十年…… 久保田万太郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)昨日《きのふ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)ㇳ /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)たま/\ *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 -------------------------------------------------------  ――まど子さん、何年になつたの、今度?……  と、ぼくは、たま/\逢つたKさんの、上のはうのお嬢さんに、何んの気なしに訊いた。  ――来年、卒業です。  と、まど子さんは、ニッコリ、口もとをほころばした。  ――えッ、来年、卒業?……  ぼくは、おもはず大きな声をだして、  ――ほんと、まど子さん?……  と、改めて、まど子さんの顔をみた。  ――えゝ。  まど子さんは、もう一度、ニッコリした。  ――へえ、それァ……  ぼくは、おもはず今度は、溜息を……自分だけにわかる溜息をついた。……のは、嘗て、まど子さんの慶応義塾の大学の入学試験をうけるときの心配と、そして、首尾よく合格したときの喜びの幾分とを、まど子さん、及び、まど子さんのお母ァさんとゝもにわけ合つたぼくだからである。……お父さんのKさんは、ちやうど、そのとき、フランスへ行つてゐた。……そして、それが、そのまど子さんの返事を聞くまで、ついまだ、昨日《きのふ》の出来事のやうにしか、ぼくには思へなかつたのである……  ――驚いたなァ、それァ……  いつ、そんな……いゝえ、いつの間《ま》に、そんな、三年も五年もの年月がすぎたのだらう?……その間《あひだ》で、一たい、ぼくは、何をしたといふのだらう?……すくなくとも、一人のお嬢さんが大学に入り、やがてもう、来年は卒業するといふその間で……  ぼくは、いまさらのやうに、ぼくをめぐつて去つた年月のかげを追ひ、身のまはりをみまはした。      □  東京にでゝゐて、七八日ぶりで鎌倉に帰ると、下河原《しもがはら》の雅楽多堂といふ、文字どほりのガラクタばかり並べた古道具屋が、いつの間《ま》にか、八百屋になつてゐた。  ――はて?  と、ぼくは、わが目を疑つた。……しかし、みれば、その八百屋の店で働いてゐるのは、いつもの、よれ/\の古洋服を無精ッたらしく着た、もとの、矢つ張、雅楽多堂の老主人だつた。  すれば、雅楽多堂が転業したので、代《だい》の替つたのでないことはあきらかだ。  しかし、古道具屋と八百屋……  判《はん》じものだ、どうしたつて、これ。……  下河原には、もう一けん、同じやうな店がある。雅楽多堂よりはあたらしくできた……といふことは、ぼくが鎌倉に住むやうになつてからできた店だが、雅楽多堂とはちがつて、このはうは上物屋《じやうものや》だつた。一二度、買物をしたのが縁で、顔なじみになり、ときには、必要がなくつても、ぼくは、その店のまへに立つた。……すなはち、ぼくは、そこに寄つて、道具屋、化して、八百屋になつたわけを聞いてみた。  ――家《うち》の方《かた》たちが、いやになつたんださうです、道具屋が……  と、年のわかいその店の主人のこたへは、しごく簡単だつた。  ――しかし、いやになつたからつて、右からひだり、道具屋なんてものが、すぐに?……  ――止《や》められるか、と被仰るんですか?……  ――と思ふけれど、われ/\にすると。……手もちのものを処分するだけだつて、君……  ――そんなことは、あなた。……トラックに積んで、市場《いちば》にさへもつて行けば、何んにも苦労は入りません。……市場で、適当に、処理してくれます。  ――なるほど、さういふ手があれば……  ――ですから、逆に、はじめようと思つたら、金とトラックをもつて市場にさへ行けば、明日《あした》からでもすぐ開業できます。……道具屋なんてものは、ですから、思ひやうによつちやァ、こんなわけのない稼業《しやうばい》はないんで……  ――八百屋はどうだらう?  ――八百屋ですか?……このはうは知りませんが、これだつて、中《なか》へ入つてみたら、存外、わけなくできるんぢやアないでせうか?……何分、値段のきまつてるものを売るんですから。……そこへ行くと、道具屋のはうは……  ぼくは、主人のすゝめてくれた、店頭《みせさき》の、売りものゝ大きな椅子に腰を下ろし、さうした話をしつゝ、みるともなしに往来のはうをみた。曇つて、底冷えのする二月の末の、たま/\人通りの絶えた、白く、しんとした道のまん中に、素足にサンダルを穿いた、パン/\としか思へない洋服の女が二人、何かヒソヒソ、話をして立つてゐた。  ――鎌倉ッてところ、こんなにも寂しいところだつたのか?  ヒョイと、ぼくは、さう思つた。……途端に、血の退《ひ》くやうに、すべての希望の身うちから消えるのを感じた。      □  ――今日《けふ》、東京のお宿をおたづねしましたら、こちらだといふことで……  と、たま/\東京から来た客はいつた。  ――えゝ、昨日《きのふ》、帰りました。  と、ぼくはこたへた。  ――今度は、当分、こちらで?……  ――いゝえ、明日《あした》、また、出ます。  ――それは、また。……それぢやァ、せッかく、お帰りになつても……  ――さうなので。……何んのために帰つて来るのか、自分でも分りません。……しかし、夜、十一時十五分の終電車に乗つて帰り、あくる朝、すぐ、また、九時まへの電車に乗つて、十時までに新橋に下りたりする諸君のことを思つたら、ぜいたくはいへません。……寝に帰るばかりのわが家《や》けふの月、にしちやァ、鎌倉ッてところは、何んとしても東京から遠すぎます。  ――しかし、どのみち、馴れておしまひになれば……  ――ところが、馴れません。……不思議な位、馴れません。……といふことは、いつになつても、何年たつても、鎌倉、東京間の距離はちッとも短縮されません。……短縮されるどころか、年とゝもに、その逆になつて来るやうな気さへするので……  ――それは、なぜで?……  ――それだけ、こッちの健康も衰へて来たんでせうね、とる年で……  ――何年におなりになります、こちらへおうつりになつて?……  ――ちやうど、十年になります。  ――十年?……  ――一ㇳむかしです。……終戦の年の十一月ですから、こッちへ来たの……  ――なるほど、それだと……  ――東京から帰つて、停車場に下りても自動車はおろか、リンタクさへなかつたんです、その時分。……いやでも、この材木座まで、あるくより外に方法がなかつたんです。……仕方がない、あるきました、真つ暗な道を、二十分かけて……勿論、十時……といひたいが、じつは、九時すぎたら、人通りはなくなり、起きてゐる家なんぞ、一けんもありません。……何も、これはしかし、鎌倉にかぎつたことではなく、そのころは、銀座でもさうでしたが……  ――わたくしも、一度、新橋演舞場のところの橋の上で、三人づれのアメリカの酔ッぱらひに追ッかけられ、“シェーム、オン、ユウ”と怒鳴りながら、逃げました、逃げました……  ――鎌倉にはクロンボのわるい奴が出没しましてね。……だから、ぼくは、万一にそなへて、右のかくしに、ナイフに附いてゐるキリを握りづめでした。……そして、大きな声でウタを……うたふんぢやなくて、呶鳴りつゞけてあるいた。……いまは八幡まへにゐる漫画のSさんが、まだ、材木座にゐた時分で、帰る方角が同じだつたんで、しば/\一しよに合唱しながらあるいたことをおぼえてゐます。  ――何を合唱なすつたので?……  ――“青葉しげれる”です。……知ってますか、あの歌?……  ――知つております。……“青葉しげれる桜井の、里のわたりの夕まぐれ……木の下蔭に駒とめて、世の行末を、つく/″\と”……、子供の時分、上の兄のうたふのを聞いておぼえました。  ――ぼくは、好きでしてね、むかし、あの歌が。……ぼくの小学校の二三年時分に流行《はや》つたんですが、ぼくは、いまでも、あの歌をしまひまで知つてゐる。……“ともに、み送り、み返りて、わかれを惜しむをりからに、またもふりくるさみだれの、なかに一ㇳこゑ、ほとゝぎす……”といふんですが……  ――兄は、そこまではうたひませんでした。  ――いゝえ、だれも知りません、こゝまでは。……しかし、一寸さきもわからない真つ暗な道を、この歌をうたつてあるいてゐると、しまひには胸が一ぱいになつて、だん/\声が小さくなつた。……いまにして思へば、それこそ“世の行末”だつたんですね。……“世の行末”が案じられたんですね、いはず語らずに……  ――じッさい、あの時分は、このさき自分がどうなるのか、まるッきり見当がつきませんでした。……そのくせ、われ人ともに、わりに平気で、カストリを飲んで酔ッぱらつてゐたといふことは、度胸がよかつたのか、バカだつたのか?……  ――両方ですよ。  ――両方?……左様《さよ》ですか、なるほど……  ――だから、鎌倉でも、たッた一人、靴みがきがでゝゐたゞけの若宮大路に、そのうち、だん/\、闇市はできる、リンタクはできる、パン/\宿はできる。……さうなると、ぼくも、歌をわすれたカナリヤになつて、自然“青葉しげれる”と縁が切れた……のを、あるとき、“あなた、ちッとも、このごろ、あれをうたひませんね”と、ある人からひやかされました。……で、さういはれて、ぼくは、はッと思つた。……さういはれるまで、うッかりしていたんです、ぼくは……  ――どなたです、そのある人といふのは?……  ――やッぱり漫画のYさんです。……      □  四五日、また、東京の宿屋ですごして、ある晩、終電車よりずッと早い、九時十五分といふのに乗つた。あたまが重く、何か、気もちがさッぱりしなかつたからである。  電車に乗るなり、ぼくは、腐つたやうに眠つた。  鎌倉に着くと、いつふりだしたのか、雨がビショ/\ふつてゐた。そればかりでなく停電だつた。  ――めづらしいナ、こんなあんたんとした光景は……  と自分にいひつゝ、ぼくは、駅まへの、“リンドウ”の扉《ドア》を押した。……“リンドウ”といふのは、鎌倉ペンクラブの会員たちを定連にもつ喫茶店である。  どのテーブルにも、蝋燭の火が瞬いてゐた。  ぼくはそこから電話をかけた。……わが家へではない、わが家のそばのF医院へ……  電話口にでた声は、奥さんだつた。  ――風邪《かぜ》だらうと思ひます。……大《たい》したことはないと思ひますが、一寸、これから、お寄りしますが……  と、ぼくはいつた。  ――じつは、宅も、いま、少々熱がありまして、休んでをりますんでございますが……  と、奥さんはいつた。  ――お風邪ですか?  ――と思ひますんでございますが、……  ――御診察ねがへなくつても、お薬だけでも頂戴に、いま、すぐ、うかゞひますから……  F医院の院長のF博士は、満洲帰りのもと軍医で、六七年まへ、材木座に開業したのだが、二三人、むづかしい病人を直したので、たちまち“名医”だといふことになつた。そして、近所でも、おどろくほど繁昌した。ぼくとは、学校の関係で……Fさんも、ずッと、慶応義塾だつた……医者対患者の附合《つきあひ》以上の附合をもつた。……つまり、幾分、飲み仲間でゞもあつたわけである。  十分ほどのあと、ぼくは、F医院の門のまへで自動車を下りた。大きな水たまりが門のまへにひろがつてゐた。こゝも停電で、蝋燭の火がたよりだつた。  ぼくは玄関に立つたまゝ、奥さんからうけとつた検温器を腋の下にはさんだ。  八度すこしの熱があつた。  ――宅は、九度越してをります。  と、奥さんはいつた。  雨の音が、蝋燭の火の瞬きにかよつた。      □  Fさんは、それから十日ほどして、この世を去つた。  何といふ、あッけなさ。……と思ったのは、ぼくが知らなかつたので、Fさんは、それまでに、幾たびも喀血してゐたのだつた。  しかも、その胸のやまひは、患者から感染したものだつた。      □  ぼくは、このごろ、世の行末ならぬ身の行末についてのみ考へてゐる。……なぜだらう?……庭の、まッさかりの連翹の黄が、春の漸くふかいことをつたへてゐるのは…… 底本:「日本の名随筆91 時」作品社    1990(平成2)年5月25日第1刷発行    1999(平成11)年8月25日第6刷発行 底本の親本:「久保田万太郎全集 第一五巻」中央公論社    1968(昭和43)年6月 入力:門田裕志 校正:noriko saito 2014年9月11日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。