別府温泉 高浜虚子 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)灼熱《しゃくねつ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一|帆《ほ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#3字下げ] ------------------------------------------------------- [#3字下げ]一[#「一」は中見出し]  道路のアスファルトがやわらかくなって靴のあとがつくという灼熱《しゃくねつ》の神戸市中から、埠頭《ふとう》に出て、舷梯《げんてい》をよじて、紅《くれない》丸に乗ると、忽《たちま》ち風が涼しい。  ここから神戸市中を振り返って見ると、今まで暑さにあえいでおった土地も、涼しげな画中の景となって現れて来る。そうしてその神戸埠頭が今はもう視界から去ってしまう頃になると、左舷には淡路島が近《ちか》より、右舷には舞子《まいこ》、明石《あかし》の浜が手に取る如《ごと》く見えて来る。私は甲板の腰掛《こしかけ》に腰を下《おろ》して海風《かいふう》の衣袂《いべい》を翻《ひるがえ》すに任している。  先に帆襖《ほふすま》を作って殆《ほとん》ど明石海峡をふさいでいるかと思われた白帆も、近よって見るとかしこに一|帆《ほ》ここに一帆という風《ふう》に、汪洋《おうよう》たる大海原の中に真帆《まほ》を風にはらませて浮んでいるに過ぎない。  それに引かえて往《ゆ》きかう蒸汽船の夥《おびただ》しきことよ。鉄甲板の荷物船が思いきり荷物を積んで、深く船体を波に沈めて、黒煙を吐いて重そうに進んでいるのもすでに三、四|艘《そう》ならず追い越した。軽快な客船も、わが船の十三ノットというにはかなわないで暫《しばら》く併行して進んでいるうちに遂にあとになる。向《むこ》うから来る汽船はすれ違ったと思ううちにもう見えなくなる。すべてこれ等の汽船は坦々《たんたん》たる道路の如《ごと》くこの海原を航行しているのである。  さすがに白熱の太陽が大空に君臨している間は、左右の島も汪洋たる波も、その熱に焼きただらされて、吹き来る風もどことなく生暖かい。その風は裳裾《もすそ》や袂《たもと》を翻《ひるがえ》し、甲板の日蔽《ひおい》をあおち、人語を吹き飛ばして少しも暑熱《しょねつ》を感じささないのであるが、それでも膚《はだえ》に何となく暖かい。  太陽が小豆《しょうど》島の頂きに沈みかける時が来ると、やがてこの船の極楽境が現出するのである。今まで青黒く見えておった島々が薄紫に変って来る。日に光り輝いておった海原に一抹《いちまつ》の墨を加えて来る。日が小豆島の向《むこ》うに落ちたと思うと、あらぬ方《かた》の空の獅子雲が真赤《まっか》に日にやけているのを見る。天地が何となく沈んで落着《おちつ》いて来る。と、その海の上を吹いて来る風が、底の方から一脈の冷気を誘うて来る。その冷気が膚《はだえ》に快よい。  暮色《ぼしょく》が殆《ほとん》ど海原を蔽《おお》い隠す頃になると、小豆島の灯台が大きくまたたきそめて、左手には屋島《やしま》の大きな形が見えそめて来る。もう高松に着くのに間がないことを思わしめる。  後甲板に活動写真をしているのを見に行く、写真のうつる布《きれ》が風に吹かれているので、映写は始終中《しょっちゅう》はためきどおしである。  高松の埠頭《ふとう》に着く頃はもう全く日が暮れている。紅《くれない》丸がその桟橋に横着けになると、忽《たちま》ち沢山《たくさん》の物売りが声高くその売る物の名を呼ぶ。 「この桟橋は鉄筋コンクリートで出来たもので、恐らく日本の桟橋のうちで一番立派なものでしょう」と事務長が話した。その桟橋の両側には三|艘《そう》ばかりの船が着いている。先《さ》きに途中で追い抜いた木浦《もっぽ》丸も後《おく》れてはいって来る。船全体が明るくともって、水晶|珠《だま》のようなのが一艘おる。これは宇野と高松との鉄道連絡船の玉藻《たまも》丸である。  船が桟橋にとまっている間は風が死んでむし暑い。やがて桟橋を離れて大海原に浮《うか》むと又《また》涼風が膚《はだえ》にしみて寒い位《くらい》である。私は臥床《ねどこ》にはいる。朝七時半起床。もう佐田《さた》の岬がそこに見え、九州の佐賀関の久原《くはら》の製煉所の煙突を見る所まで来ている。  朝影のある甲板は涼しい。  別府はもう眼の前にある。  観海寺《かんかいじ》は彼処《かしこ》、商船会社の支店は其処《そこ》、とボーイが指さしているうちに桟橋に着く。  すぐ自動車で亀の井旅館に着《ちゃく》。温泉《ゆ》にはいる。  別府は土地の下一面に温泉《おんせん》である。それが第一の天恵である。瀬戸内海という大道路がすぐ玄関に着いている。これも天恵の一つである。 [#2字下げ]温泉《ゆ》に入《い》るや瀬戸内海の昼寝覚《ひるねざめ》。  この前来たのは大正九年であったから、今から八年前になるが、出迎えてくれた土地の人は、 「別府も八年前とは大変変りました」と誇り顔にいった。紅丸の甲板から別府市外を概観した時は格別変ったようにも思わなかった。桟橋から亀の井旅館に来る途上の光景も格別変ったようにも思わなかった。が、ただ私の通された所は洋館のホールであるだけが変っていた。 「何時《いつ》建て増しをしたのです」と聞いたら、 「一昨年一|月《げつ》でした」と答えた。  その夕方五時から日名子《ひなこ》太郎氏や市の温泉係の中島辰男氏に案内せられて地獄|廻《めぐ》りに出掛けた。  先《ま》ず海岸通りを北に自動車を駆った。道幅がこの前通った時より広いように覚えた。 「この道は新らしく作ったのですか、大変広いようですが」と聞いて見たら、 「大正十年に作った八|間《けん》幅の道路です」と答えた。それから又《また》、 「この上の方の鉄輪《かんなわ》温泉から鶴見の方へ出る三間幅の道路も新らしく出来ました。各地獄や温泉を連絡する新道路が出来たのであります、皆自動車で通れます」とのことであった。  この前、日名子《ひなこ》氏に案内されて地獄|廻《めぐ》りをした時は、人力車でなければ通れなかった。所によると徒歩でなければ通れなかった。それも、朝出掛けて遂に鉄輪温泉に一泊して、二日がかりであったことを思うと、夕方の五時頃から涼みがてらに自動車に乗って出掛けるなんか、随分変化したものと思った。  先ず亀川《かめがわ》温泉を過ぎて血の池地獄を見た。十年に一度大活動をはじめるそうで、今年が丁度その十年目に当たり、大荒《おおあれ》に荒れるそうである。今朝も大活動をやったとのことである。ほとりの樹木など沢山《たくさん》に枯死《こし》しているのはその熱泥《ねつでい》を吹き上げた処《ところ》である。赤い泥の沸々《ふつふつ》と煮え立っている光景は相変らず物すごい。  次《つ》ぎに竈《かまど》地獄を見た。これは地中の鬼がうめくような声を発して、岩窟《がんくつ》の中から熱気を吐き出しているのである。その熱気で蒸したアンコのないまんじゅう[#「まんじゅう」に傍点]がおいしかった。  芝石《しばいし》温泉という、湯滝のある、谿谷《けいこく》に臨んだ温泉を過ぎて、紺屋《こうや》地獄を見た。これは紺色をした泥池の底から、同じく怒るが如《ごと》くつぶやくが如く熱気を吐いておるのである。驚くべきことには近所の青田の中にも数ヶ所同じような処《ところ》がある。一歩誤ればその中に落ち込んで命を落《おと》さねばならぬのである。現に誤って死んだという人も沢山あるのだそうである。鶏卵をその泥土《でいど》からわく湯気に置くと二、三分で半熟になり殻が真黒《まっくろ》になる。その真黒な鶏卵を一つ食べて見た。  次に坊主地獄を見た。これもやや大きなにごった熱湯が沸々とわき上《あが》っているのである。その有様《ありさま》が沢山の坊主頭を並べているようだからその名があるのだともいうし、又《また》昔|円内坊《えんないぼう》とかいう坊さんが二重|桝《ます》をつかって百姓から米穀をむさぼり取ったがために、一夜の中《うち》にその邸宅が陥没して、この坊主地獄が現出したとの伝説もあるそうである。後ろの山に円内坊十五尊像という半ば壊れた十五の石像がある。ここは豊後《ぶんご》湾を見晴らして景色がいい。かつて遊んだ日出《ひじ》の人家も一眼に見える。アンコのあるまんじゅう[#「まんじゅう」に傍点]がまたうまい。  次《つ》ぎに地獄中の女王、海地獄を見た。この地獄については別に記述するところがあろう。地獄中の最も大きなもの、又《また》最も美しいものである。もうこの海地獄にある間に七時を過ぎた。  それから鉄輪《かんなわ》温泉に行った頃は店頭の電灯がともっていた。そこで鉄輪地獄というのを見た。この鉄輪地獄というのは以前来たときはなかったので、その後地下を掘っていると俄然《がぜん》として爆発したので新らしく地獄が現出したのだそうである。  この地獄には吸入室とか罨法室《あんほうしつ》[#ルビの「あんほうしつ」はママ]とかの設《もう》けもある。  そこでちょっと以前泊ったことのある富士屋の主婦《おかみ》さんを訪ねた。もとの通り太っていることは明かだったが、顔かたちを十分に識別することは出来ないほどに薄暗くなっていた。  夜路《よみち》をひた走りに走って鶴見地獄に出た。この鶴見地獄というのも昨年の春から爆発したものだそうである。泥土《でいど》を交《まじ》えない清透《せいとう》な熱湯を噴出している。  別府はこの前来たときよりも変っていることは明かになって来た。二大地獄の新たに増したことだけでも争うことの出来ぬ著名な[#「著名な」はママ]変化である。  土地を掘って温泉を出すということは、別府では随所に行われておる。別荘地などは一軒の小さい建物にも必ず温泉がついている。  別府の停車場には温泉の洗面所がある。小学校にも温泉の浴槽がある。警察にも同じく温泉の浴槽がある。温泉が空《むな》しく噴き出して夏草の上に流れているところは各所にある。  田の中に小さい小屋がけがしてあるのは何のためかと思うと、皆そこには温泉が出ているのである。温泉の出ているということを標榜《ひょうぼう》して、そこを別荘地に選《えら》む顧客を待っているのである。そうして堀ぬき井戸を掘るような装置が至るところにしてあるのは、皆新らしく温泉を掘っているのである。  その掘ったところが俄然《がぜん》爆発して大量の熱気を地上に噴出するようになったところが、新らしく出来た鶴見地獄や鉄輪地獄である。  温泉の数《すう》はかず限りもない。温泉場と名のついた別府、浜脇、観海寺、亀川、鉄輪、芝石、堀田、明礬《みょうばん》、新別府などがある。別府市内だけでも浴場が十あまりある。その他旅宿や個人の家には数限りなく温泉が湧出しているのである。  或人《あるひと》は今の別府は南の方に僻在《へきざい》している、亀川の東に[#「東に」はママ]ある実相寺山を中心として、大きな泉都《せんと》を建設せなければならぬといっている。或人は別府のうしろにそびゆる四千五百尺の高峰鶴見岳を中心にして、各所に点在する温泉郷を連結せなければならぬと説くものもある。  地熱を応用してすべての動力の基本としようとする地熱研究所というのがある。これは高橋|廉一《れんいち》氏の監《かん》するところである。その結果がよいところから、東京電灯が玖珠《くす》郡|飯田《はんだ》村|湯坪《ゆつぼ》に又《また》地熱研究所を設置している。  温泉栽培株式会社というものがある。これは温泉の熱を利用して果物を栽培しようというのである。  又《また》地球物理学研究所というのがある。これは京都大学がこの研究所を設けて温泉に関する基本的調査を開始しておる。  外《ほか》に温泉療養研究所というものが、九州大学により新たに開始されんとしている。これは医学の方面から温泉を研究しようとするのである。  海軍療養所もあり、鉄道療養所もあり、満鉄療養所もあり、台湾婦人療養所もある。  海岸には砂湯というものがある。これは潮の引いた時分に、その砂浜に五体を埋め、下から湧出する温泉に浴するのである。日本人はもとより西洋人、支那人なども同じように砂に埋まっている。妙齢の婦人もある。手足の萎《な》えた老人もある。  それのみならず、この別府の海には底にかず限りもなく温泉が湧出しておるらしい。その証拠は海底の水が暖かくて、熱帯地帯の海にいる美麗なる魚介の類《るい》が棲息している、それらが採取されてここの魚市場に出るとのことである。陸地至るところに温泉の湧くことを思えば、それも無稽《むけい》の説ということは出来まい。  のみならず、海水浴をするのにも、潮はあまり冷《つ》めたからず、快適の温度であるとのことである。  豊後《ぶんご》湾の風光は美しい。ここから日出《ひじ》を眺めた趣《おもむき》などはナポリに似ているとの評判がある。  何にせよ別府の大いなる強味は地下|尽《ことごと》く温泉であるということである。土地の人は泉都《せんと》と唱えて、日本の別府でない、天下の別府であると誇っている。泉都という言葉は面白くないが、湯の都たることは首肯《しゅこう》される。  然《しか》しながら、観海寺は観海寺土地株式会社というものの経営に移って、同じくその経営になる住宅地が、夏草を生やしつつ沢山《たくさん》に客を待っている。文化村という新住宅地も五、六軒新しく建ったままで人の住むのを見受けない。海岸の風光を台なしにした埋立地にも別荘が建ったままで未だ買手のないものが多い。海地獄の熱湯を引いた新別府の土地株式会社というものも出来ておる。これもあまりはかばかしくないようだ。不景気風に吹きまくられて湯の都の発達もちょっと小頓挫の形にある。  別府市と温泉、地獄の散在しておる附近の村との連絡が思わしくないようである。これは温泉地一帯を別府市に編入して一つの行政区域にしたいものである。各地獄の遊覧に一々料金を取るが如《ごと》きも廃止したいものである。これも個人の有になっておるために不便である。大別府を建設するためには第一着手としてこれ等は市有とすべきであろう。 [#3字下げ]二[#「二」は中見出し]  午前六時に眼ざめて顔を洗ったばかりで、飯も食わずに自動車に乗って、私は五里の山里を由布院《ゆふいん》村へと志した。亀の井主人油屋熊八氏|東道《とうどう》のもとに、日名子《ひなこ》太郎氏、満鉄の井上|致也《ともや》氏、大阪毎日別府通信所の本条君と共であった。  鶴見の山背《やませ》を越える頃になると由布の峰がポカリと現れはじめた。豊後《ぶんご》富士の称があるだけあってその尖峰《せんぽう》が人の目をひく。富士なれば、誰《たれ》かの絵で見た扇をなかばたたんで倒《さか》さに立てたような景色であった。その富士をうしろにして展望すると、すぐ天の一角に海を見て、佐田の岬、佐賀関あたりがほうふつ[#「ほうふつ」に傍点]と見える。又《また》はるかの雲際《うんさい》に祖母《そぼ》山脈、又それに並行した二、三の山脈を見はるかして景色がよい。それからしばらくの間は変化のない山路《やまみち》で、やがて小田の池、山下の池などを見、放牧された牛の行手をふさぐことなどがあって、漸《ようや》く下り路になった。 「時間が後《おく》れると靄《もや》が晴れてしまう」と熊八氏が心配していたが、山路が開けて一帯の谷を見渡した時に、 「ああ靄はもう晴れている」と落胆した。それでも一抹《いちまつ》の濃い靄はなお白くその辺を逍遥《さまよ》うていた。これが由布院村であった。  取りあえず亀の井別荘の亀楽園《きらくえん》に憩う。この別荘は瀟洒《しょうしゃ》たる小さい別荘であるが、竹縁《たけえん》に腰を下ろして仰ぐ由布の尖峰は類《たぐい》なく美しい。前面は斧《おの》の入らぬ茂った山で、その円《まる》い山の肩のところから突《とつ》として起《おこ》った二つの尖峰――ここからはその峰が二つに別れて見える――が青空にそびえ立っている様《さま》はえがくが如《ごと》く美しい。  この由布院村にもたくさんの温泉が湧出しておる。現にこの別荘のすぐ傍《そば》に錦鱗《きんりん》湖という池があるが、その池の岸辺にも温泉が湧出しておって、その岸辺の水は温かいとのことである。  その錦鱗湖に行って見たが、池の形も人工が加わっておらず自然で、沢山《たくさん》の浮草の生えているさまも面白く、又《また》岸にある藁家《わらや》の重なりあって建っている様《さま》も面白かった。  私たちはこの別荘で熊八氏の用意してくれたサンドウィッチを食し、やがて又自動車に乗って、更に六里の山路を越えて、飯田《はんだ》高原に行くことになったのである。  路《みち》は前の山路よりも更に悪くって自動車の動揺がはげしい。二、三里も来たろうと思うころ、お花畠ともいうべき秋草の咲いている所に出た。女郎花《おみなえし》、撫子《なでしこ》、女郎花に似て白い花(男郎花《おとこえし》とも違う)それにあざみ[#「あざみ」に傍点]などが咲き満ちているさまが美しかった。  崩平《くえんたいら》という山を一巡すると湧出《わくで》山という山が見え出す。続いて九重《くじゅう》山、久住《くじゅう》山、大船《たいせん》山、黒岳などという山が前面に現れた。恰《あたか》も列座の諸侯を見るような感じで威風堂々と並んでいた。九重山という山は白く欠き取ったようになっていた。これは硫黄をとっているためであって一名硫黄山というそうである。黒岳というのは自然林の密生している山で、他の山々と違って格段に黒いのが目に立つ。これらは総《すべ》て九州アルプスといわれる山であるそうだ。その前面に現れ来《きた》った高原が即《すなわ》ち飯田《はんだ》高原である。  その飯田高原は奥行二里幅三里ほどあって、一千|町歩《ちょうぶ》が水田になっているほかはすべて小さい熊笹の生い繁った高原である。自動車は路《みち》でないその熊笹の生えている所を自由に突破して走りもするのである。石が殆《ほとん》どなく、いずこでも取って路とすることが出来るのである。馬に乗って里人《さとびと》が通っていると思えば、自動車は路をそれて行くことが出来るのである。そんなところが二里も三里もつづいておるのである。  ある渓谷に沿うて白楢《しろなら》、山梨などという大木の枝に掛け出しが架けしつらえてある。これは熊八氏の工夫になったものである。そこで昼弁当を開いた。  ここらあたりにも又《また》沢山《たくさん》の湯がわいておる。湯坪《ゆつぼ》という村には筋《すじ》湯、大岳《おおたけ》地獄、疥癬《ひぜん》湯、河原の湯、田野《たの》という村には星生《ほっしょう》の湯、中野の湯、寒《かん》の地獄、筌《うけ》の口《くち》温泉というのがある。この弁当はその筌の口温泉の小野屋という旅館の主人がこしらえて来てくれたのである。その主人は馬に乗ってこの高原を横切って来たのである。  帰りに寒の地獄というところに行って見た。これは冷泉であって、普通の水よりつめたく、なかにはいると歯の根も合わずふるえるようにつめたい。男や女の色青ざめて入っているのを見た。冷却して病を治すという方法もあることかと思うた。  ゴルフ場や飛行機の着陸場はすぐここに出来るようになろうという熊八氏の気焔《きえん》を聞いた。ここには熊八氏の五万坪ほどの別荘の敷地がある。 [#ここから2字下げ]  錦鱗《きんりん》湖 萍《うきぐさ》の温泉《ゆ》の湧く岸に倚《よ》り茂る  自動車を下《おり》る 夏草《なつぐさ》に油蝉《あぶらぜみ》なく山路《やまじ》かな  旱《ひでり》 大夕立|来《く》るらし由布《ゆふ》の掻き曇り [#ここで字下げ終わり]  別府の地下は泉脈が縦横にあって、熱汽《ねっき》、熱沼《ねっしょう》、熱湯を噴出するものを地獄といい、適度の温度を保って湧出するものを温泉といっている。その地獄に血の池地獄とか、鶴見地獄とか、紺屋《こうや》地獄とかいうのがある。これは熱汽、熱泥を噴出する地獄である。海地獄はそれらの地獄とは異なりて大きな池に熱湯をたたえたもので、その色|青藍《せいらん》、大海の色に似ているところからこの名がある。  海地獄は地獄のうちで女王の感じがある。それも他に王様があっての女王でなく、たくさんの他の地獄の悪鬼羅刹《あっきらせつ》を自ら統率しておる女王の感じである。  その青藍色の湯池《とうち》は蠱惑《こわく》的である。美しさの余り眩惑されて身を投じるものもないとは限らぬ。又《また》十分の威厳を備えておる。百二十度の熱湯は儼《げん》として人を近寄らしめない。正《まさ》に女王の感じである。  私の日名子《ひなこ》氏等と共にここに行ったのは六時半を過ぎていたろう。濛々《もうもう》たる白煙は熱湯池から立ち上《あが》っていた。此方《こなた》より風吹けば彼方《かなた》の岸になびき、彼方より風吹けば此方の岸になびく。その白煙の隙から後ろの山の翠色《すいしょく》を仰ぐのも又風情がある。後ろの山もまた整うたたたずまいである。盛装した女王の衣冠《いかん》の趣《おもむき》がある。  そこの番人をしておる水戸の藩士の娘で薙刀《なぎなた》の上手なという尼子《あまこ》敏子さんに聞いて見る。 「小鳥が鳴いているようですが、あれは何鳥ですか」 「ひわ[#「ひわ」に傍点]です。他の小鳥もおりますがひわ[#「ひわ」に傍点]が一番多うございます」  語るもの聞くもの森閑《しんかん》とした景色に耳を澄ます。 「ほととぎす[#「ほととぎす」に傍点]も鳴きますか」 「鳴きます」  暫《しばら》く話がとだえておったが敏子さんはなおつけ加えていった。 「この春はきじ[#「きじ」に傍点]が二羽巣食うておりましたが、いつの間にかいなくなりました」 「花はどんなものが咲きます。今咲いているのは合歓《ねむ》の花ですね」と夕暮の山を見上げていった。 「そうです。それに山桜が多うございます。これからさきは櫨紅葉《はぜもみじ》が美しゅうございます」  この地獄でゆでた鶏卵を食べて見てくれとのことで一つ食べて見た。店の少女が私たちを見て鶏卵をざる[#「ざる」に傍点]に入れて前の熱湯の中につけた。それが一、二分でもう半熟になったのである。  貝原益軒の豊国《ほうこく》紀行に、 [#ここから2字下げ] その西の山際に海地獄とて池|有《あり》。熱湯なり。広さ二段|許《ばか》り。上の池より湧き出《いず》。上の池広さ方六|間許《けんばかり》。その辺《へん》岩の色赤し。岩の間よりわき出《い》ず。見る者恐る。先年|里人《さとびと》妻その夫といさかいて大《おおい》にいかりしがこの熱湯に身をなげけるに、やがて身はただれさけて、その髪ばかり浮《うか》び出《いず》。豊後風土記|曰《いわく》、速見《はやみ》郡|赤湯泉《せきとうせん》。この温泉も穴郡《あなごうり》の西北|竈門山《かまどもんやま》に有《あり》。その周り十五丈|斗《ばかり》。湯気赤くして泥土《でいど》有《あり》と即《すなわ》ち海地獄の事なるべし。 [#ここで字下げ終わり]  とある、赤い泥土であったのが、今は澄んだのか、或《あるい》はまたこの赤温泉は今の血の池地獄をいうものか、兎《と》に角《かく》風土記は延長以前の書物ということであれば、今から千年以前のものであるから、どう変化したかわからない。益軒の紀行文にも岩の赤くなっていることが書いてある。特に湯の清澄《せいちょう》なことは書いてない。ただ熱湯の恐るべきことを感じて湯の清澄なことを感じなかったのか、若《もし》くはその時分は湯は多少濁っておったのか。  夫婦喧嘩をして怒《いか》った女が飛び込んだのが死骸もとめずにただ髪だけが残ったというのは物すごい物語りだ。今でも転落して死ぬものがあるとのことである。また自ら死するのにこの美しい湯池《とうち》を選ぶものも皆無とはいえまい。 [#3字下げ]三[#「三」は中見出し]  この前来たときこんな印象が頭に残っておる。  それは日名子《ひなこ》氏に案内されて街の中のどこかの共同|温泉場《ゆば》を見に行ったとき、私たちの目の前には一人の若い女が現れた。それは裸のままで、腰にタオルをまいて、今湯から上《あが》ったところであろう、草臥《くたび》れてぐったりしたようすで、そこの縁《えん》に腰をかけて、後ろの羽目板にもたれかかっているところであった。そうして手に水蜜桃《すいみつとう》を持って、じっとその上に目を落《おと》しているところであった。この女は西洋絵で見たことのある裸体の女がぬけ出して来たのかと思われた。が、しかしそんなハイカラな女ではなく、この別府の温泉《ゆ》にふさわしい野趣のある一人の女であった。私はその後別府の町の温泉《ゆ》を思うと、この女を思わずにはおられなかった。  こんど別府に来て案内記を読んで見ると別府の町の温泉《ゆ》は宏壮《こうそう》なる建築だと書いてある。その桃の女がいた温泉《ゆ》は板で囲った古い温泉《ゆ》であったように思う。もしかするとその板で囲った温泉《ゆ》は取り毀《こ》わされて、それが宏壮な温泉《ゆ》に変っているのかも知れない。  地獄を案内してくれた日名子氏が今夜|又《また》町の温泉《ゆ》に案内してやろうとのことであった。  もう九時まで待ったが日名子氏は来なかった。私は寝床に入ろうと思った。新らしい町の温泉《ゆ》に桃の女はもういないにきまっているから。  別府の町は今日から祭礼である。きのうまでは宿のすぐ下の家で祭囃《まつりはや》しの練習に余念もなかった。寝床に入って後《のち》までも祭囃しは聞こえておった。今日は却《かえっ》てその囃しは聞こえない。先刻どこかで花火が揚がった。あれも祭の花火であろう。  そんなことを考えているところへ日名子氏が見えた。この町の旧家でしかも前《さき》の別府町時代の町長であった日名子氏はお祭りの行列についてあるかねばならなかったので、たいへん遅くなったといった。八年以前も案内に立ってくれた日名子氏にこの桃の女の話をすると、「あれは亀川《かめがわ》の四の温泉《ゆ》でした」といった。それを別府の温泉《ゆ》と思い違えたのは、八年の昔のことで記憶がおぼろになっていたためである。  その翌日であったが海岸の楼上《ろうじょう》で祭礼を見た。それは一つの船には神輿《みこし》が乗っていて、一人の男が妙な体の恰好をして太鼓を打っていた。その他にも男がいたが皆|静《しずか》にしていた。その他の船には矢張《やは》り太鼓を打っている男が一人いて、その他の男は皆船を左右に動かしていた。舷《ふなばた》に殆《ほとん》ど水がはいる位《くらい》に左右に動かしていた。船には旗が飾り立ててあったが、その船が左右にゆれるたびに旗が仰山《ぎょうさん》に左右にゆれた。そんな船が前後に五、六|艘《そう》もあって、かの神輿《みこし》の船を取り囲んでいた。これは浜脇にある金刀比羅《ことひら》神社の神体が海上を渡御《とぎょ》しているところであった。  海岸にはその渡御を見んための人々が蟻《あり》のはうように群集していた。やがてその船は皆波止場の中にはいってしまうと群衆も漸《ようや》くその波止場の方に移って行った。  日がくれてしまうと一面の闇が海上も海岸の建物も隠してしまった。ただ平等に真暗《まっくら》な天地となってしまった。その中に灯火《ともしび》のみがきらきらとしていた。海岸には一帯の灯《ひ》があった。水晶のすだれのような灯のかたまりが港を囲んでいた。その中に篝火《かがりび》が燃え立って、特に煌々《こうこう》と光り輝やいているものの動いているのは何かと見ると、それは神輿であった。最前船に乗って渡御しつつあった神輿が今は陸上に上げられて舁《か》かれつつあるのであった。群衆のそれを取り囲んでいる容子《ようす》がその篝火の光に照し出されていた。  海の上にもまた灯火《ともしび》が散らばって動いていた。それは多くは赤い火であった。目の下にも一隻のボートに赤いほおずき提灯《ちょうちん》をともして漕いで行くのがあった。聞けば沢山《たくさん》の温泉旅宿の番頭や女中なども十二時を過ぎると皆このボートに乗って海上に遊びに出るとのことである。その赤い灯《ひ》の此方《こなた》彼方《かなた》に動いている様《さま》が涼し気でまた楽しそうに見えた。  欄干《らんかん》にもたれてその火を見ておると、一人の人がこんな話をした。  春の四、五月の頃になると、山口県の大島郡とか佐波《さわ》郡とか又《また》愛媛県の八幡浜《やわたはま》附近の海岸の村では、一|艘《そう》の船に米、味噌、醤油を積み込んで、二、三十人の人が一団となってこの別府に来る。帆を掛けてはいって来たその船は、波止場に繋いで、三週間ばかり滞在する。その間それ等の人は勝手に共同温泉にはいって、夜はこの船に帰って寝る。船では「大島郡何々村」と書いた大きな札を帆柱に打ち付けて置くと郵便配達夫はその船まで郵便物を配るという風《ふう》であるそうな。時には御詠歌を歌って町をあるいて一銭二銭の報謝を受ける。一円か二円たまると、それで寄席にはいるとか氷水《こおりみず》を飲むとかするのを楽《たのし》みにしているそうな。一人五円|位《くらい》の費用で三週間入湯して行くことが出来るのだそうな。  亀川の四の湯に桃の女はまだきっといる。  日名子《ひなこ》氏が案内にたって大分市の元町にある磨崖《まがい》の石仏を見に行くことになった。折節《おりふし》同宿している五十嵐|播水《ばんすい》君も共に。  午前七時に宿を出た。途中にちょっと立ち寄ったところがあったので、電車で大分駅の前に着いたのは九時を過ぎる十分か二十分のころであったろう。それから人力車に乗ってその元町へとこころざした。元町というのは大友|氏《うじ》時代に古い町があったという意味であろうが、今の大分市としては殆《ほとん》ど郊外になっているところである。車はぞろぞろと田圃《たんぼ》の中の道を行くのである。折からのひでりで百姓の家族は皆畑に出て灌漑《かんがい》用水をいちいち汲み上げては田の中に注いでおる。子供は裸のままで、男は褌《まわし》一つで、女は編笠をかぶって、せっせと働いているさまはたのもしげである。右手に見える竹藪がお竹藪と称《とな》えて大友の屋敷跡であると日名子氏が説明してくれた。やがて元町の石仏についた。  その石仏は中央に大きな薬師如来、左右に不動明王、毘沙門天《びしゃもんてん》のかなり大きな像が彫ってあるのだが、凝灰岩の粗質な岩に彫ってあるため左右の像は首が落ちたり磨滅したりして殆ど原形を存しないのであるが、ただ中央の薬師如来だけは、片頬に大きな傷のあるほかは、まず完全な形を存しているといって好い。殊《こと》にそのそこなわれざる方の半面を見ると、端麗な相は鎌倉の大仏に似て更に柔和であるように思われた。たいへんに暑いので、暫《しばら》くその岩蔭にたたずんだ。風はなくともどことなく冷え冷えするので暫く息をついた。  それから竜ヶ鼻の十一面観世音その他の仏が沢山《たくさん》に彫ってある磨崖仏《まがいぶつ》を見た。これは殆《ほとん》どこわれてしまって僅《わずか》にそれと認める位《くらい》のものである。聞くところによると、昔乞食がすまっていて、その乞食小屋が焼けたために、岩の質が更に脆弱《ぜいじゃく》になって、さらでだに破損した仏は、いよいよ破損してその形をとどめぬまでになったのであるそうな。  これから二里ばかり離れたところにもたくさんの磨崖仏があるし、又《また》臼杵《うすき》のほとりにもたくさんの磨崖仏があるとのことであるが、一々それを見に行くのは暑い時分にたいへんなことである。私はこの二ヶ所の仏を見ただけで満足して引返すことにした。  この竜ヶ鼻に立って遠望すると田の中に一つの森が見える。この森を印鑰《いんやく》の森という。これはもと豊後《ぶんご》の国府のあとで、今は稲荷が祀ってある。又国分寺はここから一里半位のところに堂が存しておって、礎石が点々とそのあたりに残っているそうである。  私達は又車に乗って暑い日中をさきの停車場前に帰り、そこからまた電車に乗って別府の方に帰ることにした。  日名子《ひなこ》氏は、夕方涼しくなった時分にでも、別府市の近所の山にある横穴の古墳を見てもらいたいとのことであった。私はどうせ見るのならば又出て来るというのも面倒だから、この勢いに帰りに寄って見ようといった。そこで五十嵐君は今日の紅《くれない》丸で神戸に帰るとのことであったので途中で別れた。私と日名子氏とだけが浜脇で下車して、そこの腰掛茶屋で蠅のたかっておるすし[#「すし」に傍点]と生卵で腹をこしらえ、金比羅《こんぴら》山の南北両方面にある横穴|即《すなわ》ちカンカン仏《ぼとけ》の横穴およびその附近の横穴を一見した。非常に暑かった。谷間をたどっているときなどは蒸し殺されそうに暑かった。ただカンカン仏を見終って附近の山の背に出たときに、一陣の涼風が松の枝間《えだま》を吹いて来て、覚えず蘇生したような思いがした。暫《しばら》く芝の上に腰を下《おろ》して休んでいると、初めはそよそよと吹く風と思ったのが、なかなかにそれどころでなく、今は涼風を満喫するような心もちでいつまでも立ち去りがたい心地がした。ブーンとあぶ[#「あぶ」に傍点]が耳元をかすめて飛ぶのも快よいひびきに聞えた。夏蝶のひらひらと茅萱《かや》の上を飛んでいるのも涼しげな趣きに見えた。一本の蝙蝠傘《こうもりがさ》が谷川の蘆《あし》の間を此方《こちら》に来るのは何かと見ていると、やがてその蘆間から現れ出たのを見ると、その蝙蝠傘の大きいのには似合わない一人の洋服を着た少女であった。此方を向いて歩いていると思ううちに又《また》いつか向《むこ》うの方を向いて歩いていて、その曲りくねった田圃路をたどりつつあるのである。  日向《ひゅうが》の国は日本で最も古い国である。お隣のこの豊後の国もまた古い国であらねばならぬ。その古い国という証拠は、この磨崖仏や横穴の古墳があることによって証明せられる。  私はその少女のやがて向うの岨道《そばみち》をたどりつつあるのを静かに目送した。  別府市長の神沢《かみざわ》又一郎氏が来訪した時、いろいろの話を聞いた。  鉄道線路から下の方|即《すなわ》ち海岸に近いところは、掘ればいくらでも温泉が湧出するそうである。浅いところは十二、三|間《げん》深いところは六十四、五間掘ればよいので、深いところほど圧力高く温度が強いとのことである。  現在千四、五百の温泉が湧出しているそうである。現在あるところから四十尺以内には新らしく温泉を掘ることを禁じて濫掘《らんくつ》をいましめているとのことである。  鉄道線路から上の方即ち山手《やまて》の方は、掘っても温泉はたやすく出ないそうである。麻生太吉氏はその持っている山手の地面を別荘地として各戸に温泉を配布するために、別に湧出する冷泉を鉄管に引いて鶴見地獄の熱汽《ねっき》の間を通し温泉をつくることにしたそうである。二個の鉄管を熱汽の中に六尺か十尺の間通すことによって、優に所用の温度を与えることが出来るそうである。それほどその熱汽の熱度は高いのである。現在の鶴見地獄は沢山《たくさん》の熱湯を噴出している形だが、これも熱い熱汽の中に人工的に水を加えているのだとのことである。  来年四月別府に開かれる中外産業博覧会が特に温泉室なるものを設ける計画であるが、この麻生氏の一本の鉄管、即ち一分間四|石《こく》、六十度の温度のものを借うけることになっているとのことである。  この熱汽を吐いておる地獄は、竈《かまど》、血の池、紺屋《こうや》、鉄輪《かんなわ》その他にもある。熱汽に水を通して温泉とすることが出来るとならばまた新温泉は無数に出来るわけである。  朝からごうごうと飛行機が宿の上を飛ぶ。これは別府の海にうかんでおる水上飛行機が十分間十円で客を乗せて飛ぶのだそうである。油屋熊八氏はこの飛行機に乗って八景入選の喜びを大阪まで述べに行き、帰りには別府に寄らずすぐ長崎を訪《と》い、「西に雲仙東に別府中に火を吐く安蘇《あそ》の山」という俗謡をつくって国立公園の宣伝に努めている。頃日《けいじつ》また鶴見のふもとの扇山の向《むこ》う側に、小|上高地《かみこうち》ともいうべき一大渓谷があるのを発見したとのことで、氏自身二、三日のうちにこれが探検に出かけて行くといっていた。氏は弱冠六十五歳である。  別府の海には今二、三隻の軍艦が繋がっておる。船腹についたカキは別府湾の潮に浸ると忽《たちま》ち腐って落ちて仕舞《しま》うのである。水兵は嬉々《きき》として町の中を歩いておった。  鉄筋コンクリートの市の公会堂が新築されつつある。内容の設備は九州第一だと誇称しておる。浜脇温泉は新築工事を成すべく地鎮祭を行った。  宿の吾《わ》が部屋の真正面に聳《そび》えているものに高崎山がある。この山は由布《ゆふ》、鶴見などの山系とはやや離れて、別府湾頭にひとり超然として聳えておる。吾《わ》れ関せず焉《えん》という風《ふう》に。  その姿も好い。西洋人はこの山をヘルメットの山というそうである。  朝は一面に靄《もや》がかかってその山容は殊《こと》に柔かく見える。太陽が昇るに従ってはっきりと見えて来る。  雨が降ると必ずこの高崎山に雲がかかるという。この高崎山に雲がかかると雨が降るのかも知れない。わが部屋の軒《のき》いっぱいにひろがっているように感ぜらるるときもある。またそうでないときもある。  高崎山には猿が棲んでおるそうである。そうしてここは禁猟区になっておるので、猿は年々|蕃殖《はんしょく》するそうである。  高崎山には古城跡がある。それは何代目かの大友|氏《うじ》が築いた城である。  高崎山の木が茂っているところには魚族がその蔭に集まって漁が多いとのことである。  この座敷に坐っていて、一日の炎暑が漸《ようや》くかげろうとする時分になると、この高崎山に黒い影がうつりはじめる。それは日の西に入るとき鶴見の高峰が投げる影であろう。  高崎山は四極《しはつ》山というそうである。万葉集に [#2字下げ]しはつ山|打越《うちこ》えくれは笠縫《かさぬひ》の島|漕《こ》き帰る棚なし小舟《をぶね》     高市連黒人《たかいちむらじくろと》 とあるのはここだともいうし、それは摂津《せっつ》の磯歯津《しはつ》山を詠んだともいう。  私がまた紅《くれない》丸に乗ってこの別府を去るときには、海地獄の噴煙を遠く松林の中に眺めてしばらく甲板にたたずむであろう。そうしてその目は必ずこの高崎山に転ずるにきまっている。高崎山は永く永く私の目から離れぬであろう。 [#ここから2字下げ] 夕立待つ高崎山と諸共に 火の国の筑紫の旅の日焼かな 日焼せし旅の戻りの京の宿 [#ここで字下げ終わり] 底本:「日本八景 八大家執筆」平凡社ライブラリー、平凡社    2005(平成17)年3月10日初版第1刷 底本の親本:「日本八景―十六大家執筆」大阪毎日新聞社・東京日日新聞社    1928(昭和3)年8月15日再版 ※「趣」と「趣き」、「吾《わ》が」と「わが」、「新らしく」と「新しく」の混在は、底本通りです。 入力:岡村和彦 校正:sogo 2018年3月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。