできなかった。ただひとりだけ、藤枝《ふじえだ》の在から奉公に来ていた下僕《げぼく》の六兵衛《ろくべえ》が、目付役とともに島田の宿《しゅく》まで送ってきた。かれは美濃までの供をねがってきかなかったけれど、みよ[#「みよ」に傍点]はかたく拒んでゆるさなかった。残暑の照りかえしで、ひろい川原は眼もくらみそうな暑さだった、母子《おやこ》はその川原をとぼとぼあるいてゆき、やがて人足の肩に倚《よ》ってかなたの岸へと越していった。  それから三日経った。旱《ひで》りの続いた夏のあとで、待ち兼ねた雨がまさしく秋のおとずれのように降りだした日の夜、八時ころと思えるじぶんに藤枝在の水守《みずもり》という村にある六兵衛の家をひそかにおとずれる者があった。六兵衛の婿の次郎吉が出てみると、城下のお屋敷でみかけたことのあるみよ[#「みよ」に傍点]にまぎれはなかった。安之助を背に負ってびっしょり濡れていた。 「まあこれはどうあそばしました」六兵衛もびっくりしてとんで来た、 「いやそれよりもまずお召替えをなさらなければいけません。ただいま洗足《すすぎ》をお持ち申します」  娘のさだ[#「さだ」に傍点]と婿をせきたてながら、自分が洗足をとってすぐに母子を上へあげ、娘の晴着と孫の物を当座のまにあわせて着替えをさせた。いちど眼をさまして泣きだした安之助をようやく寝かしつけてから、みよ[#「みよ」に傍点]は六兵衛と婿夫婦を前にして坐った。そして、主従のよしみにすがってたのむのであるが、この土地でなにかたつき[#「たつき」に傍点]の業《わざ》にとりつくまで母子ふたりの世話をしてもらえぬだろうかと云いだした。六兵衛はおろおろと声をふるわせてさえぎった。 「お言葉ではございますが、おまえさまは御国ばらいのお身の上でございましょう、おふたりさまのお世話は願っても出たいところでございますけれども、まんいちこれが知れたときは国法にそむいた罪に問われ、おまえさまばかりか安之助さまの御一命にもかかわると存じます、それよりはともかく美濃のおさとへお帰りあそばすほうがよろしいのではございませんか」 「それはよくよく考えてみたのです」  みよ[#「みよ」に傍点]はしずかに、けれど心のきまったしっかりとした口調で云った、 「けれど百記は水野けんもつさまの御家臣でした、不運に死にはしても、百記の魂はかならずごしゅくんの御守護をしている筈です。わたくしは茅野百記の妻、安之助はその世継ぎなのです。たとえどのような重罪に問われましょうと、さむらいにはごしゅくんのおくにを離れてほかに生きる道はないのです、……主従は三世までというではないか」  六兵衛は両手で顔をおおい、こえをしのんでむせびあげた、さむらいの道のきびしさもさることながら、良人の魂の遺っている土地を去りがたい妻の心が、みよ[#「みよ」に傍点]の言葉の裏にありありとうつってみえたのである。 「よくわかりました、そのお覚悟なればもうなにも申上げることはございません、お世話というほどのことはできませぬがお力の足しくらいにはなりまする、お心おきなくおいであそばしませ」  母子はその夜から六兵衛の世話になることになった。  家族は六兵衛と娘夫婦、それにまだ幼ない孫が二人あり、半自作のあまり豊かならぬ農家だったので、はじめから安閑としているつもりのなかったみよ[#「みよ」に傍点]は、家人のとめるのもきかずに、あくる日から甲斐々々《かいがい》しく野良《のら》へ手伝いに出た。世を忍んで、しかし心のひきしまった生活がはじめられた、昼は耕地ではたらき、夜は草鞋《わらじ》をつくり繩をなった、かまどの前にも跼《かが》み、野風呂を焚いた。そういう日々のなかで、たったいちどだけ人眼にかくれて泣いたことがあった、それは背戸にある柿の若木が、枝もたわわに赤い実をつけたのをみたときだった。――城下の家の柿はどうしたかしら。そう思うのといっしょに、あの悪い知らせのあった日縁側からうっとりと青柿を眺めていた自分の姿が思いかえされた。良人が生きていたら、そしてあの初生りの柿が一つでも熟れていたら、いまごろは青竹で籠をあんで、安之助の背に負わせて、あやうげな足どりであるくさまを良人と共に笑いながら見ていたであろう。みよ[#「みよ」に傍点]の眼にはそのありさまがまざまざと見えた、それは未練な、恥ずかしいことだった。――こんな事で二度と泣いてはいけない。みよ[#「みよ」に傍点]は泣きながら、繰返し自分にそう誓っていた。  翌年七月、けんもつ忠善は三河のくに吉田城へと封《ほう》を移された。それでみよ[#「みよ」に傍点]も吉田へゆく決心をした、六兵衛と家人たちは言葉をつくしてとめた。此処《ここ》にいればこそ乏しくとも無事な日が暮せるのである、幼ない者をつれ、まだ若い婦人の身で、しるべもない他国へゆけばどんな難儀に遭うかもわからない、せめて和子《わこ》が十歳になるまではこの土地で暮すようにと。 [#6字下げ]四[#「四」は中見出し]  みよ[#「みよ」に傍点]の決心は、けれど変らなかった。「ごしゅくんけんもつさまのいらっしゃる土地が母子の生きるべきところなのです、身の難儀ははじめから覚悟のことですから」そう云って心づよくしゅったつの支度をはじめた。  六兵衛に見送られて大井川を渡ったのは八月はじめのことだった。道次《みちすがら》は残暑になやまされたが、さいわい水にもあたらず、安之助もすこやかに旅をつづけて四日めに三河のくに吉田[#1段階小さな文字](今の豊橋市)[#小さな文字終わり]へ着いた。たやすく記《しる》せないかずかずの苦労があったけれど、その年の冬には小坂井《こざかい》の里に小あきないの掛け小屋をはじめることができ、どうやらふたりの口はすごせることになった。みよ[#「みよ」に傍点]は安之助に少しずつ素読《そどく》の口まねをさせたり、筆を持たせてかな文字を書かせたりしながら、いとまを惜しんでせっせと草鞋をつくった、海道のことで往来の人は絶え間がなかったから、それは追われるほどもよく売れた。まして六兵衛の家でならい覚えたのは、農夫が自分の使うために作るものなので、はじめから売るように出来たものとは保ちかたが違っていた、それゆえしばらくするうちすっかり評判になり、よその店を通り越しても買いに来る客ができて、僅かながら不時の用にと貯えもつめるようになった。  安之助が六歳になるとみよ[#「みよ」に傍点]は付近の禅寺へたのんで学問をはじめさせた、寺僧は由《よし》ありげな母子のひとがらに同情したとみえ、――いっそ寺へお預けなされたらおまえさまもお身軽になれましょうが。と親切にすすめて呉れた、しかしみよ[#「みよ」に傍点]は子をはなす気にはなれなかった。まだ朝々の霜のふかい早春の野道を、安之助は元気に寺へかよってゆき、帰って来ると、声をはりあげて復習をした、そしてみよ[#「みよ」に傍点]の夜なべはそれからいっそう晩《おそ》くまで続けられるようになった。こうしてどうやら身のまわりも落ち着いたと思うとき、水野忠善はふたたび国替えとなり、五万石に加封《かほう》のうえおなじ三河の岡崎城へ移された、正保《しょうほう》二年七月のことである。まる二年のあいだに多少の知りびともでき、なりわいの道もついてほっとしたところだったけれど、みよ[#「みよ」に傍点]の心には少しも未練はなかった。ふしぎなまわりあわせで、そのときもまた新秋八月の、残暑のきびしい一日、少しばかりの荷物を負い安之助の手をひいて、みよ[#「みよ」に傍点]は小坂井の里を西へと立っていった。  岡崎もはじめての土地ではあったが、東海道ではゆびおりの繁昌な駅だったから、伝馬町《てんまちょう》すじの裏に長屋の一軒を借りると、その家ぬしの世話で、さしたる苦労もなく城下はずれの畷道《なわてみち》に、小坂井でしていたのとおなじ小あきないの店をもつ事ができた。家主の名は熊造《くまぞう》といった。固ぶとりに肥った小がらなからだつきで、髭《ひげ》だらけの顔にするどい眼つきをしているが、近所じゅうへ響くようなこえで日和のあいさつなどをする男だった。むかしは馬を曳《ひ》いて海道を往来したという、暴れ者で、ずいぶん世間から嫌われたのだそうだが、それだけに世の裏おもてをよく知っていて、困っている者があれば身を剥《は》いでも面倒をみるという風だった、いまでは伝馬問屋の店をもって親方ともいわれ、年々岡崎藩から幕府へ献上される竹束の輸送は、ほとんどかれの店がひとり占めの御用になっていた。熊造のひきたてもあったろうけれど、畷道のみよ[#「みよ」に傍点]の店はしぜんと海道に名をひろめていった、評判のもとはなんといっても草鞋だった。――やごめわろんじは百日はける。やごめ[#「やごめ」に傍点]は寡婦《やもめ》、わろんじは草鞋のおかざきぶりであるが、そんな通り言葉ができたほどみよ[#「みよ」に傍点]の草鞋は人々にもてはやされた。  はりつめた生きかたの身にゆく春秋をかぞえるいとまはなかった。安之助が十二歳になって、かたちばかりに鎧初《よろいぞ》めの祝いをしてから間もなく、家ぬしの熊造があらたまったようすで再縁のはなしをもちだした。相手はところの郷士で、年は四十を越しているが家はもう子供にゆずっていたし、家産もゆたかなので、もしみよ[#「みよ」に傍点]さえ承知なら別に家を建てて暮してもよいということだった。 「今だから申上げますが、実はこれまでになんどもこういうはなしがあったのです」  とかれは膝をかたくしてくそまじめに云った。 「あなたほどのご縹緻《きりょう》で独り身だからむりもないことだが、わたしは蔭《かげ》ながら御気性をお察し申していたので、御相談にあがるまでもなくなにぬかすとひと言で断わってきました。けれどもこの縁談だけはわたしも欲がでました、郷士といえばりっぱにさむらいでとおる、失礼ながら安之助さまにもゆくすえ御運のひらけるもとだと思いますが」  熊造の言葉は心からの親切がこもっていた、みよ[#「みよ」に傍点]はしまいまで黙って聴いていたが、聴き終るとすぐにきっぱりと断わった、いささかも思い惑うことのない、きっぱりと割りきった断わりかただった。 「やっぱりそうですか」  熊造はがっかりしたようすだった、けれど落胆のなかにもみよ[#「みよ」に傍点]の凜《りん》とした気性をつきとめたことはたのもしく思えたらしい、かれはそのはなしをぴたりと切上げ、 「それではあらためて御相談があります」と坐りなおした。 [#6字下げ]五[#「五」は中見出し]  相談というのはなりわい[#「なりわい」に傍点]を変えることだった。安之助もそろそろ世間の見えはじめる年ではあるし、あきない店などを出しているとあらぬ噂《うわさ》がたちやすいものである、だからそれをやめてほかに生活《たつき》の法を考えてはどうかというのだった。 「それには一ついいことがある、御承知かもしれませんがこの岡崎は竹の産地で年々お江戸へ献上する数もたいへんなものですが、そのなかに箭箆《やべら》にする竹があります、この竹を削って磨いて、箭箆にする仕事があるのですがやってごらんになりますか」 「そのような仕事が女でもできるのでしょうか」 「おもてむきはいけないことになっているが、なにお出入りの屋敷でその宰領をしているからわたしがたのめばどうにかなります、これなら手間賃もいいし、草鞋をつくるよりは骨も折れないでしょう、その気がおありならお世話をいたします」  考えることはなかった。みよ[#「みよ」に傍点]は畷道の店をたたんだ。  箭竹《やだけ》つくりは考えたほどたやすくはなかった。箭箆または箭簳《やみき》ともいう竹のつくり方にはいろいろ作法がある、十二|束《そく》、あるいは十三束|三伏《みつぶせ》などといって、拳《こぶし》ひと握りを束《そく》とよんで長さをきめる、そして簳《みき》には節が三つあるのがきまりで、「おっとり節」「なかの節」「すげ節」と上から順に名がつけられる。太さも長さもほとんどきまったのを選み、節を削り簳をみがき、筈《はず》を截《き》ったうえ下塗りをすればよいのだが、すべてが熟練を要する勘しごとで、はじめのうちはよく失敗をした、節を深く削りすぎたり、筈截りの手がすべって簳へ割りこんだりした、しぜん自分でも手を傷つけることが多く、しばらくのあいだはいつも左手の指に白い巻き木綿の絶えるときがなかった。けれどもはじめがむつかしかっただけに、馴れてくると、みよ[#「みよ」に傍点]はめきめきと腕をあげた、そして自分でも面白くなるにつれて、誰のつくるものにも負けないりっぱな箭をつくってゆこうという望みがおこった、それには竹を厳選しなければならないから、渡された数と仕上りの数にひらきができる、しぜん手間賃は少なくなるがみよ[#「みよ」に傍点]は構わずやっていった。――竹にむだをだしすぎる。はたしてそういう苦情がきた、土地から産する箭竹には限りがあるので、そうむだを多くしては困るというのだった、みよ[#「みよ」に傍点]は云いわけはしなかった。これから気をつけてむだを出さぬように致しますと答えた、けれど仕事は少しも変えずに続けていた。  安之助はすこやかに成長していった、辛苦のなかに育ちながら、気質ものびのびとしていたし、年と共にからだつきも人にすぐれて逞《たくま》しくなった。学問には満性寺《まんしょうじ》の方丈《ほうじょう》へ通っていた。十三歳の夏から投町《なげまち》にある町道場へも入門させたが、父親の血をうけたのであろう、これは学問ほどにはすすまないようすだった。こうしてさらに年月が経ち、安之助は十八歳の春を迎えた。そしてある夜のこと、かれはめずらしくかたちをただして母親の前に坐った。 「母上お願いがございます」  ひどく思いつめた眼つきだったので、なにを云いだすかと思っていると、自分もたつきを助けるために働きたいというのであった。 「わたくしも十八歳です、男いちにんまえの稼ぎはできなくとも、母子ふたりの口をすごすくらいはどうにかなると存じます、どうぞ働きにやって下さいまし」 「おやめなさい、そんなことは聞きたくありません」 「いいえ申します、母上にはお世話になりすぎています。修業ちゅうのからだゆえ今日まではおなさけに甘えておりました、けれどもう充分です、これ以上母上にご苦労をかけることはできません、わたくしが代ります、どうか母上はもう賃仕事などおやめになって下さい、お願いですから安之助に代らせて下さいまし」 「あなたは考えちがいをしています」  みよ[#「みよ」に傍点]はしずかにさえぎって云った、 「母が働いてきたのはあなたをりっぱに成人させたいためにはちがいありません、けれどそれさえはたせば役が済むというわけではないのです」 「そのお言葉は安之助にはわかりません」 「わからない筈はないでしょう、それとも、いつかお話し申した父上の御最期のことはもうお忘れですか」  そう云われて安之助はぎょっとしたようすだった。みよ[#「みよ」に傍点]の顔も苦しそうに蒼《あお》ずんだ、みよ[#「みよ」に傍点]は面を伏せ、低く呟《つぶや》くような声でしずかに続けた。 「父上は、不運な出来事のために、御奉公なかばで世をお早めなさいました、やむをえなかったのでしょう、そうせずにはいられない場合だったのでしょう。けれど……さむらいの道にはずれたと申上げなければなりません、死んでゆく父上にも、おそらくそのことがなによりもお苦しかったと思います、父上の御気性は母がよく存じています、母には、父上の苦しいお心のうちがよくわかるのです。生きるかぎり生きてごしゅくんに奉公すべきからだを、私ごとのために自害しなければならなくなった、さむらいにとってこれほど無念な、苦しいことはありません、母にはそれがよくわかるのです、どんなにおつらかったことか、どんなに御無念だったことか……」  安之助は腕で面を押えながら、耐え兼ねたように噎《むせ》びあげた。 「ご生害のとき」  みよ[#「みよ」に傍点]はそっと眼をぬぐいながら云った、 「父上がいちばんお考えになったのは、あなたのことだと思います、あなたが人にすぐれた武士になり、父のぶんまで御奉公をするようにとそれだけお望みなすったと思います。あなたにはそう思えませんか」 「そう思います、母上、そう思います」 「それならご自分の修業を一心になさい、そして千人にすぐれた武士になるのです、それだけがあなたのつとめなのです、母のことなど気をつかってはいけません、母には母のつとめがあるのです、あなたを育てることと……父上のつぐないをすることです」 「つぐないと仰《おっ》しゃるんですか」 「つぐないです、父上の仕残した御奉公をつぐない申すのです、それが茅野百記の妻としての一生のつとめです」  安之助はしんそこから感動していた、かれは涙に濡れた眼をぬぐい、屹《きっ》とかたちを正して母を見あげた。 「よくわかりました母上、わたくしは一心に修業をいたします、そして千人にすぐれた武士になります」 「それをお忘れなさるな、道はまだまだ遠いのですよ」 「けれどいつかは、母上……いつかはわたくしたちの真心が、とのさまにわかって頂ける時がございますね」  その言葉までうち消す気強さはみよ[#「みよ」に傍点]にはなかったし、しかもながく忘れることができなかったのである。母と子の辛苦はどのような酬いをも期待するものではない、おのれのまことをつらぬきとおせばそれでよいのだ、けれども「いつかはこの真心をごしゅくんにわかって頂けるだろう」という安之助の気持もよくわかった。それがみよ[#「みよ」に傍点]の心に未練をおこさせた、ちょうど六兵衛の家の背戸で熟れた柿の実をみつけたときのように、「母の心」がどうしようもなくみよ[#「みよ」に傍点]をうごかしたのである。――せめて安之助だけは世にだしたい。みよ[#「みよ」に傍点]は母の愛情から一つのことを思いついた、それは箭竹をつくるとき、筈巻《はずまき》の下にあたるところへ「大願」と二字を小さく彫りつけることだった。きわめて小さく、たやすくはわからないように。もしかすればそれがごしゅくんのお手に触れるかもしれない、矢は的に射当てるものだから……。みよ[#「みよ」に傍点]はますますよい矢をつくるようになった。そして必ず「大願」の二字を彫りつけていた。どうぞこの文字がとのさまのお眼にとまりますように。そう祈りながら……。 [#6字下げ]六[#「六」は中見出し]  みずから審問に当ったけんもつ忠善は、みよ[#「みよ」に傍点]の申立てを聴きながら泣いた、審問が終って、自分の居間へはいってからも涙がせきあげてきてとまらなかった。――女にもあれほどの者がいたのか。いくたびもそう思った。武士の妻としては当然の覚悟かもしれない、しかし当然のことがなかなかおこなわれにくいものである。当面の大事にはりっぱに働くことができる者も、十年ふたいてんの心を持ち続けることはむつかしい。みよ[#「みよ」に傍点]はかくべつ手柄をたてたというのではないし、かたちに現われた功績などはなかった。しかし良人の遺志をついで二十年、微塵《みじん》もゆるがぬ一心をつらぬきとおした壮烈さは世に稀なものである、まことにそれは壮烈というべきだった、そういう一心こそは、まことの武士をうみ、世の土台となるものである。忠善はすぐに書状をしたためた、江戸では丹後守が待ち兼ねているにちがいない。かれはてみじかに事の始終を記したうえ、左のような章で筆を措《お》いた。  ――重ねて申上げそろ、大願の二字はけんもつの眼にこそ触れめとて彫りつけ候《そうろう》ものにござそろ、うえさまおん眼を汚し奉り候儀は、おそらくはみよ[#「みよ」に傍点]の一心を神明の加護せさせたもうところと存じそろ、べつに使者を以《もっ》て言上つかまつるべく候も、おんもとよりも御前よしなに御披露のほどたのみいりそろ。余事にわたり憚《はばか》りながら、かかるおんなこそ国のいしずえとも思われ、おそれながらうえさまおんためにも御祝着《ごしゅうちゃく》申上ぐべく存じ奉りそろ。  安之助はほどなくめしだされて父の跡目を再興した。みよ[#「みよ」に傍点]はそのとき、なおこう云ってわが子を戒めたのである、 「これで望みがかなったと思うとまちがいですよ、むしろこれから本当の御奉公がはじまるのですから、今までよりもっと心をひきしめ、ひとの十倍もお役にたつ覚悟でなければなりません……あなたは茅野百記の子です、ひとさまとはかくべつなのですからね」 底本:「山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語」新潮社    1981(昭和56)年9月15日発行    1981(昭和56)年10月25日2刷 初出:「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社    1942(昭和17)年12月 ※表題は底本では、「箭竹《やだけ》」となっています。 ※初出時の表題は「箭竹―岡崎藩の女性」です。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:酒井和郎 2020年5月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。