地獄風景 江戸川乱歩 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)訳《わけ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)悪友|共《ども》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#3字下げ] ------------------------------------------------------- [#3字下げ]奇怪なる娯楽園[#「奇怪なる娯楽園」は中見出し]  M県の南部にY市という古風で陰気な、忘れ果てられた様な都会がある。商工業が盛んな訳《わけ》ではなく、といって、交通の要路に当る訳でもなく、ただ、旧幕時代の城下町であった為に人口が多く、漸《ようや》く市の形を為《な》しているに過ぎないのだ。  その眠った様なY市の郊外に、実に途方もない遊園地を拵《こしら》えた男がある。  この世には、時々、何とも解釈のつかぬ、夢の様な、突拍子《とっぴょうし》もない事柄が、ヒョイと起ることがあるものだ。地球の患《わずら》う熱病が、そこへ真赤な腫物《しゅもつ》となって吹き出すのかも知れない。  遊園地を拵えた男は、Y市一等の旧家で、千万長者と云われる喜多川《きたがわ》家に生れた一人息子で、治良右衛門《じろえもん》という妙な名前の持主であった。  こういう身分の人には珍らしく、喜多川治良右衛門には、家族というものがなかった。父母は数年以前に死んでしまい、兄妹とてもなく、彼自身もう三十三歳という年にも拘《かかわ》らず、妻を娶《めと》らず、多勢の召使の外《ほか》には、全く係累のない身の上であった。  親族は数多くあったけれど、彼の行状を兎《と》や角《かく》云い得る様な怖い伯父《おじ》さん達は、とっくに死に絶えてしまい、その方面からもうるさい苦情が出る気遣《きづか》いはなかった。  あの途方もない遊園地の如《ごと》きは、この資産、この身の上にして、初めて計画し得る所のものであったであろう。  のみならず彼の周囲には、浮浪者めいた男女の悪友|共《ども》が、ウジャウジャと集まっていて、八方から彼をそそのかした。イヤ、もっと困ったことには、治良右衛門その人が、どうやら、変てこな熱病にとりつかれたらしいのだ。  若《も》し地球が熱病を患ったのだとすれば、その熱病の病源菌は、喜多川治良右衛門とその周囲の悪友共であったとも云い得たであろう。  彼は百万の資財を投じ、三年の年月《としつき》を費《ついや》して、地殻上《ちかくじょう》に、一つの大きなおできを作り出した。眠り病にかかった城下町Y市の郊外に、突如《とつじょ》として五色《ごしき》の造花の様にけばけばしい腫物の花が開いた。  三万坪の広大な敷地には、天然の山あり、川あり、池あり、その天然の妙趣を、世界の怪奇を寄せ集め、怪奇のおもちゃ箱をぶちまけた如く、不思議千万な建造物で、塗りつぶしたのだ。遊園の入口は両側を欝蒼《うっそう》たる樹木でかこまれた、狭い小川になっていて、その川の上に、椿《つばき》の大樹が、両岸から伸び寄って、天然のアーチを作っていた。  青黒い椿の葉の間に、チラホラと、真赤な花が咲いて、よく見ると、恐らくは造花をくッつけたものであろう、それが花つなぎの文字になっている。 「ジロ娯楽園」  治良右衛門の治良を取って、名づけたものに相違ない。  園主の招待を受けた、撰《よ》りすぐった猟奇《りょうき》の紳士淑女達は、畸形《きけい》なゴンドラに乗せられて、悪魔の扮装をした船頭のあやつる竿《さお》に、先《ま》ずこの椿のアーチをくぐるのだ。  小川は、欝蒼たる青葉に眼界を区切られ、迂余曲折《うよきょくせつ》して園の中心へと流れて行く。悪魔の船頭は、殆《ほとん》ど竿に力を加えずして、舟は流れのままに、静かに進む。  進み進みて、小川の尽きる所に、おたまじゃくしの頭の様に、丸く拡《ひろ》がった池がある。池には裸体の男女が、嬉々《きき》として戯《たわむ》れ泳いでいる。切岸《きりぎし》から、飛び込む肉塊《にくかい》の群、舟の上から透いて見える池中の人魚共、魚紋と乱れる水中男女の「子を取ろ、子取ろ」、人間の滝《たき》つ瀬《せ》と落下するウォーターシュートの水しぶき……客達は已《すで》にして、夢の如き別世界を感じるのだ。  岸を上って、山と山との谷間の細道を、暫《しばら》く行くと、地下へのトンネルが、古風な赤煉瓦《あかれんが》の縁取《ふちど》りで、まるで坑道へでも下る様に、ポッカリと黒い口を開《あ》いている。  勇《ゆう》を鼓《こ》して、そこを下れば、地底の闇に、魑魅魍魎《ちみもうりょう》の蠢《うごめ》く地獄巡り、水族館。不気味さに、岐道《えだみち》を取ってけわしい坂を山越しすれば、その山の頂上から、魂も消しとぶ逆落《さかおと》しの下り道。うねり曲ったレールの上を、箱の様な乗物が横転、逆転、宙返りだ。  イヤ、こんな風に順を追って書いていては際限がない。一つ一つの風景については、物語が進むに従って、詳しく描き出す折が度々《たびたび》あるのだから、凡《すべ》て説明を略して、場内の主なる建造物を列挙すれば、 [#ここから2字下げ] 空中を廻《めぐ》る大車輪の様な観覧車 繩梯子《なわばしご》でいつでも昇れる大軽気球 なき浅草《あさくさ》の十二階を、ここに移した摩天閣《まてんかく》 明治時代懐しきパノラマ館 大鯨《おおくじら》の胎内巡り からくり人形の地獄極楽、地底の水族館 ジンタジンタの楽《がく》の音《ね》に、楽しく廻るメリー・ゴー・ラウンド、など、など、など [#ここで字下げ終わり]  と数え上げる丈《だ》けでも大抵《たいてい》ではないが、手っ取り早く云《い》えば、大博覧会の余興場をもっと大掛りにして、それを天然の山や谷や森の中へ、いとも奇怪に積み上げたものである。そして、その一つ一つの構造も決してあり来たりのものではなく、園主治良右衛門の不思議な天才で、悪夢の中の風景の様に、或《あるい》は西洋お伽噺《とぎばなし》の奇怪な挿絵《さしえ》の様に、或はクリスマスのお菓子製の宮殿の様に、奇《く》しくも作り上げたものなのだ。 [#3字下げ]大迷路[#「大迷路」は中見出し]  それらの建造物の中で、ジロ氏が最も力をこめ、又園内第一の怪奇物に相違ないものは、樹木をビッシリ植え並べ、一度|這入《はい》ったら、迷い迷って、一時間や二時間では到底出口の見つからぬ、迷路の作り物であった。  絵に書いた迷路なら、鉛筆でたどって行けば、訳もなく中心に達し、また入口に戻ることも出来ようが、本物の迷路となると、見世物《みせもの》の「八幡の籔知《やぶし》らず」でさえ、迷い込んだらちょっと出られぬものだ。  それを、迷う様に、迷う様にと、考えに考えて設計し、少しも隙間《すきま》のない、高い樹木の壁で通路を作り、面積は僅か一丁四方程の中に、一里に余る迂余曲折の細道を作ってあるのだから、世界迷路史に通暁《つうぎょう》せる達人と雖《いえど》も、その中心を極《きわ》め、再び入口に引返すことは難中の難事である。  音に聞くハンプトン・コートの扇形《せんけい》迷路、ヴェルサイユ宮殿の方形迷路、なども、遠くこれには及ばず、強《し》いて比類《ひるい》を求めるならば、歴史家の雄大なる幻想として残っている、古代エジプトの大ラビリンスであろうか。上下《じょうか》三千の部屋からなっていたという、あのべら棒《ぼう》な規模には比肩《ひけん》すべくもないけれど、その設計の理智的な複雑さに於《おい》ては、寧《むし》ろジロ娯楽園の迷路に団扇《うちわ》を上げなければならぬであろう。  さて、この怪奇物語は、右の難解なる迷路の中で行われた、いとも不可思議なる殺人事件を発端とするのであるが、その殺人事件に話を進める前に、一応登場人物のお目見えをさせて置かねばなるまい。  時は初夏、青々と奥底知れず澄み渡った大空に、一沫《いちまつ》の雲もなく、太陽は娯楽園の山々谷々、奇怪なる建築物の数々を、白と黒とのクッキリした陰影に染め為して、その全景を、立昇る陽炎《かげろう》と共に、鏡の青空へそのまま投影させているかに見えた。  開園当時の、招待客|雑沓《ざっとう》時代が過ぎて、ジロ楽園は、本当の仲間内|丈《だ》けの、気兼《きが》ねのない遊楽地となっていた。  もう客案内をする用のない悪魔姿の船頭は、ゴンドラ舟を陸上げして、椎《しい》の木蔭に昼寝をしていた。随《したが》って、園の出入口は、全く交通を途絶《とぜつ》せられ、園内にさ迷い入《い》る邪魔者《じゃまもの》を気に掛ける必要もなく、猟奇の同人《どうにん》達は思うがままに遊び狂うことが出来るのだ。  その同人というのは、園主の喜多川治良右衛門を初めとして、左《さ》の悪友男女の一群であった。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] ○木下鮎子《きのしたあゆこ》――治良右衛門の恋人、二十歳、急流の鮎の様にピチピチと快活な娘。 ○諸口《もろぐち》ちま子《こ》――治良右衛門のもう一人の恋人、二十一歳、ロマンティクな女詩人にして女画家、楽園の設計をも手伝った才能ある娘。 ○大野雷蔵《おおのらいぞう》――治良右衛門の少年時代よりの親友、三十五歳、世に容《い》れられぬ劇作家、怪奇なる幻想家。 ○人見折枝《ひとみおりえ》――雷蔵の恋人、十九歳、けしの花の様に美しく無邪気な資産家令嬢。 ○湯本譲次《ゆもとじょうじ》――治良右衛門の友人、婦女誘拐の前科者、あらゆる猟奇的|嗜好《しこう》を有する不良型、二十九歳。 ○原田麗子《はらだれいこ》――湯本の恋人、湯本の恐ろしき打擲《ちょうちゃく》に甘んじ、寧ろそれを喜んでいるかに見える猟奇娘、二十三歳の大柄な豊満娘。 ○三谷二郎《みたにじろう》――十六歳の人形みたいな美少年、やや不良、同人達のペット。 [#ここで字下げ終わり]  その他悪友男女十数人、この物語には端役《はやく》の人々|故《ゆえ》、ここに名を記《しる》さず、必要に応じて紹介する。外に、娯楽建造物の運転係、掃除係、案内係、楽師等|傭人《やといにん》数十名、これも必要に応じて紹介することにするが、中に一人|左《さ》の人物は最も注意すべきである。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] ○餌差宗助《えさしそうすけ》――ひどいせむし[#「せむし」に傍点]で一寸法師、十四五歳の子供の胴体に、でっかい大人の顔が乗っかっている。青年だか老人だか、一見年齢不明の怪物、治良右衛門の秘書兼園内総監督の要職を勤《つと》む、イソップの如き智恵者。 [#ここで字下げ終わり]  人名|羅列《られつ》で叙景が中断されたが、先に云った初夏、青空に雲なき一日のことである。事件の起る一時間程前、右の主要人物達は、園内の天然プール(前述の小川が流れ込む池のことだ)に集まって、全裸のほしいままなる遊戯にふけっていた。 「サア、用意は出来て? 飛込むわよ」  人見折枝の無邪気な甲高声《かんだかごえ》が、天然岩の飛込台から、ほがらかに青空に響いた。彼女は岩の上で、両手を頭上に揃えて、今や池中目がけて飛込まん姿勢である。青黒い岩上に、クッキリ白い肉塊、肩に垂れた結ばぬ黒髪、名画「巖の処女」である。 「いいよウ、早く飛び込みなよウ」  誰かが水の中から答えた。鮎子、治良右衛門、ちま子、雷蔵、麗子、譲次、二郎の順で、お互《たがい》に前の者の腿《もも》に手をかけてつながったまま浮かんでいる。たくましき男性筋肉と、なよやかな女性肉塊の、だんだら珠数《じゅず》つなぎがウネウネと海蛇《かいだ》の様に蠢き漂うのだ。 「ホーラ!」  空に声を残して、折枝の肉塊が鞠《まり》の様にクルクル廻転しながら、バチャンと水煙を立てた。  底までもぐって、スーイと浮かんで、頭を出すと、丁度蛇の頭の鮎子の前だ。鮎子が右に左に通せんぼうをするのを、巧《たくみ》にかい潜《くぐ》って、尻尾《しっぽ》の二郎美少年を捕《つか》まえる遊戯だ。陸上の「子を取ろ、子取ろ」である。  巨大なる海蛇は、クルリクルリと全身を波うたせて、尻尾を掴《つか》まれまいと、或《あるい》は浮び、或は沈み、水面から池底へ、池底から水面へと、美しき肉塊の魚紋を描いて、なまめかしくも、のたうち廻る。  令嬢折枝は、水中蛇退治の女勇士だ。敵の通せんぼうをかい潜りかい潜り、立泳ぎ、蛙《かえる》泳ぎ、抜き手、片抜手、美しき筋肉運動の限りを尽して、美少年のお尻へと追い縋《すが》る。  岸には見物の男女が、これも裸体の肩を組み、手を握り合って、笑い興じながらこの有様を眺めている。  野外、水中舞踊の一幕《ひとまく》だ。  遂に、二郎少年は折枝の為に足を掴まれて、ブクブクと水中に沈んだ。折枝は掴んだ足を離さじと、敵と共にこれも水面から消えて行く。  美しき少年少女が、水底の物狂わしき掴み合い、その有様が、透き通る水を通して、奇怪に歪《ゆが》んで、見物達にも見えるのだ。 「ワーッ、ワーッ」というときの声、尻尾を奪われた蛇は、もうバラバラに離れて泳ぎながら、彼等も水底の活劇を眺めている。  勝負はついた。二郎少年は息が尽きて、とうとう降参してしまった。 「サア、今度は二郎さんが鬼よ」水面に浮き上った折枝が、息を切らしながら、叫んだ。 「イヤ、もう止《よ》そう。何も二郎君をかばう訳じゃないけれど、僕はもう疲れた。例の天上のベッドで一休みだ」  治良右衛門は、云いながら、もう上陸して、サッサと山の向うへ歩いて行く。天上のベッドとは、観覧車の空にかかった箱の中のクッションを意味するのだ。彼はこの不思議な寝室で、大空に眠る習慣になっていたのだ。 「あたしもよすわ。これから、あたしの夢殿《ゆめどの》へ行って、美しい夢でも見ることにしましょう」  と、諸口ちま子が続いて上陸した。彼女の夢殿というのは、例の迷路の中心の所謂《いわゆる》「奥の院」という場所に据えてあるベンチのことで、そこに腰かけて、一人ぼっちになって、静かに瞑想に耽《ふけ》ろうという訳なのだ。 「じゃあ、みんな、メリー・ゴー・ラウンドへ行かない。あすこで、もう一騒ぎ騒ぎましょうよ」  麗子が音頭をとると、残る一同それに賛成して、裸体のまま、赤と白との男女が一団を為して小山へと駈け上《あが》って行った。例の辷《すべ》り道を横転逆転しながら、燕《つばめ》の様に囀《さえず》りながら、目的の場所へと急ぐことであろう。 [#3字下げ]第一の殺人[#「第一の殺人」は中見出し]  それから一時間程|後《のち》、パノラマ館の入口で、大野雷蔵とその恋人の人見折枝の二人が、地上に引いた線を踏んで、両手を前につき、お尻をもったて、何とも奇妙千万な格好で、じっと前方を見つめていた。 「いいかい。用意! 一、二、三」  雷蔵のかけ声で、二人は勇ましくスタートを切った。森の向《むこう》に見える迷路の二つの入口から、別々に入って、早く中心の「奥の院」へ着いたものが勝ち、という障害物競走だ。  ただの駈っこなら、折枝は到底雷蔵の敵ではない。現に出発間もなく、雷蔵は数メートルも先に走っている。だが、折枝は迷路の中での智恵比べで、先着になる自信があった。迷路については大ざっぱな男よりも、案内を知っている積《つも》りであった。  彼女は、雷蔵よりは遙《はる》かにおくれながら、でも失望することなく、約束に従って東の入口から、迷路にかけ込んだ。  半間《はんげん》程の、曲りくねった細い通路の両側には、陽をさえぎって、見上げるばかりの丈余《じょうよ》の生垣《いけがき》だ。生垣と云っては当らぬ。向側を透して見ることも出来ぬ、ビッシリと枝を交《まじ》え、葉を重ねた大木の行列だ。それに茨《いばら》が細《こまか》い網を張り、蔦《つた》がからみ、分けて出ることは勿論《もちろん》、昇りついて越すことも、全く不可能になっている。そんな風にして逃げ出せるのだったら、迷路の意味を為さぬからだ。  一歩迷路に踏み込むと、樹木の高塀の陰影のせいか、夕方の様に薄暗く、寒々として、その上何とも云えぬ、押えつける様な静けさだ。園内の花火場で、誰のいたずらか、時々、ドカーンと花火を上げる音の外には音もない。案内は知っているつもりでも、歩いている内に、いつしか道に迷ってしまった。一度や二度で覚え込める程なら、迷路とは云えぬ。迷えばこそ迷路なのだ。高い生垣で区切られた狭い空を見上げると、太陽も見える。風船や観覧車の一部も見える。空に開いた花火の、黄色い煙が竜の様に下って来るのも眺められる。だが、いくらその様な目印があったとて、平地を歩くのではないのだから、何にもならぬ。空ばかり見て中心へと向っていても、いつしか袋小路に行当って、動きがとれなくなってしまうのだ。  曲り曲った果しも知らぬ夢の細道、行っても行っても永劫《えいごう》に尽きることなき狂気の細道、折枝はふと怖くなった。一度おじけづくと、もう際限がない、襟足《えりあし》の生毛《うぶげ》がゾーッと音を立てて逆立ち、開いた毛穴から、水の様に冷い風がしみ込むのだ。  足なみは、心臓の鼓動と共に早くなる。ヒタヒタ、ヒタヒタ、我が足音を不気味に聞きながら、急ぎに急ぐ。  と、その足音とは調子の違うもう一つの足音が、入混って耳をうち始めた。谺《こだま》かしら、それとも気のせいかしら、イヤ、そうではない。確《たしか》に人の足音、力強い男の足音だ。アア分った、大野さんだわ。あの人が木の葉の壁|一重《ひとえ》向うを歩いているのだ。二人の通路が偶然隣り合わせになったのだ。 「大野さんじゃなくって?」  声をかけると、先方の足音がピッタリ止った。覗《のぞ》いたとて見えぬけれど、木の葉の層の事故《ことゆえ》、声はよく聞えるのだ。 「折ちゃんかい」やっぱり大野雷蔵だ。 「エエ、そうよ。あたし道に迷っちゃって」 「ウン、僕もさっきから、何だか同じ所をグルグル廻《まわ》っている様な鹽梅《あんばい》だよ。……君こちらへ来られない?」 「駄目よ、行こうと思えば、却《かえ》って離れてしまうばかりだわ」  事実、声する方へ曲って行くつもりでも、道は気違いの様に、突拍子もない方向にそれているのだ。 「でも、行って見るわ。あなたも、こちらへ来られなくって?」  そこで、二人はてんでんに、現に一尺とは離れず話し合っている、相手のありかを探す為に出発した。そして、案《あん》の定《じょう》、お互に近づこうとあせればあせる程、いつしか、声も聞き取れぬ程遠ざかって行った。  折枝はもどかしさ、不気味さに、汗びっしょりになって、当てどもなく、同じ細道をテクテク、テクテク歩いていた。まだ上げている花火の音が、忘れた頃に、ドカーン、ドカーンと、彼女の心臓を飛上らせた。  暫くすると、彼女はハッと息を飲んで立止った。妙な音を聞いたのだ。耳鳴りではない。確に人の声だ。しかも断末魔《だんまつま》の苦悶《くもん》を現わす、何とも云えぬ物凄い唸《うな》り声だ。 「ウム……」という、悲痛なうめき。一二秒間を置いて、「ク、ク、ク……」と、歯ぎしりをする様な、或は泣きじゃくりをしている様な、一種|名状《めいじょう》し難い、低い物音が聞えて来た。  折枝はゾッとして、暫くは口も利けなかったが、やっと喉《のど》の自由を取返すと、思わず、 「大野さーん」と、突拍子もない叫び声を立てた。 「オーイ」  ずっとずっと遠くの方から、男の声が答えた。アア、やっぱりさっきの唸り声は大野さんではなかったのだ。だが、すると、彼女と大野さんとの中間に、何者かがいるのかしら、しかも、あのうめき声は決してただ事でない。急病でも起したのだろうか。イヤイヤ、どうもそうではないらしい。若しやその人は、何か恐ろしい目に合っているのではあるまいか。 「折枝さん、どこだい」  今度はやや近い所で、大野さんの声がした。 「ここよ」 「今の、聞いたかい!」  アア、ではやっぱり本当なのだ。大野さんもあれを聞いたのだ。 「エエ」 「どうも変だぜ。あれはただの唸り声ではなかったぜ」 「そうよ。あたしも、そう思うのよ」 「オーイ、そこにいるのは誰だ」  大野さんが、見えぬ相手に呼びかけた。併《しか》し、何の返事もない。 「変だな。あんな恐ろしい唸り声を立てた奴が、どこかへ行ってしまう筈はないが……ひょっとしたら、死んだんじゃないかしら」  あの調子は、どう考えても断末魔の唸り声に相違なかった。 「あたし、怖いわ」  折枝は、もう真青《まっさお》になって、姿は見えぬ大野さんの声に、すがりつき度《た》い程に思った。 「待ってい給《たま》え、僕が探して見るから」  大野さんはそう云って、暫くその辺を歩き廻っている様子であったが、やがて、思いもかけぬ方角から、 「ワッ」  という恐ろしい叫び声が聞えて来た。 [#3字下げ]迷路の鬼[#「迷路の鬼」は中見出し] 「大野さあん、大野さあん」  人見折枝は、今にも絞め殺される様な悲鳴を上げて、見えぬ彼方《かなた》の恋人を呼んだ。  無理もない。九十九折《つづらおり》の薄暗い迷路の中で、道に迷って泣き出し相《そう》になっていた折も折、隙見も叶わぬ立木の壁の、つい二重三重《ふたえみえ》向側で、恐ろしい事件が起ったのだ。ゾッとする様な断末魔のうめき声、続いて現場を見に行った大野さんの「ワッ」という頓狂《とんきょう》な叫び、ただ事ではない。大野さん程の人が、あんな声を立てるのは、よもただ事ではない。 「オーイ、折枝さん大変だあ、早く外へ出て、誰か呼んで来てくれえ」  雷蔵の惶《あわただ》しい声が聞えて来る。  外へ出るとて、この迷路を急に抜け出せるものではない。 「誰なの? そこにいるのは。そして、一体どうしたって云うの?」  折枝も一生懸命の声をはり上げて、兎も角も細い迷路を走り出した。じっとしていられなかったからだ。 「ちま子さんだ」  雷蔵の声が走る折枝の耳に入った。 「エ、ちま子さんがどうしたって云うの?」  彼女はグルグル迷路を折れ曲りながら、息を切らして叫んだ。 「どうしたの?」  尋ねても、何故《なぜ》か返事がない。口に出して云えない程恐ろしい事かも知れない。 「アア、そこを走っているのは折枝さんかい」  立木の壁のすぐ向側から雷蔵の声だ。いつの間にか、びっくりする程接近していた。 「そうよ。して、ちま子さんがどうしたの?」  目にこそ見えね、相手がすぐ側《そば》にいると分ると、折枝は声を低めて、又尋ねた。  すると雷蔵の方でも、異様な囁き声で、初めて事の次第を告げた。 「殺されているんだよ。背中に短刀が突き刺さって、血まみれになって……」  目の前に立ちふさがった緑の壁から、姿はなくて、不気味な囁き声ばかりが、シュウシュウと漏《も》れて来る。しかも世にも恐ろしい囁き声が。 「マア……」  と声を呑んで、立ちすくんだまま、折枝は二の句がつげなかった。 「君、その辺に人の気配はしなかったかい。誰かに出会わなかったかい」  雷蔵の声が一層低められた。 「イイエ、でもどうして?」 「犯人さ。ちま子さんを殺した奴が、まだこの迷路の中にウロウロしているかも知れないのだ」  折枝はそれを聞くと、ゾーッとして身体《からだ》中の血が冷たくなる様な気がした。 「あたし誰にも……」彼女は蚊《か》の様な声になって「あんたは? 誰か見て?」 「見ない。だが、足音を聞いた。僕がここへ、ちま子さんの倒れている所へ駈けつけた時、黒い風みたいなものが逃げ出して行った。バタバタと足音がした」  ヒソヒソ声が、まるで怪談でも聞いている様に物凄く感じられた。 「怖い。あたし怖いわ。どうしましょう。あんたどうかしてこちらへ来られない? 一人ぼっちじゃ心細いわ」  折枝が泣き声になって見えぬ姿にすがりつく様に云った。 「それよりも、早くみんなに、このことを知らせなきゃ、……君も一生懸命に出口を探し給え。僕もそうするから。ただ……」 「エ、なんておっしゃったの?」 「ただね、ちま子さんを殺した奴を用心し給え、姿は見えなくても、足音でも聞いたら、大きな声で、怒鳴《どな》るんだ。いいかい」 「あたし怖くって歩けないわ。早くこちらへ来て下さいな」 「ウン。だが、うまく行けるかどうだか」  そして、雷蔵の惶しい足音が遠ざかって行った。  見上げるばかりの密樹の壁にはさまれた、薄暗い細道に、たった一人取残された折枝は、もう生きた空もなかった。  大野さんを呼び戻したかったが、恐ろしい殺人犯人がまだその辺にいると思うと、声を立てることも憚《はばか》られた。  気がつくと、腋《わき》の下が冷たい汗でジトジトになっていた。  足はしびれが切れた様に云うことをきかなかった。  しかし、じっと立止っているのも恐ろしい。かなわぬまでも出口を探して、寸時も早く迷路から逃れ度い。  彼女は力の抜けた足を踏みしめて、いきなり走り出した。  両側をドス黒い木立の壁が、あとへあとへと飛び去るばかりで、迷路は果しもなく続いた。出よう出ようとあせればあせる程、却《かえっ》て中へ入って行くのかも知れなかった。  ふと気がつくと、ハタハタ、ハタハタ、どこからか人の足音が聞えて来た。 「アア有難い。大野さんが近くを走っていらっしゃる」  と思うと、グッと気が強くなった。 「大野さん」  低い声で呼んで見た。  答えはない。ハタハタ、ハタハタ、足音ばかりだ。 「大野さーん」  耐《た》まり兼《か》ねて思わず大声を上げた。  しかし、相手はやっぱり答えない。黙々として走っている。 「オヤ変だぞ。アア、ひょっとしたら……」  ギョクンと心臓が喉の辺まで飛上った。あの足音の主こそ、若しや恐ろしい人殺しではあるまいか。そうだ。きっとそうだ。こんなに呼んでも答えぬのは、それに極《き》まっている。  折枝は怖さに一層足を早めた。喉がひからびて、心臓が破れ相に鼓動する。  行手に急な曲り角があった。折枝はもう無我夢中でその角を曲った。  と同時に、五六間向うの同じ様な曲り角を、ヒョイと飛び出した奴がある。 「アレエ……」  我にもあらず、業々《ぎょうぎょう》しい悲鳴を上げて、折枝はその場に立ちすくんだ。  先方も驚いたらしい。ハッと思う間に、忽《たちま》ち姿を隠してしまった。  確に大野さんではなかった。大野さんが折枝の姿を見て逃出す筈はないからだ。では今のは何者であったか。残念ながら、折枝はそれを見極めるひまがなかった。咄嗟《とっさ》の場合着衣の色さえ気附かなかった。だが、女ではない。ズボンをはいていた。そして、非常に小柄な男であった。恐らく女の折枝よりも背が低かった。  耳をすますと、ハタハタ、ハタハタ、遠ざかって行く、曲者の足音がする。  折枝はその足音が消えるのを待って、いきなりうしろへ走り出した。滅茶滅茶《めちゃめちゃ》に走った。迷路を出ることなど、もう考えなかった。ただじっとしていられないのだ。  グルグル、グルグル廻っている内に、パッと眼界が開けて、広い場所へ出た。だが、迷路の外ではない。その中心の広場なのだ。所謂奥の院という場所だ。  真中に一脚のベンチが据えてあった。そのベンチの足元に、白と赤とのダンダラの塊《かたまり》が転がっていた。血にまみれた諸口ちま子の死骸であった。  簡単な白い絹服の背中にニョッキリ短剣の柄《え》丈《だ》けが生えていた。刄の方は全部ちま子の体内へ隠れているのだ。  絹服は、鮮かな血のりの縞模様に染まって、空《くう》を掴んだ両手と、もがいた両足とが、白っぽく根元まで現われていた。  ちま子は無論全く絶命していた。 [#3字下げ]木島《きしま》刑事[#「木島刑事」は中見出し]  いくら難解な迷路でも、歩き廻っている内には、いつか出口が見つかるものだ。大野雷蔵と人見折枝が、間もなく殺人迷路を抜け出して、園内の事件を一同に告げ知らせたことは申すまでもない。  浮世の外《ほか》の楽園とは云え、殺人事件をそのままうっちゃって置く訳には行かぬ。直《ただち》に土地の警察へ人が走り、間もなく裁判所から、警察署から、夫々《それぞれ》係官がやって来て、型の如く取調べが行われた。  その結果分ったことは、  一、楽園の外部から犯人が潜入した形跡は全くなかったこと。  唯一の出入口である例の小川は、小川とは云ってもなかなか深いので、舟なくては通行出来ぬし、その外《ほか》の部分はけわしい崖が多く、そうでない場所には、密生した高い生垣をめぐらした上に、見張り小屋があって、迚《とて》も通り抜けられるものではない。とすると、犯人は楽園内の人々、先に記《しる》した主人側の数名か、傭人側の十数名かの中にいる筈だ。  一、併し楽園内部の人々の内には、これこそ犯人と覚《おぼ》しき人物は一人もなかった。  云うまでもなく、一人一人、厳重に訊問《じんもん》されたけれど、大野雷蔵と人見折枝と被害者のちま子の外には、一人としてその時迷路の中へ入っていたものはなく、夫々他の場所にいたことを申立て、その申立てをくつがえすべき何等《なんら》の証拠がなかった。  一、現場《げんじょう》には見分けられる程の足跡もなく、短剣の外には別段遺留品もなく、その短剣の柄には、一ヶの指紋すら発見出来なかった。  一、短剣は円い柄の両刄のもので、つば[#「つば」に傍点]はなく、柄から刄先まで殆ど同じ太さの、奇妙な形のものであった。どこか外国製の品に相違なかった。  という様なことが分ったばかりで、如何《いか》なる名探偵と雖《いえど》も、園内の夥多《あまた》の人々の内から、真犯人を探し出すことは、殆ど不可能な仕事であった。  人見折枝は取調べを受けた際、犯人が非常に小柄な男であったことを云おうとして、ハッと口をつぐんだ。園内には目立って小柄な人物が二人ある。一人は十六歳の三谷二郎少年、一人はせむし男の餌差宗助だ。彼女の一言《いちごん》で若《も》しこのどちらかに疑いがかかったらと思うと、迂濶《うかつ》なことは云えなかった。  その日から、園内の人員が一人ふえた。園主喜多川治良右衛門の依頼によって、一人の刑事探偵が、そこに住むことになったからだ。  園の中央に、立派な洋風食堂があって、朝昼は兎《と》に角《かく》、晩の食事丈けは、必ず一同が会食することになっていたが、その晩の会食は実に異様な感じのものであった。  一つは主人側、一つは召使側と、二つの長方形の大食卓を囲んで席についた一同は、いつもの様に無駄口を利くでもなく、ひっそりと静まり返って、盗む様にお互の顔を眺め合っていた。  その食卓に、ついさい前《ぜん》ちま子を殺した奴《やつ》が、何食わぬ顔で列席しているのだ。隣でフォークを嘗《な》めている奴がそうかも知れない。向う側でギラギラするナイフを動かして、肉を切っている奴がそうかも知れない。と思うと、それらの人物が、気のせいか、妙に青ざめている様に見え、誰もかれも、恐ろしい殺人犯人の様な気がする。  主人側の食卓では、主《あるじ》の治良右衛門の隣に見慣れぬ男が、せっせとフォークを動かしている。食事に夢中になっていると見せかけて、時々|上目使《うわめづか》いに、ジロジロ同席者の表情を盗み見る。うさん臭い男だ。これがその地方で名うての名探偵木島刑事なのだ。  彼は食事の合間合間に、うつむいたまま、低い声で、隣の治良右衛門と、何かボソボソ囁いている。他の人々には、それが少しも聞き取れぬだけに、気味が悪い。  木島刑事は無髯《むぜん》の三十四五歳の男で、シャツの上に、すぐ薄汚れた背広を着た、職工みたいな風体《ふうてい》である。 「あなたは、あの時観覧車に昇っていました。これは三人も目撃者がある」  木島探偵はそう云って、テーブルの下で指を折った。 「木下鮎子と原田麗子とは、丁度その時間にメリー・ゴー・ラウンドに乗っていた」  治良右衛門がつづけた。 「大野雷蔵さんと人見折枝さんは犯罪の発見者です」  刑事が引取って云う。  そんな風にして、園内の人々の名が、次々と数え上げられた。皆アリバイが成立した。誰も彼も一人位は証人を持っていた。  傭人達も、夫々持場についていたことが明かで、疑わしい者はなかった。 「湯本譲次さんは、大鯨の体内にいた相です。三谷二郎君は、林の中を歩いていた相です。それから園内監督の餌差宗助君は、どっか、山の上をぶらついていたと云います。この三人丈けは本人の申立てです。誰もそれを見たものはない。つまり証人がないのです」  刑事が意味ありげに云った。 「エ、するとあなたは、その三人の内に……」  治良右衛門がびっくりして、相手の目を見た。 「イヤ、そう云う訳ではありません。私はただ事実を繰返して見たまでです。誰を疑っている訳でもありません」  云いながら彼はチラと傭人の食卓を眺めた。その視線の先に、醜い一寸法師の餌差宗助が、猫背になって、皿を嘗める様にして、食事をしていた。 「イヤ、あの男は、恐ろしい形をしていますが、ごく正直者です。最も信用すべき人物です」  治良右衛門がとりなし顔に囁いたけれど、刑事は、子供だか老人だか見分けのつかぬこの怪物を、一種の疑惑を以《もっ》て眺めないではいられなかった。  彼は次に同じ食卓の向うの端にいる湯本譲次をチラッと上眼使いに見た。すると、湯本の方でもその一瞥《いちべつ》を予期していたかの如く、ジロジロと刑事を睨《にら》み返した。 「こいつ、俺《おれ》を疑っているな」  という顔だ。 「あの男は前科者でしたね」  刑事がソッと治良右衛門に囁いた。 「イヤ、併し、決して人を殺す様な人物ではありません」  治良右衛門は、又してもとりなし顔に囁き返した。実際、前科者だからと云って、まさか湯本が人殺しをする筈もないのだ。  こんな風にして、何とも形容し難い、奇妙な晩餐《ばんさん》がすんだ。結局木島刑事は、誰の顔からも、疑わしい色を読み取ることが出来なかった。皆青ざめた厳粛《げんしゅく》な表情をしていた。併し一人としてオドオドしている者はなかった。  イヤ、本当は一人丈け、ソワソワと落ちつきのない様子をしていた男がある。それがまだ小さな子供であった為、誰も、刑事さえも、殊更《ことさ》ら疑いの目を向ける様なことはなかったけれど、三谷二郎少年の様子は、如何にも変であった。  彼は食慾もないらしく、皿に手をつけ様ともせず、青ざめて、オドオドとあたりの人々の顔を盗見《ぬすみみ》て、座にも耐え難い様子であった。  一体どうしたというのだろう。まさかこの少年がちま子の背中へ短刀を突き通した下手人《げしゅにん》とも思われぬが。 [#3字下げ]怪短劔[#「怪短劔」は中見出し]  その夜更《よふ》け、先に述べた地底の地獄巡りの穴の中で、湯本譲次とその恋人の原田麗子とが、彼等の日課である奇妙な遊戯を始めていた。  園内の人々は、夫々立派な寝室をあてがわれていたけれど、主人側の連中は、名にし負う猟奇者達のこと故、正直にその寝室で寝るものは少く、主人の治良右衛門からが、例の観覧車の箱の中を空中ベッドにしていた程で、或は大鯨の体内、或はパノラマ館、或は摩天閣の頂上と、夫々勝手な場所を選んで怪奇の夢を結ぶのであったが、湯本譲次の一対《いっつい》は、この地獄の地下道を、彼等の不思議なねぐらと定めていた訳である。  土色のコンクリートで固めた、陰々たる地下道には、血の池、針の山、燃え上る焦熱地獄、えん魔大王を初めとして、青鬼赤鬼の生人形が、地獄絵巻をそのままに、物凄く立並んでいる。どこにあるのか青白い電燈が、いとも不気味な薄あかりを、それらの作り物の上に投げている。  湯本達のベッドは、赤絵具を溶いて流した血の池地獄の畔《ほとり》にあった。このサディストとマゾヒストは、そこで夜毎《よごと》の痴戯を楽しむのだ。  殆ど全裸体の原田麗子は、血の池の向岸の壁に、妙な戸板の様なものを背にして、はりつけ[#「はりつけ」に傍点]の形でピッタリとそこにへばりついていた。彼女は今、地獄の苛責《かしゃく》に泣き叫ぶ一人の亡者であった。だが、亡者にしては、何とふてぶてしく張り切った肉塊であったろう。  池のこちら側には、やはり半裸体の、まるで地獄の青鬼みたいな湯本譲次が立はだかって、傍《かたわ》らの小箱から、ドキドキ光る短剣を取出すと、それを右手にかざして、向側の裸女の肉塊めがけて投げつける姿勢だ。  アア、又しても、いまわしい人殺しが行われ様としているのか。  イヤイヤそうではない。湯本不良青年は、いつどこで覚えたのか、短剣投げの奇術が得意であった。我が恋人を的《まと》にして、その危険極まる奇術を行うのが、彼の夜毎のこよなき楽しみであったのだ。  的に立つ麗子は麗子で、恋人の投げる白刄の前に、全身を曝《さら》して、今にも我身にそれが突き刺さりはしないかと、ドキドキ胸|躍《おど》らせる快感に、酔いしれているのだ。  譲次の投げる短剣は、青白い電光を受けて、不思議な稲妻ときらめき乍《なが》ら、空を飛んで、次から次へと、麗子の背後の戸板に突き刺さって行った。突き刺さっては生あるものの如く、血に餓《う》えて、ブルル、ブルルと身震いした。  どの短剣も麗子の頬から、頭から、腕から、腿から、一|分《ぶ》とは離れぬきわどい箇所へ、機械の如く正確に命中した。 「ホウ、ホウ、……」  短剣が命中する毎に、麗子はさも嬉しげに、異様な快感の叫び声を発した。 「今度は腋の下。少し皮を切るぜ」  譲次が無造作にかけ声しながら、ハッシと投げた最後の短剣は、アア何という妙技、彼の言葉は違《たが》わず、麗子の腋の下の皮膚を、危険のない程度に、極く薄く戸板へ縫いつけてしまった。  サッとほとばしる鮮血。  麗子は、態《わざ》と大袈裟《おおげさ》に「アレエ」と叫びながら、併しさもさも快げな表情で、目をふせて、腋の下にブルブル震う短剣を眺めた。身肉に喰い入った冷たい鋼鉄の感触。ふき出し流れる血潮《ちしお》の匂《におい》。変質者のあさましき法悦境だ。  譲次は譲次で、恋人の白い肉体を、網目に伝いおちる真赤な液体の美しさに、目を細くして眺め入っている。  十秒、二十秒、  何《な》ぜか麗子の目は、食い入る様に腋の下の短剣を見つめたまま動かぬのだ。マゾヒストの喜びにしては、余りに長い凝視、異様に鋭い目の色ではないか。 「オイ。どうしたんだ。何をそんなに見つめているんだ」譲次が耐《たま》りかねて尋ねた。 「ジョージ! この短剣、一本足りなくなってやしない?」  麗子はやっと目を上げて、乾いた声で云って、じっと相手の顔を見た。ゾッとする様な恐怖の表情だ。 「なんだって。足りないって。何を云ってるんだ。ちゃんと十三本あるじゃないか。勘定《かんじょう》してごらん」  算《かぞ》えて見ると、成る程十三本揃っている。 「でも変ねえ」麗子の恐怖の表情は、まだ去りやらぬ。 「何がさ」 「何がって、あんたあたしに何か隠してやしない? 今気がつくと、此《この》短剣があんまり似ているんだもの」  それを聞くと、譲次もギョッとした様に、色を変えた。 「似ているって何に?」 「マア、気がつかないの? ホラ、ちま子さんの背中に刺さっていた、あの短剣とそっくりじゃないの」  麗子はそう云って、まるで冷たい風にでも吹かれた様に、ゾッと全身に鳥肌を立てた。  譲次も妙な顔をして黙りこんでしまった。 「譲次、あんた、やったんじゃない?」  麗子は、しばらくして、小さな声で尋ねた。  それでも譲次はムッツリと黙り返っている。 「あたし、知っててよ。あんたがちま子さん好きだったこと。そして、いつか二人っ切《きり》の時、あんたがあの人につまらないこと云って、頬っぺたひっぱたかれたこと。あたし山の上から、遠眼鏡《とおめがね》でちゃんと見ていたのよ。……隠すことないわ」  麗子はボソボソと悪漢ジョージをいたわる様に云った。 「それがどうかしたって云うのか」  譲次が怖い顔で睨みつけながら聞き返した。 「だから、あんた、ちま子さんを殺したんでしょ。好きだから殺したんでしょ」  麗子は、まるでそれを楽しむかの如く、ズケズケと云ってのけた。 「云っていいことと、悪いこととあるぜ。お前、本当に俺が殺したと思っているのかい」  譲次の額にムクムク静脈がふくれ上った。 「だって、ちま子さんの殺されていたのは、この短剣とそっくりの兇器だったじゃないの。あんたの外に、こんな物騒《ぶっそう》なもの持ってる人はありゃしないわ」 「馬鹿っ。君は恋人を人殺しの罪人にしたいのか」 「だからよ。恋人だから、あたしにだけ、ソッとお話しよ。人になんか云やしないから」 「まだ云うかッ。畜生《ちくしょう》ッ」  譲次は猛獣の様に怒り出した。 「アレエ、いけない。もう云わない。もう云わない」  大柄で豊満で色白の麗子は、愚《おろか》なるマゾヒストであった。彼女は余りにも心なき質問が、相手を芯《しん》から怒《いか》らせたことを知ると、俄《にわか》に怖くなって、悲鳴を上げながら、血の池の岸を伝って逃げまどった。  怒れる猛獣の手には、一本の短剣が握られていた。それが洞窟の壁の蝋燭《ろうそく》の赤い光りに、ギラギラと光った。 「ハハハ、……どうもしやしないよ。逃げなくってもいいよ」  猛獣が、無理に作った笑顔で、物凄く笑った。 「本当? 本当に怒ってやしない? あたし今のことは冗談よ」 「いいんだよ。何もしないから、こちらへお出《い》で、可愛がってやるから」  麗子はオズオズと池の縁《ふち》を戻って来た。 「本当? 可愛がるって、どうするの」 「こうするのさ」  麗子は肩先にチカッと痛みを感じた。見ると、薄い絹服に、美しい紅の一文字。血だ。 「アラ、切《きっ》たの。でも殺すんじゃないでしょ」  彼女は案外平気である。愚なるマゾヒストは、恋人の刄《やいば》に傷つけられたことを、寧《むし》ろゾクゾク嬉しがっている様に見えた。 「こうするのさ」  だが、譲次の目は恐ろしく血走っていた。彼は相手の声も聞えぬらしく、ふたたび三たび、短剣をひらめかせた。麗子の丸い肩先から、ふくよかな乳房にかけて、真赤な線が、スイスイとふえて行った。 「アレエ、助けてエ……」  麗子は歓喜の叫びを上げて、傷ついた蛇の様に、身をくねらせた。譲次の足元に転がって、彼の両足を抱きしめた。 「畜生め、畜生め」  譲次は傷つける恋人を足蹴《あしげ》にして、血の池地獄へ蹴り落した。  ジャブンと、真赤なしぶきが飛んで、譲次のシャツを、返り血の様に染めなした。  大柄な麗子は、血の池の赤インキに染まって、紅酸漿《べにほおずき》の様に血みどろの身体を、ヨタヨタと岸に這い上がろうとしては、又しても譲次の足蹴にあって、ドブリドブリと、血けむりを立てて、尻餅《しりもち》をついた。 「しつこいのね。もういやよ。もうよしましょうよ」  麗子は、池の赤インキをガブガブ飲んで、息も絶え絶えに、残虐遊戯の中止を申出《もうしい》でた。  だが、譲次の方は、いつもの様に、疲れ切った恋人を抱き起して、愛撫《あいぶ》する気配も見えなかった。  彼は池の岸に仁王立《におうだ》ちになって、短剣をふりかざし、這い上がる麗子を、ただ一突きと身構えていた。遊戯ではない。やっぱり本気なのだ。顔にも身体にも殺気がみなぎっている。では彼がちま子の下手人であったのか。それを口外されまい為に、恋人を殺そうとしているのか。 「アレエ、助けてエ」  麗子は、本当に悲鳴を上げた。ヌルヌル辷《すべ》る池の縁を、不格好な四ん這いになって、逃げ出そうとあせった。だが忽ち譲次の左手が、彼女の髪の毛を掴んで、引戻した。 「アレエ、勘忍《かんにん》して。誰にも云わない。あんたが下手人だなんて、決して云わない。勘忍して。勘忍して」  麗子は、ガタガタ震えながら、死にもの狂いに叫んだ。 「ハハハ、……驚いたかい。冗談だよ。もういいんだ。お前を殺そうなんて思ってやしない」  譲次が、白い歯をむき出して笑った。 「だがね、この短剣のことや、俺が怪しいなんて、人に云うと承知しないぞ。無論《むろん》俺はあの殺人事件に、これっぱかりも関係はない。併し、つまらない疑いを受けるのはいやだからね。分ったかい。少しでも変なことを口走ったら、承知しないよ。殺してしまうよ」 「エエ、いいわ。決して云やしないわ」  麗子は一層恐ろしくなって、やっぱり震えながら答えた。  それを聞くと、譲次は荒々しく彼女を引寄せ、赤インキでドロドロになった、丸い頬っぺたへ、唇《くちびる》を当てた。  すると彼の唇は、赤ん坊をたべた山猫の様に、物凄く血に染まってしまった。 [#3字下げ]黒い影[#「黒い影」は中見出し]  彼等は深夜の血みどろ遊戯にヘトヘトに疲れてしまったので、翌日眼をさましたのは、もうお昼過ぎであったから、麗子が、血に汚れた身体を洗い、お化粧をして人々の前に顔を出したのは夕方に近かった。  晩餐の席では、例によって木島刑事が、疑い深い目で、ジロジロと一同を眺めていたが、まだ何の手掛りも掴んでいない様子だった。  人々は、お互に疑問の目を向け合って、気拙《きまず》い食事を済ませた。  食後麗子がただ一人で遊園を散歩していると、三谷二郎少年につかまった。 「麗子さんどうしたの? 何だか変だねえ。湯本さんと喧嘩《けんか》したの?」  薄気味悪く敏感な少年であった。 「エエ、喧嘩したのよ。二郎さん、さあここへいらっしゃい」  麗子は何気なく云って、灌木《かんぼく》のしげみの前の捨石《すていし》に腰かけて、少年を膝《ひざ》の上に招いた。可憐なる美少年は、いつも大人の膝に乗りなれていたからだ。 「喧嘩って、どうしたの? なぜ喧嘩したの?」 「何でもないのよ」 「何でもなくはないよ。湯本さんも、麗子さんも、口を利かないじゃないか。変な青い顔をしてるじゃないか。どうしたのさ」  少年は、麗子の太った膝の上で、お尻をクリクリ動かして、甘える様に云った。 「僕心配してるんだよ、麗子さんが嫌いじゃないから」 「二郎さん、ありがと」麗子は、少年を抱きしめる様にして、「何でもないのよ。……でも、ひょっとしたら」 「ひょっとしたら、どうなの」 「ひょっとしたら、あたし、殺されるかも分らないのよ」 「エッ、誰に?」 「人に云っちゃ、いやよ。大変なことになるんだから」 「ウン、云わない」 「若しあたしが死んだら、万一よ、万一殺されたら、その下手人は譲次なんだから、あんたそれをよく覚《おぼえ》といて、あたしがそう言ったと刑事さんに告げて下さいね。頼んで置くわ」 「本当かい。じゃ、湯本さんが麗子さんを殺すかも知れないんだね。どうしてなの」 「それからね。若しあたしが殺されたら、譲次こそちま子さんを殺した犯人に違いないのよ。これもよく覚て置いてね」 「じゃ、そのことを、早く刑事さんに云えばいいじゃないか。なぜ黙っているの」 「本当のことが分らないからよ。うっかりそれを云って、譲次が無実の罪におちたら可哀相だもの。でね、あんたも、万一、万々一あたしが殺されるという様なことがない限りは、こんなこと人に喋《しゃべ》っちゃ駄目よ。分って?」 「ウン、そりゃ分っているけれど」  もう暮切《くれき》って、お互の顔がハッキリ見えぬ程暗くなっていた。  二人は話に夢中になって、少しも気づかなかったが、うしろの茂みで、木の葉の擦《す》れ合う低い音がした。  そこに何者かが潜《ひそ》んで、二人の話を聞いていた。茂みの間に、燐《りん》の様に光る二つの目があった。男か女かも分らなかった。目の外《ほか》は、海坊主の様に不気味な、黒い影でしかなかった。 「マア、あたし、うっかりして、つまらないことを云ってしまったわね。あたし今夜はどうかしているのよ。今のはみんな嘘よ。誰にも云っちゃいやよ。きっとよ」 「ウン、大丈夫だよ。云やしないよ」 「マア、こんなに暗くなってしまった。あちらへ行きましょうよ」  二人が捨石から立上って、大食堂の建物の方へ歩いて行くと、木蔭の黒入道《くろにゅうどう》も、立聞《たちぎき》をやめて、コソコソと夕闇の彼方へ消えて行った。 [#3字下げ]青ざめたモデル[#「青ざめたモデル」は中見出し]  その翌日のことである。  まだ何の手掛りをも掴み得なかった木島刑事は、もう一度犯罪現場に立って、兇行の順序を仮想するために、園主喜多川治良右衛門の案内で例の迷路へ踏み込んで行った。 「この迷路は僕の設計で作らせたのですが、設計者の僕でさえ、どうかすると迷い子になってしまう程、よく出来ているのです」  治良右衛門が曲りくねった細道を歩きながら自慢した。 「あなたが、こういう酔狂《すいきょう》なものを作るものだから、こんな面倒が起るのです。退屈したお金持程|厄介《やっかい》なものはありませんよ」  刑事は心安だてに、冗談めかして園主の酔狂を非難した。 「イヤ、それをおっしゃられると、恐縮に耐えません。併し、自邸内に起った出来事で、被害者は僕の親友なのですから、僕も探偵になった気で、充分|穿鑿《せんさく》します。必ず罪人をお引渡しする積りです」 「そう行けば、うまいですが」  木島刑事は、治良右衛門の真面目な申出《もうしいで》を鼻であしらった。 「犯人は園内のものに相違ありません。凡てが容疑者です。そして凡てが僕の親友です。実に困った立場です」 「まさかあなたのお友達を、ひっぱたいて、身体に聞くという訳にも行きませんしね。と云って証拠は皆無なのだから、実に面倒です。それもこれも、この迷路のお蔭ですよ。これさえなければ、犯人は大野さんに見られている筈《はず》ですからね。それにしても、あなたには、誰か疑わしい人物があり相なものですが」 「それが先日からも云う通り、不思議にないのです。ちま子は大人しい女で、敵があろうとは考えられません。強《しい》て考えるならば、好かれたからこそ殺されたのです。恋の叶わぬ恨みですね。併し、そうだとすると、園内でちま子を恋していなかったものは一人もないと云って差支《さしつか》えないのです。又ちま子が私以外の何人《なにびと》の愛をも拒絶したことも確《たしか》です。随って園内の男は凡て容疑者ということになります」  話しながら、二三度あと戻りをしたけれど、流石《さすが》に迷いもせず、迷路の中心に達した。 「オヤ、誰かいる」  一歩そこに踏みこんだ刑事が、びっくりして立止った。 「アア、湯本君、こんな所で何をしているのだ」  治良右衛門も驚いて声をかけた。  それはサジスト湯本譲次であった。  彼はその迷路の中心で妙なことをしていた。彼の前には三脚架にカンヴァスが立てかけてあり、彼の左手にはパレット、右手には絵筆が握られていた。 「何を描《か》いているの?」  問われると、譲次は、見れば分ると云わぬばかりに、顎《あご》でモデルを指し示した。  モデルは地上にうずくまった奇妙な形の青白い肉塊であった。  実に奇妙な形をしていた。顔を地べたにくッつけて、お尻をもったて、足は腹の下に折れ曲り、手は無理な格好で、顔の前に投出されていた。つまりそれは、世にも豊満な、一糸|纒《まと》わぬ裸体女のモデルであったのだ。  だが、あの皮膚の、異様な青白さはどうだ。こんな不気味な皮膚を持った女が、この楽園にいたのかしら。 「オヤ、あれは原田麗子さんじゃないか。どうしたんだ。あの妙な格好は。身体が折れてしまい相じゃないか。痛いだろう」  治良右衛門がモデル女の正体に気づいて叫んだ。 「痛くはないよ」  譲次が、セッセと絵筆を動かしながら、ぶっきら棒に答えた。 「痛くないことがあるもんか。可哀相じゃないか。止《よ》したまえ。このサジストにも困ったものだ」 「痛い筈がないよ。麗子さんをよく見てくれ給え」  譲次が怒った様な声で云った。  云われて見ると成程《なるほど》変だ。原田麗子は決してあんないやな色の皮膚ではなかった筈だ。  治良右衛門はゾッと寒気を感じないではいられなかった。  木島刑事もそれと悟ったのか、ツカツカとモデルに近づいて、いきなり彼女の肩に手をかけて引起した。 「アッ!」  二人の口から、同時に驚きの叫び声がほとばしった。  引起された麗子の身体の下には、真赤な水溜りが出来ていた。そして、彼女の胸には見覚《みおぼえ》のある例の短剣が、心臓深く突き刺さり、乳房も、腹も、太腿まで、ペンキでも塗った様に、真赤に染め上っていた。 「オイ、湯本君、君はこれを知っていたのか、誰にやられたんだ。下手人は何者だ」  治良右衛門がどもりどもり、譲次に詰問《きつもん》した。 「あいつだ。ちま子さんを殺した奴だ」  譲次が無感動に云った。 「ウン、恐らくそうだろう。併し、君はどうしたんだ。恋人の死骸をモデルにして、呑気《のんき》そうに絵を描いていたのか」 「そうだよ」譲次は平気で答えた。 「僕は麗子がこんな美しい生物《いきもの》だという事を、今の今まで気づかなかったのだ。それにこの奇怪な美しいポーズ。棺《かん》に入れてしまうのは惜《おし》いと思ったのだ」  湯本譲次は気が違ったのか。恋人の血みどろの死骸を何か世にも美しいものの如く、我を忘れて写生していたのだ。 [#3字下げ]殺人三重奏[#「殺人三重奏」は中見出し]  木島刑事は、この気違いめいた有様に、あきれ返って、口も利けなかったが、やがて、徐々に正気に帰ると、いつもの意地悪な、冷たい表情が、彼の顔を占領した。 「湯本さん、恋人の死骸の写生とは思いつきですね。実に巧《うま》い考えだ」  彼は皮肉たっぷりに感心して見せた。 「巧いでしょう。こんな美しいポーズは、迚《とて》も人間業で考え出せるもんじゃありません。一生涯に二度と手に入らぬ、すばらしいモデルですよ」  譲次は無邪気に自慢している。 「うまいッ! その無邪気さは、名優だって真似が出来ないでしょう」  刑事は益々《ますます》皮肉に云う。 「名優ですって? すると、何だか、僕がお芝居でもやっている様に聞えますね」  譲次が変な顔をして、刑事を見つめた。 「うまいッ、益々うまいですよ。被害者の死骸を写生して嫌疑を免《まぬが》れ様というのは、実にズバ抜けた新考案です」 「オヤッ、すると、僕が、この女を殺して置いて、その嫌疑を免れる為に、こんな真似をしているとでもおっしゃるのですか」  譲次は、やっと刑事の真意を悟ったのか、びっくりした様に聞き返した。 「ハハハハハハハ、いやなに、必ずしもそういう訳ではありませんがね。併し、……」 「併し、どうしたんです。アア分った。君は僕が下手人だと極《き》めて、拘引《こういん》する積りでいるんだね。だが、刑事さん、僕を牢屋《ろうや》へブチ込むには、確な証拠がなくてはなるまいぜ。君はそれを持っているのかね。証拠だ。証拠を見せ給え」 「証拠ですか」刑事はゆっくり答えて、麗子の死骸に歩み寄ると、その胸から例の短刀を引抜いた。 「例えば、この短刀です。この鍔《つば》のない棒みたいな兇器は、一目で持主が分る筈です。喜多川さん、そうではありませんか」 「如何にも、それは湯本君の奇術用の短剣です。併し……」治良右衛門は、困惑して口ごもった。 「馬鹿なッ、若し僕が真犯人であったら、一目で分るそんな兇器を、死骸の胸に残して置くものですか。それは却て、僕の無実を証拠|立《だて》ているのだ」譲次が怒鳴った。 「兎も角も、君は一応警察署まで御同行を願わねばなりません。警察署長なり予審判事なりが、君の御意見を伺うでしょう」木島刑事は冷然と云い放った。 「イヤだ。僕は恋人の死骸をうっちゃって、警察なんぞへ行く訳には行かぬ。僕は断じてジロ楽園を出ない」  争いが段々激しくなろうとしている所へ、ヒョッコリ怪物が這入って来た。せむしの餌差宗助だ。彼は醜い額に汗の玉を浮べて、セイセイ息を切らしている。迷路の中を駈ずり廻ってやっとここへたどりついたものであろう。 「オオ、宗助じゃないか。どうしたんだ」治良右衛門が驚いて声をかけた。 「旦那、大変だ。早く来て下せエ。あれを見ると、直様《すぐさま》駈出して来ただが、迷路で三十分も手間取っちまった。もう迚も息は吹き返すめエ」云いかけて、彼はふと原田麗子の死骸に気づいた。「ワー、ここにも人死《ひとじに》があっただね。麗子さんじゃねえか。誰が殺しただ」 「ここにもって、宗助、それじゃ、どっかにもう一人殺された者があると云うのか」  治良右衛門が惶《あわただ》しく聞き返す。 「そうです。あっちにも一人殺されているだ」 「誰が?」治良右衛門と刑事が、殆ど同時に叫んだ。 「坊やです。可哀相に、ピストルで胸をうたれて、虫の息だ。イヤ、今時分は、その息も絶えてしまったべえ」 「坊やだって、三谷二郎か」 「ヘエ、そうです」 「木島さん。湯本君も、争いは後にして一緒に行って見よう。三谷少年が殺されているんだ」  治良右衛門は云いながら、もう駈け出していた。せむしの宗助がそのあとを追って走る。湯本譲次も、その腕を掴んだ木島探偵も続いて走る。 「どこだ。坊やが殺されているのは」 「メリー・ゴー・ラウンドのとこです。木馬に乗っかっててやられたです」  やっと迷路を抜け出して、木馬館へ来て見ると、楽園の傭人《やといにん》達が、十数名、一かたまりになって騒いでいた。 「三谷はどうした。まだ息があるか。誰か医者を呼びに行ったか」  治良右衛門の声に、傭人達は道を開いて、口々に答えた。 「もう駄目でございます。つい今しがた息が絶えました」  見ると、木馬から転がり落《おち》た姿勢のまま、二郎少年は、両手で地面を引掻《ひっかき》き乍ら絶命していた。 「なぜベッドへ運んでやらないのだ。こんな地べたで、可哀相じゃないか」  治良右衛門が傭人達を見廻して叱《しか》りつけた。 「アア、治良、そこどころじゃないのよ。死人は三谷さん一人じゃないんですもの」  群集の中から治良右衛門の恋人の木下鮎子が飛び出して、泣声で答えた。 「一人じゃないって? 一体どうしたというのだ」治良右衛門がびっくりして叫ぶ。 「折枝さんよ。折枝さんが風船から落て死んでしまったのよ。その方へは大野さんが行っていらっしゃるのよ」 「エ、エ、折枝さんが?」  一同、それを聞いて、二の句がつげなかった。 [#3字下げ]日記帳と遠眼鏡[#「日記帳と遠眼鏡」は中見出し]  つまり、その朝、ジロ楽園には、殆ど時を同じうして、三つの殺人が行われたのだ。原田麗子は迷路の中心で、三谷二郎はメリー・ゴー・ラウンドで、人見折枝は風船で。  朝寝坊の同人《どうにん》達の中で、三谷少年丈けは例外の早起きであった。その朝も、彼は午前六時頃寝室を抜け出して早朝の楽園を駈廻っていたが、メリー・ゴー・ラウンドの側を通りかかった時ふと乗って見たくなったので、一人でスイッチを入れてそれを廻転させ、一匹の木馬に飛乗った。  奇怪な木彫りの裸馬が十数頭、ガクンガクンと首を振りながら、ゴロゴロ、ゴロゴロ廻り始めた。  三谷少年は手綱《たづな》を握って、お尻を前後にゆすぶりながら、ハイシイ、ドオドオ、裸馬共と競争だ。  あたりには、木馬館の附近は勿論《もちろん》、見渡す限り人影もなかった。すがすがしい朝の風が、スーイスーイと頬をかすめる音の外には小鳥の声さえ聞えなかった。  ところが、木馬がやがて十廻転もした時分、突然、その静寂を破って、ビューンという烈《はげ》しい唸り声が起ったかと思うと、二郎は胸の中へ棒を刺された様な、恐ろしいショックを感じた。 「ギャッ!」  という悲鳴が思わず迸《ほとば》しった。と同時に、彼は廻転中の木馬から、真逆様《まっさかさま》に転落して、地面に叩きつけられた。 「誰だッ」叫んでも答えるものはなかった。  不思議、不思議、見渡す限り人影もないのにどこからともなくピストルの丸《たま》が飛んで来て、少年の胸を射抜いたのだ。  木下鮎子と餌差宗助が、虫の息の三谷少年を発見したのは、それから一時間もたってからであった。  血と泥でお化けみたいに汚れている少年を抱き起して、 「誰が撃った、誰が撃った」と下手人を尋ねると、少年は僅《わずか》に口を動かして、 「分らない。……日記帳、日記帳」  と呟《つぶや》いたまま、グッタリとなってしまった。それ以上物を云う気力がないのだ。そこで、あとを鮎子に頼んで置いて、宗助が急を告げに走ったという次第であった。 「日記帳といったのは、いつも二郎さんがつけている日記帳のことではないかしら。それを読んで見れば、何か分るかも知れませんわ」鮎子がかしこくも推察した。 「その日記帳のありかをご存じですか」木島刑事は聞きのがさぬ。 「エエ知ってます。二郎さんの寝室の机の抽斗《ひきだし》にしまってある筈です」 「じゃ、すぐそこへ案内して下さいませんか。早く調べて見たいと思いますから。……喜多川さん、あなたは先へもう一人の死人を見て上げて下さい。僕もじき行きますから」  そして、刑事と鮎子は三谷少年の寝室へ、治良右衛門は二三の傭人を引連れて、風船の方へ急いだ。  飛行船形の軽気球は、楽園の一隅、とある小山の上に繋留《けいりゅう》してあった。近づくに従って、その風船から地上に垂れている繩梯子《なわばしご》の一方の綱が切れて、梯子の形を失い、残る一本の綱でやっと風船をつなぎとめている事が分った。 「アア、繩梯子が切れたんだな」  治良右衛門は誰にともなく呟いた。  現場へ来て見ると、そこにも傭人達の人山が出来ていた。 「大野君、大野君はいないか」  声に応じて、群集の中から、雷蔵の顔が現われた。 「アア、喜多川君、見てくれ給え、これだ。ひどいことになるもんだね」  雷蔵は半泣きの渋面《じゅうめん》を作って云った。  指さす箇所を見ると、折枝の死体が横たわっている。なる程ひどいことになるもんだ。力まかせに投げつけられた饅頭《まんじゅう》みたいに、彼女の死体は大地にメリ込んで、グシャッと押しつぶされていた。 「オヤ、この人は双眼鏡を握っているね」 「ウン、それで何かを見ていたんだ。そして、風船から降《お》り様として、繩梯子に足をかけるかかけないに、突然弾丸の様に墜落してしまったんだ」 「すると、君は見ていたのかい」 「イヤ、僕が見たら、今までうっちゃって置きゃあしない。子供が見たんだ。炊事場の婆さんの小せがれが見たというんだ。この子だよ」  雷蔵が六七歳の男の子の頭を押さえて見せた。 「どうも誠にすまねえことでございます。子供の云うことだで、気にも止めねえでいましたら、やっぱりこんな恐ろしいことが……」  子供の母親が、頻《しき》りと詫《わ》び言をするのを聞き流して、治良右衛門は鼻たれ小僧の頭をなでながら、質問を始めた。 「坊や、いい子だね。この姉ちゃんが、風船の上で、遠眼鏡を見ていたのかい」 「ウン、そうだよ。一生懸命に見ていたよ」  子供は存外ハッキリ答える。 「どっちの方を見ていたの?」 「あっちの方」  子供の指さす方角には、例の殺人迷路があるばかりだ。 「あっちだね。間違いないね」 「ウン、あっちばかり見ていたよ」 「大野君、折枝さんは風船の上から、ラビリンズを研究していたのかも知れない。上から覗けば、迷路の地図が、ハッキリ分るからね」 「だが、朝っぱらから、何を酔狂にそんなことを」 「イヤ、ひょっとしたら、この風船の上からは、麗子さんの殺される光景が、手に取る様に見えたかも知れないぜ。おばさん、それは一体何時だったの」 「この子が、落《おち》た落たと云って帰って来たのは、あれは確か六時頃でございました」 「六時、……やっぱりそうかも知れないね」 「坊や、それでどうしたの。この姉ちゃんは、何かびっくりした様な風はしなかったかい」 「ウン、何だか大きな口を開いて喋舌《しゃべ》っていたよ。それから、いそいで降りて来たよ」 「喋舌っていたって、風船には外《ほか》に誰もいなかったのだろう」 「ウン、誰もいなかったよ」 「じゃ、なぜ喋舌ったりするんだろう。アア、分った。坊や、姉ちゃんは、大きい口をあいて、叫んだのだね。アレエとか、助けてくれエとかいって」  だが、子供は困った様な顔をして黙っていた。 「ウン、よしよし、坊やには少し難しすぎる。だが、大野君、これは僕の想像が当っている様だね。それから坊や、どんなことがあったの?」  治良右衛門が質問を続ける。 「それから、綱が切れたんだよ」 「どうして?」 「知らないや。でも、プツッと切れちゃったんだよ。それから、姉ちゃんが、さかとんぼになって、スーッと落て行ったんだよ。早かったよ。見えない位早かったよ」  子供は自慢らしく、息をはずませて報告した。  繩梯子の綱が切れたのは、偶然であったか。何かそこに恐ろしい意味が隠されていたのではないか。殆ど時を同じうして、三人の変死事件が突発した。偶然の一致にしては余りに奇怪である。これは恐らく別々の事件ではない。此《この》一連の血腥《ちなまぐさ》い椿事《ちんじ》の裏には、同じ動機が……たった一人の犯人が、隠れているのではないだろうか。 [#3字下げ]被疑者[#「被疑者」は中見出し]  その朝、殆ど時を同じうして、麗子は迷路の中心で、二郎少年はメリー・ゴー・ラウンドの木馬の上で、折枝は空中の風船から墜落して惨死《ざんし》をとげた。麗子を殺した兇器は、ちま子と同じ怪短剣、二郎少年を殺したのは弾丸、折枝は風船の綱が切れて落たのだけれど、これも何者かが彼女を殺す為に、その綱を切断したのかも知れぬ。  いや、「知れぬ」ではない。それに違いないことが間もなく分った。  警察や検事局の人達がやって来て検屍を済ませ、死体が室内に運び去られたあとで、木島刑事の発議で風船が地上へ引きおろされた。繩梯子の切口を調べる為だ。  銀色の巨大な風船玉が、瓦斯《がす》を抜かれて、くらげみたいに地上に横《よこた》わった。 「やっぱりそうだ。この切口をごらんなさい。決して自然に切れたものではない。何か鋭利な刄物でたち切ったあとです」  刑事の言葉に一同そばへ寄って、繩の切口を見ると、成程、プッツリと一思いに切れている。 「併し、まさか折枝さんが自分で繩梯子を切る筈はないから、風船には外《ほか》に下手人が乗っていたと考えなければなりません。ところが、この子供も、子供の知らせで驚いて飛び出して見た炊事係の婆さんも、折枝さんが落たあとの風船には、誰も乗っていなかったというのです。僕が駈けつけた時にも、折枝さんが墜落してから二三分しかたっていなかったのですが、風船の附近には誰もいなかった。とすると、この綱は、いつの間に、誰が、どうして切ったのでしょうね」  恋人を失った大野雷蔵が、青い顔をして、さも不思議そうに云った。 「サア、それですて。私も今それを考えていた所ですよ」  木島刑事が、意味ありげに答えた。彼は已《すで》に何事かを悟っている様子だ。  それから、一同建物の一室に引上げて、検事の取調べを受けたが、詳細に書いていては退窟だから、重要な部分丈けを抜き出して記《しる》して置く。  先《ま》ず第一に、三谷少年の臨終の言葉に従って、彼の日記帳が調べられた。 「今夜、山の下で青い顔をした麗子さんに逢った。どうしたのかって聞くと、誰にも云っちゃいけないと云って、若しあたしが死んだら、その下手人は譲次なんだから、あんたよく覚《おぼえ》といて、刑事さんに告げて下さい。と変なことを云った」  日記帳にはこんなことが書きつけてあった。そして、そのあとに、今度の犯罪についての二郎少年の感想がつけ加えてある。 「誰も気がついていない様だが、僕は譲次さんが、例のちま子さんの胸にささっていたのと同じ短剣を、沢山《たくさん》持っていることを知っている。僕は最初からあの前科者の譲次を疑っていたのだ。やっぱりそうだ。今夜の麗子さんの言葉で僕の考えが愈々《いよいよ》本当らしくなって来た。皆にこのことを教えてやろうかしら。だが、麗子さんは誰にも云うなと云った。あの人の言葉にそむくのはいやだ。アア、どうしたらいいのだろう」  湯本譲次は迷路の中心で、麗子の死骸を写生していたという事実丈けでも、充分嫌疑をかけられていた上、今又こういう証拠物件が現われた。彼は最早《もはや》のがれるすべはないのだ。  誰しも譲次が下手人だと信じた。殺人の動機が判明していなかったし、一人の男が同時に三ヶ所で、しかも一つは空中の風船の上、一つは複雑な迷路の中という風に、ひどく飛び離れた場所で、三重の人殺しを犯したなんて、何だか本当らしく思えなかったけれど、そういう点を除くと、譲次が最も濃厚なる嫌疑者であることは、誰も疑わなかった。  検事は譲次を前に呼び寄せて、鋭い質問をあびせかけたが、彼は何事も知らぬ存ぜぬの一点張りでおし通した。  検事は更に治良右衛門、木下鮎子、大野雷蔵、餌差宗助などをも取調べたが、これという程の発見はなかった。  その朝、三重の殺人事件が起った時間には、治良右衛門は例によって観覧車の箱の中に、鮎子と雷蔵とは、建物の中の各自のベッドに、まだグーグー寝ていたことが明かになった。それぞれ証人があって、一点の疑《うたがい》を挟む余地もなかった。  脊むしの餌差宗助は、早起きの男で、その朝も五時頃から起き出《い》で、園内を見廻っていたと申立てたが、園内といっても山あり川あり広い場所のこと故、犯罪の行われた時分、彼がどこで何をしていたかは、誰も目撃したものがなかった。つまり彼にはアリバイとなるべき証人がなかったのだ。  右の人達の外に、花火係りのKという男が検事の取調べを受けたことは注意すべきだ。 「君は今朝六時頃に花火を打上げていたということだが、そんなに早くから、何の為に花火なんぞを上げていたのだね」  検事が尋ねた。 「ヘエ、それが私の仕事なんで、毎日、朝の六時から夕方の六時まで、ひっきりなしに昼花火を打上げているのが、私の役目なんです」  四十男のKが、黒く汚れた仕事服で答えた。 「それは園主の云いつけなのかね」 「それは私が命じているのです」喜多川治良右衛門が引取って答えた。「御承知の通り風変りな遊園地です。朝っぱらから花火を打上げたところで、不思議はないのです。私達はあのポーン、バリバリバリという威勢のいい音と、花火玉が割れて降って来る風船の雨が、たまらなく好きなのです」  検事は苦笑しながら、更に花火係のKに向直って、質問を続けた。 「君は六時前後に、何か怪しい人物を認めなかったかね。君の花火の筒は丁度迷路の裏側にあった筈だね」 「私の持場へは誰も来ませんでした。怪しい人物にも何にも朝の間は人の影さえ見ませんでした」 「迷路の中から人の叫び声は聞えなかったかね」 「ヘエ、それも、少しも気がつきませんでした。丁度花火の音に消されて、私の耳に入らなかったのかも知れませんが」  この花火係を最後にして、一通り取調べが終った。結局湯本譲次が犯人であることを打消す様な事実は何も現われなかった。  例の地底の血の池地獄のそばに隠してあった十数本の怪短剣が、二郎少年の日記帳と共に、証拠品として押収された。そして、当の湯本譲次が唯一の被疑者として引致《いんち》せられたことは云うまでもない。 [#3字下げ]大鯨の心臓[#「大鯨の心臓」は中見出し]  木島刑事は、検事や警察の人々と一緒に楽園を立去ろうとはしなかった。署長の命令もあったし、彼自身も、まだこれで、事件が解決したとは信じていなかったからだ。  その午後、彼は一人で、園内をブラブラ歩いていた。  ふと気がつくと、彼の面前に、真黒に塗った漆喰《しっくい》の小山の様なものが横わっていた。全然黒く塗りつぶした中に、ただ一点しみ[#「しみ」に傍点]の様な白いものがあった。それがこの怪獣の目だ。作りものの大鯨が、小さな白い目で刑事を睨みつけていたのだ。  目の下の口の辺にポッカリ開《あ》いた黒いほら穴が、鯨の胎内への入口だ。刑事はその内部の不思議な光景をよく知っていた。大人をもひきつける不気味なお伽噺《とぎばなし》の世界だ。  彼はその胎内へ這入って見る気になった。黒いほら穴をまたいで、大鯨の口を這入ると、そこに不気味なでこぼこの大きな喉があって、それから、やっと一人通れる位の食道の細道が、ズッと胃袋まで続いていた。  露出した電燈は一つもなく、光源は皆臓器の繊維の内部に仕掛けてあるので、それが青黒い粘膜を通して、曇り日の様な薄あかりを行手に漂わせていた。すき通って見える青黒い粘膜には不気味な血管や神経などが、黒い川の様に縦横に交錯していた。  胃袋の一部が赤くただれた様になって、三尺程の穴があき、そこから体腔《たいこう》の中へ出られる様になっていた。木島刑事はその穴から、胃袋を這い出して行った。  外は広い赤茶けた空洞であった。スグ頭上にギョッとする様な巨大な光源がブラ下っている。浅草の仁王門《におうもん》の大提灯《おおぢょうちん》みたいな、ベラ棒に巨大な、真赤にすき通った、鯨の心臓である。赤い心臓からは、老樹の根の様な大動脈、大静脈が、ウネウネと這い出して、遠く百ひろの彼方まで続いていた。そこに、大鯨の大腸小腸が、青黒く、大小無数のおろちの形でもつれ合っているのだ。 「木島さんではありませんか」  どこからか、ラジオの様に主《ぬし》なき声が響いて来た。  ギョッとして振向くと、大提灯の心臓の下に、異様な寄生虫の様に、黒い小さな影が蠢いていた。人間だ。 「誰です、そこにいるのは」 「僕、喜多川ですよ」  黒影《こくえい》が治良右衛門の声で答えた。 「ア、あなたでしたか。今頃どうしてこんなところに?」  刑事は心臓の真下へ歩み寄った。 「少し考えごとがありましてね。この赤い心臓が僕の想像力を刺戟《しげき》してくれるものですから」  近よると、治良右衛門の顔が、赤と黒とのでこぼこになって、恐ろしい赤鬼の様に見えた。 「ホウ、何をそんなにお考えなのです」  木島刑事も赤鬼だ。大提灯の心臓の下で、二匹の赤鬼が囁き合っているのだ。 「無論、今度の血腥い事件についてですよ」  治良右衛門が答えた。そこが丁度巨大な心臓の下であったから、血腥いという形容詞と共に、事実腥い血のりの匂《におい》が刑事の鼻を打った。 「併し、事件は殆ど解決したではありませんか。あなたは湯本君の無実を主張しようとでもなさるのですか」  刑事とても、事件の解決を確信していた訳ではないけれど、ここにも一人、疑惑を抱《いだ》いて考え込んでいる男がいると思うと、ついそんな風に云わないではいられなかった。 「イヤ、必ずしもそうではありませんが、……木島さん、あなたは湯本譲次が四つの殺人事件の真犯人だと信じていらっしゃるのですか」 「無論その外に考え様がないではありませんか」  木島は態《わざ》と強く言い切って見せた。 「なる程あいつは前科者です。併し、意味もなく人間の命を奪う様な殺人鬼ではありません」 「意味もなくですって? 意味があるじゃありませんか。あなたはそれが分らないとおっしゃるのですか」  刑事は真実意外に感じたのだ。 「すると、あなたは譲次には殺人の動機があったとおっしゃるのですね。あなたのお考えを聞き度いものです」  治良右衛門が正面から刑事の赤い顔を見つめて云った。 「湯本君は諸口ちま子さんをあなたから奪おうとした。そしてちま子さんの為に手ひどくはねつけられた。これが殺人の動機にならないでしょうか」 「ホウ、あなたはそれを知っていたのですか」 「僕は探偵です」  木島は侮辱《ぶじょく》を感じたらしく、怒りっぽく云い放った。 「イヤ、失礼。如何にもその点はあなたのおっしゃる通りです。併し、……」 「又麗子さんが殺されたのも二郎君の日記で説明がつきます。湯本君と夫婦の様にしていた麗子さんが、その夫の犯罪を気附くというのは、さもありそうなことです。殊に麗子さんは湯本君の短剣投げの的《まと》になっていたという事実さえあるのです。あの人は誰よりも早く、ちま子さんを斃《たお》した短剣が湯本君の所持品であることを悟ったに違いない。それで、二郎君にあんなことを云い残して置いたのでしょう。案の定麗子さんは同じ短剣でやられている」 「成程、よく筋道が立っていますね。では、三谷二郎殺害の動機は?」  治良右衛門は何か含み笑いをしている様な声であった。 「二郎君は麗子さんの秘密を聞いた唯一の証人です。その証人を沈黙させる最も簡便な方法は彼を殺すことです」 「すると、譲次は麗子さんと二郎との秘密の会話を立聞きでもしていたという訳ですか」 「或はそうかも知れません。そうでなくても、恋人である麗子さんの挙動や言葉の端でそれを察し得たのかも知れません」  読者は知っている。麗子が二郎少年にあの秘密を打開《うちあけ》ていた時、茂みのうしろに海坊主の様な黒い人影が立聞きしていた。そしてその人影が湯本譲次であったとすれば、木島刑事の推察は益々適中して来る訳だ。 「では、人見折枝さんは? 朝っぱらから風船に乗っていた気まぐれは、楽園の住人にしては別に珍らしい事でもありませんが、事件に何の関係もないあの人が、何ぜ殺されたか。又犯人はどうしてあの高い空中の繩梯子を切断することが出来たか。あの時風船には折枝さんの外には誰も乗っていなかったのですよ」 「あなたは繩梯子の切口をよくごらんになりましたか」  刑事が突然妙な質問をした。 「見ましたが……」 「鋭い切口でしたね、刄物で切ったのか、そうでなければ」 「エッ、そうでなければ?」 「弾丸です。非常な名射撃手があって、あの細い繩を的にして、弾丸を命中させ得たとすれば、丁度あんな切口が出来たかも知れません」 「どこから?」  治良右衛門がびっくりして尋ねた。 「迷路の中心からと云い度いのですが、それは誰が考えても不可能です。もっと近い所、例えば風船の繋留所《けいりゅうじょ》の真下からでも発射したとすれば、そして誰にも気づかれぬ間《ま》に森の中へ逃込んだとすれば、満更《まんざら》出来ないことでもありますまい」 「併し、銃声が聞えましょう。炊事の婆さんは鉄砲の音については何も言わなかった様ですが」 「花火です。あの気違いめいた朝っぱらからの花火の音が銃声を消したと考えることは出来ないでしょうか。僕が今朝《けさ》花火係のK君を呼出したのは、その点を検事に知らせて置きたかったからですよ」 「成程、成程、花火とはうまく考えましたね。あなたは恐ろしい人だ。併し、動機は? 譲次はなぜ折枝さんを殺さなければならなかったのです」 「折枝さんが双眼鏡を握っていたことを御記憶でしょう。あの人は風船の上から園内を眺めていたのです。そして偶然にも、迷路の中心の不思議な光景を目撃したのです。殺人の現場を」 「成程、成程」  治良右衛門は感じ入って唸った。 「下手人は目的を果してから、誰か見ていたものはないかと四方を見廻したに違いない。すると、風船の上の人影が、しかも双眼鏡を手にして恐怖におののいている人影が、目についたのです。そこで下手人は迷路を走り出て、風船の下へやって行ったと考えるのは無理でしょうか。折枝さんは、早く風船を降りればよかったのだが、脅《おび》え切ってしまって、その決心もつき兼ねたのでしょう。そして、やっとオズオズ繩梯子を降りかけた時、弾丸が発射された。無論折枝さんを狙ったのでしょうが、その丸がそれて、偶然にも、細い繩に命中した。まさか湯本君が空にゆれている細い繩を的に発射する程の名射撃手とも考えられませんからね」 「成程あなたの推理は一通り筋道が立っている様ですね。で、三谷二郎は、折枝をやッつけた帰り道で、その同じ銃器を使用して射殺したという訳ですか」 「多分そうでしょう。メリー・ゴー・ラウンドは風船と迷路の中間にあるのですからね」 「で、その譲次の使用したという銃器は? あなたはそれを発見したのですか」 「残念ながらまだです。それさえ発見すれば湯本君の有罪は確定的になる訳ですが、どこへ隠したのか、いくら探しても見つからないのです。併し、間もなく私はそれを発見して見せるつもりです」  刑事は自信ありげに答えた。 「併しね、御説を伺っても、僕はまだ譲次の有罪を信じる気にはなれないのですよ」  治良右衛門はやっぱり含み笑いをしている様な声で云った。 「エ、では、あなたは外に誰か疑わしい人物があるとでもおっしゃるのですか」  刑事が少し面喰《めんくら》って尋ねた。 「たった一つ、まだあなたの知らない事実があるのです」 「何です。それは一体何です」 「諸口ちま子の死体を発見したのは、大野雷蔵と人見折枝の両人でしたね。その時、折枝さんが犯人の姿を見ているのです。うかつに喋《しゃ》べっては大変なことになるので、折枝さんは大野君の外には誰にもそれを云わないで死んでしまったのです。大野君も実はある人の迷惑を思って、今日までそのことを口外しないでいるのです」 「見たのですか、犯人を。アア何ということだ。そんな重大な手掛りを秘密にして置くなんて。で、それは誰だったのです」 「誰とも分らないのです。咄嗟の場合、ただ洋服を着た非常に背の低い男であったことしか見分けられなかったのです」 「背の低い男?」刑事が息を飲んだ。 「我々の仲間で背の低い男といえば、子供の三谷二郎か、背むしの餌差宗助の外にありません。折枝さんはこの二人に嫌疑のかかることを恐れたのです」 「併し、二郎は殺されてしまった」  二人は大提灯の心臓の不気味な赤黒い光の下で、思わず顔見合わせ黙り込んでしまった。 [#3字下げ]餌差宗助[#「餌差宗助」は中見出し] 「二郎少年は殺されてしまった。すると」 「すると、あの背の低い男が残る訳です」  そして、二人は又もや黙り込んでいた。  治良右衛門の視線の先には、青黒い静脈の網に包まれた醜悪な軽気球の様な胃袋が、ドッシリと落ついて、それから暗闇の胎内深く、うわばみの大腸小腸がとぐろを巻いてつらなっていた。  我が設計ながら、人体解剖図のいやらしさ、むごたらしさ、果敢《はか》なさが、百層倍に拡大されて、その暗闇一杯に拡がっているのを見ると、ひとりでに心臓の鼓動が早まって来る様な気がした。  これらの巨大なる臓器どもが、生命をふき込まれて、俄《にわか》にドキンドキンと、或はウネウネと、脈うち蠢き始めたら、どんなにか恐ろしいことだろう。と思う心がそのまま現実となって、オヤ胃袋が動き始めた。夢かしら。イヤ夢じゃない。動いている。この大鯨は現に生きて呼吸しているのだ。たべたものを消化しているのだ。張りボテの大胃袋がモヤモヤと動き出したではないか。まさか。夢だろう。だが…… 「あなた気がつきましたか」  治良右衛門が、ソッと刑事の腰をつついて囁いた。 「エエ」  木島刑事は、猛獣がする様な警戒の目色で答えた。 「動いたでしょう」 「動いた。あなたの仕掛けたカラクリですか」 「イイエ、ちっとも知らないのです。あの胃袋は作りつけの張りボテなんです。動く筈がない」 「では若しや」  刑事はこの奇怪事を非常に現実的に解釈した。それで、彼が先に立って、暗闇の胃袋へと近づいて行った。 「こんなものが消化作用を起す筈はない」  刑事は塗料でネチャネチャする胃袋の壁をコツコツ叩いて云った。 「誰かいるんだ。人間が隠れて動かしているんだ。オイ、誰だ。出給え」  刑事は何かを直覚して、勢こんで、胃袋の裏側へ突進した。 「ワッ」  という悲鳴が爆発した。そして、何とも云えぬ醜怪な生きものが、刑事の腕をすり抜けて、鯨の腹綿《はらわた》の作る迷路の影へ逃込んで行った。 「喜多川さん、そっちへ廻って下さい。僕がうしろから追い出すから」  木島はまるで兎《うさぎ》でも捉《とら》える様に叫んで、腹綿の中へ飛込んで行った。  暗闇の中に、バリバリと腹綿の破れる音、逃げ廻る怪人物の、追っかける刑事の、入り乱れた足音、息遣い。コンクリートの皮膚を持つ大鯨が、腹痛を起して、のたうち廻った。 「しまった。木島さん、逃げられた。僕の袖の下をくぐって。あっちだ。あっちだ。食道の方だ」  治良右衛門が叫んで、いきなり駈け出した。心臓の大提燈《おおぢょうちん》をかいくぐり、張《はり》ボテ肺臓を押し分けて、食道の方へ、トンネルの様な暗闇の細道へ。  怪物は子供の様に背が低くて、猿《ましら》の様に身軽だった。彼は天井の低いトンネルを、立ったまま走れた。身体を折り曲げて、頭をコツコツやりながら、不自由に走る二人の大男は、迚も彼の競争者ではなかった。  治良右衛門と木島刑事とが、やっと鯨の胎内を抜け出して、夕暮れの木立ちを見渡した時には、例の怪人物はどこへ逃げ去ったのか影もなかった。 「やっぱりそうでしたね」  鯨の口の外にボンヤリ突立《つった》った刑事が意味ありげに云った。 「僕はあいつを信用しているんだが。変ですよ」  喜多川氏は首をかしげた。 「あなたも、あれが背むしの餌差宗助だったことを否定は出来ないでしょう」 「エエ、外にあんな格好の奴はいないから。併し、どうも不思議だ」 「これを見れば分るかも知れません。僕はさっきあいつがこんな紙切れを落したのを拾ったのですよ」  木島刑事は云いながら、一枚の紙片を見せた。それには下手な字で、こんなことが書いてあった。 [#ここから2字下げ] 来《きた》る七月十四日、ジロ楽園カーニバル祭《さい》の当夜、殺人遊戯の大団円が来るのだ。その夜残り少《すくな》のメンバー達は、みなごろしになる。血みどろの大夜会、殺人縁日のお祭り騒ぎが、どんなにすばらしいか。考えてもゾクゾクする。誰にも云っちゃいけない。地獄の秘密だ。人外境の大秘密だ。 [#ここで字下げ終わり] 「あなた、宗助の筆蹟をご存じですか」  刑事が尋ねた。 「知ってます。併し、これは態と乱暴な書体で書いてあるので、果して宗助のだかどうか、よく分りません」  治良右衛門が答えた。 「この、ジロ楽園カーニバル祭っていうのは本当ですか」 「本当です。こんな殺人騒ぎが起らない前、同好の紳士淑女百人余りに招待状が出してあるのです。この騒ぎでは中止しなければならないかと思っていたのです」 「フン、それにしても、そんな賑かな夜《よ》を選ぶなんて、犯人の気が知れませんね」  刑事はやっぱり現実的な考え方をした。 「僕には分る様な気がしますね」治良右衛門は、なぜか薄笑いを浮べ、刑事の顔を覗き込む様にして、舌なめずりをしながら云った。「今までのやり口でも分る様に、犯人は恐ろしい殺人狂なのです。あなたはさい前、湯本譲次を仮想犯人として、現実的な推理を組立てられたですが、その湯本譲次のいない楽園に、今の様な怪しげな人物が現われたのです。しかもこんな殺人予定表を落して行った奴がです。これで湯本が犯人でないことがお分りでしょう。今度の犯罪は、譲次の様な普通の悪人の企て及ばない狂人の夢です。変な云い方をすればこの幻《まぼろし》のジロ楽園にふさわしい犯罪です」 「なんだか、あなたはこの殺人狂を讃美していらっしゃる様に聞えますね」  刑事が迫り来る夕闇の中で、変な顔をした。 「讃美? エエ、ある意味では。僕は闇夜に打上げられる赤い花火が好きなんです。併し、僕が殺人狂の仲間だなんて誤解しないで下さいよ」 「だが片輪者のあの宗助に、そんな気持が分るでしょうか。あなたのおっしゃる様な」 「僕も意外なんです。併し畸形児というものは、心までも、我々とは全く違った曲り方をしていないとは云えません。彼奴《あいつ》あんなお人好《ひとよ》しな顔をしていて、心ではどんな血みどろな美しい悪事を企らんでいまいものでもありません」 「では、あなたは、この変な紙切れの文句をお信じなさるのですか」 「信じますね。ジロ楽園のカーニバル祭。なんてすばらしい舞台でしょう。真赤な殺人舞踏には……」 [#3字下げ]地底水族館[#「地底水族館」は中見出し]  その夜から翌日にかけて、ジロ楽園の隈《くま》なき大捜査が行われた。木島刑事の報告によって、所轄警察署から、十数名の警官隊が駈けつけたのだ。  警官隊と楽園の傭人達と、数十人の捜索隊が、人数丈けの提燈をふりかざして、或は塔の上を、或は迷路の中を、或は観覧車の箱の一つ一つを、メリー・ゴー・ラウンドを、地底の地獄を、水族館を、広い野原を、深い森を、縦横無尽に探し廻ったが、夜があけるまで、片輪者の姿はどこにも発見されなかった。  楽園の外《そと》へ逃げ出したかも知れないという説も出たけれど、それは信じられぬ事であった。あの一目で分る畸形児がこの楽園を飛び出して、どこへ身を隠し、どこに食物を求めることが出来よう。それ自体が一つの巨大なる迷路を為すこの楽園こそ、人目を忍ぶ犯罪人には、こよなき隠れがではないか。のみならず、彼奴《あいつ》は、七月十四日の大計画を目の前に控えているのだもの。  翌日のお昼頃になると、人々は疲れ切って、楽園の中心にある建物に集って来た。 「そのカーニバル祭とかを中止して、ここの人達がもっと安全な場所へ避難してはどうですか。つまり、ジロ楽園を空っぽにしてしまうのですね」  警察署長が腹立ちまぎれに怒鳴った。 「僕達は外《ほか》に行く所がありません。いつもいう通り、僕達にはこの楽園が唯一の世界なんです。ここを見捨てる気にはなれませんよ。それよりも、もう一度探して下さい、もう犯人は分っているのです。捉えさえすればいいのです」  治良右衛門が不眠の為に青ざめた顔で頼んだ。 「探すと云って、どこをです。僕達はもう探し尽したじゃありませんか」 「僕に少し心当りがあるのです。あすこじゃないかと思う場所があるのです」 「どこです」 「地の底の水族館です」 「アア、あすこなら、十度も見たじゃありませんか」  木島刑事が口をはさんだ。 「見方がいけないのです。これは僕もたった今気づいたのですが、あすこには誰にも分らぬすばらしい隠れ場所があるんです。あの恐ろしい片輪者はそれを知っていたかも知れません」 「じゃ、そこへ案内して下さい」  署長が進まぬ口調で応じた。  木島刑事と五名の警官とが、治良右衛門のあとに従って、地底の水族館へと降りて行った。  そこにはコンクリート作りの長いトンネルが、曲り曲って続き、その両側の壁に、幾つもの大きなガラス窓が開いて、厚ガラスの外《そと》は、直に海底の景色になっていた。  無論真実の海底ではなく、ガラスの外にはやっぱりコンクリートの水槽があって、その底に岩や小石や土を置き、雑多の海草を植え、各種の珍魚異魚を放したものである。燐光《りんこう》を放つ海蛇《うみへび》の水槽の外《ほか》は、皆水の上に明るい電燈がついていて、海底を模した水槽は、底の小石の一つ一つまで、ハッキリと、しかし青い鹽水《しおみず》の層に歪《ゆが》んで、眺められた。 「あなた方はどこを探したのです。まさかこのガラス張の向側までは注意しなかったでしょうね」  先頭に立った治良右衛門が、六人の同勢を振返って尋ねた。 「ガラス張りの向側ですって? そこは水の中じゃありませんか。いくらなんでも……」 「イヤ、水の中といっても、水面の上に広い隙間があるのです。そこの空気を呼吸して生きていることが出来ます」  それを聞くと、六人の人達は、顔見合せて、意味の分らぬ呟きを漏らした。余りにも奇抜な犯人の隠れがが恐ろしく思われたのだ。 「すると、あなたは、あのせむし男が、水族館のタンクに身を沈めて、顔丈けを水面に出して、じっとしているとおっしゃるのですか」 「その外に、もう探す場所がないではありませんか」  人々の歩き方が俄にのろくなった。一つ一つのガラス窓を、丹念に覗き始めたからだ。  治良右衛門と木島刑事とは、肩を並べて、一つの大きなガラス張りの前に立っていた。  そこは魚類ではなくて、異形《いぎょう》な海草ばかりを集めた水槽であったから、ガラス窓一面、魔女の乱れ髪が逆立って、泥沼の様な陰影を作っている為、いくら電燈があっても、見通しが利かず、疑えば最も疑うべき場所であった。 「ここには、大きな魚《うお》でもいるのですか」  刑事が不思議相に尋ねた。 「イイエ、ここは海草ばかりです。魚なんて一匹もいない筈です」  この答えが、刑事を飛上らんばかりに驚かせた。 「でも、君、あのゆれ方は、あの菎布《こんぶ》の葉のゆれ方は」  見ていると、海草のヌルヌルした青黒い密林が、おどろおどろと乱れゆらいで、白い五|瓣《べん》の花が、ポッカリと咲き出でた。生白《なまじろ》い五つの花|瓣《べん》はひとで[#「ひとで」に傍点]の様に物欲しそうに、キューッキューッと海水を締め掴《つか》んだ。 「手だ、君、人間の手だ!」  それは明かに、人間の五本の指であった。しかも断末魔にもがき苦しむ指であった。  指にかき拡げられた海草のうしろから、ニョイと、大きな口が現われた。口ばかりの大きな畸形児の顔が。彼は空《うつ》ろな目を一杯に見開いて、口からは滝津瀬《たきつせ》と真赤な絵の具を吹き出しながら、水の中で何かわめいていた。声のない叫びを叫んでいた。  若し、木島刑事がリップ・リーディングを心得ていたなら、今断末魔の餌差宗助の鯉《こい》の様な唇《くちびる》から、身の毛もよだつ呪咀《じゅそ》の言葉を読み得たであろうものを惜いかな、彼は、唇の文字には少しも通じていなかった。  無論二人は、直《ただち》に廻《まわ》り路《みち》をして、その水槽へ駈けつけたけれど、もう手遅れだった。宗助は何者かの為に胸を刺されて、その水槽へ投げ込まれ、已《すで》にこときれて浮上っていた。 [#ここから罫囲み]  本号で犯人探しを締切《しめき》ります。犯人探しにはふさわしくない変なお話になってしまいましたが、読者の多くは、論理的にではなくても、作者の隠している真犯人を、已《すで》に感づいていらっしゃることと思います。それを答えて下さればよいのです。 [#ここで罫囲み終わり] [#3字下げ]大砲買入れ[#「大砲買入れ」は中見出し]  ジロ娯楽園のメンバーは、今や残り少くなった。  先ず治良右衛門の第二の恋人諸口ちま子が、次に湯本譲次の恋人原田麗子が、次に美少年三谷二郎が、次に大野雷蔵の恋人人見折枝が、そして、せむし男の餌差宗助が次々と不思議千万な方法で殺害されて行った。  一度は短剣投げの名手湯本譲次に嫌疑がかかったけれど、結局無実と分って留置場から楽園に帰されて来た。  名探偵木島刑事が楽園に泊り込み、日夜探偵に努力していたけれど、何時迄《いつまで》経っても何の手掛かりさえ掴めなかった。たまたま犯人の殺人予定表の如きものを拾い、餌差宗助が怪しいと睨んで捕縛しようとすれば、其宗助自身が水族館のタンクの中に、無残な死体となって浮上っていた。  今や犯人は全く不明であった。彼はただ出鱈目《でたらめ》に、手当り次第に、虫をでも殺す様に易々《やすやす》と、楽園のメンバーを殺害している様に見えた。被害者に何の連絡もなく、殺されねばならぬ動機というものが全く発見出来なかった。事件全体に、何ともえたいの知れぬ、物凄い、気違いめいた感じが伴って来た。  犯人は外部から侵入したとは考えられなかった。楽園の地形なり構造なりが、それ程|要害堅固《ようがいけんご》に出来ていたからである。すると内部の者か。残りのメンバーは園主の治良右衛門と、その恋人の木下鮎子と、大野雷蔵と、湯本譲次の四人切りだ。一体この四人の内に犯人がいるのか。  外《ほか》に数十人の傭人がいるけれど、それは園主が撰《よ》りに撰って、機械の様にお人好しで愚鈍な連中ばかりを傭入《やといい》れたのだから、まさかその内にこのすばしっこい、怪物みたいな殺人狂がいるとは思われぬ。然《しか》し、何を云うにも多人数の中だ、一人位仮面をかぶった恐ろしい奴が、まぎれ込んでいないとも限らぬ。  それは兎も角、例の楽園のカーニバル祭という、馬鹿馬鹿しい催しの日が近づいて来た。その日こそ、「殺人遊戯の大団円の来る日だ。楽園のメンバーが皆殺しになるのだ」と、見えぬ殺人狂が予告した当日なのだ。  仮令《たとえ》それが一片のおどかしにもせよ。なにもそんな危険を冒《おか》してまで、カーニバル祭とかを催す必要はないではないか。と、読者諸君もお考えなさるだろう。警察の人々もそう考えて、園主治良右衛門を呼び出して、催しの中止を勧告したものだ。だが治良右衛門はどうしても応じなかった。残る三人のメンバーも園主と同意見であった。 「このカーニバル祭こそ、我々がジロ楽園を始めた時の、最大の目標であったのです。これを今中止すれば、楽園に投じた数十万金の資金が全く無駄になってしまうのです。恐らくあなた方実際家にはお分りにならないでしょうが、我々は浮世《うきよ》のことに飽き果てて、ただ美しい夢にあこがれ、夢に生きる人種なのです。そして美しい夢を見ながら、仮令命を失うとも、少しも悔いぬ人種なのです。それに、カーニバルの日に殺人が行われるなんて、取るにも足らぬおどし文句に過ぎません。本当に人殺しをする気なら、誰が予報なんぞするものですか」  園主を始めメンバーの反対論旨は大体右の如きものであった。 「併し、聞けば百人ものお客さんが集まって来るというではありませんか、それに傭人達の事をも考えてやらねばなりません。あなた方はいくら面白くても、多数の安全の為には……」警察署長が忠告をくり返した。 「イエ、客は皆我々と同じ人種です。傭人達は我々以上にカーニバルを待ち兼ねて居ります。それに色々な準備がもうすっかり出来てしまっているのです。現に今日は大砲が到着する筈になっている位です。若しカーニバルを中止したなら、あの莫大な費用をかけた大砲が、全く無駄になってしまうではありませんか」  治良右衛門が主張した。 「エ、エ、何ですって? 大砲ですって?」それを聞くと警察署内の人々は一斉に目を見張《みはっ》た。 「イヤ、びっくりなさることはありません。戦争を始めるのではないのです。ホラ、御存知でしょう。いつか『人間大砲』という見世物が来ましたね。あんな風な謂《い》わばおもちゃの大砲なんです。口径は十二|吋《インチ》もありますけれど、弾丸はでっかいキルク玉で、しかも一丁位しか飛びやしないのです」 「だが、そんなものを一体どうするのですか」 「カーニバルの余興です。巨人の射的場を作ろうという訳です。都会の盛り場によく見かける例の射的場です。敷島やバットを積重ねて、射落《いおと》したら景品に貰えるあれです」  と、段々話が夢みたいに、なごやかになって来たのである。  で、押問答《おしもんどう》の末、結局治良右衛門その他の云い分が通り、奇妙なカーニバル祭は兎も角挙行されることになった。何しろ相手が地方の大金持で、友人には有力な政治家などもいるものだから、警察の方が一歩譲らない訳には行《ゆ》かなかった。そして、実に面倒な次第であったが、カーニバルの当日は、警戒の為に数十名の警官を楽園内に派遣しなければならなかった。治良右衛門は傭人達に命じて、着々と大饗宴の準備を進めて行った。  ある日ジロ楽園の唯一の入口である、例のゴンドラ浮ぶ水門へ巨大な荷物が到着した。大砲だ。巨人の射的場の大砲だ。見た所野戦に使う本物の大砲と少しも違わぬ。御所車の様な車輪がついて青黒く不気味に光った鋼鉄製で、それを筏《いかだ》にのせて、造花で飾って、御神輿《おみこし》のお渡りみたいに川を遡《さかのぼ》り、楽園の中心の広っぱへと運んだものだ。  大砲の側《そば》には、フットボールの球《たま》程のキルク玉が巨人国のお月見団子みたいに積上げられた。 「これが、恐らくカーニバル第一の余興だよ。あすこの丘の上に、等身大の生人形がズラリと立ち並ぶんだ。それを、お客様達が、ここから、このキルク玉で、ボカンボカンと撃つのだよ。愉快じゃないか。命中した時にはね。バットや敷島のご褒美《ほうび》じゃつまらない。ご褒美の代りには、花火がドカーンと上るのだ。そしてね、五色の花びらが雪の様に空から降って来るのだ。花火玉の中にそれを一杯つめて置くのさ。そして、楽園の中のジャズバンドが、ワーッと天変地異の様に鳴り響き、シャンパンがパンパン泡を吹き、花吹雪《はなふぶき》の下で、庭一杯の気違い踊りが始まるのだ。愉快じゃないか」治良右衛門は他の三人のメンバーを捉えて、楽しげに話して聞かせた。  だが巨人の射的場なんか、カーニバル全体の一種気違いめいた、大仕掛けな、世にも華やかな乱痴気騒《らんちきさわ》ぎの、ホンの一部分に過ぎなかったことが、やがて分る時が来た。 [#3字下げ]ゴンドラの唄[#「ゴンドラの唄」は中見出し]  カーニバルの当日が来た。殆ど日本全国から集まった猟奇の紳士淑女は、前夜近隣Y市に一泊して、定刻正午頃には、例の緑樹のアーチの下へ、三々五々到着した。  アーチの下には、小波《さざなみ》一つ立たぬ青い水面に、例のゴンドラが奇妙な船頭をのせて浮んでいた。  船頭は二人。一人は舳《へさき》に櫂《かい》をあやつる少女、一人は艫《とも》にギタを抱く少年、少女は全身に純白の羽毛の衣《きぬ》を纒い、少年は真紅の羽毛の衣に包まれている。紅白の美しい水鳥が、とまどいをして、ゴンドラの上に暫《しば》し蹼《みずかき》を休めているかと、見紛《みまご》う許《ばか》りだ。先着の三人の紳士淑女が、まず其《その》舟に乗込むと、少女の櫂が静かに水を掻分《かきわ》けて、ゴンドラは細い淵を、緩《ゆる》やかに辷《すべ》り始めた。 「お嬢さん、坊ちゃん、これは実に御趣向でしたね」  口髯《くちひげ》を短く揃えた年長の紳士がニコニコしながら、船頭に話しかけた。 「坊ちゃん、それは楽器ですか。一つお弾《ひ》きなさい。お嬢さんは、船を漕《こ》ぎながら歌えますか」  十七歳の坊ちゃんと、十八歳のお嬢さんは、紳士の顔を見返してニッと笑った。そして答えはなくて、少年のギタの弦が震い始め、少女の赤い唇が動いた。静かなる櫂の調子に合せて、ゴンドラの唄が水面を流れた。 「夢の国! オオ、僕等は夢の国へ旅をしているのだぜ。この子守唄はすばらしくはないか」  紳士が、歌に和する様に、柔かいバスで云った。 「本当にあの少年楽手の可愛いこと」黒い洋装の淑女が、美しいソプラノで調子を合せた。  両岸には、ドス黒い木の葉がうず高く空を覆って積重《つみかさ》なり、その濃緑の壁に真赤な椿《つばき》の花が、ポッツリにじんだ血の様に、一輪ずつ其処此処《そこここ》に咲いていた。空はドンヨリと曇《くも》って、遠いスリガラスの様に見えた。  水を渡る微風が、舳に立つ少女の芳《かん》ばしき体臭を、彼女の高い歌声と共に、ソヨソヨと吹き送った。  いつの間にか、二人の紳士は、少年楽手の両側に座して、両方から少年のまだ柔い肩に手をのせていた。淑女は少年の前に座して、その桃色の頬を飽かず眺めていた。  舳の少女は独《ひとり》歌いながら、愈々身体を振って、櫂の手を早めた。舟はスイスイと、水虫の様に調子をつけて、勢いよく辷り始める。その度に、舳に捲き起る風は、少女の純白の羽毛を、一ひら、二ひら、吹きちぎっては、空へ舞い上らせた。一ひら二ひら、舟の速度が加わるにつれて、吹きちぎられる羽毛は益々多く、はては時ならぬ吹雪となって、ゴンドラの上を、うしろへうしろへ飛び散って行く。  はげ落た羽毛の下には、少女の焦げ茶色の肌が、汗にぬれて、うず高く盛り上っていた。  ゴンドラの唄は、愈々高らかに、櫂持つ腕の、背の、腹の躍動は益々はげしく、残る羽毛をひと時にはじき飛ばして、見よ白い空を背景に、全裸の乙女の立ち姿。  羞恥《しゅうち》を知らぬ国の乙女は、そのまま勇敢に櫂をあやつりながら、上半身をねじ向けて、艫の少年楽手を顧《かえり》みた。 「調子が低いわ。もっと高く、もっと狂わしく」  少女の声に、少年はいきなり席を立上り、彼も又白い歯を見せて歌いながら全身を微妙に動かし、今はとばかりギタをかき鳴らす。  少年の真紅の羽毛も、ヒラヒラと舞い始めた。そして、その下には、ミケランジェロの曲線が、いとも美しく隠れていた。全裸の二人の船頭は、歌い、弾き、踊りながら舟を進めた。ゴンドラは、ユラユラと危《あやう》く揺れて、右に左にたゆいながら進んで行く。  三人の紳士淑女は舷《ふなばた》にしがみつき、しかし激しい夢に酔いながら、我《わが》前に踊る、二様の曲線に見とれていた。  そして、舟は港に着いたのだ。  港には、数十人の裸女の背を合せた、異様の桟橋《さんばし》がうねっていた。客は、その毛氈《もうせん》よりも柔く、暖かき桟橋を踏んで上陸した。陸には、数人の紅白ダンダラ染の道化服をつけた男が、手に手に衣裳を持って待ち構えていた。 「お客様方、よくこそお出で下さいました。園主はあちらで待ち兼ねて居ります。さあ、お召替《めしかえ》下さいませ」 「エ、何だって、お召替だって?」年長紳士がけげん顔で聞返した。 「はい、お召替でございます。お客様はカーニバルの衣裳とお召替なさらなければなりません」 「アア、夢の国には、夢の衣裳か」紳士は漸く納得して、その衣裳を受取った。  拡げて見ると、絹糸のあらい網に金銀の南京《ナンキン》玉を結びつけた、まるで踊り子の舞台衣裳の様なものだ。 「これを?」 「ハイ、それをでございます」 「シャツの上から?」 「イイエ、シャツも何も、今お召になっていますものは、すっかり私の方へお預かり致します」 「だって、君」 「イイエ、園主の申しつけでございます」  そこで、男女三人の不思議な踊子が出来上った。ピカピカ光るあらい網の目から、或は豊《ゆたか》な、或は痩《や》せっぽちな、或は滑《すべ》っこい肉体が、異様にすいて見える。頭には同じ南京玉のナイトキャップだ。  さて三人はお手々をつないで、何とまあ、声高らかに、ゴンドラの唄を口ずさみながら、教えられた道を、正面の小山の頂きへと昇って行った。露《あら》わなお尻を振りながら。昇り尽して頂上に立った時、突然、三人の口から、びっくりする様な叫び声が爆発した。 「ウラー! ウラー!」  そこには、小山の向うのジロ楽園の内部には、真実びっくりする様な、何とも云えぬ狂人の国の風景がひろがっていたからだ。 [#3字下げ]地上|万華鏡《ばんかきょう》[#「地上万華鏡」は中見出し]  小山から見下したジロ楽園は、狂人の油絵であった。あらゆる形状、あらゆる色彩がぶちまけられ、それが目まぐるしく活動していた。べら棒に巨大な万華鏡を絶え間なくグルグル廻している様な、恐ろしくも美しい光景であった。  軽気球が二つ、奇妙なお日様とお月様の様に、場内の東西の空に懸《かか》って、そこから、五色のテープが美しい雨と降り注いでいた。  花火の筒は絶間《たえま》もなく音を立てて、尺余の紙玉が中空に炸裂し、五色に染めた紙の雪が、さんさんと降りしきっていた。  その中に、赤ペンキで塗られた巨大な観覧車が、大人《だいにん》国の風車《かざぐるま》の様に、グルグル廻り、浅草の十二階めいた摩天閣からは、場内の四方に万国旗が張りめぐらされ、その窓々には、真赤な旗が、首を出して、ユラリユラリと、火焔《かえん》の様に燃えていた。  パノラマの丸屋根は、赤と青との原色で、子供のおもちゃみたいに塗りつぶされ、木立の彼方にチラチラ見える、巨大な紫色のものは、例のコンクリート造りの大鯨であった。  地底では、水族館の魚共と地獄極楽の生人形が、又夫々の痴態で踊り狂っているのだ。  そして、それらの目まぐるしき形と色の外に、花火の音を太鼓にして、ジロ楽園全体をゆるがす様な音楽が、耳も聾《ろう》せんばかりに鳴り響いていた。  彼方の丘の麓、森の蔭、此方《こなた》の建物の窓、池のほとり、或は数人、十数人、毒茸《どくたけ》の群がり生えた様に、赤、黄、青、色とりどりの楽隊さんが、ジンタジンタと、その音も懐しき廃頽《はいたい》の曲を、空にも響けと合奏しているのだ。  南京玉の道化衣裳を着た三人の客は、丘の上から遙かの地上へとうねっている線路の上を、舟の様な辷り台に乗って、ウォーター・シュートの速力で、アレヨアレヨと辷り始めた。  空中の舟は、降りしきる五色の雪の中を、鳴り響く楽の音《ね》に乗って、横転、逆転、木の葉返し、息も止まるばかり、走り、辷り、とんぼ返りを打って、突進した。金と銀との南京玉の衣裳が、それから婦人客の髪の毛が、一直線にうしろになびいた。 「苦しいッ、助けてエ」  悲鳴は風に吹き飛ばされて、舟は数瞬にして、線路の終点に達した。そして、バッタリ停止すると、客達は、はずみを食って、下なる砂地へ投げ出される。金銀の三つの鞠《まり》が砂まみれだ。 「これはよくこそお出で下さいました。お待ち申していましたよ」  ヒョイト気がつくと、三人の客を一人一人抱き起して砂を払ってくれているのは、園主喜多川治良右衛門であった。 「ごらん下さい。これがジロ楽園の射的場です。今にお客様が揃いましたら、皆さんに、このキルク玉を撃って頂きます。的は向うの丘の上の人形達ですよ」  そこには、車のついた大きな、併し旧式な大砲が一門、五色に塗りつぶして、カムフラージュをして、ドッカリと据えてあった。  大砲の側には、例のお団子のキルク玉の山だ。そして、向うの丘には、白い空を背景にして、十体ばかりの道化人形が、ヒョコンヒョコンと立並《たちなら》んでいる。 「ホホウ、これは御趣向ですね。このフットボールの化物みたいなキルク玉で、あの案山子《かかし》人形を撃ち倒すという訳ですね。そこで、御褒美は一体何です。浅草公園の射的場では、バットと朝日と敷島を呉れる様ですが」  年長紳士がおどけた顔で尋ねた。 「御褒美? ハハハ、あなたは仲々|抜目《ぬけめ》がありませんね。あります、すばらしいご褒美が。実にすばらしいご褒美が」  治良右衛門は、妙なことに、お巡りさんの制服を一着に及んで、八文字《はちもんじ》の立派なつけ鬚《ひげ》をつけていた。それが、やさしい接待係りの声で客に物を云っているのが、一種気違めいた感じを与えるのだ。  間もなく第二、第三の空中船が、次々とウォーター・シュートを辷り落て、砂まみれのお客さまが、十人、二十人と集まって来た。  彼等は皆道化服と着換えさせられていたが、それが三人、五人一組ずつ、夫々違った色と形をしているのだ。  あるものは、五色の紙で出来た、おもちゃの鎧《よろい》を、あるものは、全身すき通って見える薄い薄い紗《しゃ》の衣《ころも》を、あるものは、ハワイ土人の棕櫚《しゅろ》の腰巻きばかりを、あるものはグット意気なモダーン水着を、その他種々雑多の、安っぽい、けばけばしい、併し無邪気な仮装に包まれていた。  そのむき出しのお乳と、すき通るお尻の、半裸体の男女の中に、たった一人丈け、異端者の様に、不気味な扮装の男が混っていた。彼はうす汚れた手拭で鼻の先に頬冠《ほおかむ》りをして、細《こまか》い碁盤縞《ごばんじま》の日本キモノに三尺帯、そのお尻をはしょって、ふところには、九寸五分が覗いていようという趣向である。 「ヤア木島さん、考えましたね。刑事巡査が泥棒に変装なさるとは、ずば抜けていますね」  巡査の制服を着た治良右衛門が、帯剣をガチャガチャ云わせながら、木島刑事の肩を叩いた。知らぬものが見たら、本当のお巡りさんが、本当の泥棒を捕えている光景であった。 「ハハハハハハ、お気に召《めし》ましたか。カーニバル祭にふさわしい様にと、これでも智恵を絞ったのです。……併し、喜多川さん、あなたの扮装も、仲々思い切っているではありませんか。僕のお株をとってしまいましたね」 「サア、お逃げなさい。僕追っかけますから。捕《と》り物《もの》ごっこをしましょう。ハハハハハハ」  お巡りさんの治良右衛門が冗談を云った。  広場では十数人の招待客が、キルク玉の大砲を取囲んで、物珍しげに眺めていた。 「どなたか、射的をなさる方はありませんか、このキルク玉で、向うの道化人形を撃倒《うちたお》した方には、すばらしいご褒美が出るんですよ」  お巡りさんの治良右衛門が、愛想笑いをしながら、勧めた。 「僕に撃たせて下さい。僕は東京の浅草公園では、射的場のお嬢さんが、顔をしかめる程の名射撃手なんです」  一人の紳士が進み出て、大砲のうしろに廻った。 「弾丸《たま》はちゃんとこめてあります。どうか、狙いを定めて、その綱を引いて下さい」  紳士は射的場の空気銃と同じ様に、大砲の砲身に眼を当てて、向うの丘の右の端の人形に狙いを定め、発射の綱を引くと同時に、ドカンと尻餅をついた。発射の反動で、大砲がグイとうしろへ動いたからだ。  大砲の口を飛び出したフットボールのキルク玉は、目に見える早さで、ヨロヨロと飛んで行った。そして、右端《みぎはし》の人形の胸の辺《あたり》に、コツンとぶつかった。  人形は、玉が当ると、二本の足を空《そら》ざまにして、ひっくりかえって、丘の向うへ見えなくなったが、それと同時に、人形の立っていたあたりから、突然、何百という五色のゴム風船が、まるで今撃ち殺された人形の魂ででもある様に、パッと大空に群がり昇った。そして、大砲の命中を祝福する花火がドカンとうち上げられ、バリバリと雲間に音がして、五色の雪が、一際《ひときわ》烈しく降りしきった。 [#3字下げ]地獄谷[#「地獄谷」は中見出し]  道化人形が倒れ、鬼人形が倒れ、女幽霊の人形が倒れ、三つ目小僧が倒れ、次々と人形共は、大砲のキルク玉に打倒《うちたお》されて、丘の蔭に姿を消して行った。  その度毎に、ドカーンと昼の花火が打上げられ、五色の雪が空を覆って降りしきり、ジンタジンタの楽の音が響き渡った。 「サア、今度は私が人形の代りを勤めます。誰か打って下さい。このお巡りさんを打って下さい」  警官の扮装をした喜多川治良右衛門は、大砲に弾をこめて置いて、丘の上に駈け上り、人形の様にシャチコばった。 「ヨーシ、僕が撃ってやろう。大丈夫かね」  緋縅《ひおどし》の鎧うつくしき青年紳士が、向うのテント酒場で引かけたシャンパンに顔赤らめて、景気よく怒鳴った。 「僕達は、鉄砲玉のキャッチボールをしようというのです。サア、投球して下さい。狙いを定めて」  治良右衛門が、大声に怒鳴り返した。  鎧の紳士は、それでも丹念に狙いを定めて、ドカンと、大砲の紐を引いた。キルク玉がヒョロヒョロと飛び出して、丘の上へ泳いで行った。 「ストライク!」  お巡りの治良右衛門は、小腰をかがめて、胸の前でキルク玉を受けとめるなり、朗《ほがら》かに叫んだ。  パチパチパチと拍手が起った。ドカーン、パリパリと花火が割れて、五色の雪が飛び散った。 「サア、今度は、ここにいる皆さんが捕手になって下さい。人形の代りに、あの丘の上に並んで下さい。僕が投手を勤める番です」  丘を駈けおりてまた治良右衛門が命令した。  その頃場内は已にカーニバルの酒気に満ちていた。諸所に設けられたテント酒場からは、ポンポンとシャンパンの音が聞え、真赤な顔の紳士淑女が、刻々にふえて行った。  大砲のまわりに集っている十人ばかりの男女も、大半は酔っぱらいであった。お酒は飲まずとも、花火と音楽とが充分人を酔わせる力を持っていた。 「ナニ、僕達が人形の代りになって、的の役を勤めるんですって。ハハハハハハ、こいつは面白い。諸君、サア丘の上へ進軍だ」  鎧の紳士が怪しげな呂律《ろれつ》で、一同を誘いながら、ヨロヨロと先に立った。  道化服の老人も、薄物一枚で裸体同然の奥さんも、水着姿の娘さんも、赤マントの闘牛士も、勇敢にそのあとに続いた。躊躇している人達は、ジンタ音楽と治良右衛門とが、うしろから追立てる様にして、丘の上へ進ませた。  人間|的《まと》が十人、大砲の筒口の真正面に、ズラリと立並んだ。いやにフラフラする的ではあったけれど。  砲手はお巡りさんの治良右衛門だ。 「サア、撃ちますよ。右の端の奥さんから」 「エエ、いいことよ。あたし、うけてみせてよ」  美しい酔っぱらい奥さんが、薄物にすき通る股を拡げて、ミットのない両手を、紅葉《もみじ》の様に拡げて、勇ましく、艶《なまめ》かしく答えた。  すると、突然、パチンと可愛らしい音がしたかと思うと、的の薄物夫人が、二本の白い足を空ざまに、ガクンとひっくり返って、丘の向《むこう》へ消えてしまった。 「オーイ、今のは空砲かア? 玉が見えなかったぞオ」  お次に並んだ鎧の紳士が、廻らぬ呂律で叫んだ。 「空砲じゃないよ。玉が早くて見えなかったのだよオ」  治良右衛門が答えたと同時に、又、パチンと可愛い音がして、鎧の紳士がガクンとひっくり返った。  それから、水着の娘さんが、道化服の老人が、赤マントの闘牛士が、まるで機関銃にでもうたれる様に、パタリパタリと、足を空に向けては、丘の向側に消えて行った。そして瞬《またた》く間《ま》に十人の的が、地平線から一掃《いっそう》されてしまった。  砲手がいつの間に玉をこめたのか、玉がいつの間に筒口を飛び出したのか、目にも止まらぬ早業《はやわざ》であった。  ゴム風船は絶間なく飛び上り、花火は続けざまにうち上げられ、降りしきる五色の雪と、昇る五色のゴム風船とが、空中に入り乱れて戦った。 「ワハハハハハハ、愉快愉快!」  治良右衛門は、子供の様に躍り上って喜びながら、大砲の側《そば》を離れて、彼方の群集の方へ走り去った。走り去る彼の右手に、何かしらキラキラ光るものが、銀色の虹の様に輝いていた。      ×     ×     ×     ×     ×  誰もいなくなった大砲の側に、妙な顔をして突立っている一人の男があった。不気味な泥棒の扮装をした木島刑事だ。 「まるで気違いだ。友達が幾人も殺されて、その血の匂《におい》もうせぬのに、この馬鹿騒ぎは、正気の沙汰《さた》じゃない」  刑事には、楽園の人々の気持がまるで分らなかった。全然別世界の人類としか思われぬのだ。 「鉄砲玉の的になる奴も奴じゃないか。いい年をして、オドケ人形の真似をして、コロリコロリと、転がって見せるなんて。……だが、奴《やっこ》さん達、丘のうしろで何をしているんだろう。一人も這い上って来ないのは変だな。まさかみんなが酔っぱらって、そのまま寝込んでしまった訳でもあるまいに」  彼は何となく気になるものだから、ノコノコ丘を上《あが》って、その頂上から反対の側を覗いて見た。 「オヤオヤ、まるでおもちゃ箱をひっくり返した様だぞ」  思わず独言《ひとりごと》を云った。  丘の向うの低い崕《がけ》の下には、十体の人形と、十人の仮装男女が、全くおもちゃ箱でもひっくり返した様に、乱雑に、五色の色で転がっていた。  馬鹿に美しかった。本当の人間と、人間そのままの人形とが、あらわな手や足を重ね合って、大根の様に転がっている景色が、非常に綺麗《きれい》に見えた。  十八娘の乳房や、四十女のふてぶてしいお尻などが、すき通る薄絹を通して、あられもない格好で、じっと動かないでいた。  緋縅の鎧武者が五月人形の様に倒れている上には、道化師のとんがり帽子と、真青な顔とが、グッタリとのびていた。 「どうして、こんなに美しいのだろう」  一瞬間その理由がハッキリ分らなくて、刑事は戸迷《とまど》いをした様に目をパチクリやった。  だが、この不可解な美しさの原因はすぐに分った。十人の人間も、十体の人形も、一様にあざやかな血潮に彩られていたからだ。人形から血が出る筈はないけれど、十人の人間が、一人残らず、胸から腹から、血を流して、それが、白い肉を、黄色い肉を、奇妙な衣裳を、人形の肌を、美しくも染めなしていたからだ。  夢の様に美しくて、夢の様に本当らしくなかった。刑事は我と我目を疑って、態々|崕下《がけした》へおりて行き、生々しい血潮に触って見た。ベットリ指についた赤いネバネバしたものを見ても、まだ本当に思えない位であった。  どれもこれも、決してキルク玉にうたれた打撲傷ではない。小さなピストルかなんかの弾丸が、体内深く喰い入っている跡がある。道理で大砲の玉が見えなかった筈だ。走り去る治良右衛門の手に銀色のものが光っていた筈だ。  彼は驚きの叫び声を発する機会を失ってボンヤリ突立っていた。 「まてよ。するてエと、この殺人事件の犯人は、園主喜多川治良右衛門だが、あの男が最初から、仲間を殺していたのかしら。そして、今日のお祭り騒ぎに、最後の大虐殺が行われると予告したのも、奴の仕業であったのかしら。おかしいぞ、おかしいぞ」  だが、考えている内に、この考えが段々本当らしく思われて来た。 「治良右衛門なれば、この楽園の創立者なのだから、どんなカラクリを用意することも出来ようし、殺人の為《ため》のお祭り騒ぎを計画することだって自由自在だ。フフンなる程ね。これでこの事件の不可解な謎がすっかり解け相だぞ。あいつだ。あいつだ。俺は何という道化役を勤めていたことだろう」  木島氏はまだ悪夢から醒め切ってはいなかったけれど、犯人治良右衛門を捕えなければならぬという、職業上の責任感に追い立てられないではいられなかった。  彼は飛び上って、走り出した。丘を迂廻《うかい》して、さい前《ぜん》治良右衛門の駈け去った方角へと、真青になって走り出した。 [#3字下げ]恐ろしきランニング[#「恐ろしきランニング」は中見出し]  その時園内の別の広場では、来賓《らいひん》達の奇妙な徒歩競走が行われていた。  これも亦《また》都合十人、紅白ダンダラ染めのユニフォームを着せられ、胸には1から10[#「10」は縦中横]までの番号札をつけた紳士淑女が、向うの森の決勝点めがけて、オチニ、オチニ、息を切らして走っていた。  長距離だ。一千メートル。彼等は已《すで》に九百メートルを走った。  無論彼等も酔っぱらっていた。それ故《ゆえ》苦しかった。  鼻眼鏡の紳士は、鼻眼鏡が落ちそうになるのを片手で押えながら、真赤な顔をして、ホウホウかけ声をして威勢よく先頭を切っていた。その次には断髪のマダムが、美しい顔を歪め、断髪をうしろになびかせ、三十歳のお乳とお尻をダブダブさせながら、第二位を走っていた。それから、痩せっぽちの肺病やみの青年が、それから、李《すもも》の様に赤くて丸くてすべっこい顔のお嬢さんが、それから、それからと、九人のユニフォームが一二間おきに続いて、ドン尻には、樽《たる》の様な肥満紳士が、横に転がった方が早いくせに、転がりもしないで、エッチラオッチラ走っていた。感心に一人の落伍者《らくごしゃ》もなかった。  彼等の足並に合せて、コースの三ヶ所で、「宮さん宮さん」のジンタ楽隊が、陽気に鳴り響いていた。空からはひっきりなしに花火玉が炸裂して、五色の雪が、美しい昆虫の大群の様に舞い降りて来た。ランナア達はその五色の雪を身にあびて、それを蹴立《けた》てて、瘋癲《ふうてん》病院の運動会の様に、走りに走った。  ゴールには、二本の柱の間に、白いテープが一文字《いちもんじ》に張られ、その一方の柱の側《そば》に、警官姿の治良右衛門が、第一着を報じる為にピストルを構えながら立ちはだかっていた。 「ホーイ、ホーイ、七番しっかり、九番しっかり」  治良右衛門は足踏みをしながら、声援した。  先頭の鼻眼鏡が遂にゴールに迫った。彼の両足は疲労の為にガクンガクンと今にも膝をつき相に見えた。 「ウォーッ!」  彼は獣物《けだもの》の様に咆哮《ほうこう》して、白いテープに向って突進した。  ギラギラと光る、幅の広いテープは、一本の棒の様に伸び切って、先着者を待ち構えていた。  一間が一尺となり、一尺が一寸となり、鼻眼鏡のつき出した腹部が、テープにつき当った。普通なれば、テープは選手の身体と共に伸びて、曲って、プッツリ切断される筈であった。そして、ドンと号砲がうち上げられる筈であった。  ところが、この奇妙なテープは、鼻眼鏡の腹に押されても、伸びも曲りも切断されもしなかった。それどころか、実に恐ろしいことには、切断されたのは、勢《いきおい》込んで走って来た鼻眼鏡の腹の方であった。  選手がテープにぶつかると同時に、彼の腹部からしぶき[#「しぶき」に傍点]の様なものが、サッとほとばしって、赤い液体がテープの面《おもて》をツーッと走った。  それから、丁度打上げられた花火の音と一緒に、「ギャッ」という声がして、鼻眼鏡の両手が、変な格好で空中に乱舞した。同時に彼の腰から下は、地上に倒れて、二三度コロコロと転がった。という意味は、彼の両手のついている腹から上の部分と、足の方とが、別々に行動した。つまり、鼻眼鏡の選手は、二つに切断された訳である。  すばらしい切れ味だ。  テープと見えたのは、それ丈けの長さに鍛《きた》えさせた鋼鉄の剣《つるぎ》であった。それに白い塗料を塗って、遠目に布のテープと見せかけてあったのだ。  長い剣の刄は、選手達の方角に向けて、とぎすましてあった。触った丈けでも切れるのだ。それに、一千メートルの勢をつけて、ぶッかったのだから、骨もろとも、真二つにチョン切られたとて不思議でない。  一直線の剣は、一人を屠《ほふ》って、血を啜《すす》って、快感にブルンブルンと震えていた。  第二着は、断髪マダムの成熟し切った白い肉塊。  彼女は、第一着の選手に起った変化を理解する暇がなかった。お酒に酔っていたし、疲労の為に眼もくらんでいた。  剃刀《かみそり》の様なテープが、ビーンと鳴った。  アッと云う間に、マダムの胴体は、お尻から下をあとに残して、空中にもんどり打っていた。  真赤な血が、美しくほとばしって、「ハーッ」という、溜息の様な声が聞えた。  残る八人のランナアは、次から次とこの恐ろしきテープに引かかった。命を失ったもの三人、傷つき倒れたもの五人、無傷で逃げ出したのはたった二人であった。それ程彼等は酔っぱらって、目がくらんでいた。場内の狂気めいた空気に作用されていた。  ゴールには、全くチョン切られた二人と、半ちぎれの六人とが、重なり合って、倒れ、転がり、もがき、踊っていた。  すると、云い合せた様に、三ヶ所のジンタ楽隊の曲目が「宮さん宮さん」から「猫じゃ猫じゃ」に変って行った。  半ちぎれの肉塊共の猫踊り、化猫《ばけねこ》踊り。  事実彼等は、胸から腹から、沸々《ふつふつ》と血を吹き出しながら、その音楽に調子を合せて、ピョコンピョコンと、苦しまぎれの化猫踊りを踊ったのである。  五色の雪の吹雪の中で、白いのや黒いのや、筋ばったのやポチャポチャしたのや、男女様々の肉塊共が、タラタラと血を流しながら、断末魔の手拍子、足拍子面白く、美しくも物凄き気違い踊りを踊り抜いたのである。 [#3字下げ]メリー・ゴー・ラウンド[#「メリー・ゴー・ラウンド」は中見出し] 「なる程、こういう次第でしたか」  泥棒姿の木島刑事が、喜多川治良右衛門の肩をポンと叩いて云った。  ちぎれたマラソン選手達の化猫踊りも、だんだん勢がなくなって、いつしか動かなくなっていた。池なす血潮に、ヒラヒラと降る紙の雪が、落ては濡れていた。 「アア、木島さんでしたか」  巡査の制服を着た治良右衛門が、静かに振向いて、ニヤニヤ笑った。 「そのピストルには実弾がこめてあるのですか」  流石に刑事は、身構えをして、固くなって尋ねた。 「こめてあるかも知れません。併し、ご安心なさい。お上《かみ》の方々に手向いは致しませんよ」 「フン、手向いしようたって、させるものか。神妙《しんみょう》にしろ」  刑事は弁慶縞《べんけいじま》のふところから捕繩《ほじょう》を出した。 「イヤ、待って下さい。僕はまだ仕事が終っていないのです。それに、少しお話したいこともありますから。……………………決して逃げ隠れはしません」  木島氏はそれでも繩をかけようとは云えなかった。そんなことをすれば、相手に笑われ相な気がしたのだ。何だか恥かしかったのだ。それ程も、楽園の光景は気違いめいていたし、犯人治良右衛門は落つきはらっていたのだ。 「僕は人殺しをする為に、この楽園を作ったのですよ。刑事さん。そして、最初の間は一人ずつ、今日は一まとめにという訳です。人殺しというものが、どんなに美しい遊戯であるか、あなたにもお分りでしたろう。これは僕等の先祖のネロが考え出した世にもすばらしいページェントなのですよ」 「話したいことと云うのは何だ」  刑事が青ざめた顔で怒鳴った。 「外でもありません。この間から僕が仲間の人達を、一人一人殺して行った方法です。あなたはその秘密がお分りですか」 「そんなことはどうだっていい。君が下手人に極り切っているのだから」 「ハハハハハハ、お分りにならないと見えますね。では種明かしをしましょうか」 「あとでゆっくり聞こうよ。今はそんなこと云っている場合じゃないからね」  刑事はせいぜい意地悪な調子を出すのに骨折らねばならなかった。 「イヤ、今お話して置かないと、具合の悪い事情があるのです。マア聞いて下さい。あなたになら一口で分るのです。手品の種というのはあの観覧車なのですよ」  治良右衛門は空にかかっている観覧車の箱を指さした。 「僕があの高い空の箱の中を寝台にしていたことです。あすこにいればアリバイもなり立ちますし、同時に、園内はすっかり見通しですから、あの箱の窓から鉄砲の狙いを定めて、どこにいる人でも撃ち殺すことが出来たのです」  それを聞くと刑事が不審相な顔をした。いまいましいけれど眉をしかめないではいられなかった。 「ハハハハハハハ、あなたはまだお分りにならないと見えますね。迷路の中で殺された女達は、短剣で刺されていたではないか、とおっしゃるのでしょう。短剣がどうして鉄砲で撃てるのだ、とおっしゃるのでしょう。……ところが、撃てるのですよ。僕はあの短剣を、鉄砲に仕込んで発射したのですよ。なんとうまい考えではありませんか。それは短剣の形をよく見て下されば、成程と肯《うなず》けますよ。あれには鍔《つば》がなく、柄から刄先まで同じ太さで、その上《うえ》柄の部分には、銃身の螺旋《らせん》としっくり合うネジネジが彫刻してあったのですからね。ハハハハハ、短刀を発射するなんて、実にすばらしい思いつきじゃありませんか」  園内は大げさに云えば一間先も見分けられぬ程、五色の雪が降りしきっていた。来客達は例外なくグデングデンに酔っぱらっていた。花火の音とジンタ楽隊の響《ひびき》が、あらゆる物音、叫び声をうち消してくれた。それ故、この不思議な殺人狂と刑事とは、誰に怪しまれる事もなく、変てこな会話を続けることが出来たのだ。  だが、それには際限があった。丁度そこまで話した時、雪の中を一人の酔っぱらいが、千鳥足でやって来た。そして、地上にころがっている、夥《おびただ》しい死骸につまずいた。 「ワアアアア、これはどうだ。なんてすばらしい生人形だろう。オヤ、そこにいるのは喜多川さんだね。イヤ、ご趣向恐れ入りました。ジロ楽園バンザアイ……」  彼は両手を上げて、殺人鬼を祝福した。  それをきっかけに、木島刑事は我に返った。そして、普通の刑事の様に、素早い動作で犯人に飛びかかって行った。治良右衛門の手からピストルが叩き落された。捕繩が蛇の様に纒いついて来た。 「オット、まだ早い。まだ早い。僕はまだ仕事が残っていると云ったじゃありませんか」  治良右衛門は捕繩をはねのけて、刑事をつきとばすと、吹雪の中を、一目散に逃げ出した。帯剣をガチャガチャ云わせながら。  泥棒姿の刑事は、云うまでもなく追っかけた。  二人は園内を彼方此方《かなたこなた》へと、つむじ風の様に走った。  逃げる治良右衛門の目の前に、グルグル廻るメリー・ゴー・ラウンドがあった。誰も乗っている者はなく、ただ十数匹の木馬丈けが、ガクンガクン首をふりながら、グルグル、グルグル廻っていた。  彼はいきなりその廻り舞台に飛び乗った。木島刑事も飛び乗った。  そして、二人とも木馬の廻る方向へ、木馬の三倍の早さで、グルグル、グルグル走り出した。奇妙な鬼ごっこ。  制服のお巡りさんを泥棒が追っかけている。それが丸い台の上をグルグル廻っているものだから、お巡りさんが追っかけられているのだか、泥棒が追っかけられているのだか分らなくなる。風体《ふうてい》で判断すると、泥棒の木島刑事が逃げ手で、警官姿の治良右衛門が追手《おって》としか見えぬのだ。 「さっきの話の続きですがね」  目の廻る様に走りながら、治良右衛門が大声で追手に話しかけた。 「迷路の殺人はまあそう云った訳なのですが、では、最初人見折枝が迷路の中で出逢った小柄の男は一体誰か、とお尋ねなさるでしょう」  刑事は、そんなこと聞きやしないよと、だんまりで、息を切らしながら、一生懸命に追っ駈《かけ》ている。どうも少からず馬鹿にされている形だ。 「あれは三谷二郎少年だったのですよ。あの子供が迷路の中に遊んでいて、ちま子の死骸を一番早く発見したのです。そして疑われることを恐れて、逃げ隠れなんかしたんです。僕はそれを観覧車の上から、ちゃんと見ていたのですよ」  怒鳴りながら、治良右衛門は、ヒョイト一匹の木馬に飛びまたがった。ハイシイドウドウ、手綱をとりながら、彼は又叫ぶ。 「それから第二回目の殺人で、二郎少年は、こうして木馬にのっている所を、今度は普通の弾丸《たま》で撃ち殺されました。無論観覧車の上からです。同時に、僕は風船の繩梯子を弾丸で撃ち切り、折枝を墜落させました。僕は射撃の名人だけれど、まさか初めから繩梯子を狙った訳じゃない。あれはまぐれ当りですよ。オットどっこい。危《あぶな》い危い」  云いながら、治良右衛門は、追い縋《すが》った刑事の手をよけて、ヒョイと木馬を飛び降り、又グルグルと走り出した。  やっとその時、場内に張り込んでいた制服巡査が十数人、騒ぎを悟って駈つけて来た。 「あいつを捉まえるんだ。早く、早く」  泥棒姿の木島刑事が、走りながら、喜ばしげに叫んだ。 「なんだって、あの制服巡査を捉まえるんだって?」変装を知らぬ本物の警官達は、面喰ってしまった。彼等は木島氏の顔を見分ける余裕がなかったのだ。 「オイ、君達、その手に乗っちゃいかんよ。あいつが犯人だ。風体を見ても分るじゃないか」  治良右衛門が機先《きせん》を制《せい》して怒鳴った。  なる程|尤《もっと》もだ。犯人はあの和服の奴に違いない。それが証拠に、あいつこそ追っかけられているではないか。と思って見れば、そんな風にも見えるのだ。  警官達はドヤドヤと廻り舞台へよじ昇って、和服の方を、即《すなわ》ち木島刑事を追っかけ始めた。  奇々怪々の捕物が始まった。  花火はドカーン、ドカーンと打ち上げられていた。その度毎に、降りしきる五色の雪は益々密度をまして、空を、地上を覆いかくした。その中を無数のゴム風船が、ツーイ、ツーイと空へ昇って行った。  楽隊は滅茶苦茶《めちゃくちゃ》のジャズ音楽を吹き、叩いていた。酔っぱらいの来客達は、或は歌い、或は歓声を上げて、場内を飛び廻っていた。  木馬館の活劇は、その中《うち》で、誰にも気づかれることなく、続いていた。  泥棒姿の木島刑事が、廻る木馬台の上で、とうとう捉まった。十数人の巡査達がその上へ折重なって行った。 「馬鹿ッ、どじッ、とんまッ」  警官の山の下から、木島氏の激怒する声が聞えた。 「俺は木島だ。俺の顔を知らんのかッ。犯人はあいつだ。巡査にばけている喜多川治良右衛門だ」  やっと事の仔細《しさい》が分って、警官達が立直った時には、併し、当の治良右衛門は、とっくに木馬館を離れて、彼方の丘の上を走っていた。 「ソレッ、逃がすなッ」  一同、廻り舞台を飛び降りて、中には転がるものもあって、又しても追跡が始まった。今度は追手が多勢だ。いくら治良右衛門が手品師でも、もう逃れっこはないだろう。 [#3字下げ]悪魔の昇天[#「悪魔の昇天」は中見出し]  逃げ、逃げて、治良右衛門は、場内一隅の小高き丘の上、大軽気球の繋留所へとかけ上り、繋留|柱《ばしら》の前にスックと立った。 「諸君、待ち給え。僕は仕残《しのこ》した仕事を、ここで完成するのだ。諸君に見せるものがあるのだ」  十数名の警官隊は、治良右衛門を囲んで、身動きすれば取りひしがんと構えていた。 「ホラ、これを見給え。これは何だ」  治良右衛門が指し示したのは、繋留柱にとりつけてある、一箇の大型のスイッチだ。 「このスイッチが何を意味すると、諸君は思う、このスイッチこそ、ジロ楽園建設の最終目的を暗示するのだ。このスイッチの金属に火花が散る時、アア、ジロ楽園にはどの様な地獄風景が現われることだろう。僕はそれを思うと嬉しさに胸が破れ相だ。諸君にその光景が見て貰い度いのだ。それ故にこそ君達をここまでおびき寄せたのだ」  警官達は何とも知れぬ不安の為に、ジリジリと油汗《あぶらあせ》が湧き出すのを感じた。彼等の目はスイッチに釘着《くぎづ》けになった。「あのスイッチを入れさせては大変だ」という考えが、一同の胸をワクワクさせた。 「イヤ、これじゃない。スイッチそのものを見てくれというのじゃない。諸君はうしろを見るんだ。この丘の上から、ジロ楽園の全景を見渡すのだ。サア、今だ。今こそジロ楽園の最後の時だ」  叫びも終らぬに、スイッチに、パチッと火花が散った。人々は殆ど反射的に、うしろを振返って、楽園の全景を眺めた。  何とも形容し難い地鳴りが起った。大地震の前兆の様な、おどろおどろしき音響が鳴りはためいた。  地震ではない。だが、地震以上の地獄風景が、やがて人々の眼前に展開された。  先ず、浅草十二階を模した摩天閣が、その中程から折れちぎれて、スローモーションで、土煙りを上げながら、くずれ落た。そこに昇っていた仮装の客達が、土煙の中で、空中にもんどり打って、地獄の亡者の様に、大地へと墜落して行くのが、まざまざと眺められた。天地もとどろく大音響と、恐ろしい地響《じひびき》が、相次いで起った。 「次は観覧車だッ」  治良右衛門の叫び声が物凄く聞えた。  忽ち大空の観覧車に異変が起った。大観覧車の車輪が、カランカランとほがらかな音を立てながら、組立ておもちゃの様に、解体して行った。それにブラ下った十幾つの小型電車の様な箱の中には、どれもこれも満員の乗客であった。彼等は箱もろとも、大地に墜落しながら、車室の窓から、手をさし出し、顔一杯の口を開いて、身の毛もよだつ悲鳴を合唱した。  阿鼻《あび》地獄。叫喚《きょうかん》地獄。  パノラマ館の丸屋根は締金《しめがね》がはずれて、円筒形の壁の中へ、スッポリと落込んで行った。  コンクリートの大鯨は、百雷の音と共に、粉々になって四散した。  地底の水族館は氾濫《はんらん》し、地獄極楽のトンネルは山崩れに埋《うず》もれ、池も川も津波となって湧き返った。  如何なる大戦争よりも激しい動乱、物凄い音響が、何十町歩のジロ楽園を揺り動かした。  火薬の煙、土煙、砂煙が、森も林も丘も覆い尽して、空へ空へとなびいて行った。  コンクリートの破片、鉄骨の切《きれ》っぱし、ひきちぎれた柱、人間の首、手、足、その外あらゆる破片が、警官達の頭の上から降って来た。まだ降りしきる五色の雪ともろともに。  警官達は、目はめしい、耳は聾《ろう》し、心はうつろに、よろめきながら、そこに立っているのがやっとだった。犯人を捉えるなどという考えは、どこかへふッ飛んでしまって、治良右衛門の存在をさえ、殆ど意識しなかった。  やがて土煙がしずまると、ジロ楽園は見るも無残な一面の廃墟であった。墓場の静寂、死の沈黙。見渡す限り動くものはなにもなかった。 「みなごろしだ。あの何百人という客達が、みなごろしになったのだ」  警官の一人が放心した声で云った。  ジンタ楽隊の音楽も酔っぱらいの歓声も、哀れや一瞬にして幽冥界へと消えて行った。  最早や花火を打上げる者もなく、従って美しい五色の雪も降りやんだ。 「だが、たった一人、殺されなかった者があるのですよ」  ふと気がつくと、大虐殺者治良右衛門が、ニコニコ笑って立っていた。  警官達の憎悪が爆発した。彼等は十何匹の蝗《いなご》になって、物をも云わず、大悪魔に飛びついて行った。 「オットどっこい」  治良右衛門は、危《あやう》く身をかわして、そこに下っている軽気球の繩梯子に飛びついた。そして、素早く上へ駈上りながら、 「殺されなかったのはね、僕の女房の鮎子ですよ。木下鮎子ですよ。あいつだけはどうも殺す気がしなかったのですよ。ごらんなさい。僕の女房がご挨拶していますよ」  見上げると、軽気球のゴンドラから、美しい鮎子の顔が、五色のテープを投げながら、警官達に笑いかけていた。 「ウヌ、逃がすものかッ」 「畜生めッ」 「馬鹿ッ! ご用だッ」  警官達は、狂気の様に、繩梯子を這い上った。先頭には治良右衛門、少し離れて木島刑事、それから制服巡査の十幾人が、空へ一列の鈴なりだ。  治良右衛門は、もう足の下の追手達をからかいもせず、黙々として、空の梯子を駈昇って行った。猿の様に早かった。  やがて十数丈の繩梯子も尽き、ゴンドラの中から鮎子の白い手が、治良右衛門を引き上げた。彼が籠《かご》の中へ飛び込んだ時には、併し木島刑事の手首が、ゴンドラの縁にかかっていた。 「早く、早く、繩を」  治良右衛門の命令に、兼《か》ねて手筈が極めてあったのか、鮎子の手に白刄《はくじん》がひらめいて、空中梯子の二本の繩が、プッツリ切断された。  木島氏の片手には、彼につづく十幾人の警官の重さを支える力がなかった。繩と共に彼の手首もゴンドラを離れた。  空へ垂直に伸びた繩梯子は、珠数《じゅず》つなぎの警官隊をのせたまま、忽《たちま》ち、間をクタクタクタとくずれて行った。警官の雨。  と同時に、綱を切られた軽気球は、ブリブリとお尻をふりながら、大空高く舞い上った。  治良右衛門と鮎子とは、ゴンドラから半身をのり出して、残っていた紙テープを悉《ことごと》く地上に投げおろし、声を合せて万歳を叫びながら、思出深きジロ楽園の廃墟に永別を告げた。  軽気球はどこまでも昇天して行った。幾つも幾つも白い綿雲をつき抜けて、一匹の小さな魚の様になって、房《ふさ》と下った五色のテープがその魚のひれ[#「ひれ」に傍点]の様に見えて、楽しげに、楽しげに、小さく、小さく、そして、いつしかほこりの様に幽《かす》かになって、果てしれぬ青空の底へと消えて行った。 底本:「江戸川乱歩全集 第8巻 目羅博士の不思議な犯罪」光文社文庫、光文社    2004(平成16)年6月20日初版1刷発行 底本の親本:「江戸川乱歩全集 第十一巻」平凡社    1932(昭和7)年4月10日 初出:「江戸川乱歩全集付録冊子 探偵趣味」平凡社    1931(昭和6)年5月10日〜7月10日、9月10日〜1932(昭和7)年1月8日、3月10日    メリー・ゴー・ラウンド以下「江戸川乱歩全集 第十一巻」平凡社    1932(昭和7)年4月10日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「係り」と「係」、「手掛り」と「手掛かり」、「提燈」と「提灯」の混在は、底本通りです。 ※底本巻末の平山雄一氏による註釈は省略しました。 ※本文中の罫囲みには、底本では波罫が用いられています。 入力:金城学院大学 電子書籍制作 校正:入江幹夫 2021年7月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。