鵜 山本周五郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)淵《ふち》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)急|勾配《こうばい》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#6字下げ] ------------------------------------------------------- [#6字下げ]一[#「一」は中見出し]  布施半三郎はその淵《ふち》をみつけるのに二十日あまりかかった。  加能川には釣り場が多い、雇い仲間《ちゅうげん》の段平は「三十八カ所ある」と云った。半三郎はひととおり見て廻ったが、自分の求めている条件に合うのは、その淵だけであった。――そこは七十尺ばかりの断崖《だんがい》の下にある。岩角や木の根をつたっておりるほかに道はない。対岸も同じような断崖で、淵はちょうど末すぼまりの袋のようになっている。川は右から曲って来て淵に入り、その淀《よど》みをぬけると左へ曲って川下へ下っている。したがってその淵はまったく他から隔絶しているし、人の来る心配もないといってよかった。  半三郎は満足そうに頷《うなず》いた。彼は断崖の下の平たい岩の上に立って、流れや淀みのぐあいを見たり、両岸のようすを眺めやったりした。 「申し分なしだ」彼は云った、「まるでお誂《あつら》え向きだ」  翌日、半三郎は支度をしてでかけた。  釣道具は江戸から持って来てあった。袋へ入れた竿《さお》と餌箱《えばこ》。魚籠《びく》はなかった、彼の釣りには魚籠は要らないのである。雇い仲間の段平は、旦那が忘れたのだろうと思った。 「もし旦那」と段平は云った、「魚籠をお持ちなさらねえのですか」  半三郎は「うん」といっただけで、振向きもせずに出ていった。 「おかしな旦那だ」段平は呟《つぶや》いた、「解せねえひとだ、どういうつもりだかさ――まあいい、おらの知ったこんじゃあねえ」  段平は頭のうしろを掻《か》き、手洟《てばな》をかんで、薪を割るために裏へまわっていった。  城下町からその淵まで、約一里二十町ばかりあった。はじめの一里は殆んど田圃《たんぼ》の中の平らな道で、あとは坂道になり、終りの五、六町は特に急|勾配《こうばい》の登りだった。梅雨のあけたあとで、日は暑く、平らな道は埃立《ほこりだ》っていたし、坂にかかると汗だらけになった。――そしてまた、竿と餌箱があるので、断崖をおりるのにも骨が折れた。 「こんなふうに触られると擽《くすぐ》ったいだろうな、たぶん」  断崖の途中で休みながら彼は呟いた。 「擽ったいかもしれないがね、おい」と半三郎は断崖に向って云った、「どうかおれを振り落さないように頼むよ」  下へおりると川風があった、彼は初めて手拭を出して埃と汗を拭き、平らな爼板岩《まないたいわ》の、日蔭になったところへ腰をおろして、すっかり汗のひくのを待った。それから竿の支度をし、岩の端へゆっくり腰を据えたとき、彼は岩を手で叩きながら云った。 「頼むぜ、きょうだい」  そのとき魚が跳ねた。淵から三段ばかり上に棚瀬があり、水が白く泡立《あわだ》って落ちている。魚はその棚瀬で跳ねたらしい。半三郎が眼をやると、また一尾、かなり大きな魚が跳ねて、棚瀬の向うへ姿を消した。 「鮠《はや》かな」と彼は云った、「川鱒《かわます》かもしれない、うん、いるんだな」  半三郎の見込に狂いはなかった。半刻《はんとき》ばかりのあいだに、彼は二尾の大きな鮠と山女魚《やまめ》を三尾あげた。彼は釣りあげた魚をすぐ水に放してしまう、魚を片手でそっと握り、釣鈎《つりばり》を外し、ちょっとその魚の顔を眺めてから、川の中へ投げ返すのであった。  午後四時ごろまでに、半三郎は三十二尾釣って放し、満足して家へ帰った。仲間の段平は、旦那が手ぶらで帰ったので同情した。 「あの川にはいるんですがな」と段平は云った、「きっと場所がいけなかったんですな」  半三郎はなにも云わなかった。  翌日もでかけていった。爼板岩へ腰をおろすとき、彼はまたその岩をそっと叩いた。口ではなにも云わなかったが、いかにも親しげな「よう、きょうだい」とでもいうふうな叩きかたであった。その日は午《ひる》までに十八尾釣れた。鮠、山女魚、それに鮎《あゆ》もあった。釣鈎を口から外すとき、魚たちは彼の手の中で活き活きと暴れ、渓谷の水の冷たさと、つよい水苔《みずごけ》の匂いをふりまいた。 「なんだ、おい、またか」半三郎は一尾の鮠を握って云った、「おまえさっき放してやったばかりじゃないか、ばかだね、いま釣られたばかりでまた釣られるなんてまぬけなやつがあるかい、おい、しっかりしてくれ」  彼はその鮠を放してやった。  その鮠は水の中でひらっと腹を返し、見えなくなって、次にまた銀色の腹をひらめかせて、そしてすばやく底のほうへ消えた。すると、人間の白い裸躰《らたい》が、上のほうから流れて来た。仰向けにのびのびと水面へ伸び、流れに乗ってゆっくりと浮いて来たのである。  半三郎はぎょっとした。  初めはなんであるかわからず、溺死躰《できしたい》かと思い、手足で水を掻いているので、生きた人間だとわかった。そうして、それが眼の前へ来たとき、若い女だということを発見した。――爼板岩は高さ六尺ほどあるから、それが眼の前へ来たときには、全体をすっかり眺めることができた。小さな肩、胸のふくらんだまるみと、薄い樺色《かばいろ》の乳暈《にゅううん》、ゆたかな腹部の抉《えぐ》ったような窪《くぼ》みと、それに続く隆《たか》まりの上の僅かな幅狭い墨色、広くなった腰から重たげな太腿《ふともも》へ、そうしてすんなりと細くしなやかに伸びている脚。両手は左右にひろげていた。――肌は眩《まぶ》しいほど皓《しろ》く、水が冷たいためだろう、ぜんたいが薄桃色にあかるんでいた。  半三郎がそれらを見たのは殆んど一瞬のことであった。ほんの「一瞥《いちべつ》」というくらいのものであるが、その印象の強烈さは類の少ないものであった。  半三郎はぎょっとし、そして両方の眼をつむった。眼をつむったうえに、両手で(そのつむった)眼を押えた。すると、持っていた釣竿が落ち、岩角で跳ねて、川の中へ落ちこんでしまった。彼は気がつかなかった、やや暫くそうしていて、やがておそるおそる眼をあけてみた。それから身を跼《かが》めて、淵の上下を眺めやった。――そこにはもうなにもいなかった、青澄んだ重たげな水が、表面に皺《しわ》をたたみながら、ゆっくりと流れているばかりだった。 「幻か」半三郎は呟いた、「眼がどうかしたのか、いや、慥《たし》かに、……こんなに心臓がどきどきしている、きょうだい」彼は岩の面を叩いた、「いまのはなんだ、淵の主でも化けたのかい、頼むぜ、あんまり吃驚《びっくり》させないでくれ」  彼は暫くのあいだ茫然と、気でも喪失したように、岩の上からじっと水面を見まもっていた。  竿を流してしまったから、その日は早く帰った。段平は旦那が今日も手ぶらで、おまけに竿も持たずに帰ったので首を振った。 [#6字下げ]二[#「二」は中見出し]  旦那が井戸端へゆくのを見送りながら、段平はまた首を振り、頭のうしろを掻いた。 「なにをしにゆくだかさ」と段平は呟いた、「魚は一尾も釣らねえ、おまけに竿までなくして来るなんてさ、あんな立派な竿をよ、へ、――」  夕飯のとき、段平は客があったのを思いだした。彼は給仕をしながら旦那に云った。 「午めえに柏原さまがおめえになりました」  すると半三郎は眼をつむった。半三郎は手に持った茶碗の飯を見ていた、箸《はし》を添えてまさに喰《た》べようとしながら、炊きたての、香ばしい匂いのする麦飯をみつめていたが、段平にそう云われたとたん、彼はぎゅっと眼をつむったのである。それも、あまり強くつむったので、瞼《まぶた》や眉間《みけん》に深い皺が寄ったくらいであった。 「どうかなせえましたか」  驚いて段平が訊《き》いた。 「うん」半三郎が云った、「なんでもない」 「柏原さまがおいでなせえました」段平が云った、「えらくお気にいらねえあんべえで、どういうつもりだって、来るそうそうから毎日出てばかりいてなんのつもりだって、――旦那は御謹慎の都合でこのお国許《くにもと》へお詰めさされささったっちゅう」 「そんなことはない」半三郎が呟いた、「眼がどうかしたんだ、ある筈《はず》がない」  段平は口をあいて旦那の顔を見た。 「へえ、――」と段平が云った、「すると御謹慎じゃあねえのですか」 「少し黙れ」と半三郎が云った。  段平はへえと云った。へえ黙るべえ、と彼は思った。おらの知ったことじゃねえ、お咎《とが》めを受けるのは旦那だ、おらそう云うだけは云っただから、と心の中で呟いた。  ――おかしな旦那だ、解せねえひとだ。  布施半三郎は約一と月まえに江戸から移って来た。すぐに段平が雇われ、ずっと世話をしているのだが、勤めにも出ないし、同家中のつきあいもない。こっちから誰かを訪ねるとか、向うから誰か訪ねて来るなどということが絶えてない。また、ずばぬけた無口で、段平が話しかけてもろくすっぽ返事をしないし、用事のほかに話しかけることもない。しかも奇妙なことには、家の柱だとか壁だとか、庭の木だの石だのにはよくものを云う。犬や猫や、小鳥などにも機嫌よく話しかけるのであった。  ――彼は謹慎の意味で国詰になったのだ。  午まえに来た柏原|図書《ずしょ》はそう云った。図書という人は五百石ばかりの国許《くにもと》留守役で、半三郎とは遠縁に当るという。話によると布施は江戸邸の次席家老、半三郎はその一人息子だそうであるが、剣術と柔術がなみ外れて強く、おまけに癇癪持《かんしゃくも》ちで、いつも喧嘩《けんか》ばかりして始末におえない。前後五度ばかりも「叱《しか》り置」かれたり「謹慎」を命ぜられたりした。  半三郎はそういういざこざを避けるために、庭木いじりや魚釣りを始めた。  ――木や石や魚はおれに肚《はら》を立てさせない。  彼はそういうのであった。もう二十八にもなるが、縁談が幾らあってもつっぱねるし、役に就かせようとしても承知しない。「私のことは放っといて下さい」というので、三年間の国詰を命ぜられた。謹慎の実がみえたら江戸へ帰らせてやる、というのだそうである。  食事が済むと半三郎は段平を見た。 「なにか云ったか」 「柏原さまがおめえになりました」段平が云った、「今日の午めえに、柏原図書さまがおめえになって、えらくへえ不機嫌のあんべえで、いってえどんなつもりだかって」 「わかった」と半三郎が云った、「それはもう聞いた、同じことを二度云うな」  段平はへえといって黙った。  二日続けて雨が降った。三日めに半三郎は釣りにでかけた。江戸から持って来た竿は三本ある、流したのは安物であるが、中でもっとも調子のいい竿であった。彼は残りの中から一本を選み、すっかり手入れをして、でかけた。 「その」と段平が云った、「もしも柏原さまがおめえになったら、どんなあんべえに云ったらいいですか」 「釣りにいったと云え」 「その」段平が云った、「おらが考げえるに」 「釣りにいったと云え」  そして半三郎は出ていった。  淵へおりた彼は、爼板岩の上に釣竿が置いてあるので驚いた。四日まえに流した竿である、あのとき流した自分の竿だということはひと眼でわかった。半三郎は怯《おび》えたような眼つきで、慌てて周囲を見まわした。  そこはいつものとおりだった。どこにも人は見えなかったし、どこかに隠れているようすもなかった。 「幻でも眼がどうかしたのでもない」と半三郎は呟いた、「あれは事実だった、あの……女は本当にいたんだ」  あの裸の女は実在のものだった。それで彼の流した竿を拾って、此処《ここ》へ置いたのに違いない、半三郎はそう思った。すると心臓が(あのときのように)どきどきと鳴りだし、顔が赤くなった。半三郎は自分をごまかすように、さりげなく釣りの支度をし、いつもの場所に腰をおろした。腰をおろすとすぐに、岩を叩いて云った。 「頼むぜ、きょうだい」彼は眩しそうな眼をした、「あんまりおどかさないでくれ」  雨あがりで、水はまだ濁っていた。  午まえは濁りがあって成績はよくなかった。午後になって濁りが薄くなると釣れだし、一刻ばかりのうちに十尾ほどあげた。むろん釣るそばから放してやるのだが、十何度めかに山女魚を放したとき岩の下から呼びかける声がした。 「なぜ魚を逃がすんですか」  半三郎は「うっ」といった、そして同時に眼をつむった。 「ねえ」とまたその声が云った、「せっかく釣ったのになぜ逃がしてしまうんですか」 「――竿を有難う」と半三郎が云った。 「なんて仰《おっ》しゃったの」 「竿をどうも有難う」 「どう致しまして」その声は含み笑いをし、それから云った、「わたくしが悪かったんですもの、ずいぶん吃驚なすったようね」また含み笑いが聞えた、「わたくしも吃驚しましたわ、この淵は決して人の来ない処《ところ》で、それで安心して泳ぎに来ていたんです、そうしたら釣竿が落ちて来て、眼をあいたらあなたがそこにいらっしゃるでしょ」声がとぎれて、それからまた云った、「なにか仰しゃって」 「いや」と半三郎が云った、「今日は、いつのまにそこへ――まえから来ていたのか」 「ええさっきから」とその声が云った、「向うから潜って来て見ていました、ちょうどあなたが鼻を擦っていたとき」  半三郎はつい鼻を擦った。 「ねえ」とその声が云った、「いっしょに泳いで頂きたいんだけれど、いかが」  半三郎は答えられなかった。 [#6字下げ]三[#「三」は中見出し] 「ねえ」その声はしだいに乱暴になった、「あなた泳ぎを知らないんでしょ」 「知っているさ」 「じゃあいらっしゃい」その声が云った、「今日は大丈夫よ、ほら」  水の音がして、岩蔭からすいと、女が向うへ泳ぎ出た。腰に巻いている赤い二布《ふたの》が、まっ白な太腿に絡まっていた。半三郎は眼をすぼめた、腰は隠れているが、あらわな胸のふくらみがひどく眩しい。女は手をあげて叫んだ。 「いらっしゃいよ、早く」女は云った、「そのくらいの勇気はあるでしょ、あなた」  半三郎は立って帯を解いた。 「わあ嬉しい」女が叫んだ、「早くよ、早く」  半三郎は下帯だけになり、岩の上からいさましく跳び込んだ。女は泳いで来て、半三郎が浮きあがると、頭を押えて沈めた。半三郎は水を飲んだ。女は絡まって来て、浮きあがろうとする彼を押えつけた。半三郎は息が詰り、女を振放して脇へ逃げた。ようやく浮きあがると、女は水を叩いて笑った。 「ああ面白い」と女が云った、「いじめてやった、弱いのね、あなた」 「いつもそうとは限らない」 「あたしを沈められて」女は笑った、「沈めてごらんなさいよ、沈められないでしょ」  半三郎は泳いでいった。女は潜った。半三郎も潜って、水の中で眼をあいた。明るい暖色の青がひろがり、つい鼻先を一尾の魚がはしり去った。半三郎は脇へそれて浮きあがった。女は見えなかった。半三郎はまた潜った。それから用心して浮きあがって、女の浮いて来るのを待った。  女は浮いて来なかった。溺《おぼ》れたのでないことは慥かである、どこかへ隠れているのだろう。半三郎は待った。しかし女はいつまでも出て来なかった。 「おい」半三郎はどなった、「出て来ないか」  彼は岩の上へあがった。  四時ころまで釣りながら待ったが、女はついに姿をみせなかった。その夜、半三郎は奇妙なおちつかない感情に悩まされて、よく眠ることができなかった。眼の前にあの女のすはだかの姿がうかび、躯《からだ》の膚には濡れたなめらかな女の肢躰の触感がよみがえってくる。水の中で絡みついた女の、柔軟でぴちぴちした肌の記憶が、あまりになまなましいので、幾たびも一人で赤くなったくらいであった。 「どういうつもりだろう」半三郎は呟いた、「ただからかっただけなのか、それとも恥ずかしくなって逃げたのか」彼は枕の上で頭を振った、「とにかく頓狂《とんきょう》な女があったもんだ、いったいなに者だろう」  翌日、彼は一刻ばかりも寝すごした。段平は食事の支度をして待ったが、旦那が起きないので、旦那の起きるまで裏で米を搗《つ》いていた。寝すごしたにも拘《かかわ》らず、起きて井戸端へ出て来た旦那は、まだ寝足りないようなふきげんな顔をしていた。 「お釣竿がめっかったようなあんべえですな」と段平が云った、「どけえか流れ着いてたですかえ」  旦那は「うん」といっただけであった。  おそい朝食のあとで、釣りにいったものかどうかと、半三郎はちょっと迷った。心のどこかに「またあの女に会いたい」という期待があったからである。彼が迷っていると、段平が来て云った。 「旦那、お餌のお支度ができました」  半三郎は元気よく立ちあがった。  だがその日、女は来なかった。昏《く》れがた、いつもよりずっとおそく帰って来た半三郎は、いつもよりさらに不機嫌で、酒も倍くらい飲んだ。彼の酒は食事といっしょに飲みはじめ、終ってから半刻ばかり飲むのが常であった。それでも量は三合ほどであるが、その夜は殆んど定量の倍ちかく飲み、しきりに(段平にはわけのわからない)独り言を云った。 「ばか者」と彼はふいにどなった、「だらしがないぞ」  段平は眼を剥《む》いた。 「わしでごぜえますか」と段平は云った。  半三郎は段平を見て、夢からさめたような眼つきをし、黙って立ちあがった。  その翌日、半三郎は家にこもっていた。しかし次の朝には段平に餌掘りを命じ、ひどくそわそわとでかけていった。淵へおりてゆくと、女が待っていた。  女は断崖の下の、日蔭になったところにいた。やはり緋色《ひいろ》の二布を腰に巻いただけの裸で、いま川からあがったところとみえ、肌も濡れているし、足もとの岩にも水が溜《た》まっていた。――断崖をおりるまで気がつかなかった半三郎は、女を認めるとさっと赤くなった。すると女も赤くなり、裸の胸を両手で隠すようにした。半三郎は眼をそらした。 「もう泳いだのか」と半三郎が云った、「まだ水が冷たいじゃないか」 「どうして昨日いらっしゃらなかったの」  女の声はふるえていた。激しい感情を抑えるためにふるえるようであり、怒りのためにふるえるようでもあった。半三郎は振向いてみた。すると女は突然しがみついた。両手で力いっぱいしがみつき、危うく抱きとめた男の腕のなかで、がたがたとふるえた。 「きつく」と女が云った、「もっときつく抱いて、つぶれるほどよ」  半三郎はそうした。濡れている膚の下に、火のような躰温が感じられた。そんなに強く抱き緊めても、女の躯のふるえは止らなかった。まるで瘧《おこり》の発作のような、異常に烈しいふるえかたであった。そうしてやがて、そのふるえが止ったと思うと、女の躯からふいに力がぬけ、全身が軟《やわ》らかく、溶けてしまいそうになった。 「おれは、漁師じゃあない」半三郎がしゃがれた声で云った、「おれは釣りをたのしむだけだ、漁師じゃないから、魚は要らないんだ」 「なにか仰しゃって」 「いや、なんでもない」半三郎は云った、「なんでもないよ」  女はうっとりと溜息をついた。半三郎の胸に凭《もた》れ、彼の腕にすっかり身を預けて、そのままで、うっとりと囁《ささや》いた。 「逢いたかったわ」  半三郎はつよく眉をしかめた。 「名を訊いていいか」と彼は云った。 「いや」女は首を振った、「あなたがお付けになって、あなたの好きな名で呼んでちょうだい、それがあたしの名よ」 「おまえの小さいときからの名が知りたいんだ」 「いや、笑うから」 「云ってごらん」 「ただこ[#「ただこ」に傍点]」と女が云った。 「ただこ[#「ただこ」に傍点]」と半三郎が云った。  女が泣きだした。半三郎は女を抱いたまま左右に揺った。そしてもういちど囁いた。 「ただこ[#「ただこ」に傍点]、――」 [#6字下げ]四[#「四」は中見出し]  二人は毎日のように逢った。  雨の降らない限り、一日として逢わないことはない。女はいつも川上のほうから、棚瀬をすべって淵へ来た。そうして、淵を下のほうへくだって去るのである。淵から下のほうに、誰かが着物を持って待っているらしい。名はさだ[#「さだ」に傍点]、――ただこ[#「ただこ」に傍点]というのは幼いころ自分で訛《なま》って呼んだものだという。年は二十歳くらいだろう。……言葉つきや動作で、(わざと乱暴にしているが)武家そだちだということはわかる、しかしそのほかのことは、なにを訊いても答えなかった。 「あたしをただこ[#「ただこ」に傍点]のままにしておいてちょうだい」と彼女はいつも云った、「あなたは初めに、あたしの生れてきたままの、どこも隠さない――ありのままの姿をごらんになったわ、いまだって裸のままでしょ、これがただこ[#「ただこ」に傍点]よ」 「おれはすっかり知りたいんだ」 「これがあなたのただこ[#「ただこ」に傍点]よ」と彼女は云うのであった、「着物を着ておつくりをしたあたしは、もうただこ[#「ただこ」に傍点]ではないし、あなたとは縁のない女だわ、ねえ、あたしをただこ[#「ただこ」に傍点]のままにしておいてちょうだい」 「どうしてもだめなのか」 「お願いよ、そんなお顔をなさらないで、あたしを困らせないでちょうだい」  六月が過ぎ七月になった。  このあいだに、柏原図書がしばしば来て、そのたびに段平があぶらをしぼられた。たとえ雇い仲間でも家来は家来である、主人がそんなに不取締りなのに黙って見ているやつがあるか、素行のおさまるように意見の一つもしてみたらどうだ。などと云われるのである。しかし段平にはどうしようもない、なにを云っても旦那はてんで受けつけないし、ちょっと諄《くど》く云えば「黙れ」とどなられる。そのうえ、旦那は悪所がよいをするわけではなく、下手くそな(一遍も魚というものを持って帰ったためしがない)釣りに凝っているだけなので、段平は却《かえ》って旦那のほうに同情するようになった。 「それでは柏原さまの旦那にうかがうだが」と段平はついに云った、「いってえうちの旦那の素行がどう悪いですかえ、博奕《ばくち》をぶつとか呑んだくれとか、新町へ入浸るとかいうならべつだが、ただへえ魚釣りに凝ってるだけじゃねえですか、それも一尾のだぼ鯊《はぜ》せえ釣って来たためしがねえだで、殺生ちゅうことにもなりゃしねえだ、おらにゃあ意見なんてぶちようがねえですだよ」  柏原図書は顔をしかめ、段平の無知を憐《あわ》れむように手を振った。しかしそれ以来、柏原の旦那の足はしだいに遠のくようであった。  七月になると、ただこ[#「ただこ」に傍点]のようすが変りだした。彼女は胸を隠すようになった、白い晒《さら》し木綿《もめん》の半|襦袢《じゅばん》を着、そうして腰の二布も緋色でなく、やはり白の晒し木綿に変えた。気分にもむらがでてきて、いっしょに泳ぎながら、ばかげてはしゃぐかと思うと、急に黙りこんで、彼をしみじみと眺めたり、溜息をついたりするのであった。  彼女のこういう変化に、半三郎は殆んど気がつかなかった。或るときふとそれに気づいたが、いつから襦袢を着はじめたか、いつから二布を晒し木綿に変えたか、はっきりした記憶はなかった。  ――どうして気がつかなかったろう。  彼はただこ[#「ただこ」に傍点]に訊こうとして、口まで出かかったのをやめた。  ――なにを訊く必要があるんだ。  と彼は自分に云った。ただこ[#「ただこ」に傍点]は初めすはだかで彼の前にあらわれた、次に腰を二布で隠し、それから胸を隠すようになった。  ――この事実だけで充分じゃないか。  そうだ、充分だ。と彼は思った。 「いちどいっしょに食事をしよう」  七月の中旬になったとき半三郎が云った。 「無理なこと仰しゃらないで」 「どうして」と半三郎は云った、「食事をするくらいのことがなぜ無理なんだ」 「あなたとは此処で逢うだけよ」 「もうこんなに秋風が立ってきた」半三郎が云った、「泳ぐのももう僅かなあいだだ、泳げなくなっても逢いに来るか」 「そのときのことはそのときよ、そのつもりなら九月だって十月だって泳げるわ」 「いっしょに食事をしよう」と半三郎は云った、「おれは知らないから、場所はそっちで選んでくれ、できるだけ早くだ」 「どうしても、――」 「どうしてもだ」  そのとき二人は、爼板岩の上に並んで坐っていた。ただこ[#「ただこ」に傍点]は自分の(裸の)膝《ひざ》へ眼をおとし、小麦色に焦けた、なめらかな膝頭を撫《な》でながら、思い余ったように太息《といき》をついた。  ――この方はもうあとへはひかないだろう。  彼女はそう思った。半三郎の口ぶりは静かであるが、これまでとは違った調子があった。そうして、彼女自身のなかにはもっと強く、その要求を拒めない感情がそだっていた。 「もしかして」とただこ[#「ただこ」に傍点]は云った、「そのために、こうして逢うことができなくなるとしても、それでも――あなたは構わなくって」 「それはどういう意味だ」 「わからないわ」 「そんな心配があるのか」 「わからない」ただこ[#「ただこ」に傍点]は首を振った、「そんな心配はないと思うけれど、でもわからない、ああ、あたしもうなんにもわからないわ」  彼女は両手で顔を押えた。半三郎は彼女の肩へ手をまわし、両の腕で乱暴に抱きよせた。ただこ[#「ただこ」に傍点]の躯は彼の腕の中で柔らかく、棉の実のように軽かった。ただこ[#「ただこ」に傍点]はふるえながら、半三郎の胸に凭れて云った。 「ねえ、もう少し待って下さらない、もう少し、――秋になるまで」 「同じことだ」 「もう少し待って下されば、すっかりいいようにしてお逢いしますわ」 「なにを」と半三郎はただこ[#「ただこ」に傍点]の顔を見た、「なにをいいようにするんだ、云ってごらんただこ[#「ただこ」に傍点]、おれたちの邪魔をしているのはどんな事だ」  ただこ[#「ただこ」に傍点]は彼の胸へ顔を隠した。 「云えないのか、おれにも云えないようなことなのか」と半三郎が云った、「よし、それならなおさらだ、おれはただこ[#「ただこ」に傍点]一人が苦労するのを黙って見ているほど温和《おとな》しい人間じゃあないぜ」 「わかってるわ、あなたにはこわいところがあるわ」 「おれは待つだけ待った、初めて逢ってからまる一と月以上も経つのに、おれはただこ[#「ただこ」に傍点]のことをまだなにも知らない、もうたくさんだ」と半三郎は云った、「こんな状態はもうたくさんだ、ただこ[#「ただこ」に傍点]、――いっしょに食事をするか」 「ええ、そうしましょう」 「いま此処できめてくれ、どこがいい」  ただこ[#「ただこ」に傍点]は顔をあげて彼を見た。 [#6字下げ]五[#「五」は中見出し]  その翌日の午、二人は源ノ森の「蜂屋《はちや》」という料理茶屋で逢った。  そこは城下町の西に当り、北野神社の境内に続いている。うしろを深い杉の森に囲まれ、千の池とよばれる池を前にして、掛け茶屋や料亭が並んでいるが、「蜂屋」はそのなかでもっとも構えが大きく、桟橋に屋根船なども繋《つな》いであった。  ただこ[#「ただこ」に傍点]は先に来て待っていた。それは別棟になった数寄屋《すきや》ふうの離れで、二方に忍冬《すいかずら》の絡まった四つ目垣がまわしてあった。  ただこ[#「ただこ」に傍点]はすっきりと痩《や》せてみえた。藍色《あいいろ》のぼかしに菖蒲《しょうぶ》の模様の帷子《かたびら》を着、白地にやはり菖蒲を染めた帯をしめていた。化粧はしていないが、日に焦けた顔がいつもより小さく、爽やかにひきしまった感じで、帯をしめたためか、腰も細く、背丈がすっきりと高くみえた。 「そんなにごらんにならないで」とただこ[#「ただこ」に傍点]は眼のまわりを赤くした、「こんな恰好、――似あわないでしょ」 「きれいだ」と半三郎が云った、「きれいだよ」 「もう、ごらんにならないで」 「見やしないよ」半三郎は濡縁のほうへ出てみた、「舟が出せるんだな」  ただこ[#「ただこ」に傍点]も出ていって、彼と並んだ。 「よければ舟で網をうって、捕った魚を舟の中で喰べることもできますわ」 「池の魚をか」 「加能川から水を引いてあるんです」ただこ[#「ただこ」に傍点]が云った、「だから川の魚がいろいろ捕れるんです」 「むかしから知ってるんだな」 「小さいじぶん父や母たちとよく来ましたわ」 「ただこ[#「ただこ」に傍点]のじぶんか」 「ええ、ただこ[#「ただこ」に傍点]のじぶん」  半三郎は片手をそっと彼女の肩へかけた。ただこ[#「ただこ」に傍点]は頭を傾《かし》げて、肩の上の彼の手へ頬をよせた。彼女の頬は熱く、冷たい髪毛には香油が匂っていた。  食事はうまかった。鮎の作身と塩焼、牛蒡《ごぼう》と新芽の胡麻和《ごまあ》え、椀は山三つ葉と鮒《ふな》、煎鳥《いりとり》に銀杏《ぎんなん》の鉢と、田楽《でんがく》、ひたし[#「ひたし」に傍点]といった献立だった。――今日は食事をするだけ、という約束で、ほかのことには話は触れなかった。そのくせ、ただこ[#「ただこ」に傍点]は彼の小さいじぶんのことを聞きたがり、いくら話しても、飽きずにあとをせがんだ。 「呆《あき》れた方ねえ」とただこ[#「ただこ」に傍点]は笑った、「あなたの話は喧嘩と叱られたことばかりじゃありませんか」 「釣りをしていれば無事なんだ」 「それはそうよ、――」しかし彼女はふと眼を伏せた、「でも、こんなことになってみると、その釣りさえも無事ではなかったわけだわ」 「大漁だという意味か」  彼女はあいまいに首を振った。眼を伏せたまま首を振るその動作は、いかにもよわよわしく、困惑しているようにみえた。だが、ただこ[#「ただこ」に傍点]はすぐに顔をあげ、彼を見て眼で笑いながら云った。 「だってあなたは、せっかく釣った魚を、いつも逃がしておしまいになるじゃありませんか」 「どう云おう」半三郎は笑おうとした、「困ったな、おれはこんなときうまくやり返すことができないんだ」  ただこ[#「ただこ」に傍点]は乾いた声で笑った。自分で云った言葉に自分で「不吉」を感じたらしい、乾いたような声で笑いながらいそいで云った。 「それで手のほうが先になるのね」 「手が届きさえすればね」  そのとき、池のほうで激しい水音がした。見るとすぐ向うの水面で、一羽の鵜《う》が暴れていた。長い頸《くび》をふりながら、翼でばたばた水を叩いている。傷でも負って苦しんでいるようにみえたが、よく見ると大きな魚を咥《くわ》えていた。その魚が大きすぎて嘴《くちばし》に余るのを、むりやりに呑み込もうとして、暴れているのであった。しかしもはや大きすぎたのだろう、魚はついに逃げてしまい、鵜は口惜しそうにそれを見送った。――それがいかにも口惜しそうで、「ちぇっ」と舌打ちをするのが聞えるようだったので、二人は思わず笑いだした。すると鵜は、その笑い声におどろいたように飛びたち、水面を低くかすめながら、源ノ森のほうへと飛び去っていった。 「いやだわ」ただこ[#「ただこ」に傍点]が笑いながら云った、「あの鵜はよっぽどしんまいなのね」 「そうらしいな」 「うちへ帰ってなんて云うかしら」 「黙ってるだろうね」 「そうね」とただこ[#「ただこ」に傍点]が云った、「――黙って、当分しょんぼりしているわね、きっと」  二人は笑いやんだ。  砂糖漬の杏子《あんず》で茶をのんでから、二人は別れた。こんどはただこ[#「ただこ」に傍点]が先に帰り、半三郎があとに残った。別れるとき、ただこ[#「ただこ」に傍点]はそっと彼に抱かれた。 「ではまた明日」ただこ[#「ただこ」に傍点]は囁いた、「あの淵でね」 「あの淵で」と半三郎が云った。  ただこ[#「ただこ」に傍点]が去ると、彼は急に暑さを感じた。まるでただこ[#「ただこ」に傍点]が涼しさを持っていったように、むしむしと暑くなり、汗がにじんできた。彼は「はちや」と印のある団扇《うちわ》を取り、寝ころんで池を眺めた。  すると濡縁の向うへ、若侍が一人来て立った。木戸のほうから来て、そこに立ってこっちを見た。二十三、四歳の、蒼白《あおじろ》く痩《や》せた、ひよわそうな若者であった。 「なんだ」半三郎が云った、「なにか用か」  若者の顔がみにくく歪《ゆが》んだ。 「いや」と若者は首を振った、「なんでもありません、失礼しました、誰もいないと思ったものだから、どうも、――」  そして若者は木戸のほうへ去った。  若者は四つ目垣の木戸をぬけると、母屋へはゆかずに、そのまま塀《へい》に沿って裏へまわり、くぐり戸をあけて外へ出た。 「どうしよう」彼は立停った、「どうしよう」  躯がふるえ、額から汗が流れていた。彼は右手に扇子を持ちながら、それで陽をよけようともせず、流れる汗にも気がつかないようすで、照りつける陽のなかを、そわそわと北野神社のほうへゆき、森を出て、鳥居前から駕籠《かご》に乗った。――駕籠屋は彼を知っているとみえ、丁寧すぎるくらいに挨拶をした。 「滝山へやってくれ」と彼は云った。 「へえ」と駕籠屋は云った、「滝山のお別荘でございますね、かしこまりました」 [#6字下げ]六[#「六」は中見出し]  半三郎のいつもゆく山道を、淵へおりずに四町ばかりゆくと、滝山という部落がある。そのまん中どころの、竹垣をまわした別墅《べっしょ》づくりの屋敷の門前で、若者は駕籠をおりた。――それは藤江|内蔵允《くらのすけ》の控え家であった。藤江は藩の筆頭家老であり、若者はその長男で小五郎といった。  門を入った彼は、すぐ左の柴折戸《しおりど》をあけ、若木の松林をぬけて、じかに母屋の縁側のほうへいった。そのとき縁側の向うから、若い侍女が鬢盥《びんだらい》を持って来かかり、小五郎をみつけて、吃驚したように会釈した。 「帰っているか」彼は云った、「奥だな」  小五郎は縁側へあがった。 「はい、あの」と侍女は慌てた、「いまお知らせ申しますから」 「自分でゆく、おまえは来るな」 「それでも、あの」 「来るな」と彼はどなった、「来ると承知しないぞ」  侍女は鬢盥を持ったまま立竦《たちすく》んだ。小五郎は足音あらく廊下をゆき、刀を取って持ちながら、右手の、障子のあいている座敷へ入ると、その隣りの部屋(やはり襖《ふすま》があいていた)へ踏み込んだ。そこにはさだ[#「さだ」に傍点]がいた。汗を拭こうとしていたらしい、肌ぬぎ姿であったが、胸を浴衣の袖で隠しながら、こっちを見た。  彼女の顔はするどくひき緊り、その眼は怒りのため燃えるようにみえた。 「みたよ」と小五郎が立ったままで云った、「蜂屋で男と逢っているところを、この眼で見たよ」  さだ[#「さだ」に傍点]は黙って彼をにらんでいた。 「なんとか云わないか」小五郎は云った、「おれは知っていたんだ、ずっとまえから、おまえは梅雨あけからこっち、泳ぎにゆくといって毎日でかけた、おれが来るといつも留守だ、それでおれは注意しだした、おまえは泳ぎゃあしない、泳ぐふりをして、毎日あの男と逢っていたんだ、違うか」 「よく御存じだわ」とさだ[#「さだ」に傍点]が云った、「そのとおりよ」 「そのとおりだって」彼はふるえた。 「ええそのとおり、あなたの云ったとおりよ」  彼は蒼くなった。彼はそういう返辞を聞こうとは予想もしなかった、彼は蒼くなり、かっとのぼせあがった。 「おまえは」と小五郎は吃《ども》った、「おまえは、正気でそう云うのか」 「そのおまえをよして下さい、わたくしまだ藤江内蔵允の妻ですから」 「父の妻だって」 「そして義理にもよ、あなたにとっては母の筈よ」 「このおれの母、――その汚らわしい女がか」  さだ[#「さだ」に傍点]は一瞬あっけにとられたように彼を見た。小五郎も「あ」という顔をした。さだ[#「さだ」に傍点]の眼は突刺すようにするどかったが、その唇には微笑がうかんだ。ぞっとするほど冷たい、人をたじろがせる微笑であった。 「わたくしがまだといったのは、まだいまはという意味よ」さだ[#「さだ」に傍点]は云った、「御心配には及びません、すぐにこの家を出てゆきますから、あなたはもうすぐ、この汚らわしい女を母と呼ぶ必要はなくなりますわ」 「口がすべったんだ、勘弁してくれ」小五郎はまた吃った、「気が立っているものだから、つい知らずあんな」 「いいえそうじゃありません、汚らわしい女と云われたから出てゆくんじゃありません、そうでなくとも、自分でなにもかも話してお暇を頂くつもりだったんです」  さだ[#「さだ」に傍点]は巧みに浴衣をひっかけて立ち、隣りの納戸へいって、箪笥《たんす》の音をさせはじめた。――小五郎は口をあけた。刀を持った右手をだらんと垂れ、納戸の物音を聞きながら、口をあけて大きく喘《あえ》いだ。 「まさか、そんな」と彼は吃った、「出てゆくなんて、まさか、――本気でいうんじゃないだろうな」さだ[#「さだ」に傍点]は答えなかった。 「そんなことはできない筈だ」と彼は云った。  納戸で帯をひろげる音がした。 「そんなことができる筈はない」  小五郎はふるえながら云った、「父はあんなに貴女《あなた》を愛している、結婚して三年このかた、父はなんでも貴女の云うままになって来た」 「あなたにそうみえるだけよ」 「なんでも云いなり放題だった、眉をおとさせない、歯を染めさせない、家政もみさせない、城下の屋敷がいやだといえば、すぐにこの控え家へ移ってくると、あの年で二里ちかい道を毎日お城へかよっている」小五郎はそう云った、「しかも父は不平らしい顔もしないし、元気でわかわかしくさえなった」 「そうみえるだけよ」納戸からさだ[#「さだ」に傍点]が云った、「本当のことを知らないから、あなたにはそうみえるのよ」 「私だけじゃない、父を知っている者は誰でもそう云っている、まえの母に死なれてから、父はすっかり老いこんでいた」と小五郎は云った、「老いこんでいたときの父といまの父とでは、まるで人が違ったようだと誰でも云っている、それが嘘でないことは貴女にもわかる筈だ、そしてそれはみんな貴女のためなんだ、三十も年の違う貴女がいてくれるからだ」  納戸で帯をしめる音がした。きゅっきゅっという帯をしめる音が、まるで彼女の返辞の代りのように聞えた。 「こういう父を置いて出てはゆけない、そんなことが人間にできる筈はない、それは自分がいちばんよく知っている筈だ」 「わたくし出てゆきます」さだ[#「さだ」に傍点]が云った、「わたくしこのまま実家へ帰ります」  彼女がぬいだ物を片づける音がし、箪笥を閉める音がした。 「あの父を置いてか、あんなに貴女を愛している父を、――」と小五郎が云った、「父がどんなになるかわかってもか」  さだ[#「さだ」に傍点]が納戸から出て来た。 「父は、父が、父を」とさだ[#「さだ」に傍点]は云った、「あなたはお父さまのことばかり仰しゃるけれど、本当にお父さまのためを思うなら、わたくしが出てゆくのをよろこんであげなければならない筈よ」 「父のためによろこべって」 「口では云えないいろいろなことがあるわ、でもお父さまにはわたくしが重荷です」とさだ[#「さだ」に傍点]は云った、「わたくしの云うなりになっているようにみえるのも理由があるし、元気でわかわかしくみえるのにも理由があります」 「それを聞こう、その理由というのを聞かせてくれ」 「云えません」さだ[#「さだ」に傍点]は首を振った、「夫婦のなかのことは他人には云えません、ただ、三十以上も年下の妻をもっていることが、お父さまのからだにも心にもどんなに重荷であり、どんなに大きな負担だかということを、――三年間いっしょに暮して来たわたくしが、それをいちばんよく知っている、ということだけ申上げます」 「その言葉をそのまま信じろというのか」 「わたくしがいなくなればお父さまはほっとなさいます」 「そしておまえも」小五郎はまたかっとなった、「おまえ自身も、あの男といっしょになってほっとしようというのか」  さだ[#「さだ」に傍点]の眼がきらっとし、その唇にまた(あの)微笑がうかんだ。彼女は小五郎の眼をまともにみつめながら云った。 「それがあなたの本音ね」 「なんだって、――」 「それがあなたの本音よ」とさだ[#「さだ」に傍点]は云った、「さっきから云っていることはお父さまのためじゃなく、みんなあなた自身のためよ、わたくしを跟《つ》けまわしたり、汚らわしい女だときめつけたのはあなたの嫉妬《しっと》だし、出てゆかないでくれというのはあなたの未練よ」  小五郎の持っている刀が、小刻みに鞘鳴《さやな》りをした。 [#6字下げ]七[#「七」は中見出し] 「あなたは気のよわい、卑怯《ひきょう》な人よ」とさだ[#「さだ」に傍点]は云った、「あなたはわたくしを愛していた、わたくしを愛していたのに、お父さまがわたくしを欲しいというと、お父さまに自分のことが云えないで、わたくしのところへ来て、父の妻になってくれ、などと云った」 「だって、だって」彼はひどく吃った、「それならなぜ、おまえは、断わらなかった、おまえは承知したじゃないか」 「あなたはわたくしをお責めになるの」 「おまえは断わることができた筈だ」 「十六歳の娘のわたくしに」とさだ[#「さだ」に傍点]は云った、「百石足らずの作事奉行の娘で、ようやく十六になったばかりのわたくしに、千石の筆頭家老の申し込を断われと仰しゃるんですか」 「しかしいま、いまおまえは、あの男のところへ出てゆこうとしているじゃないか、おまえにそんな勇気があるなら」 「そのおまえというのをよして下さい」さだ[#「さだ」に傍点]は殆んど叫んだ、それから云った、「――いまこうする勇気が出たのは、わたくしが十六歳でなく十九歳になったからです」 「あの男のためにと云わないのか」 「あなたのためよ、あの方には関係はありません」 「おれの、――」と彼は吃った、「おれのためだって」 「あなたはずっとわたくしにつきまとっていました、自分で父の妻になってくれと頼みながら、わたくしが藤江家に嫁《とつ》いで来てからも諦《あきら》めることができない、一日じゅう暇さえあればつきまとっている、お父さまに気づかれてはいけないと思って、それでわたくしこっちへ移ったんです」 「そんなことは嘘だ、おまえのでたらめだ」 「お父さまに気づかれてもいけないし、なにかまちがいでも起こったら取返しがつかないと思ったからです」とさだ[#「さだ」に傍点]は云った、「それでもだめ、あなたはやっぱり来る、この控え家へまで、用もないのに三日とおかずいらっしゃる、もういや、もうたくさん、わたくしこの家を出てゆきます」 「藤江の家名や父の面目を潰《つぶ》してもか」 「あなたが初めに、三年まえに」とさだ[#「さだ」に傍点]は云った、「お父さまにではなく自分の妻になれと仰しゃっていたら、決してこんなことにはならなかったでしょう、あなたにはそれを云う勇気がなかった、そしてこの場になっても、家名や面目などでわたくしを抑えようとなさる、あなたは卑怯のうえに狡猾《こうかつ》だわ」 「云いたいことを云え、だが、――この家からは決して出さないぞ」 「そこをとおして下さい」 「出してやるものか、断じてだ」  さだ[#「さだ」に傍点]は静かに前へ進んだ。小五郎は立ち塞《ふさ》がった。しかし彼女がそれをよけて、次の座敷へゆくと、うろたえたようにあとを追った。 「待ってくれ」小五郎は云った、「せめて、せめて父上が帰ってからにしてくれ」  さだ[#「さだ」に傍点]は廊下へ出た。 「待たないのか、本当に出てゆくのか」  さだ[#「さだ」に傍点]は玄関のほうへゆきながら、召使の名を呼んだ。侍女が返辞をして出て来た。すると小五郎が喚いた。 「おのれ、出るな」  侍女はふるえあがって、そのまま部屋へ引込もうとした。さだ[#「さだ」に傍点]が振返った。 「義兵衛に云っておくれ」とさだ[#「さだ」に傍点]は侍女に云った、「表へ乗物をまわすように、いそぐからすぐにと云っておくれ」  侍女は小走りに走った。 「どうしても出るのだな」小五郎は逆上したように云った、「もういちど念を押す、どうしてもここを出てゆくつもりか」  さだ[#「さだ」に傍点]は玄関へ出ていった。 「よし、できるならやってみろ」  小五郎は追っていった。彼の前袴《まえばかま》へ挾《はさ》んであった扇子が落ちた、彼は玄関へ出て、刀を左の手に持ち替えた。 「できるならやってみろ」と彼は逆上した声で叫んだ、「おれはこの家から生かしては出さない、おれはきさまを斬る」  さだ[#「さだ」に傍点]が振向いて彼を見た。 「威《おど》しだと思うと間違うぞ、おれにはきさまを斬っていい理由があるんだ」小五郎は刀の柄に手をかけた、「おれは不義の証拠をつかんでいる、不義者を成敗するのは武家の作法だ、さあ、――出るなら出てみろ」  玄関の向うへ駕籠がおろされた。 「履物をおくれ」とさだ[#「さだ」に傍点]が云った。  陸尺《ろくしゃく》の一人が草履を取って入って来た。さだ[#「さだ」に傍点]は式台へおりた。すると小五郎が刀を抜いたので、陸尺は吃驚して外へとびだした。 「さだ[#「さだ」に傍点]、――」小五郎が叫んだ、「斬るぞ」  さだ[#「さだ」に傍点]はもういちど彼に振向いた。 「どうぞ」とさだ[#「さだ」に傍点]が云った。  小五郎は刀を振上げた。刀がぎらっと光った。さだ[#「さだ」に傍点]は草履をはいた。小五郎は振上げた刀の柄へ左手を加え、大上段に構えて式台へおりた。さだ[#「さだ」に傍点]はおちついて草履をはき、静かに玄関を出た。  小五郎は棒立ちになっていた。彼の大上段に振上げた刀が、ぎらぎらと光りながらこまかくふるえた。  陸尺が引戸をあけ、さだ[#「さだ」に傍点]は駕籠の中へ入った。陸尺は彼女の草履を取り、それから棒に肩をいれた。――小五郎は見ていた。駕籠はあがり、それから静かに門のほうへ出ていった。門を出て、ゆっくりと左に曲り、そうして見えなくなった。小五郎の腕が力なくさがり、刀の切尖《きっさき》が式台の板へ触れそうになった。 「どうしよう」と彼は呟いた、「どうしよう」  彼は刀を(ぬぐいもかけずに)鞘へおさめた。そのとき道のほうで呶号《どごう》が聞えた。  千切れるような叫びと呶号の声が――  小五郎は足袋はだしのままとびだした。とびだしていって門の外へ出ると、二十間ばかり向うに駕籠が見えた。その駕籠が殆んど抛《ほう》りだされ、二人の陸尺が道傍《みちばた》へとびのくのが見えた。陸尺たちは竹藪《たけやぶ》の中へとび込んだ、駕籠は道の上に斜めに置かれ、そこへ奔馬が突っかけて来た。たてがみを振り乱し泡を噛《か》んだ馬が、狂ったように蹄《ひづめ》で大地を叩き、うしろに土埃《つちぼこり》を引きながら殺到して来て、蹄を駕籠に突っかけた。小五郎は「ああ」といった。  馬は前肢《まえあし》を駕籠に踏み込み、駕籠といっしょに転倒した。濛々《もうもう》と舞い立つ土埃がそれを包んだ。馬はするどく嘶《いなな》き、二度ばかり四肢をはねあげ、そして起きあがるとともに、もと来たほうへ疾駆していった。――陸尺が道へとびだして来、二人で駕籠を起こそうとした。そこへ小五郎が走っていった。駕籠は潰れていて、起こそうとすると屋根が取れた。 「さだ[#「さだ」に傍点]、ただこ[#「ただこ」に傍点]」小五郎が叫んだ。  彼は毀《こわ》れた引戸を外そうとした。 「よけられなかったのです」陸尺の一人が云った、「あんまりいきなりだったもので、どうよける法もなかったのです」  引戸が外れた。さだ[#「さだ」に傍点]の躯は坐ったままねじれ、上半身が仰になっていた。ねじれた躯の帯の上が血に浸り、その部分がみるみるひろがるようであった。 「ただこ[#「ただこ」に傍点]」小五郎はがたがたとふるえた、「聞えるか、ただこ[#「ただこ」に傍点]、私だ」 「迎えに来て下すったの、あなた」とさだ[#「さだ」に傍点]は云った、「迎えに、――うれしいわ」  彼女の眼はうつろだった、空虚な、瞳孔《どうこう》のひらいた眼で、そこにいる誰かを求めでもするように、空を見た。 「あたし、なにもかも、いいようにして来ましたわ」彼女は嗄れた声で囁いた、「――なにもかも、……さあ、まいりましょ、あたしに、あなたの、そのお手を、かしてちょうだい」  さだ[#「さだ」に傍点]は手を伸ばした。まるで誰かの手を求めでもするように、しかし伸ばした手は途中で落ち、その頭はぐらっと左へ傾いた。――さだ[#「さだ」に傍点]の呼吸が絶えた。 [#6字下げ]八[#「八」は中見出し]  淵には九月の、乾いて冷える風が吹いていた。半三郎は爼板岩の上で、釣糸を垂れていた。 「おい」と彼は爼板岩に云った、「今日もだめか、え、――頼み甲斐《がい》のないやつだ、おまえ頼み甲斐がないぞ」  半三郎は向うを見た。向うの断崖の裂け目には、実生《みしょう》の小松や、楓《かえで》や黄櫨《はぜ》などが枝を伸ばし、芒《すすき》が茂みをつくっていた。川下から風が吹きあげて来ると、それらがつぎつぎに、互いになにか囁きあうかのように、つぎつぎに揺れていった。芒は穂をぬき、黄櫨の葉は鮮やかに紅く染まっていた。 「あいつはぬけ作だ、段平のやつは」彼はまた爼板岩に云った、「あいつは、捜しようがねえですだよ旦那、などと云やあがった、――おい、聞いているかきょうだい、段平のぬけ作は、さだ[#「さだ」に傍点]なんて名めえは幾らでもあるだ、すぐ向うの筆屋の娘もそうだし、その娘のばあさまもさだ[#「さだ」に傍点]っていうだ、もしもなんなら、旦那がお順繰りに一人ひとり見て歩くがいい、おらはお顔もお姿も知らねえですだで、逆立ちしたって捜し出せやしねえだよ、……あいつはぬけ作のうえに人情のない野郎だ、そう思わないかきょうだい」  彼は手で爼板岩を叩いた。  蜂屋で逢って以来、ただこ[#「ただこ」に傍点]は姿をみせなかった。この土地に知人のない彼は、人に訊くこともできず、また、人に訊けることでもなかった。城下町をどれほど歩きまわったことだろう、――ただこ[#「ただこ」に傍点]は淵へも来ず、その姿をみせもしなかった、そうしてもう、七十日ちかい日が経っていた。 「あの日のおまえはきれいだった」半三郎は水を眺めながら云った、「本当にきれいだったよ、ただこ[#「ただこ」に傍点]」  彼の眼がうるみ、声がふるえた。 「おまえあのとき、また明日、――って云ったろう、また明日、あの淵でって云ったじゃないか」彼は眼をつむり、そうして囁いた、「どうして来ないんだ、どこへいってしまったんだ、ただこ[#「ただこ」に傍点]、おまえいまどこにいるんだ」  半三郎の持っている竿が撓《しな》った。もっと大きく撓い、水面で魚が跳ねた。彼はその撓う竿を持ったまま、頭を垂れた、低く頭を垂れて、そして口の中で囁いた。 「ただこ[#「ただこ」に傍点]、――」  水面で魚のはねる大きな水音がした。 底本:「山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま」新潮社    1983(昭和58)年1月25日発行 初出:「講談倶楽部」博文館    1954(昭和29)年8月号 ※初出時の表題は「美女ヶ淵」です。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:栗田美恵子 2022年7月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。