日の出 国木田独歩 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)某《なにがし》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)八|時《じ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)熢 /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)ぼう/\ *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 -------------------------------------------------------  某《なにがし》法學士《はふがくし》洋行《やうかう》の送別會《そうべつくわい》が芝山内《しばさんない》の紅葉館《こうえふくわん》に開《ひら》かれ、會《くわい》の散《さん》じたのは夜《よ》の八|時《じ》頃《ごろ》でもあらうか。其崩《そのくづれ》が七八|名《めい》、京橋區《きやうばしく》彌左衞門町《やざゑもんちやう》の同好倶樂部《どうかうくらぶ》に落合《おちあ》つたことがある。  小介川文學士《こすけがはぶんがくし》が伴《ともな》ふて來《き》た一人《ひとり》の男《をとこ》を除《のぞ》いては皆《み》な此倶樂部《このくらぶ》の會員《くわいゐん》で、其《そ》の一人《ひとり》はオックスホード大學《だいがく》の出身《しゆつしん》、其一人《そのひとり》はハーバード大學《だいがく》の出身《しゆつしん》など、皆《み》なそれ/″\の肩書《かたがき》を持《もつ》て居《ゐ》る年少氣鋭《ねんせうきえい》、前途有望《ぜんというばう》といふ連中《れんぢゆう》ばかり。卓《たく》を圍《かこ》んでてんで[#「てんで」に傍点]に吐《は》き出《だ》す氣焔《きえん》の猛烈《まうれつ》なるは言《い》ふまでもないことで、政論《せいろん》あり、人物評《じんぶつひやう》あり、經濟策《けいざいさく》あり、時《とき》に神學《しんがく》の議論《ぎろん》まで現《あら》はれて一しきり[#「しきり」に傍点]はシガーの煙《けむ》を熢々濛々《ぼう/\もう/\》たる中《なか》に六《ろく》七《しち》の人面《じんめん》が隱見《いんけん》出沒《しゆつぼつ》して、甲走《かんばし》つた肉聲《にくせい》の幾種《いくしゆ》が一高一低《いつかういつてい》、縱横《じゆうわう》に入《い》り亂《みだ》れ、これに伴《ともな》ふ音樂《おんがく》はドスンと卓《たく》を打《う》つ音《おと》、ゴト/\と床《ゆか》を蹶《け》る音《おと》、そして折《を》り/\冬《ふゆ》の街《ちまた》を吹《ふ》き荒《あら》す北風《きたかぜ》の窓《まど》ガラスを掠《かす》める響《ひゞき》である。時々《とき/″\》使童《ボーイ》が出入《しゆつにふ》して淡泊《たんぱく》の食品《くひもの》、勁烈《けいれつ》の飮料《いんれう》を持運《もちはこ》んで居《ゐ》た。ストーブは熾《さかん》に燃《も》えて居《ゐ》る―― 『貴殿《あなた》は何處《どこ》の御出身《ごしゆつしん》ですか』と突然《とつぜん》高等商業《かうとうしやうげふ》出身《しゆつしん》の某《なにがし》、今《いま》は或《ある》會社《くわいしや》に出《で》て重役《ぢゆうやく》の覺《おぼえ》目出度《めでた》き一人《ひとり》の男《をとこ》が小介川文學士《こすけがはぶんがくし》の隣《となり》に坐《すわ》つて居《ゐ》る新來《しんらい》の客《きやく》に問《と》ひかけた。勝手《かつて》な氣焔《きえん》もやゝ吐《は》き疲《くた》ぶれた頃《ころ》で、蓋《けだ》し話頭《わとう》を轉《てん》じて少《すこ》し舌《した》の爛《たゞ》れを癒《いや》さうといふ積《つも》りらしい。人々《ひと/″\》も同意《どうい》と見《み》えて一時《いちじ》に口《くち》を閉《とぢ》たけれど、其中《そのうち》の二三人《にさんにん》は別《べつ》に此問《このとひ》に氣《き》を止《と》めず、ソフアに身《み》を埋《うづ》めてダラリと手《て》を兩脇《りやうわき》に垂《た》れ、天井《てんじやう》を眺《なが》めて眼《め》を細《ほそ》くして居《ゐ》る者《もの》もあれば、シガーをパク/\ふかして居《ゐ》る者《もの》もある。一人《ひとり》は毒瓦斯《どくがす》を拔《ぬ》くべく起《た》つて窓《まど》を少《すこ》し開《あ》けた。餘《よ》の人々《ひと/″\》は新來《しんらい》の客《きやく》に目《め》を注《そゝ》いだ。 『僕《ぼく》ですか、僕《ぼく》は』と言《い》ひ澱《よど》んだ男《をとこ》は年《とし》の頃《ころ》二十七八、面長《おもなが》な顏《かほ》は淺黒《あさぐろ》く、鼻下《びか》に濃《こ》き八|字《じ》髭《ひげ》あり、人々《ひと/″\》の洋服《やうふく》なるに引違《ひきちが》へて羽織袴《はおりはかま》といふ衣裝《いでたち》、今《いま》は都下《とか》で最《もつと》も有力《いうりよく》なる某《なにがし》新聞《しんぶん》の經濟部主任記者《けいざいぶしゆにんきしや》たり、次《つぎ》の總選擧《そうせんきよ》には某黨《ぼうたう》より推《おさ》れて議員候補者《ぎゐんこうほしや》たるべき人物《じんぶつ》、兒玉進五《こだましんご》とて小介川文學士《こすけがはぶんがくし》は既《すで》に人々《ひと/″\》に紹介《せうかい》したのである。  兒玉《こだま》は先程來《さきほどらい》、多《おほ》く口《くち》を開《ひら》かず、微笑《びせう》して人々《ひと/″\》の氣焔《きえん》を聽《きい》て居《ゐ》たが、今《いま》突然《とつぜん》出身《しゆつしん》の學校《がくかう》を問《と》はれたので、一寸《ちよつと》口《くち》を開《ひら》き得《え》なかつたのである。 『僕《ぼく》の出《で》た學校《がくかう》をお尋《たづ》ねになるのですか。』と兒玉《こだま》は語《ご》を續《つが》うとして、更《さら》に斯《か》う問《と》ふた。 『さうです。君《きみ》の出《で》られた學校《がくかう》です。三田《みた》ですか、早稻田《わせだ》ですか。』と高等商業《かうとうしやうげふ》の紳士《しんし》は此二者《このにしや》を出《いで》じといふ面持《おもゝち》で問《と》ふた。 『違《ちが》ひます』と兒玉《こだま》は微笑《びせう》した。 『オオさうですか。何處《どこ》です。』 『大島學校《おほしまがくかう》です。』 『大島學校《おほしまがくかう》? 聞《きい》たことのない學校《がくかう》ですな、お國《くに》の學校《がくかう》ですか。』 『さうです、故郷《くに》の小學校《せうがくかう》です、私立小學《しりつせうがく》です』と言《い》つた時《とき》の兒玉《こだま》の顏《かほ》は眞面目《まじめ》であつたけれど、人々《ひと/″\》は笑《わら》ひ出《だ》した。 『戲談《じようだん》を言《い》つては困《こま》ります。だから新聞記者《しんぶんきしや》は人《ひと》が惡《わる》い。人《ひと》が眞面目《まじめ》で聞《き》くのに。』と高商紳士《かうしやうしんし》は短《みじか》くなつたシガーをストーブに投《な》げ込《こ》んだ。 『僕《ぼく》も眞面目《まじめ》で答《こた》へたのです。全《まつた》く僕《ぼく》は大島小學校《おほしませうがくかう》の出身《しゆつしん》です。故意《わざ》と奇妙《きめう》な答《こたへ》をして諸君《しよくん》を驚《おどろ》かす積《つもり》は決《けつ》して持《もた》ないので。これまでも僕《ぼく》は出身《しゆつしん》の學校《がくかう》を聞《きか》れましたが。初《はじめ》から答《こた》へない時《とき》もあり、答《こた》へる時《とき》は何時《いつも》此《こ》の答《こたへ》をするのです。』 『さうすると貴殿《あなた》は小學校《せうがくかう》以外《いぐわい》の教育《けういく》はお受《うけ》にならんかつたのですか。と申《まう》すと失敬《しつけい》ですが其以外《そのいぐわい》の學校《がくかう》にはお入《はひり》にならなかつたのですか』とソフアに掛《か》けて居《ゐ》たオックスフオード出身《しゆつしん》の紳士《しんし》が身《み》を起《おこ》して聞《き》いた。其口元《そのくちもと》には何《なん》となく嘲笑《あざけり》の色《いろ》を浮《うか》べて居《ゐ》る。 『さうです、僕《ぼく》はオックスフオードにもハーバードにも帝國大學《ていこくだいがく》にも早稻田《わせだ》にも三田《みた》にも高等商業學校《かうとうしやうげふがくかう》にも居《ゐ》たことは無《な》いのです。たゞ故郷《くに》の大島小學校《おほしませうがくかう》を出《で》たばかりです。斯《か》う申《まう》すと、諸君《しよくん》は妙《めう》にお取《とり》になるかも知《し》れませんが、僕《ぼく》はこれでも窃《ひそ》かに大島小學校《おほしませうがくかう》出身《しゆつしん》といふことを誇《ほこ》つて居《ゐ》るのです。又《ま》た心《こゝろ》から感謝《かんしや》して居《ゐ》るので御座《ござ》います。僕《ぼく》は不幸《ふかう》にして外國《ぐわいこく》に留學《りうがく》することも出來《でき》ず、大學《だいがく》に入《はひ》ることも出來《でき》ず、ですから僕《ぼく》の教育《けういく》、所謂《いはゆる》教育《けういく》なるものは不完全《ふくわんぜん》なものでしよう。  けれども尚《な》ほ僕《ぼく》は大島小學校《おほしませうがくかう》の出身《しゆつしん》なることを、諸君《しよくん》の如《ごと》き立派《りつぱ》な肩書《かたがき》を持《もつ》て居《を》らるる中《うち》で公言《こうげん》して少《すこし》も恥《はぢ》ず、寧《むし》ろ誇《ほこ》つて吹聽《ふいちやう》したくなるのです。  問《と》はれなければ默《だま》つて居《ゐ》ます。問《と》はれても言《い》ふて益《えき》なき仲間《なかま》に向《むか》つては默《だま》つて居《ゐ》ます。けれども諸君《しよくん》の如《ごと》き教育《けういく》高《たか》き紳士《しんし》に問《と》はれては實《じつ》に眞面目《まじめ》に僕《ぼく》は大島小學校《おほしませうがくかう》の出身《しゆつしん》といふことを公言《こうげん》するのです。  早稻田《わせだ》を出《で》たものは早稻田《わせだ》を愛《あい》し。大學《だいがく》を出《で》たものは大學《だいがく》を愛《あい》するのは當然《たうぜん》で、諸君《しよくん》も必《かなら》ず其出身《そのしゆつしん》の學校《がくかう》を愛《あい》し且《か》つ誇《ほこ》らるゝでしよう。其如《そのごと》く僕《ぼく》は故郷《くに》の大島小學校《おほしませうがくかう》を愛《あい》し且《か》つ其出身《そのしゆつしん》たることを誇《ほこ》るのです。』 『そうです、僕《ぼく》も故郷《くに》の小學校《せうがくかう》を愛《あい》します。』と言《い》つたのはハーバード出身《しゆつしん》の紳士《しんし》。 『そして誇《ほこ》りますか。そして其出身《そのしゆつしん》たることを感謝《かんしや》しますか』と問《と》ひ返《か》へした兒玉《こだま》の口調《くてう》はやゝ激《げき》して居《ゐ》た。 『さうです。』 『何故《なぜ》ですか』と問《と》ふた兒玉《こだま》の眼《め》は輝《かゞや》いた。 『イヤそう眞面目《まじめ》に問《と》はれては困《こま》る。僕《ぼく》は小兒《こども》の時《とき》を回想《くわいさう》して當時《たうじ》の學校《がくかう》を懷《なつか》しく思《おも》ふだけの意味《いみ》で言《い》つたのです』とハーバードは罪《つみ》のない微笑《びせう》を浮《うか》べて言譯《いひわけ》した。 『解《わか》りました。それだけの意味《いみ》なら解《わか》りました。けれども貴殿《あなた》がそういふことを申《まう》されるのも要之《つまり》、僕《ぼく》が一の小《ちひ》さな小學校《せうがくかう》の出身《しゆつしん》であることを誇《ほこ》るとか、感謝《かんしや》するとか言《い》ふのは、矯激《けうげき》の言《げん》を弄《ろう》して自《みづか》ら欺《あざ》むき又《また》自《みづか》ら快《くわい》とする者《もの》のやうに取《と》つて居《を》らるゝからだらうと思《おも》ひます。しかし、僕《ぼく》は決《けつ》してさういふ輕薄《けいはく》な心《こゝろ》を以《もつ》て言《い》ふのではないのです。若《も》し諸君《しよくん》の中《うち》、僕《ぼく》と同《おな》じく大島小學校《おほしませうがくかう》に居《を》られた方《かた》が有《あつ》たなら、矢張《やはり》僕《ぼく》と同《おな》じやうな情《じやう》を持《もた》れるだらうと信《しん》じます。  大島小學校《おほしませうがくかう》に居《ゐ》たものが、今《いま》東京《とうきやう》に三人《さんにん》居《ゐ》ます。これが僕《ぼく》の同窓《どうさう》です。此三人《このさんにん》が集《あつ》まる會《くわい》が僕等《ぼくら》の同窓會《どうさうくわい》です。其一人《そのひとり》は三田《みた》を卒業《そつげふ》して今《いま》は郵船會社《いうせんぐわいしや》に出《で》て居《ゐ》ます。其一人《そのひとり》は法學士《はふがくし》となつて今《いま》は東京地方裁判所《とうきやうちはうさいばんしよ》の判事《はんじ》をして居《ゐ》ます。けれども彼等二人《かれらふたり》は僕《ぼく》と同《おな》じく大島小學校《おほしませうがくかう》出身《しゆつしん》なることを今《いま》でも僕《ぼく》と同《おな》じやうに誇《ほこ》り且《か》つ感謝《かんしや》して居《ゐ》るのです。そして僕等《ぼくら》は月《つき》に一度《いちど》同窓會《どうさうくわい》を開《ひら》いて一夕《いつせき》を最《もつと》も清《きよ》く、最《もつと》も樂《たの》しく語《かた》り且《か》つ遊《あそ》ぶのです。』  兒玉《こだま》の言々句々《げん/\くゝ》、肺腑《はいふ》より出《い》で、其顏《そのかほ》には熱誠《ねつせい》の色《いろ》動《うご》いて居《ゐ》るのを見《み》て、人々《ひと/″\》は流石《さすが》に耳《みゝ》を傾《かた》むけて謹聽《きんちやう》するやうになつた。  オックスホード出身《しゆつしん》の紳士《しんし》は年長者《ねんちやうじや》だけに分《わけ》ても兒玉《こだま》の言《い》ふ處《ところ》に感《かん》じた體《てい》で。 『それほどに言《い》はれますからには、其大島小學校《そのおほしませうがくかう》とやらいふ學校《がくかう》には何《なに》か特種《とくしゆ》の事《こと》があつて、貴殿《あなた》の心《こゝろ》をそれほどまでに動《うご》かして居《ゐ》るのだらうと思《おも》はれます。それをお話《はな》し下《くだ》さいませんか。ね、諸君《しよくん》、それを聞《き》かして戴《いた》だかうではないか。』 『さうとも、兒玉《こだま》さん僕《ぼく》の言《い》つたことはお氣《き》に觸《さは》らんやうに願《ねが》ひます。何卒《どうぞ》その大島小學校《おほしませうがくかう》のことを話《はな》して貰《もら》ひたいものです』とハーバードは前言《ぜんげん》のお謝罪《わび》にオックスホードに贊成《さんせい》した。 『諸君《しよくん》がお聽下《きゝくだ》さるなら申《まう》します、強《しひ》ては申《まう》しません。餘《あま》り面白《おもし》ろい話《はなし》ではないのですから。眞面目《まじめ》な事實《じゝつ》は流行《りうかう》の小説《せうせつ》とは少《すこ》し趣《おもむき》を異《こと》にしますから』と兒玉《こだま》は微笑《びせう》を洩《も》らして『小説《せうせつ》も面白《おもしろ》う御座《ござ》います。けれ共《ども》事實《じゝつ》は更《さら》に面白《おもしろ》う御座《ござ》います。』 『是非《ぜひ》お話《はなし》を願《ねが》ひたいものです』とハーバードは乘氣《のりき》になつた。 『宜《よろ》しう御座《ござ》います、それではお話《はな》しゝましよう。』  僕《ぼく》の十二の時《とき》です。僕《ぼく》は父母《ふぼ》に從《したが》つて暫《しばら》く他國《たこく》に出《で》て居《ゐ》ましたが、父《ちゝ》が官《くわん》を辭《じ》すると共《とも》に、故郷《くに》に歸《かへ》りまして、僕《ぼく》は大島小學校《おほしませうがくかう》といふに入《はひ》りました。  海岸《かいがん》から三四丁|離《はな》れた山《やま》の麓《ふもと》に立《たつ》て居《ゐ》る此小學校《このせうがくかう》は見《み》た所《ところ》決《けつ》して立派《りつぱ》なものではありません。殊《こと》に僕《ぼく》の入《はひ》つた頃《ころ》は粗末《そまつ》な平屋《ひらや》で、教室《けうしつ》の數《かず》も四《よつ》五《いつゝ》しか無《な》かつたのです。それで他國《たこく》の立派《りつぱ》な堂々《だう/\》たる小學校《せうがくかう》に居《ゐ》て急《きふ》に其樣《そんな》見《み》すぼらしい學校《がくかう》に來《き》た僕《ぼく》は子供心《こどもごころ》にも決《けつ》して愉快《ゆくわい》な心地《こゝち》は爲《し》なかつたのです。  けれども僕《ぼく》の故郷《くに》は二萬石《にまんごく》の大名《だいみやう》の城下《じやうか》で、縣下《けんか》では殆《ほと》んど言《い》ふに足《た》らぬ小《ちひさ》な町《まち》、殊《こと》に海陸《かいりく》共《とも》に交通《かうつう》の便《べん》を最《もつと》も缺《かい》て居《ゐ》ますから、純然《じゆんぜん》たる片田舍《かたゐなか》で、日本全國《にほんぜんこく》津々浦々《つゝうら/\》までも行《ゆき》わたつて居《ゐ》る筈《はず》の文明《ぶんめい》の恩澤《おんたく》も僕《ぼく》の故郷《くに》には其微光《そのびくわう》すら認《みと》め得《え》なかつたのです。學校《がくかう》といふのは此大島小學校《このおほしませうがくかう》ばかり、其以外《そのいぐわい》にはいろはのいの字《じ》も學《まな》ぶ場所《ばしよ》はなかつたので御座《ござ》います。僕《ぼく》も初《はじめ》は不精々々《ふしやう/″\》に通《かよ》つて居《ゐ》ました。  校長《かうちやう》の名《な》は大島伸一《おほしましんいち》、其頃《そのころ》僅《わづか》に二十七八でしたらう。背《せ》は左《さ》まで高《たか》くはないが、骨太《ほねぶと》の肉附《にくづき》の良《い》い、丸顏《まるがほ》の頭《あたま》の大《おほ》きな人《ひと》で眦《まなじり》が長《なが》く切《き》れ、鼻《はな》高《たか》く口《くち》緘《しま》り、柔和《にうわ》の中《なか》に威嚴《ゐげん》のある容貌《かほつき》で、生徒《せいと》は皆《み》な能《よ》く馴《な》れ親《した》しんで居《ゐ》ました。僕《ぼく》が此校長《このかうちやう》の下《もと》に大島小學校《おほしませうがくかう》に居《ゐ》たのは二|年半《ねんはん》で、月日《つきひ》にすれば言《い》ふに足《た》らず、十二|歳《さい》より十五|歳《さい》まで、人《ひと》の年齡《ねんれい》にすれば腕白盛《わんぱくざかり》でありましたけれど、僕《ぼく》が眞《しん》の教育《けういく》を受《う》けたのは此時《このとき》、僕《ぼく》の一生《いつしやう》の羅針盤《らしんばん》を置《おか》れたのは實《じつ》に此時《このとき》です。  僕《ぼく》が大島學校《おほしまがくかう》に上《あが》つてから四五日目で御座《ござ》いました、四十を越《こ》えた位《くらゐ》の一人《ひとり》の男《をとこ》が學校《がくかう》の運動場《うんどうば》に來《き》て、校長《かうちやう》と頻《しき》りに何事《なにごと》か話《はな》して居《ゐ》ましたが、其周圍《そのまはり》に七八名の生徒《せいと》が立《た》つて居《ゐ》て、顏《かほ》を上《あげ》て二人《ふたり》の物語《ものがたり》を聞《きい》て居《ゐ》ました。暫《しばら》くして其男《そのをとこ》は丁寧《ていねい》にお辭儀《じぎ》を爲《し》て、校長《かうちやう》も至極《しごく》丁寧《ていねい》に禮《れい》をして、そして二人《ふたり》は別《わか》れました。  僕《ぼく》は子供心《こどもごころ》にも此樣子《このやうす》を見《み》て不審《ふしん》に思《おも》つたといふは、其男《そのをとこ》の衣服《みなり》から風采《ふうさい》から擧動《きよどう》までが、一見《いつけん》百姓《ひやくしやう》です、純然《じゆんぜん》たる水呑百姓《みづのみひやくしやう》といふ體裁《ていさい》です、けれども校長《かうちやう》の之《かれ》に對《たい》する樣子《やうす》は郡長樣《ぐんちやうさん》に對《たい》する程《ほど》の丁寧《ていねい》なことなので、既《すで》に浮世《うきよ》の虚榮心《きよえいしん》に心《こゝろ》の幾分《いくぶん》を染《そ》められて居《ゐ》た僕《ぼく》の目《め》には全《まつた》く怪《あや》しく映《うつ》つたのです。  けれども家《うち》に歸《かへ》つて別《べつ》に此事《このこと》を父《ちゝ》にも問《と》はず、學校朋輩《がくかうほうばい》にも聞《き》きませんでした。  一月|經《た》たぬ内《うち》に自然《しぜん》と此不審《このふしん》が晴《は》れて來《き》ました。四十男《しゞふをとこ》の水呑百姓《みづのみひやくしやう》と思《おも》つたのは、學校《がくかう》より十町ばかり隔《へ》だつて居《ゐ》る松林《まつばやし》の奧《おく》に一構《ひとかまへ》の宅地《たくち》を擁《よう》し、米倉《べいさう》の三棟《みむね》を並《なら》べて居《ゐ》る百姓《ひやくしやう》、池上權藏《いけがみごんざう》といふ男《をとこ》で、大島小學校《おほしませうがくかう》の創立者《さうりつしや》、恩人《おんじん》、保護者《ほごしや》であつたのです。それならば何故《なぜ》、池上小學校《いけがみせうがくかう》と名稱《なのら》ずして大島小學校《おほしませうがくかう》といふ校長《かうちやう》と同姓《どうせい》の名稱《めいしよう》を付《つ》けたか、諸君《しよくん》も必《かなら》ず不審《ふしん》に思《おも》はれるでしよう。これには又《また》意味《いみ》の深《ふか》い理由《りいう》が有《あ》るのです。  僕《ぼく》が此小學校《このせうがくかう》に入《はひ》る僅《わづ》か四年前《よねんぜん》に此學校《このがくかう》は創立《さうりつ》されたので、其《それ》より更《さら》に十年前《じふねんぜん》のこと、正月元日《しやうぐわつぐわんじつ》の朝《あさ》でした、新年《しんねん》の初光《しよくわう》は今《いま》將《まさ》に青海原《あをうなばら》の果《はて》より其第一線《そのだいゝつせん》を投《な》げ、東雲《しのゝめ》の横雲《よこぐも》は黄金色《こんじき》に染《そま》り、沖《おき》なる島山《しまやま》の頂《いたゞき》は紫嵐《しらん》に包《つゝ》まれ、天地《てんち》見《み》るとして清新《せいしん》の氣《き》に充《み》たされて居《ゐ》る時《とき》、濱《はま》は寂寞《じやくばく》として一《いつ》の人影《じんえい》なく、穩《おだや》かに寄《よ》せては返《か》へす浪《なみ》を弄《ろう》し、又《また》弄《ろう》されて千鳥《ちどり》の群《むれ》は岩《いは》より岩《いは》へと飛《と》びかうて居《ゐ》ましたが、斯《か》かる際《さい》にも絶望《ぜつばう》の底《そこ》に沈《しづ》んだ人《ひと》の心《こゝろ》は益々《ます/\》闇《やみ》を求《もと》めて迷《まよ》ふものと見《み》え、一人《ひとり》の若者《わかもの》ありて、蒼《あを》ざめた顏《かほ》を襟《えり》に埋《うづ》め、一の岩角《いはかど》に蹲居《うづくま》つて頻《しき》りと吐息《といき》を洩《もら》して居《ゐ》ました。彼《かれ》は其覺悟《そのかくご》を決《き》めながらなほ、躊躇《ためら》うて居《ゐ》たのです。  人《ひと》の足音《あしおと》に驚《おど》ろいて後《うしろ》を振返《ふりか》へると一人《ひとり》の老人《らうじん》が近《ちか》づいて來《く》る處《ところ》です。老人《らうじん》が傍《そば》に來《き》て、 『日《ひ》が今《いま》昇《のぼ》るのを見《み》なさい、何《なん》と神々《かう/″\》しい景色《けしき》ではないか』と優《やさ》しく言葉《ことば》をかけるまで、若者《わかもの》は何《なに》を思《おも》ふ暇《ひま》もなく、ただ茫然《ばうぜん》と老人《らうじん》の顏《かほ》を見《み》て居《ゐ》たのです。 『見《み》なさい今《いま》だ、今《いま》が初日出《はつひので》だ』と老人《らうじん》は言《い》ひつゝ海原《うなばら》遠《とほ》く眺《なが》めて居《ゐ》るので、若者《わかもの》も連《つれ》られて沖《おき》を眺《なが》めました、眞紅《しんく》の底《そこ》に黄金色《こんじき》を含《ふく》んだ一團球《いちだんきう》は今《いま》しも半《なかば》天際《てんさい》を躍出《をどりい》でて、暫《しば》したゆたふて居《ゐ》る樣《さま》です。 『神々《かう/″\》しいぢやアないか、人間《にんげん》といふものは何時《いつ》でも此初日出《このはつひので》の光《ひかり》を忘《わす》れさへ爲《し》なければ可《よ》いのぢや』と老人《らうじん》は感《かん》に堪《た》えぬやうに言《い》つて手《て》を合《あは》して靜《しづ》かに禮拜《れいはい》しました。若者《わかもの》も思《おも》はず手《て》を合《あ》はしました。見《み》るが中《うち》に日《ひ》は波間《なみま》を離《はな》れ、大空《おほぞら》も海原《うなばら》も妙《たへ》なる光《ひかり》に滿《み》ち、老人《らうじん》と若者《わかもの》は恍惚《くわうこつ》として此景色《このけしき》に打《うた》れて居《ゐ》ました。 『私《わたし》は六十になるが斯《こん》な立派《りつぱ》な日《ひ》の出《で》を見《み》たことはない。來年《らいねん》はこれよりも美《うつ》くしい初日《はつひ》の出《で》を拜《をが》みたいものだ。あゝ佳《い》い心持《こゝろもち》ぢや』と老人《らうじん》は言《い》つて更《さら》に若者《わかもの》に向《むか》ひ『お前《まへ》さんは何處《どこ》の者《もの》ぢや』と問《と》ひました。 『村《むら》の者《もの》で御座《ござ》います。』と若者《わかもの》は僅《わづか》に答《こた》へました。老人《らうじん》は其柔和《そのにうわ》な顏《かほ》に微笑《びせう》を浮《うか》べて 『毎年《まいねん》初日《はつひ》の出《で》を拜《をが》みに出《で》るのか。』 『さうでは御座《ござ》いません。』 『さうか、それでは今年《ことし》が初《はじ》めてだの昔《むかし》からも一年《いちねん》の謀《はかりごと》は元旦《ぐわんたん》にありといふから、お前《まへ》さんも、今日《けふ》の日《ひ》の出《で》を忘《わすれ》ないで居《ゐ》なさい如何《どう》じや大變《たいへん》顏《かほ》の色《いろ》が惡《わる》いやうじやがそんな元氣《げんき》のない顏色《かほいろ》をして居《ゐ》ては世《よ》の中《なか》を渡《わた》れるものではない、一同《いつしよ》に日《ひ》の出《で》を拜《をが》んだも目出度《めでた》い縁《えん》じや、これから私《わたし》の宅《うち》へ來《く》るが可《よ》い、雜煮《ざふに》でも祝《いは》はう。』  老人《らうじん》は先《さき》に立《たつ》て行《ゆ》くので若者《わかもの》も其儘《そのまゝ》後《あと》に從《つ》き、遂《つひ》に老人《らうじん》の宅《うち》に行《い》つたのです、砂山《すなやま》を越《こ》え、竹藪《たけやぶ》の間《あひだ》の薄暗《うすぐら》き路《みち》を通《とほ》ると士族屋敷《しぞくやしき》に出《で》る、老人《らうじん》は其屋敷《そのやしき》の一《ひとつ》に入《はひ》りました。  老人《らうじん》の名《な》は大島仁藏《おほしまじんざう》、若者《わかもの》の名《な》は池上權藏《いけがみごんざう》であるといふことを言《い》へば、諸君《しよくん》は、既《すで》に大概《たいがい》の想像《さうざう》はつくだらうと思《おも》ひます。  老人《らうじん》は若者《わかもの》の自殺《じさつ》の覺悟《かくご》を最初《さいしよ》から見《み》て取《と》つて居《ゐ》たのですけれども最後《さいご》まで直接《ちよくせつ》にさうとは一言《いちごん》も言《い》ひませんでした。  屠蘇《とそ》を飮《の》ましながら、言葉《ことば》靜《しづ》かに言《い》つて聞《き》かした教訓《けふくん》は決《けつ》して珍《めづ》らしい説《せつ》ではなかつたのです。少《すこ》し理窟《りくつ》を並《なら》べる男《をとこ》なら誰《だれ》でも言《い》ひ得《う》ることなんでした。  朝日《あさひ》が波《なみ》を躍出《をどりいで》るやうな元氣《げんき》を人《ひと》は何時《いつ》も持《もつ》て居《ゐ》なければならぬ。  だから人《ひと》は何時《いつ》も暗《くら》い中《うち》から起《おき》て日《ひ》の出《で》を拜《をが》むやうに心掛《こゝろが》けなければならぬ。  そして日《ひ》の入《いる》まで、手《て》あたり次第《しだい》、何《なん》でも御座《ござ》れ、其日《そのひ》に爲《す》るだけの事《こと》を一心不亂《いつしんふらん》に爲《し》なければならぬ。  日《ひ》は毎日《まいにち》、出《で》る、人《ひと》は毎日《まいにち》働《はたら》け。さうすれば毎晩《まいばん》安《やす》らかに眠《ねむ》られる、さうすれば、其翌日《そのよくじつ》は又《また》新《あたら》しい日《ひ》の出《で》を拜《をが》むことが出來《でき》る。  一日|働《はたら》いて一日|送《おく》れば、それが人《ひと》の一生涯《いつしやうがい》である、日《ひ》の出《で》る時《とき》に人《ひと》は生《うま》れて、眠《ねむ》る時《とき》に人《ひと》は死《し》ぬるのである。  老人《らうじん》の言《い》ひ聞《き》かした言葉《ことば》は先《ま》づ斯《こ》んなものでありました。そして權藏《ごんざう》は奮《ふる》ひ起《た》つて老人《らうじん》の下《もと》を去《さ》つたのです。  池上權藏《いけがみごんざう》は此日《このひ》から生《うま》れ更《かは》りました、元《もと》より強健《きやうけん》な體躯《からだ》を持《もつ》て居《ゐ》て元氣《げんき》も盛《さかん》な男《をとこ》ではありましたが、放蕩《はうたう》に放蕩《はうたう》を重《かさ》ねて親讓《おやゆづり》の田地《でんち》は殆《ほとん》ど消《き》えて無《な》くなり、家《いへ》、屋敷《やしき》まで人手《ひとで》に渡《わた》りかけたので、遂《つひ》に失望《しつばう》落膽《らくたん》し、今更《いまさ》ら世間《せけん》へも面目《めんもく》なく、果《はて》は思《おも》ひ迫《せま》つて大《おほ》いに決心《けつしん》して居《ゐ》たのです。けれども彼《かれ》は此日《このひ》から生《うま》れ更《かは》りました。  一|日《じつ》又《また》一|日《じつ》、彼《かれ》は稼《かせ》ぎに稼《かせ》ぎ、百姓《ひやくしやう》は勿論《もちろん》、炭《すみ》も燒《やけ》ば、材木《ざいもく》も切《き》り出《だ》す、養蠶《やうさん》もやり、地木綿《ぢもめん》も織《お》らし、凡《およ》そ農家《のうか》の力《ちから》で出來《でき》ることなら、何《なん》でも手當次第《てあたりしだい》、そして一生懸命《いつしやうけんめい》にやりました。五年目《ごねんめ》には田地《でんち》も取返《とりかへ》し、畑《はたけ》は以前《いぜん》より殖《ふ》え、山懷《やまふところ》の荒地《あれち》は美事《みごと》な桑園《さうゑん》と變《へん》じ、村内《そんない》でも屈指《ゆびをり》の有富《いうふう》な百姓《ひやくしやう》と成《な》り終《おは》せたのです。しかも彼《かれ》の勞働辛苦《らうどうしんく》は初《はじめ》と少《すこし》も變《かは》らないのです。  大島老人《おほしまらうじん》の病床《びやうしやう》に侍《じ》して、最後《さいご》の教訓《けうくん》を彼《かれ》が求《もとめ》た時《とき》、老人《らうじん》は靜《しづ》かに 『お前《まへ》さんは日《ひ》の出《で》を覺《おぼ》えて居《ゐ》なさるか。』 『毎朝《まいあさ》拜《をが》んで居《を》ります。』 『お前《まへ》さんは日《ひ》の出《で》の盛《さかん》な處《ところ》を見《み》て、元氣《げんき》よく働《はた》らいたのは宜《よろ》しい、これからは、其美《そのうつ》くしい處《ところ》を見《み》て、美《うつ》くしい働《はたらき》をも爲《す》るが可《よ》からう。美《うつく》しい事《こと》を。』  權藏《ごんざう》は暫《しばら》く考《かん》がへて居《ゐ》たが、 『それでは先《ま》づ如何《どん》な事《こと》を爲《な》せば可《よ》ろしう御座《ござ》いましよう。』と問《と》ひました。老人《らうじん》は目《め》を閉《と》ぢたまゝ 『それはお前《まへ》さんが考《かん》がへなければならん、お前《まへ》さんの心《こゝろ》で、これは美《うつ》くしいことだと思《おも》ふこと、日《ひ》の出《で》を見《み》てあゝ美《うつく》しいと思《おも》ふと同《おな》じやうな事《こと》ならば、何《なん》でも宜《よろ》しい。お前《まへ》さんは日《ひ》の出《で》を拜《をが》むだらう。』 『ヘイ拜《をが》みます。』 『それなら拜《をが》まれるほどのことをなさい。』 『及《およ》びもつかん事《こと》で御座《ござ》ります、勿體《もつたい》ないことで御座《ござり》ます。』と權藏《ごんざう》は平伏《へいふく》しました、 『イヤそうでない、お前《まへ》さんは日《ひ》の出《で》の元氣《げんき》を忘《わす》れましたか。』 と言《い》はれて權藏《ごんざう》は、『解《わか》りました、難有《ありがた》う存《ぞん》じます』と言《い》つたぎり、感泣《かんきふ》して暫《しば》らくは頭《あたま》を得上《えあ》げませんでした。  大島仁藏翁《おほしまじんざうをう》の死後《しご》、權藏《ごんざう》は一時《いちじ》、守本尊《まもりほんぞん》を失《うしな》つた體《てい》で、頗《すこぶ》る鬱々《ふさい》で居《ゐ》ましたが、それも少時《しばし》で、忽《たちま》ち元《もと》の元氣《げんき》を恢復《くわいふく》し、のみならず、以前《いぜん》に増《まし》て働《はたら》き出《だ》しました。  鬱々《ふさい》で居《ゐ》たのは考《かん》がへて居《ゐ》たのです。彼《かれ》は老人《らうじん》の最後《さいご》の教訓《けうくん》を暫時《しばらく》も忘《わす》れることが出來《でき》ないので、拜《をが》まれる程《ほど》の美《うつ》くしい事《こと》を爲《す》るには何《なに》を爲《し》たら可《よ》からうと一心《いつしん》に考《かん》がへたのです。神々《かう/″\》しき朝日《あさひ》に向《むか》つて祈念《きねん》を凝《こら》したこともあつたのです。ふと思《おも》ひ當《あた》つた時《とき》には彼《かれ》は思《おも》はず躍《をど》り上《あが》つて喜《よろこ》んださうです。『自分《じぶん》は大島先生《おほしませんせい》を拜《をが》んでも尚《な》ほ足《た》りない程《ほど》に思《おも》ふ、それならば大島先生《おほしませんせい》のやうなことを爲《す》ればよい。』  其處《そこ》で學校《がくかう》を建《たて》る決心《けつしん》が彼《かれ》の心《こゝろ》に湧《わい》たのです、諸君《しよくん》は彼《かれ》の決心《けつしん》の餘《あま》り露骨《むきだし》で、單純《たんじゆん》なことを笑《わら》はれるかも知《し》れませんが、しかし元來《ぐわんらい》教育《けういく》のない一個《いつこ》の百姓《ひやくしやう》です、寧《むし》ろ其心《そのこゝろ》ばせの眞率《しんそつ》で無邪氣《むじやき》な處《ところ》を思《おも》へば實《じつ》に美《うつく》しさを感《かん》ずるのです、僕《ぼく》は。  兔《と》も角《かく》も此決心《このけつしん》が定《さだ》まるや、彼《かれ》は更《さら》に五年《ごねん》の間《あひだ》眞黒《まつくろ》になつて働《はたら》きそして、遂《つひ》に一の小學校《せうがくかう》を創立《さうりつ》して、これを大島仁藏《おほしまじんざう》の一子《いつし》大島伸一《おほしましんいち》に獻《けん》じ、大島小學校《おほしませうがくかう》と命名《めい/\》して老先生《らうせんせい》の紀念《きねん》となし一切《いつさい》のことを若先生《わかせんせい》伸一《しんいち》に任《まか》して了《しま》つたのです。  以上《いじやう》は大島小學校《おほしませうがくかう》の由來《ゆらい》で御座《ござ》います。けれども果《はた》して池上權藏《いけがみごんざう》の志《こゝろざし》は學校《がくかう》を建《た》てたばかりで、成就《じやうじゆ》しましたらうか。  若《も》し大島伸一先生《おほしましんいちせんせい》を得《え》なかつたなら、此小學校《このせうがくかう》も亦《ま》た、世間《せけん》に有《あ》りふれた者《もの》と大差《たいさ》なく終《をは》つたかも知《し》れません。  然《しか》し伸一先生《しんいちせんせい》は老先生《らうせんせい》の麗《うる》はしき性情《せいじやう》を享《う》けて更《さら》にこれを新《あたら》しく磨《みが》き上《あ》げた人物《じんぶつ》として此小學校《このせうがくかう》を監督《かんとく》し我々《われ/\》は第二《だいに》の權藏《ごんざう》となつて教導《けうだう》されたのです。權藏《ごんざう》の志《こゝろざし》は最《もつと》も完全《くわんぜん》に成就《じやうじゆ》されました。  忘《わす》れもしません、僕《ぼく》が病氣《びやうき》で學校《がくかう》を休《やす》んで居《ゐ》ると、先生《せんせい》が訪《たづね》て來《き》て 『貴樣《あなた》は豪《えら》い人《ひと》になるのだから、決《けつ》して病氣位《びやうきぐらゐ》に負《まけ》てはならん病氣《びやうき》を負《ま》かしてやらなければ』と言《い》つて僕《ぼく》を勵《は》げましたことがあります。伸一先生《しんいちせんせい》は決《けつ》して此意味《このいみ》を舊式《きうしき》に言《い》つたのではありません。 『爲《な》す有《あ》る人《ひと》となれ』とは先生《せんせい》の訓言《くんげん》でした。人《ひと》は碌々《ろく/\》として死《し》ぬべきでない、力《ちから》の限《かぎり》を盡《つく》して、英雄《えいゆう》豪傑《がうけつ》の士《し》となるを本懷《ほんくわい》とせよとは其倫理《そのりんり》でした。  人《ひと》は人以上《ひといじやう》の者《もの》になることは出來《でき》ない、然《しか》し人《ひと》は人《ひと》の能力《のうりよく》の全部《ぜんぶ》を盡《つく》すべき義務《ぎむ》を持《もつ》て居《ゐ》る。此義務《このぎむ》を盡《つく》せば則《すなは》ち英雄《えいゆう》である、これが先生《せんせい》の英雄經《えいゆうきやう》です。  そして老先生《らうせんせい》が權藏《ごんざう》に告《つ》げた言葉《ことば》、あれが其註解《そのちゆうかい》です、そして權藏《ごんざう》其人《そのひと》を以《もつ》て先生《せんせい》は實物教育《じつぶつけういく》の標本《へうほん》としたのです。  日《ひ》の出《で》を見《み》ろとは、大島小學校《おほしませうがくかう》の神聖《しんせい》なる警語《けいご》で、其《その》堂々《だう/\》たる冲天《ちゆうてん》の勢《いきほひ》と、其《その》飽《あ》くまで氣高《けだ》かい精神《せいしん》と、これが此警語《このけいご》の意味《いみ》です。  一日《いちじつ》又《また》一|日《にち》と、全力《ぜんりよく》を盡《つく》して[#「盡《つく》して」は底本では「盡《つく》くして」]働《はたら》く、これが其實行《そのじつかう》なのです。  伸一先生《しんいちせんせい》の柔和《にうわ》にして毅然《きぜん》たる人物《じんぶつ》は、これ等《ら》の教訓《けうくん》を兒童《こども》の心《こゝろ》に吹《ふ》き込《こ》むに適《てき》して居《ゐ》たのです。  そして、先生《せんせい》も亦《ま》た、一心不亂《いつしんふらん》に此精神《このせいしん》を以《もつ》て兒童《じどう》を導《みちび》き、何時《いつ》も樂《たのし》げに見《み》え、何時《いつ》も其顏《そのかほ》は希望《きばう》に輝《かゞ》やいて居《ゐ》ました。  小學校生活《せうがくかうせいくわつ》の詳《くは》しい事《こと》は別《べつ》に申《まう》しますまい。去年《きよねん》の夏《なつ》でした、僕《ぼく》は久《ひさし》ぶりで故郷《くに》に歸《かへ》つて見《み》ましたが、伸一先生《しんいちせんせい》は年《とし》を取《と》つたばかり、其精神《そのせいしん》と其生活《そのせいくわつ》は少《すこ》しも變《かは》りません。年《とし》を取《と》つたと言《い》つた處《ところ》で四十二三ですもの、人間《にんげん》の働盛《はたらきざかり》です。精神《せいしん》意氣《いき》に變《かはり》のある筈《はず》もないのです。  たゞ老《おい》て益々《ます/\》其教育事業《そのけういくじげふ》を樂《たのし》み、其《その》單純《たんじゆん》な質素《しつそ》な生活《せいくわつ》を樂《たの》しんで居《を》らるゝのを見《み》ては僕《ぼく》も今更《いまさら》、崇高《すうかう》の念《ねん》に打《うた》れたのです。  昔《むかし》のまゝ練壁《ねりかべ》は處々《ところ/″\》崩《くづ》れ落《お》ちて、瓦《かはら》も完全《くわんぜん》なのは見當《みあたら》ぬ位《くらゐ》それに葛蔓《かづら》が這《は》い上《のぼ》つて居《ゐ》ますから、一見《いつけん》廢寺《ふるでら》の壁《かべ》を見《み》るやうです。  其壁《そのかべ》を越《こ》して、桑樹《くはのき》の老木《らうぼく》が繁《しげ》り、壁《かべ》の折《を》り曲《まが》つた角《かど》には幾百年《いくひやくねん》經《た》つか、鬱《うつ》として日影《ひかげ》を遮《さへぎ》つて居《ゐ》る樫樹《かしのき》が盤居《わだかま》つて居《ゐ》ます。  昔風《むかしふう》の門《もん》を入《はひ》ると桑園《くはゞたけ》の間《あひだ》を野路《のみち》のやうにして玄關《げんくわん》に達《たつ》する。家《いへ》は僅《わづか》に四間《よま》。以前《いぜん》の家《いへ》を壞《こは》して其古材《そのふるざい》で建《たて》たものらしく家《いへ》の形《かたち》を作《なし》て居《ゐ》るだけで、風趣《ふうち》も何《なに》も無《な》いのです。  先生《せんせい》は其一間《そのひとま》を書齋《しよさい》として居《を》られましたが、書籍《しよせき》は學校用《がくかうよう》の外《ほか》、新刊物《しんかんもの》が二三|種《しゆ》床《とこ》の上《うへ》に置《お》いてあるばかりでした。  縁邊《えんがは》には豆《まめ》が古《ふる》ぼけた細籠《ざる》に入《いれ》て干《ほし》てある、其横《そのよこ》に怪《あや》しげな盆栽《ぼんさい》が二|鉢《はち》並《なら》べてありました。 『東京《とうきやう》の仕事《しごと》は如何《どう》です。新聞《しんぶん》は毎々《まい/\》難有《ありがた》う、續々《ぞく/\》面白《おもしろ》い議論《ぎろん》が出《で》ますなア』と先生《せんせい》は僕《ぼく》の顏《かほ》を見《み》るや口《くち》を開《ひら》きました。 『イヤ如何《どう》も愚論《ぐろん》ばかりで恥《はづ》かしう御座《ござ》います、然《しか》しあれでも私《わたくし》の力《ちから》一杯《いつぱい》なのです。』 『それで十分《じふゞん》です、力《ちから》の限《かぎ》り書《か》いて其《それ》で愚論《ぐろん》なら別《べつ》に仕方《しかた》も無《な》いからな。けれども樂《たのしみ》は有《あ》ります。私《わたくし》はこの頃《ごろ》になつて益々《ます/\》感《かん》ずることは、人《ひと》は如何《どん》な場合《ばあひ》に居《ゐ》ても常《つね》に樂《たの》しい心《こゝろ》を持《もつ》て其仕事《そのしごと》をすることが出來《でき》れば、則《すなは》ち其人《そのひと》は眞《まこと》の幸福《かうふく》な人《ひと》といひ得《う》ることだ。不精々々《ふしやう/″\》にやつた仕事《しごと》に立派《りつぱ》な仕事《しごと》はない、そして一生懸命《いつしやうけんめい》に仕事《しごと》する時《とき》ほど樂《たのし》いものはないやうだ。』  先生《せんせい》の此等《これら》の言葉《ことば》は其實《そのじつ》平凡《へいぼん》な説《せつ》ですけれど、僕《ぼく》は先生《せんせい》の生活《せいくわつ》を見《み》て此等《これら》の説《せつ》を聞《き》くと平凡《へいぼん》な言葉《ことば》に清新《せいしん》な力《ちから》の含《ふく》んで居《ゐ》ることを感《かん》じました。  伸一先生《しんいちせんせい》は給料《きふれう》を月《つき》十八|圓《ゑん》しか受取《うけと》りません、それで老母《らうぼ》と妻子《さいし》、一|家《か》六|人《にん》の家族《かぞく》を養《やしな》ふて居《ゐ》るのです。家産《かさん》といふは家屋敷《いへやしき》ばかり、これを池上權藏《いけがみごんざう》の資産《しさん》と比《くら》べて見《み》ると百分一《ひやくぶんのいち》にも當《あた》らないのです。  けれども先生《せんせい》は其家《そのいへ》を圍《かこ》む幾畝《いくせ》かの空地《くうち》を自《みづ》から耕《たがや》して菜園《さいゑん》とし種々《しゆ/″\》の野菜《やさい》を植《う》ゑて居《ゐ》ます。又《また》五六羽《ごろつぱ》の鷄《にはとり》を飼《か》ふて、一|家《か》で用《もち》ゆるだけの卵《たまご》を採《と》つて居《ゐ》ます。  書齋《しよさい》の前《まへ》の小庭《こには》は奇麗《きれい》に掃除《さうぢ》がして有《あ》つて、其處《そこ》へは鷄《とり》も入《い》れないやうにしてあります。  先生《せんせい》の生活《せいくわつ》は決《けつ》して英雄《えいゆう》豪傑《がうけつ》の風《ふう》では有《あり》ません、けれども先生《せんせい》は眞《まこと》の生活《せいくわつ》をして居《ゐる》のです、先生《せんせい》は決《けつ》して村學究《そんがくきう》らしい窮屈《きゆうくつ》な生活《せいくわつ》、ケチ/\した生活《せいくわつ》はして居《ゐ》ません、けれど先生《せんせい》は自分《じぶん》の虚榮心《きよえいしん》の犧牲《ぎせい》になるやうな生活《せいくわつ》は爲《し》て居《ゐ》ません。  僕《ぼく》は先生《せんせい》と對座《たいざ》して四方山《よもやま》の物語《ものがたり》をして居《ゐ》ながら、熟々《つく/″\》思《おも》ひました、世《よ》に美《うる》はしき生活《せいくわつ》があるならば、先生《せんせい》の生活《せいくわつ》の如《ごと》きは實《じつ》にそれであると、先生《せんせい》の言論《げんろん》には英雄《えいゆう》の意氣《いき》の充《みち》て居《ゐ》ながら先生《せんせい》の生活《せいくわつ》は一見《いつけん》平凡《へいぼん》極《きはま》るものでした。  先生《せんせい》を訪《と》ふた、翌日《よくじつ》でした、使者《しゝや》が手紙《てがみ》を持《もつ》て來《き》て今《いま》から生徒《せいと》十|數名《すうめい》を連《つ》れて遠足《ゑんそく》にゆくが君《きみ》も仲間《なかま》に加《くは》はらんかといふ誘引《さそひ》です。僕《ぼく》は直《す》ぐ支度《したく》して先生《せんせい》の宅《うち》に駈《か》けつけました、それが朝《あさ》の六時《ろくじ》、山野《さんや》を歩《ある》き散《ち》らして歸《かへ》つて來《き》たのが夕《ゆふべ》の六時《ろくじ》でした、先生《せんせい》は夏期休業《なつやすみ》と雖《いへど》も常《つね》に生徒《せいと》に近《ちかづ》き、生徒《せいと》の爲《た》めに時間《とき》を送《おく》つて居《ゐ》らるゝのです。  諸君《しよくん》の中《うち》、若《も》し僕《ぼく》の故郷《くに》に旅行《りよかう》せられるやうなことが有《あ》つたならば、是非《ぜひ》一度《いちど》大島小學校《おほしませうがくかう》を訪《と》はれたいものです。海岸《かいがん》に近《ちか》き山《やま》、山《やま》には松柏《しようはく》茂《しげ》り、其頂《そのいたゞき》には古城《こじやう》の石垣《いしがき》を殘《のこ》したる、其麓《そのふもと》の小高《こだか》き處《ところ》に立《た》つて居《ゐ》るのが大島小學校《おほしませうがくかう》であります。それが僕《ぼく》の出身《しゆつしん》の學校《がくかう》なのです、四十|幾歳《いくさい》の屈強《くつきやう》な體躯《からだ》をした校長《かうちやう》大島氏《おほしまし》は、四五|人《にん》の教員《けうゐん》を相手《あひて》に二百|餘人《よにん》の生徒《せいと》の教鞭《けふべん》を採《と》つて居《を》られます。 『日《ひ》の出《で》を見《み》よ』といふ警語《けいご》は今《いま》も昔《むかし》に變《かは》りなく、恰《あたか》も日《ひ》の出《で》の力《ちから》と美《び》とが今《いま》も昔《むかし》も變《かは》りのないやうに、全校《ぜんかう》の題目《だいもく》となり、目標《もくへう》となり、唱歌《しやうか》となり居《ゐ》るのを御覽《ごらん》になりましよう。  語《かた》り終《をは》つて兒玉《こだま》は一呼吸《ひといき》吐《つ》くやオックスホードの紳士《しんし》は 『なるほど能《よ》く解《わか》りました、日《ひ》の出《で》は力《ちから》です、美《び》です、そして實《じつ》に又《また》希望《きばう》です、僕《ぼく》は貴殿《あなた》が大島小學校《おほしませうがくかう》の出身《しゆつしん》であることを感謝《かんしや》し、誇《ほこ》らるゝことを、當然《たうぜん》と思《おも》ひます。僕《ぼく》も一度《いちど》是非《ぜひ》お國《くに》に參《まゐ》つて大島伸一先生《おほしましんいちせんせい》にもお目《め》にかゝりたう御座《ござい》ます。』 『そして、僕《ぼく》は池上權藏《いけがみごんざう》に會《あ》つて見《み》たい』など高等商業《かうとうしやうげふ》の紳士《しんし》は大眞面目《おほまじめ》で言《い》つた。 『權藏《ごんざう》は今《いま》如何《どう》して居《ゐ》ますか』と問《とふ》たのはハーバードである。 『さうでした、權藏《ごんざう》のことを言《い》ふのは忘《わす》れて居《ゐ》ました、益々《ます/\》達者《たつしや》に暮《くら》して居《ゐ》ます。大島小學校《おほしませうがくかう》も今《いま》は村《むら》の經濟《けいざい》で維持《ゐぢ》して居《ゐ》ますが、しかし村《むら》の經濟《けいざい》の首腦《しゆなう》は池上權藏《いけがみごんざう》ですから、學校《がくかう》の保護者《ほごしや》は依然《いぜん》として其《そ》の昔《むかし》覺悟《かくご》まできめた百姓《ひやくしやう》權藏《ごんざう》であります。  權藏《ごんざう》の富《とみ》は今《いま》や一郡第一《いちぐんだいゝち》となり、彼《かれ》の手《て》に依《よ》つて色々《いろ/\》の公共事業《こうきやうじげふ》が行《おこな》はれて居《ゐ》るのです。けれど諸君《しよくん》が若《も》し彼《かれ》に會《あつ》たら恐《おそ》らく意外《いぐわい》に思《おも》はるゝだらうと思《おも》ひます。  權藏《ごんざう》は最早《もう》彼是《かれこれ》六十です。けれども日《ひ》の出《い》づる前《まへ》に起《お》きて日《ひ》の沒《ぼつ》するまで働《はたら》くことは今《いま》も昔《むかし》も變《かは》りません。そして大島老人《おほしまらうじん》が彼《かれ》を救《すく》ふた時《とき》、岩《いは》の上《うえ》に立《た》つて、 『來年《らいねん》はこれよりも美《うつ》くしい初日《はつひ》の出《で》を拜《をが》みたいものだ。』と言《い》つた言葉《ことば》、其言葉《そのことば》を堅《かた》く覺《おぼ》えて居《ゐ》て、其精神《そのせいしん》を能《よ》く味《あぢ》はうて、年《とし》と共《とも》に希望《きばう》を新《あら》たにし、一日《いちにち》又《また》一日《いちにち》と働《はた》らいて老《おい》の至《いた》るのを少《すこ》しも感《かん》じない樣子《やうす》です。 『老《おい》を知《し》らなければ老《お》いず、僕《ぼく》は池上權藏《いけがみごんざう》は死《し》ぬるまで老《おい》ないだらうと思《おも》ひます、死《し》ぬる今《いま》はの際《きは》にも、彼《かれ》は更《さら》に一段《いちだん》の光明《くわうみやう》なる生命《せいめい》を望《のぞ》んで居《ゐ》るだらうと思《おも》ひます。不死不朽《ふしふきう》とはこのことでは御座《ござ》いますまいか。  權藏《ごんざう》は其居間《そのゐま》の床《とこ》に大島老先生《おほしまらうせんせい》の肖像《せうざう》をかゝげ、其横《そのよこ》に日《ひ》の出《で》の圖《づ》が下《さが》つて居《ゐ》ます。これは伸一先生《しんいちせんせい》に求《もと》めて畫《か》いて貰《もら》つたのださうです。そして大島小學校《おほしませうがくかう》の一室《いつしつ》には池上權藏《いけがみごんざう》の肖像《せうざう》がかけてあります。』  それより一週間《いつしうかん》ばかり經《た》つて、兒玉進五《こだましんご》の宅《たく》で彼《かれ》の所謂《いはゆ》る同窓會《どうさうくわい》が開《ひら》かれた。  兒玉《こだま》は此席《このせき》で同好倶樂部《どうかうくらぶ》の一條《いちでう》を話《はな》した、他《た》の二人《ふたり》は唯《た》だ微笑《びせう》したばかり、別《べつ》に何《なん》とも評《ひやう》しなかつた。  會毎《くわいごと》に三人《さんにん》は相談《さうだん》して必《かなら》ず月《つき》に一度《いちど》の贈品《ぞうひん》を大島小學校《おほしませうがくかう》に送《おく》る、それが必《かなら》ずしも立派《りつぱ》な物《もの》ばかりではない、筆墨《ひつぼく》の類《るゐ》、書籍《しよせき》圖畫《づぐわ》の類《るゐ》などで、オルガン一臺《いちだい》を寄送《きそう》したのが一番《いちばん》金目《かねめ》の物《もの》であつた。 『今度《こんど》は何《なに》を送《おく》らう』と兒玉《こだま》は二人《ふたり》に問《と》ふた。 『矢張《やはり》書籍《ほん》が可《よ》からうぢやないか』と判事《はんじ》が答《こた》へた。 『本《ほん》なら僕《ぼく》に考《かんが》へがある。今度《こんど》會社《くわいしや》で世界航海圖《せかいかうかいづ》の新《あたら》しいのが出來《でき》たから、あれを貰《もら》つて送《おく》らう如何《どう》だね、』と郵船會社員《いうせんぐわいしやゐん》が一案《いちあん》を出《だ》した。 『それも至極《しごく》妙《めう》だ。けれども其他《そのほか》何《なに》にしよう。』 『畫《ゑ》は如何《どう》だらう』と判事《はんじ》が一案《いちあん》を出《だ》した。 『畫《ゑ》も可《い》いが最早《もう》有《あ》りふれたものばかりだからなあ。』 『實《じつ》は先日《せんじつ》、倫敦《ろんどん》の友人《いうじん》から『世界《せかい》の名畫《めいぐわ》』と題《だい》して、隨分《ずゐぶん》巧妙《かうめう》に刷《すつ》てあるのを二十|枚《まい》ばかり贈《おく》つて呉《く》れたがね、それは如何《どう》だらうかと思《おも》ふのだ。』 『可《よ》かろう!』と他《た》の二人《ふたり》は贊成《さんせい》した。 『其所《そこ》で例《れい》の唱歌《しやうか》の一件《いつけん》だがね、僕《ぼく》は色々《いろ/\》考《かん》がへたが今更《いまさら》唱歌《しやうか》にも及《およ》ぶまいと思《おも》ふのだ如何《どう》だらう。『日《ひ》の出《で》を見《み》ろ』で澤山《たくさん》じやアないか。それをなまじつか[#「なまじつか」に傍点]今《いま》の歌人《うたよみ》に頼《たの》んで作《つく》らした所《ところ》でありふれた、初日《はつひ》の出《で》の歌《うた》などは感心《かんしん》しないぜ。若《も》し作《つ》くるなら學校《がくかう》から出《で》た者《もの》が作《つく》つたのでなければ、とても『日《ひ》の出《で》を見《み》ろ』の一語《いちご》で我等《われら》が感《かん》ずるやうな物《もの》は出來《でき》ないぞ、如何《どう》だろう?』と兒玉《こだま》の説《と》いたのに二人《ふたり》は異議《いぎ》なく贊成《さんせい》し、兒玉《こだま》は二人《ふたり》の前《まへ》で大島校長宛《おほしまかうちやうあて》にすら/\と次《つぎ》の手紙《てがみ》を書《か》いた。 『御依頼《ごいらい》の唱歌《しやうか》の件《けん》は我等《われら》三人《さんにん》とも同意《どうい》致《いた》し兼《か》ね候《さふらふ》。東京《とうきやう》にも歌人《うたよみ》の大家先生《たいかせんせい》は澤山《たくさん》あれど我等《われら》のやうに先生《せんせい》の薫陶《くんたう》を受《う》け大島小學校《おほしませうがくかう》の門《もん》に學《まな》び候《さふらふ》ものならで、能《よ》く我等《われら》の精神感情《せいしんかんじやう》を日《ひ》の出《で》の唱歌《しやうか》に歌《うた》ひ出《いだ》し得《う》るもの有《あ》るべきや、甚《はなは》だ覺束《おぼつか》なく存候《ぞんじさふらふ》。我等《われら》の學校《がくかう》も何時《いつ》かは眞《まこと》の詩人《しゞん》出《い》づることあらん。その時《とき》までは矢張《やは》り『日《ひ》の出《で》を見《み》ろ』で十分《じふゞん》かと存候《ぞんじさふらふ》。日《ひ》の出《で》の唱歌《しやうか》を歌《うた》ふて朝寐坊《あさねばう》する人物《じんぶつ》が學校《がくかう》から出《で》るやうになりては何《なん》の益《やく》にも立《た》つまじく、其邊《そのへん》御賢慮《ごけんりよ》願上候《ねがひあげさふらふ》。』  三人《さんにん》は連名《れんめい》で此手紙《このてがみ》を出《だ》した、大島先生《おほしませんせい》から直《す》ぐ返事《へんじ》が來《き》て 『御主意《ごしゆい》御尤《ごもつとも》に候《さふらふ》。日《ひ》の出《で》の唱歌《しやうか》は思《おも》ひ止《と》まり候《さふらふ》。淺《あさ》ましい哉《かな》。教室《けうしつ》に慣《な》れ候《さふらふ》に從《した》がつて心《こゝろ》よりも形《かたち》を教《をし》へたく相成《あひな》る傾《かたむ》き有之《これあり》、以後《いご》も御注意《ごちゆうい》願上候《ねがひあげさふらふ》。』 底本:「定本 國木田獨歩全集 第三卷」学習研究社    1964(昭和39)年10月30日初版発行    1978(昭和53)年3月1日増訂版発行    1984(昭和59)年1月20日第10刷発行 底本の親本:「運命」佐久良書房    1906(明治39)年3月18日発行 初出:「教育界 第二卷第三號」金港堂    1903(明治36)年1月1日発行 ※「今更《いまさ》ら」と「今更《いまさら》」の混在は、底本通りです。 入力:葛西重夫 校正:川山隆 2014年12月15日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。