我が一九二二年 佐藤春夫 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)総《すべ》て [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#3字下げ] ------------------------------------------------------- [#3字下げ][#大見出し]序[#大見出し終わり] [#ここから1字下げ]  私達の友人は既に、彼の本性にかなはない総《すべ》ての物を脱ぎ棄て、すべての物を斥《しりぞ》けた。そして彼自らの手で紡ぎ、織り、裁ち、縫ひ上げたところの、彼の肉体以上にさへ彼らしい軽羅《けいら》をのみ纏《まと》ふて今、彼一人の爽かな径《みち》を行つてゐる。  他の何人に対してよりも、自分自身に対して最善の批評家であるところの彼は、つねにただ、彼の子供として恥しくない子供だけを生み、より[#「より」に傍点]恥しくない子供だけを育て上げてゐる。彼のと異つた芸術を要求することは固《もと》より許されよう。彼のにまさつて完全なる(或は完全に近い)芸術といふものは、たやすく現代の世界に見出されないであらう。  彼の芸術は、詩に於て最も彼らしきところを、最も完全なるところを示してゐる。  今の詩壇に対する彼の詩は、余りにも渾然たるが故に古典的時代錯誤であり、余りにも溌溂たるが故に未来派的時代錯誤であることを免れない。  嗚呼《ああ》、この心憎き、羨望《せんばう》すべき時代錯誤よ。時代錯誤の麟鳳よ。永久に詩人的なるものよ。 『永久に詩人的なるもの』私達の友人よ、ねがはくは彼によりて、彼を取りまける総ての者が、詩の天上にまで引きあげられて行くことを。 [#ここで字下げ終わり] [#3字下げ]一九二三年一月十四日 [#地から2字上げ]生田長江 [#ここから1段階小さな文字] [#ここから3字下げ] 月をわび身を佗びつたなきをわびてわぶとこたへんとすれど問ふ人もなし。 [#ここで字下げ終わり] [#地から1字上げ]芭蕉翁尺牘より [#ここで小さな文字終わり] [#改段] [#2字下げ][#大見出し]秋刀魚の歌[#大見出し終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] あはれ 秋風よ 情《こころ》あらば伝へてよ ――男ありて 今日の夕餉《ゆふげ》に ひとり さんまを食《くら》ひて 思ひにふける と。 さんま、さんま そが上に青き蜜柑《みかん》の酸《す》をしたたらせて さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。 そのならひをあやしみなつかしみて女は いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。 あはれ、人に捨てられんとする人妻と 妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、 愛うすき父を持ちし女の児は 小さき箸をあやつりなやみつつ 父ならぬ男にさんまの腸《はら》をくれむと言ふにあらずや。 あはれ 秋風よ 汝《なれ》こそは見つらめ 世のつねならぬかの団欒《まどゐ》を。 いかに 秋風よ いとせめて 証《あかし》せよ かの一ときの団欒《まどゐ》ゆめに非ずと。 あはれ 秋風よ 情あらば伝へてよ、 夫を失はざりし妻と 父を失はざりし幼児とに伝へてよ ――男ありて 今日の夕餉に ひとり さんまを食ひて 涙をながす と。 さんま、さんま、 さんま苦いか塩つぱいか。 そが上に熱き涙をしたたらせて さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。 あはれ げにそは問はまほしくをかし。 [#ここで字下げ終わり] [#地から2字上げ](大正十年十月)[#「(大正十年十月)」は1段階小さな文字] [#2字下げ][#大見出し]秋衣の歌[#大見出し終わり] [#3字下げ][#中見出し]その一[#中見出し終わり] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから2字下げ] 去年立秋ののち旬余の或る日、机に凭《よ》りて「情史」を繙《ひもと》き偶々巻二十四を開きしになかに洞庭劉氏といふ一項あり、 「洞庭劉氏 其夫葉正甫 久客都門 因寄衣而侑以詩曰、情同牛女隔天河 又喜秋来得一過 歳歳寄郎身上服 糸糸是妾手中梭 剪声自覚如腸断 線脚那能抵涙多 長短只依先去様 不知肥痩近如何。」 これに比ぶれば謝恵連が擣衣の篇のごとき徒らに美辞を弄《もてあそ》ぶものといふべし。われは三誦して秋夜の寡居に感はことのほか深かり。 [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 織姫《おりひめ》と身をなして おもふ人いと遠し、 歎きつつ織るものは なつかしき人に着られよ。 幾とせぞ 天の川 逢ふことぞ待たるるよ、 秋ごとに君に行き 君にそふ衣《ころも》ねたまし。 絹裂けば音《ね》にぞ聞く わが胸の千々《ちぢ》の切なさ、 縫ひゆけばなみだ落ち 縫ひきしむ針ぞ憂《う》たてき。 桁丈《ゆきたけ》は昨《きぞ》のままぞも わが心咋のままぞも、 憂《う》れたくも痩《や》せ給へりや 憂れたくも肥え給へりや。 [#ここから1段階小さな文字] [#ここから2字下げ] もとより即興の戯れにして原詩の哀切に対して恥づ。 [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] [#3字下げ][#中見出し]その二[#中見出し終わり] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから2字下げ] 洞庭劉氏の詩を三誦してよりのちまた月余、或るゆふべ身に秋冷をおぼえて自ら秋衣をさぐるに事によりてわが思ひ凄然《せいぜん》たるものあり。その夜筆をとりて「秋衣の歌」をつづれども意はありて詩は遂に成らず。これを筐底に投じ去りぬ。今年また秋衣の候となる。われは仮そめながら病に伏して他家に身を寄せたり。秋宵只一人の為めに長く孤愁は時に甚だ堪ふべからず。つれづれのあまり旧稿を思ひ出でて再び見んことを願へども協《かな》はず。蓋《けだ》し転々たるわが流寓のうちに失はれたるなり。乃ちこゝろにこれをたづねつつ漫吟し得て些《いささ》か意を遣りぬ。詞の稚拙は既に恥ぢざるなり。 [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 灯かげとどかぬ小暗《をぐら》さに さすらひ人の行李《かうり》より ひとり索《さぐ》ればわびしさよ 秋風に著る秋ごろも、 劉氏を妻に持たぬ身の わがとり出づる古ごろも ころもをとればそぞろにも おもかげぞ立つ 憂《う》き人は。 わりなきことを言ひいでて 恨むよしなき佳《よ》き人よ 汝《な》がいとし子の秋ごろも 裁《た》つ手をしばしやめよかし、 絹を二つに裂かんとき こほろぎの音をしばし聴け そのかそけさを胸に知れ つれなき人とならじかし。 人目を怖《お》ぢて 汝《なれ》はそも あわただしくも運ぶ手に そのほころびをつくろひし ころもは曾《かつ》て無かりしか、 今日《けふ》をかぎりの別れの日 吐息とともに汝《な》が置きて くつがへりたる味噌汁に しとどなる膝なかりしか。 劉氏は人の妻なれば ひとりとり出《で》しわがころも 濯《そそ》ぐべき人もとめねば 糸目もふるし古ごろも、 秋の灯かげにすわるとき 新らしく着る古ごろも 膝なる汚点《しみ》はわりなくも いみじき汝《なれ》を怨《うら》めとぞ。 [#地から2字上げ](大正十一年九月)[#「(大正十一年九月)」は1段階小さな文字] [#2字下げ][#大見出し]憂たてさ[#大見出し終わり] [#7字下げ](アアネスト ダウスン)[#「(アアネスト ダウスン)」は1段階小さな文字] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 我は悲しめりとには非ず、我は泣くこと協はず わが思ひ出のすべては、はた、眠につきつつ。 見守りつ、ゆく水の白く異《あや》しくなりまさりゆくさま、 日ねもす夕暮まで我は見守りつ、川面《かはのも》の変りゆくさま。 日ねもす夕ぐれまで我は見守りつ、雨の 窓がらすのうへ打ちたたくそのうれたさ。 我は悲しめりとにはあらず、ただ我は かつてわが願ひなりしもの皆に倦《う》んじ果てぬ。 かのひとの唇や、かのひとの眼や、ひねもす わが身には影の影なるものとはなりつ。 君がこころに焦《こ》がるるわが渇きは、ひねもす 忘れられしものとはなりつ、夕《ゆふべ》の来るまでは。 かくて我は悲《かなしみ》のさなかに遺《のこ》されつ、泣かんとす 夕《ゆふべ》は目覚めそむるわが思ひ出はかずかず。 [#ここで字下げ終わり] [#2字下げ][#大見出し]浴泉消息[#大見出し終わり] [#3字下げ][#中見出し]1 大ぶん熱が出ました[#中見出し終わり] 隣室の客は男ふたりだ。 酒をのんで、いつまでも 何だかくだらない議論をしやがつた。 やつと寝たと思つたら ひとりは直《す》ぐと怖ろしいいびきだ ひとりは又すばらしい歯ぎしりだ これではまるでさつきの議論のつづきぢやないか。 そのいびきをかうして聞いてゐると 自然、豚のことが思ひ出されるし 歯ぎしりの方はまるで柱時計のぜんまいを巻いてゐるやうだ。 おれは豚小屋の番人になつて 番小屋の柱時計に油の足りないねぢをかけてゐるのか知ら……… ゆうべの寝汗のしみ込んだこの掛ぶとん 何だかほし草のにほひがして来た…… [#3字下げ][#中見出し]2 だんだんよくなつて来るのです[#中見出し終わり] 浴泉は毎日、私のおできの 岩苔のやうにこびりついた奴を洗ひ落すが、 谷川の水は毎晩、私の心に流れこんで それが心の古疵《ふるきず》に何としみるかよ。 ひとりぼつちの部屋へ月がさすから 電燈を消したら おれの目から温泉が出たつけ。 [#3字下げ][#中見出し]3 よほど快方に向ひました[#中見出し終わり] 秋になつたら 小さな家を持たう、 小榻一椽書百巻 さうして 煙草とお茶とのいいのが飲みたい、 そこには花畑がいる、 妻はもういらない 童子を置いて住まう、 童女でも悪くはない、 さうだ、それよりさきに 一度、上海へ行つて 支那の童女を買つて来よう、 十四ぐらゐのがいい、 木芙蓉《もくふよう》の莟《つぼみ》のやうな奴はいくらぐらゐするだらう? [#地から2字上げ](大正十一年八月)[#「(大正十一年八月)」は1段階小さな文字] [#2字下げ][#大見出し]或る人に[#大見出し終わり] あなたの夢は昨夜で二度しか見ないのに あなたの亭主の夢はもう六ぺんも見た あなたとは夢でもゆつくり話が出来ないのに あの男とは夢で散歩して冗談口を利《き》き合ふ 夢の世界までも私には意地が悪い だから 私には来世も疑はれてならないのだ あなたの夢はひと目で直ぐさめて 二度とも私はながいこと眠れなかつた あなたの亭主の夢はながく見つづけて その次の日には頭痛がする ……… 白状するが私は 一度あなたの亭主を 殺してしまつたあとの夢を見たいものだ 私がどれだけ後悔してゐるだらうかどうかを [#地から2字上げ](大正十一年十二月)[#「(大正十一年十二月)」は1段階小さな文字] [#2字下げ][#大見出し]冬の日の幻想[#大見出し終わり] 霜ぐもる十二月の空は 干《ひ》ものやくにほひにむせび 豆腐やのちゃるめら[#「ちゃるめら」はママ] 聞けば 火を吹いておこすこの男の目に ふと どこかの 見たこともない田舎町の場末の 古道具屋の四十女房がその孕《はら》みすがたで 釣ランプをともすのだ かかるゆふべの積《つ》み累《かさ》ねに 聖《ひじり》ならぬわが厭離のこころはきざした。 [#地から2字上げ](大正十一年十二月)[#「(大正十一年十二月)」は1段階小さな文字] [#2字下げ][#大見出し]同心草拾遺[#大見出し終わり] [#2字下げ][#中見出し]つみ草[#中見出し終わり] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから8字下げ] 風花日将老 佳期猶渺渺 不結同心人 空結同心草 [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] しづこころなく散る花に 長息《なげき》ぞながきわがたもと なさけをつくす君をなみ 摘《つ》むやうれひのつくづくし。 [#2字下げ][#中見出し]別離[#中見出し終わり] 人と別るる一瞬の 思ひつめたる風景は 松の梢のてつぺんに 海一寸に青みたり。 消なば消ぬべき一抹の 海の雲より洩るやらむ、 焦点とほきわが耳は 人の嗚咽《をえつ》を空に聞く。 [#2字下げ][#中見出し]竜胆花[#中見出し終わり] 山路きて 君が指すままに わが摘みしむらさきの花、 君が問ふままに その名を わがをしへたるりんだうの花、 そのかの秋山のよき花を 今は ただしばしば思ひ出でよとぞ わが頼むことは わりなき。 我が一九二二年 畢 [#地から2字上げ](大正十二年二月)[#「(大正十二年二月)」は1段階小さな文字] 底本:「現代日本文學大系 42 佐藤春夫集」筑摩書房    1969(昭和44)年6月25日初版第1刷発行    2000(平成12)年1月30日初版第14刷発行 初出:秋刀魚の歌「人間 第三巻第一一月号」    1921(大正10)年11月1日発行    秋衣の歌「中央公論 第三七年第一一号」    1922(大正11)年10月1日発行    憂たてさ「新潮 第三七巻第二号」    1922(大正11)年8月1日発行    浴泉消息「明星 第二巻第四号」    1922(大正11)年9月1日発行    或る人に「東京朝日新聞」    1923(大正12)年1月3日発行    つみ草「蜘蛛 第三第五号」    1921(大正10)年8月10日発行    別離「明星 第二巻第六号」    1922(大正11)年11月1日発行    龍膽花「明星 第二巻第六号」    1922(大正11)年11月1日発行 ※「憂たてさ」はアーネスト・ダウスンの「Spleen」の訳出です。 ※「或る人に」の初出時の表題は「ある人に」です。 ※「つみ草」の初出時の表題は「支那の詩より」です。 ※「龍膽花」の初出時の表題は「龍膽の花」です。 入力:阿部哲也 校正:noriko saito 2016年3月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。