日本名婦伝 太閤夫人 吉川英治 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)寧子《ねね》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)尾張|清洲《きよす》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)〻 ------------------------------------------------------- [#8字下げ][#中見出し]一[#中見出し終わり]  寧子《ねね》は十六になった。  妹の於《お》ややと二人して、伯父伯母にあたる浅野家に養われて来た。ふたり共、養女なのである。  世間は知らなかった。それほど、浅野又右衛門夫婦の愛は、世の親たちと変りなかった。  十六というと、寧子《ねね》も人知れず、「女の先」を考え始めた。時代は早婚の風である。もう他から結婚のはなしがいろいろ持込まれるのであった。  その数々の縁談《はなし》のくち[#「くち」に傍点]で、親たちの眼に選《え》り残されているのは、もちろん皆、尾張|清洲《きよす》の織田《おだ》家中ではあるが、とりわけ、 [#ここから1字下げ] 藩の侍頭大学信盛《さむらいがしらだいがくのぶもり》の舎弟、佐久間左京《さくまさきょう》 信長の小姓組《こしょうぐみ》、前田|犬千代《いぬちよ》 槍組衆の河尻与兵衛《かわじりよへい》 足軽三十人持、御小人組小頭《おこびとぐみこがしら》木下|藤吉郎《とうきちろう》 [#ここで字下げ終わり]  ――などの四名が候補になっていた。各〻に特長もあり理由もあって、 「急ぐこともないから、よう生涯を考えて――」と、寧子《ねね》にも告げて、宿題の予日をのこし、親たちも先方へ、まだはっきり返辞をしない程度になっていた。 [#8字下げ][#中見出し]二[#中見出し終わり]  四人の候補のうちで、最も身分の高いのは、佐久間左京であった。兄大学|信盛《のぶもり》は、愛知郡《あいちごおり》山崎で、出城《でじろ》とはいえ、一ヵ城の城持ちであり、左京も織田家では、重要な地位を占め、主君のおおぼえもよかった。年齢は二十三歳とかいう。 「申し分はないが、何せい、こちらは弓之衆《ゆみのしゅう》の長屋住い、身分がちがいすぎる」  と、又右衛門夫婦は、その点で迷っていた。  総じて、尾張半国の小藩にすぎない織田家は、君臣ともに、質素で財力も乏《とぼ》しかったが、わけて浅野又右衛門は、小禄《しょうろく》な弓組の一家士でしかなかった。  年ごろの娘ふたりに、人なみの教養もさせ、人知れぬ「聟《むこ》とり」の支度をしておくだに、なかなか容易ではない家計だった。  その点では、  家庭へもよく遊びに来て、気心もおけないし、先の人がらも素姓《すじょう》も知れている前田犬千代は、 「寧子《ねね》も、嫌ではないらしい」  と考えられて、親たち自身の心もだいぶ傾《かたむ》いていた。  難をいえば、犬千代は感情につよく、同僚などとも刃傷沙汰《にんじょうざた》を起して、殿の勘気をうけたりしたこともあった。素行《そこう》も放縦《ほうじゅう》のように思われる。また、美丈夫なので、寧子とのあいだに、恋愛でもあるかのようなうわさも撒《ま》かれた。年は二十四歳、寧子も望んでいるらしいし、ふさわしい聟《むこ》とは思われるものの、まだ又右衛門夫婦の決心は、はっきりせずに在る。  では、河尻与兵衛《かわじりよへえ》はというに。  これなら剛健で、武勇は槍組の随一と聞えているし、戦国の士として、負《ひ》け目《め》は取らないが、ただ寧子とはあまり年がちがう。それに一度妻をもった人でもあるし、 「かわいそうではありませんか」  と、又右衛門よりは、妻のほうが、気のすすまない顔いろだった。  殆ど、問題にしていないのは、つい近頃、小者からやっと士分になったばかりの男で、まめ[#「まめ」に傍点]に足を運んで来る木下藤吉郎という男だった。 「かなわぬよ、あの男につかまると」  又右衛門も、閉口《へいこう》している。こちらでは問題としなくても、先は熱心を冷《さ》まさないのである。物を届けて来る。些細《ささい》な用でもすぐ来る。無くてもやって来る。来れば話しこむ。――その末には、 「どうでしょう。決して、寧子どのを、不幸にはいたしませんが。――それだけは誓えます」  などと縁談《はなし》は、聟どの直接なのである。  その懸命さに、つい膠《にべ》のないこともいえず、 「まあ、考えて」――とか。 「寧子の胸もきいた上で――」  とか、云って来たのが悪くもあった。近頃では、又右衛門も持て余していた。といって、応じる気には毛頭なれないのだ。どうながめても、 「この男の将来では、まあ百貫の禄《ろく》でも取られたら関のやま。生涯、妻に不幸な目は見せぬ、などと云いおるが疑わしい」  と、考えられるからだった。  又右衛門の評価は、まだまだよいほうなのである。世間では、彼が低い小者勤めをしていた頃の呼び慣《なら》わしのまま、いまだに、  ――猿。猿。  と呼んで、藤吉郎とは云わぬ者のほうが多い。  家すじも、中村の百姓だとしか聞かないし、現在も、士分のうちでは一番下の軽輩だし、顔は、猿に似ているし、風采といったら寔《まこと》にあがらない小柄なほうだ。取柄《とりえ》といったらただ、 「おもしろいお人や」  と、台所の下婢《かひ》どもや、下僕《しもべ》などから、自分たちの仲間のように思われて、人気のあることだけだった。  だから、寧子《ねね》や、妹の於《お》ややまでが、彼の姿を門に見れば、 「――お父さま、また木下様が、お越しですよ」  と、理《わけ》もなく、おかしがるのが先で、眼のうちにも入れていなかった。 [#8字下げ][#中見出し]三[#中見出し終わり]  永禄《えいろく》四年の六月、桶狭間《おけはざま》の合戦の翌る年。  津島《つしま》祭りのある頃だった。  やぶ蚊の多い弓之衆《ゆみのしゅう》の組長屋で、一組の聟とり祝言《しゅうげん》があった。  聟どのは、当年二十六歳の木下藤吉郎で、むしろ寧子《ねね》のほうから望んで遽《にわか》に挙げられた婚儀と聞いて、 「へええ? 猿が、あの寧子どのと?」  と、世間には、幾つも呆《あき》れ顔が出来た。  世間の驚いたのも無理もない。親の又右衛門夫婦ですら、その晩、婚儀の席に並んだ者のはなしを聞けば、 「何やら、力落しの態で、浮きもせず、世間に肩身のせまいような顔してござった」という。  なお。――当夜の模様はと、問いただせば、 「板屋びさしの弓長屋に、ひっそり縁者どもが寄り、簀掻藁《すがきわら》を床《とこ》にしいて、うす暗い短檠《たんけい》の明りが三ツ四ツ、聟どのと花嫁が中ほどに坐って、形ばかりの杯事《さかずきごと》をしたまでのこと――」  と、如実に語って、 「――花嫁の気は知れぬが、たださしうつ向き、聟の猿どのは、けろり[#「けろり」に傍点]としたものよ」  ということだった。  聞く者は、もう一度、唖然とした。 [#8字下げ][#中見出し]四[#中見出し終わり]  足軽三十人持の小頭《こがしら》といっては、まだその足軽よりすこし足《た》しなくらいの生活でしかない。清洲《きよす》の侍小路《さむらいこうじ》の裏に、若い夫婦は、初めて小《ささ》やかな家と鍋釜を持った。  織田家はその頃、隣国の美濃《みの》の斎藤方へ、しきりと攻略を計っていた。良人はたえず家にいなかった。時には、木曾川の国境へ遠征し、稀〻《たまたま》、帰って来ても城内の寝泊りが多いし、まだ二十歳にもならない新妻は、常に、陰膳《かげぜん》ばかり供えて、独りで喰べ、独りで縫い、独りで家事を見ていた。  けれど、その良人が、稀に家にあって、 「寧子《ねね》。寧子」  と、朝から晩まで、快活な声で、寛《くつろ》いでいると、彼女は、百日の苦も、一年の留守も、物のかずではない。しんから今の生活が楽しまれた。 「侍《さむらい》の妻とは、不びんなものだ。――だが、こうして殿《との》からお暇をゆるされて、家にある一日だけは、気儘もいうがよい。おれの体《からだ》は、そなたのものだ。そなたの体はまた、おれのものだし……。はははは」  どこまで、明るい人である。寧子は、持った良人を、いつも改めてそう見直した。そして、自分の求めた結婚に、悔いるような気持は一瞬でも起らなかった。  ある時、ふと、 「寧子。そなたは、わしを知った最初は、わしが嫌いだったろう」  そんなことを、良人は訊《たず》ね出した。  正直に、寧子は、ほほ笑んで頷《うなず》いた。 「ええ」 「それが、どうして遽《にわか》に、わしと生涯を暮す気になったのか」 「それはこうです。いつかあなた様が、中村のお母様のところへ上げるお手紙を、何かの品と一緒に、お忘れになって行ったでしょう。実は、妹がわたくしにそれを見せたので、あの中の御孝心なお文《ふみ》に心をうごかされたのです。……そればかりではありませんが、それから他《よそ》ながら、あなたのお勤めぶりや、おはなしの端々《はしばし》にも、心をひかれるようになったのでございました」  云い終って、寧子は、顔を紅くした。  すると、良人は、 「そうか。やはりそうか。実申せば、あの文《ふみ》は、そなたの心をうごかすため、わざと置き忘れて行ったのだ。はははは、そなたはわしの兵法で、まんまと擒人《とりこ》になったんだよ」  手を打たないばかり、欣《うれ》しがって笑うのだった。  けれど寧子は、すこしも興ざめ[#「興ざめ」に傍点]な心地はしなかった。なぜなら良人の孝心は、決して嘘でないからである。中村の田舎にいる母親に対する藤吉郎の孝心は、離れてこそいるが、恋妻の自分にしてくれる以上であった。戦場からよこす便りにも、母の事を書いてないことはないほどだし、家に戻っても、ここにはいない母親のうわさをしない日はなかった。 「神《かみ》信心《しんじん》、仏《ほとけ》信心もだが、わしの胸には、どこにいても、母がいるからな。母を思い出すと、悪い事はすまいと思う。善い事はしようと思う。そして良い子をもって倖《しあわ》せだと、母に欣んでもらいたいと思う」  常々、藤吉郎は、そう云った。  また―― 「わしの願いは、中村じゅうで一番の不倖《ふしあわ》せ者じゃった母を、日本一の幸福者にさせてお上げ申したいことだ……」  と、云いかけて、後は、寧子の顔を見て笑った。そして、何を云うかと思えば、 「そして共々、この女房をもな――」  と、彼女の美しい鼻を、指でついた。 [#8字下げ][#中見出し]五[#中見出し終わり]  猿。猿。――猿の妻。  添うてからも、幾年かは、辛《つら》い声を、時折聞いた。世間の軽蔑《けいべつ》は去らなかった。  自分が云われるよりも、良人の云われた場合に、寧子《ねね》は腹が立った。けれど良人は意にかけるふうもない。笑うのみである。  いつか彼女も、良人に訓練されて、笑っていられるようになった。  がしかし、それも、良人が洲股《すのまた》の築城をなし遂げて、一躍、五百貫の恩地と、一城の守将という地位とを克《か》ち獲《と》ると、世間は今さらのように、 「怖《おそ》るべき男」  と、藤吉郎を見直して来た。  寧子はひそかに、自分に誇った。よくぞ生涯の人を選んで過《あやま》らなかったと、未婚の頃の岐路を顧みて思うことが多かった。  ただ。  良人の立身と共に、彼女にはべつな困難が加わって来た。それは、良人の累進《るいしん》に、自分の教養が――劣らない妻としてゆくことが、ともすれば、追いつけなくなりそうな点であった。  家臣は多くなる。一族はまわりに持つ。経済は膨大《ぼうだい》になってゆく。君侯への心くばりから、使者の往来といったような社交。良人の身まわりもまるで違ってきた。  その繁忙の間にでも、夜々の暇をぬすんでは、修養を加えてゆかなければ、以前の一藤吉郎ではない――羽柴筑前守秀吉の妻として、いやでも取残されてしまいそうだった。良人の事業と栄進とは、そのために、どんなに愛している妻でも、妻のために、待っている理《わけ》はないからである。  結婚してから、いつか、十一年は経っていた。  主君の信長が、尾張半国から興って、今川を討ち、美濃《みの》を経略し、居城も清洲《きよす》から小牧山《こまきやま》へ、それからまた岐阜城《ぎふじょう》へと移って、尾濃《びのう》百二十万石を治めるようになると、秀吉もそれまでの功によって、近江長浜《おうみながはま》の城主二十万石という大身になっていた。 「寧子《ねね》、そなたは、女子にめずらしい者じゃ、偉いものと、秀吉も今にして思う」 「お戯《たわむ》れ遊ばしませ」 「いや、真《まこと》だ。足軽に毛のはえたくらいな身分であったあの頃のわしを――良人に選んだ眼は、処女《おとめ》頃の女子として、偉いといわねばなるまいな。――そのむかし、わしがまだ十八歳の頃、針売りなどして諸国をさまよい歩いていた艱苦の頃だ。庄内川の河原で、信長公の御馬前へ駈け伏したところ、そのまま召しつれて、草履《ぞうり》取りにお使いくだされた御主君のお眼もだが――そなたは、御主君に次いで、この秀吉の人間を、見とおした偉い女子じゃ、賞《ほ》めてつかわす」 「そうお賞めいただくと、寧子は汗がながれます」 「なぜか」 「こんなにまで、あなたが御立身なさろうとは、寧子も思っておりませんでしたから」 「あははは、それはそうかも知れぬ。この秀吉も、思っておらなかったからな」 「では、あなたは、御自身どれくらいまで、御出世遊ばそうと、考えておいでになりましたか」 「いや、わしはな、そう上を望んだことはない。草履取《ぞうりと》りをしておる時には、御主君のお草履をつかむ仕事を精いっぱいに勤め、士分になれば士分の仕事を精いっぱいに、一城の主《あるじ》となれば、一城の主を精いっぱいやりおるだけじゃ。――だから今も今を精いっぱいにやっておるに止る」  秀吉夫婦のこういったふうな話は、侍臣の前でも、奥女中たちの居並んでいる所でも、声を密《ひそ》めるなどということはなく、至極、明けっ放しに交わされるのであった。  以前の貧乏ばなしなど、わけて少しも、隠して衒《てら》うふうはなかった。  秀吉が宿望であった、故郷の母も、長浜の城に迎えた。  姉も弟たちも、寧子の一族たちも、皆、彼を繞《めぐ》って、門戸の栄えに恵まれた。 「わしに仕える心を、母につくしてくれ。母が歓べば、わしは自分につくされたより欣しい。ありがたい」  秀吉が、寧子へいう、口癖であった。  母はもう五十であった。まったく田舎の一|老媼《おうな》である。果報にすぎると、常に勿体ながるばかりであった。その母は、誰よりも、寧子が気に入っていた。  夜の伽《とぎ》に、母を中心に取巻いて、 「お母様、お聞きください。わが良人《つま》が、わたくしを娶《めと》る時には、お母様へのお手紙を、わざと忘れ落したふりして、わたくしの心をうごかしたのでございますよ。いわば親孝行を囮《おとり》に遊ばして、処女心《おとめごころ》をだましたのでございます」  などと思い出ばなしを、戯れに告げると、 「まあ、悪い子じゃなあ」  と、母はおかしがって、また、中村時代の手に負えなかった秀吉の――日吉《ひよし》といった時分の悪戯《いたずら》ぶりだの、奉公先からおしりばかり持込まれたことだの、喰べるに物もなかった貧苦の中に泣かされたことだの、寧子にはなして聞かせるのだった。 「どうして、まだまだこの子には、小さい折の面影がたんとある。そなたも、上手に騙《たぶらか》されぬがよい」  母が、寧子に味方して云うと、秀吉は大いに懼《おそ》れをなして、 「いけませんなあ。折角、秀吉がよい女房に仕立てておるのに、母上がそうお壊《こわ》しなされては」  と、慌《あわ》てて、次のことばを、抑えるまねした。  近習《きんじゅう》たちも笑えば、侍女《こしもと》たちも、笑いこけるほどであった。そして周囲は、主人の物質的な栄華よりも、その睦《むつ》まじさに、心から羨《うらや》ましさを覚えるのだった。 [#8字下げ][#中見出し]六[#中見出し終わり]  誰へも、洩らしたことはない。どんなことでも隠さない母へも――である。寧子《ねね》は、ひとりで、悩むことがあった。  それは秀吉の浮気であった。自分のほかに、愛する女性のできたことである。 「貧しい細長屋で暮していた時のほうが……」  と、今の栄位を、むしろ厭《いと》う気さえこの頃は起った。徒《いたずら》に、清洲《きよす》時代の小《ささ》やかな二人暮しの時ばかり振返られて、良人の内助に、ふと、心のゆるむ日もあった。  その良人に代って、岐阜城の主君の許へ、使いを命じられた。長浜の絹、琵琶湖《びわこ》の鮮魚など、心をこめた土産の数々を、荷駄組《にだぐみ》の武士に運ばせ、彼女は、華麗な奥方用の塗駕籠《ぬりかご》に、多くの侍女や侍を従えて岐阜に赴いた。主君に会って、使いを果してからである。信長はくだけて、 「どうだな秀吉は、相かわらず元気に、毎日をおもしろく暮しているだろうな」  などと、いろいろ家庭の内事まで訊かれたので、寧子《ねね》も女ごころについ、 「何事も良人のなさることには、不服を申しませぬが、どうか余り夜の局《つぼね》へしげしげお通《かよ》い遊ばすことはないように、どうぞお上から仰っしゃって戴きとう存じまする」  と、面《おもて》には笑って頼んだ。  信長も、苦笑しながら、 「よしよし。わしからもよく云ってやる。そのほうにかけては、くせの良くない男だからの」  と、慰め返した。  すると、日を措いてから、主君の信長から、寧子へあてて書面がとどいた。いつぞやの土産物の数々の、実に見事であったことなど、欣びを認《したた》めた後で、 [#ここから2字下げ]  ――仰《おお》せのごとく、こんど、この地へ、はじめて越し、けんざんに入、祝着に候……其許《そこもと》の眉目《みめ》ぶり容《かたち》まで、いつぞや見まいらせ候折ふしよりは、十のもの二十ほども見上げもうし候  藤吉郎、れんれんと、ふそくの旨《むね》、申すの由《よし》、言語《ごんご》どうだん、曲事《くせごと》に候が、何方《いずれ》を相たずね候とも、また二たびは、求めがたき夫《つま》にもあれば、其許《そこもと》にも、おもおもしく、りん気などに立ち入りては然るべからず、ただし、おんなの役に候あいだ、ふんべつにて、程ようあるは、あしかるまじ…… [#ここで字下げ終わり]  などと婉曲《えんきょく》にではあるが、寧子《ねね》の悩みに、誡《いまし》めを与えていた。寧子《ねね》は、それを見て、後では、 「なぜ、御主君などへ」  と、深く悔いた。  そして今さらのように、女ごころの不覚を知った。意志のつよいつもりでいる自分にも、脆《もろ》い一面を気づいて、自分を恐ろしいと思った。  その心をもってその日から、彼女は改めて、良人に侍《かしず》いた。良人の愛は、以前より勝っても、変ってはいなかった。愛を疑う時、愛はすぐ黒い雲に変るもの――と、寧子はひそかに良人に詑びた。  それから間もなく。  秀吉は軍をひいて、中国へ出征した。  長い留守がつづいた。何年も、何年も。  そのうちに――天正十年五月、上洛中の主君信長が、叛臣《はんしん》光秀《みつひで》のために、本能寺《ほんのうじ》で討たれた。  変が伝わると共に、秀吉の留守城長浜は、明智光秀に加担の阿部淡路守《あべあわじのかみ》の軍勢に攻め襲《よ》せられた。  寧子は静かに、留守の一族や侍たちへ殿軍《しんがり》のさしずをした上、侍女たちの手もかりず、自分の背に母を負って、慥乎《しっか》と結《ゆ》いつけ、片手に薙刀《なぎなた》を携えて、東浅井郡《ひがしあさいごおり》の山奥、大吉寺《だいきちじ》へのぼった。  母を、寺内にかくして、夜も昼も、彼女は門前に立って固めた。侍女たちを入れても、五十人に足らない手勢であったから、もし敵がこれへ来たら、斬死《きりじに》の覚悟であった。――だがそうしてもなお、留守の良人に詫びきれない心地のものは、母の身に万一のことでもあったらということであった。良人の孝心を思うと、逃げきれるだけ逃げのびたいし、武門の妻であることを思うと、 「秀吉の妻として、笑われぬよう」  と、悲壮な斬死へ、気は逸《はや》った。 [#8字下げ][#中見出し]七[#中見出し終わり]  わずか十日余りだった。  秀吉は、変を知ると、中国高松城の水攻めを、毛利家との和睦《わぼく》に中止して、疾風のごとく陣を返し、山崎の一戦に、光秀を葬《ほうむ》り去った。  長浜城は、奪回した。  秀吉は、大吉寺の山へ上って来た。  真っ先に、母のすがたを求めて、オオと呼ぶ母を見ると、 「おっ母さん!」  子どもみたいに縋った。  それから、 「寧子《ねね》。寧子っ」  と、呼び立て、 「よくいたした。よくいたした。それでこそ秀吉の……」  妻と手を取り合って、泣いているのである。  寧子《ねね》は、ものも云い得ない。ただ体《からだ》じゅうの顫《ふる》えるような歓びにつつまれていた。人間と生れなければ――人妻となってみなければ――また、こういう難儀をも突きぬけてみなければ――この歓びを生命に味うことは出来なかったろう。そう落着いた後では思ったことであった。  ふたりの間の愛も。  二十歳だいの頃、  三十の頃、  また、四十をも越えた今。  ――と顧《かえり》みてくると、愛そのものの動かぬ相にも、自然その深度と意義には、年と共に変化があった。お互いに培《つちか》って来た努力がようやく、ほんとの夫婦愛の実となって、今、結ばれているのが分った。  何かしら、その頃から後の彼女の胸には悠《ゆ》ったりと、大きな安心がすわっていた。  春の海のようにそれは寛《ひろ》い。  秀吉の側室《そくしつ》に、うら若い淀君《よどぎみ》とかいう美女が侍《かしず》くようになって、閨門《けいもん》を繞《めぐ》る奥仕えの者たちから、いろいろな曲事《ひがごと》が聞えて来ても、その寛やかな彼女の胸に、小波《さざなみ》も立てることはできなかった。  時に、怒濤《どとう》は立つかもしれない。幾歳になっても、女性の血は女性の血であるから。――けれど、彼女のそばに常にいる召使も、時折に伺候する家臣も諸侯も、彼女に会えばいつも花の木陰《こかげ》に憩《いこ》うような平和をおぼえた。春の海に向うような寛さを覚えた。塵《ちり》ほどな気色でも、淀君に対してうごく色を見たためしはなかった。  すでに、秀吉は、太閤といわれ、その母は、大政所《おおまんどころ》と敬《うやま》われ、そして寧子《ねね》は、北《きた》の政所《まんどころ》と称されていた。  いうまでもなく、大坂城にあって、天下を統《す》べている秀吉であった。  その秀吉の不足と、彼女のたった一つのさびしさは、遂にまだ、二人の仲に子のなかったことである。 [#8字下げ][#中見出し]八[#中見出し終わり]  淀君には、子が生れた。  鶴松君《つるまつぎみ》といったが、嬰児《あかご》のうちに早世した。  次に、拾君《ひろいぎみ》を生んだ。後の秀頼《ひでより》である。  北の政所《まんどころ》もあるかなしかのように、淀君の勢力は、自然大坂城に偉《おお》きなものとなった。  こんな事もあった。  佐々成政《さっさなりまさ》が、北国すじの地侍《じざむらい》へたのんで、白山《はくさん》の黒百合を取りよせて、北の政所へ献上した。  めずらしい高山植物の花だった。黒いばかり濃紫《こむらさき》の百合である。北の政所は、 「ひとりで慰むのも、花に勿体ない心地がする」  と、茶会を思い立って、利休《りきゅう》の娘で、鵙屋《もずや》の妻となっていたお吟《ぎん》を召しよせて、趣好を相談した。  何かの打合せをすまして、お吟《ぎん》が西の丸から退がって来ると、淀君付の局《つぼね》が待っていて、 「そっと、淀君さまからのお訊《たず》ねじゃが、そなた、何の御用で、西の丸へは伺ったか」  と、廊下の端《はし》で訊かれた。  お吟は、ありのままに、 「めずらしい黒百合がお手に入りましたので――」  と、茶会の趣好をはなした。  茶の日には、淀君もよばれていた。人々はみな、珍しがったが、淀君は、黒百合のことを、よく弁《わきま》えていたので、 「お智識でいらっしゃいますこと」  と、人々は感心して聞き入った。  それから数日たつと、こんどは淀君のほうの催しで、「花摘《はなつ》みの会」の招きがあった。殿中の廊下には、たくさんの花桶《はなおけ》が並べてあって、各〻が心まかせに、好みの花を摘んで、挿《い》けたり、家|土産《づと》に戴いて帰った。  ところが、いつぞやの黒百合と同じ花が、他の雑な花と一緒に、一つの花桶に突っこんであったので、人々は、 「まあ何として? ……」  と、眼をみはった。  その皆の眼は折ふし来合せた北《きた》の政所《まんどころ》の面《おもて》をお気の毒で見るにたえないというように外《そ》らしあっていたが、北の政所は、花桶に眼をとめると、 「おお、たくさんにある……」  と、微笑んだだけだったので、その和《なご》やかな面《おもて》をながめた人々は、 「今日の花の、どの花よりもお美しい」  と、ひそかに思った。 [#8字下げ][#中見出し]九[#中見出し終わり]  太閤の母、大政所は、八十歳を一|期《ご》として、聚楽《じゅらく》で亡くなった。  薨去《こうきょ》の報《し》らせを、太閤は、名護屋《なごや》の陣で知ったのである。彼は生涯の大事業としている朝鮮役の出征にかかっていた。  軍事を措いて大坂へ帰った。  ――が、臨終には間にあわなかったのである。もう老齢な子は、母に取りすがって、人前もなく歎いた。  日本を統一し、海外にまで余力を展《の》ばして、大陸経営まで抱負している大気宇《だいきう》な太閤が、 「寧子《ねね》寧子。もう何を張合いに」  と、泣いたということである。  寧子は、大政所の病中、帯も解《と》かないほどだった。彼女も急に老いていた。 「お察しいたしまする。けれどあなた様にはまだ、大きな御使命がございましょう。……寧子は、何をあてに、この先の日を」  高野山に青巌寺《せいがんじ》を建て、諸国に供養所を興して、亡母の冥福《めいふく》を祷《いの》っても、秀吉の心は、なお癒《い》えなかった。  朝鮮陣の半《なか》ば、太閤もまた、六十三を一|期《ご》に、薨去した。 「……寧子」  わかれには、たった一言、そう云ってにこと、顔を見あわせたのみであった。  北の政所は、大坂城を退いて、京都の高台寺の峰に、一寺を建てて、ひとり清らかに住んでいた。――いやほど近い阿弥陀《あみだ》ヶ|峰《みね》の土に眠る太閤を、朝夕に訪れるのを楽しみとして。  淀君の生活は、彼女とは反対に、それから遽《にわか》な爛熟《らんじゅく》を迎えた花のように咲けるだけ狂い咲きに咲いて、そして、元和《げんな》元年の夏の陣に、大坂落城の炎《ほのお》に散った。  子の秀頼も。一族も。  彼女を繞《めぐ》る無数の男女の召使までも、また、太閤の遺《のこ》したあらゆる物も――愛情までも、その焦土《しょうど》へ投げこんでしまった。  真っ赤な天は、ふた晩も三晩も、京の高台寺の峰からもよく見えたほどだった。  そこも阿弥陀《あみだ》ヶ|峰《みね》も、颯々《さっさつ》と、冷たい松風のみであった。  家康も、そこへは兵を上げなかった。  むしろ敵の家康まで、彼女の才徳と貞操を感じて、寺領を寄進したり、何かと生涯の面倒を見るように、所司代の板倉|勝重《かつしげ》へいいつけたほどであった。  寛永元年の九月、彼女は安らかに世を終った。  六十七歳まで[#「六十七歳まで」はママ]――死ぬるまで、彼女は太閤の愛に抱かれていた。 底本:「剣の四君子・日本名婦伝」吉川英治文庫、講談社    1977(昭和52)年4月1日第1刷発行 初出:「主婦之友」    1940(昭和15)年3月号 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:川山隆 校正:雪森 2014年8月7日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。