青竹 山本周五郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)近江《おうみ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)悪鬼|羅刹《らせつ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#6字下げ] ------------------------------------------------------- [#6字下げ]一[#「一」は中見出し]  慶長六年の夏のはじめ、近畿地方の巡察を命ぜられた本多平八郎忠勝は任をはたした帰途、近江《おうみ》のくに佐和山城に井伊直政をたずねて数日滞在した。ふたりは徳川家のはたもとで酒井榊原とともに四将とよばれ、いく戦陣ともに馬をならべて戦ってきたあいだがらである。一日は琵琶湖《びわこ》に舟をうかべて暮し、あくる日は伊吹の山すそで猪《いのしし》狩りをした、また鈴鹿の山へ遠駆けをして野営のいち夜にむかしを偲《しの》んだりもした。心たのしく、こうして四五日をすごしたのちいよいよ明日しゅったつというまえの夜だった。城中で催された別れの宴がようやくさかんになりはじめたとき、忠勝がふと思いだしたというようすで、 「関ヶ原のおりに島津軍の阿多ぶんごを討ちとめた若者はこの席に出ているか」とたずねた。直政はちょっと返辞ができなかった、忠勝のいうその若者が誰だかわからないからである、それでかれは話題をはずして答えた、「阿多豊後という名を聞くと島津惟新を討ちもらしたことを思いだす、もう一歩というところだった、まことおれのこの手で入道の衿《えり》がみをもつかむところだった」「まったく、おぬしとはずいぶん戦塵《せんじん》をあびてきたが、あれほどすさまじい合戦はみかたが原いらいであろう」話は関ヶ原のことに集った。  慶長五年九月十五日午後一時、金吾中納言ひであきのねがえり反撃によって石田三成の陣は総くずれとなり、午前四時からはじまった合戦はそのときまさに徳川軍の勝ち目を決定した。ほとんど乱戦となった戦場の一角で、本多忠勝と井伊直政とは僅かな手兵のせんとうに馬を駆り、島津惟新義弘の軍へきびしくきりこんでいた。敗勢になりながら、島津の兵はじつによく戦った、しかしいかに善防したところでもはや大勢を挽回《ばんかい》することはできない、ついに馬じるしを折り記章を捨てて牧田から西南のほうへと退却をはじめた。追いうちは急だった、惟新義弘はしばしば危地に追いつめられた、それを救うために惟新の子豊久が馬をかえして戦い本多忠勝の兵に討たれた。つぎには侍大将の阿多ぶんご盛淳が追撃兵の前にたちふさがり、――兵庫入道これにあり、島津惟新これにあり。とさけんで義弘の身代りに立った、これにぶつかったのは井伊直政の兵だったが、直政はそれが身代りだということを察し、おのれはなおも馬を煽《あお》って惟新を追った。――どうでも入道のしるしをあげるぞ。そう思ってむにむさんに突っこんだ。義弘をまもる兵たちはすでに八十余人にすぎなかった、これが牧田川の岸でめざましく防ぎ戦った、そしてもう一歩というところまできりこんだ直政は敵の銃撃にあって腰を射ぬかれ、惜しくも馬から落ちてしまった、長蛇をめのまえに見つつ逸し去ったのである。このあいだに直政の兵の一部がぶんご盛淳を討ちとめていたのであるが、乱軍のなかのことで誰が功名人であるかわからなかった、名乗って出る者もなかった、それでその部隊ぜんたいの手柄として軍鑑にしるされたのであった。  阿多ぶんごを討ちとめた若者はと、いま忠勝にきかれても、だから直政にはすぐに返辞ができなかったのである。そうきくからには忠勝は知っているにちがいない、それに対してじつは当家ではその者がわかっていないのだとは答えられるものではなかった、それで直政はそれとなく忠勝から話をひきだすことにしたのである。「阿多もりあつを討ったおり、こなたは其処《そこ》に見ておられたのか」「うん見ておった」忠勝はうなずきながら答えた、「四半のぬのに墨絵で蕪《かぶら》の絵を描いためずらしい差物に目をひかれ、思わず馬をかえしたとき、まさに豊後へ一槍つけたところであった、その折の戦いぶりは今でもありありと眼にのこっておる」直政はほっとした、四半のぬのに墨絵でかぶらを描いたさしもの[#「さしもの」に傍点]と云えば一人しかいない、その若者が誰であるかはそのひと言でわかったのだ。「だがそのときのことで、ひとつだけどうしても合点のゆかぬことがあるのだ、当人に逢ってそれをたしかめてみたいと思うのだが、この席へ出ていたら呼びだして貰いたい」「その者はせがれ直孝の守役でここへは出ておらぬが、ご所望なれば呼び寄せてもよい」直政は侍臣のひとりに余吾源七郎をよべと命じた。  源七郎はかくべつ衆にぬきんでたという男ではない、気質がきわめて恬淡《てんたん》だし、口数がすくなく、すべてに控えめなところが人に好かれているけれども、武勇の点ではあまり華々しいはたらきはしていなかった。それでも性が合うというのであろうか、直政はつねづねかれに目をかけていて、特にわが子直孝の守役に抜擢したくらいであった。――どこかにみどころがあると思ったが。直政はいまはじめておのれのめがねに狂いのなかったことをうれしく思った。 [#6字下げ]二[#「二」は中見出し]  源七郎が伺候すると、忠勝は待ちかねたようにそば近くへまねき寄せ、手ずから杯をとってかれに与えた。「関ヶ原のおりにはめざましくはたらいたな、島津のさむらい大将あた豊後を討ち取ったありさまはまだこの眼にのこっているぞ」「過分の仰せまことに恐れいります」かれは顔の色も変えずにそう答えた。もしやわたくしではございませんと否定するかと思っていた人々は、ではやっぱりそうだったのかと驚きもし、またかれの平然たるようすが心憎くも思われた。「あのときのことでひとつ不審がある」忠勝はかさねて云った、「そのほうが豊後につけた槍はおれの眼にはたしかに竹槍のようにみえた、井伊どのはたもとの武士が竹槍を遣うとはうけとれぬことだし、おれの眼が誤っていたとも思われぬ、いつかそのほうに会ってたしかめたいと思っていたのだが、おれの眼ちがいであったかどうか」「おそれながらお眼ちがいではございません、たしかにわたくしは竹槍を用いておりました」妙な問答になったので、列座の人々はにわかにこちらへ視聴をあつめた。なかには思いあたる者もあるとみえ、うす笑をうかべながら頷《うなず》き合う者もいた。「それはまたどういうわけだ、野武士、牢人《ろうにん》なら知らぬこと井伊どの旗本にいて槍のしたくができぬ筈もあるまい、なにか心得があってのことか」「かくべつ申上げるほどの心得とてもございません、ただはたらき易いものですから用いたまででございます」「それだけではわからぬ、どうして竹槍のほうがはたらき易いのだ」「槍を敵の胴へふかくつけました場合に、これをひき抜くことはなかなかむつかしいものでございます、ことに鎧胴《よろいどう》を徹しまするといっそう困難なうえにへたをするとつけこまれます、されば乱軍のおりなどには、槍をつけると同時にそれを突っこんだままにして置き、太刀を抜いて討ちとめるのが手勝ちでございます」「そうか、槍は胴へ突っこんだままにして置き、すぐに刀を抜いて斬るというのだな」「そう致しますと勝負も早く、また一倍とはたらきも自在でございます、しかし」とかれはしずかにつづけた、「いかにそれがよくとも、敵ひとりに槍ひと筋ずつ捨ててゆくわけにはまいりません、そこでわたくしは竹槍を遣うことを考えつきました、竹槍なれば五十や百なにほどのことでもなし、また試みましたところでは鎧胴などへもなかなかよく徹り、むしろ遣いようによっては鑓《やり》よりも役に立つように心得ました」「けれども五十本百本という竹槍を持って戦場を駆けまわることはできまい」「わたくしは三十本ずつ束に致しまして、小者どもに担がせて置きます、敵にであうたびに之《これ》を抜きとって遣いますので、べつに不自由はございません」 「ほう、小者たちに担がせて、それは面白いな」忠勝はすぐにそのありさまを想像したとみえ、笑いだしながら云った、「そのほうが駆けてゆくあとから竹槍の束を担いだ小者たちがえっさえっさと駆けてゆく、敵に当るとそのほうが束の中から一本ひき抜いてやっと突っこみ、これを討ちとってまた駆けだす、小者たちも竹槍の束を担いでまたぞろ駆けだす、えっさえっさと駆けだすか、これは面白い」  忠勝の口ぶりもひょうげていたが、そのこと自体がすでに可笑《おか》しみたっぷりだったので、直政はじめ居合せた人々は思わずどっと笑いだしてしまった。けれども源七郎は笑いもせず、悪びれたようすもなく、またむろん誇りがましいところもなく黙ってひかえていた。忠勝はひじょうな機嫌でいくたびも手ずから杯をやり、ひきで物として腰の短刀をとって与えた。  そのあくる日、忠勝はしゅったつしたが、あとには思いがけぬ問題がのこされた。すなわち阿多豊後を討った功名人があらわれたことである、しかも本多忠勝という他家《たけ》のひとによって実証されたのだからそのままに済ませることはできない、現に忠勝さえ短刀を与えているのである、井伊家としても当然なんとか恩賞の沙汰がなくてはならぬところだった。直政はことに自分がめをかけていた者のことなので、すぐに老臣たちを集めて評議をした。その結果は、なおいちど源七郎によく事実をたしかめたうえ、まさしく相違なしときまったなら恩賞をつかわすがよかろうということになった。 [#6字下げ]三[#「三」は中見出し]  その日、佐和山城の大書院へよびだされた余吾源七郎は、しゅくん直政をはじめ老臣ぜんぶの顔がそろっているのをみて審しそうにした、なにがはじまるのかまるで見当がつかないようすだった。審問にあたったのは根本玄蕃だった、源七郎は初めてああそのことかとわかったので、阿多盛淳を討ちとめた事実をあっさりと認めた。「たしかにそのほうが討ち取ったのだな、些《いささ》かでもうろんがあってはならんぞ、たしかにそうか」「いかにもたしかにわたくしが討ちとめたに相違ございません」そう答える源七郎の眉にはいささかのまぎれもみえなかった。玄蕃はさらにつづけて、「それではたずねるが、関ヶ原合戦のおり豊後を討ったのは自分だとなぜ名乗って出なかったのか、いかなる仔細《しさい》で今日まで秘していたのかそれを申せ」「かくべつ仔細とてもございません、そう致すつもりがなかったので、しぜんとそのままになっただけでございます」「しかし平首なればともかく侍大将を討ちとめながら、ただ名乗って出る気がなかったと申すだけでは合点がまいらぬぞ」源七郎は黙ってしまった、玄蕃はしばらく待ったが答えがないので、かさねて返答をうながした。すると源七郎はいかにも困ったような顔つきで云った、「わたくしはただひとすじに戦うだけでございます、戦がお味方の勝になればよいので、ひとりでも多く敵を討って取るほかには余念はございません、さむらい大将を討ったからとて功名とも思いませぬし、雑兵だからとて詰らぬとも存じません、名乗って出なかった仔細と申せばこの所存ひとつでございます」  訥々《とつとつ》として言葉は重かったが、その内容には人の胸をうつものがあった、それで玄蕃は意をうかがうように主君のほうへふりかえった。直政は満足そうに頷いて云った。「よくわかった、勢州どの[#1段階小さな文字](忠勝)[#小さな文字終わり]もたしかに認めていることゆえ、もはや不審の余地はないであろう、また唯今の一言は、戦場の心得としてさむらいどもの学ぶべきところがある、恩賞をあらためて五百石加増をとらせたい、みなに異存があるか」  老臣たちに異存はなかった、玄蕃が拝揖《はいゆう》して恩命を謝すると、列座の人々もいちようによろこびを述べた。直政はそれをずっと見まわしたが、ひとりだけ、そのなかに黙ってしぶい顔をしている者をみつけた。竹岡兵庫というものだった、つねにひと理屈こねずにいない一徹な性分で、老臣のなかではきけ者の一人である、「兵庫はどうした、なにか異存があるか」「いかにも異存がござります」鬢《びん》には白いものをまじえているが、年は五十になったばかりで、日にやけた逞《たくま》しい相貌には壮者をしのぐ精気が溢《あふ》れている、かれは一座をねめまわしながら、「御恩典の儀はまことにかたじけのうござります」と無遠慮に云いだした、「また阿多ぶんごを討った手柄もあっぱれと存じます、けれども関ヶ原の合戦は一年以前のこと、賞罰もすでにそのとき執りおこなわれております、事実に相違はなくとも、いったんおこなわれた賞罰を今になって改めるとはいかがでござりましょうか」ぐいと兵庫は直政を見あげて云った、「かような事は前例となるものでござります、合戦が終って年数が経ちましてから、あの大将はおれが討った、あの功名はおれのものだと、てんでん勝ちな論争が出ました場合いかがあそばしますか、これはさような時の悪い前例となりは致しませぬか、……余人は知らずこの兵庫は、いまさらの御恩賞はあくまで御無用と存じます」  みんなこえをのんだ、いかにも道理のはっきりした意見で反対のしようがない。云いだした直政も言葉に窮して席はしばらく白けわたった。源七郎はじっと俯向《うつむ》いたままだった、心なしか額のあたりが蒼《あお》ざめているようにみえた。……結局は兵庫の意見がまさしいと認められた、そして恩賞のことは沙汰なしときまって、評議が閉じられたとき、「源七郎にはたずねることがある、しばらく控えておれ」と直政が云った。老臣たちが退席すると、さらに扈従《こしょう》の者をもさがらせ、源七郎とふたりだけになった直政は、「ゆるす、近うまいれ」と自分も膝《ひざ》をすすめた、「いまそのほうの戦場の覚悟を聞いたのでもうひとつたずねて置きたいことがある、それはたかさき在城のおり、せがれ直孝の宿所へ盗賊のはいったことがある、そのとき直孝がみずから賊を斬り伏せたが、そのほうは手をつかねて見ておった、さようであったな」そう云われて源七郎はまぶしそうに眼を伏せた。……それは二年まえ、井伊直政が上野《こうずけ》のくに高崎で十二万石に封ぜられていたときのことだった。かれには直勝、直孝とふたりの子があったが、二男なおたかは庶子で、ある事情のため六歳のときから十三歳まで城外にやしなわれていた。 [#6字下げ]四[#「四」は中見出し]  直孝を預かったのは箕輪《みのわ》在の庄屋だった。べつに館をつくるまでもなく、庄屋の家族とおなじ構えのなかで育てられたが、のちに余吾源七郎が守役として来、小者三人が付けられた。直孝が十歳のとしの早春のある夜、ふたりの賊がその屋敷へ押し入って来た。それと知ったなおたかは寝衣《ねまき》のまま、枕頭の太刀をとってはね起き、大喝しながら賊へ斬ってかかった、賊は抜き合せたが、その勇に恐れて庭へとびだした、直孝はそれをひっしと追いつめ、一人を斃《たお》したうえ一人の高腿《たかもも》を斬りはなした、そこへ小者や庄屋の家僕たちが駆けつけて来て、傷ついた賊を生捕りにした。……守役の源七郎はこれだけの事を、縁側に腰をかけて見ていたという、「縁側に腰をかけて」というのは誇張であろうが、黙って見ていたのは事実だった。それが小者の口から城中へ知れたので、かれは直政に呼びつけられてきびしく叱責《しっせき》された。かれはなにも弁明はしなかった、どこまでも低頭して詫《わ》びるだけだった、すこしも悪びれないその態度がよかったので、そのときはそれで済ませたのである。……しかし今、玄蕃に問い詰められてようやく戦場の覚悟を申し述べたように、守役としてなにか考えることがあったのではないか、直政はふとそう思いついたのである。 「あのおり予はそのほうを叱った、そのほうはただ詫びるだけであったが、いま申したほどの覚悟をもつさむらいが、あのときわけもなく手をつかねて見ている道理はない筈だ、なにか心得るところがあってのことと思うがどうだ」  源七郎は困ったという顔でおのれの膝をみつめていた。直政はかさねて促した、それで源七郎はひどく云いにくそうに、「申上げるほどのことではございませんが」とぽつりぽつり答えた、「たとえば、殿には関ヶ原のおりどのようにお戦いあそばしましたでしょうか、乱軍のなかに御馬を駆りいれ、矢だまを冒して敵陣を蹴《け》ちらし、ついには銃撃にあうほどのめざましいおはたらきでございました、なおたか様とても、やがては徳川家一方の大将となるべきおからだでございます、柔弱なおそだてようをつかまつってはならぬと、くれぐれも心を戒めておりました、それだけでございます」 「だが賊を斬ったからよいが、もし若が斬られたとしたらどうする、柔弱に育てぬということは暴勇をやしなう意味ではない筈だ」 「殿には直孝さまを暴勇の質とおぼしめしますか」  直政はぐっと詰った、直孝は暴勇などという性質とはおよそ逆であった、心もからだも虚弱な長子なおかつに比し、直孝は明敏で濶達《かったつ》な気性と、すぐれた健康にめぐまれていた、直政はこれこそ井伊家の世継ぎと思い、ひそかに伝来の采配《さいはい》を与えていたくらいである。 「わたくしは鈍根ではございますが」と源七郎はしずかに続けた、「直孝様を暴勇におそだて申すほど不心得とも存じません、性来のくち不調法ゆえ、理路まさしく申上げることはできませんけれども、あのおりのことは源七郎などが手だしをする必要はまったくなかったのでございます、また万一さような惧《おそ》れがいささかでもみえましたなら、守役のわたくしが手をつかねておる道理がございません、わたくしと致しましては、若ぎみがおんみずから御胆力をためす屈竟《くっきょう》のおりと、つつしんで拝見していたしだいでございます」  源七郎の気持がようやくはっきりした、きめどこをきめて、あとはあるがままに任せるという態度、その柔軟な心のひろさがいま直政にはよく理解できたのである。 「それでわかった、もうなにも申すことはない、直孝のことはくれぐれもたのむぞ、心ばかりのひきでものだ、これをとらす」そう云って直政は佩刀《はかせ》をとってさしだした。しかし源七郎は受けなかった、「おそれながら、ただいま阿多ぶんごのことで評議があったばかりでございます、お佩刀を頂戴いたしましては、評定のきまりに障るかと存じます、かたく御辞退をつかまつります」五百石加増がとりやめになった、そのつぐないの意味もあったのだが、それを察したのであろう、源七郎はどうしても受けなかった、そしてしずかに退出していった。  恩賞は沙汰なしになったけれどもかれの名はにわかに佐和山城の内外にひろまった。これまで諸事ひかえめに、あまり口数もきかず、なるべく人のうしろに立つという風だったのが、一番首の功名を隠していたという事実がわかったので、こんどは逆にひどくそれが誇張した噂《うわさ》となって喧伝《けんでん》された、かれはほとんど英雄にさえなった。もちろんそれは世間の評判がそうなっただけで、かれ自身にはなんの変りもなかった、依然として無口な、ひかえめな、印象の鈍い存在だったのである。 [#6字下げ]五[#「五」は中見出し]  御前評議があってからしばらくして、竹岡兵庫のもとから源七郎に招待の使が来た。――粗飯を呈したいからぜひ。という口上であった、源七郎は承知のむねを答え、約束の刻限にその屋敷をおとずれた。曲輪《くるわ》うちにある兵庫の屋敷は庭もひろく樹立も鬱蒼《うっそう》としていて、源七郎の通された客間からはその黒ずんだ緑の梢《こずえ》ごしに城の天守がよく見えた、そのとき昏《く》れてゆく残照をあびたその天守の屋根に、白鷺《しらさぎ》が一羽ひっそりと翼をやすめているのを、源七郎は名ある絵巻でも見るような気持で眺めていた。……ややしばらく待ったが、やがてひとりの美しい乙女が茶菓を運んで来た。まだ十六七であろう、透きとおるように白い肌で、眉のあたりに少し憂いがみえるけれど、唇《くち》つきや睫毛《まつげ》のながい眼もとの美しさは類がないように思えた、源七郎はちらと見ただけであったが、ろうたけたという感じのその美貌にはつよく心をひかれた。 「……粗茶でござります」むすめは韻のふかいこえで会釈し、しずかに、作法ただしく去っていった、その声もまた源七郎の耳にながくのこったのである。  それきり乙女は姿をみせなかった。食事のときには家士が給仕をした。兵庫はたいそうな機嫌で、しきりに古今の戦場ばなしなどを聞かせたが、やがて席をあらため、茶を命じて源七郎とさし向いになった。すでに日は暮れていた、兵庫は縁ちかく坐り、しばらくなにか云いかねているようすだったが、やがて思切ったという風に向き直った、「余吾、とつぜんだが嫁をとらぬか」源七郎は初めて招待の意味がわかった、兵庫はたたみかけるように続けた。「うちつけに申すが相手はわしのむすめだ、せんこく茶を運ばせたから見たであろう、親の口から申しては笑止だが、武家の妻として恥ずかしからぬ躾《しつけ》はしてある、気だても尋常だと思う、貰って呉《く》れぬか」「おことわり申します」打ちかえすような返辞だった、あまりにすばやく、しかもきっぱりとした返答なので兵庫はちょっと息をのんだ。 「ことわる、ほかに約束でもあるのか」「さようなものはございません」これもはっきりしていた、兵庫はじっとその顔をみつめながら、「ではもしや、せんじつの評議でわしが恩賞とりやめを申し張ったのが気にいらぬのではないか」「さような男にみえますか」笑いもせずに源七郎は云った、「なるほど不快でなかったとは申しません、しかし不快に思いましたのはこなた様に対してではなく、五百石ご加増との仰せを聞いて、ふとよろこびを感じたおのれのあさはかさでございました、正直に申しますがわたくしは恥ずかしさに身が竦《すく》んだくらいでございます」 「ではなにが気にいらぬのだ、わしも底を割って云うがあの娘だけはかくべつ可愛い、五人ある子たちのなかであれひとりはかくべつなのだ、たのむ、そのもとをみこんでたのむのだ、どうか嫁にもらって呉れ」 「せっかくのお志ではございますけれども、これだけはお受けをいたし兼ねます」 「なぜいかん、むすめが気にいらんのか」 「そうではございません」源七郎はぎりぎりに追いつめられた、それでしかたなしに云いたくないことを云わなければならなかった、「申しにくいことではございますが、こなた様は千石のご老臣、わたくしは三百石の若ぎみお守役でございます、上役より妻を娶《めと》りましては、ゆくすえ女房のゆかりで出世をしたなどと申され兼ねません、さればこなた様にかぎらず、おのれより身分たかき家からは娶らぬ覚悟でございます」  きっぱりと心きまった言葉だった、兵庫は落胆のさまを隠そうともせず、力のぬけたような調子で、「そうか、うん、そうか」とうなずくばかりだった。  竹岡からはなしのあったのがきっかけのように、諸方から俄《にわ》かに縁談が持ちこまれだした。身分のたかい家ばかりではなく、同格より下からも、才媛《さいえん》のきこえの高いものをすすめてきた、けれどもなにゆえか源七郎はうんと云わなかった。「じつはさる方からいちど縁談があり、わたくしの勝手からおことわり申しました、その方への義理として、当分は妻を娶る考えはございませんから」どんな縁談にもそう答えるだけで、どうすすめてもはなしは纏《まと》まらなかった、それでついには世話をしようというものもなくなり、独身のまま月日が経っていった。 [#6字下げ]六[#「六」は中見出し]  あくる年の二月、直政が病死して長子なおかつが家督をし、間もなく城地を彦根へ移された。慶長十年には直孝が十六歳で将軍家に召され、おそば仕えを命ぜられたので源七郎も供をして江戸へくだった。この年に秀忠は征夷《せいい》大将軍となり、大阪城の秀頼は内大臣に任ぜられた。徳川と豊臣氏のあいだにようやく不穏の雲ゆきが動きはじめたのもこの時分からである。おなじく十三年に直孝は書院番がしらとなり、十六年には二十二歳で大番のかしらに累進した。余吾源七郎はこのあいだに五百石の徒士《かち》がしらとなっていたが、まだ娶らず、黙々として目立たぬ奉公ぶりを続けていた。  かくて慶長十九年霜月、ついに関東と関西のあいだに戦端がひらかれ、関ヶ原いらいくすぶっていたものがゆきつくところへゆきついた。直孝は病弱な兄に代って大阪へ従軍し、生玉口から真田丸の攻撃にめざましいはたらきをした。この戦は十二月十七日に和睦《わぼく》となり、いったん両軍は兵をおさめたけれども、あくる元和元年五月ふたたび開戦となった、すなわち夏の陣がこれである。……冬の陣には直孝の帷幄《いあく》にあった源七郎は、このたびは右翼の部将となり、二百余人の兵をあずかって陣頭に立った。  源七郎のさしものが変ったのを、そのときはじめて人々はみつけた。四半の布に墨絵で蕪《かぶら》をかいたものが、その蕪の下にあたらしく一連の数珠を描き加えてある、蕪だけでもかなり変った差物だったのに、数珠が加わったのでひどく眼についた、「差物が変ったな、どうしたんだ」「ひどく仏くさいものを描きこんだではないか、なにか発心でもしたのか」みんなしきりに不審をうったが、源七郎は苦笑するだけでなにも語らなかった。  合戦のありさまを精《くわ》しくするいとまはないが、このたびは大阪軍もその運命を賭《と》していたので、ずいしょに激しい戦闘が展開した。そして五月七日午後のことである、……天王寺口の側面攻撃を命ぜられた井伊軍は、藤堂軍と共に果敢な進撃を開始した。しかしこの攻撃はかねて敵の期して待つところだったとみえ、出ばなを叩いて火の出るような反撃に遭った、まことに烈火のような反撃だった、井伊軍は旗奉行はらみいし春時、広瀬まさふさを討たれ、挽回しがたしとみてついに退却令を出し、秀忠の陣へといったん兵をひかせた。けれどもそのなかにあって余吾源七郎は動かなかった、かれは右翼の攻めくちにしがみついていた、二度まで退却をうながされたが、その部下と共に必死と攻め口を確保していた。……濛々《もうもう》たるつちけぶりがその死闘の集団を押しつつんでいた。つちけぶりのなかに斬りむすぶ太刀が光り、槍の穂がひらめいた、影絵のようにいり乱れる兵馬、すさまじい叫喚と呶号《どごう》が天にどよみあがった。悪戦苦闘とはまさしくこのことであろう、兵はしだいに討たれ、敵の攻撃はいささかもゆるまなかった。そしてこの惨憺《さんたん》たる一角に、ひとつの差物が微動もせずはためいていた、「墨絵かぶら」のさしものである、数珠を描き添えた墨絵かぶらの差物は一歩も動かなかった。  それは不退転の象徴だった、悪鬼|羅刹《らせつ》の旗じるしともみえたのである。  余吾の隊士はほとんど全滅した。しかし多くのばあい戦の成敗は微妙なある瞬間に懸っている、全滅を期した源七郎の戦気が、ついに敵の鋭鋒《えいほう》を挫《くじ》くときがきた。そして敵兵の足なみが鈍るとみえたとき、そのときに前田利常と片桐かつもとの軍が怒濤《どとう》の如く突っこんで来た、この二隊は源七郎の確保した攻撃路をひた押して、天王寺口へとむにむさんに斬っていった。大阪軍前衛の大きな拠点たる天王寺口のまもりは、かくして前田片桐その他の諸隊によって、確実に攻め破られたのであった。  大阪城が落ちたのはその翌八日のことだった。源七郎はいくさ目付の審問をうけ、軍令にそむいた事実を糺《ただ》された。退却の命を無視したうえ、部下をほとんど全滅させたからである、しかもその結果としては、前田片桐らに功をなさしめたのみで、井伊軍のためにはなんの役にも立たなかった。軍令にそむいた罪は重い、かれはその場で帯刀をとられたうえ、ただちに彦根へ逼塞《ひっそく》を命ぜられた。 [#6字下げ]七[#「七」は中見出し]  直孝が彦根城へ凱旋《がいせん》したのは秋八月であった。そこで正式に家臣の恩賞がおこなわれ、終ってから余吾源七郎の審問がひらかれた。直孝じきじきの裁きで、おもだった老臣たちも席に列した。問罪の理由は明瞭である、しかし直孝はどうかして源七郎を助けてやりたかった。守役として十余年のあいだ仕えてきたかれ、寵臣《ちょうしん》であるのにいつもへりくだって人のうしろに立つようにしていたかれ、目だちはしないが誠実な奉公ぶりにゆるみのなかったかれ、そういうこしかたの源七郎を思うと、いまここで重科におこなうにはどうしてもしのびなかったのである。 「軍令にそむく者は、厳罰だとかねてきびしく触れてある」直孝は噛《か》んで含めるようにそう云った、「そのほう日頃の気質として、それを知りながら犯したとは信じられぬ、もっとも乱軍のなかのことゆえ、伝令を聞き誤るということはありがちだ、そこをよくよく考え、思い違いのないように返答せよ」  源七郎は平伏したまましばらくなにも云わなかった。しかしそれは思い迷っていたのではなく、よく考えろという主君の言葉をすなおに受けただけであった。 「恐れながら」とかれはやがてはっきりと答えた、「退陣せよとの軍令はたしかに承りました、決して聞き誤りはございませんでした」 「ではいかなるわけで退陣しなかったのだ」 「まったく源七郎の不所存でございます、なにとぞ掟《おきて》どおりの御処分をお願い申上げます」 「ただ不所存ではわからぬ、重科を承知で軍令にそむいたには仔細がある筈だ、それを申せ、包み隠さず申してみい」 「恐れながら申上ぐべきことはございません、なにとぞ掟どおりお申付けのほどを」  どう訊《たず》ねても答えはおなじだった。原因がはっきりしているうえに当人がなんの申開きもしないので罪を軽減するたよりがない、直孝もこれでは助けようがなかった、それでついに裁決をくだした。「軍令にそむき、二百余の兵を喪《うしな》った罪によって、切腹をも申付くべきところ、祥寿院さま[#1段階小さな文字](直政)[#小さな文字終わり]以来の功にめんじ、食禄《しょくろく》めしあげその身は追放に処す」源七郎は平伏して拝受した。老臣たちのあいだから憐愍《れんびん》の沙汰を願いでるかと思ったが、みんな一言もなく直孝の裁きに服した。それでいよいよ罪がきまったかとみえたとき、「恐れながらお裁きはそれだけでござりますか」とどなるように云った者がある、人々は不意のことでびっくりしながらふりかえった、竹岡兵庫であった。よほど激昂《げっこう》しているとみえて、かれの顔は赧《あか》く血がみなぎり、眉はきりきりとつりあがっていた。 「それだけとはまだなにかあるのか」 「ござります、恐れながら軍令にそむきました点のお咎《とが》めは承りました、しかしまだ源七郎の手柄に対しての御恩賞の沙汰はうかがいません、御失念かと存じます」 「源七郎の手柄とはなんだ」 「それを兵庫めから申上げねばなりませぬか」かれはひたと直孝をねめあげた、ひと理屈こねるかれの風貌が、そのときほどすさまじくみえたことはない、「なるほど源七郎はその部下をほとんど全滅させました、しかしそのために攻め口を確保し、天王寺口への攻撃路をやぶることができました、総攻めの端緒をつかんだのは源七郎の手柄でござります」兵庫はそう云いながらぐいと身をすすめ、拳《こぶし》でおのれの膝を打ち叩いた、「軍令を守るべきは戦陣の掟なれども、それだけで合戦はできません、いくさは生きもの、目叩きをするひまにも絶えず転変がござります、かのおりもし源七郎が軍令にしたがい、攻め口をひき払いましたならば、掟には触れず兵を損ずることもなかったでござりましょう、しかし同時に天王寺口の突破は延び、大阪城の陥落はさらに時日を要したに相違ございません、およそ戦場において」とかれは声をはげまして叫んだ、「勝敗の決するところはまことに機微、ここぞと思う一|刹那《せつな》にはなにを捨てても戦いぬく覚悟がたいせつでござります、源七郎はその一刹那を戦いぬきました、軍令にそむく罪も承知、隊士もろともおのれの身命を抛《なげう》って戦いぬきました、かれの罪は罪、しかしこの一点をみはぐっては戦場の魂はぬけがらとなります、列座のかたがたにもたずねたい、余吾源七郎の戦いぶりをどこまでも重科に当るとお思いなさるか」  まるで叱りつけるような叫びである、しかしそれを聞く直孝の眼には涙がうかんでいた、眉はあかるく、唇もとには微笑があった。老臣たちが感動したのは云うまでもない、ただひとりだけ、当の源七郎だけは平然と色も変えずに控えていた。「兵庫の意見をどう思うぞ」直孝はやがて一座を見まわした。「道理もっともと存じまする」「わたくしも道理至極と存じます」つぎつぎに老臣たちは賛意を表した、直孝はこころよさそうに頷《うなず》いて、 「では予の裁決はあらためる、軍令にそむいた罪は咎めよ、しかし手柄は手柄としてよくとり糺《ただ》すがよい、評議のしだいはおって聴くぞ」かくてその日の審問は閉じられた。 [#6字下げ]八[#「八」は中見出し]  源七郎の賞罰は間もなくきまった。掟に触れた罪によって食禄半減、しかし天王寺の攻め口を死守した功に対して五百石の加増があった。かれの元高は七百石になっていたので、つまるところ八百五十石に増したわけである、なお間もなく旗奉行にとりたてられた。逼塞《ひっそく》をゆるされて、源七郎がひさかたぶりに屋敷の門をひらいた日のことである、まえぶれもなく、竹岡兵庫がおとずれて来た。……残暑の頃にはめずらしく涼しい秋風の吹く日で、狭い庭さきには芙蓉《ふよう》の白い花がしずかに揺れていた。 「こう膝をつき合せて話すのは絶えてひさしいことだな」客間に対座すると、兵庫はめっきり皺《しわ》のふえた顔に元気な笑をうかべながら云った。 「さようでございます、佐和山でおまねきにあずかりました以来でございましょうか」 「あのときは馳走損であったよ」からからと笑ってから、兵庫はいかにも不服そうな調子で、 「余吾、おぬしは妙な男だな」と云いだした。 「なんでございますか」 「せんじつお裁きのおりなぜ申開きをしなかったのだ、殿にも罪を軽くするおぼしめしでいろいろ御苦心あそばしたごようすではないか、それを知らぬ顔で、わざわざ罪を求めるような答弁をする心底がわからぬ、いったいおぬしはどういう考えでいたのだ」 「べつにどういう考えもございませんでした」 「ではお裁きどおりの罪におこなわれても不服はなかったと申すのか」 「さようでございます」源七郎は低いこえでしずかに云った、「わたくしは鈍根でございますから、ひとすじに戦うほかにはなんの思案もございません、身命を賭して戦えばそれでよいので、それからさきのことはどうあろうともなりゆきしだいだと存じております」  きっぱりと割りきったものである、兵庫はうむと呻《うめ》き、しばらくは惘然《もうぜん》と源七郎をみつめていた、そしてやがて大きく頷いた。 「むかしから、そのもとのひとがらはなにかを聯想《れんそう》させると思っていたが、ようやく思い当った」「…………」「青竹だ、まっすぐに高く伸びた青竹を二つに割ったようだ、しかしよくそこまでさっぱりと思いきれるものだな」「鈍根のとりえでもございましょうか」そう云って源七郎はそっと微笑した。 「そこで、じつは用談がある」兵庫は坐りなおした、「こんどこそいなやは云わさぬぞ、嫁をとれ」「…………」「お旗奉行に出世もしたし、年から云えばもう遅きにすぎる、どうだ、うんと云わぬか」「おことわり申します」「なにまだそんなことを申すのか」「せっかくではございますが、わたくしは生涯つまは娶りません」そう云いながら、源七郎の眉はいかにも苦しげに曇ってきた、兵庫はそれを訝《いぶか》しそうに見まもっていたが、「生涯めとらんで家の血すじをどうする」「家のためには、すでに養子をきめてございます、ご好志にはそむきまするが、縁談のことばかりはご無用にねがいます」「なぜだ、その仔細をきこう」たたみかける兵庫の言葉に、源七郎はしばらく、じっと眼を伏せていた。ずいぶんながいあいだそうしていたが、やがて、低くむせぶような声で云いだした。 「いまより十四年まえ、わたくしはおのれの増上慢から、またとなき縁談をおことわり申しました、うえより娶っては、女房のゆかりで出世したと云われるなどと、未練きわまる心得にて……まことにまたなき縁談をことわりました、あとで悔みましたが及びませんでした、そのうえ、たぐい稀《まれ》な美しいそのひとは、間もなく病んで亡くなったのでございます」兵庫はつよく胸をうたれた、――ああそれを知っていたのかと思い、心をしめつけられるように感じた。源七郎が直孝について江戸へ去ったあと、二年ほどして娘ははかなく病死した、清浄なままで仏になったむすめの死顔は、いま思いかえしても気高く美しいものであった。かれは亡き娘の心をつがせるつもりで、親族のなかから然るべき者を選み、源七郎に娶らせようとして来たのである。 「わたくしの眼には、いまなお美しいそのひとの姿がみえます、たったひと言きいただけですが、そのひとの声もまざまざと耳にのこっております。……わたくしの妻はそのひと、ほかに余吾家の嫁はございません」 「そう思って呉れるか、源七郎」 「さしもの[#「さしもの」に傍点]に描き加えました数珠は、生涯そのひとに供養を忘れぬしるしでございます」  云い終ると同時に、かれは両手で眼を押えた、兵庫の老《おい》の眼からもはらはらと落つるものがあった。……湖のほうから吹きわたって来る風は、しばらく声のとだえた客間にしのびいり、廂《のき》さきに吊《つ》った風鈴を咽《むせ》ぶように鳴らせていた。 底本:「山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜」新潮社    1983(昭和58)年10月25日発行 初出:「ますらお」大陸講談社    1942(昭和17)年9月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「槍」と「鑓」の混在は、底本通りです。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:北川松生 2022年6月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。