水中の宮殿 野村胡堂 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)翠川《みどりかわ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)籐|椅子《いす》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)‼ ------------------------------------------------------- [#2字下げ]父の汚名を雪ぐ――大事な使命[#「父の汚名を雪ぐ――大事な使命」は中見出し] 「お嬢様、大急ぎで鎌倉の翠川《みどりかわ》様の別荘へいらしって下さい」 「どうしたの、爺や」 「どうもしませんが、夏休になったら、泊りにいらっしゃるお約束じゃございませんでしたか」 「でも、爺や一人で不自由な事はない?」 「私はもう六十八ですもの、どんな事があったって驚きやしません」 「まア、なんかあったの爺や」  立花博士の遺児《わすれがたみ》、今年十四になる綾子は、呆気《あっけ》に取られて正平爺やの顔を見詰めました。 「お嬢様、それじゃ申し上げますが、――お嬢様が此処《ここ》にいらっしゃると、命が危いんです」 「そんな事が爺や」 「今朝、お嬢様のお部屋のバルコニーの欄干の襖《くさび》が抜けて、お嬢様がいつものように凭《もた》れれば、すぐ外れるようになっていたのを御存じでございますか」 「まア」 「あのバルコニーから落ちると、下はコンクリートですから助かりっこはありません」 「それから――」  正平爺は綾子の耳に口を寄せました。渋紙色の皮膚や白髪になりきった頭が近々と来ると、小さい時分、この爺やに抱かれて、植物園や動物園を遊び歩いた事などを思い出して、ツイ綾子の眼は追憶の涙に濡れるのでした。 「お嬢様、そればかりじゃございません。二、三日前には――」  正平爺やは、何やら綾子に囁きました。 「爺や、私、怖い」 「ですから、今すぐ鎌倉へいらっしゃいまし。お荷物は後からお届けしますから」 「爺やは?」 「私は此処《ここ》で見張っていなきゃアなりません。私がいなくなったら、悪者共は、どんな事をやり出すか判りません」 「でも」 「お嬢様は、大事な大事な仕事を持っていらっしゃるじゃございませんか。万一の事があったら、広い世界に、誰がお父様――立花博士の恐ろしい汚名を雪《そそ》ぐでしょう」 「爺や、行くワ、叱らないでね」 「誰が、お嬢様を叱るものでしょう。とんでもない」  爺やも、綾子も泣いておりました。暫《しばら》くは白髪頭と断髪と、テラスの葡萄《ぶどう》の葉蔭に、頷き合うように揺れていたのです。 [#2字下げ]爺やが殺された――綾子の後悔[#「爺やが殺された――綾子の後悔」は中見出し]  綾子は名匠の刻んだ「悲しみの塑像《そぞう》」のような乙女《おとめ》でした。  父立花博士は、北上川の底から平泉館《ひらいずみたて》の宝庫を掘り出す事を考え出し、大勢から資金を集めて仕事に取りかかりましたが、いろいろの手違で失敗した為、大詐欺師扱にされて、未決監の中で死んでしまいました。  それは昨年の秋のこと――、後にたった一人取残された綾子は、迫害と侮辱との中に、爺やの正平を相手に淋しく暮して来たのです。  牛込の邸には、博士が死んでから、世間の迫害に驚いて、雇人は住み付きませんが、それでも、正平爺やの外に、博士の助手をしていた滝山達郎と、その妻の三枝子が住んでいるので、綾子がいなかったところで、なんの差支《さしつかえ》もありません。  綾子はその日の夕方、鎌倉の翠川家の別荘に着きました。主人は有名な実業家ですが、長男の健一は水泳の選手で、十八歳になったばかりですが、幾つかの日本選手権を持っているほどの快青年、妹の燿子《ようこ》は、綾子の学校友達で、綾子より一つ上の十五、これは五月の陽のような朗かで、採りたてのトマトのような新鮮な感じのする少女でした。  翠川一家――健一も燿子も、立花博士の平泉館発掘の事には一言も触れないようにして、毎日、毎日、唯もう面白く遊びました。  由比が浜の泳《およぎ》、鎌倉山の遠足、或時は八幡様へ、或時は七里が浜へ、勉強も運動も精一杯するといった生活が、十日ばかりの間に綾子をどんなに快活にしたことでしょう。  この生活が一箇月続いたら、綾子の健康も気持も、すっかり変ってしまうのではあるまいか――と翠川一家の人達が言っていたのも無理のない事でした。健一と燿子は、健康と快活とを撒き散らして歩く、二人の妖精みたようなものだったのです。  ところが、思いもよらぬ事件が、思いもよらぬ形で、現れました。  或朝――、ヴェランダで由比が浜を眺めながら、何心なく新聞を読んでいた綾子は、 「あっ」  不意に籐|椅子《いす》から起上りました。 「百足《むかで》に刺されて?」  燿子は飛んで来ました。この辺は大きい百足《むかで》の多いところで、時々それに刺されて大騒動することがあったのです。 「爺やが、爺やが」 「爺やさんがどうなすって――まア大変ッ」  燿子は新聞を取上げて、指さされた記事を一目見ると、これも思わず大きい声を出してしまいました。 [#ここから2字下げ] 故立花博士邸に怪盗  老僕を惨殺して金庫を破る   助手滝山某に濃厚な疑い―― [#ここで字下げ終わり]  この標題《みだし》を見ただけでも、事件の容易ならぬことが判ります。 「私《わたし》、行って来るワ」  暫くすると綾子は、決然として顔を振り仰ぎました。十日あまりの休養で、身体《からだ》も心も健かになったのでしょう。蒼白かった頬には興奮の血さえ燃えて、もう此処《ここ》へ来た時の「悲しみの塑像」といった淋しいおもかげはありません。 「そんな場所へ行って大丈夫? 綾子さん」  燿子の方が心配そうに、綾子の顔を差しのぞくのでした。 「私は意気地がなかったんだワ。――あの時爺やがなんと言っても、どんなに気味の悪い事があっても、東京にいて、足の不自由な爺やを見てやらなければならなかったんですもの」 「…………」 「あの大事な、大事な記録がなくなったらどうしましょう」  綾子は矢も楯もたまりませんでした。思い立つともう階下《した》へ降りて、夢遊病者のように、長谷の停留場の方へ飛出しておりました。 「綾子さん、待っててね。私も行って上げるワ」  燿子はお母様からお許《ゆるし》を受けると、丁度空いていた父親の自動車に乗って鎌倉停車場へ、綾子の後を追いました。 [#2字下げ]記録は盗まれた――疑わしい人々[#「記録は盗まれた――疑わしい人々」は中見出し] 「お嬢さん、記録は盗まれました」 「えッ」  玄関へ飛んで出た助手の滝山は、棕呂箒《しゅろぼうき》のような頭を指で掻《か》き上げながら、少し気違じみた眼を見開きました。後からは、差しのぞくように、オドオドしたその妻三枝子の眼。  博士令嬢が鎌倉にいるのが判っているのに、この騒ぎを知らせないような人達ですから、老僕の正平が殺されたのより、記録を盗まれたのを大騒ぎするのでしょう。 「尤《もっと》も、記録が盗まれなきゃア、僕が人殺の疑を受けるところでしたよ、――僕はあの金庫を自由に開けられるし、記録も自由に読める事を証明して漸《ようや》く許されたんです」 「…………」  綾子と燿子は、助手の弁解や、制服私服の警官達の眼を背に受けて、黙って家の中へ入りました。  臨検の役人は引揚げて、もう誰も二人の少女を妨げる者はありません。 「まア――」  梯子段《はしごだん》の下に据付けた金庫の上は、強力な薬品で腐食させられて、三十|糎《センチ》四方ほどの大穴があいているのを見て、思わず綾子は立ちすくみました。 「どうなすったの綾子さん」  後からそっ[#「そっ」に傍点]と肩に手を置く燿子。 「あの記録がなくなると、お父様の言ったことがみんな嘘になるんですもの」 「どうかなるワ、綾子さん、お兄様と相談して、記録を奪い返す工夫をしましょう」 「…………」  二人は何心なく梯子段《はしごだん》の横から、食堂へ入りました。 「あッ」  中は二人の警官が固めて、床の上は、まだ洗い清めぬ血潮が、赤い膠《にかわ》のようにこびり付いております。 「お嬢さん方の入るところじゃありません。向うへ行った、向うへ」  二人の可愛らしい断髪の少女が入って来たのを見ると、警官は驚いて止めましたが、その時はもう、窓の下に駈け寄った綾子、卓《テーブル》掛の下からのぞく死骸にすがり付くように、 「爺や、どうしたの。誰がこんなひどい[#「ひどい」に傍点]事をしたの」  ハラハラと涙をそそぐのでした。その時、 「正平が殺されたというではないか。一体全体、なんという事だ」  玄関から怒鳴り込んだものがあります。 「貴方《あなた》は、どなたです」  警官が二人、扉の左右から行手を阻みました。 「いや、これは失礼、ツイ興奮したもので、――私は唐崎荘之介という、亡くなった立花博士の平泉館発掘事業の資金を半分投資した者じゃが」 「あの、唐崎商事の」 「左様」  唐崎商事の社長――と言えば実業界ではかなり知られた人物です。四十五、六の少し古風な頬髭を持った、堂々たる風采が、なんとなくあたりを圧するのも無理のないことでした。 「あっ、唐崎さん」  と飛んで出た滝山助手。 「記録はどうした、滝山君」 「盗まれました」 「な、何? 盗まれた。銅板は紛失し、立花博士は死に、その上記録を盗まれては、発掘事業は全く絶望ではないか、いよいよ未決で死んだ立花博士の大詐欺を裏書するようなものだ――それもいいが、一体私の損害をどうしてくれるんだ」 「…………」 「記録の複写《コピー》はないのか、滝山君」 「ありませんよ」 「それほどの大事な記録の複写《コピー》を取って置かないというのは君の手ぬかりじゃないか」 「いえ、盗まれる危険を少くする為に博士は複写《コピー》を作らせなかったんです」 「記録の内容を、すっかり頭に入れて置いた博士はそれでよかったろうが、我々は困る。兎《と》に角《かく》、警察にお願いして、どんな事をしても探して貰うんだな。次第によっては懸賞を出してもいい、一万円位なら」  唐崎荘之介は、金庫も爺やも見ようともせず、その儘《まま》玄関から引返しました。 「綾子さん、あの人おかしいと思わない」 「え?」  唐崎荘之介を見送って、燿子は綾子の耳に不思議な事を囁きました。 「この家へ始終来るんでしょう」 「え、勝手に入ったりするワ」 「そんなに懇意なくせに、どうして中へ入って見ずに玄関から帰って行ったかしら、――綾子さんへ一言も口をきかないのもおかしいし、――大事な記録を盗まれたというのに、金庫の様子を見ようともしないのも変じゃありません?」 「…………」 「それから、滝山さんは昨夜《ゆうべ》爺やさんが殺された頃、何処《どこ》へ行っていたか聞いて下さらない? 滝山さんの奥さんは一緒だったかどうか、――もう一つ、滝山さんが昨夜《ゆうべ》着ていた着物を見られないかしら」燿子は妙な事を言い出します。 [#2字下げ]川底に埋まる――平泉文明の遺跡[#「川底に埋まる――平泉文明の遺跡」は中見出し]  綾子と燿子は、その日のうちに、鎌倉の翠川家別邸へ引揚げました。 「お兄様、大変な事が起こったワ」 「聞いたよ、綾子さんのお家の爺やさんの事だろう」  水泳の練習から帰って来た健一は、よく陽に焦《や》けた、素晴しい身体《からだ》に、大急ぎで浴衣《ゆかた》を引っかけてヴェランダに出てきました。 「それもあるけれど、もっともっと大変な事なの。綾子さんから、お父様――立花博士――のお仕事……平泉館発掘の事を詳しく聞かして頂こうかと思うの」 「大変な事になったネ」  健一と燿子と綾子は、蔦を這わせたヴェランダの涼風に吹かれながら、籐の椅子《いす》を近々と寄せました。 「――知ってらっしゃるでしょう、お父様(立花博士)は、詐欺師だの、泥棒だのと言われて、未決に収監中亡くなったけれど、決して、そんな事をなさる方じゃないの。あれは運が悪かったのと、誰とも知れない、悪い人にだまされ[#「だまされ」に傍点]たんだワ」 「…………」  綾子は心せわしく語り始めました。  その話というのはこうでした。――綾子の父の立花博士は有名な歴史家で、特に平泉の史跡に興味を持って調べているうち、大変な事を発見してしまったのです。  これは、日本歴史に詳しく載っておりますが、鎮守府将軍藤原|清衡《きよひら》が、奥州の豊田館から平泉に館を築いて移ったのは堀河天皇の御宇《ぎょう》で、今から凡《およ》そ八百四十年前、それから基衡《もとひら》、秀衡《ひでひら》、泰衡《やすひら》と四代、平泉館に住んで、奥州一円に号令していたのでした。  その間に戦争があったり牛若丸が秀衡を訪ねて来たり、いろいろの事件がありましたが、兎に角、一時平泉は鎌倉にも劣らぬ繁昌で、藤原一家の勢力は、清盛や頼朝でもどうすることも出来ない有様だった事もあります。  平泉館一名|奥御館《おくみたて》の外に清衡の築いた柳の御所、秀衡のいた伽藍《きゃら》の御所、後に義経が頼朝に追われて来て入った高館などの大建築があり、外に家の子郎党の屋敷が軒を並べ、西方には中尊寺、光堂(これは今でも残っております)南方には毛越《もうつ》[#ルビの「もうつ」はママ]寺などの巨刹《おおでら》があり、堂塔十、坊舎千という、今から想像もつかぬ繁昌でしたが、義経をかくまった為に、頼朝の怒を買い、文治五年(今から七百四十五年前)天下の軍勢を引受けて戦い破れ、兵火の為に、殆《ほとん》ど残るところなく焼かれてしまったのでした。  これだけは誰でも知っている歴史の表面ですが、立花博士の調によると、藤原秀衡は一代の英傑で、子孫万一の為に、夥《おびただ》しい金銀財宝、古美術品を、平泉館の地下に埋めたというのです。  ところが、その後、平泉の東方を流れていた北上川の流域が変って、西の方に迂回し、平泉館、柳の御所、伽羅の御所、並《ならび》に高館の一部――藤原四代の栄華の、最も重要な地点の上を流れ、これ等の古跡の大部分は、北上川の流の底になってしまったのでした。これは決して拵事《こしらえごと》ではありません。詳しい事は平泉の古図と今の地図とを比べて見ればよく判ります。  立花博士は利慾などを眼中に置く人ではありませんが、高館(一名判官館)の南、今は猫間ヶ淵に沈んでいると思われる、水中の大密室を開くことが出来れば、歴史上、非常に有益な参考品が得られるという見込で、一生懸命発掘計画を進めておりましたが、何分学者の悲しさ、仕事をする資力が続かなかった為に知合の実業家、唐崎荘之介にその事を話して見たのでした。  奥州は有名な金の産地で、金華山を領地にしていた藤原家には、どれだけの富があったか、想像も出来ない。平泉館の密室には砂金、延金、海鼠《なまこ》、金塊などが山の如く隠してあるだろう――と聞いて、唐崎荘之介は大乗気になりました。早速《さっそく》自分も資本の一部を出し、広く世の中からも資金を募集して、いよいよ仕事に着手したのは昨年の春でした。  幸い歴史学者なる立花博士は、平泉の古記録を手に入れ、それによって仕事を進めるうち、昔の柳の御所の跡から、薄い銅板を一枚掘り出しました。鑑定の結果、それは秀衡が宝庫の所在を、工匠に命じて彫らせたもので、大部分は腐食しておりますが、心得のある者が見れば、十分役に立つ絵図面だったのです。  此処《ここ》までは発掘事業も順調でしたが、昨年の秋になって、潜水夫が猫間ヶ淵の底を捜っているうち、なんかの過ちで死んでしまい、同時に、折角《せっかく》手に入れた銅板の絵図面を紛失して、発掘事業はすっかりいけなくなってしまったのでした。  出資者達は、誰に煽動されたか、急に騒ぎ始めました。丁度その頃、沈没船の金貨引揚問題がやかましかったので、平泉館発掘も詐欺の告訴を受け、代表者立花博士は、その無罪を言い解く由もなく、心臓麻痺で急死したのです。  残された綾子にはなんにも判りません。助手の滝山は、記録だけを保管して、形ばかりの仕事を続けておりますが、世間では、詐欺師扱にして、もう誰も相手にしてはくれなかったのです。 [#2字下げ]怪しい滝山――プログラムの謎[#「怪しい滝山――プログラムの謎」は中見出し] 「お父様は決して悪い事をなさる方じゃないワ。きっと、なんか大きな間違があるのよ。潜水夫が死んだのだって、お父様と間違えられて殺された――って言う人があった位ですもの」  綾子はこう結びました。言いたい事は沢山《たくさん》ありますが、十四になったばかりの綾子には、これ以上の事は判らなかったのでした。  でも、思い込んだ大きい眼、堅く結んだ可愛らしい唇《くち》には、命を投げ出しても父の汚名を雪ぎ、忠実な爺やの仇《かたき》を討ってやろうと雄々しくも心を定《き》めたのがよく判ります。 「お兄様、どう? 私、きっと悪者がいろいろな細工をしているに相違ないと思うの。唐崎という人の様子もおかしかったわ」  と燿子。 「爺やも時々言っていたワ――唐崎さんはこの仕事に関係がなくなった筈だ、お父様が学者としてしていた事を、あんまり儲けずくで運ぶから、お父様は我慢がならなくなって、無理なお金を出して、唐崎さんの分は返してその受取も取った筈だ――って」 「まア」  綾子はえらい事を思い出しました。 「それから爺やはまだいろいろの事を知っているような様子だったワ。時々言いたそうにしていたけれど、――ブルブルこれを言っちゃ命が危い、――そう言って冗談みたいに首を振っていたワ」  健一と燿子は、何やら、恐しい物に直面したような気がしました。 「何も彼《か》も怪しい事ばかりよ、お兄様、――昨夜《ゆうべ》奥さんと一緒に映画へ行ったという助手の滝山さんの隠には、同じ映画館のプログラムが二冊あったのよ」  燿子までが妙な事を言います。 「そんなところを調べたのかい。――奥さんと二人分のだろう」と健一。 「だって奥さんのハンドバッグにも一冊同じものが挟んであるんですもの、二人で三冊はおかしいでしょう」 「誰か伴《つれ》があったろう」 「それもきいたのよ。――すると、滝山さんは変な顔をして、確かにたった二人っきりだって言うのよ。そして、往《ゆき》にも帰りにも映画館でも、誰にも逢わなかったって」 「…………」 「それから、滝山さんの背広の袖口が、少し強い酸類で焼けていたのはどうしたわけでしょう?」  燿子の言うことは益々不思議です。 「燿ちゃんは、滝山を疑っているんだろう。――警察でも一応疑って、金庫の鍵を持っていて、自由に開けられる滝山を疑う理由はないと思って、許したんじゃないか」 「そうらしいワ。でも――、おかしいワ」  三人は夕闇の中に顔を見合わせました。 「誰だッ」  不意に健一は立ち上りました。  バタバタと芝生を横ぎって逃げ行く人影。 「うっかりした事は言えない。僕達は見張られているんだ」  健一は妹と綾子をうながして、二階の自分の部屋へ入りました。 [#2字下げ][#中見出し]活動の大舞台――平泉へ平泉へ‼[#中見出し終わり] 「燿ちゃん、三枚のプログラムの事を、もう一度話してくれない? 助手の滝山が奥さんの外に、もう一人映画館へ伴《つ》れて行ったという意味かい」  健一は改めて訪ねました。妹の燿子の頭が、恐しく明晰で、どんな大人も及ばないほどの直観力を持っていることを知っていたのです。 「伴《つれ》があったのを隠しているか、でなければ、滝山さんは奥さんと一緒に映画館へ入って、奥さんを中へ置いて、自分だけ外へ出てなんか用事をして、それからもう一度映画館へ引返して、奥さんと一緒に帰ったのではあるまいかと思うの」 「フム、それはどういうわけだ」と健一。 「映画館では切符を買って入ると必ず入口でプログラムをくれるでしょう。滝山さんが二度映画館へ入ったと考えると、二人で三冊のプログラムも不思議でなくなるワ」 「面白いな。――滝山は途中で一人映画館を出て、そっと牛込へ引返して、爺やさんを殺して、金庫を破ったというのかい」 「そうは言わないワ。でも、出来ない事はないでしょう。映画館はつい近所の神楽坂《かぐらざか》のだし」  燿子の頭の不思議な働きに、健一も暫くはうなっております。 「でも、映画館の入口で、間違って二冊一緒にプロを渡すこともあるだろう」と健一。 「それはあるワ。でも、滝山さんのポケットのは、一冊一冊別々に二つ折になっていてよ」 「二冊一度に貰ったのを一冊だけ読んで、別々に押し込んだら?」 「そんな事ないワ。上になったプログラムは頁《ページ》の切れてないのがあるんですもの」 「…………」  健一はすっかり降参してしまいました。が、それだけではまだ、滝山を人殺にするわけに行きません。 「警官へそれを言ったかえ」 「言えないワ、そんな事。でも、滝山さんがなんか悪い事をしたら言うかも知れないワ。――それに背広の袖口の酸だって随分変でしょう」  燿子の疑はなかなか根強いものでした。 「それも、映画館から帰って、金庫が破壊されているので、驚いて上の穴から手を入れたという弁解もあるだろう」と健一。 「あら、お兄様は弁護士見たいね」 「燿ちゃんは検事だろう。ハッハッハッハハ」 「でも、それは弁解よ。一応疑われても仕方がないと思うわ。滝山さんは金庫の鍵を持っているんだから、上の穴から手なんか入れなくたって、扉《と》を開けて中を見られるじゃありませんか」 「でも、中にある平泉館の記録は、何時《いつ》でも滝山が見られるもので、爺やさんを殺してとる必要はないだろう?」  健一も最後の切札を出しました。 「多分、平泉館の記録というのは、初《はじめ》のうちは大事だったけれど、今ではもう秘密でもなんでもないんだワ。――滝山さんも、唐崎という人も自由に見られるのでしょう」  燿子は又新しい説をたてました。 「…………」 「だから、その記録なんかどうでもよくて、本当はなくなった銅板の方が大事なんじゃありませんか。銅板がなくなると発掘が駄目になった位だから――」 「…………」 「爺やさんを殺した疑を受けない為に、ワザと金庫を破って、そのあまり大事でない記録を隠すか焼くかしたんじゃないでしょうか――」  なんという明智、健一も綾子も、今更ながら燿子の逞しい智恵に驚いてしまいました。 「それじゃ行って見よう、牛込の綾子さんの家をもう一度捜したら――」 「駄目よ、お兄様、長州風呂の中に、日本紙を焼いた灰が沢山あったわ。綴目の形まで少し残っているように思ったけれど、刑事さんが信用してくれるかどうか判らないから黙っていたんですもの」  二人はもう一度うならなければならなかったのでした。何処《どこ》まで気の付く燿子だか判りません。 「で、燿ちゃんは、滝山が爺やさんを殺したと思っているのかえ」と健一。 「そんな事判らないワ。誰かが滝山さんを疑わせるように仕向けているかも知れないじゃありませんか。――唐崎という人だって随分変よ、あの人は爺やさんを邪魔にしていたんだし」 「じゃ、これからどうしたものだろう、燿ちゃん」  水泳では「日本の誇」と言われる大選手ですが、こんな智恵にかけては、健一少年もまるで妹に歯が立ちません。 「なくなった記録は大したものでないし、爺やさんを殺した人もなかなか判りそうもないとしたら、思い切って平泉へ行って見た方がよくはないかしら。ね、お兄様、一週間ばかりお暇はありません?」 「ある、丁度練習も済んだし、日本アルプスへでも行こうと思っていた時だ、平泉へ行こう。燿ちゃん、綾子さんも」  冒険好きな健一はすっかり有頂天になります。 「そうしましょう。その銅板を捜して、殺された潜水夫の事を調べて、私達の手で平泉館の宝庫を見付ける方が面白いワ。でも随分危ない事があるかも知れないけれど――」 「少し位の危険は何処《どこ》にでもあるよ。――第一、平泉館の宝庫を発見すると、綾子さんのお父様の汚名も雪がれる訳だ」 「行きましょう綾子さん」  燿子に手を取られると、綾子は何時《いつ》の間にやら、涙を流しておりました。  黙って見上げた眼には、燿子の智恵と、健一の義侠心に対する感嘆の光が漲《みなぎ》ります。  平泉へ――、平泉へ――、そこには一体、何が三人の少年少女を待ってるでしょう。 [#2字下げ][#中見出し]燿子が書いた――歩廊《プラットホーム》の小喜劇[#中見出し終わり] 「綾子さん、あの人知らない?」 「知らないワ、どうして?」  燿子は洗面所の前に立って、半分開いた扉《ドア》から、二等車のハイカラな青年を指さしました。蜻蛉《とんぼ》の眼のような頭、赤いネクタイ、荒い縞の背広、長い顎、蒼白い顔色、――なんという不愉快な人相でしょう。  同じ車の中にいる健一――詰襟の学生服を着て、浅黒い顔をした、明朗そのもののようなのと比べると、まるっきり別な人種のように見える青年でした。 「それがどうしたの燿子さん」 「おかしな事があるの、綾子さんの鞄《カバン》を覗いたり、ハンドバッグを調べたり」 「まア」 「お兄様は呑気《のんき》だから、そんな事を少しも知らずに、水泳の話なんかしかけられると、夢中なんですもの」 「どうしましょう、怖いわ、私」 「大丈夫よ、私に任せてらっしゃい、――もう仙台でしょう」 「ええ」  列車は間もなく仙台の停車場に着きました。停車時間は十分、物売の声や、乗降の客にしばらく賑わいましたが、やがて発車用意のベルが鳴ると、プラットホームに降りていた客は、先を争って車の中に帰ります。 「さア、降りましょう、お兄様」  燿子は不意に網棚から荷物を取りおろしました。 「平泉はまだだぜ、燿ちゃん」 「でもここで降りて大事な大事な秘密の用事をかたづける筈だったわ、お兄様は忘れてらっしゃるのよ、ね綾子さん」 「…………」 「待て待て二人で勝手に降りちゃ困るな」  健一は大あわて[#「あわて」に傍点]にあわてて、両手に鞄《カバン》を下げると、動き出しかけた二等車から飛降りました。 「おや?」  後に残されたハイカラ青年の驚きは見物です。これも大急ぎで手廻りの荷物を纏めると、帽子を阿弥陀《あみだ》にかぶって、靴をブラ下げて、鞄《カバン》を抱えて、 「危い危い、飛降りちゃいけないッ」  車掌の止めるのもきかずに、動き出した車からプラットホームに飛び降りました。  尻餅を一つ突いて、転げ出した帽子を拾って改札口の方へ行くと、ツイ今しがた降りたばかりの、綾子、燿子、健一の一行は、影も形も見えません。 「おや」  ひどく面喰った青年は、念の為に振り返ると――なんと、今しがた滑り出した列車の、自分達の乗っていた次の三等室の窓から、三つの首が重なり合って此方《こっち》を見ているのです。 「左様なら」  大茶目の燿子は、鼻の先で指を振りました。「悲しみの塑像」の綾子も、この時ばかりはたまらなくなって噴出しました。正直者の健一だけは、まだ、二等車から引摺るように降されて、すぐ隣の三等車に乗せられた理由が呑込めないらしく、いとも不思議そうにこのプラットホームの小喜劇を見ているのでした。 「あんな事をしてもいいのかしら燿子さん、少し可哀相ね」と綾子。 「だって降りるのは向うの勝手じゃないの、私はおかしくって、おかしくって――」  燿子はただもう笑い転げております。 [#2字下げ]父博士の遺した――大事業を継続して[#「父博士の遺した――大事業を継続して」は中見出し] 「あ、お嬢様」 「花井さん、電報を御覧になって?」 「え、潜水夫のおかみさんと二人で、すっかり小屋をかたづけておきましたよ」  書生の花井一郎は、綾子から鞄《カバン》を受取って、雇っておいた自動車に乗せました。 「三人泊れるかしら」 「去年まで七人も泊っていましたよ」  立花博士に信用されて、平泉館発掘の事務所を預っているだけに、花井一郎は若いにしては、なんとなく頼もしい男でした。 「なんか変った事はない?」 「なんにもありませんよ。北上川の堤防はそのままだし、銅板の絵図面は相変らずどこへ行ったかわからないし、――仕方がないからお高さんと二人で、仕事を始めるのを待っているんです。――僕はいつまでここにいても驚きませんよ。退屈なんかするものですか、勉強にはこんなよい場所はないですからね」  花井はこんな事を言っております。来年あたり専検の試験を取るんだと言っている花井には、こんなよい勉強場所はなかったでしょう。  間もなく一同は、判官館の下、木立の中に隠れん坊をするように建てた、発掘事務所の小屋に着きました。 「まア、まア、お嬢様」  そう言って迎えてくれた中年の夫人は、昨年猫間ヶ淵で死んだ潜水夫の配偶《つれあい》で、お高さんという――、白い割烹着に、引詰めた束髪といった、思いの外東京風の女です。  小屋は板敷の六畳ほどのが二つ、それに小さい物置がついているだけ、不自由といえば不自由ですが、夏だけ十日や二十日だったら、キャンプのつもりで五人や七人暮せないことはありません。 「まア、随分大変ね、こんなに川底が見えて」  小屋を出て、北上川の岸へ降りると、さすがに、この一、二年来の、父立花博士の苦心が思いやられます。昔の平泉館の秘密を探る為に、北上川に大堤防を築いて、昔の桜川の流域に流し込み、水のなくなった河床を縦横に掘下げているのです。 「綾子さんのお父様は、大変な仕事を始めたんだね」  健一も、この大工事の跡を見ると、さすがに舌をまきます。 「でも、花井さん達が番をして、後を荒さないようにしていてくれたから、すぐにでも仕事を続けられるじゃありませんか、費用はお父様が出して下さるそうだから、大急ぎで人夫を集めて、発掘の仕事を始めましょうよ。――花井さんは指図が出来るでしょう」  燿子は相変らず頭のよさを発揮して、グングン物事を運びます。健一、燿子の父で、大実業家の翠川氏が後援してくれれば、この仕事は思いの外順調に進むでしょう。 「出来るつもりです。今までも大抵僕がやったんですから」 「丁度よかったわねえ」  綾子も父博士の仕事の継続が出来て本当に嬉しそうです。 [#2字下げ]花井が刺された――健一のかわりに[#「花井が刺された――健一のかわりに」は中見出し]  急に人夫は集められ、堤防は新たに築き足されて、平泉館の発掘事業が続けられました。  大勢の人夫を指揮するのは、書生の花井一郎、炊事万端の世話はお高さん。  健一は位ばかりの総監督で、間がな隙がな、北上川の淵へ飛込んでは泳いだり、早瀬をあさって鮎や鰻や鮠《はや》を取っているのですから、これは全く当《あて》になりません。  青葉山と碧玉を湛えたような水の間を、世にも可愛らしい二人の少女、綾子と燿子が飛廻るのが、どんなに人夫達の眼や心を慰めたことでしょう。どちらも白やピンクの軽やかな洋装で、一人は蝶々のように軽快に、一人は姫百合《ひめゆり》のように静かに、むずかしい発掘事業を見て廻っているのでした。 「あの仙台で撒いたハイカラさんが来ているのよ、三日も前から――」  或日、燿子はそっと綾子に囁きました。 「まあ」  燿子はたまらなさそうに笑い出しますが、心配性な綾子は、なんとなく不吉な予感にぞっ[#「ぞっ」に傍点]としております。  その晩、花井一郎は少し気分を悪くして、青い顔をしております。多分一日陽に照らされて、人夫に号令をかけていたからでしょう。 「物置で寝るのは悪いよ。あすこは窓が小さいし、扉《ドア》を開けると用心が悪いし」  健一はそんな事を言います。 「大丈夫ですよ、慣れてますから」 「いや、君が病気になると大変だ。僕は総監督といっても名前ばかりだから」  健一は無理に花井一郎を六畳の自分の寝台に寝かして、自分は物置の筵の上へ行きました。  その晩のことでした。 「少し変じゃない? 燿子さん」  夜中に、綾子は側に寝ている燿子を揺り起しました。 「どうして? 綾子さん」 「なんか唸ってるようよ」 「そうね」  二人は寝巻のまま床の上に降りると、手提電灯を持って、隣の部屋の方へ行きました。唸る声はそこから聞えるのです。 「花井さん」  兄健一の寝台に、今晩に限って花井が寝ている筈なのです。 「少し変ね、花井さんは御病気が悪いんじゃないかしら」  二人は顔を見合わせると、思い切って扉《ドア》を押開けました。二筋《ふたすじ》の手提電灯の光に照らされて、 「あッ」  床の上は夥しい血汐、その上に花井一郎が倒れているのです。  騒ぎは急に大きくなりました。健一もお高さんも、人夫頭も飛んで来ました。  抱き起して見ると、花井は肩先と両手にひどい傷を受けて、虫の息になっているのです。電話をかけたり、人を走らせたり、村の医者が来たり、小屋の中は煮えくり返るような騒ぎでしたが、暁方までに、自動車で一関の病院に運んで、「命だけは取止める」と聞いて、どうやらこうやらホッとしました。  花井がいなくなると、発掘作業は行詰りですが、今となっては中止するわけにも行きません。お高さんは花井の付添で一関へ行ったので、炊事の監督は綾子、花井がやっていた人夫の号令は、健一が引受けてやるより外はなかったのでした。 「花井のかわりに僕がやられた方がよいくらいのものさ。弱ったね」  仕事に慣れない健一はこぼし抜いております。 「でも、お兄様の方が大将だと思われたんだワ。悪者はあの晩寝室が変ったことを知らずに、お兄様を刺すつもりで来たんだから」  燿子は相変らず物の底の底まで見透しております。 [#2字下げ]河の中の横穴――宝庫の入口か[#「河の中の横穴――宝庫の入口か」は中見出し] 「困った。人夫は皆引揚げてしまった」 「えッ」 「河原は人っ子一人いない」 「どうしたの、お兄様」 「人夫へ悪い事を吹込んだ奴があるんだ。――こんな事を綾子さんに聞かせるな」 「どんな事を、お兄様」  健一と燿子は、木下闇《このしたやみ》から、真夏の陽に照らされて、乾ききった肌を見せている河床を見ながら、ひそひそと話していました。 「――立花博士は大詐欺師で、刑務所で死んだ。こんな仕事に首を突っ込んでいると、日当にはなるだろうが、そのかわりいつ警官が来てみんな縛るかもわからない――って言った奴があるんだ。人夫の半分以上は土地の正直な人達だから、驚いて引揚げてしまったんだよ。賃金を倍にすると言っても駄目だ」 「お兄様」 「僕はもういや[#「いや」に傍点]になったよ」 「お兄様そんな事では駄目よ、東京へ電報を打って、百人も人夫を呼ぶんだワ」 「そんな事が出来るかい」 「出来ますとも、三日経たないうちに来るワ。東京は人が余って困っていると言うじゃないの」  燿子は大変な事を言い出しました。日本の誇と言われる大選手も、頭のよさではどうしても妹にかないません。 「どうしたんでしょう。人夫が一人もいないのは?」  間もなく綾子も気がつきましたが、燿子は――東京の人夫を呼ぶことにしたから、――と当らず触らずの事を言って、綾子をなだめておきました。 「だが、こうして待っているのは馬鹿馬鹿しいなア。二日でも三日でも真剣に仕事を経験すると、ジッとしていては、罰が当るような気がする」  健一はフラリと河原へ出て行きましたが、三十分ばかりすると、汗だくになって飛んで来ました。 「た、大変」 「どうしたのお兄様」 「み、水を一杯」  綾子が汲んで出すコップを一息に呑み干すと、 「高館の跡の河床の崖になったところに鼠の穴のような横穴があったんだ。念の為に鶴嘴《つるはし》で二つ三つ叩くと、ポコリと大穴が開いたんだ」 「えッ」 「覗いて見ると立派な隧道《トンネル》だよ。中は石で畳み上げてある。宝庫の入口かも知れないと思ったから、大急ぎに穴を塞いで帰って来たんだ。何しろ、四方は見通しだし、この明るさだろう」  健一が驚いたのも全く無理はありません。 「お兄様、行って見ましょうか[#「見ましょうか」は底本では「見ましようか」]」 「待て待てどうせ人夫は一人もいないから、そっとしておけば、誰も気がつく筈はない。晩まであのままにして、暗くなったら出かけよう」  今度ばかりは健一の方が利口でした。 [#2字下げ]人の足跡と――銅板の絵図面[#「人の足跡と――銅板の絵図面」は中見出し]  その晩九時頃、健一と燿子と綾子は、北極探検ほどの用意を整えて、高館の下の河床に降りて行きました。 「お兄様、悪い道ね。――それに月はないし」  燿子と綾子は、何べんか転げました。堤防を築いて、無理に水を乾した川の中を歩くのですから、大小の岩石が邪魔をして、なかなか思うように進みません。 「懐中電灯を灯《つ》けようか」 「そんな事をしたら、どこまでも見えるじゃありませんか」  燿子にたしなめ[#「たしなめ」に傍点]られながら、それでもどうやらこうやら、昼のうちに見定めておいた穴の入口までたどり着きました。 「ここだ。少し待て、入れるようにするから」  健一は石の間へ隠しておいた鶴嘴《つるはし》を持出すと、力任せに叩き込みました。  二打、三打、穴は次第に拡がって、少しこごみさえすれば楽に入れるほどの入口が闇の中に開きました。 「さア入るぞ、有毒ガス[#「ガス」に傍点]があるかも知れないから、穴の中へ入ったら蝋燭《ろうそく》を灯《つ》けよう」  健一はこんな事には慣れておりました。持って来た二メートルほどの棒の先へ蝋燭《ろうそく》を灯《つ》けた。それを前へ突出すようにして進むのです。  道は少しずつ、爪先下りになっていますが、隧道《トンネル》は泥磐岩をくり抜いたもので、思いの外安全な上、足の下は、水垢こそ溜っておりますが、八百年前に造ったままの見事な石畳、なんの不安もありません。  石畳を敷いたのはたった一筋で、それを辿って行くと、今度は少しずつ上りになって、やがて十メートル四方ほどの広間《ホール》になりました。 「おや?」  燿子は頓狂な声をあげます。 「どうしたの燿ちゃん」 「人の足跡よ」 「えッ」  懐中電灯が二つに蝋燭《ろうそく》が一つ、粗末と言っても、かなり手際よく敷いた石畳の上には、場所によっては三|糎《センチ》も四|糎《センチ》も水垢が溜っておりますが、その上に二つ三つ五つ――いや、もっともっと沢山、紛れもない人間の足跡がはっきり印されているのです。 「藤原時代の人間の足跡だろう」  運動家らしい健一は、忽《たちま》ち物を楽天的に考えますが、燿子と綾子はそれほど呑気ではありません。 「でも、踵《かかと》の跡に鋲を打っているワよ。八百年も前の人が、こんな靴を履いたかしら」 「フーム」  健一も唸り出しました。靴を履いた人間がここへ入って来たとすると、これは大変なことになります。 「お兄様、昼見た時、穴の入口はどんなになっていて?」 「砂利と岩と泥で塞がっていたよ」 「八百年も前から水底で塞がっていたのに、お兄様が鶴嘴《つるはし》でそんなにわけ[#「わけ」に傍点]もなく開けられるかしら」 「そう言えばそうだな」 「この穴は宝庫とは関係のない昔の抜穴じゃないかしら、――綾子さんのお父様が一度発見なすって、なんにもなかったんで入口を塞いでおいたのじゃないかしら?」  燿子の考えようは次第に緻密になって行きます。 「おや?」  今度は綾子がなんか見つけました。 「何?」 「なんでしょう。随分重いワ」  半メートル四方ほどの薄い銅板で、綾子の手では持ち上げるのが精一杯です。 「あッ、宝庫の絵図面よ、きっと」 「どれどれ」  三人は思わず首をあつめました。 [#2字下げ][#中見出し]堤防は切れた――水が物凄い勢いで隧道《トンネル》へ[#中見出し終わり]  それは地図を毛彫りにした銅の薄板で、半分緑色に腐食しておりますが、決して読めないことはありません。 「わかったワ」  綾子は急に顔を挙げて、四方《あたり》を見廻します。 「どうしたの綾子さん」と燿子。 「この銅板の絵図面は、潜水夫が殺された頃から見えなかったんですって。――だから、多分、こうじゃないかと思うの、――この穴の中にまだ水のある頃、潜水夫はこの銅板の絵図面を持ってここへ入って来て、宝庫へ通う秘密の道を探しているうち、空気を送る管を切られて、ここで窒息して死んだんじゃないでしょうか。死体は穴の入口から、縄で引上げられたけれど、銅板は潜水夫が死ぬ時落としたまま、ここに残されてあったんだわ」  綾子の話に、燿子と健一も、思わずゾッとして顔を見合わせました。 「それじゃ入口を塞いだのは?」と燿子。 「きっとお父様よ。水がなくなると人に見つけられるから、それで穴を塞いで東京へ引揚げたんじゃないの」  もう疑う余地もありません。 「それじゃ、その銅板を見て、宝庫へ通ずる秘密の地下道を捜し出そう」  健一は蝋燭《ろうそく》を棒から外して、綾子の持っている銅板の上へ持って行きました。この絵図面さえあれば、八百年来の秘密は解けて、藤原家の栄華の形見なる、金銀財宝も手に入り、詐欺師にされて死んだ立花博士の汚名も雪がれるでしょう。 「おや、変だね」  健一はフト四方《あたり》を見ました。風もないのに、手に持った蝋燭《ろうそく》の灯がユラユラと揺いでいるのです。 「あの音はなんでしょう」  綾子は聴耳を立てました。なんとも知れない恐しい音が、地響を打たせて迫って来るのです。 「堤防が切れたかも知れないワ。大急ぎで外へ出ましょう」  と燿子は敏感に事情を呑込みます。 「よしッ、銅板は俺が持つ」  健一は大事な絵図面を小脇に、綾子と燿子の手を取るように駆け出しました。  いや、駆け出そうとしたのですが、十メートル四方ほどの広間《ホール》を出て、外へ出る隧道《トンネル》へかかろうとして立ち縮《すく》んでしまったのです。 「あッ」  想像も出来ないような恐しい水が、穴の入口から奔流のように、隧道《トンネル》一パイに流れ込んでいるのです。  この凄まじい水の奔注する隧道《トンネル》を、逆に泳いで行くことは、世界一の水泳の名人でも出来る筈はありません。おまけに水は隧道《トンネル》一ぱいに溢れて、首を出す隙間もない上、隧道《トンネル》の長さは三十メートル以上もあるのです。  その内に、水は次第に地下の広間《ホール》を浸して、三人の立っている足元へ蚕食して来ます。 「どうしましょう。お兄様」  燿子はさすがに蒼くなりました。 「絵図面を見て、宝庫へ行く道を捜したら」  こんな時は、内気な綾子の方が落ちつきます。しかし懐中電灯と蝋燭《ろうそく》を持って行って、銅板の絵図面と首っ引をしたところで、咄嗟《とっさ》の間に宝庫への秘密の地下道は見つかりそうもありません。 [#2字下げ][#中見出し]絶体絶命――闇と水の隧道《トンネル》[#中見出し終わり] 「おや、水が増えないのはどうしたことでしょう」  燿子は漸く冷静になりました。あわて[#「あわて」に傍点]ていさえしなければ、この少女の優れた頭は、円鋸《まるのこぎり》のように難関を切り開いてくれるでしょう。 「そう言えばここへは水が来そうもないね」と健一。 「隧道《トンネル》の入口からは、元の通り入っているでしょう。きっとどこかへ水が抜けるんだワ」  燿子は懐中電灯を振り照らして、足元の水の中に二、三歩降りて行きました。 「お兄様、大きな岐道《えだみち》があってよ」 「どれどれ」  健一も綾子も水の中へ入って行きました。燿子の指さす方を見ると、恐しい勢で隧道《トンネル》の入口から入って来る水の大量が、広間《ホール》の前で一度淀んで、右手の大きい岐道《えだみち》へ静かに静かに流れて行っているのです。 「行って見ようか」  もう躊躇などはしておられません。隧道《トンネル》を入って来る水の勢は少しも衰える様子はなく、広間《ホール》の広さには限りがあるし、八百年来淀んだ空気は、三人の人間をいれて、次第次第に濁って行くのが、息苦しくなる胸にも、弱って行く蝋燭《ろうそく》の灯《あかり》にもよくわかるのです。 「お兄様、行きましょう」  そこから二十メートルばかりは、かなり激しい水勢に押し流されるように、三人は胸まで浸って進みました。健一は銅板を頭の上に載せて、片手に高々と蝋燭《ろうそく》をかかげ、懐中電灯を振りかざした綾子がそれに続き、一番最後は燿子が、これも懐中電灯を持って、覚束《おぼつか》ない足捜《あしさぐ》りに進みました。 「石があるぞ、――左は深いぞ」  健一は時々そう言いました。  牛の歩みのように、又十メートルばかり。 「あッ」  健一は思わず足を踏み滑らして、水の中に倒れました。急に深くなったのです。水泳の名選手はすぐ起上りましたが、蝋燭《ろうそく》はどこかへ流されてしまった様子です。 「お兄様、背が立たないワ」 「泳いで来い」  綾子も燿子も少しは泳ぎますが、靴をはいて着物を着ている上に懐中電灯を濡らすまいと思うと大|骨折《ほねおり》です。 「あッ」  激しい大きい波、――急に隧道《トンネル》の入口でも崩れたのでしょう、あっと言う間に二少女は水に呑まれて、懐中電灯を取落してしまいました。  四方《あたり》は塗り潰したような闇。 「どうした、綾子さん、燿ちゃん」  健一は大声で呶鳴りました。 「ここよ、お兄様」 「私はここよ」  幸い綾子も燿子も浅いところへ這い上った様子ですが、蝋燭《ろうそく》も懐中電灯も取落して、鼻をつままれてもわからない闇です。左右はくり抜いた岩、前も後も水、――その水勢が、隧道《トンネル》の口が大きくなったと見えて、次第に激しくなるばかりです。 「お兄様」 「綾子さん」 「燿ちゃん」  三人は探り寄って、闇の中に手を繋ぎました。  その時、北上川の堤防の上には、雲間をもれた月の光に照らされながら、せっせと堤防を壊して、いやが上にも隧道《トンネル》の口へ水を落し込んでいる者があります。  健一、綾子、燿子はどうしたら助かるでしょう。 [#2字下げ]水の中に射す――青白い微光[#「水の中に射す――青白い微光」は中見出し]  平泉館の秘密を探る為に、北上川の河床の隧道《トンネル》を入って、水中宮殿の絵図面を筋彫にした銅板を手に入れた立花博士の遺児《わすれがたみ》の綾子と、そのお友達の燿子、燿子の兄で有名な水泳選手の翠川健一少年は、誰とも知れぬ者に、いきなり堤防をきって落された為に、さか巻く激流に押し流されて、漆の闇の隧道《トンネル》の中に、九死一生の目に逢っております。 「しっかりしろ、燿ちゃん、綾子さん」  二人の少女を両腕に援《たす》けて、胸まで浸す奔流の中に、翠川健一少年は必死の奮闘を続けました。 「お兄様、どうなるんでしょう」  日頃一番陽気で、一番智恵の廻る燿子は、こんな羽目に陥《お》ちると、無口で悲しそうな綾子ほどの落ちつきもありません。兄の肩に犇《ひし》とすがりついて次第に増して行く隧道《トンネル》の中の水嵩《みずかさ》ばかり気にしております。 「燿ちゃん、そんなに心配しちゃいけない、僕がついてるじゃないか」  健一は隆々たる肩を聳やかして、こう強く言い切りました。日本の選手権を幾つか持っている水の大選手翠川健一は、こんな時はどんな大人物よりも頼みになる少年だったのです。  三人は激流に押され気味に、なお二十メートルばかり進みました。その間に幾度も足をさらわれて、水の中に横倒しになったり、恐しく深い穴に落ちて、危く水を呑みそうになったかわかりません。  何より困ったことは、トンネルの中の水は次第に増して、顔を出しているのが精一杯な上、空気が次第に悪くなることでした。入って来る水の勢いは少しも衰えないのですから、このまままごまごしていると、三十分経たないうちに、三人共窒息するか溺れるか、兎に角命の助かりようは無いでしょう。 「もう一歩も進まれない、隧道《トンネル》一杯の水だ」  健一は思わずこう言ってしまいました。頭が隧道《トンネル》の天井に支《つか》えているのに、水はもう顎を越して口へ入ろうとしているのです。 「お兄様」 「引返すか、別の道を捜すんだ」  健一は思い切りよく踵を返しました。 「そんなことは出来ないワ」  燿子は驚いて兄の首っ玉にブラ下ります、ここまでたどり着いた艱難《かんなん》をもう一度くり返すのも大変ですが、それよりも、引返したところで、他に抜道がありそうもなかったのです。 「でも、このままは進めないぜ」  健一ほどの者も、隧道《トンネル》一杯に奔騰する水は、どうすることも出来ません。 「あれは何でしょう? ――水の中にほんの少し薄明が射しているんじゃないでしょうか」  綾子は健一の腕を引張って、今まで進んでいた行手の方の水を見せました。 「おかしいね」  水肌へすれすれに眼を持って行くと、行手の水の中に、薄青い光が、ほんの少しですが、ボーッと射しているのです。 「今晩は月があったかしら」  燿子はいきなり変なことを訊きます。 「満月は三日ばかり前だったから、今頃は月の出る頃かも知れないなア」と健一。 「それじゃ、きっと月の光よ、――ここは隧道《トンネル》の出口なんだわ、今まで知らずにいたけれど、――月が出て水に射したんで、あんなに薄明るくなったんじゃないかしら」  燿子は漸く素晴しい頭脳を働かせ始めました。 [#2字下げ]生か死か――水を潜る三人[#「生か死か――水を潜る三人」は中見出し] 「僕が行って見て来ようか」  健一はもう潜る仕度を始めました。何メートルいや何十メートル潜るのか見当もつきませんが、今はそんなことを言っている場合ではありません。 「一緒に行きましょうよ、お兄様」 「危いぜ、燿ちゃん、僕が瀬ぶみ[#「ぶみ」に傍点]して帰って来るまで、ここで待っていたらどう?」 「だって、ここに長くいられないのは判っているし、お兄様一人行って駄目な位なら、ここに残っている私達だって助かりようは無いじゃありませんか、ね綾子さん」 「ええ」  それは本当に燿子の言う通りでした。健一一人行って帰って来られる位なら、三人でも行けないことは無いでしょうし、健一だけでも脱《ぬ》け出せないものなら、三人は死ぬより外に道もありません。 「よし、その気なら一緒に行こう、出来るだけのことはやって見るが、僕の働きを邪魔しないようにしてくれ、生きるも、死ぬも一緒だ」 「お兄様」 「燿ちゃんは左から、綾子さんは右から、僕のバンドを掴むのだ、手を離してはならぬぞ、――そして出来るだけ底を潜るんだ、水は隧道《トンネル》の天井へすれすれになっているから、天井に吸いつけられると大変だぞ」 「大丈夫よ、お兄様」 「よし、それでは潜るぞ」  水の選手翠川健一は、二人の少女を腰にブラ下げて、渦巻く水の中に、魚のように潜りました。  目標は、行手のほのか[#「ほのか」に傍点]な明、何十メートル先か判りませんが、岩をくり抜いた隧道《トンネル》の四壁に衝突しながら、健一は必死と手足を働かせて、三十分ばかり――いや実はほんの三分ばかりですが、三十分も三時間も潜っているほどの苦しさを堪えて、盲滅法に前へ、前へと進みました。  両側の二少女は少しも健一の邪魔をしませんが、大選手と一緒に潜っていられるわけは無いのですから、少しは水を呑んだのでしょう、兎もすれば、バンドを掴んだ手が緩みますが、水の中に、三人の方向を示してくれる明は、少しも先刻《さっき》より明るくなりません。  健一は最後の力がつきました、それに、右の方のバンドを掴んでいた綾子は、力がつきたものか、健一にもよく判るほど、水の中で藻掻《もが》いておりましたが、急にバンドの手を離して、スーと浮いて行きます。  危いッ――水の中で口はきけませんが、健一は驚いてそれを追いました、もう最後の精力も燃し尽くして、健一ほどの者も、この上の辛抱が出来なかったのです。 「あッ」  健一は思わず声をあげました。身体《からだ》を浮かすと、何時《いつ》の間にやら顔が水の上に出て、爽やかな夜の空気を胸一杯吸っていたのです。  丁度木立の蔭になった月の美しさ。  健一は大急ぎで燿子を引揚げながら、片手を働かせて泳ぎました。  幸い、つい側に、半死半生の綾子も浮いております。 「有難い」  どうせ川の中の淵で、そこから岸までは、何程の距離でもありません。健一は俵を引揚げるように、二人の少女を岸へ担ぎ上げました。 [#2字下げ]事業も銅板も――引渡せと談判[#「事業も銅板も――引渡せと談判」は中見出し]  燿子と綾子は、したたか[#「したたか」に傍点]に泥水を呑んで、三日ばかりは休まなければなりませんでした。  健一はさすがに元気一杯で、その間に東京から着いた人夫を督励して一度壊された堤防を築き直し、隧道《トンネル》の中から水をかい出しました。  隧道《トンネル》の中で取落した銅板の絵図面は、出口の方に近く、泥の中に沈んでいたので、幸い何の故障もなく健一の手に戻りました。  が、綾子と燿子が元気にならないうちは、さすがに一人で隧道《トンネル》の探検も出来ません。仕方なしに、河床を掘り下げたり、隧道《トンネル》の入口を広げたり、堤防を厳重にしたり、一生懸命働いている人夫の作業を監督しながら、ブラブラ歩いていると、岸の柳の葉蔭に釣竿を垂れていた男が、人目を憚《はばか》るように、そっと招いております。 「僕ですか」 「え、少し話したいことがありましてね、まあ、そこへ腰をおろして下さい、釣りながら話しますから、この辺はよく釣れますよ」  紫外線よけの黒いロイド眼鏡《めがね》をかけ、ダブダブの洋服を着て、ヘルメット帽を被った男は、こんな調子で始めました。 「どんなお話です、僕は貴方《あなた》を知らないんですが――」  健一はすっかり用心深くなっておりました。 「知らなくていいです、私は東京の学校に勤めている者で、夏休を利用して、東北の河や湖水を釣って歩く者ですが、――実は、二、三日前の晩、この堤防をせっせと壊している者の姿を見かけたんです、――君はこの工事を監督しておられるようだから、一寸《ちょっと》注意しておくだけのことですよ」 「どんな人です、その堤防を壊していたというのは?」  健一も固唾を呑みました。 「色の青白い、ハイカラな若い男ですよ、面長で、少し受口で、頭の毛をトンボの眼玉のように光らせた――」 「あッ、あの男ですか」 「知ってる人ですか」 「いえ、見たことのある人間です」 「いずれにしても、油断はなりませんよ、貴方《あなた》とあの妹さん達の身辺には、絶えず何かつきまとっているようですから、――いや余計なことを言ってすみません、私は黙って鱒でも釣っていさえすればいいのですがね、――この辺には真夏の暑い日の夕方になると鱒が浮いて来ます。尤もこんな釣竿では駄目ですがね、手網があれば捕れますよ」  釣好きらしいヘルメットの男は、そのまま水面の浮標《うき》の動きにじっと見入りました。まだ三十代でしょうが、日に焦《や》けて渋紙色の皮膚、何となく知識的な物の言いようなど、兎に角、この辺には滅多にいそうもない不思議な人物です。  健一は何となく圧迫されたような心持で、礼を言って帰って来ると、綾子も燿子ももう起出して、お高さんを相手に昼の仕度をしております。 「お兄様、大変な人が来ましたよ」  健一の姿を見ると、燿子は飛出して来てそっと囁きました。 「何だ燿ちゃん」 「唐崎商事の社長と秘書よ、――その秘書というのが、仙台でまいた変なハイカラさんなの、一週間も前から、この辺をウロウロしているでしょう」  そのトンボ頭のハイカラなら、先刻《さっき》変な釣の紳士が、堤防を壊したと教えてくれた曲者《くせもの》でしょう。どうかしたら、書生の花井を刺したのも、同じ人間だったかも知れません。  健一はむつかしい談判になりそうなのを覚悟して、小屋の中の居間とも客間ともつかぬ六畳の扉《と》を押し開けました。 「や、君は翠川君、待っていましたぞ――御存じだろうが、私は唐崎荘之介、この平泉発掘事業の投資者だ、一緒に来たのは秘書の杉村三五郎君、どうぞ宜《よろ》しく」 「…………」  健一は黙って挨拶して、この古風な頬髭を持った実業家の向うへ腰をおろしました。  青葉を吹く窓の風、外は海底のような深い緑で申分なく爽やかな小屋ですが、部屋の中は何となく鬱陶《うっと》しい空気が、古沼のようによどんでおります。 「ところで、立花博士亡き後は、半分出資した私がこの事業の継承者じゃ、早速引渡して貰いたい、序《ついで》に、近頃手に入ったという、銅板の絵図面も、当然の権利として、私が申し受けますぞ」  唐崎荘之介は高飛車でした。相手を少年と見て、一挙に物事をかたづけようと思ったのでしょう。 「私は法律上のことは知りませんが、立花博士が亡くなれば、事業は当然相続者の綾子さんが継がれる筈です。綾子さんの後見人は、いずれそのうちにきまるでしょう、――不服があったら、どうぞ顧問弁護士とお掛合い下さい、そんなことで銅板もお引渡し出来ません」  健一もなかなか負けてはいません、水の覇者と言われた大選手は、向息もなかなか強かったのです。 「そんな馬鹿なことは無い、この事業は一体誰が金を出して継続しているんだ。私へ断りなしに」 「私の父です、――翠川健太郎です、新たに出資して、綾子さんを助けているのです、株式会社でも何でもないのですから、出資も、事業の継続も自由な筈だと聞いております」 「翠川氏が? 何と言う馬鹿なことに手を出したものだ」  唐崎荘之介はプリプリ怒りましたが、翠川健太郎は有名な実業家でもあり、それに健一の言うことに間違が無かったので、どうすることも出来ません。 「いずれ改めて談判に来るぞ、馬鹿馬鹿しいにも程がある」 「どうぞ」  健一を尻目に秘書を促して荒々しく引揚げました。 [#2字下げ]銅板は盗まれた――が残るフィルム[#「銅板は盗まれた――が残るフィルム」は中見出し] 「お兄様、銅板の絵図面はどこ?」 「六畳の押入にある筈だ」 「それが無いんです」と燿子。 「えッ」  健一も綾子も、一団になって六畳へ駆け込みました、丸太を枠《わく》にした窓の硝子《ガラス》戸は一杯に開いて、戸棚も開け放したまま、中の銅板は影も形もありません。 「やられたッ」  健一は、いきなり開いた窓から飛降りましたが、まだ月の出には早い林は、塗り潰したような闇で、一寸先の見透《みとおし》もつきません。  泥棒はみんなが次の間で夕飯をやっている隙を狙って、窓から入ったものでしょう。 「足跡があるでしょう」  燿子がコードを長くして差出した電灯の光で見ると、窓の下の柔らかい土の上には、健一の大きいブルドッグ型の靴跡の外に、先の尖った華奢な靴跡が、深々と印されているではありませんか。 「あいつ[#「あいつ」に傍点]だッ」  健一の頭には、青白い秘書、――杉村三五郎の五分もすかさぬハイカラぶりがはっきり浮かびました、こんな山の中で、こんな洒落《しゃれ》た靴を履く者は、あの秘書の外にあろうとは思われません。 「弱った、絵図面が無くては、あれ以上一尺(約三十|糎《センチ》)も掘り進むわけに行かない」  健一はすっかりしょげました。一度潜水夫の死と共に紛失して、この事業を駄目にしかけた銅板の絵図面が、折角発掘が有望になりかけたところで、又盗まれてしまったのです。 「お兄様、銅板は盗まれても、あの絵図面だけならあるワ」  燿子は不思議なことを言い出しました。 「そんな馬鹿なことがあるものか、銅板が絵図面じゃないか」 「え、その通りよ、でも、私、こんなことがあっては困ると思って、あの銅板を写真に撮っておいたの、幾枚も幾枚も」 「しめたッ、それを見せろ」 「駄目よ、フィルムのままなんですもの、こんな場所では現像も焼付も出来はしないワ」 「一関《いちのせき》まで行って来る、フィルムを出せ」  健一はスポーツマンでした、いざとなると、寸刻も躊躇というものを知りません。 「私の写真では危いと思って、六枚も撮ったんだけれど」  燿子の手からフィルムを受取ると、健一は上着を引っかける間ももどかしく小屋の外へ飛出しました。 [#2字下げ][#中見出し]写真を案内に入る――隧道《トンネル》には毒ガス[#中見出し終わり]  健一が一関から帰ったのは、思いの外早くて、その晩の一時頃、手には六枚の写真を持って、凡そ得意満面です。 「燿ちゃん、大手柄だ、写真はみんな上出来だぞ、これさえあれば、銅板なんか重くて邪魔っけだ」  卓《テーブル》の上――電灯の下に並べたのを見ると、燿子の手際にしては全く見事な出来で、六枚のうち、少くとも二枚は玄人《くろうと》が撮ったように鮮明です。 「まア、私の写真が役に立つなんておかしいわねえ」  燿子は有頂天なうちにも、少しきまり悪そうでした。 「ところで、この写真でも判る通り、絵図面の外に、何か引っ掻きの跡があるんだ、どうも、後で銅板へ書いた字らしいが、どうしても読めない」 「…………」  一番鮮明な写真をすかし[#「すかし」に傍点]て見ると、成程その端っこの方に、何やら引っ掻きの文字のようなものが見えます。 「銅板直接では錆の為に見えなかったが、写真を撮ると、青錆が白く映るから、引っ掻きが浮いて見えるんだ、――兎に角、このままではしようがないから、フィルムへ鍍金《めっき》して、引きのばして貰うことにしたよ、明日の夕方までには、使の者が持って来る筈だ」  銅板の写真に現れた引っ掻きの文字は、どんな秘密を語るか、それは兎も角、夜の明けるのを待って、平泉館の発掘作業は、又一段の勢で続けられたことは事実です。  唐崎荘之介とその秘書杉村、ロイド眼鏡の釣男などは、どこへ行ったか一日姿を見せず、一関の写真屋も、日の暮れるまで引きのばしの写真を届けてくれません。 「どうしたんでしょうね、お兄様」  そんなことを言っているところへ、隧道《トンネル》の入口を見張らせていた男が飛んで来て、 「隧道《トンネル》の中へ誰か入ったようです、私と交代で見張っていた男が、入口で目を廻していますよ」  青い顔をして報告します。 「それッ」  と隧道《トンネル》の入口へ行って見ると、成程《なるほど》一人の男が、重い物で頭をやられたらしく、二、三人の仲間に介抱されて、まだ悪心地に横たわっております。 「僕は中を見て来る、二人はここにいるがいい、危いから」  健一は燿子と綾子にそう言って隧道《トンネル》の中へ飛込むと、 「大丈夫よ、入口に、こんなに大勢いるんだもの」  二人の少女も続いて入ります。  隧道《トンネル》がつきて、地下の広場《ホール》へ一足踏込むと、 「オヤ?」  健一は立止りました。 「何? お兄様」 「毒|瓦斯《ガス》の匂いだ、危いっ、引返せッ」  二少女を小脇に掻込んだ健一、摺剥《すりむき》や瘤を拵《こさ》えるのも構わず、盲滅法に隧道《トンネル》の入口に引返しました。 「あれが毒|瓦斯《ガス》? お兄様」 「あ、間違いもなく毒|瓦斯《ガス》だ、あの匂は学校の実験室で何べんも嗅いで知っている」 「どうして毒|瓦斯《ガス》なんかあるでしょう」 「自然に発生するわけはない、人が拵《こさ》えたんだ、現に、あの広場の先の小部屋には、倒れている人間の姿が見えたぜ」 「助けてやりましょう、誰だか知らないけれど」 「マスクでも無きゃ、あの中へは入れない」 「マスクなら小屋にある筈だワ、地下の探検は自然の毒|瓦斯《ガス》でやられることがある、埃及《エジプト》のツタンカーメン王の墓の発掘で大勢死んだのも、毒|瓦斯《ガス》のせいらしい、僕はマスクを用意して行く――ってお父様が仰《おっ》っしゃったことがあるワ」  綾子はうまいことを思い出しました。 「それはいい塩梅《あんばい》だ」  健一が飛んで行くと、お高さんは物置の中から立派な毒|瓦斯除《ガスよけ》のマスクと酸素発生器を三組も揃えて出してくれます。 [#2字下げ]金より貴いもの――白日下の大宮殿[#「金より貴いもの――白日下の大宮殿」は中見出し]  健一と燿子と綾子の三人は、毒|瓦斯除《ガスよけ》のマスクをつけて、隧道《トンネル》の中に飛込みました。  広場の先の小さい穴の中へ行って見ると、懐中電灯を振り照らす迄《まで》もなく、二人の人間が死んだもののようになって倒れております。  差しのぞくと、唐崎荘之介と、その秘書の杉村三五郎、マスクが無かったら、三人はどんな大きい声を出して驚いたことでしょう。  広場《ホール》の入口のところに、粗造ながら毒|瓦斯《ガス》発生器が投《ほう》り出してあるところを見ると、二人が隧道《トンネル》へ入ったのを見た曲者《くせもの》が、そっと後をつけて来て、ここへ置いて逃出したのでしょう。幸い毒|瓦斯《ガス》発生器は不完全で、よく瓦斯《ガス》が出なかった為に、唐崎荘之介と秘書は辛くも息だけは通っている様子です。  健一と綾子と燿子は、引摺《ひきず》るようにして二人の男を隧道《トンネル》の外へ出しました。  夜の新鮮な空気に当てて、少し介抱すると、幸い正気だけはついたので、見張の人夫に引っ担がせて、兎に角小屋まで運んで来たのは、もう十時近かったでしょう。 「いや、翠川君一言も無い、君の義勇と、お嬢さん方の智恵が働かなければ、僕も杉村君も、あのまま死ぬところだった」  唐崎荘之介は、ベッドの上からピョコリとお辞儀をしました、こうなると、古風な頬髭もまことにだらし[#「だらし」に傍点]がありません。 「毒|瓦斯《ガス》発生器は誰が持ち込んだんです」と健一。 「それは判らぬ、――いや俺には判っているような気がするが、証拠が無いから言うわけには行かぬ」 「誰です、それは」 「いずれ話す機会《おり》もあろう、――ところで、命の恩はどうして報いたものだろう翠川君」 「この発掘事業から手を引いて下さい、万一利益があれば、それは出資高に応じて分けて上げますから」 「それは何でもないことだ、私の出資高と言うのは、――今だから話すが、ほんの少しばかりだ」 「それは判っております」 「銅板も返そうか」  唐崎荘之介はよくよく折れた様子です。 「いえそんなものは要りません。それより、書生の花井を刺したのと、堤防を壊して私達を殺そうとしたのが誰だか、それを秘書の杉村さんに聞いて下さい」  健一は最後の疑問を投出しました。 「僕を疑ってるようですが、それは僕じゃありません、書生を刺したのは兎も角、堤防を壊したのは、時々あの辺で釣をしていた、ロイド眼鏡《めがね》の男です」 「えッ」  秘書の杉村の言うことは、全く思の外でした。丁度その時、 「一関から写真が届きました」  お高が持って来た引伸写真の包、引き割くように開いて見ると、中から出たのは四切《よつぎり》の写真で、平泉館の地下の宝庫の絵図面が、銅板の原図よりも明瞭に見られるばかりでなく、端っこの方に、小刀《ナイフ》か何かで引っ掻いた文字。 [#ここから2字下げ] ――滝山が私をねらっている、管が切られた、もう死ぬ―― [#ここで字下げ終わり]  乱れに乱れてはおりますが、いともはっきり[#「はっきり」に傍点]読めるのでした。 「あッ」  お高さんは床の上へ崩折《くずお》れました。引伸写真を覗いていたのですが、夫が断末魔の苦しみのうちに、自分を殺した相手の名を書いたのを見て気を喪《うしな》ったのです。 「そう言えば、正平爺やを殺したのも滝山に違いないワ、あの映画館のプログラムが三冊あったのは、矢張《やは》り、途中で一人だけ出て、爺やを殺して又映画館へ帰ったんだワ」  燿子は自分の発見した、プログラムの謎を思い出したのです。 「金庫の中の書類を自分だけのものにしたかったのに、それから、滝山が潜水夫を殺したのを、正平爺やが知っていたかも知れない」  唐崎荘之介も口を添えます。この人は金儲に夢中になり過ぎるのと、少し高慢な癖がある外には、大した悪人でないことが後に判りました。  秘書の杉村三五郎はハイカラで浅薄で、愚にもつかぬ人間で、善いことも悪いことも出来る性《たち》ではありません。 「東京へ電報を打って、助手の滝山を縛らせよう」  健一が立上がると、 「それには及ばないワ、あの釣ばかりしているロイド眼鏡《めがね》は滝山に違いないと思うの、変装して来ているんだワ」  綾子は口を出しました。立花博士の令嬢が見破ったのですから、助手の滝山がどんなに変装しても追っつきません。  平泉の警察からその晩のうちに警官隊が来ました、翌日《あくるひ》は前沢と一関の警官隊が応援して、平泉一帯を山狩すると、中尊寺の裏山に、天幕《テント》を張っている滝山が、わけもなく捕ってしまいました。  潜水夫を殺したのも、立花博士を窮地に陥《おとしい》れたのも、正平爺やを殺したのも、堤防をきったのも、花井を刺したのも、みんな助手の滝山でした。滝山は実に模範的な悪党で、平泉の地下に埋まる富を一人占めにする為に、こんなひどい[#「ひどい」に傍点]ことをしたのでした。  どうしても白状しなかったのを、係の検事が燿子から聞いたプログラムの謎から思いついて、その晩見たと言う映画の筋を訊くと、何にも知らなかったので、到頭《とうとう》正平爺や殺しが判り、それからそれとみんな白状してしまいました。  それはずっと後の話。  滝山が縛られた翌日《あくるひ》、健一燿子の父親、翠川健太郎が平泉へ来ました。この日、いよいよ藤原四代の栄華を秘めた、高館と平泉館の地下の大宝庫が開かれることになったのです。  隧道《トンネル》を通って、広場《ホール》の向う、地下の客室を開くと、そこはもう山の向側で、八百年来秘められた財宝が、初めて真夏の陽下に曝《さら》されたのです。 「あッ」  健一も、燿子も、綾子も、健一の父の健太郎も、お高さんも、唐崎荘之介も、その秘書も、思わず驚の声をあげました。  石で畳み上げた、世にも壮麗厳重を極《きわ》めた秘室の中には、砂金が一粒、銭が一枚無いのです。  あるものと言っては、藤原四代の栄華を誇る器具と調度と衣類――それも長い歳月に腐蝕して、考古学や歴史学の参考以外には何の役にも立たぬものと、夥しい位牌、仏具、それに古写経と、素晴しい古文書の山ばかり。 「これは大したものだ、学者に見せたらどんなに喜ぶか判らない、立花博士が夢中になって発掘したわけだ」  翠川健太郎は感慨深く言います。 「金は、金は?」  まだうろうろする唐崎荘之介。 「金は働いて生み出すものですよ、額に汗して得た金が本当の金だ、――海の底や土の中に、金があると思うのが間違の種だ」 「…………」  翠川健太郎は健一や燿子や綾子の方へ向いて続けました。 「これは金よりも貴《たっと》い物だ、博物館か帝大へ寄付するようにしよう、今までの費用は私が全部持つ、綾子さんは今日から燿子と姉妹になるのだ、それでいいでしょう? ――海の底や、土の中に金があると思って、争い合ったり殺し合ったりするのが間違だ、立花博士は金のあることなどは考えてもいなかったに相違ない、世間が金を掘り出すものと思い込んで騒いだのだ、学者は金よりもこの古文書や古写経や、ボロボロの道具をどんなに貴いと思うか判らない」  翠川健太郎がこう言っているうち、唐崎荘之介はいたたまらなくなってコソコソと逃出し、燿子と綾子は、抱き合って嬉し泣きに泣いておりました。  八百年にして世に出た、大宮殿を照らす真夏の白日、それは何と言う明るさでしょう。 底本:「野村胡堂探偵小説全集」作品社    2007(平成19)年4月15日第1刷発行 底本の親本:「少女倶楽部」    1934(昭和9)年6月〜8月 初出:「少女倶楽部」    1934(昭和9)年6月〜8月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:阿部哲也 2015年9月1日作成 青空文庫作成ファイル: 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