門 夏目漱石 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)宗助《そうすけ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)二三|分《ぷん》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)鐉 /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)ぎら/\ *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 ------------------------------------------------------- [#8字下げ]一[#「一」は中見出し]  宗助《そうすけ》は先刻《さつき》から縁側《えんがは》へ坐蒲團《ざぶとん》を持《も》ち出《だ》して日當《ひあた》りの好《よ》ささうな所《ところ》へ氣樂《きらく》に胡坐《あぐら》をかいて見《み》たが、やがて手《て》に持《も》つてゐる雜誌《ざつし》を放《はふ》り出《だ》すと共《とも》に、ごろりと横《よこ》になつた。秋日和《あきびより》と名《な》のつく程《ほど》の上天氣《じやうてんき》なので、徃來《わうらい》を行《ゆ》く人《ひと》の下駄《げた》の響《ひゞき》が、靜《しづ》かな町丈《まちだけ》に、朗《ほが》らかに聞《きこ》えて來《く》る。肱枕《ひぢまくら》をして軒《のき》から上《うへ》を見上《みあげ》ると、奇麗《きれい》な空《そら》が一面《いちめん》に蒼《あを》く澄《す》んでゐる。其空《そのそら》が自分《じぶん》の寐《ね》てゐる縁側《えんがは》の窮屈《きゆうくつ》な寸法《すんぱふ》に較《くら》べて見《み》ると、非常《ひじやう》に廣大《くわうだい》である。たまの日曜《にちえう》に斯《か》うして緩《ゆつ》くり空《そら》を見《み》る丈《だけ》でも大分《だいぶ》違《ちが》ふなと思《おも》ひながら、眉《まゆ》を寄《よ》せて、ぎら/\する日《ひ》を少時《しばらく》見詰《みつ》めてゐたが、眩《まぼ》しくなつたので、今度《こんど》はぐるりと寐返《ねがへ》りをして障子《しやうじ》の方《はう》を向《む》いた。障子《しやうじ》の中《なか》では細君《さいくん》が裁縫《しごと》をしてゐる。 「おい、好《い》い天氣《てんき》だな」と話《はな》し掛《か》けた。細君《さいくん》は、 「えゝ」と云《い》つたなりであつた。宗助《そうすけ》も別《べつ》に話《はなし》がしたい譯《わけ》でもなかつたと見《み》えて、夫《それ》なり默《だま》つて仕舞《しま》つた。しばらくすると今度《こんど》は細君《さいくん》の方《はう》から、 「ちつと散歩《さんぽ》でも爲《し》て入《い》らつしやい」と云《い》つた。然《しか》し其時《そのとき》は宗助《そうすけ》が唯《たゞ》うんと云《い》ふ生返事《なまへんじ》を返《かへ》した丈《だけ》であつた。  二三|分《ぷん》して、細君《さいくん》は障子《しやうじ》の硝子《がらす》の所《ところ》へ顏《かほ》を寄《よ》せて、縁側《えんがは》に寐《ね》てゐる夫《をつと》の姿《すがた》を覗《のぞ》いて見《み》た。夫《をつと》はどう云《い》ふ了見《れうけん》か兩膝《りやうひざ》を曲《ま》げて海老《えび》の樣《やう》に窮屈《きゆうくつ》になつてゐる。さうして兩手《りやうて》を組《く》み合《あ》はして、其中《そのなか》へ黒《くろ》い頭《あたま》を突《つ》つ込《こ》んでゐるから、肱《ひぢ》に挾《はさ》まれて顏《かほ》がちつとも見《み》えない。 「貴方《あなた》そんな所《ところ》へ寐《ね》ると風邪《かぜ》引《ひ》いてよ」と細君《さいくん》が注意《ちゆうい》した。細君《さいくん》の言葉《ことば》は東京《とうきやう》の樣《やう》な、東京《とうきやう》でない樣《やう》な、現代《げんだい》の女學生《ぢよがくせい》に共通《きようつう》な一種《いつしゆ》の調子《てうし》を持《も》つてゐる。  宗助《そうすけ》は兩肱《りやうひぢ》の中《なか》で大《おほ》きな眼《め》をぱち/\させながら、 「寐《ね》やせん、大丈夫《だいぢやうぶ》だ」と小聲《こごゑ》で答《こた》へた。  夫《それ》から又《また》靜《しづ》かになつた。外《そと》を通《とほ》る護謨車《ごむぐるま》のベルの音《おと》が二三|度《ど》鳴《な》つた後《あと》から、遠《とほ》くで鷄《にはとり》の時音《とき》をつくる聲《こゑ》が聞《きこ》えた。宗助《そうすけ》は仕立卸《したておろ》しの紡績織《ばうせきおり》の脊中《せなか》へ、自然《じねん》と浸《し》み込《こ》んで來《く》る光線《くわうせん》の暖味《あたゝかみ》を、襯衣《しやつ》の下《した》で貪《むさ》ぼる程《ほど》味《あぢは》ひながら、表《おもて》の音《おと》を聽《き》くともなく聽《き》いてゐたが、急《きふ》に思《おも》ひ出《だ》した樣《やう》に、障子越《しやうじご》しの細君《さいくん》を呼《よ》んで、 「御米《およね》、近來《きんらい》の近《きん》の字《じ》はどう書《か》いたつけね」と尋《たづ》ねた。細君《さいくん》は別《べつ》に呆《あき》れた樣子《やうす》もなく、若《わか》い女《をんな》に特有《とくいう》なけたゝましい笑聲《わらひごゑ》も立《た》てず、 「近江《おほみ》のおほ[#「おほ」に傍点]の字《じ》ぢやなくつて」と答《こた》へた。 「其《その》近江《おほみ》のおほ[#「おほ」に傍点]の字《じ》が分《わか》らないんだ」  細君《さいくん》は立《た》て切《き》つた障子《しやうじ》を半分《はんぶん》ばかり開《あ》けて、敷居《しきゐ》の外《そと》へ長《なが》い物指《ものさし》を出《だ》して、其先《そのさき》で近《きん》の字《じ》を縁側《えんがは》へ書《か》いて見《み》せて、 「斯《か》うでしやう」と云《い》つた限《ぎり》、物指《ものさし》の先《さき》を、字《じ》の留《とま》つた所《ところ》へ置《お》いたなり、澄《す》み渡《わた》つた空《そら》を一《ひと》しきり眺《なが》め入《い》つた。宗助《そうすけ》は細君《さいくん》の顏《かほ》も見《み》ずに、 「矢《や》つ張《ぱ》り左樣《さう》か」と云《い》つたが、冗談《じようだん》でもなかつたと見《み》えて、別《べつ》に笑《わらひ》もしなかつた。細君《さいくん》も近《きん》の字《じ》は丸《まる》で氣《き》にならない樣子《やうす》で、 「本當《ほんたう》に好《い》い御天氣《おてんき》だわね」と半《なか》ば獨《ひと》り言《ごと》の樣《やう》に云《い》ひながら、障子《しやうじ》を開《あ》けた儘《まゝ》又《また》裁縫《しごと》を始《はじ》めた。すると宗助《そうすけ》は肱《ひぢ》で挾《はさ》んだ頭《あたま》を少《すこ》し擡《もた》げて、 「何《ど》うも字《じ》と云《い》ふものは不思議《ふしぎ》だよ」と始《はじ》めて細君《さいくん》の顏《かほ》を見《み》た。 「何故《なぜ》」 「何故《なぜ》つて、幾何《いくら》容易《やさし》い字《じ》でも、こりや變《へん》だと思《おも》つて疑《うた》ぐり出《だ》すと分《わか》らなくなる。此間《このあひだ》も今日《こんにち》の今《こん》の字《じ》で大變《たいへん》迷《まよ》つた。紙《かみ》の上《うへ》へちやんと書《か》いて見《み》て、ぢつと眺《なが》めてゐると、何《なん》だか違《ちが》つた樣《やう》な氣《き》がする。仕舞《しまひ》には見《み》れば見《み》る程《ほど》今《こん》らしくなくなつて來《く》る。――御前《おまい》そんな事《こと》を經驗《けいけん》した事《こと》はないかい」 「まさか」 「己丈《おれだけ》かな」と宗助《そうすけ》は頭《あたま》へ手《て》を當《あ》てた。 「貴方《あなた》何《ど》うかして入《い》らつしやるのよ」 「矢《や》つ張《ぱ》り神經衰弱《しんけいすゐじやく》の所爲《せゐ》かも知《し》れない」 「左樣《さう》よ」と細君《さいくん》は夫《をつと》の顏《かほ》を見《み》た。夫《をつと》は漸《やうや》く立《た》ち上《あが》つた。  針箱《はりばこ》と糸屑《いとくづ》の上《うへ》を飛《と》び越《こ》す樣《やう》に跨《また》いで茶《ちや》の間《ま》の襖《ふすま》を開《あ》けると、すぐ座敷《ざしき》である。南《みなみ》が玄關《げんくわん》で塞《ふさ》がれてゐるので、突《つ》き當《あた》りの障子《しやうじ》が、日向《ひなた》から急《きふ》に這入《はい》つて來《き》た眸《ひとみ》には、うそ寒《さむ》く映《うつ》つた。其所《そこ》を開《あ》けると、廂《ひさし》に逼《せま》る樣《やう》な勾配《こうばい》の崖《がけ》が、縁鼻《えんばな》から聳《そび》えてゐるので、朝《あさ》の内《うち》は當《あた》つて然《しか》るべき筈《はず》の日《ひ》も容易《ようい》に影《かげ》を落《おと》さない。崖《がけ》には草《くさ》が生《は》えてゐる。下《した》からして一側《ひとかは》も石《いし》で疊《たゝ》んでないから、何時《いつ》壞《くづ》れるか分《わか》らない虞《おそれ》があるのだけれども、不思議《ふしぎ》にまだ壞《くづ》れた事《こと》がないさうで、その爲《ため》か家主《やぬし》も長《なが》い間《あひだ》昔《むかし》の儘《まゝ》にして放《はふ》つてある。尤《もつと》も元《もと》は一面《いちめん》の竹藪《たけやぶ》だつたとかで、それを切《き》り開《ひら》く時《とき》に根丈《ねだけ》は掘《ほ》り返《かへ》さずに土堤《どて》の中《なか》に埋《うめ》て置《お》いたから、地《ぢ》は存外《ぞんぐわい》緊《しま》つてゐますからねと、町内《ちやうない》に二十|年《ねん》も住《す》んでゐる八百屋《やほや》の爺《おやぢ》が勝手口《かつてぐち》でわざ/\説明《せつめい》して呉《く》れた事《こと》がある。其時《そのとき》宗助《そうすけ》はだつて根《ね》が殘《のこ》つてゐれば、又《また》竹《たけ》が生《は》えて藪《やぶ》になりさうなものぢやないかと聞《き》き返《かへ》して見《み》た。すると爺《おやぢ》は、それがね、あゝ切《き》り開《ひら》かれて見《み》ると、さう甘《うま》く行《ゆ》くもんぢやありませんよ。然《しか》し崖丈《がけだけ》は大丈夫《だいぢやうぶ》です。どんな事《こと》があつたつて壞《く》えつこはねえんだからと、恰《あたか》も自分《じぶん》のものを辯護《べんご》でもする樣《やう》に力《りき》んで歸《かへ》つて行《い》つた。  崖《がけ》は秋《あき》に入《い》つても別《べつ》に色《いろ》づく樣子《やうす》もない。たゞ青《あを》い草《くさ》の匂《にほひ》が褪《さ》めて、不揃《ぶそろ》にもぢや/\する許《ばかり》である。薄《すゝき》だの蔦《つた》だのと云《い》ふ洒落《しやれ》たものに至《いた》つては更《さら》に見當《みあた》らない。其代《そのかは》り昔《むかし》の名殘《なご》りの孟宗《まうそう》が中途《ちゆうと》に二|本《ほん》、上《うへ》の方《はう》に三|本程《ぼんほど》すつくりと立《た》つてゐる。夫《それ》が多少《たせう》黄《き》に染《そ》まつて、幹《みき》に日《ひ》の射《さ》すときなぞは、軒《みき》から首《くび》を出《だ》すと、土手《どて》の上《うへ》に秋《あき》の暖味《あたゝかみ》を眺《なが》められる樣《やう》な心持《こゝろもち》がする。宗助《そうすけ》は朝《あさ》出《で》て四時過《よじすぎ》に歸《かへ》る男《をとこ》だから、日《ひ》の詰《つま》る此頃《このごろ》は、滅多《めつた》に崖《がけ》の上《うへ》を覗《のぞ》く暇《ひま》を有《も》たなかつた。暗《くら》い便所《べんじよ》から出《で》て、手水鉢《てうづばち》の水《みづ》を手《て》に受《う》けながら、不圖《ふと》廂《ひさし》の外《そと》を見上《みあ》げた時《とき》、始《はじ》めて竹《たけ》の事《こと》を思《おも》ひ出《だ》した。幹《みき》の頂《いたゞき》に濃《こま》かな葉《は》が集《あつ》まつて、丸《まる》で坊主頭《ばうずあたま》の樣《やう》に見《み》える。それが秋《あき》の日《ひ》に醉《よ》つて重《おも》く下《した》を向《む》いて、寂《ひつ》そりと重《かさ》なつた葉《は》が一|枚《まい》も動《うご》かない。  宗助《そうすけ》は障子《しやうじ》を閉《た》てゝ座敷《ざしき》へ歸《かへ》つて、机《つくゑ》の前《まへ》へ坐《すわ》つた。座敷《ざしき》とは云《い》ひながら客《きやく》を通《とほ》すから左樣《さう》名《な》づける迄《まで》で、實《じつ》は書齋《しよさい》とか居間《ゐま》とか云《い》ふ方《はう》が穩當《をんたう》である。北側《きたがは》に床《とこ》があるので、申譯《まをしわけ》の爲《ため》に變《へん》な軸《ぢく》を掛《か》けて、其前《そのまへ》に朱泥《しゆでい》の色《いろ》をした拙《せつ》な花活《はないけ》が飾《かざ》つてある。欄間《らんま》には額《がく》も何《なに》もない。唯《たゞ》眞鍮《しんちゆう》の折釘丈《をれくぎだけ》が二|本《ほん》光《ひか》つてゐる。其他《そのた》には硝子戸《がらすど》の張《は》つた書棚《しよだな》が一《ひと》つある。けれども中《なか》には別《べつ》に是《これ》と云《い》つて目立《めだ》つ程《ほど》の立派《りつぱ》なものも這入《はい》つてゐない。  宗助《そうすけ》は銀金具《ぎんかなぐ》の付《つ》いた机《つくゑ》の抽出《ひきだし》を開《あ》けて頻《しきり》に中《なか》を檢《しら》べ出《だ》したが、別《べつ》に何《なに》も見付《みつ》け出《だ》さないうちに、はたりと締《し》めて仕舞《しま》つた。夫《それ》から硯箱《すゞりばこ》の葢《ふた》を取《と》つて、手紙《てがみ》を書《か》き始《はじ》めた。一|本《ぽん》書《か》いて封《ふう》をして、一寸《ちよつと》考《かんが》へたが、 「おい、佐伯《さへき》のうちは中六番町《なかろくばんちやう》何番地《なんばんち》だつたかね」と襖越《ふすまごし》に細君《さいくん》に聞《き》いた。 「二十五|番地《ばんち》ぢやなくつて」と細君《さいくん》は答《こた》へたが、宗助《そうすけ》が名宛《なあて》を書《か》き終《をは》る頃《ころ》になつて、 「手紙《てがみ》ぢや駄目《だめ》よ、行《い》つて能《よ》く話《はなし》をして來《こ》なくつちや」と付《つ》け加《くは》へた。 「まあ、駄目《だめ》迄《まで》も手紙《てがみ》を一|本《ぽん》出《だ》して置《お》かう。夫《それ》で不可《いけ》なかつたら出掛《でか》けるとするさ」と云《い》ひ切《き》つたが、細君《さいくん》が返事《へんじ》をしないので、 「ねぇ、おい、夫《それ》で好《い》いだらう」と念《ねん》を押《お》した。  細君《さいくん》は惡《わる》いとも云《い》ひ兼《かね》たと見《み》えて、其上《そのうへ》爭《あらそ》ひもしなかつた。宗助《そうすけ》は郵便《いうびん》を持《も》つた儘《まゝ》、座敷《ざしき》から直《す》ぐ玄關《げんくわん》に出《で》た。細君《さいくん》は夫《をつと》の足音《あしおと》を聞《き》いて始《はじ》めて、座《ざ》を立《た》つたが、是《これ》は茶《ちや》の間《ま》の縁傳《えんづた》ひに玄關《げんくわん》に出《で》た。 「一寸《ちよつと》散歩《さんぽ》に行《い》つて來《く》るよ」 「行《い》つて入《い》らつしやい」と細君《さいくん》は微笑《びせう》しながら答《こた》へた。  三十|分《ぷん》許《ばかり》して格子《かうし》ががらりと開《あ》いたので、御米《およね》は又《また》裁縫《しごと》の手《て》を已《や》めて、縁傳《えんづた》ひに玄關《げんくわん》へ出《で》て見《み》ると、歸《かへ》つたと思《おも》ふ宗助《そうすけ》の代《かは》りに、高等學校《かうとうがくかう》の制帽《せいばう》を被《かぶ》つた、弟《おとうと》の小六《ころく》が這入《はい》つて來《き》た。袴《はかま》の裾《すそ》が五六|寸《すん》しか出《で》ない位《くらゐ》の長《なが》い黒羅紗《くろラシヤ》のマントの釦《ぼたん》を外《はづ》しながら、 「暑《あつ》い」と云《い》つてゐる。 「だつて餘《あん》まりだわ。此《この》御天氣《おてんき》にそんな厚《あつ》いものを着《き》て出《で》るなんて」 「何《なに》、日《ひ》が暮《く》れたら寒《さむ》いだらうと思《おも》つて」と小六《ころく》は云譯《いひわけ》を半分《はんぶん》しながら、嫂《あによめ》の後《あと》に跟《つ》いて、茶《ちや》の間《ま》へ通《とほ》つたが、縫《ぬ》ひ掛《か》けてある着物《きもの》へ眼《め》を着《つ》けて、 「相變《あひかは》らず精《せい》が出《で》ますね」と云《い》つたなり、長火鉢《ながひばち》の前《まへ》へ胡坐《あぐら》をかいた。嫂《あによめ》は裁縫《しごと》を隅《すみ》の方《はう》へ押《お》し遺《や》つて置《お》いて、小六《ころく》の向《むかふ》へ來《き》て、一寸《ちよつと》鐵瓶《てつびん》を卸《おろ》して炭《すみ》を繼《つ》ぎ始《はじ》めた。 「御茶《おちや》なら澤山《たくさん》です」と小六《ころく》が云《い》つた。 「厭《いや》?」と女學生流《ぢよがくせいりう》に念《ねん》を押《お》した御米《およね》は、 「ぢや御菓子《おくわし》は」と云《い》つて笑《わら》ひかけた。 「有《あ》るんですか」と小六《ころく》が聞《き》いた。 「いゝえ、無《な》いの」と正直《しやうぢき》に答《こた》へたが、思《おも》ひ出《だ》した樣《やう》に、「待《ま》つて頂戴《ちやうだい》、有《あ》るかも知《し》れないわ」と云《い》ひながら立《た》ち上《あ》がる拍子《ひやうし》に、横《よこ》にあつた炭取《すみとり》を取《と》り退《の》けて、袋戸棚《ふくろとだな》を開《あ》けた。小六《ころく》は御米《およね》の後姿《うしろすがた》の、羽織《はおり》が帶《おび》で高《たか》くなつた邊《あたり》を眺《なが》めてゐた。何《なに》を探《さが》すのだか中々《なか/\》手間《てま》が取《と》れさうなので、 「ぢや御菓子《おくわし》も廢《よ》しにしませう。それよりか、今日《けふ》は兄《にい》さんは何《ど》うしました」と聞《き》いた。 「兄《にい》さんは今《いま》一寸《ちよいと》」と後向《うしろむき》の儘《まゝ》答《こた》へて、御米《およね》は矢張《やは》り戸棚《とだな》の中《なか》を探《さが》してゐる。やがてぱたりと戸《と》を締《し》めて、 「駄目《だめ》よ。何時《いつ》の間《ま》にか兄《にい》さんがみんな食《た》べて仕舞《しま》つた」と云《い》ひながら、又《また》火鉢《ひばち》の向《むかふ》へ歸《かへ》つて來《き》た。 「ぢや晩《ばん》に何《なに》か御馳走《ごちそう》なさい」 「えゝ爲《し》てよ」と柱時計《はしらどけい》を見《み》ると、もう四時《よじ》近《ちか》くである。御米《およね》は「四時《よじ》、五時《ごじ》、六時《ろくじ》」と時間《じかん》を勘定《かんぢやう》した。小六《ころく》は默《だま》つて嫂《あによめ》の顏《かほ》を見《み》てゐた。彼《かれ》は實際《じつさい》嫂《あによめ》の御馳走《ごちそう》には餘《あま》り興味《きようみ》を持《も》ち得《え》なかつたのである。 「姉《ねえ》さん、兄《にい》さんは佐伯《さへき》へ行《い》つて呉《く》れたんですかね」と聞《き》いた。 「此間《このあひだ》から行《ゆ》く行《ゆ》くつて云《い》つてる事《こと》は云《い》つてるのよ。だけど、兄《にい》さんも朝《あさ》出《で》て夕方《ゆふがた》に歸《かへ》るんでせう。歸《かへ》ると草臥《くたび》れちまつて、御湯《おゆ》に行《ゆ》くのも大儀《たいぎ》さうなんですもの。だから、さう責《せ》めるのも實際《じつさい》御氣《おき》の毒《どく》よ」 「そりや兄《にい》さんも忙《いそ》がしいには違《ちがひ》なからうけれども、僕《ぼく》もあれが極《き》まらないと氣掛《きがゝ》りで落《お》ち付《つ》いて勉強《べんきやう》も出來《でき》ないんだから」と云《い》ひながら、小六《ころく》は眞鍮《しんちゆう》の火箸《ひばし》を取《と》つて火鉢《ひばち》の灰《はひ》の中《なか》へ何《なに》かしきりに書《か》き出《だ》した。御米《およね》は其《その》動《うご》く火箸《ひばち》の先《さき》を見《み》てゐた。 「だから先刻《さつき》手紙《てがみ》を出《だ》して置《お》いたのよ」と慰《なぐさ》める樣《やう》に云《い》つた。 「何《なん》て」 「そりや私《わたし》もつい見《み》なかつたの。けれども、屹度《きつと》あの相談《さうだん》よ。今《いま》に兄《にい》さんが歸《かへ》つて來《き》たら聞《き》いて御覽《ごらん》なさい。屹度《きつと》左樣《さう》よ」 「もし手紙《てがみ》を出《だ》したのなら、其《その》用《よう》には違《ちがひ》ないでせう」 「えゝ、本當《ほんたう》に出《だ》したのよ。今《いま》兄《にい》さんが其《その》手紙《てがみ》を持《も》つて、出《だ》しに行《い》つた所《ところ》なの」  小六《ころく》はこれ以上《いじやう》辯解《べんかい》の樣《やう》な慰藉《ゐしや》の樣《やう》な嫂《あによめ》の言葉《ことば》に耳《みゝ》を借《か》したくなかつた。散歩《さんぽ》に出《で》る閑《ひま》があるなら、手紙《てがみ》の代《かは》りに自分《じぶん》で足《あし》を運《はこ》んで呉《く》れたらよささうなものだと思《おも》ふと餘《あま》り好《い》い心持《こゝろもち》でもなかつた。座敷《ざしき》へ來《き》て、書棚《しよだな》の中《なか》から赤《あか》い表紙《へうし》の洋書《やうしよ》を出《だ》して、方々《はう/″\》頁《ページ》を剥《はぐ》つて見《み》てゐた。 [#8字下げ]二[#「二」は中見出し]  其所《そこ》に氣《き》の付《つ》かなかつた宗助《そうすけ》は、町《まち》の角迄《かどまで》來《き》て、切手《きつて》と「敷島《しきしま》」を同《おな》じ店《みせ》で買《か》つて、郵便丈《いうびんだけ》はすぐ出《だ》したが、其《その》足《あし》で又《また》同《おな》じ道《みち》を戻《もど》るのが何《なん》だか不足《ふそく》だつたので、啣《くは》え烟草《たばこ》の烟《けむ》を秋《あき》の日《ひ》に搖《ゆら》つかせながら、ぶら/\歩《ある》いてゐるうちに、どこか遠《とほ》くへ行《い》つて、東京《とうきやう》と云《い》ふ所《ところ》はこんな所《ところ》だと云《い》ふ印象《いんしやう》をはつきり頭《あたま》の中《なか》へ刻《きざ》み付《つ》けて、さうして夫《それ》を今日《けふ》の日曜《にちえう》の土産《みやげ》に家《うち》へ歸《かへ》つて寐《ね》やうと云《い》ふ氣《き》になつた。彼《かれ》は年來《ねんらい》東京《とうきやう》の空氣《くうき》を吸《す》つて生《い》きてゐる男《をとこ》であるのみならず、毎日《まいにち》役所《やくしよ》の行通《ゆきかよひ》には電車《でんしや》を利用《りよう》して、賑《にぎ》やかな町《まち》を二|度《ど》づゝは屹度《きつと》徃《い》つたり來《き》たりする習慣《しふくわん》になつてゐるのではあるが、身體《からだ》と頭《あたま》に樂《らく》がないので、何時《いつ》でも上《うは》の空《そら》で素通《すどほ》りをする事《こと》になつてゐるから、自分《じぶん》が其《その》賑《にぎ》やかな町《まち》の中《なか》に活《いき》てゐると云《い》ふ自覺《じかく》は近來《きんらい》頓《とん》と起《おこ》つた事《こと》がない。尤《もつと》も平生《へいぜい》は忙《いそ》がしさに追《お》はれて、別段《べつだん》氣《き》にも掛《か》からないが、七日《なのか》に一|返《ぺん》の休日《きうじつ》が來《き》て、心《こゝろ》がゆつたりと落《お》ち付《つ》ける機會《きくわい》に出逢《であ》ふと、不斷《ふだん》の生活《せいくわつ》が急《きふ》にそわ/\した上調子《うはてうし》に見《み》えて來《く》る。必竟《ひつきやう》自分《じぶん》は東京《とうきやう》の中《なか》に住《す》みながら、ついまだ東京《とうきやう》といふものを見《み》た事《こと》がないんだといふ結論《けつろん》に到着《たうちやく》すると、彼《かれ》は其所《そこ》に何時《いつ》も妙《めう》な物淋《ものさび》しさを感《かん》ずるのである。  さう云《い》ふ時《とき》には彼《かれ》は急《きふ》に思《おも》ひ出《だ》した樣《やう》に町《まち》へ出《で》る。其上《そのうへ》懷《ふところ》に多少《たせう》餘裕《よゆう》でもあると、是《これ》で一《ひと》つ豪遊《がういう》でもして見樣《みやう》かと考《かんが》へる事《こと》もある。けれども彼《かれ》の淋《さび》しみは、彼《かれ》を思《おも》ひ切《き》つた極端《きよくたん》に驅《か》り去《さ》る程《ほど》に、強烈《きやうれつ》の程度《ていど》なものでないから、彼《かれ》が其所《そこ》迄《まで》猛進《まうしん》する前《まへ》に、それも馬鹿々々《ばか/\》しくなつて已《や》めて仕舞《しま》ふ。のみならず、斯《こ》んな人《ひと》の常態《じやうたい》として、紙入《かみいれ》の底《そこ》が大抵《たいてい》の場合《ばあひ》には、輕擧《けいきよ》を戒《いまし》める程度内《ていどない》に膨《ふく》らんでゐるので、億劫《おくくふ》な工夫《くふう》を凝《こら》すよりも、懷手《ふところで》をして、ぶらりと家《うち》へ歸《かへ》る方《はう》が、つい樂《らく》になる。だから宗助《そうすけ》の淋《さび》しみは單《たん》なる散歩《さんぽ》か觀工場《くわんこうば》縱覽《じゆうらん》位《ぐらゐ》な所《ところ》で、次《つぎ》の日曜《にちえう》迄《まで》は何《ど》うか斯《か》うか慰藉《ゐしや》されるのである。  此日《このひ》も宗助《そうすけ》は兎《と》も角《かく》もと思《おも》つて電車《でんしや》へ乘《の》つた。所《ところ》が日曜《にちえう》の好天氣《かうてんき》にも拘《かゝは》らず、平常《へいじやう》よりは乘客《じようきやく》が少《すく》ないので例《れい》になく乘心地《のりごゝち》が好《よ》かつた。其上《そのうへ》乘客《じようきやく》がみんな平和《へいわ》な顏《かほ》をして、どれもこれも悠《ゆつ》たりと落付《おちつ》いてゐる樣《やう》に見《み》えた。宗助《そうすけ》は腰《こし》を掛《か》けながら、毎朝《まいあさ》例刻《れいこく》に先《さき》を爭《あらそ》つて席《せき》を奪《うば》ひ合《あ》ひながら、丸《まる》の内《うち》方面《はうめん》へ向《むか》ふ自分《じぶん》の運命《うんめい》を顧《かへり》みた。出勤刻限《しゆつきんこくげん》の電車《でんしや》の道伴《みちづれ》程《ほど》殺風景《さつぷうけい》なものはない。革《かは》にぶら下《さ》がるにしても、天鵞絨《びろうど》に腰《こし》を掛《か》けるにしても、人間的《にんげんてき》な優《やさ》しい心持《こゝろもち》の起《おこ》つた試《ためし》は未《いま》だ甞《かつ》てない。自分《じぶん》も夫《それ》で澤山《たくさん》だと考《かんが》へて、器械《きかい》か何《なん》ぞと膝《ひざ》を突《つ》き合《あは》せ肩《かた》を並《なら》べたかの如《ごと》くに、行《い》きたい所《ところ》迄《まで》同席《どうせき》して不意《ふい》と下《お》りて仕舞《しま》ふ丈《だけ》であつた。前《まへ》の御婆《おばあ》さんが八《やつ》つ位《ぐらゐ》になる孫娘《まごむすめ》の耳《みゝ》の所《ところ》へ口《くち》を付《つ》けて何《なに》か云《い》つてゐるのを、傍《そば》に見《み》てゐた三十|恰好《がつかう》の商家《しやうか》の御神《おかみ》さんらしいのが、可愛《かあい》らしがつて、年《とし》を聞《き》いたり名《な》を尋《たづ》ねたりする所《ところ》を眺《なが》めてゐると、今更《いまさら》ながら別《べつ》の世界《せかい》に來《き》た樣《やう》な心持《こゝろもち》がした。  頭《あたま》の上《うへ》には廣告《くわうこく》が一面《いちめん》に枠《わく》に嵌《は》めて掛《か》けてあつた。宗助《そうすけ》は平生《へいぜい》これにさへ氣《き》が付《つ》かなかつた。何心《なにごゝろ》なしに一|番目《ばんめ》のを讀《よ》んで見《み》ると、引越《ひつこし》は容易《ようい》に出來《でき》ますと云《い》ふ移轉會社《いてんぐわいしや》の引札《ひきふだ》であつた。其次《そのつぎ》には經濟《けいざい》を心得《こゝろえ》る人《ひと》は、衞生《ゑいせい》に注意《ちゆうい》する人《ひと》は、火《ひ》の用心《ようじん》を好《この》むものは、と三|行《ぎやう》に並《なら》べて置《お》いて其後《そのあと》に瓦斯竈《ガスがま》を使《つか》へと書《か》いて、瓦斯竈《ガスがま》から火《ひ》の出《で》てゐる畫《ゑ》迄《まで》添《そ》へてあつた。三|番目《ばんめ》には露國文豪《ろこくぶんがう》トルストイ|伯《はく》傑作《けつさく》「千古《せんこ》の雪《ゆき》」と云《い》ふのと、バンカラ喜劇《きげき》小辰《こたつ》大一座《おほいちざ》と云《い》ふのが、赤地《あかぢ》に白《しろ》で染《そ》め拔《ぬ》いてあつた。  宗助《そうすけ》は約《やく》十|分《ぷん》も掛《か》かつて凡《すべ》ての廣告《くわうこく》を丁寧《ていねい》に三|返程《べんほど》讀《よ》み直《なほ》した。別《べつ》に行《い》つて見《み》やうと思《おも》ふものも、買《か》つて見《み》たいと思《おも》ふものも無《な》かつたが、たゞ是等《これら》の廣告《くわうこく》が判然《はつきり》と自分《じぶん》の頭《あたま》に映《うつ》つて、さうして夫《それ》を一々《いち/\》讀《よ》み終《おほ》せた時間《じかん》のあつた事《こと》と、それを悉《こと/″\》く理解《りかい》し得《え》たと云《い》ふ心《こゝろ》の餘裕《よゆう》が、宗助《そうすけ》には少《すく》なからぬ滿足《まんぞく》を與《あた》へた。彼《かれ》の生活《せいくわつ》は是程《これほど》の餘裕《よゆう》にすら誇《ほこ》りを感《かん》ずる程《ほど》に、日曜《にちえう》以外《いぐわい》の出入《ではい》りには、落《お》ち付《つ》いてゐられないものであつた。  宗助《そうすけ》は駿河臺下《するがだいした》で電車《でんしや》を降《お》りた。降《お》りるとすぐ右側《みぎがは》の窓硝子《まどがらす》の中《なか》に美《うつく》しく並《なら》べてある洋書《やうしよ》に眼《め》が付《つ》いた。宗助《そうすけ》はしばらく其前《そのまへ》に立《た》つて、赤《あか》や青《あを》や縞《しま》や模樣《もやう》の上《うへ》に、鮮《あざや》かに叩《たゝ》き込《こ》んである金文字《きんもじ》を眺《なが》めた。表題《へうだい》の意味《いみ》は無論《むろん》解《わか》るが、手《て》に取《と》つて、中《なか》を檢《しら》べて見《み》やうといふ好奇心《かうきしん》はちつとも起《おこ》らなかつた。本屋《ほんや》の前《まへ》を通《とほ》ると、屹度《きつと》中《なか》へ這入《はい》つて見《み》たくなつたり、中《なか》へ這入《はい》ると必《かなら》ず何《なに》か欲《ほ》しくなつたりするのは、宗助《そうすけ》から云《い》ふと、既《すで》に一昔《ひとむか》し前《まへ》の生活《せいくわつ》である。たゞ History《ヒストリ》 of《オフ》 Gambling《ガムブリング》(博奕史《ばくえきし》)と云《い》ふのが、殊更《ことさら》に美裝《びさう》して、一番《いちばん》眞中《まんなか》に飾《かざ》られてあつたので、それが幾分《いくぶん》か彼《かれ》の頭《あたま》に突飛《とつぴ》な新《あたら》し味《み》を加《くは》へた丈《だけ》であつた。  宗助《そうすけ》は微笑《びせう》しながら、急忙《せは》しい通《とほ》りを向側《むかふがは》へ渡《わた》つて、今度《こんど》は時計屋《とけいや》の店《みせ》を覗《のぞ》き込《こ》んだ。金時計《きんどけい》だの金鎖《きんぐさり》が幾《いく》つも並《なら》べてあるが、是《これ》もたゞ美《うつく》しい色《いろ》や恰好《かつかう》として、彼《かれ》の眸《ひとみ》に映《うつ》る丈《だけ》で、買《か》ひたい了簡《れうけん》を誘致《いうち》するには至《いた》らなかつた。其癖《そのくせ》彼《かれ》は一々《いち/\》絹糸《きぬいと》で釣《つ》るした價格札《ねだんふだ》を讀《よ》んで、品物《しなもの》と見較《みくら》べて見《み》た。さうして實際《じつさい》金時計《きんどけい》の安價《あんか》なのに驚《おど》ろいた。  蝙蝠傘屋《かうもりがさや》の前《まへ》にも一寸《ちよつと》立《た》ち留《ど》まつた。西洋《せいやう》小間物《こまもの》を賣《う》る店先《みせさき》では、禮帽《シルクハツト》の傍《わき》に懸《か》けてあつた襟飾《えりかざ》りに眼《め》が付《つ》いた。自分《じぶん》の毎日《まいにち》掛《か》けてゐるのよりも大變《たいへん》柄《がら》が好《よ》かつたので、價《ね》を聞《き》いて見樣《みやう》かと思《おも》つて、半分《はんぶん》店《みせ》の中《なか》へ這入《はい》りかけたが、明日《あした》から襟飾《えりかざ》りなどを懸《か》け替《かへ》た所《ところ》が下《くだ》らない事《こと》だと思《おも》ひ直《なほ》すと、急《きふ》に蟇口《がまぐち》の口《くち》を開《あ》けるのが厭《いや》になつて行《ゆ》き過《す》ぎた。呉服店《ごふくみせ》でも大分《だいぶ》立見《たちみ》をした。鶉御召《うづらおめし》だの、高貴織《かうきおり》だの、清凌織《せいりようおり》だの、自分《じぶん》の今日《こんにち》迄《まで》知《し》らずに過《す》ぎた名《な》を澤山《たくさん》覺《おぼ》えた。京都《きやうと》の襟新《えりしん》と云《い》ふ家《うち》の出店《でみせ》の前《まへ》で、窓硝子《まどがらす》へ帽子《ばうし》の鍔《つば》を突《つ》き付《つ》ける樣《やう》に近《ちか》く寄《よ》せて、精巧《せいかう》に刺繍《ぬひ》をした女《をんな》の半襟《はんえり》を、いつ迄《まで》も眺《なが》めてゐた。その中《うち》に丁度《ちやうど》細君《さいくん》に似合《にあひ》さうな上品《じやうひん》なのがあつた。買《か》つて行《い》つて遣《や》らうかといふ氣《き》が一寸《ちよつと》起《おこ》るや否《いな》や、そりや五六|年前《ねんぜん》の事《こと》だと云《い》ふ考《かんがへ》が後《あと》から出《で》て來《き》て、折角《せつかく》心持《こゝろもち》の好《い》い思《おも》ひ付《つき》をすぐ揉《も》み消《け》して仕舞《しま》つた。宗助《そうすけ》は苦笑《くせう》しながら窓硝子《まどがらす》を離《はな》れて又《また》歩《ある》き出《だ》したが、それから半町《はんちやう》程《ほど》の間《あいだ》は何《なん》だか詰《つま》らない樣《やう》な氣分《きぶん》がして、徃來《わうらい》にも店先《みせさき》にも格段《かくだん》の注意《ちゆうい》を拂《はら》はなかつた。  不圖《ふと》氣《き》が付《つ》いて見《み》ると角《かど》に大《おほ》きな雜誌屋《ざつしや》があつて、其《その》軒先《のきさき》には新刊《しんかん》の書物《しよもつ》が大《おほ》きな字《じ》で廣告《くわうこく》してある。梯子《はしご》の樣《やう》な細長《ほそなが》い枠《わく》へ紙《かみ》を張《は》つたり、ペンキ塗《ぬり》の一|枚板《まいいた》へ模樣畫《もやうぐわ》見《み》た樣《やう》な色彩《しきさい》を施《ほど》こしたりしてある。宗助《そうすけ》はそれを一々《いち/\》讀《よ》んだ。著者《ちよしや》の名前《なまへ》も作物《さくぶつ》の名前《なまへ》も、一|度《ど》は新聞《しんぶん》の廣告《くわうこく》で見《み》た樣《やう》でもあり、又《また》全《まつた》く新奇《しんき》の樣《やう》でもあつた。  此《この》店《みせ》の曲《まが》り角《かど》の影《かげ》になつた所《ところ》で、黒《くろ》い山高帽《やまたかばう》を被《かぶ》つた三十|位《ぐらゐ》の男《をとこ》が地面《ぢめん》の上《うへ》へ氣樂《きらく》さうに胡坐《あぐら》をかいて、えゝ御子供衆《おこどもしゆう》の御慰《おなぐさ》みと云《い》ひながら、大《おほ》きな護謨風船《ごむふうせん》を膨《ふく》らましてゐる。それが膨《ふく》れると自然《しぜん》と達磨《だるま》の恰好《かつかう》になつて、好加減《いゝかげん》な所《ところ》に眼口《めくち》迄《まで》墨《すみ》で書《か》いてあるのに宗助《そうすけ》は感心《かんしん》した。其上《そのうへ》一度《いちど》息《いき》を入《い》れると、何時《いつ》迄《まで》も膨《ふく》れてゐる。且《かつ》指《ゆび》の先《さき》へでも、手《て》の平《ひら》の上《うへ》へでも自由《じいう》に尻《しり》が据《すわ》る。それが尻《しり》の穴《あな》へ楊枝《やうじ》の樣《やう》な細《ほそ》いものを突《つ》つ込《こ》むとしゆうつと一度《いちど》に收縮《しうしゆく》して仕舞《しま》ふ。  忙《いそ》がしい徃來《わうらい》の人《ひと》は何人《なんにん》でも通《とほ》るが、誰《だれ》も立《た》ち留《どま》つて見《み》る程《ほど》のものはない。山高帽《やまたかばう》の男《をとこ》は賑《にぎ》やかな町《まち》の隅《すみ》に、冷《ひや》やかに胡坐《あぐら》をかいて、身《み》の周圍《まはり》に何事《なにごと》が起《おこ》りつゝあるかを感《かん》ぜざるものゝ如《ごと》くに、えゝ御子供衆《おこどもしゆう》の御慰《おなぐさ》みと云《い》つては、達磨《だるま》を膨《ふく》らましてゐる。宗助《そうすけ》は一|錢《せん》五|厘《りん》出《だ》して、其《その》風船《ふうせん》を一《ひと》つ買《か》つて、しゆつと縮《ちゞ》ましてもらつて、それを袂《たもと》へ入《い》れた。奇麗《きれい》な床屋《とこや》へ行《い》つて、髮《かみ》を刈《か》りたくなつたが、何處《どこ》にそんな奇麗《きれい》なのがあるか、一寸《ちよつと》見付《みつ》からないうちに、日《ひ》が限《かぎ》つて來《き》たので、又《また》電車《でんしや》へ乘《の》つて、宅《うち》の方《はう》へ向《むか》つた。  宗助《そうすけ》が電車《でんしや》の終點《しゆうてん》迄《まで》來《き》て、運轉手《うんてんしゆ》に切符《きつぷ》を渡《わた》した時《とき》には、もう空《そら》の色《いろ》が光《ひかり》を失《うしな》ひかけて、濕《しめ》つた徃來《わうらい》に、暗《くら》い影《かげ》が射《さ》し募《つの》る頃《ころ》であつた。降《お》りやうとして、鐵《てつ》の柱《はしら》を握《にぎ》つたら、急《きふ》に寒《さむ》い心持《こゝろもち》がした。一所《いつしよ》に降《お》りた人《ひと》は、皆《みん》な離《はな》れ/″\になつて、事《こと》あり氣《げ》に忙《いそ》がしく歩《ある》いて行《ゆ》く。町《まち》のはづれを見《み》ると、左右《さいう》の家《いへ》の軒《のき》から家根《やね》へかけて、仄白《ほのしろ》い烟《けむ》りが大氣《たいき》の中《なか》に動《うご》いてゐる樣《やう》に見《み》える。宗助《そうすけ》も樹《き》の多《おほ》い方角《はうがく》に向《む》いて早足《はやあし》に歩《ほ》を移《うつ》した。今日《けふ》の日曜《にちえう》も、暢《のん》びりした御天氣《おてんき》も、もう既《すで》に御仕舞《おしまひ》だと思《おも》ふと、少《すこ》し果敢《はか》ない樣《やう》な又《また》淋《さみ》しい樣《やう》な一種《いつしゆ》の氣分《きぶん》が起《おこ》つて來《き》た。さうして明日《あした》から又《また》例《れい》によつて例《れい》の如《ごと》く、せつせと働《はた》らかなくてはならない身體《からだ》だと考《かんが》へると、今日《けふ》半日《はんにち》の生活《せいくわつ》が急《きふ》に惜《をし》くなつて、殘《のこ》る六日半《むいかはん》の非精神的《ひせいしんてき》な行動《かうどう》が、如何《いか》にも詰《つま》らなく感《かん》ぜられた。歩《ある》いてゐるうちにも、日當《ひあたり》の惡《わる》い、窓《まど》の乏《とぼ》しい、大《おほ》きな部屋《へや》の模樣《もやう》や、隣《とな》りに坐《すわ》つてゐる同僚《どうれう》の顏《かほ》や、野中《のなか》さん一寸《ちよつと》と云《い》ふ上官《じやうくわん》の樣子《やうす》ばかりが眼《め》に浮《う》かんだ。  魚勝《うをかつ》と云《い》ふ肴屋《さかなや》の前《まへ》を通《とほ》り越《こ》して、其《その》五六|軒先《けんさき》の露次《ろじ》とも横丁《よこちやう》とも付《つ》かない所《ところ》を曲《まが》ると、行《い》き當《あた》りが高《たか》い崖《がけ》で、其《その》左右《さいう》に四五|軒《けん》同《おな》じ構《かまへ》の貸家《かしや》が並《なら》んでゐる。つい此間《このあひだ》迄《まで》は疎《まば》らな杉垣《すぎがき》の奧《おく》に、御家人《ごけにん》でも住《す》み古《ふる》したと思《おも》はれる、物寂《ものさび》た家《いへ》も一《ひと》つ地所《ぢしよ》のうちに混《まじ》つてゐたが、崖《がけ》の上《うへ》の坂井《さかゐ》といふ人《ひと》が此所《こゝ》を買《か》つてから、忽《たちま》ち萱葺《かやぶき》を壞《こは》して、杉垣《すぎがき》を引《ひ》き拔《ぬ》いて、今《いま》の樣《やう》な新《あた》らしい普請《ふしん》に建《た》て易《か》へて仕舞《しま》つた。宗助《そうすけ》の家《うち》は横丁《よこちやう》を突《つ》き當《あた》つて、一番《いちばん》奧《おく》の左側《ひだりがは》で、すぐの崖下《がけした》だから、多少《たせう》陰氣《いんき》ではあるが、其《その》代《かは》り通《とほ》りからは尤《もつと》も隔《へだゝ》つてゐる丈《だけ》に、まあ幾分《いくぶん》か閑靜《かんせい》だらうと云《い》ふので、細君《さいくん》と相談《さうだん》の上《うへ》、とくに其所《そこ》を擇《えら》んだのである。  宗助《そうすけ》は七日《なのか》に一|返《ぺん》の日曜《にちえう》ももう暮《く》れかゝつたので、早《はや》く湯《ゆ》にでも入《い》つて、暇《ひま》があつたら髮《かみ》でも刈《か》つて、さうして緩《ゆつ》くり晩食《ばんめし》を食《く》はうと思《おも》つて、急《いそ》いで格子《かうし》を開《あ》けた。臺所《だいどころ》の方《はう》で皿小鉢《さらこばち》の音《おと》がする。上《あ》がらうとする拍子《ひやうし》に、小六《ころく》の脱《ぬ》ぎ棄《す》てた下駄《げた》の上《うへ》へ、氣《き》が付《つ》かずに足《あし》を乘《の》せた。曲《こゞ》んで位置《ゐち》を調《とゝの》へてゐる所《ところ》へ小六《ころく》が出《で》て來《き》た。臺所《だいどころ》の方《はう》で、御米《およね》が、 「誰《だれ》? 兄《にい》さん?」と聞《き》いた。宗助《そうすけ》は、 「やあ、來《き》てゐたのか」と云《い》ひながら座敷《ざしき》へ上《あが》つた。先刻《さつき》郵便《いうびん》を出《だ》してから、神田《かんだ》を散歩《さんぽ》して、電車《でんしや》を降《お》りて家《うち》へ歸《かへ》る迄《まで》、宗助《そうすけ》の頭《あたま》には小六《ころく》の小《こ》の字《じ》も閃《ひら》めかなかつた。宗助《そうすけ》は小六《ころく》の顏《かほ》を見《み》た時《とき》、何《なん》となく惡《わる》い事《こと》でもした樣《やう》に極《きま》りが好《よ》くなかつた。 「御米《およね》、御米《およね》」と細君《さいくん》を臺所《だいどころ》から呼《よ》んで、 「小六《ころく》が來《き》たから、何《なに》か御馳走《ごちそう》でもするが好《い》い」と云《い》ひ付《つ》けた。細君《さいくん》は、忙《いそ》がしさうに臺所《だいどころ》の障子《しやうじ》を開《あ》け放《はな》した儘《まゝ》出《で》て來《き》て、座敷《ざしき》の入口《いりぐち》に立《た》つてゐたが、此《この》分《わか》り切《き》つた注意《ちゆうい》を聞《き》くや否《いな》や、 「えゝ今《いま》直《ぢき》」と云《い》つたなり、引《ひ》き返《かへ》さうとしたが、又《また》戻《もど》つて來《き》て、 「其《その》代《かは》り小六《ころく》さん、憚《はゞか》り樣《さま》。座敷《ざしき》の戸《と》を閉《た》てて、洋燈《ランプ》を點《つ》けて頂戴《ちやうだい》。今《いま》私《わたし》も清《きよ》も手《て》が放《はな》せない所《ところ》だから」と依頼《たの》んだ。小六《ころく》は簡單《かんたん》に、 「はあ」と云《い》つて立《た》ち上《あ》がつた。  勝手《かつて》では清《きよ》が物《もの》を刻《きざ》む音《おと》がする。湯《ゆ》か水《みづ》をざあと流《なが》しへ空《あ》ける音《おと》がする。「奧樣《おくさま》是《これ》は何方《どちら》へ移《うつ》します」と云《い》ふ聲《こゑ》がする。「姉《ねえ》さん、ランプの心《しん》を剪《き》る鋏《はさみ》はどこにあるんですか」と云《い》ふ小六《ころく》の聲《こゑ》がする。しゆうと湯《ゆ》が沸《たぎ》つて七輪《しちりん》の火《ひ》へ懸《かゝ》つた樣子《やうす》である。  宗助《そうすけ》は暗《くら》い座敷《ざしき》の中《なか》で默然《もくねん》と手焙《てあぶり》へ手《て》を翳《かざ》してゐた。灰《はひ》の上《うへ》に出《で》た火《ひ》の塊《かた》まり丈《だけ》が色《いろ》づいて赤《あか》く見《み》えた。其《その》時《とき》裏《うら》の崖《がけ》の上《うへ》の家主《やぬし》の家《うち》の御孃《おぢやう》さんがピヤノを鳴《なら》し出《だ》した。宗助《そうすけ》は思《おも》ひ出《だ》した樣《やう》に立《た》ち上《あ》がつて、座敷《ざしき》の雨戸《あまど》を引《ひ》きに縁側《えんがは》へ出《で》た。孟宗竹《まうそうちく》が薄黒《うすぐろ》く空《そら》の色《いろ》を亂《みだ》す上《うへ》に、一《ひと》つ二《ふた》つの星《ほし》が燦《きら》めいた。ピヤノの音《ね》は孟宗竹《まうそうちく》の後《うしろ》から響《ひゞ》いた。 [#8字下げ]三[#「三」は中見出し]  宗助《そうすけ》と小六《ころく》が手拭《てぬぐひ》を下《さ》げて、風呂《ふろ》から歸《かへ》つて來《き》た時《とき》は、座敷《ざしき》の眞中《まんなか》に眞四角《まつしかく》な食卓《しよくたく》を据《す》ゑて、御米《およね》の手料理《てれうり》が手際《てぎは》よく其上《そのうへ》に並《なら》べてあつた。手焙《てあぶり》の火《ひ》も出掛《でがけ》よりは濃《こ》い色《いろ》に燃《も》えてゐた。洋燈《らんぷ》も明《あか》るかつた。  宗助《そうすけ》が机《つくゑ》の前《まへ》の坐蒲團《ざぶとん》を引《ひ》き寄《よ》せて、其上《そのうへ》に樂々《らく/\》と胡坐《あぐら》を掻《か》いた時《とき》、手拭《てぬぐひ》と石鹸《しやぼん》を受取《うけと》つた御米《およね》は、 「好《い》い御湯《おゆ》だつた事《こと》?」と聞《き》いた。宗助《そうすけ》はたゞ一言《ひとこと》、 「うん」と答《こた》へた丈《だけ》であつたが、其《その》樣子《やうす》は素氣《そつけ》ないと云《い》ふよりも、寧《むし》ろ湯上《ゆあが》りで、精神《せいしん》が弛緩《しくわん》した氣味《きみ》に見《み》えた。 「中々《なか/\》好《い》い湯《ゆ》でした」と小六《ころく》が御米《およね》の方《はう》を見《み》て調子《てうし》を合《あは》せた。 「然《しか》しあゝ込《こ》んぢや溜《たま》らないよ」と宗助《そうすけ》が机《つくゑ》の端《はじ》へ肱《ひぢ》を持《も》たせながら、倦怠《けた》るさうに云《い》つた。宗助《そうすけ》が風呂《ふろ》に行《ゆ》くのは、いつでも役所《やくしよ》が退《ひ》けて、家《うち》へ歸《かへ》つてからの事《こと》だから、丁度《ちやうど》人《ひと》の立《た》て込《こ》む夕食前《ゆふめしまへ》の黄昏《たそがれ》である。彼《かれ》は此《この》二三ヶ|月間《げつかん》ついぞ、日《ひ》の光《ひかり》に透《す》かして湯《ゆ》の色《いろ》を眺《なが》めた事《こと》がない。夫《それ》ならまだしもだが、稍《やゝ》ともすると三日《みつか》も四日《よつか》も丸《まる》で錢湯《せんたう》の敷居《しきゐ》を跨《また》がずに過《すご》して仕舞《しま》ふ。日曜《にちえう》になつたら、朝《あさ》早《はや》く起《お》きて何《なに》よりも第《だい》一に奇麗《きれい》な湯《ゆ》に首丈《くびたけ》浸《つか》つて見樣《みやう》と、常《つね》は考《かんが》へてゐるが、偖《さて》其《その》日曜《にちえう》が來《き》て見《み》ると、たまに悠《ゆつ》くり寐《ね》られるのは、今日《けふ》ばかりぢやないかと云《い》ふ氣《き》になつて、つい床《とこ》のうちで愚圖々々《ぐづ/\》してゐるうちに、時間《じかん》が遠慮《ゑんりよ》なく過《す》ぎて、えゝ面倒《めんだう》だ、今日《けふ》は已《や》めにして、其《その》代《かは》り今度《こんだ》の日曜《にちえう》に行《ゆ》かうと思《おも》ひ直《なほ》すのが、殆《ほと》んど惰性《だせい》の樣《やう》になつてゐる。 「どうかして、朝湯《あさゆ》に丈《だけ》は行《ゆ》きたいね」と宗助《そうすけ》が云《い》つた。 「其《その》癖《くせ》朝湯《あさゆ》に行《ゆ》ける日《ひ》は、屹度《きつと》寐坊《ねばう》なさるのね」と細君《さいくん》は調戲《からか》ふ樣《やう》な口調《くてう》であつた。小六《ころく》は腹《はら》の中《なか》で是《これ》が兄《あに》の性來《うまれつき》の弱點《じやくてん》であると思《おも》ひ込《こ》んでゐた。彼《かれ》は自分《じぶん》で學校生活《がくかうせいくわつ》をしてゐるにも拘《かゝ》はらず、兄《あに》の日曜《にちえう》が、如何《いか》に兄《あに》にとつて貴《たつ》といかを會得《ゑとく》出來《でき》なかつた。六日間《むいかかん》の暗《くら》い精神作用《せいしんさよう》を、只《たゞ》此《この》一日《いちにち》で、暖《あたゝ》かに回復《くわいふく》すべく、兄《あに》は多《おほ》くの希望《きばう》を二十四|時間《じかん》のうちに投《な》げ込《こ》んでゐる。だから遣《や》りたい事《こと》があり過《す》ぎて、十の二三も實行《じつかう》出來《でき》ない。否《いな》、其《その》二三にしろ進《すゝ》んで實行《じつかう》にかゝると、却《かへ》つてその爲《ため》に費《つひ》やす時間《じかん》の方《はう》が惜《をし》くなつて來《き》て、つい又《また》手《て》を引込《ひつこ》めて、凝《じつ》としてゐるうちに日曜《にちえう》は何時《いつ》か暮《く》れて仕舞《しま》ふのである。自分《じぶん》の氣晴《きばら》しや保養《ほやう》や、娯樂《ごらく》もしくは好尚《かうしやう》に就《つ》いてゞすら、斯樣《かやう》に節儉《せつけん》しなければならない境遇《きやうぐう》にある宗助《そうすけ》が、小六《ころく》の爲《ため》に盡《つく》さないのは、盡《つく》さないのではない、頭《あたま》に盡《つく》す餘裕《よゆう》のないのだとは、小六《ころく》から見《み》ると、何《ど》うしても受取《うけと》れなかつた。兄《あに》はたゞ手前勝手《てまへがつて》な男《をとこ》で、暇《ひま》があればぶら/\して細君《さいくん》と遊《あそ》んで許《ばかり》ゐて、一向《いつかう》頼《たよ》りにも力《ちから》にもなつて呉《く》れない、眞底《しんそこ》は情合《じやうあひ》に薄《うす》い人《ひと》だ位《ぐらゐ》に考《かんが》へてゐた。  けれども、小六《ころく》がさう感《かん》じ出《だ》したのは、つい近頃《ちかごろ》の事《こと》で、實《じつ》を云《い》ふと、佐伯《さへき》との交渉《かうせふ》が始《はじ》まつて以來《いらい》の話《はなし》である。年《とし》の若《わか》い丈《だけ》、凡《すべ》てに性急《せいきふ》な小六《ころく》は、兄《あに》に頼《たの》めば今日明日《けふあす》にも方《かた》が付《つ》くものと、思《おも》ひ込《こ》んでゐたのに、何日迄《いつまで》も埒《らち》が明《あ》かないのみか、まだ先方《せんぱう》へ出掛《でか》けても呉《く》れないので、大分《だいぶ》不平《ふへい》になつたのである。  所《ところ》が今日《けふ》歸《かへ》りを待《ま》ち受《う》けて逢《あ》つて見《み》ると、其所《そこ》が兄弟《きやうだい》で、別《べつ》に御世辭《おせじ》も使《つか》はないうちに、何處《どこ》か暖味《あたゝかみ》のある仕打《しうち》も見《み》えるので、つい云《い》ひたい事《こと》も後廻《あとまは》しにして、一所《いつしよ》に湯《ゆ》になんぞ這入《はい》つて、穩《おだ》やかに打《う》ち解《と》けて話《はな》せる樣《やう》になつて來《き》た。  兄弟《きやうだい》は寛《くつ》ろいで膳《ぜん》に就《つ》いた。御米《およね》も遠慮《ゑんりよ》なく食卓《しよくたく》の一隅《ひとすみ》を領《りやう》した。宗助《そうすけ》も小六《ころく》も猪口《ちよく》を二三|杯《ばい》づゝ干《ほ》した。飯《めし》に掛《か》ゝる前《まへ》に、宗助《そうすけ》は笑《わら》ひながら、 「うん、面白《おもしろ》いものが有《あ》つたつけ」と云《い》ひながら、袂《たもと》から買《か》つて來《き》た護謨風船《ゴムふうせん》の達磨《だるま》を出《だ》して、大《おほ》きく膨《ふく》らませて見《み》せた。さうして、それを椀《わん》の葢《ふた》の上《うへ》へ載《の》せて、其《その》特色《とくしよく》を説明《せつめい》して聞《き》かせた。御米《およね》も小六《ころく》も面白《おもしろ》がつて、ふわ/\した玉《たま》を見《み》てゐた。仕舞《しまひ》に小六《ころく》が、ふうつと吹《ふ》いたら達磨《だるま》は膳《ぜん》の上《うへ》から疊《たゝみ》の上《うへ》へ落《お》ちた。それでも、まだ覆《かへ》らなかつた。 「それ御覽《ごらん》」と宗助《そうすけ》が云《い》つた。  御米《およね》は女《をんな》だけに聲《こゑ》を出《だ》して笑《わら》つたが、御櫃《おはち》の葢《ふた》を開《あ》けて、夫《をつと》の飯《めし》を盛《よそ》ひながら、 「兄《にい》さんも隨分《ずゐぶん》呑氣《のんき》ね」と小六《ころく》の方《はう》を向《む》いて、半《なか》ば夫《をつと》を辯護《べんご》する樣《やう》に云《い》つた。宗助《そうすけ》は細君《さいくん》から茶碗《ちやわん》を受取《うけと》つて、一言《ひとこと》の辯解《べんかい》もなく食事《しよくじ》を始《はじ》めた。小六《ころく》も正式《せいしき》に箸《はし》を取《と》り上《あ》げた。  達磨《だるま》はそれぎり話題《わだい》に上《のぼ》らなかつたが、これが緒《いとくち》になつて、三|人《にん》は飯《めし》の濟《す》む迄《まで》無邪氣《むじやき》に長閑《のどか》な話《はなし》をつゞけた。仕舞《しまひ》に小六《ころく》が氣《き》を換《か》へて、 「時《とき》に伊藤《いとう》さんも飛《と》んだ事《こと》になりましたね」と云《い》ひ出《だ》した。宗助《そうすけ》は五六|日前《にちまへ》伊藤公《いとうこう》暗殺《あんさつ》の號外《がうぐわい》を見《み》たとき、御米《およね》の働《はたら》いてゐる臺所《だいどころ》へ出《で》て來《き》て、「おい大變《たいへん》だ、伊藤《いとう》さんが殺《ころ》された」と云《い》つて、手《て》に持《も》つた號外《がうぐわい》を御米《およね》のエプロンの上《うへ》に乘《の》せたなり書齋《しよさい》へ這入《はい》つたが、其《その》語氣《ごき》からいふと、寧《むし》ろ落《お》ち付《つ》いたものであつた。 「貴方《あなた》大變《たいへん》だつて云《い》ふ癖《くせ》に、些《ちつ》とも大變《たいへん》らしい聲《こゑ》ぢやなくつてよ」と御米《およね》が後《あと》から冗談半分《じようだんはんぶん》にわざ/\注意《ちゆうい》した位《くらゐ》である。其後《そのご》日毎《ひごと》の新聞《しんぶん》に伊藤公《いとうこう》の事《こと》が五六|段《だん》づゝ出《で》ない事《こと》はないが、宗助《そうすけ》はそれに目《め》を通《とほ》してゐるんだか、ゐないんだか分《わか》らない程《ほど》、暗殺事件《あんさつじけん》に就《つい》ては平氣《へいき》に見《み》えた。夜《よる》歸《かへ》つて來《き》て、御米《およね》が飯《めし》の御給仕《おきふじ》をするとき抔《など》に、「今日《けふ》も伊藤《いとう》さんの事《こと》が何《なに》か出《で》てゐて」と聞《き》く事《こと》があるが、其時《そのとき》には「うん大分《だいぶ》出《で》てゐる」と答《こた》へる位《ぐらゐ》だから、夫《をつと》の隱袋《かくし》の中《なか》に疊《たゝ》んである今朝《けさ》の讀殼《よみがら》を、後《あと》から出《だ》して讀《よ》んで見《み》ないと、其日《そのひ》の記事《きじ》は分《わか》らなかつた。御米《およね》もつまりは夫《をつと》が歸宅後《きたくご》の會話《くわいわ》の材料《ざいれう》として、伊藤公《いとうこう》を引合《ひきあひ》に出《だ》す位《ぐらゐ》の所《ところ》だから、宗助《そうすけ》が進《すゝ》まない方向《はうかう》へは、たつて話《はなし》を引張《ひつぱり》たくはなかつた。それで此《この》二人《ふたり》の間《あひだ》には、號外《がうぐわい》發行《はつかう》の當日《たうじつ》以後《いご》、今夜《こんや》小六《ころく》がそれを云《い》ひ出《だ》した迄《まで》は、公《おほや》けには天下《てんか》を動《うご》かしつゝある問題《もんだい》も、格別《かくべつ》の興味《きようみ》を以《もつ》て迎《むか》へられてゐなかつたのである。 「どうして、まあ殺《ころ》されたんでせう」と御米《およね》は號外《がうぐわい》を見《み》たとき、宗助《そうすけ》に聞《き》いたと同《おな》じ事《こと》を又《また》小六《ころく》に向《むか》つて聞《き》いた。 「短銃《ピストル》をポン/\連發《れんぱつ》したのが命中《めいちゆう》したんです」と小六《ころく》は正直《しやうぢき》に答《こた》へた。 「だけどさ。何《ど》うして、まあ殺《ころ》されたんでせう」  小六《ころく》は要領《えうりやう》を得《え》ない樣《やう》な顏《かほ》をしてゐる。宗助《そうすけ》は落付《おちつ》いた調子《てうし》で、 「矢《や》つ張《ぱ》り運命《うんめい》だなあ」と云《い》つて、茶碗《ちやわん》の茶《ちや》を旨《うま》さうに飮《の》んだ。御米《およね》はこれでも納得《なつとく》が出來《でき》なかつたと見《み》えて、 「どうして又《また》滿洲《まんしう》抔《など》へ行《い》つたんでせう」と聞《き》いた。 「本當《ほんたう》にな」と宗助《そうすけ》は腹《はら》が張《は》つて充分《じゆうぶん》物足《ものた》りた樣子《やうす》であつた。 「何《なん》でも露西亞《ロシア》に秘密《ひみつ》な用《よう》があつたんださうです」と小六《ころく》が眞面目《まじめ》な顏《かほ》をして云《い》つた。御米《およね》は、 「さう。でも厭《いや》ねえ。殺《ころ》されちや」と云《い》つた。 「己《おれ》見《み》た樣《やう》な腰辯《こしべん》は、殺《ころ》されちや厭《いや》だが、伊藤《いとう》さん見《み》た樣《やう》な人《ひと》は、哈爾賓《ハルピン》へ行《い》つて殺《ころ》される方《はう》が可《い》いんだよ」と宗助《そうすけ》が始《はじ》めて調子《てうし》づいた口《くち》を利《き》いた。 「あら、何故《なぜ》」 「何故《なぜ》つて伊藤《いとう》さんは殺《ころ》されたから、歴史的《れきしてき》に偉《えら》い人《ひと》になれるのさ。たゞ死《し》んで御覽《ごらん》、斯《か》うは行《ゆ》かないよ」 「成程《なるほど》そんなものかも知《し》れないな」と小六《ころく》は少《すこ》し感服《かんぷく》した樣《やう》だつたが、やがて、 「兎《と》に角《かく》滿洲《まんしう》だの、哈爾賓《ハルピン》だのつて物騷《ぶつさう》な所《ところ》ですね。僕《ぼく》は何《なん》だか危險《きけん》な樣《やう》な心持《こゝろもち》がしてならない」と云《い》つた。 「夫《それ》や、色《いろ》んな人《ひと》が落《お》ち合《あ》つてるからね」  此時《このとき》御米《およね》は妙《めう》な顏《かほ》をして、斯《か》う答《こた》へた夫《をつと》の顏《かほ》を見《み》た。宗助《そうすけ》もそれに氣《き》が付《つ》いたらしく、 「さあ、もう御膳《おぜん》を下《さ》げたら好《よ》からう」と細君《さいくん》を促《うな》がして、先刻《さつき》の達磨《だるま》を又《また》疊《たゝみ》の上《うへ》から取《と》つて、人指指《ひとさしゆび》の先《さき》へ載《の》せながら、 「どうも妙《めう》だよ。よく斯《か》う調子《てうし》好《よ》く出來《でき》るものだと思《おも》つてね」と云《い》つてゐた。  臺所《だいどころ》から清《きよ》が出《で》て來《き》て、食《く》ひ散《ち》らした皿小鉢《さらこばち》を食卓《しよくたく》ごと引《ひ》いて行《い》つた後《あと》で、御米《およね》も茶《ちや》を入《い》れ替《か》へるために、次《つぎ》の間《ま》へ立《た》つたから、兄弟《きやうだい》は差向《さしむか》ひになつた。 「あゝ奇麗《きれい》になつた。何《ど》うも食《く》つた後《あと》は汚《きた》ないものでね」と宗助《そうすけ》は全《まつた》く食卓《しよくたく》に未練《みれん》のない顏《かほ》をした。勝手《かつて》の方《はう》で清《きよ》がしきりに笑《わら》つてゐる。 「何《なに》がそんなに可笑《をか》しいの、清《きよ》」と御米《およね》が障子越《しやうじごし》に話《はな》し掛《か》ける聲《こゑ》が聞《きこ》えた。清《きよ》はへえと云《い》つて猶《なほ》笑《わら》ひ出《だ》した。兄弟《きやうだい》は何《なん》にも云《い》はず、半《なか》ば下女《げぢよ》の笑《わら》ひ聲《ごゑ》に耳《みゝ》を傾《かたむ》けてゐた。  しばらくして、御米《およね》が菓子皿《くわしざら》と茶盆《ちやぼん》を兩手《りやうて》に持《も》つて、又《また》出《で》て來《き》た。藤蔓《ふぢづる》の着《つ》いた大《おほ》きな急須《きふす》から、胃《ゐ》にも頭《あたま》にも應《こた》へない番茶《ばんちや》を、湯呑程《ゆのみほど》な大《おほ》きな茶碗《ちやわん》に注《つ》いで、兩人《ふたり》の前《まへ》へ置《お》いた。 「何《なん》だつて、あんなに笑《わら》ふんだい」と夫《をつと》が聞《き》いた。けれども御米《およね》の顏《かほ》は見《み》ずに却《かへ》つて菓子皿《くわしざら》の中《なか》を覗《のぞ》いてゐた。 「貴方《あなた》があんな玩具《おもちや》を買《か》つて來《き》て、面白《おもしろ》さうに指《ゆび》の先《さき》へ乘《の》せて入《い》らつしやるからよ。子供《こども》もない癖《くせ》に」  宗助《そうすけ》は意《い》にも留《と》めない樣《やう》に、輕《かる》く「さうか」と云《い》つたが、後《あと》から緩《ゆつ》くり、 「是《これ》でも元《もと》は子供《こども》が有《あ》つたんだがね」と、さも自分《じぶん》で自分《じぶん》の言葉《ことば》を味《あぢ》はつてゐる風《ふう》に付《つ》け足《た》して、生温《なまぬる》い眼《め》を擧《あ》げて細君《さいくん》を見《み》た。御米《およね》はぴたりと默《だま》つて仕舞《しま》つた。 「あなた御菓子《おくわし》食《た》べなくつて」と、しばらくしてから小六《ころく》の方《はう》へ向《む》いて話《はなし》し掛《か》けたが、 「えゝ食《た》べます」と云《い》ふ小六《ころく》の返事《へんじ》を聞《き》き流《なが》して、ついと茶《ちや》の間《ま》へ立《た》つて行《い》つた。兄弟《きやうだい》は又《また》差向《さしむか》ひになつた。  電車《でんしや》の終點《しゆうてん》から歩《ある》くと二十|分《ぷん》近《ちか》くも掛《かゝ》る山《やま》の手《て》の奧丈《おくだけ》あつて、まだ宵《よひ》の口《くち》だけれども、四隣《あたり》は存外《ぞんぐわい》靜《しづ》かである。時々《とき/″\》表《おもて》を通《とほ》る薄齒《うすば》の下駄《げた》の響《ひゞき》が冴《さ》えて、夜寒《よさむ》が次第《しだい》に増《ま》して來《く》る。宗助《そうすけ》は懷手《ふところで》をして、 「晝間《ひるま》は暖《あつ》たかいが、夜《よる》になると急《きふ》に寒《さむ》くなるね。寄宿《きしゆく》ぢやもう蒸汽《スチーム》を通《とほ》してゐるかい」と聞《き》いた。 「いえ、未《まだ》です。學校《がくかう》ぢや餘《よ》つ程《ぽど》寒《さむ》くならなくつちや蒸汽《スチーム》なんか焚《た》きやしません」 「さうかい。夫《それ》ぢや寒《さむ》いだらう」 「えゝ。然《しか》し寒《さむ》い位《くらゐ》何《ど》うでも構《かま》はない積《つもり》ですが」と云《い》つた儘《まゝ》、小六《ころく》はすこし云《い》ひ淀《よど》んでゐたが、仕舞《しまひ》にとう/\思《おも》ひ切《き》つて、 「兄《にい》さん、佐伯《さへき》の方《はう》は一體《いつたい》どうなるんでせう。先刻《さつき》姉《ねえ》さんから聞《き》いたら、今日《けふ》手紙《てがみ》を出《だ》して下《くだ》すつたさうですが」 「あゝ出《だ》した。二三|日中《にちちゆう》に何《なん》とか云《い》つて來《く》るだらう。其上《そのうへ》で又《また》己《おれ》が行《い》くとも何《ど》うとも仕樣《しやう》よ」  小六《ころく》は兄《あに》の平氣《へいき》な態度《たいど》を心《こゝろ》の中《うち》では飽足《あきた》らず眺《なが》めた。然《しか》し宗助《そうすけ》の樣子《やうす》に何處《どこ》と云《い》つて、他《ひと》を激《げき》させる樣《やう》な鋭《する》どい所《ところ》も、自《みづか》らを庇護《かば》ふ樣《やう》な卑《いや》しい點《てん》もないので、喰《く》つて掛《かゝ》る勇氣《ゆうき》は更《さら》に出《で》なかつた。たゞ 「ぢや今日《けふ》迄《まで》あの儘《まゝ》にしてあつたんですか」と單《たん》に事實《じじつ》を確《たしか》めた。 「うん、實《じつ》は濟《す》まないがあの儘《まゝ》だ。手紙《てがみ》も今日《けふ》やつとの事《こと》で書《か》いた位《くらゐ》だ。何《ど》うも仕方《しかた》がないよ。近頃《ちかごろ》神經衰弱《しんけいすゐじやく》でね」と眞面目《まじめ》に云《い》ふ。小六《ころく》は苦笑《くせう》した。 「もし駄目《だめ》なら、僕《ぼく》は學校《がくかう》を已《や》めて、一層《いつそ》今《いま》のうち、滿洲《まんしう》か朝鮮《てうせん》へでも行《い》かうかと思《おも》つてるんです」 「滿洲《まんしう》か朝鮮《てうせん》? ひどく又《また》思《おも》ひ切《き》つたもんだね。だつて、御前《おまへ》先刻《さつき》滿洲《まんしう》は物騷《ぶつさう》で厭《いや》だつて云《い》つたぢやないか」  用談《ようだん》はこんな所《ところ》に徃《い》つたり來《き》たりして、遂《つひ》に要領《えうりやう》を得《え》なかつた。仕舞《しまひ》に宗助《そうすけ》が 「まあ、好《い》いや、さう心配《しんぱい》しないでも、何《ど》うかなるよ。何《なに》しろ返事《へんじ》の來次第《きしだい》、己《おれ》がすぐ知《し》らせてやる。其上《そのうへ》で又《また》相談《さうだん》するとしやう」と云《い》つたので、談話《はなし》に區切《くぎり》が付《つ》いた。  小六《ころく》が歸《かへ》りがけに茶《ちや》の間《ま》を覗《のぞ》いたら、御米《およね》は何《なん》にもしずに、長火鉢《ながひばち》に倚《よ》り掛《か》かつてゐた。 「姉《ねえ》さん、左樣《さやう》なら」と聲《こゑ》を掛《か》けたら、「おや御歸《おかへ》り」と云《い》ひながら漸《やうや》く立《た》つて來《き》た。 [#8字下げ]四[#「四」は中見出し]  小六《ころく》の苦《く》にしてゐた佐伯《さへき》からは、豫期《よき》の通《とほ》り二三|日《にち》して返事《へんじ》があつたが、それは極《きは》めて簡單《かんたん》なもので、端書《はがき》でも用《よう》の足《た》りる所《ところ》を、鄭重《ていちよう》に封筒《ふうとう》へ入《い》れて三|錢《せん》の切手《きつて》を貼《は》つた、叔母《をば》の自筆《じひつ》に過《す》ぎなかつた。  役所《やくしよ》から歸《かへ》つて、筒袖《つゝそで》の仕事着《しごとぎ》を、窮屈《きゆうくつ》さうに脱《ぬ》ぎ易《か》へて、火鉢《ひばち》の前《まへ》へ坐《すわ》るや否《いな》や、抽出《ひきだし》から一|寸《すん》程《ほど》わざと餘《あま》して差《さ》し込《こ》んであつた状袋《じやうぶくろ》に眼《め》が着《つ》いたので、御米《およね》の汲《く》んで出《だ》す番茶《ばんちや》を一口《ひとくち》呑《の》んだ儘《まゝ》、宗助《そうすけ》はすぐ封《ふう》を切《き》つた。 「へえ、安《やす》さんは神戸《かうべ》へ行《い》つたんだつてね」と手紙《てがみ》を讀《よ》みながら云《い》つた。 「何時《いつ》?」と御米《およね》は湯呑《ゆのみ》を夫《をつと》の前《まへ》に出《だ》した時《とき》の姿勢《しせい》の儘《まゝ》で聞《き》いた。 「何時《いつ》とも書《か》いてないがね。何《なに》しろ遠《とほ》からぬうちには歸京《ききやう》仕《つかまつ》るべく候《さふらふ》間《あひだ》と書《か》いてあるから、もうぢき歸《かへ》つて來《く》るんだらう」 「遠《とほ》からぬうちなんて、矢《や》つ張《ぱ》り叔母《をば》さんね」  宗助《そうすけ》は御米《およね》の批評《ひひやう》に、同意《どうい》も不同意《ふどうい》も表《へう》しなかつた。讀《よ》んだ手紙《てがみ》を卷《ま》き納《をさ》めて、投《な》げる樣《やう》にそこへ放《はふ》り出《だ》して、四五|日目《にちめ》になる、ざら/\した腮《あご》を、氣味《きみ》わるさうに撫《な》で廻《まは》した。  御米《およね》はすぐ其《その》手紙《てがみ》を拾《ひろ》つたが、別《べつ》に讀《よ》まうともしなかつた。それを膝《ひざ》の上《うへ》へ乘《の》せた儘《まゝ》、夫《をつと》の顏《かほ》を見《み》て、 「遠《とほ》からぬうちには歸京《ききやう》仕《つかまつ》るべく候間《さふらふあひだ》、何《ど》うだつて云《い》ふの」と聞《き》いた。 「何《いづ》れ歸《かへ》つたら、安之助《やすのすけ》と相談《さうだん》して何《なん》とか御挨拶《ごあいさつ》を致《いた》しますと云《い》ふのさ」 「遠《とほ》からぬうちぢや曖昧《あいまい》ね。何時《いつ》歸《かへ》るとも書《か》いてなくつて」 「いゝや」  御米《およね》は念《ねん》の爲《ため》、膝《ひざ》の上《うへ》の手紙《てがみ》を始《はじ》めて開《ひら》いて見《み》た。さうして夫《それ》を元《もと》の樣《やう》に疊《たゝ》んで、 「一寸《ちよつと》其《その》状袋《じやうぶくろ》を」と手《て》を夫《をつと》の方《ほう》へ出《だ》した。宗助《そうすけ》は自分《じぶん》と火鉢《ひばち》の間《あひだ》に挾《はさ》まつてゐる青《あを》い封筒《ふうとう》を取《と》つて細君《さいくん》に渡《わた》した。御米《およね》はそれをふつと吹《ふ》いて、中《なか》を膨《ふく》らまして手紙《てがみ》を収《をさ》めた。さうして臺所《だいどころ》へ立《た》つた。  宗助《そうすけ》は夫限《それぎり》手紙《てがみ》の事《こと》には氣《き》を留《と》めなかつた。今日《けふ》役所《やくしよ》で同僚《どうれう》が、此間《このあひだ》英吉利《イギリス》から來遊《らいいう》したキチナー元帥《げんすゐ》に、新橋《しんばし》の傍《そば》で逢《あ》つたと云《い》ふ話《はなし》を思《おも》ひ出《だ》して、あゝ云《い》ふ人間《にんげん》になると、世界中《せかいぢゆう》何處《どこ》へ行《い》つても、世間《せけん》を騷《さわ》がせる樣《やう》に出來《でき》てゐる樣《やう》だが、實際《じつさい》さういふ風《ふう》に生《うま》れ付《つ》いて來《き》たものかも知《し》れない。自分《じぶん》の過去《くわこ》から引《ひ》き摺《ず》つてきた運命《うんめい》や、又《また》其《その》續《つゞ》きとして、是《これ》から自分《じぶん》の眼前《がんぜん》に展開《てんかい》されべき將來《しやうらい》を取《と》つて、キチナーと云《い》ふ人《ひと》のそれに比《くら》べて見《み》ると、到底《たうてい》同《おな》じ人間《にんげん》とは思《おも》へない位《ぐらゐ》懸《か》け隔《へだ》たつてゐる。  斯《か》う考《かんが》へて宗助《そうすけ》はしきりに烟草《たばこ》を吹《ふ》かした。表《おもて》は夕方《ゆふがた》から風《かぜ》が吹《ふ》き出《だ》して、わざと遠《とほ》くの方《はう》から襲《おそ》つて來《く》る樣《やう》な音《おと》がする。それが時々《とき/″\》已《や》むと、已《や》んだ間《あひだ》は寂《しん》として、吹《ふ》き荒《あ》れる時《とき》よりは猶《なほ》淋《さび》しい。宗助《そうすけ》は腕組《うでぐみ》をしながら、もうそろ/\火事《くわじ》の半鐘《はんしよう》が鳴《な》り出《だ》す時節《じせつ》だと思《おも》つた。  臺所《だいどころ》へ出《で》て見《み》ると、細君《さいくん》は七輪《しちりん》の火《ひ》を赤《あか》くして、肴《さかな》の切身《きりみ》を燒《や》いてゐた。清《きよ》は流《なが》し元《もと》に曲《こゞ》んで漬物《つけもの》を洗《あら》つてゐた。二人《ふたり》とも口《くち》を利《き》かずにせつせと自分《じぶん》の遣《や》る事《こと》を遣《や》つてゐる。宗助《そうすけ》は障子《しやうじ》を開《あ》けたなり、少時《しばらく》肴《さかな》から垂《た》る汁《つゆ》か膏《あぶら》の音《おと》を聞《き》いてゐたが、無言《むごん》の儘《まゝ》又《また》障子《しやうじ》を閉《た》てゝ元《もと》の座《ざ》へ戻《もど》つた。細君《さいくん》は眼《め》さへ肴《さかな》から離《はな》さなかつた。  食事《しよくじ》を濟《す》まして、夫婦《ふうふ》が火鉢《ひばち》を間《あひ》に向《むか》ひ合《あ》つた時《とき》、御米《およね》は又《また》 「佐伯《さへき》の方《はう》は困《こま》るのね」と云《い》ひ出《だ》した。 「まあ仕方《しかた》がない。安《やす》さんが神戸《かうべ》から歸《かへ》る迄《まで》待《ま》つより外《ほか》に道《みち》はあるまい」 「其前《そのまへ》に一寸《ちよつと》叔母《をば》さんに逢《あ》つて話《はなし》をして置《お》いた方《はう》が好《よ》かなくつて」 「さうさ。まあ其内《そのうち》何《なん》とか云《い》つて來《く》るだらう。夫迄《それまで》打遣《うちや》つて置《お》かうよ」 「小六《ころく》さんが怒《おこ》つてよ。可《よ》くつて」と御米《およね》はわざと念《ねん》を押《お》して置《お》いて微笑《びせう》した。宗助《そうすけ》は下眼《しため》を使《つか》つて、手《て》に持《も》つた小楊枝《こやうじ》を着物《きもの》の襟《えり》へ差《さ》した。  中一日《なかいちんち》置《お》いて、宗助《そうすけ》は漸《やうや》く佐伯《さへき》からの返事《へんじ》を小六《ころく》に知《し》らせてやつた。其時《そのとき》も手紙《てがみ》の尻《しり》に、まあ其《その》内《うち》何《ど》うかなるだらうと云《い》ふ意味《いみ》を、例《れい》の如《ごと》く付《つ》け加《くは》へた。さうして當分《たうぶん》は此《この》事件《じけん》に就《つい》て肩《かた》が拔《ぬ》けた樣《やう》に感《かん》じた。自然《しぜん》の經過《なりゆき》が又《また》窮屈《きゆうくつ》に眼《め》の前《まへ》に押《お》し寄《よ》せて來《く》る迄《まで》は、忘《わす》れてゐる方《はう》が面倒《めんだう》がなくつて好《い》い位《くらゐ》な顏《かほ》をして、毎日《まいにち》役所《やくしよ》へ出《で》ては又《また》役所《やくしよ》から歸《かへ》つて來《き》た。歸《かへ》りも遲《おそ》いが、歸《かへ》つてから出掛《でかけ》る抔《など》といふ億劫《おくくふ》な事《こと》は滅多《めつた》になかつた。客《きやく》は殆《ほと》んど來《こ》ない。用《よう》のない時《とき》は清《きよ》を十|時前《じまへ》に寐《ね》かす事《こと》さへあつた。夫婦《ふうふ》は毎夜《まいよ》同《おな》じ火鉢《ひばち》の兩側《りやうがは》に向《む》き合《あ》つて、食後《しよくご》一|時間《じかん》位《ぐらゐ》話《はなし》をした。話《はなし》の題目《だいもく》は彼等《かれら》の生活《せいくわつ》状態《じやうたい》に相應《さうおう》した程度《ていど》のものであつた。けれども米屋《こめや》の拂《はらひ》を、此《この》三十日《みそか》には何《ど》うしたものだらうといふ、苦《くる》しい世帶話《しよたいばなし》は、未《いま》だ甞《かつ》て一度《いちど》も彼等《かれら》の口《くち》には上《のぼ》らなかつた。と云《い》つて、小説《せうせつ》や文學《ぶんがく》の批評《ひひやう》は勿論《もちろん》の事《こと》、男《をとこ》と女《をんな》の間《あひだ》を陽炎《かげろふ》の樣《やう》に飛《と》び廻《まは》る、花《はな》やかな言葉《ことば》の遣《や》り取《と》りは殆《ほと》んど聞《き》かれなかつた。彼等《かれら》は夫程《それほど》の年輩《ねんぱい》でもないのに、もう其所《そこ》を通《とほ》り拔《ぬ》けて、日毎《ひごと》に地味《ぢみ》になつて行《ゆ》く人《ひと》の樣《やう》にも見《み》えた。又《また》は最初《さいしよ》から、色彩《しきさい》の薄《うす》い極《きは》めて通俗《つうぞく》の人間《にんげん》が、習慣的《しふくわんてき》に夫婦《ふうふ》の關係《くわんけい》を結《むす》ぶために寄《よ》り合《あ》つた樣《やう》にも見《み》えた。  上部《うはべ》から見《み》ると、夫婦《ふうふ》ともさう物《もの》に屈托《くつたく》する氣色《けしき》はなかつた。それは彼等《かれら》が小六《ころく》の事《こと》に關《くわん》して取《と》つた態度《たいど》に就《つい》て見《み》ても略《ほゞ》想像《さうざう》がつく。流石《さすが》女丈《をんなだけ》に御米《およね》は一二|度《ど》、 「安《やす》さんは、まだ歸《かへ》らないんでせうかね。貴方《あなた》今度《こんだ》の日曜《にちえう》位《ぐらゐ》に番町《ばんちやう》迄《まで》行《い》つて御覽《ごらん》なさらなくつて」と注意《ちゆうい》した事《こと》があるが、宗助《そうすけ》は、 「うん、行《い》つても好《い》い」位《ぐらゐ》な返事《へんじ》をする丈《だけ》で、其《その》行《い》つても好《い》い日曜《にちえう》が來《く》ると、丸《まる》で忘《わす》れた樣《やう》に濟《す》ましてゐる。御米《およね》もそれを見《み》て、責《せ》める樣子《やうす》もない。天氣《てんき》が好《い》いと、 「ちと散歩《さんぽ》でもして入《い》らつしやい」と云《い》ふ。雨《あめ》が降《ふ》つたり、風《かぜ》が吹《ふ》いたりすると、 「今日《けふ》は日曜《にちえう》で仕合《しあは》せね」と云《い》ふ。  幸《さいはひ》にして小六《ころく》は其後《そのご》一度《いちど》もやつて來《こ》ない。此《この》青年《せいねん》は、至《いた》つて凝《こ》り性《しやう》の神經質《しんけいしつ》で、斯《か》うと思《おも》ふと何所《どこ》迄《まで》も進《すゝ》んで來《く》る所《ところ》が、書生《しよせい》時代《じだい》の宗助《そうすけ》によく似《に》てゐる代《かは》りに、不圖《ふと》氣《き》が變《かは》ると、昨日《きのふ》の事《こと》は丸《まる》で忘《わす》れた樣《やう》に引《ひ》つ繰《く》り返《かへ》つて、けろりとした顏《かほ》をしてゐる。其所《そこ》も兄弟丈《きやうだいだけ》あつて、昔《むかし》の宗助《そうすけ》に其儘《そのまゝ》である。それから、頭腦《づなう》が比較的《ひかくてき》明暸《めいれう》で、理路《りろ》に感情《かんじやう》を注《つ》ぎ込《こ》むのか、又《また》は感情《かんじやう》に理窟《りくつ》の枠《わく》を張《は》るのか、何方《どつち》か分《わか》らないが、兎《と》に角《かく》物《もの》に筋道《すぢみち》を付《つ》けないと承知《しようち》しないし、また一返《いつぺん》筋道《すぢみち》が付《つ》くと、其《その》筋道《すぢみち》を生《い》かさなくつては置《お》かない樣《やう》に熱中《ねつちゆう》したがる。其上《そのうへ》體質《たいしつ》の割合《わりあひ》に精力《せいりよく》がつゞくから、若《わか》い血氣《けつき》に任《まか》せて大抵《たいてい》の事《こと》はする。  宗助《そうすけ》は弟《おとうと》を見《み》るたびに、昔《むかし》の自分《じぶん》が再《ふたゝ》び蘇生《そせい》して、自分《じぶん》の眼《め》の前《まへ》に活動《くわつどう》してゐる樣《やう》な氣《き》がしてならなかつた。時《とき》には、はら/\する事《こと》もあつた。又《また》苦々《にが/\》しく思《おも》ふ折《をり》もあつた。さう云《い》ふ場合《ばあひ》には、心《こゝろ》のうちに、當時《たうじ》の自分《じぶん》が一圖《いちづ》に振舞《ふるま》つた苦《にが》い記憶《きおく》を、出來《でき》る丈《だけ》屡《しば/\》呼《よ》び起《おこ》させるために、とくに天《てん》が小六《ころく》を自分《じぶん》の眼《め》の前《まへ》に据《す》ゑ付《つ》けるのではなからうかと思《おも》つた。さうして非常《ひじやう》に恐《おそ》ろしくなつた。此奴《こいつ》も或《あるひ》は己《おれ》と同一《どういつ》の運命《うんめい》に陷《おちい》るために生《うま》れて來《き》たのではなからうかと考《かんが》へると、今度《こんど》は大《おほ》いに心掛《こゝろがゝ》りになつた。時《とき》によると心掛《こゝろがゝ》りよりは不愉快《ふゆくわい》であつた。  けれども、今日《こんにち》迄《まで》宗助《そうすけ》は、小六《ころく》に對《たい》して意見《いけん》がましい事《こと》を云《い》つた事《こと》もなければ、將來《しやうらい》に就《つい》て注意《ちゆうい》を與《あた》へた事《こと》もなかつた。彼《かれ》の弟《おとうと》に對《たい》する待遇《たいぐう》方《はう》はたゞ普通《ふつう》凡庸《ぼんよう》のものであつた。彼《かれ》の今《いま》の生活《せいくわつ》が、彼《かれ》の樣《やう》な過去《くわこ》を有《も》つてゐる人《ひと》とは思《おも》へない程《ほど》に、沈《しづ》んでゐる如《ごと》く、彼《かれ》の弟《おとうと》を取《と》り扱《あつか》ふ樣子《やうす》にも、過去《くわこ》と名《な》のつく程《ほど》の經驗《けいけん》を有《も》つた年長者《ねんちやうしや》の素振《そぶり》は容易《ようい》に出《で》なかつた。  宗助《そうすけ》と小六《ころく》の間《あひだ》には、まだ二人《ふたり》程《ほど》男《をとこ》の子《こ》が挾《はさ》まつてゐたが、何《いづ》れも早世《さうせい》して仕舞《しま》つたので、兄弟《きやうだい》とは云《い》ひながら、年《とし》は十《とを》許《ばか》り違《ちが》つてゐる。其上《そのうへ》宗助《そうすけ》はある事情《じじやう》のために、一|年《ねん》の時《とき》京都《きやうと》へ轉學《てんがく》したから、朝夕《てうせき》一所《いつしよ》に生活《せいくわつ》してゐたのは、小六《ころく》の十二三の時迄《ときまで》である。宗助《そうすけ》は剛情《がうじやう》な聽《き》かぬ氣《き》の腕白小僧《わんぱくこぞう》としての小六《ころく》を未《いま》だに記憶《きおく》してゐる。其《その》時分《じぶん》は父《ちゝ》も生《い》きてゐたし、家《うち》の都合《つがふ》も惡《わる》くはなかつたので、抱車夫《かゝへしやふ》を邸内《ていない》の長屋《ながや》に住《す》まはして、樂《らく》に暮《くら》してゐた。此《この》車夫《しやふ》に小六《ころく》よりは三《みつ》つ程《ほど》年下《としした》の子供《こども》があつて、始終《しじゆう》小六《ころく》の御相手《おあひて》をして遊《あそ》んでゐた。ある夏《なつ》の日盛《ひざか》りに、二人《ふたり》して、長《なが》い竿《さを》のさきへ菓子袋《くわしぶくろ》を括《くゝ》り付《つ》けて、大《おほ》きな柿《かき》の木《き》の下《した》で蝉《せみ》の捕《と》りくらをしてゐるのを、宗助《そうすけ》が見《み》て、兼坊《けんばう》そんなに頭《あたま》を日《ひ》に照《て》らし付《つ》けると霍亂《くわくらん》になるよ、さあ是《これ》を被《かぶ》れと云《い》つて、小六《ころく》の古《ふる》い夏帽《なつばう》を出《だ》してやつた。すると、小六《ころく》は自分《じぶん》の所有物《しよいうぶつ》を兄《あに》が無斷《むだん》で他《ひと》に呉《く》れてやつたのが、癪《しやく》に障《さは》つたので、突然《いきなり》兼坊《けんばう》の受取《うけと》つた帽子《ばうし》を引《ひ》つたくつて、それを地面《ぢめん》の上《うへ》へ抛《な》げつけるや否《いな》や、馳《か》け上《あ》がる樣《やう》に其上《そのうへ》へ乘《の》つて、くしやりと麥藁帽《むぎわらばう》を踏《ふ》み潰《つぶ》して仕舞《しま》つた。宗助《そうすけ》は縁《えん》から跣足《はだし》で飛《と》んで下《お》りて、小六《ころく》の頭《あたま》を擲《なぐ》り付《つ》けた。其時《そのとき》から、宗助《そうすけ》の眼《め》には、小六《ころく》が小惡《こにく》らしい小僧《こぞう》として映《うつ》つた。  二|年《ねん》の時《とき》宗助《そうすけ》は大學《だいがく》を去《さ》らなければならない事《こと》になつた。東京《とうきやう》の家《うち》へも歸《か》へれない事《こと》になつた。京都《きやうと》からすぐ廣島《ひろしま》へ行《い》つて、其所《そこ》に半年《はんとし》ばかり暮《く》らしてゐるうちに父《ちゝ》が死《し》んだ。母《はゝ》は父《ちゝ》よりも六|年《ねん》程前《ほどまへ》に死《し》んでゐた。だから後《あと》には二十五六になる妾《めかけ》と、十六になる小六《ころく》が殘《のこ》つた丈《だけ》であつた。  佐伯《さへき》から電報《でんぱう》を受《う》け取《と》つて、久《ひさ》し振《ぶ》りに出京《しゆつきやう》した宗助《そうすけ》は、葬式《さうしき》を濟《す》ました上《うへ》、家《うち》の始末《しまつ》をつけ樣《やう》と思《おも》つて段々《だん/\》調《しら》べて見《み》ると、有《あ》ると思《おも》つた財産《ざいさん》は案外《あんぐわい》に少《すく》なくつて、却《かへ》つて無《な》い積《つもり》の借金《しやくきん》が大分《だいぶ》あつたに驚《おど》ろかされた。叔父《をぢ》の佐伯《さへき》に相談《さうだん》すると、仕方《しかた》がないから邸《やしき》を賣《う》るが好《よ》からうと云《い》ふ話《はなし》であつた。妾《めかけ》は相當《さうたう》の金《かね》を遣《や》つてすぐ暇《ひま》を出《だ》す事《こと》に極《き》めた。小六《ころく》は當分《たうぶん》叔父《をぢ》の家《うち》に引《ひ》き取《と》つて世話《せわ》をして貰《もら》ふ事《こと》にした。然《しか》し肝心《かんじん》の家屋敷《いへやしき》はすぐ右《みぎ》から左《ひだり》へと賣《う》れる譯《わけ》には行《ゆ》かなかつた。仕方《しかた》がないから、叔父《をぢ》に一時《いちじ》の工面《くめん》を頼《たの》んで、當座《たうざ》の片《かた》を付《つ》けて貰《もら》つた。叔父《をぢ》は事業家《じげふか》で色々《いろ/\》な事《こと》に手《て》を出《だ》しては失敗《しつぱい》する、云《い》はゞ山氣《やまぎ》の多《おほ》い男《をとこ》であつた。宗助《そうすけ》が東京《とうきやう》にゐる時分《じぶん》も、よく宗助《そうすけ》の父《ちゝ》を説《と》き付《つ》けては、旨《うま》い事《こと》を云《い》つて金《かね》を引《ひ》き出《だ》したものである。宗助《そうすけ》の父《ちゝ》にも慾《よく》があつたかも知《し》れないが、此《この》傳《でん》で叔父《をぢ》の事業《じげふ》に注《つ》ぎ込《こ》んだ金高《かねだか》は決《けつ》して少《すく》ないものではなかつた。  父《ちゝ》の亡《な》くなつた此際《このさい》にも、叔父《をぢ》の都合《つがふ》は元《もと》と餘《あま》り變《かは》つてゐない樣子《やうす》であつたが、生前《せいぜん》の義理《ぎり》もあるし、又《また》斯《か》う云《い》ふ男《をとこ》の常《つね》として、いざと云《い》ふ場合《ばあひ》には比較的《ひかくてき》融通《ゆうづう》の付《つ》くものと見《み》えて、叔父《をぢ》は快《こゝろ》よく整理《せいり》を引《ひ》き受《う》けて呉《く》れた。其《その》代《かは》り宗助《そうすけ》は自分《じぶん》の家屋敷《いへやしき》の賣却方《ばいきやくかた》に就《つい》て一切《いつさい》の事《こと》を叔父《をぢ》に一任《いちにん》して仕舞《しま》つた。早《はや》く云《い》ふと、急場《きふば》の金策《きんさく》に對《たい》する報酬《はうしう》として土地《とち》家屋《かをく》を提供《ていきよう》した樣《やう》なものである。叔父《をぢ》は、 「何《なに》しろ、斯《か》う云《い》ふものは買手《かひて》を見《み》て賣《う》らないと損《そん》だからね」と云《い》つた。  道具類《だうぐるゐ》も積《せき》ばかり取《と》つて、金目《かねめ》にならないものは、悉《こと/″\》く賣《う》り拂《はら》つたが、五六|幅《ぷく》の掛物《かけもの》と十二三|點《てん》の骨董品丈《こつとうひんだけ》は、矢張《やは》り氣長《きなが》に欲《ほ》しがる人《ひと》を探《さが》さないと損《そん》だと云《い》ふ叔父《をぢ》の意見《いけん》に同意《どうい》して、叔父《をぢ》に保管《ほくわん》を頼《たの》む事《こと》にした。凡《すべ》てを差《さ》し引《ひ》いて手元《てもと》に殘《のこ》つた有金《ありがね》は、約《やく》二千|圓《ゑん》程《ほど》のものであつたが、宗助《そうすけ》は其内《そのうち》の幾分《いくぶん》を、小六《ころく》の學資《がくし》として、使《つか》はなければならないと氣《き》が付《つ》いた。然《しか》し月々《つき/″\》自分《じぶん》の方《はう》から送《おく》るとすると、今日《こんにち》の位置《ゐち》が堅固《けんご》でない當時《たうじ》、甚《はなは》だ實行《じつかう》しにくい結果《けつくわ》に陷《おちい》りさうなので、苦《くる》しくはあつたが、思《おも》ひ切《き》つて、半分丈《はんぶんだけ》を叔父《をぢ》に渡《わた》して、何分《なにぶん》宜《よろ》しくと頼《たの》んだ。自分《じぶん》が中《なか》途《ちゆうと》で失敗《しくじ》つたから、責《せ》めて弟丈《おとうとだけ》は物《もの》にしてやりたい氣《き》もあるので、此《この》千|圓《ゑん》が盡《つ》きたあとは、又《また》何《ど》うにか心配《しんぱい》も出來《でき》やうし又《また》して呉《く》れるだらう位《ぐらゐ》の不慥《ふたしか》な希望《きばう》を殘《のこ》して、又《また》廣島《ひろしま》へ歸《かへ》つて行《い》つた。  それから半年《はんとし》ばかりして、叔父《をぢ》の自筆《じひつ》で、家《うち》はとう/\賣《う》れたから安心《あんしん》しろと云《い》ふ手紙《てがみ》が來《き》たが、幾何《いくら》に賣《う》れたとも何《なん》とも書《か》いてないので、折《を》り返《かへ》して聞《き》き合《あは》せると、二|週間《しうかん》程《ほど》經《た》つての返事《へんじ》に、優《いう》に例《れい》の立替《たてかへ》を償《つぐな》ふに足《た》る金額《きんがく》だから心配《しんぱい》しなくても好《い》いとあつた。宗助《そうすけ》は此《この》返事《へんじ》に對《たい》して少《すく》なからず不滿《ふまん》を感《かん》じたには感《かん》じたが、同《おな》じ書信《しよしん》の中《なか》に、委細《ゐさい》は何《いづ》れ御面會《ごめんくわい》の節《せつ》云々《うん/\》とあつたので、すぐにも東京《とうきやう》へ行《ゆ》きたい樣《やう》な氣《き》がして、實《じつ》は斯《か》う/\だがと、相談《さうだん》半分《はんぶん》細君《さいくん》に話《はな》して見《み》ると、御米《およね》は氣《き》の毒《どく》さうな顏《かほ》をして、「でも、行《い》けないんだから、仕方《しかた》がないわね」と云《い》つて、例《れい》の如《ごと》く微笑《びせう》した。其時《そのとき》宗助《そうすけ》は始《はじ》めて細君《さいくん》から宣告《せんこく》を受《う》けた人《ひと》の樣《やう》に、しばらく腕組《うでぐみ》をして考《かんが》へたが、何《ど》う工夫《くふう》したつて、拔《ぬ》ける事《こと》の出來《でき》ない樣《やう》な位地《ゐち》と事情《じじやう》の下《もと》に束縛《そくばく》されてゐたので、つい夫成《それなり》になつて仕舞《しま》つた。  仕方《しかた》がないから、猶《なほ》三四|回《くわい》書面《しよめん》で徃復《わうふく》を重《かさ》ねて見《み》たが、結果《けつくわ》はいつも同《おな》じ事《こと》で、版行《はんかう》で押《お》した樣《やう》に何《いづ》れ御面會《ごめんくわい》の節《せつ》を繰《く》り返《かへ》して來《く》る丈《だけ》であつた。 「是《これ》ぢや仕樣《しやう》がないよ」と宗助《そうすけ》は腹《はら》が立《た》つた樣《やう》な顏《かほ》をして御米《およね》を見《み》た。三ヶ|月《げつ》ばかりして、漸《やうや》く都合《つがふ》が付《つ》いたので、久《ひさ》し振《ぶ》りに御米《およね》を連《つ》れて、出京《しゆつきやう》しやうと思《おも》ふ矢先《やさき》に、つい風邪《かぜ》を引《ひ》いて寐《ね》たのが元《もと》で、腸窒扶斯《ちやうチフス》に變化《へんくわ》したため、六十日餘《ろくじふにちあま》りを床《とこ》の上《うへ》に暮《く》らした上《うへ》に、あとの三十日程《さんじふにちほど》は充分《じゆうぶん》仕事《しごと》も出來《でき》ない位《くらゐ》衰《おとろ》へて仕舞《しま》つた。  病氣《びやうき》が本復《ほんぷく》してから間《ま》もなく、宗助《そうすけ》は又《また》廣島《ひろしま》を去《さ》つて福岡《ふくをか》の方《かた》へ移《うつ》らなければならない身《み》となつた。移《うつ》る前《まへ》に、好《い》い機會《きくわい》だから一寸《ちよつと》東京《とうきやう》迄《まで》出《で》たいものだと考《かんが》へてゐるうちに、今度《こんど》も色々《いろ/\》の事情《じじやう》に制《せい》せられて、つい夫《それ》も遂行《すゐかう》せずに、矢張《やは》り下《くだ》り列車《れつしや》の走《はし》る方《かた》に自己《じこ》の運命《うんめい》を托《たく》した。其頃《そのころ》は東京《とうきやう》の家《いへ》を疊《たゝ》むとき、懷《ふところ》にして出《で》た金《かね》は、殆《ほと》んど使《つか》ひ果《は》たしてゐた。彼《かれ》の福岡《ふくをか》生活《せいくわつ》は前後《ぜんご》二|年《ねん》を通《つう》じて、中々《なか/\》の苦鬪《くとう》であつた。彼《かれ》は書生《しよせい》として京都《きやうと》にゐる時分《じぶん》、種々《しゆ/″\》の口實《こうじつ》の下《もと》に、父《ちゝ》から臨時《りんじ》隨意《ずゐい》に多額《たがく》の學資《がくし》を請求《せいきう》して、勝手《かつて》次第《しだい》に消費《せうひ》した昔《むかし》をよく思《おも》ひ出《だ》して、今《いま》の身分《みぶん》と比較《ひかく》しつゝ、頻《しき》りに因果《いんぐわ》の束縛《そくばく》を恐《おそ》れた。ある時《とき》はひそかに過《す》ぎた春《はる》を回顧《くわいこ》して、あれが己《おれ》の榮華《えいぐわ》の頂點《ちやうてん》だつたんだと、始《はじ》めて醒《さ》めた眼《め》に遠《とほ》い霞《かすみ》を眺《なが》める事《こと》もあつた。愈《いよ/\》苦《くる》しくなつた時《とき》、 「御米《およね》、久《ひさ》しく放《はふ》つて置《お》いたが、又《また》東京《とうきやう》へ掛合《かけあ》つて見樣《みやう》かな」と云《い》ひ出《だ》した。御米《およね》は無論《むろん》逆《さから》ひはしなかつた。たゞ下《した》を向《む》いて、 「駄目《だめ》よ。だつて、叔父《をぢ》さんに全《まつた》く信用《しんよう》がないんですもの」と心細《こゝろぼそ》さうに答《こた》へた。 「向《むか》ふぢや此方《こつち》に信用《しんよう》がないかも知《し》れないが、此方《こつち》ぢや又《また》向《むか》ふに信用《しんよう》がないんだ」と宗助《そうすけ》は威張《ゐば》つて云《い》ひ出《だ》したが、御米《およね》の俯目《ふしめ》になつてゐる樣子《やうす》を見《み》ると、急《きふ》に勇氣《ゆうき》が挫《くじ》ける風《ふう》に見《み》えた。こんな問答《もんだふ》を最初《さいしよ》は月《つき》に一二|返《へん》位《ぐらゐ》繰《く》り返《かへ》してゐたが、後《のち》には二月《ふたつき》に一|返《ぺん》になり、三月《みつき》に一|返《ぺん》になり、とう/\、 「好《い》いや、小六《ころく》さへ何《ど》うかして呉《く》れゝば。あとの事《こと》は何《いづ》れ東京《とうきやう》へ出《で》たら、逢《あ》つた上《うへ》で話《はなし》を付《つ》けらあ。ねえ御米《およね》、左《さ》うすると、爲《し》やうぢやないか」と云《い》ひ出《だ》した。 「それで、好《よ》ござんすとも」と御米《およね》は答《こた》へた。  宗助《そうすけ》は佐伯《さへき》の事《こと》をそれなり放《はふ》つて仕舞《しま》つた。單《たん》なる無心《むしん》は、自分《じぶん》の過去《くわこ》に對《たい》しても、叔父《をぢ》に向《むか》つて云《い》ひ出《だ》せるものでないと、宗助《そうすけ》は考《かんが》へてゐた。從《したが》つて其方《そのはう》の談判《だんぱん》は、始《はじ》めから未《いま》だ嘗《かつ》て筆《ふで》にした事《こと》がなかつた。小六《ころく》からは時々《とき/″\》手紙《てがみ》が來《き》たが、極《きは》めて短《みじ》かい形式的《けいしきてき》のものが多《おほ》かつた。宗助《そうすけ》は父《ちゝ》の死《し》んだ時《とき》、東京《とうきやう》で逢《あ》つた小六《ころく》を覺《おぼ》えてゐる丈《だけ》だから、いまだに小六《ころく》を他愛《たあい》ない小供《こども》位《ぐらゐ》に想像《さうざう》するので、自分《じぶん》の代理《だいり》に叔父《をぢ》と交渉《かうせふ》させ樣抔《やうなど》と云《い》ふ氣《き》は無論《むろん》起《おこ》らなかつた。  夫婦《ふうふ》は世《よ》の中《なか》の日《ひ》の目《め》を見《み》ないものが、寒《さむ》さに堪《た》へかねて、抱《だ》き合《あ》つて暖《だん》を取《と》る樣《やう》な具合《ぐあひ》に、御互《おたがひ》同志《どうし》を頼《たよ》りとして暮《く》らしてゐた。苦《くる》しい時《とき》には、御米《およね》が何時《いつ》でも、宗助《そうすけ》に、 「でも仕方《しかた》がないわ」と云《い》つた。宗助《そうすけ》は御米《およね》に、 「まあ我慢《がまん》するさ」と云《い》つた。  二人《ふたり》の間《あひだ》には諦《あきら》めとか、忍耐《にんたい》とか云《い》ふものが斷《た》えず動《うご》いてゐたが、未來《みらい》とか希望《きばう》と云《い》ふものゝ影《かげ》は殆《ほと》んど射《さ》さない樣《やう》に見《み》えた。彼等《かれら》は餘《あま》り多《おほ》く過去《くわこ》を語《かた》らなかつた。時《とき》としては申《まを》し合《あ》はせた樣《やう》に、それを回避《くわいひ》する風《ふう》さへあつた。御米《およね》が時《とき》として、 「其内《そのうち》には又《また》屹度《きつと》好《い》い事《こと》があつてよ。さう/\惡《わる》い事《こと》ばかり續《つゞ》くものぢやないから」と夫《をつと》を慰《なぐ》さめる樣《やう》に云《い》ふ事《こと》があつた。すると、宗助《そうすけ》にはそれが、眞心《まごゝろ》ある妻《さい》の口《くち》を藉《か》りて、自分《じぶん》を飜弄《ほんろう》する運命《うんめい》の毒舌《どくぜつ》の如《ごと》くに感《かん》ぜられた。宗助《そうすけ》はさう云《い》ふ場合《ばあひ》には何《なん》にも答《こた》へずにたゞ苦笑《くせう》する丈《だけ》であつた。御米《およね》が夫《それ》でも氣《き》が付《つ》かずに、なにか云《い》ひ續《つゞ》けると、 「我々《われ/\》は、そんな好《い》い事《こと》を豫期《よき》する權利《けんり》のない人間《にんげん》ぢやないか」と思《おも》ひ切《き》つて投《な》げ出《だ》して仕舞《しま》ふ。細君《さいくん》は漸《やうや》く氣《き》が付《つ》いて口《くち》を噤《つぐ》んで仕舞《しま》ふ。さうして二人《ふたり》が默《だま》つて向《む》き合《あ》つてゐると、何時《いつ》の間《ま》にか、自分達《じぶんたち》は自分達《じぶんたち》の拵《こしら》えた過去《くわこ》といふ暗《くら》い大《おほ》きな窖《あな》の中《なか》に落《お》ちてゐる。  彼等《かれら》は自業自得《じごふじとく》で、彼等《かれら》の未來《みらい》を塗抹《とまつ》した。だから歩《ある》いてゐる先《さき》の方《はう》には、花《はな》やかな色彩《しきさい》を認《みと》める事《こと》が出來《でき》ないものと諦《あき》らめて、たゞ二人《ふたり》手《て》を携《たづさ》えて行《ゆ》く氣《き》になつた。叔父《をぢ》の賣《う》り拂《はら》つたと云《い》ふ地面《ぢめん》家作《かさく》に就《つ》いても、固《もと》より多《おほ》くの期待《きたい》は持《も》つてゐなかつた。時々《とき/″\》考《かんが》へ出《だ》した樣《やう》に、 「だつて、近頃《ちかごろ》の相場《さうば》なら、捨賣《すてうり》にしたつて、あの時《とき》叔父《をぢ》の拵《こし》らへて呉《く》れた金《かね》の倍《ばい》にはなるんだもの。あんまり馬鹿々々《ばか/\》しいからね」と宗助《そうすけ》が云《い》ひ出《だ》すと、御米《およね》は淋《さみ》しさうに笑《わら》つて、 「又《また》地面《ぢめん》? 何時迄《いつまで》もあの事《こと》ばかり考《かんが》へて入《い》らつしやるのね。だつて、貴方《あなた》が萬事《ばんじ》宜《よろ》しく願《ねが》ひますと、叔父《をぢ》さんに仰《おつ》しやつたんでせう」と云《い》ふ。 「そりや仕方《しかた》がないさ。あの場合《ばあひ》あゝでも爲《し》なければ方《はう》が付《つ》かないんだもの」と宗助《そうすけ》が云《い》ふ。 「だからさ。叔父《をぢ》さんの方《はう》では、御金《おかね》の代《かは》りに家《うち》と地面《ぢめん》を貰《もら》つた積《つもり》で入《い》らつしやるかも知《し》れなくつてよ」と御米《およね》が云《い》ふ。  さう云《い》はれると、宗助《そうすけ》も叔父《をぢ》の處置《しよち》に一理《いちり》ある樣《やう》にも思《おも》はれて、口《くち》では、 「その積《つもり》が好《よ》くないぢやないか」と答辯《たふべん》する樣《やう》なものゝ、此《この》問題《もんだい》は其都度《そのつど》次第々々《しだい/\》に背景《はいけい》の奧《おく》に遠《とほ》ざかつて行《ゆ》くのであつた。  夫婦《ふうふ》がこんな風《ふう》に淋《さみ》しく睦《むつ》まじく暮《く》らして來《き》た二|年目《ねんめ》の末《すゑ》に、宗助《そうすけ》はもとの同級生《どうきふせい》で、學生時代《がくせいじだい》には大變《たいへん》懇意《こんい》であつた杉原《すぎはら》と云《い》ふ男《をとこ》に偶然《ぐうぜん》出逢《であ》つた。杉原《すぎはら》は卒業後《そつげふご》高等文官試驗《かうとうぶんくわんしけん》に合格《がふかく》して、其時《そのとき》既《すで》に或省《あるしやう》に奉職《ほうしよく》してゐたのだが、公務上《こうむじやう》福岡《ふくをか》と佐賀《さが》へ出張《しゆつちやう》することになつて、東京《とうきやう》からわざ/\遣《や》つて來《き》たのである。宗助《そうすけ》は所《ところ》の新聞《しんぶん》で、杉原《すぎはら》の何時《いつ》着《つ》いて、何處《どこ》に泊《とま》つてゐるかを能《よ》く知《し》つてはゐたが、失敗者《しつぱいしや》としての自分《じぶん》に顧《かへり》みて、成効者《せいかうしや》の前《まへ》に頭《あたま》を下《さ》げる對照《たいせう》を耻《は》づかしく思《おも》つた上《うへ》に、自分《じぶん》は在學《ざいがく》當時《たうじ》の舊友《きういう》に逢《あ》ふのを、特《とく》に避《さ》けたい理由《りいう》を持《も》つてゐたので、彼《かれ》の旅館《りよくわん》を訪《たづ》ねる氣《き》は毛頭《まうとう》なかつた。  所《ところ》が杉原《すぎはら》の方《はう》では、妙《めう》な引掛《ひつかゝ》りから、宗助《そうすけ》の此所《こゝ》に燻《くす》ぶつてゐる事《こと》を聞《き》き出《だ》して、強《し》いて面會《めんくわい》を希望《きばう》するので、宗助《そうすけ》も已《やむ》を得《え》ず我《が》を折《を》つた。宗助《そうすけ》が福岡《ふくをか》から東京《とうきやう》へ移《うつ》れる樣《やう》になつたのは、全《まつた》く此《この》杉原《すぎはら》の御蔭《おかげ》である。杉原《すぎはら》から手紙《てがみ》が來《き》て、愈《いよ/\》事《こと》が極《きま》つたとき、宗助《そうすけ》は箸《はし》を置《お》いて、 「御米《およね》、とう/\東京《とうきやう》へ行《い》けるよ」と云《い》つた。 「まあ結構《けつこう》ね」と御米《およね》が夫《をつと》の顏《かほ》を見《み》た。  東京《とうきやう》に着《つ》いてから二三|週間《しうかん》は、眼《め》の回《まは》る樣《やう》に日《ひ》が經《た》つた。新《あた》らしく世帶《しよたい》を有《も》つて、新《あた》らしい仕事《しごと》を始《はじ》める人《ひと》に、あり勝《が》ちな急忙《せは》しなさと、自分達《じぶんたち》を包《つゝ》む大都《たいと》の空氣《くうき》の、日夜《にちや》劇《はげ》しく震盪《しんたう》する刺戟《しげき》とに驅《か》られて、何事《なにごと》をも凝《じつ》と考《かんが》へる閑《ひま》もなく、又《また》落《お》ち付《つ》いて手《て》を下《くだ》す分別《ふんべつ》も出《で》なかつた。  夜汽車《よぎしや》で新橋《しんばし》へ着《つ》いた時《とき》は、久《ひさ》し振《ぶ》りに叔父《をぢ》夫婦《ふうふ》の顏《かほ》を見《み》たが、夫婦《ふうふ》とも灯《ひ》の所爲《せゐ》か晴《は》れやかな色《いろ》には宗助《そうすけ》の眼《め》に映《うつ》らなかつた。途中《とちゆう》に事故《じこ》があつて、着《ちやく》の時間《じかん》が珍《めづ》らしく三十|分程《ぷんほど》後《おく》れたのを、宗助《そうすけ》の過失《くわしつ》でゞもあるかの樣《やう》に、待草臥《まちくたび》れた氣色《けしき》であつた。  宗助《そうすけ》が此時《このとき》叔母《をば》から聞《き》いた言葉《ことば》は、 「おや宗《そう》さん、少時《しばらく》御目《おめ》に掛《か》ゝらないうちに、大變《たいへん》御老《おふ》けなすつた事《こと》」といふ一句《いつく》であつた。御米《およね》は其折《そのをり》始《はじ》めて叔父《をぢ》夫婦《ふうふ》に紹介《せうかい》された。 「これが彼《あの》……」と叔母《をば》は逡巡《ためら》つて宗助《そうすけ》の方《はう》を見《み》た。御米《およね》は何《なん》と挨拶《あいさつ》のしやうもないので、無言《むごん》の儘《まゝ》唯《たゞ》頭《あたま》を下《さ》げた。  小六《ころく》も無論《むろん》叔父《をぢ》夫婦《ふうふ》と共《とも》に二人《ふたり》を迎《むか》ひに來《き》てゐた。宗助《そうすけ》は一眼《ひとめ》其姿《そのすがた》を見《み》たとき、何時《いつ》の間《ま》にか自分《じぶん》を凌《しの》ぐ樣《やう》に大《おほ》きくなつた弟《おとうと》の發育《はついく》に驚《おど》ろかされた。小六《ころく》は其時《そのとき》中學《ちゆうがく》を出《で》て、是《これ》から高等學校《かうとうがくかう》へ這入《はい》らうといふ間際《まぎは》であつた。宗助《そうすけ》を見《み》て、「兄《にい》さん」とも「御歸《おかへ》りなさい」とも云《い》はないで、たゞ不器用《ぶきよう》に挨拶《あいさつ》をした。  宗助《そうすけ》と御米《およね》は一|週《しう》ばかり宿屋《やどや》住居《ずまひ》をして、夫《それ》から今《いま》の所《ところ》に引《ひ》き移《うつ》つた。其時《そのとき》は叔父《をぢ》夫婦《ふうふ》が色々《いろ/\》世話《せわ》を燒《や》いて呉《く》れた。細々《こま/″\》しい臺所《だいどころ》道具《だうぐ》の樣《やう》なものは買《か》ふ迄《まで》もあるまい、古《ふる》いので可《よ》ければと云《い》ふので、小人數《こにんず》に必要《ひつえう》な丈《だけ》一通《ひととほ》り取《と》り揃《そろ》えて送《おく》つて來《き》た。其上《そのうへ》、 「御前《おまへ》も新世帶《しんしよたい》だから、嘸《さぞ》物要《ものいり》が多《おほ》からう」と云《い》つて金《かね》を六十|圓《ゑん》呉《く》れた。  家《うち》を持《も》つて彼是《かれこれ》取《と》り紛《まぎ》れてゐるうちに、早《はや》半月《はんつき》餘《よ》も經《た》つたが、地方《ちはう》にゐる時分《じぶん》あんなに氣《き》にしてゐた家邸《いへやしき》の事《こと》は、ついまだ叔父《をぢ》に言《い》ひ出《だ》さずにゐた。ある時《とき》御米《およね》が、 「貴方《あなた》あの事《こと》を叔父《をぢ》さんに仰《おつし》やつて」と聞《き》いた。宗助《そうすけ》はそれで急《きふ》に思《おも》ひ出《だ》した樣《やう》に、 「うん、未《ま》だ云《い》はないよ」と答《こた》へた。 「妙《めう》ね、あれ程《ほど》氣《き》にして入《い》らしつたのに」と御米《およね》がうす笑《わらひ》をした。 「だつて、落《お》ち付《つ》いて、そんな事《こと》を云《い》ひ出《だ》す暇《ひま》がないんだもの」と宗助《そうすけ》が辯解《べんかい》した。  又《また》十日《とをか》程《ほど》經《た》つた。すると今度《こんだ》は宗助《そうすけ》の方《はう》から、 「御米《およね》、あの事《こと》は未《ま》だ云《い》はないよ。どうも云《い》ふのが面倒《めんだう》で厭《いや》になつた」と云《い》ひ出《》した。 「厭《いや》なのを無理《むり》に仰《おつし》やらなくつても可《い》いわ」と御米《およね》が答《こた》へた。 「好《い》いかい」と宗助《そうすけ》が聞《き》き返《かへ》した。 「好《い》いかいつて、もと/\貴方《あなた》の事《こと》ぢやなくつて。私《わたくし》は先《せん》から何《ど》うでも好《い》いんだわ」と御米《およね》が答《こた》へた。  其時《そのとき》宗助《そうすけ》は、 「ぢや、鹿爪《しかつめ》らしく云《い》ひ出《だ》すのも何《なん》だか妙《めう》だから、其内《そのうち》機會《をり》があつたら、聞《き》くとしやう。なに其内《そのうち》聞《き》いて見《み》る機會《をり》が屹度《きつと》出《で》て來《く》るよ」と云《い》つて延《の》ばして仕舞《しま》つた。  小六《ころく》は何不足《なにふそく》なく叔父《をぢ》の家《いへ》に寐起《ねおき》してゐた。試驗《しけん》を受《う》けて高等學校《かうとうがくかう》へ這入《はい》れゝば、寄宿《きしゆく》へ入舍《にふしや》しなければならないと云《い》ふので、其《その》相談《さうだん》迄《まで》既《すで》に叔父《をぢ》と打合《うちあは》せがしてある樣《やう》であつた。新《あた》らしく出京《しゆつきやう》した兄《あに》からは別段《べつだん》學資《がくし》の世話《せわ》を受《う》けない所爲《せゐ》か、自分《じぶん》の身《み》の上《うへ》に就《つ》いては叔父《をぢ》程《ほど》に親《した》しい相談《さうだん》も持《も》ち込《こ》んで來《こ》なかつた。從兄弟《いとこ》の安之助《やすのすけ》とは今迄《いままで》の關係上《くわんけいじやう》大變《たいへん》仲《なか》が好《よ》かつた。却《かへ》つて此方《このはう》が兄弟《きやうだい》らしかつた。  宗助《そうすけ》は自然《しぜん》叔父《をぢ》の家《うち》に足《あし》が遠《とほ》くなる樣《やう》になつた。たまに行《い》つても、義理《ぎり》一遍《いつぺん》の訪問《はうもん》に終《をは》る事《こと》が多《おほ》いので、歸《かへ》り路《みち》には何時《いつ》も詰《つま》らない氣《き》がしてならなかつた。仕舞《しまひ》には時候《じこう》の挨拶《あいさつ》を濟《す》ますと、すぐ歸《かへ》りたくなる事《こと》もあつた。かう云《い》ふ時《とき》には三十|分《ぷん》と坐《すわ》つて世間話《せけんばなし》に時間《じかん》を繋《つな》ぐのにさへ骨《ほね》が折《を》れた。向《むか》ふでも何《なん》だか氣《き》が置《お》けて窮屈《きゆうくつ》だと云《い》ふ風《ふう》が見《み》えた。 「まあ可《い》いぢやありませんか」と叔母《をば》が留《と》めてくれるのが例《れい》であるが、さうすると、猶更《なほさら》居《ゐ》にくい心持《こゝろもち》がした。それでも、たまには行《い》かないと、心《こゝろ》のうちで氣《き》が咎《とが》める樣《やう》な不安《ふあん》を感《かん》ずるので、又《また》行《ゆ》くやうになつた。折々《をり/\》は、 「何《ど》うも小六《ころく》が御厄介《ごやくかい》になりまして」と此方《こつち》から頭《あたま》を下《さ》げて禮《れい》を云《い》ふ事《こと》もあつた。けれども、それ以上《いじやう》は、弟《おとうと》の將來《しやうらい》の學資《がくし》に就《つい》ても、又《また》自分《じぶん》が叔父《をぢ》に頼《たの》んで、留守中《るすちゆう》に賣《う》り拂《はら》つて貰《もら》つた地所《ぢしよ》家作《かさく》に就《つ》いても、口《くち》を切《き》るのがつい面倒《めんだう》になつた。然《しか》し宗助《そうすけ》が興味《きようみ》を有《も》たない叔父《をぢ》の所《ところ》へ、不精無精《ふしやうぶしやう》にせよ、時《とき》たま出掛《でか》けて行《ゆ》くのは、單《たん》に叔父《をぢ》甥《をひ》の血屬《けつぞく》關係《くわんけい》を、世間並《せけんなみ》に持《も》ち堪《こた》へるための義務心《ぎむしん》からではなくつて、いつか機會《きくわい》があつたら、片《かた》を付《つ》けたい或物《あるもの》を胸《むね》の奧《おく》に控《ひか》へてゐた結果《けつくわ》に過《す》ぎないのは明《あきら》かであつた。 「宗《そう》さんは何《ど》うも悉皆《すつかり》變《かは》つちまいましたね」と叔母《をば》が叔父《をぢ》に話《はな》す事《こと》があつた。すると叔父《をぢ》は、 「左《さ》うよなあ。矢《や》つ張《ぱ》り、あゝ云《い》ふ事《こと》があると、永《なが》く迄《まで》後《あと》へ響《ひゞ》くものだからな」と答《こた》へて、因果《いんぐわ》は恐《おそ》ろしいと云《い》ふ風《ふう》をする。叔母《をば》は重《かさ》ねて、 「本當《ほんたう》に、怖《こは》いもんですね。元《もと》はあんな寐入《ねい》つた子《こ》ぢやなかつたが――どうも燥急《はしや》ぎ過《す》ぎる位《くらゐ》活溌《くわつぱつ》でしたからね。それが二三|年《ねん》見《み》ないうちに、丸《まる》で別《べつ》の人《ひと》見《み》た樣《やう》に老《ふ》けちまつて。今《いま》ぢや貴方《あなた》より御爺《おぢい》さん/\してゐますよ」と云《い》ふ。 「眞逆《まさか》」と叔父《をぢ》が又《また》答《こた》へる。 「いえ、頭《あたま》や顏《かほ》は別《べつ》として、樣子《やうす》がさ」と叔母《をば》が又《また》辯解《べんかい》する。  こんな會話《くわいわ》が老夫婦《らうふうふ》の間《あひだ》に取《と》り換《か》はされたのは、宗助《そうすけ》が出京《しゆつきやう》して以來《いらい》一|度《ど》や二|度《ど》ではなかつた。實際《じつさい》彼《かれ》は叔父《をぢ》の所《ところ》へ來《く》ると、老人《らうじん》の眼《め》に映《うつ》る通《とほ》りの人間《にんげん》に見《み》えた。  御米《およね》は何《ど》う云《い》ふものか、新橋《しんばし》へ着《つ》いた時《とき》、老人《らうじん》夫婦《ふうふ》に紹介《せうかい》されたぎり、曾《か》つて叔父《をぢ》の家《うち》の敷居《しきゐ》を跨《また》いだ事《こと》がない。向《むかふ》から見《み》えれば叔父《をぢ》さん叔母《をば》さんと丁寧《ていねい》に接待《せつたい》するが、歸《かへ》りがけに、 「何《ど》うです、些《ち》と御出掛《おでか》けなすつちや」などゝ云《い》はれると、たゞ 「難有《ありがた》う」と頭《あたま》を下《さ》げる丈《だけ》で、遂《つひ》ぞ出掛《でか》けた試《ためし》はなかつた。流石《さすが》の宗助《そうすけ》さへ一|度《ど》は、 「叔父《をぢ》さんの所《ところ》へ一|度《ど》行《い》つて見《み》ちや、何《ど》うだい」と勸《すゝ》めた事《こと》があるが、 「でも」と變《へん》な顏《かほ》をするので、宗助《そうすけ》は夫限《それぎり》決《けつ》して其事《そのこと》を云《い》ひ出《だ》さなかつた。  兩家族《りやうかぞく》はこの状態《じやうたい》で約《やく》一|年《ねん》ばかりを送《おく》つた。すると宗助《そうすけ》よりも氣分《きぶん》は若《わか》いと許《ゆる》された叔父《をぢ》が突然《とつぜん》死《し》んだ。病症《びやうしやう》は脊髓腦膜炎《せきずゐなうまくえん》とかいふ劇症《げきしやう》で、二三|日《にち》風邪《かぜ》の氣味《きみ》で寐《ね》てゐたが、便所《べんじよ》へ行《い》つた歸《かへ》りに、手《て》を洗《あら》はうとして、柄杓《ひしやく》を持《も》つた儘《まゝ》卒倒《そつたう》したなり、一日《いちんち》經《た》つか經《た》たないうちに冷《つめ》たくなつて仕舞《しま》つたのである。 「御米《およね》、叔父《をぢ》はとう/\話《はなし》をしずに死《し》んで仕舞《しま》つたよ」と宗助《そうすけ》が云《い》つた。 「貴方《あなた》まだ、あの事《こと》を聞《き》く積《つもい》だつたの、貴方《あなた》も隨分《ずゐぶん》執念深《しふねんぶか》いのね」と御米《およね》が云《い》つた。  夫《それ》から又《また》一|年《ねん》ばかり經《た》つたら、叔父《をぢ》の子《こ》の安之助《やすのすけ》が大學《だいがく》を卒業《そつげふ》して、小六《ころく》が高等學校《かうとうがくかう》の二|年生《ねんせい》になつた。叔母《をば》は安之助《やすのすけ》と一所《いつしよ》に中《なか》六番町《なかろくばんちやう》に引《ひ》き移《うつ》つた。  三|年目《ねんめ》の夏休《なつやす》みに小六《ころく》は房州《ばうしう》の海水浴《かいすゐよく》へ行《い》つた。そこに一月餘《ひとつきあま》りも滯在《たいざい》してゐるうちに九|月《ぐわつ》になり掛《か》けたので、保田《ほた》から向《むか》ふへ突切《つつき》つて、上總《かづさ》の海岸《かいがん》を九十九里《くじふくり》傳《づた》ひに、銚子《てうし》迄《まで》來《き》たが、そこから思《おも》ひ出《だ》した樣《やう》に東京《とうきやう》へ歸《かへ》つた。宗助《そうすけ》の所《ところ》へ見《み》えたのは、歸《かへ》つてから、まだ二三|日《にち》しか立《た》たない、殘暑《ざんしよ》の強《つよ》い午後《ごご》である。眞黒《まつくろ》に焦《こ》げた顏《かほ》の中《なか》に、眼《め》だけ光《ひか》らして、見違《みちが》へる樣《やう》に蠻色《ばんしよく》を帶《お》びた彼《かれ》は、比較的《ひかくてき》日《ひ》の遠《とほ》い座敷《ざしき》へ這入《はい》つたなり横《よこ》になつて、兄《あに》の歸《かへ》りを待《ま》ち受《う》けてゐたが、宗助《そうすけ》の顏《かほ》を見《み》るや否《いな》や、むつくり起《お》き上《あ》がつて、 「兄《にい》さん、少《すこ》し御話《おはなし》があつて來《き》たんですが」と開《ひら》き直《なほ》られたので、宗助《そうすけ》は少《すこ》し驚《おど》ろいた氣味《きみ》で、暑苦《あつくる》しい洋服《やうふく》さへ脱《ぬ》ぎ更《か》へずに、小六《ころく》の話《はなし》を聞《き》いた。  小六《ころく》の云《い》ふ所《ところ》によると、二三|日前《にちまへ》彼《かれ》が上總《かづさ》から歸《かへ》つた晩《ばん》、彼《かれ》の學資《がくし》は此暮《このくれ》限《かぎ》り氣《き》の毒《どく》ながら出《だ》して遣《や》れないと叔母《をば》から申《まを》し渡《わた》されたのださうである。小六《ころく》は父《ちゝ》が死《し》んで、すぐと叔父《をぢ》に引《ひ》き取《と》られて以來《いらい》、學校《がくかう》へも行《ゆ》けるし、着物《きもの》も自然《ひとりで》に出來《でき》るし、小遣《こづかひ》も適宜《てきぎ》に貰《もら》へるので、父《ちゝ》の存生中《ぞんしやうちゆう》と同《おな》じ樣《やう》に、何不足《なにふそく》なく暮《く》らせて來《き》た惰性《だせい》から、其日《そのひ》其晩《そのばん》迄《まで》も、ついぞ學資《がくし》と云《い》ふ問題《もんだい》を頭《あたま》に思《おも》ひ浮《うか》べた事《こと》がなかつたため、叔母《をば》の宣告《せんこく》を受《う》けた時《とき》は、茫然《ぼんやり》して兎角《とかく》の挨拶《あいさつ》さへ出來《でき》なかつたのだと云《い》ふ。  叔母《をば》は氣《き》の毒《どく》さうに、何故《なぜ》小六《ころく》の世話《せわ》が出來《でき》なくなつたかを、女丈《をんなだけ》に、一|時間《じかん》も掛《か》かつて委《くは》しく説明《せつめい》して呉《く》れたさうである。それには叔父《をぢ》の亡《な》くなつた事《こと》やら、繼《つ》いで起《おこ》る經濟上《けいざいじやう》の變化《へんくわ》やら、又《また》安之助《やすのすけ》の卒業《そつげふ》やら、卒業後《そつげふご》に控《ひか》えてゐる結婚《けつこん》問題《もんだい》やらが這入《はい》つてゐたのだと云《い》ふ。 「出來《でき》るならば、責《せ》めて高等學校《かうとうがくかう》を卒業《そつげふ》する迄《まで》と思《おも》つて、今日《けふ》迄《まで》色々《いろ/\》骨《ほね》を折《を》つたんだけれども」  叔母《をば》は斯《か》う云《い》つたと小六《ころく》は繰《く》り返《かへ》した。小六《ころく》は其時《そのとき》不圖《ふと》兄《あに》が先年《せんねん》父《ちゝ》の葬式《さうしき》の時《とき》に出京《しゆつきやう》して、萬事《ばんじ》を片付《かたづ》けた後《あと》、廣島《ひろしま》へ歸《かへ》るとき、小六《ころく》に、御前《おまへ》の學資《がくし》は叔父《をぢ》さんに預《あづ》けてあるからと云《い》つた事《こと》があるのを思《おも》ひ出《だ》して、叔母《をば》に始《はじ》めて聞《き》いて見《み》ると、叔母《をば》は案外《あんぐわい》な顏《かほ》をして、 「そりや、あの時《とき》、宗《そう》さんが若干《いくら》か置《お》いて行《い》きなすつた事《こと》は、行《い》きなすつたが、夫《それ》はもう有《あ》りやしないよ。叔父《をぢ》さんの未《ま》だ生《い》きて御出《おいで》の時分《じぶん》から、御前《おまへ》の學資《がくし》は融通《ゆうづう》して來《き》たんだから」と答《こた》へた。  小六《ころく》は兄《あに》から自分《じぶん》の學資《がくし》が何《ど》れ程《ほど》あつて、何年分《なんねんぶん》の勘定《かんぢやう》で、叔父《をぢ》に預《あづ》けられたかを、聞《き》いて置《お》かなかつたから、叔母《をば》から斯《か》う云《い》はれて見《み》ると、一言《ひとこと》も返《かへ》し樣《やう》がなかつた。 「御前《おまへ》も一人《ひとり》ぢやなし、兄《にい》さんもある事《こと》だから能《よ》く相談《さうだん》をして見《み》たら好《い》いだらう。其代《そのかは》り私《わたし》も宗《そう》さんに逢《あ》つて、篤《とつ》くり譯《わけ》を話《はな》しませうから。どうも、宗《そう》さんも餘《あん》まり近頃《ちかごろ》は御出《おいで》でないし、私《わたし》も御無沙汰《ごぶさた》許《ばかり》してゐるのでね、つい御前《おまへ》の事《こと》は御話《おはなし》をする譯《わけ》にも行《い》かなかつたんだよ」と叔母《をば》は最後《さいご》に附《つ》け加《くは》へたさうである。  小六《ころく》から一部始終《いちぶしじゆう》を聞《き》いた時《とき》、宗助《そうすけ》はたゞ弟《おとうと》の顏《かほ》を眺《なが》めて、一口《ひとくち》、 「困《こま》つたな」と云《い》つた。昔《むかし》の樣《やう》に赫《くわつ》と激《げき》して、すぐ叔母《をば》の所《ところ》へ談判《だんぱん》に押《お》し掛《か》ける氣色《けしき》もなければ、今迄《いままで》自分《じぶん》に對《たい》して、世話《せわ》にならないでも濟《す》む人《ひと》の樣《やう》に、餘所《よそ》々々《/\》しく仕向《しむ》けて來《き》た弟《おとうと》の態度《たいど》が急《きふ》に方向《はうかう》を轉《てん》じたのを、惡《にく》いと思《おも》ふ樣子《やうす》も見《み》えなかつた。  自分《じぶん》の勝手《かつて》に作《つく》り上《あ》げた美《うつ》くしい未來《みらい》が、半分《はんぶん》壞《くづ》れかゝつたのを、さも傍《はた》の人《ひと》の所爲《せゐ》ででもあるかの如《ごと》く心《こゝろ》を亂《みだ》してゐる小六《ころく》の歸《かへ》る姿《すがた》を見送《みおく》つた宗助《そうすけ》は、暗《くら》い玄關《げんくわん》の敷居《しきゐ》の上《うへ》に立《た》つて、格子《かうし》の外《そと》に射《さ》す夕日《ゆふひ》をしばらく眺《なが》めてゐた。  其晩《そのばん》宗助《そうすけ》は裏《うら》から大《おほ》きな芭蕉《ばせう》の葉《は》を二|枚《まい》剪《き》つて來《き》て、それを座敷《ざしき》の縁《えん》に敷《し》いて、其上《そのうえ》に御米《およね》と並《なら》んで涼《すゞ》みながら、小六《ころく》の事《こと》を話《はな》した。 「叔母《をば》さんは、此方《こつち》で、小六《ころく》さんの世話《せわ》をしろつて云《い》ふ氣《き》なんぢやなくつて」と御米《およね》が聞《き》いた。 「まあ、逢《あ》つて聞《き》いて見《み》ないうちは、何《ど》う云《い》ふ料簡《れうけん》か分《わか》らないがね」と宗助《そうすけ》が云《い》ふと、御米《およね》は、 「屹度《きつと》左《さ》うよ」と答《こた》へながら、暗《くら》がりで團扇《うちは》をはた/\動《うご》かした。宗助《そうすけ》は何《なに》も云《い》はずに、頸《くび》を延《の》ばして、庇《ひさし》と崖《がけ》の間《あひだ》に細《ほそ》く映《うつ》る空《そら》の色《いろ》を眺《なが》めた。二人《ふたり》は其儘《そのまゝ》しばらく默《だま》つて居《ゐ》たが、良《やゝ》あつて、 「だつて夫《それ》ぢや無理《むり》ね」と御米《およね》が又《また》云《い》つた。 「人間《にんげん》一人《ひとり》大學《だいがく》を卒業《そつげふ》させるなんて、己《おれ》の手際《てぎは》ぢや到底《とても》駄目《だめ》だ」と宗助《そうすけ》は自分《じぶん》の能力丈《のうりよくだけ》を明《あき》らかにした。  會話《くわいわ》はそこで別《べつ》の題目《だいもく》に移《うつ》つて、再《ふたゝ》び小六《ころく》の上《うへ》にも叔母《をば》の上《うへ》にも歸《かへ》つて來《こ》なかつた。それから二三|日《にち》すると丁度《ちやうど》土曜《どえう》が來《き》たので、宗助《そうすけ》は役所《やくしよ》の歸《かへ》りに、番町《ばんちやう》の叔母《をば》の所《ところ》へ寄《よ》つて見《み》た。叔母《をば》は、 「おや/\、まあ御珍《おめづ》らしい事《こと》」と云《い》つて、何時《いつ》もよりは愛想《あいそ》よく宗助《そうすけ》を款待《もてな》して呉《く》れた。其時《そのとき》宗助《そうすけ》は厭《いや》なのを我慢《がまん》して、此《この》四五|年來《ねんらい》溜《た》めて置《お》いた質問《しつもん》を始《はじ》めて叔母《をば》に掛《か》けた。叔母《をば》は固《もと》より出來《でき》る丈《だけ》は辯解《べんかい》しない譯《わけ》に行《ゆ》かなかつた。  叔母《をば》の云《い》ふ所《ところ》によると、宗助《そうすけ》の邸宅《やしき》を賣拂《うりはら》つた時《とき》、叔父《をぢ》の手《て》に這入《はい》つた金《かね》は、慥《たしか》には覺《おぼ》えてゐないが、何《なん》でも、宗助《そうすけ》のために、急場《きふば》の間《ま》に合《あは》せた借財《しやくざい》を返《かへ》した上《うへ》、猶《なほ》四千五百|圓《ゑん》とか四千三百|圓《ゑん》とか餘《あま》つたさうである。所《ところ》が叔父《をぢ》の意見《いけん》によると、あの屋敷《やしき》は宗助《そうすけ》が自分《じぶん》に提供《ていきよう》して行《い》つたのだから、たとひ幾何《いくら》餘《あま》らうと、餘《あま》つた分《ぶん》は自分《じぶん》の所得《しよとく》と見傚《みな》して差支《さしつかへ》ない。然《しか》し宗助《そうすけ》の邸宅《やしき》を賣《う》つて儲《まう》けたと云《い》はれては心持《こゝろもち》が惡《わる》いから、是《これ》は小六《ころく》の名義《めいぎ》で保管《ほくわん》して置《お》いて、小六《ころく》の財産《ざいさん》にして遣《や》る。宗助《そうすけ》はあんな事《こと》をして廢嫡《はいちやく》に迄《まで》されかゝつた奴《やつ》だから、一|文《もん》だつて取《と》る權利《けんり》はない。 「宗《そう》さん怒《おこ》つちや不可《いけ》ませんよ。たゞ叔父《をぢ》さんの云《い》つた通《とほ》りを話《はな》すんだから」と叔母《をば》が斷《ことわ》つた。宗助《そうすけ》は默《だま》つてあとを聞《き》いてゐた。  小六《ころく》の名義《めいぎ》で保管《ほくわん》されべき財産《ざいさん》は、不幸《ふかう》にして、叔父《をぢ》の手腕《しゆわん》で、すぐ神田《かんだ》の賑《にぎ》やかな表通《おもてどほ》りの家屋《かをく》に變形《へんけい》した。さうして、まだ保險《ほけん》を付《つ》けないうちに、火事《くわじ》で燒《や》けて仕舞《しま》つた。小六《ころく》には始《はじ》めから話《はな》してない事《こと》だから、其儘《そのまゝ》にして、わざと知《し》らせずに置《お》いた。 「さう云《い》ふ譯《わけ》でね、まことに宗《そう》さんにも、御氣《おき》の毒《どく》だけれども、何《なに》しろ取《と》つて返《かへ》しの付《つ》かない事《こと》だから仕方《しかた》がない。運《うん》だと思《おも》つて諦《あき》らめて下《くだ》さい。尤《もつと》も叔父《をぢ》さんさへ生《い》きてゐれば、又《また》何《ど》うともなるんでせうさ。小六《ころく》一人《ひとり》位《ぐらゐ》そりや譯《わけ》はありますまいよ。よしんば、叔父《をぢ》さんが居《ゐ》なさらない、今《いま》にしたつて、此方《こつち》の都合《つがふ》さへ好《よ》ければ、燒《や》けた家《うち》と同《おな》じ丈《だけ》のものを、小六《ころく》に返《かへ》すか、それでなくつても、當人《たうにん》の卒業《そつげふ》する迄《まで》位《ぐらゐ》は、何《ど》うにかして世話《せわ》も出來《でき》るんですけれども」と云《い》つて叔母《をば》は又《また》外《ほか》の内幕話《うちまくばなし》をして聞《き》かせた。それは安之助《やすのすけ》の職業《しよくげふ》に就《つい》てゞあつた。  安之助《やすのすけ》は叔父《をぢ》の一人息子《ひとりむすこ》で、此夏《このなつ》大學《だいがく》を出《で》た許《ばかり》の青年《せいねん》である。家庭《かてい》で暖《あたゝ》かに育《そだ》つた上《うへ》に、同級《どうきふ》の學生《がくせい》位《ぐらゐ》より外《ほか》に交際《かうさい》のない男《をとこ》だから、世《よ》の中《なか》の事《こと》には寧《むし》ろ迂濶《うくわつ》と云《い》つても可《い》いが、其《その》迂濶《うくわつ》な所《ところ》に何處《どこ》か鷹揚《おうやう》な趣《おもむき》を具《そな》へて實社會《じつしやくわい》へ顏《かほ》を出《だ》したのである。專門《せんもん》は工科《こうくわ》の器械學《きかいがく》だから、企業熱《きげふねつ》の下火《したび》になつた今日《こんにち》と雖《いへども》、日本中《にほんぢゆう》に澤山《たくさん》ある會社《くわいしや》に、相應《さうおう》の口《くち》の一《ひと》つや二《ふた》つあるのは、勿論《もちろん》であるが、親讓《おやゆづ》りの山氣《やまぎ》が何處《どこ》かに潛《ひそ》んでゐるものと見《み》えて、自分《じぶん》で自分《じぶん》の仕事《しごと》をして見《み》たくてならない矢先《やさき》へ、同《おな》じ科《くわ》の出身《しゆつしん》で、小規模《せうきぼ》ながら專有《せんいう》の工場《こうば》を月島邊《つきじまへん》に建《た》てゝ、獨立《どくりつ》の經營《けいえい》をやつてゐる先輩《せんぱい》に出逢《であ》つたのが縁《えん》となつて、其《その》先輩《せんぱい》と相談《さうだん》の上《うへ》、自分《じぶん》も幾分《いくぶん》かの資本《しほん》を注《つ》ぎ込《こ》んで、一所《いつしよ》に仕事《しごと》をして見樣《みやう》といふ考《かんがへ》になつた。叔母《をば》の内幕話《うちまくばなし》と云《い》つたのは其所《そこ》である。 「でね、少《すこ》し有《あ》つた株《かぶ》をみんな其方《そのはう》へ廻《まは》す事《こと》にしたもんだから、今《いま》ぢや本當《ほんたう》に一|文《もん》なし同然《どうぜん》な仕儀《しぎ》でゐるんですよ。それは世間《せけん》から見《み》ると、人數《にんず》は少《すく》なし、家邸《いへやしき》は持《も》つてゐるし、樂《らく》に見《み》えるのも無理《むり》のない所《ところ》でせうさ。此間《このあひだ》も原《はら》の御母《おつか》さんが來《き》て、まあ貴方《あなた》程《ほど》氣樂《きらく》な方《かた》はない、何時《いつ》來《き》て見《み》ても萬年青《おもと》の葉《は》ばかり丹念《たんねん》に洗《あら》つてゐるつてね。眞逆《まさか》左《さ》うでも無《な》いんですけれども」と叔母《をば》が云《い》つた。  宗助《そうすけ》が叔母《をば》の説明《せつめい》を聞《き》いた時《とき》は、ぼんやりして兎角《とかく》の返事《へんじ》が容易《ようい》に出《で》なかつた。心《こゝろ》のなかで、是《これ》は神經衰弱《しんけいすゐじやく》の結果《けつくわ》、昔《むかし》の樣《やう》に機敏《きびん》で明快《めいくわい》な判斷《はんだん》を、すぐ作《つく》り上《あ》げる頭《あたま》が失《な》くなつた證據《しようこ》だらうと自覺《じかく》した。叔母《をば》は自分《じぶん》の云《い》ふ通《とほ》りが、宗助《そうすけ》に本當《ほんたう》と受《う》けられないのを氣《き》にする樣《やう》に、安之助《やすのすけ》から持《も》ち出《だ》した資本《しほん》の高《たか》迄《まで》話《はな》した。それは五千|圓《ゑん》程《ほど》であつた。安之助《やすのすけ》は當分《たうぶん》の間《あひだ》、僅《わづ》かな月給《げつきふ》と、此《この》五千|圓《ゑん》に對《たい》する利益《りえき》配當《はいたう》とで暮《く》らさなければならないのださうである。 「其《その》配當《はいたう》だつて、まだ何《ど》うなるか分《わか》りやしないんでさあね。旨《うま》く行《い》つた所《ところ》で、一|割《わり》か一|割《わり》五|分《ぶ》位《ぐらゐ》なものでせうし、又《また》一《ひと》つ間違《まちが》へば丸《まる》で烟《けむ》にならないとも限《かぎ》らないんですから」と叔母《をば》が付《つ》け加《くは》へた。  宗助《そうすけ》は叔母《をば》の仕打《しうち》に、是《これ》と云《い》ふ目立《めだ》つた阿漕《あこぎ》な所《ところ》も見《み》えないので、心《こゝろ》の中《うち》では少《すく》なからず困《こま》つたが、小六《ころく》の將來《しやうらい》に就《つ》いて一口《ひとくち》の掛合《かけあひ》もせずに歸《かへ》るのは如何《いか》にも馬鹿々々《ばか/\》しい氣《き》がした。そこで今迄《いままで》の問題《もんだい》は其所《そこ》に据《す》ゑつきりにして置《お》いて、自分《じぶん》が當時《たうじ》小六《ころく》の學資《がくし》として叔父《をぢ》に預《あづ》けて行《い》つた千|圓《ゑん》の所置《しよち》を聞《き》き糺《たゞ》して見《み》ると、叔母《をば》は、 「宗《そう》さん、あれこそ本當《ほんたう》に小六《ころく》が使《つか》つちまつたんですよ。小六《ころく》が高等學校《かうとうがくかう》へ這入《はい》つてからでも、もう彼是《かれこれ》七百|圓《ゑん》は掛《か》かつてゐるんですもの」と答《こた》へた。  宗助《そうすけ》は序《ついで》だから、それと同時《どうじ》に、叔父《をぢ》に保管《ほくわん》を頼《たの》んだ書畫《しよぐわ》や骨董品《こつとうひん》の成行《なりゆき》を確《たし》かめて見《み》た。すると、叔母《をば》は、 「ありあ飛《と》んだ馬鹿《ばか》な目《め》に逢《あ》つて」と云《い》ひかけたが、宗助《そうすけ》の樣子《やうす》を見《み》て、 「宗《そう》さん、何《なん》ですか、彼事《あのこと》はまだ御話《おはなし》をしなかつたんでしたかね」と聞《き》いた。宗助《そうすけ》がいゝえと答《こた》へると、 「おや/\、夫《それ》ぢや叔父《をぢ》さんが忘《わす》れちまつたんですよ」と云《い》ひながら、其《その》顛末《てんまつ》を語《かた》つて聞《き》かした。  宗助《そうすけ》が廣島《ひろしま》へ歸《かへ》ると間《ま》もなく、叔父《をぢ》は其《その》賣捌方《うりさばきかた》を眞田《さなだ》とかいふ懇意《こんい》の男《をとこ》に依頼《いらい》した。此《この》男《をとこ》は書畫《しよぐわ》骨董《こつとう》の道《みち》に明《あか》るいとかいふので、平生《へいぜい》そんなものの賣買《ばいばい》の周旋《しうせん》をして諸方《しよはう》へ出入《でいり》するさうであつたが、すぐさま叔父《をぢ》の依頼《いらい》を引《ひ》き受《う》けて、誰《だれ》某《それがし》が何《なに》を欲《ほ》しいと云《い》ふから、一寸《ちよつと》拜見《はいけん》とか、何々《なに/\》氏《し》が斯《か》う云《い》ふ物《もの》を希望《きばう》だから、見《み》せませうとか號《がう》して、品物《しなもの》を持《も》つて行《い》つたぎり、返《かへ》して來《こ》ない。催促《さいそく》すると、まだ先方《せんぱう》から戻《もど》つて參《まゐ》りませんからとか何《なん》とか言譯《いひわけ》をする丈《だけ》で甞《かつ》て埒《らち》の明《あ》いた試《ためし》がなかつたが、とう/\持《も》ち切《き》れなくなつたと見《み》えて、何處《どこ》かへ姿《すがた》を隱《かく》して仕舞《しま》つた。 「でもね、未《ま》だ屏風《びやうぶ》が一《ひと》つ殘《のこ》つてゐますよ。此間《このあひだ》引越《ひつこし》の時《とき》に、氣《き》が付《つ》いて、こりや宗《そう》さんのだから、今度《こんだ》序《ついで》があつたら屆《とゞ》けて上《あ》げたら可《い》いだらうつて、安《やす》がさう云《い》つてゐましたつけ」  叔母《をば》は宗助《そうすけ》の預《あづ》けて行《い》つた品物《しなもの》には丸《まる》で重《おも》きを置《お》いてゐない樣《やう》な、ものゝ云《い》ひ方《かた》をした。宗助《そうすけ》も今日《けふ》迄《まで》放《はふ》つて置《お》く位《くらゐ》だから、あまり其《その》方面《はうめん》には興味《きようみ》を有《も》ち得《え》なかつたので、少《すこ》しも良心《りやうしん》に惱《なや》まされてゐる氣色《けしき》のない叔母《をば》の樣子《やうす》を見《み》ても、別《べつ》に腹《はら》は立《た》たなかつた。それでも、叔母《をば》が、 「宗《そう》さん、何《ど》うせ家《うち》ぢや使《つか》つてゐないんだから、なんなら持《も》つて御出《おいで》なすつちや何《ど》うです。此頃《このごろ》は彼《あゝ》いふものが、大變《たいへん》價《ね》が出《で》たと云《い》ふ話《はなし》ぢやありませんか」と云《い》つたときは、實際《じつさい》それを持《も》つて歸《かへ》る氣《き》になつた。  納戸《なんど》から取《と》り出《だ》して貰《もら》つて、明《あか》るい所《ところ》で眺《なが》めると、慥《たし》かに見覺《みおぼえ》のある二|枚折《まいをり》であつた。下《した》に萩《はぎ》、桔梗《ききやう》、芒《すゝき》、葛《くず》、女郎花《をみなへし》を隙間《すきま》なく描《か》いた上《うへ》に、眞丸《まんまる》な月《つき》を銀《ぎん》で出《だ》して、其横《そのよこ》の空《あ》いた所《ところ》へ、野路《のぢ》や空月《そらつき》の中《なか》なる女郎花《をみなへし》、其一《きいち》と題《だい》してある。宗助《そうすけ》は膝《ひざ》を突《つ》いて銀《ぎん》の色《いろ》の黒《くろ》く焦《こ》げた邊《あたり》から、葛《くず》の葉《は》の風《かぜ》に裏《うら》を返《かへ》してゐる色《いろ》の乾《かわ》いた樣《さま》から、大福《だいふく》程《ほど》な大《おほ》きな丸《まる》い朱《しゆ》の輪廓《りんくわく》の中《なか》に、抱一《はういつ》と行書《ぎやうしよ》で書《か》いた落款《らつくわん》をつく/″\と見《み》て、父《ちゝ》の生《い》きてゐる當時《たうじ》を憶《おも》ひ起《おこ》さずにはゐられなかつた。  父《ちゝ》は正月《しやうぐわつ》になると、屹度《きつと》此《この》屏風《びやうぶ》を薄暗《うすぐら》い藏《くら》の中《なか》から出《だ》して、玄關《げんくわん》の仕切《しき》りに立《た》てて、其前《そのまへ》へ紫檀《したん》の角《かく》な名刺入《めいしいれ》を置《お》いて、年賀《ねんが》を受《う》けたものである。其時《そのとき》は目出度《めでたい》からと云《い》ふので、客間《きやくま》の床《とこ》には必《かなら》ず虎《とら》の双幅《さうふく》を懸《か》けた。是《これ》は岸駒《がんく》ぢやない岸岱《がんたい》だと父《ちゝ》が宗助《そうすけ》に云《い》つて聞《き》かせた事《こと》があるのを、宗助《そうすけ》はいまだに記憶《きおく》してゐた。此《この》虎《とら》の畫《ゑ》には墨《すみ》が着《つ》いてゐた。虎《とら》が舌《した》を出《だ》して谷《たに》の水《みづ》を呑《の》んでゐる鼻柱《はなばしら》が少《すこ》し汚《けが》されたのを、父《ちゝ》は苛《ひど》く氣《き》にして、宗助《そうすけ》を見《み》る度《たび》に、御前《おまへ》此所《こゝ》へ墨《すみ》を塗《ぬ》つた事《こと》を覺《おぼ》えてゐるか、是《これ》は御前《おまへ》の小《ちひ》さい時分《じぶん》の惡戲《いたづら》だぞと云《い》つて、可笑《をか》しい樣《やう》な恨《うら》めしい樣《やう》な一種《いつしゆ》の表情《へうじやう》をした。  宗助《そうすけ》は屏風《びやうぶ》の前《まへ》に畏《かしこ》まつて、自分《じぶん》が東京《とうきやう》にゐた昔《むかし》の事《こと》を考《かんが》へながら、 「叔母《をば》さん、ぢや此《この》屏風《びやうぶ》は頂戴《ちようだい》して行《ゆ》きませう」と云《い》つた。 「あゝ/\、御持《おも》ちなさいとも。何《なん》なら使《つかひ》に持《も》たせて上《あ》げませう」と叔母《をば》は好意《かうい》から申《まを》し添《そ》えた。  宗助《そうすけ》は然《しか》るべく叔母《をば》に頼《たの》んで、其日《そのひ》は夫《それ》で切《き》り上《あ》げて歸《かへ》つた。晩食《ばんめし》の後《のち》御米《およね》と一所《いつしよ》に又《また》縁側《えんがは》へ出《で》て、暗《くら》い所《ところ》で白地《しろぢ》の浴衣《ゆかた》を並《なら》べて、涼《すゞ》みながら、畫《ひる》の話《はなし》をした。 「安《やす》さんには、御逢《おあ》ひなさらなかつたの」と御米《およね》が聞《き》いた。 「あゝ、安《やす》さんは土曜《どえう》でも何《なん》でも夕方《ゆふがた》迄《まで》、工場《こうば》にゐるんださうだ」 「隨分《ずゐぶん》骨《ほね》が折《を》れるでせうね」  御米《およね》は左《さ》う云《い》つたなり、叔父《をぢ》や叔母《をば》の處置《しよち》に就《つ》いては、一言《ひとこと》の批評《ひひやう》も加《くは》へなかつた。 「小六《ころく》の事《こと》は何《ど》うしたものだらう」と宗助《そうすけ》が聞《き》くと、 「さうね」と云《い》ふ丈《だけ》であつた。 「理窟《りくつ》を云《い》へば、此方《こつち》にも云《い》ひ分《ぶん》はあるが、云《い》ひ出《だ》せば、とゞの詰《つま》りは裁判沙汰《さいばんざた》になる許《ばか》りだから、證據《しようこ》も何《なに》もなければ勝《か》てる譯《わけ》のものぢやなし」と宗助《そうすけ》が極端《きよくたん》を豫想《よさう》すると、 「裁判《さいばん》なんかに勝《か》たなくたつても可《い》いわ」と御米《およね》がすぐ云《い》つたので、宗助《そうすけ》は苦笑《くせう》して已《や》めた。 「つまりは己《おれ》があの時《とき》東京《とうきやう》へ出《で》られなかつたからの事《こと》さ」 「さうして東京《とうきやう》へ出《で》られた時《とき》は、もうそんな事《こと》は何《ど》うでも可《よ》かつたんですもの」  夫婦《ふうふ》はこんな話《はなし》をしながら、又《また》細《ほそ》い空《そら》を庇《ひさし》の下《した》から覗《のぞ》いて見《み》て、明日《あした》の天氣《てんき》を語《かた》り合《あ》つて蚊帳《かや》に這入《はい》つた。  次《つぎ》の日曜《にちえう》に宗助《そうすけ》は小六《ころく》を呼《よ》んで、叔母《をば》の云《い》つた通《とほ》りを殘《のこ》らず話《はな》して聞《き》かせて、 「叔母《をば》さんが御前《おまへ》に詳《くは》しい説明《せつめい》をしなかつたのは、短兵急《たんぺいきふ》な御前《おまへ》の性質《せいしつ》を知《し》つてる所爲《せゐ》か、夫《それ》ともまだ小供《こども》だと思《おも》つてわざと略《りやく》して仕舞《しま》つたのか、其所《そこ》は己《おれ》にも分《わか》らないが、何《なに》しろ事實《じじつ》は今《いま》云《い》つた通《とほ》りなんだよ」と教《をし》えた。  小六《ころく》には如何《いか》に詳《くは》しい説明《せつめい》も腹《はら》の足《た》しにはならなかつた。たゞ、 「左《さ》うですか」と云《い》つて六《む》づかしい不滿《ふまん》な顏《かほ》をして宗助《そうすけ》を見《み》た。 「仕方《しかた》がないよ。叔母《をば》さんだつて、安《やす》さんだつて、さう惡《わる》い料簡《れうけん》はないんだから」 「そりや、分《わか》つてゐます」と弟《おとうと》は峻《けは》しい物《もの》の云《い》ひ方《かた》をした。 「ぢや己《おれ》が惡《わる》いつて云《い》ふんだらう。己《おれ》は無論《むろん》惡《わる》いよ。昔《むかし》から今日《こんにち》迄《まで》惡《わる》い所《ところ》だらけな男《をとこ》だもの」  宗助《そうすけ》は横《よこ》になつて烟草《たばこ》を吹《ふ》かしながら、是《これ》より以上《いじやう》は何《なん》とも語《かた》らなかつた。小六《ころく》も默《だま》つて、座敷《ざしき》の隅《すみ》に立《た》てゝあつた二|枚折《まいをり》の抱一《はういつ》の屏風《びやうぶ》を眺《なが》めてゐた。 「御前《おまへ》あの屏風《びやうぶ》を覺《おぼ》えてゐるかい」とやがて兄《あに》が聞《き》いた。 「えゝ」と小六《ころく》が答《こた》へた。 「一昨日《をとゝひ》佐伯《さへき》から屆《とゞ》けて呉《く》れた。御父《おとう》さんの持《も》つてたもので、おれの手《て》に殘《のこ》つたのは、今《いま》ぢや是《これ》だけだ。是《これ》が御前《おまへ》の學資《がくし》になるなら、今《いま》すぐにでも遣《や》るが、剥《は》げた屏風《びやうぶ》一|枚《まい》で大學《だいがく》を卒業《そつげふ》する譯《わけ》にも行《ゆ》かずな」と宗助《そうすけ》が云《い》つた。さうして苦笑《くせう》しながら、 「此《この》暑《あつ》いのに、斯《こ》んなものを立《た》てゝ置《お》くのは、氣狂《きちがひ》じみてゐるが、入《い》れて置《お》く所《ところ》がないから、仕方《しかた》がない」と云《い》ふ述懷《じゆつくわい》をした。  小六《ころく》は此《この》氣樂《きらく》な樣《やう》な、愚圖《ぐづ》の樣《やう》な、自分《じぶん》とは餘《あま》りに懸《か》け隔《へだ》つてゐる兄《あに》を、何時《いつ》も物足《ものた》りなくは思《おも》ふものゝ、いざといふ場合《ばあひ》に、決《けつ》して喧嘩《けんくわ》はし得《え》なかつた。此時《このとき》も急《きふ》に癇癪《かんしやく》の角《つの》を折《を》られた氣味《きみ》で、 「屏風《びやうぶ》は何《ど》うでも好《い》いが、是《これ》から先《さき》僕《ぼく》はどうしたもんでせう」と聞《き》き出《だ》した。 「夫《それ》は問題《もんだい》だ。何《なに》しろ此年《ことし》一杯《いつぱい》に極《き》まれば好《い》い事《こと》だから、まあよく考《かんが》へるさ。おれも考《かんが》へて置《お》かう」と宗助《そうすけ》が云《い》つた。  弟《おとうと》は彼《かれ》の性質《せいしつ》として、そんな中《ちゆう》ぶらりんの姿《すがた》は嫌《きらひ》である、學校《がくかう》へ出《で》ても落付《おちつ》いて稽古《けいこ》も出來《でき》ず、下調《したしらべ》も手《て》に付《つ》かない樣《やう》な境遇《きやうぐう》は、到底《たうてい》自分《じぶん》には堪《た》へられないと云《い》ふ訴《うつたへ》を切《せつ》に遣《や》り出《だ》したが、宗助《そうすけ》の態度《たいど》は依然《いぜん》として變《かは》らなかつた。小六《ころく》があまり癇《かん》の高《たか》い不平《ふへい》を並《なら》べると、 「其《その》位《くらゐ》な事《こと》で夫程《それほど》不平《ふへい》が並《なら》べられゝば、何處《どこ》へ行《い》つたつて大丈夫《だいぢやうぶ》だ。學校《がくかう》を已《や》めたつて、一向《いつかう》差支《さしつかへ》ない。御前《おまへ》の方《はう》が己《おれ》より餘《よ》つ程《ぽど》えらいよ」と兄《あに》が云《い》つたので、話《はなし》は夫《それ》限《ぎり》頓挫《とんざ》して、小六《ころく》はとう/\本郷《ほんがう》へ歸《かへ》つて行《い》つた。  宗助《そうすけ》はそれから湯《ゆ》を浴《あ》びて、晩食《ばんめし》を濟《す》まして、夜《よる》は近所《きんじよ》の縁日《えんにち》へ御米《およね》と一所《いつしよ》に出掛《でか》けた。さうして手頃《てごろ》な花物《はなもの》を二鉢《ふたはち》買《か》つて、夫婦《ふうふ》して一《ひと》つ宛《づゝ》持《も》つて歸《かへ》つて來《き》た。夜露《よつゆ》に中《あ》てた方《はう》が可《よ》からうと云《い》ふので、崖下《がけした》の雨戸《あまど》を明《あ》けて、庭先《にわさき》にそれを二《ふた》つ並《なら》べて置《お》いた。  蚊帳《かや》の中《なか》へ這入《はい》つた時《とき》、御米《およね》は、 「小六《ころく》さんの事《こと》は何《ど》うなつて」と夫《をつと》に聞《き》くと、 「未《ま》だ何《ど》うもならないさ」と宗助《そうすけ》は答《こた》へたが、十|分《ぷん》許《ばかり》の後《のち》夫婦《ふうふ》ともすや/\寐入《ねい》つた。  翌日《よくじつ》眼《め》が覺《さ》めて役所《やくしよ》の生活《せいくわつ》が始《はじ》まると、宗助《そうすけ》はもう小六《ころく》の事《こと》を考《かんが》へる暇《ひま》を有《も》たなかつた。家《うち》へ歸《かへ》つて、のつそりしてゐる時《とき》ですら、此《この》問題《もんだい》を確的《はつきり》眼《め》の前《まへ》に描《ゑが》いて明《あき》らかにそれを眺《なが》める事《こと》を憚《はゞ》かつた。髮《かみ》の毛《け》の中《なか》に包《つゝ》んである彼《かれ》の腦《なう》は、其《その》煩《わづら》はしさに堪《た》えなかつた。昔《むかし》は數學《すうがく》が好《すき》で、隨分《ずゐぶん》込《こ》み入《い》つた幾何《きか》の問題《もんだい》を、頭《あたま》の中《なか》で明暸《めいれう》な圖《づ》にして見《み》る丈《だけ》の根氣《こんき》があつた事《こと》を憶《おも》ひ出《だ》すと、時日《じじつ》の割《わり》には非常《ひじやう》に烈《はげ》しく來《き》た此《この》變化《へんくわ》が自分《じぶん》にも恐《おそ》ろしく映《うつ》つた。  それでも日《ひ》に一度《いちど》位《ぐらゐ》は小六《ころく》の姿《すがた》がぼんやり頭《あたま》の奧《おく》に浮《う》いて來《く》る事《こと》があつて、その時丈《ときだけ》は、彼奴《あいつ》の將來《しやうらい》も何《なん》とか考《かんが》へて置《お》かなくつちやならないと云《い》ふ氣《き》も起《おこ》つた。然《しか》しすぐあとから、まあ急《いそ》ぐにも及《およ》ぶまい位《ぐらゐ》に、自分《じぶん》と打《う》ち消《け》して仕舞《しま》ふのが常《つね》であつた。さうして、胸《むね》の筋《きん》が一本《いつぽん》鉤《かぎ》に引《ひ》つ掛《かゝ》つた樣《やう》な心《こゝろ》を抱《いだ》いて、日《ひ》を暮《く》らしてゐた。  其《その》内《うち》九|月《ぐわつ》も末《すゑ》になつて、毎晩《まいばん》天《あま》の河《がは》が濃《こ》く見《み》へるある宵《よひ》の事《こと》、空《そら》から降《ふ》つた樣《やう》に安之助《やすのすけ》が遣《や》つて來《き》た。宗助《そうすけ》にも御米《およね》にも思《おも》ひ掛《が》けない程《ほど》稀《たま》な客《きやく》なので、二人《ふたり》とも何《なに》か用《よう》があつての訪問《はうもん》だらうと推《すゐ》したが、果《はた》して小六《ころく》に關《くわん》する件《けん》であつた。  此《この》間《あひだ》月島《つきじま》の工場《こうば》へひよつくり小六《ころく》が遣《や》つて來《き》て云《い》ふには、自分《じぶん》の學資《がくし》に就《つい》ての詳《くは》しい話《はなし》は兄《あに》から聞《き》いたが、自分《じぶん》も今迄《いままで》學問《がくもん》を遣《や》つて來《き》て、とう/\大學《だいがく》へ這入《はい》れず仕舞《じまひ》になるのは如何《いか》にも殘念《ざんねん》だから、借金《しやくきん》でも何《なん》でもして、行《ゆ》ける所《ところ》迄《まで》行《ゆ》きたいが、何《なに》か好《い》い工夫《くふう》はあるまいかと相談《さうだん》を掛《か》けるので、安之助《やすのすけ》はよく宗《そう》さんにも話《はな》して見《み》やうと答《こた》へると、小六《ころく》は忽《たちま》ちそれを遮《さへ》ぎつて、兄《あに》は到底《たうてい》相談《さうだん》になつて呉《く》れる人《ひと》ぢやない、自分《じぶん》が大學《だいがく》を卒業《そつげふ》しないから、他《ひと》も中途《ちゆうと》で已《や》めるのは當然《たうぜん》だ位《ぐらゐ》に考《かんが》へてゐる。元來《ぐわんらい》今度《こんど》の事《こと》も元《もと》を糺《たゞ》せば兄《あに》が責任者《せきにんしや》であるのに、あの通《とほ》り一向《いつかう》平氣《へいき》なもので、他《ひと》が何《なに》を云《い》つても取《と》り合《あ》つて呉《く》れない。だから、たゞ頼《たよ》りにするのは君丈《きみだけ》だ。叔母《をば》さんに正式《せいしき》に斷《こと》わられながら、又《また》君《きみ》に依頼《いらい》するのは可笑《をか》しい樣《やう》だが、君《きみ》の方《はう》が叔母《をば》さんより話《はなし》が分《わか》るだらうと思《おも》つて來《き》たと云《い》つて、中々《なか/\》動《うご》きさうもなかつたさうである。  安之助《やすのすけ》は、そんな事《こと》はない、宗《そう》さんも君《きみ》の事《こと》では大分《だいぶ》心配《しんぱい》して、近《ちか》い中《うち》又《また》家《うち》へ相談《さうだん》に來《く》る筈《はず》になつてゐるんだからと慰《なぐさ》めて、小六《ころく》を歸《かへ》したんだと云《い》ふ。歸《かへ》るときに、小六《ころく》は袂《たもと》から半紙《はんし》を何枚《なんまい》も出《だ》して、缺席屆《けつせきとゞげ》が入用《にふよう》だから是《これ》に判《はん》を押《お》して呉《く》れと請求《せいきう》して、僕《ぼく》は退學《たいがく》か在學《ざいがく》か片《かた》が付《つ》く迄《まで》は勉強《べんきやう》が出來《でき》ないから、毎日《まいにち》學校《がくかう》へ出《で》る必要《ひつえう》はないんだと云《い》つたさうである。  安之助《やすのすけ》は忙《いそ》がしいとかで、一|時間《じかん》足《た》らず話《はな》して歸《かへ》つて行《い》つたが、小六《ころく》の所置《しよち》に就《つい》ては、兩人《りやうにん》の間《あひだ》に具體的《ぐたいてき》の案《あん》は別《べつ》に出《で》なかつた。何《いづ》れ緩《ゆつ》くりみんなで寄《よ》つて極《き》めやう、都合《つがふ》がよければ小六《ころく》も列席《れつせき》するが好《よ》からうといふのが別《わか》れる時《とき》の言葉《ことば》であつた。二人《ふたり》になつたとき、御米《およね》は宗助《そうすけ》に、 「何《なに》を考《かんが》へて入《い》らつしやるの」と聞《き》いた。宗助《そうすけ》は兩手《りやうて》を兵兒帶《へこおび》の間《あひだ》に挾《はさ》んで、心持《こゝろもち》肩《かた》を高《たか》くしたなり、 「己《おれ》ももう一|返《ぺん》小六《ころく》見《み》た樣《やう》になつて見《み》たい」と云《い》つた。「此方《こつち》ぢや、向《むかふ》が己《おれ》の樣《やう》な運命《うんめい》に陷《おちい》るだらうと思《おも》つて心配《しんぱい》してゐるのに、向《むかふ》ぢや兄貴《あにき》なんざあ眼中《がんちゆう》にないから偉《えら》いや」  御米《およね》は茶器《ちやき》を引《ひ》いて臺所《だいどころ》へ出《で》た。夫婦《ふうふ》はそれぎり話《はなし》を切《き》り上《あ》げて、又《また》床《とこ》を延《の》べて寐《ね》た。夢《ゆめ》の上《うへ》に高《たか》い銀河《あまのがは》が涼《すゞ》しく懸《かゝ》つた。  次《つぎ》の週間《しうかん》には、小六《ころく》も來《こ》ず、佐伯《さへき》からの音信《たより》もなく、宗助《そうすけ》の家庭《かてい》は又《また》平日《へいじつ》の無事《ぶじ》に歸《かへ》つた。夫婦《ふうふ》は毎朝《まいあさ》露《つゆ》の光《ひか》る頃《ころ》起《お》きて、美《うつく》しい日《ひ》を廂《ひさし》の上《うへ》に見《み》た。夜《よる》は煤竹《すゝだけ》の臺《だい》を着《つ》けた洋燈《らんぷ》の兩側《りやうがは》に、長《なが》い影《かげ》を描《ゑが》いて坐《すわ》つてゐた。話《はなし》が途切《とぎ》れた時《とき》はひそりとして、柱時計《はしらどけい》の振子《ふりこ》の音丈《おとだけ》が聞《きこ》える事《こと》も稀《まれ》ではなかつた。  夫《それ》でも夫婦《ふうふ》は此間《このあひだ》に小六《ころく》の事《こと》を相談《さうだん》した。小六《ころく》がもし何《ど》うしても學問《がくもん》を續《つゞ》ける氣《き》なら無論《むろん》の事《こと》、さうでなくても、今《いま》の下宿《げしゆく》を一時《いちじ》引《ひ》き上《あ》げなければならなくなるのは知《し》れてゐるが、左《さ》うすれば又《また》佐伯《さへき》へ歸《かへ》るか、或《あるひ》は宗助《そうすけ》の所《ところ》へ置《お》くより外《ほか》に途《みち》はない。佐伯《さへき》では一旦《いつたん》あゝ云《い》ひ出《だ》した樣《やう》なものゝ、頼《たの》んで見《み》たら、當分《たうぶん》宅《うち》へ置《お》く位《ぐらゐ》の事《こと》は、好意上《かういじやう》爲《し》てくれまいものでもない。が、其上《そのうへ》修業《しうげふ》をさせるとなると、月謝《げつしや》小遣《こづかひ》其他《そのた》は宗助《そうすけ》の方《はう》で擔任《たんにん》しなければ義理《ぎり》が惡《わる》い。所《ところ》が夫《それ》は家計上《かけいじやう》宗助《そうすけ》の堪《た》える所《ところ》でなかつた。月々《つき/″\》の收支《しうし》を事細《ことこま》かに計算《けいさん》して見《み》た兩人《ふたり》は、 「到底《たうてい》駄目《だめ》だね」 「何《ど》うしたつて無理《むり》ですわ」と云《い》つた。  夫婦《ふうふ》の坐《すわ》つてゐる茶《ちや》の間《ま》の次《つぎ》が臺所《だいどころ》で、臺所《だいどころ》の右《みぎ》に下女部屋《げぢよべや》、左《ひだり》に六|疊《でふ》が一間《ひとま》ある。下女《げぢよ》を入《い》れて三|人《にん》の小人數《こにんず》だから、此《この》六|疊《でふ》には餘《あま》り必要《ひつえう》を感《かん》じない御米《およね》は、東向《ひがしむき》の窓側《まどがは》に何時《いつ》も自分《じぶん》の鏡臺《きやうだい》を置《お》いた。宗助《そうすけ》も朝《あさ》起《お》きて顏《かほ》を洗《あら》つて、飯《めし》を濟《す》ますと、此所《こゝ》へ來《き》て着物《きもの》を脱《ぬ》ぎ更《か》へた。 「夫《それ》よりか、あの六|疊《でふ》を空《あ》けて、あすこへ來《き》ちや不可《いけ》なくつて」と御米《およね》が云《い》ひ出《だ》した。御米《およね》の考《かんが》へでは、斯《か》うして自分《じぶん》の方《はう》で部屋《へや》と食物丈《たべものだけ》を分擔《ぶんたん》して、あとの所《ところ》を月々《つき/″\》幾何《いくら》か佐伯《さへき》から助《すけ》て貰《もら》つたら、小六《ころく》の望《のぞ》み通《どほ》り大學《だいがく》卒業《そつげふ》迄《まで》遣《や》つて行《い》かれやうと云《い》ふのである。 「着物《きもの》は安《やす》さんの古《ふる》いのや、貴方《あなた》のを直《なほ》して上《あ》げたら、何《ど》うかなるでせう」と御米《およね》が云《い》ひ添《そ》へた。實《じつ》は宗助《そうすけ》にも斯《こ》んな考《かんがへ》が、多少《たせう》頭《あたま》に浮《う》かんで居《ゐ》た。たゞ御米《およね》に遠慮《ゑんりよ》がある上《うへ》に、夫《それ》程《ほど》氣《き》が進《すゝ》まなかつたので、つい口《くち》へ出《だ》さなかつた迄《まで》だから、細君《さいくん》から斯《か》う反對《あべこべ》に相談《さうだん》を掛《か》けられて見《み》ると、固《もと》よりそれを拒《こば》む丈《だけ》の勇氣《ゆうき》はなかつた。  小六《ころく》に其通《そのとほ》りを通知《つうち》して、御前《おまへ》さへそれで差支《さしつかへ》なければ、己《おれ》がもう一|遍《ぺん》佐伯《さへき》へ行《い》つて掛合《かけあ》つて見《み》るがと、手紙《てがみ》で問《と》ひ合《あは》せると、小六《ころく》は郵便《いうびん》の着《つ》いた晩《ばん》、すぐ雨《あめ》の降《ふ》る中《なか》を、傘《からかさ》に音《おと》を立《た》てゝ遣《や》つて來《き》て、もう學資《がくし》が出來《でき》でもした樣《やう》に嬉《うれ》しがつた。 「何《なに》、叔母《をば》さんの方《はう》ぢや、此方《こつち》で何時迄《いつまで》も貴方《あなた》の事《こと》を放《はふ》り出《だ》したまんま、構《かま》はずに置《お》くもんだから、それで彼《あゝ》仰《おつし》やるのよ。なに兄《にい》さんだつて、もう少《すこ》し都合《つがふ》が好《よ》ければ、疾《と》うにも何《ど》うにか爲《し》たんですけれども、御存《ごぞん》じの通《とほ》りだから實際《じつさい》已《や》むを得《え》なかつたんですわ。然《しか》し此方《こつち》から斯《か》う云《い》つて行《ゆ》けば、叔母《をば》さんだつて、安《やす》さんだつて、夫《それ》でも否《いや》だとは云《い》はれないわ。屹度《きつと》出來《でき》るから安心《あんしん》して居《ゐ》らつしやい。私《わたし》受合《うけあ》ふわ」  御米《およね》にかう受合《うけあ》つて貰《もら》つた小六《ころく》は、又《また》雨《あめ》の音《おと》を頭《あたま》の上《うへ》に受《う》けて本郷《ほんがう》へ歸《かへ》つて行《い》つた。しかし中《なか》一|日《にち》置《お》いて、兄《にい》さんは未《ま》だ行《い》かないんですかと聞《き》きに來《き》た。又《また》三日《みつか》許《ばかり》過《す》ぎてから、今度《こんど》は叔母《をば》さんの所《ところ》へ行《い》つて聞《き》いたら、兄《にい》さんはまだ來《こ》ないさうだから、成《な》るべく早《はや》く行《ゆ》く樣《やう》に勸《すゝ》めて呉《く》れと催促《さいそく》して行《い》つた。  宗助《そうすけ》が行《ゆ》く行《ゆ》くと云《い》つて、日《ひ》を暮《く》らしてゐるうちに世《よ》の中《なか》は漸《やうや》く秋《あき》になつた。その朗《ほが》らかな或《ある》日曜《にちえう》の午後《ごご》に、宗助《そうすけ》はあまり佐伯《さへき》へ行《ゆ》くのが後《おく》れるので、此《この》要件《えうけん》を手紙《てがみ》に認《したゝ》めて番町《ばんちやう》へ相談《さうだん》したのである。すると、叔母《をば》から安之助《やすのすけ》は神戸《かうべ》へ行《い》つて留守《るす》だと云《い》ふ返事《へんじ》が來《き》たのである。 [#8字下げ]五[#「五」は中見出し]  佐伯《さへき》の叔母《をば》の尋《たづ》ねて來《き》たのは、土曜《どえう》の午後《ごご》の二|時過《じすぎ》であつた。其日《そのひ》は例《れい》になく朝《あさ》から雲《くも》が出《で》て、突然《とつぜん》と風《かぜ》が北《きた》に變《かは》つた樣《やう》に寒《さむ》かつた。叔母《をば》は竹《たけ》で編《あ》んだ丸《まる》い火桶《ひをけ》の上《うへ》へ手《て》を翳《かざ》して、 「何《なん》ですね、御米《およね》さん、此《この》御部屋《おへや》は夏《なつ》は涼《すゞ》しさうで結構《けつこう》だが、是《これ》からはちと寒《さむ》う御座《ござ》んすね」と云《い》つた。叔母《をば》は癖《くせ》のある髮《かみ》を、奇麗《きれい》に髷《まげ》に結《い》つて、古風《こふう》な丸打《まるうち》の羽織《はおり》の紐《ひも》を、胸《むね》の所《ところ》で結《むす》んでゐた。酒《さけ》の好《す》きな質《たち》で、今《いま》でも少《すこ》しづゝは晩酌《ばんしやく》を遣《や》る所爲《せゐ》か、色澤《いろつや》もよく、でつぷり肥《ふと》つてゐるから、年《とし》よりは餘程《よほど》若《わか》く見《み》える。御米《およね》は叔母《をば》が來《く》るたんびに、叔母《をば》さんは若《わか》いのねと、後《あと》でよく宗助《そうすけ》に話《はな》した。すると宗助《そうすけ》が何時《いつ》でも、若《わか》い筈《はず》だ、あの年《とし》になる迄《まで》、子供《こども》をたつた一人《ひとり》しか生《う》まないんだからと説明《せつめい》した。御米《およね》は實際《じつさい》さうかも知《し》れないと思《おも》つた。さうして斯《か》う云《い》はれた後《あと》では、折々《をり/\》そつと六|疊《でふ》へ這入《はい》つて、自分《じぶん》の顏《かほ》を鏡《かゞみ》に映《うつ》して見《み》た。其時《そのとき》は何《なん》だか自分《じぶん》の頬《ほゝ》が見《み》る度《たび》に瘠《こ》けて行《ゆ》く樣《やう》な氣《き》がした。御米《およね》には自分《じぶん》と子供《こども》とを連想《れんさう》して考《かんが》へる程《ほど》辛《つら》い事《こと》はなかつたのである。裏《うら》の家主《やぬし》の宅《うち》に、小《ちひ》さい子供《こども》が大勢《おほぜい》ゐて、夫《それ》が崖《がけ》の上《うへ》の庭《には》へ出《で》て、ブランコへ乘《の》つたり、鬼《おに》ごつこを遣《や》つたりして騷《さわ》ぐ聲《こゑ》が、能《よ》く聞《きこ》えると、御米《およね》は何時《いつ》でも、果敢《はか》ない樣《やう》な恨《うら》めしい樣《やう》な心持《こゝろもち》になつた。今《いま》自分《じぶん》の前《まへ》に坐《すわ》つてゐる叔母《をば》は、たつた一人《ひとり》の男《をとこ》の子《こ》を生《う》んで、その男《をとこ》の子《こ》が順當《じゆんたう》に育《そだ》つて、立派《りつぱ》な學士《がくし》になつたればこそ、叔父《をぢ》が死《し》んだ今日《こんにち》でも、何不足《なにふそく》のない顏《かほ》をして、腮《あご》などは二重《ふたへ》に見《み》える位《くらゐ》に豐《ゆたか》なのである。御母《おかあ》さんは肥《ふと》つてるから劍呑《けんのん》だ、氣《き》を付《つ》けないと卒中《そつちゆう》で遣《や》られるかも知《し》れないと、安之助《やすのすけ》が始終《しじゆう》心配《しんぱい》するさうだけれども、御米《およね》から云《い》はせると、心配《しんぱい》する安之助《やすのすけ》も、心配《しんぱい》される叔母《をば》も、共《とも》に幸福《かうふく》を享《う》け合《あ》つてゐるものとしか思《おも》はれなかつた。 「安《やす》さんは」と御米《およね》が聞《き》いた。 「えゝ漸《やうや》くね、あなた。一昨日《をとゝひ》の晩《ばん》歸《かへ》りましてね。夫《それ》でつい/\御返事《ごへんじ》も後《おく》れちまつて、まことに濟《す》みません樣《やう》な譯《わけ》で」と云《い》つたが、返事《へんじ》の方《はう》は夫《それ》なりにして、話《はなし》は又《また》安之助《やすのすけ》へ戻《もど》つて來《き》た。 「あれもね、御蔭《おかげ》さまで漸《やうや》く學校丈《がくかうだけ》は卒業《そつげふ》しましたが、是《これ》からが大事《だいじ》の所《ところ》で、心配《しんぱい》で御座《ござ》います。――夫《それ》でも此《この》九|月《ぐわつ》から、月島《つきじま》の工場《こうば》の方《はう》へ出《で》る事《こと》になりまして、まあ幸《さいはひ》と此分《このぶん》で勉強《べんきやう》さへして行《い》つて呉《く》れゝば、此末《このすゑ》ともに、さう惡《わる》い事《こと》も無《な》からうかと思《おも》つてるんですけれども、まあ若《わか》いものゝ事《こと》ですから、是《これ》から先《さき》何《ど》う變化《へんげ》るか分《わか》りやしませんよ」  御米《およね》はたゞ結構《けつこう》で御座《ござ》いますとか、御目出《おめで》たう御座《ござ》いますとか云《い》ふ言葉《ことば》を、間々《あひだ/\》に挾《はさ》んでゐた。 「神戸《かうべ》へ參《まゐ》つたのも、全《まつた》く其方《そのはう》の用向《ようむき》なので。石油發動機《せきゆはつどうき》とか何《なん》とか云《い》ふものを鰹船《かつをぶね》へ据《す》ゑ付《つ》けるんだとかつてね貴方《あなた》」  御米《およね》には丸《まる》で意味《いみ》が分《わか》らなかつた。分《わか》らない乍《なが》らたゞへえゝと受《う》けてゐると、叔母《をば》はすぐ後《あと》を話《はな》した。 「私《わたくし》にも何《なん》のこつたか、些《ちつ》とも分《わか》らなかつたんですが、安之助《やすのすけ》の講釋《かうしやく》を聞《き》いて始《はじ》めて、おやさうかいと云《い》ふ樣《やう》な譯《わけ》でしてね。――尤《もつと》も石油發動機《せきゆはつどうき》は今《いま》以《もつ》て分《わか》らないんですけれども」と云《い》ひながら、大《おほ》きな聲《こゑ》を出《だ》して笑《わら》つた。「何《なん》でも石油《せきゆ》を焚《た》いて、それで船《ふね》を自由《じいう》にする器械《きかい》なんださうですが、聞《き》いて見《み》ると餘程《よつぽど》重寶《ちようはう》なものらしいんですよ。夫《それ》さへ付《つ》ければ、舟《ふね》を漕《こ》ぐ手間《てま》が丸《まる》で省《はぶ》けるとかでね。五|里《り》も十|里《り》も沖《おき》へ出《で》るのに、大變《たいへん》樂《らく》なんですとさ。所《ところ》が貴方《あなた》、此《この》日本全國《につぽんぜんこく》で鰹船《かつをぶね》の數《かず》つたら、夫《それ》こそ大《たい》したものでせう。その鰹船《かつをぶね》が一《ひと》つ宛《づゝ》此《この》器械《きかい》を具《そな》へ付《つ》ける樣《やう》になつたら、莫大《ばくだい》な利益《りえき》だつて云《い》ふんで、此頃《このごろ》は夢中《むちゆう》になつて其方《そのはう》ばつかりに掛《かゝ》つてゐる樣《やう》ですよ。莫大《ばくだい》な利益《りえき》は有難《ありがた》いが、さう凝《こ》つて身體《からだ》でも惡《わる》くしちや詰《つま》らないぢやないかつて、此間《このあひだ》も笑《わら》つた位《くらゐ》で」  叔母《をば》はしきりに鰹船《かつをぶね》と安之助《やすのすけ》の話《はなし》をした。さうして大變《たいへん》得意《とくい》の樣《やう》に見《み》えたが、小六《ころく》の事《こと》は中々《なか/\》云《い》ひ出《だ》さなかつた。もう疾《とう》に歸《かへ》る筈《はず》の宗助《そうすけ》も何《ど》うしたか歸《かへ》つて來《こ》なかつた。  彼《かれ》は其日《そのひ》役所《やくしよ》の歸《かへ》り掛《が》けに駿河臺下《するがだいした》迄《まで》來《き》て、電車《でんしや》を下《お》りて、酸《す》いものを頬張《ほゝば》つた樣《やう》な口《くち》を穿《すぼ》めて一二|町《ちやう》歩《ある》いた後《のち》、ある齒醫者《はいしや》の門《かど》を潛《くゞ》つたのである。三四日前《さんよつかぜん》彼《かれ》は御米《およね》と差向《さしむか》ひで、夕飯《ゆふはん》の膳《ぜん》に着《つ》いて、話《はな》しながら箸《はし》を取《と》つてゐる際《さい》に、何《ど》うした拍子《ひやうし》か、前齒《まへば》を逆《ぎやく》にぎりゝと噛《か》んでから、それが急《きふ》に痛《いた》み出《だ》した。指《ゆび》で搖《うご》かすと、根《ね》がぐら/\する。食事《しよくじ》の時《とき》には湯茶《ゆちや》が染《し》みる。口《くち》を開《あ》けて息《いき》をすると風《かぜ》も染《し》みた。宗助《そうすけ》は此朝《このあさ》齒《は》を磨《みが》くために、わざと痛《いた》い所《ところ》を避《よ》けて楊枝《やうじ》を使《つか》ひながら、口《くち》の中《なか》を鏡《かゞみ》に照《て》らして見《み》たら、廣島《ひろしま》で銀《ぎん》を埋《う》めた二|枚《まい》の奧齒《おくば》と、研《と》いだ樣《やう》に磨《す》り減《へ》らした不揃《ぶそろ》の前齒《まへば》とが、俄《には》かに寒《さむ》く光《ひか》つた。洋服《やうふく》に着換《きか》える時《とき》、 「御米《およね》、己《おれ》は齒《は》の性《しやう》が餘程《よつぽど》惡《わる》いと見《み》えるね。斯《か》うやると大抵《たいてい》動《うご》くぜ」と下齒《したば》を指《ゆび》で動《うご》かして見《み》せた。御米《およね》は笑《わら》ひながら、 「もう御年《おとし》の所爲《せゐ》よ」と云《い》つて白《しろ》い襟《えり》を後《うしろ》へ廻《まは》つて襯衣《しやつ》へ着《つ》けた。  宗助《そうすけ》は其日《そのひ》の午後《ごご》とう/\思《おも》い切《き》つて、齒醫者《はいしや》へ寄《よ》つたのである。應接間《おうせつま》へ通《とほ》ると、大《おほ》きな洋卓《テーブル》の周圍《まはり》に天鵞絨《ビロード》で張《は》つた腰掛《こしかけ》が并《なら》んでゐて、待《ま》ち合《あは》してゐる三四人《さんよにん》が、うづくまる樣《やう》に腮《あご》を襟《えり》に埋《うづ》めてゐた。それが皆《みんな》女《をんな》であつた。奇麗《きれい》な茶色《ちやいろ》の瓦斯暖爐《ガスストーヴ》には火《ひ》がまだ焚《た》いてなかつた。宗助《そうすけ》は大《おほ》きな姿見《すがたみ》に映《うつ》る白壁《しらかべ》の色《いろ》を斜《なゝ》めに見《み》て、番《ばん》の來《く》るのを待《ま》つてゐたが、あまり退屈《たいくつ》になつたので、洋卓《テーブル》の上《うへ》に重《かさ》ねてあつた雜誌《ざつし》に眼《め》を着《つ》けた。一二|册《さつ》手《て》に取《と》つて見《み》ると、いづれも婦人用《ふじんよう》のものであつた。宗助《そうすけ》は其《その》口繪《くちゑ》に出《で》てゐる女《をんな》の寫眞《しやしん》を、何枚《なんまい》も繰《く》り返《かへ》して眺《なが》めた。夫《それ》から「成効《せいかう》」と云《い》ふ雜誌《ざつし》を取《と》り上《あ》げた。其《その》初《はじ》めに、成效《せいかう》の祕訣《ひけつ》といふ樣《やう》なものが箇條書《かでうがき》にしてあつたうちに、何《なん》でも猛進《まうしん》しなくつては不可《いけ》ないと云《い》ふ一ヶ|條《でう》と、たゞ猛進《まうしん》しても不可《いけ》ない、立派《りつぱ》な根底《こんてい》の上《うへ》に立《た》つて、猛進《まうしん》しなくつてはならないと云《い》ふ一ヶ|條《でう》を讀《よ》んで、それなり雜誌《ざつし》を伏《ふ》せた。「成效《せいかう》」と宗助《そうすけ》は非常《ひじやう》に縁《えん》の遠《とほ》いものであつた。宗助《そうすけ》は斯《か》ういふ名《な》の雜誌《ざつし》があると云《い》ふ事《こと》さへ、今日迄《こんにちまで》知《し》らなかつた。それで又《また》珍《めづ》らしくなつて、一旦《いつたん》伏《ふ》せたのを又《また》開《あ》けて見《み》ると、不圖《ふと》假名《かな》の交《まじ》らない四角《しかく》な字《じ》が二|行《ぎやう》程《ほど》並《なら》んでゐた。夫《それ》には風《かぜ》碧落《へきらく》を吹《ふ》いて浮雲《ふうん》盡《つ》き、月《つき》東山《とうざん》に上《のぼ》つて玉《ぎよく》一團《いちだん》とあつた。宗助《そうすけ》は詩《し》とか歌《うた》とかいふものには、元《もと》から餘《あま》り興味《きようみ》を持《も》たない男《をとこ》であつたが、どう云《い》ふ譯《わけ》か此《この》二|句《く》を讀《よ》んだ時《とき》に大變《たいへん》感心《かんしん》した。對句《つゐく》が旨《うま》く出來《でき》たとか何《なん》とか云《い》ふ意味《いみ》ではなくつて、斯《こ》んな景色《けしき》と同《おな》じ樣《やう》な心持《こゝろもち》になれたら、人間《にんげん》も嘸《さぞ》嬉《うれ》しからうと、ひよつと心《こゝろ》が動《うご》いたのである。宗助《そうすけ》は好奇心《かうきしん》から此句《このく》の前《まへ》に付《つ》いてゐる論文《ろんぶん》を讀《よ》んで見《み》た。然《しか》し夫《それ》は丸《まる》で無關係《むくわんけい》の樣《やう》に思《おも》はれた。只《たゞ》此《この》二|句《く》が雜誌《ざつし》を置《お》いた後《あと》でも、しきりに彼《かれ》の頭《あたま》の中《なか》を徘徊《はいくわい》した。彼《かれ》の生活《せいくわつ》は實際《じつさい》此《この》四五|年來《ねんらい》斯《か》ういふ景色《けしき》に出逢《であ》つた事《こと》がなかつたのである。  其時《そのとき》向《むか》ふの戸《と》が開《あ》いて、紙片《かみぎれ》を持《も》つた書生《しよせい》が野中《のなか》さんと宗助《そうすけ》を手術室《しゆじゆつしつ》へ呼《よ》び入《い》れた。  中《なか》へ這入《はい》ると、其所《そこ》は應接間《おうせつま》よりも倍《ばい》も廣《ひろ》かつた。光線《くわうせん》が成《な》るべく餘計《よけい》取《と》れる樣《やう》に明《あか》るく拵《こし》らへた部屋《へや》の二側《ふたがは》に、手術用《しゆじゆつよう》の椅子《いす》を四臺《よだい》程《ほど》据《す》ゑて、白《しろ》い胸掛《むねかけ》をかけた受持《うけもち》の男《をとこ》が、一人《ひとり》づゝ別々《べつ/\》に療治《れうぢ》をしてゐた。宗助《そうすけ》は一番《いちばん》奧《おく》の方《はう》にある一|脚《きやく》に案内《あんない》されて、是《これ》へと云《い》はれるので、踏段《ふみだん》の樣《やう》なものの上《うへ》へ乘《の》つて、椅子《いす》へ腰《こし》を卸《おろ》した。書生《しよせい》が厚《あつ》い縞入《しまいり》の前掛《まへかけ》で丁寧《ていねい》に膝《ひざ》から下《した》を包《くる》んで呉《く》れた。  斯《か》う穩《おだ》やかに寐《ね》かされた時《とき》、宗助《そうすけ》は例《れい》の齒《は》が左程《さほど》苦《く》になる程《ほど》痛《いた》んでゐないと云《い》ふ事《こと》を發見《はつけん》した。夫《それ》ばかりか、肩《かた》も脊《せな》も、腰《こし》の周《まは》りも、心安《こゝろやす》く落《お》ち付《つ》いて、如何《いか》にも樂《らく》に調子《てうし》が取《と》れてゐる事《こと》に氣《き》が付《つ》いた。彼《かれ》はたゞ仰向《あふむ》いて天井《てんじやう》から下《さが》つてゐる瓦斯《ガス》管《くわん》を眺《なが》めた。さうして此《この》構《かまへ》と設備《せつび》では、歸《かへ》りがけに思《おも》つたより高《たか》い療治代《れうぢだい》を取《と》られるかも知《し》れないと氣遣《きづか》つた。  所《ところ》へ顏《かほ》の割《わり》に頭《あたま》の薄《うす》くなり過《す》ぎた肥《ふと》つた男《をとこ》が出《で》て來《き》て、大變《たいへん》丁寧《ていねい》に挨拶《あいさつ》をしたので、宗助《そうすけ》は少《すこ》し椅子《いす》の上《うへ》で狼狽《あわて》た樣《やう》に首《くび》を動《うご》かした。肥《ふと》つた男《をとこ》は一應《いちおう》容體《ようだい》を聞《き》いて、口中《こうちゆう》を檢査《けんさ》して、宗助《そうすけ》の痛《いた》いと云《い》ふ齒《は》を一寸《ちよつと》搖《ゆす》つて見《み》たが、 「何《ど》うも斯《か》う弛《ゆる》みますと、到底《とても》元《もと》の樣《やう》に緊《しま》る譯《わけ》には參《まゐ》りますまいと思《おも》ひますが。何《なに》しろ中《なか》がエソになつて居《を》りますから」と云《い》つた。  宗助《そうすけ》は此《この》宣告《せんこく》を淋《さび》しい秋《あき》の光《ひかり》の樣《やう》に感《かん》じた。もうそんな年《とし》なんでせうかと聞《き》いて見《み》たくなつたが、少《すこ》し極《きま》りが惡《わる》いので、たゞ、 「ぢや癒《なほ》らないんですか」と念《ねん》を押《お》した。  肥《ふと》つた男《をとこ》は笑《わら》ひながら斯《か》う云《い》つた。―― 「まあ癒《なほ》らないと申《まを》し上《あ》げるより外《ほか》に仕方《しかた》が御座《ござ》んせんな。已《やむ》を得《え》なければ、思《おも》ひ切《き》つて拔《ぬ》いて仕舞《しま》ふんですが、今《いま》の所《ところ》では、まだ夫程《それほど》でも御座《ござ》いますまいから、たゞ御痛《おいた》み丈《だけ》を留《と》めて置《お》きませう。何《なに》しろエソ――エソと申《まを》しても御分《おわか》りにならないかも知《し》れませんが、中《なか》が丸《まる》で腐《くさ》つて居《を》ります」  宗助《そうすけ》は、左《さ》うですかと云《い》つて、たゞ肥《ふと》つた男《をとこ》のなすが儘《まゝ》にして置《お》いた。すると彼《かれ》は器械《きかい》をぐる/\廻《まは》して宗助《そうすけ》の齒《は》の根《ね》へ穴《あな》を開《あ》け始《はじ》めた。さうして其中《そのなか》へ細長《ほそなが》い針《はり》の樣《やう》なものを刺《さ》し通《とほ》しては、其先《そのさき》を嗅《か》いでゐたが、仕舞《しまひ》に糸《いと》程《ほど》な筋《すぢ》を引《ひ》き出《だ》して、神經《しんけい》が是丈《これだけ》取《と》れましたと云《い》ひながら、それを宗助《そうすけ》に見《み》せて呉《く》れた。それから藥《くすり》で其《その》穴《あな》を埋《う》めて、明日《みやうにち》又《また》入《い》らつしやいと注意《ちゆうい》を與《あた》へた。  椅子《いす》を下《お》りるとき、身體《からだ》が眞直《まつす》ぐになつたので、視線《しせん》の位置《ゐち》が天井《てんじやう》から不圖《ふと》庭先《にはさき》に移《うつ》つたら、其所《そこ》にあつた高《たか》さ五|尺《しやく》もあらうと云《い》ふ大《おほ》きな鉢栽《はちうゑ》の松《まつ》が宗助《そうすけ》の眼《め》に這入《はい》つた。其《その》根方《ねがた》の所《ところ》を、草鞋《わらぢ》がけの植木屋《うゑきや》が丁寧《ていねい》に薦《こも》で包《くる》んでゐた。段々《だん/\》露《つゆ》が凝《こ》つて霜《しも》になる時節《じせつ》なので、餘裕《よゆう》のあるものは、もう今時分《いまじぶん》から手廻《てまは》しをするのだと氣《き》が付《つ》いた。  歸《かへ》りがけに玄關《げんくわん》脇《わき》の藥局《やくきよく》で、粉藥《こぐすり》の儘《まゝ》含嗽劑《がんそうざい》を受取《うけと》つて、それを百|倍《ばい》の微温湯《びをんたう》に溶解《ようかい》して、一|日《にち》十|數回《すうくわい》使用《しよう》すべき注意《ちゆうい》を受《う》けた時《とき》、宗助《そうすけ》は會計《くわいけい》の請求《せいきう》した治療代《ちれうだい》の案外《あんぐわい》廉《れん》なのを喜《よろこ》んだ。是《これ》ならば向《むか》ふで云《い》ふ通《とほ》り四五|回《くわい》通《かよ》つた所《ところ》が、さして困難《こんなん》でもないと思《おも》つて、靴《くつ》を穿《は》かうとすると、今度《こんど》は靴《くつ》の底《そこ》が何時《いつ》の間《ま》にか破《やぶ》れてゐる事《こと》に氣《き》が付《つ》いた。  宅《うち》へ着《つ》いた時《とき》は一足違《ひとあしちがひ》で叔母《をば》がもう歸《かへ》つたあとであつた。宗助《そうすけ》は、 「おゝ、左《さ》うだつたか」と云《い》ひながら、甚《はなは》だ面倒《めんだう》さうに洋服《やうふく》を脱《ぬ》ぎ更《か》へて、何時《いつ》もの通《とほ》り火鉢《ひばち》の前《まへ》に坐《すわ》つた。御米《およね》は襯衣《しやつ》や洋袴《ずぼん》や靴足袋《くつたび》を一抱《ひとかゝへ》にして六|疊《でふ》へ這入《はい》つた。宗助《そうすけ》はぼんやりして、烟草《たばこ》を吹《ふ》かし始《はじ》めたが、向《むか》ふの部屋《へや》で、刷毛《ブラツシ》を掛《か》ける音《おと》がし出《だ》した時《とき》、 「御米《およね》、佐伯《さへき》の叔母《をば》さんは何《なん》とか云《い》つて來《き》たのかい」と聞《き》いた。  齒痛《しつう》が自《おのづ》から治《をさ》まつたので、秋《あき》に襲《おそ》はれる樣《やう》な寒《さむ》い氣分《きぶん》は、少《すこ》し輕《かる》くなつたけれども、やがて御米《およね》が隱袋《ぽつけつと》から取《と》り出《だ》して來《き》た粉藥《こぐすり》を、温《ぬる》ま湯《ゆ》に溶《と》いて貰《もら》つて、しきりに含嗽《うがひ》を始《はじ》めた。其時《そのとき》彼《かれ》は縁側《えんがは》へ立《た》つた儘《まゝ》、 「何《ど》うも日《ひ》が短《みじ》かくなつたなあ」と云《い》つた。  やがて日《ひ》が暮《くれ》れた。晝間《ひるま》からあまり車《くるま》の音《おと》を聞《き》かない町内《ちやうない》は、宵《よひ》の口《くち》から寂《しん》としてゐた。夫婦《ふうふ》は例《れい》の通《とほ》り洋燈《らんぷ》の下《もと》に寄《よ》つた。廣《ひろ》い世《よ》の中《なか》で、自分達《じぶんたち》の坐《すわ》つてゐる所丈《ところだけ》が明《あか》るく思《おも》はれた。さうして此《この》明《あか》るい灯影《ひかげ》に、宗助《そうすけ》は御米《およね》丈《だけ》を、御米《およね》は又《また》宗助《そうすけ》丈《だけ》を意識《いしき》して、洋燈《ランプ》の力《ちから》の屆《とゞ》かない暗《くら》い社會《しやくわい》は忘《わす》れてゐた。彼等《かれら》は毎晩《まいばん》かう暮《く》らして行《ゆ》く裡《うち》に、自分達《じぶんたち》の生命《せいめい》を見出《みいだ》してゐたのである。  此《この》靜《しづ》かな夫婦《ふうふ》は安之助《やすのすけ》の神戸《かうべ》から土産《みやげ》に買《か》つて來《き》たと云《い》ふ養老昆布《やうらうこぶ》の罐《くわん》をがら/\振《ふ》つて、中《なか》から山椒《さんしよ》入《い》りの小《ちひ》さく結《むす》んだ奴《やつ》を撰《よ》り出《だ》しながら、緩《ゆつ》くり佐伯《さへき》からの返事《へんじ》を語《かた》り合《あ》つた。 「然《しか》し月謝《げつしや》と小遣《こづかひ》位《ぐらゐ》は都合《つがふ》して遣《や》つて呉《く》れても好《よ》ささうなもんぢやないか」 「それが出來《でき》ないんだつて。何《ど》う見積《みつも》つても兩方《りやうはう》寄《よ》せると、十|圓《ゑん》にはなる。十|圓《ゑん》と云《い》ふ纏《まとま》つた御金《おかね》を、今《いま》の所《ところ》月々《つき/″\》出《だ》すのは骨《ほね》が折《を》れるつて云《い》ふのよ」 「夫《それ》ぢや此年《ことし》の暮迄《くれまで》二十|何圓《なんゑん》づゝか出《だ》して遣《や》るのも無理《むり》ぢやないか」 「だから、無理《むり》をしても、もう一二ヶ|月《げつ》の所《ところ》丈《だけ》は間《ま》に合《あは》せるから、其内《そのうち》に何《ど》うかして下《くだ》さいと、安《やす》さんが左《さ》う云《い》ふんだつて」 「實際《じつさい》出來《でき》ないのかな」 「夫《そ》りや私《わたし》には分《わか》らないわ。何《なに》しろ叔母《をば》さんが、左《さ》う云《い》ふのよ」 「鰹舟《かつをぶね》で儲《まう》けたら、其位《そのくらゐ》譯《わけ》なささうなもんぢやないか」 「本當《ほんたう》ね」  御米《およね》は低《ひく》い聲《こゑ》で笑《わら》つた。宗助《そうすけ》も一寸《ちよつと》口《くち》の端《はた》を動《うご》かしたが、話《はなし》はそれで途切《とぎ》れて仕舞《しま》つた。しばらくしてから、 「何《なに》しろ小六《ころく》は家《うち》へ來《く》ると極《き》めるより外《ほか》に道《みち》はあるまいよ。後《あと》は其上《そのうへ》の事《こと》だ。今《いま》ぢや學校《がくかう》へは出《で》てゐるんだね」と宗助《そうすけ》が云《い》つた。 「さうでせう」と御米《およね》が答《こた》へるのを聞《き》き流《なが》して、彼《かれ》は珍《めづ》らしく書齋《しよさい》に這入《はい》つた。一|時間《じかん》程《ほど》して、御米《およね》がそつと襖《ふすま》を開《あ》けて覗《のぞ》いて見《み》ると、机《つくゑ》に向《むか》つて、何《なに》か讀《よ》んでゐた。 「勉強《べんきやう》? もう御休《おやす》みなさらなくつて」と誘《さそ》はれた時《とき》、彼《かれ》は振《ふ》り返《かへ》つて、 「うん、もう寐《ね》よう」と答《こた》へながら立《た》ち上《あが》つた。  寐《ね》る時《とき》、着物《きもの》を脱《ぬ》いで、寐卷《ねまき》の上《うへ》に、絞《しぼ》りの兵兒帶《へこおび》をぐる/\卷《ま》きつけながら、 「今夜《こんや》は久《ひさ》し振《ぶり》に論語《ろんご》を讀《よ》んだ」と云《い》つた。 「論語《ろんご》に何《なに》かあつて」と御米《およね》が聞《き》き返《かへ》したら、宗助《そうすけ》は、 「いや何《なん》にもない」と答《こた》へた。それから、「おい、己《おれ》の齒《は》は矢《や》つ張《ぱ》り年《とし》の所爲《せゐ》だとさ。ぐら/\するのは到底《とても》癒《なほ》らないさうだ」と云《い》ひつゝ、黒《くろ》い頭《あたま》を枕《まくら》の上《うへ》に着《つ》けた。 [#8字下げ]六[#「六」は中見出し]  小六《ころく》は兎《と》も角《かく》も都合《つがふ》次第《しだい》下宿《げしゆく》を引《ひ》き拂《はら》つて兄《あに》の家《いへ》へ移《うつ》る事《こと》に相談《さうだん》が調《とゝの》つた。御米《およね》は六|疊《でふ》に置《お》き付《つ》けた桑《くは》の鏡臺《きやうだい》を眺《なが》めて、一寸《ちよつと》殘《のこ》り惜《を》しい顏《かほ》をしたが、 「斯《か》うなると少《すこ》し遣場《やりば》に困《こま》るのね」と訴《うつた》へる樣《やう》に宗助《そうすけ》に告《つ》げた。實際《じつさい》此所《こゝ》を取《と》り上《あ》げられては、御米《およね》の御化粧《おつくり》をする場所《ばしよ》が無《な》くなつて仕舞《しま》ふのである。宗助《そうすけ》は何《なん》の工夫《くふう》も付《つ》かずに、立《た》ちながら、向《むか》ふの窓側《まどぎは》に据《す》ゑてある鏡《かゞみ》の裏《うら》を斜《はす》に眺《なが》めた。すると角度《かくど》の具合《ぐあひ》で、其所《そこ》に御米《およね》の襟元《えりもと》から片頬《かたほゝ》が映《うつ》つてゐた。それが如何《いか》にも血色《けつしよく》のわるい横顏《よこがほ》なのに驚《おど》ろかされて、 「御前《おまへ》、何《ど》うかしたのかい。大變《たいへん》色《いろ》が惡《ある》いよ」と云《い》ひながら、鏡《かゞみ》から眼《め》を放《はな》して、實際《じつさい》の御米《およね》の姿《すがた》を見《み》た。鬢《びん》が亂《みだ》れて、襟《えり》の後《うしろ》の邊《あたり》が垢《あか》で少《すこ》し汚《よご》れてゐた。御米《およね》はたゞ、 「寒《さむ》い所爲《せゐ》なんでせう」と答《こた》へて、すぐ西側《にしがは》に付《つ》いてゐる一間《いつけん》の戸棚《とだな》を明《あ》けた。下《した》には古《ふる》い創《きず》だらけの箪笥《たんす》があつて、上《うへ》には支那鞄《しなかばん》と柳行李《やなぎごり》が二《ふた》つ三《み》つ載《の》つてゐた。 「こんなもの、何《ど》うしたつて片付《かたづけ》樣《やう》がないわね」 「だから其儘《そのまゝ》にして置《お》くさ」  小六《ころく》の此所《こゝ》へ引移《ひきうつ》つて來《く》るのは、斯《か》う云《い》ふ點《てん》から見《み》て、夫婦《ふうふ》の何《いづ》れにも、多少《たせう》迷惑《めいわく》であつた。だから來《く》ると云《い》つて約束《やくそく》して置《お》きながら、今《いま》だに來《こ》ない小六《ころく》に對《たい》しては、別段《べつだん》の催促《さいそく》もしなかつた。一日《いちにち》延《の》びれば延《の》びた丈《だけ》窮屈《きゆうくつ》が逃《に》げた樣《やう》な氣《き》が何所《どこ》かでした。小六《ころく》にも丁度《ちやうど》それと同《おな》じ憚《はゞかり》があつたので、居《ゐ》られる限《かぎり》は下宿《げしゆく》にゐる方《はう》が便利《べんり》だと胸《むね》を極《き》めたものか、つい一日《いちにち》/\と引越《ひつこし》を前《さき》へ送《おく》つてゐた。其癖《そのくせ》彼《かれ》の性質《せいしつ》として、兄夫婦《あにふうふ》の如《ごと》く、荏苒《じんぜん》の境《さかひ》に落付《おちつ》いてはゐられなかつたのである。  其内《そのうち》薄《うす》い霜《しも》が降《お》りて、裏《うら》の芭蕉《ばせう》を見事《みごと》に摧《くだ》いた。朝《あさ》は崖上《がけうへ》の家主《やぬし》の庭《には》の方《はう》で、鵯《ひよどり》が鋭《する》どい聲《こゑ》を立《た》てた。夕方《ゆふがた》には表《おもて》を急《いそ》ぐ豆腐屋《とうふや》の喇叭《らつぱ》に交《まじ》つて、圓明寺《ゑんみやうじ》の木魚《もくぎよ》の音《おと》が聞《きこ》えた。日《ひ》は益《ます/\》短《みじ》かくなつた。さうして御米《およね》の顏色《かほいろ》は、宗助《そうすけ》が鏡《かゞみ》の中《なか》に認《みと》めた時《とき》よりも、爽《さや》かにはならなかつた。夫《をつと》が役所《やくしよ》から歸《かへ》つて來《き》て見《み》ると、六|疊《でふ》で寐《ね》てゐる事《こと》が一二|度《ど》あつた。何《ど》うかしたかと尋《たづ》ねると、たゞ少《すこ》し心持《こゝろもち》が惡《わる》いと答《こた》へる丈《だけ》であつた。醫者《いしや》に見《み》て貰《もら》へと勸《すゝ》めると、夫《それ》には及《およ》ばないと云《い》つて取《と》り合《あ》はなかつた。  宗助《そうすけ》は心配《しんぱい》した。役所《やくしよ》へ出《で》てゐても能《よ》く御米《およね》の事《こと》が氣《き》に掛《かゝ》つて、用《よう》の邪魔《じやま》になるのを意識《いしき》する時《とき》もあつた。所《ところ》がある日《ひ》歸《かへ》りがけに突然《とつぜん》電車《でんしや》の中《なか》で膝《ひざ》を拍《う》つた。その日《ひ》は例《れい》になく元氣《げんき》よく格子《かうし》を明《あ》けて、すぐと勢《いきほひ》よく今日《けふ》は何《ど》うだいと御米《およね》に聞《き》いた。御米《およね》が何時《いつ》もの通《とほ》り服《ふく》や靴足袋《くつたび》を一纏《ひとまと》めにして、六|疊《でふ》へ這入《はい》る後《あと》から追《つ》いて來《き》て、 「御米《およね》、御前《おまい》子供《こども》が出來《でき》たんぢやないか」と笑《わら》ひながら云《い》つた。御米《およね》は返事《へんじ》もせずに俯向《うつむ》いてしきりに夫《をつと》の脊廣《せびろ》の埃《ほこり》を拂《はら》つた。刷毛《ブラツシ》の音《おと》が已《や》んでも中々《なか/\》六|疊《でふ》から出《で》て來《こ》ないので、又《また》行《い》つて見《み》ると、薄暗《うすぐら》い部屋《へや》の中《なか》で、御米《およね》はたつた一人《ひとり》寒《さむ》さうに、鏡臺《きやうだい》の前《まへ》に坐《すわ》つてゐた。はいと云《い》つて立《た》つたが、其聲《そのこゑ》が泣《な》いた後《あと》の聲《こゑ》の樣《やう》であつた。  其晩《そのばん》夫婦《ふうふ》は火鉢《ひばち》に掛《か》けた鐵瓶《てつびん》を、双方《さうはう》から手《て》で掩《おほ》ふ樣《やう》にして差《さ》し向《むか》つた。 「何《ど》うですな世《よ》の中《なか》は」と宗助《そうすけ》が例《れい》にない浮《う》いた調子《てうし》を出《だ》した。御米《およね》の頭《あたま》の中《なか》には、夫婦《ふうふ》にならない前《まへ》の、宗助《そうすけ》と自分《じぶん》の姿《すがた》が奇麗《きれい》に浮《うか》んだ。 「ちつと、面白《おもしろ》くしやうぢやないか。此頃《このごろ》は如何《いか》にも不景氣《ふけいき》だよ」と宗助《そうすけ》が又《また》云《い》つた。二人《ふたり》は夫《それ》から今度《こんど》の日曜《にちえう》には一所《いつしよ》に何所《どこ》へ行《い》かうか、此所《こゝ》へ行《い》かうかと、しばらく夫《それ》許《ばかり》話《はな》し合《あ》つてゐた。夫《それ》から二人《ふたり》の春着《はるぎ》の事《こと》が題目《だいもく》になつた。宗助《そうすけ》の同僚《どうれう》の高木《たかぎ》とか云《い》ふ男《をとこ》が、細君《さいくん》に小袖《こそで》とかを強請《ねだ》られた時《とき》、おれは細君《さいくん》の虚榮心《きよえいしん》を滿足《まんぞく》させる爲《ため》に稼《かせ》いでるんぢやないと云《い》つて跳《は》ね付《つ》けたら、細君《さいくん》がそりや非道《ひど》い、實際《じつさい》寒《さむ》くなつても着《き》て出《で》るものがないんだと辯解《べんかい》するので、寒《さむ》ければ已《やむ》を得《え》ない、夜具《やぐ》を着《き》るとか、毛布《けつと》を被《かぶ》るとかして、當分《たうぶん》我慢《がまん》しろと云《い》つた話《はなし》を、宗助《そうすけ》は可笑《おか》しく繰《く》り返《かへ》して御米《およね》を笑《わら》はした。御米《およね》は夫《をつと》の此《この》樣子《やうす》を見《み》て、昔《むかし》が又《また》眼《め》の前《まへ》に戻《もど》つた樣《やう》な氣《き》がした。 「高木《たかぎ》の細君《さいくん》は夜具《やぐ》でも構《かま》はないが、おれは一《ひと》つ新《あた》らしい外套《ぐわいたう》を拵《こしら》えたいな。此間《このあひだ》齒醫者《はいしや》へ行《い》つたら、植木屋《うゑきや》が薦《こも》で盆栽《ぼんさい》の松《まつ》の根《ね》を包《つゝ》んでゐたので、つく/″\左《さ》う思《おも》つた」 「外套《ぐわいたう》が欲《ほ》しいつて」 「あゝ」  御米《およね》は夫《をつと》の顏《かほ》を見《み》て、さも氣《き》の毒《どく》だと云《い》ふ風《ふう》に、 「御拵《おこし》らえなさいな。月賦《げつぷ》で」と云《い》つた。宗助《そうすけ》は、 「まあ止《よ》さうよ」と急《きふ》に侘《わび》しく答《こた》へた。さうして「時《とき》に小六《ころく》は何時《いつ》から來《く》る氣《き》なんだらう」と聞《き》いた。 「來《く》るのは厭《いや》なんでせう」と御米《およね》が答《こた》へた。御米《およね》には、自分《じぶん》が始《はじ》めから小六《ころく》に嫌《きら》はれてゐると云《い》ふ自覺《じかく》があつた。それでも夫《をつと》の弟《おとうと》だと思《おも》ふので、成《な》るべくは反《そり》を合《あは》せて、少《すこ》しでも近《ちか》づける樣《やう》に/\と、今日迄《こんにちまで》仕向《しむ》けて來《き》た。その爲《ため》か、今《いま》では以前《いぜん》と違《ちが》つて、まあ普通《ふつう》の小舅《こじうと》位《ぐらゐ》の親《した》しみはあると信《しん》じてゐる樣《やう》なものゝ、斯《こ》んな場合《ばあひ》になると、つい實際《じつさい》以上《いじやう》にも氣《き》を回《まは》して、自分丈《じぶんだけ》が小六《ころく》の來《こ》ない唯一《ゆゐいつ》の原因《げんいん》の樣《やう》に考《かんが》へられるのであつた。 「そりや下宿《げしゆく》からこんな所《ところ》へ移《うつ》るのは好《よ》かあないだらうよ。丁度《ちやうど》此方《こつち》が迷惑《めいわく》を感《かん》ずる通《とほ》り、向《むか》ふでも窮屈《きゆうくつ》を感《かん》ずる譯《わけ》だから。おれだつて、小六《ころく》が來《こ》ないとすれば、今《いま》のうち思《おも》ひ切《き》つて外套《ぐわいたう》を作《つく》る丈《だけ》の勇氣《ゆうき》があるんだけれども」  宗助《そうすけ》は男丈《をとこだけ》に思《おも》ひ切《き》つて斯《か》う云《い》つて仕舞《しま》つた。けれども是丈《これだけ》では御米《およね》の心《こゝろ》を盡《つく》してゐなかつた。御米《およね》は返事《へんじ》もせずに、しばらく默《だま》つてゐたが、細《ほそ》い腮《あご》を襟《えり》の中《なか》へ埋《う》めた儘《まゝ》、上眼《うはめ》を使《つか》つて、 「小六《ころく》さんは、まだ私《わたくし》の事《こと》を惡《にく》んでゐらつしやるでせうか」と聞《き》き出《だ》した。宗助《そうすけ》が東京《とうきやう》へ來《き》た當座《たうざ》は、時々《とき/″\》是《これ》に類似《るゐじ》の質問《しつもん》を御米《およね》から受《う》けて、其《その》都度《つど》慰《なぐさ》めるのに大分《だいぶ》骨《ほね》の折《を》れた事《こと》もあつたが、近來《きんらい》は全《まつた》く忘《わす》れた樣《やう》に何《なに》も云《い》はなくなつたので、宗助《そうすけ》もつい氣《き》に留《と》めなかつたのである。 「又《また》ヒステリーが始《はじ》まつたね。好《い》いぢやないか小六《ころく》なんぞが、何《ど》う思《おも》つたつて。己《おれ》さえ付《つ》いてれば」 「論語《ろんご》にさう書《か》いてあつて」  御米《およね》は斯《こ》んな時《とき》に、斯《か》ういふ冗談《じようだん》を云《い》ふ女《をんな》であつた。宗助《そうすけ》は 「うん、書《か》いてある」と答《こた》へた。夫《それ》で二人《ふたり》の會話《くわいわ》が仕舞《しまひ》になつた。  翌日《よくじつ》宗助《そうすけ》が眼《め》を覺《さ》ますと、亞鉛張《とたんばり》の庇《ひさし》の上《うへ》で寒《さむ》い音《おと》がした。御米《およね》が襷掛《たすきがけ》の儘《まゝ》枕元《まくらもと》へ來《き》て、 「さあ、もう時間《じかん》よ」と注意《ちゆうい》したとき、彼《かれ》は此《この》點滴《てんてき》の音《おと》を聞《き》きながら、もう少《すこ》し暖《あたゝ》かい蒲團《ふとん》の中《なか》に温《ぬく》もつてゐたかつた。けれども血色《けつしよく》の可《よ》くない御米《およね》の、甲斐々々《かひ/″\》しい姿《すがた》を見《み》るや否《いな》や、 「おい」と云《い》つて直《すぐ》起《お》き上《あが》つた。  外《そと》は濃《こ》い雨《あめ》に鎖《とざ》されてゐた。崖《がけ》の上《うへ》の孟宗竹《まうそうちく》が時々《とき/″\》鬣《たてがみ》を振《ふる》ふ樣《やう》に、雨《あめ》を吹《ふ》いて動《うご》いた。此《この》侘《わ》びしい空《そら》の下《した》へ濡《ぬ》れに出《で》る宗助《そうすけ》に取《と》つて、力《ちから》になるものは、暖《あたゝ》かい味噌汁《みそしる》と暖《あたゝ》かい飯《めし》より外《ほか》になかつた。 「又《また》靴《くつ》の中《なか》が濡《ぬ》れる。何《ど》うしても二足《にそく》持《も》つてゐないと困《こま》る」と云《い》つて、底《そこ》に小《ちひ》さい穴《あな》のあるのを仕方《しかた》なしに穿《は》いて、洋袴《ずぼん》の裾《すそ》を一寸《いつすん》許《ばかり》まくり上《あ》げた。  午過《ひるすぎ》に歸《かへ》つて來《き》て見《み》ると、御米《およね》は金盥《かなだらひ》の中《なか》に雜巾《ざふきん》を浸《つ》けて、六|疊《でふ》の鏡臺《きやうだい》の傍《そば》に置《お》いてゐた。其上《そのうへ》の所《ところ》丈《だけ》天井《てんじやう》の色《いろ》が變《かは》つて、時々《とき/″\》雫《しづく》が落《お》ちて來《き》た。 「靴《くつ》ばかりぢやない。家《うち》の中《なか》迄《まで》濡《ぬ》れるんだね」と云《い》つて宗助《そうすけ》は苦笑《くせう》した。御米《およね》は其晩《そのばん》夫《をつと》の爲《ため》に置炬燵《おきごたつ》へ火《ひ》を入《い》れて、スコツチの靴下《くつした》と縞羅紗《しまラシヤ》の洋袴《ずぼん》を乾《かわ》かした。  明《あく》る日《ひ》も亦《また》同《おな》じ樣《やう》に雨《あめ》が降《ふ》つた。夫婦《ふうふ》も亦《また》同《おな》じ樣《やう》に同《おな》じ事《こと》を繰《く》り返《かへ》した。その明《あく》る日《ひ》もまだ晴《は》れなかつた。三日目《みつかめ》の朝《あさ》になつて、宗助《そうすけ》は眉《まゆ》を縮《ちゞ》めて舌打《したうち》をした。 「何時《いつ》迄《まで》降《ふ》る氣《き》なんだ。靴《くつ》がじめ/\して我慢《がまん》にも穿《は》けやしない」 「六|疊《でふ》だつて困《こま》るわ、あゝ漏《も》つちや」  夫婦《ふうふ》は相談《さうだん》して、雨《あめ》が晴《は》れ次第《しだい》、家根《やね》を繕《つくろ》つて貰《もら》ふ樣《やう》に家主《やぬし》へ掛《か》け合《あ》ふ事《こと》にした。けれども靴《くつ》の方《はう》は何《なん》とも仕樣《しやう》がなかつた。宗助《そうすけ》はきしんで這入《はい》らないのを無理《むり》に穿《は》いて出《で》て行《い》つた。  幸《さいはひ》に其《その》日《ひ》は十一|時頃《じごろ》からからりと晴《は》れて、垣《かき》に雀《すゞめ》の鳴《な》く小春日和《こはるびより》になつた。宗助《そうすけ》が歸《かへ》つた時《とき》、御米《およね》は例《いつも》より冴《さ》え/″\しい顏色《かほいろ》をして、 「貴方《あなた》、あの屏風《びやうぶ》を賣《う》つちや不可《いけ》なくつて」と突然《とつぜん》聞《き》いた。抱一《はういつ》の屏風《びやうぶ》は先達《せんだつ》て佐伯《さへき》から受取《うけと》つた儘《まゝ》、元《もと》の通《とほ》り書齋《しよさい》の隅《すみ》に立《た》てゝあつたのである。二|枚折《まいをり》だけれども、座敷《ざしき》の位置《ゐち》と廣《ひろ》さから云《い》つても、實《じつ》は寧《むし》ろ邪魔《じやま》な裝飾《さうしよく》であつた。南《みなみ》へ廻《まは》すと、玄關《げんくわん》からの入口《いりぐち》を半分《はんぶん》塞《ふさ》いで仕舞《しま》ふし、東《ひがし》へ出《だ》すと暗《くら》くなる、と云《い》つて、殘《のこ》る一方《いつぽう》へ立《た》てれば床《とこ》の間《ま》を隱《かく》すので、宗助《そうすけ》は、 「折角《せつかく》親爺《おやぢ》の記念《かたみ》だと思《おも》つて、取《と》つて來《き》た樣《やう》なものゝ、仕樣《しやう》がないね是《これ》ぢや、場塞《ばふさ》げで」と零《こぼ》した事《こと》も一二|度《ど》あつた。其《その》都度《つど》御米《およね》は眞丸《まんまる》な縁《ふち》の燒《や》けた銀《ぎん》の月《つき》と、絹地《きぬぢ》から殆《ほと》んど區別《くべつ》出來《でき》ない樣《やう》な穗芒《ほすゝき》の色《いろ》を眺《なが》めて、斯《こ》んなものを珍重《ちんちよう》する人《ひと》の氣《き》が知《し》れないと云《い》ふ樣《やう》な見《み》えをした。けれども、夫《をつと》を憚《はゞか》つて、明白《あから》さまには何《なん》とも云《い》ひ出《だ》さなかつた。たゞ一|返《ぺん》 「是《これ》でも可《い》い繪《ゑ》なんでせうかね」と聞《き》いた事《こと》があつた。其《その》時《とき》宗助《そうすけ》は始《はじ》めて抱一《はういつ》の名《な》を御米《およね》に説明《せつめい》して聞《き》かした。然《しか》しそれは自分《じぶん》が昔《むか》し父《ちゝ》から聞《き》いた覺《おぼえ》のある、朧氣《おぼろげ》な記憶《きおく》を好加減《いゝかげん》に繰《く》り返《かへ》すに過《す》ぎなかつた。實際《じつさい》の畫《ゑ》の價値《かち》や、又《また》抱一《はういつ》に就《つい》ての詳《くは》しい歴史《れきし》などに至《いた》ると宗助《そうすけ》にも其實《そのじつ》甚《はなは》だ覺束《おぼつか》なかつたのである。  所《ところ》がそれが偶然《ぐうぜん》御米《およね》のために妙《めう》な行爲《かうゐ》の動機《どうき》を構成《かたちづく》る原因《げんいん》となつた。過去《くわこ》一|週間《しうかん》夫《をつと》と自分《じぶん》の間《あひだ》に起《おこ》つた會話《くわいわ》に、不圖《ふと》此《この》知識《ちしき》を結《むす》び付《つ》けて考《かんが》へ得《え》た彼女《かのぢよ》は一寸《ちよつと》微笑《ほゝゑ》んだ。この日《ひ》雨《あめ》が上《あが》つて、日脚《ひあし》がさつと茶《ちや》の間《ま》の障子《しやうじ》に射《さ》した時《とき》、御米《およね》は不斷着《ふだんぎ》の上《うへ》へ、妙《めう》な色《いろ》の肩掛《かたかけ》とも、襟卷《えりまき》とも付《つ》かない織物《おりもの》を纏《まと》つて外《そと》へ出《で》た。通《とほ》りを二|丁目《ちやうめ》程《ほど》來《き》て、それを電車《でんしや》の方角《はうがく》へ曲《まが》つて眞直《まつすぐ》に來《く》ると、乾物屋《かんぶつや》と麺麭屋《ぱんや》の間《あひだ》に、古道具《ふるだうぐ》を賣《う》つてゐる可《か》なり大《おほ》きな店《みせ》があつた。御米《およね》はかつて其所《そこ》で足《あし》の疊《たゝ》み込《こ》める食卓《しよくたく》を買《か》つた記憶《きおく》がある。今《いま》火鉢《ひばち》に掛《か》けてある鐵瓶《てつびん》も、宗助《そうすけ》が此所《こゝ》から提《さ》げて歸《かへ》つたものである。  御米《およね》は手《て》を袖《そで》にして道具屋《だうぐや》の前《まへ》に立《た》ち留《ど》まつた。見《み》ると相變《あひかは》らず新《あた》らしい鐵瓶《てつびん》が澤山《たくさん》並《なら》べてあつた。其外《そのほか》には時節柄《じせつがら》とでも云《い》ふのか火鉢《ひばち》が一番《いちばん》多《おほ》く眼《め》に着《つ》いた。然《しか》し骨董《こつとう》と名《な》のつく程《ほど》のものは、一《ひと》つもない樣《やう》であつた。ひとり何《なん》とも知《し》れぬ大《おほ》きな龜《かめ》の甲《かふ》が、眞向《まむかふ》に釣《つ》るしてあつて、其下《そのした》から長《なが》い黄《き》ばんだ拂子《ほつす》が尻尾《しつぽ》の樣《やう》に出《で》てゐた。それから紫檀《したん》の茶棚《ちやだな》が一《ひと》つ二《ふた》つ飾《かざ》つてあつたが、何《いづ》れも狂《くるひ》の出《で》さうな生《なま》なもの許《ばかり》であつた。然《しか》し御米《およね》にはそんな區別《くべつ》は一向《いつかう》映《うつ》らなかつた。たゞ掛物《かけもの》も屏風《びやうぶ》も一《ひと》つも見當《みあた》らない事《こと》丈《だけ》確《たし》かめて、中《なか》へ這入《はい》つた。  御米《およね》は無論《むろん》夫《をつと》が佐伯《さへき》から受取《うけと》つた屏風《びやうぶ》を、幾何《いくら》かに賣《う》り拂《はら》ふ積《つもり》でわざ/\此所《こゝ》迄《まで》足《あし》を運《はこ》んだのであるが、廣島《ひろしま》以來《いらい》かう云《い》ふ事《こと》に大分《だいぶ》經驗《けいけん》を積《つ》んだ御蔭《おかげ》で、普通《ふつう》の細君《さいくん》の樣《やう》な努力《どりよく》も苦痛《くつう》も感《かん》ぜずに、思《おも》ひ切《き》つて亭主《ていしゆ》と口《くち》を利《き》く事《こと》が出來《でき》た。亭主《ていしゆ》は五十|恰好《がつかう》の色《いろ》の黒《くろ》い頬《ほゝ》の瘠《こけ》た男《をとこ》で、鼈甲《べつかふ》の縁《ふち》を取《と》つた馬鹿《ばか》に大《おほ》きな眼鏡《めがね》を掛《か》けて、新聞《しんぶん》を讀《よ》みながら、疣《いぼ》だらけの唐金《からかね》の火鉢《ひばち》に手《て》を翳《かざ》してゐた。 「さうですな、拜見《はいけん》に出《で》ても可《よ》うがす」と輕《かる》く受合《うけあ》つたが、別《べつ》に氣《き》の乘《の》つた樣子《やうす》もないので、御米《およね》は腹《はら》の中《なか》で少《すこ》し失望《しつばう》した。然《しか》し自分《じぶん》からが既《すで》に大《たい》した望《のぞみ》を抱《いだ》いて出《で》て來《き》た譯《わけ》でもないので、斯《か》う簡易《かんい》に受《う》けられると、此方《こつち》から頼《たの》む樣《やう》にしても、見《み》て貰《もら》はなければならなかつた。 「可《よ》うがす。ぢや後程《のちほど》伺《うかゞ》ひませう。今《いま》小僧《こぞう》が一寸《ちよつと》出《で》て居《を》りませんからな」  御米《およね》は此《この》存在《ぞんざい》な言葉《ことば》を聞《き》いて其儘《そのまゝ》宅《うち》へ歸《かへ》つたが、心《こゝろ》の中《なか》では、果《はた》して道具屋《だうぐや》が來《く》るか來《こ》ないか甚《はなは》だ疑《うたが》はしく思《おも》つた。一人《ひとり》で何時《いつ》もの樣《やう》に簡單《かんたん》な食事《しよくじ》を濟《す》まして、清《きよ》に膳《ぜん》を下《さ》げさしてゐると、いきなり御免《ごめん》下《くだ》さいと云《い》つて、大《おほ》きな聲《こゑ》を出《で》して道具屋《だうぐや》が玄關《げんくわん》から遣《や》つて來《き》た。座敷《ざしき》へ上《あ》げて、例《れい》の屏風《びやうぶ》を見《み》せると、成程《なるほど》と云《い》つて裏《うら》だの縁《ふち》だのを撫《な》でてゐたが、 「御拂《おはらひ》になるなら」と少《すこ》し考《かんが》へて、「六|圓《ゑん》に頂《いたゞ》いて置《お》きませう」と否々《いや/\》さうに價《ね》を付《つ》けた。御米《およね》には道具屋《だうぐや》の付《つ》けた相場《さうば》が至當《したう》の樣《やう》に思《おも》はれた。けれども一應《いちおう》宗助《そうすけ》に話《はな》してからでなくつては、餘《あま》り專斷《せんだん》過《す》ぎると心付《こゝろづ》いた上《うへ》、品物《しなもの》の歴史《れきし》が歴史《れきし》だけに、猶更《なほさら》遠慮《ゑんりよ》して、何《いづ》れ歸《かへ》つたら能《よ》く相談《さうだん》して見《み》た上《うへ》でと答《こた》へた儘《まゝ》、道具屋《だうぐや》を歸《かへ》さうとした。道具屋《だうぐや》は出掛《でがけ》に、 「ぢや、奧《おく》さん折角《せつかく》だから、もう一|圓《ゑん》奮發《ふんぱつ》しませう。夫《それ》で御拂《おはら》ひ下《くだ》さい」と云《い》つた。御米《およね》は其時《そのとき》思《おも》ひ切《き》つて、 「でも、道具屋《だうぐや》さん、ありや抱一《はういつ》ですよ」と答《こた》へて、腹《はら》の中《なか》ではひやりとした。道具屋《だうぐや》は、平氣《へいき》で、 「抱一《はういつ》は近來《きんらい》流行《はやり》ませんからな」と受《う》け流《なが》したが、じろ/\御米《およね》の姿《すがた》を眺《なが》めた上《うへ》、 「ぢや猶《なほ》能《よ》く御相談《ごさうだん》なすつて」と云《い》ひ捨《す》てゝ歸《かへ》つて行《い》つた。  御米《およね》は其時《そのとき》の模樣《もやう》を詳《くは》しく話《はな》した後《あと》で、 「賣《う》つちや不可《いけ》なくつて」と又《また》無邪氣《むじやき》に聞《き》いた。  宗助《そうすけ》の頭《あたま》の中《なか》には、此《この》間《あひだ》から物質上《ぶつしつじやう》の欲求《よくきう》が、絶《た》えず動《うご》いてゐた。たゞ地味《ぢみ》な生活《せいくわつ》をしなれた結果《けつくわ》として、足《た》らぬ家計《くらし》を足《た》ると諦《あき》らめる癖《くせ》が付《つ》いてゐるので、毎月《まいげつ》極《きま》つて這入《はい》るものゝ外《ほか》には、臨時《りんじ》に不意《ふい》の工面《くめん》をしてまで、少《すこ》しでも常《つね》以上《いじやう》に寛《くつ》ろいで見《み》やうと云《い》ふ働《はたらき》は出《で》なかつた。話《はなし》を聞《き》いたとき彼《かれ》は寧《むし》ろ御米《およね》の機敏《きびん》な才覺《さいかく》に驚《おど》ろかされた。同時《どうじ》に果《はた》して夫丈《それだけ》の必要《ひつえう》があるかを疑《うたが》つた。御米《およね》の思《おも》はくを聞《き》いて見《み》ると、此所《こゝ》で十|圓《ゑん》足《た》らずの金《かね》が入《はひ》れば、宗助《そうすけ》の穿《は》く新《あた》らしい靴《くつ》を誂《あつ》らへた上《うへ》、銘仙《めいせん》の一|反《たん》位《ぐらゐ》は買《か》へると云《い》ふのである。宗助《そうすけ》は夫《それ》もさうだと思《おも》つた。けれども親《おや》から傳《つた》はつた抱一《はういつ》の屏風《びやうぶ》を一方《いつぱう》に置《お》いて、片方《かたはう》に新《あた》らしい靴《くつ》及《およ》び新《あた》らしい銘仙《めいせん》を並《なら》べて考《かんが》へて見《み》ると、此《この》二《ふた》つを交換《かうくわん》する事《こと》が如何《いか》にも突飛《とつぴ》で且《かつ》滑稽《こつけい》であつた。 「賣《う》るなら賣《う》つて可《い》いがね。どうせ家《うち》に在《あ》つたつて邪魔《じやま》になる許《ばかり》だから。けれども己《おれ》はまだ靴《くつ》は買《か》はないでも濟《す》むよ。此間中《このあひだぢゆう》見《み》た樣《やう》に、降《ふ》り續《つゞ》けに降《ふ》られると困《こま》るが、もう天氣《てんき》も好《よ》くなつたから」 「だつて又《また》降《ふ》ると困《こま》るわ」  宗助《そうすけ》は御米《およね》に對《たい》して永久《えいきう》に天氣《てんき》を保證《ほしよう》する譯《わけ》にも行《ゆ》かなかつた。御米《およね》も降《ふ》らない前《まへ》に是非《ぜひ》屏風《びやうぶ》を賣《う》れとも云《い》ひかねた。二人《ふたり》は顏《かほ》を見合《みあは》して笑《わら》つてゐた。やがて、 「安過《やすす》ぎるでせうか」と御米《およね》が聞《き》いた。 「左《さ》うさな」と宗助《そうすけ》が答《こた》へた。  彼《かれ》は安《やす》いと云《い》はれゝば、安《やす》い樣《やう》な氣《き》がした。もし買手《かひて》があれば、買手《かひて》の出《だ》す丈《だけ》の金《かね》は幾何《いくら》でも取《と》りたかつた。彼《かれ》は新聞《しんぶん》で、近來《きんらい》古書畫《こしよぐわ》の入札《にふさつ》が非常《ひじやう》に高價《かうか》になつた事《こと》を見《み》た樣《やう》な心持《こゝろもち》がした。責《せ》めてそんなものが一|幅《ぷく》でもあつたらと思《おも》つた。けれども夫《それ》は自分《じぶん》の呼吸《こきふ》する空氣《くうき》の屆《とゞ》くうちには、落《お》ちてゐないものと諦《あきら》めてゐた。 「買手《かひて》にも因《よ》るだらうが、賣手《うりて》にも因《よ》るんだよ。いくら名畫《めいぐわ》だつて、己《おれ》が持《も》つてゐた分《ぶん》には到底《たうてい》さう高《たか》く賣《う》れつこはないさ。然《しか》し七|圓《ゑん》や八|圓《ゑん》てえな、餘《あんま》り安《やす》い樣《やう》だね」  宗助《そうすけ》は抱一《はういつ》の屏風《びやうぶ》を辯護《べんご》すると共《とも》に、道具屋《だうぐや》をも辯護《べんご》する樣《やう》な語氣《き》を洩《も》らした。さうしてたゞ自分《じぶん》丈《だけ》が辯護《べんご》に價《あたひ》しないものゝ樣《やう》に感《かん》じた。御米《およね》も少《すこ》し氣《き》を腐《くさ》らした氣味《きみ》で、屏風《びやうぶ》の話《はなし》は夫《それ》なりにした。  翌日《あくるひ》宗助《そうすけ》は役所《やくしよ》へ出《で》て、同僚《どうれう》の誰彼《だれかれ》に此《この》話《はなし》をした。すると皆《みな》申《まを》し合《あは》せた樣《やう》に、夫《それ》は價《ね》ぢやないと云《い》つた。けれども誰《だれ》も自分《じぶん》が周旋《しうせん》して、相當《さうたう》の價《ね》に賣拂《うりはら》つてやらうと云《い》ふものはなかつた。又《また》どう云《い》ふ筋《すぢ》を通《とほ》れば、馬鹿《ばか》な目《め》に逢《あ》はないで濟《す》むといふ手續《てつゞき》を教《をし》へて呉《く》れるものもなかつた。宗助《そうすけ》は矢張《やつぱり》横町《よこちやう》の道具屋《だうぐや》に屏風《びやうぶ》を賣《う》るより外《ほか》に仕方《しかた》がなかつた。それでなければ元《もと》の通《とほ》り邪魔《じやま》でも何《なん》でも座敷《ざしき》へ立《た》てゝ置《お》くより外《ほか》に仕方《しかた》がなかつた。彼《かれ》は元《もと》の通《とほ》りそれを座敷《ざしき》へ立《た》てゝ置《お》いた。すると道具屋《だうぐや》が來《き》て、あの屏風《びやうぶ》を十五|圓《ゑん》に賣《う》つてくれと云《い》ひ出《で》した。夫婦《ふうふ》は顏《かほ》を見合《みあは》して微笑《ほゝゑ》んだ。もう少《すこ》し賣《う》らずに置《お》いて見樣《みやう》ぢやないかと云《い》つて、賣《う》らずに置《お》いた。すると道具屋《だうぐや》が又《また》來《き》た。又《また》賣《う》らなかつた。御米《およね》は斷《ことわ》るのが面白《おもしろ》くなつて來《き》た。四度目《よたびめ》には知《し》らない男《をとこ》を一人《ひとり》連《つ》れて來《き》たが、其《その》男《をとこ》とこそこそ相談《さうだん》して、とう/\三十五|圓《ゑん》に價《ね》を付《つ》けた。其時《そのとき》夫婦《ふうふ》も立《た》ちながら相談《さうだん》した。さうして遂《つひ》に思《おも》ひ切《き》つて屏風《びやうぶ》を賣《う》り拂《はら》つた。 [#8字下げ]七[#「七」は中見出し]  圓明寺《ゑんみやうじ》の杉《すぎ》が焦《こ》げた樣《やう》に赭黒《あかぐろ》くなつた。天氣《てんき》の好《い》い日《ひ》には、風《かぜ》に洗《あら》はれた空《そら》の端《は》ずれに、白《しろ》い筋《すぢ》の嶮《けは》しく見《み》える山《やま》が出《で》た。年《とし》は宗助《そうすけ》夫婦《ふうふ》を驅《か》つて日毎《ひごと》に寒《さむ》い方《はう》へ吹《ふ》き寄《よ》せた。朝《あさ》になると缺《か》かさず通《とほ》る納豆賣《なつとううり》の聲《こゑ》が、瓦《かはら》を鎖《とざ》す霜《しも》の色《いろ》を連想《れんさう》せしめた。宗助《そうすけ》は床《とこ》の中《なか》で其《その》聲《こゑ》を聞《き》きながら、又《また》冬《ふゆ》が來《き》たと思《おも》ひ出《だ》した。御米《およね》は臺所《だいどころ》で、今年《ことし》も去年《きよねん》の樣《やう》に水道《すゐだう》の栓《せん》が氷《こほ》つて呉《く》れなければ助《たす》かるがと、暮《くれ》から春《はる》へ掛《か》けての取越苦勞《とりこしぐらう》をした。夜《よる》になると夫婦《ふうふ》とも炬燵《こたつ》にばかり親《した》しんだ。さうして廣島《ひろしま》や福岡《ふくをか》の暖《あたゝ》かい冬《ふゆ》を羨《うら》やんだ。 「丸《まる》で前《まへ》の本多《ほんだ》さん見《み》た樣《やう》ね」と御米《およね》が笑《わら》つた。前《まへ》の本多《ほんだ》さんと云《い》ふのは、矢張《やは》り同《おな》じ構内《かまへうち》に住《す》んで、同《おな》じ坂井《さかゐ》の貸家《かしや》を借《か》りてゐる隱居夫婦《いんきよふうふ》であつた。小女《こをんな》を一人《ひとり》使《つか》つて、朝《あさ》から晩迄《ばんまで》ことりと音《おと》もしない樣《やう》に靜《しづ》かな生計《くらし》を立《た》てゝゐた。御米《およね》が茶《ちや》の間《ま》で、たつた一人《ひとり》裁縫《しごと》をしてゐると、時々《とき/″\》御爺《おぢい》さんと云《い》ふ聲《こゑ》がした。それは此《この》本多《ほんだ》の御婆《おばあ》さんが夫《をつと》を呼《よ》ぶ聲《こゑ》であつた。門口《かどぐち》抔《など》で行《ゆ》き逢《あ》ふと、丁寧《ていねい》に時候《じこう》の挨拶《あいさつ》をして、ちと御話《おはなし》に入《い》らつしやいと云《い》ふが、遂《つひ》ぞ行《い》つた事《こと》もなければ、向《むか》ふからも來《き》た試《ためし》がない。從《したが》つて夫婦《ふうふ》の本多《ほんだ》さんに關《くわん》する知識《ちしき》は極《きは》めて乏《とぼ》しかつた。たゞ息子《むすこ》が一人《ひとり》あつて、それが朝鮮《てうせん》の統監府《とうかんふ》とかで、立派《りつぱ》な役人《やくにん》になつてゐるから、月々《つき/″\》其方《そのはう》の仕送《しおくり》で、氣樂《きらく》に暮《く》らして行《ゆ》かれるのだと云《い》ふ事《こと》丈《だけ》を、出入《でいり》の商人《しやうにん》のあるものから耳《みゝ》にした。 「御爺《おぢい》さんは矢《や》つ張《ぱ》り植木《うゑき》を弄《いぢ》つてゐるかい」 「段々《だん/\》寒《さむ》くなつたから、もう已《や》めたんでせう。縁《えん》の下《した》に植木鉢《うゑきばち》が澤山《たくさん》並《なら》んでるわ」  話《はなし》は夫《それ》から前《まへ》の家《うち》を離《はな》れて、家主《やぬし》の方《はう》へ移《うつ》つた。是《これ》は、本多《ほんだ》とは丸《まる》で反對《はんたい》で、夫婦《ふうふ》から見《み》ると、此上《このうへ》もない賑《にぎ》やかさうな家庭《かてい》に思《おも》はれた。此頃《このごろ》は庭《には》が荒《あ》れてゐるので、大勢《おほぜい》の小供《こども》が崖《がけ》の上《うへ》へ出《で》て騷《さわ》ぐ事《こと》がなくなつたが、ピヤノの音《おと》は毎晩《まいばん》の樣《やう》にする。折々《をり/\》は下女《げぢよ》か何《なん》ぞの、臺所《だいどころ》の方《はう》で高笑《たかわらひ》をする聲《こゑ》さへ、宗助《そうすけ》の茶《ちや》の間《ま》迄《まで》響《ひゞ》いて來《き》た。 「ありや一體《いつたい》何《なに》をする男《をとこ》なんだい」と宗助《そうすけ》が聞《き》いた。此《この》問《とひ》は今迄《いままで》も幾度《いくたび》か御米《およね》に向《むか》つて繰《く》り返《かへ》されたものであつた。 「何《なん》にもしないで遊《あす》んでるんでせう。地面《ぢめん》や家作《かさく》を持《も》つて」と御米《およね》が答《こた》へた。此《この》答《こたへ》も今迄《いままで》にもう何遍《なんべん》か宗助《そうすけ》に向《むか》つて繰《く》り返《かへ》されたものであつた。  宗助《そうすけ》は是《これ》より以上《いじやう》立《た》ち入《い》つて坂井《さかゐ》の事《こと》を聞《き》いた事《こと》がなかつた。學校《がくかう》を已《や》めた當座《たうざ》は、順境《じゆんきやう》にゐて得意《とくい》な振舞《ふるまひ》をするものに逢《あ》ふと、今《いま》に見《み》ろと云《い》ふ氣《き》も起《おこ》つた。それが少時《しばら》くすると、單《たん》なる憎惡《ぞうを》の念《ねん》に變化《へんくわ》した。所《ところ》が一二|年《ねん》此方《このかた》は全《まつた》く自他《じた》の差違《さゐ》に無頓着《むとんぢやく》になつて、自分《じぶん》は自分《じぶん》の樣《やう》に生《うま》れ付《つ》いたもの、先《さき》は先《さき》の樣《やう》な運《うん》を持《も》つて世《よ》の中《なか》へ出《で》て來《き》たもの、兩方共《りやうはうとも》始《はじめ》から別種類《べつしゆるゐ》の人間《にんげん》だから、たゞ人間《にんげん》として生息《せいそく》する以外《いぐわい》に、何《なん》の交渉《かうせふ》も利害《りがい》もないのだと考《かんが》へる樣《やう》になつてきた。たまに世間話《せけんばなし》の序《ついで》として、ありや一體《いつたい》何《なに》をしてゐる人《ひと》だ位《ぐらゐ》は聞《き》きもするが、それより先《さき》は、教《をし》へて貰《もら》ふ努力《どりよく》さへ出《だ》すのが面倒《めんだう》だつた。御米《およね》にもこれと同《おな》じ傾《かたむ》きがあつた。けれども其夜《そのよ》は珍《めづ》らしく、坂井《さかゐ》の主人《しゆじん》は四十|恰好《がつかう》の髯《ひげ》のない人《ひと》であると云《い》ふ事《こと》やら、ピヤノを彈《ひ》くのは惣領《そうりやう》の娘《むすめ》で十二三になると云《い》ふ事《こと》やら、又《また》外《ほか》の家《うち》の小供《こども》が遊《あそ》びに來《き》ても、ブランコへ乘《の》せて遣《や》らないと云《い》ふ事《こと》やらを話《はな》した。 「何故《なぜ》外《ほか》の家《うち》の子供《こども》はブランコへ乘《の》せないんだい」 「詰《つま》り吝《けち》なんでせう。早《はや》く惡《わる》くなるから」  宗助《そうすけ》は笑《わら》ひ出《だ》した。彼《かれ》は其位《そのくらゐ》吝嗇《けち》な家主《やぬし》が、屋根《やね》が漏《も》ると云《い》へば、すぐ瓦師《かはらし》を寄《よ》こして呉《く》れる、垣《かき》が腐《くさ》つたと訴《うつた》へればすぐ植木屋《うゑきや》に手《て》を入《い》れさして呉《く》れるのは矛盾《むじゆん》だと思《おも》つたのである。  其晩《そのばん》宗助《そうすけ》の夢《ゆめ》には本多《ほんだ》の植木鉢《うゑきばち》も坂井《さかゐ》のブランコもなかつた。彼《かれ》は十|時半頃《じはんごろ》床《とこ》に入《はひ》つて、萬象《ばんしやう》に疲《つか》れた人《ひと》の樣《やう》に鼾《いびき》をかいた。此間《このあひだ》から頭《あたま》の具合《ぐあひ》がよくないため、寐付《ねつき》の惡《わる》いのを苦《く》にしてゐた御米《およね》は、時々《とき/″\》眼《め》を開《あ》けて薄暗《うすぐら》い部屋《へや》を眺《なが》めた。細《ほそ》い灯《ひ》が床《とこ》の間《ま》の上《うへ》に乘《の》せてあつた。夫婦《ふうふ》は夜中《よぢゆう》燈火《あかり》を點《つ》けて置《お》く習慣《しふくわん》が付《つ》いてゐるので、寐《ね》る時《とき》はいつでも心《しん》を細目《ほそめ》にして洋燈《らんぷ》を此所《こゝ》へ上《あ》げた。  御米《およね》は氣《き》にする樣《やう》に枕《まくら》の位置《ゐち》を動《うご》かした。さうして其度《そのたび》に、下《した》にしてゐる方《はう》の肩《かた》の骨《ほね》を、蒲團《ふとん》の上《うへ》で滑《すべ》らした。仕舞《しまひ》には腹這《はらばひ》になつた儘《まゝ》、兩肱《りやうひぢ》を突《つ》いて、しばらく夫《をつと》の方《はう》を眺《なが》めてゐた。夫《それ》から起《お》き上《あが》つて、夜具《やぐ》の裾《すそ》に掛《か》けてあつた不斷着《ふだんぎ》を、寐卷《ねまき》の上《うへ》へ羽織《はお》つたなり、床《とこ》の間《ま》の洋燈《らんぷ》を取《と》り上《あ》げた。 「貴方々々《あなた/\》」と宗助《そうすけ》の枕元《まくらもと》へ來《き》て曲《こゞ》みながら呼《よ》んだ。其時《そのとき》夫《をつと》はもう鼾《いびき》をかいてゐなかつた。けれども、元《もと》の通《とほ》り深《ふか》い眠《ねむり》から來《く》る呼吸《いき》を續《つゞ》けてゐた。御米《およね》は又《また》立《た》ち上《あが》つて、洋燈《らんぷ》を手《て》にした儘《まゝ》、間《あひ》の襖《ふすま》を開《あ》けて茶《ちや》の間《ま》へ出《で》た。暗《くら》い部屋《へや》が茫漠《ぼんやり》手元《てもと》の灯《ひ》に照《て》らされた時《とき》、御米《およね》は鈍《にぶ》く光《ひか》る箪笥《たんす》の環《くわん》を認《みと》めた。夫《それ》を通《とほ》り過《す》ぎると黒《くろ》く燻《くす》ぶつた臺所《だいどころ》に、腰障子《こししやうじ》の紙丈《かみだけ》が白《しろ》く見《み》えた。御米《およね》は火《ひ》の氣《け》のない眞中《まんなか》に、少時《しばらく》佇《たゝ》ずんでゐたが、やがて右手《みぎて》に當《あた》る下女部屋《げぢよべや》の戸《と》を、音《おと》のしない樣《やう》にそつと引《ひ》いて、中《なか》へ洋燈《らんぷ》の灯《ひ》を翳《かざ》した。下女《げぢよ》は縞《しま》も色《いろ》も判然《はつきり》映《うつ》らない夜具《やぐ》の中《なか》に、土龍《もぐら》の如《ごと》く塊《かた》まつて寐《ね》てゐた。今度《こんど》は左側《ひだりがは》の六|疊《でふ》を覗《のぞ》いた。がらんとして淋《さみ》しい中《なか》に、例《れい》の鏡臺《きやうだい》が置《お》いてあつて、鏡《かゞみ》の表《おもて》が夜中《よなか》丈《だけ》に凄《すご》く眼《め》に應《こた》へた。  御米《およね》は家中《うちぢゆう》を一回《ひとまはり》回《まは》つた後《あと》、凡《すべ》てに異状《いじやう》のない事《こと》を確《たし》かめた上《うへ》、又《また》床《とこ》の中《なか》へ戻《もど》つた。さうして漸《やうや》く眼《め》を眠《ねむ》つた。今度《こんど》は好《い》い具合《ぐあひ》に、眼蓋《まぶた》のあたりに氣《き》を遣《つか》はないで濟《す》む樣《やう》に覺《おぼ》えて、少時《しばらく》するうちに、うと/\とした。  すると又《また》不圖《ふと》眼《め》が開《あ》いた。何《なん》だかずしんと枕元《まくらもと》で響《ひゞ》いた樣《やう》な心持《こゝろもち》がする。耳《みゝ》を枕《まくら》から離《はな》して考《かんが》へると、それはある大《おほ》きな重《おも》いものが裏《うら》の崖《がけ》から自分達《じぶんたち》の寐《ね》てゐる座敷《ざしき》の縁《えん》の外《そと》へ轉《ころ》がり落《お》ちたとしか思《おも》はれなかつた。しかも今《いま》眼《め》が覺《さ》めるすぐ前《まへ》に起《おこ》つた出來事《できごと》で、決《けつ》して夢《ゆめ》の續《つゞき》ぢやないと考《かんが》へた時《とき》、御米《およね》は急《きふ》に氣味《きみ》を惡《わる》くした。さうして傍《そば》に寐《ね》てゐる夫《をつと》の夜具《やぐ》の袖《そで》を引《ひ》いて、今度《こんど》は眞面目《まじめ》に宗助《そうすけ》を起《おこ》し始《はじ》めた。  宗助《そうすけ》は夫迄《それまで》全《まつた》く能《よ》く寐《ね》てゐたが、急《きふ》に眼《め》が覺《さ》めると、御米《およね》が、 「貴方《あなた》一寸《ちよつと》起《お》きて下《くだ》さい」と搖《ゆす》つてゐたので、半分《はんぶん》は夢中《むちゆう》に、 「おい、好《よ》し」とすぐ蒲團《ふとん》の上《うへ》へ起《お》き直《なほ》つた。御米《およね》は小聲《こごゑ》で先刻《さつき》からの樣子《やうす》を話《はな》した。 「音《おと》は一遍《いつぺん》した限《ぎり》なのかい」 「だつて今《いま》した許《ばかり》なのよ」  二人《ふたり》はそれで默《だま》つた。たゞ凝《じつ》と外《そと》の樣子《やうす》を伺《うかゞ》つてゐた。けれども世間《せけん》は森《しん》と靜《しづか》であつた。いつまで耳《みゝ》を峙《そばだ》てゝゐても、再《ふたゝ》び物《もの》の落《お》ちて來《く》る氣色《けしき》はなかつた。宗助《そうすけ》は寒《さむ》いと云《い》ひ乍《なが》ら、單衣《ひとへ》の寐卷《ねまき》の上《うへ》へ羽織《はおり》を被《かぶ》つて、縁側《えんがは》へ出《で》て、雨戸《あまど》を一|枚《まい》繰《く》つた。外《そと》を覗《のぞ》くと何《なん》にも見《み》えない。たゞ暗《くら》い中《なか》から寒《さむ》い空氣《くうき》が俄《には》かに肌《はだ》に逼《せま》つて來《き》た。宗助《そうすけ》はすぐ戸《と》を閉《た》てた。  鐉《かきがね》を卸《おろ》して座敷《ざしき》へ戻《もど》るや否《いな》や、また蒲團《ふとん》の中《なか》へ潛《もぐ》り込《こ》んだが、 「何《なん》にも變《かは》つた事《こと》はありやしない。多分《たぶん》御前《おまへ》の夢《ゆめ》だらう」と云《い》つて、宗助《そうすけ》は横《よこ》になつた。御米《およね》は決《けつ》して夢《ゆめ》でないと主張《しゆちやう》した。慥《たしか》に頭《あたま》の上《うへ》で大《おほ》きな音《おと》がしたのだと固執《こしつ》した。宗助《そうすけ》は夜具《やぐ》から半分《はんぶん》出《だ》した顏《かほ》を、御米《およね》の方《はう》へ振《ふ》り向《む》けて、 「御米《およね》、御前《おまへ》は神經《しんけい》が過敏《くわびん》になつて、近頃《ちかごろ》何《ど》うかしてゐるよ。もう少《すこ》し頭《あたま》を休《やす》めて能《よ》く寐《ね》る工夫《くふう》でもしなくつちや不可《いけ》ない」と云《い》つた。  其時《そのとき》次《つぎ》の間《ま》の柱時計《はしらどけい》が二|時《じ》を打《う》つた。其音《そのおと》で二人《ふたり》とも一寸《ちよつと》言葉《ことば》を途切《とぎ》らして、默《だま》つて見《み》ると、夜《よ》は更《さら》に靜《しづ》まり返《かへ》つた樣《やう》に思《おも》はれた。二人《ふたり》は眼《め》が冴《さ》えて、すぐ寐付《ねつ》かれさうにもなかつた。御米《およね》が、 「でも貴方《あなた》は氣樂《きらく》ね。横《よこ》になると十|分《ぷん》經《た》たないうちに、もう寐《ね》て入《い》らつしやるんだから」と云《い》つた。 「寐《ね》る事《こと》は寐《ね》るが、氣《き》が樂《らく》で寐《ね》られるんぢやない。つまり疲《つか》れるからよく寐《ね》るんだらう」と宗助《そうすけ》が答《こた》へた。  斯《こ》んな話《はなし》をしてゐるうちに宗助《そうすけ》は又《また》寐入《ねい》つて仕舞《しま》つた。御米《およね》は依然《いぜん》として、のつそつ床《とこ》の中《なか》で動《うご》いてゐた。すると表《おもて》をがら/\と烈《はげ》しい音《おと》を立《た》てゝ車《くるま》が一臺《いちだい》通《とほ》つた。近頃《ちかごろ》御米《およね》は時々《とき/″\》夜明前《よあけまへ》の車《くるま》の音《おと》を聞《き》いて驚《おど》ろかされる事《こと》があつた。さうして夫《それ》を思《おも》ひ合《あ》はせると、何時《いつ》も似寄《によ》つた刻限《こくげん》なので、必竟《ひつきやう》は毎朝《まいあさ》同《おな》じ車《くるま》が同《おな》じ所《ところ》を通《とほ》るのだらうと推測《すゐそく》した。多分《たぶん》牛乳《ぎうにゆう》を配達《はいたつ》するためか抔《など》で、あゝ急《いそ》ぐに違《ちがひ》ないと極《き》めてゐたから、此音《このおと》を聞《き》くと等《ひと》しく、もう夜《よ》が明《あ》けて、隣人《りんじん》の活動《くわつどう》が始《はじま》つた如《ごと》くに、心丈夫《こゝろぢやうぶ》になつた。さう斯《か》うしてゐると、何所《どこ》かで鷄《とり》の聲《こゑ》が聞《きこ》えた。又《また》少時《しばらく》すると、下駄《げた》の音《おと》を高《たか》く立《た》てゝ徃來《わうらい》を通《とほ》るものがあつた。そのうち清《きよ》が下女部屋《げぢよべや》の戸《と》を開《あ》けて厠《かはや》へ起《お》きた模樣《もやう》だつたが、やがて茶《ちや》の間《ま》へ來《き》て時計《とけい》を見《み》てゐるらしかつた。此時《このとき》床《とこ》の間《ま》に置《お》いた洋燈《らんぷ》の油《あぶら》が減《へ》つて、短《みじ》かい心《しん》に屆《とゞ》かなくなつたので、御米《およね》の寐《ね》てゐる所《ところ》は眞暗《まつくら》になつてゐた。其所《そこ》へ清《きよ》の手《て》にした灯火《あかり》の影《かげ》が、襖《ふすま》の間《あひだ》から射《さ》し込《こ》んだ。 「清《きよ》かい」と御米《およね》が聲《こゑ》を掛《か》けた。  清《きよ》は夫《それ》からすぐ起《お》きた。三十|分《ぷん》程《ほど》經《た》つて御米《およね》も起《お》きた。又《また》三十|分《ぷん》程《ほど》經《た》つて宗助《そうすけ》も遂《つひ》に起《お》きた。平常《いつも》は好《い》い時分《じぶん》に御米《およね》が遣《や》つて來《き》て、 「もう起《お》きても可《よ》くつてよ」と云《い》ふのが例《れい》であつた。日曜《にちえう》とたまの旗日《はたび》には、それが、 「さあ最《も》う起《お》きて頂戴《ちようだい》」に變《かは》る丈《だけ》であつた。然《しか》し今日《けふ》は昨夕《ゆうべ》の事《こと》が何《なん》となく氣《き》にかゝるので、御米《およね》の迎《むかひ》に來《こ》ないうち宗助《そうすけ》は床《とこ》を離《はな》れた。さうして直《すぐ》崖下《がけした》の雨戸《あまど》を繰《く》つた。  下《した》から覗《のぞ》くと、寒《さむ》い竹《たけ》が朝《あさ》の空氣《くうき》に鎖《とざ》されて凝《じつ》としてゐる後《うしろ》から、霜《しも》を破《やぶ》る日《ひ》の色《いろ》が射《さ》して、幾分《いくぶん》か頂《いたゞき》を染《そ》めてゐた。其《その》二尺《にしやく》程《ほど》下《した》の勾配《こうばい》の一番《いちばん》急《きふ》な所《ところ》に生《は》えてゐる枯草《かれくさ》が、妙《めう》に摺《す》り剥《む》けて、赤土《あかつち》の肌《はだ》を生々《なま/\》しく露出《ろしゆつ》した樣子《やうす》に、宗助《そうすけ》は一寸《ちよつと》驚《おど》ろかされた。それから一直線《いつちよくせん》に降《お》りて、丁度《ちやうど》自分《じぶん》の立《た》つてゐる縁鼻《えんばな》の土《つち》が、霜柱《しもばしら》を摧《くだ》いた樣《やう》に荒《あ》れてゐた。宗助《そうすけ》は大《おほ》きな犬《いぬ》でも上《うへ》から轉《ころ》がり落《お》ちたのぢやなからうかと思《おも》つた。然《しか》し犬《いぬ》にしては幾何《いくら》大《おほ》きいにしても、餘《あま》り勢《いきほひ》が烈《はげ》し過《す》ぎると思《おも》つた。  宗助《そうすけ》は玄關《げんくわん》から下駄《げた》を提《さ》げて來《き》て、すぐ庭《には》へ下《お》りた。縁《えん》の先《さき》へ便所《べんじよ》が折《お》れ曲《まが》つて突《つ》き出《だ》してゐるので、いとゞ狹《せま》い崖下《がけした》が、裏《うら》へ拔《ぬ》ける半間《はんげん》程《ほど》の所《ところ》は猶更《なほさら》狹苦《せまくる》しくなつてゐた。御米《およね》は掃除屋《さうぢや》が來《く》るたびに、此《この》曲《まが》り角《かど》を氣《き》にしては、 「彼所《あすこ》がもう少《すこ》し廣《ひろ》いと可《い》いけれども」と危險《あぶな》がるので、よく宗助《そうすけ》から笑《わら》はれた事《こと》があつた。  其所《そこ》を通《とほ》り拔《ぬ》けると、眞直《まつすぐ》に臺所《だいどころ》迄《まで》細《ほそ》い路《みち》が付《つ》いてゐる。元《もと》は枯枝《かれえだ》の交《まじ》つた杉垣《すぎがき》があつて、隣《となり》の庭《には》の仕切《しき》りになつてゐたが、此間《このあひだ》家主《やぬし》が手《て》を入《い》れた時《とき》、穴《あな》だらけの杉葉《すぎは》を奇麗《きれい》に取《と》り拂《はら》つて、今《いま》では節《ふし》の多《おほ》い板塀《いたべい》が片側《かたがは》を勝手口《かつてぐち》迄《まで》塞《ふさ》いで仕舞《しま》つた。日當《ひあた》りの惡《わる》い上《うへ》に、樋《とひ》から雨滴《あまだれ》ばかり落《お》ちるので、夏《なつ》になると秋海棠《しうかいだう》が一杯《いつぱい》生《は》える。其《その》盛《さか》りな頃《ころ》は青《あを》い葉《は》が重《かさ》なり合《あ》つて、殆《ほと》んど通《とほ》り路《みち》がなくなる位《くらゐ》茂《しげ》つて來《く》る。始《はじ》めて越《こ》した年《とし》は、宗助《そうすけ》も御米《およね》も此《この》景色《けしき》を見《み》て驚《おど》ろかされた位《くらゐ》である。此《この》秋海棠《しうかいだう》は杉垣《すぎがき》のまだ引《ひ》き拔《ぬ》かれない前《まへ》から、何年《なんねん》となく地下《ちか》に蔓《はびこ》つてゐたもので、古家《ふるや》の取《と》り毀《こぼ》たれた今《いま》でも、時節《じせつ》が來《く》ると昔《むかし》の通《とほ》り芽《め》を吹《ふ》くものと解《わか》つた時《とき》、御米《およね》は、 「でも可愛《かあい》いわね」と喜《よろこ》んだ。  宗助《そうすけ》が霜《しも》を踏《ふ》んで、此《この》記念《きねん》の多《おほ》い横手《よこて》へ出《で》た時《とき》、彼《かれ》の眼《め》は細長《ほそなが》い路次《ろじ》の一點《いつてん》に落《お》ちた。さうして彼《かれ》は日《ひ》の通《かよ》はない寒《さむ》さの中《なか》にはたと留《と》まつた。  彼《かれ》の足元《あしもと》には黒塗《くろぬり》の蒔繪《まきゑ》の手文庫《てぶんこ》が放《はふ》り出《だ》してあつた。中味《なかみ》はわざ/\其所《そこ》へ持《も》つて來《き》て置《お》いて行《い》つた樣《やう》に、霜《しも》の上《うへ》にちやんと据《すわ》つてゐるが、蓋《ふた》は二三|尺《じやく》離《はな》れて、塀《へい》の根《ね》に打《う》ち付《つ》けられた如《ごと》くに引《ひ》つ繰《く》り返《かへ》つて、中《なか》を張《は》つた千代紙《ちよがみ》の模樣《もやう》が判然《はつきり》見《み》えた。文庫《ぶんこ》の中《なか》から洩《も》れた、手紙《てがみ》や書付類《かきつけるゐ》が、其所《そこ》いらに遠慮《ゑんりよ》なく散《ち》らばつてゐる中《なか》に、比較的《ひかくてき》長《なが》い一|通《つう》がわざ/\二|尺《しやく》許《ばかり》廣《ひろ》げられて、其先《そのさき》が紙屑《かみくづ》の如《ごと》く丸《まる》めてあつた。宗助《そうすけ》は近付《ちかづ》いて、此《この》揉苦茶《もみくちや》になつた紙《かみ》の下《した》を覗《のぞ》いて覺《おぼ》えず苦笑《くせう》した。下《した》には大便《だいべん》が垂《た》れてあつた。  土《つち》の上《うへ》に散《ち》らばつてゐる書類《しよるゐ》を一纏《ひとまとめ》にして、文庫《ぶんこ》の中《なか》へ入《い》れて、霜《しも》と泥《どろ》に汚《よご》れた儘《まゝ》宗助《そうすけ》は勝手口《かつてぐち》迄《まで》持《も》つて來《き》た。腰障子《こししやうじ》を開《あ》けて、清《きよ》に 「おい是《これ》を一寸《ちよつと》其所《そこ》へ置《お》いて呉《く》れ」と渡《わた》すと、清《きよ》は妙《めう》な顏《かほ》をして、不思議《ふしぎ》さうにそれを受取《うけと》つた。御米《およね》は奧《おく》で座敷《ざしき》へ拂塵《はたき》を掛《か》けてゐた。宗助《そうすけ》はそれから懷手《ふところで》をして、玄關《げんくわん》だの門《もん》の邊《あたり》を能《よ》く見廻《みまは》つたが、何處《どこ》にも平常《へいじやう》と異《こと》なる點《てん》は認《みと》められなかつた。  宗助《そうすけ》は漸《ようや》く家《うち》へ入《はひ》つた。茶《ちや》の間《ま》へ來《き》て例《れい》の通《とほ》り火鉢《ひばち》の前《まへ》へ坐《すわ》つたが、すぐ大《おほ》きな聲《こゑ》を出《だ》して御米《およね》を呼《よ》んだ。御米《およね》は、 「起《お》き拔《ぬ》けに何處《どこ》へ行《い》つて入《い》らしつたの」と云《い》ひながら奧《おく》から出《で》て來《き》た。 「おい昨夜《ゆうべ》枕元《まくらもと》で大《おほ》きな音《おと》がしたのは矢《や》つ張《ぱり》夢《ゆめ》ぢやなかつたんだ。泥棒《どろぼう》だよ。泥棒《どろぼう》が坂井《さかゐ》さんの崖《がけ》の上《うへ》から宅《うち》の庭《には》へ飛《と》び下《お》りた音《おと》だ。今《いま》裏《うら》へ回《まは》つて見《み》たら、此《この》文庫《ぶんこ》が落《お》ちてゐて、中《なか》に這入《はい》つてゐた手紙《てがみ》なんぞが、無茶苦茶《むちやくちや》に放《はふ》り出《だ》してあつた。御負《おまけ》に御馳走《ごちそう》迄《まで》置《お》いて行《い》つた」  宗助《そうすけ》は文庫《ぶんこ》の中《なか》から、二三|通《つう》の手紙《てがみ》を出《だ》して御米《およね》に見《み》せた。それには皆《みんな》坂井《さかゐ》の名宛《なあて》が書《か》いてあつた。御米《およね》は吃驚《びつくり》して立膝《たてひざ》の儘《まゝ》、 「坂井《さかゐ》さんぢや外《ほか》に何《なに》か取《と》られたでせうか」と聞《き》いた。宗助《そうすけ》は腕組《うでぐみ》をして、 「ことに因《よ》ると、まだ何《なに》か遣《や》られたね」と答《こた》へた。  夫婦《ふうふ》は兎《と》も角《かく》もと云《い》ふので、文庫《ぶんこ》を其所《そこ》へ置《お》いたなり朝飯《あさめし》の膳《ぜん》に着《つ》いた。然《しか》し箸《はし》を動《うご》かす間《ま》も泥棒《どろぼう》の話《はなし》は忘《わす》れなかつた。御米《およね》は自分《じぶん》の耳《みゝ》と頭《あたま》の慥《たしか》な事《こと》を夫《をつと》に誇《ほこ》つた。宗助《そうすけ》は耳《みゝ》と頭《あたま》の慥《たしか》でない事《こと》を幸福《かうふく》とした。 「さう仰《おつ》しやるけれど、是《これ》が坂井《さかゐ》さんでなくつて、宅《うち》で御覽《ごらん》なさい。貴方《あなた》見《み》た樣《やう》にぐう/\寐《ね》て入《い》らしつたら困《こま》るぢやないの」と御米《およね》が宗助《そうすけ》を遣《や》り込《こ》めた。 「なに宅《うち》なんぞへ這入《はい》る氣遣《きづかひ》はないから大丈夫《だいぢやうぶ》だ」と宗助《そうすけ》も口《くち》の減《へ》らない返事《へんじ》をした。  其所《そこ》へ清《きよ》が突然《とつぜん》臺所《だいどころ》から顏《かほ》を出《だ》して、 「此間《このあひだ》拵《こしら》えた旦那樣《だんなさま》の外套《ぐわいたう》でも取《と》られ樣《やう》ものなら、夫《それ》こそ騷《さわ》ぎで御座《ござ》いましたね。御宅《おうち》でなくつて坂井《さかゐ》さんだつたから本當《ほんたう》に結構《けつこう》で御座《ござ》います」と眞面目《まじめ》に悦《よろこび》の言葉《ことば》を述《の》べたので、宗助《そうすけ》も御米《およね》も少《すこ》し挨拶《あいさつ》に窮《きゆう》した。  食事《しよくじ》を濟《す》ましても、出勤《しゆつきん》の時刻《じこく》にはまだ大分《だいぶ》間《ま》があつた。坂井《さかゐ》では定《さだ》めて騷《さわ》いでるだらうと云《い》ふので、文庫《ぶんこ》は宗助《そうすけ》が自分《じぶん》で持《も》つて行《い》つて遣《や》る事《こと》にした。蒔繪《まきゑ》ではあるが、たゞ黒地《くろぢ》に龜甲形《きつかふがた》を金《きん》で置《お》いた丈《だけ》の事《こと》で、別《べつ》に大《たい》して金目《かねめ》の物《もの》とも思《おも》へなかつた。御米《およね》は唐棧《たうざん》の風呂敷《ふろしき》を出《だ》してそれを包《くる》んだ。風呂敷《ふろしき》が少《すこ》し小《ちひ》さいので、四隅《よすみ》を對《むか》ふ同志《どうし》繋《つな》いで、眞中《まんなか》にこま結《むす》びを二《ふた》つ拵《こしら》えた。宗助《そうすけ》がそれを提《さ》げた所《ところ》は、丸《まる》で進物《しんもつ》の菓子折《くわしをり》の樣《やう》であつた。  座敷《ざしき》で見《み》ればすぐ崖《がけ》の上《うへ》だが、表《おもて》から廻《まは》ると、通《とほ》りを半町《はんちやう》許《ばかり》來《き》て、坂《さか》を上《のぼ》つて、又《また》半町《はんちやう》程《ほど》逆《ぎやく》に戻《もど》らなければ、坂井《さかゐ》の門前《もんぜん》へは出《で》られなかつた。宗助《そうすけ》は石《いし》の上《うへ》へ芝《しば》を盛《も》つて扇骨木《かなめ》を奇麗《きれい》に植付《うゑつ》けた垣《かき》に沿《そ》ふて門内《もんない》に入《はひ》つた。  家《いへ》の内《うち》は寧《むし》ろ靜《しづ》か過《す》ぎる位《くらゐ》しんとしてゐた。摺硝子《すりがらす》の戸《と》が閉《た》てゝある玄關《げんくわん》へ來《き》て、ベルを二三|度《ど》押《お》して見《み》たが、ベルが利《き》かないと見《み》えて誰《だれ》も出《で》て來《こ》なかつた。宗助《そうすけ》は仕方《しかた》なしに勝手口《かつてぐち》へ廻《まは》つた。其所《そこ》にも摺硝子《すりがらす》の嵌《は》まつた腰障子《こししやうじ》が二|枚《まい》閉《た》ててあつた。中《なか》では器物《きぶつ》を取《と》り扱《あつか》ふ音《おと》がした。宗助《そうすけ》は戸《と》を開《あ》けて、瓦斯七輪《ガスしちりん》を置《お》いた板《いた》の間《ま》に蹲踞《しやが》んでゐる下女《げぢよ》に挨拶《あいさつ》をした。 「是《これ》は此方《こちら》のでせう。今朝《けさ》私《わたし》の家《うち》の裏《うら》に落《お》ちてゐましたから持《も》つて來《き》ました」と云《い》ひながら、文庫《ぶんこ》を出《だ》した。  下女《げぢよ》は「左樣《さやう》で御座《ござ》いましたか、どうも」と簡單《かんたん》に禮《れい》を述《の》べて、文庫《ぶんこ》を持《も》つた儘《まゝ》、板《いた》の間《ま》の仕切《しきり》迄《まで》行《い》つて、仲働《なかばたらき》らしい女《をんな》を呼《よ》び出《だ》した。其所《そこ》で小聲《こごゑ》に説明《せつめい》をして、品物《しなもの》を渡《わた》すと、仲働《なかばたらき》はそれを受取《うけと》つたなり、一寸《ちよつと》宗助《そうすけ》の方《はう》を見《み》たがすぐ奧《おく》へ入《はひ》つた。入《い》れ違《ちがへ》に、十二三になる丸顏《まるがほ》の眼《め》の大《おほ》きな女《をんな》の子《こ》と、其《その》妹《いもうと》らしい揃《そろひ》のリボンを懸《か》けた子《こ》が一所《いつしよ》に馳《か》けて來《き》て、小《ちひ》さい首《くび》を二《ふた》つ並《なら》べて臺所《だいどころ》へ出《だ》した。さうして宗助《そうすけ》の顏《かほ》を眺《なが》めながら、泥棒《どろぼう》よと耳語《さゝやき》やつた。宗助《そうすけ》は文庫《ぶんこ》を渡《わた》して仕舞《しま》へば、もう用《よう》が濟《す》んだのだから、奧《おく》の挨拶《あいさつ》はどうでも可《い》いとして、すぐ歸《かへ》らうかと考《かんが》へた。 「文庫《ぶんこ》は御宅《おたく》のでせうね。可《い》いんでせうね」と念《ねん》を押《お》して、何《な》にも知《し》らない下女《げぢよ》を氣《き》の毒《どく》がらしてゐる所《ところ》へ、最前《さいぜん》の仲働《なかばたらき》が出《で》て來《き》て、 「何《ど》うぞ御通《おとほ》り下《くだ》さい」と丁寧《ていねい》に頭《あたま》を下《さ》げたので、今度《こんど》は宗助《そうすけ》の方《はう》が少《すこ》し痛《いた》み入《い》る樣《やう》になつた。下女《げぢよ》は愈《いよ/\》しとやかに同《おな》じ請求《せいきう》を繰《く》り返《かへ》した。宗助《そうすけ》は痛《いた》み入《い》る境《さかひ》を通《とほ》り越《こ》して、遂《つひ》に迷惑《めいわく》を感《かん》じ出《だ》した。所《ところ》へ主人《しゆじん》が自分《じぶん》で出《で》て來《き》た。  主人《しゆじん》は予想通《よさうどほ》り血色《けつしよく》の好《い》い下膨《しもぶくれ》の福相《ふくさう》を具《そな》へてゐたが、御米《およね》の云《い》つた樣《やう》に髭《ひげ》のない男《をとこ》ではなかつた。鼻《はな》の下《した》に短《みじ》かく刈《か》り込《こ》んだのを生《は》やして、たゞ頬《ほゝ》から腮《あご》を奇麗《きれい》に蒼《あを》くしてゐた。 「いや何《ど》うも飛《と》んだ御手數《おてかず》で」と主人《しゆじん》は眼尻《めじり》に皺《しわ》を寄《よ》せながら禮《れい》を述《の》べた。米澤《よねざは》の絣《かすり》を着《き》た膝《ひざ》を板《いた》の間《ま》に突《つ》いて、宗助《そうすけ》から色々《いろ/\》樣子《やうす》を聞《き》いてゐる態度《たいど》が、如何《いか》にも緩《ゆつ》くりしてゐた。宗助《そうすけ》は昨夕《ゆうべ》から今朝《けさ》へ掛《か》けての出來事《できごと》を一通《ひととほ》り掻《か》い撮《つま》んで話《はな》した上《うへ》、文庫《ぶんこ》の外《ほか》に何《なに》か取《と》られたものがあるかないかを尋《たづ》ねて見《み》た。主人《しゆじん》は机《つくゑ》の上《うへ》に置《お》いた金時計《きんどけい》を一《ひと》つ取《と》られた由《よし》を答《こた》へた。けれども丸《まる》で他《ひと》のものでも失《な》くなした時《とき》の樣《やう》に、一向《いつかう》困《こま》つたと云《い》ふ氣色《けしき》はなかつた。時計《とけい》よりは寧《むし》ろ宗助《そうすけ》の叙述《じよじゆつ》の方《はう》に多《おほ》くの興味《きようみ》を有《も》つて、泥棒《どろぼう》が果《はた》して崖《がけ》を傳《つた》つて裏《うら》から逃《にげ》げる積《つもり》だつたらうか、又《また》は逃《に》げる拍子《ひやうし》に、崖《がけ》から落《お》ちたものだらうかと云《い》ふ樣《やう》な質問《しつもん》を掛《か》けた。宗助《そうすけ》は固《もと》より返答《へんたふ》が出來《でき》なかつた。  其所《そこ》へ最前《さいぜん》の仲働《なかばたらき》が、奧《おく》から茶《ちや》や莨《たばこ》を運《はこ》んで來《き》たので、宗助《そうすけ》は又《また》歸《かへ》りはぐれた。主人《しゆじん》はわざ/\坐蒲團《ざぶとん》迄《まで》取《と》り寄《よ》せて、とう/\其上《そのうへ》へ宗助《そうすけ》の尻《しり》を据《す》ゑさした。さうして今朝《けさ》早《はや》く來《き》た刑事《けいじ》の話《はなし》をし始《はじ》めた。刑事《けいじ》の判定《はんてい》によると、賊《ぞく》は宵《よひ》から邸内《ていない》に忍《しの》び込《こ》んで、何《なん》でも物置《ものおき》かなぞに隱《かく》れてゐたに違《ちがひ》ない。這入口《はいりくち》は矢張《やは》り勝手《かつて》である。燐寸《まつち》を擦《す》つて蝋燭《らふそく》を點《とも》して、それを臺所《だいどころ》にあつた小桶《こをけ》の中《なか》へ立《た》てゝ、茶《ちや》の間《ま》へ出《で》たが、次《つぎ》の部屋《へや》には細君《さいくん》と子供《こども》が寐《ね》てゐるので、廊下傳《らうかづた》ひに主人《しゆじん》の書齋《しよさい》へ來《き》て、其所《そこ》で仕事《しごと》をしてゐると、此間《このあひだ》生《うま》れた末《すゑ》の男《をとこ》の子《こ》が、乳《ちゝ》を呑《の》む時刻《じこく》が來《き》たものか、眼《め》を覺《さ》まして泣《な》き出《だ》したため、賊《ぞく》は書齋《しよさい》の戸《と》を開《あ》けて庭《には》へ逃《に》げたらしい。 「平常《いつも》の樣《やう》に犬《いぬ》がゐると好《よ》かつたんですがね。生憎《あいにく》病氣《びやうき》なので、四五|日前《にちまへ》病院《びやうゐん》へ入《い》れて仕舞《しま》つたもんですから」と主人《しゆじん》は殘念《ざんねん》がつた。宗助《そうすけ》も、 「夫《それ》は惜《をし》い事《こと》でした」と答《こた》へた。すると主人《しゆじん》は其《その》犬《いぬ》の種《ブリード》やら血統《けつとう》やら、時々《とき/″\》獵《かり》に連《つ》れて行《ゆ》く事《こと》や、色々《いろ/\》な事《こと》を話《はな》し始《はじ》めた。 「獵《れふ》は好《すき》ですから。尤《もつと》も近來《きんらい》は神經痛《しんけいつう》で少《すこ》し休《やす》んでゐますが。何《なに》しろ秋口《あきぐち》から冬《ふゆ》へ掛《か》けて鴫《しぎ》なぞを打《う》ちに行《ゆ》くと、どうしても腰《こし》から下《した》は田《た》の中《なか》へ浸《つか》つて、二|時間《じかん》も三|時間《じかん》も暮《く》らさなければならないんですから、全《まつた》く身體《からだ》には好《よ》くない樣《やう》です」  主人《しゆじん》は時間《じかん》に制限《せいげん》のない人《ひと》と見《み》えて、宗助《そうすけ》が、成程《なるほど》とか、左《さ》うですか、とか云《い》つてゐると、何時《いつ》迄《まで》も話《はな》してゐるので、宗助《そうすけ》は已《やむ》を得《え》ず中途《ちゆうと》で立《た》ち上《あ》がつた。 「是《これ》から又《また》例《れい》の通《とほ》り出掛《でか》けなければなりませんから」と切《き》り上《あ》げると、主人《しゆじん》は始《はじ》めて氣《き》が付《つ》いた樣《やう》に、忙《いそ》がしい所《ところ》を引《ひ》き留《と》めた失禮《しつれい》を謝《しや》した。さうして何《いづ》れ又《また》刑事《けいじ》が現状《げんじやう》を見《み》に行《ゆ》くかも知《し》れないから、其時《そのとき》はよろしく願《ねが》ふと云《い》ふやうな事《こと》を述《の》べた。最後《さいご》に、 「何《ど》うかちと御話《おはなし》に。私《わたくし》も近頃《ちかごろ》は寧《むし》ろ閑《ひま》な方《はう》ですから、又《また》御邪魔《おじやま》に出《で》ますから」と丁寧《ていねい》に挨拶《あいさつ》をした。門《もん》を出《で》て急《いそ》ぎ足《あし》に宅《うち》へ歸《かへ》ると、毎朝《まいあさ》出《で》る時刻《じこく》よりも、もう三十|分《ぷん》程《ほど》後《おく》れてゐた。 「貴方《あなた》何《ど》うなすつたの」と御米《およね》が氣《き》を揉《も》んで玄關《げんくわん》へ出《で》た。宗助《そうすけ》はすぐ着物《きもの》を脱《ぬ》いで洋服《やうふく》に着換《きかへ》ながら、 「あの坂井《さかゐ》と云《い》ふ人《ひと》は餘《よ》つ程《ぽど》氣樂《きらく》な人《ひと》だね。金《かね》があるとあゝ緩《ゆつ》くり出來《でき》るもんかな」と云《い》つた。 [#8字下げ]八[#「八」は中見出し] 「小六《ころく》さん、茶《ちや》の間《ま》から始《はじ》めて。夫《それ》とも座敷《ざしき》の方《はう》を先《さき》にして」と御米《およね》が聞《き》いた。  小六《ころく》は四五|日前《にちまへ》とう/\兄《あに》の所《ところ》へ引《ひ》き移《うつ》つた結果《けつくわ》として、今日《けふ》の障子《しやうじ》の張替《はりかへ》を手傳《てつだ》はなければならない事《こと》となつた。彼《かれ》は昔《むか》し叔父《をぢ》の家《いへ》に居《ゐ》た時《とき》、安之助《やすのすけ》と一所《いつしよ》になつて、自分《じぶん》の部屋《へや》の唐紙《からかみ》を張《は》り替《か》へた經驗《けいけん》がある。其時《そのとき》は糊《のり》を盆《ぼん》に溶《と》いたり、篦《へら》を使《つか》つて見《み》たり、大分《だいぶ》本式《ほんしき》に遣《や》り出《だ》したが、首尾《しゆび》好《よ》く乾《かわ》かして、いざ元《もと》の所《ところ》へ建《た》てるといふ段《だん》になると、二|枚《まい》とも反《そ》つ繰《く》り返《かへ》つて敷居《しきゐ》の溝《みぞ》へ嵌《は》まらなかつた。それから是《これ》も安之助《やすのすけ》と共同《きようどう》して失敗《しつぱい》した仕事《しごと》であるが、叔母《をば》の云付《いひつ》けで、障子《しやうじ》を張《は》らせられたときには、水道《すゐだう》でざぶ/\枠《わく》を洗《あら》つたため、矢張《やつぱ》り乾《かわ》いた後《あと》で、惣體《そうたい》に歪《ゆがみ》が出來《でき》て非常《ひじやう》に困難《こんなん》した。 「姉《ねえ》さん、障子《しやうじ》を張《は》るときは、餘程《よほど》愼重《しんちよう》にしないと失策《しくじ》るです。洗《あら》つちや駄目《だめ》ですぜ」と云《い》ひながら、小六《ころく》は茶《ちや》の間《ま》の縁側《えんがは》からびり/\破《やぶ》き始《はじ》めた。  縁先《えんさき》は右《みぎ》の方《はう》に小六《ころく》のゐる六|疊《でふ》が折《を》れ曲《まが》つて、左《ひだり》には玄關《げんくわん》が突《つ》き出《だ》してゐる。其《その》向《むか》ふを塀《へい》が縁《えん》と平行《へいかう》に塞《ふさ》いでゐるから、まあ四角《しかく》な圍内《かこひうち》と云《い》つて可《い》い。夏《なつ》になるとコスモスを一面《いちめん》に茂《しげ》らして、夫婦《ふうふ》とも毎朝《まいあさ》露《つゆ》の深《ふか》い景色《けしき》を喜《よろこ》んだ事《こと》もあるし、又《また》塀《へい》の下《した》へ細《ほそ》い竹《たけ》を立《た》てゝ、それへ朝顏《あさがほ》を絡《から》ませた事《こと》もある。其時《そのとき》は起《お》き拔《ぬ》けに、今朝《けさ》咲《さ》いた花《はな》の數《かず》を勘定《かんぢやう》し合《あ》つて二人《ふたり》が樂《たのしみ》にした。けれども秋《あき》から冬《ふゆ》へ掛《か》けては、花《はな》も草《くさ》も丸《まる》で枯《か》れて仕舞《しま》ふので、小《ちひ》さな砂漠《さばく》見《み》た樣《やう》に、眺《なが》めるのも氣《き》の毒《どく》な位《くらゐ》淋《さび》しくなる。小六《ころく》は此《この》霜《しも》ばかり降《お》りた四角《しかく》な地面《ぢめん》を脊《せ》にして、しきりに障子《しやうじ》の紙《かみ》を剥《は》がしてゐた。  時々《とき/″\》寒《さむ》い風《かぜ》が來《き》て、後《うしろ》から小六《ころく》の坊主頭《ばうずあたま》と襟《えり》の邊《あたり》を襲《おそ》つた。其度《そのたび》に彼《かれ》は吹《ふ》き曝《さら》しの縁《えん》から六|疊《でふ》の中《なか》へ引《ひ》つ込《こ》みたくなつた。彼《かれ》は赤《あか》い手《て》を無言《むごん》の儘《まゝ》働《はた》らかしながら、馬尻《ばけつ》の中《なか》で雜巾《ざふきん》を絞《しぼ》つて障子《しやうじ》の棧《さん》を拭《ふ》き出《だ》した。 「寒《さむ》いでせう、御氣《おき》の毒《どく》さまね。生憎《あいにく》御天氣《おてんき》が時雨《しぐ》れたもんだから」と御米《およね》が愛想《あいそ》を云《い》つて、鐵瓶《てつびん》の湯《ゆ》を注《つ》ぎ注《つ》ぎ、昨日《きのふ》煑《に》た糊《のり》を溶《と》いた。  小六《ころく》は實際《じつさい》こんな用《よう》をするのを、内心《ないしん》では大《おほ》いに輕蔑《けいべつ》してゐた。ことに昨今《さくこん》自分《じぶん》が已《や》むなく置《お》かれた境遇《きやうぐう》からして、此際《このさい》多少《たせう》自己《じこ》を侮辱《ぶじよく》してゐるかの觀《くわん》を抱《いだ》いて雜巾《ざふきん》を手《て》にしてゐた。昔《むか》し叔父《をぢ》の家《いへ》で、是《これ》と同《おな》じ事《こと》を遣《や》らせられた時《とき》は、暇潰《ひまつぶ》しの慰《なぐさ》みとして、不愉快《ふゆくわい》どころか却《かへ》つて面白《おもしろ》かつた記憶《きおく》さへあるのに、今《いま》ぢや此位《このくらゐ》な仕事《しごと》より外《ほか》にする能力《のうりよく》のないものと、強《し》いて周圍《しうゐ》から諦《あきら》めさせられた樣《やう》な氣《き》がして、縁側《えんがは》の寒《さむ》いのが猶《なほ》のこと癪《しやく》に觸《さは》つた。  それで嫂《あによめ》には快《こゝろ》よい返事《へんじ》さへ碌《ろく》にしなかつた。さうして頭《あたま》の中《なか》で、自分《じぶん》の下宿《げしゆく》にゐた法科《はふくわ》大學生《だいがくせい》が、一寸《ちよつと》散歩《さんぽ》に出《で》る序《ついで》に、資生堂《しせいだう》へ寄《よ》つて、三《みつ》つ入《い》りの石鹸《しやぼん》と齒磨《はみがき》を買《か》ふのにさへ、五|圓《ゑん》近《ぢか》くの金《かね》を拂《はら》ふ華奢《くわしや》を思《おも》ひ浮《うか》べた。すると何《ど》うしても自分《じぶん》一人《ひとり》がこんな窮境《きゆうきやう》に陷《おちい》るべき理由《りいう》がない樣《やう》に感《かん》ぜられた。それから、斯《こ》んな生活《せいくわつ》状態《じやうたい》に甘《あま》んじて一生《いつしやう》を送《おく》る兄夫婦《あにふうふ》が如何《いか》にも憫然《ふびん》に見《み》えた。彼等《かれら》は障子《しやうじ》を張《は》る美濃紙《みのがみ》を買《か》ふのにさへ氣兼《きがね》をしやしまいかと思《おも》はれる程《ほど》、小六《ころく》から見《み》ると、消極的《せうきよくてき》な暮《くら》し方《かた》をしてゐた。 「斯《こ》んな紙《かみ》ぢや、又《また》すぐ破《やぶ》けますね」と云《い》ひながら、小六《ころく》は卷《ま》いた小口《こぐち》を一|尺《しやく》ほど日《ひ》に透《す》かして、二三|度《ど》力任《ちからまか》せに鳴《な》らした。 「さう? でも宅《うち》ぢや小供《こども》がないから、夫程《それほど》でもなくつてよ」と答《こた》へた御米《およね》は糊《のり》を含《ふく》ました刷毛《はけ》を取《と》つてとん/\とんと棧《さん》の上《うへ》を渡《わた》した。  二人《ふたり》は長《なが》く繼《つ》いだ紙《かみ》を双方《さうはう》から引《ひ》き合《あ》つて、成《な》るべく垂《た》るみの出來《でき》ない樣《やう》に力《つと》めたが、小六《ころく》が時々《とき/″\》面倒臭《めんだうくさ》さうな顏《かほ》をすると、御米《およね》はつい遠慮《ゑんりよ》が出《で》て、好加減《いゝかげん》に髮剃《かみそり》で小口《こぐち》を切《き》り落《おと》して仕舞《しま》ふ事《こと》もあつた。從《したが》つて出來上《できあが》つたものには、所々《ところ/″\》のぶく/\が大分《だいぶ》目《め》に付《つ》いた。御米《およね》は情《なさけ》なささうに、戸袋《とぶくろ》に立《た》て懸《か》けた張《は》り立《た》ての障子《しやうじ》を眺《なが》めた。さうして心《こゝろ》の中《うち》で、相手《あひて》が小六《ころく》でなくつて、夫《をつと》であつたならと思《おも》つた。 「皺《しわ》が少《すこ》し出來《でき》たのね」 「何《ど》うせ僕《ぼく》の御手際《おてぎは》ぢや旨《うま》くは行《い》かない」 「なに兄《にい》さんだつて、さう御上手《おじやうず》ぢやなくつてよ。それに兄《にい》さんは貴方《あなた》より餘《よ》つ程《ほど》無精《ぶしやう》ね」  小六《ころく》は何《なん》にも答《こた》へなかつた。臺所《だいどころ》から清《きよ》が持《も》つて來《き》た含嗽茶碗《うがひぢやわん》を受《う》け取《と》つて、戸袋《とぶくろ》の前《まへ》へ立《た》つて、紙《かみ》が一面《いちめん》に濡《ぬ》れる程《ほど》霧《きり》を吹《ふ》いた。二|枚目《まいめ》を張《は》つたときは、先《さき》に霧《きり》を吹《ふ》いた分《ぶん》が略《ほゞ》乾《かわ》いて皺《しわ》が大方《おほかた》平《たひ》らになつてゐた。三|枚目《まいめ》を張《は》つたとき、小六《ころく》は腰《こし》が痛《いた》くなつたと云《い》ひ出《だ》した。實《じつ》を云《い》ふと御米《およね》の方《はう》は今朝《けさ》から頭《あたま》が痛《いた》かつたのである。 「もう一|枚《まい》張《は》つて、茶《ちや》の間《ま》丈《だけ》濟《す》ましてから休《やす》みませう」と云《い》つた。  茶《ちや》の間《ま》を濟《す》ましてゐるうちに午《ひる》になつたので、二人《ふたり》は食事《しよくじ》を始《はじ》めた。小六《ころく》が引《ひ》き移《うつ》つてから此《この》四五日《しごんち》、御米《およね》は宗助《そうすけ》のゐない午飯《ひるはん》を、何時《いつ》も小六《ころく》と差向《さしむかひ》で食《た》べる事《こと》になつた。宗助《そうすけ》と一所《いつしよ》になつて以來《いらい》、御米《およね》の毎日《まいにち》膳《ぜん》を共《とも》にしたものは、夫《をつと》より外《ほか》になかつた。夫《をつと》の留守《るす》の時《とき》は、たゞ獨《ひと》り箸《はし》を執《と》るのが多年《たねん》の習慣《ならはし》であつた。だから突然《とつぜん》この小舅《こじうと》と自分《じぶん》の間《あひだ》に御櫃《おはち》を置《お》いて、互《たがひ》に顏《かほ》を見合《みあは》せながら、口《くち》を動《うご》かすのが、御米《およね》に取《と》つては一種《いつしゆ》異《い》な經驗《けいけん》であつた。それも下女《げぢよ》が臺所《だいどころ》で働《はた》らいてゐるときは、未《ま》だしもだが、清《きよ》の影《かげ》も音《おと》もしないとなると、猶《なほ》の事《こと》變《へん》に窮屈《きゆうくつ》な感《かん》じが起《おこ》つた。無論《むろん》小六《ころく》よりも御米《およね》の方《はう》が年上《としうへ》であるし、又《また》從來《じゆうらい》の關係《くわんけい》から云《い》つても、兩性《りやうせい》を絡《から》み付《つ》ける艷《つや》つぽい空氣《くうき》は、箝束的《けんそくてき》[#ルビの「けんそくてき」はママ]な初期《しよき》に於《おい》てすら、二人《ふたり》の間《あひだ》に起《おこ》り得《う》べき筈《はず》のものではなかつた。御米《およね》は小六《ころく》と差向《さしむかひ》に膳《ぜん》に着《つ》くときの此《この》氣《き》ぶつせいな心持《こゝろもち》が、何時《いつ》になつたら消《き》えるだらうと、心《こゝろ》の中《うち》で私《ひそか》に疑《うた》ぐつた。小六《ころく》が引《ひ》き移《うつ》る迄《まで》は、こんな結果《けつくわ》が出《で》やうとは、丸《まる》で氣《き》が付《つ》かなかつたのだから猶更《なほさら》當惑《たうわく》した。仕方《しかた》がないから成《な》るべく食事中《しよくじちゆう》に話《はなし》をして、責《せ》めて手持無沙汰《てもちぶさた》な隙間《すきま》丈《だけ》でも補《おぎな》はうと力《つと》めた。不幸《ふかう》にして今《いま》の小六《ころく》は、此《この》嫂《あによめ》の態度《たいど》に對《たい》して程《ほど》の好《い》い調子《てうし》を出《だ》す丈《だけ》の餘裕《よゆう》と分別《ふんべつ》を頭《あたま》の中《うち》に發見《はつけん》し得《え》なかつたのである。 「小六《ころく》さん、下宿《げしゆく》は御馳走《ごちそう》があつて」  こんな質問《しつもん》に逢《あ》ふと、小六《ころく》は下宿《げしゆく》から遊《あそ》びに來《き》た時分《じぶん》の樣《やう》に、淡泊《たんぱく》な遠慮《ゑんりよ》のない答《こたへ》をする譯《わけ》に行《ゆ》かなくなつた。已《やむ》を得《え》ず、 「なに左《さ》うでもありません」ぐらゐにして置《お》くと、其《その》語氣《ごき》がからりと澄《す》んでゐないので、御米《およね》の方《はう》では、自分《じぶん》の待遇《たいぐう》が惡《わる》い所爲《せゐ》かと解釋《かいしやく》する事《こと》もあつた。それが又《また》無言《むごん》の間《あひだ》に、小六《ころく》の頭《あたま》に映《うつ》る事《こと》もあつた。  ことに今日《けふ》は頭《あたま》の具合《ぐあひ》が好《よ》くないので、膳《ぜん》に向《むか》つても、御米《およね》は何時《いつ》もの樣《やう》に力《つと》めるのが退儀《たいぎ》であつた。力《つと》めて失敗《しつぱい》するのは猶《なほ》厭《いや》であつた。それで二人《ふたり》とも障子《しやうじ》を張《は》るときよりも言葉《ことば》少《すく》なに食事《しよくじ》を濟《す》ました。  午後《ごご》は手《て》が慣《な》れた所爲《せゐ》か、朝《あさ》に比《くら》べると仕事《しごと》が少《すこ》し果取《はかど》つた。然《しか》し二人《ふたり》の氣分《きぶん》は飯前《めしまへ》よりも却《かへ》つて縁遠《えんどほ》くなつた。ことに寒《さむ》い天氣《てんき》が二人《ふたり》の頭《あたま》に應《こた》へた。起《お》きた時《とき》は、日《ひ》を載《の》せた空《そら》が次第《しだい》に遠退《とほの》いて行《ゆ》くかと思《おもは》れる程《ほど》に、好《よ》く晴《は》れてゐたが、それが眞蒼《まつさを》に色《いろ》づく頃《ころ》から急《きふ》に雲《くも》が出《で》て、暗《くら》い中《なか》で粉雪《こゆき》でも釀《かも》してゐる樣《やう》に、日《ひ》の目《め》を密封《みつぷう》した。二人《ふたり》は交《かは》る/″\火鉢《ひばち》に手《て》を翳《かざ》した。 「兄《にい》さんは來年《らいねん》になると月給《げつきふ》が上《あ》がるんでせう」  不圖《ふと》小六《ころく》が斯《こ》んな問《とひ》を御米《およね》に掛《か》けた。御米《およね》は其時《そのとき》疊《たゝみ》の上《うへ》の紙片《かみぎれ》を取《と》つて、糊《のり》に汚《よご》れた手《て》を拭《ふ》いてゐたが、全《まつた》く思《おもひ》も寄《よ》らないといふ顏《かほ》をした。 「何《ど》うして」 「でも新聞《しんぶん》で見《み》ると、來年《らいねん》から一般《いつぱん》に官吏《くわんり》の増俸《ぞうほう》があると云《い》ふ話《はなし》ぢやありませんか」  御米《およね》はそんな消息《せうそく》を全《まつた》く知《し》らなかつた。小六《ころく》から詳《くは》しい説明《せつめい》を聞《き》いて、始《はじ》めて成程《なるほど》と首肯《うなづ》いた。 「全《まつた》くね。是《これ》ぢや誰《だれ》だつて、遣《や》つて行《い》けないわ。御肴《おさかな》の切身《きりみ》なんか、私《わたし》が東京《とうきやう》へ來《き》てからでも、もう倍《ばい》になつてるんですもの」と云《い》つた。肴《さかな》の切身《きりみ》の値段《ねだん》になると小六《ころく》の方《はう》が全《まつた》く無識《むしき》であつた。御米《およね》に注意《ちゆうい》されて始《はじ》めてそれ程《ほど》無暗《むやみ》に高《たか》くなるものかと思《おも》つた。  小六《ころく》に一寸《ちよつと》した好奇心《かうきしん》の出《で》たため、二人《ふたり》の會話《くわいわ》は存外《ぞんぐわい》素直《すなほ》に流《なが》れて行《い》つた。御米《およね》は裏《うら》の家主《やぬし》の十八九|時代《じだい》に物價《ぶつか》の大變《たいへん》安《やす》かつた話《はなし》を、此間《このあひだ》宗助《そうすけ》から聞《き》いた通《とほ》り繰《く》り返《かへ》した。其《その》時分《じぶん》は蕎麥《そば》を食《く》ふにしても、盛《もり》かけが八|厘《りん》、種《たね》ものが二|錢《せん》五|厘《りん》であつた。牛肉《ぎうにく》は普通《なみ》が一人前《いちにんまへ》四|錢《せん》でロースは六|錢《せん》であつた。寄席《よせ》は三|錢《せん》か四|錢《せん》であつた。學生《がくせい》は月《つき》に七|圓《ゑん》位《ぐらゐ》國《くに》から貰《もら》へば中《ちゆう》の部《ぶ》であつた。十|圓《ゑん》も取《と》ると既《すで》に贅澤《ぜいたく》と思《おも》はれた。 「小六《ころく》さんも、其《その》時分《じぶん》だと譯《わけ》なく大學《だいがく》が卒業《そつげふ》出來《でき》たのにね」と御米《およね》が云《い》つた。 「兄《にい》さんも其《その》時分《じぶん》だと大變《たいへん》暮《くら》し易《やす》い譯《わけ》ですね」と小六《ころく》が答《こた》へた。  座敷《ざしき》の張易《はりかへ》が濟《す》んだときにはもう三|時過《じすぎ》になつた。さう斯《か》うしてゐるうちには、宗助《そうすけ》も歸《かへ》つて來《く》るし、晩《ばん》の支度《したく》も始《はじ》めなくつてはならないので、二人《ふたり》はこれを一段落《いちだんらく》として、糊《のり》や髮剃《かみそり》を片《かたづ》けた。小六《ころく》は大《おほ》きな伸《のび》を一《ひと》つして、握《にぎ》り拳《こぶし》で自分《じぶん》の頭《あたま》をこん/\と叩《たゝ》いた。 「何《ど》うも御苦勞《ごくらう》さま。疲《つか》れたでせう」と御米《およね》は小六《ころく》を勞《いた》はつた。小六《ころく》は夫《それ》よりも口淋《くちさむ》しい思《おもひ》がした。此間《このあひだ》文庫《ぶんこ》を屆《とゞ》けてやつた禮《れい》に、坂井《さかゐ》から呉《く》れたと云《い》ふ菓子《くわし》を、戸棚《とだな》から出《だ》して貰《もら》つて食《た》べた。御米《およね》は御茶《おちや》を入《い》れた。 「坂井《さかゐ》と云《い》ふ人《ひと》は大學《だいがく》出《で》なんですか」 「えゝ、矢張《やつぱり》左樣《さう》なんですつて」  小六《ころく》は茶《ちや》を飮《の》んで烟草《たばこ》を吹《ふ》いた。やがて、 「兄《にい》さんは増俸《ぞうほう》の事《こと》をまだ貴方《あなた》に話《はな》さないんですか」と聞《き》いた。 「いゝえ、些《ちつ》とも」と御米《およね》が答《こた》へた。 「兄《にい》さん見《み》た樣《やう》になれたら好《い》いだらうな。不平《ふへい》も何《なに》もなくつて」  御米《およね》は特別《とくべつ》の挨拶《あいさつ》もしなかつた。小六《ころく》は其儘《そのまゝ》起《た》つて六|疊《でふ》へ這入《はい》つたが、やがて火《ひ》が消《き》えたと云《い》つて、火鉢《ひばち》を抱《かゝ》えて又《また》出《で》て來《き》た。彼《かれ》は兄《あに》の家《いへ》に厄介《やくかい》になりながら、もう少《すこ》し立《た》てば都合《つがふ》が付《つ》くだらうと慰《なぐさ》めた安之助《やすのすけ》の言葉《ことば》を信《しん》じて、學校《がくかう》は表向《おもてむき》休學《きうがく》の體《てい》にして一時《いちじ》の始末《しまつ》をつけたのである。 [#8字下げ]九[#「九」は中見出し]  裏《うら》の坂井《さかゐ》と宗助《そうすけ》とは文庫《ぶんこ》が縁《えん》になつて思《おも》はぬ關係《くわんけい》が付《つ》いた。夫迄《それまで》は月《つき》に一度《いちど》此方《こちら》から清《きよ》に家賃《やちん》を持《も》たして遣《や》ると、向《むかふ》から其《その》受取《うけとり》を寄《よ》こす丈《だけ》の交渉《かうせふ》に過《す》ぎなかつたのだから、崖《がけ》の上《うへ》に西洋人《せいやうじん》が住《す》んでゐると同樣《どうやう》で、隣人《りんじん》としての親《したし》みは、丸《まる》で存在《そんざい》してゐなかつたのである。  宗助《そうすけ》が文庫《ぶんこ》を屆《とゞ》けた日《ひ》の午後《ごご》に、坂井《さかゐ》の云《い》つた通《とほ》り、刑事《けいじ》が宗助《そうすけ》の家《いへ》の裏手《うらて》から崖下《がけした》を檢《しら》べに來《き》たが、其時《そのとき》坂井《さかゐ》も一所《いつしよ》だつたので、御米《およね》は始《はじ》めて噂《うはさ》に聞《き》いた家主《やぬし》の顏《かほ》を見《み》た。髭《ひげ》のないと思《おも》つたのに、髭《ひげ》を生《は》やしてゐるのと、自分《じぶん》なぞに對《たい》しても、存外《ぞんぐわい》丁寧《ていねい》な言葉《ことば》を使《つか》ふのが、御米《およね》には少《すこ》し案外《あんぐわい》であつた。 「貴方《あなた》、坂井《さかゐ》さんは矢《や》つ張《ぱ》り髭《ひげ》を生《は》やしてゐてよ」と宗助《そうすけ》が歸《かへ》つたとき御米《およね》はわざ/\注意《ちゆうい》した。  それから二日《ふつか》ばかりして、坂井《さかゐ》の名刺《めいし》を添《そ》へた立派《りつぱ》な菓子折《くわしをり》を持《も》つて、下女《げぢよ》が禮《れい》に來《き》たが、先達《せんだつ》ては色々《いろ/\》御世話《おせわ》になりまして、難有《ありがた》う存《ぞん》じます、何《いづ》れ主人《しゆじん》が自身《じしん》に伺《うかゞ》ふ筈《はず》で御座《ござ》いますがと云《い》ひ置《お》いて、歸《かへ》つて行《い》つた。  其晩《そのばん》宗助《そうすけ》は到來《たうらい》の菓子折《くわしをり》の葢《ふた》を開《あ》けて、唐饅頭《たうまんぢゆう》を頬張《ほゝば》りながら、 「斯《こ》んなものを呉《く》れる所《ところ》をもつて見《み》ると、夫程《それほど》吝《けち》でもないやうだね。他《ひと》の家《うち》の子《こ》をブランコへ乘《の》せて遣《や》らないつて云《い》ふのは嘘《うそ》だらう」と云《い》つた。御米《およね》も、 「屹度《きつと》嘘《うそ》よ」と坂井《さかゐ》を辯護《べんご》した。  夫婦《ふうふ》と坂井《さかゐ》とは泥棒《どろぼう》の這入《はい》らない前《まへ》より、是丈《これだけ》親《した》しみの度《ど》が増《ま》した樣《やう》なものゝ、それ以上《いじやう》に接近《せつきん》しやうと云《い》ふ念《ねん》は、宗助《そうすけ》の頭《あたま》にも御米《およね》の胸《むね》にも宿《やど》らなかつた。利害《りがい》の打算《ださん》から云《い》へば無論《むろん》の事《こと》、單《たん》に隣人《りんじん》の交際《かうさい》とか情誼《じやうぎ》とか云《い》ふ點《てん》から見《み》ても、夫婦《ふうふ》はこれよりも前進《ぜんしん》する勇氣《ゆうき》を有《も》たなかつたのである。もし自然《しぜん》が此儘《このまゝ》に無爲《むゐ》の月日《つきひ》を驅《か》つたなら、久《ひさ》しからぬうちに、坂井《さかゐ》は昔《むかし》の坂井《さかゐ》になり、宗助《そうすけ》は元《もと》の宗助《そうすけ》になつて、崖《がけ》の上《うへ》と崖《がけ》の下《した》に互《たがひ》の家《いへ》が懸《か》け隔《へだゝ》る如《ごと》く、互《たがひ》の心《こゝろ》も離《はな》れ離《ばな》れになつたに違《ちがひ》なかつた。  所《ところ》がそれから又《また》二日《ふつか》置《お》いて、三日目《みつかめ》の暮《く》れ方《がた》に、獺《かはうそ》の襟《えり》の着《つ》いた暖《あたゝ》かさうな外套《マント》を着《き》て、突然《とつぜん》坂井《さかゐ》が宗助《そうすけ》の所《ところ》へ遣《や》つて來《き》た。夜間《やかん》客《きやく》に襲《おそ》はれ付《つ》けない夫婦《ふうふ》は、輕微《けいび》の狼狽《らうばい》を感《かん》じた位《くらゐ》驚《おど》ろかされたが、座敷《ざしき》へ上《あ》げて話《はな》して見《み》ると、坂井《さかゐ》は丁寧《ていねい》に先日《せんじつ》の禮《れい》を述《の》べた後《のち》、 「御蔭《おかげ》で取《と》られた品物《しなもの》が又《また》戻《もど》りましたよ」と云《い》ひながら、白縮緬《しろちりめん》の兵兒帶《へこおび》に卷《ま》き付《つ》けた金鎖《きんぐさり》を外《はづ》して、兩葢《りやうぶた》の金時計《きんどけい》を出《だ》して見《み》せた。  規則《きそく》だから警察《けいさつ》へ屆《とゞ》ける事《こと》は屆《とゞ》けたが、實《じつ》は大分《だいぶ》古《ふる》い時計《とけい》なので、取《と》られても夫程《それほど》惜《をし》くもない位《ぐらゐ》に諦《あき》らめてゐたら、昨日《きのふ》になつて、突然《とつぜん》差出人《さしだしにん》の不明《ふめい》な小包《こづゝみ》が着《つ》いて、其中《そのなか》にちやんと自分《じぶん》の失《な》くしたのが包《くる》んであつたんだと云《い》ふ。 「泥棒《どろぼう》も持《も》ち扱《あつ》かつたんでせう。それとも餘《あま》り金《かね》にならないんで、已《やむ》を得《え》ず返《かへ》して呉《く》れる氣《き》になつたんですかね。何《なに》しろ珍《めづ》らしい事《こと》で」と坂井《さかゐ》は笑《わら》つてゐた。それから、 「何《なに》私《わたくし》から云《い》ふと、實《じつ》はあの文庫《ぶんこ》の方《はう》が寧《むし》ろ大切《たいせつ》な品《しな》でしてね。祖母《ばゞ》が昔《むか》し御殿《ごてん》へ勤《つと》めてゐた時分《じぶん》、戴《いたゞ》いたんだとか云《い》つて、まあ記念《かたみ》の樣《やう》なものですから」と云《い》ふ樣《やう》な事《こと》も説明《せつめい》して聞《き》かした。  其晩《そのばん》坂井《さかゐ》はそんな話《はなし》を約《やく》二|時間《じかん》もして歸《かへ》つて行《い》つたが、相手《あひて》になつた宗助《そうすけ》も、茶《ちや》の間《ま》で聞《き》いてゐた御米《およね》も、大變《たいへん》談話《だんわ》の材料《ざいれう》に富《と》んだ人《ひと》だと思《おも》はぬ譯《わけ》に行《ゆ》かなかつた。後《あと》で、 「世間《せけん》の廣《ひろ》い方《かた》ね」と御米《およね》が評《ひやう》した。 「閑《ひま》だからさ」と宗助《そうすけ》が解釋《かいしやく》した。  次《つぎ》の日《ひ》宗助《そうすけ》が役所《やくしよ》の歸《かへ》りがけに、電車《でんしや》を降《お》りて横町《よこちやう》の道具屋《だうぐや》の前《まへ》迄《まで》來《く》ると、例《れい》の獺《かはうそ》の襟《えり》を着《つ》けた坂井《さかゐ》の外套《ぐわいたう》が一寸《ちよつと》眼《め》に着《つ》いた。横顏《よこがほ》を徃來《わうらい》の方《はう》へ向《む》けて、主人《しゆじん》を相手《あひて》に何《なに》か云《い》つてゐる。主人《しゆじん》は大《おほ》きな眼鏡《めがね》を掛《か》けた儘《まゝ》、下《した》から坂井《さかゐ》の顏《かほ》を見上《みあ》げてゐる。宗助《そうすけ》は挨拶《あいさつ》をすべき折《をり》でもないと思《おも》つたから、其儘《そのまゝ》行《ゆ》き過《す》ぎやうとして、店《みせ》の正面《しやうめん》迄《まで》來《く》ると、坂井《さかゐ》の眼《め》が徃來《わうらい》へ向《む》いた。 「やあ昨夜《さくや》は。今《いま》御歸《おかへ》りですか」と氣輕《きがる》に聲《こゑ》を掛《か》けられたので、宗助《そうすけ》も愛想《あいそ》なく通《とほ》り過《す》ぎる譯《わけ》にも行《ゆ》かなくなつて、一寸《ちよつと》歩調《ほてう》を緩《ゆる》めながら、帽子《ばうし》を取《と》つた。すると坂井《さかゐ》は、用《よう》はもう濟《す》んだと云《い》ふ風《ふう》をして、店《みせ》から出《で》て來《き》た。 「何《なに》か御求《おもと》めですか」と宗助《そうすけ》が聞《き》くと、 「いえ、何《なに》」と答《こた》へた儘《まゝ》、宗助《そうすけ》と並《なら》んで家《うち》の方《はう》へ歩《ある》き出《だ》した。六七|間《けん》來《き》たとき、 「あの爺《ぢゞ》い、中々《なか/\》猾《ずる》い奴《やつ》ですよ。華山《くわざん》の[#「華山の」はママ]僞物《にせもの》を持《も》つて來《き》て押付《おつつけ》やうとしやがるから、今《いま》叱《しか》り付《つけ》て遣《や》つたんです」と云《い》い出《だ》した。宗助《そうすけ》は始《はじ》めて、此《この》坂井《さかゐ》も餘裕《よゆう》ある人《ひと》に共通《きようつう》な好事《かうず》を道樂《だうらく》にしてゐるのだと心《こゝろ》付《づ》いた。さうして此間《このあひだ》賣《う》り拂《はら》つた抱一《はういつ》の屏風《びやうぶ》も、最初《さいしよ》から斯《か》う云《い》ふ人《ひと》に見《み》せたら、好《よ》かつたらうにと、腹《はら》の中《なか》で考《かんが》へた。 「あれは書畫《しよぐわ》には明《あか》るい男《をとこ》なんですか」 「なに書畫《しよぐわ》どころか、丸《まる》で何《なに》も分《わか》らない奴《やつ》です。あの店《みせ》の樣子《やうす》を見《み》ても分《わか》るぢやありませんか。骨董《こつとう》らしいものは一《ひと》つも並《なら》んでゐやしない。もとが紙屑屋《かみくづや》から出世《しゆつせ》してあれ丈《だけ》になつたんですからね」  坂井《さかゐ》は道具屋《だうぐや》の素性《すじやう》を能《よ》く知《し》つてゐた。出入《でいり》の八百屋《やほや》の阿爺《おやぢ》の話《はなし》によると、坂井《さかゐ》の家《いへ》は舊幕《きうばく》の頃《ころ》何《なん》とかの守《かみ》と名乘《なの》つたもので、此《この》界隈《かいわい》では一番《いちばん》古《ふる》い門閥家《もんばつか》なのださうである。瓦解《ぐわかい》の際《さい》、駿府《すんぷ》へ引《ひ》き上《あ》げなかつたんだとか、或《あるひ》は引《ひ》き上《あ》げて又《また》出《で》て來《き》たんだとか云《い》ふ事《こと》も耳《みゝ》にした樣《やう》であるが、それは判然《はつきり》宗助《そうすけ》の頭《あたま》に殘《のこ》つてゐなかつた。 「小《ちひ》さい内《うち》から惡戲《いたづら》ものでね。あいつが餓鬼大將《がきだいしやう》になつて能《よ》く喧譁《けんくわ》をしに行《い》つた事《こと》がありますよ」と坂井《さかゐ》は御互《おたがひ》の子供《こども》の時《とき》の事《こと》迄《まで》一口《ひとくち》洩《も》らした。それが又《また》何《ど》うして華山《くわざん》の[#「華山の」はママ]贋物《にせもの》を賣《う》り込《こ》まうと巧《たく》んだのかと聞《き》くと、坂井《さかゐ》は笑《わら》つて、斯《か》う説明《せつめい》した。―― 「なに親父《おやぢ》の代《だい》から贔屓《ひいき》にして遣《や》つてるものですから、時々《とき/″\》何《なん》だ蚊《か》だつて持《も》つて來《く》るんです。所《ところ》が眼《め》も利《き》かない癖《くせ》に、只《たゞ》慾《よく》ばりたがつてね、まことに取扱《とりあつか》ひ惡《にく》い代物《しろもの》です。それについ此間《このあひだ》抱一《はういつ》の屏風《びやうぶ》を買《か》つて貰《もら》つて、味《あぢ》を占《し》めたんでね」  宗助《そうすけ》は驚《おど》ろいた。けれども話《はなし》の途中《とちゆう》を遮《さへ》ぎる譯《わけ》に行《ゆ》かなかつたので、默《だま》つてゐた。坂井《さかゐ》は道具屋《だうぐや》がそれ以來《いらい》乘氣《のりき》になつて、自身《じしん》に分《わか》りもしない書畫類《しよぐわるゐ》をしきりに持《も》ち込《こ》んで來《く》る事《こと》やら、大坂《おほさか》出來《でき》の高麗燒《かうらいやき》を本物《ほんもの》だと思《おも》つて、大事《だいじ》に飾《かざ》つて置《お》いた事《こと》やら話《はな》した末《すゑ》、 「まあ臺所《だいどころ》で使《つか》ふ食卓《ちやぶだい》か、たか/″\新《あら》の鐵瓶《てつびん》位《ぐらゐ》しか、彼《あ》んな所《ところ》ぢや買《か》へたもんぢやありません」と云《い》つた。  其内《そのうち》二人《ふたり》は坂《さか》の上《うへ》へ出《で》た。坂井《さかゐ》は其所《そこ》を右《みぎ》へ曲《まが》る、宗助《そうすけ》は其所《そこ》を下《した》へ下《お》りなければならなかつた。宗助《そうすけ》はもう少《すこ》し一所《いつしよ》に歩《ある》いて、屏風《びやうぶ》の事《こと》を聞《き》きたかつたが、わざ/\回《まは》り路《みち》をするのも變《へん》だと心付《こゝろづ》いて、夫《それ》なり分《わか》れた。分《わか》れる時《とき》、 「近《ちか》い中《うち》御邪魔《おじやま》に出《で》ても宣《よ》う御座《ござ》いますか」と聞《き》くと、坂井《さかゐ》は、 「どうぞ」と快《こゝろ》よく答《こた》へた。  其日《そのひ》は風《かぜ》もなく一仕切《ひとしきり》日《ひ》も照《て》つたが、家《うち》にゐると底冷《そこびえ》のする寒《さむ》さに襲《おそ》はれるとか云《い》つて、御米《およね》はわざ/\置炬燵《おきごたつ》に宗助《そうすけ》の着物《きもの》を掛《か》けて、それを座敷《ざしき》の眞中《まんなか》に据《す》ゑて、夫《をつと》の歸《かへ》りを待《ま》ち受《う》けてゐた。  此冬《このふゆ》になつて、晝《ひる》のうち炬燵《こたつ》を拵《こし》らえたのは、其日《そのひ》が始《はじ》めてゞあつた。夜《よる》は疾《と》うから用《もち》ひてゐたが、何時《いつ》も六|疊《でふ》に置《お》く丈《だけ》であつた。 「座敷《ざしき》の眞中《まんなか》にそんなものを据《す》ゑて、今日《けふ》は何《ど》うしたんだい」 「でも、御客《おきやく》も何《なに》もないから可《い》いでせう。だつて六|疊《でふ》の方《はう》は小六《ころく》さんが居《ゐ》て、塞《ふさ》がつてゐるんですもの」  宗助《そうすけ》は始《はじ》めて自分《じぶん》の家《いへ》に小六《ころく》の居《ゐ》る事《こと》に氣《き》が付《つ》いた。襯衣《しやつ》の上《うへ》から暖《あたゝ》かい紡績織《ばうせきおり》を掛《か》けて貰《もら》つて、帶《おび》をぐる/\卷《ま》き付《つ》けたが、 「こゝは寒帶《かんたい》だから炬燵《こたつ》でも置《お》かなくつちや凌《しの》げない」と云《い》つた。小六《ころく》の部屋《へや》になつた六|疊《でふ》は、疊《たゝみ》こそ奇麗《きれい》でないが、南《みなみ》と東《ひがし》が開《あ》いてゐて、家中《うちぢゆう》で一番《いちばん》暖《あたゝ》かい部屋《へや》なのである。  宗助《そうすけ》は御米《およね》の汲《く》んで來《き》た熱《あつ》い茶《ちや》を湯呑《ゆのみ》から二口《ふたくち》程《ほど》飮《の》んで、 「小六《ころく》はゐるのかい」と聞《き》いた。小六《ころく》は固《もと》より居《ゐ》た筈《はず》である。けれども六|疊《でふ》はひつそりして人《ひと》のゐる樣《やう》にも思《おも》はれなかつた。御米《およね》が呼《よ》びに立《た》たうとするのを、用《よう》はないから可《い》いと留《と》めた儘《まゝ》、宗助《そうすけ》は炬燵蒲團《こたつぶとん》の中《なか》へ潛《もぐ》り込《こ》んで、すぐ横《よこ》になつた。一方口《いつぱうぐち》に崖《がけ》を控《ひか》えてゐる座敷《ざしき》には、もう暮方《くれがた》の色《いろ》が萠《きざ》してゐた。宗助《そうすけ》は手枕《てまくら》をして、何《なに》を考《かんが》へるともなく、たゞ此《この》暗《くら》く狹《せま》い景色《けしき》を眺《なが》めてゐた。すると御米《およね》と清《きよ》が臺所《だいどころ》で働《はたら》く音《おと》が、自分《じぶん》に關係《くわんけい》のない隣《となり》の人《ひと》の活動《くわつどう》の如《ごと》くに聞《きこ》えた。そのうち、障子《しやうじ》丈《だけ》がたゞ薄白《うすじろ》く宗助《そうすけ》の眼《め》に映《うつ》る樣《やう》に、部屋《へや》の中《なか》が暮《く》れて來《き》た。彼《かれ》はそれでも凝《じつ》として動《うご》かずにゐた。聲《こゑ》を出《だ》して洋燈《らんぷ》の催促《さいそく》もしなかつた。  彼《かれ》が暗《くら》い所《ところ》から出《で》て、晩食《ばんめし》の膳《ぜん》に着《つ》いた時《とき》は、小六《ころく》も六|疊《でふ》から出《で》て來《き》て、兄《あに》の向《むか》ふに坐《すわ》つた。御米《およね》は忙《いそが》しいので、つい忘《わす》れたと云《い》つて、座敷《ざしき》の戸《と》を締《し》めに立《た》つた。宗助《そうすけ》は弟《おとうと》に夕方《ゆふがた》になつたら、ちと洋燈《らんぷ》を點《つ》けるとか、戸《と》を閉《た》てるとかして、忙《せは》しい姉《あね》の手傳《てつだひ》でもしたら好《よ》からうと注意《ちゆうい》したかつたが、昨今《さくこん》引《ひ》き移《うつ》つた許《ばかり》のものに、氣《き》まづい事《こと》を云《い》ふのも惡《わる》からうと思《おも》つて已《や》めた。  御米《およね》が座敷《ざしき》から歸《かへ》つて來《く》るのを待《ま》つて、兄弟《きやうだい》は始《はじ》めて茶碗《ちやわん》に手《て》を着《つ》けた。其時《そのとき》宗助《そうすけ》は漸《やうや》く今日《けふ》役所《やくしよ》の歸《かへ》りがけに、道具屋《だうぐや》の前《まへ》で坂井《さかゐ》に逢《あ》つた事《こと》と、坂井《さかゐ》があの大《おほ》きな眼鏡《めがね》を掛《か》けてゐる道具屋《だうぐや》から、抱一《はういつ》の屏風《びやうぶ》を買《か》つたと云《い》ふ話《はなし》をした。御米《およね》は、 「まあ」と云《い》つたなり、しばらく宗助《そうすけ》の顏《かほ》を見《み》てゐた。 「ぢや屹度《きつと》あれよ。屹度《きつと》あれに違《ちがひ》ないわね」  小六《ころく》は始《はじ》めのうち何《なん》にも口《くち》を出《だ》さなかつたが、段々《だん/\》兄夫婦《あにふうふ》の話《はなし》を聞《き》いてゐるうちに、略《ほゞ》關係《くわんけい》が明暸《めいれう》になつたので、 「全體《ぜんたい》幾何《いくら》で賣《う》つたのです」と聞《き》いた。御米《およね》は返事《へんじ》をする前《まへ》に一寸《ちよつと》夫《をつと》の顏《かほ》を見《み》た。  食事《しよくじ》が終《をは》ると、小六《ころく》はぢきに六|疊《でふ》へ這入《はい》つた。宗助《そうすけ》は又《また》炬燵《こたつ》へ歸《かへ》つた。しばらくして御米《およね》も足《あし》を温《ぬく》めに來《き》た。さうして次《つぎ》の土曜《どえう》か日曜《にちえう》には坂井《さかゐ》へ行《い》つて、一《ひと》つ屏風《びやうぶ》を見《み》て來《き》たら可《い》いだらうと云《い》ふ樣《やう》な事《こと》を話《はな》し合《あ》つた。  次《つぎ》の日曜《にちえう》になると、宗助《そうすけ》は例《れい》の通《とほ》り一|週《しう》に一|返《ぺん》の樂寐《らくね》を貪《むさ》ぼつたため、午前《ひるまへ》半日《はんにち》をとう/\空《くう》に潰《つぶ》して仕舞《しま》つた。御米《およね》は又《また》頭《あたま》が重《おも》いとか云《い》つて、火鉢《ひばち》の縁《ふち》に倚《よ》りかゝつて、何《なに》をするのも懶《ものう》さうに見《み》えた。斯《こ》んな時《とき》に六|疊《でふ》が空《あ》いてゐれば、朝《あさ》からでも引込《ひつこ》む場所《ばしよ》があるのにと思《おも》ふと、宗助《そうすけ》は小六《ころく》に六|疊《でふ》を宛《あ》てがつた事《こと》が、間接《かんせつ》に御米《およね》の避難場《ひなんば》を取《と》り上《あ》げたと同《おな》じ結果《けつくわ》に陷《おちい》るので、ことに濟《す》まない樣《やう》な氣《き》がした。  心持《こゝろもち》が惡《わる》ければ、座敷《ざしき》へ床《とこ》を敷《し》いて寐《ね》たら好《よ》からうと注意《ちゆうい》しても、御米《およね》は遠慮《ゑんりよ》して容易《ようい》に應《おう》じなかつた。それでは又《また》炬燵《こたつ》でも拵《こしら》えたら何《ど》うだ、自分《じぶん》も當《あた》るからと云《い》つて、とう/\櫓《やぐら》と掛蒲團《かけぶとん》を清《きよ》に云《い》ひ付《つ》けて、座敷《ざしき》へ運《はこ》ばした。  小六《ころく》は宗助《そうすけ》が起《お》きる少《すこ》し前《まへ》に、何處《どこ》かへ出《で》て行《い》つて、今朝《けさ》は顏《かほ》さへ見《み》せなかつた。宗助《そうすけ》は御米《およね》に向《むか》つて別段《べつだん》其《その》行先《ゆくさき》を聞《き》き糺《たゞ》しもしなかつた。此頃《このごろ》では小六《ころく》に關係《くわんけい》した事《こと》を云《い》ひ出《だ》して、御米《およね》に其《その》返事《へんじ》をさせるのが氣《き》の毒《どく》になつて來《き》た。御米《およね》の方《はう》から、進《すゝ》んで弟《おとうと》の讒訴《ざんそ》でもする樣《やう》だと、叱《しか》るにしろ、慰《なぐ》さめるにしろ、却《かへ》つて始末《しまつ》が好《い》いと考《かんが》へる時《とき》もあつた。  午《ひる》になつても御米《およね》は炬燵《こたつ》から出《で》なかつた。宗助《そうすけ》は一層《いつそ》靜《しづ》かに寐《ね》かして置《お》く方《はう》が身體《からだ》のために可《よ》からうと思《おも》つたので、そつと臺所《だいどころ》へ出《で》て、清《きよ》に一寸《ちよつと》上《うへ》の坂井《さかゐ》迄《まで》行《い》つてくるからと告《つ》げて、不斷着《ふだんぎ》の上《うへ》へ、袂《たもと》の出《で》る短《みじか》いインヷネスを纏《まと》つて表《おもて》へ出《で》た。  今迄《いままで》陰氣《いんき》な室《へや》にゐた所爲《せゐ》か、通《とほり》へ來《く》ると急《きふ》にからりと氣《き》が晴《は》れた。肌《はだ》の筋肉《きんにく》が寒《さむ》い風《かぜ》に抵抗《ていかう》して、一時《いちじ》に緊縮《きんしゆく》する樣《やう》な冬《ふゆ》の心持《こゝろもち》の鋭《する》どく出《で》るうちに、ある快感《くわいかん》を覺《おぼ》えたので、宗助《そうすけ》は御米《およね》もあゝ家《うち》にばかり置《お》いては善《よ》くない、氣候《きこう》が好《よ》くなつたら、ちと戸外《こぐわい》の空氣《くうき》を呼吸《こきふ》させる樣《やう》にしてやらなくては毒《どく》だと思《おも》ひながら歩《ある》いた。  坂井《さかゐ》の家《うち》の門《もん》を入《はひ》つたら、玄關《げんくわん》と勝手口《かつてぐち》の仕切《しきり》になつてゐる生垣《いけがき》の目《め》に、冬《ふゆ》に似合《にあ》はないぱつとした赤《あか》いものが見《み》えた。傍《そば》へ寄《よ》つてわざ/\檢《しら》べると、それは人形《にんぎやう》に掛《か》ける小《ちひ》さい夜具《やぐ》であつた。細《ほそ》い竹《たけ》を袖《そで》に通《とほ》して、落《お》ちない樣《やう》に、扇骨木《かなめ》の枝《えだ》に寄《よ》せ掛《か》けた手際《てぎは》が、如何《いか》にも女《をんな》の子《こ》の所作《しよさ》らしく殊勝《しゆしよう》に思《おも》はれた。かう云《い》ふ惡戯《いたづら》をする年頃《としごろ》の娘《むすめ》は固《もと》よりの事《こと》、子供《こども》と云《い》ふ子供《こども》を育《そだ》て上《あ》げた經驗《けいけん》のない宗助《そうすけ》は、此《この》小《ちひ》さい赤《あか》い夜具《やぐ》の尋常《じんじやう》に日《ひ》に干《ほ》してある有樣《ありさま》をしばらく立《た》つて眺《なが》めてゐた。さうして二十|年《ねん》も昔《むかし》に父母《ふぼ》が、死《し》んだ妹《いもと》の爲《ため》に飾《かざ》つた、赤《あか》い雛段《ひなだん》と五人囃《ごにんばやし》と、模樣《もやう》の美《うつ》くしい干菓子《ひぐわし》と、それから甘《あま》い樣《やう》で辛《から》い白酒《しろざけ》を思《おも》ひ出《だ》した。  坂井《さかゐ》の主人《しゆじん》は在宅《ざいたく》ではあつたけれども、食事中《しよくじちゆう》だと云《い》ふので、しばらく待《ま》たせられた。宗助《そうすけ》は座《ざ》に着《つ》くや否《いな》や、隣《となり》の室《へや》で小《ちひ》さい夜具《やぐ》を干《ほ》した人達《ひとたち》の騷《さわ》ぐ聲《こゑ》を耳《みゝ》にした。下女《げぢよ》が茶《ちや》を運《はこ》ぶために襖《ふすま》を開《あ》けると、襖《ふすま》の影《かげ》から大《おほ》きな眼《め》が四《よつ》つ程《ほど》既《すで》に宗助《そうすけ》を覗《のぞ》いてゐた。火鉢《ひばち》を持《も》つて出《で》ると、其後《そのあと》から又《また》違《ちが》つた顏《かほ》が見《み》えた。始《はじ》めての所爲《せゐ》か、襖《ふすま》の開閉《あけたて》の度《たび》に出《で》る顏《かほ》が悉《こと/″\》く違《ちが》つてゐて、子供《こども》の數《かず》が何人《なんにん》あるか分《わか》らない樣《やう》に思《おも》はれた。漸《やうや》く下女《げぢよ》が退《さ》がりきりに退《さ》がると、今度《こんど》は誰《だれ》だか唐紙《からかみ》を一寸《いつすん》程《ほど》細目《ほそめ》に開《あ》けて、黒《くろ》い光《ひか》る眼丈《めだけ》を其間《そのあひだ》から出《だ》した。宗助《そうすけ》も面白《おもしろ》くなつて、默《だま》つて手招《てまね》ぎをして見《み》た。すると唐紙《からかみ》をぴたりと閉《た》てゝ、向《むか》ふ側《がは》で三四人《さんよにん》が聲《こゑ》を合《あは》して笑《わら》ひ出《だ》した。  やがて一人《ひとり》の女《をんな》の子《こ》が、 「よう、御姉樣《おねえさま》又《また》何時《いつ》もの樣《やう》に叔母《をば》さんごつこ爲《し》ませうよ」と云《い》ひ出《だ》した。すると姉《あね》らしいのが、 「えゝ、今日《けふ》は西洋《せいやう》の叔母《をば》さんごつこよ。東作《とうさく》さんは御父《おとう》さまだからパパで、雪子《ゆきこ》さんは御母《おかあ》さまだからママつて云《い》ふのよ。可《よ》くつて」と説明《せつめい》した。其時《そのとき》又《また》別《べつ》の聲《こゑ》で、 「可笑《をか》しいわね。ママだつて」と云《い》つて嬉《うれ》しさうに笑《わら》つたものがあつた。 「私《わたし》夫《それ》でも何時《いつ》も御祖母《おばゞ》さまなのよ。御祖母《おばゞ》さまの西洋《せいやう》の名《な》がなくつちや不可《いけ》ないわねえ。御祖母《おばゞ》さまは何《なん》て云《い》ふの」と聞《き》いたものもあつた。 「御祖母《おばゞ》さまは矢《や》つ張《ぱ》りバヾで可《い》いでせう」と姉《あね》が又《また》説明《せつめい》した。  夫《それ》から當分《たうぶん》の間《あひだ》は、御免《ごめん》下《くだ》さいましだの、何方《どちら》から入《い》らつしやいましたのと盛《さかん》に挨拶《あいさつ》の言葉《ことば》が交換《かうくわん》されてゐた。其間《そのあひだ》にはちりん/\と云《い》ふ電話《でんわ》の假聲《こわいろ》も交《まじ》つた。凡《すべ》てが宗助《そうすけ》には陽氣《やうき》で珍《めづ》らしく聞《きこ》えた。  其所《そこ》へ奧《おく》の方《はう》から足音《あしおと》がして、主人《しゆじん》が此方《こつち》へ出《で》て來《き》たらしかつたが、次《つぎ》の間《ま》へ入《はひ》るや否《いな》や、 「さあ、御前達《おまへたち》は此所《こゝ》で騷《さわ》ぐんぢやない。彼方《あつち》へ行《い》つて御出《おいで》。御客《おきやく》さまだから」と制《せい》した。其時《そのとき》、誰《だれ》だかすぐに、 「厭《いや》だよ。御父《おと》つちやんべい。大《おほ》きい御馬《おむま》買《か》つて呉《く》れなくつちや、彼方《あつち》へ行《い》かないよ」と答《こた》へた。聲《こゑ》は小《ちひ》さい男《をとこ》の子《こ》の聲《こゑ》であつた。年《とし》が行《い》かない爲《ため》か、舌《した》が能《よ》く回《まは》らないので、抗辯《かうべん》のしやうが如何《いか》にも億劫《おくくふ》で手間《てま》が掛《か》かつた。宗助《そうすけ》は其所《そこ》を特《とく》に面白《おもしろ》く思《おも》つた。  主人《しゆじん》が席《せき》に着《つ》いて、長《なが》い間《あひだ》待《ま》たした失禮《しつれい》を詫《わ》びてゐる間《ま》に、子供《こども》は遠《とほ》くへ行《い》つて仕舞《しま》つた。 「大變《たいへん》御賑《おにぎ》やかで結構《けつこう》です」と宗助《そうすけ》が今《いま》自分《じぶん》の感《かん》じた通《とほり》を述《の》べると、主人《しゆじん》はそれを愛嬌《あいけう》と受取《うけと》つたものと見《み》えて、 「いや御覽《ごらん》の如《ごと》く亂雜《らんざつ》な有樣《ありさま》で」と言譯《いひわけ》らしい返事《へんじ》をしたが、それを緒《いとくち》に、子供《こども》の世話《せわ》の燒《や》けて、夥《おびた》だしく手《て》の掛《かゝ》る事《こと》などを色々《いろ/\》宗助《そうすけ》に話《はな》して聞《き》かした。其中《そのうち》で綺麗《きれい》な支那製《しなせい》の花籃《はなかご》のなかへ炭團《たどん》を一杯《いつぱい》盛《も》つて床《とこ》の間《ま》に飾《かざ》つたと云《い》ふ滑稽《こつけい》と、主人《しゆじん》の編上《あみあげ》の靴《くつ》のなかへ水《みづ》を汲《く》み込《こ》んで、金魚《きんぎよ》を放《はな》したと云《い》ふ惡戲《いたずら》が、宗助《そうすけ》には大變《たいへん》耳《みゝ》新《あたら》しかつた。然《しか》し、女《をんな》の子《こ》が多《おほ》いので服裝《ふくさう》に物《もの》が要《い》るとか、二週間《にしうかん》も旅行《りよかう》して歸《かへ》つてくると、急《きふ》にみんなの脊《せい》が一寸《いつすん》づゝも伸《の》びてゐるので、何《なん》だか後《うしろ》から追《お》ひ付《つ》かれる樣《やう》な心持《こゝろもち》がするとか、もう少《すこ》しすると、嫁入《よめいり》の支度《したく》で忙殺《ばうさつ》されるのみならず、屹度《きつと》貧殺《ひんさつ》されるだらうとか云《い》ふ話《はなし》になると、子供《こども》のない宗助《そうすけ》の耳《みゝ》には夫程《それほど》の同情《どうじやう》も起《おこ》し得《え》なかつた。却《かへ》つて主人《しゆじん》が口《くち》で子供《こども》を煩冗《うるさ》がる割《わり》に、少《すこ》しもそれを苦《く》にする樣子《やうす》の顏《かほ》にも態度《たいど》にも見《み》えないのを羨《うらや》ましく思《おも》つた。  好《い》い加減《かげん》な頃《ころ》を見計《みはか》つて宗助《そうすけ》は、先達《せんだつ》て話《はなし》のあつた屏風《びやうぶ》を一寸《ちよつと》見《み》せて貰《もら》へまいかと、主人《しゆじん》に申《まを》し出《で》た。主人《しゆじん》は早速《さつそく》引《ひ》き受《う》けて、ぱち/\と手《て》を鳴《な》らして、召使《めしつかひ》を呼《よ》んだが、藏《くら》の中《なか》に仕舞《しま》つてあるのを取《と》り出《だ》して來《く》る樣《やう》に命《めい》じた。さうして宗助《そうすけ》の方《はう》を向《む》いて、 「つい二三日前《にさんちまへ》迄《まで》其所《そこ》へ立《た》てゝ置《お》いたのですが、例《れい》の子供《こども》が面白《おもしろ》半分《はんぶん》にわざと屏風《びやうぶ》の影《かげ》へ集《あつ》まつて、色々《いろ/\》な惡戲《いたづら》をするものですから、傷《きず》でも付《つ》けられちや大變《たいへん》だと思《おも》つて仕舞《しま》ひ込《こ》んでしまひました」と云《い》つた。  宗助《そうすけ》は主人《しゆじん》の此《この》言葉《ことば》を聞《き》いた時《とき》、今更《いまさら》手數《てかず》をかけて、屏風《びやうぶ》を見《み》せて貰《もら》ふのが、氣《き》の毒《どく》にもなり、又《また》面倒《めんだう》にもなつた。實《じつ》を云《い》ふと彼《かれ》の好奇心《かうきしん》は、夫程《それほど》強《つよ》くなかつたのである。成程《なるほど》一旦《いつたん》他《ひと》の所有《しよいう》に歸《き》したものは、たとひ元《もと》が自分《じぶん》のであつたにしろ、無《な》かつたにしろ、其所《そこ》を突《つ》き留《と》めた所《ところ》で、實際上《じつさいじやう》には何《なん》の効果《かうくわ》もない話《はなし》に違《ちがひ》なかつた。  けれども、屏風《びやうぶ》は宗助《そうすけ》の申《まを》し出《で》た通《とほ》り、間《ま》もなく奧《おく》から縁傳《えんづた》ひに運《はこ》び出《だ》されて、彼《かれ》の眼《め》の前《まへ》に現《あらは》れた。さうして夫《それ》が豫想通《よさうどほ》りつい此間《このあひだ》迄《まで》自分《じぶん》の座敷《ざしき》に立《た》てゝあつた物《もの》であつた。此《この》事實《じじつ》を發見《はつけん》した時《とき》、宗助《そうすけ》の頭《あたま》には、是《これ》と云《い》つて大《たい》した感動《かんどう》も起《おこ》らなかつた。たゞ自分《じぶん》が今《いま》坐《すわ》つてゐる疊《たゝみ》の色《いろ》や、天井《てんじやう》の柾目《まさめ》や、床《とこ》の置物《おきもの》や、襖《ふすま》の模樣《もやう》などの中《なか》に、此《この》屏風《びやうぶ》を立《た》てて見《み》て、夫《それ》に、召使《めしつかひ》が二人《ふたり》がゝりで、藏《くら》の中《なか》から大事《だいじ》さうに取《と》り出《だ》して來《き》たと云《い》ふ所作《しよさ》を付《つ》け加《くは》へて考《かんが》へると、自分《じぶん》が持《も》つてゐた時《とき》よりは慥《たしか》に十|倍《ばい》以上《いじやう》貴《たつ》とい品《しな》の樣《やう》に眺《なが》められた丈《だけ》であつた。彼《かれ》は即座《そくざ》に云《い》ふ可《べ》き言葉《ことば》を見出《みいだ》し得《え》なかつたので、いたづらに、見慣《みな》れたものゝ上《うへ》に、更《さら》に新《あた》らしくもない眼《め》を据《す》ゑてゐた。  主人《しゆじん》は宗助《そうすけ》を以《もつ》てある程度《ていど》の鑑賞家《かんしやうか》と誤解《ごかい》した。立《た》ちながら屏風《びやうぶ》の縁《ふち》へ手《て》を掛《か》けて、宗助《そうすけ》の面《おもて》と屏風《びやうぶ》の面《おもて》とを比較《ひかく》してゐたが、宗助《そうすけ》が容易《ようい》に批評《ひひやう》を下《くだ》さないので、 「是《これ》は素性《すじやう》の慥《たしか》なものです。出《で》が出《で》ですからね」と云《い》つた。宗助《そうすけ》は、たゞ 「成程《なるほど》」と云《い》つた。  主人《しゆじん》はやがて宗助《そうすけ》の後《うしろ》へ回《まは》つて來《き》て、指《ゆび》で其所《そこ》此所《こゝ》を指《さ》しながら、品評《ひんぴやう》やら説明《せつめい》やらした。其中《そのうち》には、さすが御大名丈《おだいみやうだけ》あつて、好《い》い繪《ゑ》の具《ぐ》を惜氣《をしげ》もなく使《つか》ふのが此《この》畫家《ぐわか》の特色《とくしよく》だから、色《いろ》が如何《いか》にも美事《みごと》であると云《い》ふ樣《やう》な、宗助《そうすけ》には耳《みゝ》新《あた》らしいけれども、普通《ふつう》一般《いつぱん》に知《し》れ渡《わた》つた事《こと》も大分《だいぶ》交《まじ》つてゐた。  宗助《そうすけ》は好《い》い加減《かげん》な頃《ころ》を見計《みはか》らつて、丁寧《ていねい》に禮《れい》を述《の》べて元《もと》の席《せき》に復《ふく》した。主人《しゆじん》も蒲團《ふとん》の上《うへ》に直《なほ》つた。さうして、今度《こんど》は野路《のぢ》や空《そら》云々《うん/\》といふ題句《だいく》やら書體《しよたい》やらに就《つ》いて語《かた》り出《だ》した。宗助《そうすけ》から見《み》ると、主人《しゆじん》は書《しよ》にも俳句《はいく》にも多《おほ》くの興味《きようみ》を有《も》つてゐた。何時《いつ》の間《ま》に是程《これほど》の知識《ちしき》を頭《あたま》の中《なか》へ貯《たくは》へ得《え》らるゝかと思《おも》ふ位《くらゐ》、凡《すべ》てに心得《こゝろえ》のある男《をとこ》らしく思《おも》はれた。宗助《そうすけ》は己《おの》れを耻《は》ぢて、成《な》るべく物數《ものかず》を云《い》はない樣《やう》にして、たゞ向《むか》ふの話《はなし》丈《だけ》に耳《みゝ》を借《か》す事《こと》を力《つと》めた。  主人《しゆじん》は客《きやく》が此《この》方面《はうめん》の興味《きようみ》に乏《とぼ》しい樣子《やうす》を見《み》て、再《ふたゝ》び話《はなし》を畫《ゑ》の方《はう》へ戻《もど》した。碌《ろく》なものはないけれども、望《のぞみ》ならば所藏《しよざう》の畫帖《ぐわでふ》や幅物《ふくもの》を見《み》せても可《い》いと親切《しんせつ》に申《まを》し出《だ》した。宗助《そうすけ》は折角《せつかく》の好意《かうい》を辭退《じたい》しない譯《わけ》に行《い》かなかつた。其代《そのかは》りに、失禮《しつれい》ですがと前置《まへおき》をして、主人《しゆじん》が此《この》屏風《びやうぶ》を手《て》に入《い》れるに就《つい》て、何《ど》れ程《ほど》の金額《きんがく》を拂《はら》つたかを尋《たづ》ねた。 「まあ掘出《ほりだ》し物《もの》ですね。八十|圓《ゑん》で買《か》ひました」と主人《しゆじん》はすぐ答《こた》へた。  宗助《そうすけ》は主人《しゆじん》の前《まへ》に坐《すわ》つて、此《この》屏風《びやうぶ》に關《くわん》する一切《いつさい》の事《こと》を自白《じはく》しやうか、しまいかと思案《しあん》したが、ふと打《う》ち明《あ》けるのも一興《いつきよう》だらうと心付《こゝろづ》いて、とう/\實《じつ》は是々《これ/\》だと、今迄《いままで》の顛末《てんまつ》を詳《くは》しく話《はな》し出《だ》した。主人《しゆじん》は時々《とき/″\》へえ、へえと驚《おど》ろいた樣《やう》な言葉《ことば》を挾《はさ》んで聞《き》いてゐたが、仕舞《しまひ》に、 「ぢや貴方《あなた》は別《べつ》に書畫《しよぐわ》が好《す》きで、見《み》に入《い》らしつた譯《わけ》でもないんですね」と自分《じぶん》の誤解《ごかい》を、さも面白《おもしろ》い經驗《けいけん》でもした樣《やう》に笑《わら》い出《だ》した。同時《どうじ》に、さう云《い》ふ譯《わけ》なら、自分《じぶん》が直《ぢか》に宗助《そうすけ》から相當《さうたう》の値《ね》で讓《ゆづ》つて貰《もら》へば可《よ》かつたに、惜《を》しい事《こと》をしたと云《い》つた。最後《さいご》に横町《よこちやう》の道具屋《だうぐや》をひどく罵《のゝ》しつて、怪《け》しからん奴《やつ》だと云《い》つた。  宗助《そうすけ》と坂井《さかゐ》とは是《これ》から大分《だいぶ》親《した》しくなつた。 [#8字下げ]十[#「十」は中見出し]  佐伯《さへき》の叔母《をば》も安之助《やすのすけ》も其後《そのご》頓《とん》と宗助《そうすけ》の宅《うち》へは見《み》えなかつた。宗助《そうすけ》は固《もと》より麹町《かうぢまち》へ行《ゆ》く餘暇《よか》を有《も》たなかつた。又《また》夫丈《それだけ》の興味《きようみ》もなかつた。親類《しんるゐ》とは云《い》ひながら、別々《べつ/\》の日《ひ》が二人《ふたり》の家《いへ》を照《て》らしてゐた。  たゞ小六《ころく》丈《だけ》が時々《とき/″\》話《はな》しに出掛《でか》ける樣子《やうす》であつたが、是《これ》とても、さう繁々《しげ/\》足《あし》を運《はこ》ぶ譯《わけ》でもないらしかつた。それに彼《かれ》は歸《かへ》つて來《き》て、叔母《をば》の家《いへ》の消息《せうそく》を殆《ほと》んど御米《およね》に語《かた》らないのを常《つね》として居《を》つた。御米《およね》はこれを故意《こい》から出《で》る小六《ころく》の仕打《しうち》かとも疑《うたぐ》つた。然《しか》し自分《じぶん》が佐伯《さへき》に對《たい》して特別《とくべつ》の利害《りがい》を感《かん》じない以上《いじやう》、御米《およね》は叔母《をば》の動靜《どうせい》を耳《みゝ》にしない方《はう》を、却《かへ》つて喜《よろ》こんだ。  それでも時々《とき/″\》は、先方《さき》の樣子《やうす》を、小六《ころく》と兄《あに》の對話《たいわ》から聞《き》き込《こ》む事《こと》もあつた。一|週間《しうかん》程《ほど》前《まへ》に、小六《ころく》は兄《あに》に、安之助《やすのすけ》がまた新發明《しんはつめい》の應用《おうよう》に苦心《くしん》してゐる話《はなし》をした。それは印氣《インキ》の助《たす》けを借《か》らないで、鮮明《せんめい》な印刷物《いんさつぶつ》を拵《こし》らえるとか云《い》ふ、一寸《ちよつと》聞《き》くと頗《すこぶ》る重寶《ちようはう》な器械《きかい》に就《つい》てであつた。話題《わだい》の性質《せいしつ》から云《い》つても、自分《じぶん》とは全《まつた》く利害《りがい》の交渉《かうせふ》のない六《む》づかしい事《こと》なので、御米《およね》は例《れい》の通《とほ》り默《だま》つて口《くち》を出《だ》さずにゐたが、宗助《そうすけ》は男《をとこ》だけに幾分《いくぶん》か好奇心《かうきしん》が動《うご》いたと見《み》えて、何《ど》うして印氣《インキ》を使《つか》はずに印刷《いんさつ》が出來《でき》るか抔《など》と問《と》ひ糺《たゞ》してゐた。  專門上《せんもんじやう》の知識《ちしき》のない小六《ころく》が、精密《せいみつ》な返答《へんたふ》をし得《う》る筈《はず》は無論《むろん》なかつた。彼《かれ》はたゞ安之助《やすのすけ》から聞《き》いた儘《まゝ》を、覺《おぼ》えてゐる限《かぎ》り念《ねん》を入《い》れて説明《せつめい》した。此《この》印刷術《いんさつじゆつ》は近來《きんらい》英國《えいこく》で發明《はつめい》になつたもので、根本的《こんぽんてき》にいふと矢張《やは》り電氣《でんき》の利用《りよう》に過《す》ぎなかつた。電氣《でんき》の一|極《きよく》を活字《くわつじ》と結《むす》び付《つ》けて置《お》いて、他《た》の一|極《きよく》を紙《かみ》に通《つう》じて、其紙《そのかみ》を活字《くわつじ》の上《うへ》へ壓《お》し付《つ》けさへすれば、すぐ出來《でき》るのだと小六《ころく》が云《い》つた。色《いろ》は普通《ふつう》黒《くろ》であるが、手加減《てかげん》次第《しだい》で赤《あか》にも青《あを》にもなるから色刷《いろずり》抔《など》の場合《ばあひ》には、繪《ゑ》の具《ぐ》を乾《かわ》かす時間《じかん》が省《はぶ》ける丈《だけ》でも大變《たいへん》重寶《ちようはう》で、是《これ》を新聞《しんぶん》に應用《おうよう》すれば、印氣《インキ》や印氣《インキ》ロールの費《つひえ》を節約《せつやく》する上《うへ》に、全體《ぜんたい》から云《い》つて、少《すくな》くとも從來《じゆうらい》の四|分《ぶん》の一の手數《てかず》がなくなる點《てん》から見《み》ても、前途《ぜんと》は非常《ひじやう》に有望《いうばう》な事業《じげふ》であると、小六《ころく》は又《また》安之助《やすのすけ》の話《はな》した通《とほ》りを繰《く》り返《かへ》した。さうして其《その》有望《いうばう》な前途《ぜんと》を、安之助《やすのすけ》が既《すで》に手《て》の中《うち》に握《にぎ》つたかの如《ごと》き口氣《こうき》であつた。かつ其《その》多望《たばう》な安之助《やすのすけ》の未來《みらい》のなかには、同《おな》じく多望《たばう》な自分《じぶん》の影《かげ》が、含《ふく》まれてゐる樣《やう》に、眼《め》を輝《かゞ》やかした。其時《そのとき》宗助《そうすけ》は何時《いつ》もの調子《てうし》で、寧《むし》ろ穩《おだ》やかに、弟《おとうと》の云《い》ふ事《こと》を聞《き》いてゐたが、聞《き》いてしまつた後《あと》でも、別《べつ》に是《これ》といふ眼立《めだ》つた批評《ひひやう》は加《くは》へなかつた。實際《じつさい》斯《こ》んな發明《はつめい》は、宗助《そうすけ》から見《み》ると、本當《ほんたう》の樣《やう》でもあり、又《また》嘘《うそ》の樣《やう》でもあり、愈《いよ/\》それが世間《せけん》に行《おこな》はれる迄《まで》は、贊成《さんせい》も反對《はんたい》も出來《でき》かねたのである。 「ぢや鰹船《かつをぶね》の方《はう》はもう止《よ》したの」と、今迄《いままで》默《だま》つてゐた御米《およね》が、此時《このとき》始《はじ》めて口《くち》を出《だ》した。 「止《よ》したんぢやないんですが、あの方《はう》は費用《ひよう》が隨分《ずゐぶん》掛《かゝ》るので、いくら便利《べんり》でも、さう誰《だれ》も彼《かれ》も拵《こしら》える譯《わけ》に行《ゆ》かないんださうです」と小六《ころく》が答《こた》へた。小六《ころく》は幾分《いくぶん》か安之助《やすのすけ》の利害《りがい》を代表《だいへう》してゐる樣《やう》な口振《くちぶり》であつた。夫《それ》から三|人《にん》の間《あひだ》に、しばらく談話《だんわ》が交換《かうくわん》されたが、仕舞《しまひ》に、 「矢張《やつぱり》何《なに》をしたつて、さう旨《うま》く行《ゆ》くもんぢやあるまいよ」と云《い》つた宗助《そうすけ》の言葉《ことば》と、 「坂井《さかゐ》さん見《み》た樣《やう》に、御金《おかね》があつて遊《あそ》んでゐるのが一番《いちばん》可《い》いわね」と云《い》つた御米《およね》の言葉《ことば》を聞《き》いて、小六《ころく》は又《また》自分《じぶん》の部屋《へや》へ歸《かへ》つて行《い》つた。  斯《か》う云《い》ふ機會《きくわい》に、佐伯《さへき》の消息《せうそく》は折々《をり/\》夫婦《ふうふ》の耳《みゝ》へ洩《も》れる事《こと》はあるが、其外《そのほか》には、全《まつた》く何《なに》をして暮《く》らしてゐるか、互《たがひ》に知《し》らないで過《すご》す月日《つきひ》が多《おほ》かつた。  ある時《とき》御米《およね》は宗助《そうすけ》に斯《こ》んな問《とひ》を掛《か》けた。 「小六《ころく》さんは、安《やす》さんの所《ところ》へ行《ゆ》くたんびに、小遣《こづかひ》でも貰《もら》つて來《く》るんでせうか」  今迄《いままで》小六《ころく》に就《つい》て、夫程《それほど》の注意《ちゆうい》を拂《はら》つてゐなかつた宗助《そうすけ》は、突然《とつぜん》此《この》問《とひ》に逢《あ》つて、すぐ、「何故《なぜ》」と聞《き》き返《かへ》した。御米《およね》はしばらく逡巡《ためら》つた末《すゑ》、 「だつて、此頃《このごろ》能《よ》く御酒《おさけ》を呑《の》んで歸《かへ》つて來《く》る事《こと》があるのよ」と注意《ちゆうい》した。 「安《やす》さんが例《れい》の發明《はつめい》や、金儲《かねまう》けの話《はなし》をするとき、其《その》聞《き》き賃《ちん》に奢《おご》るのかも知《し》れない」と云《い》つて宗助《そうすけ》は笑《わら》つてゐた。會話《くわいわ》はそれなりでつい發展《はつてん》せずに仕舞《しま》つた。  越《こ》えて三日目《みつかめ》の夕方《ゆふがた》に、小六《ころく》はまた飯時《めしどき》を外《はづ》して歸《かへ》つて來《こ》なかつた。しばらく待《ま》ち合《あは》せてゐたが、宗助《そうすけ》はついに空腹《くうふく》だとか云《い》ひ出《だ》して、一寸《ちよつと》湯《ゆ》にでも行《い》つて、時間《じかん》を延《の》ばしたらといふ御米《およね》の小六《ころく》に對《たい》する氣兼《きがね》に頓着《とんぢやく》なく、食事《しよくじ》を始《はじ》めた。其時《そのとき》御米《およね》は夫《をつと》に、 「小六《ころく》さんに御酒《おさけ》を止《や》める樣《やう》に、貴方《あなた》から云《い》つちや不可《いけ》なくつて」と切《き》り出《だ》した。 「そんなに意見《いけん》しなければならない程《ほど》飮《の》むのか」と宗助《そうすけ》は少《すこ》し案外《あんぐわい》な顏《かほ》をした。  御米《およね》は夫程《それほど》でもないと、辯護《べんご》しなければならなかつた。けれども實際《じつさい》は誰《だれ》もゐない晝間《ひるま》のうち抔《など》に、あまり顏《かほ》を赤《あか》くして歸《かへ》つて來《こ》られるのが、不安《ふあん》だつたのである。宗助《そうすけ》は夫《それ》なり放《はふ》つて置《お》いた。然《しか》し腹《はら》の中《なか》では、果《はた》して御米《およね》の云《い》ふ如《ごと》く、何所《どこ》かで金《かね》を借《か》りるか、貰《もら》ふかして、夫程《それほど》好《す》きもしないものを、わざと飮《の》むのではなからうかと疑《うた》ぐつた。  其《その》うち年《とし》が段々《だん/\》片寄《かたよ》つて、夜《よる》が世界《せかい》の三分《さんぶん》の二《に》を領《りやう》する樣《やう》に押《お》し詰《つま》つて來《き》た。風《かぜ》が毎日《まいにち》吹《ふ》いた。其音《そのおと》を聞《き》いてゐる丈《だけ》でも、生活《ライフ》に陰氣《いんき》な響《ひゞき》を與《あた》へた。小六《ころく》はどうしても、六|疊《でふ》に籠《こも》つて、一日《いちにち》を送《おく》るに堪《た》えなかつた。落《お》ち付《つ》いて考《かんが》へれば考《かんが》へる程《ほど》、頭《あたま》が淋《さむ》しくつて、居《ゐ》たゝまれなくなる許《ばかり》であつた。茶《ちや》の間《ま》へ出《で》て嫂《あによめ》と話《はな》すのは猶《なほ》厭《いや》であつた。已《やむ》を得《え》ず外《そと》へ出《で》た。さうして友達《ともだち》の宅《うち》をぐる/\回《まは》つて歩《ある》いた。友達《ともだち》も始《はじめ》のうちは、平生《いつも》の小六《ころく》に對《たい》する樣《やう》に、若《わか》い學生《がくせい》のしたがる面白《おもしろ》い話《はなし》を幾何《いくら》でもした。けれども小六《ころく》はさう云《い》ふ話《はなし》が盡《つ》きても、まだ遣《や》つて來《き》た。それで仕舞《しまひ》には、友達《ともだち》が、小六《ころく》は、退屈《たいくつ》の餘《あま》りに訪問《はうもん》をして、談話《だんわ》の復習《ふくしふ》に耽《ふけ》るものだと評《ひやう》した。たまには學校《がくかう》の下讀《したよみ》やら研究《けんきう》やらに追《お》はれてゐる多忙《たばう》の身《み》だと云《い》ふ風《ふう》もして見《み》せた。小六《ころく》は友達《ともだち》からさう呑氣《のんき》な怠《なま》けものゝ樣《やう》に取《と》り扱《あつか》はれるのを、大變《たいへん》不愉快《ふゆくわい》に感《かん》じた。けれども宅《うち》に落《お》ち付《つ》いては、讀書《どくしよ》も思索《しさく》も、丸《まる》で出來《でき》なかつた。要《えう》するに彼《かれ》位《ぐらゐ》の年輩《ねんぱい》の青年《せいねん》が、一人前《いちにんまへ》の人間《にんげん》になる楷梯《かいてい》として、修《をさ》むべき事《こと》、力《つと》むべき事《こと》には、内部《ないぶ》の動搖《どうえう》やら、外部《ぐわいぶ》の束縛《そくばく》やらで、一切《いつさい》手《て》が着《つ》かなかつたのである。  夫《それ》でも冷《つめ》たい雨《あめ》が横《よこ》に降《ふ》つたり、雪融《ゆきどけ》の道《みち》がはげしく泥《ぬか》つたりする時《とき》は、着物《きもの》を濡《ぬ》らさなければならず、足袋《たび》の泥《どろ》を乾《かわ》かさなければならない面倒《めんだう》があるので、如何《いか》な小六《ころく》も時《とき》によると、外出《ぐわいしゆつ》を見合《みあは》せる事《こと》があつた。さう云《い》ふ日《ひ》には、實際《じつさい》困却《こんきやく》すると見《み》えて、時々《とき/″\》六|疊《でふ》から出《で》て來《き》て、のそりと火鉢《ひばち》の傍《そば》へ坐《すわ》つて、茶《ちや》などを注《つ》いで飮《の》んだ。さうして其所《そこ》に御米《およね》でもゐると、世間話《せけんばなし》の一《ひと》つや二《ふた》つはしないとも限《かぎ》らなかつた。 「小六《ころく》さん御酒《おさけ》好《す》き」と御米《およね》が聞《き》いた事《こと》があつた。 「もう直《ぢき》御正月《おしやうぐわつ》ね。貴方《あなた》御雜煑《おざふに》いくつ上《あ》がつて」と聞《き》いた事《こと》もあつた。  さう云《い》ふ場合《ばあひ》が度重《たびかさ》なるに連《つ》れて、二人《ふたり》の間《あひだ》は少《すこ》しづゝ近寄《ちかよ》る事《こと》が出來《でき》た。仕舞《しまひ》には、姉《ねえ》さん一寸《ちよつと》こゝを縫《ぬ》つて下《くだ》さいと、小六《ころく》の方《はう》から進《すゝ》んで、御米《およね》に物《もの》を頼《たの》む樣《やう》になつた。さうして御米《およね》が絣《かすり》の羽織《はおり》を受取《うけと》つて、袖口《そでくち》の綻《ほころび》を繕《つくろ》つてゐる間《あひだ》、小六《ころく》は何《なん》にもせずに其所《そこ》へ坐《すわ》つて、御米《およね》の手先《てさき》を見詰《みつ》めてゐた。これが夫《をつと》だと、何時迄《いつまで》も默《だま》つて針《はり》を動《うご》かすのが、御米《およね》の例《れい》であつたが、相手《あいて》が小六《ころく》の時《とき》には、さう投遣《なげやり》に出來《でき》ないのが、又《また》御米《およね》の性質《せいしつ》であつた。だからそんな時《とき》には力《つと》めても話《はなし》をした。話《はなし》の題目《だいもく》で、稍《やゝ》ともすると小六《ころく》の口《くち》に宿《やど》りたがるものは、彼《かれ》の未來《みらい》を何《ど》うしたら好《よ》からうと云《い》ふ心配《しんぱい》であつた。 「だつて小六《ころく》さんなんか、まだ若《わか》いぢやありませんか。何《なに》をしたつて是《これ》からだわ。そりや兄《にい》さんの事《こと》よ。さう悲觀《ひくわん》しても可《い》いのわ」  御米《およね》は二度《にど》許《ばか》り斯《か》ういふ慰《なぐさ》め方《かた》をした。三度目《さんどめ》には、 「來年《らいねん》になれば、安《やす》さんの方《はう》で何《ど》うか都合《つがふ》して上《あげ》るつて受合《うけあ》つて下《くだ》すつたんぢやなくつて」と聞《き》いた。小六《ころく》は其時《そのとき》不慥《ふたしか》な表情《へうじやう》をして、 「そりや安《やす》さんの計畫《けいくわく》が、口《くち》でいふ通《とほ》り旨《うま》く行《い》けば譯《わけ》はないんでせうが、段々《だん/\》考《かんが》へると、何《なん》だか少《すこ》し當《あて》にならない樣《やう》な氣《き》がし出《だ》してね。鰹船《かつをぶね》もあんまり儲《まう》からない樣《やう》だから」と云《い》つた。御米《およね》は小六《ころく》の憮然《ぶぜん》としてゐる姿《すがた》を見《み》て、それを時々《とき/″\》酒氣《しゆき》を帶《お》びて歸《かへ》つて來《く》る、何所《どこ》かに殺氣《さつき》を含《ふく》んだ、しかも何《なに》が癪《しやく》に障《さは》るんだか譯《わけ》が分《わか》らないでゐて甚《はなは》だ不平《ふへい》らしい小六《ころく》と比較《ひかく》すると、心《こゝろ》の中《うち》で氣《き》の毒《どく》にもあり、又《また》可笑《をか》しくもあつた。其時《そのとき》は、 「本當《ほんたう》にね。兄《にい》さんにさへ御金《おかね》があると、何《ど》うでもして上《あ》げる事《こと》が出來《でき》るんだけれども」と、御世辭《おせじ》でも何《なん》でもない、同情《どうじやう》の意《い》を表《へう》した。  其《その》夕暮《ゆふぐれ》であつたか、小六《ころく》は又《また》寒《さむ》い身體《からだ》を外套《マント》に包《くる》んで出《で》て行《い》つたが、八時過《はちじすぎ》に歸《かへ》つて來《き》て、兄夫婦《あにふうふ》の前《まへ》で、袂《たもと》から白《しろ》い細長《ほそなが》い袋《ふくろ》を出《だ》して、寒《さむ》いから蕎麥掻《そばがき》を拵《こし》らえて食《く》はうと思《おも》つて、佐伯《さへき》へ行《い》つた歸《かへ》りに買《か》つて來《き》たと云《い》つた。さうして御米《およね》が湯《ゆ》を沸《わ》かしてゐるうちに、煑出《にだ》しを拵《こしら》えるとか云《い》つて、しきりに鰹節《かつぶし》を掻《か》いた。  其時《そのとき》宗助《そうすけ》夫婦《ふうふ》は、最近《さいきん》の消息《せうそく》として、安之助《やすのすけ》の結婚《けつこん》がとう/\春《はる》迄《まで》延《の》びた事《こと》を聞《き》いた。此《この》縁談《えんだん》は安之助《やすのすけ》が學校《がくかう》を卒業《そつげふ》すると間《ま》もなく起《おこ》つたもので、小六《ころく》が房州《ばうしう》から歸《かへ》つて、叔母《をば》に學資《がくし》の供給《きようきふ》を斷《こと》わられる時分《じぶん》には、もう大分《だいぶ》話《はなし》が進《すゝ》んでゐたのである。正式《せいしき》の通知《つうち》が來《こ》ないので、何時《いつ》纏《まとま》つたか、宗助《そうすけ》は丸《まる》で知《し》らなかつたが、たゞ折々《をり/\》佐伯《さへき》へ行《い》つては、何《なに》か聞《き》いて來《く》る小六《ころく》を通《つう》じてのみ、彼《かれ》は年内《ねんない》に式《しき》を擧《あ》げる筈《はず》の新夫婦《しんふうふ》を豫想《よさう》した。其他《そのた》には、嫁《よめ》の里《さと》がある會社員《くわいしやゐん》で、有福《いうふく》な生計《くらし》をしてゐる事《こと》と、其《その》學校《がくかう》が女學館《ぢよがくくわん》であるといふ事《こと》と、兄弟《きやうだい》が澤山《たくさん》あると云《い》ふ事丈《ことだけ》を、同《おな》じく小六《ころく》を通《つう》じて耳《みゝ》にした。寫眞《しやしん》にせよ顏《かほ》を知《し》つてるのは小六《ころく》許《ばかり》であつた。 「好《い》い器量《きりやう》?」と御米《およね》が聞《き》いた事《こと》がある。 「まあ好《い》い方《はう》でせう」と小六《ころく》が答《こた》へた事《こと》がある。  其晩《そのばん》は何故《なぜ》暮《くれ》のうちに式《しき》を濟《す》まさないかと云《い》ふのが、蕎麥掻《そばがき》の出來上《できあが》る間《あひだ》、三|人《にん》の話題《わだい》になつた。御米《およね》は方位《はうゐ》でも惡《わる》いのだらうと臆測《おくそく》した。宗助《そうすけ》は押《お》し詰《つま》つて日《ひ》がないからだらうと考《かんが》へた。獨《ひと》り小六《ころく》丈《だけ》が、 「矢張《やつぱ》り物質的《ぶつしつてき》の必要《ひつえう》かららしいです。先《さき》が何《なん》でも餘程《よほど》派出《はで》な家《うち》なんで、叔母《をば》さんの方《はう》でもさう單簡《たんかん》に濟《す》まされないんでせう」と何時《いつ》にない世帶染《しよたいじ》みた事《こと》を云《い》つた。 [#8字下げ]十一[#「十一」は中見出し]  御米《およね》のぶら/\し出《だ》したのは、秋《あき》も半《なか》ば過《す》ぎて、紅葉《もみぢ》の赤黒《あかぐろ》く縮《ちゞ》れる頃《ころ》であつた。京都《きやうと》に居《ゐ》た時分《じぶん》は別《べつ》として、廣島《ひろしま》でも福岡《ふくをか》でも、あまり健康《けんかう》な月日《つきひ》を送《おく》つた經驗《けいけん》のない御米《およね》は、此點《このてん》に掛《か》けると、東京《とうきやう》へ歸《かへ》つてからも、矢張《やは》り仕合《しあは》せとは云《い》へなかつた。この女《をんな》には生《うま》れ故郷《こきやう》の水《みづ》が、性《しやう》に合《あ》はないのだらうと、疑《うた》ぐれば疑《うた》ぐられる位《くらゐ》、御米《およね》は一時《いちじ》惱《なや》んだ事《こと》もあつた。  近頃《ちかごろ》はそれが段々《だん/\》落《お》ち付《つ》いて來《き》て、宗助《そうすけ》の氣《き》を揉《も》む機會《ばあひ》も、年《ねん》に幾度《いくど》と勘定《かんぢやう》が出來《でき》る位《くらゐ》少《すく》なくなつたから、宗助《そうすけ》は役所《やくしよ》の出入《でいり》に、御米《およね》は又《また》夫《をつと》の留守《るす》の立居《たちゐ》に、等《ひと》しく安心《あんしん》して時間《じかん》を過《すご》す事《こと》が出來《でき》たのである。だから此年《ことし》の秋《あき》が暮《く》れて、薄《うす》い霜《しも》を渡《わた》る風《かぜ》が、つらく肌《はだ》を吹《ふ》く時分《じぶん》になつて、又《また》少《すこ》し心持《こゝろもち》が惡《わる》くなり出《だ》しても、御米《およね》は夫程《それほど》苦《く》にもならなかつた。始《はじめ》のうちは宗助《そうすけ》にさへ知《し》らせなかつた。宗助《そうすけ》が見付《みつ》けて、醫者《いしや》に掛《か》ゝれと勸《すゝ》めても、容易《ようい》に掛《か》からなかつた。  其所《そこ》へ小六《ころく》が引越《ひつこ》して來《き》た。宗助《そうすけ》は其頃《そのころ》の御米《およね》を觀察《くわんさつ》して、體質《たいしつ》の状態《じやうたい》やら、精神《せいしん》の模樣《もやう》やら、夫《をつと》丈《だけ》に能《よ》く知《し》つてゐたから、成《な》るべくは、人數《ひとかず》を殖《ふ》やして宅《うち》の中《なか》を混雜《ごたつ》かせたくないとは思《おも》つたが、事情《じじやう》已《やむ》を得《え》ないので、成《な》るが儘《まゝ》にして置《お》くより外《ほか》に、手段《しゆだん》の講《かう》じやうもなかつた。たゞ口《くち》の先《さき》で、成《な》るべく安靜《あんせい》にしてゐなくては不可《いけ》ないと云《い》ふ矛盾《むじゆん》した助言《じよごん》は與《あた》へた。御米《およね》は微笑《びせう》して、 「大丈夫《だいぢやうぶ》よ」と云《い》つた。此《この》答《こたへ》を得《え》た時《とき》、宗助《そうすけ》は猶《なほ》の事《こと》安心《あんしん》が出來《でき》なくなつた。所《ところ》が不思議《ふしぎ》にも、御米《およね》の氣分《きぶん》は、小六《ころく》が引越《ひつこ》して來《き》てから、ずつと引立《ひきた》つた。自分《じぶん》に責任《せきにん》の少《すこ》しでも加《くは》はつたため、心《こゝろ》が緊張《きんちやう》したものと見《み》えて、却《かへ》つて平生《へいぜい》よりは、甲斐々々《かひ/″\》しく夫《をつと》や小六《ころく》の世話《せわ》をした。小六《ころく》には夫《それ》が丸《まる》で通《つう》じなかつたが、宗助《そうすけ》から見《み》ると、御米《およね》が在來《ざいらい》よりどれ程《ほど》力《つと》めてゐるかが能《よ》く解《わか》つた。宗助《そうすけ》は心《こゝろ》のうちで、此《この》まめやかな細君《さいくん》に新《あた》らしい感謝《かんしや》の念《ねん》を抱《いだ》くと同時《どうじ》に、かう氣《き》を張《は》り過《す》ぎる結果《けつくわ》が、一度《いちど》に身體《からだ》に障《さは》る樣《やう》な騷《さわ》ぎでも引《ひ》き起《おこ》して呉《く》れなければ可《い》いがと心配《しんぱい》した。  不幸《ふかう》にも、此《この》心配《しんぱい》が暮《くれ》の二十日過《はつかすぎ》になつて、突然《とつぜん》事實《じじつ》になりかけたので、宗助《そうすけ》は豫期《よき》の恐怖《きようふ》に火《ひ》が點《つ》いた樣《やう》に、いたく狼狽《らうばい》した。其日《そのひ》は判然《はつきり》土《つち》に映《うつ》らない空《そら》が、朝《あさ》から重《かさ》なり合《あ》つて、重《おも》い寒《さむ》さが終日《しゆうじつ》人《ひと》の頭《あたま》を抑《おさ》え付《つ》けてゐた。御米《およね》は前《まへ》の晩《ばん》にまた寐《ね》られないで、休《やす》ませ損《そく》なつた頭《あたま》を抱《かゝ》へながら、辛抱《しんばう》して働《はた》らき出《だ》したが、起《た》つたり動《うご》いたりするたびに、多少《たせう》腦《なう》に應《こた》へる苦痛《くつう》はあつても、比較的《ひかくてき》明《あか》るい外界《ぐわいかい》の刺戟《しげき》に紛《まぎ》れた爲《ため》か、凝《じつ》と寐《ね》てゐながら、頭《あたま》丈《だけ》が冴《さ》えて痛《いた》むよりは、却《かへ》つて凌《しの》ぎ易《やす》かつた。兎角《とかく》して夫《をつと》を送《おく》り出《だ》す迄《まで》は、しばらくしたら又《また》何時《いつ》もの樣《やう》に折《を》り合《あ》つて來《く》る事《こと》と思《おも》つて我慢《がまん》してゐた。所《ところ》が宗助《そうすけ》がゐなくなつて、自分《じぶん》の義務《ぎむ》に一段落《いちだんらく》が着《つ》いたといふ氣《き》の弛《ゆる》みが出《で》ると等《ひと》しく、濁《にご》つた天氣《てんき》がそろ/\御米《およね》の頭《あたま》を攻《せ》め始《はじ》めた。空《そら》を見《み》ると凍《こほ》つてゐる樣《やう》であるし、家《うち》の中《なか》にゐると、陰氣《いんき》な障子《しやうじ》の紙《かみ》を透《とほ》して、寒《さむ》さが浸《し》み込《こ》んで來《く》るかと思《おも》はれる位《くらゐ》だのに、御米《およね》の頭《あたま》はしきりに熱《ほて》つて來《き》た。仕方《しかた》がないから、今朝《けさ》あげた蒲團《ふとん》を又《また》出《だ》して來《き》て、座敷《ざしき》へ延《の》べたまゝ横《よこ》になつた。夫《それ》でも堪《た》えられないので、清《きよ》に濡手拭《ぬれてぬぐひ》を絞《しぼ》らして頭《あたま》へ乘《の》せた。それが直《ぢき》生温《なまぬる》くなるので、枕元《まくらもと》に金盥《かなだらひ》を取《と》り寄《よ》せて時々《とき/″\》絞《しぼ》り易《か》へた。  午迄《ひるまで》こんな姑息《こそく》手段《しゆだん》で斷《た》えず額《ひたひ》を冷《ひ》やして見《み》たが、一向《いつかう》はか/″\しい驗《げん》もないので、御米《およね》は小六《ころく》のために、わざ/\起《お》きて、一所《いつしよ》に食事《しよくじ》をする根氣《こんき》もなかつた。清《きよ》にいひ付《つ》けて膳立《ぜんだて》をさせて、それを小六《ころく》に薦《すゝ》めさした儘《まゝ》、自分《じぶん》は矢張《やは》り床《とこ》を離《はな》れずにゐた。さうして、平生《へいぜい》夫《をつと》のする柔《やはら》かい括枕《くゝりまくら》を持《も》つて來《き》て貰《もら》つて、堅《かた》いのと取《と》り替《か》へた。御米《およね》は髮《かみ》の損《こは》れるのを、女《をんな》らしく苦《く》にする勇氣《ゆうき》にさへ乏《とぼ》しかつたのである。  小六《ころく》は六|疊《でふ》から出《で》て來《き》て、一寸《ちよつと》襖《ふすま》を開《あ》けて、御米《およね》の姿《すがた》を覗《のぞ》き込《こ》んだが、御米《およね》が半《なか》ば床《とこ》の間《ま》の方《はう》を向《む》いて、眼《め》を塞《ふさ》いでゐたので、寐付《ねつ》いたとでも思《おも》つたものか、一言《ひとこと》の口《くち》も利《き》かずに、又《また》そつと襖《ふすま》を閉《し》めた。さうして、たつた一人《ひとり》大《おほ》きな食卓《しよくたく》を專領《せんりやう》して、始《はじ》めからさら/\と茶漬《ちやづけ》を掻《か》き込《こ》む音《おと》をさせた。  二|時頃《じごろ》になつて、御米《およね》は漸《や》つとの事《こと》、とろ/\と眠《ねむ》つたが、眼《め》が覺《さ》めたら額《ひたひ》を捲《ま》いた濡《ぬ》れ手拭《てぬぐひ》が殆《ほと》んど乾《かわ》く位《くらゐ》暖《あたゝ》かになつてゐた。其《その》代《かは》り頭《あたま》の方《はう》は少《すこ》し樂《らく》になつた。たゞ肩《かた》から脊筋《せすぢ》へ掛《か》けて全體《ぜんたい》に重苦《おもくる》しい樣《やう》な感《かん》じが新《あた》らしく加《くは》はつた。御米《およね》は何《なん》でも精《せい》を付《つ》けなくては毒《どく》だといふ考《かんがへ》から、一人《ひとり》で起《お》きて遲《おそ》い午飯《ひるはん》を輕《かる》く食《た》べた。 「御氣分《おきぶん》は如何《いかゞ》で御座《ござ》います」と清《きよ》が御給仕《おきふじ》をしながら、しきりに聞《き》いた。御米《およね》は大分《だいぶ》可《い》い樣《やう》だつたので、床《とこ》を上《あ》げて貰《もら》つて、火鉢《ひばち》に倚《よ》つたなり、宗助《そうすけ》の歸《かへ》りを待《ま》ち受《う》けた。  宗助《そうすけ》は例刻《れいこく》に歸《かへ》つて來《き》た。神田《かんだ》の通《とほ》りで、門並《かどなみ》旗《はた》を立《た》てゝ、もう暮《くれ》の賣出《うりだ》しを始《はじ》めた事《こと》だの、勸工場《くわんこうば》で紅白《こうはく》の幕《まく》を張《は》つて樂隊《がくたい》に景氣《けいき》を付《つ》けさしてゐる事《こと》だのを話《はなし》した末《すゑ》、 「賑《にぎ》やかだよ。一寸《ちよつと》行《い》つて御覽《ごらん》。なに電車《でんしや》に乘《の》つて行《い》けば譯《わけ》はない」と勸《すゝ》めた。さうして自分《じぶん》は寒《さむ》さに腐蝕《ふしよく》された樣《やう》に赤《あか》い顏《かほ》をしてゐた。  御米《およね》はかう宗助《そうすけ》から勞《いた》はられた時《とき》、何《なん》だか自分《じぶん》の身體《からだ》の惡《わる》い事《こと》を訴《うつ》たへるに忍《しの》びない心持《こゝろもち》がした。實際《じつさい》又《また》夫程《それほど》苦《くる》しくもなかつた。それで何時《いつ》もの通《とほ》り何氣《なにげ》ない顏《かほ》をして、夫《をつと》に着物《きもの》を着換《きかへ》さしたり、洋服《やうふく》を疊《たゝ》んだりして夜《よ》に入《い》つた。  所《ところ》が九|時《じ》近《ちか》くになつて、突然《とつぜん》宗助《そうすけ》に向《むか》つて、少《すこ》し加減《かげん》が惡《わる》いから先《さき》へ寐《ね》たいと云《い》ひ出《だ》した。今迄《いままで》平生《へいぜい》の通《とほ》り機嫌《きげん》よく話《はな》してゐただけに、宗助《そうすけ》は此《この》言葉《ことば》を聞《き》いて一寸《ちよつと》驚《おど》ろいたが、大《たい》した事《こと》でもないと云《い》ふ御米《およね》の保證《ほしよう》に、漸《やうや》く安心《あんしん》してすぐ休《やす》む支度《したく》をさせた。  御米《およね》が床《とこ》へ這入《はい》つてから、約《やく》二十|分《ぷん》許《ばかり》の間《あひだ》、宗助《そうすけ》は耳《みゝ》の傍《はた》に鐵瓶《てつびん》の音《おと》を聞《き》きながら、靜《しづか》な夜《よる》を丸心《まるじん》の洋燈《らんぷ》に照《て》らしてゐた。彼《かれ》は來年度《らいねんど》に一般官吏《いつぱんくわんり》に増俸《ぞうほう》の沙汰《さた》があるといふ評判《ひやうばん》を思《おも》ひ浮《うか》べた。又《また》其前《そのまへ》に改革《かいかく》か淘汰《たうた》が行《おこな》はれるに違《ちがひ》ないといふ噂《うはさ》に思《おも》ひ及《およ》んだ。さうして自分《じぶん》は何方《どつち》の方《はう》へ編入《へんにふ》されるのだらうと疑《うたが》つた。彼《かれ》は自分《じぶん》を東京《とうきやう》へ呼《よ》んで呉《く》れた杉原《すぎはら》が、今《いま》も猶《なほ》課長《くわちやう》として本省《ほんしやう》にゐないのを遺憾《ゐかん》とした。彼《かれ》は東京《とうきやう》へ移《うつ》つてから不思議《ふしぎ》とまだ病氣《びやうき》をした事《こと》がなかつた。從《したが》つてまだ缺勤屆《けつきんとゞけ》を出《だ》した事《こと》がなかつた。學校《がくかう》を中途《ちゆうと》で已《や》めたなり、本《ほん》は殆《ほと》んど讀《よ》まないのだから、學問《がくもん》は人並《ひとなみ》に出來《でき》ないが、役所《やくしよ》でやる仕事《しごと》に差支《さしつか》へる程《ほど》の頭腦《づなう》ではなかつた。  彼《かれ》は色々《いろ/\》な事情《じじやう》を綜合《そうがふ》して考《かんが》へた上《うへ》、まあ大丈夫《だいぢやうぶ》だらうと腹《はら》の中《なか》で極《き》めた。さうして爪《つめ》の先《さき》で輕《かる》く鐵瓶《てつびん》の縁《ふち》を敲《たゝ》いた。其時《そのとき》座敷《ざしき》で、 「貴方《あなた》一寸《ちよつと》」と云《い》ふ御米《およね》の苦《くる》しさうな聲《こゑ》が聞《きこ》えたので、我《われ》知《し》らず立《た》ち上《あ》がつた。  座敷《ざしき》へ來《き》て見《み》ると、御米《およね》は眉《まゆ》を寄《よ》せて、右《みぎ》の手《て》で自分《じぶん》の肩《かた》を抑《おさ》えながら、胸迄《むねまで》蒲團《ふとん》の外《そと》へ乘《の》り出《だ》してゐた。宗助《そうすけ》は殆《ほと》んど器械的《きかいてき》に、同《おな》じ所《ところ》へ手《て》を出《だ》した。さうして御米《およね》の抑《おさ》えてゐる上《うへ》から、固《かた》く骨《ほね》の角《かど》を攫《つか》んだ。 「もう少《すこ》し後《うしろ》の方《はう》」と御米《およね》が訴《うつた》へるやうに云《い》つた。宗助《そうすけ》の手《て》が御米《およね》の思《おも》ふ所《ところ》へ落《お》ち付《つ》く迄《まで》には、二|度《ど》も三|度《ど》も其所《そこ》此所《こゝ》と位置《ゐち》を易《か》えなければならなかつた。指《ゆび》で壓《お》して見《み》ると、頸《くび》と肩《かた》の繼目《つぎめ》の少《すこ》し脊中《せなか》へ寄《よ》つた局部《きよくぶ》が、石《いし》の樣《やう》に凝《こ》つてゐた。御米《およね》は男《をとこ》の力《ちから》一杯《いつぱい》にそれを抑《おさ》えて呉《く》れと頼《たの》んだ。宗助《そうすけ》の額《ひたひ》からは汗《あせ》が煑染《にじ》み出《だ》した。それでも御米《およね》の滿足《まんぞく》する程《ほど》は力《ちから》が出《で》なかつた。  宗助《そうすけ》は昔《むかし》の言葉《ことば》で早打肩《はやうちかた》といふのを覺《おぼ》えてゐた。小《ちひ》さい時《とき》祖父《ぢゞい》から聞《き》いた話《はなし》に、ある侍《さむらひ》が馬《うま》に乘《の》つて何處《どこ》かへ行《ゆ》く途中《とちゆう》で、急《きふ》に此《この》早打肩《はやうちかた》に冒《をか》されたので、すぐ馬《うま》から飛《と》んで下《お》りて、忽《たちま》ち小柄《こづか》を拔《ぬ》くや否《いな》や、肩先《かたさき》を切《き》つて血《ち》を出《だ》したため、危《あや》うい命《いのち》を取《と》り留《と》めたといふのがあつたが、其話《そのはなし》が今《いま》明《あき》らかに記憶《きおく》の燒點《せうてん》に浮《うか》んで出《で》た。其時《そのとき》宗助《そうすけ》は是《これ》はならんと思《おも》つた。けれども果《はた》して刄物《はもの》を用《もち》ひて、肩《かた》の肉《にく》を突《つ》いて可《い》いものやら、惡《わる》いものやら、決《けつ》しかねた。  御米《およね》は何時《いつ》になく逆上《のぼ》せて、耳《みゝ》迄《まで》赤《あか》くしてゐた。頭《あたま》が熱《あつ》いかと聞《き》くと苦《くる》しさうに熱《あつ》いと答《こた》へた。宗助《そうすけ》は大《おほ》きな聲《こゑ》を出《だ》して清《きよ》に氷嚢《こほりぶくろ》へ冷《つめ》たい水《みづ》を入《い》れて來《こ》いと命《めい》じた。氷嚢《こほりぶくろ》が生憎《あいにく》無《な》かつたので、清《きよ》は朝《あさ》の通《とほ》り金盥《かなだらひ》に手拭《てぬぐひ》を浸《つ》けて持《も》つて來《き》た。清《きよ》が頭《あたま》を冷《ひ》やしてゐるうち、宗助《そうすけ》は矢張《やは》り精一杯《せいいつぱい》肩《かた》を抑《おさ》えてゐた。時々《とき/″\》少《すこ》しは可《い》いかと聞《き》いても、御米《およね》は微《かす》かに苦《くる》しいと答《こた》へる丈《だけ》であつた。宗助《そうすけ》は全《まつた》く心細《こゝろぼそ》くなつた。思《おも》ひ切《き》つて、自分《じぶん》で馳《か》け出《だ》して醫者《いしや》を迎《むかひ》に行《い》かうとしたが、後《あと》が心配《しんぱい》で一足《ひとあし》も表《おもて》へ出《で》る氣《き》にはなれなかつた。 「清《きよ》、御前《まへ》急《いそ》いで通《とほ》りへ行《い》つて、氷嚢《こほりぶくろ》を買《か》つて醫者《いしや》を呼《よ》んで來《こ》い。まだ早《はや》いから起《お》きてるだらう」  清《きよ》はすぐ立《た》つて茶《ちや》の間《ま》の時計《とけい》を見《み》て、 「九|時《じ》十五|分《ふん》で御座《ござ》います」と云《い》ひながら、それなり勝手口《かつてぐち》へ回《まは》つて、ごそ/\下駄《げた》を探《さが》してゐる所《ところ》へ、旨《うま》い具合《ぐあひ》に外《そと》から小六《ころく》が歸《かへ》つて來《き》た。例《れい》の通《とほ》り兄《あに》には挨拶《あいさつ》もしないで、自分《じぶん》の部屋《へや》へ這入《はい》らうとするのを、宗助《そうすけ》はおい小六《ころく》と烈《はげ》しく呼《よ》び止《と》めた。小六《ころく》は茶《ちや》の間《ま》で少《すこ》し躊躇《ちうちよ》してゐたが、兄《あに》から又《また》二聲《ふたこゑ》程《ほど》續《つゞ》けざまに大《おほ》きな聲《こゑ》を掛《か》けられたので、已《やむ》を得《え》ず低《ひく》い返事《へんじ》をして、襖《ふすま》から顏《かほ》を出《だ》した。其顏《そのかほ》は酒氣《しゆき》のまだ醒《さ》めない赤《あか》い色《いろ》を眼《め》の縁《ふち》に帶《お》びてゐた。部屋《へや》の中《なか》を覗《のぞ》き込《こ》んで、始《はじ》めて吃驚《びつくり》した樣子《やうす》で、 「何《ど》うかなすつたんですか」と醉《よひ》が一時《いちじ》に去《さ》つた樣《やう》な表情《へうじやう》をした。  宗助《そうすけ》は清《きよ》に命《めい》じた通《とほ》りを、小六《ころく》に繰《く》り返《かへ》して、早《はや》くして呉《く》れと急《せ》き立《た》てた。小六《ころく》は外套《マント》も脱《ぬ》がずに、すぐ玄關《げんくわん》へ取《と》つて返《かへ》した。 「兄《にい》さん、醫者《いしや》迄《まで》行《ゆ》くのは急《いそ》いでも時間《じかん》が掛《か》かりますから、坂井《さかゐ》さんの電話《でんわ》を借《か》りて、すぐ來《く》る樣《やう》に頼《たの》みませう」 「あゝ。左《さ》うして呉《く》れ」と宗助《そうすけ》は答《こた》へた。さうして小六《ころく》の歸《かへ》る間《あひだ》、清《きよ》に何返《なんべん》となく金盥《かなだらひ》の水《みづ》を易《か》へさしては、一生懸命《いつしやうけんめい》に御米《およね》の肩《かた》を壓《お》し付《つ》けたり、揉《も》んだりして見《み》た。御米《およね》の苦《くる》しむのを、何《なに》もせずにたゞ見《み》てゐるに堪《た》えなかつたから、斯《か》うして自分《じぶん》の氣《き》を紛《まぎ》らしてゐたのである。  此時《このとき》の宗助《そうすけ》に取《と》つて、醫者《いしや》の來《く》るのを今《いま》か今《いま》かと待《ま》ち受《う》ける心《こゝろ》ほど苛《つら》いものはなかつた。彼《かれ》は御米《およね》の肩《かた》を揉《も》みながらも、絶《た》えず表《おもて》の物音《ものおと》に氣《き》を配《くば》つた。  漸《やうや》く醫者《いしや》が來《き》たときは、始《はじ》めて夜《よ》が明《あ》けた樣《やう》な心持《こゝろもち》がした。醫者《いしや》は商買柄《しやうばいがら》丈《だけ》あつて、少《すこ》しも狼狽《うろた》へた樣子《やうす》を見《み》せなかつた。小《ちひ》さい折鞄《をりかばん》を脇《わき》に引《ひ》き付《つ》けて、落付《おちつ》き拂《はら》つた態度《たいど》で、慢性病《まんせいびやう》の患者《くわんじや》でも取《と》り扱《あつか》ふ樣《やう》に緩《ゆつ》くりした診察《しんさつ》をした。其《その》逼《せま》らない顏色《かほいろ》を傍《はた》で見《み》てゐた所爲《せゐ》か、わく/\した宗助《そうすけ》の胸《むね》も漸《やうや》く治《をさ》まつた。  醫者《いしや》は芥子《からし》を局部《きよくぶ》へ貼《は》る事《こと》と、足《あし》を濕布《しつぷ》で温《あたゝ》める事《こと》と、夫《それ》から頭《あたま》を氷《こほり》で冷《ひや》す事《こと》とを、應急《おうきふ》手段《しゆだん》として宗助《そうすけ》に注意《ちゆうい》した。さうして自分《じぶん》で芥子《からし》を掻《か》いて、御米《およね》の肩《かた》から頸《くび》の根《ね》へ貼《は》り付《つ》けて呉《く》れた。濕布《しつぷ》は清《きよ》と小六《ころく》とで受持《うけも》つた。宗助《そうすけ》は手拭《てぬぐひ》の上《うへ》から氷嚢《こおりぶくろ》を額《ひたひ》の上《うへ》に當《あ》てがつた。  兎角《とかく》するうち約《やく》一|時間《じかん》も經《た》つた。醫者《いしや》はしばらく經過《けいくわ》を見《み》て行《ゆ》かうと云《い》つて、夫迄《それまで》御米《およね》の枕元《まくらもと》に坐《すわ》つてゐた。世間話《せけんばなし》も折々《をり/\》は交《まじ》へたが、大方《おほかた》は無言《むごん》の儘《まゝ》二人共《ふたりとも》に御米《およね》の容體《ようだい》を見守《みまも》る事《こと》が多《おほ》かつた。夜《よ》は例《れい》の如《ごと》く靜《しづか》に更《ふ》けた。 「大分《だいぶ》冷《ひ》えますな」と醫者《いしや》が云《い》つた。宗助《そうすけ》は氣《き》の毒《どく》になつたので、あとの注意《ちゆうい》を能《よ》く聞《き》いた上《うへ》、遠慮《ゑんりよ》なく引《ひ》き取《と》つて呉《く》れる樣《やう》にと頼《たの》んだ。其時《そのとき》御米《およね》は先刻《さつき》よりは大分《だいぶ》輕快《けいくわい》になつてゐたからである。 「もう大丈夫《だいぢやうぶ》でせう。頓服《とんぷく》を一|回《くわい》上《あ》げますから今夜《こんや》飮《の》んで御覽《ごらん》なさい。多分《たぶん》寐《ね》られるだらうと思《おも》ひます」と云《い》つて醫者《いしや》は歸《かへ》つた。小六《ころく》はすぐ其後《そのあと》を追《お》つて出《で》て行《い》つた。  小六《ころく》が藥取《くすりとり》に行《い》つた間《あひだ》に、御米《およね》は、 「もう何時《なんじ》」と云《い》ひながら、枕元《まくらもと》の宗助《そうすけ》を見上《みあ》げた。宵《よひ》とは違《ちが》つて頬《ほゝ》から血《ち》が退《ひ》いて、洋燈《らんぷ》に照《て》らされた所《ところ》が、ことに蒼白《あをじろ》く映《うつ》つた。宗助《そうすけ》は黒《くろ》い毛《け》の亂《みだ》れた所爲《せゐ》だらうと思《おも》つて、わざ/\鬢《びん》の毛《け》を掻《か》き上《あ》げて遣《や》つた。さうして、 「少《すこ》しは可《い》いだらう」と聞《き》いた。 「えゝ餘《よ》つ程《ぽど》樂《らく》になつたわ」と御米《およね》は何時《いつ》もの通《とほ》り微笑《びせう》を洩《も》らした。御米《およね》は大抵《たいてい》苦《くる》しい場合《ばあひ》でも、宗助《そうすけ》に微笑《びせう》を見《み》せる事《こと》を忘《わす》れなかつた。茶《ちや》の間《ま》では、清《きよ》が突伏《つつぷ》したまゝ鼾《いびき》をかいてゐた。 「清《きよ》を寐《ね》かして遣《や》つて下《くだ》さい」と御米《およね》が宗助《そうすけ》に頼《たの》んだ。  小六《ころく》が藥取《くすりと》りから歸《かへ》つて來《き》て、醫者《いしや》の云《い》ひ付《つ》け通《どほ》り服藥《ふくやく》を濟《す》ましたのは、もう彼是《かれこれ》十二|時《じ》近《ちか》くであつた。それから二十|分《ぷん》と經《た》たないうちに、病人《びやうにん》はすや/\寐入《ねい》つた。 「好《い》い塩梅《あんばい》だ」と宗助《そうすけ》が御米《およね》の顏《かほ》を見《み》ながら云《い》つた。小六《ころく》もしばらく嫂《あによめ》の樣子《やうす》を見守《みまも》つてゐたが、 「もう大丈夫《だいぢやうぶ》でせう」と答《こた》へた。二人《ふたり》は氷嚢《こほりぶくろ》を額《ひたひ》から卸《お》ろした。  やがて小六《ころく》は自分《じぶん》の部屋《へや》へ這入《はい》る、宗助《そうすけ》は御米《およね》の傍《そば》へ床《とこ》を延《の》べて何時《いつ》もの如《ごと》く寐《ね》た。五六|時間《じかん》の後《のち》冬《ふゆ》の夜《よ》は錐《きり》の樣《やう》な霜《しも》を挾《さしは》さんで、からりと明《あ》け渡《わた》つた。それから一|時間《じかん》すると、大地《だいち》を染《そ》める太陽《たいやう》が、遮《さへ》ぎるものゝない蒼空《あをぞら》に憚《はゞか》りなく上《のぼ》つた。御米《およね》はまだすや/\寐《ね》てゐた。  そのうち朝餉《あさげ》も濟《す》んで、出勤《しゆつきん》の時刻《じこく》が漸《やうや》く近《ちか》づいた。けれども御米《およね》は眠《ねむ》りから覺《さ》める氣色《けしき》もなかつた。宗助《そうすけ》は枕邊《まくらべ》に曲《こゞ》んで、深《ふか》い寐息《ねいき》を聞《き》ゝながら、役所《やくしよ》へ行《い》かうか休《やす》まうかと考《かんが》へた。 [#8字下げ]十二[#「十二」は中見出し]  朝《あさ》の内《うち》は役所《やくしよ》で常《つね》の如《ごと》く事務《じむ》を執《と》つてゐたが、折々《をり/\》昨夕《ゆうべ》の光景《くわうけい》が眼《め》に浮《うか》ぶに連《つ》れて、自然《しぜん》御米《およね》の病氣《びやうき》が氣《き》に罹《かゝ》るので、仕事《しごと》は思《おも》ふ樣《やう》に運《はこ》ばなかつた。時《とき》には變《へん》な間違《まちがひ》をさへした。宗助《そうすけ》は午《ひる》になるのを待《ま》つて、思《おも》ひ切《き》つて宅《うち》へ歸《かへ》つて來《き》た。  電車《でんしや》の中《なか》では、御米《およね》の眼《め》が何時頃《いつごろ》覺《さ》めたらう、覺《さ》めた後《あと》は心持《こゝろもち》が大分《だいぶ》好《よ》くなつたろう、發作《ほつさ》ももう起《おこ》る氣遣《きづかひ》なからうと、凡《すべ》て惡《わる》くない想像《さうざう》ばかり思《おも》ひ浮《うか》べた。何時《いつ》もと違《ちが》つて、乘客《じようきやく》の非常《ひじやう》に少《すく》ない時間《じかん》に乘《の》り合《あ》はせたので、宗助《そうすけ》は周圍《しうゐ》の刺戟《しげき》に氣《き》を使《つか》ふ必要《ひつえう》が殆《ほと》んどなかつた。それで自由《じいう》に頭《あたま》の中《なか》へ現《あら》はれる畫《ゑ》を何枚《なんまい》となく眺《なが》めた。其《その》うちに、電車《でんしや》は終點《しゆうてん》に來《き》た。  宅《うち》の門口《かどぐち》迄《まで》來《く》ると、家《いへ》の中《なか》はひつそりして、誰《だれ》もゐない樣《やう》であつた。格子《かうし》を開《あ》けて、靴《くつ》を脱《ぬ》いで、玄關《げんくわん》に上《あ》がつても、出《で》て來《く》るものはなかつた。宗助《そうすけ》は何時《いつ》もの樣《やう》に縁側《えんがは》から茶《ちや》の間《ま》へ行《い》かずに、すぐ取付《とつつき》の襖《ふすま》を開《あ》けて、御米《およね》の寐《ね》てゐる座敷《ざしき》へ這入《はい》つた。見《み》ると、御米《およね》は依然《いぜん》として寐《ね》てゐた。枕元《まくらもと》の朱塗《しゆぬり》の盆《ぼん》に散藥《さんやく》の袋《ふくろ》と洋杯《こつぷ》が載《の》つてゐて、其《その》洋杯《こつぷ》の水《みづ》が半分《はんぶん》殘《のこ》つてゐる所《ところ》も朝《あさ》と同《おな》じであつた。頭《あたま》を床《とこ》の間《ま》の方《はう》へ向《む》けて、左《ひだり》の頬《ほゝ》と芥子《からし》を貼《は》つた襟元《えりもと》が少《すこ》し見《み》える所《ところ》も朝《あさ》と同《おな》じであつた。呼息《いき》より外《ほか》に現實《げんじつ》世界《せかい》と交通《かうつう》のない樣《やう》に思《おも》はれる深《ふか》い眠《ねむり》も朝《あさ》見《み》た通《とほ》りであつた。凡《すべ》てが今朝《けさ》出掛《でがけ》に頭《あたま》の中《なか》へ収《をさ》めて行《い》つた光景《くわうけい》と少《すこ》しも變《かは》つてゐなかつた。宗助《そうすけ》は外套《ぐわいたう》も脱《ぬ》がずに、上《うへ》から曲《こゞ》んで、すう/\いふ御米《およね》の寐息《ねいき》をしばらく聞《き》いてゐた。御米《およね》は容易《ようい》に覺《さ》めさうにも見《み》えなかつた。宗助《そうすけ》は昨夕《ゆうべ》御米《およね》が散藥《さんやく》を飮《の》んでから以後《いご》の時間《じかん》を指《ゆび》を折《を》つて勘定《かんぢやう》した。さうして漸《やうや》く不安《ふあん》の色《いろ》を面《おもて》に表《あら》はした。昨夕《ゆうべ》迄《まで》は寐《ね》られないのが心配《しんぱい》になつたが、斯《か》う前後《ぜんご》不覺《ふかく》に長《なが》く寐《ね》る所《ところ》を眼《ま》のあたりに見《み》ると、寐《ね》る方《はう》が何《なに》かの異状《いじやう》ではないかと考《かんが》へ出《だ》した。  宗助《そうすけ》は蒲團《ふとん》へ手《て》を掛《か》けて二三|度《ど》輕《かる》く御米《およね》を搖振《ゆすぶ》つた。御米《およね》の髮《かみ》が括枕《くゝりまくら》の上《うへ》で、波《なみ》を打《う》つ樣《やう》に動《うご》いたが、御米《およね》は依然《いぜん》としてすう/\寐《ね》てゐた。宗助《そうすけ》は御米《およね》を置《お》いて、茶《ちや》の間《ま》から臺所《だいどころ》へ出《で》た。流《なが》し元《もと》の小桶《こをけ》の中《なか》に茶碗《ちやわん》と塗椀《ぬりわん》が洗《あら》はない儘《まゝ》浸《つ》けてあつた。下女部屋《げぢよべや》を覗《のぞ》くと、清《きよ》が自分《じぶん》の前《まへ》に小《ちひ》さな膳《ぜん》を控《ひか》えたなり、御櫃《おはち》に倚《よ》りかゝつて突伏《つつぷ》してゐた。宗助《そうすけ》は又《また》六|疊《でふ》の戸《と》を引《ひ》いて首《くび》を差《さ》し込《こ》んだ。其所《そこ》には小六《ころく》が掛蒲團《かけぶとん》を一|枚《まい》頭《あたま》から引被《ひつかぶ》つて寐《ね》てゐた。  宗助《そうすけ》は一人《ひとり》で着物《きもの》を着換《きか》えたが、脱《ぬ》ぎ捨《す》てた洋服《やうふく》も、人手《ひとで》を借《か》りずに自分《じぶん》で疊《たゝ》んで、押入《おしいれ》に仕舞《しま》つた。それから火鉢《ひばち》へ火《ひ》を繼《つ》いで、湯《ゆ》を沸《わ》かす用意《ようい》をした。二三|分《ぷん》は火鉢《ひばち》に持《も》たれて考《かんが》へてゐたが、やがて立《た》ち上《あ》がつて、先《ま》づ小六《ころく》から起《おこ》しに掛《か》ゝつた。次《つぎ》に清《きよ》を起《おこ》した。二人《ふたり》とも驚《おど》ろいて飛《と》び起《お》きた。小六《ころく》に御米《およね》の今朝《けさ》から今迄《いままで》の樣子《やうす》を聞《き》くと、實《じつ》は餘《あま》り眠《ねむ》いので、十一|時半頃《じはんごろ》飯《めし》を食《く》つて寐《ね》たのだが、夫迄《それまで》は御米《およね》も能《よ》く熟睡《じゆくすゐ》してゐたのだと云《い》ふ。 「醫者《いしや》へ行《い》つてね。昨夜《ゆうべ》の藥《くすり》を戴《いたゞ》いてから寐出《ねだ》して、今《いま》になつても眼《め》が覺《さ》めませんが差支《さしつかへ》ないでせうかつて聞《き》いて來《き》て呉《く》れ」 「はあ」  小六《ころく》は簡單《かんたん》な返事《へんじ》をして出《で》て行《い》つた。宗助《そうすけ》は又《また》座敷《ざしき》へ來《き》て御米《およね》の顏《かほ》を熟視《じゆくし》した。起《おこ》して遣《や》らなくつては惡《わる》い樣《やう》な、又《また》起《おこ》しては身體《からだ》へ障《さは》る樣《やう》な、分別《ふんべつ》の付《つ》かない惑《まどひ》を抱《いだ》いて腕組《うでぐみ》をした。  間《ま》もなく小六《ころく》が歸《かへ》つて來《き》て、醫者《いしや》は丁度《ちやうど》徃診《わうしん》に出掛《でか》ける所《ところ》であつた、譯《わけ》を話《はな》したら、では今《いま》から一二|軒《けん》寄《よ》つてすぐ行《い》かうと答《こた》へた、と告《つ》げた。宗助《そうすけ》は醫者《いしや》が見《み》える迄《まで》、斯《か》うして放《はふ》つて置《お》いて構《かま》はないのかと小六《ころく》に問《と》ひ返《かへ》したが、小六《ころく》は醫者《いしや》が以上《いじやう》より外《ほか》に何《なん》にも語《かた》らなかつたと云《い》ふ丈《だけ》なので、已《やむ》を得《え》ず元《もと》の如《ごと》く枕邊《まくらべ》に凝《じつ》と坐《すわ》つてゐた。さうして心《こゝろ》の中《うち》で、醫者《いしや》も小六《ころく》も不親切《ふしんせつ》過《す》ぎる樣《やう》に感《かん》じた。彼《かれ》は其上《そのうへ》昨夕《ゆうべ》御米《およね》を介抱《かいはう》してゐる時《とき》に歸《かへ》つて來《き》た小六《ころく》の顏《かほ》を思《おも》ひ出《だ》して、猶《なほ》不愉快《ふゆくわい》になつた。小六《ころく》が酒《さけ》を呑《の》む事《こと》は、御米《およね》の注意《ちゆうい》で始《はじ》めて知《し》つたのであるが、其後《そのご》氣《き》を付《つ》けて弟《おとうと》の樣子《やうす》をよく見《み》てゐると、成程《なるほど》何《なん》だか眞面目《まじめ》でない所《ところ》もある樣《やう》なので、何時《いつ》かみつちり異見《いけん》でもしなければなるまい位《くらゐ》に考《かんが》へてはゐたが、面白《おもしろ》くもない二人《ふたり》の顏《かほ》を御米《およね》に見《み》せるのが、氣《き》の毒《どく》なので今日《けふ》迄《まで》わざと遠慮《ゑんりよ》してゐたのである。 「云《い》ひ出《だ》すなら御米《およね》の寐《ね》てゐる今《いま》である。今《いま》ならどんな氣不味《きまづ》いことを双方《さうはう》で言《い》ひ募《つの》つたつて、御米《およね》の神經《しんけい》に障《さは》る氣遣《きづかひ》はない」  此所《こゝ》迄《まで》考《かんが》へ付《つ》いたけれども、知覺《ちかく》のない御米《およね》の顏《かほ》を見《み》ると、又《また》其方《そのはう》が氣掛《きがゝり》になつて、すぐにでも起《おこ》したい心持《こゝろもち》がするので、つい決《けつ》し兼《かね》てぐづ/\してゐた。其所《そこ》へ漸《やうや》く醫者《いしや》が來《き》て呉《く》れた。  昨夕《ゆうべ》の折鞄《をりかばん》を又《また》丁寧《ていねい》に傍《わき》へ引《ひ》き付《つ》けて、緩《ゆつ》くり卷烟草《まきたばこ》を吹《ふ》かしながら、宗助《そうすけ》の云《い》ふことを、はあ/\と聞《き》いてゐたが、どれ拜見《はいけん》致《いた》しませうと御米《およね》の方《はう》へ向《む》き直《なほ》つた。彼《かれ》は普通《ふつう》の場合《ばあひ》の樣《やう》に病人《びやうにん》の脉《みやく》を取《と》つて、長《なが》い間《あひだ》自分《じぶん》の時計《とけい》を見詰《みつ》めてゐた。それから黒《くろ》い聽診器《ちやうしんき》を心臟《しんざう》の上《うへ》に當《あ》てた。それを丁寧《ていねい》に彼方《あちら》此方《こちら》と動《うご》かした。最後《さいご》に丸《まる》い穴《あな》の開《あ》いた反射鏡《はんしやきやう》を出《だ》して、宗助《そうすけ》に蝋燭《らふそく》を點《つ》けて呉《く》れと云《い》つた。宗助《そうすけ》は蝋燭《らふそく》を持《も》たないので、清《きよ》に洋燈《らんぷ》を點《つ》けさした。醫者《いしや》は眠《ねむ》つてゐる御米《およね》の眼《め》を押《お》し開《あ》けて、仔細《しさい》に反射鏡《はんしやきやう》の光《ひかり》を睫《まつげ》の奧《おく》に集《あつ》めた。診察《しんさつ》は夫《それ》で終《をは》つた。 「少《すこ》し藥《くすり》が利《き》き過《す》ぎましたね」と云《い》つて宗助《そうすけ》の方《はう》へ向《む》き直《なほ》つたが、宗助《そうすけ》の眼《め》の色《いろ》を見《み》るや否《いな》や、すぐ、 「然《しか》し御心配《ごしんぱい》になる事《こと》はありません。斯《か》う云《い》ふ場合《ばあひ》に、もし惡《わる》い結果《けつくわ》が起《おこ》るとすると、屹度《きつと》心臟《しんざう》か腦《なう》を冒《をか》すものですが、今《いま》拜見《はいけん》した所《ところ》では双方共《さうはうとも》異状《いじやう》は認《みと》められませんから」と説明《せつめい》して呉《く》れた。宗助《そうすけ》はそれで漸《やうや》く安心《あんしん》した。醫者《いしや》は又《また》自分《じぶん》の用《もち》ひた眠《ねむ》り藥《ぐすり》が比較的《ひかくてき》新《あた》らしいもので、學理上《がくりじやう》、他《た》の睡眠劑《すゐみんざい》の樣《やう》に有害《いうがい》でない事《こと》や、また其《その》効目《きゝめ》が患者《くわんじや》の體質《たいしつ》に因《よ》つて、程度《ていど》に大變《たいへん》な相違《さうゐ》のある事《こと》などを語《かた》つて歸《かへ》つた。歸《かへ》るとき宗助《そうすけ》は、 「では寐《ね》られる丈《だけ》寐《ね》かして置《お》いても差支《さしつかへ》ありませんか」と聞《き》いたら、醫者《いしや》は用《よう》さへなければ別《べつ》に起《おこ》す必要《ひつえう》もあるまいと答《こた》へた。  醫者《いしや》が歸《かへ》つたあとで、宗助《そうすけ》は急《きふ》に空腹《くうふく》になつた。茶《ちや》の間《ま》へ出《で》ると、先刻《さつき》掛《か》けて置《お》いた鐵瓶《てつびん》がちん/\沸《たぎ》つてゐた。清《きよ》を呼《よ》んで、膳《ぜん》を出《だ》せと命《めい》ずると、清《きよ》は困《こま》つた顏付《かほつき》をして、まだ何《なん》の用意《ようい》も出來《でき》てゐないと答《こた》へた。成程《なるほど》晩食《ばんめし》には少《すこ》し間《ま》があつた。宗助《そうすけ》は樂々《らく/\》と火鉢《ひばち》の傍《そば》に胡坐《あぐら》を掻《か》いて、大根《だいこん》の香《こう》の物《もの》を噛《か》みながら湯漬《ゆづけ》を四|杯《はい》ほどつゞけ樣《ざま》に掻《か》き込《こ》んだ。それから約《やく》三十|分《ぷん》程《ほど》したら御米《およね》の眼《め》がひとりでに覺《さ》めた。 [#8字下げ]十三[#「十三」は中見出し]  新年《ねん》の頭《あたま》を拵《こし》らえやうといふ氣《き》になつて、宗助《そうすけ》は久《ひさ》し振《ぶり》に髮結床《かみゆひどこ》の敷居《しきゐ》を跨《また》いだ。暮《くれ》の所爲《せゐ》か客《きやく》が大分《だいぶ》立《た》て込《こ》んでゐるので、鋏《はさみ》の音《おと》が二三ヶ|所《しよ》で、同時《どうじ》にちよき/\鳴《な》つた。此《この》寒《さむ》さを無理《むり》に乘《の》り越《こ》して、一日《いちにち》も早《はや》く春《はる》に入《い》らうと焦慮《あせ》るやうな表通《おもてどほり》の活動《くわつどう》を、宗助《そうすけ》は今《いま》見《み》て來《き》たばかりなので、其《その》鋏《はさみ》の音《おと》が、如何《いか》にも忙《せは》しない響《ひゞき》となつて彼《かれ》の鼓膜《こまく》を打《う》つた。  しばらく煖爐《ストーブ》の傍《はた》で烟草《たばこ》を吹《ふ》かして待《ま》つてゐる間《あひだ》に、宗助《そうすけ》は自分《じぶん》と關係《くわんけい》のない大《おほ》きな世間《せけん》の活動《くわつどう》に否應《いやおう》なしに捲《ま》き込《こ》まれて、已《やむ》を得《え》ず年《とし》を越《こ》さなければならない人《ひと》の如《ごと》くに感《かん》じた。正月《しやうぐわつ》を眼《め》の前《まへ》へ控《ひか》えた彼《かれ》は、實際《じつさい》是《これ》といふ新《あた》らしい希望《きばう》もないのに、徒《いたづ》らに周圍《しうゐ》から誘《さそ》はれて、何《なん》だかざわ/\した心持《こゝろもち》を抱《いだ》いてゐたのである。  御米《およね》の發作《ほつさ》は漸《やうや》く落《お》ち付《つ》いた。今《いま》では平日《いつも》の如《ごと》く外《そと》へ出《で》ても、家《うち》の事《こと》がそれ程《ほど》氣《き》に掛《か》ゝらない位《ぐらゐ》になつた。餘所《よそ》に比《くら》べると閑靜《かんせい》な春《はる》の支度《したく》も、御米《およね》から云《い》へば、年《ねん》に一度《いちど》の忙《いそ》がしさには違《ちがひ》なかつたので、或《あるひ》は何時《いつ》も通《どほり》の準備《じゆんび》さへ拔《ぬ》いて、常《つね》よりも簡單《かんたん》に年《とし》を越《こ》す覺悟《かくご》をした宗助《そうすけ》は、蘇生《よみがへ》つた樣《やう》にはつきりした妻《さい》の姿《すがた》を見《み》て、恐《おそ》ろしい悲劇《ひげき》が一|歩《ぽ》遠退《とほの》いた時《とき》の如《ごと》くに、胸《むね》を撫《な》で卸《おろ》した。然《しか》し其《その》悲劇《ひげき》が又《また》何時《いつ》如何《いか》なる形《かたち》で、自分《じぶん》の家族《かぞく》を捕《とら》へに來《く》るか分《わか》らないと云《い》ふ、ぼんやりした掛念《けねん》が、折々《をり/\》彼《かれ》の頭《あたま》のなかに霧《きり》となつて懸《か》かつた。  年《とし》の暮《くれ》に、事《こと》を好《この》むとしか思《おも》はれない世間《せけん》の人《ひと》が、故意《わざ》と短《みじか》い日《ひ》を前《まへ》へ押《お》し出《だ》したがつて齷齪《あくせく》する樣子《やうす》を見《み》ると、宗助《そうすけ》は猶《なほ》の事《こと》この茫漠《ばうばく》たる恐怖《きようふ》の念《ねん》に襲《おそ》はれた。成《な》らうことなら、自分《じぶん》丈《だけ》は陰氣《いんき》な暗《くら》い師走《しはす》の中《うち》に一人《ひとり》殘《のこ》つてゐたい思《おもひ》さへ起《おこ》つた。漸《やうや》く自分《じぶん》の番《ばん》が來《き》て、彼《かれ》は冷《つめ》たい鏡《かゞみ》のうちに、自分《じぶん》の影《かげ》を見出《みいだ》した時《とき》、不圖《ふと》此影《このかげ》は本來《ほんらい》何者《なにもの》だらうと眺《なが》めた。首《くび》から下《した》は眞白《まつしろ》な布《ぬの》に包《つゝ》まれて、自分《じぶん》の着《き》てゐる着物《きもの》の色《いろ》も縞《しま》も全《まつた》く見《み》えなかつた。其時《そのとき》彼《かれ》は又《また》床屋《とこや》の亭主《ていしゆ》が飼《か》つてゐる小鳥《ことり》の籠《かご》が、鏡《かゞみ》の奧《おく》に映《うつ》つてゐる事《こと》に氣《き》が付《つ》いた。鳥《とり》が止《とま》り木《ぎ》の上《うへ》をちらり/\と動《うご》いた。  頭《あたま》へ香《にほひ》のする油《あぶら》を塗《ぬ》られて、景氣《けいき》のいゝ聲《こゑ》を後《うしろ》から掛《か》けられて、表《おもて》へ出《で》たときは、それでも清々《せい/\》した心持《こゝろもち》であつた。御米《およね》の勸《すゝめ》通《どほり》髮《かみ》を刈《か》つた方《はう》が、結局《つまり》氣《き》を新《あら》たにする効果《かうくわ》があつたのを、冷《つめ》たい空氣《くうき》の中《なか》で、宗助《そうすけ》は自覺《じかく》した。  水道税《すゐだうぜい》の事《こと》で一寸《ちよつと》聞《き》き合《あは》せる必要《ひつえう》が生《しやう》じたので、宗助《そうすけ》は歸《かへ》り路《みち》に坂井《さかゐ》へ寄《よ》つた。下女《げぢよ》が出《で》て來《き》て、此方《こちら》へと云《い》ふから、何時《いつ》もの座敷《ざしき》へ案内《あんない》するかと思《おも》ふと、其所《そこ》を通《とほ》り越《こ》して、茶《ちや》の間《ま》へ導《みち》びいていつた。すると茶《ちや》の間《ま》の襖《ふすま》が二|尺《しやく》ばかり開《あ》いてゐて、中《なか》から三四人《さんよにん》の笑《わら》ひ聲《こゑ》が聞《きこ》えた。坂井《さかゐ》の家庭《かてい》は相變《あひかは》らず陽氣《やうき》であつた。  主人《しゆじん》は光澤《つや》の好《い》い長火鉢《ながひばち》の向側《むかふがは》に坐《すわ》つてゐた。細君《さいくん》は火鉢《ひばち》を離《はな》れて、少《すこ》し縁側《えんがは》の障子《しやうじ》の方《はう》へ寄《よ》つて、矢張《やはり》此方《こちら》を向《む》いてゐた。主人《しゆじん》の後《うしろ》に細長《ほそなが》い黒《くろ》い枠《わく》に嵌《は》めた柱時計《はしらどけい》が懸《かゝ》つてゐた。時計《とけい》の右《みぎ》が壁《かべ》で、左《ひだり》が袋戸棚《ふくろとだな》になつてゐた。其《その》張交《はりまぜ》に石摺《いしずり》だの、俳畫《はいぐわ》だの、扇《あふぎ》の骨《ほね》を拔《ぬ》いたものなどが見《み》えた。  主人《しゆじん》と細君《さいくん》の外《ほか》に、筒袖《つゝそで》の揃《そろ》ひの模樣《もやう》の被布《ひふ》を着《き》た女《をんな》の子《こ》が二人《ふたり》肩《かた》を擦《す》り付《つ》け合《あ》つて坐《すわ》つてゐた。片方《かたはう》は十二三で、片方《かたはう》は十《とを》位《ぐらゐ》に見《み》えた。大《おほ》きな眼《め》を揃《そろ》へて、襖《ふすま》の陰《かげ》から入《はひ》つて來《き》た宗助《そうすけ》の方《はう》を向《む》いたが、二人《ふたり》の眼元《めもと》にも口元《くちもと》にも、今《いま》笑《わら》つた許《ばかり》の影《かげ》が、まだゆたかに殘《のこ》つてゐた。宗助《そうすけ》は一應《いちおう》室《へや》の内《うち》を見回《みまは》して、此《この》親子《おやこ》の外《ほか》に、まだ一人《ひとり》妙《めう》な男《をとこ》が、一番《いちばん》入口《いりぐち》に近《ちか》い所《ところ》に畏《かしこ》まつてゐるのを見出《みいだ》した。  宗助《そうすけ》は坐《すわ》つて五|分《ふん》と立《た》たないうちに、先刻《さつき》の笑聲《わらひごゑ》は、此《この》變《へん》な男《をとこ》と坂井《さかゐ》の家族《かぞく》との間《あひだ》に取《と》り換《か》はされた問答《もんだふ》から出《で》る事《こと》を知《し》つた。男《をとこ》は砂埃《すなほこり》でざらつきさうな赤《あか》い毛《け》と、日《ひ》に燒《や》けて生涯《しやうがい》褪《さ》めつこない強《つよ》い色《いろ》を有《も》つてゐた。瀬戸物《せともの》の釦《ぼたん》の着《つ》いた白木綿《しろもめん》の襯衣《しやつ》を着《き》て、手織《ており》の硬《こは》い布子《ぬのこ》の襟《えり》から財布《さいふ》の紐《ひも》見《み》たやうな長《なが》い丸打《まるうち》を懸《か》けた樣子《やうす》は、滅多《めつた》に東京《とうきやう》抔《など》へ出《で》る機會《きくわい》のない遠《とほ》い山《やま》の國《くに》のものとしか受《う》け取《と》れなかつた。其上《そのうへ》男《をとこ》は此《この》寒《さむ》いのに膝小僧《ひざこぞう》を少《すこ》し出《だ》して、紺《こん》の落《お》ちた小倉《こくら》の帶《おび》の尻《しり》に差《さ》した手拭《てぬぐひ》を拔《ぬ》いては鼻《はな》の下《した》を擦《こす》つた。 「是《これ》は甲斐《かひ》の國《くに》から反物《たんもの》を脊負《しよ》つてわざ/\東京《とうきやう》迄《まで》出《で》て來《く》る男《をとこ》なんです」と坂井《さかゐ》の主人《しゆじん》が紹介《せうかい》すると、男《をとこ》は宗助《そうすけ》の方《はう》を向《む》いて、 「何《ど》うか旦那《だんな》、一《ひと》つ買《か》つて御呉《おくれ》」と挨拶《あいさつ》をした。  成程《なるほど》銘仙《めいせん》だの御召《おめし》だの、白紬《しろつむぎ》だのが其所《そこ》ら一面《いちめん》に取《と》り散《ち》らしてあつた。宗助《そうすけ》は此《この》男《をとこ》の形裝《なり》や言葉遣《ことばづかひ》の可笑《をか》しい割《わり》に、立派《りつぱ》な品物《しなもの》を脊中《せなか》へ乘《の》せて歩行《あるく》のを寧《むし》ろ不思議《ふしぎ》に思《おも》つた。主人《しゆじん》の細君《さいくん》の説明《せつめい》によると、此《この》織屋《おりや》の住《す》んでゐる村《むら》は燒石《やけいし》ばかりで、米《こめ》も粟《あは》も収《と》れないから、已《やむ》を得《え》ず桑《くは》を植《う》ゑて蠶《かひこ》を飼《か》ふんださうであるが、餘程《よほど》貧《まづ》しい所《ところ》と見《み》えて、柱時計《はしらどけい》を持《も》つてゐる家《いへ》が一|軒《けん》丈《だけ》で、高等小學《かうとうせうがく》へ通《かよ》ふ小供《こども》が三|人《にん》しかないという話《はなし》であつた。 「字《じ》の書《か》けるものは、此人《このひと》ぎりなんださうですよ」と云《い》つて細君《さいくん》は笑《わら》つた。すると織屋《おりや》も、 「本當《ほんたう》のこんだよ、奧《おく》さん。讀《よ》み書《か》き算筆《さんぴつ》の出來《でき》るものは、己《おれ》より外《ほか》にねえんだからね。全《まつた》く非道《ひど》い所《ところ》にや違《ちがひ》ない」と眞面目《まじめ》に細君《さいくん》の云《い》ふ事《こと》を首肯《うけが》つた。  織屋《おりや》は色々《いろ/\》の反物《たんもの》を主人《しゆじん》や細君《さいくん》の前《まへ》へ突《つ》き付《つ》けては、「買《か》つて御呉《おく》れ」といふ言葉《ことば》をしきりに繰《く》り返《かへ》した。そりや高《たか》いよ幾何々々《いくら/\》に御負《おま》けなどゝ云《い》はれると、「値《ね》ぢやねえね」とか、「拜《をが》むからそれで買《か》つて御呉《おく》れ」とか、「まあ目方《めかた》を見《み》て御呉《おく》れ」とか凡《すべ》て異樣《いやう》な田舍《ゐなか》びた答《こたへ》をした。その度《たび》に皆《みんな》が笑《わら》つた。主人《しゆじん》夫婦《ふうふ》は又《また》閑《ひま》だと見《み》えて、面白半分《おもしろはんぶん》に何時《いつ》迄《まで》も織屋《おりや》を相手《あひて》にした。 「織屋《おりや》、御前《おまへ》さうして荷《に》を脊負《しよ》つて、外《そと》へ出《で》て、時分《じぶん》どきになつたら、矢張《やつぱ》り御膳《ごぜん》を食《た》べるんだらうね」と細君《さいくん》が聞《き》いた。 「飯《めし》を食《く》はねえでゐられるもんぢやないよ。腹《はら》の減《へ》る事《こと》ちうたら」 「何《ど》んな所《ところ》で食《た》べるの」 「何《ど》んな所《ところ》で食《た》べるちうて、矢《や》つ張《ぱ》り茶屋《ちやや》で食《く》ふだね」  主人《しゆじん》は笑《わら》ひながら茶屋《ちやや》とは何《なん》だと聞《き》いた。織屋《おりや》は、飯《めし》を食《く》はす所《ところ》が茶屋《ちやや》だと答《こた》へた。それから東京《とうきやう》へ出立《でたて》には飯《めし》が非常《ひじやう》に旨《うま》いので、腹《はら》を据《す》ゑて食《く》ひ出《だ》すと、大抵《たいてい》の宿屋《やどや》は叶《かな》はない、三度々々《さんど/\》食《く》つちや氣《き》の毒《どく》だと云《い》ふ樣《やう》な事《こと》を話《はな》して、また皆《みんな》を笑《わら》はした。  織屋《おりや》は仕舞《しまひ》に撚糸《よりいと》の紬《つむぎ》と、白絽《しろろ》を一|匹《ぴき》細君《さいくん》に賣《う》り付《つ》けた。宗助《そうすけ》は此《この》押《お》し詰《つま》つた暮《くれ》に、夏《なつ》の絽《ろ》を買《か》ふ人《ひと》を見《み》て餘裕《よゆう》のあるものは又《また》格別《かくべつ》だと感《かん》じた。すると、主人《しゆじん》が宗助《そうすけ》に向《むか》つて、 「何《ど》うです貴方《あなた》も、序《ついで》に何《なに》か一《ひと》つ。奧《おく》さんの不斷着《ふだんぎ》でも」と勸《すゝ》めた。細君《さいくん》もかう云《い》ふ機會《きくわい》に買《か》つて置《お》くと、幾割《いくわり》か値安《ねやす》に買《か》へる便宜《べんぎ》を説《と》いた。さうして、 「なに、御拂《おはらひ》は何時《いつ》でも可《い》いんです」と受合《うけあ》つて呉《く》れた。宗助《そうすけ》はとう/\御米《およね》のために銘仙《めいせん》を一|反《たん》買《か》ふ事《こと》にした。主人《しゆじん》はそれを散々《さん/″\》値切《ねぎ》つて三|圓《ゑん》に負《ま》けさした。織屋《おりや》は負《ま》けた後《あと》で又《また》、 「全《まつた》く値《ね》ぢやねえね。泣《な》きたくなるね」と云《い》つたので、大勢《おほぜい》がまた一度《いちど》に笑《わら》つた。  織屋《おりや》は何處《どこ》へ行《い》つても斯《か》ういふ鄙《ひな》びた言葉《ことば》を使《つか》つて通《とほ》してゐるらしかつた。毎日《まいにち》馴染《なじ》みの家《いへ》をぐる/\回《まは》つて歩《ある》いてゐるうちには、脊中《せなか》の荷《に》が段々《だん/\》輕《かろ》くなつて、仕舞《しまひ》に紺《こん》の風呂敷《ふろしき》と眞田紐《さなだひも》丈《だけ》が殘《のこ》る。其《その》時分《じぶん》には丁度《ちやうど》舊《きう》の正月《しやうぐわつ》が來《く》るので、一先《ひとまづ》國元《くにもと》へ歸《かへ》つて、古《ふる》い春《はる》を山《やま》の中《なか》で越《こ》して、夫《それ》から又《また》新《あた》らしい反物《たんもの》を脊負《しよ》へる丈《だけ》脊負《しよ》つて出《で》て來《く》るのだと云《い》つた。さうして養蠶《やうさん》の忙《せは》しい四|月《ぐわつ》の末《すゑ》か五|月《ぐわつ》の初《はじめ》迄《まで》に、それを悉皆《すつかり》金《かね》に換《か》へて、又《また》富士《ふじ》の北影《きたかげ》の燒石《やけいし》許《ばかり》ころがつてゐる小村《こむら》へ歸《かへ》つて行《ゆ》くのださうである。 「宅《うち》へ來出《きだ》してから、もう四五|年《ねん》になりますが、何時《いつ》見《み》ても同《おな》じ事《こと》で、少《すこ》しも變《かは》らないんですよ」と細君《さいくん》が注意《ちゆうい》した。 「實際《じつさい》珍《めづ》らしい男《をとこ》です」と主人《しゆじん》も評語《ひやうご》を添《そ》えた。三日《みつか》も外《そと》へ出《で》ないと、町幅《まちはゞ》が何時《いつ》の間《ま》にか取《と》り廣《ひろ》げられてゐたり、一日《いちにち》新聞《しんぶん》を讀《よ》まないと、電車《でんしや》の開通《かいつう》を知《し》らずに過《すご》したりする今《いま》の世《よ》に、年《ねん》に二度《にど》も東京《とうきやう》へ出《で》ながら、斯《か》う山男《やまをとこ》の特色《とくしよく》を何處《どこ》迄《まで》も維持《ゐぢ》して行《ゆ》くのは、實際《じつさい》珍《めづ》らしいに違《ちがひ》なかつた。宗助《そうすけ》はつく/″\此《この》織屋《おりや》の容貌《ようばう》やら態度《たいど》やら服裝《ふくさう》やら言葉使《ことばづかひ》やらを觀察《くわんさつ》して、一種《いつしゆ》氣《き》の毒《どく》な思《おもひ》をなした。  彼《かれ》は坂井《さかゐ》を辭《じ》して、家《うち》へ歸《かへ》る途中《とちゆう》にも、折々《をり/\》インヷネスの羽根《はね》の下《した》に抱《かゝ》へて來《き》た銘仙《めいせん》の包《つゝみ》を持《も》ち易《か》へながら、それを三|圓《ゑん》といふ安《やす》い價《ね》で賣《う》つた男《をとこ》の、粗末《そまつ》な布子《ぬのこ》の縞《しま》と、赤《あか》くてばさ/\した髮《かみ》の毛《け》と、其《その》油氣《あぶらけ》のない硬《こは》い髮《かみ》の毛《け》が、何《ど》ういふ譯《わけ》か、頭《あたま》の眞中《まんなか》で立派《りつぱ》に左右《さいう》に分《わ》けられてゐる樣《さま》を、絶《た》えず眼《め》の前《まへ》に浮《うか》べた。  宅《うち》では御米《およね》が宗助《そうすけ》に着《き》せる春《はる》の羽織《はおり》を漸《やうや》く縫《ぬ》ひ上《あ》げて、壓《おし》の代《かは》りに坐蒲團《ざぶとん》の下《した》へ入《い》れて、自分《じぶん》で其上《そのうへ》へ坐《すわ》つてゐる所《ところ》であつた。 「貴方《あなた》今夜《こんや》敷《し》いて寐《ね》て下《くだ》さい」と云《い》つて、御米《およね》は宗助《そうすけ》を顧《かへり》みた。夫《をつと》から、坂井《さかゐ》へ來《き》てゐた甲斐《かひ》の男《をとこ》の話《はなし》を聞《き》いた時《とき》は、御米《およね》も流石《さすが》に大《おほ》きな聲《こゑ》を出《だ》して笑《わら》つた。さうして宗助《そうすけ》の持《も》つて歸《かへ》つた銘仙《めいせん》の縞柄《しまがら》と地合《ぢあひ》を飽《あ》かず眺《なが》めては、安《やす》い/\と云《い》つた。銘仙《めいせん》は全《まつた》く品《しな》の良《い》いものであつた。 「何《ど》うして、さう安《やす》く賣《う》つて割《わり》に合《あ》ふんでせう」と仕舞《しまひ》に聞《き》き出《だ》した。 「なに中《なか》へ立《た》つ呉服屋《ごふくや》が儲《まう》け過《す》ぎてるのさ」と宗助《そうすけ》は其道《そのみち》に明《あか》るい樣《やう》な事《こと》を、此《この》一|反《たん》の銘仙《めいせん》から推斷《すゐだん》して答《こた》へた。  夫婦《ふうふ》の話《はなし》はそれから、坂井《さかゐ》の生活《せいくわつ》に餘裕《よゆう》のある事《こと》と、其《その》餘裕《よゆう》のために、横町《よこちやう》の道具屋《だうぐや》などに意外《いぐわい》な儲《まう》け方《かた》をされる代《かは》りに、時《とき》とすると斯《か》う云《い》ふ織屋《おりや》などから、差《さ》し向《む》き不用《ふよう》のものを廉價《れんか》に買《か》つて置《お》く便宜《べんぎ》を有《いう》してゐる事《こと》などに移《うつ》つて、仕舞《しまひ》に其《その》家庭《かてい》の如何《いか》にも陽氣《やうき》で、賑《にぎ》やかな模樣《もやう》に落《お》ちて行《い》つた。宗助《そうすけ》は其時《そのとき》突然《とつぜん》語調《ごてう》を更《か》へて、 「何《なに》金《かね》があるばかりぢやない。一《ひと》つは子供《こども》が多《おほ》いからさ。子供《こども》さへあれば、大抵《たいてい》貧乏《びんばふ》な家《うち》でも陽氣《やうき》になるものだ」と御米《およね》を覺《さと》した。  其《その》云《い》ひ方《かた》が、自分達《じぶんたち》の淋《さみ》しい生涯《しやうがい》を、多少《たせう》自《みづか》ら窘《たしな》める樣《やう》な苦《にが》い調子《てうし》を、御米《およね》の耳《みゝ》に傳《つた》へたので、御米《およね》は覺《おぼ》えず膝《ひざ》の上《うへ》の反物《たんもの》から手《て》を放《はな》して夫《をつと》の顏《かほ》を見《み》た。宗助《そうすけ》は坂井《さかゐ》から取《と》つて來《き》た品《しな》が、御米《およね》の嗜好《しかう》に合《あ》つたので、久《ひさ》し振《ぶ》りに細君《さいくん》を喜《よろこ》ばせて遣《や》つた自覺《じかく》があるばかりだつたから、別段《べつだん》そこには氣《き》が付《つ》かなかつた。御米《およね》も一寸《ちよつと》宗助《そうすけ》の顏《かほ》を見《み》たなり其時《そのとき》は何《なん》にも云《い》はなかつた。けれども夜《よ》に入《い》つて寐《ね》る時間《じかん》が來《く》る迄《まで》御米《およね》はそれをわざと延《の》ばして置《お》いたのである。  二人《ふたり》は何時《いつ》もの通《とほ》り十|時過《じすぎ》床《とこ》に入《い》つたが、夫《をつと》の眼《め》がまだ覺《さ》めてゐる頃《ころ》を見計《みはか》らつて、御米《およね》は宗助《そうすけ》の方《はう》を向《む》いて話《はな》しかけた。 「貴方《あなた》先刻《さつき》小供《こども》がないと淋《さむ》しくつて不可《いけ》ないと仰《おつ》しやつてね」  宗助《そうすけ》は是《これ》に類似《るゐじ》の事《こと》を普般的《ふはんてき》に云《い》つた覺《おぼえ》は慥《たし》かにあつた。けれどもそれは強《あな》がちに、自分達《じぶんたち》の身《み》の上《うへ》に就《つい》て、特《とく》に御米《およね》の注意《ちゆうい》を惹《ひ》く爲《ため》に口《くち》にした、故意《こい》の觀察《くわんさつ》でないのだから、斯《か》う改《あら》たまつて聞《き》き糺《たゞ》されると、困《こま》るより外《ほか》はなかつた。 「何《なに》も宅《うち》の事《こと》を云《い》つたのぢやないよ」  此《この》返事《へんじ》を受《う》けた御米《およね》は、しばらく默《だま》つてゐた。やがて、 「でも宅《うち》の事《こと》を始終《しじゆう》淋《さむ》しい/\と思《おも》つてゐらつしやるから、必竟《ひつきやう》あんな事《こと》を仰《おつ》しやるんでせう」と前《まへ》と略《ほゞ》似《に》た樣《やう》な問《とひ》を繰《く》り返《かへ》した。宗助《そうすけ》は固《もと》よりさうだと答《こた》へなければならない或物《あるもの》を頭《あたま》の中《なか》に有《も》つてゐた。けれども御米《およね》を憚《はゞか》つて、それ程《ほど》明白地《あからさま》な自白《じはく》を敢《あへ》てし得《え》なかつた。此《この》病氣《びやうき》上《あが》りの細君《さいくん》の心《こゝろ》を休《やす》める爲《ため》には、却《けへ》つてそれを冗談《じようだん》にして笑《わら》つて仕舞《しま》ふ方《はう》が善《よ》からうと考《かんが》へたので、 「淋《さむ》しいと云《い》へば、そりや淋《さむ》しくないでもないがね」と調子《てうし》を易《か》へて成《な》るべく陽氣《やうき》に出《で》たが、其所《そこ》で詰《つま》つたぎり、新《あた》らしい文句《もんく》も、面白《おもしろ》い言葉《ことば》も容易《ようい》に思《おも》ひ付《つ》けなかつた。已《やむ》を得《え》ず、 「まあ可《い》いや。心配《しんぱい》するな」と云《い》つた。御米《およね》はまた何《なん》とも答《こた》へなかつた。宗助《そうすけ》は話題《わだい》を變《か》へやうと思《おも》つて、 「昨夕《ゆうべ》も火事《くわじ》があつたね」と世間話《せけんばなし》をし出《だ》した。すると御米《およね》は急《きふ》に、 「私《わたくし》は實《じつ》に貴方《あなた》に御氣《おき》の毒《どく》で」と切《せつ》なさうに言譯《いひわけ》を半分《はんぶん》して、又《また》それなり默《だま》つて仕舞《しま》つた。洋燈《らんぷ》は何時《いつ》もの樣《やう》に床《とこ》の間《ま》の上《うへ》に据《す》ゑてあつた。御米《およね》は灯《ひ》に背《そむ》いてゐたから、宗助《そうすけ》には顏《かほ》の表情《へうじやう》が判然《はつきり》分《わか》らなかつたけれども、其聲《そのこゑ》は多少《たせう》涙《なみだ》でうるんでゐる樣《やう》に思《おも》はれた。今《いま》迄《まで》仰向《あふむ》いて天井《てんじやう》を見《み》てゐた彼《かれ》は、すぐ妻《さい》の方《はう》へ向《む》き直《なほ》つた。さうして薄暗《うすぐら》い影《かげ》になつた御米《およね》の顏《かほ》を凝《じつ》と眺《なが》めた。御米《およね》も暗《くら》い中《なか》から凝《じつ》と宗助《そうすけ》を見《み》てゐた。さうして、 「疾《とう》から貴方《あなた》に打《う》ち明《あ》けて謝罪《あや》まらう/\と思《おも》つてゐたんですが、つい言《い》ひ惡《にく》かつたもんだから、夫《それ》なりにして置《お》いたのです」と途切《とぎ》れ/\に云《い》つた。宗助《そうすけ》には何《なん》の意味《いみ》か丸《まる》で解《わか》らなかつた。多少《たせう》はヒステリーの所爲《せゐ》かとも思《おも》つたが、全然《ぜんぜん》さうとも決《けつ》しかねて、しばらく茫然《ぼんやり》してゐた。すると御米《およね》が思《おも》ひ詰《つ》めた調子《てうし》で、 「私《わたくし》にはとても子供《こども》の出來《でき》る見込《みこみ》はないのよ」と云《い》ひ切《き》つて泣《な》き出《だ》した。  宗助《そうすけ》は此《この》可憐《かれん》な自白《じはく》を何《ど》う慰《なぐ》さめて可《い》いか分別《ふんべつ》に餘《あま》つて當惑《たうわく》してゐたうちにも、御米《およね》に對《たい》して甚《はなは》だ氣《き》の毒《どく》だといふ思《おもひ》が非常《ひじやう》に高《たか》まつた。 「子供《こども》なんざ、無《な》くても可《い》いぢやないか。上《うへ》の坂井《さかゐ》さん見《み》た樣《やう》に澤山《たくさん》生《うま》れて御覽《ごらん》、傍《はた》から見《み》てゐても氣《き》の毒《どく》だよ。丸《まる》で幼穉園《えうちゑん》の樣《やう》で」 「だつて一人《ひとり》も出來《でき》ないと極《きま》つちまつたら、貴方《あなた》だつて好《よ》かないでせう」 「まだ出來《でき》ないと極《きま》りやしないぢやないか。是《これ》から生《うま》れるかも知《し》れないやね」  御米《およね》は猶《なほ》と泣《な》き出《だ》した。宗助《そうすけ》も途方《とはう》に暮《く》れて、發作《ほつさ》の治《をさ》まるのを穩《おだ》やかに待《ま》つてゐた。さうして、緩《ゆつ》くり御米《およね》の説明《せつめい》を聞《き》いた。  夫婦《ふうふ》は和合《わがふ》同棲《どうせい》といふ點《てん》に於《おい》て、人並《ひとなみ》以上《いじやう》に成功《せいこう》したと同時《どうじ》に、子供《こども》にかけては、一般《いつぱん》の隣人《りんじん》よりも不幸《ふかう》であつた。それも始《はじめ》から宿《やど》る種《たね》がなかつたのなら、まだしもだが、育《そだ》つべきものを中途《ちゆうと》で取《と》り落《おと》したのだから、更《さら》に不幸《ふかう》の感《かん》が深《ふか》かつた。  始《はじ》めて身重《みおも》になつたのは、二人《ふたり》が京都《きやうと》を去《さ》つて、廣島《ひろしま》に瘠世帶《やせじよたい》を張《は》つてゐる時《とき》であつた。懷姙《くわいにん》と事《こと》が極《きま》つたとき、御米《およね》は此《この》新《あた》らしい經驗《けいけん》に對《たい》して、恐《おそ》ろしい未來《みらい》と、嬉《うれ》しい未來《みらい》を一度《いちど》に夢《ゆめ》に見《み》る樣《やう》な心持《こゝろもち》を抱《いだ》いて日《ひ》を過《す》ごした。宗助《そうすけ》はそれを眼《め》に見《み》えない愛《あい》の精《せい》に、一種《いつしゆ》の確證《かくしよう》となるべき形《かたち》を與《あた》へた事實《じじつ》と、ひとり解釋《かいしやく》して少《すく》なからず喜《よろこ》んだ。さうして自分《じぶん》の命《いのち》を吹《ふ》き込《こ》んだ肉《にく》の塊《かたまり》が、目《め》の前《まへ》に踴《をど》る時節《じせつ》を指《ゆび》を折《を》つて樂《たの》しみに待《ま》つた。所《ところ》が胎兒《たいじ》は、夫婦《ふうふ》の豫期《よき》に反《はん》して、五ヶ|月《げつ》迄《まで》育《そだ》つて突然《とつぜん》下《お》りて仕舞《しま》つた。其《その》時分《じぶん》の夫婦《ふうふ》の活計《くらし》は苦《くる》しい苛《つら》い月《つき》ばかり續《つゞ》いてゐた。宗助《そうすけ》は流産《りうざん》した御米《およね》の蒼《あを》い顏《かほ》を眺《なが》めて、是《これ》も必竟《つまり》は世帶《しよたい》の苦勞《くらう》から起《おこ》るんだと判《はん》じた。さうして愛情《あいじやう》の結果《けつくわ》が、貧《ひん》のために打《う》ち崩《くづ》されて、永《なが》く手《て》の裡《うち》に捕《とら》へる事《こと》の出來《でき》なくなつたのを殘念《ざんねん》がつた。御米《およね》はひたすら泣《な》いた。  福岡《ふくをか》へ移《うつ》つてから間《ま》もなく、御米《およね》は又《また》酸《す》いものを嗜《たし》む人《ひと》となつた。一度《いちど》流産《りうざん》すると癖《くせ》になると聞《き》いたので、御米《およね》は萬《よろづ》に注意《ちゆうい》して、つゝましやかに振舞《ふるま》つてゐた。其《その》所爲《せゐ》か經過《けいくわ》は至極《しごく》順當《じゆんたう》に行《い》つたが、どうした譯《わけ》か、是《これ》といふ原因《げんいん》もないのに、月足《つきた》らずで生《うま》れて仕舞《しま》つた。産婆《さんば》は首《くび》を傾《かたむ》けて、一|度《ど》醫者《いしや》に見《み》せる樣《やう》に勸《すゝ》めた。醫者《いしや》に診《み》て貰《もら》ふと、發育《はついく》が充分《じゆうぶん》でないから、室内《しつない》の温度《をんど》を一定《いつてい》の高《たか》さにして、晝夜《ちうや》とも變《かは》らない位《くらゐ》、人工的《じんこうてき》に暖《あたゝ》めなければ不可《いけ》ないと云《い》つた。宗助《そうすけ》の手際《てぎは》では、室内《しつない》に煖爐《だんろ》を据《す》ゑ付《つ》ける設備《せつび》をする丈《だけ》でも容易《ようい》ではなかつた。夫婦《ふうふ》はわが時間《じかん》と算段《さんだん》の許《ゆる》す限《かぎ》りを盡《つく》して、專念《せんねん》に赤兒《あかご》の命《いのち》を護《まも》つた。けれども凡《すべ》ては徒勞《とらう》に歸《き》した。一|週間《しうかん》の後《のち》、二人《ふたり》の血《ち》を分《わ》けた情《なさけ》の塊《かたまり》は遂《つひ》に冷《つめ》たくなつた。御米《およね》は幼兒《えうじ》の亡骸《なきがら》を抱《だ》いて、 「何《ど》うしませう」と啜《すゝ》り泣《な》いた。宗助《そうすけ》は再度《さいど》の打撃《だげき》を男《をとこ》らしく受《う》けた。冷《つめ》たい肉《にく》が灰《はひ》になつて、其灰《そのはひ》が又《また》黒《くろ》い土《つち》に和《くわ》する迄《まで》、一口《ひとくち》も愚癡《ぐち》らしい言葉《ことば》は出《だ》さなかつた。其内《そのうち》何時《いつ》となく、二人《ふたり》の間《あひだ》に挾《はさ》まつてゐた影《かげ》の樣《やう》なものが、次第《しだい》に遠退《とほの》いて程《ほど》なく消《き》えて仕舞《しま》つた。  すると三|度目《どめ》の記憶《きおく》が來《き》た。宗助《そうすけ》が東京《とうきやう》に移《うつ》つて始《はじめ》ての年《とし》に、御米《およね》は又《また》懷姙《くわいにん》したのである。出京《しゆつきやう》の當座《たうざ》は、大分《だいぶん》身體《からだ》が衰《おと》ろへてゐたので、御米《およね》は勿論《もちろん》、宗助《そうすけ》もひどく其所《そこ》を氣遣《きづか》つたが、今度《こんど》こそはといふ腹《はら》は兩方《りやうはう》にあつたので、張《はり》のある月《つき》を無事《ぶじ》に段々《だん/\》と重《かさ》ねて行《い》つた。所《ところ》が丁度《ちやうど》五月目《いつつきめ》になつて、御米《およね》は又《また》意外《いぐわい》の失敗《しくじり》を遣《や》つた。其頃《そのころ》はまだ水道《すゐだう》も引《ひ》いてなかつたから、朝晩《あさばん》下女《げぢよ》が井戸端《ゐどばた》へ出《で》て水《みづ》を汲《く》んだり、洗濯《せんたく》をしなければならなかつた。御米《およね》はある日《ひ》裏《うら》にゐる下女《げぢよ》に云《い》ひ付《つ》ける用《よう》が出來《でき》たので、井戸流《ゐどながし》の傍《そば》に置《お》いた盥《たらひ》の傍迄《そばまで》行《い》つて話《はなし》をした序《ついで》に、流《ながし》を向《むかふ》へ渡《わた》らうとして、青《あを》い苔《こけ》の生《は》へてゐる濡《ぬ》れた板《いた》の上《うへ》へ尻持《しりもち》を突《つ》いた。御米《およね》はまた遣《や》り損《そく》なつたとは思《おも》つたが、自分《じぶん》の粗忽《そこつ》を面目《めんぼく》ながつて、宗助《そうすけ》にはわざと何事《なにごと》も語《かた》らずに其場《そのば》を通《とほ》した。けれども此《この》震動《しんどう》が、何時《いつ》迄《まで》經《た》つても胎兒《たいじ》の發育《はついく》に是《これ》といふ影響《えいきやう》も及《およ》ぼさず、從《したが》つて自分《じぶん》の身體《からだ》にも少《すこ》しの異状《いじやう》を引《ひ》き起《おこ》さなかつた事《こと》が慥《たしか》に分《わか》つた時《とき》、御米《およね》は漸《やうや》く安心《あんしん》して、過去《くわこ》の失《しつ》を改《あらた》めて宗助《そうすけ》の前《まへ》に告《つ》げた。宗助《そうすけ》は固《もと》より妻《つま》を咎《とが》める意《い》もなかつた。たゞ、 「能《よ》く氣《き》を付《つ》けないと危《あぶ》ないよ」と穩《おだ》やかに注意《ちゆうい》を加《くは》へて過《す》ぎた。  兎角《とかく》するうちに月《つき》が滿《み》ちた。愈《いよ/\》生《うま》れるといふ間際《まぎは》迄《まで》日《ひ》が詰《つま》つたとき、宗助《そうすけ》は役所《やくしよ》へ出《で》ながらも、御米《およね》の事《こと》がしきりに氣《き》に掛《かゝ》つた。歸《かへ》りには何時《いつ》も、今日《けふ》はことによると留守《るす》のうちに抔《など》と案《あん》じ續《つゞ》けては、自分《じぶん》の家《いへ》の格子《かうし》の前《まへ》に立《た》つた。さうして半《なか》ば豫期《よき》してゐる赤兒《あかご》の泣聲《なきごゑ》が聞《きこ》えないと、却《かへ》つて何《なに》かの變《へん》でも起《おこ》つたらしく感《かん》じて、急《いそ》いで宅《うち》へ飛《と》び込《こ》んで、自分《じぶん》と自分《じぶん》の粗忽《そこつ》を耻《は》づる事《こと》があつた。  幸《さいはひ》に御米《およね》の産氣《さんけ》づいたのは、宗助《そうすけ》の外《そと》に用《よう》のない夜中《よなか》だつたので、傍《そば》にゐて世話《せわ》の出來《でき》ると云《い》ふ點《てん》から見《み》れば甚《はなは》だ都合《つがふ》が好《よ》かつた。産婆《さんば》も緩《ゆつ》くり間《ま》に合《あ》ふし、脱脂綿《だつしめん》其他《そのた》の準備《じゆんび》も悉《こと/″\》く不足《ふそく》なく取《と》り揃《そろ》へてあつた。産《さん》も案外《あんぐわい》輕《かる》かつた。けれども肝心《かんじん》の小兒《こども》は、たゞ子宮《しきゆう》を逃《のが》れて廣《ひろ》い所《ところ》へ出《で》たといふ迄《まで》で、浮世《うきよ》の空氣《くうき》を一口《ひとくち》も呼吸《こきふ》しなかつた。産婆《さんば》は細《ほそ》い硝子《がらす》の管《くだ》の樣《やう》なものを取《と》つて、小《ち》さい口《くち》の内《なか》へ強《つよ》い呼息《いき》をしきりに吹《ふ》き込《こ》んだが、効目《きゝめ》は丸《まる》でなかつた。生《うま》れたものは肉丈《にくだけ》であつた。夫婦《ふうふ》は此肉《このにく》に刻《きざ》み付《つ》けられた、眼《め》と鼻《はな》と口《くち》とを髣髴《はうふつ》した。然《しか》し其《その》咽喉《のど》から出《で》る聲《こゑ》は遂《つひ》に聞《き》く事《こと》が出來《でき》なかつた。  産婆《さんば》は出産《しゆつさん》のあつたつい一|週間《しうかん》前《まへ》に來《き》て、丁寧《ていねい》に胎兒《たいじ》の心臟《しんざう》迄《まで》聽診《ちやうしん》して、至極《しごく》御健全《ごけんぜん》だと保證《ほしよう》して行《い》つたのである。よし産婆《さんば》の云《い》ふ事《こと》に間違《まちがひ》があつて、腹《はら》の兒《こ》の發育《はついく》が今迄《いままで》のうちに何處《どこ》かで止《とま》つてゐたにした所《ところ》で、それが直《すぐ》取《と》り出《だ》されない以上《いじやう》、母體《ぼたい》は今日《こんにち》迄《まで》平氣《へいき》に持《も》ち應《こた》へる譯《わけ》がなかつた。其所《そこ》を段々《だん/\》調《しら》べて見《み》て、宗助《そうすけ》は自分《じぶん》が未《いま》だ嘗《かつ》て聞《き》いた事《こと》のない事實《じじつ》を發見《はつけん》した時《とき》に、思《おも》はず恐《おそ》れ驚《おど》ろいた。胎兒《たいじ》は出《で》る間際《まぎは》迄《まで》健康《けんかう》であつたのである。けれども臍帶纏絡《さいたいてんらく》と云《い》つて、俗《ぞく》に云《い》ふ胞《えな》を頸《くび》へ捲《ま》き付《つ》けてゐた。斯《か》う云《い》ふ異常《いじやう》の場合《ばあひ》には、固《もと》より産婆《さんば》の腕《うで》で切《き》り拔《ぬ》けるより外《ほか》に仕樣《しやう》のないもので、經驗《けいけん》のある婆《ばあ》さんなら、取《と》り上《あ》げる時《とき》に、旨《うま》く頸《くび》に掛《か》ゝつた胞《えな》を外《はづ》して引《ひ》き出《だ》す筈《はず》であつた。宗助《そうすけ》の頼《たの》んだ産婆《さんば》も可成《かなり》年《とし》を取《と》つてゐる丈《だけ》に、此《この》位《くらゐ》のことは心得《こゝろえ》てゐた。然《しか》し胎兒《たいじ》の頸《くび》を絡《から》んでゐた臍帶《さいたい》は、時《とき》たまある如《ごと》く一重《ひとへ》ではなかつた。二重《ふたへ》に細《ほそ》い咽喉《のど》を卷《ま》いてゐる胞《えな》を、あの細《ほそ》い所《ところ》を通《とほ》す時《とき》に外《はづ》し損《そく》なつたので、小兒《こども》はぐつと氣管《きくわん》を絞《し》められて窒息《ちつそく》して仕舞《しま》つたのである。  罪《つみ》は産婆《さんば》にもあつた。けれども半《なかば》以上《いじやう》は御米《およね》の落度《おちど》に違《ちがひ》なかつた。臍帶纏絡《さいたいてんらく》の變状《へんじやう》は、御米《およね》が井戸端《ゐどばた》で滑《すべ》つて痛《いた》く尻餠《しりもち》を搗《つ》いた五ヶ|月《げつ》前《まへ》既《すで》に自《みづか》ら釀《かも》したものと知《し》れた。御米《およね》は産後《さんご》の蓐中《じよくちゆう》に其《その》始末《しまつ》を聞《き》いて、たゞ輕《かる》く首肯《うなづ》いたぎり何《なん》にも云《い》はなかつた。さうして、疲勞《ひらう》に少《すこ》し落《お》ち込《こ》んだ眼《め》を霑《うる》ませて、長《なが》い睫毛《まつげ》をしきりに動《うご》かした。宗助《そうすけ》は慰《なぐ》さめながら、手帛《はんけち》で頬《ほゝ》に流《なが》れる涙《なみだ》を拭《ふ》いて遣《や》つた。  是《これ》が子供《こども》に關《くわん》する夫婦《ふうふ》の過去《くわこ》であつた。此《この》苦《にが》い經驗《けいけん》を甞《な》めた彼等《かれら》は、それ以後《いご》幼兒《えうじ》に就《つい》て餘《あま》り多《おほ》くを語《かた》るを好《この》まなかつた。けれども二人《ふたり》の生活《せいくわつ》の裏側《うらがは》は、此《この》記憶《きおく》のために淋《さむ》しく染《そ》め付《つ》けられて、容易《ようい》に剥《は》げさうには見《み》えなかつた。時《とき》としては、彼我《ひが》の笑聲《わらひごゑ》を通《とほ》してさへ、御互《おたがひ》の胸《むね》に、此《この》裏側《うらがは》が薄暗《うすぐら》く映《うつ》る事《こと》もあつた。斯《か》ういふ譯《わけ》だから、過去《くわこ》の歴史《れきし》を今《いま》夫《をつと》に向《むか》つて新《あら》たに繰《く》り返《かへ》さうとは、御米《およね》も思《おも》ひ寄《よ》らなかつたのである。宗助《そうすけ》も今更《いまさら》妻《つま》からそれを聞《き》かせられる必要《ひつえう》は少《すこ》しも認《みと》めてゐなかつたのである。  御米《およね》の夫《をつと》に打《う》ち明《あ》けると云《い》つたのは、固《もと》より二人《ふたり》の共有《きよういう》してゐた事實《じじつ》に就《つい》てではなかつた。彼女《かのぢよ》は三|度目《どめ》の胎兒《たいじ》を失《うしな》つた時《とき》、夫《をつと》から其折《そのをり》の模樣《もやう》を聞《き》いて、如何《いか》にも自分《じぶん》が殘酷《ざんこく》な母《はゝ》であるかの如《ごと》く感《かん》じた。自分《じぶん》が手《て》を下《くだ》した覺《おぼえ》がないにせよ、考《かんが》へ樣《やう》によつては、自分《じぶん》と生《せい》を與《あた》へたものの生《せい》を奪《うば》ふために、暗闇《くらやみ》と明海《あかるみ》の途中《とちゆう》に待《ま》ち受《う》けて、これを絞殺《かうさつ》したと同《おな》じ事《こと》であつたからである。斯《か》う解釋《かいしやく》した時《とき》、御米《およね》は恐《おそ》ろしい罪《つみ》を犯《をか》した惡人《あくにん》と己《おのれ》を見傚《みな》さない譯《わけ》に行《ゆ》かなかつた。さうして思《おも》はざる徳義上《とくぎじやう》の苛責《かしやく》を人知《ひとし》れず受《う》けた。しかも其《その》苛責《かしやく》を分《わか》つて、共《とも》に苦《くる》しんで呉《く》れるものは世界中《せかいぢゆう》に一人《ひとり》もなかつた。御米《およね》は夫《をつと》にさへ此《この》苦《くる》しみを語《かた》らなかつたのである。  彼女《かのぢよ》は其時《そのとき》普通《ふつう》の産婦《さんぷ》の樣《やう》に、三|週間《しうかん》を床《とこ》の中《なか》で暮《く》らした。それは身體《からだ》から云《い》ふと極《きは》めて安靜《あんせい》の三|週間《しうかん》に違《ちがひ》なかつた。同時《どうじ》に心《こゝろ》から云《い》ふと、恐《おそ》るべき忍耐《にんたい》の三|週間《しうかん》であつた。宗助《そうすけ》は亡兒《ばうじ》のために、小《ちひ》さい柩《ひつぎ》を拵《こし》らえて、人《ひと》の眼《め》に立《た》たない葬儀《さうぎ》を營《いと》なんだ。しかる後《のち》、又《また》死《し》んだもののために小《ちひ》さな位牌《ゐはい》を作《つく》つた。位牌《ゐはい》には黒《くろ》い漆《うるし》で戒名《かいみやう》が書《か》いてあつた。位牌《ゐはい》の主《ぬし》は戒名《かいみやう》を持《も》つてゐた。けれども俗名《ぞくみやう》は兩親《ふたおや》といへども知《し》らなかつた。宗助《そうすけ》は最初《さいしよ》それを茶《ちや》の間《ま》の箪笥《たんす》の上《うへ》へ載《の》せて、役所《やくしよ》から歸《かへ》ると絶《た》えず線香《せんかう》を焚《た》いた。其《その》香《にほひ》が六|疊《でふ》に寐《ね》てゐる御米《およね》の鼻《はな》に時々《とき/″\》通《かよ》つた。彼女《かのぢよ》の官能《くわんのう》は當時《たうじ》それ程《ほど》に鋭《する》どくなつてゐたのである。しばらくしてから、宗助《そうすけ》は何《なに》を考《かんが》へたか、小《ちひ》さい位牌《ゐはい》を箪笥《たんす》の抽出《ひきだし》の底《そこ》へ仕舞《しま》つてしまつた。其所《そこ》には福岡《ふくをか》で亡《な》くなつた小供《こども》の位牌《ゐはい》と、東京《とうきやう》で死《し》んだ父《ちゝ》の位牌《ゐはい》が別々《べつ/\》に綿《わた》で包《くる》んで丁寧《ていねい》に入《い》れてあつた。東京《とうきやう》の家《いへ》を疊《たゝ》むとき宗助《そうすけ》は先祖《せんぞ》の位牌《ゐはい》を一《ひと》つ殘《のこ》らず携《たづさ》えて、諸所《しよしよ》を漂泊《へうはく》するの煩《わづら》はしさに堪《た》えなかつたので、新《あた》らしい父《ちゝ》の分丈《ぶんだけ》を鞄《かばん》の中《なか》に収《をさ》めて、其他《そのた》は悉《こと/″\》く寺《てら》へ預《あづ》けて置《お》いたのである。  御米《およね》は宗助《そうすけ》のする凡《すべ》てを寐《ね》ながら見《み》たり聞《き》いたりしてゐた。さうして布團《ふとん》の上《うへ》に仰向《あふむけ》になつた儘《まゝ》、此《この》二《ふた》つの小《ち》さい位牌《ゐはい》を、眼《め》に見《み》えない因果《いんぐわ》の糸《いと》を長《なが》く引《ひ》いて互《たがひ》に結《むす》び付《つ》けた。それから其《その》糸《いと》を猶《なほ》遠《とほ》く延《の》ばして、是《これ》は位牌《ゐはい》にもならずに流《なが》れて仕舞《しま》つた、始《はじ》めから形《かたち》のない、ぼんやりした影《かげ》の樣《やう》な死兒《しじ》の上《うへ》に投《な》げかけた。御米《およね》は廣島《ひろしま》と福岡《ふくをか》と東京《とうきやう》に殘《のこ》る一《ひと》つ宛《づゝ》の記憶《きおく》の底《そこ》に、動《うご》かしがたい運命《うんめい》の嚴《おごそ》かな支配《しはい》を認《みと》めて、其《その》嚴《おごそ》かな支配《しはい》の下《もと》に立《た》つ、幾月日《いくつきひ》の自分《じぶん》を、不思議《ふしぎ》にも同《おな》じ不幸《ふかう》を繰《く》り返《かへ》すべく作《つく》られた母《はゝ》であると觀《くわん》じた時《とき》、時《とき》ならぬ呪咀《のろひ》の[#「呪咀の」はママ]聲《こゑ》を耳《みゝ》の傍《はた》に聞《き》いた。彼女《かのぢよ》が三|週間《しうかん》の安靜《あんせい》を、蒲團《ふとん》の上《うへ》に貪《むさ》ぼらなければならないやうに、生理的《せいりてき》に強《し》ひられてゐる間《あひだ》、彼女《かのぢよ》の鼓膜《こまく》は此《この》呪咀《のろひ》の[#「呪咀の」はママ]聲《こゑ》で殆《ほと》んど絶《た》えず鳴《な》つてゐた。三|週間《しうかん》の安臥《あんぐわ》は、御米《およね》に取《と》つて實《じつ》に比類《ひるゐ》のない忍耐《にんたい》の三|週間《しうかん》であつた。  御米《およね》は此《この》苦《くる》しい半月《はんつき》餘《あま》りを、枕《まくら》の上《うへ》で凝《じつ》と見詰《みつ》めながら過《す》ごした。仕舞《しまひ》には我慢《がまん》して横《よこ》になつてゐるのが、如何《いか》にも苛《つら》かつたので、看護婦《かんごふ》の歸《かへ》つた明《あく》る日《ひ》に、こつそり起《お》きてぶら/\して見《み》たが、それでも心《こゝろ》に逼《せま》る不安《ふあん》は、容易《ようい》に紛《まぎ》らせなかつた。退儀《たいぎ》な身體《からだ》を無理《むり》に動《うご》かす割《わり》に、頭《あたま》の中《なか》は少《すこ》しも動《うご》いて呉《く》れないので、又《また》落膽《がつか》りして、ついには取《と》り放《はな》しの夜具《やぐ》の下《した》へ潛《もぐ》り込《こ》んで、人《ひと》の世《よ》を遠《とほ》ざける樣《やう》に、眼《め》を堅《かた》く閉《つぶ》つて仕舞《しま》ふ事《こと》もあつた。  其内《そのうち》定期《ていき》の三|週間《しうかん》も過《す》ぎて、御米《およね》の身體《からだ》は自《おのづ》からすつきりなつた。御米《およね》は奇麗《きれい》に床《とこ》を拂《はら》つて、新《あた》らしい氣《き》のする眉《まゆ》を再《ふたゝ》び鏡《かゞみ》に照《て》らした。それは更衣《ころもがへ》の時節《じせつ》であつた。御米《およね》も久《ひさ》し振《ぶり》に綿《わた》の入《い》つた重《おも》いものを脱《ぬ》ぎ棄《す》てゝ、肌《はだ》に垢《あか》の觸《ふ》れない輕《かる》い氣持《きもち》を爽《さわ》やかに感《かん》じた。春《はる》と夏《なつ》の境《さかひ》をぱつと飾《かざ》る陽氣《やうき》な日本《にほん》の風物《ふうぶつ》は、淋《さむ》しい御米《およね》の頭《あたま》にも幾分《いくぶん》かの反響《はんきやう》を與《あた》へた。けれども、夫《それ》はたゞ沈《しづ》んだものを掻《か》き立《た》てて、賑《にぎ》やかな光《ひか》りのうちに浮《う》かした迄《まで》であつた。御米《およね》の暗《くら》い過去《くわこ》の中《なか》に其時《そのとき》一種《いつしゆ》の好奇心《かうきしん》が萠《きざ》したのである。  天氣《てんき》の勝《すぐ》れて美《うつ》くしいある日《ひ》の午前《ごぜん》、御米《およね》は何時《いつ》もの通《とほ》り宗助《そうすけ》を送《おく》り出《だ》してから直《ぢき》に、表《おもて》へ出《で》た。もう女《をんな》は日傘《ひがさ》を差《さ》して外《そと》を行《ゆ》くべき時節《じせつ》であつた。急《いそ》いで日向《ひなた》を歩《ある》くと額《ひたひ》の邊《あたり》が少《すこ》し汗《あせ》ばんだ。御米《およね》は歩《ある》き/\、着物《きもの》を着換《きか》える時《とき》、箪笥《たんす》を開《あ》けたら、思《おも》はず一|番目《ばんめ》の抽出《ひきだし》の底《そこ》に仕舞《しま》つてあつた、新《あた》らしい位牌《ゐはい》に手《て》が觸《ふ》れた事《こと》を思《おも》ひつゞけて、とう/\ある易者《えきしや》の門《もん》を潛《くゞ》つた。  彼女《かのぢよ》は多數《たすう》の文明人《ぶんめいじん》に共通《きようつう》な迷信《めいしん》を子供《こども》の時《とき》から持《も》つてゐた。けれども平生《へいぜい》は其《その》迷信《めいしん》が又《また》多數《たすう》の文明人《ぶんめいじん》と同《おな》じ樣《やう》に、遊戲的《いうぎてき》に外《そと》に現《あら》はれる丈《だけ》で濟《す》んでゐた。それが實生活《じつせいくわつ》の嚴《おごそ》かな部分《ぶぶん》を冒《をか》す樣《やう》になつたのは、全《まつた》く珍《めづ》らしいと云《い》はなければならなかつた。御米《およね》は其時《そのとき》眞面目《まじめ》な態度《たいど》と眞面目《まじめ》な心《こゝろ》を有《も》つて、易者《えきしや》の前《まへ》に坐《すわ》つて、自分《じぶん》が將來《しやうらい》子《こ》を生《う》むべき、又《また》子《こ》を育《そだ》てるべき運命《うんめい》を天《てん》から與《あた》へられるだらうかを確《たしか》めた。易者《えきしや》は大道《だいだう》に店《みせ》を出《だ》して、徃來《わうらい》の人《ひと》の身《み》の上《うへ》を一二錢《いちにせん》で占《うら》なふ人《ひと》と、少《すこ》しも違《ちが》つた樣子《やうす》もなく、算木《さんぎ》を色々《いろ/\》に並《なら》べて見《み》たり、筮竹《ぜいちく》を揉《も》んだり數《かぞ》へたりした後《あと》で、仔細《しさい》らしく腮《あご》の下《した》の髯《ひげ》を握《にぎ》つて何《なに》か考《かんが》へたが、終《をは》りに御米《およね》の顏《かほ》をつく/″\眺《なが》めた末《すゑ》、 「貴方《あなた》には子供《こども》は出來《でき》ません」と落《お》ち付《つ》き拂《はら》つて宣告《せんこく》した。御米《およね》は無言《むごん》の儘《まゝ》、しばらく易者《えきしや》の言葉《ことば》を頭《あたま》の中《なか》で噛《か》んだり碎《くだ》いたりした。それから顏《かほ》を上《あ》げて、 「何故《なぜ》でせう」と聞《き》き返《かへ》した。其時《そのとき》御米《およね》は易者《えきしや》が返事《へんじ》をする前《まへ》に、又《また》考《かんが》へるだらうと思《おも》つた。所《ところ》が彼《かれ》はまともに御米《およね》の眼《め》の間《あひだ》を見詰《みつ》めたまゝ、すぐ 「貴方《あなた》は人《ひと》に對《たい》して濟《す》まない事《こと》をした覺《おぼえ》がある。其《その》罪《つみ》が祟《たゝ》つてゐるから、子供《こども》は決《けつ》して育《そだ》たない」と云《い》ひ切《き》つた。御米《およね》は此《この》一言《いちげん》に心臟《しんざう》を射拔《いぬ》かれる思《おもひ》があつた。くしやりと首《くび》を折《を》つたなり家《うち》へ歸《かへ》つて、其《その》夜《よる》は夫《をつと》の顏《かほ》さへ碌々《ろく/\》見上《みあ》げなかつた。  御米《およね》の宗助《そうすけ》に打《う》ち明《あ》けないで、今迄《いままで》過《すご》したといふのは、此《この》易者《えきしや》の判斷《はんだん》であつた。宗助《そうすけ》は床《とこ》の間《ま》に乘《の》せた細《ほそ》い洋燈《らんぷ》の灯《ひ》が、夜《よる》の中《なか》に沈《しづ》んで行《ゆ》きさうな靜《しづ》かな晩《ばん》に、始《はじ》めて御米《およね》の口《くち》から其《その》話《はなし》を聞《き》いたとき、流石《さすが》に好《い》い氣味《きみ》はしなかつた。 「神經《しんけい》の起《おこ》つた時《とき》、わざ/\そんな馬鹿《ばか》な所《ところ》へ出掛《でかけ》るからさ。錢《ぜに》を出《だ》して下《くだ》らない事《こと》を云《い》はれて詰《つま》らないぢやないか。其後《そのご》もその占《うらなひ》の宅《うち》へ行《ゆ》くのかい」 「恐《おそ》ろしいから、もう決《けつ》して行《い》かないわ」 「行《い》かないが可《い》い。馬鹿氣《ばかげ》てゐる」  宗助《そうすけ》はわざと鷹揚《おうやう》な答《こたへ》をして又《また》寐《ね》て仕舞《しま》つた。 [#8字下げ]十四[#「十四」は中見出し]  宗助《そうすけ》と御米《およね》とは仲《なか》の好《い》い夫婦《ふうふ》に違《ちがひ》なかつた。一所《いつしよ》になつてから今日《こんにち》迄《まで》六|年《ねん》程《ほど》の長《なが》い月日《つきひ》をまだ半日《はんにち》も氣不味《きまづ》く暮《くら》した事《こと》はなかつた。言逆《いさかひ》に顏《かほ》を赤《あか》らめ合《あ》つた試《ためし》は猶《なほ》なかつた。二人《ふたり》は呉服屋《ごふくや》の反物《たんもの》を買《か》つて着《き》た。米屋《こめや》から米《こめ》を取《と》つて食《く》つた。けれども其他《そのた》には一般《いつぱん》の社會《しやくわい》に待《ま》つ所《ところ》の極《きは》めて少《すく》ない人間《にんげん》であつた。彼等《かれら》は、日常《にちじやう》の必要品《ひつえうひん》を供給《きようきふ》する以上《いじやう》の意味《いみ》に於《おい》て、社會《しやくわい》の存在《そんざい》を殆《ほと》んど認《みと》めてゐなかつた。彼等《かれら》に取《と》つて絶對《ぜつたい》に必要《ひつえう》なものは御互《おたがひ》丈《だけ》で、其《その》御互《おたがひ》丈《だけ》が、彼等《かれら》にはまた充分《じゆうぶん》であつた。彼等《かれら》は山《やま》の中《なか》にゐる心《こゝろ》を抱《いだ》いて、都會《とくわい》に住《す》んでゐた。  自然《しぜん》の勢《いきほひ》として、彼等《かれら》の生活《せいくわつ》は單調《たんてう》に流《なが》れない譯《わけ》に行《い》かなかつた。彼等《かれら》は複雜《ふくざつ》な社會《しやくわい》の煩《わづらひ》を避《さ》け得《え》たと共《とも》に、其《その》社會《しやくわい》の活動《くわつどう》から出《で》る樣々《さま/″\》の經驗《けいけん》に直接《ちよくせつ》觸《ふ》れる機會《きくわい》を、自分《じぶん》と塞《ふさ》いで仕舞《しま》つて、都會《とくわい》に住《す》みながら、都會《とくわい》に住《す》む文明人《ぶんめいじん》の特權《とくけん》を棄《す》てた樣《やう》な結果《けつくわ》に到着《たうちやく》した。彼等《かれら》も自分達《じぶんたち》の日常《にちじやう》に變化《へんくわ》のない事《こと》は折々《をり/\》自覺《じかく》した。御互《おたがひ》が御互《おたがひ》に飽《あ》きるの、物足《ものた》りなくなるのといふ心《こゝろ》は微塵《みぢん》も起《おこ》らなかつたけれども、御互《おたがひ》の頭《あたま》に受《う》け入《い》れる生活《せいくわつ》の内容《ないよう》には、刺戟《しげき》に乏《とぼ》しい或物《あるもの》が潛《ひそ》んでゐる樣《やう》な鈍《にぶ》い訴《うつたへ》があつた。それにも拘《かゝ》はらず、彼等《かれら》が毎日《まいにち》同《おな》じ判《はん》を同《おな》じ胸《むね》に押《お》して、長《なが》の月日《つきひ》を倦《う》まず渡《わた》つて來《き》たのは、彼等《かれら》が始《はじめ》から一般《いつぱん》の社會《しやくわい》に興味《きようみ》を失《うしな》つてゐたためではなかつた。社會《しやくわい》の方《はう》で彼等《かれら》を二人《ふたり》限《ぎり》に切《き》り詰《つ》めて、其《その》二人《ふたり》に冷《ひやゝ》かな背《そびら》を向《む》けた結果《けつくわ》に外《ほか》ならなかつた。外《そと》に向《むか》つて生長《せいちやう》する餘地《よち》を見出《みいだ》し得《え》なかつた二人《ふたり》は、内《うち》に向《むか》つて深《ふか》く延《の》び始《はじ》めたのである。彼等《かれら》の生活《せいくわつ》は廣《ひろ》さを失《うし》なふと同時《どうじ》に、深《ふか》さを増《ま》して來《き》た。彼等《かれら》は六|年《ねん》の間《あひだ》世間《せけん》に散漫《さんまん》な交渉《かうせふ》を求《もと》めなかつた代《かは》りに、同《おな》じ六|年《ねん》の歳月《さいげつ》を擧《あ》げて、互《たがひ》の胸《むね》を堀ほ》り出《だ》した。彼等《かれら》の命《いのち》は、いつの間《ま》にか互《たがひ》の底《そこ》に迄《まで》喰《く》ひ入《い》つた。二人《ふたり》は世間《せけん》から見《み》れば依然《いぜん》として二人《ふたり》であつた。けれども互《たがひ》から云《い》へば、道義上《だうぎじやう》切《き》り離《はな》す事《こと》の出來《でき》ない一《ひと》つの有機體《いうきたい》になつた。二人《ふたり》の精神《せいしん》を組《く》み立《た》てる神經系《しんけいけい》は、最後《さいご》の纖維《せんゐ》に至《いた》る迄《まで》、互《たがひ》に抱《だ》き合《あ》つて出來《でき》上《あが》つてゐた。彼等《かれら》は大《おほ》きな水盤《すゐばん》の表《おもて》に滴《した》たつた二|點《てん》の油《あぶら》の樣《やう》なものであつた。水《みづ》を彈《はじ》いて二《ふた》つが一所《いつしよ》に集《あつ》まつたと云《い》ふよりも、水《みづ》に彈《はじ》かれた勢《いきほひ》で、丸《まる》く寄《よ》り添《そ》つた結果《けつくわ》、離《はな》れる事《こと》が出來《でき》なくなつたと評《ひやう》する方《はう》が適當《てきたう》であつた。  彼等《かれら》は此《この》抱合《はうがふ》の中《うち》に、尋常《じんじやう》の夫婦《ふうふ》に見出《みいだ》し難《がた》い親和《しんわ》と飽滿《はうまん》と、それに伴《とも》なう倦怠《けんたい》とを兼《か》ね具《そな》へてゐた。さうして其《その》倦怠《けんたい》の慵《ものう》い氣分《きぶん》に支配《しはい》されながら、自己《じこ》を幸福《かうふく》と評價《ひやうか》する事《こと》丈《だけ》は忘《わす》れなかつた。倦怠《けんたい》は彼等《かれら》の意識《いしき》に眠《ねむり》の樣《やう》な幕《まく》を掛《か》けて、二人《ふたり》の愛《あい》をうつとり霞《かす》ます事《こと》はあつた。けれども簓《さゝら》で神經《しんけい》を洗《あら》はれる不安《ふあん》は決《けつ》して起《おこ》し得《え》なかつた。要《えう》するに彼等《かれら》は世間《せけん》に疎《うと》い丈《だけ》それ丈《だけ》仲《なか》の好《い》い夫婦《ふうふ》であつたのである。  彼等《かれら》は人並《ひとなみ》以上《いじやう》に睦《むつ》ましい月日《つきひ》を渝《かは》らずに今日《けふ》から明日《あす》へと繋《つな》いで行《い》きながら、常《つね》は其所《そこ》に氣《き》が付《つ》かずに顏《かほ》を見合《みあ》はせてゐる樣《やう》なものゝ、時々《とき/″\》自分達《じぶんたち》の睦《むつ》まじがる心《こゝろ》を、自分《じぶん》で確《しか》と認《みと》める事《こと》があつた。その場合《ばあひ》には必《かなら》ず今迄《いままで》睦《むつ》まじく過《す》ごした長《なが》の歳月《としつき》を溯《さか》のぼつて、自分達《じぶんたち》が如何《いか》な犧牲《ぎせい》を拂《はら》つて、結婚《けつこん》を敢《あへ》てしたかと云《い》ふ當時《たうじ》を憶《おも》ひ出《だ》さない譯《わけ》には行《い》かなかつた。彼等《かれら》は自然《しぜん》が彼等《かれら》の前《まへ》にもたらした恐《おそ》るべき復讐《ふくしう》の下《もと》に戰《をのゝ》きながら跪《ひざま》づいた。同時《どうじ》に此《この》復讐《ふくしう》を受《う》けるために得《え》た互《たがひ》の幸福《かうふく》に對《たい》して、愛《あい》の神《かみ》に一|辯《べん》の香《かう》を焚《た》く事《こと》を忘《わす》れなかつた。彼等《かれら》は鞭《むちう》たれつゝ死《し》に赴《おもむ》くものであつた。たゞ其《その》鞭《むち》の先《さき》に、凡《すべ》てを癒《い》やす甘《あま》い蜜《みつ》の着《つ》いてゐる事《こと》を覺《さと》つたのである。  宗助《そうすけ》は相當《さうたう》に資産《しさん》のある東京《とうきやう》ものゝ子弟《してい》として、彼等《かれら》に共通《きようつう》な派出《はで》な嗜好《しかう》を學生《がくせい》時代《じだい》には遠慮《ゑんりよ》なく充《み》たした男《をとこ》である。彼《かれ》は其時《そのとき》服裝《なり》にも、動作《どうさ》にも、思想《しさう》にも、悉《こと/″\》く當世《たうせい》らしい才人《さいじん》の面影《おもかげ》を漲《みなぎ》らして、昂《たか》い首《くび》を世間《せけん》に擡《もた》げつゝ、行《い》かうと思《おも》ふ邊《あた》りを濶歩《くわつぽ》した。彼《かれ》の襟《えり》の白《しろ》かつた如《ごと》く、彼《かれ》の洋袴《づぼん》の裾《すそ》が奇麗《きれい》に折《を》り返《かへ》されてゐた如《ごと》く、其下《そのした》から見《み》える彼《かれ》の靴足袋《くつたび》が模樣入《もやういり》のカシミヤであつた如《ごと》く、彼《かれ》の頭《あたま》は華奢《きやしや》な世間《せけん》向《む》きであつた。  彼《かれ》は生《うま》れ付《つき》理解《りかい》の好《い》い男《をとこ》であつた。從《したが》つて大《たい》した勉強《べんきやう》をする氣《き》にはなれなかつた。學問《がくもん》は社會《しやくわい》へ出《で》るための方便《はうべん》と心得《こゝろえ》てゐたから、社會《しやくわい》を一|歩《ぽ》退《しり》ぞかなくつては達《たつ》する事《こと》の出來《でき》ない、學者《がくしや》といふ地位《ちゐ》には、餘《あま》り多《おほ》くの興味《きようみ》を有《も》つてゐなかつた。彼《かれ》はたゞ教場《けうぢやう》へ出《で》て、普通《ふつう》の學生《がくせい》のする通《とほ》り、多《おほ》くのノートブツクを黒《くろ》くした。けれども宅《うち》へ歸《かへ》つて來《き》て、それを讀《よ》み直《なほ》したり、手《て》を入《い》れたりした事《こと》は滅多《めつた》になかつた。休《やす》んで拔《ぬ》けた所《ところ》さへ大抵《たいてい》は其儘《そのまゝ》にして放《はふ》つて置《お》いた。彼《かれ》は下宿《げしゆく》の机《つくゑ》の上《うへ》に、此《この》ノートブツクを奇麗《きれい》に積《つ》み上《あ》げて、何時《いつ》見《み》ても整然《せいぜん》と秩序《ちつじよ》の付《つ》いた書齋《しよさい》を空《から》にしては、外《そと》を出歩《であ》るいた。友達《ともだち》は多《おほ》く彼《かれ》の寛濶《くわんくわつ》を羨《うらや》んだ。宗助《そうすけ》も得意《とくい》であつた。彼《かれ》の未來《みらい》は虹《にじ》の樣《やう》に美《うつ》くしく彼《かれ》の眸《ひとみ》を照《て》らした。  其頃《そのころ》の宗助《そうすけ》は今《いま》と違《ちが》つて多《おほ》くの友達《ともだち》を持《も》つてゐた。實《じつ》を云《い》ふと、輕快《けいくわい》な彼《かれ》の眼《め》に映《えい》ずる凡《すべ》ての人《ひと》は、殆《ほと》んど誰彼《だれかれ》の區別《くべつ》なく友達《ともだち》であつた。彼《かれ》は敵《てき》といふ言葉《ことば》の意味《いみ》を正當《せいたう》に解《かい》し得《え》ない樂天家《らくてんか》として、若《わか》い世《よ》をのび/\と渡《わた》つた。 「なに不景氣《ふけいき》な顏《かほ》さへしなければ、何處《どこ》へ行《い》つたつて驩迎《くわんげい》されるもんだよ」と學友《がくいう》の安井《やすゐ》によく話《はな》した事《こと》があつた。實際《じつさい》彼《かれ》の顏《かほ》は、他《ひと》を不愉快《ふゆくわい》にする程《ほど》深刻《しんこく》な表情《へうじやう》を示《しめ》し得《え》た試《ためし》がなかつた。 「君《きみ》は身體《からだ》が丈夫《ぢやうぶ》だから結構《けつこう》だ」とよく何處《どこ》かに故障《こしやう》の起《おこ》る安井《やすゐ》が羨《うらや》ましがつた。此《この》安井《やすゐ》といふのは國《くに》は越前《ゑちぜん》だが、長《なが》く横濱《よこはま》に居《ゐ》たので、言葉《ことば》や樣子《やうす》は毫《がう》も東京《とうきやう》ものと異《こと》なる點《てん》がなかつた。着物《きもの》道樂《だうらく》で、髮《かみ》の毛《け》を長《なが》くして眞中《まんなか》から分《わ》ける癖《くせ》があつた。高等學校《かうとうがくかう》は違《ちが》つてゐたけれども、講義《かうぎ》のときよく隣合《となりあは》せに並《なら》んで、時々《とき/″\》聞《き》き損《そく》なつた所《ところ》抔《など》を後《あと》から質問《しつもん》するので、口《くち》を利《き》き出《だ》したのが元《もと》になつて、つい懇意《こんい》になつた。それが學年《がくねん》の始《はじま》りだつたので、京都《きやうと》へ來《き》て日《ひ》のまだ淺《あさ》い宗助《そうすけ》には大分《だいぶん》の便宜《べんぎ》であつた。彼《かれ》は安井《やすゐ》の案内《あんない》で新《あた》らしい土地《とち》の印象《いんしやう》を酒《さけ》の如《ごと》く吸《す》ひ込《こ》んだ。二人《ふたり》は毎晩《まいばん》の樣《やう》に三條《さんでう》とか四條《しでう》とかいふ賑《にぎ》やかな町《まち》を歩《ある》いた。時《とき》によると京極《きやうごく》も通《とほ》り拔《ぬ》けた。橋《はし》の眞中《まんなか》に立《た》つて鴨川《かもがは》の水《みづ》を眺《なが》めた。東山《ひがしやま》の上《うへ》に出《で》る靜《しづ》かな月《つき》を見《み》た。さうして京都《きやうと》の月《つき》は東京《とうきやう》の月《つき》よりも丸《まる》くて大《おほ》きい樣《やう》に感《かん》じた。町《まち》や人《ひと》に厭《あ》きたときは、土曜《どえう》と日曜《にちえう》を利用《りよう》して遠《とほ》い郊外《かうぐわい》に出《で》た。宗助《そうすけ》は至《いた》る所《ところ》の大竹藪《おほたけやぶ》に緑《みどり》の籠《こも》る深《ふか》い姿《すがた》を喜《よろこ》んだ。松《まつ》の幹《みき》の染《そ》めた樣《やう》に赤《あか》いのが、日《ひ》を照《て》り返《かへ》して幾本《いくほん》となく並《なら》ぶ風情《ふぜい》を樂《たの》しんだ。ある時《とき》は大悲閣《だいひかく》へ登《のぼ》つて、即非《そくひ》の額《がく》の下《した》に仰向《あふむ》きながら、谷底《たにそこ》の流《ながれ》を下《くだ》る櫓《ろ》の音《おと》を聞《き》いた。其音《そのおと》が鴈《かり》の鳴聲《なきごゑ》によく似《に》てゐるのを二人《ふたり》とも面白《おもしろ》がつた。ある時《とき》は、平八茶屋《へいはちぢやや》迄《まで》出掛《でか》けて行《い》つて、そこに一日《いちにち》寐《ね》てゐた。さうして不味《まづ》い河魚《かはうを》の串《くし》に刺《さ》したのを、かみさんに燒《や》かして酒《さけ》を呑《の》んだ。其《その》かみさんは、手拭《てぬぐひ》を被《かぶ》つて、紺《こん》の立付《たつつけ》見《み》た樣《やう》なものを穿《は》いてゐた。  宗助《そうすけ》は斯《こ》んな新《あた》らしい刺戟《しげき》の下《もと》に、しばらくは慾求《よくきう》の滿足《まんぞく》を得《え》た。けれども一《ひ》と通《とほ》り古《ふる》い都《みやこ》の臭《にほひ》を嗅《か》いで歩《ある》くうちに、凡《すべ》てがやがて、平板《へいばん》に見《み》えだして來《き》た。其時《そのとき》彼《かれ》は美《うつ》くしい山《やま》の色《いろ》と清《きよ》い水《みづ》の色《いろ》が、最初《さいしよ》程《ほど》鮮明《せんめい》な影《かげ》を自分《じぶん》の頭《あたま》に宿《やど》さないのを物足《ものた》らず思《おも》ひ始《はじ》めた。彼《かれ》は暖《あたゝ》かな若《わか》い血《ち》を抱《いだ》いて、其《その》熱《ほて》りを冷《さま》す深《ふか》い緑《みどり》に逢《あ》へなくなつた。さうかといつて、此《この》情熱《じやうねつ》を焚《や》き盡《つく》す程《ほど》の烈《はげ》しい活動《くわつどう》には無論《むろん》出會《であ》はなかつた。彼《かれ》の血《ち》は高《たか》い脉《みやく》を打《う》つて、徒《いたづ》らにむづ痒《がゆ》く彼《かれ》の身體《からだ》の中《なか》を流《なが》れた。彼《かれ》は腕組《うでぐみ》をして、坐《ゐ》ながら四方《しはう》の山《やま》を眺《なが》めた。さうして、 「もう斯《こ》んな古臭《ふるくさ》い所《ところ》には厭《あ》きた」と云《い》つた。  安井《やすゐ》は笑《わら》ひながら、比較《ひかく》のため、自分《じぶん》の知《し》つてゐる或《ある》友達《ともだち》の故郷《こきやう》の物語《ものがたり》をして宗助《そうすけ》に聞《き》かした。それは淨瑠璃《じやうるり》の間《あひ》の土山《つちやま》雨《あめ》が降《ふ》るとある有名《いうめい》な宿《しゆく》の事《こと》であつた。朝《あさ》起《お》きてから夜《よる》寐《ね》る迄《まで》、眼《め》に入《い》るものは山《やま》より外《ほか》にない所《ところ》で、丸《まる》で擂鉢《すりばち》の底《そこ》に住《す》んでゐると同《おな》じ有樣《ありさま》だと告《つ》げた上《うへ》、安井《やすゐ》は其《その》友達《ともだち》の小《ちひ》さい時分《じぶん》の經驗《けいけん》として、五月雨《さみだれ》の降《ふ》りつゞく折《をり》抔《など》は、小供心《こどもごゝろ》に、今《いま》にも自分《じぶん》の住《す》んでゐる宿《しゆく》が、四方《しはう》の山《やま》から流《なが》れて來《く》る雨《あめ》の中《なか》に浸《つ》かつて仕舞《しま》ひさうで、心配《しんぱい》でならなかつたと云《い》ふ話《はなし》をした。宗助《そうすけ》はそんな擂鉢《すりばち》の底《そこ》で一生《いつしやう》を過《すご》す人《ひと》の運命《うんめい》ほど情《なさけ》ないものはあるまいと考《かんが》へた。 「さう云《い》ふ所《ところ》に、人間《にんげん》がよく生《い》きてゐられるな」と不思議《ふしぎ》さうな顏《かほ》をして安井《やすゐ》に云《い》つた。安井《やすゐ》も笑《わら》つてゐた。さうして土山《つちやま》から出《で》た人物《じんぶつ》の中《うち》では、千兩凾《せんりやうばこ》を摩《す》り替《か》へて磔《はりつけ》になつたのが一番《いちばん》大《おほ》きいのだと云《い》ふ一口話《ひとくちばなし》を矢張《やは》り友達《ともだち》から聞《き》いた通《とほ》り繰《く》り返《かへ》した。狹《せま》い京都《きやうと》に飽《あ》きた宗助《そうすけ》は、單調《たんてう》な生活《せいくわつ》を破《やぶ》る色彩《しきさい》として、さう云《い》ふ出來事《できごと》も百|年《ねん》に一|度《ど》位《ぐらゐ》は必要《ひつえう》だらうと迄《まで》思《おも》つた。  其《その》時分《じぶん》の宗助《そうすけ》の眼《め》は、常《つね》に新《あた》らしい世界《せかい》にばかり注《そゝ》がれてゐた。だから自然《しぜん》が一通《ひととほり》四季《しき》の色《いろ》を見《み》せて仕舞《しま》つたあとでは、再《ふたゝ》び去年《きよねん》の記憶《きおく》を呼《よ》び戻《もど》すために、花《はな》や紅葉《もみぢ》を迎《むか》へる必要《ひつえう》がなくなつた。強《つよ》く烈《はげ》しい命《いのち》に生《い》きたと云《い》ふ證劵《しようけん》を飽迄《あくまで》握《にぎ》りたかつた彼《かれ》には、活《い》きた現在《げんざい》と、是《これ》から生《うま》れやうとする未來《みらい》が、當面《たうめん》の問題《もんだい》であつたけれども、消《き》えかゝる過去《くわこ》は、夢《ゆめ》同樣《どうやう》に價《あたひ》の乏《とぼ》しい幻影《げんえい》に過《す》ぎなかつた。彼《かれ》は多《おほ》くの剥《は》げかゝつた社《やしろ》と、寂果《さびはて》た寺《てら》を見盡《みつく》して、色《いろ》の褪《さ》めた歴史《れきし》の上《うへ》に、黒《くろ》い頭《あたま》を振《ふ》り向《む》ける勇氣《ゆうき》を失《うしな》ひかけた。寐耄《ねぼ》けた昔《むかし》に彽徊《ていくわい》する程《ほど》、彼《かれ》の氣分《きぶん》は枯《か》れてゐなかつたのである。  學年《がくねん》の終《をは》りに宗助《そうすけ》と安井《やすゐ》とは再會《さいくわい》を約《やく》して手《て》を分《わか》つた。安井《やすゐ》は一先《ひとまづ》郷里《きやうり》の福井《ふくゐ》へ歸《かへ》つて、夫《それ》から横濱《よこはま》へ行《ゆ》く積《つも》りだから、もし其時《そのとき》には手紙《てがみ》を出《だ》して通知《つうち》をしやう、さうして成《な》るべくなら一所《いつしよ》の汽車《きしや》で京都《きやうと》へ下《くだ》らう、もし時間《じかん》が許《ゆる》すなら、興津《おきつ》あたりで泊《とま》つて、清見寺《せいけんじ》や三保《みほ》の松原《まつばら》や、久能山《くのうざん》でも見《み》ながら緩《ゆつ》くり遊《あそ》んで行《い》かうと云《い》つた。宗助《そうすけ》は大《おほ》いに可《よ》からうと答《こた》へて、腹《はら》のなかでは既《すで》に安井《やすゐ》の端書《はがき》を手《て》にする時《とき》の心持《こゝろもち》さへ豫想《よさう》した。  宗助《そうすけ》が東京《とうきやう》へ歸《かへ》つたときは、父《ちゝ》は固《もと》よりまだ丈夫《ぢやうぶ》であつた。小六《ころく》は子供《こども》であつた。彼《かれ》は一|年《ねん》ぶりに殷《さか》んな都《みやこ》の炎熱《えんねつ》と煤煙《ばいえん》を呼吸《こきふ》するのを却《かへ》つて嬉《うれ》しく感《かん》じた。燬《や》く樣《やう》な日《ひ》の下《した》に、渦《うづ》を捲《ま》いて狂《くる》ひ出《だ》しさうな瓦《かはら》の色《いろ》が、幾里《いくり》となく續《つゞ》く景色《けしき》を、高《たか》い所《ところ》から眺《なが》めて、是《これ》でこそ東京《とうきやう》だと思《おも》ふ事《こと》さへあつた。今《いま》の宗助《そうすけ》なら目《め》を眩《まは》しかねない事々物々《じゞぶつ/\》が、悉《こと/″\》く壯快《さうくわい》の二|字《じ》を彼《かれ》の額《ひたひ》に燒《や》き付《つ》けべく、其時《そのとき》は反射《はんしや》して來《き》たのである。  彼《かれ》の未來《き》は封《ふう》じられた蕾《つぼみ》のやうに、開《ひら》かない先《さき》は他《ひと》に知《し》れないばかりでなく、自分《じぶん》にも確《しか》とは分《わか》らなかつた。宗助《そうすけ》はたゞ洋々《やう/\》の二|字《じ》が彼《かれ》の前途《ぜんと》に棚引《たなび》いてゐる氣《き》がした丈《だけ》であつた。彼《かれ》は此《この》暑《あつ》い休暇中《きうかちゆう》にも卒業後《そつげふご》の自分《じぶん》に對《たい》する謀《はかりごと》を忽《ゆる》かせにはしなかつた。彼《かれ》は大學《だいがく》を出《で》てから、官途《くわんと》に就《つ》かうか、又《また》は實業《じつげふ》に從《したが》はうか、それすら、まだ判然《はつきり》と心《こゝろ》に極《き》めてゐなかつたに拘《かゝ》はらず、何方《どちら》の方面《はうめん》でも構《かま》はず、今《いま》のうちから、進《すゝ》める丈《だけ》進《すゝ》んで置《お》く方《はう》が利益《りえき》だと心付《こゝろづ》いた。彼《かれ》は直接《ちよくせつ》父《ちゝ》の紹介《せうかい》を得《え》た。父《ちゝ》を通《とほ》して間接《かんせつ》に其《その》知人《ちじん》の紹介《せうかい》を得《え》た。さうして自分《じぶん》の將來《しやうらい》を影響《えいきやう》し得《う》る樣《やう》な人《ひと》を物色《ぶつしよく》して、二三の訪問《はうもん》を試《こゝろ》みた。彼等《かれら》のあるものは、避暑《ひしよ》といふ名義《めいぎ》の下《もと》に、既《すで》に東京《とうきやう》を離《はな》れてゐた。あるものは不在《ふざい》であつた。又《また》あるものは多忙《たばう》のため時《とき》を期《き》して、勤務先《きんむさき》で會《あ》はうと云《い》つた。宗助《そうすけ》は日《ひ》のまだ高《たか》くならない七|時頃《じごろ》に、昇降器《エレヹーター》で煉瓦造《れんぐわづくり》の三階《さんがい》へ案内《あんない》されて、其所《そこ》の應接間《おうせつま》に、もう七八|人《にん》も自分《じぶん》と同《おな》じ樣《やう》に、同《おな》じ人《ひと》を待《ま》つてゐる光景《くわうけい》を見《み》て驚《おど》ろいた事《こと》もあつた。彼《かれ》は斯《か》うして新《あた》らしい所《ところ》へ行《い》つて、新《あた》らしい物《もの》に接《せつ》するのが、用向《ようむき》の成否《せいひ》に關《かゝ》はらず、今迄《いままで》眼《め》に付《つ》かずに過《す》ぎた活《い》きた世界《せかい》の斷片《だんぺん》を頭《あたま》へ詰《つ》め込《こ》む樣《やう》な氣《き》がして何《なん》となく愉快《ゆくわい》であつた。  父《ちゝ》の云《い》ひ付《つけ》で、毎年《まいねん》の通《とほ》り虫干《むしぼし》の手傳《てつだひ》をさせられるのも、斯《こ》んな時《とき》には、却《かへ》つて興味《きようみ》の多《おほ》い仕事《しごと》の一部分《いちぶぶん》に數《かぞ》へられた。彼《かれ》は冷《つめ》たい風《かぜ》の吹《ふ》き通《とほ》す土藏《どざう》の戸前《とまへ》の濕《しめ》つぽい石《いし》の上《うへ》に腰《こし》を掛《か》けて、古《ふる》くから家《いへ》にあつた江戸名所圖會《えどめいしよづゑ》と江戸砂子《えどすなご》といふ本《ほん》を物珍《ものめづら》しさうに眺《なが》めた。疊《たゝみ》迄《まで》熱《あつ》くなつた座敷《ざしき》の眞中《まんなか》へ胡坐《あぐら》を掻《か》いて、下女《げぢよ》の買《か》つて來《き》た樟腦《しやうなう》を、小《ちひ》さな紙片《かみぎれ》に取《と》り分《わ》けては、醫者《いしや》で呉《く》れる散藥《さんやく》の樣《やう》な形《かたち》に疊《たゝ》んだ。宗助《そうすけ》は小供《こども》の時《とき》から、此《この》樟腦《しやうなう》の高《たか》い香《かをり》と、汗《あせ》の出《で》る土用《どよう》と、砲烙灸《はうろくぎう》と、蒼空《あをぞら》を緩《ゆる》く舞《ま》ふ鳶《とび》とを連想《れんさう》してゐた。  兎角《とかく》するうちに節《せつ》は立秋《りつしう》に入《い》つた。二百十日《にひやくとをか》の前《まへ》には、風《かぜ》が吹《ふ》いて、雨《あめ》が降《ふ》つた。空《そら》には薄墨《うすずみ》の煑染《にじ》んだ樣《やう》な雲《くも》がしきりに動《うご》いた。寒暖計《かんだんけい》が二三|日《にち》下《さ》がり切《き》りに下《さ》がつた。宗助《そうすけ》はまた行李《かうり》を麻繩《あさなは》で絡《から》げて、京都《きやうと》へ向《むか》ふ支度《したく》をしなければならなくなつた。  彼《かれ》は此間《このあひだ》にも安井《やすゐ》と約束《やくそく》のある事《こと》は忘《わす》れなかつた。家《うち》へ歸《かへ》つた當座《たうざ》は、まだ二ヶ|月《げつ》も先《さき》の事《こと》だからと緩《ゆつ》くり構《かま》へてゐたが、段々《だん/\》時日《じじつ》が逼《せま》るに從《したが》つて、安井《やすゐ》の消息《せうそく》が氣《き》になつてきた。安井《やすゐ》は其後《そのご》一|枚《まい》の端書《はがき》さへ寄《よ》こさなかつたのである。宗助《そうすけ》は安井《やすゐ》の郷里《きやうり》の福井《ふくゐ》へ向《む》けて手紙《てがみ》を出《だ》して見《み》た。けれども返事《へんじ》は遂《つひ》に來《こ》なかつた。宗助《そうすけ》は横濱《よこはま》の方《はう》へ問《と》ひ合《あ》はせて見《み》やうと思《おも》つたが、つい番地《ばんち》も町名《ちやうめい》も聞《き》いて置《お》かなかつたので、何《ど》うする事《こと》も出來《でき》なかつた。  立《た》つ前《まへ》の晩《ばん》に、父《ちゝ》は宗助《そうすけ》を呼《よ》んで、宗助《そうすけ》の請求《せいきう》通《どほ》り、普通《ふつう》の旅費《りよひ》以外《いぐわい》に、途中《とちゆう》で二三|日《にち》滯在《たいざい》した上《うへ》、京都《きやうと》へ着《つ》いてからの當分《たうぶん》の小遣《こづかひ》を渡《わた》して、 「成《な》る丈《たけ》節儉《せつけん》しなくちや不可《いけ》ない」と諭《さと》した。  宗助《そうすけ》はそれを普通《ふつう》の子《こ》が普通《ふつう》の親《おや》の訓戒《くんかい》を聞《き》く時《とき》の如《ごと》くに聞《き》いた。父《ちゝ》は又《また》、 「來年《らいねん》また歸《かへ》つて來《く》る迄《まで》は會《あ》はないから、隨分《ずゐぶん》氣《き》を付《つ》けて」と云《い》つた。其《その》歸《かへ》つて來《く》る時節《じせつ》には、宗助《そうすけ》はもう歸《かへ》れなくなつてゐたのである。さうして歸《かへ》つて來《き》た時《とき》は、父《ちゝ》の亡骸《なきがら》がもう冷《つめ》たくなつてゐたのである。宗助《そうすけ》は今《いま》に至《いた》る迄《まで》其時《そのとき》の父《ちゝ》の面影《おもかげ》を思《おも》ひ浮《うか》べては濟《す》まない樣《やう》な氣《き》がした。  愈《いよ/\》立《た》つと云《い》ふ間際《まぎは》に、宗助《そうすけ》は安井《やすゐ》から一|通《つう》の封書《ふうしよ》を受取《うけと》つた。開《ひら》いて見《み》ると、約束《やくそく》通《どほ》り一所《いつしよ》に歸《かへ》る積《つもり》でゐたが、少《すこ》し事情《じじやう》があつて先《さき》へ立《た》たなければならない事《こと》になつたからと云《い》ふ斷《ことわり》を述《の》べた末《すゑ》に、何《いづ》れ京都《きやうと》で緩《ゆつ》くり會《あ》はうと書《か》いてあつた。宗助《そうすけ》はそれを洋服《やうふく》の内懷《うちぶところ》に押《お》し込《こ》んで汽車《きしや》に乘《の》つた。約束《やくそく》の興津《おきつ》へ來《き》たとき彼《かれ》は一人《ひとり》でプラツトフオームへ降《お》りて、細長《ほそなが》い一筋町《ひとすぢまち》を清見寺《せいけんじ》の方《はう》へ歩《ある》いた。夏《なつ》も既《すで》に過《す》ぎた九|月《ぐわつ》の初《はじめ》なので、大方《おほかた》の避暑客《ひしよかく》は早《はや》く引《ひ》き上《あ》げた後《あと》だから、宿屋《やどや》は比較的《ひかくてき》閑靜《かんせい》であつた。宗助《そうすけ》は海《うみ》の見《み》える一室《いつしつ》の中《なか》に腹這《はらばひ》になつて、安井《やすゐ》へ送《おく》る繪端書《ゑはがき》へ二三|行《ぎやう》の文句《もんく》を書《か》いた。其内《そのなか》に、君《きみ》が來《こ》ないから僕《ぼく》一人《ひとり》で此所《こゝ》へ來《き》たといふ言葉《ことば》を入《い》れた。  翌日《よくじつ》も約束《やくそく》通《どほ》り一人《ひとり》で三保《みほ》と龍華寺《りゆうげじ》を見物《けんぶつ》して、京都《きやうと》へ行《い》つてから安井《やすゐ》に話《はな》す材料《ざいれう》を出來《でき》る丈《だけ》拵《こしら》えた。然《しか》し天氣《てんき》の所爲《せゐ》か、當《あて》にした連《つれ》のないためか、海《うみ》を見《み》ても、山《やま》へ登《のぼ》つても夫程《それほど》面白《おもしろ》くなかつた。宿《やど》に凝《じつ》としてゐるのは、猶《なほ》退屈《たいくつ》であつた。宗助《そうすけ》は匆々《そう/\》に又《また》宿《やど》の浴衣《ゆかた》を脱《ぬ》ぎ棄《す》てゝ、絞《しぼ》りの三尺《さんじやく》と共《とも》に欄干《らんかん》に掛《か》けて、興津《おきつ》を去《さ》つた。  京都《きやうと》へ着《つ》いた一日目《いちにちめ》は、夜汽車《よぎしや》の疲《つか》れやら、荷物《にもつ》の整理《せいり》やらで、徃來《わうらい》の日影《ひかげ》を知《し》らずに暮《く》らした。二日目《ふつかめ》になつて漸《やうや》く學校《がくかう》へ出《で》て見《み》ると、教師《けうし》はまだ出揃《でそろ》つてゐなかつた。學生《がくせい》も平日《いつも》よりは數《かず》が不足《ふそく》であつた。不審《ふしん》な事《こと》には、自分《じぶん》より三四《さんよ》つ日《か》前《まへ》に歸《かへ》つてゐるべき筈《はず》の安井《やすゐ》の顏《かほ》さへ何處《どこ》にも見《み》えなかつた。宗助《そうすけ》はそれが氣《き》にかゝるので、歸《かへ》りにわざ/\安井《やすゐ》の下宿《げしゆく》へ回《まは》つて見《み》た。安井《やすゐ》の居《ゐ》る所《ところ》は樹《き》と水《みづ》の多《おほ》い加茂《かも》の社《やしろ》の傍《そば》であつた。彼《かれ》は夏休《なつやす》み前《まへ》から、少《すこ》し閑靜《かんせい》な町外《まちはづ》れへ移《うつ》つて勉強《べんきやう》する積《つもり》だとか云《い》つて、わざ/\此《この》不便《ふべん》な村同樣《むらどうやう》な田舍《ゐなか》へ引込《ひつこ》んだのである。彼《かれ》の見付出《みつけだ》した家《いへ》からが寂《さび》た土塀《どべい》を二方《にはう》に回《めぐ》らして、既《すで》に古風《こふう》に片付《かたづ》いてゐた。宗助《そうすけ》は安井《やすゐ》から、其所《そこ》の主人《しゆじん》はもと加茂神社《かもじんじや》の神官《しんくわん》の一人《ひとり》であつたと云《い》ふ話《はなし》を聞《き》いた。非常《ひじやう》に能辯《のうべん》な京都《きやうと》言葉《ことば》を操《あやつ》る四十|許《ばかり》の細君《さいくん》がゐて、安井《やすゐ》の世話《せわ》をしてゐた。 「世話《せわ》つて、たゞ不味《まづ》い菜《さい》を拵《こし》らえて、三|度《ど》づゝ室《へや》へ運《はこ》んで呉《く》れる丈《だけ》だよ」と安井《やすゐ》は移《うつ》り立《た》てから此《この》細君《さいくん》の惡口《わるくち》を利《き》いてゐた。宗助《そうすけ》は安井《やすゐ》を此所《こゝ》に二三|度《ど》訪《たづ》ねた縁故《えんこ》で、彼《かれ》の所謂《いはゆる》不味《まづ》い菜《さい》を拵《こし》らえる主《ぬし》を知《し》つてゐた。細君《さいくん》の方《はう》でも宗助《そうすけ》の顏《かほ》を覺《おぼ》えてゐた。細君《さいくん》は宗助《そうすけ》を見《み》るや否《いな》や、例《れい》の柔《やはら》かい舌《した》で慇懃《いんぎん》な挨拶《あいさつ》を述《の》べた後《のち》、此方《こつち》から聞《き》かうと思《おも》つて來《き》た安井《やすゐ》の消息《せうそく》を、却《かへ》つて向《むか》ふから尋《たづ》ねた。細君《さいくん》の云《い》ふ所《ところ》によると、彼《かれ》は郷里《きやうり》へ歸《かへ》つてから當日《たうじつ》に至《いた》る迄《まで》、一片《いつぺん》の音信《おんしん》さへ下宿《げしゆく》へは出《だ》さなかつたのである。宗助《そうすけ》は案外《あんぐわい》な思《おもひ》で自分《じぶん》の下宿《げしゆく》へ歸《かへ》つて來《き》た。  夫《それ》から一|週間《しうかん》程《ほど》は、學校《がくかう》へ出《で》るたんびに、今日《けふ》は安井《やすゐ》の顏《かほ》が見《み》えるか、明日《あす》は安井《やすゐ》の聲《こゑ》がするかと、毎日《まいにち》漠然《ばくぜん》とした豫期《よき》を抱《いだ》いては教室《けうしつ》の戸《と》を開《あ》けた。さうして毎日《まいにち》又《また》漠然《ばくぜん》とした不足《ふそく》を感《かん》じては歸《かへ》つて來《き》た。尤《もつと》も最後《さいご》の三四日《さんよつか》に於《おけ》る宗助《そうすけ》は早《はや》く安井《やすゐ》に會《あ》ひたいと思《おも》ふよりも、少《すこ》し事情《じじやう》があるから、失敬《しつけい》して先《さき》へ立《た》つとわざ/\通知《つうち》しながら、何時迄《いつまで》待《ま》つても影《かげ》も見《み》せない彼《かれ》の安否《あんぴ》を、關係者《くわんけいしや》として寧《むし》ろ氣《き》に掛《か》けてゐたのである。彼《かれ》は學友《がくいう》の誰彼《たれかれ》に萬遍《まんべん》なく安井《やすゐ》の動靜《どうせい》を聞《き》いて見《み》た。然《しか》し誰《だれ》も知《し》るものはなかつた。たゞ一人《ひとり》が、昨夕《ゆうべ》四條《しでう》の人込《ひとごみ》の中《なか》で、安井《やすゐ》によく似《に》た浴衣《ゆかた》がけの男《をとこ》を見《み》たと答《こた》へた事《こと》があつた。然《しか》し宗助《そうすけ》にはそれが安井《やすゐ》だらうとは信《しん》じられなかつた。所《ところ》が其《その》話《はなし》を聞《き》いた翌日《よくじつ》、即《すなは》ち宗助《そうすけ》が京都《きやうと》へ着《つ》いてから約《やく》一|週間《しうかん》の後《のち》、話《はなし》の通《とほ》りの服裝《なり》をした安井《やすゐ》が、突然《とつぜん》宗助《そうすけ》の所《ところ》へ尋《たづ》ねて來《き》た。  宗助《そうすけ》は着流《きなが》しの儘《まゝ》麥藁帽《むぎわらばう》を手《て》に持《も》つた友達《ともだち》の姿《すがた》を久《ひさ》し振《ぶり》に眺《なが》めた時《とき》、夏休《なつやす》み前《まへ》の彼《かれ》の顏《かほ》の上《うへ》に、新《あた》らしい何物《なにもの》かゞ更《さら》に付《つ》け加《くは》へられた樣《やう》な氣《き》がした。安井《やすゐ》は黒《くろ》い髮《かみ》に油《あぶら》を塗《ぬ》つて、目立《めだ》つ程《ほど》奇麗《きれい》に頭《あたま》を分《わ》けてゐた。さうして今《いま》床屋《とこや》へ行《い》つて來《き》た所《ところ》だと言譯《いひわけ》らしい事《こと》を云《い》つた。  其晩《そのばん》彼《かれ》は宗助《そうすけ》と一|時間《じかん》餘《あま》りも雜談《ざつだん》に耽《ふけ》つた。彼《かれ》の重々《おも/\》しい口《くち》の利《き》き方《かた》、自分《じぶん》を憚《はゞ》かつて、思《おも》ひ切《き》れない樣《やう》な話《はなし》の調子《てうし》、「然《しか》るに」と云《い》ふ口癖《くちくせ》、凡《すべ》て平生《へいぜい》の彼《かれ》と異《こと》なる點《てん》はなかつた。たゞ彼《かれ》は何故《なぜ》宗助《そうすけ》より先《さき》へ横濱《よこはま》を立《た》つたかを語《かた》らなかつた。又《また》途中《とちゆう》何處《どこ》で暇取《ひまど》つた爲《ため》、宗助《そうすけ》より後《おく》れて京都《きやうと》へ着《つ》いたかを判然《はつきり》告《つ》げなかつた。然《しか》し彼《かれ》は三四日前《さんよつかまへ》漸《やうや》く京都《きやうと》へ着《つ》いた事《こと》丈《だけ》を明《あきら》かにした。さうして、夏休《なつやす》み前《まへ》にゐた下宿《げしゆく》へはまだ歸《かへ》らずにゐると云《い》つた。 「夫《それ》で何處《どこ》に」と宗助《そうすけ》が聞《き》いたとき、彼《かれ》は自分《じぶん》の今《いま》泊《とま》つてゐる宿屋《やどや》の名前《なまへ》を、宗助《そうすけ》に教《をし》へた。それは三條《さんでう》邊《へん》の三|流位《りうぐらゐ》の家《いへ》であつた。宗助《そうすけ》は其《その》名前《なまへ》を知《し》つてゐた。 「何《ど》うして、其樣《そん》な所《ところ》へ這入《はい》つたのだ。當分《たうぶん》其所《そこ》にゐる積《つもり》なのかい」と宗助《そうすけ》は重《かさ》ねて聞《き》いた。安井《やすゐ》はたゞ少《すこ》し都合《つがふ》があつてと許《ばかり》答《こた》へたが、 「下宿《げしゆく》生活《せいくわつ》はもう已《や》めて、小《ちひ》さい家《うち》でも借《か》りやうかと思《おも》つてゐる」と思《おも》ひがけない計畫《けいくわく》を打《う》ち明《あ》けて、宗助《そうすけ》を驚《おど》ろかした。  それから一|週間《しうかん》ばかりの中《うち》に、安井《やすゐ》はとう/\宗助《そうすけ》に話《はな》した通《とほ》り、學校《がくかう》近《ちか》くの閑靜《かんせい》な所《ところ》に一戸《いつこ》を構《かま》へた。それは京都《きやうと》に共通《きようつう》な暗《くら》い陰氣《いんき》な作《つく》りの上《うへ》に、柱《はしら》や格子《かうし》を黒赤《くろあか》く塗《ぬ》つて、わざと古臭《ふるくさ》く見《み》せた狹《せま》い貸家《かしや》であつた。門口《かどぐち》に誰《だれ》の所有《しよいう》とも付《つ》かない柳《やなぎ》が一|本《ぽん》あつて、長《なが》い枝《えだ》が殆《ほとん》ど軒《のき》に觸《さは》りさうに風《かぜ》に吹《ふ》かれる樣《さま》を宗助《そうすけ》は見《み》た。庭《には》も東京《とうきやう》と違《ちが》つて、少《すこ》しは整《とゝの》つてゐた。石《いし》の自由《じいう》になる所《ところ》だけに、比較的《ひかくてき》大《おほ》きなのが座敷《ざしき》の眞正面《ましやうめん》に据《す》ゑてあつた。其下《そのした》には涼《すゞ》しさうな苔《こけ》がいくらでも生《は》えた。裏《うら》には敷居《しきゐ》の腐《くさ》つた物置《ものおき》が空《から》の儘《まゝ》がらんと立《た》つてゐる後《うしろ》に、隣《となり》の竹藪《たけやぶ》が便所《べんじよ》の出入《ではひ》りに望《のぞ》まれた。  宗助《そうすけ》の此處《こゝ》を訪問《はうもん》したのは、十|月《ぐわつ》に少《すこ》し間《ま》のある學期《がくき》の始《はじ》めであつた。殘暑《ざんしよ》がまだ強《つよ》いので宗助《そうすけ》は學校《がくかう》の徃復《わうふく》に、蝙蝠傘《かうもりがさ》を用《もち》ひてゐた事《こと》を今《いま》に記憶《きおく》してゐた。彼《かれ》は格子《かうし》の前《まへ》で傘《かさ》を疊《たゝ》んで、内《うち》を覗《のぞ》き込《こ》んだ時《とき》、粗《あら》い縞《しま》の浴衣《ゆかた》を着《き》た女《をんな》の影《かげ》をちらりと認《みと》めた。格子《かうし》の内《うち》は三和土《たゝき》で、それが眞直《まつすぐ》に裏《うら》迄《まで》突《つ》き拔《ぬ》けてゐるのだから、這入《はい》つてすぐ右手《みぎて》の玄關《げんくわん》めいた上《あが》り口《ぐち》を上《あが》らない以上《いじやう》は、暗《くら》いながら一筋《ひとすぢ》に奧《おく》の方《はう》迄《まで》見《み》える譯《わけ》であつた。宗助《そうすけ》は浴衣《ゆかた》の後影《うしろかげ》が、裏口《うらぐち》へ出《で》る所《ところ》で消《き》へてなくなる迄《まで》其處《そこ》に立《た》つてゐた。それから格子《かうし》を開《あ》けた。玄關《げんくわん》へは安井《やすゐ》自身《じしん》が現《あらは》れた。  座敷《ざしき》へ通《とほ》つてしばらく話《はな》してゐたが、さつきの女《をんな》は全《まつた》く顏《かほ》を出《だ》さなかつた。聲《こゑ》も立《た》てず、音《おと》もさせなかつた。廣《ひろ》い家《うち》でないから、つい隣《となり》の部屋《へや》位《ぐらゐ》にゐたのだらうけれども、居《ゐ》ないのと丸《まる》で違《ちが》はなかつた。この影《かげ》の樣《やう》に靜《しづ》かな女《をんな》が御米《およね》であつた。  安井《やすゐ》は郷里《きやうり》の事《こと》、東京《とうきやう》の事《こと》、學校《がくかう》の講義《かうぎ》の事《こと》、何《なに》くれとなく話《はな》した。けれども、御米《およね》の事《こと》に就《つい》ては一言《いちごん》も口《くち》にしなかつた。宗助《そうすけ》も聞《き》く勇氣《ゆうき》に乏《とぼ》しかつた。其日《そのひ》はそれなり別《わか》れた。  次《つぎ》の日《ひ》二人《ふたり》が顏《かほ》を合《あは》したとき、宗助《そうすけ》は矢張《やは》り女《をんな》の事《こと》を胸《むね》の中《なか》に記憶《きおく》してゐたが、口《くち》へ出《だ》しては一言《ひとこと》も語《かた》らなかつた。安井《やすゐ》も何氣《なにげ》ない風《ふう》をしてゐた。懇意《こんい》な若《わか》い青年《せいねん》が心易立《こゝろやすだて》に話《はな》し合《あ》ふ遠慮《ゑんりよ》のない題目《だいもく》は、是迄《これまで》二人《ふたり》の間《あひだ》に何度《なんど》となく交換《かうくわん》されたにも拘《かゝ》はらず、安井《やすゐ》はこゝへ來《き》て、息詰《いきづま》つた如《ごと》くに見《み》えた。宗助《そうすけ》も其所《そこ》を無理《むり》にこぢ開《あ》ける程《ほど》の強《つよ》い好奇心《かうきしん》は有《も》たなかつた。從《したが》つて女《をんな》は二人《ふたり》の意識《いしき》の間《あひだ》に挾《はさ》まりながら、つい話頭《わとう》に上《のぼ》らないで、又《また》一|週間《しうかん》ばかり過《す》ぎた。  其《その》日曜《にちえう》に彼《かれ》は又《また》安井《やすゐ》を訪《と》ふた。それは二人《ふたり》の關係《くわんけい》してゐる或《ある》會《くわい》に就《つい》て用事《ようじ》が起《おこ》つたためで、女《をんな》とは全《まつた》く縁故《えんこ》のない動機《どうき》から出《で》た淡泊《たんぱく》な訪問《はうもん》であつた。けれども座敷《ざしき》へ上《あ》がつて、同《おな》じ所《ところ》へ坐《すわ》らせられて、垣根《かきね》に沿《そ》ふた小《ちひ》さな梅《うめ》の木《き》を見《み》ると、此前《このまへ》來《き》た時《とき》の事《こと》が明《あき》らかに思《おも》ひ出《だ》された。其日《そのひ》も座敷《ざしき》の外《ほか》は、しんとして靜《しづか》であつた。宗助《そうすけ》は其《その》靜《しづ》かなうちに忍《しの》んでゐる若《わか》い女《をんな》の影《かげ》を想像《さうざう》しない譯《わけ》に行《い》かなかつた。同時《どうじ》にその若《わか》い女《をんな》は此前《このまへ》と同《おな》じ樣《やう》に、決《けつ》して自分《じぶん》の前《まへ》に出《で》て來《く》る氣遣《きづかひ》はあるまいと信《しん》じてゐた。  此《この》豫期《よき》の下《もと》に、宗助《そうすけ》は突然《とつぜん》御米《およね》に紹介《せうかい》されたのである。其時《そのとき》御米《およね》は此間《このあひだ》の樣《やう》に粗《あら》い浴衣《ゆかた》を着《き》てはゐなかつた。是《これ》から餘所《よそ》へ行《ゆ》くか、又《また》は今《いま》外《そと》から歸《かへ》つて來《き》たと云《い》ふ風《ふう》な粧《よそほひ》をして、次《つぎ》の間《ま》から出《で》て來《き》た。宗助《そうすけ》にはそれが意外《いぐわい》であつた。然《しか》し大《たい》した綺羅《きら》を着飾《きかざ》つた譯《わけ》でもないので、衣服《いふく》の色《いろ》も、帶《おび》の光《ひかり》も、夫程《それほど》彼《かれ》を驚《おどろ》かす迄《まで》には至《いた》らなかつた。其上《そのうへ》御米《およね》は若《わか》い女《をんな》に有勝《ありがち》の嬌羞《けうしう》といふものを、初對面《しよたいめん》の宗助《そうすけ》に向《むか》つて、あまり多《おほ》く表《あら》はさなかつた。たゞ普通《ふつう》の人間《にんげん》を靜《しづか》にして言葉《ことば》寡《すく》なに切《き》り詰《つ》めた丈《だけ》に見《み》えた。人《ひと》の前《まへ》へ出《で》ても、隣《となり》の室《へや》に忍《しの》んでゐる時《とき》と、あまり區別《くべつ》のない程《ほど》落付《おちつ》いた女《をんな》だといふ事《こと》を見出《みいだ》した宗助《そうすけ》は、それから推《お》して、御米《およね》のひつそりしていたのは、穴勝《あながち》耻《はづ》かしがつて、人《ひと》の前《まへ》へ出《で》るのを避《さ》けるため許《ばかり》でもなかつたんだと思《おも》つた。  安井《やすゐ》は御米《およね》を紹介《せうかい》する時《とき》、 「是《これ》は僕《ぼく》の妹《いもと》だ」といふ言葉《ことば》を用《もち》ひた。宗助《そうすけ》は四五|分《ふん》對坐《たいざ》して、少《すこ》し談話《だんわ》を取《と》り換《か》はしてゐるうちに、御米《およね》の口調《くてう》の何處《どこ》にも、國訛《くになまり》らしい音《おん》の交《まじ》つてゐない事《こと》に氣《き》が付《つ》いた。 「今迄《いままで》御國《おくに》の方《はう》に」と聞《き》いたら、御米《およね》が返事《へんじ》をする前《まへ》に安井《やすゐ》が、 「いや横濱《よこはま》に長《なが》く」と答《こた》へた。  其日《そのひ》は二人《ふたり》して町《まち》へ買物《かひもの》に出《で》やうと云《い》ふので、御米《およね》は不斷着《ふだんぎ》を脱《ぬ》ぎ更《か》へて、暑《あつ》い所《ところ》をわざ/\新《あた》らしい白足袋《しろたび》迄《まで》穿《は》いたものと知《し》れた。宗助《そうすけ》は折角《せつかく》の出掛《でがけ》を喰《く》ひ留《と》めて、邪魔《じやま》でもした樣《やう》に氣《き》の毒《どく》な思《おもひ》をした。 「なに宅《うち》を持《も》ち立《た》てだものだから、毎日々々《まいにち/\》要《い》るものを新《あた》らしく發見《はつけん》するんで、一|週《しう》に一二|返《へん》は是非《ぜひ》都《みやこ》迄《まで》買《か》ひ出《だ》しに行《い》かなければならない」と云《い》ひながら安井《やすゐ》は笑《わら》つた。 「途《みち》迄《まで》一所《いつしよ》に出掛《でか》けやう」と宗助《そうすけ》はすぐ立《た》ち上《あ》がつた。序《ついで》に家《うち》の樣子《やうす》を見《み》てくれと安井《やすゐ》の云《い》ふに任《まか》せた。宗助《そうすけ》は次《つぎ》の間《ま》にある亞鉛《とたん》の落《おと》しの付《つ》いた四角《しかく》な火鉢《ひばち》や、黄《き》な安《やす》つぽい色《いろ》をした眞鍮《しんちゆう》の藥鑵《やくわん》や、古《ふる》びた流《なが》しの傍《そば》に置《お》かれた新《あた》らし過《す》ぎる手桶《てをけ》を眺《なが》めて、門《かど》へ出《で》た。安井《やすゐ》は門口《かどぐち》へ錠《ぢやう》を卸《おろ》して、鍵《かぎ》を裏《うら》の家《うち》へ預《あづ》けるとか云《い》つて、走《か》けて行《い》つた。宗助《そうすけ》と御米《およね》は待《ま》つてゐる間《あひだ》、二言《ふたこと》、三言《みこと》、尋常《じんじやう》な口《くち》を利《き》いた。  宗助《そうすけ》は此《この》三四|分間《ふんかん》に取《と》り換《か》はした互《たがひ》の言葉《ことば》を、いまだに覺《おぼ》えてゐた。それは只《たゞ》の男《をとこ》が只《たゞ》の女《をんな》に對《たい》して人間《にんげん》たる親《したし》みを表《あら》はすために、遣《や》り取《と》りする簡略《かんりやく》な言葉《ことば》に過《す》ぎなかつた。形容《けいよう》すれば水《みづ》の樣《やう》に淺《あさ》く淡《あは》いものであつた。彼《かれ》は今日《こんにち》迄《まで》路傍《ろばう》道上《だうじやう》に於《おい》て、何《なに》かの折《をり》に觸《ふ》れて、知《し》らない人《ひと》を相手《あひて》に、是程《これほど》の挨拶《あいさつ》をどの位《くらゐ》繰《く》り返《かへ》して來《き》たか分《わか》らなかつた。  宗助《そうすけ》は極《きは》めて短《みじ》かい其時《そのとき》の談話《だんわ》を、一々《いち/\》思《おも》ひ浮《うか》べるたびに、其《その》一々《いち/\》が、殆《ほと》んど無着色《むちやくしよく》と云《い》つていゝ程《ほど》に、平淡《へいたん》であつた事《こと》を認《みと》めた。さうして、斯《か》く透明《とうめい》な聲《こゑ》が、二人《ふたり》の未來《みらい》を、何《ど》うしてあゝ眞赤《まつか》に、塗《ぬ》り付《つ》けたかを不思議《ふしぎ》に思《おも》つた。今《いま》では赤《あか》い色《いろ》が日《ひ》を經《へ》て昔《むかし》の鮮《あざや》かさを失《うしな》つてゐた。互《たがひ》を焚《や》き焦《こ》がした燄《ほのほ》は、自然《しぜん》と變色《へんしよく》して黒《くろ》くなつてゐた。二人《ふたり》の生活《せいくわつ》は斯樣《かやう》にして暗《くら》い中《なか》に沈《しづ》んでゐた。宗助《そうすけ》は過去《くわこ》を振《ふ》り向《む》いて、事《こと》の成行《なりゆき》を逆《ぎやく》に眺《なが》め返《かへ》しては、此《この》淡泊《たんぱく》な挨拶《あいさつ》が、如何《いか》に自分等《じぶんら》の歴史《れきし》を濃《こ》く彩《いろど》つたかを、胸《むね》の中《なか》で飽迄《あくまで》味《あぢ》はひつゝ、平凡《へいぼん》な出來事《できごと》を重大《ぢゆうだい》に變化《へんくわ》させる運命《うんめい》の力《ちから》を恐《おそ》ろしがつた。  宗助《そうすけ》は二人《ふたり》で門《もん》の前《まへ》に佇《たゝず》んでゐる時《とき》、彼等《かれら》の影《かげ》が折《を》れ曲《まが》つて、半分《はんぶん》許《ばかり》土塀《どべい》に映《うつ》つたのを記憶《きおく》してゐた。御米《およね》の影《かげ》が蝙蝠傘《かうもりがさ》で遮《さへ》ぎられて、頭《あたま》の代《かは》りに不規則《ふきそく》な傘《かさ》の形《かたち》が壁《かべ》に落《お》ちたのを記憶《きおく》してゐた。少《すこ》し傾《かた》むきかけた初秋《はつあき》の日《ひ》が、じり/\二人《ふたり》を照《て》り付《つ》けたのを記憶《きおく》してゐた。御米《およね》は傘《かさ》を差《さ》した儘《まゝ》、それ程《ほど》涼《すゞ》しくもない柳《やなぎ》の下《した》に寄《よ》つた。宗助《そうすけ》は白《しろ》い筋《すぢ》を縁《ふち》に取《と》つた紫《むらさき》の傘《かさ》の色《いろ》と、まだ褪《さ》め切《き》らない柳《やなぎ》の葉《は》の色《いろ》を、一歩《いつぽ》遠退《とほの》いて眺《なが》め合《あ》はした事《こと》を記憶《きおく》してゐた。  今《いま》考《かんが》へると凡《すべ》てが明《あき》らかであつた。從《したが》つて何等《なんら》の奇《き》もなかつた。二人《ふたり》は土塀《どべい》の影《かげ》から再《ふたゝ》び現《あら》はれた安井《やすゐ》を待《ま》ち合《あ》はして、町《まち》の方《はう》へ歩《ある》いた。歩《ある》く時《とき》、男《をとこ》同志《どうし》は肩《かた》を並《なら》べた。御米《およね》は草履《ぞうり》を引《ひ》いて後《あと》に落《お》ちた。話《はなし》も多《おほ》くは男《をとこ》丈《だけ》で受持《うけも》つた。それも長《なが》くはなかつた。途中《とちゆう》迄《まで》來《き》て宗助《そうすけ》は一人《ひとり》分《わか》れて、自分《じぶん》の家《うち》へ歸《かへ》つたからである。  けれども彼《かれ》の頭《あたま》には其日《そのひ》の印象《いんしやう》が長《なが》く殘《のこ》つてゐた。家《うち》へ歸《かへ》つて、湯《ゆ》に入《はひ》つて、燈火《ともしび》の前《まへ》に坐《すわ》つた後《のち》にも、折々《をり/\》色《いろ》の着《つ》いた平《ひら》たい畫《ゑ》として、安井《やすゐ》と御米《およね》の姿《すがた》が眼先《めさき》にちらついた。それのみか床《とこ》に入《い》つてからは、妹《いもと》だと云《い》つて紹介《せうかい》された御米《およね》が、果《はた》して本當《ほんたう》の妹《いもと》であらうかと考《かんが》へ始《はじ》めた。安井《やすゐ》に問《と》ひ詰《つ》めない限《かぎ》り、此《この》疑《うたがひ》の解決《かいけつ》は容易《ようい》でなかつたけれども、臆斷《おくだん》はすぐ付《つ》いた。宗助《そうすけ》は此《この》臆斷《おくだん》を許《ゆる》すべき餘地《よち》が、安井《やすゐ》と御米《およね》の間《あひだ》に充分《じゆうぶん》存在《そんざい》し得《う》るだらう位《ぐらゐ》に考《かんが》へて、寐《ね》ながら可笑《をか》しく思《おも》つた。しかも其《その》臆斷《おくだん》に、腹《はら》の中《なか》で彽徊《ていくわい》する事《こと》の馬鹿々々《ばか/\》しいのに氣《き》が付《つ》いて、消《け》し忘《わす》れた洋燈《らんぷ》を漸《やうや》くふつと吹《ふ》き消《け》した。  斯《か》う云《い》ふ記憶《きおく》の、次第《しだい》に沈《しづ》んで痕迹《あとかた》もなくなる迄《まで》、御互《おたがひ》の顏《かほ》を見《み》ずに過《すご》す程《ほど》、宗助《そうすけ》と安井《やすゐ》とは疎遠《そゑん》ではなかつた。二人《ふたり》は毎日《まいにち》學校《がくかう》で出合《であ》ふ許《ばかり》でなく、依然《いぜん》として夏休《なつやす》み前《まへ》の通《とほ》り徃來《わうらい》を續《つゞ》けてゐた。けれども宗助《そうすけ》が行《い》くたびに、御米《およね》は必《かなら》ず挨拶《あいさつ》に出《で》るとは限《かぎ》らなかつた。三|返《べん》に一|返《ぺん》位《ぐらゐ》、顏《かほ》を見《み》せないで、始《はじめ》ての時《とき》の樣《やう》に、ひつそり隣《とな》りの室《へや》に忍《しの》んでゐる事《こと》もあつた。宗助《そうすけ》は別《べつ》にそれを氣《き》にも留《と》めなかつた。夫《それ》にも拘《かゝ》はらず、二人《ふたり》は漸《やうや》く接近《せつきん》した。幾何《いくばく》ならずして冗談《じようだん》を云《い》ふ程《ほど》の親《したし》みが出來《でき》た。  其内《そのうち》又《また》秋《あき》が來《き》た。去年《きよねん》と同《おな》じ事情《じじやう》の下《もと》に、京都《きやうと》の秋《あき》を繰《く》り返《かへ》す興味《きようみ》に乏《とぼ》しかつた宗助《そうすけ》は、安井《やすゐ》と御米《およね》に誘《さそ》はれて茸狩《たけがり》に行《い》つた時《とき》、朗《ほが》らかな空氣《くうき》のうちに又《また》新《あた》らしい香《にほひ》を見出《みいだ》した。紅葉《もみぢ》も三人《さんにん》で觀《み》た。嵯峨《さが》から山《やま》を拔《ぬ》けて高雄《たかを》へ歩《ある》く途中《とちゆう》で、御米《およね》は着物《きもの》の裾《すそ》を捲《ま》くつて、長襦袢《ながじゆばん》丈《だけ》を足袋《たび》の上《うへ》迄《まで》牽《ひ》いて、細《ほそ》い傘《かさ》を杖《つゑ》にした。山《やま》の上《うへ》から一|町《ちやう》も下《した》に見《み》える流《なが》れに日《ひ》が射《さ》して、水《みづ》の底《そこ》が明《あき》らかに遠《とほ》くから透《す》かされた時《とき》、御米《およね》は 「京都《きやうと》は好《い》い所《ところ》ね」と云《い》つて二人《ふたり》を顧《かへり》みた。それを一所《いつしよ》に眺《なが》めた宗助《そうすけ》にも、京都《きやうと》は全《まつた》く好《い》い所《ところ》の樣《やう》に思《おも》はれた。  斯《か》う揃《そろ》つて外《そと》へ出《で》た事《こと》も珍《めづ》らしくはなかつた。家《うち》の中《なか》で顏《かほ》を合《あ》はせる事《こと》は猶《なほ》屡《しば/\》あつた。或時《あるとき》宗助《そうすけ》が例《れい》の如《ごと》く安井《やすゐ》を尋《たづ》ねたら、安井《やすゐ》は留守《るす》で、御米《およね》ばかり淋《さみ》しい秋《あき》の中《なか》に取《と》り殘《のこ》された樣《やう》に一人《ひとり》坐《すわ》つてゐた。宗助《そうすけ》は淋《さむ》しいでせうと云《い》つて、つい座敷《ざしき》に上《あが》り込《こ》んで、一《ひと》つ火鉢《ひばち》の兩側《りやうがは》に手《て》を翳《かざ》しながら、思《おも》つたより長話《ながばなし》をして歸《かへ》つた。或時《あるとき》宗助《そうすけ》がぽかんとして、下宿《げしゆく》の机《つくゑ》に倚《よ》りかゝつた儘《まゝ》、珍《めづ》らしく時間《じかん》の使《つか》ひ方《かた》に困《こま》つてゐると、ふと御米《およね》が遣《や》つて來《き》た。其所《そこ》迄《まで》買物《かひもの》に出《で》たから、序《ついで》に寄《よ》つたんだとか云《い》つて、宗助《そうすけ》の薦《すゝ》める通《とほ》り、茶《ちや》を飮《の》んだり菓子《くわし》を食《た》べたり、緩《ゆつ》くり寛《くつ》ろいだ話《はなし》をして歸《かへ》つた。  斯《こ》んな事《こと》が重《かさ》なつて行《ゆ》くうちに、木《き》の葉《は》が何時《いつ》の間《ま》にか落《お》ちて仕舞《しま》つた。さうして高《たか》い山《やま》の頂《いたゞき》が、ある朝《あさ》眞白《まつしろ》に見《み》えた。吹《ふ》き曝《さら》しの河原《かはら》が白《しろ》くなつて、橋《はし》を渡《わた》る人《ひと》の影《かげ》が細《ほそ》く動《うご》いた。其年《そのとし》の京都《きやうと》の冬《ふゆ》は、音《おと》を立《た》てずに肌《はだ》を透《とほ》す陰忍《いんにん》な質《たち》のものであつた。安井《やすゐ》は此《この》惡性《あくしやう》の寒氣《かんき》に中《あ》てられて、苛《ひど》いインフルエンザに罹《かゝ》つた。熱《ねつ》が普通《ふつう》の風邪《かぜ》よりも餘程《よほど》高《たか》かつたので、始《はじめ》は御米《およね》も驚《おど》ろいたが、それは一時《いちじ》の事《こと》で、すぐ退《ひ》いたには退《ひ》いたから、是《これ》でもう全快《ぜんくわい》と思《おも》ふと、何時迄《いつまで》立《た》つても判然《はつきり》しなかつた。安井《やすゐ》は黐《もち》の樣《やう》な熱《ねつ》に絡《から》み付《つ》かれて、毎日《まいにち》其《その》差《さ》し引《ひ》きに苦《くる》しんだ。  醫者《いしや》は少《すこ》し呼吸器《こきふき》を冒《をか》されてゐる樣《やう》だからと云《い》つて、切《せつ》に轉地《てんち》を勸《すゝ》めた。安井《やすゐ》は心《こゝろ》ならず押入《おしいれ》の中《なか》の柳行李《やなぎがうり》に麻繩《あさなは》を掛《か》けた。御米《およね》は手提鞄《てさげかばん》に錠《ぢやう》を卸《おろ》した。宗助《そうすけ》は二人《ふたり》を七條《しちでう》迄《まで》見送《みおく》つて、汽車《きしや》が出《で》る迄《まで》室《へや》の中《なか》へ這入《はい》つて、わざと陽氣《やうき》な話《はなし》をした。プラツトフオームへ下《お》りた時《とき》、窓《まど》の内《うち》から、 「遊《あそ》びに來給《きたま》へ」と安井《やすゐ》が云《い》つた。 「何《ど》うぞ是非《ぜひ》」と御米《およね》が言《い》つた。  汽車《きしや》は血色《けつしよく》の好《い》い宗助《そうすけ》の前《まへ》をそろ/\過《す》ぎて、忽《たちま》ち神戸《かうべ》の方《はう》に向《むか》つて烟《けむり》を吐《は》いた。  病人《びやうにん》は轉地先《てんちさき》で年《とし》を越《こ》した。繪端書《ゑはがき》は着《つ》いた日《ひ》から毎日《まいにち》の樣《やう》に寄《よ》こした。それに何時《いつ》でも遊《あそ》びに來《こ》いと繰《く》り返《かへ》して書《か》いてない事《こと》はなかつた。御米《およね》の文字《もじ》も一二|行《ぎやう》宛《づゝ》は必《かなら》ず交《まじ》つてゐた。宗助《そうすけ》は安井《やすゐ》と御米《およね》から屆《とゞ》いた繪端書《ゑはがき》を別《べつ》にして机《つくゑ》の上《うへ》に重《かさ》ねて置《お》いた。外《そと》から歸《かへ》るとそれが直《すぐ》眼《め》に着《つ》いた。時々《とき/″\》はそれを一|枚《まい》宛《づゝ》順《じゆん》に讀《よ》み直《なほ》したり、見直《みなほ》したりした。仕舞《しまい》にもう悉皆《すつかり》癒《なほ》つたから歸《かへ》る。然《しか》し折角《せつかく》此所《こゝ》迄《まで》來《き》ながら、此所《こゝ》で君《きみ》の顏《かほ》を見《み》ないのは遺憾《ゐかん》だから、此《この》手紙《てがみ》が着《つ》き次第《しだい》、一寸《ちよつと》で可《い》いから來《こ》いといふ端書《はがき》が來《き》た。無事《ぶじ》と退屈《たいくつ》を忌《い》む宗助《そうすけ》を動《うご》かすには、この十|數言《すうげん》で充分《じゆうぶん》であつた。宗助《そうすけ》は汽車《きしや》を利用《りよう》して其夜《そのよ》のうちに安井《やすゐ》の宿《やど》に着《つ》いた。  明《あか》るい燈火《ともしび》の下《した》に三人《さんにん》が待設《まちまう》けた顏《かほ》を合《あ》はした時《とき》、宗助《そうすけ》は何《なに》よりも先《ま》づ病人《びやうにん》の色澤《いろつや》の回復《くわいふく》して來《き》た事《こと》に氣《き》が付《つ》いた。立《た》つ前《まへ》よりも却《かへ》つて好《い》い位《くらゐ》に見《み》えた。安井《やすゐ》自身《じしん》もそんな心持《こゝろもち》がすると云《い》つて、わざ/\襯衣《しやつ》の袖《そで》を捲《まく》り上《あ》げて、青筋《あをすぢ》の入《はひ》つた腕《うで》を獨《ひとり》で撫《な》でてゐた。御米《およね》も嬉《うれ》しさうに眼《め》を輝《かゞや》かした。宗助《そうすけ》にはその活溌《くわつぱつ》な目遣《めづかひ》が殊《こと》に珍《めづ》らしく受取《うけと》れた。今迄《いままで》宗助《そうすけ》の心《こゝろ》に映《えい》じた御米《およね》は、色《いろ》と音《おと》の撩亂《れうらん》する裏《なか》に立《た》つてさへ、極《きは》めて落《お》ち付《つ》いてゐた。さうして其《その》落《お》ち付《つ》きの大部分《だいぶぶん》は矢鱈《やたら》に動《うご》かさない眼《め》の働《はた》らきから來《き》たとしか思《おも》はれなかつた。  次《つぎ》の日《ひ》三|人《にん》は表《おもて》へ出《で》て遠《とほ》く濃《こ》い色《いろ》を流《なが》す海《うみ》を眺《なが》めた。松《まつ》の幹《みき》から脂《やに》の出《で》る空氣《くうき》を吸《す》つた。冬《ふゆ》の日《ひ》は短《みじか》い空《そら》を赤裸々《せきらゝ》に横切《よこぎ》つて大人《おとな》しく西《にし》へ落《お》ちた。落《お》ちる時《とき》、低《ひく》い雲《くも》を黄《き》に赤《あか》に竈《かまど》の火《ひ》の色《いろ》に染《そ》めて行《い》つた。風《かぜ》は夜《よる》に入《い》つても起《おこ》らなかつた。たゞ時々《とき/″\》松《まつ》を鳴《な》らして過《す》ぎた。暖《あたゝ》かい好《い》い日《ひ》が宗助《そうすけ》の泊《とま》つてゐる三日《みつか》の間《あひだ》續《つゞ》いた。  宗助《そうすけ》はもつと遊《あそ》んで行《ゆ》きたいと云《い》つた。御米《およね》はもつと遊《あそ》んで行《ゆ》きませうと云《い》つた。安井《やすゐ》は宗助《そうすけ》が遊《あそ》びに來《き》たから好《い》い天氣《てんき》になつたんだらうと云《い》つた。三|人《にん》は又《また》行李《かうり》と鞄《かばん》を携《たづさ》へて京都《きやうと》へ歸《かへ》つた。冬《ふゆ》は何事《なにごと》もなく北風《きたかぜ》を寒《さむ》い國《くに》へ吹《ふ》き遣《や》つた。山《やま》の上《うへ》を明《あき》らかにした斑《まだら》な雪《ゆき》が次第《しだい》に落《お》ちて、後《あと》から青《あを》い色《いろ》が一度《いちど》に芽《め》を吹《ふ》いた。  宗助《そうすけ》は當時《たうじ》を憶《おも》ひ出《だ》すたびに、自然《しぜん》の進行《しんかう》が其所《そこ》ではたりと留《と》まつて、自分《じぶん》も御米《およね》も忽《たちま》ち化石《くわせき》して仕舞《しま》つたら、却《かへ》つて苦《く》はなかつたらうと思《おも》つた。事《こと》は冬《ふゆ》の下《した》から春《はる》が頭《あたま》を擡《もた》げる時分《じぶん》に始《はじ》まつて、散《ち》り盡《つく》した櫻《さくら》の花《はな》が若葉《わかば》に色《いろ》を易《か》へる頃《ころ》に終《をは》つた。凡《すべ》てが生死《しやうし》の戰《たゝかひ》であつた。青竹《あをだけ》を炙《あぶ》つて油《あぶら》を絞《しぼ》る程《ほど》の苦《くる》しみであつた。大風《おほかぜ》は突然《とつぜん》不用意《ふようい》の二人《ふたり》を吹《ふ》き倒《たふ》したのである。二人《ふたり》が起《お》き上《あ》がつた時《とき》は何處《どこ》も彼所《かしこ》も既《すで》に砂《すな》だらけであつたのである。彼等《かれら》は砂《すな》だらけになつた自分達《じぶんたち》を認《みと》めた。けれども何時《いつ》吹《ふ》き倒《たふ》されたかを知《し》らなかつた。  世間《せけん》は容赦《ようしや》なく彼等《かれら》に徳義上《とくぎじやう》の罪《つみ》を脊負《しよは》した。然《しか》し彼等《かれら》自身《じしん》は徳義上《とくぎじやう》の良心《りやうしん》に責《せ》められる前《まへ》に、一旦《いつたん》茫然《ばうぜん》として、彼等《かれら》の頭《あたま》が確《たしか》であるかを疑《うたが》つた。彼等《かれら》は彼等《かれら》の眼《め》に、不徳義《ふとくぎ》な男女《なんによ》として耻《は》づべく映《うつ》る前《まへ》に、既《すで》に不合理《ふがふり》な男女《なんによ》として、不可思議《ふかしぎ》に映《うつ》つたのである。其所《そこ》に言譯《いひわけ》らしい言譯《いひわけ》が何《なん》にもなかつた。だから其所《そこ》に云《い》ふに忍《しの》びない苦痛《くつう》があつた。彼等《かれら》は殘酷《ざんこく》な運命《うんめい》が氣紛《きまぐれ》に罪《つみ》もない二人《ふたり》の不意《ふい》を打《う》つて、面白《おもしろ》半分《はんぶん》穽《おとしあな》の中《なか》に突《つ》き落《おと》したのを無念《むねん》に思《おも》つた。  曝露《ばくろ》の日《ひ》がまともに彼等《かれら》の眉間《みけん》を射《い》たとき、彼等《かれら》は既《すで》に徳義的《とくぎてき》に痙攣《けいれん》の苦痛《くつう》を乘《の》り切《き》つてゐた。彼等《かれら》は蒼白《あをしろ》い額《ひたひ》を素直《すなほ》に前《まへ》に出《だ》して、其所《そこ》に燄《ほのお》に似《に》た烙印《やきいん》を受《う》けた。さうして無形《むけい》の鎖《くさり》で繋《つな》がれた儘《まゝ》、手《て》を携《たづさ》えて何處《どこ》迄《まで》も、一所《いつしよ》に歩調《ほてう》を共《とも》にしなければならない事《こと》を見出《みいだ》した。彼等《かれら》は親《おや》を棄《す》てた。親類《しんるゐ》を棄《す》てた。友達《ともだち》を棄《す》てた。大《おほ》きく云《い》へば一般《いつぱん》の社會《しやくわい》を棄《す》てた。もしくは夫等《それら》から棄《す》てられた。學校《がくかう》からは無論《むろん》棄《す》てられた。たゞ表向《おもてむき》丈《だけ》は此方《こちら》から退學《たいがく》した事《こと》になつて、形式《けいしき》の上《うへ》に人間《にんげん》らしい迹《あと》を留《とゞ》めた。  是《これ》が宗助《そうすけ》と御米《およね》の過去《くわこ》であつた。 [#8字下げ]十五[#「十五」は中見出し]  此《この》過去《くわこ》を負《お》はされた二人《ふたり》は、廣島《ひろしま》へ行《い》つても苦《くる》しんだ。福岡《ふくをか》へ行《い》つても苦《くる》しんだ。東京《とうきやう》へ出《で》て來《き》ても、依然《いぜん》として重《おも》い荷《に》に抑《おさ》えつけられてゐた。佐伯《さへき》の家《いへ》とは親《した》しい關係《くわんけい》が結《むす》べなくなつた。叔父《をぢ》は死《し》んだ。叔母《をば》と安之助《やすのすけ》はまだ生《い》きてゐるが、生《い》きてゐる間《あひだ》に打《う》ち解《と》けた交際《つきあひ》は出來《でき》ない程《ほど》、もう冷淡《れいたん》の日《ひ》を重《かさ》ねて仕舞《しま》つた。今年《ことし》はまだ歳暮《せいぼ》にも行《い》かなかつた。向《むかふ》からも來《こ》なかつた。家《いへ》に引取《ひきと》つた小六《ころく》さへ腹《はら》の底《そこ》では兄《あに》に敬意《けいい》を拂《はら》つてゐなかつた。二人《ふたり》が東京《とうきやう》へ出《で》たてには、單純《たんじゆん》な小供《こども》の頭《あたま》から、正直《しやうぢき》に御米《およね》を惡《にく》んでゐた。御米《およね》にも宗助《そうすけ》にもそれが能《よ》く分《わか》つてゐた。夫婦《ふうふ》は日《ひ》の前《まへ》に笑《ゑ》み、月《つき》の前《まへ》に考《かんが》へて、靜《しづ》かな年《とし》を送《おく》り迎《むか》へた。今年《ことし》ももう盡《つ》きる間際《まぎは》迄《まで》來《き》た。  通町《とほりちやう》では暮《くれ》の内《うち》から門並揃《かどなみそろひ》の注連飾《しめかざり》をした。徃來《わうらい》の左右《さいう》に何《なん》十|本《ぽん》となく並《なら》んだ、軒《のき》より高《たか》い笹《さゝ》が、悉《こと/″\》く寒《さむ》い風《かぜ》に吹《ふ》かれて、さら/\と鳴《な》つた。宗助《そうすけ》も二|尺《しやく》餘《あま》りの細《ほそ》い松《まつ》を買《か》つて、門《もん》の柱《はしら》に釘付《くぎづけ》にした。それから大《おほ》きな赤《あか》い橙《だい/\》を御供《おそなへ》の上《うへ》に載《の》せて、床《とこ》の間《ま》に据《す》ゑた。床《とこ》には如何《いかゞ》はしい墨畫《すみゑ》の梅《うめ》が、蛤《はまぐり》の格好《かつかう》をした月《つき》を吐《は》いて懸《かゝ》つてゐた。宗助《そうすけ》には此《この》變《へん》な軸《ぢく》の前《まへ》に、橙《だい/\》と御供《おそなへ》を置《お》く意味《いみ》が解《わか》らなかつた。 「一體《いつたい》是《こり》や、何《ど》う云《い》ふ了見《れうけん》だね」と自分《じぶん》で飾《かざ》り付《つ》けた物《もの》を眺《なが》めながら、御米《およね》に聞《き》いた。御米《およね》にも毎年《まいとし》斯《か》うする意味《いみ》は頓《とん》と解《わか》らなかつた。 「知《し》らないわ。たゞ左樣《さう》して置《お》けば可《い》いのよ」と云《い》つて臺所《だいどころ》へ去《さ》つた。宗助《そうすけ》は、 「斯《か》うして置《お》いて、詰《つま》り食《く》ふためか」と首《くび》を傾《かたむ》けて御供《おそなへ》の位置《ゐち》を直《なほ》した。  伸餠《のしもち》は夜業《よなべ》に俎《まないた》を茶《ちや》の間《ま》迄《まで》持《も》ち出《だ》して、みんなで切《き》つた。庖丁《はうちやう》が足《た》りないので、宗助《そうすけ》は始《はじめ》から仕舞《しまひ》迄《まで》手《て》を出《だ》さなかつた。力《ちから》のある丈《だけ》に小六《ころく》が一番《いちばん》多《おほ》く切《き》つた。其《その》代《かは》り不同《ふどう》も一番《いちばん》多《おほ》かつた。中《なか》には見掛《みかけ》の惡《わる》い形《かたち》のものも交《まじ》つた。變《へん》なのが出來《でき》るたびに清《きよ》が聲《こゑ》を出《だ》して笑《わら》つた。小六《ころく》は庖丁《はうちやう》の脊《せ》に濡布巾《ぬれぶきん》を宛《あて》がつて、硬《かた》い耳《みゝ》の所《ところ》を斷《た》ち切《き》りながら、 「格好《かくかう》は何《ど》うでも、食《く》ひさいすれば可《い》いんだ」と、うんと力《ちから》を入《い》れて耳《みゝ》迄《まで》赤《あか》くした。  その外《ほか》に迎年《げいねん》の支度《したく》としては、小殿原《ごまめ》を熬《い》つて、煑染《にしめ》を重詰《ぢゆうづめ》にする位《くらゐ》なものであつた。大晦日《おほみそか》の夜《よ》に入《い》つて、宗助《そうすけ》は挨拶《あいさつ》旁《かた/″\》屋賃《やちん》を持《も》つて、坂井《さかゐ》の家《いへ》に行《い》つた。わざと遠慮《ゑんりよ》して勝手口《かつてぐち》へ回《まは》ると、摺硝子《すりがらす》へ明《あか》るい灯《ひ》が映《うつ》つて、中《なか》はざわ/\してゐた。上《あが》り框《がまち》に帳面《ちやうめん》を持《も》つて腰《こし》を掛《か》けた掛取《かけとり》らしい小僧《こぞう》が、立《た》つて宗助《そうすけ》に挨拶《あいさつ》をした。茶《ちや》の間《ま》には主人《しゆじん》も細君《さいくん》もゐた。其《その》片隅《かたすみ》に印袢天《しるしばんてん》を着《き》た出入《でいり》のものらしいのが、下《した》を向《む》いて、小《ち》さい輪飾《わかざり》をいくつも拵《こしら》へてゐた。傍《そば》に讓葉《ゆづりは》と裏白《うらじろ》と半紙《はんし》と鋏《はさみ》が置《お》いてあつた。若《わか》い下女《げぢよ》が細君《さいくん》の前《まへ》に坐《すわ》つて、釣錢《つりせん》らしい札《さつ》と銀貨《ぎんくわ》を疊《たゝみ》に並《なら》べてゐた。主人《しゆじん》は宗助《そうすけ》を見《み》て、 「いや何《ど》うも」と云《い》つた。「押《お》し詰《つま》つて嘸《さぞ》御忙《おいそが》しいでせう。此《この》通《とほ》りごた/\です。さあ何《ど》うぞ此方《こちら》へ。何《なん》ですな、御互《おたがひ》に正月《しやうぐわつ》にはもう飽《あ》きましたな。いくら面白《おもしろ》いものでも四十|返《ぺん》以上《いじやう》繰《く》り返《かへ》すと厭《いや》になりますね」  主人《しゆじん》は年《とし》の送迎《そうげい》に煩《わづ》らはしい樣《やう》な事《こと》を云《い》つたが、其《その》態度《たいど》には何處《どこ》と指《さ》してくさ/\した所《ところ》は認《みと》められなかつた。言葉遣《ことばづかひ》は活溌《くわつぱつ》であつた。顏《かほ》はつや/\してゐた。晩食《ばんしよく》に傾《かたむ》けた酒《さけ》の勢《いきほひ》が、まだ頬《ほゝ》の上《うへ》に差《さ》してゐる如《ごと》く思《おも》はれた。宗助《そうすけ》は貰《もら》ひ烟草《たばこ》をして二三十|分《ぷん》ばかり話《はな》して歸《かへ》つた。  家《うち》では御米《およね》が清《きよ》を連《つ》れて湯《ゆ》に行《ゆ》くとか云《い》つて、石鹸入《しやぼんいれ》を手拭《てぬぐひ》に包《くる》んで、留守居《るすゐ》を頼《たの》む夫《をつと》の歸《かへり》を待《ま》ち受《う》けてゐた。 「何《ど》うなすつたの、隨分《ずゐぶん》長《なが》かつたわね」と云《い》つて時計《とけい》を眺《なが》めた。時計《とけい》はもう十|時《じ》近《ちか》くであつた。其上《そのうへ》清《きよ》は湯《ゆ》の戻《もど》りに髮結《かみゆひ》の所《ところ》へ回《まは》つて頭《あたま》を拵《こしら》える筈《はず》ださうであつた。閑靜《かんせい》な宗助《そうすけ》の活計《くらし》も大晦日《おほみそか》には夫《それ》相應《さうおう》の事件《じけん》が寄《よ》せて來《き》た。 「拂《はらひ》はもう皆《みんな》濟《す》んだのかい」と宗助《そうすけ》は立《た》ちながら御米《およね》に聞《き》いた。御米《およね》はまだ薪屋《まきや》が一|軒《けん》殘《のこ》つてゐると答《こた》へた。 「來《き》たら拂《はら》つて頂戴《ちやうだい》」と云《い》つて懷《ふところ》の中《なか》から汚《よご》れた男持《をとこもち》の紙入《かみいれ》と、銀貨入《ぎんくわいれ》の蟇口《がまぐち》を出《だ》して、宗助《そうすけ》に渡《わた》した。 「小六《ころく》は何《ど》うした」と夫《をつと》はそれを受取《うけとり》ながら云《い》つた。 「先刻《さつき》大晦日《おほみそか》の夜《よる》の景色《けしき》を見《み》て來《く》るつて出《で》て行《い》つたのよ。隨分《ずゐぶん》御苦勞《ごくらう》さまね。此《この》寒《さむ》いのに」と云《い》ふ御米《およね》の後《あと》に追《つ》いて、清《きよ》は大《おほ》きな聲《こゑ》を出《だ》して笑《わら》つた。やがて、 「御若《おわか》いから」と評《ひやう》しながら、勝手口《かつてぐち》へ行《い》つて、御米《およね》の下駄《げた》を揃《そろ》えた。 「何處《どこ》の夜景《やけい》を見《み》る氣《き》なんだ」 「銀座《ぎんざ》から日本橋通《にほんばしどほり》のだつて」  御米《およね》は其時《そのとき》もう框《かまち》から下《お》り掛《か》けてゐた。すぐ腰障子《こししやうじ》を開《あ》ける音《おと》がした。宗助《そうすけ》は其《その》音《おと》を聞《き》き送《おく》つて、たつた一人《ひとり》火鉢《ひばち》の前《まへ》に坐《すわ》つて、灰《はひ》になる炭《すみ》の色《いろ》を眺《なが》めてゐた。彼《かれ》の頭《あたま》には明日《あした》の日《ひ》の丸《まる》が映《うつ》つた。外《そと》を乘《の》り回《まは》す人《ひと》の絹帽子《きぬばうし》の光《ひかり》が見《み》えた。洋劍《さあべる》の音《おと》だの、馬《うま》の嘶《いなゝき》だの、遣羽子《やりはご》の聲《こゑ》が聞《きこ》えた。彼《かれ》は今《いま》から數時間《すうじかん》の後《のち》又《また》年中《ねんぢゆう》行事《ぎやうじ》のうちで、尤《もつと》も人《ひと》の心《こゝろ》を新《あらた》にすべく仕組《しく》まれた景物《けいぶつ》に出逢《であ》はなければならなかつた。  陽氣《やうき》さうに見《み》えるもの、賑《にぎや》かさうに見《み》えるものが、幾組《いくくみ》となく彼《かれ》の心《こゝろ》の前《まへ》を通《とほ》り過《す》ぎたが、その中《なか》で彼《かれ》の臂《ひぢ》を把《と》つて、一所《いつしよ》に引張《ひつぱつ》て行《い》かうとするものは一《ひと》つもなかつた。彼《かれ》はたゞ饗宴《きやうえん》に招《まね》かれない局外者《きよくぐわいしや》として、醉《よ》ふ事《こと》を禁《きん》じられた如《ごと》くに、又《また》醉《よ》ふ事《こと》を免《まぬ》かれた人《ひと》であつた。彼《かれ》は自分《じぶん》と御米《およね》の生命《らいふ》を、毎年《まいとし》平凡《へいぼん》な波瀾《はらん》のうちに送《おく》る以上《いじやう》に、面前《まのあたり》大《たい》した希望《きばう》も持《も》つてゐなかつた。かうして忙《いそ》がしい大晦日《おほみそか》に、一人《ひとり》家《いへ》を守《まも》る靜《しづ》かさが、丁度《ちやうど》彼《かれ》の平生《へいぜい》の現實《げんじつ》を代表《だいへう》してゐた。  御米《およね》は十|時過《じすぎ》に歸《かへ》つて來《き》た。何時《いつ》もより光澤《つや》の好《い》い頬《ほゝ》を灯《ひ》に照《て》らして、湯《ゆ》の温《ぬくもり》のまだ拔《ぬ》けない襟《えり》を少《すこ》し開《あ》ける樣《やう》に襦袢《じゆばん》を重《かさ》ねてゐた。長《なが》い襟首《えりくび》が能《よ》く見《み》えた。 「何《ど》うも込《こ》んで込《こ》んで、洗《あら》ふ事《こと》も桶《をけ》を取《と》る事《こと》も出來《でき》ない位《くらゐ》なの」と始《はじ》めて緩《ゆつ》くり息《いき》を吐《つ》いた。  清《きよ》の歸《かへ》つたのは十一|時過《じすぎ》であつた。是《これ》も綺麗《きれい》な頭《あたま》を障子《しやうじ》から出《だ》して、たゞ今《いま》、どうも遲《おそ》くなりましたと挨拶《あいさつ》をした序《ついで》に、あれから二人《ふたり》とか三人《さんにん》とか待《ま》ち合《あは》したと云《い》ふ話《はなし》をした。  たゞ小六《ころく》丈《だけ》は容易《ようい》に歸《かへ》らなかつた。十二|時《じ》を打《う》つたとき、宗助《そうすけ》はもう寐《ね》やうと云《い》ひ出《だ》した。御米《およね》は今日《けふ》に限《かぎ》つて、先《さき》へ寐《ね》るのも變《へん》なものだと思《おも》つて、出來《でき》る丈《だけ》話《はなし》を繋《つな》いでゐた。小六《ころく》は幸《さいはひ》にして間《ま》もなく歸《かへ》つた。日本橋《にほんばし》から銀座《ぎんざ》へ出《で》て夫《それ》から、水天宮《すゐてんぐう》の方《はう》へ廻《まは》つた所《ところ》が、電車《でんしや》が込《こ》んで何臺《なんだい》も待《ま》ち合《あ》はしたために遲《おそ》くなつたといふ言譯《いひわけ》をした。  白牡丹《はくぼたん》へ這入《はい》つて、景物《けいぶつ》の金時計《きんどけい》でも取《と》らうと思《おも》つたが、何《なに》も買《か》ふものがなかつたので、仕方《しかた》なしに鈴《すゞ》の着《つ》いた御手玉《おてだま》を一箱《ひとはこ》買《か》つて、さうして幾《いく》百となく器械《きかい》で吹《ふ》き上《あげ》られる風船《ふうせん》を一《ひと》つ攫《つか》んだら、金時計《きんどけい》は當《あた》らないで、こんなものが中《あた》つたと云《い》つて、袂《たもと》から倶樂部《くらぶ》洗粉《あらひこ》を一袋《ひとふくろ》出《だ》した。それを御米《およね》の前《まへ》に置《お》いて、 「姉《ねえ》さんに上《あ》げませう」と云《い》つた。それから鈴《すゞ》を着《つ》けた梅《うめ》の花《はな》の形《かたち》に縫《ぬ》つた御手玉《おてだま》を宗助《そうすけ》の前《まへ》に置《お》いて、 「坂井《さかゐ》の御孃《おぢやう》さんにでも御上《おあ》げなさい」と云《い》つた。  事《こと》に乏《とぼ》しい一小家族《いちせうかぞく》の大晦日《おほみそか》は、それで終《をは》りを告《つ》げた。 [#8字下げ]十六[#「十六」は中見出し]  正月《しやうぐわつ》は二日目《ふつかめ》の雪《ゆき》を率《ひきゐ》て注連飾《しめかざり》の都《みやこ》を白《しろ》くした。降《ふ》り已《や》んだ屋根《やね》の色《いろ》が故《もと》に復《かへ》る前《まへ》、夫婦《ふうふ》は亞鉛張《とたんばり》の庇《ひさし》を滑《すべ》り落《おち》る雪《ゆき》の音《おと》に幾遍《いくへん》か驚《おど》ろかされた。夜半《よなか》にはどさと云《い》ふ響《ひゞき》が殊《こと》に甚《はなはだ》しかつた。小路《こうぢ》の泥濘《ぬかるみ》は雨上《あめあが》りと違《ちが》つて一日《いちんち》や二日《ふつか》では容易《ようい》に乾《かわ》かなかつた。外《そと》から靴《くつ》を汚《よご》して歸《かへ》つて來《く》る宗助《そうすけ》が、御米《およね》の顏《かほ》を見《み》るたびに、 「是《こり》や不可《いけ》ない」と云《い》ひながら玄關《げんくわん》へ上《あが》つた。其《その》樣子《やうす》が恰《あたか》も御米《およね》を路《みち》を惡《わる》くした責任者《せきにんしや》と見傚《みな》してゐる風《ふう》に受取《うけと》られるので、御米《およね》は仕舞《しまひ》に、 「何《ど》うも濟《す》みません。本當《ほんたう》に御氣《おき》の毒《どく》さま」と云《い》つて笑《わら》ひ出《だ》した。宗助《そうすけ》は別《べつ》に返《かへ》すべき冗談《じようだん》も有《も》たなかつた。 「御米《およね》此所《こゝ》から出掛《でか》けるには、何處《どこ》へ行《い》くにも足駄《あしだ》を穿《は》かなくつちやならない樣《やう》に見《み》えるだらう。所《ところ》が下町《したまち》へ出《で》ると大違《おほちがひ》だ。どの通《とほり》もどの通《とほり》もから/\で、却《かへ》つて埃《ほこり》が立《た》つ位《くらゐ》だから、足駄《あしだ》なんぞ穿《は》いちや極《きまり》が惡《わる》くつて歩《ある》けやしない。つまり斯《か》う云《い》ふ所《ところ》に住《す》んでゐる我々《われ/\》は一|世紀《せいき》がた後《おく》れる事《こと》になるんだね」  こんな事《こと》を口《くち》にする宗助《そうすけ》は別《べつ》に不足《ふそく》らしい顏《かほ》もしてゐなかつた。御米《およね》も夫《をつと》の鼻《はな》の穴《あな》を潛《くゞ》る烟草《たばこ》の煙《けむ》を眺《なが》める位《くらゐ》な氣《き》で、それを聞《き》いてゐた。 「坂井《さかゐ》さんへ行《い》つて、さう云《い》つて入《い》らつしやいな」と輕《かる》い返事《へんじ》をした。 「さうして屋賃《やちん》でも負《ま》けて貰《もら》ふ事《こと》にしやう」と答《こた》へた儘《まゝ》、宗助《そうすけ》はついに坂井《さかゐ》へは行《い》かなかつた。  其《その》坂井《さかゐ》には元日《ぐわんじつ》の朝《あさ》早《はや》く名刺《めいし》を投《な》げ込《こ》んだ丈《だけ》で、わざと主人《しゆじん》の顏《かほ》を見《み》ずに門《もん》を出《で》たが、義理《ぎり》のある所《ところ》を一日《いちにち》のうちに略《ほゞ》片付《かたづけ》て夕方《ゆふがた》歸《かへ》つて見《み》ると、留守《るす》の間《あひだ》に、坂井《さかゐ》がちやんと來《き》てゐたので恐縮《きようしゆく》した。二日《ふつか》は雪《ゆき》が降《ふ》つた丈《だけ》で何事《なにごと》もなく過《す》ぎた。三日目《みつかめ》の日暮《ひくれ》に下女《げぢよ》が使《つかひ》に來《き》て、御閑《おひま》ならば、旦那樣《だんなさま》と奧《おく》さまと、夫《それ》から若旦那樣《わかだんなさま》に是非《ぜひ》今晩《こんばん》御遊《おあそ》びに入《い》らつしやる樣《やう》にと云《い》つて歸《かへ》つた。 「何《なに》をするんだらう」と宗助《そうすけ》は疑《うた》ぐつた。 「屹度《きつと》歌加留多《うたがるた》でせう。小供《こども》が多《おほ》いから」と御米《およね》が云《い》つた。「貴方《あなた》行《い》つて入《い》らつしやい」 「折角《せつかく》だから御前《おまへ》行《ゆ》くが好《い》い。己《おれ》は歌留多《かるた》は久《ひさ》しく取《と》らないから駄目《だめ》だ」 「私《わたくし》も久《ひさ》しく取《と》らないから駄目《だめ》ですわ」  二人《ふたり》は容易《ようい》に行《い》かうとはしなかつた。仕舞《しまひ》に、では若旦那《わかだんな》がみんなを代表《だいへう》して行《い》くが宜《よ》からうといふ事《こと》になつた。 「若旦那《わかだんな》行《い》つて來《こ》い」と宗助《そうすけ》が小六《ころく》に云《い》つた。小六《ころく》は苦笑《にがわら》ひして立《た》つた。夫婦《ふうふ》は若旦那《わかだんな》と云《い》ふ名《な》を小六《ころく》に冠《かむ》らせる事《こと》を大變《たいへん》な滑稽《こつけい》のやうに感《かん》じた。若旦那《わかだんな》と呼《よ》ばれて、苦笑《にがわら》ひする小六《ころく》の顏《かほ》を見《み》ると、等《ひと》しく聲《こゑ》を出《だ》して笑《わら》ひ出《だ》した。小六《ころく》は春《はる》らしい空氣《くうき》の中《うち》から出《で》た。さうして一|町《ちやう》程《ほど》の寒《さむ》さを横切《よこぎ》つて、又《また》春《はる》らしい電燈《でんとう》の下《もと》に坐《すわ》つた。  其晩《そのばん》小六《ころく》は大晦日《おほみそか》に買《か》つた梅《うめ》の花《はな》の御手玉《おてだま》を袂《たもと》に入《い》れて、是《これ》は兄《あに》から差上《さしあ》げますとわざ/\斷《ことわ》つて、坂井《さかゐ》の御孃《おぢやう》さんに贈物《おくりもの》にした。其《その》代《かは》り歸《かへ》りには、福引《ふくびき》に當《あた》つた小《ちひ》さな裸人形《はだかにんぎやう》を同《おな》じ袂《たもと》へ入《い》れて來《き》た。其《その》人形《にんぎやう》の額《ひたひ》が少《すこ》し缺《か》けて、其所《そこ》丈《だけ》墨《すみ》で塗《ぬ》つてあつた。小六《ころく》は眞面目《まじめ》な顏《かほ》をして、是《これ》が袖萩《そではぎ》ださうですと云《い》つて、それを兄夫婦《あにふうふ》の前《まへ》に置《お》いた。何故《なぜ》袖萩《そではぎ》だか夫婦《ふうふ》には分《わか》らなかつた。小六《ころく》には無論《むろん》分《わか》らなかつたのを、坂井《さかゐ》の奧《おく》さんが叮嚀《ていねい》に説明《せつめい》して呉《く》れたさうであるが、夫《それ》でも腑《ふ》に落《お》ちなかつたので、主人《しゆじん》がわざ/\半切《はんきれ》に洒落《しやれ》と本文《ほんもん》を並《なら》べて書《か》いて、歸《かへ》つたら是《これ》を兄《にい》さんと姉《ねえ》さんに御見《おみ》せなさいと云《い》つて渡《わた》したとかいふ話《はなし》であつた。小六《ころく》は袂《たもと》を探《さぐ》つて其《その》書付《かきつけ》を取《と》り出《だ》して見《み》せた。それに「此《この》垣《かき》一重《ひとへ》が黒鐵《くろがね》の」と認《したゝ》めた後《あと》に括弧《くわつこ》をして、(此《この》餓鬼《がき》額《ひたへ》が黒缺《くろがけ》の)とつけ加《くは》へてあつたので、宗助《そうすけ》と御米《およね》は又《また》春《はる》らしい笑《わらひ》を洩《も》らした。 「隨分《ずゐぶん》念《ねん》の入《い》つた趣向《しゆかう》だね。一體《いつたい》誰《だれ》の考《かんがへ》だい」と兄《あに》が聞《き》いた。 「誰《だれ》ですかな」と小六《ころく》は矢《や》つ張《ぱ》り詰《つま》らなさうな顏《かほ》をして、人形《にんぎやう》を其所《そこ》へ放《はふ》り出《だ》した儘《まゝ》、自分《じぶん》の室《へや》に歸《かへ》つた。  それから二三|日《にち》して、たしか七日《なぬか》の夕方《ゆふがた》に、また例《れい》の坂井《さかゐ》の下女《げぢよ》が來《き》て、もし御閑《おひま》なら何《ど》うぞ御話《おはなし》にと、叮嚀《ていねい》に主人《しゆじん》の命《めい》を傳《つた》へた。宗助《そうすけ》と御米《およね》は洋燈《らんぷ》を點《つ》けて丁度《ちやうど》晩食《ばんめし》を始《はじ》めた所《ところ》であつた。宗助《そうすけ》は其時《そのとき》茶碗《ちやわん》を持《も》ちながら、 「春《はる》も漸《やう》やく一段落《いちだんらく》が着《つ》いた」と語《かた》つてゐた。そこへ清《きよ》が坂井《さかゐ》からの口上《こうじやう》を取《と》り次《つ》いだので、御米《およね》は夫《をつと》の顏《かほ》を見《み》て微笑《びせう》した。宗助《そうすけ》は茶碗《ちやわん》を置《お》いて、 「まだ何《なに》か催《もよ》ふしがあるのかい」と少《すこ》し迷惑《めいわく》さうな眉《まゆ》をした。坂井《さかゐ》の下女《げぢよ》に聞《き》いて見《み》ると、別《べつ》に來客《らいきやく》もなければ、何《なん》の支度《したく》もないといふ事《こと》であつた。其上《そのうへ》細君《さいくん》は子供《こども》を連《つ》れて親類《しんるゐ》へ呼《よ》ばれて行《い》つて留守《るす》だといふ話《はなし》迄《まで》した。 「それぢや行《い》かう」と云《い》つて宗助《そうすけ》は出掛《でか》けた。宗助《そうすけ》は一般《いつぱん》の社交《しやかう》を嫌《きら》つてゐた。已《やむ》を得《え》なければ會合《くわいがふ》の席《せき》などへ顏《かほ》を出《だ》す男《をとこ》でなかつた。個人《こじん》としての朋友《ともだち》も多《おほ》くは求《もと》めなかつた。訪問《はうもん》はする暇《ひま》を有《も》たなかつた。たゞ坂井《さかゐ》丈《だけ》は取除《とりのけ》であつた。折々《をり/\》は用《よう》もないのに此方《こつち》からわざ/\出掛《でか》けて行《い》つて、時《とき》を潰《つぶ》して來《く》る事《こと》さへあつた。其《その》癖《くせ》坂井《さかゐ》は世《よ》の中《なか》で尤《もつと》も社交的《しやかうてき》の人《ひと》であつた。此《この》社交的《しやかうてき》な坂井《さかゐ》と、孤獨《こどく》な宗助《そうすけ》が二人《ふたり》寄《よ》つて話《はなし》が出來《でき》るのは、御米《およね》にさへ妙《めう》に見《み》える現象《げんしやう》であつた。坂井《さかゐ》は、 「彼方《あつち》へ行《い》きませう」と云《い》つて、茶《ちや》の間《ま》を通《とほ》り越《こ》して、廊下《らうか》傳《づた》ひに小《ちひ》さな書齋《しよさい》へ入《はひ》つた。其所《そこ》には棕梠《しゆろ》の筆《ふで》で書《か》いた樣《やう》な、大《おほ》きな硬《こは》い字《じ》が五|字《じ》ばかり床《とこ》の間《ま》に懸《かゝ》つてゐた。棚《たな》の上《うへ》に見事《みごと》な白《しろ》い牡丹《ぼたん》が活《い》けてあつた。その外《ほか》机《つくゑ》でも蒲團《ふとん》でも悉《こと/″\》く綺麗《きれい》であつた。坂井《さかゐ》は始《はじ》め暗《くら》い入口《いりくち》に立《た》つて、 「さあ何《ど》うぞ」と云《い》ひながら、何所《どこ》かぴちりと捩《ひね》つて、電氣燈《でんきとう》を點《つ》けた。それから、 「一寸《ちよつと》待《ま》ち給《たま》へ」と云《い》つて、燐寸《まつち》で瓦斯《ガス》煖爐《だんろ》を焚《た》いた。瓦斯《ガス》煖爐《だんろ》は室《へや》に比例《ひれい》した極《ごく》小《ちひ》さいものであつた。坂井《さかゐ》はしかる後《のち》蒲團《ふとん》を薦《すゝ》めた。 「是《これ》が僕《ぼく》の洞窟《どうくつ》で、面倒《めんだう》になると此所《こゝ》へ避難《ひなん》するんです」  宗助《そうすけ》も厚《あつ》い綿《わた》の上《うへ》で、一種《いつしゆ》の靜《しづ》かさを感《かん》じた。瓦斯《ガス》の燃《も》える音《おと》が微《かす》かにして次第《しだい》に脊中《せなか》からほか/\煖《あたゝ》まつて來《き》た。 「此所《こゝ》にゐると、もう何所《どこ》とも交渉《かうせふ》はない。全《まつた》く氣樂《きらく》です。悠《ゆつ》くりして居《ゐ》らつしやい。實際《じつさい》正月《しやうぐわつ》と云《い》ふものは豫想外《よさうぐわい》に煩瑣《うるさ》いものですね。私《わたくし》も昨日《きのふ》迄《まで》で殆《ほとん》どへと/\に降參《かうさん》させられました。新年《しんねん》が停滯《もたれ》てゐるのは實《じつ》に苦《くる》しいですよ。夫《それ》で今日《けふ》の午《ひる》から、とう/\塵世《ぢんせい》を遠《とほ》ざけて、病氣《びやうき》になつてぐつと寐込《ねこ》んぢまいました。今《いま》しがた眼《め》を覺《さ》まして、湯《ゆ》に入《はひ》つて、それから飯《めし》を食《く》つて、烟草《たばこ》を呑《の》んで、氣《き》が付《つ》いて見《み》ると、家内《かない》が子供《こども》を連《つ》れて親類《しんるゐ》へ行《い》つて留守《るす》なんでせう。成程《なるほど》靜《しづ》かな筈《はず》だと思《おも》ひましてね。すると今度《こんど》は急《きふ》に退屈《たいくつ》になつたのです。人間《にんげん》も隨分《ずゐぶん》我儘《わがまゝ》なものですよ。然《しか》しいくら退屈《たいくつ》だつて、此上《このうへ》御目出《おめで》たいものを、見《み》たり聞《き》いたりしちや骨《ほね》が折《を》れますし、又《また》御正月《おしやうぐわつ》らしいものを呑《の》んだり食《く》つたりするのも恐《おそ》れますから、それで、御正月《おしやうぐわつ》らしくない、と云《い》ふと失禮《しつれい》だが、まあ世《よ》の中《なか》とあまり縁《えん》のない貴方《あなた》、と云《い》つてもまだ失敬《しつけい》かも知《し》れないが、つまり一口《ひとくち》に云《い》ふと、超然派《てうぜんは》の一人《いちにん》と話《はな》しがして見《み》たくなつたんで、それでわざ/\使《つかひ》を上《あ》げた樣《やう》な譯《わけ》なんです」と坂井《さかゐ》は例《れい》の調子《てうし》で、悉《こと/″\》くすら/\したものであつた。宗助《そうすけ》は此《この》樂天家《らくてんか》の前《まへ》では、よく自分《じぶん》の過去《くわこ》を忘《わす》れる事《こと》があつた。さうして時《とき》によると、自分《じぶん》がもし順當《じゆんたう》に發展《はつてん》して來《き》たら、斯《こ》んな人物《じんぶつ》になりはしなかつたらうかと考《かんが》へた。  其所《そこ》へ下女《げぢよ》が三|尺《じやく》の狹《せま》い入口《いりぐち》を開《あ》けて這入《はい》つて來《き》たが、改《あら》ためて宗助《そうすけ》に鄭重《ていちよう》な御辭儀《おじぎ》をした上《うへ》、木皿《きざら》の樣《やう》な菓子皿《くわしざら》の樣《やう》なものを、一《ひと》つ前《まへ》に置《お》いた。それから同《おな》じ物《もの》をもう一《ひと》つ主人《しゆじん》の前《まへ》に置《お》いて、一口《ひとくち》もものを云《い》はずに退《さ》がつた。木皿《きざら》の上《うへ》には護謨毬《ごむまり》ほどな大《おほ》きな田舍饅頭《ゐなかまんぢゆう》が一《ひと》つ載《の》せてあつた。それに普通《ふつう》の倍《ばい》以上《いじやう》もあらうと思《おも》はれる楊枝《やうじ》が添《そ》へてあつた。 「何《ど》うです暖《あつた》かい内《うち》に」と主人《しゆじん》が云《い》つたので、宗助《そうすけ》は始《はじ》めて此《この》饅頭《まんぢゆう》の蒸《む》して間《ま》もない新《あた》らしさに氣《き》が付《つ》いた。珍《めづ》らしさうに黄色《きいろ》い皮《かは》を眺《なが》めた。 「いや出來《でき》たてぢやありません」と主人《しゆじん》が又《また》云《い》つた。「實《じつ》は昨夜《さくや》ある所《ところ》へ行《い》つて、冗談《じようだん》半分《はんぶん》に賞《ほ》めたら、御土産《おみやげ》に持《も》つて入《い》らつしやいと云《い》ふから貰《もら》つて來《き》たんです。其時《そのとき》は全《まつた》く暖《あつ》たかだつたんですがね。これは今《いま》上《あ》げやうと思《おも》つて蒸《む》し返《かへ》さしたのです」  主人《しゆじん》は箸《はし》とも楊枝《やうじ》とも片《かた》の付《つ》かないもので、無雜作《むざふさ》に饅頭《まんぢゆう》を割《わ》つて、むしや/\食《く》ひ始《はじ》めた。宗助《そうすけ》も顰《ひん》に傚《なら》つた。  其《その》間《あひだ》に主人《しゆじん》は昨夕《ゆうべ》行《い》つた料理屋《れうりや》で逢《あ》つたとか云《い》つて妙《めう》な藝者《げいしや》の話《はなし》をした。此《この》藝者《げいしや》はポツケツト論語《ろんご》が好《す》きで、汽車《きしや》へ乘《の》つたり遊《あそ》びに行《い》つたりするときは、何時《いつ》でもそれを懷《ふところ》にして出《で》るさうであつた。 「それでね孔子《こうし》の門人《もんじん》のうちで、子路《しろ》が一番《いちばん》好《すき》だつて云《い》ふんですがね。其《その》所謂《いはれ》を聞《き》くと、子路《しろ》と云《い》ふ男《をとこ》は、一《ひと》つ何《なに》か教《をす》はつて、それをまだ行《おこな》はないうちに、又《また》新《あた》らしい事《こと》を聞《き》くと苦《く》にする程《ほど》正直《しやうぢき》だからだつて云《い》ふんです。實《じつ》の所《ところ》私《わたし》も子路《しろ》はあまりよく知《し》らないから困《こま》つたが、何《なに》しろ一人《ひとり》好《い》い人《ひと》が出來《でき》て、それと夫婦《ふうふ》にならない前《まへ》に、また新《あた》らしく好《い》い人《ひと》が出來《でき》ると苦《く》になる樣《やう》なものぢやないかつて、聞《き》いて見《み》たんです……」  主人《しゆじん》は斯《こ》んな事《こと》を甚《はなは》だ氣樂《きらく》さうに述《の》べ立《た》てた。其《その》話《はなし》の樣子《やうす》からして考《かんが》へると、彼《かれ》はのべつに斯《か》ういふ場所《ばしよ》に出入《しつにふ》して、其《その》刺戟《しげき》にはとうに麻痺《まひ》しながら、因習《いんしふ》の結果《けつくわ》、依然《いぜん》として月《つき》に何度《なんど》となく同《おな》じ事《こと》を繰《く》り返《かへ》してゐるらしかつた。よく聞《き》き糺《たゞ》して見《み》ると、しかく平氣《へいき》な男《をとこ》も、時々《とき/″\》は歡樂《くわんらく》の飽滿《はうまん》に疲勞《ひらう》して、書齋《しよさい》のなかで精神《せいしん》を休《やす》める必要《ひつえう》が起《おこ》るのださうであつた。  宗助《そうすけ》はさういふ方面《はうめん》に丸《まる》で經驗《けいけん》のない男《をとこ》ではなかつたので、強《し》ひて興味《きようみ》を裝《よそほ》ふ必要《ひつえう》もなく、たゞ尋常《じんじやう》な挨拶《あいさつ》をする所《ところ》が、却《かへ》つて主人《しゆじん》の氣《き》に入《い》るらしかつた。彼《かれ》は平凡《へいぼん》な宗助《そうすけ》の言葉《ことば》のなかから、一種《いつしゆ》異彩《いさい》のある過去《くわこ》を覗《のぞ》く樣《やう》な素振《そぶり》を見《み》せた。然《しか》しそちらへは宗助《そうすけ》が進《すゝ》みたがらない痕迹《こんせき》が少《すこ》しでも出《で》ると、すぐ話《はなし》を轉《てん》じた。それは政略《せいりやく》よりも寧《むし》ろ禮讓《れいじやう》からであつた。從《したが》つて宗助《そうすけ》には毫《がう》も不愉快《ふゆくわい》を與《あた》へなかつた。  其内《そのうち》小六《ころく》の噂《うはさ》が出《で》た。主人《しゆじん》は此《この》青年《せいねん》に就《つ》いて、肉身《にくしん》の兄《あに》が見逃《みのが》す樣《やう》な新《あた》らしい觀察《くわんさつ》を、二三|有《も》つてゐた。宗助《そうすけ》は主人《しゆじん》の評語《ひやうご》を、當《あた》ると當《あた》らないとに論《ろん》なく、面白《おもしろ》く聞《き》いた。そのなかに、彼《かれ》は年《とし》に合《あ》はしては複雜《ふくざつ》な實用《じつよう》に適《てき》しない頭《あたま》を有《も》つてゐながら、年《とし》よりも若《わか》い單純《たんじゆん》な性情《せいじやう》を平氣《へいき》で露《あら》はす子供《こども》ぢやないかといふ質問《しつもん》があつた。宗助《そうすけ》はすぐそれを首肯《うけが》つた。然《しか》し學校教育《がくかうけういく》丈《だけ》で社會教育《しやくわいけういく》のないものは、いくら年《とし》を取《と》つても其《その》傾《かたむき》があるだらうと答《こた》へた。 「左樣《さやう》、それと反對《はんたい》で、社會教育《しやくわいけういく》丈《だけ》あつて學校教育《がくかうけういく》のないものは、隨分《ずゐぶん》複雜《ふくざつ》な性情《せいじやう》を發揮《はつき》する代《かは》りに、頭《あたま》は何時《いつ》迄《まで》も小供《こども》ですからね。却《かへ》つて始末《しまつ》が惡《わる》いかも知《し》れない」  主人《しゆじん》は此所《こゝ》で一寸《ちよつと》笑《わら》つたが、やがて、 「何《ど》うです、私《わたし》の所《ところ》へ書生《しよせい》に寄《よ》こしちや、少《すこ》しは社會教育《しやくわいけういく》になるかも知《し》れない」と云《い》つた。主人《しゆじん》の書生《しよせい》は彼《かれ》の犬《いぬ》が病氣《びやうき》で病院《びやうゐん》へ這入《はい》る一ヶ|月《げつ》前《まへ》とかに、徴兵檢査《ちようへいけんさ》に合格《がふかく》して入營《にふえい》したぎり今《いま》では一人《ひとり》もゐないのださうであつた。  宗助《そうすけ》は小六《ころく》の所置《しよち》を付《つ》ける好機會《かうきくわい》が、求《もと》めざるに先《さき》だつて、春《はる》と共《とも》に自《おのづ》から回《めぐ》つて來《き》たのを喜《よろ》こんだ。同時《どうじ》に、今《いま》迄《まで》世間《せけん》に向《むか》つて、積極的《せききよくてき》に好意《かうい》と親切《しんせつ》を要求《えうきう》する勇氣《ゆうき》を有《も》たなかつた彼《かれ》は、突然《とつぜん》此《この》主人《しゆじん》の申《まを》し出《いで》に逢《あ》つて少《すこ》し間誤《まご》つく位《くらゐ》驚《おど》ろいた。けれども出來《でき》るなら成丈《なりたけ》早《はや》く弟《おとうと》を坂井《さかゐ》に預《あづ》けて置《お》いて、此《この》變動《へんどう》から出《で》る自分《じぶん》の餘裕《よゆう》に、幾分《いくぶん》か安之助《やすのすけ》の補助《ほじよ》を足《た》して、さうして本人《ほんにん》の希望《きばう》通《どほ》り、高等《かうとう》の教育《けういく》を受《う》けさしてやらうといふ分別《ふんべつ》をした。そこで打《う》ち明《あ》けた話《はなし》を腹藏《ふくざう》なく主人《しゆじん》にすると、主人《しゆじん》は成程々々《なるほど/\》と聞《き》いてゐる丈《だけ》であつたが、仕舞《しまひ》に雜作《ざふさ》なく、 「そいつは好《い》いでせう」と云《い》つたので、相談《さうだん》は略《ほゞ》其《その》座《ざ》で纏《まと》まつた。  宗助《そうすけ》は其所《そこ》で辭《じ》して歸《かへ》れば可《よ》かつたのである。又《また》辭《じ》して歸《かへ》らうとしたのである。所《ところ》が主人《しゆじん》からまあ緩《ゆつ》くりなさいと云《い》つて留《と》められた。主人《しゆじん》は夜《よ》は長《なが》い、まだ宵《よい》だと云《い》つて時計《とけい》迄《まで》出《だ》して見《み》せた。實際《じつさい》彼《かれ》は退屈《たいくつ》らしかつた。宗助《そうすけ》も歸《かへ》れば只《たゞ》寐《ね》るより外《ほか》に用《よう》のない身體《からだ》なので、つい又《また》尻《しり》を据《す》ゑて、濃《こ》い烟草《たばこ》を新《あた》らしく吹《ふ》かし始《はじ》めた。仕舞《しまひ》には主人《しゆじん》の例《れい》に傚《なら》つて、柔《やは》らかい坐蒲團《ざぶとん》の上《うへ》で膝《ひざ》さへ崩《くづ》した。  主人《しゆじん》は小六《ころく》の事《こと》に關聯《くわんれん》して、 「いや弟《おとゝ》などを有《も》つてゐると、隨分《ずゐぶん》厄介《やくかい》なものですよ。私《わたくし》も一人《ひとり》やくざなのを世話《せわ》をした覺《おぼえ》がありますがね」と云《い》つて、自分《じぶん》の弟《おとうと》が大學《だいがく》にゐるとき金《かね》の掛《かゝ》つた事《こと》抔《など》を、自分《じぶん》が學生時代《がくせいじだい》の質朴《しつぼく》さに比《くら》べて色々《いろ/\》話《はな》した。宗助《そうすけ》は此《この》派出好《はでずき》な弟《おとうと》が、其後《そのご》何《ど》んな徑路《けいろ》を取《と》つて、何《ど》う發展《はつてん》したかを、氣味《きみ》の惡《わる》い運命《うんめい》の意思《いし》を窺《うかゞ》ふ一端《いつたん》として、主人《しゆじん》に聞《き》いて見《み》た。主人《しゆじん》は卒然《そつぜん》 「冒險者《アドヹンチユアラー》」と、頭《あたま》も尾《しつぽ》もない一|句《く》を投《な》げる樣《やう》に吐《は》いた。  此《この》弟《おとうと》は卒業後《そつげふご》主人《しゆじん》の紹介《せうかい》で、ある銀行《ぎんかう》に這入《はい》つたが、何《なん》でも金《かね》を儲《まう》けなくつちや不可《いけ》ないと口癖《くちくせ》の樣《やう》に云《い》つてゐたさうで、日露戰爭後《にちろせんさうご》間《ま》もなく、主人《しゆじん》の留《と》めるのも聞《き》かずに、大《おほ》いに發展《はつてん》して見《み》たいとかとなへて遂《つひ》に滿洲《まんしう》へ渡《わた》つたのだと云《い》ふ。其所《そこ》で何《なに》を始《はじ》めるかと思《おも》ふと、遼河《れうが》を利用《りよう》して、豆粕大豆《まめかすだいづ》を船《ふね》で下《くだ》す、大仕掛《おほじかけ》な運送業《うんそうげふ》を經營《けいえい》して、忽《たちま》ち失敗《しつぱい》してしまつたのださうである。元《もと》より當人《たうにん》は、資本主《しほんぬし》ではなかつたのだけれども、愈《いよ/\》といふ曉《あかつき》に、勘定《かんぢやう》して見《み》ると大《おほ》きな缺損《けつそん》と事《こと》が極《きま》つたので、無論《むろん》事業《じげふ》は繼續《けいぞく》する譯《わけ》に行《ゆ》かず、當人《たうにん》は必然《ひつぜん》の結果《けつくわ》、地位《ちゐ》を失《うしな》つたぎりになつた。 「それから後《あと》私《わたし》も何《ど》うしたか能《よ》く知《し》らなかつたんですが、其後《そののち》漸《やうや》く聞《き》いて見《み》ると、驚《おど》ろきましたね。蒙古《もうこ》へ這入《はい》つて漂浪《うろつ》いてゐるんです。何處《どこ》迄《まで》山氣《やまぎ》があるんだか分《わか》らないんで、私《わたし》も少々《せう/\》劍呑《けんのん》になつてるんですよ。夫《それ》でも離《はな》れてゐるうちは、まあ何《ど》うかしてゐるだらう位《ぐらゐ》に思《おも》つて放《はふ》つて置《お》きます。時《とき》たま音便《たより》があつたつて、蒙古《もうこ》といふ所《ところ》は、水《みづ》に乏《とぼ》しい所《ところ》で、暑《あつ》い時《とき》には徃來《わうらい》へ泥溝《どぶ》の水《みづ》を撒《ま》くとかね、又《また》はその泥溝《どぶ》の水《みづ》が無《な》くなると、今度《こんど》は馬《うま》の小便《せうべん》を撒《ま》くとか、從《したが》つて甚《はなは》だ臭《くさ》いとか、まあそんな手紙《てがみ》が來《く》る丈《だけ》ですから、――そりあ金《かね》の事《こと》も云《い》つて來《き》ますが、なに東京《とうきやう》と蒙古《もうこ》だから打遣《うちや》つて置《お》けば夫迄《それまで》です。だから離《はな》れてさへゐれば、まあ可《い》いんですが、其奴《そいつ》が去年《きよねん》の暮《くれ》突然《とつぜん》出《で》て來《き》ましてね」  主人《しゆじん》は思《おも》ひ付《つ》いた樣《やう》に、床《とこ》の柱《はしら》に掛《か》けた、綺麗《きれい》な房《ふさ》の付《つ》いた一種《いつしゆ》の裝飾物《さうしよくぶつ》を取《と》り卸《おろ》した。  それは錦《にしき》の袋《ふくろ》に這入《はい》つた一|尺《しやく》ばかりの刀《かたな》であつた。鞘《さや》は何《なに》とも知《し》れぬ緑色《みどりいろ》の雲母《きらゝ》の樣《やう》なもので出來《でき》てゐて、其《その》所々《ところ/″\》が三ヶ|所《しよ》程《ほど》銀《ぎん》で卷《ま》いてあつた。中身《なかみ》は六|寸《すん》位《ぐらゐ》しかなかつた。從《した》がつて刄《は》も薄《うす》かつた。けれども鞘《さや》の格好《かつかう》は恰《あたか》も六角《ろくかく》の樫《かし》の棒《ぼう》の樣《やう》に厚《あつ》かつた。よく見《み》ると、柄《つか》の後《うしろ》に細《ほそ》い棒《ぼう》が二|本《ほん》並《なら》んで差《さ》さつてゐた。結果《けつくわ》は鞘《さや》を重《かさ》ねて離《はな》れない爲《ため》に銀《ぎん》の鉢卷《はちまき》をしたと同《おな》じであつた。主人《しゆじん》は 「土産《みやげ》にこんなものを持《も》つて來《き》ました。蒙古刀《もうこたう》ださうです」と云《い》ひながら、すぐ拔《ぬ》いて見《み》せた。後《うしろ》に差《さ》してあつた象牙《ざうげ》の樣《やう》な棒《ぼう》も二|本《ほん》拔《ぬ》いて見《み》せた。 「是《こり》や箸《はし》ですよ。蒙古人《もうこじん》は始終《しじゆう》是《これ》を腰《こし》へぶら下《さ》げてゐて、いざ御馳走《ごちそう》といふ段《だん》になると、此《この》刀《かたな》を拔《ぬ》いて肉《にく》を切《き》つて、さうして此《この》箸《はし》で傍《そば》から食《く》うんださうです」  主人《しゆじん》はことさらに刀《かたな》と箸《はし》を兩手《りやうて》に持《も》つて、切《き》つたり食《く》つたりする眞似《まね》をして見《み》せた。宗助《そうすけ》はひたすらに其《その》精巧《せいかう》な作《つく》りを眺《なが》めた。 「まだ蒙古人《もうこじん》の天幕《てんと》に使《つか》ふフエルトも貰《もら》ひましたが、まあ昔《むかし》の毛氈《まうせん》と變《かは》つた所《ところ》もありませんね」  主人《しゆじん》は蒙古人《もうこじん》の上手《じやうず》に馬《うま》を扱《あつか》ふ事《こと》や、蒙古犬《もうこいぬ》の瘠《や》せて細長《ほそなが》くて、西洋《せいやう》のグレー、ハウンドに似《に》てゐる事《こと》や、彼等《かれら》が支那人《しなじん》のために段々《だん/\》押《お》し狹《せば》められて行《ゆ》く事《こと》や、――凡《すべ》て近頃《ちかごろ》彼地《あつち》から歸《かへ》つたといふ弟《おとうと》に聞《き》いた儘《まゝ》を宗助《そうすけ》に話《はな》した。宗助《そうすけ》は又《また》自分《じぶん》の未《いま》だ曾《かつ》て耳《みゝ》にした事《こと》のない話《はなし》丈《だけ》に、一々《いち/\》少《すく》なからぬ興味《きようみ》を有《も》つてそれを聞《き》いて行《い》つた。其《その》うちに、元來《ぐわんらい》此《この》弟《おとうと》は蒙古《もうこ》で何《なに》をしてゐるのだらうといふ好奇心《かうきしん》が出《で》た。そこで一寸《ちよつと》主人《しゆじん》に尋《たづ》ねて見《み》ると、主人《しゆじん》は、 「冒險者《アドヹンチユアラー》」と再《ふたゝ》び先刻《さつき》の言葉《ことば》を力強《ちからづよ》く繰《く》り返《かへ》した。「何《なに》をしてゐるか分《わか》らない。私《わたくし》には、牧畜《ぼくちく》をやつてゐます。しかも成功《せいこう》してゐますと云《い》ふんですがね、一向《いつかう》當《あて》にはなりません。今迄《いままで》もよく法螺《ほら》を吹《ふ》いて私《わたくし》を欺《だま》したもんです。それに今度《こんど》東京《とうきやう》へ出《で》て來《き》た用事《ようじ》と云《い》ふのが餘《よ》つ程《ぽど》妙《めう》です。何《なん》とか云《い》ふ蒙古王《もうこわう》のために、金《かね》を二|萬圓《まんゑん》許《ばかり》借《か》りたい。もし貸《か》してやらないと自分《じぶん》の信用《しんよう》に關《かゝ》わるつて奔走《ほんそう》してゐるんですからね。その取始《とつぱじめ》に捕《つか》まつたのは私《わたくし》だが、いくら蒙古王《もうこわう》だつて、いくら廣《ひろ》い土地《とち》を抵當《ていたう》にするつたつて、蒙古《もうこ》と東京《とうきやう》ぢや催促《さいそく》さへ出來《でき》やしませんもの。で、私《わたくし》が斷《こと》わると、蔭《かげ》へ廻《まは》つて妻《さい》に、兄《にい》さんはあれだから大《おほ》きな仕事《しごと》が出來《でき》つこないつて、威張《ゐば》つてゐるんです。仕樣《しやう》がない」  主人《しゆじん》は此所《こゝ》で少《すこ》し笑《わら》つたが、妙《めう》に緊張《きんちやう》した宗助《そうすけ》の顏《かほ》を見《み》て、 「何《ど》うです一|遍《ぺん》逢《あ》つて御覽《ごらん》になつちや、わざ/\毛皮《けがは》の着《つ》いただぶ/\したものなんか着《き》て、一寸《ちよつと》面白《おもしろ》いですよ。何《なん》なら御紹介《ごせうかい》しませう。丁度《ちやうど》明後日《あさつて》の晩《ばん》呼《よ》んで飯《めし》を食《く》はせる事《こと》になつてゐるから。――なに引《ひ》つ掛《かゝ》つちや不可《いけ》ませんがね。默《だま》つて向《むかふ》に喋舌《しやべ》らして、聞《き》いてゐる分《ぶん》には、少《すこ》しも危險《きけん》はありません。たゞ面白《おもしろ》い丈《だけ》です」としきりに勸《すゝ》め出《だ》した。宗助《そうすけ》は多少《たせう》心《こゝろ》を動《うご》かした。 「御出《おいで》になるのは御令弟《ごれいてい》丈《だけ》ですか」 「いや外《ほか》に一人《ひとり》弟《おとゝ》の友達《ともだち》で向《むかふ》から一所《いつしよ》に來《き》たものが、來《く》る筈《はず》になつてゐます。安井《やすゐ》とか云《い》つて私《わたくし》はまだ逢《あ》つた事《こと》もない男《をとこ》ですが、弟《おとゝ》が頻《しきり》に私《わたくし》に紹介《せうかい》したがるから、實《じつ》はそれで二人《ふたり》を呼《よ》ぶ事《こと》にしたんです」  宗助《そうすけ》は其夜《そのよ》蒼《あを》い顏《かほ》をして坂井《さかゐ》の門《もん》を出《で》た。 [#8字下げ]十七[#「十七」は中見出し]  宗助《そうすけ》と御米《およね》の一生《いつしやう》を暗《くら》く彩《いろ》どつた關係《くわんけい》は、二人《ふたり》の影《かげ》を薄《うす》くして、幽靈《いうれい》の樣《やう》な思《おもひ》を何所《どこ》かに抱《いだ》かしめた。彼等《かれら》は自己《じこ》の心《こゝろ》のある部分《ぶぶん》に、人《ひと》に見《み》えない結核性《けつかくせい》の恐《おそ》ろしいものが潛《ひそ》んでゐるのを、仄《ほの》かに自覺《じかく》しながら、わざと知《し》らぬ顏《がほ》に互《たがひ》と向《む》き合《あ》つて年《とし》を過《すご》した。  當初《たうしよ》彼等《かれら》の頭腦《づなう》に痛《いた》く應《こた》へたのは、彼等《かれら》の過《あやまち》が安井《やすゐ》の前途《ぜんと》に及《およ》ぼした影響《えいきやう》であつた。二人《ふたり》の頭《あたま》の中《なか》で沸《わ》き返《かへ》つた凄《すご》い泡《あわ》の樣《やう》なものが漸《やうや》く靜《しづ》まつた時《とき》、二人《ふたり》は安井《やすゐ》も亦《また》半途《はんと》で學校《がくかう》を退《しりぞ》いたといふ消息《せうそく》を耳《みゝ》にした。彼等《かれら》は固《もと》より安井《やすゐ》の前途《ぜんと》を傷《きずつ》けた原因《げんいん》をなしたに違《ちがひ》なかつた。次《つぎ》に安井《やすゐ》が郷里《きやうり》に歸《かへ》つたといふ噂《うはさ》を聞《き》いた。次《つぎ》に病氣《びやうき》に罹《かゝ》つて家《いへ》に寐《ね》てゐるといふ報知《しらせ》を得《え》た。二人《ふたり》はそれを聞《き》くたびに重《おも》い胸《むね》を痛《いた》めた。最後《さいご》に安井《やすゐ》が滿洲《まんしう》に行《い》つたと云《い》ふ音信《たより》が來《き》た。宗助《そうすけ》は腹《はら》の中《なか》で、病氣《びやうき》はもう癒《なほ》つたのだらうかと思《おも》つた。又《また》は滿洲《まんしう》行《ゆき》の方《はう》が嘘《うそ》ではなからうかと考《かんが》へた。安井《やすゐ》は身體《からだ》から云《い》つても、性質《せいしつ》から云《い》つても、滿洲《まんしう》や臺灣《たいわん》に向《む》く男《をとこ》ではなかつたからである。宗助《そうすけ》は出來《でき》る丈《だけ》手《て》を回《まは》して、事《こと》の眞疑《しんぎ》を探《さぐ》つた。さうして、或《あ》る關係《くわんけい》から、安井《やすゐ》がたしかに奉天《ほうてん》にゐる事《こと》を確《たしか》め得《え》た。同時《どうじ》に彼《かれ》の健康《けんかう》で、活溌《くわつぱつ》で、多忙《たばう》である事《こと》も確《たしか》め得《え》た。其時《そのとき》夫婦《ふうふ》は顏《かほ》を見合《みあは》せて、ほつといふ息《いき》を吐《つ》いた。 「まあ可《よ》からう」と宗助《そうすけ》が云《い》つた。 「病氣《びやうき》よりはね」と御米《およね》が云《い》つた。  二人《ふたり》は夫《それ》から以後《いご》安井《やすゐ》の名《な》を口《くち》にするのを避《さ》けた。考《かんが》へ出《だ》す事《こと》さへも敢《あへ》てしなかつた。彼等《かれら》は安井《やすゐ》を半途《はんと》で退學《たいがく》させ、郷里《きやうり》へ歸《かへ》らせ、病氣《びやうき》に罹《かゝ》らせ、もしくは滿洲《まんしう》へ驅《か》り遣《や》つた罪《つみ》に對《たい》して、如何《いか》に悔恨《くわいこん》の苦《くる》しみを重《かさ》ねても、何《ど》うする事《こと》も出來《でき》ない地位《ちゐ》に立《た》つてゐたからである。 「御米《およね》、御前《おまへ》信仰《しんかう》の心《こゝろ》が起《おこ》つた事《こと》があるかい」と或時《あるとき》宗助《そうすけ》が御米《およね》に聞《き》いた。御米《およね》は、たゞ、 「あるわ」と答《こた》へた丈《だけ》で、すぐ「貴方《あなた》は」と聞《き》き返《かへ》した。  宗助《そうすけ》は薄笑《うすわら》ひをしたぎり、何《なん》とも答《こた》へなかつた。其代《そのかは》り推《お》して、御米《およね》の信仰《しんかう》に就《つ》いて、詳《くは》しい質問《しつもん》も掛《か》けなかつた。御米《およね》には、それが仕合《しあは》せかも知《し》れなかつた。彼女《かのぢよ》はその方面《はうめん》に、是《これ》といふ程《ほど》判然《はつきり》した凝《こ》り整《とゝの》つた何物《なにもの》も有《も》つてゐなかつたからである。二人《ふたり》は兎角《とかく》して會堂《くわいだう》の腰掛《べんち》にも倚《よ》らず、寺院《じゐん》の門《もん》も潛《くゞ》らずに過《す》ぎた。さうして只《たゞ》自然《しぜん》の惠《めぐみ》から來《く》る月日《つきひ》と云《い》ふ緩和劑《くわんわざい》の力《ちから》丈《だけ》で、漸《やうや》く落《お》ち付《つ》いた。時々《とき/″\》遠《とほ》くから不意《ふい》に現《あらは》れる訴《うつたへ》も、苦《くる》しみとか恐《おそ》れとかいふ殘酷《ざんこく》の名《な》を付《つ》けるには、あまり微《かす》かに、あまり薄《うす》く、あまりに肉體《にくたい》と慾得《よくとく》を離《はな》れ過《す》ぎる樣《やう》になつた。必竟《ひつきやう》ずるに、彼等《かれら》の信仰《しんかう》は、神《かみ》を得《え》なかつたため、佛《ほとけ》に逢《あ》はなかつたため、互《たがひ》を目標《めじるし》として働《はた》らいた。互《たがひ》に抱《だ》き合《あ》つて、丸《まる》い圓《ゑん》を描《ゑが》き始《はじ》めた。彼等《かれら》の生活《せいくわつ》は淋《さみ》しいなりに落《お》ち付《つ》いて來《き》た。其《その》淋《さみ》しい落《お》ち付《つ》きのうちに、一種《いつしゆ》の甘《あま》い悲哀《ひあい》を味《あぢ》はつた。文藝《ぶんげい》にも哲學《てつがく》にも縁《ゑん》のない彼等《かれら》は、此《この》味《あぢ》を舐《な》め盡《つく》しながら、自分《じぶん》で自分《じぶん》の状態《じやうたい》を得意《とくい》がつて自覺《じかく》する程《ほど》の知識《ちしき》を有《も》たなかつたから、同《おな》じ境遇《きやうぐう》にある詩人《しじん》や文人《ぶんじん》などよりも、一層《いつそう》純粹《じゆんすゐ》であつた。――是《これ》が七日《なのか》の晩《ばん》に坂井《さかゐ》へ呼《よ》ばれて、安井《やすゐ》の消息《せうそく》を聞《き》く迄《まで》の夫婦《ふうふ》の有樣《ありさま》であつた。  其夜《そのよ》宗助《そうすけ》は家《いへ》に歸《かへ》つて御米《およね》の顏《かほ》を見《み》るや否《いな》や、 「少《すこ》し具合《ぐあひ》が惡《わる》いから、すぐ寐《ね》よう」と云《い》つて、火鉢《ひばち》に倚《よ》りながら、歸《かえり》を待《ま》ち受《う》けてゐた御米《およね》を驚《おど》ろかした。 「何《ど》うなすつたの」と御米《およね》は眼《め》を上《あ》げて宗助《そうすけ》を眺《なが》めた。宗助《そうすけ》は其所《そこ》に突《つ》つ立《た》つてゐた。  宗助《そうすけ》が外《そと》から歸《かへ》つて來《き》て、こんな風《ふう》をするのは、殆《ほと》んど御米《およね》の記憶《きおく》にない位《くらゐ》珍《めづ》らしかつた。御米《およね》は卒然《そつぜん》何《なに》とも知《し》れない恐怖《きようふ》の念《ねん》に襲《おそ》はれた如《ごと》くに立《た》ち上《あ》がつたが、殆《ほと》んど器械的《きかいてき》に、戸棚《とだな》から夜具蒲團《やぐふとん》を取《と》り出《だ》して、夫《をつと》の云《い》ひ付《つ》け通《どほ》り床《とこ》を延《の》べ始《はじ》めた。其《その》間《あひだ》宗助《そうすけ》は矢《や》つ張《ぱ》り懷手《ふところで》をして傍《そば》に立《た》つてゐた。さうして床《とこ》が敷《し》けるや否《いな》や、そこ/\に着物《きもの》を脱《ぬ》ぎ捨《す》てゝ、すぐ其中《そのなか》に潛《もぐ》り込《こ》んだ。御米《およね》は枕元《まくらもと》を離《はな》れ得《え》なかつた。 「何《ど》うなすつたの」 「何《なん》だか、少《すこ》し心持《こゝろもち》が惡《わる》い。しばらく斯《か》うして凝《じ》つとしてゐたら、能《よ》くなるだらう」  宗助《そうすけ》の答《こたへ》は半《なか》ば夜着《よぎ》の下《した》から出《で》た。其《その》聲《こゑ》が籠《こも》つた樣《やう》に御米《およね》の耳《みゝ》に響《ひゞ》いた時《とき》、御米《およね》は濟《す》まない顏《かほ》をして、枕元《まくらもと》に坐《すわ》つたなり動《うご》かなかつた。 「彼所《あつち》へ行《い》つて居《ゐ》ても可《い》いよ。用《よう》があれば呼《よ》ぶから」  御米《およね》は漸《やうや》く茶《ちや》の間《ま》へ歸《かへ》つた。  宗助《そうすけ》は夜具《やぐ》を被《かぶ》つた儘《まゝ》、ひとり硬《かた》くなつて眼《め》を眠《ねむ》つてゐた。彼《かれ》は此《この》暗《くら》い中《なか》で、坂井《さかゐ》から聞《き》いた話《はなし》を何度《なんど》となく反覆《はんぷく》した。彼《かれ》は滿洲《まんしう》にゐる安井《やすゐ》の消息《せうそく》を、家主《やぬし》たる坂井《さかゐ》の口《くち》を通《とほ》して知《し》らうとは、今《いま》が今《いま》迄《まで》豫期《よき》してゐなかつた。もう少《すこ》しの事《こと》で、其《その》安井《やすゐ》と同《おな》じ家主《やぬし》の家《いへ》へ同時《どうじ》に招《まね》かれて、隣《とな》り合《あは》せか、向《むか》ひ合《あは》せに坐《すわ》る運命《うんめい》にならうとは、今夜《こんや》晩食《ばんめし》を濟《すま》す迄《まで》、夢《ゆめ》にも思《おも》ひ掛《が》けなかつた。彼《かれ》は寐《ね》ながら過去《くわこ》二三|時間《じかん》の經過《けいくわ》を考《かんが》へて、其《その》クライマツクスが突如《とつじよ》として如何《いか》にも不意《ふい》に起《おこ》つたのを不思議《ふしぎ》に感《かん》じた。且《かつ》悲《かな》しく感《かん》じた。彼《かれ》は是《これ》程《ほど》偶然《ぐうぜん》な出來事《できごと》を借《か》りて、後《うしろ》から斷《ことわ》りなしに足絡《あしがら》を掛《か》けなければ、倒《たふ》す事《こと》の出來《でき》ない程《ほど》強《つよ》いものとは、自分《じぶん》ながら任《にん》じてゐなかつたのである。自分《じぶん》の樣《やう》な弱《よわ》い男《をとこ》を放《はふ》り出《だ》すには、もつと穩當《をんたう》な手段《しゆだん》で澤山《たくさん》でありさうなものだと信《しん》じてゐたのである。  小六《ころく》から坂井《さかゐ》の弟《おとうと》、それから滿洲《まんしう》、蒙古《もうこ》、出京《しゆつきやう》、安井《やすゐ》、――斯《か》う談話《だんわ》の迹《あと》を辿《たど》れば辿《たど》る程《ほど》、偶然《ぐうぜん》の度《ど》はあまりに甚《はなは》だしかつた。過去《くわこ》の痛恨《つうこん》を新《あらた》にすべく、普通《ふつう》の人《ひと》が滅多《めつた》に出逢《であ》はない此《この》偶然《ぐうぜん》に出逢《であ》ふために、千百|人《にん》のうちから撰《え》り出《だ》されなければならない程《ほど》の人物《じんぶつ》であつたかと思《おも》ふと、宗助《そうすけ》は苦《くる》しかつた。又《また》腹立《はらだゝ》しかつた。彼《かれ》は暗《くら》い夜着《よぎ》の中《なか》で熱《あつ》い息《いき》を吐《つ》いた。  此《この》二三|年《ねん》の月日《つきひ》で漸《やうや》く癒《なほ》り掛《か》けた創口《きずぐち》が、急《きふ》に疼《うづ》き始《はじ》めた。疼《うづ》くに伴《つ》れて熱《ほて》つて來《き》た。再《ふたゝ》び創口《きずぐち》が裂《さ》けて、毒《どく》のある風《かぜ》が容赦《ようしや》なく吹《ふ》き込《こ》みさうになつた。宗助《そうすけ》は一層《いつそ》のこと、萬事《ばんじ》を御米《およね》に打《う》ち明《あ》けて、共《とも》に苦《くる》しみを分《わか》つて貰《もら》はうかと思《おも》つた。 「御米《およね》、御米《およね》」と二聲《ふたこゑ》呼《よ》んだ。  御米《およね》はすぐ枕元《まくらもと》へ來《き》て、上《うへ》から覗《のぞ》き込《こ》むやうに宗助《そうすけ》を見《み》た。宗助《そうすけ》は夜具《やぐ》の襟《えり》から顏《かほ》を全《まつた》く出《だ》した。次《つぎ》の間《ま》の灯《ひ》が御米《およね》の頬《ほゝ》を半分《はんぶん》照《て》らしてゐた。 「熱《あつ》い湯《ゆ》を一|杯《ぱい》貰《もら》はう」  宗助《そうすけ》はとう/\言《い》はうとした事《こと》を言《い》ひ切《き》る勇氣《ゆうき》を失《うしな》つて、嘘《うそ》を吐《つ》いて胡魔化《ごまか》した。  翌日《よくじつ》宗助《そうすけ》は例《れい》の如《ごと》く起《お》きて、平日《へいじつ》と變《かは》る事《こと》なく食事《しよくじ》を濟《す》ました。さうして給仕《きふじ》をして呉《く》れる御米《およね》の顏《かほ》に、多少《たせう》安心《あんしん》の色《いろ》が見《み》えたのを、嬉《うれ》しい樣《やう》な憐《あは》れな樣《やう》な一種《いつしゆ》の情緒《じやうしよ》を以《もつ》て眺《なが》めた。 「昨夕《ゆうべ》は驚《おど》ろいたわ。何《ど》うなすつたのかと思《おも》つて」  宗助《そうすけ》は下《した》を向《む》いて茶碗《ちやわん》に注《つ》いだ茶《ちや》を呑《の》んだ丈《だけ》であつた。何《なん》と答《こた》へていゝか、適當《てきたう》な言葉《ことば》を見出《みいだ》さなかつたからである。  其《その》日《ひ》は朝《あさ》からから風《かぜ》が吹《ふ》き荒《すさ》んで、折々《をり/\》埃《ほこり》と共《とも》に行《ゆ》く人《ひと》の帽《ばう》を奪《うば》つた。熱《ねつ》があると惡《わる》いから、一|日《にち》休《やす》んだらと云《い》ふ御米《およね》の心配《しんぱい》を聞《き》き捨《ず》てにして、例《れい》の通《とほ》り電車《でんしや》へ乘《の》つた宗助《そうすけ》は、風《かぜ》の音《おと》と車《くるま》の音《おと》の中《なか》に首《くび》を縮《ちゞ》めて、たゞ一《ひと》つ所《ところ》を見詰《みつ》めてゐた。降《お》りる時《とき》、ひゆうといふ音《おと》がして、頭《あたま》の上《うへ》の針線《はりがね》が鳴《な》つたのに氣《き》が付《つ》いて、空《そら》を見《み》たら、此《この》猛烈《まうれつ》な自然《しぜん》の力《ちから》の狂《くる》ふ間《あひだ》に、何時《いつ》もより明《あき》らかな日《ひ》がのそりと出《で》てゐた。風《かぜ》は洋袴《ずぼん》の股《また》を冷《つめ》たくして過《す》ぎた。宗助《そうすけ》には其《その》砂《すな》を捲《ま》いて向《むか》ふの堀《ほり》の方《はう》へ進《すゝ》んで行《ゆ》く影《かげ》が、斜《なゝ》めに吹《ふ》かれる雨《あめ》の脚《あし》の樣《やう》に判然《はつきり》見《み》えた。  役所《やくしよ》では用《よう》が手《て》に着《つ》かなかつた。筆《ふで》を持《も》つて頬杖《ほゝづゑ》を突《つ》いた儘《まゝ》何《なに》か考《かんが》へた。時々《とき/″\》は不必要《ふひつえう》な墨《すみ》を妄《みだ》りに磨《す》り卸《お》ろした。烟草《たばこ》は無暗《むやみ》に呑《の》んだ。さうしては、思《おも》ひ出《だ》した樣《やう》に窓硝子《まどがらす》を通《とほ》して外《そと》を眺《なが》めた。外《そと》は見《み》るたびに風《かぜ》の世界《せかい》であつた。宗助《そうすけ》はたゞ早《はや》く歸《かへ》りたかつた。  漸《やうや》く時間《じかん》が來《き》て家《うち》へ歸《かへ》つたとき、御米《およね》は不安《ふあん》らしく宗助《そうすけ》の顏《かほ》を見《み》て、 「何《ど》うもなくつて」と聞《き》いた。宗助《そうすけ》は已《やむ》を得《え》ず、何《ど》うもないが、たゞ疲《つか》れたと答《こた》へて、すぐ炬燵《こたつ》の中《なか》へ入《はひ》つたなり、晩食《ばんめし》迄《まで》動《うご》かなかつた。其内《そのうち》風《かぜ》は日《ひ》と共《とも》に落《お》ちた。晝《ひる》の反動《はんどう》で四隣《あたり》は急《きふ》にひつそり靜《しづ》まつた。 「好《い》い案排《あんばい》ね、風《かぜ》が無《な》くなつて。晝間《ひるま》の樣《やう》に吹《ふ》かれると、家《うち》に坐《すわ》つてゐても何《なん》だか氣味《きみ》が惡《わる》くつて仕樣《しやう》がないわ」  御米《およね》の言葉《ことば》には、魔物《まもの》でもあるかの樣《やう》に、風《かぜ》を恐《おそ》れる調子《てうし》があつた。宗助《そうすけ》は落《お》ち付《つ》いて、 「今夜《こんや》は少《すこ》し暖《あつ》たかい樣《やう》だね。穩《おだ》やかで好《い》い御正月《おしやうぐわつ》だ」と云《い》つた。飯《めし》を濟《す》まして烟草《たばこ》を一|本《ぽん》吸《す》ふ段《だん》になつて、突然《とつぜん》、 「御米《およね》、寄席《よせ》へでも行《い》つて見《み》やうか」と珍《めづ》らしく細君《さいくん》を誘《さそ》つた。御米《およね》は無論《むろん》否《いな》む理由《りいう》を有《も》たなかつた。小六《ころく》は義太夫《ぎだいふ》などを聞《き》くより、宅《うち》に居《ゐ》て餠《もち》でも燒《や》いて食《く》つた方《はう》が勝手《かつて》だといふので、留守《るす》を頼《たの》んで二人《ふたり》出《で》た。  少《すこ》し時間《じかん》が遲《おく》れたので、寄席《よせ》は一杯《いつぱい》であつた。二人《ふたり》は坐蒲團《ざぶとん》を敷《し》く餘地《よち》もない一番《いちばん》後《うしろ》の方《はう》に、立膝《たてひざ》をする樣《やう》に割《わ》り込《こ》まして貰《もら》つた。 「大變《たいへん》な人《ひと》ね」 「矢《や》つ張《ぱ》り春《はる》だから入《はひ》るんだらう」  二人《ふたり》は小聲《こごゑ》で話《はな》しながら、大《おほ》きな部屋《へや》にぎつしり詰《つま》つた人《ひと》の頭《あたま》を見回《みまは》した。其《その》頭《あたま》のうちで、高座《かうざ》に近《ちか》い前《まへ》の方《はう》は、烟草《たばこ》の烟《けむり》で霞《かす》んでゐる樣《やう》にぼんやり見《み》えた。宗助《そうすけ》には此《この》累々《るゐ/\》たる黒《くろ》いものが、悉《こと/″\》く斯《か》う云《い》ふ娯樂《ごらく》の席《せき》へ來《き》て、面白《おもしろ》く半夜《はんや》を潰《つぶ》す事《こと》の出來《でき》る餘裕《よゆう》のある人《ひと》らしく思《おも》はれた。彼《かれ》は何《ど》の顏《かほ》を見《み》ても羨《うらや》ましかつた。  彼《かれ》は高座《かうざ》の方《はう》を正視《せいし》して、熱心《ねつしん》に淨瑠璃《じやうるり》を聞《き》かうと力《つと》めた。けれどもいくら力《つと》めても面白《おもしろ》くならなかつた。時々《とき/″\》眼《め》を外《そ》らして、御米《およね》の顏《かほ》を偸《ぬす》み見《み》た。見《み》るたびに御米《およね》の視線《しせん》は正《たゞ》しい所《ところ》を向《む》いてゐた。傍《そば》に夫《をつと》のゐる事《こと》は殆《ほと》んど忘《わす》れて眞面目《まじめ》に聽《き》いてゐるらしかつた。宗助《そうすけ》は羨《うら》やましい人《ひと》のうちに御米《およね》迄《まで》勘定《かんぢやう》しなければならなかつた。  中入《なかいり》の時《とき》、宗助《そうすけ》は御米《およね》に、 「何《ど》うだ、もう歸《かへ》らうか」と云《い》ひ掛《か》けた。御米《およね》は其《その》唐突《たうとつ》なのに驚《おど》ろかされた。 「厭《いや》なの」と聞《き》いた。宗助《そうすけ》は何《なん》とも答《こた》へなかつた。御米《およね》は、 「何《ど》うでも可《い》いわ」と半分《はんぶん》夫《をつと》の意《い》に忤《さか》らはない樣《やう》な挨拶《あいさつ》をした。宗助《そうすけ》は折角《せつかく》連《つ》れて來《き》た御米《およね》に對《たい》して、却《かへ》つて氣《き》の毒《どく》な心《こゝろ》が起《おこ》つた。とう/\仕舞《しまひ》迄《まで》辛抱《しんばう》して坐《すわ》つてゐた。  家《うち》へ歸《かへ》ると、小六《ころく》は火鉢《ひばち》の前《まへ》に胡坐《あぐら》を掻《か》いて、脊表紙《せべうし》の反《そ》り返《かへ》るのも構《かま》はずに、手《て》に持《も》つた本《ほん》を上《うへ》から翳《かざ》して讀《よ》んでゐた。鐵瓶《てつびん》は傍《わき》へ卸《おろ》したなり湯《ゆ》は生温《なまぬ》るく冷《さ》めてしまつた。盆《ぼん》の上《うへ》に燒《や》き餘《あま》りの餠《もち》が三切《みきれ》か四片《よきれ》載《の》せてあつた。網《あみ》の下《した》から小皿《こざら》に殘《のこ》つた醤油《しやうゆ》の色《いろ》が見《み》えた。  小六《ころく》は席《せき》を立《た》つて、 「面白《おもしろ》かつたですか」と聞《き》いた。夫婦《ふうふ》は十|分《ぷん》程《ほど》身體《からだ》を炬燵《こたつ》で暖《あたゝ》めた上《うへ》すぐ床《とこ》へ入《はひ》つた。  翌日《よくじつ》になつても宗助《そうすけ》の心《こゝろ》に落付《おちつき》が來《こ》なかつた事《こと》は、略《ほゞ》前《まへ》の日《ひ》と同《おな》じであつた。役所《やくしよ》が退《ひ》けて、例《れい》の通《とほ》り電車《でんしや》へ乘《の》つたが、今夜《こんや》自分《じぶん》と前後《ぜんご》して、安井《やすゐ》が坂井《さかゐ》の家《いへ》へ客《きやく》に來《く》ると云《い》ふ事《こと》を想像《さうざう》すると、何《ど》うしても、わざ/\其《その》人《ひと》と接近《せつきん》するために、こんな速力《そくりよく》で、家《うち》へ歸《かへ》つて行《い》くのが不合理《ふがふり》に思《おも》はれた。同時《どうじ》に安井《やすゐ》はその後《ご》何《ど》んなに變化《へんくわ》したらうと思《おも》ふと、餘所《よそ》から一目《ひとめ》彼《かれ》の樣子《やうす》が眺《なが》めたくもあつた。  坂井《さかゐ》が一昨日《をとゝひ》の晩《ばん》、自分《じぶん》の弟《おとゝ》を評《ひやう》して、一口《ひとくち》に「冒險者《アドヹンチユアラー》」と云《い》つた、その音《おん》が今《いま》宗助《そうすけ》の耳《みゝ》に高《たか》く響《ひゞ》き渡《わた》つた。宗助《そうすけ》は此《この》一語《いちご》の中《なか》に、あらゆる自暴《じばう》と自棄《じき》と、不平《ふへい》と憎惡《ぞうを》と、亂倫《らんりん》と悖徳《はいとく》と、盲斷《まうだん》と決行《けつかう》とを想像《さうざう》して、是等《これら》の一角《いつかく》に觸《ふ》れなければならない程《ほど》の坂井《さかゐ》の弟《おとうと》と、それと利害《りがい》を共《とも》にすべく滿洲《まんしう》から一所《いつしよ》に出《で》て來《き》た安井《やすゐ》が、如何《いか》なる程度《ていど》の人物《じんぶつ》になつたかを、頭《あたま》の中《なか》で描《ゑが》いて見《み》た。描《ゑが》かれた畫《ゑ》は無論《むろん》冒險者《アドヹンチユアラー》の字面《じめん》の許《ゆる》す範圍内《はんゐない》で、尤《もつと》も強《つよ》い色彩《しきさい》を帶《お》びたものであつた。  斯樣《かやう》に、墮落《だらく》の方面《はうめん》をとくに誇張《こちやう》した冒險者《アドヹンチユアラー》を頭《あたま》の中《なか》で拵《こしら》え上《あげ》た宗助《そうすけ》は、其《その》責任《せきにん》を自身《じしん》一人《ひとり》で全《まつた》く負《お》はなければならない樣《やう》な氣《き》がした。彼《かれ》はたゞ坂井《さかゐ》へ客《きやく》に來《く》る安井《やすゐ》の姿《すがた》を一目《ひとめ》見《み》て、其《その》姿《すがた》から、安井《やすゐ》の今日《こんにち》の人格《じんかく》を髣髴《はうふつ》したかつた。さうして、自分《じぶん》の想像《さうざう》程《ほど》彼《かれ》は墮落《だらく》してゐないといふ慰藉《ゐしや》を得《え》たかつた。  彼《かれ》は坂井《さかゐ》の家《いへ》の傍《そば》に立《た》つて、向《むかふ》に知《し》れずに、他《ひと》を窺《うかが》ふ樣《やう》な便利《べんり》な場所《ばしよ》はあるまいかと考《かんが》へた。不幸《ふかう》にして、身《み》を隱《かく》すべきところを思《おも》ひ付《つ》き得《え》なかつた。若《も》し日《ひ》が落《お》ちてから來《く》るとすれば、此方《こちら》が認《みと》められない便宜《べんぎ》があると同時《どうじ》に、暗《くら》い中《なか》を通《とほ》る人《ひと》の顏《かほ》の分《わか》らない不都合《ふつがふ》があつた。  そのうち電車《でんしや》が神田《かんだ》へ來《き》た。宗助《そうすけ》は何時《いつ》もの通《とほ》り其所《そこ》で乘《の》り換《か》えて家《うち》の方《はう》へ向《む》いて行《ゆ》くのが苦痛《くつう》になつた。彼《かれ》の神經《しんけい》は一|歩《ぽ》でも安井《やすゐ》の來《く》る方角《はうがく》へ近《ちか》づくに堪《た》えなかつた。安井《やすゐ》を餘所《よそ》ながら見《み》たいといふ好奇心《かうきしん》は、始《はじ》めから左程《さほど》強《つよ》くなかつた丈《だけ》に、乘換《のりかへ》の間際《まぎは》になつて、全《まつた》く抑《おさ》えつけられてしまつた。彼《かれ》は寒《さむ》い町《まち》を多《おほ》くの人《ひと》の如《ごと》く歩《ある》いた。けれども多《おほ》くの人《ひと》の如《ごと》くに判然《はつきり》した目的《もくてき》は有《も》つてゐなかつた。其内《そのうち》店《みせ》に灯《ひ》が點《つ》いた。電車《でんしや》も燈火《あかり》を照《と》もした。宗助《そうすけ》はある牛肉店《ぎうにくてん》に上《あ》がつて酒《さけ》を呑《の》み出《だ》した。一|本《ぽん》は夢中《むちゆう》に呑《の》んだ。二|本目《ほんめ》は無理《むり》に呑《の》んだ。三|本目《ぼんめ》にも醉《よ》へなかつた。宗助《そうすけ》は脊《せ》を壁《かべ》に持《も》たして、醉《よ》つて相手《あひて》のない人《ひと》の樣《やう》な眼《め》をして、ぼんやり何處《どこ》かを見詰《みつ》めてゐた。  時刻《じこく》が時刻《じこく》なので、夕飯《ゆふめし》を食《く》ひに來《く》る客《きやく》は入《い》れ代《かは》り立《た》ち代《かは》り來《き》た。其《その》多《おほ》くは用辯的《ようべんてき》に飮食《いんしよく》を濟《す》まして、さつさと勘定《かんぢやう》をして出《で》て行《ゆ》く丈《だけ》であつた。宗助《そうすけ》は周圍《しうゐ》のざわつく中《なか》に默然《もくねん》として、他《ひと》の倍《ばい》も三|倍《ばい》も時《とき》を過《す》ごした如《ごと》くに感《かん》じた末《すゑ》、遂《つひ》に坐《すわ》り切《き》れずに席《せき》を立《た》つた。  表《おもて》は左右《さいう》から射《さ》す店《みせ》の灯《ひ》で明《あき》らかであつた。軒先《のきさき》を通《とほ》る人《ひと》は、帽《ばう》も衣裝《いしやう》もはつきり物色《ぶつしよく》する事《こと》が出來《でき》た。けれども廣《ひろ》い寒《さむ》さを照《て》らすには餘《あま》りに弱過《よわす》ぎた。夜《よる》は戸毎《こごと》の瓦斯《がす》と電燈《でんとう》を閑却《かんきやく》して、依然《いぜん》として暗《くら》く大《おほ》きく見《み》えた。宗助《そうすけ》は此《この》世界《せかい》と調和《てうわ》する程《ほど》な黒味《くろみ》の勝《か》つた外套《ぐわいたう》に包《つゝ》まれて歩《ある》いた。其時《そのとき》彼《かれ》は自分《じぶん》の呼吸《こきふ》する空氣《くうき》さへ灰色《はひいろ》になつて、肺《はい》の中《なか》の血管《けつくわん》に觸《ふ》れる樣《やう》な氣《き》がした。  彼《かれ》は此《この》晩《ばん》に限《かぎ》つて、ベルを鳴《な》らして忙《いそ》がしさうに眼《め》の前《まへ》を徃《い》つたり來《き》たりする電車《でんしや》を利用《りよう》する考《かんがへ》が起《おこ》らなかつた。目的《もくてき》を有《も》つて途《みち》を行《ゆ》く人《ひと》と共《とも》に、拔目《ぬけめ》なく足《あし》を運《はこ》ばす事《こと》を忘《わす》れた。しかも彼《かれ》は根《ね》の締《しま》らない人間《にんげん》として、かく漂浪《へうらう》の雛形《ひながた》を演《えん》じつゝある自分《じぶん》の心《こゝろ》を省《かへり》みて、もし此《この》状態《じやうたい》が長《なが》く續《つゞ》いたら何《ど》うしたら可《よ》からうと、ひそかに自分《じぶん》の未來《みらい》を案《あん》じ煩《わづら》つた。今日《こんにち》迄《まで》の經過《けいくわ》から推《お》して、凡《すべ》ての創口《きずぐち》を癒合《ゆがふ》するものは時日《じじつ》であるといふ格言《かくげん》を、彼《かれ》は自家《じか》の經驗《けいけん》から割《わ》り出《だ》して、深《ふか》く胸《むね》に刻《きざ》み付《つ》けてゐた。それが一昨日《をとゝひ》の晩《ばん》にすつかり崩《くづ》れたのである。  彼《かれ》は黒《くろ》い夜《よる》の中《なか》を歩《あ》るきながら、たゞ何《ど》うかして此《この》心《こゝろ》から逃《のが》れ出《で》たいと思《おも》つた。其《その》心《こゝろ》は如何《いか》にも弱《よわ》くて落付《おちつ》かなくつて、不安《ふあん》で不定《ふてい》で、度胸《どきよう》がなさ過《す》ぎて希知《けち》に見《み》えた。彼《かれ》は胸《むね》を抑《おさ》えつける一種《いつしゆ》の壓迫《あつぱく》の下《もと》に、如何《いか》にせば、今《いま》の自分《じぶん》を救《すく》ふ事《こと》が出來《でき》るかといふ實際《じつさい》の方法《ほうはふ》のみを考《かんが》へて、其《その》壓迫《あつぱく》の原因《げんいん》になつた自分《じぶん》の罪《つみ》や過失《くわしつ》は全《まつた》く此《この》結果《けつくわ》から切《き》り放《はな》して仕舞《しま》つた。其時《そのとき》の彼《かれ》は他《ひと》の事《こと》を考《かんが》へる餘裕《よゆう》を失《うしな》つて、悉《こと/″\》く自己《じこ》本位《ほんゐ》になつてゐた。今迄《いままで》は忍耐《にんたい》で世《よ》を渡《わた》つて來《き》た。是《これ》からは積極的《せききよくてき》に人世觀《じんせいくわん》を作《つく》り易《か》へなければならなかつた。さうして其《その》人世觀《じんせいくわん》は口《くち》で述《の》べるもの、頭《あたま》で聞《き》くものでは駄目《だめ》であつた。心《こゝろ》の實質《じつしつ》が太《ふと》くなるものでなくては駄目《だめ》であつた。  彼《かれ》は行《ゆ》く/\口《くち》の中《なか》で何遍《なんべん》も宗教《しゆうけう》の二|字《じ》を繰《く》り返《かへ》した。けれども其《その》響《ひゞき》は繰《く》り返《かへ》す後《あと》からすぐ消《き》えて行《い》つた。攫《つか》んだと思《おも》ふ烟《けむり》が、手《て》を開《あ》けると何時《いつ》の間《ま》にか無《な》くなつてゐる樣《やう》に宗教《しゆうけう》とは果敢《はか》ない文字《もんじ》であつた。  宗教《しゆうけう》と關聯《くわんれん》して宗助《そうすけ》は坐禪《ざぜん》といふ記臆《きおく》を呼《よ》び起《おこ》した。昔《むか》し京都《きやうと》にゐた時分《じぶん》彼《かれ》の級友《きふいう》に相國寺《しやうこくじ》へ行《い》つて坐禪《ざぜん》をするものがあつた。當時《たうじ》彼《かれ》は其《その》迂濶《うくわつ》を笑《わら》つてゐた。「今《いま》の世《よ》に……」と思《おも》つてゐた。其《その》級友《きふいう》の動作《どうさ》が別《べつ》に自分《じぶん》と違《ちが》つた所《ところ》もない樣《やう》なのを見《み》て、彼《かれ》は益《ます/\》馬鹿々々《ばか/\》しい氣《き》を起《おこ》した。  彼《かれ》は今更《いまさら》ながら彼《かれ》の級友《きふいう》が、彼《かれ》の侮蔑《ぶべつ》に値《あたひ》する以上《いじやう》のある動機《どうき》から、貴重《きちよう》な時間《じかん》を惜《をし》まずに、相國寺《しやうこくじ》へ行《い》つたのではなからうかと考《かんが》へ出《だ》して、自分《じぶん》の輕薄《けいはく》を深《ふか》く耻《は》ぢた。もし昔《むかし》から世俗《せぞく》で云《い》ふ通《とほ》り安心《あんじん》とか立命《りつめい》とかいふ境地《きやうち》に、坐禪《ざぜん》の力《ちから》で達《たつ》する事《こと》が出來《でき》るならば、十日《とをか》や二十日《はつか》役所《やくしよ》を休《やす》んでも構《かま》はないから遣《や》つて見《み》たいと思《おも》つた。けれども彼《かれ》は斯道《このみち》にかけては全《まつた》くの門外漢《もんぐわいかん》であつた。從《したが》つて、此《これ》より以上《いじやう》明瞭《めいれう》な考《かんがへ》も浮《うか》ばなかつた。  漸《やうや》く家《うち》へ辿《たど》り着《つ》いた時《とき》、彼《かれ》は例《れい》の樣《やう》な御米《およね》と、例《れい》の樣《やう》な小六《ころく》と、それから例《れい》の樣《やう》な茶《ちや》の間《ま》と座敷《ざしき》と洋燈《らんぷ》と箪笥《たんす》を見《み》て、自分《じぶん》丈《だけ》が例《れい》にない状態《じやうたい》の下《もと》に、此《この》四五|時間《じかん》を暮《くら》してゐたのだといふ自覺《じかく》を深《ふか》くした。火鉢《ひばち》には小《ちひ》さな鍋《なべ》が掛《か》けてあつて、其《その》葢《ふた》の隙間《すきま》から湯氣《ゆげ》が立《た》つてゐた。火鉢《ひばち》の傍《わき》には彼《かれ》の常《つね》に坐《すわ》る所《ところ》に、何時《いつ》もの坐蒲團《ざぶとん》を敷《し》いて、其前《そのまへ》にちやんと膳立《ぜんだて》がしてあつた。  宗助《そうすけ》は糸底《いとぞこ》を上《うへ》にしてわざと伏《ふ》せた自分《じぶん》の茶碗《ちやわん》と、此《この》二三|年來《ねんらい》朝晩《あさばん》使《つか》ひ慣《な》れた木《き》の箸《はし》を眺《なが》めて、 「もう飯《めし》は食《く》はないよ」と云《い》つた。御米《およね》は多少《たせう》不本意《ふほんい》らしい風《ふう》もした。 「おや左樣《さう》。餘《あんま》り遲《おそ》いから、大方《おほかた》何處《どこ》かで召上《めしや》がつたらうとは思《おも》つたけれど、若《も》し未《ま》だゞと不可《いけ》ないから」と云《い》ひながら、布巾《ふきん》で鍋《なべ》の耳《みゝ》を撮《つま》んで、土瓶敷《どびんしき》の上《うへ》に卸《おろ》した。それから清《きよ》を呼《よ》んで膳《ぜん》を臺所《だいどころ》へ退《さ》げさした。  宗助《そうすけ》は斯《か》ういふ風《ふう》に、何《なん》ぞ事故《じこ》が出來《でき》て、役所《やくしよ》の退出《ひけ》からすぐ外《ほか》へ回《まは》つて遲《おそ》くなる場合《ばあひ》には、何時《いつ》でも其《その》顛末《てんまつ》の大略《たいりやく》を、歸宅《きたく》早々《さう/\》御米《およね》に話《はな》すのを例《れい》にしてゐた。御米《およね》もそれを聞《き》かないうちは氣《き》が濟《す》まなかつた。けれども今夜《こんや》に限《かぎ》つて彼《かれ》は神田《かんだ》で電車《でんしや》を降《お》りた事《こと》も、牛肉屋《ぎうにくや》へ上《あが》つた事《こと》も、無理《むり》に酒《さけ》を呑《の》んだ事《こと》も、丸《まる》で話《はな》したくなかつた。何《なに》も知《し》らない御米《およね》は又《また》平常《へいじやう》の通《とほ》り無邪氣《むじやき》に夫《それ》から夫《それ》へと聞《き》きたがつた。 「何《なに》別《べつ》に是《これ》といふ理由《わけ》もなかつたのだけれども、――つい彼所《あすこ》いらで牛《ぎう》が食《く》ひたくなつた丈《だけ》の事《こと》さ」 「さうして御腹《おなか》を消化《こな》す爲《ため》に、わざ/\此所《こゝ》迄《まで》歩《あ》るいて入《い》らしつたの」 「まあ、左樣《さう》だ」  御米《およね》は可笑《をか》しさうに笑《わら》つた。宗助《そうすけ》は寧《むし》ろ苦《くる》しかつた。しばらくして、 「留守《るす》に坂井《さかゐ》さんから迎《むか》ひに來《こ》なかつたかい」と聞《き》いた。 「いゝえ、何故《なぜ》」 「一昨日《をとゝひ》の晩《ばん》行《い》つたとき、御馳走《ごちそう》するとか云《い》つてゐたからさ」 「また?」  御米《およね》は少《すこ》し呆《あき》れた顏《かほ》をした。宗助《そうすけ》は夫《それ》なり話《はなし》を切《き》り上《あ》げて寐《ね》た。頭《あたま》の中《なか》をざわ/\何《なに》か通《とほ》つた。時々《とき/″\》眼《め》を開《あ》けて見《み》ると、例《れい》の如《ごと》く洋燈《らんぷ》が暗《くら》くして床《とこ》の間《ま》の上《うへ》に載《の》せてあつた。御米《およね》はさも心地好《こゝちよ》ささうに眠《ねむ》つてゐた。つい此《この》間《あひだ》迄《まで》は、自分《じぶん》の方《はう》が好《よ》く寐《ね》られて、御米《およね》は幾晩《いくばん》も睡眠《すゐみん》の不足《ふそく》に惱《なや》まされたのであつた。宗助《そうすけ》は眼《め》を閉《と》ぢながら、明《あき》らかに次《つぎ》の間《ま》の時計《とけい》の音《おと》を聞《き》かなければならない今《いま》の自分《じぶん》を更《さら》に心苦《こゝろぐる》しく感《かん》じた。其《その》時計《とけい》は最初《さいしよ》は幾《いく》つも續《つゞ》けざまに打《う》つた。それが過《す》ぎると、びんと只《たゞ》一《ひと》つ鳴《な》つた。其《その》濁《にご》つた音《おと》が彗星《はうきぼし》の尾《を》の樣《やう》にぼうと宗助《そうすけ》の耳朶《みゝたぶ》にしばらく響《ひゞ》いてゐた。次《つぎ》には二《ふた》つ鳴《な》つた。甚《はなは》だ淋《さみ》しい音《おと》であつた。宗助《そうすけ》は其間《そのあひだ》に、何《なん》とかして、もつと鷹揚《おうやう》に生《い》きて行《い》く分別《ふんべつ》をしなければならないと云《い》ふ決心《けつしん》丈《だけ》をした。三|時《じ》は朦朧《もうろう》として聞《きこ》えた樣《やう》な聞《きこ》えない樣《やう》なうちに過《す》ぎた。四時《よじ》、五|時《じ》、六|時《じ》は丸《まる》で知《し》らなかつた。たゞ世《よ》の中《なか》が膨《ふく》れた。天《てん》が波《なみ》を打《う》つて伸《の》び且《か》つ縮《ちゞ》んだ。地球《ちきう》が糸《いと》で釣《つ》るした毬《まり》の如《ごと》くに大《おほ》きな弧線《こせん》を描《ゑが》いて空間《くうかん》に搖《うご》いた。凡《すべ》てが恐《おそ》ろしい魔《ま》の支配《しはい》する夢《ゆめ》であつた。七|時過《じすぎ》に彼《かれ》ははつとして、此《この》夢《ゆめ》から覺《さ》めた。御米《およね》が何時《いつ》もの通《とほ》り微笑《びせう》して枕元《まくらもと》に曲《かゞ》んでゐた。冴《さ》えた日《ひ》は黒《くろ》い世《よ》の中《なか》を疾《とく》に何處《どこ》かへ追《お》ひ遣《や》つてゐた。 [#8字下げ]十八[#「十八」は中見出し]  宗助《そうすけ》は一封《いつぷう》の紹介状《せうかいじやう》を懷《ふところ》にして山門《さんもん》を入《はひ》つた。彼《かれ》はこれを同僚《どうれう》の知人《ちじん》の某《なにがし》から得《え》た。其《その》同僚《どうれう》は役所《やくしよ》の徃復《わうふく》に、電車《でんしや》の中《なか》で洋服《やうふく》の隱袋《かくし》から菜根譚《さいこんたん》を出《だ》して讀《よ》む男《をとこ》であつた。かう云《い》ふ方面《はうめん》に趣味《しゆみ》のない宗助《そうすけ》は、固《もと》より菜根譚《さいこんたん》の何物《なにもの》なるかを知《し》らなかつた。ある日《ひ》一《ひと》つ車《くるま》の腰掛《こしかけ》に膝《ひざ》を並《なら》べて乘《の》つた時《とき》、それは何《なん》だと聞《き》いて見《み》た。同僚《どうれう》は小形《こがた》の黄色《きいろ》い表紙《へうし》を宗助《そうすけ》の前《まへ》に出《だ》して、こんな妙《めう》な本《ほん》だと答《こた》へた。宗助《そうすけ》は重《かさ》ねて何《ど》んな事《こと》が書《か》いてあるかと尋《たづ》ねた。其時《そのとき》同僚《どうれう》は、一口《ひとくち》に説明《せつめい》の出來《でき》る格好《かつかう》な言葉《ことば》を有《も》つてゐなかつたと見《み》えて、まあ禪學《ぜんがく》の書物《しよもつ》だらうといふ樣《やう》な妙《めう》な挨拶《あいさつ》をした。宗助《そうすけ》は同僚《どうれう》から聞《き》いた此《この》返事《へんじ》を能《よ》く覺《おぼ》えてゐた。  紹介状《せうかいじやう》を貰《もら》ふ四五日前《しごんちまへ》、彼《かれ》は此《この》同僚《どうれう》の傍《そば》へ行《い》つて、君《きみ》は禪學《ぜんがく》を遣《や》るのかと、突然《とつぜん》質問《しつもん》を掛《か》けた。同僚《どうれう》は強《つよ》く緊張《きんちやう》した宗助《そうすけ》の顏《かほ》を見《み》て頗《すこぶ》る驚《おど》ろいた樣子《やうす》であつたが、いや遣《や》らない、たゞ慰《なぐさ》み半分《はんぶん》にあんな書物《しよもつ》を讀《よ》む丈《だけ》だと、すぐ逃《に》げて仕舞《しま》つた。宗助《そうすけ》は多少《たせう》失望《しつばう》に弛《ゆる》んだ下唇《したくちびる》を垂《た》れて自分《じぶん》の席《せき》に歸《かへ》つた。  其日《そのひ》歸《かへ》りがけに、彼等《かれら》は又《また》同《おな》じ電車《でんしや》に乘《の》り合《あ》はした。先刻《さつき》宗助《そうすけ》の樣子《やうす》を、氣《き》の毒《どく》に觀察《くわんさつ》した同僚《どうれう》は、彼《かれ》の質問《しつもん》の奧《おく》に雜談《ざつだん》以上《いじやう》のある意味《いみ》を認《みと》めたものと見《み》えて、前《まへ》よりはもつと親切《しんせつ》に其《その》方面《はうめん》の話《はなし》をして聞《き》かした。然《しか》し自分《じぶん》は未《いま》だ嘗《かつ》て參禪《さんぜん》といふ事《こと》をした經驗《けいけん》がないと自白《じはく》した。もし詳《くは》しい話《はなし》が聞《き》きたければ、幸《さいは》ひ自分《じぶん》の知《し》り合《あひ》によく鎌倉《かまくら》へ行《ゆ》く男《をとこ》があるから紹介《せうかい》してやらうと云《い》つた。宗助《そうすけ》は車《くるま》の中《なか》で其《その》人《ひと》の名前《なまへ》と番地《ばんち》を手帳《てちやう》に書《か》き留《と》めた。さうして次《つぎ》の日《ひ》同僚《どうれう》の手紙《てがみ》を持《も》つてわざ/\回《まは》り道《みち》をして訪問《はうもん》に出掛《でか》けた。宗助《そうすけ》の懷《ふところ》にした書状《しよじやう》は其《その》折《をり》席上《せきじやう》で認《したゝ》めて貰《もら》つたものであつた。  役所《やくしよ》は病氣《びやうき》になつて十日《とをか》許《ばかり》休《やす》む事《こと》にした。御米《およね》の手前《てまへ》も矢張《やは》り病氣《びやうき》だと取《と》り繕《つくろ》つた。 「少《すこ》し腦《なう》が惡《わる》いから、一|週間《しうかん》程《ほど》役所《やくしよ》を休《やす》んで遊《あす》んで來《く》るよ」と云《い》つた。御米《およね》は此頃《このごろ》の夫《をつと》の樣子《やうす》の何處《どこ》かに異状《いじやう》があるらしく思《おも》はれるので、内心《ないしん》では始終《しじゆう》心配《しんぱい》してゐた矢先《やさき》だから、平生《へいぜい》煑《に》え切《き》らない宗助《そうすけ》の果斷《くわだん》を喜《よろこ》んだ。けれども其《その》突然《とつぜん》なのにも全《まつた》く驚《おど》ろいた。 「遊《あそ》びに行《い》くつて、何處《どこ》へ入《い》らつしやるの」と眼《め》を丸《まる》くしない許《ばかり》に聞《き》いた。 「矢張《やつぱり》鎌倉邊《かまくらへん》が好《よ》からうと思《おも》つてる」と宗助《そうすけ》は落《お》ち付《つ》いて答《こた》へた。地味《ぢみ》な宗助《そうすけ》とハイカラな鎌倉《かまくら》とは殆《ほと》んど縁《えん》の遠《とほ》いものであつた。突然《とつぜん》二《ふた》つのものを結《むす》び付《つ》けるのは滑稽《こつけい》であつた。御米《およね》も微笑《びせう》を禁《きん》じ得《え》なかつた。 「まあ御金持《おかねもち》ね。私《わたし》も一所《いつしよ》に連《つ》れてつて頂戴《ちやうだい》」と云《い》つた。宗助《そうすけ》は愛《あい》すべき細君《さいくん》のこの冗談《じようだん》を味《あぢは》ふ餘裕《よゆう》を有《も》たなかつた。眞面目《まじめ》な顏《かほ》をして、 「そんな贅澤《ぜいたく》な所《ところ》へ行《い》くんぢやないよ。禪寺《ぜんでら》へ留《と》めて貰《もら》つて、一|週間《しうかん》か十日《とをか》、たゞ靜《しづ》かに頭《あたま》を休《やす》めて見《み》る丈《だけ》の事《こと》さ。それも果《はた》して好《よ》くなるか、ならないか分《わか》らないが、空氣《くうき》の可《い》い所《ところ》へ行《い》くと、頭《あたま》には大變《たいへん》違《ちが》ふと皆《みんな》云《い》ふから」と辯解《べんかい》した。 「そりや違《ちが》ひますわ。だから行《い》つて入《い》らつしやいとも。今《いま》のは本當《ほんたう》の冗談《じようだん》よ」  御米《およね》は善良《ぜんりやう》な夫《をつと》に調戯《からか》つたのを、多少《たせう》濟《す》まない樣《やう》に感《かん》じた。宗助《そうすけ》は其《その》翌日《あくるひ》すぐ貰《もら》つて置《お》いた紹介状《せうかいじやう》を懷《ふところ》にして、新橋《しんばし》から汽車《きしや》に乘《の》つたのである。  其《その》紹介状《せうかいじやう》の表《おもて》には釋宜道《しやくぎだう》樣《さま》と書《か》いてあつた。 「此《この》間《あひだ》迄《まで》侍者《じしや》をしてゐましたが、此頃《このごろ》では塔頭《たつちゆう》にある古《ふる》い庵室《あんしつ》に手《て》を入《い》れて、其所《そこ》に住《す》んでゐるとか聞《き》きました。何《ど》うですか、まあ着《つ》いたら尋《たづ》ねて御覽《ごらん》なさい。庵《あん》の名《な》はたしか一窓庵《いつさうあん》でした」と書《か》いて呉《く》れる時《とき》、わざ/\注意《ちゆうい》があつたので、宗助《そうすけ》は禮《れい》を云《い》つて手紙《てがみ》を受取《うけと》りながら、侍者《じしや》だの塔頭《たつちゆう》だのといふ自分《じぶん》には全《まつた》く耳《みゝ》新《あた》らしい言葉《ことば》の説明《せつめい》を聞《き》いて歸《かへ》つたのである。  山門《さんもん》を入《はひ》ると、左右《さいう》には大《おほ》きな杉《すぎ》があつて、高《たか》く空《そら》を遮《さへぎ》つてゐるために、路《みち》が急《きふ》に暗《くら》くなつた。其《その》陰氣《いんき》な空氣《くうき》に觸《ふ》れた時《とき》、宗助《そうすけ》は世《よ》の中《なか》と寺《てら》の中《なか》との區別《くべつ》を急《きふ》に覺《さと》つた。靜《しづ》かな境内《けいだい》の入口《いりくち》に立《た》つた彼《かれ》は、始《はじ》めて風邪《ふうじや》を意識《いしき》する場合《ばあひ》に似《に》た一種《いつしゆ》の惡寒《さむけ》を催《もよほ》した。  彼《かれ》はまづ眞直《まつすぐ》に歩《あ》るき出《だ》した。左右《さいう》にも行手《いくて》にも、堂《だう》の樣《やう》なものや、院《ゐん》の樣《やう》なものがちよい/\見《み》えた。けれども人《ひと》の出入《でいり》は一切《いつさい》なかつた。悉《こと/″\》く寂寞《せきばく》として錆《さ》び果《は》てゝゐた。宗助《そうすけ》は何處《どこ》へ行《い》つて、宜道《ぎだう》のゐる所《ところ》を教《をし》へて貰《もら》はうかと考《かんが》へながら、誰《だれ》も通《とほ》らない路《みち》の眞中《まんなか》に立《た》つて四方《しはう》を見回《みまは》した。  山《やま》の裾《すそ》を切《き》り開《ひら》いて、一二|丁《ちやう》奧《おく》へ上《のぼ》る樣《やう》に建《た》てた寺《てら》だと見《み》えて、後《うしろ》の方《はう》は樹《き》の色《いろ》で高《たか》く塞《ふさ》がつてゐた。路《みち》の左右《さいう》も山續《やまつゞき》か丘續《をかつゞき》の地勢《ちせい》に制《せい》せられて、決《けつ》して平《たひら》ではない樣《やう》であつた。其《その》小高《こだか》い所々《ところ/″\》に、下《した》から石段《いしだん》を疊《たゝ》んで、寺《てら》らしい門《もん》を高《たか》く構《かま》へたのが二三|軒目《げんめ》に着《つ》いた。平地《ひらち》に垣《かき》を繞《めぐ》らして、點在《てんざい》してゐるのは、幾多《いくら》もあつた。近寄《ちかよ》つて見《み》ると、何《いづ》れも門瓦《もんがはら》の下《した》に、院號《ゐんがう》やら庵號《あんがう》やらが額《がく》にして懸《か》けてあつた。  宗助《そうすけ》は箔《はく》の剥《は》げた古《ふる》い額《がく》を一二|枚《まい》讀《よ》んで歩《ある》いたが、不圖《ふと》一窓庵《いつさうあん》から先《さき》へ探《さが》し出《だ》して、もし其所《そこ》に手紙《てがみ》の名宛《なあて》の坊《ばう》さんがゐなかつたら、もつと奧《おく》へ行《い》つて尋《たづ》ねる方《はう》が便利《べんり》だらうと思《おも》ひ付《つ》いた。それから逆戻《ぎやくもど》りをして塔頭《たつちゆう》を一々《いち/\》調《しら》べに懸《かゝ》ると、一窓庵《いつさうあん》は山門《さんもん》を這入《はい》るや否《いな》やすぐ右手《みぎて》の方《はう》の高《たか》い石段《いしだん》の上《うへ》にあつた。丘外《をかはず》れなので、日當《ひあたり》の好《い》い、からりとした玄關《げんくわん》先《さき》を控《ひか》えて、後《うしろ》の山《やま》の懷《ふところ》に暖《あたゝ》まつてゐる樣《やう》な位置《ゐち》に冬《ふゆ》を凌《しの》ぐ氣色《けしき》に見《み》えた。宗助《そうすけ》は玄關《げんくわん》を通《とほ》り越《こ》して庫裡《くり》の方《はう》から土間《どま》に足《あし》を入《い》れた。上《あが》り口《くち》の障子《しやうじ》の立《た》てゝある所《ところ》迄《まで》來《き》て、たのむ/\と二三|度《ど》呼《よ》んで見《み》た。然《しか》し誰《だれ》も出《で》て來《き》て呉《く》れるものはなかつた。宗助《そうすけ》はしばらく其所《そこ》に立《た》つた儘《まゝ》、中《なか》の樣子《やうす》を窺《うかゞ》つてゐた。何時《いつ》迄《まで》立《た》つてゐても音沙汰《おとさた》がないので、宗助《そうすけ》は不思議《ふしぎ》な思《おも》ひをして、又《また》庫裡《こり》を出《で》て門《もん》の方《はう》へ引返《ひきかへ》した。すると石段《いしだん》の下《した》から剃立《そりたて》の頭《あたま》を青《あを》く光《ひか》らした坊《ばう》さんが上《あが》つて來《き》た。年《とし》はまだ二十四五としか見《み》えない若《わか》い色白《いろじろ》の顏《かほ》であつた。宗助《そうすけ》は門《もん》の扉《とびら》の所《ところ》に待《ま》ち合《あ》はして、 「宜道《ぎだう》さんと仰《おつ》しやる方《かた》は此方《こちら》に御出《おいで》でせうか」と聞《き》いた。 「私《わたくし》が宜道《ぎだう》です」と若《わか》い僧《そう》は答《こた》へた。宗助《そうすけ》は少《すこ》し驚《おど》ろいたが、又《また》嬉《うれ》しくもあつた。すぐ懷中《くわいちゆう》から例《れい》の紹介状《せうかいじやう》を出《だ》して渡《わた》すと、宜道《ぎだう》は立《た》ちながら封《ふう》を切《き》つて、其《その》場《ば》で讀《よ》み下《くだ》した。やがて手紙《てがみ》を卷《ま》き返《かへ》して封筒《ふうとう》へ入《い》れると、 「能《よ》うこそ」と云《い》つて、叮嚀《ていねい》に會釋《ゑしやく》したなり、先《さき》に立《た》つて宗助《そうすけ》を導《みちび》いた。二人《ふたり》は庫裡《くり》に下駄《げた》を脱《ぬ》いで、障子《しやうじ》を開《あけ》て内《うち》へ這入《はい》つた。其所《そこ》には大《おほ》きな圍爐裏《ゐろり》が切《き》つてあつた。宜道《ぎだう》は鼠木綿《ねずみもめん》の上《うへ》に羽織《はお》つてゐた薄《うす》い粗末《そまつ》な法衣《ころも》を脱《ぬ》いで釘《くぎ》に懸《か》けて、 「御寒《おさむ》う御座《ござ》いませう」と云《い》つて、圍爐裏《ゐろり》の中《なか》に深《ふか》く埋《い》けてあつた炭《すみ》を灰《はひ》の下《した》から掘《ほ》り出《だ》した。  此《この》僧《そう》は若《わか》いに似合《にあ》はず甚《はなは》だ落付《おちつ》いた話振《はなしぶり》をする男《をとこ》であつた。低《ひく》い聲《こゑ》で何《なに》か受答《うけこた》へをした後《あと》で、にやりと笑《わら》ふ具合《ぐあひ》などは、丸《まる》で女《をんな》の樣《やう》な感《かん》じを宗助《そうすけ》に與《あた》へた。宗助《そうすけ》は心《こゝろ》のうちに、この青年《せいねん》がどういふ機縁《きえん》の元《もと》に、思《おも》ひ切《き》つて頭《あたま》を剃《そ》つたものだらうかと考《かんが》へて、其《その》樣子《やうす》のしとやかな所《ところ》を、何《なん》となく憐《あは》れに思《おも》つた。 「大變《たいへん》御靜《おしづか》な樣《やう》ですが、今日《けふ》はどなたも御留守《おるす》なんですか」 「いえ、今日《けふ》に限《かぎ》らず、何時《いつ》も私《わたくし》一人《ひとり》です。だから用《よう》のあるときは構《かま》はず明《あ》け放《はな》しにして出《で》ます。今《いま》も一寸《ちよつと》下《した》迄《まで》行《い》つて用《よう》を足《た》して參《まゐ》りました。それがため折角《せつかく》御出《おいで》の所《ところ》を失禮《しつれい》致《いた》しました」  宜道《ぎだう》は此時《このとき》改《あらた》めて遠來《ゑんらい》の人《ひと》に對《たい》して自分《じぶん》の不在《ふざい》を詫《わ》びた。此《この》大《おほ》きな庵《あん》を、たつた一人《ひとり》で預《あづ》かつてゐるさへ、相應《さうおう》に骨《ほね》が折《を》れるのに、其上《そのうへ》に厄介《やくかい》が増《ま》したら嘸《さぞ》迷惑《めいわく》だらうと、宗助《そうすけ》は少《すこ》し氣《き》の毒《どく》な色《いろ》を外《ほか》に動《うご》かした。すると宜道《ぎだう》は、 「いえ、些《ちつ》とも御遠慮《ごゑんりよ》には及《およ》びません。道《みち》の爲《ため》で御座《ござ》いますから」と床《ゆか》しい事《こと》を云《い》つた。さうして、目下《もくか》自分《じぶん》の所《ところ》に、宗助《そうすけ》の外《ほか》に、まだ一人《ひとり》世話《せわ》になつてゐる居士《こじ》のある旨《むね》を告《つ》げた。此《この》居士《こじ》は山《やま》へ來《き》てもう二|年《ねん》になるとかいふ話《はなし》であつた。宗助《そうすけ》はそれから二三|日《にち》して、始《はじ》めて此《この》居士《こじ》を見《み》たが、彼《かれ》は剽輕《へうきん》な羅漢《らかん》の樣《やう》な顏《かほ》をしてゐる氣樂《きらく》さうな男《をとこ》であつた。細《ほそ》い大根《だいこ》を三四|本《ほん》ぶら下《さ》げて、今日《けふ》は御馳走《ごちそう》を買《か》つて來《き》たと云《い》つて、それを宜道《ぎだう》に煑《に》てもらつて食《く》つた。宜道《ぎだう》も宗助《そうすけ》も其《その》相伴《しやうばん》をした。此《この》居士《こじ》は顏《かほ》が坊《ばう》さんらしいので、時々《とき/″\》僧堂《そうだう》の衆《しゆう》に交《まじ》つて、村《むら》の御齋《おとき》抔《など》に出掛《でか》ける事《こと》があるとか云《い》つて宜道《ぎだう》が笑《わら》つてゐた。  其外《そのほか》俗人《ぞくじん》で山《やま》へ修業《しゆげふ》に來《き》てゐる人《ひと》の話《はなし》も色々《いろ/\》聞《き》いた。中《なか》に筆墨《ふですみ》を商《あきな》ふ男《をとこ》がゐた。脊中《せなか》へ荷《に》を一杯《いつぱい》負《しよ》つて、二十日《はつか》なり三十日《さんじふにち》なり、其所《そこ》等《ら》中《ぢゆう》回《まは》つて歩《ある》いて、略《ほゞ》賣《う》り盡《つく》してしまふと山《やま》へ歸《かへ》つて來《き》て坐禪《ざぜん》をする。それから少時《しばらく》して食《く》ふものがなくなると、又《また》筆墨《ふですみ》を脊《せ》に載《の》せて行商《ぎやうしやう》に出《で》る。彼《かれ》は此《この》兩面《りやうめん》の生活《せいくわつ》を、殆《ほと》んど循環《じゆんくわん》小數《せうすう》の如《ごと》く繰《く》り返《かへ》して、飽《あ》く事《こと》を知《し》らないのだと云《い》ふ。  宗助《そうすけ》は一見《いつけん》こだわりの無《な》ささうな是等《これら》の人《ひと》の月日《つきひ》と、自分《じぶん》の内面《ないめん》にある今《いま》の生活《せいくわつ》とを比《くら》べて、其《その》懸隔《けんかく》の甚《はなは》だしいのに驚《おど》ろいた。そんな氣樂《きらく》な身分《みぶん》だから坐禪《ざぜん》が出來《でき》るのか、或《あるひ》は坐禪《ざぜん》をした結果《けつくわ》さういふ氣樂《きらく》な心《こゝろ》になれるのか迷《まよ》つた。 「氣樂《きらく》では不可《いけ》ません。道樂《だうらく》に出來《でき》るものなら、二十|年《ねん》も三十|年《ねん》も雲水《うんすゐ》をして苦《くる》しむものはありません」と宜道《ぎだう》は云《い》つた。  彼《かれ》は坐禪《ざぜん》をするときの一般《いつぱん》の心得《こゝろえ》や、老師《らうし》から公案《こうあん》の出《で》る事《こと》や、其《その》公案《こうあん》に一生懸命《いつしやうけんめい》噛《かじ》り付《つ》いて、朝《あさ》も晩《ばん》も晝《ひる》も夜《よる》も噛《かじ》りつゞけに噛《かじ》らなくては不可《いけ》ない事《こと》やら、凡《すべ》て今《いま》の宗助《そうすけ》には心元《こゝろもと》なく見《み》える助言《じよごん》を與《あた》へた末《すゑ》、 「御室《おへや》へ御案内《ごあんない》しませう」と云《い》つて立《た》ち上《あ》がつた。  圍爐裏《ゐろり》の切《き》つてある所《ところ》を出《で》て、本堂《ほんだう》を横《よこ》に拔《ぬ》けて、其《その》外《はづ》れにある六|疊《でふ》の座敷《ざしき》の障子《しやうじ》を縁《えん》から開《あ》けて、中《なか》へ案内《あんない》された時《とき》、宗助《そうすけ》は始《はじ》めて一人《ひとり》遠《とほ》くに來《き》た心持《こゝろもち》がした。けれども頭《あたま》の中《なか》は、周圍《しうゐ》の幽靜《いうせい》な趣《おもむき》と反照《はんせう》するためか、却《かへ》つて町《まち》にゐるときよりも動搖《どうえう》した。  約《やく》一|時間《じかん》もしたと思《おも》ふ頃《ころ》宜道《ぎだう》の足音《あしおと》が又《また》本堂《ほんだう》の方《はう》から響《ひゞ》いた。 「老師《らうし》が相見《しやうけん》になるさうで御座《ござ》いますから、御都合《ごつがふ》が宜《よろ》しければ參《まゐ》りませう」と云《い》つて、丁寧《ていねい》に敷居《しきゐ》の上《うへ》に膝《ひざ》を突《つ》いた。  二人《ふたり》は又《また》寺《てら》を空《から》にして連立《つれだ》つて出《で》た。山門《さんもん》の通《とほ》りを略《ほゞ》一|丁《ちやう》程《ほど》奧《おく》へ來《く》ると、左側《ひだりがは》に蓮池《はすいけ》があつた。寒《さむ》い時分《じぶん》だから池《いけ》の中《なか》はたゞ薄濁《うすにご》りに淀《よど》んでゐる丈《だけ》で、少《すこ》しも清淨《しやうじやう》な趣《おもむき》はなかつたが、向側《むかふがは》に見《み》える高《たか》い石《いし》の崖外《がけはづ》れ迄《まで》、縁《えん》に欄干《らんかん》のある座敷《ざしき》が突《つ》き出《だ》して居《ゐ》る所《ところ》が、文人畫《ぶんじんぐわ》にでもありさうな風致《ふうち》を添《そ》へた。 「彼所《あすこ》が老師《らうし》の住《す》んでゐられる所《ところ》です」と宜道《ぎだう》は比較的《ひかくてき》新《あた》らしい其《その》建物《たてもの》を指《ゆびさ》した。  二人《ふたり》は蓮池《はすいけ》の前《まへ》を通《とほ》り越《こ》して、五六|級《きふ》の石段《いしだん》を上《のぼ》つて、其《その》正面《しやうめん》にある大《おほ》きな伽藍《がらん》の屋根《やね》を仰《あふ》いだまゝ直《すぐ》左《ひだ》りへ切《き》れた。玄關《げんくわん》へ差《さ》しかゝつた時《とき》、宜道《ぎだう》は 「一寸《ちよつと》失禮《しつれい》します」と云《い》つて、自分《じぶん》丈《だけ》裏口《うらぐち》の方《はう》へ回《まは》つたが、やがて奧《おく》から出《で》て來《き》て、 「さあ何《ど》うぞ」と案内《あんない》をして、老師《らうし》のゐる所《ところ》へ伴《つ》れて行《い》つた。  老師《らうし》といふのは五十|格好《がつかう》に見《み》えた。赭黒《あかぐろ》い光澤《つや》のある顏《かほ》をしてゐた。其《その》皮膚《ひふ》も筋肉《きんにく》も悉《ことご》とく緊《しま》つて、何所《どこ》にも怠《おこたり》のない所《ところ》が、銅像《どうざう》のもたらす印象《いんしやう》を、宗助《そうすけ》の胸《むね》に彫《ほ》り付《つ》けた。たゞ唇《くちびる》があまり厚過《あつすぎ》るので、其所《そこ》に幾分《いくぶん》の弛《ゆる》みが見《み》えた。其《その》代《かは》り彼《かれ》の眼《め》には、普通《ふつう》の人間《にんげん》に到底《たうてい》見《み》るべからざる一種《いつしゆ》の精彩《せいさい》が閃《ひら》めいた。宗助《そうすけ》が始《はじ》めて其《その》視線《しせん》に接《せつ》した時《とき》は、暗中《あんちゆう》に卒然《そつぜん》として白刄《はくじん》を見《み》る思《おもひ》があつた。 「まあ何《なに》から入《はひ》つても同《おな》じであるが」と老師《らうし》は宗助《そうすけ》に向《むか》つて云《い》つた。「父母《ふぼ》未生《みしやう》以前《いぜん》本來《ほんらい》の面目《めんもく》は何《なん》だか、それを一《ひと》つ考《かんが》へて見《み》たら善《よ》かろう」  宗助《そうすけ》には父母《ふぼ》未生《みしやう》以前《いぜん》といふ意味《いみ》がよく分《わか》らなかつたが、何《なに》しろ自分《じぶん》と云《い》ふものは必竟《ひつきやう》何物《なにもの》だか、其《その》本體《ほんたい》を捕《つら》まへて見《み》ろと云《い》ふ意味《いみ》だらうと判斷《はんだん》した。それより以上《いじやう》口《くち》を利《き》くには、餘《あま》り禪《ぜん》といふものゝ知識《ちしき》に乏《とぼ》しかつたので、默《だま》つて又《また》宜道《ぎだう》に伴《つ》れられて一窓庵《いつさうあん》へ歸《かへ》つて來《き》た。  晩食《ばんめし》の時《とき》宜道《ぎだう》は宗助《そうすけ》に、入室《にふしつ》の時間《じかん》の朝夕《てうせき》二|回《くわい》あることゝ、提唱《ていしやう》の時間《じかん》が午前《ごぜん》である事《こと》などを話《はな》した上《うへ》、 「今夜《こんや》は未《ま》だ見解《けんげ》も出來《でき》ないかも知《し》れませんから、明朝《みやうてう》か明晩《みやうばん》御誘《おさそ》ひ申《まを》しませう」と親切《しんせつ》に云《い》つて呉《く》れた。夫《それ》から最初《さいしよ》のうちは、詰《つ》めて坐《す》はるのは難儀《なんぎ》だから線香《せんかう》を立《た》てゝ、それで時間《じかん》を計《はか》つて、少《すこ》し宛《づゝ》休《やす》んだら好《よ》からうと云《い》ふ樣《やう》な注意《ちゆうい》もして呉《く》れた。  宗助《そうすけ》は線香《せんかう》を持《も》つて、本堂《ほんだう》の前《まへ》を通《とほ》つて自分《じぶん》の室《へや》と極《きま》つた六|疊《でふ》に這入《はい》つて、ぼんやりして坐《すわ》つた。彼《かれ》から云《い》ふと所謂《いはゆる》公案《こうあん》なるものゝ性質《せいしつ》が、如何《いか》にも自分《じぶん》の現在《げんざい》と縁《えん》の遠《とほ》い樣《やう》な氣《き》がしてならなかつた。自分《じぶん》は今《いま》腹痛《ふくつう》で惱《なや》んでゐる。其《その》腹痛《ふくつう》と言《い》ふ訴《うつたへ》を抱《いだ》いて來《き》て見《み》ると、豈計《あにはか》らんや、其《その》對症《たいしやう》療法《れうはふ》として、六《む》づかしい數學《すうがく》の問題《もんだい》を出《だ》して、まあ是《これ》でも考《かんが》へたら可《よ》からうと云《い》はれたと一般《いつぱん》であつた。考《かんが》へろと云《い》はれゝば、考《かんが》へないでもないが、それは一應《いちおう》腹痛《ふくつう》が治《をさ》まつてからの事《こと》でなくては無理《むり》であつた。  同時《どうじ》に彼《かれ》は勤《つとめ》を休《やす》んでわざ/\此所《こゝ》迄《まで》來《き》た男《をとこ》であつた。紹介状《せうかいじやう》を書《か》いて呉《く》れた人《ひと》、萬事《ばんじ》に氣《き》を付《つ》けて呉《く》れる宜道《ぎだう》に對《たい》しても、あまりに輕卒《けいそつ》な振舞《ふるまひ》は出來《でき》なかつた。彼《かれ》は先《ま》づ現在《げんざい》の自分《じぶん》が許《ゆる》す限《かぎ》りの勇氣《ゆうき》を提《ひつ》さげて、公案《こうあん》に向《むか》はうと決心《けつしん》した。それが何《いづ》れの所《ところ》に彼《かれ》を導《みち》びいて、どんな結果《けつくわ》を彼《かれ》の心《こゝろ》に持《も》ち來《きた》すかは、彼《かれ》自身《じしん》と雖《いへど》も全《まつた》く知《し》らなかつた。彼《かれ》は悟《さとり》といふ美名《びめい》に欺《あざむ》かれて、彼《かれ》の平生《へいぜい》に似合《にあ》はぬ冒險《ばうけん》を試《こゝろ》みやうと企《くはだ》てたのである。さうして、もし此《この》冒險《ばうけん》に成功《せいこう》すれば、今《いま》の不安《ふあん》な不定《ふてい》な弱々《よわ/\》しい自分《じぶん》を救《すく》ふ事《こと》が出來《でき》はしまいかと、果敢《はか》ない望《のぞみ》を抱《いだ》いたのである。  彼《かれ》は冷《つめ》たい火鉢《ひばち》の灰《はひ》の中《なか》に細《ほそ》い線香《せんかう》を燻《くゆ》らして、教《をし》へられた通《とほ》り坐蒲團《ざぶとん》の上《うへ》に半跏《はんか》を組《く》んだ。晝《ひる》のうちは左迄《さまで》とは思《おも》はなかつた室《へや》が、日《ひ》が落《お》ちてから急《きふ》に寒《さむ》くなつた。彼《かれ》は坐《すわ》りながら、脊中《せなか》のぞく/\する程《ほど》温度《をんど》の低《ひく》い空氣《くうき》に堪《た》へなかつた。  彼《かれ》は考《かんが》へた。けれども考《かんが》へる方向《はうかう》も、考《かんが》へる問題《もんだい》の實質《じつしつ》も、殆《ほと》んど捕《つら》まえ樣《やう》のない空漠《くうばく》なものであつた。彼《かれ》は考《かんが》へながら、自分《じぶん》は非常《ひじやう》に迂濶《うくわつ》な眞似《まね》をしてゐるのではなからうかと疑《うたが》つた。火事《くわじ》見舞《みまひ》に行《ゆ》く間際《まぎは》に、細《こま》かい地圖《ちづ》を出《だ》して、仔細《しさい》に町名《ちやうめい》や番地《ばんち》を調《しら》べてゐるよりも、ずつと飛《と》び離《はな》れた見當違《けんたうちがひ》の所作《しよさ》を演《えん》じてゐる如《ごと》く感《かん》じた。  彼《かれ》の頭《あたま》の中《なか》を色々《いろ/\》なものが流《なが》れた。其《その》あるものは明《あき》らかに眼《め》に見《み》えた。あるものは混沌《こんとん》として雲《くも》の如《ごと》くに動《うご》いた。何所《どこ》から來《き》て何所《どこ》へ行《い》くとも分《わか》らなかつた。たゞ先《さき》のものが消《き》える、すぐ後《あと》から次《つぎ》のものが現《あら》はれた。さうして仕切《しき》りなしに夫《それ》から夫《それ》へと續《つゞ》いた。頭《あたま》の徃來《わうらい》を通《とほ》るものは、無限《むげん》で無數《むすう》で無盡藏《むじんざう》で、決《けつ》して宗助《そうすけ》の命令《めいれい》によつて、留《と》まる事《こと》も休《やす》む事《こと》もなかつた。斷《た》ち切《き》らうと思《おも》へば思《おも》ふ程《ほど》、滾々《こん/\》として湧《わ》いて出《で》た。  宗助《そうすけ》は怖《こは》くなつて、急《きふ》に日常《にちじやう》の我《われ》を呼《よ》び起《おこ》して、室《へや》の中《なか》を眺《なが》めた。室《へや》は微《かす》かな灯《ひ》で薄暗《うすぐら》く照《て》らされてゐた。灰《はひ》の中《なか》に立《た》てた線香《せんかう》は、まだ半分《はんぶん》程《ほど》しか燃《も》えてゐなかつた。宗助《そうすけ》は恐《おそ》るべく時間《じかん》の長《なが》いのに始《はじ》めて氣《き》が付《つ》いた。  宗助《そうすけ》はまた考《かんが》へ始《はじ》めた。すると、すぐ色《いろ》のあるもの、形《かたち》のあるものが頭《あたま》の中《なか》を通《とほ》り出《だ》した。ぞろ/\と群《むら》がる蟻《あり》の如《ごと》くに動《うご》いて行《ゆ》く、あとから又《また》ぞろ/\と群《むら》がる蟻《あり》の如《ごと》くに現《あら》はれた。凝《じつ》としてゐるのはたゞ宗助《そうすけ》の身體《からだ》丈《だけ》であつた。心《こゝろ》は切《せつ》ない程《ほど》、苦《くる》しい程《ほど》、堪《た》えがたい程《ほど》動《うご》いた。  其内《そのうち》凝《じつ》としてゐる身體《からだ》も、膝頭《ひざがしら》から痛《いた》み始《はじ》めた。眞直《まつすぐ》に延《の》ばしてゐた脊髓《せきずゐ》が次第々々《しだい/\》に前《まへ》の方《はう》に曲《まが》つて來《き》た。宗助《そうすけ》は兩手《りやうて》で左《ひだり》の足《あし》の甲《かふ》を抱《かゝ》える樣《やう》にして下《した》へ卸《おろ》した。彼《かれ》は何《なに》をする目的《めあて》もなく室《へや》の中《なか》に立《た》ち上《あ》がつた。障子《しやうじ》を明《あ》けて表《おもて》へ出《で》て、門前《もんぜん》をぐる/\駈《か》け回《まは》つて歩《ある》きたくなつた。夜《よ》はしんとしてゐた。寐《ね》てゐる人《ひと》も起《お》きてゐる人《ひと》も何處《どこ》にも居《を》りさうには思《おも》へなかつた。宗助《そうすけ》は外《そと》へ出《で》る勇氣《ゆうき》を失《うしな》つた。凝《じつ》と生《い》きながら妄想《まうざう》に苦《くる》しめられるのは猶《なほ》恐《おそ》ろしかつた。  彼《かれ》は思《おも》ひ切《き》つて又《また》新《あた》らしい線香《せんかう》を立《た》てた。さうして又《また》略《ほゞ》前《ぜん》と同《おな》じ過程《くわてい》を繰《く》り返《かへ》した。最後《さいご》に、もし考《かんが》へるのが目的《もくてき》だとすれば、坐《すわ》つて考《かんが》へるのも寐《ね》て考《かんが》へるのも同《おな》じだらうと分別《ふんべつ》した。彼《かれ》は室《へや》の隅《すみ》に疊《たゝ》んであつた薄汚《うすぎた》ない蒲團《ふとん》を敷《し》いて、其中《そのなか》に潛《もぐ》り込《こ》んだ。すると先刻《さつき》からの疲《つか》れで、何《なに》を考《かんが》へる暇《ひま》もないうちに、深《ふか》い眠《ねむ》りに落《お》ちて仕舞《しま》つた。  眼《め》が覺《さ》めると枕元《まくらもと》の障子《しやうじ》が何時《いつ》の間《ま》にか明《あか》るくなつて、白《しろ》い紙《かみ》にやがて日《ひ》の逼《せま》るべき色《いろ》が動《うご》いた。晝《ひる》も留守《るす》を置《お》かずに濟《す》む山寺《やまでら》は、夜《よ》に入《い》つても戸《と》を閉《た》てる音《おと》を聞《き》かなかつたのである。宗助《そうすけ》は自分《じぶん》が坂井《さかゐ》の崖下《がけした》の暗《くら》い部屋《へや》に寐《ね》てゐたのでないと意識《いしき》するや否《いな》や、すぐ起《お》き上《あ》がつた。縁《えん》へ出《で》ると、軒端《のきば》に高《たか》く大霸王樹《おほさぼてん》の影《かげ》が眼《め》に映《うつ》つた。宗助《そうすけ》は又《また》本堂《ほんだう》の佛壇《ぶつだん》の前《まへ》を拔《ぬ》けて、圍爐裏《ゐろり》の切《き》つてある昨日《きのふ》の茶《ちや》の間《ま》へ出《で》た。其所《そこ》には昨日《きのふ》の通《とほ》り宜道《ぎだう》の法衣《ころも》が折釘《をれくぎ》に懸《か》けてあつた。さうして本人《ほんにん》は勝手《かつて》の竈《かまど》の前《まへ》に蹲踞《うづく》まつて、火《ひ》を焚《た》いてゐた。宗助《そうすけ》を見《み》て、 「御早《おはや》う」と慇懃《いんぎん》に禮《れい》をした。「先刻《さつき》御誘《おさそ》ひ申《まを》さうと思《おも》ひましたが、よく御寢《おやすみ》の樣《やう》でしたから、失禮《しつれい》して一人《ひとり》參《まゐ》りました」  宗助《そうすけ》は此《この》若《わか》い僧《そう》が、今朝《けさ》夜明《よあけ》がたに既《すで》に參禪《さんぜん》を濟《す》まして、夫《それ》から歸《かへ》つて來《き》て、飯《めし》を炊《かし》いでゐるのだといふ事《こと》を知《し》つた。  見《み》ると彼《かれ》は左《ひだり》の手《て》で頻《しき》りに薪《まき》を差《さ》し易《か》へながら、右《みぎ》の手《て》に黒《くろ》い表紙《へうし》の本《ほん》を持《も》つて、用《よう》の合間々々《あひま/\》に夫《それ》を讀《よ》んでゐる樣子《やうす》であつた。宗助《そうすけ》は宜道《ぎだう》に書物《しよもつ》の名《な》を尋《たづ》ねた。それは碧巖集《へきがんしふ》といふ六《む》づかしい名前《なまへ》のものであつた。宗助《そうすけ》は腹《はら》の中《なか》で、昨夕《ゆうべ》の樣《やう》に當途《あてど》もない考《かんがへ》に耽《ふけ》つて、腦《なう》を疲《つか》らすより、一層《いつそ》其《その》道《みち》の書物《しよもつ》でも借《か》りて讀《よ》む方《はう》が、要領《えうりやう》を得《え》る捷徑《ちかみち》ではなからうかと思《おも》ひ付《つ》いた。宜道《ぎだう》にさう云《い》ふと、宜道《ぎだう》は一も二もなく宗助《そうすけ》の考《かんがへ》を排斥《はいせき》した。 「書物《しよもつ》を讀《よ》むのは極《ごく》惡《わる》う御座《ござ》います。有體《ありてい》に云《い》ふと、讀書《どくしよ》程《ほど》修業《しゆげふ》の妨《さまたげ》になるものは無《な》い樣《やう》です。私共《わたくしども》でも、斯《か》うして碧巖《へきがん》抔《など》を讀《よ》みますが、自分《じぶん》の程度《ていど》以上《いじやう》の所《ところ》になると、丸《まる》で見當《けんたう》が付《つ》きません。それを好加減《いゝかげん》に揣摩《しま》する癖《くせ》がつくと、それが坐《すわ》る時《とき》の妨《さまたげ》になつて、自分《じぶん》以上《いじやう》の境界《きやうがい》を豫期《よき》して見《み》たり、悟《さとり》を待《ま》ち受《う》けて見《み》たり、充分《じゆうぶん》突込《つつこ》んで行《ゆ》くべき所《ところ》に頓挫《とんざ》が出來《でき》ます。大變《たいへん》毒《どく》になりますから、御止《およ》しになつた方《はう》が可《よ》いでせう。もし強《し》いて何《なに》か御讀《およ》みになりたければ、禪關策進《ぜんくわんさくしん》といふ樣《やう》な、人《ひと》の勇氣《ゆうき》を鼓舞《こぶ》したり激勵《げきれい》したりするものが宜《よろ》しう御座《ござ》いませう。それだつて、只《たゞ》刺戟《しげき》の方便《はうべん》として讀《よ》む丈《だけ》で、道《みち》其物《そのもの》とは無關係《むくわんけい》です」  宗助《そうすけ》には宜道《ぎだう》の意味《いみ》がよく解《わか》らなかつた。彼《かれ》は此《この》生若《なまわか》い青《あを》い頭《あたま》をした坊《ばう》さんの前《まへ》に立《た》つて、恰《あたか》も一|個《こ》の低能兒《ていのうじ》であるかの如《ごと》き心持《こゝろもち》を起《おこ》した。彼《かれ》の慢心《まんしん》は京都《きやうと》以來《いらい》既《すで》に銷磨《せうま》し盡《つく》してゐた。彼《かれ》は平凡《へいぼん》を分《ぶん》として、今日《こんにち》迄《まで》生《い》きて來《き》た。聞達《ぶんたつ》程《ほど》彼《かれ》の心《こゝろ》に遠《とほ》いものはなかつた。彼《かれ》はたゞ有《あり》の儘《まゝ》の彼《かれ》として、宜道《ぎだう》の前《まへ》に立《た》つたのである。しかも平生《へいぜい》の自分《じぶん》より遙《はる》かに無力《むりよく》無能《むのう》な赤子《あかご》であると、更《さら》に自分《じぶん》を認《みと》めざるを得《え》なくなつた。彼《かれ》に取《と》つては新《あた》らしい發見《はつけん》であつた。同時《どうじ》に自尊心《じそんしん》を根絶《こんぜつ》する程《ほど》の發見《はつけん》であつた。  宜道《ぎだう》が竈《へつつひ》の火《ひ》を消《け》して飯《めし》をむらしてゐる間《あひだ》に、宗助《そうすけ》は臺所《だいどころ》から下《お》りて庭《には》の井戸端《ゐどばた》へ出《で》て顏《かほ》を洗《あら》つた。鼻《はな》の先《さき》にはすぐ雜木山《ざふきやま》が見《み》へた。其《その》裾《すそ》の少《すこ》し平《たひら》な所《ところ》を拓《ひら》いて、菜園《さいゑん》が拵《こしら》えてあつた。宗助《そうすけ》は濡《ぬ》れた頭《あたま》を冷《つめ》たい空氣《くうき》に曝《さら》して、わざと菜園《さいゑん》迄《まで》下《お》りて行《い》つた。さうして、其所《そこ》に崖《がけ》を横《よこ》に掘《ほ》つた大《おほ》きな穴《あな》を見出《みいだ》した。宗助《そうすけ》は少時《しばらく》其前《そのまへ》に立《た》つて、暗《くら》い奧《おく》の方《はう》を眺《なが》めてゐた。やがて、茶《ちや》の間《ま》へ歸《かへ》ると、圍爐裏《ゐろり》には暖《あたゝ》かい火《ひ》が起《おこ》つて、鐵瓶《てつびん》に湯《ゆ》の沸《たぎ》る音《おと》が聞《きこ》えた。 「手《て》がないものだから、つい遲《おそ》くなりまして御氣《おき》の毒《どく》です。すぐ御膳《ごぜん》に致《いた》しませう。然《しか》しこんな所《ところ》だから上《あ》げるものがなくつて困《こま》ります。其《その》代《かは》り明日《あした》あたりは御馳走《ごちそう》に風呂《ふろ》でも立《た》てませう」と宜道《ぎだう》が云《い》つて呉《く》れた。宗助《そうすけ》は難有《ありがた》く圍爐裏《ゐろり》の向《むかふ》に坐《すわ》つた。  やがて食事《しよくじ》を了《を》えて、わが室《へや》へ歸《かへ》つた宗助《そうすけ》は、又《また》父母《ふぼ》未生《みしやう》以前《いぜん》と云《い》ふ稀有《けう》な問題《もんだい》を眼《め》の前《まへ》に据《す》ゑて、凝《じ》つと眺《なが》めた。けれども、もと/\筋《すぢ》の立《た》たない、從《した》がつて發展《はつてん》のしやうのない問題《もんだい》だから、いくら考《かんが》へても何處《どこ》からも手《て》を出《だ》す事《こと》は出來《でき》なかつた。さうして、すぐ考《かんが》へるのが厭《いや》になつた。宗助《そうすけ》は不圖《ふと》御米《およね》に此所《こゝ》へ着《つ》いた消息《せうそく》を書《か》かなければならない事《こと》に氣《き》が付《つ》いた。彼《かれ》は俗用《ぞくよう》の生《しやう》じたのを喜《よろ》こぶ如《ごと》くに、すぐ鞄《かばん》の中《なか》から卷紙《まきがみ》と封《ふう》じ袋《ぶくろ》を取《と》り出《だ》して、御米《およね》に遣《や》る手紙《てがみ》を書《か》き始《はじ》めた。まづ此所《こゝ》の閑靜《かんせい》な事《こと》、海《うみ》に近《ちか》い所爲《せゐ》か、東京《とうきやう》よりは餘程《よほど》暖《あたゝ》かい事《こと》、空氣《くうき》の清朗《せいらう》な事《こと》、紹介《せうかい》された坊《ばう》さんの親切《しんせつ》な事《こと》、食事《しよくじ》の不味《まづ》い事《こと》、夜具《やぐ》蒲團《ふとん》の綺麗《きれい》に行《い》かない事《こと》、などを書《か》き連《つら》ねてゐるうちに、はや三|尺《じやく》餘《あま》りの長《なが》さになつたので、其所《そこ》で筆《ふで》を擱《お》いたが、公案《こうあん》に苦《くる》しめられてゐる事《こと》や、坐禪《ざぜん》をして膝《ひざ》の關節《くわんせつ》を痛《いた》くしてゐる事《こと》や、考《かんが》へるために益《ます/\》神經衰弱《しんけいすゐじやく》が劇《はげ》しくなりさうな事《こと》は、噫《おくび》にも出《だ》さなかつた。彼《かれ》は此《この》手紙《てがみ》に切手《きつて》を貼《は》つて、ポストに入《い》れなければならない口實《こうじつ》を求《もと》めて、早速《さつそく》山《やま》を下《くだ》つた。さうして父母《ふぼ》未生《みしやう》以前《いぜん》と、御米《およね》と、安井《やすゐ》に、脅《おびや》かされながら、村《むら》の中《なか》をうろついて歸《かへ》つた。  午《ひる》には、宜道《ぎだう》から話《はなし》のあつた居士《こじ》に會《あ》つた。此《この》居士《こじ》は茶碗《ちやわん》を出《だ》して、宜道《ぎだう》に飯《めし》を盛《よそ》つて貰《もら》ふとき、憚《はゞ》かり樣《さま》とも何《なん》とも云《い》はずに、たゞ合掌《がつしやう》して禮《れい》を述《の》べたり、相圖《あひづ》をしたりした。此《この》位《くらゐ》靜《しづ》かに物事《ものごと》を爲《す》るのが法《ほふ》だとか云《い》つた。口《くち》を利《き》かず、音《おと》を立《た》てないのは、考《かんが》への邪魔《じやま》になると云《い》ふ精神《せいしん》からださうであつた。それ程《ほど》眞劍《しんけん》にやるべきものをと、宗助《そうすけ》は昨夜《さくや》からの自分《じぶん》が、何《なん》となく耻《は》づかしく思《おも》はれた。  食後《しよくご》三|人《にん》は圍爐裏《ゐろり》の傍《はた》でしばらく話《はな》した。其時《そのとき》居士《こじ》は、自分《じぶん》が坐禪《ざぜん》をしながら、何時《いつ》か氣《き》が付《つ》かずにうと/\と眠《ねむ》つて仕舞《しま》つてゐて、はつと正氣《しやうき》に歸《かへ》る間際《まぎは》に、おや悟《さと》つたなと喜《よろこ》ぶことがあるが、さて愈《いよ/\》眼《め》を開《あ》いて見《み》ると、矢《や》つ張《ぱ》り元《もと》の通《とほり》の自分《じぶん》なので失望《しつばう》する許《ばかり》だと云《い》つて、宗助《そうすけ》を笑《わら》はした。斯《か》う云《い》ふ氣樂《きらく》な考《かんがへ》で、參禪《さんぜん》してゐる人《ひと》もあると思《おも》ふと、宗助《そうすけ》も多少《たせう》は寛《くつ》ろいだ。けれども三|人《にん》が分《わか》れ/\に自分《じぶん》の室《へや》に入《はひ》る時《とき》、宜道《ぎだう》が、 「今夜《こんや》は御誘《おさそ》ひ申《まを》しますから、是《これ》から夕方《ゆふがた》迄《まで》しつかり御坐《おすわ》りなさいまし」と眞面目《まじめ》に勸《すゝ》めたとき、宗助《そうすけ》は又《また》一種《いつしゆ》の責任《せきにん》を感《かん》じた。消化《こな》れない堅《かた》い團子《だんご》が胃《ゐ》に滯《とゞこ》うつてゐる樣《やう》な不安《ふあん》な胸《むね》を抱《いだ》いて、わが室《へや》へ歸《かへ》つて來《き》た。さうして又《また》線香《せんかう》を焚《た》いて坐《す》はり出《だ》した。其癖《そのくせ》夕方《ゆふがた》迄《まで》は坐《すわ》り續《つゞ》けられなかつた。どんな解答《かいたふ》にしろ一《ひと》つ拵《こし》らへて置《お》かなければならないと思《おも》ひながらも、仕舞《しまひ》には根氣《こんき》が盡《つ》きて、早《はや》く宜道《ぎだう》が夕食《ゆふめし》の報知《しらせ》に本堂《ほんだう》を通《とほ》り拔《ぬ》けて來《き》て呉《く》れゝば好《い》いと、夫《それ》ばかり氣《き》に掛《か》かつた。  日《ひ》は懊惱《あうなう》と困憊《こんぱい》の裡《うち》に傾《かた》むいた。障子《しやうじ》に映《うつ》る時《とき》の影《かげ》が次第《しだい》に遠《とほ》くへ立《た》ち退《の》くにつれて、寺《てら》の空氣《くうき》が床《ゆか》の下《した》から冷《ひ》え出《だ》した。風《かぜ》は朝《あさ》から枝《えだ》を吹《ふ》かなかつた。縁側《えんがは》に出《で》て、高《たか》い庇《ひさし》を仰《あふ》ぐと、黒《くろ》い瓦《かはら》の小口《こぐち》丈《だけ》が揃《そろ》つて、長《なが》く一|列《れつ》に見《み》える外《そと》に、穩《おだや》かな空《そら》が、蒼《あを》い光《ひかり》をわが底《そこ》の方《はう》に沈《しづ》めつゝ、自分《じぶん》と薄《うす》くなつて行《ゆ》く所《ところ》であつた。 [#8字下げ]十九[#「十九」は中見出し] 「危險《あぶな》う御座《ござ》います」と云《い》つて宜道《ぎだう》は一足先《ひとあしさき》へ暗《くら》い石段《いしだん》を下《お》りた。宗助《そうすけ》はあとから續《つゞ》いた。町《まち》と違《ちが》つて夜《よる》になると足元《あしもと》が惡《わる》いので、宜道《ぎだう》は提灯《ちやうちん》を點《つ》けて僅《わづか》一|丁《ちやう》許《ばかり》の路《みち》を照《て》らした。石段《いしだん》を下《お》り切《き》ると、大《おほ》きな樹《き》の枝《えだ》が左右《さいう》から二人《ふたり》の頭《あたま》に蔽《お》ひ被《かぶ》さる樣《やう》に空《そら》を遮《さへぎ》つた。闇《やみ》だけれども蒼《あを》い葉《は》の色《いろ》が二人《ふたり》の着物《きもの》の織目《おりめ》に染《し》み込《こ》む程《ほど》に宗助《そうすけ》を寒《さむ》がらせた。提灯《ちやうちん》の灯《ひ》にも其《その》色《いろ》が多少《たせう》映《うつ》る感《かん》じがあつた。其《その》提灯《ちやうちん》は一方《いつぱう》に大《おほ》きな樹《き》の幹《みき》を想像《さうざう》する所爲《せゐ》か、甚《はなは》だ小《ちひ》さく見《み》えた。光《ひかり》の地面《ぢめん》に屆《とゞ》く尺數《しやくすう》も僅《わづか》であつた。照《て》らされた部分《ぶぶん》は明《あか》るい灰色《はひいろ》の斷片《だんぺん》となつて暗《くら》い中《なか》にほつかり落《お》ちた。さうして二人《ふたり》の影《かげ》が動《うご》くに伴《つ》れて動《うご》いた。  蓮池《れんち》を行《ゆ》き過《す》ぎて、左《ひだり》へ上《のぼ》る所《ところ》は、夜《よる》はじめての宗助《そうすけ》に取《と》つて、少《すこ》し足元《あしもと》が滑《なめら》かに行《い》かなかつた。土《つち》の中《なか》に根《ね》を食《く》つてゐる石《いし》に、一二|度《ど》下駄《げた》の臺《だい》を引《ひ》つ掛《か》けた。蓮池《れんち》の手前《てまへ》から横《よこ》に切《き》れる裏路《うらみち》もあるが、此《この》方《はう》は凸凹《とつあふ》が多《おほ》くて、慣《な》れない宗助《そうすけ》には近《ちか》くても不便《ふべん》だらうと云《い》ふので、宜道《ぎだう》はわざ/\廣《ひろ》い方《はう》を案内《あんない》したのである。  玄關《げんくわん》を入《はひ》ると、暗《くら》い土間《どま》に下駄《げた》が大分《だいぶ》並《なら》んでゐた。宗助《そうすけ》は曲《こゞ》んで、人《ひと》の履物《はきもの》を踏《ふ》まない樣《やう》にそつと上《うへ》へのぼつた。室《へや》は八|疊《でふ》程《ほど》の廣《ひろ》さであつた。其《その》壁際《かべぎは》に列《れつ》を作《つく》つて、六七|人《にん》の男《をとこ》が一側《ひとかは》に並《なら》んでゐた。中《なか》に頭《あたま》を光《ひか》らして、黒《くろ》い法衣《ころも》を着《き》た僧《そう》も交《まじ》つてゐた。他《ほか》のものは大概《たいがい》袴《はかま》を穿《は》いてゐた。此《この》六七|人《にん》の男《をとこ》は上《あが》り口《ぐち》と奧《おく》へ通《つう》ずる三|尺《じやく》の廊下口《らうかぐち》を殘《のこ》して、行儀《ぎやうぎ》よく鉤《かぎ》の手《て》に並《なら》んでゐた。さうして、一言《ひとこと》も口《くち》を利《き》かなかつた。宗助《そうすけ》は是等《これら》の人《ひと》の顏《かほ》を一目《ひとめ》見《み》て、まづ其《その》峻刻《しゆんこく》なのに氣《き》を奪《うば》はれた。彼等《かれら》は皆《みな》固《かた》く口《くち》を結《むす》んでゐた。事《こと》ありげな眉《まゆ》を強《つよ》く寄《よ》せてゐた。傍《そば》にどんな人《ひと》がゐるか見向《みむ》きもしなかつた。如何《いか》なるものが外《そと》から入《はひ》つて來《き》ても、全《まつた》く注意《ちゆうい》しなかつた。彼等《かれら》は活《い》きた彫刻《てうこく》の樣《やう》に己《おの》れを持《ぢ》して、火《ひ》の氣《け》のない室《へや》に肅然《しゆくぜん》と坐《すわ》つてゐた。宗助《そうすけ》の感覺《かんかく》には、山寺《やまでら》の寒《さむ》さ以上《いじやう》に、一種《いつしゆ》嚴《おごそ》かな氣《き》が加《くは》はつた。  やがて寂寞《せきばく》の中《うち》に、人《ひと》の足音《あしおと》が聞《きこ》えた。初《はじめ》は微《かす》かに響《ひゞ》いたが、次第《しだい》に強《つよ》く床《ゆか》を踏《ふ》んで、宗助《そうすけ》の坐《すわ》つてゐる方《はう》へ近付《ちかづ》いて來《き》た。仕舞《しまひ》に一人《ひとり》の僧《そう》が廊下口《らうかぐち》からぬつと現《あらは》れた。さうして宗助《そうすけ》の傍《そば》を通《とほ》つて、默《だま》つて外《そと》の暗《くら》がりへ拔《ぬ》けて行《い》つた。すると遠《とほ》くの奧《おく》の方《はう》で鈴《れい》を振《ふ》る音《おと》がした。  此《この》時《とき》宗助《そうすけ》と並《なら》んで嚴肅《げんしゆく》に控《ひか》えてゐた男《をとこ》のうちで、小倉《こくら》の袴《はかま》を着《つ》けた一人《いちにん》が、矢張《やはり》無言《むごん》の儘《まゝ》立《た》ち上《あ》がつて、室《へや》の隅《すみ》の廊下口《らうかぐち》の眞正面《ましやうめん》へ來《き》て着座《ちやくざ》した。其所《そこ》には高《たか》さ二|尺《しやく》幅《はゞ》一|尺《しやく》程《ほど》の木《き》の枠《わく》の中《なか》に、銅鑼《どら》の樣《やう》な形《かたち》をした、銅鑼《どら》よりも、ずつと重《おも》くて厚《あつ》さうなものが懸《かゝ》つてゐた。色《いろ》は蒼黒《あをぐろ》く貧《まづ》しい灯《ひ》に照《て》らされてゐた。袴《はかま》を着《つ》けた男《をとこ》は、臺《だい》の上《うへ》にある撞木《しゆもく》を取《と》り上《あ》げて、銅鑼《どら》に似《に》た鐘《かね》の眞中《まんなか》を二《ふた》つ程《ほど》打《う》ち鳴《な》らした。さうして、ついと立《た》つて、廊下口《らうかぐち》を出《で》て、奧《おく》の方《はう》へ進《すゝ》んで行《い》つた。今度《こんど》は前《まへ》と反對《はんたい》に、足音《あしおと》が段々《だん/\》遠《とほ》くの方《はう》へ去《さ》るに從《したが》つて、微《かす》かになつた。さうして一番《いちばん》仕舞《しまひ》にぴたりと何處《どこ》かで留《と》まつた。宗助《そうすけ》は坐《ゐ》ながら、はつとした。彼《かれ》は此《この》袴《はかま》を着《つ》けた男《をとこ》の身《み》の上《うへ》に、今《いま》何事《なにごと》が起《おこ》りつゝあるだらうかを想像《さうざう》したのである。けれども奧《おく》はしんとして靜《しづ》まり返《かへ》つてゐた。宗助《そうすけ》と並《なら》んでゐるものも、一人《ひとり》として顏《かほ》の筋肉《きんにく》を動《うご》かすものはなかつた。たゞ宗助《そうすけ》は心《こゝろ》の中《なか》で、奧《おく》からの何物《なにもの》かを待《ま》ち受《う》けた。すると忽然《こつぜん》として鈴《れい》を振《ふ》る響《ひゞき》が彼《かれ》の耳《みゝ》に應《こた》へた。同時《どうじ》に長《なが》い廊下《らうか》を踏《ふ》んで、此方《こちら》へ近付《ちかづ》く足音《あしおと》がした。袴《はかま》を着《つ》けた男《をとこ》は又《また》廊下口《らうかぐち》から現《あら》はれて、無言《むごん》の儘《まゝ》玄關《げんくわん》を下《お》りて、霜《しも》の裡《うち》に消《き》え去《さ》つた。入《い》れ代《かは》つて又《また》新《あた》らしい男《をとこ》が立《た》つて、最前《さいぜん》の鐘《かね》を打《う》つた。さうして、又《また》廊下《らうか》を踏《ふ》み鳴《な》らして奧《おく》の方《はう》へ行《い》つた。宗助《そうすけ》は沈默《ちんもく》の間《あひだ》に行《おこな》はれる此《この》順序《じゆんじよ》を見《み》ながら、膝《ひざ》に手《て》を載《の》せて、自分《じぶん》の番《ばん》の來《く》るのを待《ま》つてゐた。  自分《じぶん》より一人《ひとり》置《お》いて前《まへ》の男《をとこ》が立《た》つて行《い》つた時《とき》は、良《やゝ》暫《しばら》くしてから、わつと云《い》ふ大《おほ》きな聲《こゑ》が、奧《おく》の方《はう》で聞《きこ》えた。其《その》聲《こゑ》は距離《きより》が遠《とほ》いので、劇《はげ》しく宗助《そうすけ》の鼓膜《こまく》を打《う》つ程《ほど》、強《つよ》くは響《ひゞ》かなかつたけれども、たしかに精一杯《せいいつぱい》威《ゐ》を振《ふる》つたものであつた。さうして只《たゞ》一人《いちにん》の咽喉《のど》から出《で》た個人《こじん》の特色《とくしよく》を帶《お》びてゐた。自分《じぶん》のすぐ前《まへ》の人《ひと》が立《た》つた時《とき》は、愈《いよ/\》わが番《ばん》が回《まは》つて來《き》たと云《い》ふ意識《いしき》に制《せい》せられて、一層《いつそう》落付《おちつき》を失《うしな》つた。  宗助《そうすけ》は此間《このあひだ》の公案《こうあん》に對《たい》して、自分《じぶん》丈《だけ》の解答《かいたふ》は準備《じゆんび》してゐた。けれども、それは甚《はなは》だ覺束《おぼつか》ない薄手《うすで》のものに過《す》ぎなかつた。室中《しつちゆう》に入《い》る以上《いじやう》は、何《なに》か見解《けんげ》を呈《てい》しない譯《わけ》に行《い》かないので、已《やむ》を得《え》ず納《をさ》まらない所《ところ》を、わざと納《をさ》まつた樣《やう》に取繕《とりつくろ》つた、其場《そのば》限《かぎ》りの挨拶《あいさつ》であつた。彼《かれ》は此《この》心細《こゝろぼそ》い解答《かいたふ》で、僥倖《げうかう》にも難關《なんくわん》を通過《つうか》して見《み》たい抔《など》とは、夢《ゆめ》にも思《おも》ひ設《まう》けなかつた。老師《らうし》を胡麻化《ごまか》す氣《き》は無論《むろん》なかつた。其時《そのとき》の宗助《そうすけ》はもう少《すこ》し眞面目《まじめ》であつたのである。單《たん》に頭《あたま》から割《わ》り出《だ》した、恰《あたか》も畫《ゑ》にかいた餠《もち》の樣《やう》な代物《しろもの》を持《も》つて、義理《ぎり》にも室中《しつちゆう》に入《い》らなければならない自分《じぶん》の空虚《くうきよ》な事《こと》を耻《は》ぢたのである。  宗助《そうすけ》は人《ひと》のする如《ごと》くに鐘《かね》を打《う》つた。しかも打《う》ちながら、自分《じぶん》は人並《ひとなみ》に此《この》鐘《かね》を撞木《しゆもく》で敲《たゝ》くべき權能《けんのう》がないのを知《し》つてゐた。それを人並《ひとなみ》に鳴《な》らして見《み》る猿《さる》の如《ごと》き己《おの》れを深《ふか》く嫌忌《けんき》した。  彼《かれ》は弱味《よわみ》のある自分《じぶん》に恐《おそ》れを抱《いだ》きつゝ、入口《いりぐち》を出《で》て冷《つめ》たい廊下《らうか》へ足《あし》を踏《ふ》み出《だ》した。廊下《らうか》は長《なが》く續《つゞ》いた。右側《みぎがは》にある室《へや》は悉《こと/″\》く暗《くら》かつた。角《かど》を二《ふた》つ折《を》れ曲《まが》ると、向《むかふ》の外《はづ》れの障子《しやうじ》に灯影《ひかげ》が差《さ》した。宗助《そうすけ》は其《その》敷居際《しきゐぎは》へ來《き》て留《と》まつた。  室中《しつちゆう》に入《い》るものは老師《らうし》に向《むか》つて三拜《さんぱい》するのが禮《れい》であつた。拜《はい》しかたは普通《ふつう》の挨拶《あいさつ》の樣《やう》に頭《あたま》を疊《たゝみ》に近《ちか》く下《さ》げると同時《どうじ》に、兩手《りやうて》の掌《てのひら》を上向《うへむき》に開《ひら》いて、夫《それ》を頭《あたま》の左右《さいう》に並《なら》べたまゝ、少《すこ》し物《もの》を抱《かゝ》へた心持《こゝろもち》に耳《みゝ》の邊《あたり》迄《まで》上《あ》げるのである。宗助《そうすけ》は敷居際《しきゐぎは》に跪《ひざま》づいて形《かた》の如《ごと》く拜《はい》を行《おこ》なつた。すると座敷《ざしき》の中《なか》で、 「一拜《いつぱい》で宜《よろ》しい」と云《い》ふ會釋《ゑしやく》があつた。宗助《そうすけ》はあとを略《りやく》して中《なか》へ入《はひ》つた。  室《へや》の中《なか》はたゞ薄暗《うすぐら》い灯《ひ》に照《て》らされてゐた。其《その》弱《よわ》い光《ひかり》は、如何《いか》に大字《だいじ》な書物《しよもつ》をも披見《ひけん》せしめぬ程度《ていど》のものであつた。宗助《そうすけ》は今日《こんにち》迄《まで》の經驗《けいけん》に訴《うつた》へて、これ位《くらゐ》微《かす》かな燈火《ともしび》に、夜《よ》を營《いと》なむ人間《にんげん》を憶《おも》ひ起《おこ》す事《こと》が出來《でき》なかつた。其《その》光《ひかり》は無論《むろん》月《つき》よりも強《つよ》かつた。且《かつ》月《つき》の如《ごと》く蒼白《あをじろ》い色《いろ》ではなかつた。けれどももう少《すこ》しで朦朧《もうろう》の境《さかひ》に沈《しづ》むべき性質《たち》のものであつた。  此《この》靜《しづ》かな判然《はつきり》しない燈火《ともしび》の力《ちから》で、宗助《そうすけ》は自分《じぶん》を去《さ》る四五|尺《しやく》の正面《しやうめん》に、宜道《ぎだう》の所謂《いはゆる》老師《らうし》なるものを認《みと》めた。彼《かれ》の顏《かほ》は例《れい》によつて鑄物《いもの》の樣《やう》に動《うご》かなかつた。色《いろ》は銅《あかゞね》であつた。彼《かれ》は全身《ぜんしん》に澁《しぶ》に似《に》た柿《かき》に似《に》た茶《ちや》に似《に》た色《いろ》の法衣《ころも》を纏《まと》つてゐた。足《あし》も手《て》も見《み》えなかつた。たゞ頸《くび》から上《うへ》が見《み》えた。其《その》頸《くび》から上《うへ》が、嚴肅《げんしゆく》と緊張《きんちやう》の極度《きよくど》に安《やす》んじて、何時《いつ》迄《まで》經《た》つても變《かは》る恐《おそれ》を有《いう》せざる如《ごと》くに人《ひと》を魅《み》した。さうして頭《あたま》には一|本《ぽん》の毛《け》もなかつた。  此《この》面前《めんぜん》に氣力《きりよく》なく坐《すわ》つた宗助《そうすけ》の、口《くち》にした言葉《ことば》はたゞ一|句《く》で盡《つ》きた。 「もつと、ぎろりとした所《ところ》を持《も》つて來《こ》なければ駄目《だめ》だ」と忽《たちま》ち云《い》はれた。「其《その》位《くらゐ》な事《こと》は少《すこ》し學問《がくもん》をしたものなら誰《だれ》でも云《い》へる」  宗助《そうすけ》は喪家《さうか》の犬《いぬ》の如《ごと》く室中《しつちゆう》を退《しりぞ》いた。後《のち》に鈴《れい》を振《ふ》る音《おと》が烈《はげ》しく響《ひゞ》いた。 [#8字下げ]二十[#「二十」は中見出し]  障子《しやうじ》の外《そと》で野中《のなか》さん、野中《のなか》さんと呼《よ》ぶ聲《こゑ》が二度《にど》程《ほど》聞《きこ》えた。宗助《そうすけ》は半睡《はんすゐ》の裡《うち》にはいと應《こた》へた積《つもり》であつたが、返事《へんじ》を仕切《しき》らない先《さき》に、早《はや》く知覺《ちかく》を失《うしな》つて、又《また》正體《しやうたい》なく寐入《ねい》つてしまつた。  二|度目《どめ》に眼《め》が覺《さ》めた時《とき》、彼《かれ》は驚《おど》ろいて飛《と》び起《お》きた。縁側《えんがは》へ出《で》ると、宜道《ぎだう》が鼠木綿《ねずみもめん》の着物《きもの》に襷《たすき》を掛《か》けて、甲斐々々《かひ/″\》しく其所《そこ》いらを拭《ふ》いてゐた。赤《あか》く凍《かじか》んだ手《て》で、濡雜巾《ぬれざふきん》を絞《しぼ》りながら、例《れい》の如《ごと》く柔和《やさ》しいにこやかな顏《かほ》をして、 「御早《おはや》う」と挨拶《あいさつ》した。彼《かれ》は今朝《けさ》も亦《また》とくに參禪《さんぜん》を濟《す》ました後《のち》、斯《か》うして庵《あん》に歸《かへ》つて働《はたら》いてゐたのである。宗助《そうすけ》はわざ/\呼《よ》び起《おこ》されても起《お》き得《え》なかつた自分《じぶん》の怠慢《たいまん》を省《かへり》みて、全《まつた》く極《きまり》の惡《わる》い思《おもひ》をした。 「今朝《けさ》もつい寐忘《ねわす》れて失禮《しつれい》しました」  彼《かれ》はこそ/\勝手口《かつてぐち》から井戸端《ゐどばた》の方《はう》へ出《で》た。さうして冷《つめ》たい水《みづ》を汲《く》んで出來《でき》る丈《だけ》早《はや》く顏《かほ》を洗《あら》つた。延《の》び掛《か》かつた髯《ひげ》が、頬《ほゝ》の邊《あたり》で手《て》を刺《さ》す樣《やう》にざら/\したが、今《いま》の宗助《そうすけ》にはそれを苦《く》にする程《ほど》の餘裕《よゆう》はなかつた。彼《かれ》はしきりに宜道《ぎだう》と自分《じぶん》とを對照《たいせう》して考《かんが》へた。  紹介状《せうかいじやう》を貰《もら》ふときに東京《とうきやう》で聞《き》いた所《ところ》によると、此《この》宜道《ぎだう》といふ坊《ばう》さんは、大變《たいへん》性質《たち》の可《い》い男《をとこ》で、今《いま》では修業《しゆげふ》も大分《だいぶ》出來《でき》上《あ》がつてゐると云《い》ふ話《はなし》だつたが、會《あ》つて見《み》ると、丸《まる》で一丁字《いつていじ》もない小廝《こもの》の樣《やう》に丁寧《ていねい》であつた。かうして襷掛《たすきがけ》で働《はたら》いてゐる所《ところ》を見《み》ると、何《ど》うしても一|個《こ》の獨立《どくりつ》した庵《あん》の主人《しゆじん》らしくはなかつた。納所《なつしよ》とも小坊主《こばうず》とも云《い》へた。  此《この》矮小《わいせう》な若僧《じやくそう》は、まだ出家《しゆつけ》をしない前《まへ》、たゞの俗人《ぞくじん》として此所《こゝ》へ修業《しゆげふ》に來《き》た時《とき》、七日《なのか》の間《あひだ》結跏《けつか》したぎり少《すこ》しも動《うご》かなかつたのである。仕舞《しまひ》には足《あし》が痛《いた》んで腰《こし》が立《た》たなくなつて、厠《かはや》へ上《のぼ》る折《をり》などは、やつとの事《こと》壁傳《かべづた》ひに身體《からだ》を運《はこ》んだのである。其《その》時分《じぶん》の彼《かれ》は彫刻家《てうこくか》であつた。見性《けんしやう》した日《ひ》に、嬉《うれ》しさの餘《あま》り、裏《うら》の山《やま》へ馳《か》け上《あが》つて、草木《さうもく》國土《こくど》悉皆《しつかい》成佛《じやうぶつ》と大《おほ》きな聲《こゑ》を出《だ》して叫《さけ》んだ。さうして遂《つひ》に頭《あたま》を剃《そ》つてしまつた。  此《この》庵《あん》を預《あづ》かる樣《やう》になつてから、もう二|年《ねん》になるが、まだ本式《ほんしき》に床《とこ》を延《の》べて、樂《らく》に足《あし》を延《の》ばして寐《ね》た事《こと》はないと云《い》つた。冬《ふゆ》でも着物《きもの》の儘《まゝ》壁《かべ》に倚《もた》れて坐睡《ざすゐ》する丈《だけ》だと云《い》つた。侍者《じしや》をしてゐた頃《ころ》などは、老師《らうし》の犢鼻褌《ふんどし》迄《まで》洗《あら》はせられたと云《い》つた。其上《そのうへ》少《すこ》しの暇《ひま》を偸《ぬす》んで坐《すわ》りでもすると、後《うしろ》から來《き》て意地《いぢ》の惡《わる》い邪魔《じやま》をされる、毒吐《どくづ》かれる、頭《あたま》の剃《そ》り立《た》てには何《なん》の因果《いんぐわ》で坊主《ばうず》になつたかと悔《くや》む事《こと》が多《おほ》かつたと云《い》つた。 「漸《やうや》く此頃《このごろ》になつて少《すこ》し樂《らく》になりました。しかし未《ま》だ先《さき》が御座《ござ》います。修業《しゆげふ》は實際《じつさい》苦《くる》しいものです。さう容易《ようい》に出來《でき》るものなら、いくら私共《わたくしども》が馬鹿《ばか》だつて、斯《か》うして十|年《ねん》も二十|年《ねん》も苦《くる》しむ譯《わけ》が御座《ござ》いません」  宗助《そうすけ》はたゞ惘然《ばうぜん》とした。自己《じこ》の根氣《こんき》と精力《せいりよく》の足《た》らない事《こと》を齒掻《はがゆ》く思《おも》ふ上《うへ》に、夫程《それほど》歳月《さいげつ》を掛《か》けなければ成就《じやうじゆ》出來《でき》ないものなら、自分《じぶん》は何《なに》しに此《この》山《やま》の中《なか》迄《まで》遣《や》つて來《き》たか、それからが第《だい》一の矛盾《むじゆん》であつた。 「決《けつ》して損《そん》になる氣遣《きづかひ》は御座《ござ》いません。十|分《ぷん》坐《すわ》れば、十|分《ぷん》の功《こう》があり、二十|分《ぷん》坐《すわ》れば二十|分《ぷん》の徳《とく》があるのは無論《むろん》です。其上《そのうへ》最初《さいしよ》を一《ひと》つ奇麗《きれい》に打《ぶ》ち拔《ぬ》いて置《お》けば、あとは斯《か》う云《い》ふ風《ふう》に始終《しじゆう》此所《こゝ》に御出《おいで》にならないでも濟《す》みますから」  宗助《そうすけ》は義理《ぎり》にも亦《また》自分《じぶん》の室《へや》へ歸《かへ》つて坐《すわ》らなければならなかつた。  斯《こ》んな時《とき》に宜道《ぎだう》が來《き》て、 「野中《のなか》さん提唱《ていしやう》です」と誘《さそ》つて呉《く》れると、宗助《そうすけ》は心《こゝろ》から嬉《うれ》しい氣《き》がした。彼《かれ》は禿頭《はげあたま》を捕《つら》まへる樣《やう》な手《て》の着《つ》け所《どころ》のない難題《なんだい》に惱《なや》まされて、坐《ゐ》ながら凝《じつ》と煩悶《はんもん》するのを、如何《いか》にも切《せつ》なく思《おも》つた。どんなに精力《せいりよく》を消耗《せうかう》する仕事《しごと》でも可《い》いから、もう少《すこ》し積極的《せききよくてき》に身體《からだ》を働《はた》らかしたく思《おも》つた。  提唱《ていしやう》のある場所《ばしよ》は、矢張《やは》り一窓庵《いつさうあん》から一|町《ちやう》も隔《へだゝ》つてゐた。蓮池《れんち》の前《まへ》を通《とほ》り越《こ》して、それを左《ひだり》へ曲《まが》らずに眞直《まつすぐ》に突《つ》き當《あた》ると、屋根瓦《やねがはら》を嚴《いか》めしく重《かさ》ねた高《たか》い軒《のき》が、松《まつ》の間《あひだ》に仰《あふ》がれた。宜道《ぎだう》は懷《ふところ》に黒《くろ》い表紙《へうし》の本《ほん》を入《い》れてゐた。宗助《そうすけ》は無論《むろん》手《て》ぶらであつた。提唱《ていしやう》と云《い》ふのが、學校《がくかう》でいふ講義《かうぎ》の意味《いみ》である事《こと》さへ、此所《こゝ》へ來《き》て始《はじ》めて知《し》つた。  室《へや》は高《たか》い天井《てんじやう》に比例《ひれい》して廣《ひろ》く且《か》つ寒《さむ》かつた。色《いろ》の變《かは》つた疊《たゝみ》の色《いろ》が古《ふる》い柱《はしら》と映《て》り合《あ》つて、昔《むかし》を物語《ものがた》る樣《やう》に寂《さ》び果《は》てゝゐた。其所《そこ》に坐《すわ》つてゐる人々《ひと/″\》も皆《みな》地味《ぢみ》に見《み》えた。席次《せきじ》不同《ふどう》に思《おも》ひ々々《/\》の座《ざ》を占《し》めてはゐるが、高聲《かうせい》に語《かた》るもの、笑《わら》ふものは一人《ひとり》もなかつた。僧《そう》は皆《みな》紺麻《こんあさ》の法衣《ころも》を着《き》て、正面《しやうめん》の曲彔《きよくろく》の左右《さいう》に列《れつ》を作《つく》つて向《むか》ひ合《あは》せに並《なら》んだ。其《その》曲彔《きよくろく》は朱《しゆ》で塗《ぬ》つてあつた。  やがて老師《らうし》が現《あら》はれた。疊《たゝみ》を見詰《みつ》めてゐた宗助《そうすけ》には、彼《かれ》が何處《どこ》を通《とほ》つて、何處《どこ》から此所《こゝ》へ出《で》たか薩張《さつぱり》分《わか》らなかつた。たゞ彼《かれ》の落《お》ち付《つ》き拂《はら》つて曲彔《きよくろく》に倚《よ》る重々《おも/\》しい姿《すがた》を見《み》た。一人《ひとり》の若《わか》い僧《そう》が立《た》ちながら、紫《むらさき》の袱紗《ふくさ》を解《と》いて、中《なか》から取《と》り出《だ》した書物《しよもつ》を、恭《うや/\》しく卓上《たくじやう》に置《お》く所《ところ》を見《み》た。又《また》其《その》禮拜《らいはい》して退《しり》ぞく態《さま》を見《み》た。  此時《このとき》堂上《だうじやう》の僧《そう》は一齊《いつせい》に合掌《がつしやう》して、夢窓國師《むさうこくし》の遺誡《ゐかい》を誦《じゆ》し始《はじ》めた。思《おも》ひ/\に席《せき》を取《と》つた宗助《そうすけ》の前後《ぜんご》にゐる居士《こじ》も皆《みな》同音《どうおん》に調子《てうし》を合《あは》せた。聞《き》いてゐると、經文《きやうもん》の樣《やう》な、普通《ふつう》の言葉《ことば》の樣《やう》な、一種《いつしゆ》の節《ふし》を帶《お》びた文字《もんじ》であつた。「我《われ》に三等《さんとう》の弟子《でし》あり。所謂《いはゆる》猛烈《まうれつ》にして諸縁《しよえん》を放下《はうげ》し、專一《せんいつ》に己事《こじ》を究明《きうめい》する之《これ》を上等《じやうとう》と名《な》づく。修業《しうげふ》純《じゆん》ならず駁雜《はくざつ》學《がく》を好《この》む、之《これ》を中等《ちゆうとう》と云《い》ふ」云々《うん/\》といふ、餘《あま》り長《なが》くはないものであつた。宗助《そうすけ》は始《はじ》め夢窓國師《むさうこくし》の何人《なんぴと》なるかを知《し》らなかつた。宜道《ぎだう》から此《この》夢窓國師《むさうこくし》と大燈國師《だいとうこくし》とは、禪門《ぜんもん》中興《ちゆうこう》の祖《そ》であると云《い》ふ事《こと》を教《をそ》はつたのである。平生《へいぜい》跛《ちんば》で充分《じゆうぶん》に足《あし》を組《く》む事《こと》が出來《でき》ないのを憤《いきどほ》つて、死《し》ぬ間際《まぎは》に、今日《けふ》こそ己《おれ》の意《い》の如《ごと》くにして見《み》せると云《い》ひながら、惡《わる》い方《はう》の足《あし》を無理《むり》に折《を》つぺしよつて、結跏《けつか》したため、血《ち》が流《なが》れて法衣《ころも》を煑染《にじ》ましたといふ大燈國師《だいとうこくし》の話《はなし》も其折《そのをり》宜道《ぎだう》から聞《き》いた。  やがて提唱《ていしやう》が始《はじ》まつた。宜道《ぎだう》は懷《ふところ》から例《れい》の書物《しよもつ》を出《だ》して頁《ページ》を半《なか》ば擦《ず》らして宗助《そうすけ》の前《まへ》へ置《お》いた。それは宗門《しゆうもん》無盡《むじん》燈論《とうろん》と云《い》ふ書物《しよもつ》であつた。始《はじ》めて聞《き》きに出《で》た時《とき》、宜道《ぎだう》は、 「難有《ありがた》い結構《けつこう》な本《ほん》です」と宗助《そうすけ》に教《をし》へて呉《く》れた。白隱和尚《はくいんをしやう》の弟子《でし》の東嶺和尚《とうれいをしやう》とかいふ人《ひと》の編輯《へんしふ》したもので、重《おも》に禪《ぜん》を修行《しゆぎやう》するものが、淺《あさ》い所《ところ》から深《ふか》い所《ところ》へ進《すゝ》んで行《ゆ》く徑路《けいろ》やら、それに伴《とも》なふ心境《しんきやう》の變化《へんくわ》やらを秩序立《ちつじよだ》てゝ書《か》いたものらしかつた。  中途《ちゆうと》から顏《かほ》を出《だ》した宗助《そうすけ》には、能《よ》くも解《げ》せなかつたけれども、講者《かうじや》は能辯《のうべん》の方《はう》で、默《だま》つて聞《き》いてゐるうちに、大變《たいへん》面白《おもしろ》い所《ところ》があつた。其上《そのうへ》參禪《さんぜん》の士《し》を鼓舞《こぶ》する爲《ため》か、古來《こらい》から斯《この》道《みち》に苦《くる》しんだ人《ひと》の閲歴譚《えつれきだん》抔《など》を取《と》り交《ま》ぜて一段《いちだん》の精彩《せいさい》を着《つ》けるのが例《れい》であつた。此日《このひ》も其《その》通《とほ》りであつたが或所《あるところ》へ來《く》ると、突然《とつぜん》語調《ごてう》を改《あらた》めて、 「此頃《このごろ》室中《しつちゆう》に來《きた》つて、何《ど》うも妄想《まうざう》が起《おこ》つて不可《いけ》ない抔《など》と訴《うつた》へるものがあるが」と急《きふ》に入室者《にふしつしや》の不熱心《ふねつしん》を戒《いま》しめ出《だ》したので、宗助《そうすけ》は覺《おぼ》えずぎくりとした。室中《しつちゆう》に入《い》つて、其《その》訴《うつたへ》をなしたものは實《じつ》に彼《かれ》自身《じしん》であつた。  一|時間《じかん》の後《のち》宜道《ぎだう》と宗助《そうすけ》は袖《そで》をつらねて又《また》一窓庵《いつさうあん》に歸《かへ》つた。其《その》歸《かへ》り路《みち》に宜道《ぎだう》は、 「あゝして提唱《ていしやう》のある時《とき》に、よく參禪者《さんぜんしや》の不心得《ふこゝろえ》を諷《ふう》せられます」と云《い》つた。宗助《そうすけ》は何《なに》も答《こた》へなかつた。 [#8字下げ]二十一[#「二十一」は中見出し]  其内《そのうち》、山《やま》の中《なか》の日《ひ》は、一日々々《いちにち/\》と經《た》つた。御米《およね》からは可《か》なり長《なが》い手紙《てがみ》がもう二|本《ほん》來《き》た。尤《もつと》も二|本《ほん》とも新《あら》たに宗助《そうすけ》の心《こゝろ》を亂《みだ》す樣《やう》な心配事《しんぱいごと》は書《か》いてなかつた。宗助《そうすけ》は常《つね》の細君《さいくん》思《おも》ひに似《に》ず遂《つひ》に返事《へんじ》を出《だ》すのを怠《おこた》つた。彼《かれ》は山《やま》を出《で》る前《まへ》に、何《なに》とか此間《このあひだ》の問題《もんだい》に片《かた》を付《つ》けなければ、折角《せつかく》來《き》た甲斐《かひ》がない樣《やう》な、又《また》宜道《ぎだう》に對《たい》して濟《す》まない樣《やう》な氣《き》がしてゐた。眼《め》が覺《さ》めてゐる時《とき》は、之《これ》がために名状《めいじやう》し難《がた》い一種《いつしゆ》の壓迫《あつぱく》を受《う》けつゞけに受《う》けた。從《したが》つて日《ひ》が暮《く》れて夜《よ》が明《あ》けて、寺《てら》で見《み》る太陽《たいやう》の數《かず》が重《かさ》なるにつけて、恰《あたか》も後《うしろ》から追《お》ひ掛《か》けられでもする如《ごと》く氣《き》を焦《いら》つた。けれども彼《かれ》は最初《さいしよ》の解決《かいけつ》より外《ほか》に、一|歩《ぽ》も此《この》問題《もんだい》にちかづく術《すべ》を知《し》らなかつた。彼《かれ》は又《また》いくら考《かんが》へても此《この》最初《さいしよ》の解決《かいけつ》は確《たしか》なものであると信《しん》じてゐた。たゞ理窟《りくつ》から割《わ》り出《だ》したのだから、腹《はら》の足《たし》には一向《いつかう》ならなかつた。彼《かれ》は此《この》確《たしか》なものを放《はふ》り出《だ》して、更《さら》に又《また》確《たしか》なものを求《もと》めやうとした。けれども左樣《そんな》ものは少《すこ》しも出《で》て來《こ》なかつた。  彼《かれ》は自分《じぶん》の室《へや》で獨《ひと》り考《かんが》へた。疲《つか》れると、臺所《だいどころ》から下《お》りて、裏《うら》の菜園《さいゑん》へ出《で》た。さうして崖《がけ》の下《した》に掘《ほ》つた横穴《よこあな》の中《なか》へ這入《はい》つて、凝《じ》つと動《うご》かずにゐた。宜道《ぎだう》は氣《き》が散《ち》る樣《やう》では駄目《だめ》だと云《い》つた。段々《だん/\》集注《しふちゆう》して凝《こ》り固《かた》まつて、仕舞《しまひ》に鐵《てつ》の棒《ぼう》の樣《やう》にならなくては駄目《だめ》だと云《い》つた。さう云《い》ふ事《こと》を聞《き》けば聞《き》く程《ほど》、實際《じつさい》にさうなるのが、困難《こんなん》になつた。 「既《すで》に頭《あたま》の中《なか》に、さう仕樣《しやう》と云《い》ふ下心《したごゝろ》があるから不可《いけ》ないのです」と宜道《ぎだう》が又《また》云《い》つて聞《き》かした。宗助《そうすけ》は愈《いよ/\》窮《きゆう》した。忽然《こつぜん》安井《やすゐ》の事《こと》を考《かんが》へ出《だ》した。安井《やすゐ》がもし坂井《さかゐ》の家《いへ》へ頻繁《ひんぱん》に出入《でいり》でもする樣《やう》になつて、當分《たうぶん》滿洲《まんしう》へ歸《かへ》らないとすれば、今《いま》のうちあの借家《しやくや》を引《ひ》き上《あ》げて、何處《どこ》かへ轉宅《てんたく》するのが上分別《じやうふんべつ》だらう。こんな所《ところ》に愚圖々々《ぐづ/\》してゐるより、早《はや》く東京《とうきやう》へ歸《かへ》つて其方《そのはう》の所置《しよち》を付《つ》けた方《はう》がまだ實際的《じつさいてき》かも知《し》れない。緩《ゆつ》くり構《かま》へて、御米《およね》にでも知《し》れると又《また》心配《しんぱい》が殖《ふ》える丈《だけ》だと思《おも》つた。 「私《わたくし》の樣《やう》なものには到底《たうてい》悟《さとり》は開《ひら》かれさうに有《あ》りません」と思《おも》ひ詰《つ》めた樣《やう》に宜道《ぎだう》を捕《つら》まへて云《い》つた。それは歸《かへ》る二三日《にさんち》前《まへ》の事《こと》であつた。 「いえ信念《しんねん》さへあれば誰《だれ》でも悟《さと》れます」と宜道《ぎだう》は躊躇《ちうちよ》もなく答《こた》へた。「法華《ほつけ》の凝《こ》り固《かた》まりが夢中《むちゆう》に太鼓《たいこ》を叩《たゝ》く樣《やう》に遣《や》つて御覽《ごらん》なさい。頭《あたま》の巓邊《てつぺん》から足《あし》の爪先《つまさき》迄《まで》が悉《こと/″\》く公案《こうあん》で充實《じゆうじつ》したとき、俄然《がぜん》として新天地《しんてんち》が現前《げんぜん》するので御座《ござ》います」  宗助《そうすけ》は自分《じぶん》の境遇《きやうぐう》やら性質《せいしつ》が、夫程《それほど》盲目的《まうもくてき》に猛烈《まうれつ》な働《はたらき》を敢《あへ》てするに適《てき》しない事《こと》を深《ふか》く悲《かな》しんだ。况《いは》んや自分《じぶん》の此《この》山《やま》で暮《く》らすべき日《ひ》は既《すで》に限《かぎ》られてゐた。彼《かれ》は直截《ちよくせつ》に生活《せいくわつ》の葛藤《かつとう》を切《き》り拂《はら》ふ積《つも》りで、却《かへ》つて迂濶《うくわつ》に山《やま》の中《なか》へ迷《まよ》ひ込《こ》んだ愚物《ぐぶつ》であつた。  彼《かれ》は腹《はら》の中《なか》で斯《か》う考《かんが》へながら、宜道《ぎだう》の面前《めんぜん》で、それ丈《だけ》の事《こと》を言《い》い切《き》る力《ちから》がなかつた。彼《かれ》は心《こゝろ》から此《この》若《わか》い禪僧《ぜんそう》の勇氣《ゆうき》と熱心《ねつしん》と眞面目《まじめ》と親切《しんせつ》とに敬意《けいい》を表《へう》してゐたのである。 「道《みち》は近《ちか》きにあり、却《かへ》つて之《これ》を遠《とほ》きに求《もと》むといふ言葉《ことば》があるが實際《じつさい》です。つい鼻《はな》の先《さき》にあるのですけれども、何《ど》うしても氣《き》が付《つ》きません」と宜道《ぎだう》はさも殘念《ざんねん》さうであつた。宗助《そうすけ》は又《また》自分《じぶん》の室《へや》に退《しりぞ》いて線香《せんかう》を立《た》てた。  斯《か》う云《い》ふ状態《じやうたい》は、不幸《ふかう》にして宗助《そうすけ》の山《やま》を去《さ》らなければならない日《ひ》迄《まで》、目《め》に立《た》つ程《ほど》の新生面《しんせいめん》を開《ひら》く機會《きくわい》なく續《つゞ》いた。愈《いよ/\》出立《しゆつたつ》の朝《あさ》になつて宗助《そうすけ》は潔《いさぎ》よく未練《みれん》を抛《な》げ棄《す》てた。 「永々《なが/\》御世話《おせわ》になりました。殘念《ざんねん》ですが、何《ど》うも仕方《しかた》がありません。もう當分《たうぶん》御眼《おめ》に掛《か》かる折《をり》も御座《ござ》いますまいから、隨分《ずゐぶん》御機嫌《ごきげん》よう」と宜道《ぎだう》に挨拶《あいさつ》をした。宜道《ぎだう》は氣《き》の毒《どく》さうであつた。 「御世話《おせわ》どころか、萬事《ばんじ》不行屆《ふゆきとゞき》で嘸《さぞ》御窮屈《ごきゆうくつ》で御座《ござ》いましたらう。然《しか》し是程《これほど》御坐《おすわ》りになつても大分《だいぶ》違《ちが》ひます。わざ/\御出《おいで》になつた丈《だけ》の事《こと》は充分《じゆうぶん》御座《ござ》います」と云《い》つた。然《しか》し宗助《そうすけ》には丸《まる》で時間《じかん》を潰《つぶ》しに來《き》た樣《やう》な自覺《じかく》が明《あき》らかにあつた。それを斯《か》う取《と》り繕《つく》ろつて云《い》つて貰《もら》ふのも、自分《じぶん》の腑甲斐《ふがひ》なさからであると、獨《ひと》り耻《は》ぢ入《い》つた。 「悟《さとり》の遲速《ちそく》は全《まつた》く人《ひと》の性質《たち》で、それ丈《だけ》では優劣《いうれつ》にはなりません。入《い》り易《やす》くても後《あと》で塞《つか》へて動《うご》かない人《ひと》もありますし、又《また》初《はじ》め長《なが》く掛《か》かつても、愈《いよ/\》と云《い》ふ場合《ばあひ》に非常《ひじやう》に痛快《つうくわい》に出來《でき》るのもあります。決《けつ》して失望《しつばう》なさる事《こと》は御座《ござ》いません。たゞ熱心《ねつしん》が大切《たいせつ》です。亡《な》くなられた洪川和尚《こうせんをしやう》などは、もと儒教《じゆけう》をやられて、中年《ちゆうねん》からの修業《しゆげふ》で御座《ござ》いましたが、僧《そう》になつてから三|年《ねん》の間《あひだ》と云《い》ふもの丸《まる》で一則《いつそく》も通《とほ》らなかつたです。夫《それ》で私《わし》は業《ごふ》が深《ふか》くて悟《さと》れないのだと云《い》つて、毎朝《まいてう》厠《かはや》に向《むか》つて禮拜《らいはい》された位《くらゐ》でありましたが、後《のち》にはあのやうな知識《ちしき》になられました。これ抔《など》は尤《もつと》も好《い》い例《れい》です」  宜道《ぎだう》は斯《こ》んな話《はなし》をして、暗《あん》に宗助《そうすけ》が東京《とうきやう》へ歸《かへ》つてからも、全《まつた》く此方《このはう》を斷念《だんねん》しない樣《やう》にあらかじめ間接《かんせつ》の注意《ちゆうい》を與《あた》へる樣《やう》に見《み》えた。宗助《そうすけ》は謹《つゝし》んで、宜道《ぎだう》のいふ事《こと》に耳《みゝ》を借《か》した。けれども腹《はら》の中《なか》では大事《だいじ》がもう既《すで》に半分《はんぶん》去《さ》つた如《ごと》くに感《かん》じた。自分《じぶん》は門《もん》を開《あ》けて貰《もら》ひに來《き》た。けれども門番《もんばん》は扉《とびら》の向側《むかふがは》にゐて、敲《たゝ》いても遂《つひ》に顏《かほ》さへ出《だ》して呉《く》れなかつた。たゞ、 「敲《たゝ》いても駄目《だめ》だ。獨《ひと》りで開《あ》けて入《はひ》れ」と云《い》ふ聲《こゑ》が聞《きこ》えた丈《だけ》であつた。彼《かれ》は何《ど》うしたら此《この》門《もん》の閂《くわんのき》を開《あ》ける事《こと》が出來《でき》るかを考《かんが》へた。さうして其《その》手段《しゆだん》と方法《はうはふ》を明《あき》らかに頭《あたま》の中《なか》で拵《こしら》えた。けれども夫《それ》を實地《じつち》に開《あ》ける力《ちから》は、少《すこ》しも養成《やうせい》する事《こと》が出來《でき》なかつた。從《したが》つて自分《じぶん》の立《た》つてゐる場所《ばしよ》は、此《この》問題《もんだい》を考《かんが》へない昔《むかし》と毫《がう》も異《こと》なる所《ところ》がなかつた。彼《かれ》は依然《いぜん》として無能《むのう》無力《むりよく》に鎖《と》ざされた扉《とびら》の前《まへ》に取《と》り殘《のこ》された。彼《かれ》は平生《へいぜい》自分《じぶん》の分別《ふんべつ》を便《たより》に生《い》きて來《き》た。其《その》分別《ふんべつ》が今《いま》は彼《かれ》に祟《たゝ》つたのを口惜《くちをし》く思《おも》つた。さうして始《はじめ》から取捨《しゆしや》も商量《しやうりやう》も容《い》れない愚《おろか》なものゝ一徹《いつてつ》一圖《いちづ》を羨《うらや》んだ。もしくは信念《しんねん》に篤《あつ》い善男善女《ぜんなんぜんによ》の、知慧《ちゑ》も忘《わす》れ思議《しぎ》も浮《うか》ばぬ精進《しやうじん》の程度《ていど》を崇高《すうかう》と仰《あふ》いだ。彼《かれ》自身《じしん》は長《なが》く門外《もんぐわい》に佇立《たゝず》むべき運命《うんめい》をもつて生《うま》れて來《き》たものらしかつた。夫《それ》は是非《ぜひ》もなかつた。けれども、何《ど》うせ通《とほ》れない門《もん》なら、わざ/\其所《そこ》迄《まで》辿《たど》り付《つ》くのが矛盾《むじゆん》であつた。彼《かれ》は後《うしろ》を顧《かへり》みた。さうして到底《たうてい》又《また》元《もと》の路《みち》へ引《ひ》き返《かへ》す勇氣《ゆうき》を有《も》たなかつた。彼《かれ》は前《まへ》を眺《なが》めた。前《まへ》には堅固《けんご》な扉《とびら》が何時《いつ》迄《まで》も展望《てんばう》を遮《さへ》ぎつてゐた。彼《かれ》は門《もん》を通《とほ》る人《ひと》ではなかつた。又《また》門《もん》を通《とほ》らないで濟《す》む人《ひと》でもなかつた。要《えう》するに、彼《かれ》は門《もん》の下《した》に立《た》ち竦《すく》んで、日《ひ》の暮《く》れるのを待《ま》つべき不幸《ふかう》な人《ひと》であつた。  宗助《そうすけ》は立《た》つ前《まへ》に、宜道《ぎだう》と連《つ》れだつて、老師《らうし》の許《もと》へ一寸《ちよつと》暇乞《いとまごひ》に行《い》つた。老師《らうし》は二人《ふたり》を蓮池《れんち》の上《うへ》の、縁《えん》に勾欄《こうらん》の着《つ》いた座敷《ざしき》に通《とほ》した。宜道《ぎだう》は自《みづか》ら次《つぎ》の間《ま》に立《た》つて、茶《ちや》を入《い》れて出《で》た。 「東京《とうきやう》はまだ寒《さむ》いでせう」と老師《らうし》が云《い》つた。「少《すこ》しでも手掛《てがゝ》りが出來《でき》てからだと、歸《かへ》つたあとも樂《らく》だけれども。惜《をし》い事《こと》で」  宗助《そうすけ》は老師《らうし》の此《この》挨拶《あいさつ》に對《たい》して、丁寧《ていねい》に禮《れい》を述《の》べて、又《また》十日《とをか》前《まへ》に潛《くゞ》つた山門《さんもん》を出《で》た。甍《いらか》を壓《あつ》する杉《すぎ》の色《いろ》が、冬《ふゆ》を封《ふう》じて黒《くろ》く彼《かれ》の後《うしろ》に聳《そび》えた。 [#8字下げ]二十二[#「二十二」は中見出し]  家《いへ》の敷居《しきゐ》を跨《また》いだ宗助《そうすけ》は、己《おの》れにさへ憫然《びんぜん》な姿《すがた》を描《ゑが》いた。彼《かれ》は過去《くわこ》十日間《とをかかん》毎朝《まいあさ》頭《あたま》を冷水《れいすゐ》で濡《ぬ》らしたなり、未《いま》だ曾《かつ》て櫛《くし》の齒《は》を通《とほ》した事《こと》がなかつた。髭《ひげ》は固《もと》より剃《そ》る暇《いとま》を有《も》たなかつた。三度《さんど》とも宜道《ぎだう》の好意《かうい》で白米《はくまい》の炊《かし》いだのを食《た》べたには食《た》べたが、副食物《ふくしよくぶつ》と云《い》つては、菜《な》の煑《に》たのか、大根《だいこん》の煑《に》たの位《ぐらゐ》なものであつた。彼《かれ》の顏《かほ》は自《おのづ》から蒼《あを》かつた。出《で》る前《まへ》よりも多少《たせう》面窶《おもやつ》れてゐた。其上《そのうへ》彼《かれ》は一窓庵《いつさうあん》で考《かんが》へつゞけに考《かんが》へた習慣《しふくわん》がまだ全《まつた》く拔《ぬ》け切《き》らなかつた。何所《どこ》かに卵《たまご》を抱《いだ》く牝鷄《めんどり》の樣《やう》な心持《こゝろもち》が殘《のこ》つて、頭《あたま》が平生《へいぜい》の通《とほ》り自由《じいう》に働《はた》らかなかつた。其癖《そのくせ》一方《いつぱう》では坂井《さかゐ》の事《こと》が氣《き》に掛《か》かつた。坂井《さかゐ》と云《い》ふよりも、坂井《さかゐ》の所謂《いはゆる》冒險者《アドヹンチユアラー》として宗助《そうすけ》の耳《みゝ》に響《ひゞ》いた其《その》弟《おとゝ》と、其《その》弟《おとゝ》の友達《ともだち》として彼《かれ》の胸《むね》を騷《さわ》がした安井《やすゐ》の消息《せうそく》が氣《き》にかゝつた。けれども彼《かれ》は自身《じしん》に家主《やぬし》の宅《たく》へ出向《でむ》いてそれを聞《き》き糺《たゞ》す勇氣《ゆうき》を有《も》たなかつた。間接《かんせつ》にそれを御米《およね》に問《と》ふことは猶《なほ》出來《でき》なかつた。彼《かれ》は山《やま》にゐる間《あひだ》さへ、御米《およね》が此《この》事件《じけん》に就《つ》いて何事《なにごと》も耳《みゝ》にして呉《く》れなければ可《い》いがと氣遣《きづか》はない日《ひ》はなかつた位《くらゐ》である。宗助《そうすけ》は年來《ねんらい》住《す》み慣《な》れた家《いへ》の座敷《ざしき》に坐《すわ》つて、 「汽車《きしや》に乘《の》ると短《みじ》かい道中《だうちゆう》でも氣《き》の所爲《せゐ》か疲《つか》れるね。留守中《るすちゆう》に別段《べつだん》變《かは》つた事《こと》はなかつたかい」と聞《き》いた。實際《じつさい》彼《かれ》は短《みじ》かい汽車《きしや》旅行《りよかう》にさへ堪《た》へかねる顏付《かほつき》をしてゐた。  御米《およね》は如何《いか》な場合《ばあひ》にも夫《をつと》の前《まへ》に忘《わす》れなかつた笑顏《ゑがほ》さへ作《つく》り得《え》なかつた。と云《い》つて、折角《せつかく》保養《ほやう》に行《い》つた轉地先《てんちさき》から今《いま》歸《かへ》つて來《き》たばかりの夫《をつと》に、行《ゆ》かない前《まへ》より却《かへ》つて健康《けんかう》が惡《わる》くなつたらしいとは、氣《き》の毒《どく》で露骨《ろこつ》に話《はな》し惡《にく》かつた。わざと活溌《くわつぱつ》に、 「いくら保養《ほやう》でも、家《うち》へ歸《かへ》ると、少《すこ》しは氣疲《きづかれ》が出《で》るものよ。けれども貴方《あなた》は餘《あん》まり爺々汚《ぢゞむさ》いわ。後生《ごしやう》だから一休《ひとやすみ》したら御湯《おゆ》に行《い》つて頭《あたま》を刈《か》つて髭《ひげ》を剃《す》つて來《き》て頂戴《ちやうだい》」と云《い》ひながら、わざ/\机《つくゑ》の引出《ひきだし》から小《ちひ》さな鏡《かゞみ》を出《だ》して見《み》せた。  宗助《そうすけ》は御米《およね》の言葉《ことば》を聞《き》いて、始《はじ》めて一窓庵《いつさうあん》の空氣《くうき》を風《かぜ》で拂《はら》つた樣《やう》な心持《こゝろもち》がした。一《ひと》たび山《やま》を出《で》て家《うち》へ歸《かへ》れば矢張《やは》り元《もと》の宗助《そうすけ》であつた。 「坂井《さかゐ》さんからは其後《そのご》何《なん》とも云《い》つて來《こ》ないかい」 「いゝえ何《なん》とも」 「小六《ころく》の事《こと》も」 「いゝえ」  其《その》小六《ころく》は圖書館《としよくわん》へ行《い》つて留守《るす》だつた。宗助《そうすけ》は手拭《てぬぐひ》と石鹸《せきけん》を持《も》つて外《そと》へ出《で》た。  明《あく》る日《ひ》役所《やくしよ》へ出《で》ると、みんなから病氣《びやうき》はどうだと聞《き》かれた。中《なか》には少《すこ》し瘠《や》せた樣《やう》ですねと云《い》ふものもあつた。宗助《そうすけ》には夫《それ》が無意識《むいしき》の冷評《れいひやう》の意味《いみ》に聞《きこ》えた。菜根譚《さいこんたん》を讀《よ》む男《をとこ》はたゞ何《ど》うです旨《うま》く行《い》きましたかと尋《たづ》ねた。宗助《そうすけ》は此《この》問《とひ》にも大分《だいぶ》痛《いた》い思《おもひ》をした。  其晩《そのばん》は又《また》御米《およね》と小六《ころく》から代《かは》る/″\鎌倉《かまくら》の事《こと》を根掘《ねほ》り葉掘《はほ》り問《と》はれた。 「氣樂《きらく》でせうね。留守居《るすゐ》も何《なに》も置《お》かないで出《で》られたら」と御米《およね》が云《い》つた。 「それで一日《いちんち》幾何《いくら》出《だ》すと置《お》いて呉《く》れるんです」と小六《ころく》が聞《き》いた。「鐵砲《てつぱう》でも擔《かつ》いで行《い》つて、獵《れふ》でもしたら面白《おもしろ》からう」とも云《い》つた。 「然《しか》し退屈《たいくつ》ね。そんなに淋《さむ》しくつちや。朝《あさ》から晩《ばん》迄《まで》寐《ね》て入《い》らつしやる譯《わけ》にも行《い》かないでせう」と御米《およね》が又《また》云《い》つた。 「もう少《すこ》し滋養物《じやうぶつ》が食《く》へる所《ところ》でなくつちあ、矢《や》つ張《ぱ》り身體《からだ》に可《よ》くないでせう」と小六《ころく》が又《また》云《い》つた。  宗助《そうすけ》は其夜《そのよ》床《とこ》の中《なか》へ入《はひ》つて、明日《あした》こそ思《おも》ひ切《き》つて、坂井《さかゐ》へ行《い》つて安井《やすゐ》の消息《せうそく》をそれとなく聞《き》き糺《たゞ》して、もし彼《かれ》がまだ東京《とうきやう》にゐて、猶《なほ》しば/\坂井《さかゐ》と徃復《わうふく》がある樣《やう》なら、遠《とほ》くの方《はう》へ引越《ひつこ》して仕舞《しま》はうと考《かんが》へた。  次《つぎ》の日《ひ》は平凡《へいぼん》に宗助《そうすけ》の頭《あたま》を照《て》らして、事《こと》なき光《ひかり》を西《にし》に落《おと》した。夜《よ》に入《い》つて彼《かれ》は、 「一寸《ちよつと》坂井《さかゐ》さん迄《まで》行《い》つて來《く》る」と云《い》ひ捨《す》てゝ門《もん》を出《で》た。月《つき》のない坂《さか》を上《のぼ》つて、瓦斯燈《ガスとう》に照《て》らされた砂利《じやり》を鳴《な》らしながら潛戸《くゞりど》を開《あ》けた時《とき》、彼《かれ》は今夜《こんや》此所《こゝ》で安井《やすゐ》に落《お》ち合《あ》ふ樣《やう》な萬一《まんいち》はまづ起《おこ》らないだらうと度胸《どきよう》を据《す》ゑた。それでもわざと勝手口《かつてぐち》へ回《まは》つて、御客來《おきやくらい》ですかと聞《き》くことは忘《わす》れなかつた。 「能《よ》く御出《おいで》です。何《ど》うも相變《あひかは》らず寒《さむ》いぢやありませんか」と云《い》ふ常《つね》の通《とほ》り元氣《げんき》の好《い》い主人《しゆじん》を見《み》ると、子供《こども》を大勢《おほぜい》自分《じぶん》の前《まへ》へ並《なら》べて、其中《そのうち》の一人《ひとり》と掛聲《かけごゑ》をかけながら、じやん拳《けん》を遣《や》つてゐた。相手《あひて》の女《をんな》の子《こ》の年《とし》は、六《むつ》つ許《ばかり》に見《み》えた。赤《あか》い幅《はゞ》のあるリボンを蝶々《てふ/\》の樣《やう》に頭《あたま》の上《うへ》に喰付《くつつ》けて、主人《しゆじん》に負《ま》けない程《ほど》の勢《いきほひ》で、小《ちひ》さな手《て》を握《にぎ》り固《かた》めてさつと前《まへ》へ出《だ》した。其《その》斷然《だんぜん》たる樣子《やうす》と、其《その》握《にぎ》り拳《こぶし》の小《ちひ》さゝと、之《これ》に反《はん》して主人《しゆじん》の仰山《ぎやうさん》らしく大《おほ》きな拳骨《げんこつ》が、對照《たいせう》になつて皆《みんな》の笑《わらひ》を惹《ひ》いた。火鉢《ひばち》の傍《はた》に見《み》てゐた細君《さいくん》は、 「そら今度《こんだ》こさ雪子《ゆきこ》の勝《かち》だ」と云《い》つて愉快《ゆくわい》さうに綺麗《きれい》な齒《は》を露《あら》はした。子供《こども》の膝《ひざ》の傍《そば》には白《しろ》だの赤《あか》だの藍《あゐ》だのゝ硝子玉《がらすだま》が澤山《たくさん》あつた。主人《しゆじん》は、 「とう/\雪子《ゆきこ》に負《ま》けた」と席《せき》を外《はづ》して、宗助《そうすけ》の方《はう》を向《む》いたが、「何《ど》うです又《また》洞窟《とうくつ》へでも引《ひ》き込《こ》みますかな」と云《い》つて立《た》ち上《あ》がつた。  書齋《しよさい》の柱《はしら》には例《れい》の如《ごと》く錦《にしき》の袋《ふくろ》に入《い》れた蒙古刀《もうこたう》が振《ぶ》ら下《さ》がつてゐた。花活《はないけ》には何處《どこ》で咲《さ》いたか、もう黄色《きいろ》い菜《な》の花《はな》が插《さ》してあつた。宗助《そうすけ》は床柱《とこばしら》の中途《ちゆうと》を華《はな》やかに彩《いろ》どる袋《ふくろ》に眼《め》を着《つ》けて、 「相變《あひかは》らず掛《か》かつて居《を》りますな」と云《い》つた。さうして主人《しゆじん》の氣色《けしき》を頭《あたま》の奧《おく》から窺《うかゞ》つた。主人《しゆじん》は、 「えゝ些《ち》と物數奇《ものずき》過《す》ぎますね、蒙古刀《もうこたう》は」と答《こた》へた。「所《ところ》が弟《おとゝ》の野郎《やらう》そんな玩具《おもちや》を持《も》つて來《き》ては、兄貴《あにき》を籠絡《ろうらく》する積《つもり》だから困《こま》りものぢやありませんか」 「御舍弟《ごしやてい》は其後《そのご》何《ど》うなさいました」と宗助《そうすけ》は何氣《なにげ》ない風《ふう》を示《しめ》した。 「えゝ漸《やうや》く四五|日《にち》前《まへ》歸《かへ》りました。ありや全《まつた》く蒙古向《もうこむき》ですね。御前《おまへ》の樣《やう》な夷狄《いてき》は東京《とうきやう》にや調和《てうわ》しないから早《はや》く歸《かへ》れつたら、私《わたし》もさう思《おも》ふつて歸《かへ》つて行《い》きました。何《ど》うしても、ありや萬里《ばんり》の長城《ちやうじやう》の向側《むかふがは》にゐるべき人物《じんぶつ》ですよ。さうしてゴビの沙漠《さばく》の中《なか》で金剛石《ダイヤモンド》でも搜《さが》してゐれば可《い》いんです」 「もう一人《ひとり》の御伴侶《おつれ》は」 「安井《やすゐ》ですか、あれも無論《むろん》一所《いつしよ》です。あゝなると落《お》ち付《つ》いちや居《ゐ》られないと見《み》えますね。何《なん》でも元《もと》は京都大學《きやうとだいがく》にゐたこともあるんだとか云《い》ふ話《はなし》ですが。何《ど》うして、あゝ變化《へんくわ》したものですかね」  宗助《そうすけ》は腋《わき》の下《した》から汗《あせ》が出《で》た。安井《やすゐ》が何《ど》う變《かは》つて、どう落《お》ち付《つ》かないのか、全《まつた》く聞《き》く氣《き》にはならなかつた。たゞ自分《じぶん》が主人《しゆじん》に安井《やすゐ》と同《おな》じ大學《だいがく》にゐた事《こと》を、まだ洩《も》らさなかつたのを天祐《てんいう》の樣《やう》に有難《ありがた》く思《おも》つた。けれども主人《しゆじん》は其《その》弟《おとうと》と安井《やすゐ》とを晩餐《ばんさん》に呼《よ》ぶとき、自分《じぶん》を此《この》二人《ふたり》に紹介《せうかい》しやうと申《まを》し出《で》た男《をとこ》である。辭退《じたい》をして其《その》席《せき》へ顏《かほ》を出《だ》す不面目丈《ふめんもくだけ》は漸《やつ》と免《まぬ》かれた樣《やう》なものゝ、其《その》晩《ばん》主人《しゆじん》が何《なに》かの機會《はずみ》につい自分《じぶん》の名《な》を二人《ふたり》に洩《も》らさないとは限《かぎ》らなかつた。宗助《そうすけ》は後暗《うしろぐら》い人《ひと》の、變名《へんみやう》を用《もち》ひて世《よ》を渡《わた》る便利《べんり》を切《せつ》に感《かん》じた。彼《かれ》は主人《しゆじん》に向《むか》つて、「貴方《あなた》はもしや私《わたくし》の名《な》を安井《やすゐ》の前《まへ》で口《くち》にしやしませんか」と聞《き》いて見《み》たくて堪《たま》らなかつた。けれども、夫丈《それだけ》は何《ど》うしても聞《き》けなかつた。  下女《げぢよ》が平《ひら》たい大《おほ》きな菓子皿《くわしざら》に妙《めう》な菓子《くわし》を盛《も》つて出《で》た。一丁《いつちやう》の豆腐《とうふ》位《ぐらゐ》な大《おほ》きさの金玉糖《きんぎよくたう》の中《なか》に、金魚《きんぎよ》が二|疋《ひき》透《す》いて見《み》えるのを、其儘《そのまゝ》庖丁《はうちやう》の刄《は》を入《い》れて、元《もと》の形《かたち》を崩《くづ》さずに、皿《さら》に移《うつ》したものであつた。宗助《そうすけ》は一目《ひとめ》見《み》て、たゞ珍《めづ》らしいと感《かん》じた。けれども彼《かれ》の頭《あたま》は寧《むし》ろ他《ほか》の方面《はうめん》に氣《き》を奪《うば》はれてゐた。すると主人《しゆじん》が、 「何《ど》うです一《ひと》つ」と例《いつも》の通《とほ》り先《ま》づ自分《じぶん》から手《て》を出《だ》した。 「是《これ》はね、昨日《きのふ》ある人《ひと》の銀婚式《ぎんこんしき》に呼《よ》ばれて、貰《もら》つて來《き》たのだから、頗《すこ》ぶる御目出度《おめでたい》のです。貴方《あなた》も一切《ひときれ》位《ぐらゐ》肖《あやか》つても可《い》いでせう」  主人《しゆじん》は肖《あやか》りたい名《な》の下《もと》に、甘垂《あまた》るい金玉糖《きんぎよくたう》を幾切《いくきれ》か頬張《ほゝば》つた。これは酒《さけ》も呑《の》み、茶《ちや》も呑《の》み、飯《めし》も菓子《くわし》も食《く》へる樣《やう》に出來《でき》た、重寶《ちようはう》で健康《けんかう》な男《をとこ》であつた。 「何《なに》實《じつ》を云《い》ふと、二十|年《ねん》も三十|年《ねん》も夫婦《ふうふ》が皺《しわ》だらけになつて生《い》きてゐたつて、別《べつ》に御目出度《おめでたく》もありませんが、其所《そこ》が物《もの》は比較的《ひかくてき》な所《ところ》でね。私《わたくし》は何時《いつ》か清水谷《しみづだに》の公園《こうゑん》の前《まへ》を通《とほ》つて驚《おど》ろいた事《こと》がある」と變《へん》な方面《はうめん》へ話《はなし》を持《も》つて行《い》つた。斯《か》ういふ風《ふう》に、夫《それ》から夫《それ》へと客《きやく》を飽《あ》かせない樣《やう》に引張《ひつぱ》つて行《ゆ》くのが、社交《しやかう》になれた主人《しゆじん》の平生《へいぜい》の調子《てうし》であつた。  彼《かれ》の云《い》ふ所《ところ》によると、清水谷《しみづだに》から辨慶橋《べんけいばし》へ通《つう》じる泥溝《どぶ》の樣《やう》な細《ほそ》い流《ながれ》の中《なか》に、春先《はるさき》になると無數《むすう》の蛙《かへる》が生《うま》れるのださうである。其《その》蛙《かへる》が押《お》し合《あ》ひ鳴《な》き合《あ》つて生長《せいちやう》するうちに、幾《いく》百|組《くみ》か幾《いく》千|組《くみ》の戀《こひ》が泥渠《どぶ》の中《なか》で成立《せいりつ》する。さうして夫等《それら》の愛《あい》に生《い》きるものが重《かさ》ならない許《ばかり》に隙間《すきま》なく清水谷《しみづだに》から辨慶橋《べんけいばし》へ續《つゞ》いて、互《たがひ》に睦《むつ》まじく浮《うい》てゐると、通《とほ》り掛《がゝ》りの小僧《こぞう》だの閑人《ひまじん》が、石《いし》を打《う》ち付《つ》けて、無殘《むざん》にも蛙《かへる》の夫婦《ふうふ》を殺《ころ》して行《い》くものだから、其《その》數《かず》が殆《ほと》んど勘定《かんぢやう》し切《き》れない程《ほど》多《おほ》くなるのださうである。 「死屍累々《ししるゐ/\》とはあの事《こと》ですね。それが皆《みんな》夫婦《ふうふ》なんだから實際《じつさい》氣《き》の毒《どく》ですよ。詰《つま》りあすこを二三|丁《ちやう》通《とほ》るうちに、我々《われ/\》は悲劇《ひげき》にいくつ出逢《であ》ふか分《わか》らないんです。夫《それ》を考《かんが》へると御互《おたがひ》は實《じつ》に幸福《かうふく》でさあ。夫婦《ふうふ》になつてるのが惡《にく》らしいつて、石《いし》で頭《あたま》を破《わ》られる恐《おそ》れは、まあ無《な》いですからね。しかも双方《さうはう》ともに二十|年《ねん》も三十|年《ねん》も安全《あんぜん》なら、全《まつた》く御目出《おめで》たいに違《ちがひ》ありませんよ。だから一切《ひときれ》位《ぐらゐ》肖《あやか》つて置《お》く必要《ひつえう》もあるでせう」と云《い》つて、主人《しゆじん》はわざと箸《はし》で金玉糖《きんぎよくたう》を挾《はさ》んで、宗助《そうすけ》の前《まへ》に出《だ》した。宗助《そうすけ》は苦笑《くせう》しながら、それを受《う》けた。  こんな冗談《じようだん》交《まじ》りの話《はなし》を、主人《しゆじん》はいくらでも續《つゞ》けるので、宗助《そうすけ》は已《や》むを得《え》ず或《あ》る邊《へん》までは釣《つ》られて行《い》つた。けれども腹《はら》の中《なか》は決《けつ》して主人《しゆじん》の樣《やう》に太平樂《たいへいらく》には行《ゆ》かなかつた。辭《じ》して表《おもて》へ出《で》て、又《また》月《つき》のない空《そら》を眺《なが》めた時《とき》は、其《その》深《ふか》く黒《くろ》い色《いろ》の下《もと》に、何《なん》とも知《し》れない一種《いつしゆ》の悲哀《ひあい》と物凄《ものすご》さを感《かん》じた。  彼《かれ》は坂井《さかゐ》の家《いへ》に、たゞ苟《いやし》くも免《まぬ》かれんとする料簡《れうけん》で行《い》つた。さうして、其《その》目的《もくてき》を達《たつ》するために、耻《はぢ》と不愉快《ふゆくわい》を忍《しの》んで、好意《かうい》と眞率《しんそつ》の氣《き》に充《み》ちた主人《しゆじん》に對《たい》して、政略的《せいりやくてき》に談話《だんわ》を驅《か》つた。しかも知《し》らうと思《おも》ふ事《こと》は悉《こと/″\》く知《し》る事《こと》が出來《でき》なかつた。己《おの》れの弱點《じやくてん》に付《つ》いては、一言《ひとこと》も彼《かれ》の前《まへ》に自白《じはく》するの勇氣《ゆうき》も必要《ひつえう》も認《みと》めなかつた。  彼《かれ》の頭《あたま》を掠《かす》めんとした雨雲《あまぐも》は、辛《から》うじて、頭《あたま》に觸《ふ》れずに過《す》ぎたらしかつた。けれども、是《これ》に似《に》た不安《ふあん》は是《これ》から先《さき》何度《なんど》でも、色々《いろ/\》な程度《ていど》に於《おい》て、繰《く》り返《かへ》さなければ濟《す》まない樣《やう》な虫《むし》の知《し》らせが何處《どこ》かにあつた。それを繰《く》り返《かへ》させるのは天《てん》の事《こと》であつた。それを逃《に》げて回《まは》るのは宗助《そうすけ》の事《こと》であつた。 [#8字下げ]二十三[#「二十三」は中見出し]  月《つき》が變《かは》つてから寒《さむ》さが大分《だいぶ》緩《ゆる》んだ。官吏《くわんり》の増俸《ぞうほう》問題《もんだい》につれて必然《ひつぜん》起《おこ》るべく、多數《たすう》の噂《うはさ》に上《のぼ》つた局員《きよくゐん》課員《くわゐん》の淘汰《たうた》も、月末《げつまつ》迄《まで》に略《ほゞ》片付《かたづ》いた。其《その》間《あひだ》ぽつり/\と首《くび》を斬《き》られる知人《ちじん》や未知人《みちじん》の名前《なまへ》を絶《た》えず耳《みゝ》にした宗助《そうすけ》は、時々《とき/″\》家《うち》へ歸《かへ》つて御米《およね》に、 「今度《こんだ》は己《おれ》の番《ばん》かも知《し》れない」と云《い》ふ事《こと》があつた。御米《およね》はそれを冗談《じようだん》とも聞《き》き、又《また》本氣《ほんき》とも聞《き》いた。稀《まれ》には隱《かく》れた未來《みらい》を故意《こい》に呼《よ》び出《だ》す不吉《ふきつ》な言葉《ことば》とも解釋《かいしやく》した。それを口《くち》にする宗助《そうすけ》の胸《むね》の中《なか》にも、御米《およね》と同《おな》じ樣《やう》な雲《くも》が去來《きよらい》した。  月《つき》が改《あらたま》つて、役所《やくしよ》の動搖《どうえう》も是《これ》で一段落《いちだんらく》だと沙汰《さた》せられた時《とき》、宗助《そうすけ》は生《い》き殘《のこ》つた自分《じぶん》の運命《うんめい》を顧《かへ》りみて、當然《たうぜん》の樣《やう》にも思《おも》つた。又《また》偶然《ぐうぜん》の樣《やう》にも思《おも》つた。立《た》ちながら、御米《およね》を見下《みおろ》して、 「まあ助《たす》かつた」と六《む》づかし氣《げ》に云《い》つた。其《その》嬉《うれ》しくも悲《かな》しくもない樣子《やうす》が、御米《およね》には天《てん》から落《お》ちた滑稽《こつけい》に見《み》えた。  又《また》二三|日《にち》して宗助《そうすけ》の月給《げつきふ》が五|圓《ゑん》昇《のぼ》つた。 「原則通《げんそくどほ》り二|割《わり》五|分《ぶ》増《ま》さないでも仕方《しかた》があるまい。休《や》められた人《ひと》も、元給《げんきふ》の儘《まゝ》でゐる人《ひと》も澤山《たくさん》あるんだから」と云《い》つた宗助《そうすけ》は、此《この》五|圓《ゑん》に自己《じこ》以上《いじやう》の價値《かち》をもたらし歸《かへ》つた如《ごと》く滿足《まんぞく》の色《いろ》を見《み》せた。御米《およね》は無論《むろん》の事《こと》心《こゝろ》のうちに不足《ふそく》を訴《うつた》へるべき餘地《よち》を見出《みいだ》さなかつた。  翌日《あくるひ》の晩《ばん》宗助《そうすけ》はわが膳《ぜん》の上《うへ》に頭《かしら》つきの魚《うを》の、尾《を》を皿《さら》の外《そと》に躍《をど》らす態《さま》を眺《なが》めた。小豆《あづき》の色《いろ》に染《そ》まつた飯《めし》の香《かをり》を嗅《か》いだ。御米《およね》はわざ/\清《きよ》を遣《や》つて、坂井《さかゐ》の家《いへ》に引《ひ》き移《うつ》つた小六《ころく》を招《まね》いた。小六《ころく》は、 「やあ御馳走《ごちそう》だなあ」と云《い》つて勝手《かつて》から入《はひ》つて來《き》た。  梅《うめ》がちらほらと眼《め》に入《い》る樣《やう》になつた。早《はや》いのは既《すで》に色《いろ》を失《うし》なつて散《ち》りかけた。雨《あめ》は烟《けむ》る樣《やう》に降《ふ》り始《はじ》めた。それが霽《は》れて、日《ひ》に蒸《む》されるとき、地面《ぢめん》からも、屋根《やね》からも、春《はる》の記憶《きおく》を新《あらた》にすべき濕氣《しつき》がむら/\と立《た》ち上《のぼ》つた。脊戸《せど》に干《ほ》した雨傘《あまがさ》に、小犬《こいぬ》がじやれ掛《か》ゝつて、蛇《じや》の目《め》の色《いろ》がきら/\する所《ところ》に陽炎《かげろふ》が燃《も》える如《ごと》く長閑《のどか》に思《おも》はれる日《ひ》もあつた。 「漸《やうや》く冬《ふゆ》が過《す》ぎた樣《やう》ね。貴方《あなた》今度《こんだ》の土曜《どえう》に佐伯《さへき》の叔母《をば》さんの處《ところ》へ回《まは》つて、小六《ころく》さんの事《こと》を極《き》めて入《い》らつしやいよ。あんまり何時《いつ》迄《まで》も放《はふ》つて置《お》くと又《また》安《やす》さんが忘《わす》れて仕舞《しま》ふから」と御米《およね》が催促《さいそく》した。宗助《そうすけ》は、 「うん、思《おも》ひ切《き》つて行《い》つて來《き》よう」と答《こた》へた。小六《ころく》は坂井《さかゐ》の好意《かうい》で、其所《そこ》の書生《しよせい》に住《す》み込《こ》んだ。其上《そのうへ》に宗助《そうすけ》と安之助《やすのすけ》が、不足《ふそく》の所《ところ》を分擔《ぶんたん》する事《こと》が出來《でき》たらと小六《ころく》に云《い》つて聞《き》かしたのは、宗助《そうすけ》自身《じしん》であつた。小六《ころく》は兄《あに》の運動《うんどう》を待《ま》たずに、すぐ安之助《やすのすけ》に直談判《ぢきだんぱん》をした。さうして、形式的《けいしきてき》に宗助《そうすけ》の方《はう》から依頼《いらい》すればすぐ安之助《やすのすけ》が引《ひ》き受《う》ける迄《まで》に自分《じぶん》で埒《らち》を明《あ》けたのである。  小康《せうかう》は斯《か》くして事《こと》を好《この》まない夫婦《ふうふ》の上《うへ》に落《お》ちた。ある日曜《にちえう》の午《ひる》宗助《そうすけ》は久《ひさ》し振《ぶ》りに、四日目《よつかめ》の垢《あか》を流《なが》すため横町《よこちやう》の洗湯《せんたう》に行《い》つたら、五十|許《ばかり》の頭《あたま》を剃《そ》つた男《をとこ》と、三十|代《だい》の商人《あきんど》らしい男《をとこ》が、漸《やうや》く春《はる》らしくなつたと云《い》つて、時候《じこう》の挨拶《あいさつ》を取《と》り換《か》はしてゐた。若《わか》い方《はう》が、今朝《けさ》始《はじ》めて鶯《うぐひす》の鳴聲《なきごゑ》を聞《き》いたと話《はな》すと、坊《ばう》さんの方《はう》が、私《わたし》は二三|日前《にちまへ》にも一|度《ど》聞《き》いた事《こと》があると答《こた》へてゐた。 「まだ鳴《な》きはじめだから下手《へた》だね」 「えゝ、まだ充分《じゆうぶん》に舌《した》が回《まは》りません」  宗助《そうすけ》は家《うち》へ歸《かへ》つて御米《およね》に此《この》鶯《うぐひす》の問答《もんだふ》を繰《く》り返《かへ》して聞《き》かせた。御米《およね》は障子《しやうじ》の硝子《がらす》に映《うつ》る麗《うらゝ》かな日影《ひかげ》をすかして見《み》て、 「本當《ほんたう》に有難《ありがた》いわね。漸《やうや》くの事《こと》春《はる》になつて」と云《い》つて、晴《は》れ/″\しい眉《まゆ》を張《は》つた。宗助《そうすけ》は縁《えん》に出《で》て長《なが》く延《の》びた爪《つめ》を剪《き》りながら、 「うん、然《しか》し又《また》ぢき冬《ふゆ》になるよ」と答《こた》へて、下《した》を向《む》いたまゝ鋏《はさみ》を動《うご》かしてゐた。 底本:「漱石全集 第四卷 三四郎 それから 門」岩波書店    1966(昭和41)年3月25日発行    1975(昭和50)年3月10日第2刷発行 初出:「朝日新聞」    1910(明治43)年3月1日〜6月12日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「成効」と「成效」、「漸《やう》やく」「漸《やうや》く」、「僞物」と「贋物」の混在は、底本通りです。 ※底本巻末の注解は省略しました。 入力:阿部哲也 校正:染川隆俊 2018年12月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。