蘆刈 谷崎潤一郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)難波《なにわ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)廊|渡殿《わたどの》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)﨟  [#…]:返り点  (例)夜送[#レ]客 /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)しば/\ *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 ------------------------------------------------------- [#ここから2字下げ] 君なくてあしかりけりと思ふにも    いとゞ難波《なにわ》のうらはすみうき [#ここで字下げ終わり]  まだおかもとに住んでいたじぶんのあるとしの九月のことであった。あまり天気のいい日だったので、ゆうこく、といっても三時すこし過ぎたころからふとおもいたってそこらを歩いて来たくなった。遠はしりをするには時間がおそいし近いところはたいがい知ってしまったしどこぞ二、三時間で行ってこられる恰好《かっこう》な散策地でわれもひともちょっと考えつかないようなわすれられた場所はないものかとしあんしたすえにいつからかいちど水無瀬《みなせ》の宮へ行ってみようと思いながらついおりがなくてすごしていたことにこころづいた。その水無瀬の宮というのは『増《ます》かがみ』の「おどろのした」に、「鳥羽殿《とばどの》白河殿《しらかわどの》なども修理《すり》せさせ給《たま》ひて常にわたりすませ給へど猶《なお》又水無瀬といふ所にえもいはずおもしろき院づくりしてしば/\通ひおはしましつゝ春秋の花もみぢにつけても御心ゆくかぎり世をひゞかしてあそびをのみぞしたまふ。所がらもはる/″\と川にのぞめる眺望いとおもしろくなむ。元久《げんきゅう》の頃詩に歌をあはせられしにもとりわきてこそは [#ここから3字下げ] 見わたせば山もとかすむみなせ川    ゆふべは秋となにおもひけむ [#ここで字下げ終わり] かやぶきの廊|渡殿《わたどの》などはる/″\と艶《えん》にをかしうせさせ給へり。御前の山より滝おとされたる石のたゞずまひ苔《こけ》ふかきみ山木に枝さしかはしたる庭の小松もげに/\千世《ちよ》をこめたるかすみのほらなり。前栽《せんざい》つくろはせ給へる頃人々あまた召して御遊《ぎょゆう》などありける後|定家《ていか》の中納言《ちゅうなごん》いまだ下﨟《げろう》なりける時に奉られける [#ここから3字下げ] ありへけむもとの千年《ちとせ》にふりもせで    わがきみちぎるみねのわかまつ 君が代にせきいるゝ庭をゆく水の    いはこすかずは千世も見えけり [#ここで字下げ終わり] かくて院のうへはともすれば水無瀬殿にのみ渡らせ給ひて琴笛の音につけ花もみぢのをり/\にふれてよろづの遊びわざをのみ尽しつゝ御心ゆくさまにて過させ給ふ」という記事の出ている後鳥羽院の離宮があった旧蹟のことなのである。むかしわたしは始めて『増鏡』を読んだときからこの水無瀬のみやのことがいつもあたまの中にあった。見わたせばやまもとかすむ水無瀬川ゆふべは秋となにおもひけむ、わたしは院のこの御歌がすきであった。あの「霧に漕《こ》ぎ入るあまのつり舟」という明石《あかし》の浦《うら》の御歌や「われこそは新島守《にいしまもり》よ」という隠岐《おき》のしまの御歌などいんのおよみになったものにはどれもこれもこころをひかれて記憶にとどまっているのが多いがわけてこの御うたを読むと、みなせがわの川上をみわたしたけしきのさまがあわれにもまたあたたかみのあるなつかしいもののようにうかんでくる。それでいて関西の地理に通じないころは何処か京都の郊外であるらしくかんがえながらはっきりところをつきとめようという気もなかったのであるがその御殿の遺跡は山城《やましろ》と摂津《せっつ》のくにざかいにちかい山崎の駅から十何丁かの淀川《よどがわ》のへりにあって今もそのあとに後鳥羽院を祭った神社が建っていることを知ったのはごく最近なのである。で、そのみなせのみやをとぶらうのがこの時刻から出かけるのにはいちばん手頃《てごろ》であった。やまざきまでなら汽車で行ってもすぐだけれども阪急で行って新京阪《しんけいはん》にのりかえればなお訳はない。それにちょうどその日は十五夜にあたっていたのでかえりに淀川べりの月を見るのも一興である。そうおもいつくとおんなこどもをさそうような場所がらでもないからひとりでゆくさきも告げずに出かけた。  山崎は山城の国|乙訓《おとくに》郡にあって水無瀬の宮趾《みやあと》は摂津の国三島郡にある。されば大阪の方からゆくと新京阪の大山崎でおりて逆に引きかえしてそのおみやのあとへつくまでのあいだにくにざかいをこすことになる。わたしはやまざきというところは省線の駅の附近をなにかのおりにぶらついたことがあるだけでこのさいごくかいどうを西へあるいてみるのは始めてなのである。すこしゆくとみちがふたつにわかれて右手へ曲ってゆく方のかどに古ぼけた石の道標が立っている。それは芥川《あくたがわ》から池田を経て伊丹《いたみ》の方へ出るみちであった。荒木村重《あらきむらしげ》や池田|勝入斎《しょうにゅうさい》や、あの『信長記《しんちょうき》』にある戦争の記事をおもえばそういうせんごくの武将どもが活躍したのは、その、いたみ、あくたがわ、やまざきをつなぐ線に沿うた地方であっていにしえはおそらくそちらの方が本道であり、この淀川のきしをぬってすすむかいどうは舟行《しゅうこう》には便利だったであろうが蘆荻《ろてき》のおいしげる入り江や沼地が多くってくがじの旅にはふむきであったかも知れない。そういえば江口の渡しのあとなどもいま来るときに乗ってきた電車の沿線にあるのだときいている。げんざいではその江口も大大阪《だいおおさか》の市内にはいり山崎も去年の京都市の拡張以来大都会の一部にへんにゅうされたけれども、しかし京と大阪の間は気候風土の関係が阪神間のようなわけには行かないらしく田園都市や文化住宅地がそうにわかにはひらけそうにもおもえないからまだしばらくは草ぶかい在所《ざいしょ》のおもむきをうしなうことがないであろう。忠臣蔵にはこの近くのかいどうに猪《いのしし》や追《お》い剥《は》ぎが出たりするように書いてあるからむかしはもっとすさまじい所だったのであろうがいまでもみちの両側にならんでいる茅《かや》ぶき屋根の家居《いえい》のありさまは阪急沿線の西洋化した町や村を見馴《みな》れた眼にはひどく時代がかっているようにみえる。「なき事によりてかく罪せられたまふをからくおぼしなげきて、やがて山崎にて出家せしめ給ひて」と、『大鏡《おおかがみ》』では北野の天神が配流《はいる》のみちすがら此処《ここ》で仏門に帰依《きえ》せられて「きみがすむやどの梢《こずえ》をゆく/\と」というあの歌をよまれたことになっている。さようにこの土地はずいぶん古い駅路なのである。たぶん平安のみやこが出来たのとおなじころに設けられた宿場《しゅくば》かもしれない。わたしはそんなことをかんがえながら旧幕の世の空気がくらい庇《ひさし》のかげにただよっているような家作《やづく》りを一軒々々のぞいてあるいた。  宮居《みやい》のあとはみなせ川であろうとおもわれる川にかかっている橋をこえてそれからまたすこし行ったあたりの街道からひだりへ折れたところにあった。承久《じょうきゅう》の乱にひとしくふしあわせな運命におあいなされた後鳥羽《ごとば》、土御門《つちみかど》、順徳の三帝を祭神として、いまはそこに官幣中社《かんぺいちゅうしゃ》が建っているのだが、やしろのたてものや境内《けいだい》の風致《ふうち》などはりっぱな神社仏閣に富むこの地方としてはべつにとりたててしるすほどでもない。ただまえに挙げた『増《ます》かがみ』のものがたりをあたまにおいてかまくらの初期ごろにここで当年の大宮人《おおみやびと》たちが四季おりおりの遊宴をもよおしたあとかとおもうと一木一石にもそぞろにこころがうごかされる。わたしは路傍にこしかけて一ぷくすってからひろくもあらぬ境内をなんということもなく往ったり来たりした。そこはかいどうからほんの僅《わず》か引っ込んでいるだけだけれども籬《まがき》にとりどりの秋草を咲かせた百姓家が点々と散らばっている奥の、閑静な、人の眼につかない、こぢんまりした袋のような地面なのである。でも後鳥羽院の御殿というのはこれだけの狭い面積のなかにあったのではなく、ここからずっとさっき通って来た水無瀬川のきしまでつづいていたのであろう。そして水のほとりの楼《たかどの》のうえからかまたはお庭をそぞろあるきなさりながらか川上の方を御覧になって「やまもとかすむみなせ川」の感興をおもらしになったのであろう。「夏の頃水無瀬殿の釣殿《つりどの》にいでさせ給ひて、ひ水めして水飯《すいはん》やうのものなど若き上達部《かんだちめ》殿上人《てんじょうびと》どもにたまはさせておほみきまゐるついでにもあはれいにしへの紫式部こそはいみじくありけれ、かの源氏物語にも近き川のあゆ西山より奉《たてまつ》れるいしぶしやうのもの御前に調じてとかけるなむすぐれてめでたきぞとよ、只今《ただいま》さやうの料理つかまつりてむやなどのたまふを秦《はた》のなにがしとかいふ御随身《みずいじん》高欄のもとちかく候ひけるがうけたまはりて池の汀《みぎわ》なるさゝを少ししきて白きよねを水に洗ひて奉れり。ひろはゞ消えなむとにや、これもけしかるわざかなとて御衣ぬぎてかづけさせたまふ。御《おん》かはらけたび/\きこしめす」とあるのを思いあわせれば、その釣殿の池の水がやがて川の方に連絡していたのではないかと想像される。それに、ここから南の方にあたって恐らくこの神社のうしろ数丁ぐらいのところには淀川がながれているはずではないか。そのながれはいま見えないけれどもむこうぎしの男山八幡《おとこやまはちまん》のこんもりした峰があいだに大河をさしはさんでいるようでもなくつい眉《まゆ》の上へ落ちかかるように迫っている。わたしは眼をあげてその石清水《いわしみず》の山かげを仰ぎ、それとさしむかいに神社の北の方にそびえている天王山のいただきをのぞんだ。かいどうを歩いているときは気が付かなかったが此処へ来てから四方をながめると、わたしは今南北の山が屏風《びょうぶ》のように空をかぎっている谷あいの鍋《なべ》の底のような地点に立っている。なるほど、王朝の或る時代に山崎に関所が設けられていたことも西から京へ攻め入るのにこのあたりが要害の地であったこともこういう山河の形勢を見るとおのずから合点《がてん》されるのである。ひがしの方の京都を中心とする山城の平野と西の方の大阪を中心とする摂河泉《せっかせん》の平野とがここで狭苦しくちぢめられていてそのあいだをひとすじの大河がながれてゆく。されば京と大阪とは淀川でつながっているけれども気候風土はここを境界にしてはっきりと変る。大阪の人の話をきくと京都に雨が降っていても山崎から西は晴れていることがあり冬など汽車が山崎を過ぎると急に温度の下ることが分るという。そういえばところどころに竹藪《たけやぶ》の多い村落のけしき、農家の家のたてかた、樹木の風情《ふぜい》、土の色など、嵯峨《さが》あたりの郊外と似通《にかよ》っていてまだここまでは京都の田舎《いなか》が延びて来ているという感じがする。  わたしはやしろの境内を出るとかいどうの裏側を小径《こみち》づたいにふたたびみなせ川の川のほとりへ引き返して堤の上にあがってみた。川上の方の山のすがた、水のながめは、七百年の月日のあいだに幾分かちがって来たであろうがそれでも院の御うたを拝してひそかに胸にえがいていたものといま眼前にみる風光とはおおよそ似たり寄ったりであった。わたしはだいたいこういう景のところであろうとつねから考えていたのである。それは峨々《がが》たる峭壁《しょうへき》があったり岩を噛《か》む奔湍《ほんたん》があったりするいわゆる奇勝とか絶景とかの称にあたいする山水ではない。なだらかな丘と、おだやかな流れと、それらのものを一層やんわりぼやけさせている夕もやと、つまり、いかにも大和絵《やまとえ》にありそうな温雅で平和な眺望なのである。なべて自然の風物というものは見る人のこころごころであるからこんな所は一顧《いっこ》のねうちもないように感ずる者もあるであろう。けれどもわたしは雄大でも奇抜でもないこういう凡山凡水に対する方がかえって甘い空想に誘われていつまでもそこに立ちつくしていたいような気持にさせられる。こういうけしきは眼をおどろかしたり魂を奪ったりしない代りに人なつッこいほほえみをうかべて旅人を迎え入れようとする。ちょっと見ただけではなんでもないが長く立ち止まっているとあたたかい慈母のふところに抱かれたようなやさしい情愛にほだされる。殊《こと》にうらさびしいゆうぐれは遠くから手まねきしているようなあの川上の薄靄《うすもや》の中へ吸い込まれてゆきたくなる。それにつけてもゆふべは秋と何思ひけむと後鳥羽院が仰っしゃったようにもしこのゆうぐれが春であってあのおっとりとした山の麓《ふもと》にくれないの霞《かすみ》がたなびき、川の両岸、峰や谷のところどころに桜の花が咲いていたらどんなにかまたあたたかみが加わるであろう。思うに院のおながめになったのはそういうけしきであったに違いない。だがほんとうの優美というものはたしなみの深い都会人でなければ理解できないものであるから平凡のうちにおもむきのある此処《ここ》の風致もむかしの大宮人の雅懐《がかい》がなければ詰まらないというのが当然であるかも知れない。わたしはおいおい夕闇《ゆうやみ》の濃くなりつつある堤のうえにたたずんだままやがて川下の方へ眼を移した。そして院が上達部《かんだちめ》や殿上人《てんじょうびと》と御一緒に水飯《すいはん》を召しあがったという釣殿はどのへんにあったのだろうと右の方の岸を見わたすとそのあたりはいちめんに鬱蒼《うっそう》とした森が生《お》いしげりそれがずうっと神社のうしろの方までつづいているのでその森のある広い面積のぜんたいが離宮の遺趾《いし》であることが明かに指摘できるのであった。のみならずここからは淀《よど》の大川も見えていて水無瀬川の末がそれに合流しているのが分る。たちまちわたしには離宮の占めていた形勝《けいしょう》の地位がはっきりして来た。院の御殿は南に淀川、東に水無瀬川の水をひかえ、この二つの川の交わる一角に拠《よ》って何万坪という宏荘《こうそう》な庭園を擁していたにちがいない。いかさまこれならば伏見《ふしみ》から船でお下《くだ》りになってそのまま釣殿の勾欄《こうらん》の下へ纜《ともづな》をおつなぎになることも出来、都との往復も自由であるから、ともすれば水無瀬殿にのみ渡らせ給ひてという『増鏡』の本文と符号している。わたしは幼年のころ、橋場、今戸、小松島、言問《こととい》など、隅田川《すみだがわ》の両岸に数寄《すき》をこらした富豪の別荘が水にのぞんで建っていたことを図《はか》らずもおもいうかべた。おそれ多いたとえのようではあるが此処の御殿にいらしってときどき風流なうたげを催され、「あはれいにしへの紫式部こそはいみじくありけれ、只今さやうの料理つかまつりてむや」と仰せられたり、「ひろはゞ消えなむとにや、これもけしかるわざかな」と随身《ずいじん》の男に祝儀《しゅうぎ》をおつかわしになったりした院の御様子はどこか江戸の通人《つうじん》に似たようなふしもあるではないか。それにまた情趣に乏しい隅田川などとはちがってあしたにゆうべに男山の翠巒《すいらん》が影をひたしそのあいだを上《のぼ》り下《くだ》りの船がゆきかう大淀《おおよど》の風物はどんなにか院のみごころをなぐさめ御ざしきの興を添えたであろう。後年幕府追討のはかりごとにやぶれさせ給い隠岐《おき》のしまに十九年のうきとしつきをお送りなされて波のおと風のひびきにありし日のえいがをしのんでいらしった時代にももっともしげく御胸の中を往来《ゆきき》したものはこの附近の山容水色とここの御殿でおすごしになった花やかな御遊《ぎょゆう》のかずかずではなかったであろうか。などと追懐にふけっているとわたしの空想はそれからそれへと当時のありさまを幻にえがいて、管絃《かんげん》の余韻、泉水のせせらぎ、果ては月卿雲客《げっけいうんかく》のほがらかな歓語のこえまでが耳の底にきこえてくるのであった。そしていつのまにかあたりに黄昏《たそがれ》が迫っているのにこころづいて時計を取り出してみたときはもう六時になっていた。ひるまのうちは歩くとじっとり汗ばむほどの暖かさであったが日が落ちるとさすがに秋のゆうぐれらしい肌《はだ》寒い風が身にしみる。わたしは俄《にわ》かに空腹をおぼえ、月の出を待つあいだに何処《どこ》かで夕餉《ゆうげ》をしたためておく必要があることを思って程《ほど》なく堤の上を街道の方へ引き返した。  もとより気の利《き》いた料理屋などのある町でないのは分っていたから一時のしのぎに体をぬくめさえすればいいのでとある饂飩屋《うどんや》の灯を見つけて酒を二合ばかり飲み狐《きつね》うどんを二杯たべて出がけにもう一本|正宗《まさむね》の罎《びん》を熱燗《あつかん》につけさせたのを手に提《さ》げながら饂飩屋の亭主がおしえてくれた渡し場へ出る道というのを川原《かわら》の方へ下って行った。亭主はわたしが月を見るために淀川へ舟を出したいものだがというと、いやそれならば直《じ》きこの町のはずれから向う岸の橋本へわたす渡船《とせん》がござります、渡船とは申しましても川幅が広うござりましてまん中に大きな洲《す》がござりますので、こちらの岸から先ずその洲へわたし、そこからまた別の船に乗り移って向う岸へおわたりになるのですからそのあいだに川のけしきを御覧になってはとそうおしえてくれたのである。橋本には遊廓《ゆうかく》がござりまして渡し船はちょうどその遊廓のある岸辺《きしべ》に着きますので、夜おそく十時十一時頃までも往来しておりますからお気に召したらいくたびでも行きかよいなされてゆっくりお眺めになることも出来ますとなおもいいそえてくれた親切を時に取ってうれしくおもいながらわたしはみちみちひいやりした夜風にほろよいの頬《ほお》を吹かせつつあるいた。渡船場までの路《みち》は聞いたよりは遠い感じがしたけれども、辿《たど》りついてみると、なるほど川のむこうに洲がある。その洲の川下の方の端はつい眼の前で終っているのが分るのであるが、川上の方は渺茫《びょうぼう》としたうすあかりの果てに没して何処までもつづいているように見える。ひょっとするとこの洲は大江《たいこう》の中に孤立している島ではなくてここで桂川《かつらがわ》が淀の本流に合している剣先なのではないか。なんにしても木津、宇治、加茂、桂の諸川がこのあたりで一つになり、山城、近江《おうみ》、河内《かわち》、伊賀、丹波等、五カ国の水がここに集まっているのである。むかしの『澱川《よどがわ》両岸一覧』という絵本に、これより少し上流に狐の渡しという渡船場があったことを記して渡《わたり》の長サ百十|間《けん》と書いているからここはそれよりもっと川幅がひろいかも知れない。そして今いう洲は川のまん中にあるのではなくずっとこちら岸に近いところにある。河原の砂利に腰をおろして待っているとはるかな向うぎしに灯のちらちらしている橋本の町から船がその洲へ漕《こ》ぎ寄せる、と、客は船を乗り捨てて、洲を横ぎって、こちら側の船の着いている汀《みぎわ》まで歩いて来る。思えば久しく渡しぶねというものに乗ったことはなかったが子供の時分におぼえのある山谷《さんや》、竹屋、二子《ふたこ》、矢口《やぐち》などの渡しにくらべてもここのは洲を挟《はさ》んでいるだけに一層優長なおもむきがあっていまどき京と大阪のあいだにこんな古風な交通機関の残っていたことが意外でもあり、とんだ拾いものをしたような気がするのであった。  前に挙げた淀川両岸の絵本に出ている橋本の図を見ると月が男山のうしろの空にかかっていてをとこやま峰さしのぼる月かげにあらはれわたるよどの川舟という景樹《かげき》の歌と、新月やいつをむかしの男山という其角《きかく》の句とが添えてある。わたしの乗った船が洲に漕ぎ寄せたとき男山はあだかもその絵にあるようにまんまるな月を背中にして鬱蒼《うっそう》とした木々の繁《しげ》みがびろうどのようなつやを含み、まだ何処やらに夕ばえの色が残っている中空《なかぞら》に暗く濃く黒ずみわたっていた。わたしは、さあこちらの船へ乗って下さいと洲のもう一方の岸で船頭が招いているのを、いや、いずれあとで乗せてもらうがしばらく此処で川風に吹かれて行きたいからとそういい捨てると露にしめった雑草の中を蹈《ふ》みしだきながらひとりでその洲の剣先の方へ歩いて行って蘆《あし》の生《は》えている汀《みぎわ》のあたりにうずくまった。まことに此処は中流に船を浮かべたのも同じで月下によこたわる両岸のながめをほしいままにすることが出来るのである。わたしは月を左にし川下の方を向いているのであったが川はいつのまにか潤《うる》おいのあるあおい光りに包まれて、さっき、ゆうがたのあかりの下で見たよりもひろびろとしている。洞庭湖《どうていこ》の杜詩《とし》や琵琶行《びわこう》の文句や赤壁《せきへき》の賦《ふ》の一節など、長いこと想い出すおりもなかった耳ざわりのいい漢文のことばがおのずから朗々《ろうろう》たるひびきを以《もっ》て唇《くちびる》にのぼって来る。そういえば「あらはれわたるよどの川舟」と景樹が詠《よ》んでいるようにむかしはこういう晩にも三十|石船《こくぶね》をはじめとして沢山の船がここを上下していたのであろうが今はあの渡船《とせん》がたまに五、六人の客を運んでいる外にはまったく船らしいものの影もみえない。わたしは提げてきた正宗の罎《びん》を口につけて喇叭《らっぱ》飲みしながら潯陽江頭《じんようこうとう》|夜送[#レ]客《よるきゃくをおくる》、楓葉荻花秋瑟々《ふうようてきかあきしつしつ》と酔いの発するままにこえを挙げて吟じた。そして吟じながらふとかんがえたことというのはこの蘆荻《ろてき》の生《お》いしげるあたりにもかつては白楽天《はくらくてん》の琵琶行に似たような情景がいくたびか演ぜられたであろうという一事であった。江口や神崎がこの川下のちかいところにあったとすればさだめしちいさな葦分《あしわ》け舟《ぶね》をあやつりながらここらあたりを徘徊《はいかい》した遊女も少くなかったであろう。王朝の頃|大江匡衡《おおえのまさひら》は『見遊女序《ゆうじょをみるのじょ》』を書いてこの川筋の繁昌《はんじょう》をしるし婬風《いんぷう》をなげいているなかに、河陽ハ則《すなわ》チ山、河、摂、三州ノ間ニ介シ、天下ノ要津《ようしん》ナリ、西ヨリ、東ヨリ、南ヨリ、北ヨリ、往反ノ者|此《こ》ノ路ニ率《したが》ヒ由《よ》ラザルハナシ矣、其《そ》ノ俗天下ニ女色ヲ衒《てら》ヒ売ル者、老少提結シ、邑里《ゆうり》相望ミ、舟ヲ門前に維《つな》ギ、客ヲ河中ニ遅《ま》チ、少《わか》キ者ハ脂粉|謌咲《かしょう》シテ以テ人心ヲ蕩《まど》ハシ、老イタル者ハ簦《からかさ》ヲ担《にな》ヒ竿《さお》ヲ擁シテ以テ己《おの》レガ任トナスといひ、於戯《ああ》、翠帳紅閨《すいちょうこうけい》、万事ノ礼法異ナリトイヘドモ、舟中浪上、一生ノ観会《かんかい》ハ是《こ》レ同ジ、余此ノ路ヲ歴《へ》テ此ノ事ヲ見ル毎《ごと》ニ未《いま》ダ嘗《かつ》テ之《これ》ガタメニ長大息セザルナシ矣といっている。また匡衡《まさひら》から数世の孫にあたる大江|匡房《まさふさ》も『遊女記』というものを書いてこの沿岸のなまめかしくもにぎやかな風俗を述べ、江河南北、邑々処々《ゆうゆうしょしょ》、分流シテ河内ノ国ニ向フ、之《これ》ヲ江口ト謂《い》フ、蓋《けだ》シ典薬寮味原樹、掃部《かもん》寮大庭ガ庄《しょう》ナリ、摂津ノ国ニ到《いた》レバ神崎|蟹島《かにしま》等ノ地アリ、此門連戸、人家絶ユルコトナク、倡女《しょうじょ》群ヲ成シテ扁舟《へんしゅう》ニ棹《さお》サシ、舶ヲ看撿《かんけん》シテ以テ枕席《ちんせき》ヲ薦《すす》ム、声ハ渓雲ヲ過ギ、韻ハ水風ニ飄《ただよ》ヒ、経廻《けいかい》ノ人、家ヲ忘レザルハナシといい、釣翁《ちょうおう》商客、舳艫《じくろ》相連ナリテ殆《ほと》ンド水ナキガ如シ、蓋シ天下第一ノ楽地ナリともいっている。わたしはいまおぼろげな記憶の底をさぐってそれらの文章のところどころをきれぎれにおもいうかべながら冴《さ》えわたる月のひかりの下を音もなくながれてゆく淋しい水の面をみつめた。人には誰にでも懐古の情があるであろう。が、よわい五十に近くなるとただでも秋のうらがなしさが若いころには想像もしなかった不思議な力で迫ってきて葛《くず》の葉の風にそよぐのを見てさえ身にしみじみとこたえるものがあるのをどうにも振りおとしきれないのに、ましてこういう晩にこういう場所にうずくまっていると人間のいとなみのあとかたもなく消えてしまう果敢《はか》なさをあわれみ過ぎ去った花やかな世をあこがれる心地《ここち》がつのるのである。『遊女記』の中には、観音、如意《にょい》、香爐、孔雀《くじゃく》などという名高い遊女のいたことが記してあり、そのほかにも小観音、薬師、熊野《くまの》、鳴渡《なると》などという名が伝わっているがそれらの水の上の女どもの多くは何処へ行ってしまったのであろうか。かのおんなどもがその芸名に仏くさい名前をつけていたのは婬《いん》をひさぐことを一種の菩薩行《ぼさつぎょう》のように信じたからであるというが、おのれを生身《しょうじん》の普賢《ふげん》になぞらえまたあるときは貴《とうと》い上人《しょうにん》にさえ礼拝されたという女どものすがたをふたたびこの流れのうえにしばしうたかたの結ばれるが如く浮かべることは出来ないであろうか。「江口|桂本《かつらもと》などいふ遊女がすみか見めぐれば家は南北の岸にさしはさみて心は旅人の思ふさまにさもはかなきわざにてさてもむなしく此の世をさりて来世はいかならん、これも前世の遊女にてあるべき宿業《しゅくごう》の侍《はべ》りけるやらん、露の身のしばしの程をわたらんとて仏の大いにいましめ給へるわざをするかな、我が身一つの罪はせめていかゞせん、多くの人をさへ引き損ぜんこといとゞうたてかるべきには侍らずや、しかあれどもかの遊女の中に多く往生《おうじょう》を遂《と》げ浦人《うらびと》の物の命を断つものゝ中にあって終《つい》にいみじき侍りし」と西行《さいぎょう》がいっているようにその女どもは今は弥陀《みだ》の国に生れていつの世にも変らぬものは人間のあさましさであることを憫笑《びんしょう》しているのであろうか。  ひとりそんなふうにかんがえつづけていたわたしはあたまの中に一つ二つ腰折《こしおれ》がまとまりかけたのでわすれないうちにと思ってふところから手帳を出して月あかりをたよりに鉛筆をはしらせて行った。わたしは、まだいくらか残っていた酒に未練をおぼえて一と口飲んでは書き一と口飲んでは書きしたが最後の雫《しずく》をしぼってしまうと罎を川面《かわも》へほうり投げた。と、そのとき近くの葦《あし》の葉がざわざわとゆれるけはいがしたのでそのおとの方を振り向くと、そこに、やはり葦のあいだに、ちょうどわたしの影法師のようにうずくまっている男があった。こちらはおどろかされたので、一瞬間、すこし無躾《ぶしつけ》なくらいにまじまじと風態《ふうてい》を見すえるとその男はべつにたじろぐ気色《けしき》もなくよい月でござりますなとさわやかなこえで挨拶《あいさつ》して、いや、御風流なことでござります、じつはわたくしも先刻から此処におりましたなれども御清境のおさまたげをしてはと存じてさしひかえておりましたがただいま琵琶行をおうたいなされましたのを拝聴しまして自分もなにかひとくさり唸《うな》ってみたくなりました、御迷惑でござりましょうがしばらくお耳を汚させてくださいませぬかという。見も知らぬ人がこういう風に馴《な》れ馴れしく話しかけるのは東京ではめったにないことだけれどもちかごろ関西人のこころやすだてをあやしまぬばかりかおのれもいつか土地の風俗に化せられてしまっているのでそれは御ていねいなことです、ぜひ聞かせていただきましょうと如才なくいうとその男はきゅうに立ってまたざわざわとあしの葉を押し分けてわたしの傍へ来てすわりながら、失礼でござりますがひとついかがでござりますと自然木《じねんぼく》の杖《つえ》に結《ゆ》いつけてある紐《ひも》をほどいて何かを取り出した。みれば左の手に瓢箪《ひょうたん》を持ち右の手にちいさな塗り物の盃《さかずき》を持ってわたしに突きつけているのである。さきほど罎をお捨てになったようでござりましたがこちらにはまだこれだけござりますといいながらひょうたんを振ってみせて、さ、へたな謡《うた》いをきいていただく代りにこれを受けて下さりませ、せっかくの酔いがおさめになっては興がなくなります、ここは川風がつめとうござりますからちと召し上りすごしても気づかいはござりますまいと否応《いやおう》なしにその盃を受けさせて、とく、とく、とく、と、ここちよい音をさせてつぐのである。これはかたじけない、ではえんりょなく戴《いただ》きますといって、わたしはその一杯をきよく乾《ほ》した。なんという酒かわからないけれども罎詰めの正宗を飲んだあとでは程よく木香《きが》の廻っているまったりした冷酒の味が俄《にわ》かに口の中をすがすがしくさせてくれるのであったが、さあ、もう一献《いっこん》おすごしなされませ、さあもう一献と矢つぎばやに三杯までかさねさせてその三杯目の酒をわたしが飲んでいるあいだにやおら「小督《こごう》」をうたい出した。すこし酔いすぎているせいかいきぎれがしてくるしそうにきこえる。それに美声というほどでもなく音量も乏しいのであるが、さびをふくんだ、熟練を積んだこえではある。とにかく謡いぶりが落ちついているところをみると相当に年数をかけているのではあろう。しかしそんなことよりも見も知らぬ人のまえでこんな工合《ぐあい》に気やすくうたい出してうたうと直《す》ぐにその謡《うた》っているものの世界へ己《おの》れを没入させてしまい何の雑念にも煩《わずら》わされないといった風な飄逸《ひょういつ》な心境がきいているうちに自然とこちらへのりうつるので、わざは上達しないでもこういう心境をやしなうことが出来るものならば遊芸をならうということも徒爾《とじ》ではないように思われてくる。いや、結構でございました、おかげさまでいい保養をしましたというとせわしそうに息をはずませて先ず乾《かわ》いた口をうるおしてからまた盃をわたしにさしてさあいま一つおかさねという。まぶかに被《かぶ》っている鳥打《とりうち》帽子のひさしが顔の上へ蔭をつくっているので月あかりでは仔細《しさい》にたしかめにくいけれどもとしはわたしと同年輩ぐらいであろう、痩《や》せた、小柄な体に和服の着流《きなが》しで通行《みちゆき》のように仕立てたコートを着ている。失礼ながら大阪からおいでになりましたかと言葉のふしぶしに京よりは西のなまりがあるのでたずねると、さようでござります、大阪の南の方にささやかな店を持ちまして骨董《こっとう》をあきなっておりますという。散策のおかえりがけででもありますかというと、いえ、いえ、今夜の月をみるつもりで夕刻から出て来たのでござりますが例年ならば京阪電車で出かけますところをことしは廻りみちをして、新京阪へ乗りまして、このわたしをわたりましたのが仕合わせでござりましたと腰のあいだから煙草《タバコ》入れの筒を抜き取って煙管《キセル》にきざみをつめながらいうのである。と仰っしゃるとまいねん何処《どこ》ぞ場所をさだめて月見にいらっしゃるのですか。さようでござります、と、そういってからたばこに火をつけるあいだ黙っていてまいねんわたくしは巨椋《おぐら》の池へ月見にまいるのでござりますがこよいはからずもこのところを通りましてこの川中の月をみることが出来ましたのは何よりでござります、それと申しますのもあなたさまが此処にやすんでいらっしゃるのをお見かけいたしましたばかりになるほどこれは恰好《かっこう》な場所だと気がつきましたようなわけでひとえにあなたさまのおかげでござります、まことに大淀の水を左右にひかえてあしのあいだから眺める月はまたかくべつでござりますなと吸いがらを根つけの上におとしてあたらしくつめた煙草へその火を移しながら、なんぞ、よい句がお出来になりましたらば拝聴させて下さりませという。いやいや、おはずかしい出来ばえでなかなかおきかせするようなものではないのですとあわてて手帳をふところにしまい込むと、ま、そう仰っしゃらずにといいながらも強《し》いては争わず、もうそのことは忘れたように、江月《こうげつ》照ラシ松風《しょうふう》吹ク、永夜《えいや》清宵《せいしょう》何ノ所為《しょい》ゾと悠々《ゆうゆう》たる調子で吟じた。時に、と、こんどはわたしが尋ねた、あなたは大阪のお方であればこのへんの地理や歴史にお委《くわ》しいことと存じます、とすると、お伺いしたいのはいまわたしどもがこうしているこの洲のあたりにもむかしは江口の君のような遊女どもが舟を浮かべていたのではないでしょうか、この月に対してわたしの眼前にほうふつと現れてくるものは何よりもその女どものまぼろしなのです、わたしはさっきからそのまぼろしを追うこころを歌にしようとしていたのですけれどうまいぐあいに纏《まと》まらないので困っていたのです。されば、誰しも人のおもうところは似たようなものでござりますなとその男は感に堪《た》えたようにいって、いまわたくしもそれと同じようなことをかんがえておりました。わたくしもまたこの月を見まして過ぎ去った世のまぼろしをえがいていたのでござりますとしみじみとそういうのである。お見受け申すところあなたも御年輩のようですがとわたしはその男の顔をのぞきこみながらいった、おたがいにこれは年のせいですな、わたしなぞ、ことしは去年より、去年はおととしより、一年々々と、秋のさびしさというか、あじきなさというか、まあ一とくちにいえばどこからともなくおとずれてくるまったく理由のない季節の悲しみというようなものを感じることが強くなります、風のおとにぞおどろかれぬるといいすだれうごかし秋のかぜ吹くという、ああいう古歌のほんとうの味がわかってくるのはわれわれのとしになってからです、さればといってかなしいから秋はいやかというのにあながちそうでもありませぬ、若い時分には一年じゅうで春がいちばん好きでしたけれどもいまのわたしには春よりも秋のくるのが待たれます、人間はとしをとるにつれて、一種のあきらめ、自然の理法にしたがって滅んでゆくのをたのしむといった風な心境がひらけてきて、しずかな、平均のとれた生活を欲するようになるのですね、ですから花やかなけしきを眺めるよりも淋《さび》しい風物に接する方が慰められ現実の逸楽をむさぼるかわりに過去の逸楽の思い出にふけるのがちょうど相応するようになるのではありますまいか、つまり、往時をしたう心持は若い人には現在と何のかんけいもない空想にすぎませんけれども老人にとってはそれ以外に現在を生きてゆくみちがないわけです。いかにも、いかにも、仰っしゃるとおりでござりますとそのおとこはしきりにうなずいて、普通のお方でもお年をめすとそうなるのがあたりまえでござりましょうがわけてわたくしはまだおさない時分十五夜の晩に毎年父につれられて月下の路を二里も三里もあるかせられたおぼえがあるものでござりますからいまだに十五夜になりますとそのころのことがおもい出されるのでござります、そういえば父も今あなたさまが仰っしゃったようなことを申してお前にはこの秋の夜のかなしいことがわかるまいがいずれは分るときがくるぞとよくそんなふうに申したものでござりますという。はて、それはどういうわけなのです、あなたのお父上は十五夜の月がそんなにもお好きだったのですか、そうしてまたおさないあなたをつれて二里も三里ものみちをあるかれたというのは。さあ、はじめてつれて行かれましたときは七つか八つでござりましたからなにもわかりませなんだけれどもわたくしの父は路次《ろうじ》のおくの小さな家に住んでおりまして母は二、三年まえに死去いたし親子二人ぎりでくらしておりましたのでわたくしをおいて出あるくことが出来なんだのでもござりましょう、なんでもわたくしは、坊よ、月見につれて行ってやろうといわれて明るいうちから家を出ましてまだ電車のない時分でござりましたから八軒屋から蒸汽船に乗ってこの川すじをさかのぼったことをおぼえております、そして伏見《ふしみ》で船を上ったのでござりましたがはじめはそこが伏見の町だということも知りませなんだ、ただ父が堤のうえを何処までもあるいていきますのでだまってついてまいりましたらひろびろとした池のあるところへ出ました、いまかんがえるとそのとき歩かせられた堤というのは巨椋堤《おぐらづつみ》なのでござりまして池は巨椋の池だったのでござります、それゆえあのみちのりは片道一里半か二里はござりましたでしょう。ですが、と、わたしは口をはさんでいった、なんのためにあんなところをあるいたのです、池水に月のうつるのをながめてあてもなしにぶらついたというわけなのですか。さればでござります、ときどき父はつつみのうえに立ちどまってじっと池のおもてをみつめて、坊よ、よいけしきであろうと申しますので子供ごころにもなるほどよいけしきだなあと思ってかんしんしながらついて参りますと、とある大家《たいけ》の別荘のような邸《やしき》のまえを通りましたら琴や三味線や胡弓《こきゅう》のおとが奥ぶかい木々のあいだから洩《も》れてまいるのでござりました、父は門のところにたたずんでしばらく耳をすましておりましてやがて何を思いつきましたのかそのやしきの広い構えについて塀《へい》のまわりをぐるぐる廻っていきますので、またわたくしもついていきますとだんだん琴や三味線のねいろがはっきりときこえてまいりほのかな人声などもいたしまして奥庭の方へ近づいていることが分るのでござりました、そして、もうその辺《へん》は塀《へい》が生垣《いけがき》になっておりましたので父は生垣のすこしまばらになっている隙間《すきま》から中をのぞいてどういうわけか身うごきもせずにそのままそこをはなれないものでござりますからわたくしも葉と葉のあいだへ顔をあててのぞいてみましたら芝生《しばふ》や築山《つきやま》のあるたいそうな庭に泉水がたたえてありまして、その水の上へむかしの泉殿《いずみどの》のようなふうに床を高くつくって欄杆《らんかん》をめぐらした座敷がつき出ておりまして五、六人の男女が宴《うたげ》をひらいておりました、欄杆の端にちかくいろいろとおもりものをした台が据えてありましてお神酒《みき》や燈明《とうみょう》がそなえてありすすきや萩《はぎ》などが生けてありますのでお月見の宴会をしているらしいのでござりましたが、琴をひいているのは上座の方にいる女の人で三味線は島田《しまだ》に結った腰元《こしもと》風の女中がひいておりました、それから撿挍《けんぎょう》か遊芸の師匠らしい男がいてそれが胡弓をひいております、わたくしどもの覗《のぞ》いておりますところからはその人たちの様子はしかとわかりかねましたけれどもちょうどこちらから正面のところに金|屏風《びょうぶ》がかこってありましてやはり島田に結った若い女中がそのまえに立って舞い扇をひらひらさせながら舞っておりますのが顔だちまでは見えませぬけれどもしぐさはよく見えるのでござります、座敷の中にはまだその時分は電燈が来ていなかったものかそれとも風情《ふぜい》をそえるためにわざとそうしてありましたものか燭台《しょくだい》の灯《ひ》がともっていて、その穂が始終ちらちらしてみがきこんだ柱や欄杆《らんかん》や金屏風にうつっております。泉水のおもてには月があかるく照っていまして汀《みぎわ》に一|艘《そう》の舟がつないでありましたのは多分その泉水は巨椋《おぐら》の池の水をみちびいたものなのでここからすぐに池の方へ舟で出られるようになっているのでござりましょう、で、ほどなく舞いが終りますと腰元どもがお銚子《ちょうし》を持って廻ったりしておりましたが、こちらから見たぐあいでは腰元どもの立ちいふるまいのうやうやしい様子からどうもその琴をひいた女が主人らしゅうござりましてほかの人たちはそのお相手をしているようなのでござりました。なにしろ今から四十何年の昔のことでござりましてそのころは京や大阪の旧家などでは上女中《かみじょちゅう》には御守殿《ごしゅでん》風の姿をさせ礼儀作法は申すまでもござりませぬが物好きな主人になりますと遊芸などをならわせたものでござりますから、このやしきもいずれそういう物持の別荘なのであの琴をひいた女はこの家の御寮人《ごりょうにん》でござりましょう、しかしその人は座敷のいちばん奥の方にすわっておりまして生憎《あいにく》とすすきや萩のいけてあるかげのところに㒵《かお》がかくれておりますのでわたくしどもの方からはその人柄が見えにくいのでござりました、父はどうかしてもっとよく見ようとしているらしく生垣に沿うてうろうろしながら場所をあっちこっち取りかえたりしましたけれどもどうしても生け花が邪魔になるような位置にあるのでござります、が、髪のかっこう、化粧の濃さ、着物の色あいなどから判じてまだそれほどの年の人とは思われないのでござりまして、殊《こと》にその声のかんじが若うござりました、だいぶん隔たっておりましたから何を話しているのやら意味はきき取れませなんだがその人のこえばかりがきわだってよく徹《とお》りまして、「そうかいなあ」とか「そうでっしゃろなあ」とか大阪言葉でいっている語尾だけが庭の方へこだましてまいりますので、はんなりとした、余情に富んだ、それでいてりんりんとひびきわたるようなこえでござりました、そしていくらか酔っているとみえましてあいまあいまにころころと笑いますのが花やかなうちに品があって無邪気にきこえます、「お父さん、あの人たちはお月見をして遊んでいるんですね」とそういってみますと「うん、そうらしいね」といって父はあいかわらずその垣根のところへ顔をつけております、「だけど、ここは誰の家なんでしょう、お父さんは知っているのですか」とわたくしはまたかさねてそういってみましたけれど今度は「ふむ」と申しましたきりすっかりそちらへ気を取られて熱心にのぞいているのでござります、それがいまから考えましてもよほど長い時間だったのでござりましてわたくしどもがそうしておりまするあいだに女中が蝋燭《ろうそく》のしんを剪《き》りに二度も三度も立っていきましたし、まだそのあとで舞いがもう一番ござりましたし、女あるじの人がひとりでうつくしいこえをはりあげて琴をひきながら唄《うた》をうたうのをききました、それからやがて宴会がすんでその人たちが座敷を引きあげてしまうまで見ておりましてかえりみちにはまたとぼとぼと堤の上をあるかせられたのでござります、尤《もっと》もこういう風に申しますとそんなおさない時分のことを非常にくわしくおぼえているようでござりますがじつは先刻も申し上げましたようなしだいでそのとしだけのことではないのでござります、そのあくる年もそのあくる年も十五夜の晩にはきっとあの堤をあるかせられてあの池のほとりの邸《やしき》の門前で立ちどまりますと琴や三味せんがきこえてまいります、すると父とわたくしとは塀を廻って生垣の方から庭をのぞくのでござります、座敷のありさまも毎年たいがい同じようでござりましていつもあの女あるじらしい人が芸人や腰元をあつめて月見の宴を催しながら興じているのでござりました、でござりますから最初のとしに見ましたこととその次々のとしに見ましたこととがややこしくなっておりますけれどもいつのとしでもだいたい只今《ただいま》お話したようなふうだったのでござります。なるほど、と、わたしはいつかその男のものがたる追憶の世界へひき入れられながらいうのであった、それでいったいその邸というのは何だったのです、毎年お父上がそこへ出かけて行かれたのには何か理由があったのでしょうね。その理由でござりますかとその男はやや躊躇《ちゅうちょ》してからいった、それをお話し申しましてもよろしゅうござりますけれども見ず知らずのあなたさまをこんなところにいつまでもお引きとめしておきまして御迷惑ではござりますまいか。でもそこまで伺ってあとを伺わないのでは心のこりです、そんな御遠慮にはおよびませぬというとありがとうござりますそれならお言葉にあまえまして聞いていただきますがといってさっきの瓢箪《ひょうたん》を取り出して心のこりと申せばここにまだこれだけござります、先ずそのまえにこれをかたづけてしまいましょうと盃をわたしに受けさせてまたあの、とく、とく、という音をさせるのである。  さてそのひょうたんの酒をきれいに湑《した》んでしまってからその男は語りつぐのであった。父がそれをわたくしに話してくれましたのはまいとし十五夜の晩にその堤をあるきながら子供にこんなことをいってきかせても分るまいけれどもいまにお前も成人するときがくるのだからよく己《おれ》のいったことをおぼえていてそのときになっておもい出してみてくれ、己もお前を子供だと思わずに大人《おとな》にきいてもらうつもりではなしをするとそういってそれをいうときはいつもたいへん真顔《まがお》になって、どうかすると自分とおなじ年ごろの朋輩《ほうばい》を相手にしているようなもののいいかたをするのでござりました。そんな場合父はあの別荘の女あるじのことを「あのお方」といったり「お遊様《ゆうさま》」といったりしてお遊さまのことをわすれずにいておくれよ、己がこうして毎年おまえをつれてくるのはあのお方の様子をお前におぼえておいてもらいたいからだと涙ぐんだこえでいうのでござりました。わたくしはまだ父のいうことがじゅうぶんには会得《えとく》できませなんだがそれでも子供は好奇心が強うござりますし父の熱心にうごかされて一生懸命に聴《き》こう聴こうといたしましたのでこうなんとなく気分がつたわってまいりましておぼろげにわかったようなかんじがしたのでござります。で、そのお遊さまという人はもと大阪の小曾部《こそべ》という家のむすめでござりましてそれが粥川《かゆかわ》という家へ器量のぞみで貰《もら》われて行きましたのが十七のとしだったそうにござります。ところが四、五年しましてから御亭主に死に別れまして二十二、三のとしにはもう若後家《わかごけ》になっていたのでござります。もちろん今の時節ならばそんなとしから後家をたてとおす必要もござりませぬし世間もだまって捨てておくはずはござりませぬけれどもそのころは明治初年のことで旧幕時代の習慣が残っておりましたし、実家の方にも嫁入り先の粥川の方にもやかましい老人がいたということでござりますし、ことに亡くなった御亭主とのあいだに男の子が一人ありましたそうにござりますからなかなか再縁というようなことは許されなんだものとみえます。それにお遊さんは望まれて行ったくらいでござりますから姑《しゅうとめ》にも御亭主にもたいへん大事にされまして実家にいましたときよりもずっと我がままにのんびりとくらしておりましたので後家になりましてからもときおり大勢の女中をつれて物見遊山《ものみゆさん》に出かけていくという風でそういう贅沢《ぜいたく》は自由に出来たのだそうにござりますからはたから見ればまことに気楽な境涯なのでござりまして、当人もその日その日の花やかな生活に紛《まぎ》れてかくべつ不平も感じなかったのでござりましょう。わたくしの父がはじめてお遊さんを見ましたときはお遊さんという人はそういう身の上の後家さんだったのでござります。そのとき父が二十八歳でわたくしなどの生れます前、独身時代でござりましてお遊さんが二十三だったと申します。なんでも夏の初めのことで父は妹の夫婦、わたくしの叔父《おじ》叔母《おば》にあたります人と道頓堀《どうとんぼり》の芝居に行っておりましたらお遊さんがちょうど父のまうしろの桟敷《さじき》に来ておりました。お遊さんは十六、七ぐらいのお嬢さんと二人づれで外に乳母《うば》か女中|頭《がしら》といったような老女が一人と若い女中が二人つき添っておりましてその三人がお遊さんのうしろから代る代る扇子《せんす》であおいでおりました。父は叔母がお遊さんに会釈《えしゃく》をしましたのであれはというと粥川の後家さんだという話で、つれのお嬢さんはお遊さんの実の妹、小曾部の娘だったのでござります。己《おれ》はその日、最初にひとめ見たときから好もしい人だと思ったと父はよくそう申しましたがいったいその時分は男でも女でも婚期が早うござりましたのに父が総領でありながら二十八にもなって独身でおりましたのはえりこのみがはげしゅうござりまして降るようにあった縁談をみんなことわってしまったからなのでござりました。尤《もっと》も父もお茶屋遊びはいたしましたそうにござりましてその方面に馴染《なじ》みの女がないことはござりませなんだけれどもさて女房にするとなるとそういう女ではいやなのでござりました。と申しますのは父には大名趣味と申しますか御殿風と申しますかまあそういったふうな好みがござりまして、いきな女よりも品のよい上﨟《じょうろう》型の人、裲襠《うちかけ》を着せて、几帳《きちょう》のかげにでもすわらせて、『源氏』でも読ませておいたらば似つかわしいだろうというような人がすきなのでござりましたから芸者では気に入るはずがないのでござります。それにしましても父がどういうところからそんなふうな趣味になりましたものか町人にそぐわないようでござりますけれども、大阪も船場《せんば》あたりの家になりますと奉公人の礼儀作法がめんどうでござりましていろいろ格式をおもんじるふうがござりましたので小さな大名などよりも貴族的なところがあったくらいでござりますから大方父もそういう家庭にそだったせいでござりましょう。とにかく父はお遊さんを見ましたときひごろ自分のおもっていたような人柄の人だとかんじたのでござります。なぜそうかんじましたものか分りませぬがすぐまうしろにいたのだそうにござりますから女中どもにものをいうときの口のききかた、そのほかの態度やものごしなどがいかにも大家の御寮人《ごりょうにん》らしくおうようだったのかも知れませぬ。お遊さんという人は、写真を見ますとゆたかな頬《ほお》をしておりまして、童顔という方の円《まる》いかおだちでござりますが、父にいわせますと目鼻だちだけならこのくらいの美人は少くないけれども、おゆうさまの顔には何かこうぼうっと煙《けむ》っているようなものがある、㒵《かお》の造作が、眼でも、鼻でも、口でも、うすものを一枚かぶったようにぼやけていて、どぎつい、はっきりした線がない、じいっとみているとこっちの眼のまえがもやもやと翳《かげ》って来るようでその人の身のまわりにだけ霞《かすみ》がたなびいているようにおもえる、むかしのものの本に「蘭《ろう》たけた」という言葉があるのはつまりこういう顔のことだ、おゆうさまのねうちはそこにあるのだというのでござりましてなるほどそう思ってみればそう見えるのでござります。大体そういう童顔の人は所帯やつれさえしなければわりあいに若々しさを失わないものでござりますがお遊さんは十六、七の時から四十六、七になりますまで少しも輪郭に変りがなくていつみても娘々したういういしいかおをしていた人だと叔母なども始終そう申しておりました。でござりますから父はその、お遊さんのぼうっとした、いわゆる「蘭《ろう》たけた」ところに一と眼でこころをひかれたのでござりまして父の趣味をあたまにおいてお遊さんの写真を見ますとなるほどこれなら父が好《す》いたであろうということが分ってまいるのでござります。つまり一と口に申しますなら、古い泉蔵《いずくら》人形の顔をながめておりますときに浮かんでまいりますような、晴れやかでありながら古典のにおいのするかんじ、おくぶかい雲上の女房だとかお局《つぼね》だとかいうものをおもい出させるあれなのでござります。あの匂《にお》いが何処《どこ》かお遊さんの㒵《かお》のなかに立ち迷っているのでござります。わたくしの叔母、いま申しました父の妹は、このお遊さんの幼な友達でござりまして娘時代には同じ琴の師匠のところへかよっていたものでござりますから、おいたちのことだの家庭のことだの輿入《こしい》れのときのことだのいろいろと事情を知っておりましたのでそのとき父に話したのでござりますが、お遊さんにはきょうだいが大勢ありまして芝居へ連れてきておりました妹のほかにまだ姉さんも妹もありましたけれども中でもお遊さんがいちばん両親に可愛がられていてどんなわがままでもお遊さんなら許されるという風でとくべつあつかいにされていたそうにござります。それはお遊さんがきょうだいじゅうでの美人でござりましたからそれもあったかも知れませぬけれども、ほかのきょうだいたちもお遊さんだけは別物のようにかんがえておりまして誰もそうするのがあたりまえだと思っているというようなふうであったと申します。おばの言葉を借りますなら「お遊さんという人は徳な人だった」と申しますので自分の方からそうしてほしいというわけでもなくまた威張ったり他人をおしのけたりするのでもござりませぬが、まわりの者がかえっていたわるようにしましてその人にだけはいささかの苦労もさせまいとして、お姫さまのように大切にかしずいてそうっとしておく。自分たちが身代りになってもその人には浮世の波風をあてまいとする。おゆうさんは、親でも、きょうだいでも、友だちでも、自分のそばへ来る者をみんなそういう風にさせてしまう人柄だったのでござります。叔母なども娘のころにお遊さんのところへあそびにまいりますとお遊さんは小曾部の家のたからものといったあんばいで身のまわりのどんなこまかい用事にでも自分が手をくだしたことはなくほかの姉さんや妹たちが腰元のように世話をやくことなどがござりましたけれどもそれがすこしも不自然でなくそういうようにされているお遊さんがたいへんあどけなくみえたそうにござります。父はおばからそんな話をききまして一層お遊さんがすきになりましたがそののちはついぞよいおりもなくてすごしますうちあるときお遊さんが琴のおさらいに出るという噂《うわさ》を叔母がききつたえてまいりましてお遊さんをみたければわたしが一緒に行ってあげるからと父を誘ったのでござりました。そのおさらいの日にお遊さんは髪をおすべらかしにして裲襠《うちかけ》を着て香《こう》をたいて「熊野《ゆや》」を弾《ひ》きました。さようでござります、いまでも許しものを弾きますときには特にそういう儀式張ったことをする習慣があるのでござりましてずいぶんそのためには大袈裟《おおげさ》な費用をかけるものなので金のあるお弟子《でし》には師匠がそれをやらせたがるのでござりますが、お遊さんもたいくつしのぎに琴のけいこをしておりまして師匠からすすめられたのでござりましょう。ところでお遊さんのこえのよいことは前にも申しましたようにわたくし自身も聞いたことがござりましてよく存じておりますのでその人柄を知ってそのこえをおもうと今更のように奥床《おくゆか》しさをおぼえるのでござりますが父はそのときにはじめてお遊さんの琴唄《ことうた》をきいて非常にかんどうしたのでござります。そのうえおもいもかけず裲襠すがたのお遊さんを見たのでござりますからかねがねゆめにあこがれていたまぼろしが事実になったのでござりましてさだめし父は自分の眼をうたがったほどにおどろきもしよろこびもしたでござりましょう。なんでも叔母がその琴唄のすんだあとで楽屋へ会いにいきましたらまだ裲襠を着たままできょうのおさらいは琴はどうでもよいのだけれどもいっぺんどうしてもこういう姿がしてみたかったのだといってなかなか裲襠をぬぎたがらないでこれから写真をうつすのだなどといっていたそうにござります。父はまたその話をききましてお遊さんの趣味がたまたま自分と一致していることを知ったのでござりました。そういうわけで父は自分の妻にすべき人はお遊さんをおいて外にはないとおもったのでござりまして自分が長いあいだ胸にえがきつつ待っていた人はお遊さんであったことをかんじたのでござりましてその望みをそれとなく叔母に洩《も》らしてみたのでござりましたが叔母は先方の事情がよく分っていたものでござりますから父のこころもちに同情はしてくれましたけれどもとうていそんなことはだめだからというのでござりました。叔母の申しますのには子供でもなければなんとか話の持っていきようもあるけれどもお遊さんにはこれから養育していかなければならない頑是《がんぜ》ない子供がある。それも大事な世忰《よせがれ》であってみればその児《こ》をすてて粥川の家を出られそうなわけがない、のみならず姑さんもあれば、実家の方でも母親は亡くなっていましたが父親はまだ達者でいる、そういう老人たちがお遊さんをああいう風に気随にさせておくのは若後家という境遇をきのどくにおもってできるだけさびしさをわすれるようにさせようという慈《いつく》しみから出ているので、その代りには一生|操《みさお》を立て通しておくれよという意味がこもっているのだしお遊さんもそれは承知であれだけ栄耀栄華《えいようえいが》をしても不品行なうわさはきいたこともないので、当人も二度と縁づくりょうけんはないにきまっているというのでござります。父はそれでもあきらめかねてそういうわけなら嫁にもらおうといわないから叔母が仲に立ってときどき会えるように計《はか》らってくれ、自分はせめて㒵《かお》を見るだけでもまんぞくするというのでござりました。叔母はちちがそんなにまで申しますのをそれもきかないとはいいかねたのでござりますがしかしお遊さんと親しくしておりましたのはお互に娘時分のことでもうそのころは疎遠になっておりましたのでござりますから、ちょっとそれもむずかしい註文《ちゅうもん》なのでござりました。でまあおばもいろいろ考えまして、ではいっそお遊さんの妹をもらったらどうです、どうせ外の人をもらう気がないのだったら妹でがまんおしなさい、お遊さんはのぞみがないけれども妹でよかったら随分はなしになるだろうからと、そういい出したのでござります。その妹といいますのはお遊さんが芝居へつれてきておりました「おしず」という娘のことなのでござりましてそのうえの妹はもうよそへかたづいておりましてお静さんがちょうど年頃になっておりました。父は芝居のときに見ておりますから顔をおぼえていたわけでござりまして叔母にそういわれましたときによほどかんがえたらしいのでござります。と申しますのはおしずさんも美人でないことはない、お遊さんとは顔だちが違っていたのでござりますけれどもやはりきょうだいでござりますから何処かにお遊さんをしのばせるようなところはある、しかし何よりも不満なのはお遊さんの㒵《かお》にあるあの「蘭《ろう》たけた感じ」がない、お遊さんよりずっと位が劣って見える、おしずさんだけを見ていればそうでもござりませぬけれどもお遊さんとならべましたらお姫さまと腰元ほどのちがいがある、それゆえもしおしずさんがお遊さんの妹でなかったら問題にならなんだかも知れませぬがお遊さんの妹であるゆえにお遊さんとおなじ血がその体の中にかよっておりますゆえに父はおしずさんも好きだったのでござります。が、さればといっておしずさんでがまんするというところまでは容易にけっしんがつかないのでござりました。それはそういうつもりで貰《もら》ったのでは第一おしずさんにすまなくもある、それにまた父はお遊さんに対してどこまでも純なあこがれを持ちつづけたい、一生お遊さんというものをひそかに心の妻としておきたいというような意地がござりまして妹にもせよ外の人を女房にしましては、その、自分の心持がおさまらないのでござります。けれどもまたかんがえてみますと妹を嫁にもらいましたらこれからたびたびお遊さんに会うこともでき言葉をかわすこともできるのでござりますがそうでなかったらこののち一生涯のあいだ偶然にめぐまれるよりほかにはめったに顔を見ることもできないわけでござりましてそれを思いますときゅうにたまらなく淋《さび》しくなるのでござりました。父はそんなふうに迷いぬきまして結局おしずさんと見合いをするまでに運んだのでござりましたが、正直のところまだその時分までほんとうにおしずさんを貰《もら》うという意志はなかったのでござりましてそれよりもじつは見合いにかこつけて一遍でも余計おゆうさんに会いたかったのでござります。父のこのおもわくは巧《うま》くあたりましてお遊さんは見合いとか打ち合わせとかのたびごとに出て参りました。小曾部の家には母親がおりませなんだし、そこへ持ってきてお遊さんがひまな体でござりましたからおしずさんは月のうち半分ぐらいは粥川の方へとまりに行っているというようなぐあいでどっちの家の娘だか分らないようにしておりましたので自然お遊さんの出る幕が多かったのでござりますがそれが父にはねがってもない仕合わせだったのでござります。父はもともと目的がそこにあったのでござりますからなるべく話を引っぱっておくようにしまして二度も三度も見合いをして半年ばかりぐずぐずにしておきましたのでそんなことからお遊さんも叔母のところへ足しげく来るようになりました。そのあいだには父とも話をするようなことがござりましてだんだん父というものがわかってまいったのでござります。するとある日のことお遊さんは父にむかって、あなたはお静がおきらいですかと尋ねるのでござりました。父がきらいではありませんといいましたらそれならどうぞ貰ってやって下さいましといってしきりに妹との縁組みをすすめるのでござりましたが叔母に向ってはもっとはっきりと自分はきょうだいじゅうであの児《こ》といちばん仲|好《よ》くしているからどうかあの児を芹橋《せりはし》さんのような人と添わしてやりたい、ああいう人を弟に持ったら自分も嬉《うれ》しいということを申したそうにござります。父の決心がきまりましたのはまったくこのお遊さんの言葉がありましたためでござりましてそれから間もなくおしずの輿入《こしい》れがござりました。さようでござります、でござりますからおしずは私《わたくし》の母、お遊さんは伯母になるわけでござりますけれどもそれがそう簡単ではないのでござります。父はお遊さんの言葉をどういう意味に取りましたのか分りませぬがおしずは婚礼の晩にわたしは姉さんのこころを察してここへお嫁に来たのです、だからあなたに身をまかせては姉さんにすまない、わたしは一生涯うわべだけの妻で結構ですから姉さんを仕合わせにして上げて下さいとそういって泣くのでござりました。  ちちはおしずのおもいがけない言葉をききましてゆめのようなここちがしたのでござります。と申しますのは自分こそお遊さんをひそかにしたっておりましたけれどもお遊さんにそのいちねんがとどいていようとは思ってもおりませなんだし、まして自分がお遊さんから慕《した》われていようなどとは考えたこともなかったからでござります。それにしてもそなたはどうして姉さんのむねのうちを知っていなさる、そういうのには何かしょうこがあっての上でなければならぬが姉さんがそういうことを洩《も》らしたことがあるとでもいうのかと泣いているのを問いつめましたら、そのようなことを口へ出していうはずもなし聞くはずもありませぬけれども私《わたし》にはよくわかっておりますと申すのでござりました。おしずが、わたくしの母が、まだ世馴れないむすめの身としてそれをかんづいておりましたというのは不思議のようでござりますがのちに知れたところを申しますと初め小曾部の人たちはこのえんだんは年がちがいすぎるからと申してことわることにきめておりましてお遊さんも皆がそういう意見ならばといっていたのでござりましたが、それから或る日おしずがあそびに行きましたらわたしはこんなよい縁はないと思っているけれども自分がもらう婿《むこ》でもないのにみんながああいっているものをぜひにという訳にもいかない、いやでさえなかったら静さんの口から行かしてほしいということをいい出してみたらどうかしらん、そうしたらわたしもあいだをとりなして巧くまとめてみせるけれどもとそういいますので自分にはさだまったかんがえもござりませなんだのでそれほど姉さんが気に入っているのだったら悪いはずはありますまい、わたしは姉さんがよいということならその通りにしますといいますとそういってくれるのはうれしいといって、十一、二の年ちがいなら世間には例のあることだし、それに何よりもあの人はわたしと話が合うような気がする、きょうだいたちがお嫁にいくとだんだん他人になってしまうのでしずさんだけは誰にも取られたくないのだけれどもあの人ならば取られたという気がしないできょうだいが一人ふえたようなこころもちになれるであろう、こういうと自分の都合であの人を押しつけるようだけれどもわたしによい人なら静さんにもよいにちがいないから姉に孝行をするとおもってここはいうことをきいておくれ、わたしのきらいな人のところへ行かれたのでは遊び相手がないようになってこれからさき淋しくてしようがないからというのでござりました。まえにも申しましたようにつねづねみんなからいとしがられて我《わ》が儘《まま》を我が儘とかんじないように育った人でござりますから仲よくしている妹にあまえただけのことだったのでござりましょうがそのときおしずはお遊さんのそぶりのなかに何かしらいつもの甘えかたとちがったものがあるのを看《み》てとりました。身勝手なことや無理をいうほど余計様子が可愛くみえるのでござりましたが大方そのときはあどけない中にも一種の熱がこもっていたのでござりましょうか。お遊さんじしんはそんなつもりではなかったとしてもお静にそれがわかったのではござりますまいか。うちきな女というものは黙っていながら気がまわるものでござりますがお静がやはりそうだったのでござりましてきっとそのほかにも思いあたるふしぶしがあったのでござりましょう。そういえばお遊さんはちちと懇意になりましてからきゅうに顔のいろつやなどもいきいきとしてまいりお静を相手に父のうわさをしますのをこのうえもないたのしみにしている風があったと申します。父はおしずにそれはそなたの思いすごしというものだからと、とどろく胸のうちをさとられまいとして心外な態度をよそおいながらえんあって夫婦になったうえは不足なところもあろうけれども何もやくそくごとだと思ってくれぬか、そなたの姉様孝行はけっこうなことにちがいないが自分のひとりがてんから筋道の通らぬ義理をたててわたしにつれないしうちをしては姉さんの本意にもそむくことになろう、よもや姉さんはそんなことを望んでいなさるはずがないからそれをきいたらきっとめいわくしなさるだろうといいますとしかしあんさんがわたしをおもらいなされたのは私のあねときょうだいになりたかったからでござりましょう、姉はあんさんの妹さんからそんなはなしをきいておりましたので私もしょうちしておりました、あんさんはずいぶん今日までよいえんだんがありながらどれもお気にめさなんだとやらではござりませぬか、そんなにむずかしいお方がわたしのようなふつつかなものを貰ってくださいましたのはあの姉があるゆえでござりましょうといいますので父はこたえることばがなくさしうつむいてしまいましたら、そのいつわりのないお胸の中《うち》をひとこと姉につたえましたらどんなによろこぶかとおもいますけれどもそうしてしまってはかえってお互にえんりょが出るでござりましょうから今はなにも申しませぬがわたしにだけはどうかお隠しなされますな、それこそお恨みにぞんじますといいますので、なるほど、そなたにそれほどの思いやりがあって来てくれたのだとは知らなんだ、そのこころづくしは一生わすれますまいと父もなみだをながしながらそれにしてもわたしはあの人をきょうだいとばかりおもうようにしているのだし、そなたがなんとしてくれたところでそう思うよりどうもなりようはないのだからなまじ義理だてをしてくれるとあの人もわたしもそれだけ苦しまなければならない、そなたとしては面白くないこともあろうが、わたしというものがよくよく嫌いでないのだったらこれも姉さんへの孝行だとおもってそんな水くさいことをいわずに夫婦になってくれまいか、そしてあの人はわたしたち二人の姉さんとして敬っていくようにしようではないかといいますとなんのあんさんを嫌っているの面白くないのとそんな勿体《もったい》ないことがござりましょう、わたしはむかしから姉さんしだいでござりますから姉さんに気に入っているあんさんなら私かて好きでござります、けれども姉さんの思っている人を夫《おっと》にしてはすまない訳でござりますから本来ならば此処《ここ》へまいるのではござりませなんだが、そうかといって私がまいりませなんだら世間のてまえかえって仲が堰《せ》かれるようになるとおもってわたしこそあんさんの妹にしてもらうつもりで嫁入りしましたといいますので、そんならそなたは姉さんのために一生を埋《うも》れ木《ぎ》にしてしまいなさるのか、妹にそんなことをさせてよろこぶような姉さんでもあるまいに折角きよいこころの人をけがすようなものではないかといいましたら、そういう風にお取りなされてはこまります、わたしも姉さんのきよい心を心としたいのでござります、姉さんが亡くなった兄さんに操をたてていくのなら私だって姉さんのために操をたててみせましょう、わたしばかりが一生を埋れ木にするのではござりませぬ、姉さんにしてもおなじことではござりませぬか、あんさんは御存じないかも知れませぬがあの姉さんは気だても器量もとりわけ人にかわいがられる生れつきで一家じゅうが大名の児を預かってでもいるようにみんな気をそろえてあの人ばかりをかばうようにしておりましたのにその姉さんがあんさんというものがありながらままならぬ掟《おきて》にしばられていると分ってみれば私がそれを横取りしては罰《ばち》があたるでござりましょう、姉さんにきこえたらさだめし飛んでもないことといわれましょうからあんさんだけがふくんでいてくださりませ、人に知ってもらえようともらえまいとわたしは自分の気のすむようにいたします、姉さんのようにしょうとく福運のそなわった人がどうにもならない世の中なら私などはもののかずでもござりませぬからせめてすこしでも姉さんをしあわせにして上げたいと最初からその覚悟をしてここへ貰われてまいりました、それゆえあんさんもその気になって人の見ているところでは夫婦のようにふるまっても内実は操をまもってくださりませ、そのしんぼうが勤まらぬようなら私のおもっている半分もねえさんをおもっていないのですとそういうものでござりますからこのおんながあの人のためにこうまで身を捨ててかかっているものを男の己《おれ》が負けてなるものかと父もいちずに思いつめまして、いや、ありがとう、よくいってくれた、あの人が後家をとおすなら私もやもめをとおしたいのが実はほんしんだったのだ、ただそなたまでも尼も同様にさせてしまってはきのどくと思うばかりにさっきのようにいったのだけれどもその神のようなこころを聞いては礼をのべることばもない、そなたがそれほどの決心ならわたしとてなんのいぞんがあろう、無慈悲のようだが正直のところはその方がわたしも嬉《うれ》しいのだ、あたりまえならそう願いますといえた義理ではないけれども何もいわずにせっかくの親切にすがらせてもらいましょうとお静の手をとっておしいただいてとうとうその晩はまんじりともせずに語りあかしたのでござりました。  でござりますから父とおしずとはけんか一つしたことのない睦《むつま》じい夫婦のように人目にはみえておりましたが実はふうふのまじわりをしなかったのでござりまして二人がそんなやくそくまでしてぎりを立てていてくれるとはお遊さんも知らなんだのでござります。お遊さんは二人の仲のよい様子をみてやっぱりわたしのいう通りにしてよかったと親きょうだいにも自慢してあるいてもうそれからは毎日のように両方からいったりきたりしまして芝居へいくにも遊山《ゆさん》にいくにもかならず芹橋の夫婦がいっしょでござりました。三人はよくさそい合って一と晩どまりか二たばんどまりの旅に出たそうにござりますがそういうおりにはお遊さんと夫婦とが一つざしきに枕《まくら》をならべてねむりましたのでそれがだんだんくせになりまして旅でないときでもお遊さんが夫婦を引きとめましたり夫婦の方へ引きとめられたりするようなことがござりました。ちちがのちのちまでなつかしそうに話しましたのにはお遊さんはいつも寝るときにしずさん足をあたためておくれといってお静を自分の寝床の中へひき入れるのでござりまして、それはお遊さんが足が冷えてねむられないのにおしずはとくべつに体がぬくうござりましたのでお遊さんのあしをあたためるのはお静の役ときまっていたのでござりましたがお嫁に行ってしまわれてからは静さんの代りに女中にやらせているけれどもどうも静さんのようにはいかない、むかしから癖《くせ》がついているせいか炬燵《こたつ》や湯たんぽばかりではたよりないといいますとそんなえんりょをしてくれないでもようござります、むかしのようにしてあげるつもりで泊まりに来ましたといってお静はいそいそとお遊さんの中へ這入《はい》って行ってお遊さんが寝ついてしまうかもうよいというまで添い寝をするのでござります。そのほかお遊さんのお姫さまらしい話はいろいろきいておりますが身のまわりのせわをする女中が三、四人はついておりまして手水《ちょうず》をつかうにも一人が柄杓《ひしゃく》で水をかけると一人が手拭《てぬぐ》いを持って待っている、お遊さんは水にぬれた両方の手をそのままさし出しさえすれば手ぬぐいを持っている方の女がきれいに拭《ふ》いてあげるという風で足袋《たび》一つはくのにも風呂場《ふろば》でからだを洗うのにもほとんど自分の手というものは使わないのでござりました。さあ、それが、その頃のこととしましても町人の生れとしてぜいたくすぎるようでござりますが粥川へ嫁入りしますときにもこのむすめはこういうぐあいに育てたのだから今となってその習慣をあらためさせるわけにはいかない、それほど御執心《ごしゅうしん》ならばこれまで通りにさせてやって下さいますかと父親が念をおしましたくらいで御亭主や子供がありましても娘時代のおおどかな気風はいっこうかわりはなかったそうにござります。だからお遊さんのところへいくとまるでお局《つぼね》さまのお部屋へでも行ったような気がしたものだと父はよくそう申しました。ぜんたい父がそういう趣味でござりましたからなおそうかんじたのでござりましょうがお遊さんの部屋の中にある調度類というものは、みな御殿風か有職模様《ゆうそくもよう》の品ばかりで手拭いかけからおまるのようなものにまで蝋塗《ろうぬ》りに蒔絵《まきえ》がしてあったと申します。そして次の間との襖《ふすま》ざかいに衝立《ついたて》がわりの衣桁《いこう》がたててありましてそれへ日によっていろいろな小袖《こそで》がかけてある、お遊さんはその奥の方に上段の間こそありませぬけれども脇息《きょうそく》にもたれてすわっている、ひまなときには伏籠《ふせご》をおいて着物に伽羅《きゃら》をたきしめたり腰元たちと香を聴いたり投扇興《とうせんきょう》をしたり碁盤《ごばん》をかこんだりしている、お遊さんのはあそびの中にも風流がなければあきませぬので、碁は上手《じょうず》ではなかったのでござりますが秋くさの時代蒔絵のある盤が気に入っておりましてそれをやくにたてたいばかりに五もくならべなぞをしている、三度の食事には雛《ひな》道具のような膳《ぜん》にむかってぬりものの椀《わん》で御飯をたべる、のどがかわけば小間使いが天目台《てんもくだい》をすりあしでささげてまいりたばこがほしければ一ぷく一ぷくそばから長い煙管《キセル》につめて火をつけて出す、夜は光琳《こうりん》風の枕屏風《まくらびょうぶ》のかげでねむり寒いときは朝めをさますと座敷のなかへ油団《ゆとん》をしいてゆみずを幾度にもはこばせて半挿《はんぞう》や盥《たらい》で顔をあらう。ばんじがそういう風でござりますから何処へいくにもたいそうになりまして旅へ出ましたら女中がかならず一人はついてまいりましてあとはお静がなにやかやと世話をいたし父までが手つだいをして荷物をもつ役、着物をきせる役、あんまをする役とめいめいが一と役うけもってふじゆうなめをさせないようにいたしました。さようでござります、子供はその時分おいおい乳《ち》ばなれておりましたしばあやもついておりましたのでめったにつれてあるくことなどはござりませなんだ。しかしあるとき吉野へ花見にまいりましたせつに晩にやどやへつきましてからお遊さんが乳が張ってきたといっておしずに乳をすわせたことがござりました。そのとき父が見ておりまして上手にすうといって笑いましたらわたしは姉さんの乳をすうのは馴《な》れています。姉さんは一《はじめ》さんを生んだときから子供にはばあやの乳があるので静さん吸っておくれといっておりおり私に乳をすわせていましたと申しますのでどんなあじがするといいましたら嬰子《ややこ》のときのことはおぼえていないけれどもいま飲んでみるとふしぎな甘いあじがします、あんさんも飲んでごらんといってちちくびからしたたりおちているのを茶碗《ちゃわん》で受けてさし出しますから父はちょっとなめてみてなるほどあまいねといって何げないていに取りつくろっていましたけれどもお静がなんの意味もなく飲ませたものとばかりには思われませなんだので自《おの》ずと頬《ほお》があからんでまいりまして、その場にいづらくなりまして口の中が変だ変だといいながら廊下へ立っていきましたらお遊さんはおもしろそうにころころわらうのでござりました。で、そんなことがござりましてからおしずは父が当惑したりうろたえたりするのを興がるようになりましたものかわざといろいろないたずらをいたしました。ひるまはとかく人目が多うござりまして三人ぎりになるような場合は始終はござりませなんだがたまにそういうことがござりますとふと席をはずして二人をながいあいださしむかいにしておきまして父がむずむずし出した時分にひょっこりもどってまいります。ならぶときにはいつでも父をとなりへすわらせます。そうかとおもうとかるた遊びや勝負ごとの時などはなるべく父がお遊さんの正面の敵になるようにいたします。お遊さんが帯をしめてほしいといえば男のちからでなければといって父にやらせあたらしい足袋をはかせるときはこはぜがかたいからといって父の手をかりそのつど父がはずかしがったりこまったりするのをながめているのでござりました。それは見たところ無邪気ないたずらでござりまして皮肉やいじわるでないことはよくわかっておりましたけれどもひょっとするとおしずにしましたならばこういう風にでもしたら二人のあいだのえんりょが取れるようになろう、そうするうちにはもののはずみでお互の胸のおもいがかよい心と心とが触れあうおりもあるであろうという親切がこもっていたのかも知れませぬので何かおしずは二人のあいだにそういうはずみが起りますのを、ふたりがひょんな間違いでもしでかしますのを祈っているようにもみえたのでござります。  が、ふたりはそののちなにごともなく過していたのでござりましたが或る日おしずとお遊さんとのあいだに出来事があったらしいのでござります。父はそれを知らずにいましてお遊さんにあいましたら父を見るなり顔をそむけてなみだをかくしましたのでめったにないことでござりますから何かあったのかとおしずにききましたら姉さんはもう知っていますというのでござりました。それにしましても話さなければならないような羽目になってわたしがしゃべってしまいましたというだけでどんないきがかりからそうなったのやら委しいいきさつを申しませぬので父にもおしずのしたことは解《げ》せぬところがあったのでござります。たぶんおしずはもう打ちあけてもよい時機が来た、夫婦が夫婦でないことがわかったら姉も一往はふこころえをさとすであろうがいまとなってはとうわくしながらも妹たちのなさけにほだされてしまうであろうと看《み》てとりまして何かのおりにかおいろをうかがいながら話をそこへ持って行ったのではござりますまいか。そういう風におしずはとかく粋《すい》をきかせて先ばしりをするくせがあるのでござりまして元来が苦労性なのでござりましょうか若い時分から取りもちの上手な老妓《ろうぎ》のようなところがあったのでござりますが考えてみればお遊さんに身も心もささげるために生れて来たような女でござりましてわたしは姉さんの世話をやかせてもらうのがこの世の中でいちばんたのしい、どうしてそういう気になるのだか姉さんの㒵《かお》を見ると自分のことなどはわすれてしまうというのでござりました。何にいたせおせっかいといえばいえなくもござりませぬがそれがみんな欲得《よくとく》をすてた姉おもいから出ていることがわかってみればお遊さんも父もありがたなみだにくれるよりほかはござりませなんだ。お遊さんは初めはひじょうにびっくりしまして私はそんな罪をつくっていたとは知らなんだ、静さんたちにそんなにされては後生《ごしょう》がおそろしいといって身もだえして、でもそれならば取りかえしのつくことだからどうかこれからはほんとうの夫婦になるようにといいましたけれども何もこのことは姉さんに頼まれたわけではない、慎之助《しんのすけ》にしてもわたしにしても自分たちが好きでしていることだからこののちどうなるとも姉さんは気にかけないで下さい、ついこんなことをいいましたのが悪うござりました、何も聞かなんだ前とおもって下さったらようござりますといって取り合いませなんだのでそれからしばらくお遊さんは夫婦といきかよいすることをひかえる様子がみえましたのでござりますが、三人の仲のよいことは親類じゅうに知れわたっておりましたから角《かど》のたつようなことはできませぬのでそうこうするうちにまた両方から近づいてしまいましてけっきょくお静のはからったことが味善《あんじょ》う行ったのでござりました。さようでござります、それはたしかに、お遊さんの心のおくへ這入《はい》ってみましたら自分で自分にゆいまわしていた埓《らち》が外《はず》れてしまったような気持のゆるみができまして妹の心中《しんじゅう》だてを憎もうとしても憎めなんだのでござりましょう。それからのちのお遊さんはやはり持ちまえのおうような性質をあらわしてなにごとも妹夫婦のしてくれるようにされている、夫婦のはからいに打ちまかしてこころづくしを知ってか知らずかそのままに受け入れるようなぐあいになっていきました。父がおゆうさんのことをお遊さまと呼ぶようになりましたのはその頃からでござりましてはじめはお静とのあいだでお遊さんのうわさをしますときにもうあんさんはあの人のことを姉さんというのはおよしなさいと申しますのでさまをつけて呼びますのがいちばん人柄にはまっているように思われてそう呼んだのでござりましたがいつかそれが口ぐせになりましておゆうさんの前で出てしまいましたらその呼びかたが気に入って二人のときはそう呼ぶのがよいというのでござりました。そしていいますのにはみんながわたしをたいせつにしてくれるのはありがたいが私はそれをあたりまえにおもうように育てられてきていることを承知でいてもらいたい、いつでも人がたいそうらしく扱ってくれたら機嫌がよいというのでござります。お遊さんのいかにも子供らしい我《わ》がままの例を申しましょうならあるとき父にもうよいというまで息をこらえていてほしいといって手を父の鼻のあなの前にかざすのでござりました。ちちはいっしょけんめいにがまんをしておりましたけれどもようこらえなくなりまして少しいきを洩《も》らしましたらまだよいといわなんだのにとえらくむずかり出しましてそんならといって指でくちびるをとじ合わせたり、ちいさな紅《あか》い塩瀬《しおぜ》の袱紗《ふくさ》を二つにたたんで両端を持ってぴったり口にふたをするのでござりましたがそういう時はいつもの童顔が幼稚園の子供の顔のようにみえて二十《はたち》を越した人のようにはおもえなんだと申します。またあるときはそう顔を見んとおいてほしい、両手をついて首をたれたままかしこまっていてほしいといいましたり、笑わんといてごらんといってあごの下や横腹をこそばゆがらせたり痛いということを口にしてはならぬといってここかしこを抓《つめ》りましたりそんないたずらをしますのがいたって好きなのでござりましてわたしはねむってもあんさんはねむったらあかん、ねむくなったらじっとわたしの寝顔をながめてしんぼうしているがよいといいながら自分はすやすやとまどろんでしまいますので父もうつらうつらし出してついゆめごこちにさそい込まれておりましたらいつのまにやらめをさまして耳のあなへいきを吹き入れたりかんぜよりをこしらえて顔じゅうをこそぐったりしてむりにおこしてしまうのでござりました。父はお遊さんという人は生れつき芝居気がそなわっていた、自分でそうと気がつかないでこころに思うことやしぐさにあらわれることが自《おの》ずと芝居がかっていてそれがわざとらしくもいやみにもならずにお遊さんの人柄に花やかさをそえ潤おいをつけていた、おしずとおゆうさんとの違いは何よりもおしずにそういう芝居気のないところにあったと申しますのでござりまして裲襠《うちかけ》を着て琴をひいたり小袖幕《こそでまく》のかげにすわって腰元に酌をさせながら塗りさかずきで酒をのむような芸当はお遊さんでなかったら板につかないのでござりました。  とにかく二人のあいだがらがそういうふうになりましたのは申すまでもなくおしずのきもいりがあったればこそでござりましてそれには粥川の家よりも芹橋の家の方がひとめがすくのうござりましたのでお遊さんのほうから夫婦のところへ出てくることが多かったのでござります。おしずはさまざまにちえをはたらかせまして女中をつれて旅に出るのは無駄なついえではありませぬかわたしがいたら不自由なおもいはさせませぬからとお伊勢さまだの琴平《ことひら》さまだのへ三人ぎりで出られるようにもいたしました。そして自分はじみづくりにして女中らしくこしらえたりしまして次の間にねどこをとらせるのでござります。もっともそのときの都合で三人のかんけいをとりかえまして言葉づかいなどもきをつけるのでござりましたが宿屋の首尾はおゆうさんと父が夫婦になりましたらいちばんよいのでござりますけれどもお遊さんがおんなあるじのようなかたちになりがちでござりましたので父は家令《かれい》か執事《しつじ》かというふうにみせかけましたり御ひいきの芸人になりすましたりいたしまして旅へ出ましたらお遊さんは二人から御寮《ごりょ》んはんと呼ばれるのでござりました。そういうこともお遊さんにはたのしいあそびの一つなのでござりまして多くはたしなみませぬけれども夕御飯のときにすこしお酒がはいりましたらなかなかだいたんになりましてゆったりとしたおちつきを見せながらときどきころころと派手なわらいごえをたてるのでござります。しかし、わたくし、ここでおゆうさんのためにも父のためにもべんめいいたしておかなければなりませぬのはそこまですすんできていながらどちらも最後のものまではゆるさなんだのでござりました。それもまあ、もうそうなったらそういうことがあってものうても同じことだと申せましょうしないにいたしましたところがなんのいいわけになりはいたしませぬけれどもわたくしは父の申しますことを信じたいのでござります。父がおしずに申しましたのにはいまさらになってそなたにすむもすまないもないようなものだがたといまくらを並べてねても守るところだけは守っているということを己《おれ》は神《かみ》仏《ほとけ》にかけてちかう、それがそなたの本意ではないかも知れないがお遊さまもおれもそこまでそなたを蹈《ふ》みつけにしては冥加《みょうが》のほどがおそろしいからまあ自分たちの気休めのためだというのでござりまして、いかさまそれもそうだったでござりましょうがまたまんいちにも子供ができたらばというしんぱいなぞが手つだっていたかと思われるのでござります。けれども貞操というものはひろくもせまくも取りようでござりますからそれならといってお遊さんがけがされておらなんだとは申せないかもしれませぬ。それについておもい出しますのは父は伽羅《きゃら》の香とお遊さんが自筆で書いた箱がきのある桐《きり》のはこにお遊さんの冬の小袖《こそで》ひとそろえを入れてたいせつに持っておりましてあるときわたくしにその箱のなかのしなじなを見せてくれたことがござりました。そのおり小そでのしたにたたんで入れてありました友禅《ゆうぜん》の長じゅばんをとり出しましてわたくしの前にさし出しながらこれはお遊さまが肌身《はだみ》につけていたものだがこのちりめんの重いことをごらんといいますので持ってみましたらなるほど今出来《いまでき》の品とはちがいその頃のちりめんでござりますからしぼが高く糸が太うござりまして鎖のようにどっしりと目方《めかた》がかかるのでござります。どうだ重いかと申しますからほんとうにおもいちりめんだといいましたら我が意をえたようにうなずきましてちりめんというものはしなしなしているばかりでなくこういうふうにしぼが高くもりあがっているところがねうちなのだ、このざんぐりしたしぼの上からおんなのからだに触れるときに肌のやわらかさがかえってかんじられるのだ、縮緬《ちりめん》の方も肌のやわらかい人に着てもらうほどしぼが粒だってきれいに見えるしさわり加減がここちよくなる、お遊さんという人は手足がきゃしゃにうまれついていたがこの重いちりめんを着るとひとしおきゃしゃなことがわかったといいまして今度は自分がそのじゅばんを両手で持ちあげてみて、あああのからだがよくこの目方に堪えられたものだといいながらあだかもその人を抱きかかえてでもいるように頬《ほお》をすりよせるのでござりました。  するとあなたがお父上にそのじゅばんを見せておもらいになった時はもうよほど成人しておられたのでしょうねとそのおとこのものがたりにそれまでだまって耳を傾けていたわたしがたずねた、そうでなければ少年のあたまでそういうことを理解されるのはむずかしかろうとおもいますが。いいえ、まだその時分ようよう十ぐらいだったのでござりまして父はわたくしを子供とみとめずにはなしたのでござります、さればそのときはもちろん理解いたしませなんだが言葉どおりに記憶いたしておりましてふんべつがつきますにしたがってだんだんとその意味を解いてまいったのでござります。なるほど、ではうかがいますけれどもお遊さんとお父上とのかんけいが仰っしゃるとおりであったとするとあなたは誰の子なのです。御尤《ごもっと》もなおたずねでござります、それを申し上げませぬことにはこのはなしの鳧《けり》がつきませぬからごめいわくでも今しばらくおききをねがいとうござりますが父がお遊さんとそういうふうなふしぎな恋をつづけておりましたのはわりにみじかいとしつきのことでござりましてお遊さんの二十四、五さいからほんの三、四年のあいだだったのでござります。そしてたしかお遊さんが二十七のとしに亡くなった夫のわすれがたみの一《はじめ》という児《こ》が痲疹《はしか》から肺炎になりまして病死いたしましたのでこの子供の死にましたことがお遊さんの身のうえにも引いては父のいっしょうにもひびいてまいったのでござります。それはそのまえからお遊さんが妹夫婦とあまりいききをしすぎるということが小曾部の方はなんともいうものはござりませなんだが粥川家の方でしゅうとめや親類のあいだにぽつぽつうわさのたねになっておりましてお静さんの気が知れないというようなことを申す者が出てまいりました。じっさいまたおしずがそこをどんなに巧くこしらえましたにいたしましても長い月日のうちにはしぜんうたがいの眼があつまってまいりますはずで芹橋《せりはし》の嫁は貞女が過ぎる、姉孝行にもほどがあるというかげぐちがやかましくなってまいりますにつけても三人のほんとうの胸のうちをさっしておりました叔母だけがひとりしんぱいしておったのでござります。しかし粥川家の方でもさいしょは噂《うわさ》をとりあげもいたしませなんだが一《はじめ》が亡くなりましたときに母親の注意が足らなんだという批難がおこってまいりましたのはそれはもうなんといわれましてもお遊さんのおちどなのでござりまして子供をいつくしむこころがうすらいでいたわけでもござりますまいけれども日頃からばあやまかせにするくせがついておりましたので看病のあいまに半日ほどの暇をぬすんでぬけて出ましたらそのあいだにきゅうに様子がかわりまして肺炎になったのだそうにござります。で、子供というものがあればこそたいせつな人でござりますが子供が死んでしまいましたらちかごろよくない評判もあるしまだうばざくらというにさえ若すぎるとしだし旁〻《かたがた》これはややこしいことがおこらぬうちに里へかえってもらった方がというような話になりまして引き取るとか引き取らぬとかいろいろとまたこみ入ったかけ合いがござりましたすえに誰にもきずがつかぬようにえんまんに離籍の件がまとまったのでござりました。そういうわけでお遊さんは実家へもどってまいりましたが小曾部のいえは当時兄さんがそうぞくいたしておりましたのであれほど親たちが可愛がっていた人のことでござりますし粥川家の仕打ちがあんまりだからというつらあての気味もござりましてそりゃくにはあつかいませなんだけれどもそこは親たちがおりましたときのようにはまいりませぬから何かにつけてえんりょがあったことでござりましょう。それに、小曾部のいえがきゅうくつでしたらわたしのうちへきていらっしゃいとお静がすすめましたけれどもそういうことをいいふらすものがあるあいだは慎しんだ方がよいからとそれは兄がとめました。おしずの説では兄は事によるとほんとうのことを知っていたのではないかと申すのでござりましてあるいはそうらしくもおもわれますのはそれから一年ほどたちまして再縁をすすめたのでござりました。相手は宮津という伏見の造り酒屋の主人でだいぶんとしうえでござりましたが粥川の家に出入りをいたしておりましたのでお遊さんという人の派手なきだてをむかしから知っておりまして、こんどつれあいに死なれましたについてぜひにというのでござりました。なんでもお遊さんが来てくれたら伏見の店《たな》などへはおいておかない、巨椋《おぐら》の池に別荘があるのを建て増してお遊さんの気に入るような数寄屋普請《すきやぶしん》をして住まわせる、それはそれはていちょうにして粥川にいたときよりももっと大名式に暮らせるようにしてあげるとけっこうずくめの話でござりましたので兄はのりきになりましてやっぱりそなたには福運がついてまわっている、そういうところへよめに行ってとかくの取りさたをする奴らをみかえしてやったらよいではないかとときつけるのでござりました。そればかりでなく父やおしずをよびまして世間のうわさを打ちけすためにもここは二人から上手に持ちかけてとくしんさせてもらいたいとのっぴきならぬようにいうのでござります。ちちがこのときにもしどこまでも恋をつらぬくけっしんでござりましたら心中いたしますよりほかはござりませなんだ。まったくのところそういうけっしんをいたしましたことも一度や二度ではなかったそうにござりますがそれが実行できずにしまいましたのはおしずというものがありましたからでござります。つまり、父の腹のなかを申しましたらおしずをおいてまいりますのは義理がわるうござりますしそうかといって三人で死にますのはいやだったのでござります。おしずもそれを何よりもおそれていたらしゅうござりましてきっと一緒につれて行ってくださりませ、いまになって除《の》けものにされたらなんぼうくやしいかわかりませぬといってあとにも先にもおしずがやきもちがましいことを申しましたのはこのときだけだそうにござります。なおもう一つそれにもまして父のけっしんをにぶらせたのはお遊さんをいたわる気もちでござりました。お遊さんのような人はいつまでもういういしくあどけなく大勢の腰元たちを侍《はべ》らせてえいようえいがをしてくらすのがいちばん似つかわしくもありまたそれができる人でもあるのにそういう人を死なせてしまうのはいたいたしいというかんがえ、これがなによりもつよくはたらいたのだと申します。父はそのきもちを打ちあけましてあなたはわたしの道づれにするにはもったいない人だ、普通のおんななら恋に死ぬのがあたりまえかもしれないがあなたという人にはありあまる福があり徳がある、その福や徳をすてたらあなたのねうちはないようになります、だからあなたはその巨椋の池の御殿とやらへ行ってきらびやかな襖《ふすま》や屏風《びょうぶ》のおくふかいあたりに住んでください、あなたがそうしてくらしていらっしゃるとおもえばわたしはいっしょに死ぬよりもたのしいのです、こういったからとてよもやあなたは私がこころがわりしたの死ぬのがこわくなったからだのというようなふうには取らないでしょう、そんなせせこましいりょうけんが薬にしたくもない人だから私も安心していえるのです、あなたは私のような者を笑ってすててしまうほど鷹揚《おうよう》にうまれついた人ですとそういったのでござりました。そうしたらお遊さんは父のことばをだまってきいておりましてぽたりと一としずくの涙をおとしましたけれどもすぐ晴れやかな顔をあげてそれもそうだとおもいますからあんさんのいう通りにしましょうといいましたきりべつに悪びれた様子もなければわざとらしい言訳《いいわけ》などもいたしませなんだ。父はそのときほどお遊さんが大きく品《ひん》よくみえたことはなかったと申すのでござります。  そんなしだいでお遊さんはまもなく伏見へさいえんいたしましたが宮津の主人と申しますのはなかなかよくあそぶ男だったそうにござりましてもともと物好きでもらった嫁でござりましたからじきに飽きてしまいましてのちにはめったにお遊さんの別荘へよりつかなんだと申すことでござります。しかしそれでもあの女は床《とこ》の間《ま》の置き物のようにしてかざっておくにかぎるといいまして金にあかしたくらしをさせておきましたのでお遊さんは相変らず『田舎源氏《いなかげんじ》』の絵にあるような世界のなかにいたわけでござりますが大阪の小曾部の家とわたくしの父の家とはその時分からだんだんびろくいたしまして前にも申しましたように母が亡くなります前後にはわたくしどもはろうじのおくの長屋にすむようなおちぶれかたをしておりました。さようさよう、その母と申しますのはおしずのことでござりましてわたくしはおしずの生んだ子なのでござります。父はお遊さんとそんなふうにして別れましてからながいあいだの苦労をおもいまたその人の妹だというところにいいしれぬあわれをもよおしましておしずとちぎりをむすびましたのでござります。と、そういってそのおとこはしゃべりくたびれたように言葉をとぎって腰のあいだから煙草入れを出したので、いやおもしろいはなしをきかせていただいてありがとうぞんじます、それであなたが少年のころお父上につれられて巨椋《おぐら》の池の別荘のまえをさまよってあるかれたわけは合点《がてん》がゆきました、ですがあなたはそののちも毎年あそこへ月見に行かれると仰っしゃったようでしたね、げんに今夜も行く途中だといわれたようにおぼえていますがというと、さようでござります、今夜もこれから出かけるところでござります、いまでも十五夜の晩にその別荘のうらの方へまいりまして生垣のあいだからのぞいてみますとお遊さんが琴をひいて腰元に舞いをまわせているのでござりますというのである。わたしはおかしなことをいうとおもってでももうお遊さんは八十ぢかいとしよりではないでしょうかとたずねたのであるがただそよそよと風が草の葉をわたるばかりで汀《みぎわ》にいちめんに生《は》えていたあしも見えずそのおとこの影もいつのまにか月のひかりに溶け入るようにきえてしまった。 底本:「吉野葛・蘆刈」岩波文庫、岩波書店    1950(昭和25)年8月30日第1刷発行    1986(昭和61)年6月16日第12刷改版発行 底本の親本:「谷崎潤一郎全集 十三巻」中央公論社    1967(昭和42)年 初出:「改造」改造社    1932(昭和7)年11月号、12月号 ※表題は底本では、「蘆刈《あしかり》」となっています。 入力:kompass 校正:酒井裕二 2016年1月1日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。