笑う悪魔 野村胡堂 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)何処《どこ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)以下|皆《み》んな [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#5字下げ] ------------------------------------------------------- [#5字下げ]夜の編輯局[#「夜の編輯局」は中見出し] 「勇、一杯つき合わないか、ガード下のお光っちゃんは、怨んで居たぞ、――近頃早坂さんは、何処《どこ》か良い穴が出来たんじゃないかって――」  古参の外交記者で、十年も警視庁のクラブの主にされて居る虎井満十が、編輯《へんしゅう》助手の卓《テーブル》の上へ、横合から薄禿げた頭を突き出して斯《こ》んなことを言うのです。 「冗談じゃないよ、市内版がこれから始まるんだ、電報はやけ[#「やけ」に傍点]に多いし、電話は引っ切り無しだが、整理部の新年会で部長以下|皆《み》んな出かけてしまったし、速記まで帰って了《しま》って手が付けられない、少し手伝えよ、虎井」 「お前が編輯して居たのか、――タガの外れた新聞が出来上らなきゃ宜《い》いが、な勇」 「細工は粒々さ、明日の朝の新聞を見ると同業者は肝を潰すぞ」 「整理部の新年会だから整理部長の留守はわかって居るが、社会部次長の千種《ちぐさ》は何処《どこ》へ行ったんだ、宵のうちから姿を隠すなんざ、あの男には例の無いことじゃないか」  社会部次長の千種十次郎の姿が、その晩の東京ポストの編輯室に見れないのは、まさに年に一度の奇蹟だったのです。  それはまだ、新聞が毎日十六頁も出せた時代、軍部の横暴が、日本を破算的な戦争に導く前の、特種ニュース競争華やかなりし新聞社の編輯局風景でした。 「兄貴は東京一番の御馳走にあり付いて居るよ」  千種十次郎を兄貴という早坂勇も、もう三十近い働き者で、昔は「足で種《ねた》を採るから」足の勇と異名を取った男でしたが、今では若い乍《なが》ら東京ポストの社会部では良い顔で、時には千種十次郎の代りに、若い外交記者にも指図をし、手の足りない田舎《いなか》版位の編輯は手伝って居るのでした。 「そいつは聞捨てならない、何処《どこ》の売出しの披露だ」 「兄貴がそんな間抜けな御馳走を喰うかな、今夜のは同郷の大先輩、熊谷財閥のオン大、熊谷三郎兵衛の誕生祝の御座敷だよ」 「そいつは気が詰るだろうな」 「此方が新聞記者だ、大臣大将が束で来ても屍とも思わない位の修行を積んで居るが、その座敷はたった一人、兄貴をワクワクさせる相手が居るんだよ」  早坂勇は原稿を整理して居る筆を投《ほう》り出して、何時《いつ》の間にやら虎井満十の相手になって居るのでした。  虎井満十は呑《の》ん平《べえ》で喧嘩早くて、始末の悪い男には相違ありませんが、正直で感がよくて、特種取りの名人で、新聞記者としては、東京で何人と言われた腕達者だったのです。  新聞記者のヒネ[#「ヒネ」に傍点]たのには、よく斯んな途方もない人間が居りました。虚無的でダラしが無くて、箸にも棒にもかからないようで、そのくせ純情的で正義感が強くて、悪の摘発のためには、どんな艱難《かんなん》でも、笑って押し切ってやろうと言った肌合の人間です。  足の勇こと、わが早坂勇が、虎井満十と馬が合うのも、御同様貧乏で、些《いささ》か呑ん平で、そして恐ろしく正義感が強くて、経済観念の全く無いという共通点の為だったかもわかりません。試みに会計部の婦人部員に訊いて見たとしたら、二人は東京ポスト社中の、前借二大横綱で、まともに算盤《そろばん》を取られると、向う一ヶ年位は、一銭の月給も受取れないことになって居るという、驚く可《べ》き事実を発見するでしょう。 「その千種十次郎をワクワクさせる相手というのは、何処《どこ》の女優だ」  虎井満十はもう良い加減でガード下できこし召したらしい、トロンとした眼を挙げました。七つ下りの背広、襟飾《ネクタイ》が神田っ児《こ》の旋毛《つむじ》位に曲って、モシャモシャと無精髯の生えた顔は、思いきや哲学者のような峻烈なのに変って居ります。 「女優? 飛んでも無い、兄貴と来たら新聞記者中の清教徒《ピューリタン》だよ、――兄貴をワクワクさせる相手というのは、熊谷合名会社の若い社員で、潮田春樹の妹の美保子という麗人さ」 「ヘエ、そいつは平凡過ぎて愛嬌が無いね」 「お前は美保子さんを見たことが無いから、そんな罰《ばち》の当ったことを言ってるが――」 「罰の当ったことをね」 「全くの素顔で、あんなに清潔で美しい乙女を、俺は想像したことも無いよ」 「ウ、フ、乙女と来たか、古風で良いね」 「外に適当な日本語は無いよ」 「物凄いな、――その乙女が千種のフィアンセでもあるのか」 「黙契だけだよ、俺ならドンと当って砕けるが、兄貴はジェントルマンだから、女を口説くなんて、下等な隠し芸は無い」 「下等な隠し芸は良いな。俺もチョイチョイその隠し芸を試みるが、成功率は零《レイ》コンマの三パーセント位かな、いまだに独り身なのはその為だ」 「呆れた満十だ、早く女房でも持って郵便貯金でも心掛けちゃどうだ」 「残念乍ら、相手が無いよ、ガード下の光ちゃんは、とうの昔に愛憎《あいそ》を尽かして居るし、本社の受付嬢にも小当りに当って見たが」 「間抜けだな、――不義はお家のきつい法度《はっと》だ、社内で変なことをすると、容赦もなく首だよ」 「安心しなよ、受付嬢はまるっ切り相手にしないから。会計の女史が下らない事を言い触らすもんだから、俺は東京ポスト社中のやくざ[#「やくざ」に傍点]扱いだ」  二人の漫談は際限もなく弾みます。後ろの方には瓦斯《ガス》ストーヴが燃え盛って、隣の校正部からは、原稿とゲラ刷を読み合せる、一種のメロデーが、物淋しく響いて来るのでした。  宵の編集室は、思いの外に閑散でした。これが十一時過ぎになると、もう一度市内版の為に帰って来る、外交記者で賑うのですが、中間の地方版の編輯は、さすがに呑気《のんき》で、早坂勇の代用米でも、随分間に合わないことはありません。 「早坂さん。第六版をおろしますよ」  工場からインキで真っ黒になった少年が、濡れたゲラ刷を持って来て、早坂勇の卓の上に広げました。 「あ、宜《い》いよ、おろしてくれ、――そのうちに兄貴も整理部の連中も帰って来るだろうから、間もなく俺は年明けだ、いよいよ光ちゃんの顔でも見に行くか」  虎井満十は早坂勇の卓《テーブル》を離れて大きな欠伸《あくび》をしました。その頃から外交記者が、それぞれの材料を持って来て、自分の卓《テーブル》で、セッセと原稿を書いて居ります。  丁度八時半、早坂勇の卓上の電話のベルが、勢よく鳴り出しました。 「オイ、勇、電話だよ」 「よし、心得た、どうせ市内通報員だろう。済まないが満十、その鉛筆を取ってくれ、――モシモシ、此方《こちら》は東京ポストですがね、モシ、モシ、え、僕は早坂――そちらは、え、え? 千種? 兄貴かそいつは済まなかった、早く帰ってくれ、編輯は苦手だよ、何? 大事件がある? 何処《どこ》だ、番町、能谷邸に、――僕に直《す》ぐ来いと言うのか、よし行くぞ、事件を追っ駆けるのは兄貴の柄じゃ無いよ、――此処《ここ》は満十に頼むさ、そのうちに誰か帰って来るだろう、構わないとも」  早坂勇はガチャリと電話を切りました。 「おいおい、勇、俺に編輯をさせる気か」  満十は赤い鼻を突出しました。 「済まないが、ちょいと繋いでくれ、整理部長がもう帰って来る筈だ、不自由はさせない」 「弱ったなア、俺はまだ飲み足りないんだ」 「一本取って嘗《な》め乍らやってくれ、出がけにガード下の光ちゃんに出前を頼んで置くよ宜《い》いか、満十」  早坂勇は外套を引っかけると、洒落《しゃ》れた鳥打帽を、頭の上の釘から取りました。 「何が始まったんだ、一体」 「兄貴の大事よ、うま[#「うま」に傍点]く行くとこいつは大特種だ、頼んだぜ満十」  早坂勇は、木枯《こがらし》吹く街へ、鉄砲玉のように飛出してしまったのです。 [#5字下げ]盛宴の果[#「盛宴の果」は中見出し]  話は少し戻ります。  熊谷合名会社の社長熊谷三郎兵衛は、その夜番町の自宅に、五十八回目の誕生を祝う、極めて豪華な――が小規模の宴を開いて居りました。  それは昭和初年のある冬の夜のこと。  食堂を開いたのは七時少し前、工夫を凝らした数々の余興は、面白くないわけでは無かったのですが、その為に食事の時間が遅れて、三十人余りのお客様は、すっかり神経質になったのも無理のないことです。  屋敷の宏大さ、惜し気なく灯した飾電燈の光に、ペルシャ絨毯《じゅうたん》の深紅は反映して、ズラリと掲げたフランス近代の巨匠達の傑作群に感歎した来賓達は、食堂に入って今度は、銀器と飾り花と、後から後からと運ばれた、第一流の豪勢な料理に、肝を潰したのもまた、――もう一度無理のないことだったのです。  正面に主人の熊谷三郎兵衛と夫人の由喜子、モーニングと紋付で、いとも悠揚と控え、それを中心にして三十人の粒選りの客は、凹《おう》字形の卓に行儀よく居並びました。主人の三郎兵衛は赫顔肥大のブルジョア型で、夫人の由喜子はぐっと若くて三十二歳、細面《ほそおもて》の蒼白い顔は、真珠のような深い色調で、切れの長い眼、少し高い鼻、まことに非凡の美しさです。  娘奈々子は二十二、これは先妻の忘れ形見で、継母《ままはは》の由喜子とは姉妹としか見えません。淋しいが品の良い顔立ちで、少し権高だという悪口があるにしても、先《ま》ずは申分のない令嬢です。  ピンク色のエヴニングが、朱のバンド、ウエーブした毛が五光のように隈取って、その美くしさというものはありません。  客の中には何々大臣、何々社長、何々議長某、旧家の某伯爵、などというお歴々も交って居りますが、大部分は熊谷合名の幹部社員と、主人三郎兵衛の旧友達で、内輪の小宴ということになって居りますが、実は三郎兵衛、自分の出世と成功を見せびらかして、心の底から喜んだり、嫉んだり、羨ましがったりする身近なものを集めたというのは事実でしょう。  その中に、合名会社の若い社員潮田春樹と、その妹で、令嬢奈々子の音楽友達、美保子という世にも優れた麗人を加えたことと、東京ポストの社会部次長で、若い腕利きの新聞記者、千種十次郎を交えたのが、まことに異色ある取り合せでした。  実を言えば、潮田春樹は主人熊谷三郎兵衛の同郷人、妹の美保子は、令嬢奈々子が呼んで貰ったお友達で、千種十次郎も同郷の関係があり、主人三郎兵衛が特に招いたのは、あわよくばその豪勢振りを、新聞に書いて貰い度《た》い下心があったのです。  さて、盛饗は一《ひ》とわたり済んで、乾杯の三鞭《シャンパン》が注がれ、熱いコーヒーが配られました。主人熊谷三郎兵衛は、拍手に迎えられて自席に立ち上ると、咳一咳、 「さて、皆様、今夕は御多用中のところ、斯くも御多数御集り下さいまして、まことに感謝に堪えない次第でございます。お蔭様を持ちまして、熊谷三郎兵衛、不敏不才の身を以て財界に今日あるを得ました上、御覧の通りの健康で、五十八回の誕生日を祝うことの出来ましたことは、皆様の御庇護御声援の賜物と、深く感謝する次第で御座います」  それはまことに通り一ぺんの挨拶でしたが、一代にして巨億の富を積み、三井三菱に次ぐ財閥を築き上げた熊谷三郎兵衛の態度なり口吻《くちぶり》なりには、満ち足りた者の驕慢さと、人を人臭いとも思わぬ我意が漲《みなぎ》って居るのです。  それから引続いて、自分の過去を顧みて、一とくさりの苦心談があり、今の事業の簡単な報告、将来への抱負を述べると、来客六十の掌が、無恥な阿諛《あゆ》とアルコールの興奮に、食堂一パイに高鳴りました。  丁度その時でした。正装した給仕《ウェーター》の一人が、恐る恐る銀盆に載せた、花飾りしてある美しい手紙を一通持って来て、 「恐れ入りますが、使の者がこれを持って参りました。何事にも換えられぬ火急の用事だから、直ぐ様御前様に御目にかけるようにとのことでございます、――もし時を過せば後で屹度《きっと》お叱りを受けるに違いないと――」  そっと主人席の横に滑らせるのでした。 「何んだ、祝の手紙ではないか、後で見ても差支《さしつかえ》あるまいが――」  そう言い乍らも三郎兵衛は、それでも給仕の口上の物々しさに釣られたものか、手紙を受取って、有合せの果物ナイフで封を切り、少しは面倒臭そうに、ざっと眼を通しました。と、三郎兵衛の顔はサッと一と刷毛《はけ》、日頃の見事な血色を失ってしまったのです。 「どうかなさいましたか」  若い夫人が側から差覗くのを、 「いや何んでも無い、少しヒーターが熱過ぎるからだ」  そう言って大急ぎで手紙を衣嚢《かくし》に入れ、手巾《ハンケチ》を取出して、額の汗を拭くのでした。  その間に来賓の挨拶が始まり、長談議で有名な某博士、一言居士の某議員と、胸の悪くなるような褒め言葉や、形容|沢山《たくさん》のお祝の言葉が、主人熊谷三郎兵衛に捧げられるのですが、肝甚《かんじん》の三郎兵衛はそれどころでは無いらしく、来賓の祝辞を空耳に走らせて、秘書の本田大助を呼んで、何やら言葉せわしく申付け、娘の奈々子とその友人の美保子を別室に去らせ、早々宴を閉じて、元の広間に客を導きました。  窮屈な食堂から解放された三十人の客は、男は男、女は女――いやどうかすると紳士と淑女と入れ交って、朦々《もうもう》たる煙草《たばこ》の煙の中に談笑の花を咲かせて居ります。  が、此《この》頃から屋敷の内外が緊張して、何やら不安な空気が熊谷邸一パイに孕《はら》みますが、歓楽に酔いしれた三十人の客は、素《もと》よりそれを知る由もありません。 [#5字下げ]呪の手紙[#「呪の手紙」は中見出し]  東京ポストの社会部次長千種十次郎は、アルコールと空世辞と、豪傑笑いと嘘比べにすっかり胸を悪くして、多勢《おおぜい》から遠退くように、一番最後に食堂を離れようとしましたがフト主人の椅子《いす》の下に、白いものの落ちて居るのが眼に入って、何心なく拾い上げて見ました。  紛れもなくツイ先刻《さっき》、主人の熊谷三郎兵衛が受取った手紙です。此《この》手紙を読むと同時に、主人の顔色がサッと変って、それから態度が大事な客をして居ることをさえ忘れて、すっかり取乱してしまったことを、千種十次郎は思い出したのです。  手紙はすぐ主人の手に渡さるべきでした。が、新聞記者の本能が、ツイその象牙紙《アイボリーペーパー》の素晴らしい封筒の外にハミ出して居る、レターペーパーの一部に、大きく左文字で「死」という字が透いて見えるのに囚《とら》えられてしまったのです。  同郷の先輩には相違ありませんが、自分の利益と宣伝のため以外には、千種十次郎の存在を認めない主人熊谷三郎兵衛に対して、素より良い感情を持って居る筈もなく、ツイ此拾った手紙の中に秘められて居る文句に、不思議な魅力を感じて、覗いて見ようと言った誘惑に打ち負かされたのも已《や》むを得ないことでした。  千種十次郎は衣嚢《かくし》の手紙を押えて、一歩廊下に、踏み出しました。が、其処《そこ》には私服の警官らしいのと、熊谷合名の家の子郎党のうち、腕っ節の強そうなのが、銘々武器を隠し持って、素知らぬ顔で警戒して居るので、衣嚢《かくし》の手紙を出して見ることなどは思いも寄りません。  フト思い付いて、手洗場の中へ千種十次郎は逃避しました。十年前新聞社で最初の月給を貰った時、自分の働きをいくらに評価してくれたか、一刻も早くそれが知度さに、便所の中へ月給袋を持込んで恐る恐る開けて見たことなどを思い出して、罪の無い微笑がツイ、場所柄も忘れて頬をほころばせます。  封筒の中から引出されたのは、厚手のレターペーパーがたった二枚、万年筆の達筆で、しかも一字一字念入の楷書で、斯う書いてあるのです。 [#ここから2字下げ] 熊谷三郎兵衛、汝の五十八歳の誕生祝に送る。     死 これは心を籠めた贈り物だ、が唯の死では、汝が五十八年間に積み来った悪業に酬ゆるためには、あまりにも無造作で軽少過ぎる、そこで、  娘、美術品、家、全財産、妻、そして最後に命 この順序で申受けることに決定した。当方は全く準備が整った、汝の金力と努力と智力とを、全動員しても寸毫も当方の計画を喰い止める由はあるまい。謹んで運命を待つがよかろう。 [#地から1字上げ]右執行者 法雲寺三郎 法雲寺三郎の名を、汝は記憶して居ないかも知れない。が、汝の為に、娘を奪われ、妻を奪われ、家を奪われ、財を奪われ、名誉を奪われ、命を奪われた、夥《おびただ》しい犠牲者の名を思い出して見るが宜い、その中に、この法雲寺三郎が居るのだ。イヤ、その総ての犠牲者を代表して、この法雲寺三郎が死刑の執行者として立ち上ったのだ。 [#ここで字下げ終わり]  文句はプツリと切れて居りますが、それ丈《だ》けに凄味は一《ひ》と入《しお》で、千種十次郎も何んとなく背筋に冷たいものの走るのを感じます。  こんな脅かしの手紙はよくあることで、少し悪辣な生活をした人は、屡々受取る例は、新聞記者の千種十次郎|悉《ことごと》く知って居ります。  が、それは大抵馬糞墨でザラ紙に書いた白痴《こけ》脅かしで、気違いの仕業でなければ、不良少年の悪戯《いたずら》にきまって居りますが、此手紙は恐ろしく念入で、単なる脅かしや悪戯《いたずら》とも思えぬ、突きつめた真剣さがありました。  第一封筒とレターペーパーが一流の紙屋で売って居る最上等のもので、熊谷三郎兵衛が受取った時は、それに花飾りまで添えてあった筈です。封筒の表書《うわが》きは上等の唐墨で、筆跡も書家風というよりは、古法に泥《なず》まないインテリ風で、中の文句に至っては、決して気違いや不良少年の仕業《しわざ》ではありません。  それに、脅迫状や無心状には慣れっこになって居た筈の熊谷三郎兵衛が、此手紙を一と眼見て、サッと顔色を変え、それから沈鬱と狂騒と、交互に去来した、発作的な態度も、決して尋常ではなく、何んか犇々《ひしひし》と思い当ることがあったと見るべきでした。  手洗場の前の廊下から、硝子《ガラス》窓に額を当てて外を見ると、正月の宵空は真っ暗で、星一つ見れない雪模様です。 「千種君」  肩を叩く者があります。  振り返ると熊谷合名の社員で、美しい美保子の兄の潮田春樹、千種とは昔の同窓で、仕事は違って日頃交渉はありませんが、何がなし名前を聞いただけでも、心持の温まる間柄でした。  二人は同じ三十五、どちらも独り者で、どちらも文科出、千種十次郎が多血質で、颯爽型なのに対して、潮田春樹は妹によく似た美男で、色の白い神経質の男でした。  千種十次郎が学校から新聞社へ飛込んで、十年間に相当の地位を築き上げたのに対して、潮田春樹は二つ三つ会社を渉り歩いて、最後に同郷関係の熊谷合名に入り、いまだに下級社員に甘んじて居るのは気の毒なことです。 「潮田君、――君の来ていることは知って居たが、席が遠いので話も出来なかったよ。先刻《さっき》一寸《ちょっと》席を外したようだが――」 「気分が悪くなって、ヴェランダに出て居たが、――ところで、新聞記者の第六感でどうだね」 「?」 「この目出度い限りの熊谷家に、妙な無気味なものがあると思わないか。――ヴェランダから見ていると、此屋敷を何んか目に見えない妖しいものが、ヒタヒタと取巻いて居るような気がするんだ」  気の弱そうな潮田春樹は、両手をズボンの衣嚢《かくし》に突込んだまま、ぞっと身を慄《ふる》わせるのです。 「僕もそれを感じて居るよ、――が、唯それ丈の事で神経を脅かされる君でもあるまい、外に何んか、気の付いたことは無いのか」  千種十次郎は新聞記者らしく、巧みに相手の口占《くちうら》から、何んかを手繰《たぐ》り出そうとして居ります。 「いや、何んにも、それ丈けのことさ、君も知っての通り、僕は気が弱い上に、スピリチュアリズムの信者でね」 「算盤《そろばん》の選手がスピリチュアリズムは変な取合せだね」 「先学のロッジもロンブロゾーも科学者だよ、会社員が霊の交通を信じても一向差支は無い」 「むき[#「むき」に傍点]になっちゃいけない、――算盤《そろばん》の選手と言ったのが悪ければ、文化人とでもビジネス・マンとでも言い直して構わない、――が此家にイヤな事件が起って居ることは事実だ、君は一刻も早く美保子さんを連れて帰った方が宜《い》いだろうと思うが」 「有難う、俺もそうし度いとは思って居る、が奈々子さんが容易に妹を放さないし、我々若い社員が、お歴々より先に帰るわけにも行かない」 「勤め人はそう言った遠慮もあるだろうな、其処《そこ》へ行くと新聞記者は有難いよ、会場の空気がつまらなくなると、記事の締切時間だからという口実で、どんな場所からでもサッサと帰れる。――現に今夜も僕はもう帰ろうとして居るところさ、あの旧式政治家や実業家のジェスチュア沢山《たくさん》の宣伝気の抜けない座談を聴かされると、尾籠な話だが吐気を催して敵わない」 「羨ましいな、僕もそう勝手に振舞える身分になり度かったよ」 「左様なら、では二三日のうちに、又逢おうよ」  二人は手を振りました。千種十次郎は玄関の方へ、潮田春樹は元の広間へ――。 [#5字下げ]令嬢紛失[#「令嬢紛失」は中見出し]  千種十次郎が外套を受取って、玄関の外へ一歩踏出した時でした。  ワッハッ、ハッ、ハッ、ハッ。  ――と恐ろしく大きな笑いが、何処《どこ》からともなく響いて来たのです。  それは皮肉で陰惨で、人を馬鹿にしたような声で、そのくせ残酷で猛烈で虚無的な響さえ持って居りました。その途方もなく大きい笑いが、三階のあたりから起って、歓楽の残滓を嘗めて居る三十幾人の客の頭の上へ、何んの遠慮もなく浴せかけたのです。 「お嬢様のお部屋が変でございます」  三階から一人の若い女中が転がるように降りて来ました。お駒と言って二十二三の、奈々子の気に入りの、賢こそうな娘です。 「それッ」  廊下の隅、階段の下、扉《ドア》の蔭などに待機して居た私服警官と家の子郎党共は、一瞬のうちに五六人、三階正面の奈々子の部屋の扉に飛付きました。扉は厳重に中から錠《ロック》されて、押せども引けども開くことではありません。 「中にはお嬢様と美保子様がいらっしゃいました。熱いお茶がほしいと仰《おっ》しゃいましたので、お好きのモカを入れて、持って参りますと、扉《と》が鎖《しま》って居て開かないばかりでなく、中でうめき[#「うめき」に傍点]声が聴えるじゃございませんか」  女中お駒の言葉を聞き流し乍ら、五六人の大の男が束になって扉《ドア》に身体《からだ》を叩き付けました。さしも厳重な扉《と》も、煎餅《せんべい》のようにケシ飛んで、どっと雪崩《なだれ》込む人数、 「灯《あかり》だ、灯だ」  中は真っ暗、誰かがスイッチを入れましたが、カチリと音を立てただけで天井の飾電燈《シャンデリア》も、美しい床電灯《フロアスタンド》も点《つ》きません。  そのうちに、女中の一人が、堤電灯を持って飛込みました。 「あッ」  中には飛散る血、一人の若い女が、燃えるような絨毯の上に、気を失って倒れて居るではありませんか。 「美保子さんだ。お嬢様は?」  近づくお駒を掻きのけるように、後ろから出て来たのは、美保子の兄の潮田春樹でした。 「美保子、美保子、確《しっか》りしろ、どうしたのだ、これは」  傷いたらしい体を抱き上げて、春樹は少し取乱して居ります。 「奈々子は、――奈々子は居ない」  絶望的な声と共に、主人の熊谷三郎兵衛が飛んで来ました。続いて若い夫人の由紀子、多勢の客は階子《はしご》的一パイに溢れて思いも寄らぬ突発事に、眼を見張るばかり。 「医者だ早く」  誰やらが怒鳴ると、書生の一人が、電話室へ飛んで行きます。 「美保子、確りしろ、傷は浅いぞ」  兄に抱き上げられた美保子の瑠璃《るり》色のエヴニングの胸は、緋牡丹《ひぼたん》を叩き付けたように血に染んで居りますが、幸に傷は浅かったらしく、暫《しばら》くすると漸《ようや》く物を言える程度に人心地付きました。 「お兄様、怖い」  犇《ひし》と兄に抱きつく美保子は、もう十九の娘盛りですが、両親に早く別れて、兄を父親のように育って来たのです。 「奈々子は、奈々子は?」  それを差覗く熊谷三郎兵衛は、年甲斐もなくワナワナ顫《ふる》えて居ります。 「彼方《あっち》」  美保子は半身を起して、窓の方を指しました。窓は明けっ放したまま、恐らく悪者は、奈々子を連れて其処《そこ》から逃げ出したというのでしょう。  主人熊谷三郎兵衛を始め二三人の男達は、窓に飛付いて眺めましたが、外は漆《うるし》の闇で、生憎《あいにく》粉雪がサラサラと降り出した様子、悪者の姿などは何処《どこ》にも見えません。  その上建物は明治時代の古風な煉瓦で、其処《そこ》から麗人奈々子を奪い去ったとすれば、飛降りることなどは思いも寄らず、奈々子が承知の上で無ければ、息の根を止めるか気を喪《うしな》うかしたまま、引っ担いで梯子《はしご》で降りるか、逞しい縄梯子《なわばしこ》でも用意しなければならないわけです。 「この下は丁度食堂だ」  玄関から引返した千種十次郎は、美保子のことが気になり乍らも、差出がましく振舞うべき筋合でも無いので、新聞社へ電話を掛けて早坂勇を呼んで、それからもう一度|此処《ここ》へ引返して、早くも持前の探偵眼を働かせ始めたのです。  番町の屋敷町にしては、思いの外建て込んで、奈々子の部屋の西側、小さい窓から五六間を距《へだ》てて、コンクリートの土蔵が立ち塞がって居りますが、これは羽でも無くては飛付くことなど思いも寄らず、その上窓の下には鉄の忍び返しを二重三重に植えて、人間などは上からも下からも近寄れないように出来て居ります。  すると矢張《やは》り、曲者《くせもの》は邪魔立てする美保子を刺し、気を喪った奈々子を引き抱えて、南側の大窓から逃げ出したことになりますが、下の食堂では少くとも三十人の半分の十五人位は外の方を向き、間昼のような電灯が庭一パイに照して居た筈ですから、その三十の眼を誤魔化して、忍び込むことも逃出すことも出来るわけはありません。  部屋の扉《と》は、内から締めて、鍵は鍵穴に差込んだままですから、曲者は窓から逃出したのでなければ、奈々子と共に、部屋の中で煙の如く消え失せたことになります。  間もなく近所の医者が駆け付けて、傷《きずつ》いた美保子は隣の小部屋に移され、応急の手当を受け、主人熊谷三郎兵衛始め、三十人の客人、家の子郎党達は、ただウロウロと立ち騒ぐばかりです。 [#5字下げ]処女《おとめ》の願い[#「処女の願い」は中見出し] 「どうだ、美保子さんは?」  小部屋から出て来た潮田春樹を、千種十次郎は廊下で捉えました。 「有難う大したことは無い様だ。心臓は無事だし、刃先が滑ったので、肺にも傷は付かなかったらしい、あんまり驚いて眼を廻したので、本人はひどく極《きま》り悪がっているが――」 「そんな事なら宜《い》いだろう」 「ところで、妹はひどく君に逢い度がっているが、逢ってくれるだろうね」 「それは構わないが、――僕が逢っても宜《い》いような容態か」  千種十次郎に取って、それはなかなか嬉しそうでした。 「医者も構わないだろうと言うよ、一と通りの手当はもう済んだから」 「じゃ、見舞って行こう」  二人は小部屋へ入って行きました。客用に使うらしく、小綺麗な寝台が一つ、椅子と小卓が配置されて、心持よく整って居りますが、寝台には今手当を終ったばかりの美保子が、びっくりしたような、――そのくせどっか淋しいような眼を見開いて、兄と、兄の友達の千種十次郎を迎えたのです。  付いて居た看護婦は、遠慮をしてそっと座を外しました。 「美保子さん、どう? 災難でしたね、でも傷は軽い様で」  千種十次郎は寝台の裾の方に立ったまま、この美しい処女《おとめ》を、遠慮深く見やりました。  失踪した令嬢奈々子の、少し打ち上った、貴族的な上品さに比べて、美保子の美しさは庶民的で、そして清潔でさえありました。美しさというよりは、それは聡明さに助けられた愛らしさと言った方がピタリとしたでしょう。  小柄で丸ポチャで、笑顔の美しい、眉の霞んだ、八重歯のある――そう言った怜悧《れいり》で清純な少女と想像して見て下さい。それが即ち十九になる美保子の肖像なのです。 「千種さん」 「――――」  美保子は改めて呼びかけました。その顔には真剣さが溢れて、試験場に臨んだ女学生のような、一種いじらしい[#「いじらしい」に傍点]ものを十次郎に感じさせました。 「お願ですから、この事件に深入しないで下さい」 「此事件?」 「奈々子さんが誘拐された事件、――そうです、この事件には何んか恐しいものがあるんです、お願ですから」  傷いた美保子は、兄の方に気を兼ね乍ら、拝むようにして言うのです。その大きい眼には、一パイ、涙さえ溜めて――。 「刃物が庭で見付かったよ」  誰やらが下の方で大きい声を出して居ります。そして玄関からは、 「兄貴はどうした。東京ポストの千種十次郎ですよ」  早坂勇の無遠慮にワメキ立てる声も聞えます。 [#5字下げ]双刃の剣[#「双刃の剣」は中見出し] 「居るかい、兄貴」  この騒の中へ、熊谷邸の玄関から飛込んで来たのは、東京ポストのヴェテランで、足で種を採るから「足の勇」という異名を持った、早坂勇の張り切った声でした。 「貴方《あなた》は、どなた様で――失礼ですが御名刺でも――」  秘書の本田大助は、大手を拡げないばかりに、此処《ここ》を先途《せんど》と玄関に関を据えます。 「これは失礼、東京ポストの早坂勇ですよ、――名刺はこれ」  勇は上着のポケットを捜って、少々汚れたお仕着せの名刺を取出しました。 「新聞の方なら、明日でも改めてお出《いで》を願い度いのですが、唯今は丁度取込みがありますので」  秘書の本田は、その名刺をろくに見もせずに押し戻します。 「その取込みを聴いて来たんです。お嬢さんがどうかなすった相《そう》じゃありませんか」 「もう、そんな事まで」 「新聞の早耳ですよ、兎《と》も角《かく》、私の社の千種十次郎が来て居る筈ですから、逢わせて下さい」 「それがその」 「君は取次ぎゃ宜《い》いんです」  早坂勇は千軍万馬往来で、面会謝絶や居留守には馴れて居りました。日頃は寧《むし》ろ弱気で好人物の早坂勇ですが、仕事の事となると、俄然性根に筋金が入って、梃《てこ》でも動かない闘士になるのでした。  が、熊谷家の大玄関一パイに溢れた飾電燈《シャンデリア》の光に照し出されて、樫の大扉を背に、大理石のモザイクの上に立った、足の勇の風采もまた抜群だったのです。長い髪の毛をベートーヴェンのように振り乱して、羊羹色の大外套、ボヘミアン襟飾《ネクタイ》にゴム長を穿いた恰好は、モーニングやエブニング・ドレスを着飾った、紳士淑女の夜会に飛込むような代物ではありません。 「でも、御用件を伺わないと――」  本田大助はまだ汚い名刺を二本の指につまみ上げて、モジモジして居ります。長目の毛を鍋冠りに撫で上げて、細面に何やら塗りたくったらしく、ピカピカする顔、赤縞のネクタイ、仕立ての良いモーニング、年は四十近いでしょうが、何様以て五分もすかさぬ典型的な秘書です。 「新聞記者が事件の現場へ来たんだ、用件なんかあるわけは無いぜ、君」  勇は少しムッ[#「ムッ」に傍点]としました。 「それじゃお取次申すわけには参りません」 「そんな馬鹿な事が」  この争は併《しか》し長くは続きませんでした。 「勇か、丁度|宜《い》いところだ、――お前に鑑定して貰い度いものがあるんだよ、――此方へ来てくれ、刀だがネ、――お前は刀剣の方は通だったね」  大階段の上から顔を出して、千種十次郎は助け舟を出しました。 「有難い。――そいつは俺の畠だ。何を隠そう本阿弥《ほんあみ》の勇とは俺のことなんだ」  勇は外套を着たまま、帽子を鷲づかみに、大きい階段を二つずつ飛んで、二階の千種の方へ驀進するのです。頑強な関守の本田大助も、斯んなのに逢ってはどうすることも出来ません。  二階の広間には、丁度此時駆け付りた、警視庁の花房《はなぶさ》一郎を中心に、捜査の最初の会議が開かれて居たのです。  名探偵の花房一郎は此時もう四十を越した筈ですが、打ち見たところは千種十次郎や足の勇と大した違いの無い若さで、俊敏な眼と、歯切れの良い言葉と、そして機智に富んだ応対を除けば、何んの特色もない、まことに平凡な中年の紳士――というよりは、唯のサラリーマンにしか過ぎません。  大学を途中で止《よ》して平巡査から叩き上げ、長く巡査部長の肩書を持って居りましたが、近頃漸く特別任用で警部になったばかり。まことに気の長い出世振りです。本人は併し探偵そのものが面白くてたまらないらしく、学友が重役にも大臣にもなろうと言うのに、相変らず此道に没頭して、警視庁の至宝という地位に甘んじて居ります。 「や、早坂君か、君は刀剣の鑑定が本当に詳しいのか」  花房一郎はうさん[#「うさん」に傍点]な顔を挙げました。その手には西洋風の両刃の剣が、血の付いたまま握られて居るのです。 「紙切ナイフと、出刃包丁の区別位ならわかる積りだが――」  早坂勇は遠慮の無い態度で、部屋の中へ入って行きました。 「ハッハッ、ハッ、それは宜《い》い――千種君に一パイはめられたか」  花房一郎は面白そうに笑うのです。  その頃の警察と新聞記者は決して仲の良いものでなく、犯罪の現場などに、新聞記者を寄せ付けないのが捜査の常識でしたが、此場合は、東京ポストの社会部次長の千種十次郎が、客の一人として熊谷邸に居た為に、事件前後の実体を悉く知り、一番大切な証人であったばかりでなく、何んの仕合せか、花房一郎と千種十次郎は、銀座の呑屋で一緒になったのがきっかけ[#「きっかけ」に傍点]で、十年来の親友であり、そして、お互の仕事の上にも、隔てなく助け合う仲だったのです。 「尤《もっと》もその両刃の剣の鑑定なら、俺にだってわかるぜ」 「?」  足の勇の途方もない言葉が、花房一郎の注意を惹きました。 「俺はチラリと横眼で見て来たんだ、――そいつは階下《した》の広間の入口に突っ立って居る、西洋の武者人形の腰から抜いて来たのさ」 「何?」  二人の正服《せいふく》巡査は、花房一郎に眼配せされて飛んで行きました。が間もなく帰って来て、 「その人の言う通りです、広間の入口に西洋の甲冑《かっちゅう》が飾ってあります。その腰に革製の鞘はあるが、中味はありません。尤も食堂を開く時まで中味があった相で、給仕《ウェイター》の一人が――こいつは銀器のナイフよりは切れそうだ――などと冗談を言って居た相です」  斯う報告するのでした。 「先刻《さっき》入って来るとき、そんなものは見えなかったが――」 「衝立《ついたて》で隠してあった様子です。今は衝立を除《ど》けたので、廊下の隅の甲冑が見えて居ります」 「すると――」  花房一郎は唇を噛みました。 「犯人は外から入って来たのではなくて、家の中だというわけだろう。食堂か広間から出て来るものなら、衝立の内側にあった甲冑がすぐ眼につく」  千種十次郎は口を容れました。 「ところで、この刃物は庭で見付けたといったが、誰が見付けたのだ」 「書生の高山昇という者です。――呼んで来ましょう」  警官の一人は間もなく十八九の若々しい書生を一人つれて来ました。古風な筒袖の和服に小倉の袴をはいて、場違がするのか、ひどく小さくなって居ります。 「これを何処《どこ》で拾ったんだ」  花房一郎は血の付いた双刃の剣を見せます。 「食堂の前でした、小雪の降り始めた頃で、その剣が芝生に突っ立って居たんです」 「突っ立って――柄を上にして?」 「え、真っ直ぐに切ッ先が二三寸大地に入って」 「夜の庭で、よくそんな物が見付かったね」  花房一郎の疑いは、すべての人の疑いです。あの騒の真っ最中、小雪の降って来た庭で、大地に突っ立った刃物を見付けるのは尋常でありません。 「二階――閉め切った二階から、お嬢さんがさらわれた[#「さらわれた」に傍点]と聴いて、庭へ出て二階を見る気になったんです、犯人はお嬢様を抱いて其処《そこ》から降りられるかどうか」 「フーム、君は妙な事に気が廻るね」 「僕は探偵小説が好きで――何んか起ったら、きっと、自分で探偵しようと思って居たんです」  少年高山昇は、花房一郎に褒められて、すっかり有頂天になって居りました。 [#5字下げ]美保子は語る[#「美保子は語る」は中見出し]  その夜の客三十幾人は、令嬢奈々子の誘拐される前に大部分は帰り、残る人達は傷《きずつ》いた妹美保子の看護のため踏留った、潮田春樹を除いて、全部帰してしまいました。  同時に、何処《どこ》で嗅ぎつけたか、新聞記者の群が二三十人どっと押し寄せて、庭から玄関から、家の中まで――いや心痛に打ちひしがれた主人熊谷三郎兵衛や、夫人の由紀子までもカメラに収めるのです。  秘書の本田大助、書生の高山昇など、精一杯にそれを喰い留めましたが、ニュース陣の強力な活動は、そんな事ではどうにもならず、その際に花房一郎は、所轄署の警部と千種十次郎だけをつれて、美保子の傷を養って居る部屋に逃げ込むのが精一杯でした。 「少し位は話しても宜《い》いでしょうか」  寝台の側に居る看護婦に、花房一郎はそっと耳打しました。 「何分の重傷ですから、お調べはなるべく二三日経ってからの方が宜かろうと――先生は仰《おっ》しゃいましたが」  中年者の老巧らしい看護婦は、何やら承服し難い顔をして居ります。  小さいがよく纏まった大部屋で、クリーム色の勝った壁紙も、新しい寝具も、何んとなく清々しい感じです。 「いえ、――少し位なら大丈夫お話が出来ます。お調べはお急ぎでしょうから」  美保子はパッチリと眼を見開きました。向う側の椅子から、妹の容体を気遣って潮田春樹は物言度げに立ち上りましたが、美保子はそれを押し切って、何やら言ってしまい度い様子です。 「では、ほんの少し、前後の様子だけでも話して下さい、――少しでも早く知って置き度い事ですから」 「ハイ」 「第一、あなた[#「あなた」に傍点]とお嬢さんの奈々子さんと二人あの部屋に帰って来た時、後ろから誰か跟《つ》いては来なかったのですか」 「女中のお駒さんが少し離れて参りました。奈々子さんが、それにお茶を頼んだので、女中さんは部屋の入口から直ぐ引っ返して階段を降りましたが」  美保子の話は思いの外ハキハキして居ります。一たん出血のために、蒼白くなった顔が、さすがに緊張に上気して、ポーッと血色を回復したのが、たまらない可愛らしさです。 「で、部屋の中には?」 「奈々子さんが先に入って、スイッチを捻りましたが、電灯が点《つ》かなかったので、後から私も入って、手さぐりで近寄ると、いきなり真っ暗な中から飛出して――」 「――――」  その時の恐ろしさを思い出したらしく、美保子は暫く言葉を切って、息を休めました。 「――私は胸にひどい痛みを覚えて、フラフラと倒れてしまいました。気が遠くなったのです」 「相手の人相はわからなかったんですか」 「真っ暗だったんです」 「で、その真っ暗な中で、よく犯人が奈々子さんを窓から連れ出したということがわかりましたね」  花房一郎はさすがに急所急所を押して行きます。 「でも外に逃げ道は無かった筈です、私は入口に倒れて居ましたし」 「その入口の扉《ドア》を誰が何時《いつ》締めたのかわかりませんか」 「多分――その悪者が締めたんでしょう」 「入る前、扉《ドア》の鍵が掛って居たのですね」 「え、奈々子さんが衣嚢《かくし》から鍵を出して開けました」 「その鍵は――」 「抜かずに、そのまま扉に差込んであったようです」 「外側からですね」 「――――」  美保子はうなずき[#「うなずき」に傍点]ました。さすがに少し疲れた様子です。 「もう宜《い》いでしょう、あんまり話させると、又出血しますからね」  兄の春樹は気が気でない様子で、先刻《さっき》から椅子に座ったり立上ったり、切《しき》りに気を揉んで居ります。 「いや、飛んだお邪魔しました、お大事に」  花房一郎も諦めた様子で、こんな事で切上げて廊下に出ました。  其処《そこ》には新聞記者が十二三人、花房一郎と千種十次郎を取囲んで、質問の矢を八方から浴せかけます。 「奈々子さんはどうなったのです」 「傷《きずつ》いた美保子さんの容態はどうです」 「少し発表して下さい」 「写真を撮っても構わないでしょうな」  そう言う記者達の顔には、熱心さが溢れますが、花房一郎は、 「美保子さんは思いの外元気だ。生命にかかわるような事は無いと医者は言うが、まだ何んにも纏まったことはわかって居ないのだ」  巧みに鋒鋩《ほうぼう》を避けて、事件のあった部屋に入るのです。 「千種君、君はいろんな事を知ってる筈だ、同業の誼《よしみ》で、少し漏らし給えよ」  老巧な記者達は、見知りの同業者千種十次郎を取巻きました。 「僕も何んにも知らないよ、偶然今夜の晩餐に招待された丈けだ、――そして僕の新聞には、記者として僕の社から駆付けた早坂勇の見聞以外は、一句も書かない積りだ、その点は安心してくれ給え」 「そいつは紳士的だね、特権を利用して特種にされちゃ叶わないからな」 「大丈夫だよ」  千種十次郎も花房一郎の後に続きます。斯うは言うものの、千種十次郎も「法雲寺五郎」なるものの脅迫状以外は何んにも知らず、それは花房一郎から発表を止められて居るので、全面的に足の勇の敏腕に俟《ま》つ外は無かったのです。 [#5字下げ]写真の口紅[#「写真の口紅」は中見出し]  事件のあった奈々子の部屋では、警視庁の指紋係と写真係が、部屋中の指紋を採り、いろいろの角度から写真を撮って居りました。 「閉め切った此部屋から、女一人をつれて、どうして脱出せるのだ」  豪華を極めた部屋の隅々まで、恐ろしく念入に捜し廻った末、安楽椅子にドカリと腰をおろして花房一郎は言うのです。 「その上、恐ろしく大きな声で笑ったよ、四半世紀前の人があれを聴いたら、空中で天狗は笑ったと言うだろう」  千種十次郎はそれに並んで、美しい肘掛椅子に身体《からだ》を埋めました。その時はもう打ち壊された電灯が修理されて、部屋の中は真昼の如く照されて居るのです。  マホガニー一色の美しい家具、西洋の華麗な椅子張り、フカフカと踵を埋める支那絨毯、そして壁寄りの大きなフロア・スタンドの側に、斑々として血の跡のあるのは、美保子が刺された場所でしょう。 「思ったより刺された場所は入口近くなかったネ」  花房一郎は又独り言を言い乍ら立ち上りました。それを眺めて、不断の微笑を送って居るのは、仏蘭西《フランス》の古典らしい油絵の少女で、その隣の扉《と》を押し開けると、次の間は小さく纏まった寝室、所謂《いわゆる》ハイカラにした紅閨《こうけい》で、小卓にも、寝台にも、羽根布団にも、若い娘の好みらしい、可愛らしさと、金持の一粒種らしい豪勢さが溢れます。  現に寝室の一方に張った、印度更紗《インドさらさ》の幕を引くと、その中は想像も及ばぬ衣裳の宝庫で、絹と毛皮と、そして高貴なレースの大量が、貧乏人の肝を冷させるのです。  寝台の前の小卓の抽斗《ひきだし》は、ニッケルの小さい鍵を差込んだまま、少し開いて居りました。多分奈々子が階下の晩餐会に出るために、ブローチか指環を出して、そのまま閉め忘れたのでしょう。 「おや、これは、見たことのある顔だが」  その中から取出したカビネ型の一枚の写真に、花房一郎は目を見張りました。 「潮田春樹の写真ではないか」  千種十次郎は首を出します。 「何んだって、こんな写真が此処にあるんだろう?――おや、これを見給え千種君」  花房一郎はニンガリともせずに、写真を渡すのです。見ると写真の表面には、斑々として口紅の跡が―― 「――――」  千種十次郎は、フト処女《おとめ》の心臓を覗いたような気がして、あわて[#「あわて」に傍点]て首を引込めました。熊谷財閥の令嬢奈々子が――あの冷たくて権高で此上もなく美しい奈々子が、寝室の小卓の抽斗《ひきだし》の中に、口紅で染った男の写真――悧溌《りはつ》で忠実ではあるにしても、貧乏な腰弁の一青年の写真を忍ばせようとは、全く思いも寄らぬ大事件だったのです。 「秘密の緒口《いとぐち》は此処《ここ》にもあったわけだ」  花房一郎は、それを職業的に受取って、冷たい方程式の一つの項に書き入れた様子です。 「写真は元の通り抽斗《ひきだし》へ返した方が宜《い》いだろう」  千種十次郎はそれほど物を冷たくは考えられない様子でした。 「言う迄《まで》もない、そして滅多な人の見ないように、この抽斗《ひきだし》の鍵は僕が預って置こうよ、奈々子さんが無事な姿を現わすまで――」  花房一郎は小さいニッケルの鍵を衣嚢《かくし》に入れて、そっと寝室を離れました。 「ところで、その天狗の笑いだが――」  元の奈々子の部屋に帰ると、花房一郎はもう一度安楽椅子にドカリと腰をおろして、先刻《さっき》の話を巻き直します。 「天狗の笑い?」 「奈々子さんがさら[#「さら」に傍点]われた時、頭の上に聞えたという笑い声だよ、それはどの辺から響いたと思う?」 「頭の上だ――丁度この部屋のあたりかな、何しろ人間離れのした凄い笑い声だったよ」  千種十郎は、その笑いを思い出して、背筋の寒くなるような心持を感じて居たのです。 「無論男の笑いだろうな」 「皮肉で暴慢で、横着で空々しくて、恐ろしく暴君的な笑いだったよ、――あ、あ、あの笑いだ」 「何?」 「あの声だよ」  千種十次郎は聴耳を立てました。  その時丁度、何処《どこ》からともなく、夜の空気を揺がして、凄まじい笑いが聞えて来たのです。  花房一郎は立上って窓から首を出しました。 「ワッ、ハッハッハッハッ、ハッハッハッ」  次第に大きく、次第に強く、夜空一パイに拡散《かくさん》する笑いの波は、千種十次郎が言ったような、それは暴慢で虚無的で、そして悲劇的で、妙に涙をさえ含んだものでありました。 「隣の建物だ、――あの窓の中だ」  花房一郎はこの窓に面したコンクリート建の土蔵を指すのです。それは僅《わず》かに此窓から十メートル位しか離れない、恐ろしく厳重なものですが、それは何が入って居るか、もとより知る由もありません。 [#5字下げ]復讐第二段階[#「復讐第二段階」は中見出し]  部屋から飛出した花房一郎と千種十次郎は、階段の下でバタリと主人の熊谷三郎兵衛に逢いました。宵の落着き払った傲慢な態度は、愛嬢奈々子の失踪と共に何処《どこ》かへかなぐり[#「かなぐり」に傍点]捨てて、 「あの声だ、――花房さん、あの笑い声だ、娘はあれにやられたに違いありません」  言うこともしどろもどろ[#「しどろもどろ」に傍点]で、すっかり取乱して居ります。 「御主人、あの笑い声は、お嬢さんの部屋の窓の外にある、コンクリートの土蔵の中から響いて来るようです。あの土蔵の中には一体何が入って居るのですか」 「土蔵の中――に、大変ッ、あの中には私が半生を傾けて集めた、美術品が入って居る、勘定し切れないほどの値打物だ――」  主人の熊谷三郎兵衛は、口をパクパクさせ乍ら、取乱した姿のまま警衛に来て居る警官を突き飛ばすように、内玄関から外へ飛出してしまったのです。花房一郎と千種十次郎がそれに続いたことは言う迄もなく、まだ踏み留って居た新聞記者――早坂勇始め五六人の者も、誘われるようにバタバタと外に飛出してしまいました。  が、コンクリートの土蔵の前には、厳然として二人の警官が頑張って居ります。宵に脅迫状を受取った時は、内心甚だあわて[#「あわて」に傍点]乍らも一応は一笑に付した熊谷三郎兵衛でしたが、令嬢の奈々子が二階の閉された部屋から、忽然《こつぜん》として姿を消すと同時に、押し隠された恐怖心が、この逞しい実業家の神経を極度に焦立たせ、駆け付けて来た所轄署の警部に頼んで、二番目に狙われるだろうと思った、庭先の土蔵を、厳重に監視して貰ったことを思い出したのです。 「何んだ、――私も気が弱くなったぞ、――警官に見張をお願して居たことまで、すっかり忘れて居たよ、ハッ、ハッ、ハッハッ」  それは陰惨で洞《うつ》ろで、虚脱したような笑いでした。一代に巨億の富を積んで、実業界で飛将軍と言われた三郎兵衛は、自分の取乱した態度を繕うために、日頃の剛腹と負けじ魂が蘇って、痩せ我慢の笑いを絞り出したのでしょう。 「でも、一応土蔵の中を拝見し度い、鍵はおありでしょうな」  花房一郎は主人の痙攣《けいれん》した顔を見つめました。 「鍵は秘書の本田が持って居る――おい、本田、本田は居ないか」 「ハイ、ハイ」  本田大助は飛んで来ました。 「土蔵を開けて、花房さんにお目にかけてくれ、――今日昼過ぎ晩餐会で使う銀器を出させる時までは、何んの変りもなかったのだな」 「ハイ、私が立会いました、が、何んの変ったことも無かった筈です」 「先刻《さっき》の騒の後は警官が見張ってくれたし、入口の締りにも変りは無いようだ」  その間に秘書の本田は特許の大型の錠を抜き、更に古風な鉄の鍵を持って来て、二重の締りを開けました。 「この通り――」  幾つかの懐中電燈の灯の中に、一と足先に入った本田は、入口に取付けてある電灯のスイッチを捻ると、土蔵の中は真昼の如く明るくなって、奥の奥まで一と眼に見渡せます。 「あッ、やられたッ」  主人の三郎兵衛はさすがに中の異状さに気が付きました。指した方を見ると、正面に据えた大金庫の扉は八文字に開かれ、棚の上の物が引卸され、書画骨董、古文書銅器、あらゆる物々しいお宝が、滅茶滅茶に取散かしてあるではありませんか。  熊谷三郎兵衛はそれっ切り立ち縮《すく》んでしまったのです。多少玉石混交ではあったにしても、兎も角正貨準備か何んかの積りで、半分は思惑気で買い集めた夥しい美術骨董品の中には、世に得難い宝や、万金を積んでも手に入れることの出来ない品は、十や二十では無かったのです。  ざっと眼を通した丈けでも、国宝級のもの七つ八つ、重要美術品に至っては幾十点あるか数え切れないという程の被害で、これを金に積ったら、国の財政を何十日か賄《まかな》うことも出来たでしょう。 「これは大変だ、花房さん、どんな事をしても取返して下さい、あれを失っては国の大損害だ、無事に取戻せたら、私は百万円位の賞金を出しましょう」  熊谷三郎兵衛は、金持らしく、此処《ここ》でも物事を金で解決しようとするのです。 「おや、金庫の奥に何んか貼ってありますね」  花房一郎は警官の持って居る懐中電灯を借りて、引出しを抜いたあとの金庫の奥を照しました。と其処《そこ》には一枚のタイプライター用紙に、万年筆の達筆で書いた紙が一枚、 [#ここから2字下げ] これは天下の至宝だ、貪婪《どんらん》なる一個人の私《わたくし》すべき物では無い、此土蔵中の美術骨董品を挙げて博物館に寄贈し、学者研究者の利用に任せる手続を取ったならば、予が持去った品は全部返すだろう。一ヶ月を経てもその決心が付かなければ、預った美術骨董品は、外国に持出して、世界の文化の向上に資する外は無い、右誓言す。[#地付き]法雲寺五郎 [#ここで字下げ終わり]  読み了《おわ》ると熊谷三郎兵衛、 「残酷だ、――そんな馬鹿なことは出来るものじゃ無い、この宝庫の中の品は、この熊谷三郎兵衛の財産の半分だ、畜生ッ、どうしてくれよう」  三郎兵衛は忿怒と失望にかり立てられて、醜い顔を紫色に上気させ、地団駄を踏んで罵りわめく[#「わめく」に傍点]のです。  が、これは併し法雲寺五郎の復讐の二段階にしか過ぎません。続く四つの段階――最後の「死」にまで導く手段はどんなものであろうか、千種十次郎ももう一度背筋の寒くなるような恐ろしさを感じました。 [#5字下げ]カフェ「シレネ」[#「カフェ「シレネ」」は中見出し]  銀座裏のカフェで、その頃一番清潔で、家庭的な明るさを持った「シレネ」、その奥の一と間は新聞社の御連中の専用の形ちになって居り、どんな時間に行って見ても、二人や三人の記者達が、仕事を持込んだり、事件を期待したり、編輯局の一部のような、気楽な心持でおしゃべり[#「おしゃべり」に傍点]をして居るのでした。  新聞記者という人種は、どれもこれも、幾分|放浪者《ボヘミアン》の素質と、自由主義者《リベラリスト》的な性癖があり、編輯局と言った、かなり呑気な事務所にさえ窮屈さを感じて、自分の肩にかかる当面の仕事さえ無ければ、斯んなところに逃避して、呉越同舟に気楽な時間を過して居るのです。  其処《そこ》へ時々やって来るのは、あまり有名でない文士と、一向|流行《はや》らない書家と、そして警視庁の若い刑事達でした。新聞記者の集まるところには、必ず特高の刑事を潜入させるのが、明治大正以来の警察常識で、カフェ「シレネ」などは、その点まことに情報交換所としても、第一流の場所だったのです。  名探偵花房一郎は、新聞記者の漫談から時局の動向を判ずるような、そんな特高根性を持って居たわけではなく、これは刑事中のインテリとして、東京の一流の記者達に交友を持ち、仕事の合間合間に此処《ここ》へやって来て、凡《およ》そ職業意識とは縁の遠い、文芸、美術、劇映画から、酒を論じ、美人を語り、流行の哲学書をくさし[#「くさし」に傍点]つけたり、空瓶を叩いて、「カロ・ミオ・ベン」や「サンタ・ルチア」位を、ちょいと良い声で歌う雅懐も持って居たのです。 「ところで、今日は千種君が見えないようだが」  花房一郎はややトロリとなって四方《あたり》を見廻しました。ブランデーを両掌の中に温め乍《なが》ら、まさに相手が欲しくなった程度の酔です。 「兄貴は出張だよ、名古屋から大阪へ廻って居るんだ、明日あたりは帰って来る筈だが――」  足の勇は大ジョッキを半分|乾《ほ》して、唇の泡を拭き乍ら、此方へ椅子を向けました。これも相手が欲しくてたまらない様子ですが、連れの虎井満十はすっかり廻り過ぎて、ストーブの側で舟を漕いで居ります。 「浮気をし乍ら廻って居ちゃ、一日や二日は延びるんだろう」  花房一郎は心得たことを言います。その頃の新聞記者の旅行などというものが、どんな性質のものか、悉く呑込んで居る調子です。 「いや飛んでもない、千種十次郎は新聞社会で聞えた清教徒《ピューリタン》だよ」  虎井満十は薄汚い髯面を挙げました。舟は漕いでいるようでも、何処《どこ》か確かなところがあったのでしょう。尤も種取りの名人と言われた満十は、狸寝入の芸当も武器の一つにして居たのです。 「新聞記者の清教徒《ピューリタン》――昭和五年の日本には珍らしい人種だな、――尤も新聞記者の中には、ストーブで尻を暖ため乍ら、時候外《しゅんはず》れの冷たいビールを呑む人間も居る」  花房一郎はまだ未練らしくブランデーの盃をいつくしん[#「いつくしん」に傍点]で居ります。 「これか、――これはどうも止せねえよ、尤もスタウトをお燗して呑んで見たが、あまり結構じゃないね、大年増の初恋に付き合って居る味だ」  足の勇は残りのジョッキを一気に呷《あお》って、フーと虹を吐きます。ノートルダムの庇《ひさし》の怪獣のような色気の無い表情になることは、本人も気づかない様子です。 「そんな味噌濃《みそご》いものを味わった経験があるかい、早坂君は」 「飛んでもない、物の譬《たとえ》だよ、俺は年増女と月賦の洋服屋は相手にしないことにして居るんだ執《しつ》こくて叶わないからね」 「話が下品でいけないな、もう少し高尚な話題を捜しちゃどうだ、例えば斯う芸術とか哲学とか」これは虎井満十でした。 「月給前借術とか、弁当屋口説き落し術なんてえのは、芸術のうちに入らんかね」  足の勇は潤滑油が利いて、すっかり舌が軽くなって居ります。 「ところで、話はもう一度元に還るが、千種君は本当に品行方正かい、――東京ポストの社会部長たるものが」  花房一郎はそればかり気にして居ります。 「恋人があるのだよ、警視庁の探索も其処《そこ》までは届かないのか」 「恋人?」 「驚くなよ、花房探偵、若い男が恋人を持ったところで、警視庁のブラック・リストに載せるほどの事件じゃない」  足の勇は泰然とした態度です。 「千種君はもう若くないぜ、それにしても相手は誰だ、芸者か女給か」 「いや[#「いや」に傍点]になるぜ、千種十次郎は紳士で人格者で清教徒《ピューリタン》だと言ってるじゃないか、その恋人が白粉臭い雌であってたまるものか」 「まア、勘弁しなよ早坂君、ツい岡っ引根性が出たんだ」 「本人がそう言うんだから、花房探偵|憎気《にくげ》が無いよ、――斯うなると兄貴の名誉のために、神聖なる恋人の名前は発表しなきゃなるまいな、――驚くなよ」 「驚くものか、小野の小町とでも、ジュリエットとでも言って見ろ」 「そんな嫌なんじゃない、何を隠そう、千種十次郎の恋人というのは、熊谷合名の社員潮田春樹の妹で、美保子さんだよ、――島崎藤村の詩に詠《よ》まれたような、純情可憐な処女《おとめ》だ」 「あの怪我をして入院して居る」 「兄貴が東京に居さえすれば、社の仕事の隙を見付けては、番町の病院に見舞に行って居たよ、――お蔭で有楽町の花屋が、時々総仕舞にされる」 「嘘を吐《つ》きやがれ」  虎井満十はまた鎌首をもたげました。この仁田四郎忠常に退治された富士の裾野の野猪《いのしし》のような男が、案外正直者で、名記者千種十次郎の崇拝者でもあったのです。  一としきり賑やかだった隣室の客は、洪水が引いたように帰ってしまって、カフェ「シレネ」は、まだ宵のうち乍ら、わざと鳴物を嫌って、深夜のような静けさです。 [#5字下げ]処女心の秘密[#「処女心の秘密」は中見出し] 「勇、此処《ここ》に居るのか、――見当はつけて来たが、おや、花房君も一緒か」  一陣の寒い風と共に、廊下から飛込んで来たのは、東京ポストの名記者、社会部次長をして居る、噂の千種十次郎でした。 「あ、それから拙者も居るよ、――丁度兄貴の噂をして居たところだ」  虎井満十は鎌首をもたげます。 「どうせ悪口だろう、先刻駅から北へ廻った時、続け様にくしゃみ[#「くしゃみ」に傍点]が出たよ」 「風邪でなくて幸せだ、まア一杯やるが宜《い》い、旅の疲れが治るぜ」  早坂勇は、この闖入者にビールを呑ませる気で居るのです。 「同じことなら熱燗に願い度いネ」 「では一丁つけさせよう、ブランデーはききが良すぎて楽しみが少い、――ところで、先刻《さっき》から噂をして居たというのは、君に急用が出来て、捜し廻って居たのだ」  花房一郎は女給に日本酒の熱燗を命じ乍ら、千種十次郎を自分の前の席に据えました。 「気味が悪いな、花房探偵に捜し廻されちゃ――尤もお尋ね者になるほどの覚えも無いが」  千種十次郎は少々グラ付く椅子の上へ、疲れたらしい身体《からだ》を投《ほう》り込みました。 「いや、あまり潔白な口はきいて貰い度くないよ」 「?」 「例の熊谷三郎兵衛の令嬢失踪事件だ」 「あれから二週間も経って居るが、目星はつかないのかな、ピカピカするようなお嬢さんを一人、東京が広くたって、そう何時《いつ》までも隠して置けるものじゃない」 「警視庁の弾劾か」 「いやそう言うわけでも無いが」 「君が協力してくれさえすれば、もっと簡単に解決する筈だと思うが――潔白な口をきいて貰い度くないというのは其処《そこ》だよ」 「はてな?」  千種十次郎は、何んか知ら大タジタジです。 「最初から話そう――あの令嬢の失踪した部屋で傷《きずつ》けられた、潮田春樹の妹の美保子さんは、犯人の顔か素性を知って居なければならないのだよ」 「えッ? ?」  花房一郎は相手の表情などに構わず、自分の考を語り続けました。 「東京ポストの千種十次郎君が、それ位のことに気がつかない筈は無い、――美保子さんの言葉と実際とは矛盾だらけで、どう同情しても信じられないのだよ、あの純情な処女《おとめ》が、花の唇から白々しい嘘を言うとは思われないから、これは誰かに脅迫されて、心にも無いことを言ってるか、或は誰かを庇って、宜《い》い加減なことを言って居るかだ」 「そんな馬鹿なことがあるものか」  千種十次郎は少し躍起《やっき》となりました。 「馬鹿なことではない、――女の子が命がけで言う嘘ほど怖いものは無い、――まア、聴いてくれ、あの晩美保子さんは部屋の入口で刺されたと言ったが、その美保子さんの気を喪って血だらけになった身体《からだ》は、窓の方に近いところに倒れて居た」 「――――」 「部屋の扉《と》は内から閉って居た――鍵は内から差込んであったから間違いはあるまい、そして美保子さんは曲者《くせもの》は奈々子をさらって、窓から逃げたと言って居る、――あの窓から若い娘とは言っても、兎も角も人間一人を小脇に抱えて、逃出せるものだろうか。庭の雪の上には足跡は無かったし、窓から三四間離れて居る土蔵の窓へ、綱を渡せば行けないことはないが、これはサーカス的芸当だ、若い女を抱くか引っ担ぐかしては、人間|業《わざ》で行ける道理はない」 「――――」 「土蔵の窓へ渡ったにしても、張り渡した綱の始末は、部屋の中に残って居る美保子さんがしてやる外にはない」 「――――」 「曲者《くせもの》が奈々子さんを部屋の入口から堂々と連れ出した後で、美保子さんが扉を閉めるか、でなければ曲者《くせもの》が窓から奈々子さんを担ぎ出した後で、その渡り綱を美保子さんが外してやったことになる、――東京ポストの千種十次郎君ともあろう者が、これ位の矛盾に気がつかない筈はない、君が協力を惜しんで居ると言った僕の言葉が間違って居るだろうか」  花房一郎は、今までの好々爺振りをかなぐり捨てて、グイグイと千種十次郎を問い詰めるのです。 「――――」  千種十次郎は黙り込んでしまいました。それ位の矛盾は、素より気が付かないでは無かったのですが、傷《きずつ》いた美保子を問い詰める勇気もなく、ツイ疑問は疑問のまま、成行に任せて眺めて居たことは否《いな》む由もありません。 「そればかりでは無い。窓框《まどわく》の内側は、ほんの少しではあったが血が付いて居た筈だ、それに、庭には足跡も無いのに、淡い雪の上に、双刃の短刀が突っ立って居た、――真っ直ぐに、大地に二三寸も突っ立って居たのだ、上から投《ほう》ったことは疑もない」 「これでも、美保子さんは何んにも知らないと言えるだろうか、――僕の想像では、熊谷三郎兵衛の令嬢奈々子さんは、曲者《くせもの》に暴力でさらわれたのでは無くて、変装して堂々とあの部屋から出て行き、お客様に交って玄関から外へ出たに違いないと思う。どうだ、千種君」 「僕はわからぬ――、残念乍ら少しもわからないよ」 「これ丈けの証拠を挙げて、僕は美保子さんを問い詰めたよ、――幸いこの二三日は元気になって、もう大丈夫と、院長から許可を得たのだ」 「残酷じゃないか」  千種十次郎は勃然として肩を聳やかしました。 「いや、残酷ではない、これは僕に許された権利の遂行に過ぎない、そして法の神聖のために、美保子さんに真実を語ってもらわなければならぬ」 「美保子さんはそれに何んと答えた」 「困ったことに口を噤《つぐ》んで、その事に関する限り、絶対に説明してくれないのだ」 「――――」  千種十次郎は何んとはなしにホッとした様子です。 「併し、口を喋んだからと言って、左様でございますかと引下るわけに行かない。僕はいろいろ訊き試みた、美保子さんの健康の許す限り、条理を尽して三日間に亘って説いた積りだ。その結果美保子さんも大《おおい》に心が動いて、言い憎《にく》いことではあるが、社会正義のため、――君、即ち千種十次郎君立ち会いの上で、明日の午前十時に、知って居るだけのことを打ちあけようというところまで漕ぎつけたのだ」 「それは困る、僕は美保子さんを脅迫するようなことはし度くない」  千種十次郎は大に二の足を踏みました。 「脅迫では無い、正義のために、美保子さんが進んで、君の前で打ち明け話をしようというのだ――勿論明日の午前十時迄に、病院へ行ってくれることだろうな」 「いや」 「いやも応もない、――君の友情に信頼してこの花房一郎が頼むのだ」  そう言って花房一郎は、軽くお辞儀をして見せるのです。道化たような態度のうちに、妙な真剣らしさがあって、巫座戯屋《ふざけや》の足の勇や、虎井満十までもシーンとした心持にさせます。 [#5字下げ]天使の魔睡[#「天使の魔睡」は中見出し]  翌《あく》る日九時頃、まだ迷いに迷って居る千種十次郎のアパートへ、花房一郎は警視庁の自動車を持って迎いに来ました。まさに嫌も応も言わせない段取です。  美保子が傷の治療をして居る番町の病院に入ると、中は何んとなくソワソワして、医者も看護婦も落着かぬ様子で右往左往して居りましたが、いつものように美保子の病室の前へ来て、ノックしようとして驚きました。  病室の中は二人の医者と看護婦と婦長が入って、扉も開けたまま、ひどく取乱して居るのです。 「どうしたのです、僕は警視庁の者だが――」  皆んなにけげん[#「けげん」に傍点]な顔をさせないように、花房一郎は名乗り乍ら一歩踏込みました。千種十次郎がそれに続いたことは言う迄もありません。 「患者さんの潮田さんが昏睡に陥って居るんです」  顔見知りの看護婦は、警察の者と知って丁寧に説明しました。 「昏睡?」 「これは患者の容体に関することですから発表なさらないように願いますが――潮田さんが先刻から深い昏睡に陥って、困って居るのですが」  副院長――と後でわかりましたが、若いきかん気らしい医者の一人が、要領よく釘を打ちます。 「次第に依っては秘密にもしましょうが、――何《ど》うかしたら犯罪に関係がありませんか、麻酔薬を呑まされたと言ったような」  花房一郎は一歩踏み込みました。 「そんな形跡は少しも無いのです。麻酔剤や催眠薬を持ち込む筈もなく、それに飲食物は全部看護婦がやって居ります」 「訪問客は」 「患者の御兄様がいらっしゃいました、がほんの暫らくお話してお帰りになる時は、患者さんが機嫌よく『左様なら』を仰《おっ》しゃって居りました」  これは看護婦です。 「その後で、看護婦さんは病室を留守にしなかったでしょうか」 「朝のうちは忙しいものですから」  恐らく付添の看護婦は、用事を弁ずるために、幾度も幾度も病室から出て居るのでしょう。 「容体はどうです?」  花房一郎と千種十次郎は、いつの間にやら寝台の側に立って居りました。  朝の光が一パイに入って、寧ろ陽気過ぎるほどの病室にはお友達から送られたらしい花が夥しく飾ってあって、その前に萎《しお》れたのを一と束、捨て兼ねる風情に置いてあるのは、多分旅行前に千種十次郎が持って来たものでしょう。  肝心の美保子は、寝室の上に打ひしがれたように無力に横わって、軽い鼾声《いびき》を立てて居ります。蒼白く貧血した顔や、深く閉じた眼や、素人が見ても明かに強力な催眠薬が作用して居るらしく、二人の医者と看護婦が、いろいろ手を尽して居りますが、困ったことに容易に正気づく様子もありません。 「大丈夫でしょうか、――万一」  千種十次郎はゴクリと固唾《かたず》を呑みます。今日十時に、自分が立ち会って、花房一郎に秘密を打ちあける約束をしたばかりに、恐ろしく行届く曲者《くせもの》にそれを嗅《か》ぎつけられ、何んかの方法で麻睡させられたことは、最早疑う余地もありません。 「何んとも言えません、もう少し様子を見なければ」  注射器を透《すか》し乍ら、副院長は少し素気なく言い放ちます。素人の干渉を極度に嫌う、職業人の誇りでしょう。 「美保子さんを死なせてはなりません、どんな事があっても――」  それは恋人としての千種十次郎の激情の奔注であったに疑いもありませんが、副院長の不快らしい白い眼を見ると、花房一郎は引取るように、 「この人の命は恐ろしい疑獄の解決に関係するのです、――この人は今日の十時、この私に大変な神秘を打ち明ける筈でした、それを妨げたのは、悪魔のように賢こい、恐るべき曲者《くせもの》の仕業です」 「――――」 「あッ、それは注射の針の跡じゃありませんか」  副院長が捲った美保子の白い腕――白過ぎるほど白い凝脂の上に、ポツリと赤い傷が、点のように印されて居るのを、花房一郎は指しました。 「解って居ります」  副院長の素気なさ――。 [#5字下げ]怪しい男[#「怪しい男」は中見出し] 「帰ろう、千種君、此処《ここ》で何を訊いても無駄だ」  花房一郎もさすがにこの強烈な職業意識に対抗し兼ねたものか、千種十次郎の腕を取って病室を見棄てました。  帰り際に受付に顔を出して、今日の訪問客のことを一と通り訊いた事は言うまでもありませんが、病院の受付は一々患者の見舞客を記憶して居る筈もなく、これは殆《ほと》んど無駄骨折《むだぼねおり》です。 「大丈夫だろうか、美保子さんは?」 「根が丈夫だから、恐らく間違いはあるまい、気になるなら、午後又覗いて見るが宜《い》い、――おや、あれは?」 「兄の潮田春樹君だ」  大あわて[#「あわて」に傍点]で自動車から飛降りて、病院の玄関へ駆けて行く潮田春樹を、千種十次郎は横側から呼留めました。 「潮田君」 「千種君か、――妹がどうかした相で、会社へ電話が掛って飛んで来たが」  潮田春樹はひどくあわて[#「あわて」に傍点]て居ります。 「今朝君が見舞に来た相じゃないか」 「会社へ行く道|序《ついで》に、時々寄って見るんだ、今朝来たのは九時頃かな、――十分ほどで帰ったが――」 「それじゃ、大事にしたまえ、僕も午後又覗いて見るが」 「有難う」 「あ、――ところで貴方《あなた》が今朝美保子さんの見舞に来られた時、廊下で誰かに逢った記憶はありませんか」  花房一郎は、急ぎ足に背をみせた潮田春樹を呼留めました。 「そう言えば逢ったような気がしますが、――電気のメートル調べか、瓦斯《ガス》会社の集金人か、兎も角カバンを提げて詰襟の服を着た中年男に廊下で逢ったような気がしますが」 「有難う、それは大変大事なことでした」  花房一郎は丁寧に礼を言って、潮田春樹を玄関の中に見送ると、千種十次郎を眼でさし招いて、病院の裏の方に廻りました。  炊事場の小母《おば》さんや、小使部屋の小使さんや、宿直の事務員などに訊くと、潮田春樹が言った通り、電気のメートルを調べに来たことは事実で、炊事場のメートルの外に、二階の廊下にあるスイッチまで見て何やら書き留めて帰ったということですが、人相は若くて良い男で、時間は潮田春樹が言った九時頃よりは遅く、九時半過ぎになって居たかも知れない、――現に副院長が自動車で出動して来た後だから――ということに一致して居ります。 「その時はあの二階の患者――美保子さんが昏睡に陥って居たのか」  花房一郎の問は行届きます。 「電気屋が二階へ行った時は、二階は大騒動でございました」  二人の小使と炊事場の小母《おば》さんも此点は一致します。 「取込の中だから、メートル調べなら後にしてくれと申しましたが、その男が聴えない振をしてグングン二階へ行きました」  斯う言われると些の疑もありません。 「事件は重大だな、千種君」  花房一郎の顔には、緊張時にだけ見られる一種の険しさが走ります。 [#5字下げ]第三の笑い[#「第三の笑い」は中見出し]  その晩、番町の熊谷三郎兵衛の邸に、三度目の襲撃がありました。  主人の三郎兵衛は、若くて美しい夫人の由喜子と、静かな晩餐を採るのが大好きで、近頃はそのせい[#「せい」に傍点]か若い時の遊蕩癖も直り、一面から言えば、まことに結構な御主人振りでした。 「あの美術品のことはどうなりまして?」  食事が済むと、香ばしいお茶を啜《すす》り乍ら、由喜子夫人は話します。 「飛んでもないことだ、俺が半世の努力と、熊谷家の財力の半分を注ぎ込んで集めた美術品を、ムザムザ博物館などに寄付してたまるものか」  熊谷三郎兵衛は角砂糖を二つ三つ続け様にお茶に落し乍ら以《もっ》ての外の首を振ります。 「でも、博物館に寄付しなければ外国へ渡してやると言った期間が、あと二週間の後に迫って居るではありませんか」 「いや、登録された国宝や重美が、そう簡単に国外へ持出せるものではない」 「でも万一」 「いや、俺にはもっと良い宝があるのだ、――お前という美しい――」  熊谷三郎兵衛は年甲斐もなく椅子を寄せて、由喜子夫人の華奢な手を取ります。 「まア」  さすがに極り悪そうに、六十歳の醜怪な夫に手を取られた三十二歳の美しい夫人は、ほんのり顔を染めた時でした。  ワッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ。  筒抜けに響いて来る悪魔の笑い、――薄寒い空から窓ガラスをビリビリ言わせて、皮肉で傲慢で、無作法で冷酷を極めます。 「畜生ッ」  熊谷三郎兵衛は下司《げす》な言葉を残して、廊下に飛出しました。其処《そこ》から通ずるバルコニーの方から、悪魔の笑いが響いたようです。  が外は暗澹たる雪模様の空、庭の電灯も明々と照された四方には、眼を障《さえ》ぎるものもありません。 「馬鹿なッ」  闇の中に威嚇的な一と睨《にらみ》をくれて、元の食堂に還った三郎兵衛、 「あッ」  驚いたのも無理が無い、其処《そこ》には今まで居た筈の由喜子夫人の美しい姿は無く、掛けて居た椅子に、スカートの一部だけが、フラフラと風も無いのに動いて居るではありませんか。[#地付き](未完) 底本:「野村胡堂探偵小説全集」作品社    2007(平成19)年4月15日第1刷発行 底本の親本:「ロック」筑波書林    1948(昭和23)年12月〜1949(昭和24)年5月 初出:「ロック」筑波書林    1948(昭和23)年12月〜1949(昭和24)年5月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:阿部哲也 2015年9月1日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。