死の舞踏 野村胡堂 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)佐良井《さがらい》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)急性胃腸|加答児《かたる》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#5字下げ] ------------------------------------------------------- [#5字下げ]一[#「一」は中見出し] 「珍らしい事があるものだネ、東京の佐良井《さがらい》から手紙が来たよ」 「幽香子《ゆかこ》さんからですか」 「イヤ、あの厭《いや》な亭主野郎からだ」 「まあ」  愛子は、その可愛らしい眼を一杯にあけて、非難するような、だけど、少し道化たような表情を私《わたし》に見せるのでした。  長い長い演奏旅行を了《お》えて、私と、私の許婚《いいなずけ》の愛子は、ピアノを叩き過ぎて尖った神経とあわただしい旅に疲れた身体《からだ》とを、暫《しば》らくこの淡路島の知辺《しるべ》に静養して居たときの事です。  模造紙の白い大きい封筒を破ると、その中からは、事務的な達筆で書いた手紙と、四つ折にした楽譜が二三枚出て来ました。 「オヤ、変なものを送って来たよ」 「何んの楽譜でしょう?」 「ピアノには相違ないが、可笑《おか》しいネ。一枚、一枚、皆んな違って居るようだが――これはベートーベェンのソナタ・アルバムから滅茶滅茶に引き千切った譜らしいよ」 「マア、何《ど》うなすったのでしょう」  愛子は、私の籐椅子《とういす》の側へ、その驚き易い顔を寄せました。順序も何も構わずに、アルバムの中から引きむしられた楽譜は、どんなに無意味なものかという事は、ピアニストを許婚《いいなずけ》に持つ愛子には、解り過ぎるほど解って居たのです。  この怪奇な物語の筋を進める前に、私は引きむしられた楽譜を送って来た幽香子の事をお話して置かなければなりません。  幽香子、幽香子、何んという美しい淋しい名でしょう。これは私の義理の妹で、今は実業家佐良井金三の夫人になって居る、この世の中で、一番不幸な女です。何《ど》うして不幸せかというと、それは、幽香子の身に付いた、巨万の財産があったからで、そんなものがあるばかりに、実業家と称する佐良井金三の、何度目かの妻になる運命を背負わされてしまったのです。  幽香子は、相当に美しくもあり、私の妹分で一緒に育った関係から、ピアノもかなり上手に弾きましたが、内気で陰鬱で引っこみ思案で、実業家の夫人という肌合《はだあい》の女ではありませんでした。それがどうして、名題の悪で通って居る佐良井などと結婚したかというと、それにはいろいろ事情もあったのですが、兎《と》に角《かく》、男前も口前も十人並以上で、その上三人分も智慧のある佐良井が、世間見ずの娘を口説き落すのは、朝飯前の仕事でしか無かったと言えば充分だろうと思います。  一旦の過ちから、こんな男に嫁いだ幽香子の不幸は申すまでもありません。いくらか芸術的な天分も持った憂鬱な幽香子と、金儲のためには、どんな事でもして退《の》けようという肌合の佐良井とは、結婚後一ヶ月経たない内に、到底並び立ちそうもないことが判ってしまいました。  けれども、佐良井に取って、それは飼犬の毛並が少し気に入らない程の事件でもなかったのです。幽香子の持って居る巨万の富さえ自由になれば、幽香子は毎日メソメソ泣いて居ようと自分の室《へや》でピアノばかり叩いて居ようと、そんな事は一向関係した事では無かったのです。 「幽香子も可哀想だ」 「本当にお可哀想ですね」  私と愛子は、終始噂をして居りましたが、佐良井が厳重に監視して居るために、呼び戻すことも、離婚させることも出来ない有様になって居たのです。  幽香子の手紙、泣言たらたらな手紙は、一週間一本ずつは受取りましたが、佐良井の手紙というものは、活版刷の年始状と、暑さ寒さの見舞状以外に、私が受取ったのは後にも先にもこれが初めてです。  読んで見ると、暑さ見舞と無沙汰の詫が二行、その後へ(家内がこの楽譜を兄上のところへ送ってくれというから、お送り申し上げる。いつぞや拝借したのを、うっかり忘れて返さずに居たのだそうだ。どうぞ悪しからず、実は家内からお送りする筈だったそうだが、二三日前から病気で臥《ふせ》って居るので、私が代ってお詫を申上げる。女はどうも口やかましくて叶わない、ことに病気にでもなると、思い立ったらどうしても実行させずには措《お》かない、困ったものだ。病気は多分時候あたりだろうと思うが、大した事ではない――云々)こんな事が、佐良井にしては珍らしく長々と書いてありました。 「妹へ楽譜などを貸した覚えは無いがね」 「お忘れになって在《い》らっしゃるのかもわかりませんワ」 「物忘れは私のことだから保証の限りでないが、それにしても、ソナタ・アルバムから引き千切った譜を、たった二三枚封入するのは可怪《おか》しい――」  どうかしたら幽香子は、結婚生活を不愉快に思うのが嵩《こう》じて、気が変になったのでは無いかとも思いましたが、それならば鵜の目鷹の目で女房のアラを探して居る、夫の佐良井が黙って居る筈もありません。 「オヤ、待ってくれ、これは変だ――よ」  何んの気もなく楽譜を弄んで居ると、曲は一向珍らしくも何んともないものですが、所々に、赤鉛筆で印が付けてあるのが目につきます。  楽譜の心覚えや演奏上の注意やを書き入れるのは、誰でもやることですが、この赤鉛筆の印しはそんな種類のものではありません。  或特定の音符や記号などに、注意の為に鉤《かぎ》を描いたもので、表情記号などは、一綴りの文字の内から、一つの文字を選んで外のとまぎれないように、その傍へクッキリ赤い印が付いて居るのです。 「愛子さん、これは、何んか仔細《しさい》があるらしいよ、私は読んで見るから、一寸《ちょっと》そこへ書いてくれないか」  愛子は万年筆を取って、けげんな顔に私を見上げました。 「いいか、最初は、音名のBだ、日本のロだネ。  次は日本名のホ、即ちEだ。――  それから、アレグロのL。  最後はペダルのP。  これで何んとか読めないか」 「BELP…………」 「BELPはおかしいな、そんな字は無い、して見るとなんか偶然に付けた印かも知れないね」  私はそう申しました。どっか腑に落ちない所もありますが、その上考えて見ようという根気も無かったので、そのままに投《ほう》ってしまいました。  暗号では無いか?  という考えが、フト閃めきましたが、私の頭は楽譜を読むようにはよく慣らされて居りますが、どうも暗号を読むには適しません。そんな小面倒な事は、考えただけでも、頭痛がして来そうになるのです。  私は新聞二三種へ目を通して、葉巻を一本つけ換えて、淡路島名物の涼風に吹かれ乍《なが》ら、いい心持でウトウトして居ると、いきなり、 「BELP――外に何んとか読みようは無いものでしょうか」  愛子はまだそう言って居ります。 「例えば――」 「ビーという音名を、独逸《ドイツ》風にハアと読むと言った様に。――」 「何? ハアと読む、ではBELPではなくて、HELPではないか。HELP、ヘルプ、助け。――アッこれは大変だ、助けてくれという意味かも知れないよ、どれ一寸《ちょっと》見せてくれ、次の頁《ページ》にはもう赤い記号は無いか」  私は忙《せわ》しく愛子の手から楽譜を取り上げました。  次の頁《ページ》を開くと、そこには、三つだけ赤い鉛筆の印が付いて居ります。それを拾って読むと、エスプレシイヴォのS。  ポコのO。  スケルツォのS。 「SOS、そんな字はあるかい、愛子さん、字引を持って来てくれ」 「アラ、それは難破船の救助符号じゃありませんか」 「あツ、そうだ」  私は思わず椅子《いす》から飛上りました。 「東京へ行くんだ、直《す》ぐ。何んか大変な事があったに相違ない、自分で手紙を書けないので、こんな暗号を工夫して送ったんだ、――あの亭主の佐良井は、オタマジャクシを読めないから、何んにも知らずに、唯の楽譜だと思って送ったんだろう」 「どうしましょう」 「直ぐ東京へ行くんだ。一時間も、一分間も早く、幽香子は無事で居てくれればいいが。――」  足下から鳥が立つとはこの事でしょう。私と愛子は、その日の内に淡路島を出発し、不安と焦燥にさいなまれ乍ら、船から汽車へのあわただしい旅に上りました。私が幽香子を愛して居るように、愛子も亦《また》心からこの内気で物優しい姉を慕って居たのです。  HELP、SOS、私の頭の中には、この七つのローマ字とオタマジャクシが、妖精のように入り乱れて踊り狂いました。 「幽香子、幽香子、無事であってくれ」  二人は異常な圧迫感に、食事も摂らず、眠りもせず、際限もなく生欠伸《なまあくび》をしました。淡路から東京へ私は一年に三四度ずつは往復しますが、後にも前《さき》にもこんなに遠いと思った事がありません。 [#5字下げ]二[#「二」は中見出し]  東京へ着いて、麻布三河台の佐良井邸へ自動車を乗り着けたのは、その翌日の真夜中でした。  真夜中にもかかわらず、佐良井邸の階上階下、悉《ことごと》くの窓が明るく灯って居たのを見て、先《ま》ず私共は胆を冷しました。(これは只事でない)と思う予感に、顔見合せたまま、暫らくは玄関へ立ち尽したものです。  私が靴を脱いで居る内に、召使に聞いて、奥から佐良井が飛んで来ました。 「遅かった、遅かった、南条君、幽香子はとうとう」 「エッ」  振り向くと、円々と肥った佐良井、あの中年者の投機家によくある、薄気味の悪いほど愛嬌のある佐良井が、日頃のニコニコ振りにも似合わず、口もきけないほど顔を硬《こわ》ばらせて人前も憚《はばか》らずに、ほうり落ちる涙を単衣《ひとえ》の袖に拭いて居ります。  諸君はもうお察し下すったでしょう。私には義理の妹、詩人でピアニストで、夕顔の花のように淋しく美しかった幽香子は、昨日の午後、私と愛子が丁度淡路島で楽譜の暗号を解いて居た頃、その夕顔の花が日に当って萎れるように果敢《はか》なく目を瞑《つぶ》ってしまったのだそうです。  病気は――? 「三四日前から時候あたりで弱って居てネ。君のところへやる手紙も、私に代筆さした位だが、まさかこんなに急に死ぬとは思わなかった。――どうも一昨日《おととい》の昼に食べた料理が悪かったらしいんだ。主治医は動物蛋白中毒だというし、特に来てもらって診せた博士は、急性胃腸|加答児《かたる》だというんだ。どっちにしても食物が悪かったんだネ。――未だ二十五や六で、ポックリ死なれては、私も全く途方に暮れた。幸い子供は無いが、あんなに優しかった生前の事や、私が我儘《わがまま》で、随分苦労をさせた事を考えると、泣いても泣いても泣き切れない――」  佐良井は又、背を丸くして、痛々しい程むせび入るのでした。生前あまり仲がよくなかったに付けても、死なれて見ると、急に悲しくなったのでしょう。  こんなのを見せられると、私もさすがに、楽譜の暗号の事などを言い出せるわけはありません。愛子と二人、玄関からもう貰い泣きをしてしまったような有様でした。  死体を見ると、皮膚に少しばかりでしたが異様な斑点があり、顔も苦悩に引釣《ひきつ》って、見る影もなく変って居りましたが、動物蛋白の中毒は、猛烈な症状を呈すると言いますから、専門家が二人で診た以上、素人《しろうと》の我々には何んにも言うことはありません。  そのまま骨にして、仏事一切を了《おわ》りましたが、その盛大だった事は、実に法外で、仏の為には、まことに結構なことですが、他人の身になったら、あまりの事に少しは苦々しいと思った人もあったでしょう。  併《しか》し、何も彼《か》もそれで済んでしまいました。あの淋しい美しい幽香子は、仇敵《かたき》のように憎んで居た夫の佐良井には、生前はどうしても自由にさせなかった巨万の富を、此世で一番慕って居た義兄《あに》の私には、赤鉛筆で印を付けた、不思議な楽譜を五六枚残して死んでしまったのです。  中陰が過ぎても、私と愛子は東京の私の家に止《とどま》って、諸方の演奏も断り、ピアノの蓋にも鍵をかけないばかりにして、淋しい瞑想的な日を送って居りました。が、丁度幽香子が死んで百日目、佐良井の邸《やしき》に、例の大袈裟過ぎるほど大袈裟な法事があって、私と愛子はそれに招かれて行った時の事です。思いもよらぬ運命が待ち構えて居て、凄惨極まる終局《カタストローフ》に私達を捲き込んで行くことになりました。 [#5字下げ]三[#「三」は中見出し] 「ああ、厭だ厭だ、何んという下等な騒ぎだろう、法事だかお祝だかわかったものじゃない」 「随分ヒドい人達ですね」 「仏事も盛大過ぎるとお祭り騒ぎだ、佐良井の奴、どんな気でこんな馬鹿騒ぎをするんだろう」  私と愛子は、法事の後に設けた酒池肉林の恐しい席を逃げて、隣りの室《へや》へ飛込んで居りました。これは幽香子が生きて居る時分、その居間に使った小さい洋室で、私達には思い出の深い場所だったのです。 「あの女の人、御覧になりまして?」 「ああ見たよ」 「あれが、幽香子姉様の後へ入るんですってね」 「百日経たない内から、あんな物凄い後添がやって来たら、幽香子もさぞ浮ばれるだろうよ」 「あっ、まあなんという騒ぎでしょう」  厚っぽいカーテン一つを隔てて、食堂の乱痴気騒は手に取るよう、場末の一番下等な酒場でも、これほど下劣な騒がしさは知らなかったでしょう。 「此方《こちら》でも、久し振りでピアノでも弾きましょうか、このピアノで、何んか静かなものでも弾いたら、幽香子姉様も反《かえ》ってお喜びになるかも知れませんワ」  室《へや》の半分を占めたグランドピアノ、黒ビロードの覆いを取ると、中古になっては居りますが、まだなかなかしっかりした品です。  蓋を開けて見ると、象牙《ぞうげ》の鍵《キー》に残る、幽香子の手摺れの跡もなつかしく、試みに二つ三つ叩いて見ると、キーの具合は未だ何んともなっては居りませんが、ペダルが少しどうかと思いますが、弾いて弾かれない程ではありません。  試みに、ピアノの上に置いてあった楽譜を取って見ると、何んという好みでしょう。選りに選って悉《ことごと》く淋しいものばかり。ベートーヴェンや、ショパンのアルバムも、葬送行進曲のところだけが、念入に汚れて居るという有様でした。 「オヤッ」  愛子は少しあわて加減に楽譜をくって居りましたが、 「こんなに赤鉛筆の印が――」  ともう唇の色を失くして、私の前に譜をくりひろげます。  見るとそれは、フランス近代の巨匠サン・サーンの作曲したオーケストラ曲「|死の舞踏《ダンスマカブル》」を、ピアノ曲に編曲したものですが、表情記号も音符も構わず、半分は文字へ、半分は音符へ、赤鉛筆の印が所々に付いて居るのです。 「僕が読み上げよう、愛子さんは書留めてくれ、いいか。――」  雑多な記号、音名――その中には英語読みも、フランス読みも、ドイツ読みも交って居りましたが、兎に角、かなり骨を折って、拾い上げた言葉を、意味が通じるように並べると、 [#1字下げ]夫《ハズバンド》は、|私を殺す《キルミー》  という恐ろしい言葉になるのでした。 「お、怖い、私。何《ど》うしましょう」  愛子は真蒼になって、犇《ひし》と私の手にすがり付きます。 「矢張《やっぱ》りそうだ、私達が心の底で疑って居た通りだ。――幽香子は、あの悪党の夫に殺されたのだ、幽香子名儀の富、数百万円あるだろうと言われて居た財産を自由にするために、佐良井は鬼のような事をしてしまったのだよ」 「どうしましょう、私は怖い」 「先に淡路へ演譜を送った時は、幽香子の生命はもう危険にさらされて居たんだ。自分で手紙を出す事も出来なかったので、何《ど》んなにか切ない思いをして、あの悪党の読めない楽譜の暗号を作って、私のところへ送ったのだ」 「どうしましょう」 「どうも彼《こ》うも無い、この楽譜を持って、警察へ訴えるばかりだ」  私は楽譜を持って立ち上りました。隣室からは、四壁《あたり》を驚ろかす上ずった笑い声、それに続いて、佐良井と女共の、酒精《アルコール》臭い淫靡《いんび》な声が筒抜けに聴えます。 「だけど、そんな楽譜なんかを持って行って、警察では信用して下さるでしょうか。幽香子姉様は、夫に見張られて居て、手紙も何んにも書くことは出来なかったのですから、楽譜の暗号を作るのは、私共から見れば極《ご》く自然な成行ですが、警察の人達は、本当にそんな事を考えて、楽譜の暗号を信用して下さるでしょうか」 「――――」 「赤鉛筆の印は、誰が付けても同じことで、幽香子姉様が書いたのだという証拠はありません。それに――」 「わかった、一寸《ちょっと》考えさしてくれ」  私はもう一度ピアノの上に、楽譜を投《ほう》り出して考えこみました。  楽譜の暗号は、音楽家だけにわかるもので、これを警官に呑み込ませるのは、容易の業ではありません。それに。二人の医者が明瞭に病死と診断して、焼いて骨にして百日も経った死体を、今更問題にしたところが、どうなるでしょう。 「それじゃ、何《ど》うすればいいのだ。隣りの馬鹿騒の中へ、この楽譜を持ち込んで、佐良井の奴を面責しようか」 「あれ、そんな事をなすっちゃいけません、そんな事で驚くような相手では無いんです」  愛子は必死《ひっし》と、憤怒《ふんぬ》に狂って理性を失いかけた私の胸にすがり付きます。 [#5字下げ]四[#「四」は中見出し]  愛子の涙にひたって居る内に、私の怒は漸《ようや》く凪《な》いで、やるせない悲みが、その代りに私の胸を領してしまいました。 「可哀想な幽香子、お前はとうとう殺されたのかい、あの残虐な夫を憎む術《すべ》さえ知らなかったお前も、さすがに死に際になって、その怨を私にだけ知らせるために、こんな手数のかかる暗号を工夫したのかい、可哀想な幽香子」  私は心の中で、何遍も何遍もこうくり返しました。そして、ピアノの鍵盤《キー》の上を、子供の時、幽香子の頭を撫でてやったような心持で、涙にひたり乍ら静かに静かに撫で廻して居りました。  私の心は、深淵の水のように沈んで居るくせに、何んかしら火のような情熱が、一方から私を煽って居りました。見ると、譜面台の上には、問題の「|死の舞踏《ダンスマカブル》」の譜が載って居ります。この不気味な曲を、幽香子がどうして用意する気になったか、それはわかりません。が、私の手は、何時《いつ》の間にやら、その第一|頁《ページ》を開いて、骸骨の踊りを描いたという、サン・サーンの名曲の、最初の一小節をピアノで叩いて居りました。  私は毛頭ピアノを叩く気も「|死の舞踏《ダンスマカブル》」を演奏する気もなかったのですが、不思議なことに、どうしても、そうせずには居られなかったのです。職業的に無意識作用が、私の手を働かせたのでしょうか。イヤイヤそんな生優しい事ではありません。不思議な圧迫的な誘惑が、私の手を鍵盤《キー》の上に走らせずには措かなかったのです。  サン・サーンの「|死の舞踏《ダンスマカブル》」は、そんな大した名曲でないかも知れません。それは通俗味さえ持った、極《きわ》めて耳なれたものに過ぎませんが、題名の示す通り、それは非常に不気味な、そのくせ一種不思議な魅惑的な味を持って居ることは申すまでもありません。実を言うと私は、この曲をあまり好きではなかったのです。同じく縁起の悪い、死を取扱った曲にも、古典的な美しい芸術が沢山《たくさん》あるのに、サン・サーンの「|死の舞踏《ダンスマカブル》」は又何んという厭らしい実感的な音楽だったでしょう。真夜中の墓場から抜け出した骸骨の群れは、冥府《めいふ》の青白い灯を掲げ、その骨と骨を鳴らし乍ら夜と共に踊り狂う様は、サン・サーンの驚く可《べ》き技巧で、存分過ぎるほど丁寧に描き出されて居るのです。  重ねて言いますが、私はこの曲を好みません。その癖この曲の主題になって居る単調な不気味な旋律《メロディ》が、ともすれば私の耳にこびり付き、その主題の数小節が、私の冥想や夢の中で、舞踏することさえあるのです。けれども、好きとか嫌いとかいう事を別にして、その時私の手は、その不気味にも美しい曲――恐ろしい死の誘惑を描いた曲――を、我にもあらず弾いて居たのです。  ピアノは少し損じて居るせいか、ペダルが思うようにならなかった為に、異様な音楽は益々歪められて、不気味さは一層加わるばかり。  私は、この恐ろしい弾奏を、どうかして止《よ》そうと思いましたが私の手は私の意志に反して、鍵盤《キー》の上を縦横に駈けめぐり乍ら、あの曲の持った、たまらない不気味な空気を益々濃厚に醸して行きます。  私の身体《からだ》には油のような冷汗が流れて、髪の毛が一本一本逆立つのさえ感じられます。踊り狂う数十百の骸骨は、その虚《うつろ》の眼を見開き、耳まで開いた口を鳴らして、青白い死の笑いを、――妖悪極まる死の笑いを――笑いかけます。  その時でした。  馬鹿騒ぎに夢中になって居た隣の食堂は、ハタと鳴を鎮《しず》めて一時は墓場のような沈黙に陥りましたが、それもほんの暫らくで、嵐の前の静寂《しじま》が掻き乱されると、黒風白雨競い打つように、食堂は再び大混乱の渦を巻き起しました。その混乱も、今度のは歓呼や笑いの爆発ではありません。恐怖に引き裂かれたように、世にも恐ろしい叫喚《きょうかん》の大混乱です。私の手は、必死とピアノを叩き乍らも、私の全注意は、隣室の騒ぎに引摺り込まれて、その叫喚の中から、恐ろしい光景をマザマザと読んで居りました。  唯事ならぬ気配に、愛子は立ち上って、二室の間を仕切った厚い怪奇な模様を描いたカーテンに縋り付きました。愛子の顔は蝋《ろう》のように白くなって、全身はワナワナと慄《ふる》えて居ります。が、あまりの精神の激動に、物を言う事さえ出来なかったようです。  やがて愛子の全体重を委ねられたカーテンは、その重さに堪え兼ねて、大きい鳥の翼のようにバサリと、落ちて、床の上に崩折《くずお》れた愛子の身体《からだ》を包んでしまいました。 「アッ」  隣室の光景は、手に取るように私の前にさらされたのです。 [#5字下げ]五[#「五」は中見出し]  私は生れてから、こんな恐ろしい光景を、見た事も想像したこともありません。盛装した大勢の客達は、口をポカリと開けて目をカツと見開いて、硬直した身体《からだ》を、室《へや》の四隅に集め、 「ワーッ」 「止せッ」 「アーッ」  意味も何んにも無い、引き千切って叩き付けるような言葉を投げて居ります。  室《へや》の真中には、  主人の佐良井金三、私の叩き続けるピアノの音につれて、忌わしい、醜い「|死の舞踏《ダンスマカブル》」を必死となって踊り続けて居るのです。  その半ば禿げかかった頭の毛は、針のように突っ立って、藍のように真ッ蒼な顔には、飛出しそうな二つの眼が、貝殻のような空ろな光りを輝かせて居ります。縦横に現われた皺には、恐ろしい苦悩と恐怖が刻まれて、鉤《かぎ》で引っつるような、無残にも引歪められた口から、 「許せ、許せ、……幽香子、許せ」  と呂律《ろれつ》も成さない言葉を吹き綴って居ります。  上着は何処《どこ》かへかなぐり捨てて、ワイシャツはもう滅茶滅茶に引き千切られ、その間から、皮と肉との間を、虫が這い廻りでもするように、恐ろしく引釣る皮膚の一部が見えて居りました。  足は、蹣跚《まんさん》として雲を踏むよう、針の山に追い上げられた泥酔者《のんだくれ》のように、一歩一歩、床板に弾き上げられて、不作法な怪奇な、命がけの跳躍を続け、手は、紙の上へピンで留められた巨大な昆虫の肢《あし》のように、虚空を掻きむしって、醜怪の限りを尽した線を描いて居ります。  語れば長いが、私は、これだけの事を、たった一瞬間に看《み》て取ってしまったのです。いや、看て取ったというよりは、寧《むし》ろ感じたという方がよかったかも知れません。私の眼《め》は「|死の舞踏《ダンスマカブル》」の楽譜の上に釘付けにされ、私の手は、私の意志には関係なく、ピアノの上を嵐のように狂奔していたのです。  私はピアノを止さなければならない。  が、私の必死の努力を裏切って、指は鍵盤《キー》の上を雨の如く乱れ打ちます。私の歯は一枚の鉄桶のように食いしばられ、私の身体《からだ》は、寒天のように慄えおののき、私の頭は、水のように澄み渡りました。そして私の十本の指は、ピアノの上にいつまでも、いつまでも恐ろしい「|死の舞踏《ダンスマカブル》」を、奏し続けて居るのです。 「ヒーッ、ヒーッ」  佐良井は悲鳴とも付かぬ声をふり絞って、歪められた鳴独楽《なりごま》のようにクルクルクルクル廻りました。  低音部の不気味な強奏《フォルテ》、それは冥途《よみじ》の鐘の音に擬《なぞ》らえたものでしょう。乱れ打つ急調なリズムは、宛然《さながら》相|搏《う》つ白骨の音で、その間を縫う怪奇な旋律は、妖鬼の笑いと、鬼火の閃めきでなくて何んでしょう?  曲は最高調に達して、くり返しくり返し執拗に出て来る妖悪凄艶な主題が、佐良井の身体《からだ》を、非力学的に跳躍させ続けます。 「カッ、カッ」  佐良井の顔は蒼黒く歪んで、何んか言おうとする口は、言葉も成さずに、無残に引き釣ります。身体《からだ》はヘトヘトに疲れ果てて、今にも打《ぶ》っ倒れそうに見えますが、私の手に従って起るピアノの音に鞭打たれて、バネ仕掛けの人形のように飛上っては体力の最後の消耗のために、無残にも踊り続けるのでした。  この恐ろしい演奏と舞踏を眺めながら、誰も手を出すことの出来なかったのも不思議です、後で聞くと「何んとかしなければならない」「止めなければならない」と思い乍らも、身体《からだ》が縮んでしまって、はたから手を出すことも、何《ど》うすることも出来なかったのだそうです。超自然的な力に操られて、この宿命的な|死の舞踏《ダンスマカブル》が行くべき所に行き着かなければならなかったのでしょう。  時は丁度午後の三時。食堂へは初秋の西日が少し入って、飛び散った食器や、テーブル掛けや、床をひたした飲物などを、マザマザと照して居りました。すべての光景があまりに現実的で、神秘的な感じなどを容れる余地があろうとも覚えませんでしたが、その真ん中で現に、この世の中で行われた、一番怪奇な舞踏《ダンス》が演ぜられて居るのです。 「|死の舞踏《ダンスマカブル》」の曲は、何遍も何遍もくり返されました。私はもう、指で叩かずに、拳骨と腕と、最後には身体《からだ》でピアノを叩いて居たような気がしました。心気が氷の如く凝《こ》って、抗すべからざる力に引摺られて居る私の神経は、剃刀《かみそり》の刃のように慄えて居りました。やがて最後の飛躍のために、無茶苦茶な弾奏を私は強いられた事は知って居りますが、遂には、何んの曲を叩いて居るか、何をして居るかさえ解らなくなってしまいました。  踊り狂う佐良井の身体《からだ》は、一パイに開いたフランス窓から、傷《きずつ》いた昆虫のように跳躍して、広いバルコニーの上へ出ました。そして現実そのもののように明るい、午後の陽の中に、暫らく魔の糸に操られる操り人形のように踊り狂いましたが、  欄干に上半身が仰向にかかると思うと、 「許せ」  と漸く一言。  佐良井の身体《からだ》は、もんどり打って下へ、無間《むげん》地獄へ堕《お》ち行く怨鬼《おんき》のように落ちて「|死の舞踏《ダンスマカブル》」の最後の一弾を終った私は、そのままピアノの上へ失神してしまいました。  落ちたのは二階のバルコニーからでしたが、飯倉台の崖の上に立った邸《やしき》なので、下の石畳《ペーヴメント》までは三十尺もあったでしょう。佐良井は頭を打ち割って紅《あけ》に染《そ》んで死んでしまいました。  医師は、酒精《アルコール》中毒から来た突発性の精神病だろうと診断し、その日居合せた大勢の人達も、ピアノの音につれて踊り狂ったという以上には何んにも知りませんでした。  赤鉛筆で印を付けた楽譜は、今でも全部私の手元にありますが、あれはもう二度と弾く気にはなれません。 「この世で一番弱かった人は、死んでから一番強い霊魂《たましい》になるのでは無いか」  私は、愛子とこの恐ろしい日の思い出を話しては、斯《こ》う言って居ります。  古今の怪談に出て来る、執念深い主人公の多くは、生前|虐《しいた》げられ放題にされた、一番弱い、そして愛すべき女性だったとさえ私は思うのです。 底本:「野村胡堂探偵小説全集」作品社    2007(平成19)年4月15日第1刷発行 底本の親本:「踊る美人像」愛翠書房    1949(昭和24)年2月 初出:「文芸倶楽部」    1928(昭和3)年9月増刊 ※表題は底本では、「|死の舞踏《ダンスマカブル》」となっています。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:阿部哲也 2015年9月1日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。