蜜柑 山本周五郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)大夫《たいふ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)安藤|帯刀《たてわき》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)炷 ------------------------------------------------------- [#6字下げ]一[#「一」は中見出し] 「大夫《たいふ》がお呼びなさる?」  源四郎はいぶかしげに問いかえした。 「大高のまちがいではありませんか、たしかに拙者をお呼びなさるのですか」 「いやまちがいではない」  使者はもどかしそうに、 「貴公を呼んでまいれと申しつかって来たのです。ゆだんのならぬご病状だからすぐに支度をしておいで下さい」 「相わかりました、すぐ参上いたします」  源四郎はとびたつように居間へはいった。  ――大夫がじぶんを呼ぶ。  そう思うと胸がいっぱいになった。  紀州徳川家の家老、安藤|帯刀《たてわき》直次は春から老病がつのるばかりで、この四五日は危篤の状態がつづいていた。直次は慶長十五年に、家康から選ばれてその第十子長福丸、すなわち後の頼宣の家老となった。そのとき頼宣は九歳で駿府城《すんぷじょう》に封ぜられていたが、以来二十六年、よく主君を補佐して紀伊五十五万石の礎をかためた人物である。  直次には多くの逸話があるけれども、いかにすぐれた人物だったかということは、家康がしばしば頼宣にむかって、  ――直次をみること父の如くせよ。  といましめたことが最もよく物語っているであろう。なお彼は田辺城三万石を領し、紀伊家の老職でいながら諸侯の待遇をうけていたし、江戸では一ツ橋外と、市谷《いちがや》左内坂とに土地と屋敷をたまわっていた。  源四郎は直次に嫌われていた。  彼は中小姓で、少年の頃から頼宣の側近につかえていたが、主君のため、おいえのため、という一念に凝りかたまっているため、しばしば上役や同輩と争い、たびたび失敗をくりかえして来た。頼宣は彼の気質を知っているので、たいていのことは叱らなかった。  ――しようのない一徹者だ。  そう云われるくらいで済んだ。けれども直次にはよくどなりつけられた。  ――そのほうはまことの御奉公というものを知らぬ、そのような我儘《わがまま》なことでいちにんまえのお役にたつものではないぞ。  ほかの者にはそれほどでもないのに、源四郎にだけは事ごとに辛辣《しんらつ》だった、嫌われているより憎まれているとさえ思えた。それでしぜんと源四郎も直次には反抗の態度をとるようになったが、相手が無双の人物だけに、じぶんひとりが疎《うと》まれていると考えることは云いようのないさびしさであった。  直次が老病の床についたのは今年、寛永十二年の春からで、夏五月にはいるとともに再起はおぼつかなくなった、じぶんでもそれを感じたとみえて、毎日病床へ人を呼んでは亡きあとの事を託した。  ――きょうは誰それが呼ばれた。  ――拙者にこういう遺言があった。  そういう話を耳にするたびに、じぶんだけがのけ者にされているようで、源四郎の気持はすっかりまいっていた。  だから、直次から迎えの使者が来たときはすぐにそうと信じ兼ねたし、たしかにじぶんが呼ばれたと知ったよろこびはひじょうなものだったのである。  源四郎は馬をとばして行った。  安藤家の上屋敷は一ツ橋外の代官町にあった、馬で乗りつけた源四郎は、汗をぬぐう間もそこそこに奥へみちびかれた。  病間は二十畳ほどの広さで、二方の障子があけはなしてあり、病躯《びょうく》の臭みを消すためであろう、部屋いっぱいに炷《た》きしめた香のかおりがただよっていた。……みとりの者は遠ざけられたとみえて、直次はただひとり、床のうえに起きなおり、脇息《きょうそく》にもたれかかっていた。小柄ではあるが肉づきのいい老人だった。それがいまは見ちがえるほど痩《や》せ、鉢のおおきな頭がいたいたしくめだっている、尻さがりの両眼にもまえほどの逞《たくま》しい光はなかった。  ――なんというおいたわしい姿だ。  源四郎はひと眼見て胸がいっぱいになった。  ――これがおいえのために生涯を捧《ささ》げつくした人の姿だ。八十二年というとしつき、ただ君家の礎となって身命をなげうって来た人の姿だ。  そう思うと、日頃の反抗心などはなくなって、溢《あふ》れ出ようとする泪《なみだ》を抑えるだけが源四郎には精いっぱいであった。 「御用のひまを欠かせて相すまぬ」  直次は韻の枯れてしまった声で、けれども力のある調子で云った。 「このたびは、わしもいよいよおいとまだと思う。……ことしの蜜柑《みかん》はたべるつもりでいたが、もういかぬ」 「それで……」  低く息をつぎながら直次はつづけた。 「生前そのもとに、ひとこと申し遺したいことがあって来てもらった」 「……はい」 「源四郎」  にわかに名を呼ばれて、はっと見あげる源四郎の眼を、直次は屹《きっ》とねめつけながら、 「そのほうは、まだ、まことの御奉公というものを知らぬぞ、そのような未熟なことではいちにんまえのお役にたたんぞ!」  思いもかけぬはげしい叱咜《しった》だった。 「紀伊五十五万石はまだ安泰ではない、お城の石垣の根はまだかたまってはおらぬ、これまでのような眼先ばしりな、我儘な御奉公ぶりでは、いざという場合のお役には相たたんぞ」 「恐れながら、うかがいます」  一瞬のうちに蒼白《そうはく》になった源四郎は、膝《ひざ》をにじらせながら云いだした。 「まことの御奉公を知らず、いちにんまえのお役にたたぬというお叱りは、これまでしばしばうかがいました。元より未熟者ですから御意にかなわぬことが多いかも知れませぬ、けれどもわたくしと致しましては、御奉公のために身命をつくす覚悟は片ときも忘れたことはございませぬ」  はらはらと溢れおちる涙をぬぐいもせず、拳《こぶし》をふるわせながら源四郎は云った。 「今日もまた重ねてのお叱り、どうしたらまことの御奉公が相なりましょうか、恐れながらお教えをねがいたいと存じます」 「…………」 「これがさいごの御|面晤《めんご》なれば、ふたたび御教訓をねがうことはかないませぬ、どうすればいちにんまえのお役にたちましょうか、枉《ま》げてお教えをねがいます」  無念さにふるえる声と、ひきつるような源四郎の表情を黙って見まもっていた直次は、やがてしずかに手をあげて左右に振った。 「……大夫!」  去れという身振りだと気付いて、源四郎は思わず叫びながら身をのりだした。しかしすぐに、走って来た家扶が、 「大高どの、おひかえなさい」と制止した。源四郎はその声で、さすがにはっとわれにかえった。そして、会釈をするのもそこそこに、まるで逃げるような足どりでそこを去った。  ――無念だ。無念だ。  どう考えなおしても彼の心はしずまらなかった。じぶんが生一本な性質で、堪え性のないことはよく知っている。上役や同輩とは折合いが悪いし、ひとに好かれるようなとりまわしも出来ない。わがままと云えばたしかにわがままかも知れないが、しかしそれは君家のおんためという一念におのれをつきつめているからである。御奉公の道をひとすじにまもるほかに、武士としてお役にたつ勤めかたがあるだろうか。  ――しょせん帯刀どのは己を憎んでいるのだ、死ぬまで己の本当の気持はわかって貰えないのだ。  そう思いつめるにしたがって、いちにんまえの役にたたぬと云われたうえに、なお御奉公をつづけるのは武士として恥辱であるとさえ考えた。そしてついにはおいとまねがいをする決心さえした。  安藤帯刀直次はそれから数日ののち、眠るように安楽の大往生をとげた。寛永十二年五月十三日、齢《よわい》八十二歳であった。  その月は直次の葬祭のためにあわただしく過ぎた。七月には主君頼宣が紀伊へかえる、だからいとまねがいをするのならそのまえでなければ遅い。そう思っていると、六月にはいってまもない一日《あるひ》、源四郎は頼宣のまえに呼びだされて思いがけぬお沙汰をうけた。  それは、中小姓を免じ、今後はお太刀脇《たちわき》をつとめよというのである、更に役料として百石の加増をするという意外なおたっしだった。 「お太刀脇」というのは側衆のうちで、江戸表にも国許《くにもと》にも扈従《こじゅう》する役である、中小姓とは格段の出世であるし、食禄《しょくろく》も百石加増されれば五百五十石になる。退身しようと心をきめていた源四郎にとっては、まったく思いがけない恩命であったが、 「……恐れながら」と彼は平伏したまま答えた。 「お沙汰のほど面目至極にはございますが、源四郎めもはや御奉公はなりがたく、お慈悲をもっておいとまを頂戴いたしとう存じまする」 「いとまを呉《く》れと……?」  頼宣はいぶかしそうに問いかえした。 「異なことを申す、いとまを呉れとはどういうわけだ、太刀脇の役が不足だというのか」 「もったいない仰せ、けっして、けっして左様なしょぞんではございません、ただ」と云いさして源四郎は口をつぐんだ。 [#6字下げ]二[#「二」は中見出し] 「どうした、そのわけを申してみい」 「……恐れながら」  源四郎はしばらく躊躇《ちゅうちょ》したのち、思いきったように云った。 「源四郎め生来の未熟者にて、まことの御奉公ぶりを知らず、武士いちにんのお役にたたぬと申されましたゆえ、このうえおつかえ申してはいちぶんが相たちません」 「誰が左様なことを申した、誰だ」 「……それは申しあげられませぬ」 「申せずばよい、だが源四郎」頼宣はたしかめるような調子で、 「そのほうの主人は誰だ」 「……はっ」 「誰がどのように申そうとも、そのほうに奉公のまごころがあり、また主人がそのほうを役にたつべき男とみているからは、いささかも世に恥ずるところはないはずだ。それとも、……余の言葉よりその評判をする者のほうがそちには重いか」  源四郎は言句につまった。 「一徹者め」  頼宣は笑いながら云った。 「そのように眼先のことでとりのぼせるから、人にとかくの評判をされるのだ。一徹もよいが程にせぬといかん、よいからもうさがれ」  源四郎の胸は感動でふるえた。  ――御主君はじぶんを知っていて下さる。  直次の言葉がどんなに堪えがたいものであったにしろ、頼宣の一言は源四郎を心の底からたちなおらせて呉れた。  ――そうだ、誰がなんといおうと、じぶんの御奉公がひとすじであるかぎり恥ずるところはない、しかも御主君はじゅうぶんにじぶんを認めていて下さるのだ、じぶんはこの君のために死ねばよいのだ。  そう心がきまると、直次の頑迷な眼をみかえすことが出来たようにさえ思えて、源四郎の心はあたらしい力と勇気とでいっぱいになった。  七月二十日、頼宣は参覲《さんきん》のいとまが出て帰国の途にのぼった。お太刀脇として扈従する源四郎にははじめての帰国である。彼はあやまちのない勤めをしようとして一心だった。中小姓のときとはちがって、主君側近の奉公だから、気を労することも一倍であるがはりあいも多い、おのれの胸板を紀伊五十五万石の楯にしたような気持で、源四郎は旅路の日夜を力強く扈従して行った。  三河ノ国へはいると大風が吹きだした。ほんらいは三州吉田から伊勢の松坂へ渡海するのが順だったけれども、その風ではとても船出はおぼつかないので、行列はそのまま尾張の熱田へすすめられた。  熱田で尾張家の馳走をうけながら二日ほど待ったが、風はすこしも勢をゆるめない。すると頼宣から、  ――これしきの風を待つことはない、明朝は船を出すように。  という命令がでた。  そのとき源四郎は御前にいなかったが、ようすを聞くとお伽《とぎ》の藪《やぶ》七郎左衛門の進言でそういうことになったのだという、三浦|長門守《ながとのかみ》[#1段階小さな文字](家老職)[#小さな文字終わり]からいろいろ諫止《かんし》したけれども、頼宣はどうしても船出をすると云って肯《き》かない、みんなもてあましているということだった。  七郎左衛門|勝利《かつとし》というのは藪三左衛門の二男である。三左衛門は高名な武将で、もと細川家の浪人だったのを、寛永四年に紀州へ二千石で召抱えられたものだ。……いったい頼宣はさむらいを抱えるのが好きで、名ある武士は高禄をいとわずとりたてたし、すぐ随身を承知しない者にもどしどし扶持《ふち》を送っていた。新規《しんき》お召抱えになった者のうち名あるものを略記すると、大崎|玄蕃《げんば》の八千石、村上彦右衛門の二千石、真鍋五郎右衛門の二千石、藪三左衛門の二千石、田中玄蕃、水野次郎右衛門、渡辺|安芸《あき》等々。ことに大崎、真鍋、村上、藪などという人々は、諸方の大名から五千石、一万石で召抱えようと望まれたものであるが、頼宣が押してとりたてたものであった。……なおまた随身しないで扶持だけ送られた者には、美濃に隠れていた後藤又兵衛の一族、山田|外記《げき》、伊達《だて》作左衛門、三刀屋監物《みとやけんもつ》、亀田大隅守など、そのほか数えきれぬほどあった。これらの人々は頼宣の懇望で随身したのだから、新参ではあるが見識も高く、譜代の家臣に対してもへりくだるようなことはなかった。そのなかでも藪三左衛門の二男七郎左衛門は不屈のさむらいで、お気にいりを笠に、傲慢《ごうまん》と思えるふるまいが多かった。  ――七郎左衛門の進言で船出の沙汰が出た。  そう聞いた源四郎は、すぐに支度をあらためて御前へ出た。頼宣は源四郎の顔を見ると、はやくも察したようすで、 「船出のことなれば諫言無用だぞ」と先手をうつように云った。 「泰平の世なればこそ、風待ちもできる、いざ合戦という場合にこれしきの風で船出を待てるか、紀伊の面目にかけても必ず渡海しなければならんぞ」 「それでこそ」と、そばから藪七郎左衛門が口を添えた。 「それでこそまことのおん大将、武を練ること泰平に狎《な》れずの道でございましょう」  吹きつける強風が屋の棟をならし、燭台《しょくだい》の火がはためいた。源四郎は七郎左衛門の顔を屹《きっ》とねめつけたが、すぐに頼宣のほうへふり向きながら、 「船出をお止め申すのではございません」としずかな調子で云った。 「とかく士道が惰弱になりつつある折から、荒天を冒して御渡海をあそばすということは、世上への教訓にも相なり、またお国ぶりの名誉とも申すべきだと存じます。けっしてそれをお止め申しあげようとは存じません、……なれども」  源四郎はひどくまじめな口ぶりで、 「お上のお召し船は堅牢《けんろう》でもあり、水主もかこ[#「かこ」に傍点]もえりぬきの者どもでございますから、これほどの風をのりきるに雑作はございませんが、家臣の乗りまするものは造りもよほどちがい、また水主もかこ[#「かこ」に傍点]もお座船のように揃《そろ》ってはおりませぬ、もし一|艘《そう》でもくつがえった場合には多くの人命を損ずると存じますが、いかに思し召しましょうか」 「それはもっともな申しようだ、だがそれならば余の乗替え船と、尾張どのから馳走に廻された関船《せきぶね》に、おもだった者だけ乗せて供すればよいであろう」 「仰せではございますが、大身重役のかたがたがお供をつかまつるのに、船が悪いからと云って軽き身分の者がお供をせずにおる道理はございません」 「ではこうすればよい」頼宣は折かえして云った。 「余の船と乗替えと関船とに直参を残らず乗せ、又者《またもの》や雑人《ぞうにん》は陸路《くがじ》をやるのだ。これなら仔細《しさい》はあるまい」 「左様なことが相なりまするか!」  源四郎は突然おお声をあげた、それは天床へびんと反響したほどの声だった。彼はおおきく眼をみひらいて頼宣を見あげ、おのれの膝をはっし[#「はっし」に傍点]と打ちながら叫んだ。 「たとえ又者、雑人なりとも、紀伊の水を飲んだほどの者には骨がござります、おのれらの主人《あるじ》が荒海を冒してお供つかまつるに、じぶんだけ安穏の陸をまいるなどという臆病者はいちにんもおりませぬ。やぶれ船にうち乗って海上に溺死《できし》をいたしましょうとも、必ず主人の供をするに相違ございません、かように忠義な者どもをころすのはいたわしゅうございますが、御意とあれば唯今より船出の支度をいたさせます、いかがはからいましょうや」 「…………」  頼宣の唇にそっと微笑がうかんだ。そしてしずかに頷《うなず》きながら、 「ようわかった」と機嫌のなおった声で云った。 「風には恐れぬが、家臣を損ずるようなことがあってはもったいない、船出はとりやめるぞ」 「……はっ」 「佐屋《さや》へまわって川船でくだる。長門にそう申しておけ」  源四郎はもういちど藪七郎左衛門をねめつけてから御前をさがった。  行列はその翌日、宮を発し、佐屋街道をいって尾張の津島から木曽川を下り、無事に紀州和歌山へと帰国した。  この旅中に源四郎は考えた。  彼は新規お召抱えの人々について、かなりまえからすくなからず不満を持っていた。頼宣がさむらいを愛するあまり、名ある者は禄を惜しまず召し抱える、それは武将としてあたりまえなことだ。けれども抱えられる人々は譜代の者にとっては新参である、新参には新参の礼儀がなくてはならない、それにもかかわらず多くの人々は、高禄をもって召抱えられたのに得々として、とかく譜代の者を凌《しの》ごうとするようすがみえるのだ。  ――なんだ新参者のくせに。そういう気持を感じるのは源四郎ひとりではなかった。血気の者のなかには、おなじ不満をもつ者がすくなからずある、どうにかしなくてはならぬと思っていた。  荒天渡海のお沙汰が、藪七郎左衛門の進言から出たということを聞いた源四郎は、どうにかする機会はこれだと考えた。彼が御前へ出たとき、七郎左衛門はいかにも豪放な態度で渡海をうながすような口ぶりをみせていた。そのときの七郎左衛門の不屈な眉つきが、和歌山へ着くまでずっと源四郎の眼から消えなかったのである。  帰国してまだ間もない一日、彼は藪三左衛門の屋敷をたずねて七郎左衛門に面会をもとめた。うるさいほど蜩《ひぐらし》ぜみの鳴く広庭をまえにして、客間に相対した主客ははじめからたがいの反感を露骨に示しあった。 [#6字下げ]三[#「三」は中見出し] 「話というのは、御帰国途中、宮で御渡海のお沙汰が出たことです」  源四郎はずばずばと云った。 「あのお沙汰は、貴殿からお上へご進言申したためだと聞いているが、事実さような進言をなされたかどうかうかがいたい」 「さよう……」七郎左衛門は冷やかに、 「それがしの言葉によって御渡海のお沙汰が出たかどうかは知らぬが、戦場なればあれしきの風に恐れてはおられぬと申したのは事実だ」 「もしも、それがもしもお上でなく、貴殿のご尊父であっても、おなじことを貴殿は申されたであろうか」 「異なことを云う、父ならばどうしたのだ」 「あの荒海に船を出すことが危険でないとはよも思われまい。その危険を承知でじぶんの父親に渡海をすすめることが出来るかどうかうかがいたいのだ」 「あれくらいな風が」と七郎左衛門は言葉を避けた。 「いのちにかかわる危険なものだとは、それがしは思わん」 「危険だと思うか思わぬかは水掛け論、げんに御渡海が中止になった事実だけでたくさんだ。拙者のうかがいたいのはそんなことではない、たとえ些《いささ》かなりとも危い海へじぶんの父親に渡れとすすめられるかどうかというのだ」 「左様なことを、いまあらためて答える必要はない」 「……そうであろう」  七郎左衛門の冷やかに見くだした態度を、源四郎はするどくねめつけながら云った。 「答えられないのがあたりまえ、それがなによりの返答だ。だが藪どの、……貴殿のご一家が高禄でお召抱えになったからとて、それはとくべつに我儘無法をゆるされたわけではないぞ」 「なにを云う、それはどういう意味だ」 「拙者の申すことを聞かれい、紀伊家譜代の者は、三河いらい徳川家につかえておる。父祖の代から御馬前に骨をさらし、身命をつくして御奉公をして来た。それらの者でも高禄を戴いているのは僅かなかずで、多くはいまだに微禄小身のまま懸命の御奉公をしておる。……しかるに貴殿がたは、はじめから五百石、千石、八千石などという高禄でお召抱えになった。むろん貴殿がたは高名な武人であろう、これまで幾戦陣で名誉のてがらをたてられたに相違ない。けれども、紀伊家のおんためにかつてなにかてがらがあったか? ……千石、二千石の高禄を賜わるだけの御奉公を紀伊家のためにしておるか」 「待て待て、その一言、聞き捨てならんぞ」 「拙者は事実を申しておる」源四郎はかまわずにつづけた。 「代々おいえに砕骨の御奉公をした多くの者が微禄小身でいるのに、新規お召抱えの貴殿らに高禄を賜わるのは、これひとえにお上の思召《おぼしめし》だ。いいか、われらは貴殿がたの高禄を羨《うらや》みはしないぞ。ただ、高禄を戴くがゆえにじぶんたちを高しとし、小身微禄の譜代の者を見くだす態度はやめて貰いたい、おのれの豪勇を誇るがために、お上を危い場所へおさそい申すような無法はやめて貰いたいのだ!」  舌鋒《ぜっぽう》するどく、源四郎がそこまで云ったとき、隣室とのあいの襖《ふすま》があいて、髪のなかば白くなったひとりの老人がはいって来た。この家のあるじ藪三左衛門である。 「おはなしちゅうをご無礼」三左衛門はそう会釈しながら、七郎左衛門を押しのけるように坐って云った。 「それがし藪三左衛門でござる。いやご挨拶には及びません、はからずもいまご意見をもれ聞き、伜《せがれ》になりかわってお詫《わ》びを申すためにまかり出ました」 「こやつ生来の無骨者でござってな」  と三左衛門は源四郎に言葉をさしはさむ隙を与えないでつづけた。 「つねに小言《こごと》を申しますが、ともすると血気のあやまちをしでかします。そのもとのご意見はいちいちごもっとも、今後かようのこと無きよう厳しく申しつけますゆえ、老人に免じてひらにご勘弁をねがいます」 「そのご会釈では、かえって恥じいります」  源四郎はいっぺんに昂奮《こうふん》から冷《さ》め、あわてて三左衛門に会釈をかえしながら云った。 「拙者もいささか過言がございました。よろしくお忘れのほどおねがい申します」 「心余れば言葉はしる、過言ではござらん、むしろ云い足らぬと思われよう、しかしご意見は老人が篤《とく》とお察しつかまつった。このはなしはもはや是でうちきり、おちかづきのしるしに一|盞《さん》まいりたい、七郎左、たたぬか」  馳走になるのはいやだった、けれども老人のおだやかな挨拶をふりきって帰るのも無礼だと思ったので、源四郎は接待をうけることにした。  数日のち源四郎は御前へ呼び出された。  頼宣の眼はかつて見たことのない忿《いかり》をたたえていた。そして、源四郎が拝揖《はいゆう》して座につくよりはやく、つき刺すような声で、 「源四郎、そのほう藪へまいってなにを申した」と叱咜した。 「七郎左になにを申した、余のまえでもういちど云ってみい、なにを申したのだ」 「……殿」 「余が新規召抱えの者に高禄をやる、それがそのほうには不服か、余に依怙《えこ》の沙汰でもあると申すか」 「恐れながら、恐れながら殿」源四郎はびっくりしてさえぎった。 「左様の仰せはおなさけのうございます、わたくしはただ、ただ……」 「申せ、申せ源四郎。そのほうがなにを考えておるか、そのくらいのことがわからぬ余ではないぞ。紀伊のために身命を惜しまぬ覚悟はよい、余のため、五十五万石のためという一念はよいが、眼さきのことにはしって、おのれひとりを正しと思うのはみぐるしいぞ」 「…………」 「余が高禄を惜しまず、名あるもののふを召抱えるのを、そのほう今日までなんと思っていた、ただ余のさむらい好みとでも思っていたのか。そうだとすると、……余はそのほうを見損なっていたぞ源四郎」 「……申しあげます」  源四郎はきゅうにむせびあげながら、 「わたくし、お役御免を仰せつけられとうございます」  そう云って平伏した。  平伏したまま、くくと喉《のど》を鳴らして嗚咽《おえつ》する源四郎のようすを、しばらくのあいだ頼宣はだまってみまもっていたが、やがて、つ[#「つ」に傍点]と座を立ちながら云った。 「よい、そのねがい聞きとどけた、今日より奥庭詰めを申しつけるぞ」  そして奥へ去ってしまった。  大高源四郎はその日から太刀脇の役を免ぜられ、奥庭の菜園支配を命ぜられた。そこには頼宣直轄の蜜柑畑がある。彼はその宰領をすることになったのだ。蜜柑畑といっても世間ふつうの蜜柑作りではない。紀州のいわゆる有田蜜柑は、もと九州肥後ノ国|八代《やつしろ》から移植したもので、土地が合ったものか色も香も味わいもすぐれて上品なものができた。それが天正二年のことで、いらい諸方に植えついで多くの産出をみるようになり、寛永十一年にいたってはじめて江戸へ売りだしたところ、伊豆、駿河《するが》、三河、上総《かずさ》などのものより格段に美味だったため、ひじょうな高値で売れたうえ多くの予約までむすばれたのである。  これを聞いた頼宣は、売れるからよいで品種が落ちるようになってはならぬと思い、城中の奥庭に畑を設け、手許《てもと》の費用でさらによき樹を育てあげるよう、研究をはじめさせていたのだった。  頼宣から叱責されたとき、源四郎はかつて退身しようと考えたのを思いだした。  ――やはりあのとき退身すべきだった。  そう思った。けれども「おのれひとり正しと考えるのはみぐるしい」という頼宣の言葉が無念だった。高禄で召抱えられる新参と、小身微禄の譜代の者とのあいだに、もし不測のあらそいがおこってはならぬと考えてしたことを、「眼さきのことにはしる」と云われたのも口惜《くや》しかった。  ――そうだ、ここで退身してはならぬ、殿にじぶんのまごころが通ずるまでは、どんな微賤なお役でもご奉公をしていよう。  源四郎はかたくおのれを信ずるがために、そしていつかはそれが主君にわかって貰えるであろうと思って、黙々と蜜柑畑ではたらきはじめた。しかし彼のあたまのなかは、  ――いつかはわかって戴ける。  ――やがてはこの心底がお上に通ずるであろう。  ――いや、必ず通じさせずにはおかぬ。  そういう考えでいっぱいだった。  日は経っていった、秋はしだいに深く、畑の蜜柑はつぶらな果皮につやつやと色をもちはじめた。  蝉《せみ》の声がいつかしら絶え、夜ごとの虫の音に思わず衿《えり》をかきあわせることが多くなると、空高く雁《かり》のわたる哀れな声も聞えだした。  源四郎ははじめまったく無感動で勤めていた。しかし毎日見ているうちに、働いている作人たちの仕事にだんだんと心をひかれるとき、ふと鋏《はさみ》をとって畑へはいっていったのがきっかけになって、いつかしら、じぶんでも気づかぬうちに、作人たちにまじって土まみれになるのもいとわず働きだしていた。  こうして七十余日経った。九月[#1段階小さな文字](新暦十月)[#小さな文字終わり]も末にちかいある日、なんのまえ触れもなく、ふいに頼宣が蜜柑畑へあらわれた。  蜜柑畑のなかに、亭《ちん》づくりの腰掛がある、頼宣はそこへはいって掛け、人を遠ざけて源四郎をちかくへまねいた。 「どうだ源四郎、蜜柑作りは面白いか」 「……はっ」 「そのようすではすこしは慣れたとみえるな」  土まみれになった源四郎の姿を、頼宣は微笑の眼で見ながら云った。  源四郎はただおのれの膝をみつめたまま低頭した。 「きょうはそのほうに命ずることがある」 「…………」 「支度をあらためて江戸へ使者にたて」 「お使者」 「そうだ、大切な使いだ」頼宣はつと声を低くした。 「余が高禄を惜しまず名あるさむらい、諸国の浪人を召抱えていることが公儀のお疑いをまねいたようだ、そのほうその申しひらきをしてまいれ」 「殿……しかしそのお疑いは」 「老中のめくらどもが」  頼宣はきらりと眼を光らせた。そして忿懣《ふんまん》にたえぬもののように云った。 「かれらには余の心がわからぬ、宗家徳川の天下を思う余の心がわからんのだ。余が召抱えるさむらいどもは、みな戦場往来にぬきんでた勇士だ、いずれも諸国の大名が召抱えようとしてあらそっているつわものどもだ。……大阪の役おわって僅に二十年、天下はまだ磐石《ばんじゃく》とは云えぬ、まんいちにも幕府に反旗をひるがえす者があって、これら一騎当千のつわものどもを擁していたとしたらどうする。万卒は得やすく一将は難しという、それを思えば一人でも多くお味方につけて置かなければならぬ、たとい五十五万石の分には過ぎようとも、敵にまわして恐るべき者はぜひとも召抱えて置かなければならんのだ、それが宗家千年のためなのだ」  源四郎はまるで殴り付けられたような気持だった。頼宣の言葉は予想もしないものだったし、そこに示された真実のおおきさは彼の心をうちのめした。  ――そうだったのか。  眼さきのことにはしる。そう云われた言葉がまざまざと耳によみがえって来た。われひとり正しと思うのはみぐるしいぞ、そう云われたのも事実だった。これほどの主君の心が察しられず、じぶんひとりの狭い考えで無益に騒ぎまわるとは、なんというおろかなみぐるしいふるまいだったろう。  ――申しわけがない。  そう思うとわれを忘れ、ひたと平伏しながら源四郎は面《おもて》をおおって泣きだした。  ――そのおろかなじぶんに、殿はいまひじょうの大役を命じて下さった、殿はじぶんをすこしも疎《うと》んじてはおられなかったのだ。  抑えようとしても抑えきれぬ嗚咽《おえつ》のために、身をふるわせて泣く源四郎のようすを、頼宣も青ずんだ顔でしばらく黙って見やっていた。……頼宣の胸には、かつて和歌山城の高石垣を築いたときにも、幕府からおなじような疑いをかけられたことが思いうかんだのである、それは僅に石垣の高さが規定を越えたというので、頼宣に謀叛《むほん》のくわだてがあるという糺問《きゅうもん》だった。そのときは安藤直次が旅装するひまもなく江戸へかけつけ、  ――紀伊家がもし謀叛をくわだてるなら大阪城へはいるであろう。辺陬《へんすう》の和歌山などで幕府の大軍と戦えるものではない。  そういう一言でみごとに老中の疑いを解いた。 「よいか源四郎」頼宣はようやく忿《いかり》をしずめて云った。 「江戸へまいって、余の本心をしっかりと申し伝えるのだ、答弁のしようによっては和歌山城に草が生えるぞ」 「たいせつのお役目を仰せつけられ、かたじけのうござります」  源四郎は涙を押しぬぐって答えた。 「身命を捨てて必ずしゅびようつかまつります」 「桑子村に帯刀《たてわき》の墓ができておる、途中だからまいってゆけ。……帯刀は誰よりもそちに望みをかけておった、誰よりもそちの身を案じていたぞ。このたびも帯刀が護ってくれるであろう、おろそかに思ってはならんぞ」  源四郎はあっ[#「あっ」に傍点]と眼《まなこ》をみひらきながら、夢からさめた人のように、頼宣の顔を見あげていた。  三河ノ国桑子村の妙源寺に安藤家代々の墓所がある、寛永十二年十月はじめのある日、その墓所のまえに大高源四郎がぬかずいていた。……彼は泣いていた、いろいろな感情が胸いっぱいにつきあげてくる、しかしいまさらなにを云うことがあろう、ただ直次のまことの心づくしを、その生前に知ることのできなかったじぶんが口惜しいだけである。  しばらく噎《むせ》びあげていた彼は、やがて、和歌山城の菜園から持って来た、みごとに色づいた蜜柑の一枝を墓前にささげた。 「お城で作った、ことしの蜜柑でござります、大夫《たいふ》。源四郎が持参いたしました。お城の蜜柑でござりまするぞ」  危篤の病床で……ことしの蜜柑がたべたかった、と云った、あのときの直次の顔が、ありありと源四郎の眼にうかんできた。 「……大夫」ややしばらくして彼は云った。 「源四郎いちにんまえのお役を果すときがまいりました。これが本当の御奉公はじめだと存じます。わたくしのためではございません、紀伊家のおんためにご守護をおねがい申します」  それから間もなく、妙源寺の山門を出た源四郎は、江戸への道をいそいで行った。 底本:「山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜」新潮社    1983(昭和58)年10月25日発行 初出:「キング」大日本雄辯會講談社    1941(昭和16)年8月号 ※初出時の表題は「奉公身命」です。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:北川松生 2025年11月3日作成 青空文庫作成ファイル: 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