人魚の嘆き 谷崎潤一郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)愛親覚羅《あいしんかくら》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)頃|北京《ペキン》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)燾 /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)むかし/\ *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 ------------------------------------------------------- むかし/\、まだ愛親覚羅《あいしんかくら》氏の王朝が、六月の牡丹《ぼたん》のやうに栄え耀《かがや》いて居た時分、支那《しな》の大都の南京《ナンキン》に孟世燾《もうせいちゅう》と云ふ、うら若い貴公子が住んで居ました。此《こ》の貴公子の父なる人は、一と頃|北京《ペキン》の朝廷に仕へて、乾隆《けんりゅう》の帝《みかど》のおん覚えめでたく、人の羨《うらや》むやうな手柄を著《あら》はす代りには、人から擯斥《ひんせき》されるやうな巨万の富をも拵《こしら》へて、一人息子の世燾が幼い折に、此の世を去つてしまひました。すると間もなく、貴公子の母なる人も父の跡を追うたので、取り残された孤児の世燾は、自然と山のやうな金銀財宝を、独り占めにする身の上となつたのです。 年が若くて、金があつて、おまけに由緒ある家門の誉《ほまれ》を受け継いだ彼は、もう其《そ》れだけでも充分仕合はせな人間でした。然《しか》るに仕合はせは其れのみならず、世にも珍しい美貌《びぼう》と才智とが、此の貴公子の顔と心とに恵まれて居たのです。彼の持つて居る夥《おびただ》しい貲財《しざい》や、秀麗な眉目《びもく》や、明敏な頭脳や、其れ等《ら》の特長の一つを取つて比べても、南京中の青年のうちで、彼の仕合はせに匹敵する者は居ませんでした。彼を相手に豪奢《ごうしゃ》な遊びを競ひ合ひ、教坊の美妓《びぎ》を奪ひ合ひ、詩文の優劣を争ふ男は、誰も彼も悉《ことごと》く打ち負かされてしまひました。さうして南京に有りと有らゆる、煙花城中の婦女の願ひは、たとへ一と月半月なりと、あの美しい貴公子を自分の情人にする事でした。 世燾は、斯《こ》う云ふ境遇に身を委ねて、漸《ようや》く総角《あげまき》の除《と》れた頃から、いつとはなしに遊里の酒を飲み初め、其の時分の言葉で云ふ、窃玉偸香《せつぎょくとうこう》の味を覚えて、二十二三の歳までには、凡《およ》そ世の中の放蕩《ほうとう》と云ふ放蕩、贅沢《ぜいたく》と云ふ贅沢の限りを仕尽してしまひました。そのせゐ[#「せゐ」に傍点]か近頃は、頭が何となくぼんやりして、何処《どこ》へ行つても面白くないので、終日|邸《やしき》に籠居《ろうきょ》したまゝ、うつらうつらと無聊《ぶりょう》な月日を送つて居ます。 「どうだい君、此の頃はめつきり元気が衰へたやうだが、ちと町の方へ遊びに出たらいゝぢやないか。まだ君なんぞは、道楽に飽きる年でもないやうだぜ。」 悪友の誰彼《たれかれ》が、斯《こ》う云つて誘ひに来ると、いつも貴公子は慵《ものう》げな瞳を据ゑて、高慢らしくせゝら笑つて答へるのです。 「うん、………己《おれ》だつてまだ道楽に飽きては居ない。しかし遊びに出たところで、何が面白い事があるんだい。己にはもう、有りふれた町の女や酒の味が、すつかり鼻に着いて居るんだ。ほんたうに愉快な事がありさへすれば、己はいつでもお供をするが、………」 貴公子の眼から見ると、年が年中同じやうな色里《いろざと》の女に溺《おぼ》れて、千篇一律の放蕩を謳歌《おうか》して居る悪友どもの生活が、寧《むし》ろ不憫《ふびん》に思はれる事さへありました。若《も》しも女に溺れるならば、普通以上の女でありたい。若し放蕩を謳歌するなら、常に新しい放蕩でありたい。貴公子の心の底には、斯《こ》う云ふ慾望が燃えて居るのに、其の慾望を満足させる恰好《かっこう》な目標が見当らないので、よんどころなく彼は閑散な時を過して居るのでした。 しかし、世燾の財産は無尽蔵でも、彼の寿命は元より限りがありますから、さういつ迄も美しい「うら若さ」を保つ訳には行きません。貴公子も折々|其《そ》れを考へると、急に歓楽が欲しくなつて、ぐづ/\しては居られないやうな気分に襲はれる事があります。何とかして今のうちに、現在自分の持つて居る「うら若さ」の消えやらぬ間《ま》に、もう一遍たるんだ生活を引き搾《しぼ》つて、冷えかゝつた胸の奥に熱湯のやうな感情を沸騰させたい。連夜の宴楽、連日の讌戯《えんぎ》に浸《ひた》りながら、猶《なお》倦《う》むことを知らなかつた二三年前の昂奮《こうふん》した心持ちに、どうかして今一度到達したい。などゝ焦つては見るのですが、別段今日になつて、彼を有頂天にさせるやうな、香辣《こうらつ》な刺戟《しげき》もなければ斬新《ざんしん》な方法もないのです。もはや歓楽の絶頂を極め、痴狂《ちきょう》の数々を経験し尽した彼に取つて、もう其れ以上の変つた遊びが、此の世に存在する筈《はず》はありませんでした。 そこで貴公子は仕方なしに、自分の家の酒庫《さかぐら》にある、珍しい酒を残らず卓上へ持ち来《きた》らせ、又町中の教坊に、四方の国々から寄り集まつた美女の内で、殊更《ことさら》才色のめでたい者を七人ばかり択《えら》び出させ、其れを自分の妾《めかけ》に直して、各々七つの綉房《しゅうぼう》に住まはせました。酒の方では、先《ま》づ第一が甜《あま》くて強い山西《さんせい》の潞安酒《るうあんちゅう》、淡くて柔かい常州の恵泉酒《ふぇいちゅあんちゅう》、其の外|蘇州《そしゅう》の福珍酒《ほちんちゅう》だの、湖州の烏程潯酒《うーじんちんちゅう》だの、北方の葡萄酒《ぶどうしゅ》、馬奶酒《ばないしゅ》、梨酒《りしゅ》、棗酒《そうしゅ》から、南方の椰漿酒《やしょうしゅ》、樹汁酒《じゅじゅうしゅ》、蜜酒《みつしゅ》の類に至るまで、四百余州に名高い佳醴芳醇《かれいほうじゅん》は、朝な夕なの食膳に交《かわ》る交《がわ》る盃《さかずき》へ注《つ》がれて、貴公子の唇を湿《うる》ほしました。しかし此れ等《ら》の酒の味も、以前に度《た》び度び飲み馴《な》れて居る貴公子の舌には、其れ程新奇に感ずる筈がありません。飲めば酔ひ、酔へば愉快になるものゝ、何となく物足りない心地がして、昔のやうに神思|飄颺《ひょうよう》たる感興は、一向胸に湧《わ》いて来ないのです。 「どうして内の御前《ごぜん》さまは、毎日あんなに鬱《ふさ》ぎ込んで、退屈らしい顔つきばかりなすつていらつしやるのだらう。」 七人の妾たちは、互ひに斯《こ》う云つて訝《いぶか》りながら、有らん限りの秘術をつくして、貴公子の御機嫌を取り結びます。紅々と云ふ、第一の妾は声が自慢で、隙《ひま》さへあれば愛玩《あいがん》の胡琴《こきん》を鳴らしつゝ、婉転《えんてん》として玉のやうな喉嚨《こうろう》を弄《もてあそ》び、鶯々《おうおう》と云ふ、第二の妾は秀句が上手で、機に臨み折に触れては面白をかしい話題を捕へ、小禽《ことり》のやうな絳舌蜜嘴《こうぜつみつし》をぺらぺらと囀《さえず》らせる。肌の白いのを得意として居る、第三の妾の窈娘《ようじょう》は、動《やや》ともすると酔に乗じて、神々《こうごう》しい二の腕の膩肉《じにく》を誇り、愛嬌《あいきょう》を売り物にする第四の妾の錦雲《きんうん》は、いつも豊頬《ほうきょう》に腮窩《さいわ》を刻んで、さもにこやかにほゝ笑みながら、柘榴《ざくろ》の如き歯列《はなら》びを示し、第五、第六、七の妾たちも、それ/″\己れの長所を恃《たの》んで、頻《しき》りに主人の寵幸《ちょうこう》を争ふのです。けれども貴公子は、此の女たちの孰《いず》れに対しても、格別強い執着を抱く様子がありません。世間普通の眼から見ると、彼等は絶世の美人に違ひありませんが、驕慢《きょうまん》な貴公子を相手にしては、やはり酒の味と同じやうに、折角の嬌態が今更珍しくも美しくも見えないのです。斯《こ》う云ふ風で、次ぎから次ぎへと絶えず芳烈な刺戟を求め、永劫《えいごう》の歓喜、永劫の恍惚《こうこつ》に、心身を楽しませようと云ふ貴公子の願ひは、なか/\一と通りの酒や女の力を以て、遂げられる訳がないのでした。 「金はいくらでも出してやるから、もつと変つた酒はないか。もつと美しい女は居ないか。」 貴公子の邸へ出入する商人共は、常に斯《こ》う云ふ注文を受けて居ながら、未だ嘗《かつ》て彼の賞讃を博する程の、立派な品を齎《もたら》した者は居ませんでした。中にはまた、物好きな貴公子の噂《うわさ》を聞いて、金が欲しさに諸所方々の国々から、えたい[#「えたい」に傍点]の知れないまやかし物を、はるばると売り附けに来る奸商《かんしょう》があります。 「御前さま、此れは私《わたくし》が西安《せいあん》の老舗《しにせ》の庫《くら》から見つけ出した、千年も前の酒でございます。何でも此れは唐の昔に、張皇后がお嗜《たしな》みになつたと云ふ、有名な䲻脳酒《げんのうしゅ》だと申します。又|此《こ》の方は、同じく唐の順宗皇帝がお好みになつた、竜膏酒《りゅうこうしゅ》ださうでございます。嘘だと思《おぼ》し召すならば、よく酒壺の古色を御覧下さいまし。千年前の封印が、此の通り立派に残つて居《お》ります。」 こんな工合《ぐあい》に持ちかけるのを、人の悪い貴公子は、黙々として聞き終つてから、さて徐《おもむ》ろに皮肉を云ひました。 「いや、お前の能弁には感心するが、己を欺《だま》さうと云ふ了見なら、もう少し物識りになるがいゝ。其の酒壺は江南の南定窯《なんていよう》と云ふ奴で、南宋以前にはなかつた代物だ。唐の名酒が宋の陶器に封じてあるのは滑稽《こっけい》過ぎる。」 斯《こ》う云はれると商人は一言もなく、冷汗を掻《か》いて引き退《さが》つてしまひます。実際、陶器に限らず、衣服でも宝石でも絵画でも刀剣でも、あらゆる美術工芸に関する貴公子の鑒識《かんしき》は、気味の悪いくらゐ該博《がいはく》で、支那中の考古学者と骨董家《こっとうか》とが集まつても、到底彼の足元にすら及ばない事は確かでした。女を売りに来る輩《やから》も、うるさい程多勢あつて、めい/\勝手な手前味噌《てまえみそ》を列《なら》べ立てます。 「御前《ごぜん》さま、今度と云ふ今度こそ、素晴らしい玉が見つかりました。生れは杭州《こうしゅう》の商家の娘で、名前を花麗春と云ふ、十六になる児《こ》でございますが、器量は元より芸が達者で詩が上手で、先《ま》づあれ程の優物《ゆうぶつ》は、四百余州に二人とはございますまい。まあ欺されたと思し召して、本人を御覧になつては如何《いかが》でございませう。」 こんな話を聞かされると、毎々彼等に乗せられて居ながら、つい[#「つい」に傍点]貴公子は心を動かして、一応|其《そ》の児を検分しないと気が済みません。 「それでは会つて見たいから、早速呼んで来るがいゝ。」―――多くの場合、彼は兎《と》も角《かく》も斯《こ》う云ふ返辞を与へるのです。 しかし、人買ひの手につれられて、貴公子の邸へ目見《まみ》えに上る美人連は、余程厚顔な生れつきでない限り、大概|赤耻《あかはじ》を掻《か》かされて、泣く泣く逃げて帰るのが普通でした。なぜと云ふのに、其の人買ひと美人とは、最初に先づ、豪奢《ごうしゃ》を極めた邸内の庁堂へ請《しょう》ぜられ、長い間待たされた後、今度は更に鏡のやうな花斑石《かはんせき》の舗甎《ぶうせん》[#ルビの「ぶうせん」はママ]を蹈《ふ》んで、遠い廊下を幾曲りして、遂に奥殿の内房へ案内されます。見ると其処《そこ》では今や盛大な宴楽が催され、或る者は柱に凭《もた》れて簫笛《しょうてき》を吹き、或る者は囲屏《いへい》に倚《よ》つて琵琶《びわ》を弾じ、多勢の男女が蹣跚《まんさん》と入り交りつゝ、手に手に酒琖《しゅさん》を捧げながら、雲鑼《うんら》を打ち月鼓《げっこ》を鳴らして、放歌乱舞の限りを尽して居るのです。もう其れだけで、好い加減|胆《きも》を奪はれてしまひますが、而《しか》も主人の貴公子は、いつも必ず一段高い睡房《すいぼう》の帳《とばり》の蔭に、錦繍《きんしゅう》の花毬《かたん》の上へ身を横《よこた》へて、さも大儀さうな欠伸《あくび》をしながら、眼前の騒ぎを余所《よそ》にうつらうつらと、銀の煙管《きせる》で阿片《アヘン》を吸うて居りました。 「成る程、四百余州に二人とない美人と云ふのは、此の児の事かな。………」 貴公子はやをら身を起して、睡《ねむ》さうな眼でぢろりぢろりと二人を視詰《みつ》めます。さうかと思ふと、直ぐに鼻先でせゝら笑つて、 「………だがしかし、四百余州と云ふ所は、己の内より余程女が居ないと見える。お前も人買ひを商売にするなら、後学の為めに己の妾《めかけ》を見てやつてくれ。」 斯《か》く云ふ主人の声に応じて、例の七人の寵姫《ちょうき》たちは、さながら馴《な》らされた鳩《はと》のやうに、忽《たちま》ち綉簾《しゅうれん》の隙間《すきま》から、ぞろぞろと其処《そこ》へ姿を現はすのです。思ひ思ひの羅綾《らりょう》を纏《まと》ひ、思ひ思ひの掻頭《そうとう》を翳《かざ》した各々の寵姫の背後には、いづれも双鬟《そうかん》の美少年が、左右に二人づゝ扈従《こしょう》しながら、始終|柄《え》の長い絳紗《こうしゃ》の団扇《うちわ》で、彼等の紅瞼《こうけん》に微風の漣《さざなみ》を送つて居ます。彼等は七人の女王の如く、光り耀《かがや》く驕笑《きょうしょう》を浮べて、貴公子の周囲に彳立《てきりつ》したまゝ、互ひに顔を見合はせて、いつ迄でも黙つて居ます。黙つて居れば黙つて居る程、彼等の美貌《びぼう》は一《ひ》と際《きわ》鮮やかに照り渡り、いかほど慾に眼の晦《くら》んだ人買ひでも、思はず知らず恍惚《こうこつ》とせずには居られません。暫《しばら》く茫然《ぼうぜん》として、讃嘆の瞬《またた》きを続けた後、漸《ようや》く我に復《かえ》つた人買ひは、顧《かえり》みて自分の売り物の哀れさ醜さに心付くと、挨拶《あいさつ》もそこそこに、這《ほ》ふ這ふの体《てい》で邸を逃げ出してしまひます。其の後ろ影を見送りながら、主人の貴公子は張り合ひのない顔つきをして、がつかりしたやうに、再び臥《ね》ころんでしまふのでした。 やがて、其の年の夏が暮れ、秋が老けて、十月朝《じえちょう》の祭も終り、孔夫子《こんふうつう》の聖誕も過ぎてしまひましたが、彼の頭に巣喰《すく》つて居る倦怠《けんたい》と幽鬱《ゆううつ》とは、依然として晴れる機会がありません。「うら若さ」を頼みにして居る貴公子も、いよ/\来年は二十五歳になるかと思へば、房々《ふさふさ》とした鬢髪《びんぱつ》の色つやまでが、だんだん衰へて来るやうに感ぜられます。気分が塞《ふさ》げば塞ぐほど、心が淋《さび》しくなればなるほど、享楽に憧《あこが》れ、昂奮《こうふん》を求める胸中のもどかしさは益〻《ますます》募つて、旨《うま》くもない酒を飲んだり、可愛《かわい》くもない女を嬲《なぶ》つたり、十日も二十日も長夜の宴を押し通して、沸き返るやうな馬鹿《ばか》騒ぎを催したり、いろいろ試して見ますけれど、さつぱり利き目はありませんでした。それで結局は、あの獏《ばく》と云ふ獣のやうに、阿片を吸つて夢を喰《くら》つて、荒唐無稽《こうとうむけい》な妄想の雲に囲繞《いにょう》されつゝ、終日《ひもすがら》ぼんやりと、手足を伸ばして居るより外はなかつたのです。 貴公子の眉《まゆ》の曇りは晴れやらぬまゝに、とうとう其の年が明けて、のどかな迎春の季節となりました。此の時分、大清《だいしん》の王化は洽《あまね》く支那の全土に行き渡り、上《かみ》に英明《えいめい》の天子を戴《いただ》いた十八省の人民は、鼓腹撃壌《こふくげきじょう》の泰平に酔うて、世間が何となく、陽気に浮き立つて居ましたから、正月の南京の町々は近来にない賑《にぎ》やかさです。ちやうど一月の十三日―――所謂《いわゆる》上燈《しゃんてん》の日から十八日の落燈《ろてん》の日まで、六日の間を燈夜《てんやー》と唱へて、毎年戸々の家々では夜な夜な門前に燈籠《とうろう》を点じ、官庁や富豪の邸宅などは、楼上高く縮緬《ちりめん》の幔幕《まんまく》を張り綵燈《さいとう》を掲げて、酒宴を設け糸竹《しちく》を催します。又、市中|目貫《めぬ》きの大通りには、恰《あたか》も日本で大阪の夏の町筋を見るやうに、往来の片側から向う側の軒先へ、木綿の布を掩《おお》ひ渡して燈棚《てんぽん》を造り、其れに紅白取り取りの燈籠《とうろう》をぶら下げます。さうして街上到る所に寄り集《つど》うた若者は、法華《ほっけ》の信者がお会式《えしき》の万燈《まんどう》を担《かつ》ぐやうに、竜燈馬燈|獅子《しし》燈などを打ち振り打ち振り、銅鑼《どら》を鳴らし金鑼《きんら》を叩《たた》いて練り歩くのです。しかし、此のお祭りの最中にも、例の貴公子の顔つきばかりは相変らず沈み勝ちで、少しも冴《さ》え冴《ざ》えとする様子がありません。 上燈《しゃんてん》の晩から二三日過ぎた、或る日の夕方のことでした。貴公子は眺望のいゝ南面の露台に出て、榻《とう》に凭《もた》れながら、いつもの通り銀の煙管《きせる》で阿片をすぱすぱと吸つて居ました。ちやうど其処《そこ》からは、市街の雑沓《ざっとう》が手に取るやうに瞰《み》おろされ、今しも一斉に明りを入れた幾百千の燈籠は、白銀《はくぎん》のやうな夕靄《ゆうもや》の中にぎらぎらと流れて、たそがれの舗面を鱗《うろこ》のやうに光らせて居ます。とある広小路の四つ角には、急|拵《ごしら》への戯台が出来て、旗を掲げ幟《のぼり》を飜《ひるがえ》し、けばけばしい扮装《ふんそう》をした二人の俳優が、奏楽の音《ね》につれながら数番の傚戯《つぉーひー》を演じて居ます。長い間戸外の空気に遠ざかつて、宮殿の奥に蟄居《ちっきょ》して居た貴公子の眼には、ふと、此れ等《ら》の光景が、一種異様な、云はゞ珍しい外国の都に来たやうな、奇妙な感じを起させたのでありませう、―――それとも又、阿片の煙に酔ひしれて、途方もない幻覚を掴《つか》んだのでもありませう、彼はいつの間にか手に持つて居た煙管を置いて、露台の欄杆《らんかん》に頬杖《ほおづえ》をついたまゝ、見るとはなしに巷《ちまた》の騒ぎを視詰めて居るのです。折柄《おりから》其処へ通りかゝつた参々伍々の群集は、いづれもおどけた仮装行列の隊を組んで、恰《あたか》も貴公子の憂愁を慰めるやうに、一《ひ》と際《きわ》高く足拍子を蹈《ふ》み歓呼の声を放ちました。続いて後から、さま/″\な魚鳥の形に擬《なぞら》へた燈籠を翳《かざ》しながら、所謂《いわゆる》行燈《ひんてん》の一団がやつて来ます。 其の時、貴公子の視線は、一つの不思議な人影の上に注がれて、長い間熱心に、其れを追ひかけて居るやうでした。其の男は、頭に天鵞絨《びろうど》の帽子を冠《かむ》り、身に猩々緋《しょうじょうひ》の羅紗《ラシャ》の外套《がいとう》を纏《まと》ひ、足には真黒な皮の靴を穿《は》いて、一匹の驢馬《ろば》に轎《かご》を曳《ひ》かせて来るのです。さうして、折角の靴も帽子も外套も、長途の旅に綻《ほころ》びたものか、ところ/″\穴が明いたり、色が褪《あ》せたりして居ます。彼の前には、数十人の行燈《ひんてん》の人々が、五六|間《けん》もあらうと云ふ大きい眼ざましい竜燈を担ぎながら、数十|梃《ちょう》の蝋燭《ろうそく》を燃やして、えいやえいやと進んで行きますが、此の竜燈の一群と、其の男とは何の関係もないらしく、彼は時々立ち止まつて、さもさも疲労したやうな溜息《ためいき》を洩《も》らしつゝ、往来の喧囂《けんごう》を眺めて居ます。初めのうちは、仮装行列の隊伍に後れた一人のやうに見えましたけれど、だんだん貴公子の邸の傍へ近づくに随《したが》ひ、驢馬や轎車《きょうしゃ》を従へて居る風体《ふうてい》が、どうも其れとは受け取れません。且《かつ》其の男は、啻《ただ》に服装ばかりでなく、皮膚や毛髪や瞳の色まで、全く普通の人間と類を異にして居るのでした。 「………あれは多分、西洋の人種に違ひあるまい。恐らく南洋の島国から漂泊して来た、阿蘭陀《オランダ》人か何かであろう。」 貴公子はさう思ひました。尤《もっと》も、其の頃は南京の町に、折々欧人の姿を見かける時代でしたが、斯《こ》う云ふ祭の最中に、而《しか》も行列の人波に揉《も》まれながら、素晴らしく眼に立つ風俗をして、くたびれた足を引き擦つて、乞食《こじき》の如くさまようて居る其の男の挙動には、どうしても不審を打たずには居られません。さうして猶更《なおさら》不思議な事には、ちやうど露台の真下へ来かゝると、彼は突然歩みを止めて、例のびろうどの帽子を脱いで、恭《うやうや》しく楼上の貴公子に挨拶《あいさつ》をするのです。 見ると、その男は、驢馬《ろば》に曳《ひ》かせた車の方を指さしながら、貴公子に向つて、何か頻《しき》りにしやべつて居ます。 「此の車の轎《かご》の中には、南洋の水底《みなぞこ》に住む、珍しい生物が這入《はい》つて居ます。私はあなたの噂《うわさ》を聞いて、遠い熱帯の浜辺から、人魚を生け捕つて来た者です。」 表の騒ぎが激しい為めに、はつきりとは聞き取れませんが、彼は覚束《おぼつか》ない支那語を操《あやつ》つて、斯《こ》う云ふ意味を語つて居るのでした。 何となく耳|馴《な》れない、をかしな訛《なま》りのある西人の唇から、「人魚」と云ふ言葉を聞いた時、貴公子は自分の胸が、我知らずときめくやうに感じました。彼は勿論、生れてから一遍も人魚と云ふ者を見た事はありません。けれども、今|図《はか》らずも南洋の旅人の口から、「人魚」と云ふ支那語が、一種特有な Umlaut を以て発音されると、其れに一段の神秘な色が籠《こも》つて居るやうに思はれたのです。 「これ、これ、誰か表へ行つて、彼処《あそこ》に立つて居る紅毛の異人を、急いで邸へ呼び入れてくれ。」 貴公子は例になくあわたゞしい口吻《こうふん》で、近侍の姣童《こうどう》に云ひつけました。 程なく、驢馬は貴公子の邸内深く引き込まれ、第一の大門を入り、第二の儀門《にいもん》を潜《くぐ》り、後庭の樹林泉石の門を繞《めぐ》つて、昼を欺く紅燈の光を湛《たた》へた、内庁《ぬいでん》の石階のほとりに据ゑられました。貴公子はいつものやうに、七人の寵姫《ちょうき》を身辺に侍《はべ》らせながら、廊下の端近く倚子《いす》を進めると、其れを見た異人は再び恭《うやうや》しく地に跪《ひざまず》き、支那流の作法に依《よ》つて稽首《けいしゅ》の礼を行うた後、又もあやしい発音で、たどたどしく語り始めるのです。 「私《わたくし》が此の人魚を獲たのは、広東《カントン》の港から幾百海里を隔てゝ居る、蘭領の珊瑚《さんご》島の附近でした。或る日私は、其処《そこ》へ真珠を採りに行つて、思ひがけなく真珠よりももつと貴い、美しい人魚を得たのです。人は真珠を恋することは出来ませんが、いかなる人でも人魚を見たら、彼《か》の女を恋せずには居られません。真珠には冷やかな光沢があるばかりです。しかし人魚は妖麗《ようれい》な姿の内に、熱い涙と暖かい心臓と神秘な智慧《ちえ》とを蔵して居ます。人魚の涙は真珠の色より幾十倍も浄《きよ》らかです。人魚の心臓は珊瑚の玉より幾百倍も赤《あこ》うございます。人魚の智慧は、印度《インド》の魔法使ひよりも不思議な術を心得て居ます。人間の測り知られぬ通力を持ちながら、彼女はたま/\背徳の悪性を具《そな》へて居る為めに、人間よりも卑しい魚類に堕《おと》されました。さうして青い青い海の底を游《およ》ぎながら、常に陸上の楽土《らくど》に憧《あこが》れ、人間の世界を慕《しと》うて、休む暇なく嘆き悶《もだ》えて居るのです。其の証拠には、人は誰でも彼《あ》の美しい人魚の顔に、幽鬱《ゆううつ》な憂《うれい》の影を認める事が出来ませう。………」 斯《こ》う云つた時、異人は不自由な人魚の身の上を憐《あわれ》むが如く、自分も亦《また》うら悲しげな表情を浮べました。 貴公子は人魚を見せられる前に、先《ま》づ其の異人の容貌《ようぼう》に心を動かされたやうでした。彼は今迄、西洋人と云ふものを未開の種族と信じて居たのに、此の、乞食《こじき》のやうな蛮夷《ばんい》の顔を、つく/″\と眺めれば眺める程、其処《そこ》に気高い威力が潜《ひそ》んで居て、何となく自分を圧《お》さへつけるやうに覚えたのです。其の異人の持つて居る緑の瞳は、さながら熱帯の紺碧《こんぺき》の海のやうに、彼の魂を底知れぬ深みへ誘ひ入れます。又、その異人の秀いでた眉《まゆ》と、広い額《ひたい》と、純白な皮膚の色とは、美貌《びぼう》を以て任じて居る貴公子の物よりも、遥かに優雅で、端正で、而《しか》も複雑な暗い明るい情緒の表現に富んで居るのです。 「一体お前は、誰から私の噂《うわさ》を聞いて、はるばる南京へやつて来たのだ。」 異人が物語る人魚の話を、暫《しばら》く恍惚《こうこつ》として聴き入つた後、貴公子は斯《こ》う尋ねました。 「私はつい此の間、媽港《マカオ》の街をさまようて居る際に、或る知り合ひの貿易商から、始めて其れを聞いたのです。若《も》し其の以前に知れて居たなら、恐らくあなたはもつと早く、私の人魚を御覧になる事が出来たでせう。私は此の珍しい売り物を携へて、凡《およ》そ半年ばかりの間、亜細亜《アジア》の国々の港と云ふ港を遍歴しましたが、何処《どこ》の商人も、何処の貴族も、決して此れを購《あがな》はうとはしませんでした。或る者は値段が余り高過ぎると云つて、臀込《しりご》みをします。なぜと云ふのに、人魚の代価は亜拉比亜《アラビア》の金剛石七十箇、交趾支那《コーチシナ》の紅宝石八十箇、其れに安南の孔雀《くじゃく》九十羽と暹羅《シャム》の象牙百本でなければ、取り易《か》へる訳に行かないのです。又或る者は、人魚の恋が恐ろしさに、竦毛《おぞけ》を慄《ふる》つて逃げてしまひます。なぜと云ふのに、昔から人間が人魚に恋をしかけられれば、一人《いちにん》として命を全《まっと》うする者はなく、いつとはなしに怪しい魅力の罠《わな》に陥り、身も魂も吸ひ取られて、何処《どこ》へ行つたか人の知らぬ間に、幽霊の如く此の世から姿を消してしまふのです。ですから、金と命とを惜しがる人は、容易に私の売り物へ手を着ける事が出来ません。私は折角、稀世《きせい》の珍品を手に入れながら、誰にも相手にされないで、長い間徒労な時と徒労な旅とを続けました。若《も》しも媽港の商人から、あなたの噂を聞かなかつたら、もう少うしで私は大事な商品を、持ち腐れにする所でした。其の商人の話に依《よ》ると、私の人魚を買ひ得る人は、南京の貴公子より外にはない。其の人は今、歓楽の為めに巨万の富と若い命とを抛《なげう》たうとして、抛つに足る歓楽のないのを恨《うら》んで居る。其の人はもう、地上の美味と美色とに飽きて、現実を離れた、奇《く》しく怪しい幻の美を求めて居る。其の人こそは必ず人魚を買ふであらうと、彼は私に教へたのです。」 異人は相手が、自分の品物を買ふか買はぬかと云ふ事に就いて、少しも危惧《きぐ》を感じて居ないやうでした。彼は貴公子の心を見抜いて居るやうな、確信のある言葉を以て語つたのです。而《しか》もさう云ふ彼の態度は、相手に何等の反感を与へなかつたのみならず、寧《むし》ろ止《や》み難い焦憬《しょうけい》の念をさへ起させました。貴公子は、彼の説明を聴かされて居るうちに、此の男から必ず人魚を購《あがな》ふべく、命令されて居るやうな気になりました。自分が此の男から人魚を買ふのは、予定の運命であるかのやうに覚えました。 「其の商人の云つた事は真実だ。私はお前が、媽港《マカオ》の人から聞いた通りの人間だ。お前が私を捜したやうに、私もお前を捜して居た。お前が私を信ずるやうに、私もお前を信じて居る。私はお前の売り物を一応検分する迄もなく、お前が先《さっき》云うた代価で、今直ぐ人魚を買ひ取つて上げる。」 貴公子の此の言葉は、彼自身ですらハツキリと意識しない内に、胸の底から込み上げて来て、思はず彼の唇に上《のぼ》つたのです。さうして見る間に、約束通りの金剛石と紅宝石と孔雀《くじゃく》と象牙《ぞうげ》とが、或は五庫の匱《ひつ》の中から、或は苑囿《えんゆう》の檻《おり》の中から、庭前へ持ち運ばれて、石階の下《もと》に堆《うずたか》く積まれました。異人は今更、貴公子の富の力に驚いたやうな素振もなく、静かに其れ等《ら》の宝物の数を調べた後、車上の轎《かご》の布簾《ふれん》を掲げて、其処《そこ》に淋《さび》しく鎖《とざ》されて居た、囚《とら》はれの身の人魚の姿を示しました。 彼《か》の女は、うつくしい玻璃《はり》製の水甕《みずがめ》の裡《うち》に幽閉せられて、鱗《うろこ》を生やした下半部を、蛇体《じゃたい》のやうにうねうねとガラスの壁《へき》へ吸ひ着かせながら、今しも突然、人間の住む明るみへ曝《さら》されたのを恥づるが如く、項《うなじ》を乳房の上に伏せて、腕《かいな》を背後の腰の辺《あたり》に組んだまゝ、さも切なげに据《す》わつて居るのでした。ちやうど人間と同じくらゐな身の丈を持つ彼の女の体を、一杯に浸した甕の高さは、四五|尺《しゃく》程もあるでせう。中には玲瓏《れいろう》とした海の潮が満々と充たされて、人魚の喘《あえ》ぐ度毎に、無数の泡が水晶の珠玉の如く、彼の女の口から縷々《るる》として沸々《ふつふつ》として水面へ立ち昇ります。その水甕が四五人の奴婢《ぬひ》に舁《かつ》がれて、車の上から階上の内庁《ぬいでん》の床に据ゑられると、室内を照らす幾十燈の燭台の光は、忽《たちま》ち彼の女の露《あら》はな肉体に焦点を凝《こ》らせて、いやが上にも清く滑かな人魚の肌は、さながら火炎の燃ゆるやうに、一層|眩《まばゆ》く鮮やかに輝きました。 「私は此れ迄、心|私《ひそ》かに自分の博《ひろ》い学識と見聞とを誇つて居た。昔から嘗《かつ》て地上に在つたものなら、如何《いか》に貴い生き物でも、如何に珍らしい宝物でも、私が知らないと云ふ事はなかつた。しかし私はまだ此れ程美しい物が、水の底に生きて居ようとは、夢にも想像した事がない。私が阿片《アヘン》に酔つて居る時、いつも眼の前へ織り出される幻覚の世界にさへも、此の幽婉《ゆうえん》な人魚に優《まさ》る怪物は住んで居ない。恐らく私は、人魚の値段が今支払つた代価の倍額であらうとも、きつとお前から其の売り物を買ひ取つたゞらう。………」 斯《こ》う云つたゞけでは、まだ貴公子は自分の胸に溢《あふ》れて居る無限の讃嘆と驚愕《きょうがく》とを、充分に云ひ表はす事が出来ませんでした。なぜと云ふのに、彼は今、自分の前に運び出された冷艶《れいえん》にして悽愴《せいそう》な、水中の妖魔を見るや否や、一瞬間に体中の神経が凍り付くやうな、強い、激しい、名状し難い魂の竦震《しょうしん》を覚えたからです。さうして、いつ迄もいつ迄も、死んだやうに総身《そうみ》を硬張《こわば》らせて彳立《てきりつ》したまゝ、燦爛《さんらん》たる水甕《みずがめ》の光を凝視して居るうちに、訝《いぶか》しくも彼の瞳には、感激の涙が忍びやかに滲《にじ》み出て来ました。彼は久し振りで、長らく望んで居た昂奮《こうふん》に襲はれたのです。有頂天の歓喜に蘇生《よみがえ》ることが出来たのです。彼はもう昨日までの、張り合ひのない、退屈な月日を喞《かこ》つ人間ではなくなりました。彼は再び、豊かな刺戟に鞭撻《むちう》たれつゝ生の歩みを進めて行ける、心境に置かれたのでした。 「………私は地上の人間に生れる事が、此の世の中での一番仕合はせな運命だと思つて居た。けれども大洋の水の底に、斯《か》く迄微妙な生き物の住む不思議な世界があるならば、私は寧《むし》ろ人間よりも人魚の種属に堕落したい。あの瑰麗《かいれい》な鱗《うろこ》の衣《きぬ》を腰に纏《まと》うて、此のやうな海の美女《たおやめ》と、永劫《えいごう》の恋を楽《たのし》みたい。―――此の美女《たおやめ》の涼しい眸《ひとみ》や、濃い黒髪や、雪白《せっぱく》の肌に比べると、私の座右に仕へて居る七人の妾たちは、まあ何と云ふ醜い、卑しい姿を持つて居るのだらう。何と云ふ平凡な、古臭い容子をして居るのだらう。」 さう云つた時、人魚は何と思つたか、ゆらりと尾鰭《おびれ》を振り動かして、俯向《うつむ》けて居た顔を擡《もた》げながら、貴公子の姿をしげ/\と見守りました。 博学な貴公子の鑑識は、書画|骨董《こっとう》や工芸品ばかりでなく、支那に古くから伝はつて居る観相術にも精通して居ましたが、彼は今|漸《ようや》く人魚の容貌《ようぼう》を眺めて、其の骨相を案ずるのに、到底自分の習ひ覚えた学問の範囲では、判断する事が出来ないやうな稀有《けう》な特長を発見しました。彼《か》の女は成る程、絵に画《か》いた人魚のやうに、魚《さかな》の下半身と人間の上半身とを持つて居るには違ひありません。けれども其の上半身の人間の部分、―――骨組みだの、肉附きだの、顔だちだの、其れ等《ら》の局所を一々詳細に注意すると、日常自分たちが見馴《みな》れて居る地上の人間の体とは、全く調子を異にして居るのです。彼が修得した観相術の智識は、其処《そこ》に応用の余地がない程、彼の女の輪廓《りんかく》は普通の女と趣《おもむき》を変へて居るのです。たとへば彼の女の、極度に妖婉《ようえん》な瞳の色と形とは、彼が知つて居る人相学の如何《いか》なる種類にも適合しません。その瞳は、ガラス張りの器に盛られた清洌《せいれつ》な水を透《とお》して、恰《あたか》も燐《りん》のやうに青く大きく輝いて居ます。どうかすると、眼球全体が、水中に水の凝固した結晶体かと疑はれるほど、淡藍《うすあい》色に澄み切つて居ながら、底の方には甘い涼しい潤《うる》ほひを含んで、深い深い魂の奥から、絶えず「永遠」を視詰めて居るやうな、崇厳な光を潜《ひそ》ませて居ます。其処には人間の如何なる瞳よりも、幽玄《ゆうげん》にして杳遠《ようえん》な暈影《うんえい》が漂ひ、朗麗にして哀切な曜映《ようえい》がきらめいて居ます。それから又、彼の女の眉《まゆ》と鼻の形状は、一層気高い、一層異常な、「美」を構成して居るやうに感ぜられました。それ等《ら》の眉や鼻は、支那の人相学で貴《とうと》ばれる新月眉《しんげつび》とか、柳葉眉《りゅうようび》とか、伏犀鼻《ふくさいび》とか、胡羊鼻《こようび》とか云ふ物とは、何処《どこ》かしら様子が違つて居ます。けれども其処《そこ》には習慣的な「美」を超絶した、人間よりも神に近い美しさがあるのです。因襲的な「円満」を通り越した、生滅《しょうめつ》者に対する不滅の円満があるのです。さうして彼《か》の女が長い項《うなじ》をものうげに動かす時、暗緑色の髪の毛は海藻《かいそう》のやうに顫《ふる》へ悶《もだ》えて、柔かい波の底を揺《ゆら》ぎさまよひ、或ひは渾沌《こんとん》とした雲霧の如く彼の女の額《ひたい》に降りかゝり、或ひは絢爛《けんらん》な孔雀《くじゃく》の尾の如く上方へ延び拡がります。彼の女の持つて居る「円満」は、啻《ただ》に彼の女の容貌《ようぼう》の上にあるばかりでなく、人間の形を成して居る肉体の総《す》べての部分に認める事が出来ました。頸《くび》から肩、肩から胸へ続いて行く曲線の優雅な起伏、模範的な均整を持つ両腕のしなやかさ、豊潤なやうで程よく引き緊まつた筋肉の、伸縮し彎屈《わんくつ》する度毎に、魚類の敏捷《びんしょう》と、獣類の健康と、女神の嬌態《きょうたい》とが、奇怪極まる調和を作つて、五彩の虹《にじ》の交錯したやうな幻惑を起させます。就中《なかんずく》、最も貴公子の眼を驚かし、最も貴公子の心を蕩《とろ》かしたものは、実に彼の女の純白な、一点の濁りもない、皓潔無垢《こうけつむく》な皮膚の色でした。白いと云ふ形容詞では、とても説明し難いほど真白な、肌の光沢でした。其れは余りに白過ぎる為めに、白いと云ふより「照り輝く」と云つた方が適当なくらゐで、全体の皮膚の表面が、瞳のやうに光つて居るのです。何か、彼の女の骨の中に発光体が隠されて居て、皎々《きょうきょう》たる月の光に似たものを、肉の裏から放射するのではあるまいかと、訝《あや》しまれる程の白さなのです。而《しか》も近づいて熟視すれば、此の霊妙な皮膚の上には、微《かす》かな無数の白毫《びゃくごう》のむく[#「むく」に傍点]毛が、鬖々《さんさん》と生えて旋螺《せんら》を描き、其の末端にさながら魚の卵のやうな、眼に見えぬ程の小さな泡が、一つ一つに銀色の玉を結んで、宝石を鏤《ちりば》めた軽羅《けいら》の如く、彼の女の総身《そうみ》を掩《おお》うて居ます。 「貴公子よ、あなたは私の予期以上に、人魚の価値を認めて下さいました。あなたのお蔭で、私は充分な報酬を得、一朝にして巨万の富を手に入れる事が出来ました。私は人魚を売つた代りに、此れ等《ら》の東洋の宝物を車に積んで、再び広東の港へ帰る積りです。さうして其処から汽船に乗つて、遠い西洋の故郷へ戻ります。私の国では、ちやうどあなたが人魚を珍重なさるやうに、此れ等の宝物を珍重する人が沢山あるのです。―――私が最後の願ひとして、どうぞ人魚に別れの接吻《せっぷん》を与へさせて下さい。」 斯《こ》う云ひながら、異人が水甕《みずがめ》の縁に寄り添ふと、水中に水銀の躍《おど》るが如く、人魚はする/\と上半身を表面へ露出して、両手に異人の項《うなじ》を抱へたまゝ、頬《ほお》を擦り寄せて暫《しばら》く潸然《さんぜん》と涙を流す様子です。其の涙は、睫毛《まつげ》の端から頤《あご》へ伝はり、滴々とこぼれ落ちる間に、麝香《じゃこう》のやうな馥郁《ふくいく》たる薫りを、部屋の四方へ放ちました。 「お前は人魚が惜しくはないか。あれだけの値で私に売つたのを、今更後悔しては居ないか。お前の国の人たちは、なぜ人魚より宝石の方を珍重するのだらう。お前はどうして、此の人魚を自分の国へ持つて帰らうとしないのだらう。」 貴公子は、利慾の為めに美しい物を犠牲に供して顧《かえり》みない、卑しい商人根性を嘲《あざけ》るやうな句調で云ひました。 「成る程あなたがさう仰《お》つしやるのは御尤《ごもっと》もです。しかし西洋の国々では、人魚はそんなに珍しい物ではありません。私の国は欧羅巴《ヨーロッパ》の北の方の、阿蘭陀《オランダ》と云ふ所ですが、私の生れた町の傍を流れて居るライン河の川上には、昔から人魚が住むと云ふ話を、子供の時分に聞いた事がありました。彼《か》の女は時とすると、人間のやうな下半身を持ち、或ひは鳥のやうな両足を具《そな》へて、地中海の波の底にも大陸の山林|水沢《すいたく》の間にも、折々形を現して人間を惑はす事があるのです。私の国の詩人や絵師は、絶えず彼の女の神秘を歌ひ、姿態を描いて、人魚の媚笑《びしょう》のいかになまめかしく、人魚の魅力のいかに恐ろしいかを、我れ我れに教へて居ます。それ故欧羅巴では、人魚ならぬ人間までも、ひたすら彼の女の艶容《えんよう》を学んで、多くの女が孰《いず》れも人魚と同じやうな、白い肌と、青い瞳と、均整な肢体の幾分づゝを具備して居ます。若《も》し貴公子が其れをお疑ひなさるなら、試みに私の顔と皮膚の色とを御覧なさい。取るに足らない私のやうな男でも、西洋に生れた者は、必ず何処《どこ》かに、此の人魚と共通な優雅と品威とを持つて居るでせう。」 貴公子は異人の言葉を、否定する事が出来ませんでした。いかにも彼の云ふ通り、人魚と彼とは、容貌《ようぼう》のうちに相似た特質のあることを、疾《と》うから貴公子は心付いて居たのでした。讃嘆の程度こそ違へ、彼は人魚に魅せられたやうに、此の異人の人相にも少からず感興を唆《そそ》られて居たのです。其の男には人魚のやうな、円満と繊妍《せんけん》とがない迄も、やがて其処《そこ》へ到達し得る可能性が含まれて居るのです。其の男は、支那の国土に住んで居る、黄色い肌と、浅い顔とを持つた人間に比較して、寧《むし》ろ人魚の種属に近い生き物らしく思はれました。 小さな汽船で、世界中の大洋を乗り廻す西洋人は兎《と》も角《かく》も、其の頃まで地の表面を「時間」と等しく無限な物と信じて居た東洋の人間には、千里二千里の土地を行くのが、殆《ほと》んど百年二百年の時を生きるのと同じやうに、難事であると考へられて居たのでした。まして亜細亜《アジア》の大国に育つた貴公子は、流石《さすが》に好奇心の強い性癖を持ちながら、遥かな西の空にある欧羅巴と云ふ所を、鬼か蛇《じゃ》の棲《す》む蛮界のやうに想像して、つひぞ此れ迄海外へ出て見ようなどゝ思つた事はなかつたのです。然《しか》るに今、生れて始めて、しみ/″\と西洋人の風貌《ふうぼう》に接し、其の郷国の模様を聴いて、どうして其の儘《まま》黙つて居る事が出来ませう。 「私は西洋と云ふところを、そんなに貴い麗《うる》はしい土地だとは知らなかつた。お前の国の男たちが、悉《ことごと》くお前のやうな高尚な輪廓を持ち、お前の国の女たちが、悉く人魚のやうな白皙《はくせき》の皮膚を持つて居るなら、欧羅巴は何と云ふ浄《きよ》い、慕はしい天国であらう。どうぞ私を人魚と一緒に、お前の国へ連れて行つてくれ。さうして其処に住んで居る、優越な種属の仲間入りをさせてくれ。私はもう支那の国に用はないのだ。南京の貴公子として世を終るより、お前の国の賤民《せんみん》となつて死にたいのだ。どうぞ私の頼みを聴いて、お前の乗る船へ伴つてくれ。」 貴公子は熱心のあまり、異人の足下に跪《ひざまず》いて外套《がいとう》の裾《すそ》を捕へながら、気が狂つたやうに説き立てました。すると異人は、薄気味の悪い微笑を洩《も》らして、貴公子の言葉を遮《さえぎ》つて云ふのに、 「いや/\私は、寧《むし》ろあなたが南京に留まつて、出来るだけ長く、出来るだけ深く、哀れな人魚を愛してやる事を、あなたの為めに望みます。たとへ欧羅巴《ヨーロッパ》の人間が、いか程美しい肌と顔とを持つて居ても、彼等は恐らく、此の水甕《みずがめ》の人魚以上にあなたを満足させる事は出来ますまい。此の人魚には、欧羅巴人の理想とする凡《す》べての崇高と、凡べての端麗とが具体化されて居るのです。あなたは此処《ここ》に、此の生き物の姚冶《ようや》な姿に、欧羅巴人の詩と絵画との精髄を御覧になる事が出来るのです。此の人魚こそは欧羅巴人の肉体が、あなたの官能を楽しませ、あなたの霊魂を酔はせ得る、『美』の絶頂を示して居ります。あなたは彼《か》の女の本国へ行つても、此れ以上の美を求めることは出来ないでせう。………」 其の時、異人は何と思つたか、眉宇《びう》の間に悲しげな表情を浮べて、嗟嘆《さたん》するやうな調子になつて、急に話頭を転じました。 「さうして私はくれ/″\も、あなたの幸福と長寿とを祈ります。私はあなたが、既に彼の女を恋して居る事を知つて居るのです。人魚の恋を楽しむ者には早く禍《わざわい》が来ると云ふ、私の国の伝説を、あなたが実際に打ち破つて下さる事を祈るのです。私は人魚の代償として、あなたの大切な命までも戴《いただ》かうとは思ひません。若《も》しも私が、再び亜細亜《アジア》の大陸を訪問する日のあつた時、幸ひあなたにお目に懸れたら、其の折にこそ私はあなたをお連れ申して上げませう。………けれども其れは、………けれども其れは、………私はあなたがお気の毒でならないやうな気がします。」 云ふかと思ふと、異人は又も慇懃《いんぎん》な稽首《けいしゅ》の礼を施して、人魚の代りに山の如く積み上げた宝物の車を、以前の驢馬《ろば》に曳《ひ》かせながら、庭前の闇へ姿を消してしまひました。 貴公子の邸は、人魚が買はれてから俄《にわ》かにひつそりと静かになりました。七人の妾《めかけ》は自分たちの綉房《しゅうぼう》に入れられたきり、主人の前へ召し出される機会を失ひ、夜な夜な楼上楼下を騒がせた歌舞宴楽の響きも止《や》んで、宮殿に召し使はれる人々は皆|溜息《ためいき》をつくばかりです。 「あの異人は何といふ忌ま忌ましい、胡乱《うろん》な男だらう。さうして何と云ふ奇体な魔物を売り付けて行つたのだらう。今に何かしら間違ひがなければいゝが。」 彼等は互ひに相顧《あいかえり》みて囁《ささや》き合ひました。誰一人も、水甕の据ゑてある内房の帳《とばり》を明けて、人魚の傍へ近寄る者は居ませんでした。 近寄る者は主人の貴公子ばかりなのです。ガラスの境界一枚を隔てゝ、水の中に喘《あえ》ぐ人魚と、水の外に悶《もだ》える人間とは、終日、黙々と差し向ひながら、一人は水の外に出られぬ運命を嘆き、一人は水の中に這入《はい》られぬ不自由を怨《うら》んで、さびしくあぢきなく時を送つて行くのでした。折々、貴公子は遣《や》る瀬《せ》なげにガラスの壁の周囲を廻つて、せめては彼《か》の女に半身なりとも、甕《かめ》の外へ肌を曝《さら》してくれるやうに頼みます。しかし人魚は、貴公子が近寄れば近寄るほど、ますます固く肩を屈《かが》めて、さながら物に怖《お》ぢたやうに水底《みなぞこ》へひれ伏してしまひます。夜になると、彼の女の眼から落つる涙は、成る程異人の云つたやうに真珠色の光明《こうみょう》を放つて、暗黒な室内に蛍《ほたる》の如く瑩々《えいえい》と輝きます。その青白いあかるい雫《しずく》が、点々とこぼれて水中を浮動する時、さらでも夭姣《ようこう》な彼の女の肢体は、大空の星に包まれた嫦娥《じょうが》のやうに浄《きよ》く気高く、夜陰の鬼火に照らされた幽霊のやうに悽《すご》く咒《のろ》はしく、惻々《そくそく》として貴公子の心に迫りました。 或る晩の事でした。貴公子はあまりの切なさ悲しさに、熱燗《あつかん》の紹興酒《しょうこうしゅ》を玉琖《ぎょくさん》に注いで、腸《はらわた》を焼く強い液体の、満身に行き渡るのを楽しんで居ると、其の時まで水中に海鼠《なまこ》の如く縮まつて居た人魚は、暖かい酒の薫りを恋ひ慕ふのか、俄《にわ》かにふわりと表面へ浮かび上つて、両腕を長く甕の外へ差し出すのです。貴公子が試みに、手に持つた酒を彼の女の口元へ寄せるや否や、彼の女は思はず我を忘れて真紅《しんく》の舌を吐きながら、海綿のやうな唇を杯の縁に吸ひ着かせたまゝ、唯《ただ》一と息に飲み干《ほ》してしまひました。さうして、たとえばあの、ビアヅレエの描いた、[#横組み]“The Dancer's Reward”[#横組み終わり]と云ふ画題の中にあるサロメのやうな、悽惨《せいさん》な苦笑ひを見せて、頻《しき》りに喉《のど》を鳴らしつゝ次ぎの一杯を促すのです。 「それ程お前が酒を好むなら、私はいくらでも飲ませてやる。冷《ひやや》かな海の潮に漬《つか》つて居るお前の血管に、激しい酔が燃え上つたら、定めしお前は一層美しくなるであらう。一層人間らしい親しみと愛らしさとを示してくれるだらう。お前を私に売つて行つた和蘭《オランダ》人の話に依《よ》ると、お前は人間の測り知られぬ神通力を具《そな》へて居ると云ふではないか。お前には背徳の悪性があると云ふではないか。私はお前の神通力を見せて貰《もら》ひたいのだ。お前の悪性に触れたいのだ。お前がほんたうに不思議な魔法を知つて居るなら、せめては今宵一と夜なりとも人間の姿に変つてくれ。お前が実際|放肆《ほうし》な情慾を持つて居るなら、どうぞ其のやうに泣いて居ないで、私の恋を聴き入れてくれ。」 貴公子が斯《こ》う云ひながら、杯の代りに自分の唇を持つて行くと、窈渺《ようびょう》たる人魚の眉目《びもく》は鏡に息のかゝつたやうに忽《たちま》ち曇つて、 「貴公子よ、どうぞ私を赦《ゆる》して下さい。私を憐《あわれ》んで赦して下さい。」 と、突然|明瞭《めいりょう》な人間の言語を発しました。 「………私は今、あなたが恵んで下すつた一杯の酒の力を借りて、漸《ようよ》う人間の言葉を語る通力を恢復《かいふく》しました。―――私の故郷は、和蘭《オランダ》人の話したやうに、欧羅巴《ヨーロッパ》の地中海にあるのです。あなたが此の後、西洋へ入らつしやることがあるとしたら、必ず南欧の伊太利《イタリー》と云ふ、美しいうちにも殊に美しい、絵のやうな景色の国をお訪ねなさるでせう。その折|若《も》し、船に乗つてメツシナの海峡を過ぎ、ナポリの港の沖合をお通りになる事があつたら、其の辺こそ我れ我れ人魚の一族が、古くから棲息《せいそく》して居る処なのです。昔は船人《ふなびと》が其の近海を航すると、世にも妙《たえ》なる人魚の歌が何処《どこ》からともなく響いて来て、いつの間にやら彼等を底知れぬ水の深みへ誘ひ入れたと申します。―――私は斯《か》くもなつかしい自分の住み家《か》を持ちながら、ちやうど去年の四月の末、暖かい春の潮に乗せられて、ついうかうかと南洋の島国まで迷うて来たのです。さうして、とある浜辺の椰子《やし》の葉蔭に鰭《ひれ》を休めて居る際に、口惜《くちお》しくも人間の獲物となつて、亜細亜《アジア》の国々の市場と云ふ市場に、恥かしい肌を曝《さら》しました。貴公子よ、どうぞ私を憐《あわれ》んで、一刻も早く私の体を、広々とした自由な海へ放して下さい。たとへ私が如何程《いかほど》の神通力を具《そな》へて居ても、窮屈な水甕《みずがめ》の中に捕はれて居ては、どうする事も出来ないのです。私の命と、私の美貌《びぼう》とは、次第々々に衰へて行くばかりなのです。あなたが是非共人魚の魔法を御覧になりたいと思ふなら、どうぞ私を恋ひしい故郷へ帰して下さい。」 「お前がそのやうに南欧の海を慕ふのは、きつとお前に恋人があるからだらう。地中海の波の底に、同じ人魚の形を持つた美しい男が、夜昼《よるひる》お前を待ち憧《こが》れて居るのだらう。さうでなければ、お前はそんなに私を厭《いと》ふ筈がない。情《つれ》なくも私の恋を振り捨てゝ、故郷へ帰る道理がない。」 貴公子が恨《うら》みの言葉を述べる間、人魚は殊勝げに瞑目《めいもく》して首《こうべ》をうなだれ、耳を傾けて居ましたが、やがてしなやかな両手を伸ばしつゝ、シツカリと貴公子の肩を捕へました。 「あゝ、あなたのやうな世に珍らしい貴《あで》やかな若人《わこうど》を、私がどうして忌み嫌ふ事が出来ませう。どうして私が、あなたを恋せずに居られるやうな、無情な心を持つて居るでせう。私があなたに焦れて居る証拠には、どうぞ私の胸の動悸《どうき》を聞いて下さい。」 人魚はひらりと尾を飜《ひるがえ》して、水甕の縁へ背を托《たく》したかと思ふ間もなく、上半身を弓の如く仰向《あおむ》きに反《そ》らせながら、滴々と雫《しずく》の落ちる長髪を床に引き擦り、樹に垂れ下る猿のやうに下から貴公子の項《うなじ》を抱へました。すると不思議や、人魚の肌に触れて居る貴公子の襟頸《えりくび》は、さながら氷をあてられたやうな寒さを覚えて、見る見るうちに其処《そこ》が凍《こご》えて痺《しび》れて行くのです。人魚の彼を抱き緊める力が、強くなれば強くなる程、雪白《せっぱく》の皮膚に含まれた冷冰《れいひょう》の気は、貴公子の骨に沁《し》み入り髄を徹《とお》して、紹興酒の酔に熱した総身《そうみ》を、忽《たちま》ち無感覚にさせてしまひます。其のつめたさに堪へかねて、あはや貴公子が凍死しようとする一刹那《いっせつな》、人魚は彼の手頸《てくび》を抑へて、其れを徐《おもむ》ろに彼の女の心臓の上に置きました。 「私の体は魚のやうに冷《ひやや》かでも、私の心臓は人間のやうに暖かなのです。此れが私の、あなたを恋ひして居る証拠です。」 彼《か》の女が斯《こ》う云つた時、ふと貴公子の掌《てのひら》は、一塊の雪の中に、炎々と燃えて居る火のやうな熱を感じました。ちやうど人魚の左の胸を撫《な》でゝ居た彼の指先は、その肋骨《ろっこつ》の下に轟《とどろ》く心臓の活気を受けて、危《あやう》く働きを止めようとした体中の血管に、再び生き生きとした循環を起させました。 「私の心臓は斯《か》く迄熱く、私の情熱は斯く迄激しく湧《わ》いて居ながら、私の皮膚は絶ゆる隙間《すきま》なく、忌まはしい寒気に戦《おのの》いて居ます。さうしてたま/\、麗《うるわ》しい人間の姿を眺めても、人魚に生れた浅ましさには、宿業《しゅくごう》の報いに依《よ》つて、其の人を愛する事を永劫《えいごう》に禁ぜられて居るのです。私がいか程あなたを慕ひ憧《こが》れても、神に咒《のろ》はれて海中の魚族に堕《お》ちた身の上では、ただ煩悩《ぼんのう》の炎に狂ひ、妄想の奴隷《どれい》となつて、悶《もだ》え苦しむばかりなのです。貴公子よ、どうぞ私を大洋の住み家《か》へ帰して、此の切なさと恥かしさから逃がして下さい。青いつめたい波の底に隠れてしまへば、私は自分の運命の、哀《かなし》さ辛《つら》さを忘れる事が出来るでせう。此の願さへ聴き届けて下さるなら、私は最後の御恩報じに、あなたの前で神通力を現はして見せませう。」 「おゝ、どうぞお前の神通力を示してくれ。其の代りには、私はどんな願ひでも聴いて上げよう。」 と、うつかり貴公子が口をすべらせると、人魚はさもさも嬉しげに、両手を合はせて幾度か伏し拝みながら、 「貴公子よ、それでは私はもうお別れをいたします。私が今、魔法を使つて姿を変へてしまつたら、あなたは嘸《さぞ》かし其れをお悔みなさるでせう。若《も》しもあなたが、もう一遍人魚を見たいと思ふなら、欧洲行きの汽船に乗つて、船が南洋の赤道直下を過ぎる時、月のよい晩に甲板《かんぱん》の上から、人知れず私を海へ放して下さい。私はきつと、波の間に再び人魚の姿を示して、あなたに御礼を申しませう。」 云ふかと思ふと、人魚の体は海月《くらげ》のやうに淡くなつて、やがて氷の溶けるが如く消え失せた跡に、二三尺の、小さな海蛇《うみへび》が、水甕《みずがめ》の中を浮きつ沈みつ、緑青《ろくしょう》色の背を光らせ游《およ》いで居ました。 人魚の教へに従つて、貴公子が香港《ホンコン》からイギリス行きの汽船に搭《とう》じたのは、その年の春の初めでした。或る夜、船がシンガポールの港を発して、赤道直下を走つて居る時、甲板に冴《さ》える月明を浴びながら、人気《ひとけ》のない舷《ふなばた》に歩み寄つた貴公子は、そつと懐《ふところ》から小型なガラスの壜《びん》を出して、中に封じてある海蛇を摘《つま》み上げました。蛇は別れを惜しむが如く、二三度貴公子の手頸《てくび》に絡《から》み着きましたが、程なく彼の指先を離れると、油のやうな静かな海上を、暫《しば》らくするすると滑つて行きます。さうして、月の光を砕いて居る黄金《おうごん》の瀲波《れんぱ》を分けて、細鱗《さいりん》を閃《ひら》めかせつゝうねつて居るうちに、いつしか水中へ影を没してしまひました。 それから物の五六分過ぎた時分でした。渺茫《びょうぼう》とした遥かな沖合の、最も眩《まばゆ》く、最も鋭く反射して居る水の表面へ、銀の飛沫《しぶき》をざんぶと立てゝ、飛びの魚の跳ねるやうに、身を飜《ひるがえ》した精悍《せいかん》な生き物がありました。天井の玉兎《ぎょくと》の海に堕《お》ちたかと疑はれるまで、皎々《きょうきょう》と輝く妖嬈《ようじょう》な姿態に驚かされて、貴公子が其の方を振り向いた瞬間に、人魚はもはや全身の半ば以上を煙波《えんぱ》に埋め、双手《もろて》を高く翳《かざ》しながら、「あゝ」と哎呦《がいゆう》一声して、くるくると水中に渦を巻きつゝ沈んで行きました。 船は、貴公子の胸の奥に一縷《いちる》の望《のぞみ》を載せたまゝ、恋ひしいなつかしい欧羅巴《ヨーロッパ》の方へ、人魚の故郷の地中海の方へ、次第次第に航路を進めて居るのでした。 底本:「日本幻想文学集成⑤ 谷崎潤一郎」国書刊行会    1991(平成3)年7月13日初版第1刷発行 底本の親本:「谷崎潤一郎全集 第四卷」中央公論社    1967(昭和42)年2月25日発行 初出:「中央公論」    1917(大正6)年1月 ※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。 入力:HAR 校正:深白 2024年6月16日作成 青空文庫作成ファイル: 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