全羅紀行 柳宗悦 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)誘《いざな》った |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)朝鮮|瓦《がわら》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)璟 -------------------------------------------------------  昨年の旅はまた今年の旅を誘《いざな》った。朝鮮を訪う人は多いが、私たちのような目的で足を運ぶ者は始めてかもしれぬ。古い物を求める人はあっても、新しい物を捜す者は絶えてなかった。だが古い習慣をよく守る朝鮮では、昔を受けてまだ無造作に美しい品物が方々で出来る。昔の朝鮮を見たいなら、今の朝鮮を見るに如《し》くはない。私たちは今も続いて出来る品物に何があるか、それをもっと見たかったのである。更にまたどんな環境や心持から、それらの物が生れてくるのか、その根元をつきとめたかったのである。混《まじ》り気のない朝鮮を見るためには奥地へと入らねばならない。  今度選んだのは全羅南北の両道であった。そこは風土の利から材料に恵まれ、昔から様々な工藝品が発達していたのである。それに昨年行き得なかった土地でもあった。私たちはこの全羅行に長く憧《あこが》れを抱いた。  昭和十二年五月二日。早朝晴れ渡る半島の島々に迎えられて釜山に上る。京城からこの度の行を共にする浜口良光、土井浜一両氏と埠頭《ふとう》で落ち合う。朝鮮は何時《いつ》来てもすがすがしい。去年もこの頃であった。今度また揃って出かけることの出来たのも大きな悦びである。  まずこの地の蒐集家竹下隆平氏を訪ねた。竹下氏は朝鮮|瓦《がわら》の蒐集家として聞えているが、その蒐蔵の中には多くの見事な磚《せん》や瓦の外に、菓子型、筆筒《ひっとう》、真鍮《しんちゅう》の香炉《こうろ》など優品が多い。いずれも忘れ難いものであった。随分数多くを見ている吾々も、思いがけないものに逢って、新しい興奮を覚える。  町に出て今出来のものを漁《あさ》った。これを集めて会を開く予定があるのである。釜山の陳列所では石の火鉢や小刀が目を引いた。早くも朝鮮に逢えて吾々は悦ぶ。内地の何処《どこ》にでもあるようなこの陳列所の硝子戸《ガラスど》の中に、こんなものを見つけることは、砂原で青草を見るようなものであった。欠かさずに行く市場へとまた足を運んだ。常設された小店で色々なものが見つかる。蒸器《むしき》、黒釉《くろぐすり》の薬煎《やくせん》や蓋物《ふたもの》、または大きな水甕《みずがめ》など、買わないわけにはゆかない。近くの窯やまた遠くは谷城あたりからも来るようである。往来に全部一列に並べて勘定にかかる。早くも人だかりに逢う。六角の駄墨《だぼく》、その形や模様に惚《ほ》れ込んで一包の凡《すべ》てを購《あがな》う。真鍮製の食物|容《い》れ、これは洗面器に誰でも悦ぶであろう、形のよいのがあれば見のがさずに選ぶ。常設の市場といっても、未だ幾分風土的な色彩が残っているのが嬉《うれ》しい。こういう色の少しでも残った所を求めては終日歩き廻る。  夕方晋州へと旅立つつもりであった。だが自動車の定員がわずか三名である。この不便な法規は私たちの計画を無駄にさせた。止《や》むなく海路を選んで出発の時を待った。星の光が冴《さ》え始める頃、吾々一同は沿岸航路の小蒸汽船に投じた。船は閑麗水道の小さい港々を縫って全羅道木浦に向うものだ。月は早く落ちて海は暗かったが、黒々とした無数の島々を見送りながら早足に進んだ。  五月三日。早暁麗水の湾に入る。今日もまた朝鮮晴れの天気だ。行手の丘にこの国の古い大きな建物が聳《そび》えているのを臨む。かつての庁舎だというが、この港に一沫《いちまつ》の潤いを与え、辺りの景色を引き立たせてくれる。上陸して後に知ったが、今は贅沢《ぜいたく》にも小学校に使われているという。麗水は昔からその美しさで名を得たものであろうが、今は新《あらた》に開けた港になって、見るべき風物は少い。直ちに順天へと急いだ。この町で私たちは道庁から廻された自動車に迎えられた。案内のため孫錫度氏がわざわざ来られた。同氏は京城大学の出身で、若い立派な事務家である。この日から数日の間私たちは同氏の厚誼《こうぎ》を受けた。  順天では郡守具滋璟氏に会う。温良|敦厚《とんこう》な紳士、数々の配慮を受けたことは深謝に堪えない。私たちには立派な性格の人として永く記憶に残った。順天は古い都城で、今でもかなりな町だ。幸にも幾分旧態が残る。具氏の案内で徐丙奎氏の家を見せてもらう。石垣を廻《めぐ》らした素晴らしい民家の中に囲まれて、この両班《ヤンバン》の住居は隠されていた。門を這入《はい》るとお寺かと思われるほどな規模で数棟の見事な建物が、白い砂の上に夢のように浮き上っていた。徐氏は如何にもこの国らしい老|大人《たいじん》。愛息の徐廷権は拳闘家として知れていると言う。茶を呼ばれたが先を急ぐ身、よい記憶を心に包んで此処を辞した。  順天では朝鮮靴、七宝の指輪、刺繍《ししゅう》の類など。中でも靴は形が卓《すぐ》れ細工も見事であった。惜しいことに今は一般にこの種のものが廃れ、到るところ護謨《ゴム》靴に代られている。あの色様々な美しい靴を並べた店が、朝鮮からほとんど消えてしまったことは、どんなに町から彩《いろど》りを奪ったことか。それにしても形だけは今も固守されているのは、見逃せない事実である。  一行六人、午後谷城へ向う。平明な全南の景色を送迎する。茂る樹木を見ると、あの岩山の北朝鮮とは際立った違いである。工藝の南国だという理由が読める。ここでは竹もよく生い繁る。途中谷城郡役所の藤本稲城氏に迎えられた。鴨緑江《おうりょっこう》(国境の河と同名)の明るい渓谷に沿うて、竹谷面下汗里の窯場を訪ねる。河の一支流を上った田の中にバラック建の新しい仕事場がある。これには一同落胆する。まさに帰ろうとしたがこの奥に別の窯場があると聞いて、元気づき渓川《たにがわ》を縫って溯《さかのぼ》る。飛石伝いを三度曲ればと草刈る村童に教えられて足を急いだ。川を離れると急に坂路にかかる。白土が掘られているのを見て心がせかれた。漸《ようやく》く頂に着いた時、私たちは既に窯場にいるのを知った。  この部落は登ってきた峠のすぐ裏側に全く隠されていたので、誰も思わず歓声を挙げた。峠から十歩もこない処で窯は既に煙を吐いている。部落は山裏の斜面に添うて素晴らしい配置を見せる。こんなにも自然の一部になり切っている建て方も少いであろう。人と自然とがここでは一つなのである。仕事場を覗《のぞ》くとそこにも山あり谷ありで、少しも自然の地形に逆《さから》わない。品物がこんな所に根を下していると考える。出来る物が凡て立派なのも、ここで謎《なぞ》が解けよう。その暮しぶりは仕事をどうしても醜くさせない。  しかしその日は谷城の市日《いちび》である。心がせかれるので窯場での買物は次の日に譲り、急いで山を降りた。谷城は小さい町であった。此処の市はこの旅で廻《めぐ》り会えた最初のものであった。朝鮮全土至る所の村や町では、定《き》まった日に五日おきぐらいに市が立つ。市日には凡そ五里四方ぐらいの物産が集散すると言われる。朝と夕とに街道に点々と人の列が見えれば、その村に市が立っていることが分る。市日はどこでも祭のような楽しさが伴う。人も物もこのぐらい純粋に集って動いている所は外には求め難い。市日では誰も朝鮮の朝鮮に会える。吾々は人込みを縫って目ぼしい品々を漁った。徳席(藁莚《わらむしろ》)、黄麻布、桝呑茶碗《ますのみぢゃわん》、杞柳《きりゅう》の弁当箱(トンクリチャツと呼ぶ)、鉄の蝶番《ちょうつがい》など。中で幾束かの美しい麻糸をさげて売っている。悉皆《すっかり》買おうと申込んだが、売主がおらず探しても現れず、ついに惜しい別れをしてしまった。今度は麻布を一まとめに買おうとしても、勘定が出来ず、纏《まと》めては売らないという挨拶《あいさつ》。如何にも朝鮮らしい市日の風物。こんな事情にも物が美しく作られる種がひそんでいよう。ここで買った白碗は、茶道の方で「ますはかり」と呼ぶものの親属なのだが、朝鮮では今も濁酒《にごりざけ》(マッカリ)の桝《ます》であると同時に盞《さかずき》なのである。茶道の「ますはかり」が本来の用途から出た桝量りという称呼なのか、あるいは容《い》れる濁酒(マッカリ)から出た呼び方なのか、それとも主語「まり」から来たものなのか、いずれにしても興味を惹かれる。この白磁《はくじ》の茶碗は確かに全羅南道のどこかで焼かれているに相違なく、窯場の所在が知りたく色々尋ねたがついに判明しなかった。(後に見出した高敝のものと甚だ似通う)。  夕方谷城を立って光州に着いた。ここは全南の都で町々は賑《にぎわ》う。私たちは泉屋旅館に旅装を解いた。夜は料亭春木楼で松本知事主催の歓迎宴が吾々のために設けられた。知事始め、内務部長、府尹《ふいん》、その他光州知名の紳士列席。中に湖南銀行頭取玄俊鎬氏は調理のことに精《くわ》しく、朝鮮料理について何かと舌をそそられる多くの話を聞いた。宴席が純朝鮮の料理であったことは、何より嬉しいことであった。色々と言い難《がた》い珍味に出逢う。とりわけ数々の塩辛の味が忘れられない。どの国でもそうだが、料理より国をまともに味わせてくれるものはない。  五月四日。早く光州を立って潭陽を指した。そこは著名な竹細工の村。誰でも知るあの朝鮮の簾《すだれ》はおおむね此処の産である。潭陽も古い都城のあった処で、城外を流れる清流に沿うて、丘には亭閣《ていかく》が聳《そび》え、岸には柳と欅《けやき》との美しい並木が続く。南国の朝鮮だという感が深い。長い土橋を渡ると道は丘に上る。古びた孔子廟《こうしびょう》を中心にして村の家々は斜面に群《むらが》る。この村で見た書堂は忘れ難い。内地の古老から話に聞く寺小屋より、もう一時代前のものとさえ思われる。温突《オンドル》部屋二た間に溢《あふ》れるほどつまった小童が、あぐらをかいて身体をゆすぶって大声を挙げながら素読《そどく》の雑唱をやる。きっと身体を振る、大声を出す、そうして勝手に読む、時には喧嘩《けんか》を交える。先生の煙管《きせる》が頭にぴしゃりと来る。こういうやり方が、此処では今も素晴らしく活きている。一言で後《おく》れたやり方だと看過《みす》ごせるであろうか。  この部落の竹細工は全村の分業で、割る家、削る家、編む家、梳櫛《すきぐし》を組む家、焼絵《やきえ》を施す家、いずれもそれぞれの専業に分れる。どの家も別段仕事場らしい室があるのではなく、銘々の部屋が直ちにその仕事場である。此処では家庭と仕事とが二つではない。  ある櫛を作る家を訪ねた。四畳ほどの温突部屋に朝鮮着物の三人の女たちが余念なく櫛を編んでいる。その様子はどうしても唐時代の絵としてより以外に受取れない。一番小さな女の児《こ》の桃色の着物が、暗い室を明くした。何をしているか分らぬほどの手早いその技、ここにも手工の奇蹟が働く。百編んで三銭の仕事という。  予々《かねがね》見たいと希《ねが》っていた焼絵の技もこの村で見ることが出来た。どんな鋭い鏝《こて》であの微細な線を引くのか、どんな画工があの巧《たくみ》な図取りを描くのか。凡ては予想を覆してしまった。あの盤陀附《はんだづ》けに使うような、太短い焼鏝を使うではないか。それであの細かな絵を焼き附けてゆくのである。その仕事の安易さに驚かされる。屋外に焜炉《こんろ》を置いて、室の壁にあけた小穴から鏝を通しては灼熱《しゃくねつ》する。さて右足の拇指《おやゆび》に焼鏝の柄《え》を宛《あ》てがい、右手で鏝を、左手で竹を動しながら、巧《たくみ》にす早く絵附けをする。やや鏝が冷めかかると、それで暈《ぼかし》を入れる。細かい絵であるからわずかの動きで浮き出てくる。いくら見ても見厭《みあ》きない。吾々は工人たちが知っている限りの図柄《ずがら》を竹篦《たけべら》に焼附けてもらった。花や鳥や魚や樹《き》を実にうまく見る間に描いた。模様を掴《つか》む力がまだ昔のままに活きている。  潭陽には産業組合があって仕事をしている。倉庫の中に入って色々な買物をした。竹簾《たけすだれ》、竹皮細工、色染竹文庫、櫛《くし》、扇《おうぎ》、団扇《うちわ》、竹籠《たけかご》などの数々。中でも簾は上等の品になると絹を見るようで、技は昔と変りがない。竹皮の品物はこの地での新興産業で、細工も見事、形も確実である。  この部落では梳櫛《すきぐし》の色附《いろつけ》に昔から尿を使うといわれる。試験所が命じてアンモニアに置き換えさせたが、思わしく色が出ないという。その後どうしているか。羅州盤の継目《つぎめ》の漆に糞《ふん》を混ぜるという話を想い合わせて、色々と考えさせられる。よい羅州盤は継目が決して壊れないという。この村の民家の台所で始めてクシ(松の一木作《いちぼくづく》りの俎板《まないた》兼食器洗い)が使われているのを見た。小さい土間の壁際に置かれたこのクシは、簡素な食器と共に台所を引き立てていた。余りの美しさに所望して荷積《にづみ》し、今は民藝館に納めてある。どの家でもこれを使う。  午後の旅程は智異山であった。そこの華厳寺《けごんじ》で山僧が昔から刳物《くりもの》をやる。仏器のみならず日常の用品をも作る。  その木工品に心を惹かれて潭陽からまた南に道を下った。再び谷城を過ぎ求礼に出で、山を指した。その麓《ふもと》の谿間にこの巨刹《きょさつ》が休んでいる。  境内《けいだい》では頻《しき》りに雉《きじ》が鳴いている。樹立《こだち》の繁みは深い。華厳寺の建物は堂々たるものであった。生憎《あいにく》金堂《こんどう》は今大修理中で見ることが出来ない。この寺は新羅《しらぎ》時代の石塔|石燈《せきとう》を以て殊《こと》に名がある。結構の比例またとなく美しく、彫刻もまた甚だ壮麗、暫《しばら》く私たちの足を留めさせた。朝鮮はいつも石彫の朝鮮である。  だが私たちは山僧の工房へと急いだ。そこの木工漆器は僧侶《そうりょ》たちの副業として名がある。しかし残念にも全《すべ》ての期待ははずれた。誰の指導であるのか、新式の轆轤《ろくろ》を据え、形も日本のものに近づき、作行《さくゆき》も朝鮮固有の美しさを失ってしまった。こうなっては選び出す物はわずかよりない。朝鮮は朝鮮風に作らなければいけない。そうすればどこへ出しても引け目はない。私たちは少からず失望して山を降りた。その時一人の寺男が背負う網袋に目が止った。素晴らしい形なのである。草編《くさあみ》であるが、下の二隅をなおも紙縒《かみより》で差し、いやが上に丈夫にしてある。そこがふくらんで形を更に美しくする。私たちはこの一個を譲り受けて、華厳寺の思い出を清めた。その夜は求礼の朝鮮宿に泊ろうとしたが、適当の室なく、車を再び谷城に戻した。そこの谷城館で一泊。  五月五日。谷城の城外数里にある梧谷面梧枝里を訪う。ここをわざわざ訪ねたのは去る三日この村を過ぎて、その美しさに心をいたく惹かれたからである。途中街道に沿うて新築された祠《ほこら》に思わず車を止めた。ここでは下にふくれる四つの柱の自然な形が、誰の言葉にものぼった。今でも純朝鮮風に建てるものはほとんど皆間違いがない。梧枝里は裕福な村と見える。どの家も相当に大きく、皆一様に花崗岩《かこうがん》の玉石で築いた塀を繞《めぐ》らしている。小道はこの石塀の間に狭まれて、野川が自由に流れているように曲りくねり、交《まじわ》り合って果《はて》しなく吾々を歩み楽しませる。塀の上からは枝が垂れ、春のこととて花が咲き乱れる。近くから澄んだ砧《きぬた》の音が洩《も》れてくる。窺《うかが》えば青衣《せいい》を纏《まと》った一人の女が調子も静に砧をたたく。凡ての村がさながら一つの庭で、川辺の堤に寄り沿って静に集る。此処の面長安圭善氏の家では立派な藁《わら》作りの徳席やフゴ(箕《み》)を譲り受けた。  書堂に通う二、三の子供が小道から出てくる。手には一冊の本をかかえている。頼んで見せてもらう。凡て写本である。表題には「推句《すいく》」とある。繙《ひもと》いて見ると一行五字で悉《ことごと》く対句《ついく》である。始めは天高く地低しの句から起して、様々なことを歌ってある。が私たちは次の句に来て想わずも声を挙げた。 [#ここから1字下げ] 「向飯蠅先集  如厠犬先走」 [#ここで字下げ終わり]  これほど端的に朝鮮の生活を示した句もない。自然を友として暮す日々、衛生以前の生活、健康を事としない健康、これこそは朝鮮の品物のあの不思議な謎《なぞ》を解いてくれる鍵《かぎ》ではないのか。美しさが何か遠い奥から来ている。手だけの仕事でもなく頭だけの仕事でもない。もっと別な泉にまで溯《さかのぼ》らずば、正体を掴《つか》むことは出来ないであろう。朝鮮の美しさは浅い美しさではない。  忘れられない言葉を繰返しながら、私たちは再び河に沿った街道を進み、道を折れて再び下汗里の窯場を訪ねた。今日は仕事がある。部落の人たちに頼んで、今までどんな品物を作って来たか、家々の台所から様々なものを持って来てもらう。高坏《たかつき》、茶碗、皿、壺、鉢など見たいと思ったものが椽《えん》にずらりと列《なら》ぶ。その現物と一々照し合せ、画を描いて寸法を定め注文にとりかかる。天目《てんもく》と白磁《はくじ》との両方である。凡てで幾百個になったのか。さて支払になる。だがこんな大量の注文に逢ったことがないので、算用が出来ないという。止むなくこちらで計算を引受ける。その部落の人たちは百円以上の金には全く困惑すると見える。朝鮮では算用の出鱈目《でたらめ》なことを「甕算」という由、想い合せて面白い。沢山の金なんか扱う要のない生活、算用の厳しくない暮し、こんな境地が何かを齎《もた》らすのは当然ではないのか。品物の美しさを眺めて因《よ》って起る処の遠いのを想う。吾々には何かの病気が宿るのではないか。  こんなことを想って山を降り車を長城へと向けた。再び谷城を過ぎてほどなく昌平の町を過ぎた。見れば人の群る市日である。機会を逃すわけにはゆかない。吾々は皆|雑鬧《ざっとう》の中へと入った。どこの市でも魚を売る。鼻を衝《つ》くのはうれかかった赤鱏《あかえい》の猛臭である。壺《つぼ》の中にはその切り身の塩漬けが唐辛《とうがらし》に色を染めて、人々を集めている。吾々には手の出しかねる食物。だがここに住む人たちはやはり病菌以前の生活を営むと見える。半腐《はんぐされ》の肉のうまさを恐れるのは、吾々に病気があるからではないか。ここでもまた濁らない歴史以前の生活の強みを見せつけられる。吾々は余りに潔癖になり過ぎている。潔癖にしなければならない生活に陥っている。朝鮮に渡って以来私たちはほとんど朝鮮の食物ばかりを取った。実際にうまいのである。私たちはこの町でも土地の飯屋で昼食をとった。骨董飯《こっとうめし》(ピピンパッフと呼ぶ五目飯)に舌鼓を打った。味の複雑さは日本のそれに比すべくもない。純|糯米《もちごめ》から作るというここの薬酒(ヤクチュウ清酒)の味は忘れられない。いずれも自家造りである。  日程は多量だった。まだ長城が残されている。長城は全南随一の紙業地である。そこに着いたのはもう午後も三時に近かったろうか。幸にも紙業組合理事李廷善氏の案内を受けて紙漉《かみすき》の仕事場を見ることが出来た。場所は上蜈里と言い、主として温突《オンドル》用の原紙を作る。その作業場は見ものであった。長さ二間半にも余るだろうか、太い欅《けやき》一本で出来た二肢《ふたあし》の大きな杵《きね》が置いてある。十人も掛って二肢の所を踏みつけ、杵を上げては下ろす。重ねられた温突紙がその重みの下で出来上るのである。こんな原始的な力を持つ紙は日本にはない。今は新しい法を取り入れて乾燥《かんそう》に鉄板を使うが、少し昔は皆野天干しであった。温突紙は厚さによって区別される。同じ全羅道内でも南道ではこれを三|甲紙《こうし》乃至《ないし》六甲紙に分ち、北道では三倍紙乃至八倍紙に分けるのだという。もとより数の増すのは厚さが増すのを意味する。油塗のこれらの紙が朝鮮の床に皮革のように光る様は誰も知るところであろう。もとより此処では温突紙の外、壮紙《そうし》あるいは明紙《みんし》を作る。質が甚だよい。後者は明代に法が渡ったのでその名を得たという。その他広く知られているあの苔紙《たいし》を作る。苔紙はその苔紙が曲るのを尊び、直線になったものは死苔といって賞美しない。どの紙も材料は楮《こうぞ》である。つなぎに黄蜀葵《おうしょっき》を用いる。鮮語ではタクプルと言って楮糊《こうぞのり》を意味する。日本でいう「とろろ」である。私たちはここで各種の多量の紙を注文に及んだ。特にパルプを避け、純楮古式の紙のみを頼んだ。もしその正格を守るなら朝鮮の紙は天下第一のものとなるだろう。私たちは古代に帰ることがかえって朝鮮紙業の名誉を高め繁栄を齎《もたら》す所以《ゆえん》となるのを信じて疑わない。  帰る折私たちは畑越しに見えた長い土塀の家に心を誘《さそわ》れた。李氏に案内を乞うてその家を訪ねた。名は李致鳳氏。主人はかつて熊本に住まれた事があるという。「私はお国の方に親切にされたことがあるので、貴方《あなた》がたのお出《いで》になったことを悦びます」と言われた。吾々を快く内に迎えて、やがて酒を勧められ膳《ぜん》をさえ用意せられた。想い設けぬこの歓待に私たちは恐縮するほかなかった。忘れられないのは、その中庭にあった漬物甕の一群、牛小屋にあった秣入《まぐさいれ》のクシ。特に後者は欅出来の素晴らしい形であった。(後に李廷善氏の斡旋《あっせん》でこの秣入を譲り受けた。今は民藝館に飾ってある)。辞を厚くしてそこを出た時、空はもう暮かかった。だが街道の居酒屋でまた引っかかった。酒にではない、酒を呑《の》む例の白磁の茶碗にである。私たちはここで美しい二、三の品を手に入れた。そうしてそれが長城の市日にも出、そこから遠くない高敝の窯で焼かれるのを知った。私たちは躊躇《ちゅうちょ》なく五百個分を注文することに決めた。李氏は快く中に立って発送を約束された。  その日長城から光州に還《かえ》った時は夜も大分|更《ふ》けていた。同じく泉屋で夢を結んだ。  五月六日。今日は羅州行の日である。朝鮮の膳《ぜん》を好む人たちは、羅州盤の名を長く聞いたであろう。私たちはその産地を早くから旅程に加えた。いつもの如く同行六人、朝早く光州を立った。しかしあの繁栄だったという膳の業者は今はほとんど絶えてしまった。町に出て羅州盤を求めようとしても、売る店はもうない。だが幸にも李錫奎と呼ぶ一人の名工が活きている。案内されてその工房を訪ねた。もう老人であった。その息子や弟子が仕事を助けて注文を受けるのである。ここの仕事ばかりは手堅いという。出来たものを見ると形に無駄がなく塗も正直で、仕事にそつがない。だがそれだけに他より値は高い。思いようによっては物がよいだけに安いとも言えよう。私たちはここの羅州盤を数多く注文した。この老工に頼む機会も当分来そうになく想えたからである。彼がいなくなったら仕事を継ぐ者は絶えはしないか。安ものに押されてよい品を注文する者がなくなってくるからである。  この家で使っていた美しい鉄金具の附いた箪笥《たんす》には心を惹かれた。同じものを作ってもらえるかと頼んだ。しかし老工は承知しなかった。材料の気に入ったのが今は得られないから作らないという。豊でもない彼がこの金目の品を引き受けるのを、きっぱり断る気持ちに私たちは打たれた。老人の寿命に祝福を念じた。  その家の台所の板張りの見事なのに驚く外なかった。大体朝鮮ではお寺でも民家でも宮殿でも、温突《オンドル》部屋以外の床や椽側《えんがわ》の板の張り方は皆一様で構造的で非常に美しい。内地では根太《ねだ》や框《かまち》の上に板を張りつめるのが普通であるが、此処では根太や框の間に一尺から一尺五寸幅ぐらいの板を切って張りつめる。何処の家でも舎楼(サラン客席)でも太い框の間に小きざみに張られたこの板の床は、どんな立派な寄木細工《よせぎざいく》よりも美しい感じを受ける。時には框は曲ったままで使われているが、板も曲りに応じて切って張られる。規矩法《きくほう》につかまらないことは心にくいばかりである。  羅州から栄山浦に出で南平を指した。六の日はそこに大市が立つからである。此処の市は殷盛《いんせい》なものであった。場所も大きく、市の立て方も昔風で、集る者も売る品も純粋で混り気の少いものであった。此処で私たちは三尺大の大甕《おおがめ》や、その他鉄金具、丸彫《まるぼり》のパカチなど幾種かを求めた。発送は面長の厚誼《こうぎ》を受けた。面の役所は古い李朝代の立派な建物で、前に幾多の善政碑が並ぶのは見ものであった。  しかし私たちは光州への帰りを急いだ。なぜなら松本知事の肝入《きもいり》で、吾々を囲む内鮮人の座談会が道庁で催されることになっていたからである。話題はもとより朝鮮の生活と作物とについてである。来会者の半《なかば》が志ある朝鮮人であったことは有難かった。如何に朝鮮では未だ立派な作物が数多く残っているか。その美しさが如何に深く生活に根ざしているか。そういう力を喪《うしな》った日本では、如何によい品物を産むことがむずかしくなっているか。だから日本の影響を受けない固有の品物の方が如何に立派であるか。もしそれをわずかの変化を加えただけで今の生活に使えるようにしたら、如何に将来の仕事が大きいか。朝鮮固有の品物が有つ価値への正しい認識がどんなに必要であるか。朝鮮人は朝鮮の品に何より自覚を有ってほしいこと、それを尊重し生長さすことが如何に為政者の大事な任務であるか。私たちはこれらのことを理論からではなしに実際の品物について、吾々の経験に照らして親しく語り合うことが出来た。結局私たちは「大したものだ、何しろ大したものだ」という言葉を繰返すばかりであった。品物からまた生活から受けた悦びの声は、人々から笑われるほどであった。しかしこの悦びは誰かに通じたであろう。よい集りであったことを吾々は感謝した。朝鮮を賞める話ならもっとやりたい。  五月七日。この日こそは光州の大市日である。市日なくしては朝鮮の品物は乏しい。だが出盛りは十時頃からというので、私たちはこれまでに商工奨励館や主な店々を廻るに決めた。幸いに幾種かのよい品々が眼に入った。嫁入の調度や仏器の類には特に朝鮮の匂いが強い。中で吾々を悦ばせたのは両側に刺繍《ししゅう》のある枕(コールピケ)であった。花や鳥や蝶や様々な図柄を色糸で繍《ぬ》う。朝鮮ではこんなに彩《いろどり》の多い品は少い。あれば色を子供らしく無邪気に配る。模様がうぶで、純で、どこか西欧の農民工藝と通じるところがある。この種の刺繍枕は京畿道あたりにもあるが、おそらく光州のが一番であろうか。技巧が達者でないだけかえって醇朴《じゅんぼく》である。  光州は全南の都だけにその市も大きい。惜しい哉《かな》近代の設備を加え、常設の小屋を規則正しく配置したため、朝鮮の俤《おもかげ》が乏しくなった。しかし廓外《かくがい》に野天の広場があって、そこでは雑然と昔ながらの風で物を売る。ここの方が遥かに市日の趣きが濃い。私たちはこの日鉄釜やクシや焼物の類を沢山集めた。それは大した量に登った。チゲ(朝鮮の荷負人夫《においにんぷ》)を集めること十幾人、これを一列に並べ、山なす荷物を背負わせて、孫君が先頭になり商工奨励館まで運んでもらう。盛んな光景でさながら一連の隊商の如くであった。  昼食は玄俊鎬氏に招待せられた。松本長官同席。玄氏の邸宅で純朝鮮風の数々の珍味。同氏の厚誼《こうぎ》に深謝の外ない。中で花彩《かさい》という飲みものの味が忘れ難い。蜂蜜、躑躅花《つつじばな》、青豆、片栗粉などを調味したものであったが、不思議に活きた味と高い香りがあった。鮹《たこ》の料理が出された時、主人は「これは堅い、鮹は真水を飲ませなくては柔らかくなりません」と自ら立って台所に行く。ほど経《へ》て出された鮹の料理のほどよき柔らかさと旨《うま》さ。食通の多い世の中にも、この家の主人のように料理に情熱を有つ人は少かろう。鮹に因《ちな》んでの主人の咄《はなし》がまた一段と面白かった。玄氏の郷里は同じ全南の霊岩郡の美岩面という所、この地の漁婦は毎日|獲《と》れた鮹を担いでは市に運ぶのだが、毎日、二里|乃至《ないし》十里、平均一日八里の途《みち》は歩くという。この割合で計算を進めると、一カ月間に二百四十里、一年間に二千八百八十里、十年間には二万八千八百里を歩く勘定になって、世界一週をしたのと略々《ほぼ》同里程になるわけだそうな。だから今見たと思って次に振り返ると遥かな向《むこう》に雲のように走って行くという話であった。私たちは舌と眼と耳とで御馳走になった。  一行の浜口君は学校の仕事があって帰城するので駅に見送った。残る五人は再び車を南に走らせて木浦を指した。行く行く羅州を過ぎる時、偶々《たまたま》市日に出逢った。市場は正綏楼の門内にあった。既に午後の出盛りを過ぎたひなびたこの市は、五月の斜陽の下に淋しくも楽しいものであった。古い面影そのままで朝鮮を見る感が深い。私たちは売れ残りの焼物の中から味深い幾多の品を拾うことが出来た。おそらく質の劣るものだけ残されたのであろうが、吾々からするとよいのだけ吾々に残しておいてくれた感じである。  門内に数基の鉄碑がある。昔の牧師の頌徳《しょうとく》のために建てられたものであるが、石台の上に立つ雄渾《ゆうこん》な形には何かノルマンの碑石を偲《しの》ばせるものがある。粗末に放置してあるが当然特別な保護を受けてよい。  車は南へ南へと夕ぐれの光を浴びて走った。丘の間から海が現れてはまた消える。峠から眺め下ろした入江は湖水のように美しい。柔かい光を受けて島々を静かに浮ばせ、夢のような画境を吾々に贈る。忘れもしない。木浦に近づいて終りの峠を越えた時、突如として吾々の前に開けたのは夕日をあびる儒達山の光景である。鋭い岩壁のそそり立つ二た峰の山懐に、さながら蔦《つた》でも生え上るように、小さな民家が下から上へと重り合って、まつわり着く。あの灰色の柔かい傘を有った蕈《きのこ》が、丘一面に集り合って生い茂るようにも見える。山に眠る家、家を庇《かば》う山、人と自然とがここでは互に抱き合う。あの家々がなくばあの山々はなく、あの山がなくばあの家々はない。こんなにも不思議な美しさを有つ場面がこの世にそう沢山あろうとも考えられぬ。金剛山で朝鮮は名をなすが、木浦は儒達山で名をなしてよい。否、全鮮に幾つかの風光を数えるとしたら、私たちは夕べの儒達山をその一景に加えるであろう。画家であったら筆を染めたい。木浦の町は忘れるとも、あの神秘な儒達山は忘れないであろう。左右には遠く水がけぶる。私たちは立ちつくした。  沈む日に促がされて宿に入る。  五月八日。起きて木浦の公設市場を見る。この朝の主なる収獲は、木工品、竹工品、陶器、その他。予期以上の種目であった。中でも購《あがな》った粗陶器の量は多い。これらは皆水甕や漬物甕や鉢等に用いられ、どの民家も十や十五持たない所はない。青磁や白磁や染附《そめつけ》の焼物に比べてごく質素なものではあり、今も盛に焼くものであるから、誰も粗末に見て庇《かば》ってはくれぬ。しかし何であろうと朝鮮固有の品に醜いものはあり得ない。これらの品が仮りに絶えたとするなら、朝鮮の焼物として驚きを以て振り向かれる時が来るであろう。粗末でも健全である。形に間違がない。  昼は思いがけなく府尹《ふいん》である未知の増田道義氏から饗応《きょうおう》を受けた。これも不思議な縁であった。柳の朝鮮に関する著書が仲立ちであった。私たちは旧知の友の如く、心おきなくお互に語り合った。同氏の朝鮮に対する誠実なまた情熱のある態度は、私たちの心を明るくさせた。役人としてこんなにも朝鮮の生活に喰い入ろうとしている人は異例に属するであろう。剣道にいそしむ同氏の生活も、同氏をますます精神家にさせているように思える。話題は自《おのず》から朝鮮のことに集中する。そうして木浦の将来を語り、また儒達山のことに言い及んだ。同氏の話では木浦府今日の発展が、朝鮮人を段々儒達山の上に追い上げて行ったが、保健状態は劣悪だし、山の眺望がために壊され木浦中の困りものとしてしばしば問題に上るという。だが吾々から見ると、美しい民家の群に飾られた儒達山こそは、木浦随一の風物である。私たちはその保存が木浦市民に課せられた一つの名誉ある義務であるのを強く述べた。話は尽きなかったが、忙しい日程がまた吾々を待っている。私たちは再び会う日を望んでこの町を辞した。光州へと一旦戻るのである。  途中多侍面を過ぎた時、人の往き来で市日と知れた。私たちは車を止めた。市は綺麗《きれい》な石川の岸に沿うた小さな空地に開かれていた。川岸の小石の上に色々な品物や人が並んでいる。一面の緑の平野の中に、ぽつんと此処だけは賑《にぎ》わしい。ここは有名な多侍|木綿《もめん》の産地と聞く。質極めてよく、一反の値が八、九円から、上等品になると二十円を呼ぶ。もとより手紡《てつむぎ》手織の白木綿である。宇治では一斤六、七十円の玉露《ぎょくろ》が作られ、東京では一帖四十円の海苔《のり》があると言う。人知れず賞味する者があっての精品であり価格でもあろう。多侍のような田舎の木綿が、それほどの市価を呼ぶのも、これを愛する者が何処かにいるからであろう。思い合せて人間の有つ一つの深い面に触れる想いがある。私たちはその一反を求めた。木綿の織物としては至り尽したものと言えよう。長く続いてくれればよいが。  この夜光州の泉屋にて一泊。明日はここを立たねばならないから、一同荷造りに夜を更《ふか》した。  五月九日。長官始め多くの方々に別れを告げて光州を立ち汽車で裡里へ向った。六日の間案内を受けた孫君ともここで別れ同行四人となる。またも市日を追う吾々である。まもなく素晴らしく賑かな雑鬧《ざっとう》の中に吾々を入れた。ここの市は大きい。鉄路が交り物資が集散する所と見える。ここで金具、匙《さじ》、櫛《くし》、小形のパカチなどを銘々の網袋につめた。  汽車を待って更に全州へと向った。ここは全羅北道の都である。この旅での重要な土地の一つであるのは言うまでもない。着くや否や車を商工奨励館へと急がせた。日曜ではあり既に時が過ぎていたが、光州から前以て通知されていたため、扉は吾々を待っていてくれた。館長高津氏の好意で品々を見たが、ここは思いに優《まさ》る豊な倉庫であった。続いて現れる品物に私たちは思わず声を挙げた。石器、挽物《ひきもの》、硯《すずり》、墨、小刀、団扇《うちわ》など、多量の収獲が吾々を迎えた。とりわけ石器は予々《かねがね》私たちの求めていたもの、挽物と共にそれが全北のものであるのを知り得たのは悦びであった。私たちの心は早くもその産地へと動いた。石器は長水、木器は雲峰である。地図は道の遠いのを示している。しかしどうかしてゆきたい。  夜も迫って銀杏屋《いちょうや》に泊る。大きな宿。  五月十日。全州の道庁を訪う。松本長官の紹介により孫知事、金産業課長に会う。私たちの旅の目的によい理解を示されたのは感謝に余ることであった。一台の自動車と一人の案内者とを提供せられ、自由に調査するようにとの伝言であった。かくして二日間の遠出は私たちの旅に更に幾多の品物と幾多の悦びとを加えた。偶々《たまたま》案内に来られた朴衡鎮君が計らずもかつて柳の講義を聴き、その著書を愛読されているのを知って、その奇遇に驚かされた。朴君はかつて大邱において農村の副業に尽瘁《じんすい》したという。これ以上の案内者はない。同君が計画したという藺草《いぐさ》(ワングル)の上沓《うわぐつ》は形も細工も見事であった。  車は遠く南原を目指すのである。ほどなく街道の左手に楮《こうぞ》を漉《す》く仕事場を見つけた。舟も乾《ほ》し場も野天である。何も大ぎょうな施設はない。これで天下第一の紙が生れるのである。楮紙の最上なものは全州産だという。暫《しばら》くして任実の町にさしかかった。幸《さいわい》にもまた市日に出会う。たちまち四人の眼が忙しく働く。思い切って私たちは大きなものを買った。一つは竹でこしらえた鳥籠《とりかご》である。やや長めの卵型で長さは一間余りにも及ぶであろう。どんな所からこんなにも大胆な形を捕えて来るのか。胴中にあけられた四角の窓は鳥の出入口である。(今は山形県|新庄《しんじょう》の雪害調査所の陳列室に在る)。一つはこれも長さ六尺に及ぶクシである。水溜《みずため》が二つ刳《く》ってあって珍らしい。二肢《ふたあし》の自然木が左右の足となって支える。買わないでおくにしては余りに美し過ぎる。もう一つは大きな箕《み》である。箕も南鮮のは翼が張って形に特色がある。中でもこの任実のは仕事がよく材料がよく色がよかった。使うのは惜しい気さえする。私たちは心に恥じながら安い代金とこれらとを換えた。  任実の町から大きな峠を越えて長水面に向う。登るにつれて果しない眼界が目の下に広がる。山は既に春深く樹々《きぎ》は緑を競う。こんな長い美しい峠も多くはあるまい。石器の長水は昨夜からの夢である。邑内《ゆうない》で車を下り郡守林明珣氏に会う。石工《いしく》の村は邑外二十町ばかりの先昌里にあった。山の中腹を走る街道の左手遥か下に幾つかの家を匿《かく》した村が見える。私たちは道なき道を分けて一途に降りた。遥か向うには雲に霞《かす》む山が見える。そこから石を切出してこの村に運ぶのだという。麓《ふもと》には広々と開ける水田が見える。丘の斜面の美しい風景をほしいままにしてこの寒村が休むのである。迷う小路を縫って石工の家を訪ねる。主人は石を掘りに山へ行って不在だという。見れば小さな仕事部屋に幾つかの素材と、二、三の簡素な道具とが散らばっている。それだけだが家の椽《えん》には彼が刻んだ素晴らしい角型の火鉢が無造作に使われているではないか。朝鮮の仕事の不思議さがまた繰返る。誰が法を伝え誰が形を創《はじ》むのか。醜いものを誤っても作ることがないとはどういうわけか。だが栄えた時代は既に過ぎてしまった。今はわずかに二人の石工より残っていない。私たちは手帳に梁海珠、崔万栄の名を書きとめた。こんな物静かな小さな村が、あの数々の素晴らしい石器を遠く都にまで送り出したかと思うと不思議である。誰かこの並びない仕事を守ってやる者はないか。朝鮮でなければ生めない立派な手仕事なのだ。私たちはおそらくそれが一カ年もかかることを忘れて、多量の注文を熱心に頼んだ。同時に近くの村々から能《あた》う限り使いふるした品々を集めることを委託した。(後に郡守から幾箱かの荷が東京にまで届けられた)。私たちは遠いこの地に来たことをどんなに悦んだか。多くの想いを後に残して、この日宿る南原へ指した。この古い都は幾多の建物で昔を語りながら吾々を迎えた。この夜大きな宿菊水旅館に泊る。  五月十一日。今日は雲峰行の日である。雲峰の村は智異山の背にあって、古来その木器、刳物《くりもの》を以て名がある。あの丸型の重ね鉢を呼んで「雲峰」と言うのは此処に名を得たのである。おそらくはもと仏器に発し、多くが仏僧の手仕事であったのであろう。その山内面において今も仕事が続く。私たちは仕事場を訪ねた。多くは材を松にとると見える。幾本かの大きな木《ぼく》が庭に横《よこたわ》って仕事を待っている。それを一尺ほどに切って轆轤《ろくろ》にかける。凡て生木である。見ていると松のしぶきが強い香りを立てて吾々の顔を打つではないか。刃物の下からは雫《しずく》がぽとぽとと滴《た》れる。生木の柔らかさに快い音を立てて刳《く》ってゆく。中途では止めない。そのまま一気に仕上げてしまう。乾燥にやかましい吾々の仕事とはいたく違う。後でおそらく割《われ》が入り形はゆがむであろう。だがなぜそれがいけないのかと言っているように思える。  あの自然な自由な形はこんな事情のみが保証しているのではないか。生木ばかりが生み得る形に凡てを委《まか》せてしまうのだ。それもわざとではない。それが一番当り前のことだからである。この安らかさは私たちへの薬である。刳物にはほとんど凡て漆を塗る。作るものは主に膳《ぜん》や椀《わん》や鉢やまた飯櫃《めしびつ》である。幾つかの形と大きさとを記して吾々のために作ることを頼んだ。もしこんな村に数日なりとも滞在し得たら、幾多の名器に逢えるに違いない。  川を渡れば立石里である。名刹《めいさつ》方丈山実相寺が指呼《しこ》の間にある。私たちは山門に入る前に二基の巨大な石彫大将軍に迎えられた。堂々たる彫刻である。この種のものでこんなにも立派な作を見たことがない。時代は新羅《しらぎ》に溯《さかのぼ》るであろうか。これに如《し》く寺宝はあるまい。寺の歴史は古いと見える。幾基かの新羅の石塔が昔の信仰を語っている。境内には堂宇が少くない。一つの扉に記して言う、「青竜汲水、白虎負薪」と。心を引く妙句ではないか。だが徘徊《はいかい》する時も充分になかった。住持のもてなしをも辞して私たちは帰路を急いだ。今日開かれる全州の大市に間に合いたいのである。  再び南原を経て車を急いだ。南大門が眼に入れば既に全州である。楼上を仰げば「湖南第一城」、「豊南門」の二額が掛る。裏に更に一額、題して「明石楼」と記す。ここも名筆雅句の国である。商工奨励館(昔の郡庁)に掲げられた大額、「豊沛之館」と共に忘れ難い美しさである。市場は楼門の影に広々と開ける。売る声、呼ぶ声、語る声、笑う声、それに食べる声、飲む声、雑然たる騒音の中に、着る物、容《い》れる物、汲む物、煮る物、飾る物、切る物、ありとあらゆる雑具が売られる。男も女も子供も、若い者も年とった者も、それに牛も豚も犬も鶏も、北から南から東から西から悉《ことごと》くが市場を指して集るのである。活きた朝鮮を見ようとするなら市日を逃してはいけない。私たちはここでまた余るほどの買物が出来た。萩《はぎ》の編籠《あみかご》、銅羅《どら》、甕、壺、徳利《とっくり》、紙、銀細工、竹細工、扇子《せんす》、団扇《うちわ》、櫛《くし》など。実に旅に出てから市日を追うこと九日間に十二回。全南全北のほぼ凡てを尽した。朝から夕まで私たちは眼を喜ばせ心を喜ばせ体を喜ばせた。恵まれたこんな旅をいつまた共に味えるであろう。  全羅の旅はこれで終った。夜の汽車は私たちの夢を京城へと運んだ。  五月十二日から十六日まで。京城滞在。私たちはなおも品物|漁《あさ》りに、仕事の整理に忙しい時を送った。ここは朝鮮の中心でもあるから、様々な物資が四方から集る。昔はさぞ盛なものであったであろう。東大門から西大門へ貫く鍾路の大通りを歩めば、おそらく朝鮮の主な工藝品の凡てを見ることが出来たであろう。しかし時の流れは趣きを惨めにも変えた。かつては銀象嵌《ぎんぞうがん》の細工や華革張《かかくばり》の調度も店々にあったであろう。陶器も木器も賑やかであったに違いない。しかし今は望むことが出来ない。鍾路の夜店も大方は日本の安ものばかりを売る。この頃は朝鮮風のものをすら沢山に日本から運び入れる。うかうかと土産物は買えない。折角朝鮮で作るものも、日本人の経営となれば品物は死んでしまう。三和高麗や東莱《とうらい》の螺鈿《らでん》細工はよい懺悔である。多くの者はそれを朝鮮の土産物だという。そんな物が朝鮮のものであるはずがない。嘘《うそ》の朝鮮と本ものの朝鮮とのけじめは大きい。私たちの旅は品物でこのことを語ろうとするのである。  広い京城にも朝鮮のものだけを扱う店は少くなった。でもあちらこちらに散らばる。私たちは始めての人たちに地図の案内をしよう。京城には二つの大きな常設の市場がある。南大門と東大門とに。しかし多くは食物で、品物を期待してもそう豊かではない。それよりも東大門から西へ大通りを歩く方がよい。南側にも北側にもあるが、概して南側の方に多い。ここに荒物屋や雑貨屋が並んで様々なものを売る。更に進めば真鍮《しんちゅう》屋、小間物《こまもの》屋、銀細工屋、呉服屋などが眼に入るであろう。かかる店は点々と鍾路が大平町と交る所ぐらいまで続いてゆく。中で興味深いのは鐘楼の影にある東床鄽である。おそらくここが一番純粋な朝鮮を見せてくれるであろう。様々な小間物店が互に寄り添う。そこから南大門通に折れると左右に真鍮を飾る店、紙を扱う店などが並ぶ。箪笥《たんす》の類は昔から西大門近くと、市庁の裏手とに多い。あの特色ある水甕の類を得るにはパゴダ公園の裏あたりがよい。呉服屋は鐘楼の向い側が一番であろう。それらの店は皆朝鮮在来の構えである。近時百貨店「和信」が色々のものを扱う。  今までの傾きを見ると、それらの店は少しずつ絶えてゆく。さもなくば品物を日本ものに置き換えてある。しかしこうして朝鮮の影が薄らいでしまっては由々《ゆゆ》しきことではないか。想うに二つの道からこの傾きを取戻すことが出来よう。一つは朝鮮の人たちの自覚である。固有の品物がどんなによいかをよく知ることである。二つには吾々がそれを進んで紹介することである。そのよさを語ることである。おそらく多くの顧客が日本にも待っているであろう。私たちはその役を勤めたいばかりにこの旅を企てたのである。続いて会を開きまた一冊を編んでその報告に当てようとするのである。どこかに答えがあるであろう。こんな品物を死なしてしまっては吾々の落度である。今はたとえ顧《かえりみ》る者がわずかでも、そのわずかな人たちに溢《あふ》れる悦びを伝え、学んだ多くのことを語りたい。波紋はいつも小さな輪から起る。  京城に止《とどま》ること五日間。毎日持ち帰る品物で、京城ホテルの吾々の室は早くも一杯になった。帰る時が来た。私たちはそれらのものを通して多くの知己に逢うために、次の準備を急ごう。 底本:「柳宗悦 民藝紀行」岩波文庫、岩波書店    1986(昭和61)年10月16日第1刷発行    2012(平成24)年6月15日第9刷発行 底本の親本:「柳宗悦全集著作篇第六卷」筑摩書房    1981(昭和56)年1月10日初版発行 初出:「工藝 第八十二号」    1938(昭和13)年3月15日発行 入力:門田裕志 校正:砂場清隆 2020年4月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。