落葉の隣り 山本周五郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)繁次《しげじ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一|寺《じ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#6字下げ] ------------------------------------------------------- [#6字下げ]一[#「一」は中見出し]  おひさ[#「ひさ」に傍点]は繁次《しげじ》を想っていた。それは初めからわかっていたことだ。ただ繁次が小心で、おひさ[#「ひさ」に傍点]の口からそう云われるまで、胸の奥ではおひさ[#「ひさ」に傍点]を想いこがれながら、おひさ[#「ひさ」に傍点]は参吉を恋しているものと信じ、そのために心を磨り減らしているのであった。 「なんでもないよ、繁ちゃん」と参吉が云った、「大丈夫だ、心配しなくってもいいよ」  これが繁次と参吉と、そしておひさ[#「ひさ」に傍点]をむすびつけるきっかけになったのだ。  繁次と参吉はおないどしであった。浅草黒船町の裏の同じ長屋で生れ、その長屋で育った。おひさ[#「ひさ」に傍点]はかれらより五つとし下で、やはり同じ長屋の、繁次の家と向う前に住んでいた。――三人は小さいじぶんお互いを知らなかった。長屋には子供が多いし、三人はめだつような子ではなかったからだ。そのうえ、繁次は七つのときに総持寺の末寺へ小僧にやられ、五年のあいだその長屋にいなかった。父の源次は古金《ふるかね》買いをしていたが、繁次を坊主にするつもりだったらしい。こんな世の中では正直者は一生うだつがあがらない、どんな貧乏寺でも一|寺《じ》の住職となれば、人にも尊敬されるし食うにも困らないから、というようなことを、まだ七歳にしかならない繁次に云い聞かせた。  繁次が十二の年に父が死んだ。あとには躯《からだ》の弱い母と八つになる妹のおゆり[#「ゆり」に傍点]が残され、くらしに困るので彼は長屋へ帰った。寺の小僧になって五年、繁次は読み書きや礼儀作法は覚えたが、坊主になる気にはどうしてもなれず、機会があったら逃げだしてやろうとさえ考えていたので、家へ帰るときまったときには、父の死んだことを悲しむよりも、うれしさのあまりとびあがりたいように思った。  こうして繁次が長屋へ帰った年、参吉は反対に、田原町二丁目の仏具師の店へ奉公にはいった。ちょうど繁次と入れ違いのようなかたちだったが、そのあいだ半年ばかりいっしょに遊んだ。五年ぶりの再会であったが、特に親しかったわけではないから、初めは同じ長屋の顔見知りというくらいのつきあいで、そこにもしおひさ[#「ひさ」に傍点]がいなかったら、二人は友達にさえならなかったかもしれなかった。  おひさ[#「ひさ」に傍点]は妹の友達としてすぐ彼に馴染んだ。妹のおゆり[#「ゆり」に傍点]より一つとし下の七つで、躯つきも顔だちも貧相な、玉蜀黍《とうもろこし》の毛のような赤毛のしょぼしょぼと生えた頭の、まったく見ばえのしない子だったが、「繁ちゃんのあんちゃん」と云って、一日じゅう彼に付きまとった。  五月はじめの或る午後、――御蔵《おくら》の渡しと呼ばれる渡し場の近くで、繁次はおひさ[#「ひさ」に傍点]に蟹《かに》を捕ってやっていた。隅田川の石垣にしがみついて、石の隙間にいる蟹を捕るのだが、五つ六つ捕ったとき、近所の子供たちが五人ばかりやって来て、「坊主、坊主、――」とからかいだした。寺から帰ってまだ十日ほどにしかならず、彼の頭はまだ坊主だった。自分でもそれが恥ずかしいので、長屋の子供たちを避けていたくらいだから、繁次はふるえるほどはらが立った。かれらの中には鉄造、与吉などという乱暴者がいて、繁次をからかいながら、おひさ[#「ひさ」に傍点]の小桶《こおけ》を取りあげて、中の蟹を川の中へ抛《ほう》り投げてしまった。おひさ[#「ひさ」に傍点]の泣きだす声を聞いて、繁次は石垣をよじ登ろうとした。鉄や与吉は腕力が強い、とうていかなう相手ではないが、とびついていって指の一本も食い千切ってやろうと思ったのだ。  そのとき参吉があらわれた。 「おい鉄、よせよ」と参吉がおっとりした声で云った、「五人がかりで一人をいじめるなんてみっともねえぞ」 「あたしのもよ」とおひさ[#「ひさ」に傍点]が泣きながら小桶を指さした、「あたしの蟹も逃がしちゃったのよ」 「いやなやつらだな」と云って、参吉は唾を吐いた、「いっちまえよ、鉄」  五人はぐずぐずとそこをはなれ、なにかあくたいをつきながら、駒形《こまがた》のほうへ逃げていった。繁次は石垣にしがみついたままこのようすを見ていたが、参吉に感謝するよりも、自分が人に助けられたという、みじめな、やりきれない気持でまいった。  それから半月くらいあとに、長屋の路地で出会ったとき、参吉のほうから繁次に笑いかけて、将棋をささないかと云った。参吉は色の白いおも長な顔で、眉が濃く、いつも屹《きっ》とひきむすんだような口つきをしてい、話しぶりや動作もおっとりと、ぜんたいが大人びていた。繁次は眩《まぶ》しいような眼つきをし、将棋は知らないんだと答えた。 「そんなら覚えればいいさ」と参吉が云った、「うちへ来ないか」  繁次は初めて参吉の家へいった。  参吉は両親がなく、茂兵衛《もへえ》という祖父と二人ぐらしであった。ずっとあとでわかったことだが、参吉の父母は夫婦養子で、茂兵衛と折り合いが悪く、そのときから四年まえに、長屋を出て別居してしまった。繁次はその二人をうろ覚えに覚えていたので、どうしていなくなったのか不審に思ったが、なにかしら訊《き》いてはいけないような感じがしたので、参吉にはなにも云わなかった。  茂兵衛の年はもう七十に近かった。背丈が高く痩《や》せてはいたが、まだ足腰は達者で、酒もよく飲むし、しばしばあそび[#「あそび」に傍点]にもゆくという噂《うわさ》があった。上り端《はな》の三|帖《じょう》に轆轤鉋《ろくろがんな》を据え、一日じゅう椀の木地を作っているが、いい腕なのでかなりな稼《かせ》ぎになるのだ、といわれていた。黙りやで殆んど口はきかないけれども、色の浅黒いおも長な顔や、六尺近い長身の躯つきに、どこかの大店《おおだな》の隠居といったような品のよさがあり、武助という差配《さはい》までが一目置いているようであった。  繁次は将棋を覚えてから、毎晩のように参吉の家へでかけていった。――彼は指物《さしもの》職になるつもりで、浅草橋外の福井町にある「指定《さしさだ》」という店へ弟子入りをしたが、母が病身なため住込みでなく、特にかよい奉公をゆるされ、朝八時から夕方の五時まで勤めるようになっていた。仕事は追い廻しか使い走りで、駄賃くらいの銭しか貰えなかったが、母と妹も内職をするので、親子三人どうやらくらすことができた。――参吉の家へゆくのは夕めしのあとで、茂兵衛老人はたいてい酒を飲んでいるが、繁次を見ると必ず茶を淹れたり、菓子を出してくれたりした。  老人はあまり口はきかないが、孫の参吉がひじょうに可愛いらしく、そのため繁次にもあいそよくするようであった。参吉はうるさそうな顔をするだけで、なにも云わないし、もちろん自分でやろうとすることもない。繁次と将棋をさしながら、平気でその茶を啜《すす》り、菓子を喰べた。  参吉は十月の末に仏具屋へ奉公にいったが、そのちょっとまえの或る夜、繁次は怒って参吉を殴った。いつものように将棋をさしていて、繁次が二番負け、三度めに勝った。そして四番めの駒を並べるとき、参吉が「こんどはかげんなしにやるぜ」と云った。これが繁次にかちんときた。 「じゃあ」と繁次が訊き返した、「これまではかげんしてたのか」 「いいからやんなよ」と参吉がおうように云った、「待ったなしだぜ」  繁次はみじめに負けた。参吉のさしかたは辛辣《しんらつ》で、それまでとは人が違うようにするどく、繁次は手も足も出なかった。 「ちぇっ」と参吉は駒を投げだしながら云った、「おめえはだめだな」 「だめだって」繁次はふるえた、「なにがだめなんだ」 「繁ちゃん」と参吉が云った。 「だめとはなんだ」と繁次はどなった、「なまいきなことを云うな」  そして彼は参吉にとびかかり、押し倒して拳骨《げんこつ》で殴った。参吉は手向いもせず、されるままになっていた。繁次は相手が無抵抗なので、ちょっと気ぬけがし、同時に、相手の眉のところが切れて、血がふき出しているのを認め、ぎょっとしてとびのいた。 「怒らして悪かった」と起きあがりながら参吉が云った、「ごめんよ、繁ちゃん」 「たいへんだ、血が出てる」繁次は蒼《あお》くなった、「おれかあちゃんを呼んで来る」  そのとき老人はいなかったので、彼は母を呼びにゆこうとしたが、参吉は「そんな大げさなことはよせよ」と云い、勝手へいって傷を洗った。左の眉のところが斜めに、一寸ばかり切れていた。殴ったとき拇指《おやゆび》の爪が当ったのだろう、それほど深く切れてはいないが、上げ汐《しお》どきとみえてなかなか血が止らなかった。参吉が洗った傷へ塩を擦《す》りこむのを見ながら、繁次はおろおろとあやまった。 「なんでもないよ、繁ちゃん」とそのとき参吉が云ったのだ、「――大丈夫だ、心配しなくってもいいよ」  その言葉がこたえたのはあとのことだ。  参吉はまもなく仏具屋へ奉公にゆき、すると茂兵衛はへんな女を家へ入れた。年は三十五六、小柄でひき緊まった躯つきにも、あさ黒い膚の、よくととのった目鼻だちにも、水しょうばいをした者に特有の媚《こび》があり、日髪《ひがみ》、日風呂《ひぶろ》で、いつも白粉《おしろい》や香油の匂いをさせているため、たちまち長屋の女房たちの非難の的になった。――差配の武助が人別しらべにゆくと、親類の者で名はおみち[#「みち」に傍点]、年は三十二歳、暫く滞在するだけだ、と答えたそうであるが、両隣りの人たちはあざ笑った。昼間はもちろん、近所が起きているうちは静かであるが、夜半から明けがたまではひどいというのである。息をころし、声をひそめてはいるが、それが却《かえ》ってなまなましく、深い実感に満ちていて、たとえば両手で耳を塞《ふさ》いでも、その手をとおして聞えてくるようだ、というのであった。 [#6字下げ]二[#「二」は中見出し]  ――参ちゃんはどう思うだろう。  おとなたちの話は、繁次には理解できなかったが、下町で育てばませるのが一般だから、おぼろげながらいやらしいということは感じた。暫くいて出てゆくのならいいけれども、あのまま女がいつくとすれば参吉の母ということになる。  ――あんな女を母と呼べるだろうか。  おれならまっぴらだな、と繁次は思い、参吉が気の毒でたまらなくなった。  正月元旦の午《ひる》ころ、参吉はやぶいりで帰って来た。どうなることかと心配していると、暫くして、将棋をさそう、と迎えに来た。なにも変ったようすはなく、家へ来いと云うのを聞いて、繁次は安心すると同時にちょっとがっかりした。 「将棋はよしたんだ」と繁次は云った、「それより浅草へでもいかないか」  繁次の眼に気づいて、参吉は左の眉のところを撫《な》でた。そこにはあのときの傷が、薄く茶色の糸を引いたように残っていた。 「これが気になるのか」 「そうでもないけれど」と繁次は赤くなった、「でも、――将棋さえやらなければ、あんなことにはならなかったろうからね」 「なんでもねえのにな」と参吉が云った、「じゃあ浅草へいこう」  妹のおゆり[#「ゆり」に傍点]と向うのおひさ[#「ひさ」に傍点]が、伴《つ》れていってくれとせがんだ。参吉は伴れていってもいいような顔をしたが、繁次はいつになく強い調子ではねつけ、参吉と二人だけででかけた。  繁次は小遣など持ってはいないので、見世物や芝居の看板を眺《なが》めたり、大道|野師《やし》の口上を聞いたりしながら、折があったら、参吉にあの女のことを訊くつもりでいた。しかし参吉はきまえよく二人分の銭を出し、芝居を一つと軽業《かるわざ》を見たのち、掛け茶屋であべ川餅を喰べた。五時までに店へ帰らなければならないというので、茶店を出るとまもなく帰ることにしたが、かみなり門をぬけたところで、繁次はそれとなくあの女のことを訊いてみた。参吉はやや暫く、なにも云わずに歩き続けてから、いつもの穏やかな、おとなびた口ぶりで云った。 「呼ぶのに困るんだ」と参吉は苦笑した、「おっ母さんじゃあねえし、おばあさんて呼ぶのは悪いようだしな」  十歩ほどいってから、繁次がまた訊いた、「参ちゃんは嫌いじゃあねえんだな」 「ねえな」と参吉が答えた、「――おれにゃあずっと、かあちゃんがいなかったから」  繁次は頭を垂れた。 「長屋の者が悪く云ってるってことは知ってるよ」と参吉が云った、「人のわる口を云うのに銭はかからねえからな、云いたい者には云わせておけばいいさ」  それからさらに云った、「そんなことを気にしてくれなくってもいいぜ、繁ちゃん」  繁次は黙って頷《うなず》いた。  おれとは段が違うんだな、とあとで繁次は思った。おひさ[#「ひさ」に傍点]に蟹を捕ってやっていたときのこと、鉄や与吉を追っぱらってくれたが、どなりもしなかったし威《おど》しもしなかった。  ――いっちまえよ、鉄。  そう云った静かな声が思いだされた。まだこっちは坊主頭で遊び相手もないとき、将棋をやろうと云ってくれた。知らなければ覚えればいいさ、うちへ来ないか。そうして、覚えの悪いおれに、半年も辛抱づよくつきあってくれた。  ――おめえはだめだな。  舌打ちをしてそう云われたとき、おれはのぼせあがるほど癪《しゃく》に障った。癪に障ったのは本当はあいつのほうだったろう、半年も辛抱づよく教えたのに、いつまで経っても手があがらない。誰だっていいかげん飽き飽きするさ、それをおれはかっ[#「かっ」に傍点]となって殴りつけた。左の眉のところが切れて、血がふきだしたときの驚き。だが参吉は怒らなかった、自分で傷の手当をしながら、なんでもない、心配しなくってもいいよ、と云ってくれた。  ――人間の段が違うんだな。  繁次はそう思った。人の悪口を云うのに銭はかからない、とあいつは云ったが、長屋の人たちが悪く云うには理由がある。おれだってあんな女はいやらしいし、あいつだって好きにはなれない筈だ。朝っから白粉の匂いをぷんぷんさせて、だらしのない恰好をしている女なんぞ、あいつだってがまんがならないに違いない、けれどもあいつはそんなけぶりもみせなかった。  ――ああいうのを十万人に一人っていう人間かもしれねえな。  繁次は十三歳の頭でそう思った。  田原町と黒船町はわりに近いので、月に三度か五度くらい、参吉は長屋へあらわれた。たいていは使いに出たついでのことで、繁次は「指定」へいっているから殆んど会わなかったが、妹のおゆり[#「ゆり」に傍点]や向うのおひさ[#「ひさ」に傍点]からよくそれを聞いた。ことにおひさ[#「ひさ」に傍点]は、参吉のことになるとむきになり、彼の云った言葉や、どんな顔つきをしたか、などということまで、詳しく覚えていて繁次に告げた。 「あの人にお土産を持って来るのよ」とおひさ[#「ひさ」に傍点]は云った、「いつでもよ、あたいちゃんと知ってるわ」 「あの人って誰だ」 「参吉さんちにいる女の人よ、わかってるくせに」  おひさ[#「ひさ」に傍点]は彼を繁ちゃんのあんちゃんと呼ぶが、参吉のときは名前にきちんとさん[#「さん」に傍点]を付けて呼んだ。  ――こんなちびでも人の見分けはつくんだな。  繁次はそのころからそう思いはじめた。おひさ[#「ひさ」に傍点]は参吉が好きなんだ、よせばいいのにな、あいつはいまにきっとえらい人間になる、おめえみてえなみっともねえ子なんか、見向いてもくれやあしねえ。あんまり好きにならねえほうがいいぜ、などと思うこともあった。  その年の秋ぐち、七月にはいるとすぐに、長屋で痢病《りびょう》がはやりだし、妹のおゆり[#「ゆり」に傍点]が五日病んで死んだ。激しい下痢が続き、しまいには血をくだしたが、蒲団から畳にとおるほどの血で、医者にも手当のしようがなかった。その長屋で子供がほかに三人、老婆が一人死に、隣りの町内でも幾人か死んだ。 「さぞ苦しかったろうね、可哀そうに」母はおゆり[#「ゆり」に傍点]の死顔に化粧をしてやりながら、同じことを繰り返して云った、「あたしはこんなに躯が弱いんだもの、死ぬならあたしが死ぬ順じゃないか、あたしはもう先に望みはありゃあしない、おまえはこれからどんなにでも仕合せになれたのにね」  棺を出そうとしているところへ、参吉が悔みに来た。急に背丈が伸びたようだし、口のききようもいっそうおちついて、繁次にはちょっと近づきにくいようにさえ感じられた。近所の人たちのごたごた混みあっているなかで、参吉は悔みを述べ、香典の包を置くと、繁次にめくばせをして、脇へ呼んだ。 「おれは田原町をよすことにしたよ」と参吉は云った、「蒔絵《まきえ》職人になるつもりなんだ、おちついたらまた話に来るからな」  そのときおひさ[#「ひさ」に傍点]がこっちへ来て、参吉さん、と呼びかけた。参吉がそっちを見ると、おひさ[#「ひさ」に傍点]は繁次のうしろへ隠れて、恥ずかしそうに笑いかけた。参吉も微笑《ほほえ》み返したが、なにもものは云わず、繁次に「じゃあまた」という手まねをして、たち去った。  妹に死なれたことは、繁次にとっても大きな痛手であった。しかし育ちざかりのことであるし、母がいつまでもくどくど嘆き続けるので、それがうるさいために、却って早く悲しさを忘れるようになった。――それよりまえ、九月の晦日《みそか》に参吉が訪ねて来て、蒔絵師のところへ弟子入りがきまったと云い、ちょっと外へ出ようと誘った。それから隅田川の河岸《かし》へゆき、そこで半|刻《とき》ばかり話した。きまった先は日本橋横山町の島田|藤兵衛《とうべえ》といって、大名道具を扱う店だということだった。 「おれは名をあげてみせるよ」参吉は珍しく昂奮《こうふん》した口ぶりで、なんどもそう云った、「金なんかいらねえ、一生貧乏でいい、たとえ屋根裏で飢え死にをしてもいいんだ、――その代り、これは誰それの作だと、百年さきまで名の残るような物を作ってみせるよ」  繁次は圧倒された。参吉がそんなようすをみせたのも初めてであるが、屋根裏で飢え死にをしてもいいとか、百年のちまで名の残るような仕事をする、などという言葉は、聞くのも初めてであるし、その意味もよくのみこめないので、参吉が自分の知らない世界にはいり、見あげるほど高く、えらい者になったように感じられたのであった。  ――あいつはきっとそうなるだろう。  繁次はそれを確信した。そして、自分が彼の額を傷つけたときのことや、怒りもせずに、おちついた手つきで傷の手当をしていたことを思いだし、あんなところにも人にまねのできない性分があらわれていた、やっぱりえらくなるやつは違うんだな、と思った。  年があけて二月、繁次は「指定」の店へ住込みで奉公することになった。母のことは向うのおひさ[#「ひさ」に傍点]のうちで面倒をみてくれるというし、かよいでは本当の仕事が覚えられない。それに年も十四になったので、思いきってそういうことにした。そして、住込みときまったとき、横山町の「島藤」の店へゆき、参吉を呼びだしてそのことを告げた。 「おれは参ちゃんのような能はねえけれど」と彼は別れるときに云った、「それでもいちにんまえの職人にはなるつもりだよ」 「おめえは腕っこきになるさ」と参吉は励ますように云った、「やぶいり[#「やぶいり」に傍点]に会おう」 [#6字下げ]三[#「三」は中見出し]  それから三年経った秋、おひさ[#「ひさ」に傍点]の母親が死んだ。  繁次が仕事で鉋《かんな》を使っていると、女中が来て「おひさ[#「ひさ」に傍点]っていう子が来ている」と告げた。名前だけではちょっと思いだせず、鉋|屑《くず》をはたきながらいってみると、勝手口の向うにある薪小屋の前に、おひさ[#「ひさ」に傍点]が立っていた。だが、それがおひさ[#「ひさ」に傍点]だとわかるまでにはちょっとひまがかかった。その年のお盆のやぶいり[#「やぶいり」に傍点]に会ってからそれほど日は経っていないのに、背丈も一寸くらい伸びたようだし、顔や躯つきにもどことなくまるみがついて、「みっともないちび[#「ちび」に傍点]」という感じとはすっかり変ってみえた。繁次が近よってゆくと、おひさ[#「ひさ」に傍点]は、いっぱいにみひらいた眼で彼をみつめたが、その眼から大きな涙がこぼれ落ちるのを繁次は見た。 「かあちゃんが死んだの」とおひさ[#「ひさ」に傍点]は前掛で顔を掩《おお》い、泣きだしながら云った、「かあちゃんが死んじゃったのよ」  繁次は口をあいたが、すぐには言葉が出なかった。彼はおひさ[#「ひさ」に傍点]の肩へ手をやり、するとおひさ[#「ひさ」に傍点]は躯ごと凭《もた》れかかった。前掛で顔を掩ったまま、彼の胸へ凭れかかって、うっ、うっと咽《むせ》びあげた。 「どうしたんだ、いつ死んだんだ」 「昨日が初七日だったの」 「知らなかったな、病気だったのか」 「十日ばかり寝ただけ」とおひさ[#「ひさ」に傍点]が答えた、「寝て二三日すると頭がおかしくなって、死ぬときにはわけがわからなくなっていたの」 「ちっとも知らなかった、たいへんなことになっちゃったな、それは」  おれはまぬけなことを云うぜ、繁次は自分に舌打ちをした。凭れているおひさ[#「ひさ」に傍点]の躯が、触れているところだけ熱いように感じながら、悲しいような気分さえ起こらない自分が、恥ずかしくなるばかりだった。 「あたしどうしよう、繁ちゃん」おひさ[#「ひさ」に傍点]は咽びあげながら云った、「あたしどうしたらいいかしら」 「どうするって、なにを――」  おひさ[#「ひさ」に傍点]は急に躯を固くした。繁次はその躯を押しはなして、顔を覗《のぞ》きこみながら、どうかしたのか、なにか心配なことでもあるのか、と訊いた。おひさ[#「ひさ」に傍点]は暫くじっとしていたが、やがて小さくかぶりを振ると、涙で濡れた顔をよく拭いて、前掛をおろした。 「なんでもないの」とおひさ[#「ひさ」に傍点]は微笑した、「かあちゃんに死なれて心ぼそくなっただけよ、ごめんなさい」 「そうだろうけれど、まあ[#「まあ」に傍点]坊がいるからな」と繁次はぎごちなく云った、「おじさんはあんなだから、おめえがしっかりしなくっちゃまあ[#「まあ」に傍点]坊が可哀そうだぜ」 「おかしいのね」おひさ[#「ひさ」に傍点]はぼんやりと、独り言のように云った、「あの子ったらかあちゃんが死んでも泣かないのよ」  そしておひさ[#「ひさ」に傍点]は喉《のど》で、しゃっくりのような泣きじゃくりの音をさせた。  その夕方、仕事を終ってから、繁次は親方にわけを話して、おひさ[#「ひさ」に傍点]の家へ悔みにいった。さきにうちを覗くと、母がおひさ[#「ひさ」に傍点]と増吉《ますきち》に夕飯を喰べさせているところだった。繁次は声をかけておいて、おひさ[#「ひさ」に傍点]の家へいった。姉弟の父は角造《かくぞう》といい、今戸の瓦屋の職人だったが、酒癖が悪く、飲みだすと三日も五日も休みなしに飲み、もちろん仕事には出ないし、酒乱のようになった。そうかと思うとぴたっとやめて、二十日も一と月も一滴も飲まないことがある。そんなときは躯まで小さくなったかと思うほどおとなしく、ろくろく話もできないというふうになるが、飲み始めるとまた同じような結果になるのであった。  繁次が悔みにいったときも酔っていて、繁次の挨拶など耳にもはいらないようすだった。表のすり切れた古畳の上へ、片肌ぬぎになってあぐらをかき、飯茶碗を持って飲んでいた。まわりには食い荒した皿や丼《どんぶり》や小鉢物と、一升徳利が六七本も並んでおり、部屋の中は胸が悪くなるほど酒の匂いがこもっていた。 「子供は親のもんだ、そうじゃねえか」と角造は云った、「子供ってやつは親が生んで、親が苦労して育てたもんだ、そうじゃねえってのか、おい、そうじゃねえって云うのか」  繁次は立とうとした。 「おい待て、逃げるな」と角造はどなった、「帰るんならそこのところをはっきりさせてから帰れ、子供は親のもんじゃねえのか」 「そんなことわかってるじゃねえか」と繁次はなだめるように云った、「いったいなにを怒ってるんだい、おじさん」 「子供が親のものなら、どうして親の自由にしちゃあいけねえんだ、子供を育てるためには親はずいぶん苦労をしてる、てめえの食《しょく》を詰めても子供に食わせ、飲みてえ酒もかげんして、暑さ寒さにひっぱる物の心配もしなけりゃあならねえ、そうやって育てた子供なんだから、親が困ってるとき親のために働くのはあたりめえだろう」  そこまで聞いて繁次はどきんとし、そうだったのか、と心の中で呟《つぶや》いた。  ――あたしどうしたらいいかしら。  おひさ[#「ひさ」に傍点]がそう云いに来たのはこのためだ。一昨年のお盆に帰ったとき、彼は母から聞いたことがあった。例によって角造が飲み続けたあげく、おひさ[#「ひさ」に傍点]を芸妓屋へ売ろうと云いだし、そのためひどい夫婦|喧嘩《げんか》になった、というのである。あんなみっともねえ子をかい、と繁次は笑って聞いたが、女房に死なれた角造は、きっとまたそんなことを考えだしたに違いない。ひでえ人だな、と思いながら、やがて繁次は立ちあがって、自分の家へ戻った。  おひさ[#「ひさ」に傍点]は勝手で茶碗を洗ってい、母は行燈の側で、増吉の手の爪を切ってやっていた。繁次は低い声で角造のようすを話し、どういう事情なのかと訊いた。想像したとおり、女房が寝つくとすぐに、おひさ[#「ひさ」に傍点]を芸妓屋へ売ろうと云いだした。女房は危ないと感じたのだろう、繁次の母と差配の武助に立会ってもらい、「どんなことがあってもおひさ[#「ひさ」に傍点]を売るようなまねはさせないでくれ」と頼んだ。おひさ[#「ひさ」に傍点]もよく云い聞かせられたのだろう、母親が死んで五日と経たないうち、父がその話をもちだしたので、すぐに差配のところへ駆けこんだ。 「あたしは女だから口出しはしなかったけれど」と母は云った、「差配さんは膝《ひざ》づめでかなり強いことを云ったらしい、それからずっと飲み続けで、あのとおりどなりちらしているんだよ」  乱暴をしそうで怖いというから、おひさ[#「ひさ」に傍点]と増吉は母が預かった。おちつくまで預かるつもりだけれど、三人口を養うとなると、――と云いかけて母は口をつぐんだ。 「当分のことならなんとかなるよ」と繁次は云った、「だけど、差配が止めるだけで大丈夫なのかなあ」 「角さんがやる気になればだめらしいね」と母は云った、「芸妓屋へじかにしろ、女衒《ぜげん》に頼むにしろ、親が金を取ってしまえば、お上《かみ》の力でもどうしようもないそうだよ」 「ひでえもんだな」と繁次は幾たびも首を振った、「ひでえもんだな」  勝手で物音がしなくなり、おひさ[#「ひさ」に傍点]の啜《すす》り泣く声がかすかに聞えた。繁次がいってみると、おひさ[#「ひさ」に傍点]は流しの前に立ち、前掛で顔を掩って泣いていた。小刻みにふるえている肩に、赤い襷《たすき》のかかっているのが、繁次の眼にはひどくいじらしくみえた。 「泣くなよ、泣いてる場合じゃあねえじゃねえか」と繁次は云った、「いくら親だからって、立派に働ける躯を持っていて、自分が怠けたり酒を飲んだりするために、子供を売るなんて非道なまねができるもんか、そんな者は親じゃあねえぜ、そうだろう」 「でも、あき[#「あき」に傍点]ちゃんだって売られちゃったわ」と泣きながらおひさ[#「ひさ」に傍点]が云った、「いやだいやだって泣いてたけれど、去年とうとう売られちゃったのよ」 「あき[#「あき」に傍点]ちゃんて誰だ」 「お札売りのうちの人よ」 「覚えてねえな」と繁次は首を捻《ひね》った、「それはその子が気が弱かったからだよ、本当にいやで、死ぬ気になってみな、にんげん死ぬ気になってやればできねえことはねえぜ」  おひさ[#「ひさ」に傍点]は顔をあげた。涙で濡れた眼を拭き、その眼でじっと繁次をみつめた。 「参吉さんもそう云ったわ」 「参ちゃんが、……いつ、――」 「今年の正月のやぶいり[#「やぶいり」に傍点]のときよ」とおひさ[#「ひさ」に傍点]は云った、「江戸一番の職人になるんだ、死ぬ気になってやるつもりだって」  繁次は胸の奥に一種の痛みを感じた。どういうわけか理由はわからないが、重苦しいような痛みを、胸の奥に感じて顔をしかめた。 「それでわかるだろう」と繁次は乾いた声で熱心に云った、「職人になるんでさえ死ぬ気でやるっていうんだ、おめえは自分の一生と、まあ[#「まあ」に傍点]坊のためだぜ、もう十二なんだからな、まあ[#「まあ」に傍点]坊のためにも自分の一生のためにも、死ぬ気になって頑張ってみな、その気になればきっと切りぬけられるぜ」 「ええ」とおひさ[#「ひさ」に傍点]は頷いた、「やってみるわ、まあ[#「まあ」に傍点]坊さえいなければあたし死ぬつもりだったんだもの、やれるだけやってみるわ」  繁次は母に、金を届ける、と云って、まもなくいとまを告げた。年期奉公には、場合によって主人から金を借りることができた。繁次は借りなかったので、少しぐらいならどうにでもなった。 「参吉とそんな話をしたのか」店へ帰る途中で繁次はそう呟いた、「――おれにはそんなことは云わなかったがな、いつそんな話をする暇があったろう」  そのときまた、胸の奥にあの痛みが起こった。繁次はわけがわからず、立停ってそっと、片手で胸を押えた。 [#6字下げ]四[#「四」は中見出し]  十九の年の十一月、繁次は初めて居酒屋へはいって、初めて独りで酒を飲んだ。それまでにも祭礼とか祝いごと、正月などに、兄弟子たちにしいられて舐《な》めるくらいのことはあったが、盃《さかずき》に二つもやると躯じゅう火がついたように熱く、いまにも心臓がとび出しそうになるので、酒と聞いただけでも逃げだすようにしていた。  だがその日は飲みたかった。人の酔うのは見ているから、そんなふうに酔えれば有難いし、酔えなくとも、ただ苦しくなるだけでもいい、思うさま自分を苦しめてみたい、というような気持であった。  神田川の河岸にあるその居酒屋は、小さくて汚《きた》ないうえに、荷揚げ人足や船頭など、川筋で働く人たちがおもな客だから、「指定」の職人などはもちろん、近所の者とかち合う心配はなかった。店は二十人もはいれるだろうか、暗くて湿っぽい土間に長い飯台が二つ、それを囲んで空樽《あきだる》に薄い蒲団を置いたものが並べてある。――十五日の黄昏《たそがれ》で、かなり混んでいる店の、いちばん隅に席をみつけ、繁次は壁へくっつきそうな恰好で、肩をすぼめながら腰を掛けた。  年は二十ちょっとぐらいだろうが、世帯崩《しょたいくず》れのような、ひどく老《ふ》けてみえる女が注文を聞きに来て、おや、指定さんのにいさんじゃないの、と驚いたように云った。繁次は逃げだしたくなったが、やっとがまんして酒と肴《さかな》を頼んだ。 「だらしがねえな」と繁次は口の中で呟いた、「そんなことわかってたじゃねえか、忘れちまえ」  佃煮《つくだに》と目刺の焼いたのと、甘煮《うまに》などが並び、繁次は二杯まで眼をつむって飲んだ。これまでとは違って、苦くもなく、匂いも鼻につかなかった。  忘れちまえ、と心の中で繰り返し、幾たびもぎゅっと眼をつむって頭を振った。だが、眼の奥に残った印象は深く強烈で、まるで刻みつけでもしたように、どうしても打ち消すことができなかった。――彼はおひさ[#「ひさ」に傍点]と参吉が抱き合っているのを見たのだ。勝手口の外にある薪小屋の前で、背の高い参吉が上から跼《かが》むようにし、おひさ[#「ひさ」に傍点]は背伸びをして、両方でお互いの躯を抱き緊め、そして唇を合わせていた。それはけんめいな、ひたむきな姿で、勝手口へ繁次の出て来た物音にも、まったく気づかないようであった。  おひさ[#「ひさ」に傍点]は「指定」の女中をしていた。父親がなにをするかわからないので、繁次が親方夫婦に話したところ、三人いる女中の一人に嫁の話があり、その代りを捜していたところだそうで、すぐに相談がきまった。差配の武助がおひさ[#「ひさ」に傍点]の父と「指定」の親方とのあいだに立って、おひさ[#「ひさ」に傍点]の身売りなどはしない、という証文を入れ、年期七年で五両という金を貸した。受人はむろん武助で、残った増吉は繁次の母が世話をすることになった。  それから足かけ三年、おひさ[#「ひさ」に傍点]も十四歳になるが、店でいっしょにくらし始めてから、繁次はいつもおひさ[#「ひさ」に傍点]に気をつけ、ほかの女中や職人たちにいじめられたり、わるさをされたりしないように庇《かば》ってやった。  ――出しゃばるんじゃあねえぜ。  無用に気をきかせたり、才ばしったふうをしないほうがいい。あの子はまがぬけている、と云われるくらいのほうが朋輩《ほうばい》から憎まれずに済む。それをよく覚えておくように、などと、いっぱしおとなぶった口ぶりで、だが心からしんけんに、繁次は繰り返し注意したものであった。  このあいだずっと、休みの日にはたいてい参吉が訪ねて来た。そしていっしょに芝居や寄席や、季節によっては菊見、舟遊び、遊山などにもでかけた。横山町の店はやかましいとのことで、いつも参吉のほうから来るのだが、するとおひさ[#「ひさ」に傍点]のようすが目立って変った。参吉はそれまでどおり、一と言か二た言話しかける程度だが、おひさ[#「ひさ」に傍点]は顔を赤らめ、返辞もろくにはできず、うるんだような眼で、気づかれないようにそっと見あげたりする。そのくせ参吉のいるあいだはそわそわとおちつかず、へまなことをして朋輩の女中に叱られる、といったようなことを繰り返した。  ――まだ十三や十四で、いやだよこの子は、もういろけづいちゃったんじゃないの。  今年になってから、口の悪いおつね[#「つね」に傍点]という女中にずけずけとそう云われ、おひさ[#「ひさ」に傍点]は泣きだしたことがあった。 「いま始まったことじゃねえ」繁次は持った盃をみつめながら、独りでそっと呟いた、「おひさ[#「ひさ」に傍点]は昔から参吉が好きだった、それでいいじゃねえか、おい繁、てめえやきもちをやいてるのか」  盃を持つ手に力がはいり、指の節がぐっと高くなった。  ――こんなことはざらにあるんだろうな。  いまのおれのように、こんなみじめなおもいをしている者が、この世の中にどれほどたくさんいるだろうか、と繁次は心の中で思った。 「どうしたの、にいさん」  こう云われて眼をあげると、さっきの年増女が前に来ていた。 「あたしおつぎ[#「つぎ」に傍点]っていうの」女はにっと笑いかけながら燗徳利《かんどくり》を持った、「あら、ちっとも減ってないじゃないの、お酌しましょう」 「自分でやるからいいよ」 「そんなに嫌わなくってもいいでしょ」おつぎ[#「つぎ」に傍点]は酌をしながら繁次を見た、「あたしまえからあんたのことよく見かけていたのよ、今日はどうしてこんなとこへ来たの」  繁次は返辞ができなかった。 「飲みたかったからさ」とようやく云って、彼は思いだしたように盃をさし出した、「――一つやらないか」 「いただくわ」おつぎ[#「つぎ」に傍点]は盃を受取った、「一つだけね、ありがと」  こんなところにいるとつい飲むようになってしまう。嫌いだったのがいまは好きになったが、酔うとだらしがなくなるから、店にいるあいだは飲まないようにしているのだ、とおつぎ[#「つぎ」に傍点]は云った。言葉は乱暴だが、さっぱりとした中になんとはないあたたかみがこもっていて、繁次はいつかあまえたいような気分にひきこまれた。 「ちっとも飲まないじゃないの」やがておつぎ[#「つぎ」に傍点]が訝《いぶか》しそうに云った、「あたしがいちゃあ邪魔」 「そうじゃない」繁次は眼をそらして、呟くように云った、「初めてだから、まだ」  おつぎ[#「つぎ」に傍点]の眼に、なんと云いようもない色が動いた。店の中は殆んど客がいっぱいで、皿小鉢の音や、話したり笑ったりする高ごえや、三人いる小女《こおんな》たちの甲だかい呼び声などのため、繁次のいるその隅だけ、一とところ穴があいたように感じられた。 「あたし小さいときにね」とおつぎ[#「つぎ」に傍点]が云った、「おみおつけの鍋《なべ》へ踏みこんで、こっちの足に火傷《やけど》をしたことがあるのよ、五つの年だったかな、火からおろしたばかりで鍋はぐらぐら煮たっていたの」 「あぶねえ――」繁次はきゅっと顔をしかめた。 「おっ母さんがうどん粉に酢を入れて練ったのを塗って、晒《さら》しで巻いてくれるあいだ、あたし死んじゃいたい死んじゃいたいって、声っ限り泣いてたわ」 「痛かったろうな」 「痛いためばかりじゃないの、どう云ったらいいかな」おつぎ[#「つぎ」に傍点]は機械的に燗徳利を持ったが、繁次の盃にまだ酒があるのを見て、それを下に置きながら続けた、「こんなたいへんなことになったら、もう生きてはいられないだろう、いっそ死んじまうほうがましだ、っていうような気持だわね、そうよ、そんなような気持だったわ」  同じような気持になったことは、それからあとにも三度ある。そして、「死んじまいたい」と思いつめるそのときの気持には、嘘も誇張もない。ぎりぎりいっぱい、死ぬよりほかにないと思うのだが、そのときが過ぎてしまうと気持もいつか変ってゆき、そんなに思いつめたことがばからしくさえなる、とおつぎ[#「つぎ」に傍点]は云った。 「人間てそんなものらしいわ」おつぎ[#「つぎ」に傍点]はにっと微笑した、「悲しいことかもしれないけどね、おかげで生きていられるんでしょ」  なんのためにそんな話をするんだ。初対面なのに、なにか勘ちがいをしているな、繁次はそう思いながら、やはりあたたかな、母親の乳の匂いでも嗅《か》ぐような、しんみりした気分に浸っていた。 「おれ、繁次っていうんだ」ふとそう云ってから、恥ずかしそうに彼は赤くなった。 「そう」とおつぎ[#「つぎ」に傍点]は頷いた、「繁さんね」  奥のほうでおつぎ[#「つぎ」に傍点]を呼ぶ声がし、小女がこっちへ来て「ねえさん」と云った。たぶん馴染の客なのだろう。おつぎ[#「つぎ」に傍点]は繁次に手を出して云った。 「もう一つちょうだい」  繁次はうろたえた手つきで、持っていた盃を渡し、酌をしてやった。 「御馳走さま」おつぎ[#「つぎ」に傍点]は飲んでから、そう云って繁次の顔を見た、「――よかったらまた来てね、くよくよするんじゃないのよ」  繁次はまもなくその店を出た。  思いがけないことだが、おつぎ[#「つぎ」に傍点]という女と話したあと、彼は参吉に悪かったな、と思った。その日はいっしょに寄席へゆく筈だったが、薪小屋の前のことを見てかっ[#「かっ」に傍点]となり、「今日は躯のぐあいが悪いから」と断わってしまった。 「二人のことはわかってたんじゃねえか」と彼は自分を責めた、「どっちも古い友達同志なんじゃねえか、――繁公、てめえきざなやつだぜ」 [#6字下げ]五[#「五」は中見出し]  いまにおひさ[#「ひさ」に傍点]は参吉といっしょになるだろう、参吉はきっと江戸に何人という職人になるだろうし、そうすればおひさ[#「ひさ」に傍点]も仕合せになれる、二人はそうなるようにきまっていたんだ。――繁次はそれを納得した。小さいじぶんからのことを思い返してみろ、二人がそうなるのは当然のことじゃないか、と彼は幾たびも自分に云った。  そこまではっきりしているのに、薪小屋の前の二人の姿を思いだすと、そのたびに胸が裂けるような痛みを感じた。いつだったか、繁次の家の勝手でおひさ[#「ひさ」に傍点]が泣いていて、「参吉さんもそう云った」とおひさ[#「ひさ」に傍点]の口から聞いたあと、胸の奥にわけのわからない苦痛が起こった。そのときの痛みに似ていて、もっとするどく深く、息ができなくなるほどの痛みなのだ。 「おれだけじゃあねえんだな」と繁次はよく独り言を云った、「あのおつぎ[#「つぎ」に傍点]っていう人だって、女の身でずいぶん辛いおもいをしたらしいからな」  おひさ[#「ひさ」に傍点]とはなるべく顔の合わないようにしたが、同じ家にいるのでまったく見ないわけにはいかないし、なにか話しかけられれば返辞もしなければならない。おひさ[#「ひさ」に傍点]のようすにはなんの変化もなく、これまでどおり彼を頼みにし、つまらないようなことでも、いちいち彼に相談するというふうであった。  ――十四ぐらいでも、女ってものはたいした度胸があるんだな。  男と抱きあい、唇を吸いあう、などということはたいへんな出来事の筈だ。云ってみれば一生がきまるようなことだろうのに、なんの変化もみせないというのは、よっぽどの度胸があるに違いない、と彼は思った。  繁次はやがて、自分の気持を隠すことを覚えた。おひさ[#「ひさ」に傍点]にも参吉にも、できる限りそれまでと同じような態度をとり、自分の感情を表へあらわさないようにつとめた。こういう努力には卑屈感が伴わずにはいない。繁次はときどき自分がみじめで、やりきれなくなることがあった。そんなことはたびたびではないが、どうにもがまんのできないようなときには、いつかの居酒屋へいって気をまぎらわした。そういうときは参吉にもわかるらしく、腑《ふ》におちないような眼で、しげしげと彼の顔を見ることがあった。 「おめえどうかしたのか」と或るとき参吉が訝しそうに訊いた、「このごろなんだかようすのおかしなときがあるぜ」 「そうかな」と繁次は首をかしげた、「自分じゃあ気がつかねえがな」  だらしのないはなしだが、そのとき繁次はうれしいような気持になった。  ――やっぱり友達なんだな。  心にやましいことがあればそんなことを訊きはしない、と繁次は思った。おひさ[#「ひさ」に傍点]とのことがやましければ、おれのようすで気がつく筈だ。おれがこんなに用心しているのに、おかしいなと勘づくのは、おれを友達として心配してくれるからだし、心にやましさがないからだ。  ――いいやつだな。  あいつは思いやりのあるいいやつだ。あいつに比べるとおれはみみっちい、くだらねえ人間じゃねえか。あいつは頭もいい、自分で云うとおりきっと偉い職人になるだろう。おれなんかには過ぎた友達だ、と繁次は思った。  二十《はたち》になったころから、参吉の訪ねて来るのが少なくなった。店の手があかないんだ、と云ったことがある。「島藤」では腕っこきの一人になったようすで、大名屋敷や金持の家へ、直し物にかようこともあり、休みの日にも、遊ぶより仕事をするほうが面白い、というふうであった。  繁次は兄弟子にすすめられて、端唄の稽古を始めたが、どうしてもうまくならないし、声が悪いので「落葉に雨の」というのを半分やりかけたままよしてしまった。或る夜、また河岸の居酒屋へいったとき、少し酔ったのだろう、自分でも気づかないうちに、その唄をうたいだした。――参吉があまり来なくなってからだから、二十の年の冬のかかりだったろうか、雨が降っていて客もあまりなく、彼はいつもの隅に腰を掛けて、おつぎ[#「つぎ」に傍点]の酌で飲んでいた。飲むといっても、おつぎ[#「つぎ」に傍点]に助《す》けてもらってせいぜい一本というところだし、それもたいてい三分の一は残るのが例であった。その晩もよけいに飲んだわけではないが、珍しく客が少ないのと、気のめいるような雨の音とで、なんとなくそんな気分になったのだろう、稽古したところだけを低い声で、そっとうたった。 「あら、いいわね」とおつぎ[#「つぎ」に傍点]が云った、「粋《いき》な文句じゃないの、あとをうたってよ」 「よせよ恥ずかしい」繁次は赤くなった、「われながらこの声にはうんざりしているんだ」 「あんたのおはこだよ、それ」とおつぎ[#「つぎ」に傍点]が云った、「なにかっていうと自分を貶《けな》すんだ、よくない癖だよ、繁さん、あんたはいい人だけれど、それだけは直さなくちゃいけないよ」  繁次は黙った。 「あとを聞かして」おつぎ[#「つぎ」に傍点]は気を変えるように云った、「あたし好きだわ、その唄」  繁次は首を振った、「これっきりしきゃ知らないんだ」 「そんなこと云わないで」 「本当に知らねえんだ」と繁次が云った、「ここまでやってみたけれど、自分でも可笑《おかし》くなってよしちゃったんだ」  おつぎ[#「つぎ」に傍点]はじっと繁次を見ていて、「かなしい性分だね、あんたって人は」と溜息《ためいき》でもつくように云った。そして、そこまででいいからもういちど聞かせてくれ、とせがんだが、繁次はすっかりてれ[#「てれ」に傍点]てしまい、この次にしようと断わった。  その次の次あたりだろう、やはり客の少ない晩に、繁次はなにげなくその唄をうたった。もちろん張った声ではない、無意識な、呟くような声であった。そのときもおつぎ[#「つぎ」に傍点]は向うに腰掛けていたが、こんどはなにも云わず、燗徳利を持ったまま眼をつむって、しんと聞いていた。うたい終ってから、おつぎ[#「つぎ」に傍点]のそのしんとした表情を見、自分がうたったことに気づいて、繁次は赤くなった。 「いい唄だよ」とおつぎ[#「つぎ」に傍点]は眼をあいて云った、「かなしくって、せつなくなるようだ、すっかりならっちまえばよかったのに」 「ああ」とおつぎ[#「つぎ」に傍点]はすぐに頭を振った、「そうじゃない、それだけのほうがいいかもしれない、あとの切れちまってるほうが情が残っていいかもしれないよ」 「いろんなことを云うんだな」繁次は苦笑いをした、「おれなんかにゃあ文句の意味もわからねえや」 「もうすぐだよ」とおつぎ[#「つぎ」に傍点]が云った、「そういう気持を覚えるには学問もいらず、てまもかからないからね」  そんなことを云われたのが、心のどこかに残ったのだろうか。それともほかに知った唄がないためか、仕事をはなれて、とぼんとしているときなどに、ふと気がつくとその唄をうたうのが癖になった。 「おかしなやつだぜ」と端唄のうまい兄弟子が云った、「唄ってものはしまいまできっちり覚えてからうたうもんだ、半端な唄はうたうな」  繁次は一言もない。なるべく気をつけるようにしたが、つい忘れて、ときどきわれ知らずうたい、独りで赤くなるようなことがあった。  二十二の年の春、参吉は長屋へ戻って、「島藤」の店へかよいの職人になった。店では一番の腕だそうで、大名や富豪の屋敷へは、もっぱら彼がゆくのだということであった。その年の夏、おひさ[#「ひさ」に傍点]も暇を取って家へ帰った。父親の角造が中気で倒れ、そのまま寝こんでしまった。増吉は神田白壁町の質屋へ奉公にいったばかりだし、どうしてもおひさ[#「ひさ」に傍点]が帰らなければならなかったのである。 「休みには家へ帰ってね、繁ちゃん」と暇を取って出てゆくときおひさ[#「ひさ」に傍点]が云った、「このごろあんまり帰らないんでしょ」 「帰らなくはねえさ」 「たいてえ芝居かどっかへゆくじゃないの、知ってるわよ」とおひさ[#「ひさ」に傍点]が云った、「でもこれからはなるべく帰ってね」  参吉がいるぜ、と口まで出かかったが、繁次は「うん」と頷いただけであった。  母親のくらしを助けるために、繁次は親方から三度金を借りているし、月づき幾らかずつは仕送らなければならないので、二十三で年期のあける筈が、なお一年延びることになっていた。彼は手のおそいほうだし、見栄《みば》えのするような仕事はできなかった。それできょうだい弟子たちからは軽くみられていたが、みてくれに構わず、いそがない品なら誰にも負けない物を作るので、特に箪笥《たんす》などは名ざしで来る注文が少なくなかった。  繁次は晦日だけは家へ帰った。しかし母に幾らか渡すと、茶も啜らずにとびだしてしまう。参吉やおひさ[#「ひさ」に傍点]に会いたくなかったし、ぐちっぽくなった母の繰り言を聞くのも、気が重かったのだ。 「そういう年ごろになったんだね」と母はたびたび云った、「男の子が二十を越せば、自分の家なんか気ぶっせいになるんだろう、いいよ、おまえだけじゃないんだから」 「注文の仕事が閊《つか》えてるんだ」と繁次は眼をそらしながら答える、「名ざしの注文なんだから、休みだからって遊んでるわけにはいかないんだよ」  そんなふうに上り框《がまち》で云って、そのまま出てしまうことが多かった。おひさ[#「ひさ」に傍点]は父の看病をしながら、仕立て物の賃仕事をしているそうで、ときには母のところへ、わからないところを訊きに来ていて、繁次と顔の合うこともあったが、おひさ[#「ひさ」に傍点]のほうが先に眼をそらすようで、話をする機会は殆んどなかった。 [#6字下げ]六[#「六」は中見出し]  二十四の年の三月に、繁次はようやく年期があけて、黒船町裏の家へ帰った。店と縁が切れたわけではなく、かよいでもう二三年仕事をすれば、親方が店を分けてくれる約束であった。  こうなれば避けるわけにはいかない。朝でかけるときなど、しばしばおひさ[#「ひさ」に傍点]と出会った。おひさ[#「ひさ」に傍点]も十九で、すっかり女らしくなってい、朝の挨拶をするときなど、ちょっとした微笑や、おじぎのしかたなどに、ほのかな媚が感じられた。そんなことが眼につくと、繁次の胸はまた痛みにおそわれ、一日じゅうその痛みの続くこともあった。  参吉ともよく会うが、彼は泊りこみで修理物にでかけることが多く、またお互いの仕事が違うためもあろうが、以前ほど親しい往き来はしなかった。  ――どうして二人はいっしょにならねえんだろう。  繁次はそれが訝しかった。参吉にも祖父とその女がいるし、おひさ[#「ひさ」に傍点]には寝たっきりの父親がある。たぶんそれが障りになっているのだろう、と思ったけれども、参吉は男であり、祖父は丈夫で女もいる。その気になればおひさ[#「ひさ」に傍点]と夫婦になって、病人ひとりくらい養ってゆけるではないか、などと思ったりした。  夏になってから、――浅草寺の四万六千日のすぐあとのことだが、繁次が晩めしを済ませたところへ、参吉が訪ねて来た。 「おばさん今晩は」そう云いながらさっさとあがって来、爪楊枝《つまようじ》を使っている繁次の脇に坐った、「おめえに見せてえものがあるんだ、こいつを見てくれ」  あっけにとられている繁次の前へ、二尺に三尺ほどの紙をひろげた。母がちゃぶ台を持ってゆき、参吉は行燈を引きよせた。その紙には一脚の厨子《ずし》の絵が、極彩色《ごくさいしき》で描いてあった。 「おれにはよくわからねえが」と繁次が云った、「見たことのねえもんだな、文台ってやつか」 「庇《ひさし》二階の厨子っていうんだ」 「大名道具だな」 「紀州さまから出たんだそうだ」と参吉は昂奮して云った、「いまは本町二丁目の小村屋のもので、この下の段、下層っていうんだが、ここのところの螺鈿《らでん》がいけなくなったんで、おれが五十日がかりで繕ったんだ」  小村屋という名は繁次も聞いていた。日本橋本町二丁目の唐物《からもの》商で、長者番付にも載るほどの富豪だという、主人《あるじ》の喜左衛門は茶人としても名高く、歌、俳諧《はいかい》なども堪能だという評判だった。――その厨子は先代の喜左衛門が紀伊家から賜わったのだが、作られたのはおよそ七百年まえであり、関白《かんぱく》藤原のなにがし家の調度だった。そういう由緒のある品だから外へは出せない、参吉は小村屋へかよって修理をし、終りの七日ばかりは泊りこみでやった、ということであった。 「この青貝の脇を見てくれ」参吉は指で五カ所をさし示した、「これは鈴虫なんだ、こことここに五|疋《ひき》いるだろう、それで鈴虫の厨子という名が付いているんだ」  そして漆や蒔絵の図柄や、螺鈿のこまかい技巧について、蚊にくわれるのも知らず、熱をこめた口ぶりで、熱心に説明した。  ――やっぱりたいしたやつになったな。  繁次はそう思ってたじろいだ。彼にはその厨子が、そんなに貴重な品かどうか見当もつかない。もちろん実物を見たわけではない、参吉の描いた絵と、その説明を聞いただけであるが、それだけでも実物を見るような感じがした。しかし彼がたじろいだのは、厨子に対する参吉の態度であった。彼のまわりにもずいぶん凝り性な者や、変った性質の者がいる。それは職人かたぎといって、どんな職にも一風変った、名人はだの人間がいるものだ。参吉もそういう一人なのだろうが、それらよりもっと大きな、底の知れない才能、といったものが感じられた。 「いけねえ、饒舌《しゃべ》りすぎた」参吉はふと繁次を見て、苦笑した、「すっかり退屈さしちゃったようだな」 「退屈なもんか、戸惑ってるだけだ」 「七百年か」参吉は絵をたたみながら、独り言のように云った、「――こいつはきっと千年以上も残るぜ」  参吉の凄《すご》いような眼つきを見て、繁次はずっと以前のことを思いだした。  ――金なんかいらない、一生貧乏で、たとえ屋根裏で死んでもいい、百年さきまで名の残るような物を作ってみせる。  参吉はそう云ったことがあった。たしか二人とも十三だったろう、仏具屋をやめて「島藤」へはいるまえのことだ。それからまる十年の余も経ち、繁次は忘れていたが、参吉の心の中にはいまでもあのときの火が燃えている。十年以上ものあいだ休みなく燃え続いていたのだろうし、いまではもっと激しくなっているようだ。やっぱり参吉は何万人に一人っていう人間なんだな、と繁次は思った。  その前後から、参吉の家がうまくいっていない、というような噂を聞くようになった。祖父の伴《つ》れこんだ女はおみち[#「みち」に傍点]といい、もう四十を越していた。はじめ「一年も続くかどうか」といわれたくらいで、こんな裏長屋にはそぐわないようなあだっぽい女だったが、茂兵衛との仲もいいし、四十を越したとは思えないほど、いまでも若わかしいいろけをもっていた。噂のたねはそのおみち[#「みち」に傍点]で、参吉とあやしいから茂兵衛がやきもちをやくとか、参吉がおみち[#「みち」に傍点]を追い出そうとしているとか、まったく反対な陰口が弘《ひろ》まっていた。 「茂兵衛さんはもう八十だろう」という者があった、「女のほうは四十を出たといっても、あのとおりいろけたっぷりだからな、おまけに参吉のやつがまたいい男ときてるんだから、無事におさまってくわけがねえや」 「あのひと毎晩のようにせっつくんですってよ」という女房もいた、「それではおじいさんの躯がたまらないだろうって、参吉さんが出てゆけがしにするのよ、なにしろおじいさん孝行な子だったものね」  繁次はどっちの噂も信じなかった。  ――参吉にはおひさ[#「ひさ」に傍点]がいる。  あんな女に関心を持つ筈はない、あいつの頭は仕事のことでいっぱいなんだから。そう思っていた。そのころ繁次はようやく酒の味がわかるようになり、休みの日や、気持のふさぐようなときには、居酒屋とか蕎麦《そば》屋などで一杯やる癖がついた。飲むといっても一本がいいところで、それを一刻もかけて舐めるように飲む。たまに二本めを取ったりするが、どうしても半分は残るのであった。  神田川の河岸のあの居酒屋は馴染のようになった。おつぎ[#「つぎ」に傍点]という女はもういなかった。繁次の年期が終るちょっとまえにその店をやめてしまい、どこへいったかわからなくなった。おたつ[#「たつ」に傍点]という女中の話によると、博奕《ばくち》打ちの男があり、その男といっしょに上方《かみがた》のほうへいったらしい。ということであったが、べつの女中は「からだがわるくなったので故郷《くに》へ帰ったようだ」と云っていた。故郷がどこだかは店の主人も知らず、どっちの話が事実かもわからなかった。――繁次は暫く淋しかった。それほど好きというのではない、初めてのときに感じた、あたたかい劬《いたわ》り、男のような言葉つきの中にあるうら悲しいようなひびきなど、向きあっていると芯《しん》から慰められるように思えた。ほかにも馴染の客が少なくないらしいのに、繁次がゆくとすぐに寄って来て、帰るまで相手をしてくれる。いろ恋とはまったくべつな、姉と弟という感じだったろう。いなくなられたあとも、好きな姉を失った、というふうな気持であった。  九月の十五日の休みに、おひさ[#「ひさ」に傍点]を芝居へ伴れていってやれ、と母に云われた。 「いやだよ」と繁次は断わった、「みっともなくって、そんなことができるかい」 「なにがみっともないのさ」 「長屋のみんなにへんな眼で見られるじゃねえか」そして殆んど呟くように云った、「芝居なら参吉につれてってもらえばいいさ」 「参ちゃんがどうしたって」 「なんでもねえよ」と繁次は云った、「――二三日まえに縫ってた参吉の袷《あわせ》も、ちょうど仕上ったんじゃねえのか」  母は口をつぐんだ。  三日まえの夜、おひさ[#「ひさ」に傍点]が縫いかけの袷を持って来て、ひとところどうしてもうまくいかないからと、母の手を借りていた。こりこりするような紬縞《つむぎじま》で、母は針を動かしながら「参吉さんにぴったりの柄じゃないか」と云っていた。繁次は木綿のほかに着たことはないが、参吉は渋い絹物を好んで作った。多くは紬で、色も柄も渋いものだし、光るような生地は決して使わないから、絹物といっても、着たところにいやみはなかった。  ――酒でも飲むか。  繁次はぼんやりそんなことを思った。  おひさ[#「ひさ」に傍点]は参吉のもの、と自分でもはっきりきめているのに、おひさ[#「ひさ」に傍点]が参吉の着物や羽折などを縫っていたりすると、いつものように胸が痛くなる。以前のように耐えがたいというほどではない。いっとき経てば消えてしまうが、その痛みを感じたときの、頼りないような淋しさのほうが、心に残るようになった。  明るいうちから飲みにもゆけず、浅草の奥山へでもいってみようかと思い、着替えをしているところへ参吉が来た。 「ちょっと相談があるんだが」と云って参吉は繁次のようすを見た、「――でかけるのか」 「用じゃあねえんだ、あがってくれ」 「うちへ来てくれないか」と参吉が云った、「ここじゃあ話しにくいんだ」 [#6字下げ]七[#「七」は中見出し]  参吉はそわそわしていた。いっしょに家へいってみると、老人も女も留守だった。 「茶でも淹《い》れようか」と参吉が云った、「ちょうど湯が沸いてるが」 「どうしたんだい」繁次は不審そうに参吉を見た、「茶だなんて、珍しいことを云うじゃねえか」 「おれだって茶ぐらい淹れるさ、まあ楽にしないか」 「それはおめえのほうだろう」と繁次は云った、「なんだか今日はようすがおかしいじゃねえか、相談てなあなんだ」 「まあとにかく茶を淹れよう」  繁次は口をつぐんだ。  ――なにかあったな。  そう思いながら、ふと脇にある机のような物に、片肱《かたひじ》を突いて倚《よ》りかかった。唐草の風呂敷が掛けてあるからわからないが、倚りかかった感じは机のようであった。 「あ、ちょっと」とすぐに参吉が云った、「そいつはいけねえ、そいつに触るのはよしてくれ」  繁次はすぐにはなれた、「うっかりしてた、机のようだな」 「机じゃあねえんだ、いま見せるよ」  参吉は茶を淹れて来て坐った。  茂兵衛の好みだろうか、小ぶりな茶碗も高価な品のようだし、茶の味も繁次には初めての、びっくりするほどうまいものであった。こんな裏長屋などで茶らしい茶を飲む家はない、もちろん高価だということが第一だが、食うことに追われている生活では、おちついて茶をたのしむなどという心のゆとりがなかった。茶といえばふけたような匂いのする安い番茶で、それを色の出なくなるまで淹れて使うから、白湯《さゆ》を飲むのとさして変りがなかった。  参吉は茶を一と口啜ると、机のような物に掛けてある風呂敷を取った。 「おれが作ったんだ」と参吉は云った、「――どう思う」  繁次は坐り直した。  二段になっている文台のような道具で、青貝入りの金蒔絵がみごとに仕上っている。下段は四枚の扉があり、中央の二枚が左右に開くのだろう、合わせめに小さな銀の錠前が掛っていた。蒔絵は暗い朱色の地に、金でこまかく秋草が散らしてあり、ところどころに青貝が光っていた。 「たいそうなもんだな」繁次は手を伸ばして、そっとこば[#「こば」に傍点]を撫《な》でながら云った、「おれなんぞにはよくわからねえが、こりゃあたいそうなもんだ」 「なにか気のつくことはねえか」 「どういうことだ」 「これを見てくれ」参吉は指で、青貝の部分をさし示した、「ここと、ここと、これだ」 「うん」繁次は眼を近づけた、「――虫のようだな」 「鈴虫だよ、忘れちゃったか」  繁次は「鈴虫」と口の中で呟いた。 「いつか絵図を見せたろう」 「ああ」と繁次は云った、「口まで出かかってたんだ、小村屋の文台だったな、たしか」 「厨子っていうんだ、鈴虫の厨子だ」 「だっておめえいま、自分で作ったって云やあしなかったか」 「頼まれて写しを作ったんだ」 「へええ」繁次はもういちど熱心に見直した、「そういえば、あのとき見せてもらった絵図とそっくりのようだな、いつのまにやったんだ」 「ふつうなら一年くらいかかるだろうが」と参吉が云った、「おれはまえから早漆といって、漆の重ねかたや乾かしかたのくふうをしていた、まだ誰も知らねえんだが、それでやるとふつうの三分の一で仕上るんだ」 「保《も》ちはどうなんだ」 「これが初めてだから慥《たし》かなことは云えねえが、一年かけてやったのと違いはない筈だ」と参吉は云った、「だがそれはまたのことにして、おまえにひとつ頼みがあるんだ」 「おれにできることか」 「親方に話してもらいてえんだ」参吉はちょっと口ごもった、「指物職だから、とくい[#「とくい」に傍点]先にこういう道具を欲しがっている客はねえか、もしあったら売ってもらいてえと思うんだが」 「わからねえな」と云って繁次はふと眼をあげた、「しかしおめえいま、頼まれて写しを作ったって」 「そうなんだ」と参吉はせきこんで云った、「或る道具屋から頼まれて、代金まできまってたんだが、その道具屋が急に潰《つぶ》れちまって、おれは金が要るし、途方にくれちゃってるんだ」  繁次はちょっと考えてから訊いた、「値段はどのくらいなんだ」 「道具屋との話では五十両ということだったが、事情が事情だから、現銀なら三十両でいいんだ」 「金はいそぐのか」 「いそぐんだ」と参吉は云った、「じつは嫁を貰うことになって、いい家があったもんだから手付けを打ったんだが」 「嫁を貰うって」繁次はどきっとした、胸の中でどきんと音がしたような感じだった、「そうか、そりゃあよかった、そいつはいいや、そういうことならすぐ親方に話してみるが、値段のところがどうなるかな」 「自慢するようだが、これは鈴虫の厨子でとおる品だぜ、時代の色までそっくり写したんだ、腕のいい道具屋なら鈴虫の厨子で、金二百枚には売れるくらいなんだ」  繁次は妙な顔をしたが、「うん」と頷いてまた参吉を見た、「――いま家へ手付けを打ったって云ったが、世帯を持つのはここじゃあねえのか」 「ここじゃあまずいんだ、相手の育ちが育ちだからな、いくらなんでも」 「育ちが育ちって」繁次が遮《さえぎ》った、「それはどういうことだ」 「それを云わなかったっけ」と云って参吉はてれ隠しに笑った、「初めに云うつもりだったんだが、相手は小村屋の娘なんだ」  繁次は口をあいたが、言葉は出なかった。 「おれがあの厨子の繕いにかよってたことは話したな」と参吉は続けた、「そのあいだずっとその娘、――おすが[#「すが」に傍点]っていうんだが、茶や八つの世話をずっとしてくれていたんだ、年は十八、縹緻《きりょう》もちょっとずばぬけているが、おっとりした娘で、そうだな、坐っていろと云えば一日じゅう坐っている、っていうようなところがあるんだ」  修理にかよっているうちに、この娘を妻に貰えれば、おれは立派な仕事ができると思った。問題は向うが富豪で、こっちが平《ひら》の職人だということだが、しかし蒔絵師としてのおれは、人におくれをとらない腕がある。向うは金、こっちは腕だ。とにかく当ってみろと、まず娘に自分の気持をうちあけた。娘はべつに驚いたようすもなく、あっさり「ええいいわ」と答えた。 「そのへんのおうようなところが、なんとも云えずおすが[#「すが」に傍点]らしいんだ」と参吉が云った、「それで勇気がついたから、すぐ旦那に話してみた、ちょっとごたごたしたが、おすが[#「すが」に傍点]がゆくというので結局はなしがまとまった」 「ちょっと、話の途中だが」と繁次が舌のもつれるような口ぶりで遮った、「そうすると、おひさ[#「ひさ」に傍点]はどうなるんだ」  参吉は訝《いぶか》しそうな眼をした、「どうなるって、おひさ[#「ひさ」に傍点]ちゃんがどうかしたのか」 「あの子は昔からおめえが好きだった、おめえだって好きだったじゃあねえか、おらあいつも見ていてよく知ってるんだぜ」 「そりゃあ好きなことは好きだったさ、しかし好きだっていうことと夫婦になるならねえってことは」 「しらばっくれるな」と云ってから繁次は声を抑えた、「おい、おれはこの眼で見たんだぜ、おめえとおれが十九、おひさ[#「ひさ」に傍点]が十四の年だ、おれの店《たな》へ訪ねて来たおめえは、勝手口の外にある薪小屋のところで、おひさ[#「ひさ」に傍点]と抱きあってた、どんなふうに抱きあってたか、おれの眼にはいまでもはっきり残ってるんだ、あれが、ただ好きだっていうだけでできることか」 「待ってくれ」参吉は額を横撫でにした、「――うん、覚えてる、思いだしたが、それはおめえの思いすごしだ」 「どこが思いすごしだ」 「おめえの云うとおりおれは十九、おひさ[#「ひさ」に傍点]ちゃんは十四だぜ」と参吉が云った、「好きだというほかになんの気持もありゃあしねえ、子供同志のちょっとしたいたずらで、そのくらいのことは誰にだって覚えがあるだろう」 「ちょっとしたいたずらだって」繁次の顔から血のけがひいた、「あれがちょっとしたいたずらだってえのか、野郎」  繁次は片手で参吉を殴った。参吉の顔がぐらっと揺れたが、避けもせず抵抗もしない。それでさらに繁次は逆上し、とびかかって馬乗りになると、拳《こぶし》で相手の横鬢《よこびん》を殴った。  ――いけねえ、またやった。  心のどこかでそう叫ぶ声がし、そこへおひさ[#「ひさ」に傍点]が駆けこんで来た。 「よして繁ちゃん、危ない」おひさ[#「ひさ」に傍点]は繁次にしがみついた、「ごしょうだからよして、危ない、よしてちょうだい」  繁次は殴るのをやめ、参吉の眉のところにある(昔の)薄い傷痕《きずあと》を見た。 「穏やかに話そう」と参吉が平べったい声で云った、「近所へみっともねえから」 「繁ちゃん」とおひさ[#「ひさ」に傍点]が泣き声で云った。  繁次は躯《からだ》をどけ、参吉は起き直って、着物の衿《えり》を合わせた。 「もういい大丈夫だ」と繁次は喘《あえ》ぎながらおひさ[#「ひさ」に傍点]に云った、「これから男同志で話すことがある、もう乱暴なまねはしねえから、おめえはうちへ帰っててくれ」 [#6字下げ]八[#「八」は中見出し]  半刻ばかりのち、おひさ[#「ひさ」に傍点]が晩めしの支度をしていると、勝手の障子をあけて、繁次が覗《のぞ》いた。 「六つが鳴ったら渡し場のところへ来てくれ」と彼は囁《ささや》いた、「話があるんだ」 「六つね」とおひさ[#「ひさ」に傍点]は頷いた、「いいわ」  繁次は障子を閉めて去った。  おひさ[#「ひさ」に傍点]が御蔵《おくら》の渡しへいったとき、繁次は河岸っぷちに佇《たたず》んで、暗くなった隅田川の水面を眺《なが》めていた。あたりはもうすっかり昏れてしまい、向う岸の灯がまばらに、ちらちらとまたたくように見えた。その渡しは六時が刻限なので、渡し小舎《ごや》も戸を閉めてい、河岸沿いの道にも通る人は殆んどなかった。 「ちょっと飲んでいたんだ」おひさ[#「ひさ」に傍点]を見ると繁次はすぐに云った、「臭かったらはなれていてくれ」 「さきに云っとくわね」おひさ[#「ひさ」に傍点]は繁次の言葉に構わずそう云った、「あたし悪いけれど、あんたたちの話を聞いちゃったのよ」 「鈴虫の厨子のこともか」 「ええ、頼んだ道具屋さんが潰れたってことも」 「あれは贋作《がんさく》だ」と繁次が云った、「写しだと云ったが、道具屋と結託して鈴虫の厨子の偽物《にせもの》を作ったんだ、あいつはもうだめだ、参吉はいい腕を持っているが、その腕のいいのが仇《あだ》になった、いまっから道具屋と組んで、名物の偽作なんぞするようじゃおしまいだ」 「だってあの人、お金が要るんでしょ」 「作りだしたのはそのまえっからだ」と繁次は怒りを抑えかねたように云った、「おめえが帰ってからおらあ云ってやった、そんな無理なことをして嫁に貰ったって、おんば日傘で育った金持の娘に、おめえの稼ぎでやりくりのできるわけがねえ、また贋作、偽物を作るということになるぜって」 「あんたは昔っからあの人が好きだったわ」 「好き以上だ、おれはあいつこそ万人に一人っていう職人になると思ってた」と繁次は云った、「――人間てもなあわからねえ、おらああいつを、おれなんぞとは段違いなやつ、いまに必ず偉くなるやつだと信じこみ、あいつがおれの友達だっていうことが自慢だった、あいつのためならどんなことをしてもいいと思い、……云っちまうが、おめえのことさえ諦《あきら》めたくらいなんだぜ」 「知ってるわ」とおひさ[#「ひさ」に傍点]が囁き声で云った、「あたし知ってたのよ」  繁次は顔をそむけ、おひさ[#「ひさ」に傍点]からはなれて、河岸っぷちを石垣すれすれに五六歩ゆき、そこで川のほうに背を向けてしゃがんだ。――男が二人、御蔵のほうから高ごえに話しながら来、繁次とおひさ[#「ひさ」に傍点]を認めたのだろう、通り過ぎてゆきながら、「ようおたのしみ」と云った。どうやら酔っているらしかったが、それ以上からかうようすもなく、はずんだ声で話しながら去っていった。  ――おたのしみ、か。  繁次は強く奥歯を噛《か》み合せた。  ――ここで蟹を捕ってやったことがあったっけな。  おひさ[#「ひさ」に傍点]がこっちへ歩み寄って来た。 「あたし繁次さんが好きだったわ」とおひさ[#「ひさ」に傍点]は低い声で云った、「こんな小さいじぶんから、ずっとあんたが好きだったわ、そのことを知ってもらおうと思って、ずいぶん小さい知恵をしぼったのよ、――でもあんたは勘づいてはくれなかった、あんたは一人ぎめに、あたしが参吉さんを想ってるって、自分だけで思いこんでいたわ、あたしが口やそぶりで、どんなにそうじゃないってことを知らせようとしても、あんたは気づいてもくれなかったのよ」  繁次はしゃがんだまま、両手を固く握り合せ、それを額へぐいと押しつけた。 「それがほんとなら」と繁次はよく聞きとれない声で云った、「――いや、いまでもそう思っていてくれるのか」  おひさ[#「ひさ」に傍点]は答えなかった。呼吸五つほど数えても答えのないことで、繁次にはおひさ[#「ひさ」に傍点]の気持がおよそわかった。 「参吉はもうだめだぜ」と繁次が云った、「あいつは小村屋の娘を貰うだろう、だが、それも長続きはしないだろうし、職人としても立ち直ることはできやしないぜ」 「だめなことはあたしも同じよ」とおひさ[#「ひさ」に傍点]が云った、「――薪小屋の前であの人に抱かれたとき、あたし、これが繁ちゃんなら、って思ったわ、あんなふうに抱かれるなんて夢にも思わなかったし、抱かれるとすぐに、これが繁ちゃんだったらいいのにって思った、おかしいようだけれど、いまでもそのことは覚えているのよ」 「おれには、とても」と繁次が口の中で呟いた、「とてもそんな勇気はありゃあしねえ、けれどもおれは」 「いいえだめ、もうだめなの」おひさ[#「ひさ」に傍点]はそっとかぶりを振り、なんの感情もない声で遮った、「繁次さんがあたしのこと、あの人が好きだと思いこんで、いつまでもそう思いこんでいるのを見ているうちに、あたしあの人のことが本当に好きになってしまったの」 「しかしおめえもわかっている筈だ」 「あんたが悪いのよ」むしろ明るい口ぶりでおひさ[#「ひさ」に傍点]が云った、「こんなにあの人のことが忘れられなくなったのは、あんたのせいよ、――あたしもうだめなの、本当にだめなのよ」  繁次は黙った。おひさ[#「ひさ」に傍点]も口をつぐんだ。 「あたしわかってるわ」とおひさ[#「ひさ」に傍点]がやがて云った、「あんたの云うとおり、あの人は小村屋からおかみさんを貰っても、きっと長続きはしないでしょ、そればかりじゃない、男のあんたにはわからないようだけれど、あの人はいまがゆき止りよ、万人に一人なもんですか、女には女の勘があって、男のことは案外よく見えるものよ、あの人はもうゆき止りだわ、これからはただ落ちるだけよ」  繁次がきっと振向いた。すると、おひさ[#「ひさ」に傍点]はなにかを避けるように、繁次の顔をみつめながらあとじさりをした。 「あんたは仕合せになれるわ」あとじさりをしながらおひさ[#「ひさ」に傍点]が云った、「うちの町内にだって二人も、あんたのことを好きな人がいるわ、もうすぐあんたは店を持つんだし、どんないいおかみさんだって貰える、あんたはきっと仕合せになれてよ」  おひさ[#「ひさ」に傍点]はついに泣かなかったし、泣き声も出さなかった。 [#6字下げ]九[#「九」は中見出し] 「どうしたの」と女が云った、「ちっともあがらないじゃないの、お口に合わないんですか」 「おめえに一ついこう」 「あたしだめなの」と女が云った、「このうちはやかましいのよ」  繁次は盃を出し、女は酌をした。  ――本所らしいな、ここは。  彼は注がれた盃を持ったまま、店の中を眺めまわした。天床に八間《はちけん》が二つ、木口の新しい、小ぎれいな店の造りを明るく照らしている。白磨きのがっちりした飯台が四つ、二列に並べてあり、腰掛も樽ではなく、よく枯らした杉の厚い板で、一人ずつ座蒲団が置いてあった。もうおそいのだろう、客はまばらで、板場へ通じる暖簾《のれん》の奥も静かになっていた。 「ここは本所か」と繁次が訊いた。 「その次はあたしの名でしょ」と女は云った、「あたしおきぬ[#「きぬ」に傍点]、どうぞごひいきに」 「本所のどのへんだ」  そのとき向うで「きぬ[#「きぬ」に傍点]ちゃん」と呼んだ。三人の客の相手をしていた女中である、おきぬ[#「きぬ」に傍点]は「ちょっと待ってね」と云って、そちらへ立っていった。  繁次は盃を口へ持っていったが、眉をしかめて口からはなした。 「本所のどこだろう」彼は自分の考えをそっちへそらすように呟いた、「――あれから一軒、二軒、ここが四軒めだな」  盃を持つ手がふらふらし、盃の酒がこぼれた。繁次は肱を突いた左の手で顔を支え、なにかを耐え忍ぶように唇を噛んだ。 「――落葉に雨の音を聞く」  三人伴れの向うの客の一人が、いい声でうたいだし、その伴れがやじを入れたので、唄はそれっきり聞えなくなった。 「なつかしいな」繁次は眼をつむった、「あの人はおつぎ[#「つぎ」に傍点]といったっけ、――もうすぐよって、こういう気持がわかるようになるには、学問も金もいらないからねって」  そうだ、学問もいらず金をかけなくっても、いつかはみんなそういう気持を味わうときが来るんだ。いまから思うと、おれはもうあのとき、ああいう気持がわかっていたらしい、だからあの唄ばかりうたってたんだ。へ、だらしのねえやつだ、と彼は思った。 「もう忘れちゃったなあ」繁次は眼をつむったまま、さぐりさぐり、口の中で低くうたいだした、「――落葉に雨の音を聞く、隣りは恋のむつごとや……」  彼はつむった眼にぎゅっと力をいれた。 「あたしその唄だい好きよ」と女が云った、「あとを聞かして」  女が戻って来たのを知らなかったので、繁次は吃驚《びっくり》し、盃の酒をまたこぼした。女は布巾で台の上を拭き、燗徳利を取りあげた。 「あらいやだ」とおきぬ[#「きぬ」に傍点]が云った、「ちっとも減らないじゃないの、どうなすったの」 「この唄を知ってるのか」と繁次が訊いた。 「文句はよく知らないのよ、でも好きな唄だわ」とおきぬ[#「きぬ」に傍点]が云った、「はいお酌、――冷たいわね、お燗を直して来ましょうか」 「それより水を貰いてえな」 「おひやね、はい」おきぬ[#「きぬ」に傍点]は立っていった。  あとの文句はうたわないほうがいい、とおつぎ[#「つぎ」に傍点]が云った。あとの切れているほうが情が残るようだって、と繁次は思った。  おきぬ[#「きぬ」に傍点]が湯呑に水を持って来た。彼は一と息に飲みほそうとして噎《む》せ、激しく咳《せ》きこんだ。 「勘定」と彼は呟きながら云った。 「いまのあとを聞かしてくれないの」 「この次だ」と彼は云った、「こんど来たときにな」 「きっとよ、きっといらしってね」 「きっと来るよ」と彼は頷いた。  勘定をして外へ出ると、街はひっそりとしていて、辻燈台のほかには一つの灯も見えず、かなり強い風が吹いていた。繁次は立停って、左右を見まわした。 「どっちへゆくんだ」まっ暗な街を眺めながら、彼は途方にくれたように呟いた、「――これからどっちへいったらいいんだ」 底本:「山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り」新潮社    1982(昭和57)年10月25日発行 初出:「小説新潮」    1959(昭和34)年10月 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:栗田美恵子 2021年7月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。