銭形平次捕物控 南蛮秘法箋 野村胡堂 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)田代屋《たしろや》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一応|御尤《ごもっと》も [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#5字下げ] ------------------------------------------------------- [#5字下げ]一[#「一」は中見出し]  小石川水道端に、質屋渡世で二万両の大身代を築き上げた田代屋《たしろや》又左衛門、年は取っているが、昔は二本差だったそうで恐ろしいきかん気。 「やいやいこんな湯へ入られると思うか。風邪を引くじゃないか、馬鹿馬鹿しい」  風呂場《ふろば》から町内中に響き渡るように怒鳴っております。 「ハイ、唯今、すぐ参ります」  女中も庭男もいなかったとみえて、奥から飛出したのは倅《せがれ》の嫁のお冬、外から油障子を開けて、手頃の薪《まき》を二三本投げ込みましたが、頑固な鉄砲風呂で、急にはうまく燃えつかない上、煙突などという器用なものがありませんから、たちまち風呂場一杯に漲《みなぎ》る煙です。 「あッ、これはたまらぬ。エヘンエヘンエヘン、そこを開けて貰おう。エヘンエヘンエヘン、寒いのは我慢するが、年寄りに煙は大禁物だ」 「どうしましょう、ちょっと、お待ち下さい。燃え草を持って参りますから」  若い嫁は、風呂場の障子を一パイに開けたまま、面喰らって物置の方へ飛んで行ってしまいました。  底冷えのする梅二月、宵といっても身を切られるような風が又左衛門の裸身《はだか》を吹きますが、すっかり煙に咽《む》せ入った又左衛門は、流しに踞《うずくま》ったまま、大汗を掻いて咳入《せきい》っております。  その時でした。  どこからともなく飛んで来た一本の吹矢《ふきや》、咳き込むはずみに、少し前屈みになった又左衛門の二の腕へ深々と突っ立ったのです。 「あッ」  心得のない人ではありませんが、全く闇の礫《つぶて》です。思わず悲鳴をあげると、 「どうしたどうした、大旦那の声のようだが」  店からも奥からも、一ぺんに風呂場に雪崩《なだ》れ込みます。  見ると、裸体《はだか》のまま、流しに突《つ》っ起《た》った主人又左衛門の左の腕に、白々と立ったのは、羽ごと六寸もあろうと思う一本の吹矢、引抜くと油で痛めた竹の根は、鋼鉄のごとく光って、美濃紙《みのがみ》を巻いた羽を染めたのは、斑々《はんはん》たる血潮です。 「俺は構わねえ、外を見ろ、誰が一体こんな事をしやがった」  豪気な又左衛門に励まされるともなく、二三人バラバラと外へ飛出すと、庭先に呆然立っているのは、埃《ほこり》除《よ》けの手拭を吹流しに冠って、燃え草の木片《こっぱ》を抱えた嫁のお冬、美しい顔を硬張らせて、宵闇の中にどこともなく見詰めております。 「御新造《ごしんぞ》様、どうなさいました」 「あ、誰かあっちへ逃げて行ったよ。追っかけて御覧」  と言いますが、庭にも、木戸にも、往来にも人影らしいものは見当りません。 「こんな物が落ちています」  丁稚《でっち》の三吉がお冬の足元から拾い上げたのは、四尺あまりの本式の吹矢筒、竹の節を抜いて狂いを止めた上に、磨きをかけたものですが、鉄砲の不自由な時代には、これでも立派な飛び道具で、江戸の初期には武士もたしなんだと言われるくらい、後には子供の玩具《おもちゃ》や町人の遊び道具になりましたが、この時分はまだまだ、吹矢も相当に幅を利かせた頃です。  余事はさておき――、  引抜いたあとは、つまらない瘡薬《きずぐすり》か何かを塗って、そのままにしておきましたが、その晩から大熱を発して、枕も上がらぬ騒ぎ、暁方《あけがた》かけて又左衛門の腕は樽《たる》のように腫《は》れ上がってしまいました。  麹町《こうじまち》から名高い外科を呼んで診《み》て貰うと。 「これは大変だ。しかし破傷風《はしょうふう》にしてもこんなに早く毒が廻るはずはない――吹矢を拝見」  仔細らしく坊主頭を振ります。  昨夜の吹矢を、後で詮索をする積りで、ほんのしばらく風呂場の棚の上へ置いたのを、誰の仕業か知りませんが、瞬くうちになくなってしまったのです。 「誰だ、吹矢を捨てたのは」  と言ったところで、もう後の祭り、故意か過ちか、とにかく、又左衛門に大怪我をさした当人が、後の祟《たた》りを恐れて隠してしまったことだけは確かです。 「それは惜しいことをした。ことによると、その吹矢の根に、毒が塗ってあったかも知れぬて」 「え、そんな事があるでしょうか」  又左衛門の倅《せがれ》又次郎、これは次男に生れて家督を相続した手堅い一方の若者、今では田代屋の用心棒と言っていいほどの男です。 「そうでもなければ、こんなに膨れるわけがない。この毒が胴に廻っては、お気の毒だが命がむつかしい。今のうちに、腕を切り落す外はあるまいと思うが、いかがでしょうな」  こう言われると、又次郎はすっかり蒼《あお》くなりましたが、父の又左衛門は武士の出というだけあって思いの外《ほか》驚きません。 「それは何でもないことだ。右の腕一本あれば不自由はしない、サア」  千貫目の錘《おもり》を掛けられたような腕を差出して、苦痛に歪《ゆが》む頬に、我慢の微笑を浮べます。 [#5字下げ]二[#「二」は中見出し] 「ネ、親分、右の通りだ。田代屋の若旦那が銭形の親分にお願いして、親父の片腕を無くさせた相手を取っちめて下さいって、拝むように言いましたぜ」 「たかが子供の玩具の吹矢なら、洗い立てして、かえって気の毒なことになりはしないか」  銭形の平次は、容易に動く様子もありません。 「吹矢は子供の玩具でも、毒を塗るような手数《てかず》なことをしたのは大人でしょう」 「それは解るもんか」 「その上、吹矢筒の吹口には、女の口紅が付いていたって言いますぜ」 「何だと、八」 「それお出でなすった。この一件を打明けさえすりゃ、親分が乗り出すに決まってると思ったんだ」  ガラッ八はすっかり悦に入って内懐から出した掌《てのひら》で、ポンと額を叩きます。 「八、そりゃ本当か。無駄を言わずに、正味のところだけ話せ」 「正味もおまけ[#「おまけ」に傍点]もねえ。吹矢筒の吹口に、こってり口紅が付いているんだ。その上、吹矢が飛んで来た時、外に居たのは嫁のお冬だけ。疑いは真一文字に恋女房へ掛って行くから、又次郎にしては気が気じゃねえ」 「フム」 「銭形の親分にお願いして、何とかお冬の濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》が干してやりてえ、あの女は、そんな大それたことの出来る女じゃねえ――って言いますぜ」 「誰しも手前《てめえ》の恋女房を悪党とは思いたくなかろう。ところでガラッ八、その吹矢は一体誰のだえ」 「それが可笑《おか》しいんで――」 「何が?」 「親分も知っていなさるだろうが、田代屋の総領というのはあの水道端の又五郎って、親仁《おやじ》にも弟にも似ぬ、恐ろしい道楽者だ」 「そうか、あの水道端の又五郎は、田代屋の倅か」 「それですよ親分、十年も前に勘当されて、しばらく海道筋《かいどうすじ》をごろついていましたが、一年ばかり前、芸妓《げいしゃ》上がりのお半という女房と、取って八つになる、留吉という倅を伴《つ》れて帰って来て、図々しくも、田代屋のツイ隣に世帯を持ったものだ」 「フフ、話は面白そうだな」 「呆れた野郎で、世間では、田代屋の身上《しんしょう》に未練があって、古巣を見張りかたがた戻って来たに違《ちげ》えねえって言いますぜ」 「そんな事もあるだろうな」 「吹矢はその小倅の留吉のだから面白いでしょう」 「何だと、八、なぜ早くそう言わねえ」 「へッ、へッ、話をこう運んで来なくちゃ、親分が動き出さねえ」 「馬鹿野郎、掛引なんかしやがって」  そう言いながらも平次は、短い羽織を引っ掛けて、ガラッ八を追っ立てるように、水道端に向いました。  先はたかが質屋渡世の田代屋ですが、二万両の大身代の上、仔細あって公儀からお声の掛った家柄、まさか着流しで出かけるわけにも行かなかったのです。 [#5字下げ]三[#「三」は中見出し]  向うへ行ってみると、待ってましたと言わぬばかり。 「銭形の親分、よくお出で下さいました」  若主人、又次郎は、足袋跣足《たびはだし》のままで、店口から飛出し、庭木戸を開けて、奥へ案内してくれます。 「親分、これは若旦那の又次郎さんで――」  ガラッ八が取りなし顔に言うと、 「有難うございました。滅多に人を縛らないという銭形の親分がお出で下すったんで、どんなに心強いかわかりません。親仁《おやじ》は昔気質《むかしかたぎ》で、腕一本は惜しくないが、家の中の取締りがつかないから、縄付を出しても仕方がない、吹矢を飛ばした女を突き出せ――とこう申します。吹矢を飛ばした奴と言わずに女と言うのは、家内の冬に当てつけた言葉で、私ども夫婦は途方に暮れてしまいました。出来ることなら親仁の迷いを晴らして、家内を助けてやって下さいまし」  山の手の広い構え、土蔵と店の間を抜けて、母家《おもや》へ廻る道々、又次郎は泣き出さんばかりの様子で、こう囁《ささや》きます。  やがて奥へ通って、大主人の又左衛門に引合されましたが、これは思いの外《ほか》元気で、床の上に起直って平次とガラッ八を迎えました。 「銭形の親分だそうで、よくお出で下さいました」 「とんだ災難でございましたな、どんな様子で?」 「なアに腕の一本くらいに驚く私じゃないが、やり口がいかにも憎い。刀か槍《やり》で向って来るならともかく、風呂場で煙責めにしておいて、毒を塗った吹矢を射るというのは、女の腐ったのがすることじゃありませんか」  暗に嫁のお冬と言わないばかり、無事な右手に握った煙管《キセル》で、自棄《やけ》に灰吹を叩きます。なるほど福島浪人というのは嘘でなかったでしょう。七十近い巌丈《がんじょう》な身体に、新しい忿怒《ふんぬ》が火のごとく燃えて、物馴れた平次も少し扱い兼ねた様子です。 「吹矢筒はそのままにしてあるでしょうな」  と平次。 「大事な証拠ですから、私の側から離しゃしません、この通り」  倅の又次郎が手を出しそうにするのを止めて、自分で膝行《いざ》り寄って、壁際に立てかけてあった吹矢筒を取って、平次に渡します。  平次は受取って、端っこを包んだ手拭をほぐすと、中から現れたのは、なるほどはっきり紅いものの付いた、吹口。 「ね、銭形の親分、口紅でしょう」 「そうでしょうね」  平次は気の乗らない顔をして、一と通り吹矢筒を調べると、 「矢はやはり見えませんか」  解り切ったことを言います。 「それが見えないから不思議で――」 「たしかに毒が塗ってあったでしょうな」 「それは間違いありません。神楽坂《かぐらざか》の本田奎斎《ほんだけいさい》先生、――外科では江戸一番と言われる方だ。その方が診て言うんだから、これは確かで」 「なるほど、ところでそんな恐ろしい毒を手に入れるのは容易じゃありませんね」 「ところが、親類に生薬屋《きぐすりや》があるんですがね」 「えッ」 「嫁の里が麹町《こうじまち》の桜井屋で」 「…………」  平次は黙って、この頑固な老人の顔を見上げました。麹町六丁目の桜井屋というと、山の手では評判の生薬屋で、お冬の里がそこだとすると、これは全く容易ならぬことになります。 「どうでしょう銭形の親分、これでも疑う私が悪いでしょうか。打明けると家の恥だが、隣に住んでいる総領の又五郎、やくざな野郎には相違ありませんが、近頃は幾らか固くもなったようだし、自分から進んで親の側へ来るくらいだから、少しは人心もついたのでしょう。私も取る年なり、いずれ勘当を許して、せめて隠居料に取り除けておいた分だけでも孫の留吉にやりたいと話したのがツイ四五日前の事だ。その舌の乾かぬうちに、私の命を狙った者があるんだから変でしょう――こんな事を言うと、倅の又次郎が厭《いや》な顔をするが、私の身にとってみると、そうでも考えるより外には、道がないじゃありませんか、ね、銭形の――」  又左衛門の心持は、ますます明らかでした。又次郎は席にもいたたまらず、滑るように敷居の外に出ると、誰やらそこで立聴きをしていたものか、又次郎のたしなめる声の下から、クッと忍び泣く声が洩れます。 「一応|御尤《ごもっと》もですが、私にはまだ腑《ふ》に落ちないことがあります。ちょっと、お宅の間取りから、風呂場の様子、雇人の顔も見せて下さいませんか」 「サア、どうぞ――。これ、親分を御案内申しな。自由に見て頂くんだぞ」 「ハイ」  次の間から出て来た又次郎、――若い美しい女房に溺れ切って、家業より外には何の楽しみも望みも持っていないらしい若者、父親の厳《いかめ》しい眼を避けるように、いそいそと先に立ちます。 [#5字下げ]四[#「四」は中見出し] 「これが家内」  又次郎に引合されたのは、ひどく打ち萎《しお》れてはおりますが、なんとなくハチ切れそうな感じのするお冬、丈夫で素直で、美しくて、まず申分のない嫁女振りです。 「それから、これが妹分のお秋」  これはお冬にも優《ま》して美しい容貌《きりょう》ですが、どこか病身らしく、日蔭の花のようにたより[#「たより」に傍点]ない娘です。年の頃は十八九。  これは後で又次郎に聞いた事ですが、妹といっても実は奉公人で、頼るところもない身の上を気の毒に思って、三年越し目をかけてやっている娘だったのです。いかにも育ちは良いらしく、物腰態度に、何となく上品なところさえあって、見ようによっては、町家に育った、嫁のお冬よりも遥かに美しく見えます。  続いて大番頭の長兵衛、手代の信吉、皆造、丁稚小僧までなかなかの人数ですが、平次は面倒臭そうな様子もなく一人一人に世間話やら、商売の事やらを訊ねて、お勝手から風呂場の方へ歩みを移します。  仲働きはお増というきかん気らしい中年者、飯炊きは信州者の名前だけは色男らしい権三郎。合間合間に風呂も焚《た》かせられ、庭も掃《は》かせられ、ボンヤリ突っ起っていると、使い走りもさせられる調法な男です。  一と通り風呂を見廻った平次は、油障子を開けて外へ出ました。 「ね、親分、ここがその又五郎って、兄貴の家ですぜ」  いつの間にやら、ガラッ八が縋《つ》いて来て囁きます。 「風呂場の障子が開けっ放しになっていると、この垣の根からでも流しに立っている人間へ吹矢が届かないことはないでしょう、――吹矢を飛ばした上で、筒を向うへ放り出すと――ちょうどあの辺」 「…………」 「もっとも、ここから五六間あるから、馴れなくちゃ、そんな手際の良いことは出来ねえ。この節は両国あたりの矢場で吹矢を吹かせるから、道楽者には、とんだ吹矢の名人がいますぜ」 「馬鹿ッ、何をつまらねえ事を言うんだ――黙っていろ」 「ヘエ――」  妙にからんだガラッ八の言葉を押えて、平次は垣の外から声を掛けました。 「今日《こんにち》は、又五郎さんは居なさるかい、今日は――」 「何を言やがる――、ここからでも吹矢が届かないことはない――なんて、厭がらせを言やがって一体どいつだ」  飛出したのは、又次郎の兄、田代屋の総領に生れて、やくざ者に身を落した又五郎です。三十をだいぶ過ぎた、ちょっと良い男。藍微塵《あいみじん》の狭い袷《あわせ》の胸をはだけて、かけ守袋《まもり》と白木綿の腹巻を覗かせた恰好で、縁側からポンと飛降ります。 「あれ、お前さん、銭形の親分だよ。滅多なことを言っておくれでない」  後ろから袖を押えるように、続いて庭先に出たのは、三十を少し越したかと思う、美しい年増、襟の掛った袢纏《はんてん》を引っかけて、眉の跡青々と、紅を含んだような唇が、物を言う毎に妙になまめき[#「なまめき」に傍点]ます。 「何をッ、銭形だか、馬方だか知らねえが、厭な事を言われて黙っていられるけえ。憚《はばか》りながら、親子勘当はされているが、この節はすっかり改心して、親の居る方には足も向けて寝ねえように心掛けている又五郎だ。間違ったことを言やがると、土手っ腹を蹴破るぞ」 「兄イ、勘弁してくんな、たいした悪気で言ったわけじゃあるめえ。なア八、手前《てめえ》も謝ってしまいな」  平次は二人の間へ食込むように、垣根越しながら、又五郎を宥《なだ》めます。 「銭形のがそう言や、今度だけは勘弁してやら。二度とそんな事を言やがると、生かしちゃおかねえぞ、態《ぎま》アみやがれ」  又五郎は少し間が悪そうに、ガラッ八の頭から捨台詞《すてぜりふ》を浴びせて家の中へ引込んでしまいました。 [#5字下げ]五[#「五」は中見出し] 「サア、銭形の親分、もう何もかもお解りだろう。家の者だって、外の者だって、遠慮することはない。縛って引立てておくんなさい」  外から帰って来た平次を見ると、又左衛門はいきり立って、皆んなの後から蹤《つ》いて来た嫁のお冬を睨《ね》め廻します。 「旦那、まだそこまでは解りません――が、吹矢を射たのは、御新造でないことだけは確かですよ」 「えッ、ど、どうしてそんな事が判ります」 「吹矢筒の口をもう一度見て下さい。付いているのは口紅に相違ないが、それは唇から付いたんじゃありません。唇から付いたんなら、もう少し薄《うっす》り付きますが、筒の口は紅が笹色になっているほど付いてるでしょう。それは、紅皿から指で筒の口へ捺《なす》ったものに相違ありません」 「えッ」 「見たところ、ほんの少しでも、口紅をさしているのは、この家の中では御新造だけだ。誰か悪い奴がそれを知っていて吹矢筒の口へ紅を塗って、庭へ捨てておいたんでしょう。その時すぐ、そこに居た者の指を見りゃ、一ぺんに判ったんだが惜しいことをしましたよ」 「フム――」  銭形平次の明察は、掌《たなごころ》を指すようで、又左衛門も承服しないわけにはいきません。 「まだありますよ。吹矢は風呂の棚の上からなくなったと言いましたが、私は見当をつけて探すと、一ぺんに見つかってしまいました、これでしょう」  平次は二つ折にした懐紙を出して、又左衛門の前に押し開くと、その中から現れたのは、紛れもない磨いた油竹に美濃紙の羽をつけた吹矢――、もっとも吹矢はすっかり泥に塗《まみ》れて、紙の羽などは見る影もありません。 「あッ、これだこれだ、どこにありました」 「それを言う前に伺っておきますが、御新造は、その晩外へ出なかったでしょうな」 「え、風呂場からお父様をここへお運びして、それからズッとつき切りでございました」  お冬は救いの綱を手繰《たぐ》るように、おどおどしながら言い切ります。 「そうでしょう、――ところでこの吹矢は庭の奥の土蔵の軒に、土の中に踏み込んであったのです」 「えッ」 「それも、女の下駄なんかじゃありません。職人や遊び人の履く麻裏で踏んでありました」 「ホウ」  又左衛門も又次郎も、声を合せて感歎しました。その一座の驚きに誘われるように、 「有難うございます。銭形の親分、私は、もうどうなることかと思いました」  お冬は敷居際に、泣き伏してしまいました。 [#5字下げ]六[#「六」は中見出し]  事件はこんな事では済みませんでした。  紛れるともなく経った、ある日のこと、平次の家へ鉄砲玉のように飛込んで来たガラッ八。 「親分、大変ッ」 「何だ、ガラッ八か。相変わらず騒々しいね」 「落着いていちゃいけねえ、田代屋の人間が鏖殺《みなごろし》にされたんですぜ」 「何だと、八?」  銭形の平次も驚きました。あわて者のガラッ八の言う事でも鏖殺は穏やかじゃありません。 「それッ」  と神田から水道端まで、一足飛びにスッ飛んで行くと、なるほど田代屋は表の大戸を締めて、中は煮えくり返るような騒ぎです。幸いガラッ八が聞き齧《かじ》った、鏖殺の噂にはおまけがありましたが、一家全部何を食ってか恐ろしい中毒で、いずれも虫の息の有様、中でも一番先に腹痛を起した小僧の三吉は、平次が駆けつけた時はもう息の根が絶えておりました。  年は取っても、剛気な又左衛門は、一番気が強く、これも少食のお蔭で助かった嫁のお冬と一緒に、家族やら店の者を介抱しておりますが、日頃から丈夫でない養い娘のお秋は、一番ひどくやられたらしく、藍《あい》のような顔をして悶《もだ》え苦しんでおります。  町名主から五人組の者も駆けつけ、医者も三人まで呼びましたが、何分、病人が多いのと、急のことで手が廻りません。そのうち平次は、 「ガラッ八、今朝食った物へ、みんな封印をしろ。鍋や皿ばかりでなく、水甕《みずがめ》も手桶《ておけ》も一つ残らずやるんだ、解ったか」 「合点」  平次のやり方は機宜《きぎ》を掴《つか》みました。もう半刻《はんとき》(一時間)放っておいたら、親切ごかしの野次馬に荒されて、何が何だかわからなくなってしまったでしょう。  吹矢で腕一本失った時と違って、今度は事件を揉み消すわけに行きません。一家中毒を起して小僧が一人死んだ上、あと幾人かは、生死も解らぬ有様ですから、平次が行き着く前に、町役人から届出て朝のうちに検屍が下る騒ぎです。  町医者立会の上、いろいろ調べてみると、毒は朝の飯にも汁にもあるという始末、突き詰めて行くと、井戸は何ともありませんが、お勝手の水甕《みずがめ》――早支度をするので飯炊きの権三郎が前の晩からくみ込んで置いた水の中には、馬を三十匹も斃《たお》せるほどの恐ろしい毒が仕込んであったのです。 「これは驚いた、これほどの猛毒は、日本はもとより唐天竺《からてんじく》にも聞いたことがない。附子《ぶし》や鴆《ちん》といったところで、これに比べると知れたものだ」  と、奎斎先生舌を巻きます。 「すると、その辺の生薬屋で売っているといったザラの毒ではないでしょうな」  と平次。 「左様、これほどの水甕に入れて、色も匂いも味も変らず、ほんの少しばかり口へ入っただけで命に係わるという毒は私も聴いたこともない。これは多分、――南蛮筋《なんばんすじ》のものでもあろうか――」 「ヘエ――」 「耳掻き一杯ほどの鴆毒でも、何百金を積まなければ手に入るものではない、――イヤ何百金積んでも手に入らないのが普通だ」  奎斎老の述懐は、ますます平次を驚かすばかりです。 「夜前《やぜん》にくみ込んだ水甕へ、それほどの毒を入れたのに、戸締りが少しも変っていないところをみると、これは外《そと》の者の仕事ではない。やはり家の中の者だろう。銭形の親分、今度こそは、遠慮せずに引っくくって下さいよ」  又左衛門は気を取り直して、一本腕の不自由さも、毒の苦しさも忘れてこんな事を言います。当てつけられているのは言うまでもなく嫁のお冬、これはまた不思議に丈夫でほんの少しばかりの血の道を起したといった顔色、舅《しゅうと》にいやな事を言われながらも甲斐甲斐しく病人達を介抱しております。  平次はそれを尻目に、小半刻水甕に齧り付いて、調べておりましたが、 「この柄杓《ひしゃく》は新しいようだが、いつから使ってますか」  お冬を顧みてこう問いかけます。 「昨夜《ゆうべ》、古い方の柄杓がこわれてしまったとか言っておりました。多分一つ買い置きの新しいのがあったのを、権三郎がおろしたのでございましょう」 「これだッ」 「何ですえ、親分」  とガラッ八。 「仕掛はこの柄杓だ。ちょいと気がつかないが、よく見ると底が二重になって、その間に薬が仕込んであったんだよ」  平次は火箸《ひばし》を持って来て、外側から真新しい柄杓の底をコジ開けると、果してもう一つ底があって、その中に、晒木綿《さらしもめん》で作った、四角な袋が忍ばせてあったのです。 「あッ」  驚き騒ぐ人々の中へ、平次は盆の上に載せた柄杓を持って来ました。 「この通り、種はやはり外から仕込んだものに違いありません。家の者ならこんな手数なことをせずに、いきなり水甕へ毒をブチ込むところでしょうが、曲者《くせもの》は外にいるから、こんな手数なことをして、そっと柄杓を換えて置いたんでしょう――これは一体誰が買って来ましたえ」 「死んだ三吉でございました」  お冬はそう言って、ホッと胸を撫でおろしました。自分の上に降りかかった、二度目の恐ろしい疑いが、また平次の明察で朝霧のように吹き払われてしまったのです。 [#5字下げ]七[#「七」は中見出し] 「それにしても又五郎はどうしたんだ」  思い出したように又左衛門はそう言いました。火事息子という言葉もあるくらいで何か騒ぎのあるとき駆けつけるのが、勘当された息子の詫《わび》を入れる定石《じょうせき》になっている時代のことです。ツイ垣隣に住んでいて、これほどの騒ぎを知らないというのも余程どうかしております。 「なるほど、そう言えば変ですね」  と平次。 「だから、あっし[#「あっし」に傍点]は言ったんで、どうもあの垣の外が臭いって――」  とガラッ八。 「黙らないか、八、そんな下らない事を言っている暇に、ちょいと覗いて来るがいい」  平次にたしなめられて、尻軽く外へ飛んで出たガラッ八、間もなくつままれたような顔をして帰って来ました。 「可怪《おか》しな事があるものだ、もう昼だっていうのに、まだ雨戸も開いてねえ」 「何、まだ雨戸が開かねえ」 「親分、恐ろしい寝坊な家もあったもんですね」 「そいつは可怪しい。来い、ガラッ八」  平次は弾き上げられたように起ち上がりました。改めてそう言われると、又左衛門もガラッ八も、お冬も背筋をサッと冷たいものが走ったような心持になります。  庭を突っ切って、垣を飛び越えると、平次はいきなり雨戸を引っ叩《ぱた》きました。 「今日は、今日は、隣から来ましたがね、――田代屋の旦那が、御用があるそうですよ」  続けざまに鳴らしましたが、中は静まり返って物の気配もありません。赤々と雨戸に落ちる陽ざしはもう昼近いでしょう。どんな寝坊でも、雨戸を閉めておかれる時刻ではありません。平次はガラッ八に手伝わせて、とうとう雨戸を一枚外してしまいました。  一足中へ踏み込むと、碧血《ち》の海。 「あッ」  又五郎とその女房のお半は、どんなにもがき苦しんだことか、血嘔吐《ちへど》の中に、襤褸切《ぼろぎ》れのように醜く歪《ゆが》められ、つくねられ、捻《ひね》りつけられて死んでいたのです。雨戸を開けた間から、春の光がサッと入って、この陰惨な情景を、何の蔽《おお》うところもなくマザマザと描き出しました。 「子供は? 留ちゃんは?」  蹤《つ》いて来たお冬は、あまりの怖ろしさに顔を反《そむ》けながらも、女の本能に還って、顔見知りの子供の名を呼んでおります。 「ここだここだ」  ガラッ八は、部屋の隅から、菜っ葉のようになっている留吉を抱いて来ました。食べた物が少なかったのか、こればかりはまだ寿命を燃やし切らず、身体も動かず声も立てませんが、頼りない眼を開いてまぶしそうに四方《あたり》を見廻します。 「留ちゃん、留ちゃん、大丈夫かい、しっかりしておくれよ」  この人の好い叔母に抱かれて、それでも留吉は僅《わず》かに、こっくりこっくりやっております。まだ、驚くほどの気力も、泣くほどの気力も恢復しないのでしょう。 「大丈夫だよ留ちゃん、もう大丈夫だよ、叔母ちゃんがついているから、お泣きでないよ」  お冬はそう言いながら、留吉を抱いて、母家《おもや》の方へ帰って行きます。  その後ろ姿をツクヅク見送った平次。何を考えたか、自分も母家へ取って返して、薄暗い中に蠢《うごめ》く人々を一応見廻すと町の人達に後の事を頼んで、追い立てられるようにサッと戸外《そと》へ飛出します。 「親分、どこへ」  後ろからガラッ八、これは下駄と草履を片跛《かたちんば》に履いて追っかけます。 「八、お前はしばらくここにいるがいい」 「ヘエ――」 「俺は少し行って来るところがある」 「あれは一体、どうした事でしょう親分、あっしには少しも解らねえ」 「正直に言うと俺にも解らないよ」 「ヘエ――」 「八、恐ろしい事だ。いや、もっともっと恐ろしい事が起りそうで、どうもジッとしちゃいられねえような気がするんだ」 「親分、大丈夫ですかえ」 「…………」 「親分」 [#5字下げ]八[#「八」は中見出し]  半刻ばかりの後、八丁堀組屋敷で、与力《よりき》笹野新三郎の前に銭形の平次ともあろう者が、すっかり悄気返《しょげかえ》って坐っておりました。 「旦那様、これは一体どうした事でございましょう。一と通りの家督争いとか、金が仇《かたき》の騒動なら、大概底が見えるはずですが、この田代屋の一件ばかりは、まるで私には見当もつきません。旦那様のお智恵を拝借して何とか目鼻だけでもつけとうございます」 「フム、だいぶ変った事件らしいが、平次、お前は本気で見当がつかないというのか」  笹野新三郎は妙に開き直ります。 「ヘエ――そうおっしゃられると、満更《まんざら》考えたことがないではございませんが――、あまり事件が大きくて、私は怖ろしいような気がします」 「それみろ、銭形の平次にこれほどの事が解らぬはずはない。ともかく、思いついただけを言ってみるがよい。お前で解らぬことがあれば、私《わし》の考えたことも話してやろう」 「有難うございます。旦那様、それでは、平次の胸にあることを、何もかも申上げてしまいましょう」 「…………」 「あの、田代屋又左衛門というのは、確か、慶安《けいあん》四年(一六五一)の騒ぎに、丸橋忠弥《まるばしちゅうや》一味の謀叛《むほん》を訴人して、現米三百俵、銀五十枚の御褒美をお上《かみ》から頂いた親爺《おやじ》でございましたな」 「その通りだ。それほど知っているお前が、何を迷うことがあるのだ」 「ヘエ――、するとやはり、田代屋一家内の紛紜《もめごと》ではなくて、由井正雪《ゆいしょうせつ》、丸橋忠弥の残党が、田代屋に昔の怨《うら》みを酬《かえ》すためと考えたものでございましょうか」 「まずそう考えるのが筋道だろうな」 「田代屋が一とまず片付けば、次は同じく忠弥を訴人した本郷弓町《ほんごうゆみちょう》の弓師藤四郎、続いては返り忠して御褒めに与《あずか》った奥村|八郎右衛門《はちろうえもん》を始め、御老中方お屋敷へも仇《あだ》をするものと見なければなりません」 「その通りだよ平次」 「また浪人どもを狩り集めて、謀叛を企てる者がないとも申されません――」 「いや、そこまではどうだろう」 「それにしても不思議なのは、あの毒薬でございます。医者の申すには、町の生薬屋などに、ザラに売っている品ではない、たぶん南蛮筋の秘法の毒薬でもあろうかと――」 「平次、お前はあの事を知らなかったのか」 「とおっしゃいますと」 「田代屋一家の騒ぎは大した事ではないが、私にはその毒薬の出所《でどころ》の方が心配だ」 「…………」 「平次、これはお上の秘密で、誰にも明かされないことになっているが、心得のために話してやろう。漏らしてはならぬぞ、万々一、人の耳に入ったら最後、江戸中の騒ぎにならずには済むまい」 「ヘエ――」  笹野新三郎は自分も膝行《いざ》り寄って、平次を小手招《こてまね》ぎました。 「丸橋忠弥召捕の時、麻布二本榎《あざぶにほんえのき》の寺前の貸家に、三百三十樽の毒薬が隠してあった。これは由井正雪が島原で調合を教わったという南蛮秘法の大毒薬で、一と樽が何万人の命を取るという恐ろしいものであった」 「…………」 「玉川に流し込んで、江戸の武家町人を鏖殺《みなごろし》にしないまでも江戸中の大騒ぎを起させる目論見《もくろみ》のところ、丸橋忠弥の召捕から一味ことごとく処刑《おしおき》になって、毒薬はお上の手に召上げられ、越中島《えっちゅうじま》に持って行って焼き払われた――これだけの事はお前も聞き知っているであろうな」 「ヘエ――、存じております」 「ところが、二本榎の貸家で見つかった毒薬というのは、その実二百三十樽だけで、あと百樽の行方がどうしても判らぬ」 「エッ」 「一味の者は誰も知らず、係りの平見|某《なにがし》は口を緘《つぐ》んで殺され、その首領の柴田三郎兵衛は、鈴《すず》ヶ|森《もり》で腹を切ってしまった。御老中方を始め、南北の御奉行、下《くだ》って我々までも、ことの外《ほか》心配したが、百樽の毒の行方はなんとしても判らず、忘るるともなくそれから何年か経ってしまった」 「…………」 「もしその百樽の毒薬が由井、丸橋の残党の手に入り、諸方の井戸や上水に投げ込まれるようなことがあっては、江戸中の難儀はもとより、ひいては天下の騒ぎだ。田代屋一家|鏖殺《みなごろし》に使った毒は、町の生薬屋で売るような品でないとすれば、あるいはその百樽の毒薬から取出したものかも知れぬ」 「…………」 「平次、これは大変な事だ、一刻も早く曲者の在処《ありか》を突き留めて百樽の毒薬を取り上げなければならぬ。手不足ならば、何十人、何百人でも手伝わせてやる、どうだ」  笹野新三郎の思い入った顔を、平次は眩《まぶ》しそうに見上げながら、それでも声だけは、凜《りん》としておりました。 「旦那様、しばらくこの平次にお任せを願います」 「何?」 「せめて今日一日、この平次の必死の働きを御覧下さいまし。その代り、弓師藤四郎、奥村八郎右衛門はじめ、御老中方お屋敷に人数を配り万一の場合に備えて頂きとうございます、その手段は――」  平次は新三郎の耳に口を持って行きました。 [#5字下げ]九[#「九」は中見出し]  平次はその足ですぐ田代屋へ取って返しました。奥へ通されて、主人の又左衛門と相対したのはもう夕暮れ。小僧の三吉と、隣に住んでいた又五郎夫婦の死体の始末をして、家の中は上を下への混雑ですが、幸い他の人達は全部元気を取り返して、青い顔をしながらも忙しそうに立ち働いております。 「実はイヤな事をお聞かせしなければなりませんが――いよいよ、毒を盛った人間の目星がつきましたよ」 「ヘエ、どこのどいつでございます」  腕の痛みにも、毒薬の苦しさにもめげず、相手が判ったと聞くと又左衛門は膝を乗り出します。 「それが厄介で、いよいよこの家から、縄付を出さなきゃアなりません」 「やはりあの女で――」 「いや考え違いなすっちゃいけません、御新造は何にも知りはしません」 「ヘエ――」 「風呂場から吹矢を盗んで、外へ捨てて相棒に土の中へ踏み込ませたり、柄杓《ひしゃく》の底へ仕掛けをして、外から毒を持ち込んだように見せたり、恐ろしい手の込んだ細工をして、私の眼を誤魔化《ごまか》そうとしましたが、曲者の片割れは、やはりこの家の中にいるに相違ありません」 「誰です、その野郎は、早く縛って下さい」 「いや、そう手軽には行きません。田代屋一家を鏖殺《みなごろし》にしようという曲者ですから、一筋縄では行きません、もう一刻経てばこの家にいる曲者と、外にいる仲間と、一ぺんに縛る手筈《てはず》が出来ております」 「田代屋一家を怨む者というともしや――?」 「気がつきましたか旦那、あれですよ、丸橋忠弥の一味――」 「エッ、家の中の誰がその謀叛人の片割れです、太い奴だ」 「シッ、静かに、人に聴かれちゃ大変――つかぬ事を訊きますが、あの奉公人とも養い娘ともつかぬお秋――、あの女の身許がよく判っていましょうか」 「いや――そんな事はありゃしません。あの娘に限って」 「あの娘の毒に中《あ》てられた苦しみようが、一番ひどかったが、他の人とはどこか調子が違っていはしませんでしたか」 「そう言えば――」  二人の声は次第に小さくなります。  四方《あたり》を籠《こ》めて、次第に濃くなる闇の色、その中に何やら蠢《うごめ》くのは、隣室から二人の話を立ち聴く人の影でしょう。 「太い女だ、三年この方目をかけてやった恩も忘れて」  と又左衛門、腹立ち紛れにツイ声が高くなります。 「今騒いじゃ何にもなりません。あの女は雑魚《ざこ》だが、外に居るのが大物です――。それもあと一刻の命でしょう――、今頃は捕方同心の手の者が百人ばかり、もう八丁堀から繰り出した頃――もう袋の中の鼠《ねずみ》も同様」  平次の声は、潜《ひそ》めながら妙に力が籠《こも》って、部屋の外まで、かすかながら聴き取れます。 [#5字下げ]一〇[#「一〇」は中見出し]  間もなく田代屋を抜け出した一人の女――小風呂敷を胸に抱いて後前《あとさき》を見廻しながら水道端の宵闇《よいやみ》を関口《せきぐち》の方へ急ぎます。  大日坂《だいにちざか》の下まで来ると、足を停《とど》めて、一応|四方《あたり》を見廻しましたが、砂利屋が建て捨てた物置小屋の後ろへ廻ると、節穴だらけな羽目板へ拳《こぶし》を当てて、二つ三つ妙な調子に叩きました。 「誰だ?」  中からは錆《さび》のある男の声。 「兄さん、私」 「お秋か、今頃何しに来た」 「大変よ、手が廻ったらしい」 「シッ」  中からコトリと桟を外すと、羽目板と見えたのは潜《くぐ》りの扉で、闇の中へ大きい口がポカリと開きます。 「どうしたんだ、話してみろ」  伏せていた龕灯《がんどう》を起すと、円《まる》い灯の中に、兄妹二人の顔が赤々と浮出します。蒼白い妹のお秋の顔に比べて、赤黒い兄の顔は、何という不思議な対照でしょう。  藍微塵《あいみじん》の意気な袷を着ておりますが、身体も顔も泥だらけ、左の手に龕灯を提げ、右の手には一挺の斧《おの》を持っているのは一体何をしようというのでしょう。年の頃は三十二三、何となく一脈の物凄まじさのある男前。 「兄さん、あと一刻経たないうちに、ここへ役人が乗込んで来ます。捕方同心の一隊百人ばかり、八丁堀を出たという話――」  お秋の息ははずみ切っております。 「誰がそんな事を言った」 「銭形の平次」 「どこで」 「田代屋の奥で、旦那と話しているのを聴いて、夢中になって飛出して来ました」 「馬鹿ッ」 「…………」 「平次がそんな間抜けな事を、人に聴かれるように言うはずはない、お前があわてて飛出す後を跟《つ》けて、俺の巣を突きとめる計略だったんだ。何という間抜けだ」 「エッ」  思わず振り向くお秋の後ろへ、ニヤリと笑って突っ立っているのは、果して銭形の平次の顔です。 「あッ」  驚くお秋を突き退けて、 「御用だぞ、神妙にせい」  一歩平次が進むと、早くも五六歩飛退いた曲者、龕灯《がんどう》を高々と振り上げて平次を睨み据えました。 「平次、寄るな、この龕灯の先を見ろ。向うにある真っ黒なのは焔硝樽《えんしょうだる》だ。あの中に投り込めば、俺もお前も、この物置も、木端微塵《こっぱみじん》に吹き飛ばされた上、百樽の毒薬は、神田上水の大樋《おおどい》の中に流れ込むぞ――」 「…………」  寸毫の隙もない相手の気組みと、その物凄い顔色、わけても思いもよらぬ言葉に、さすがの平次も驚きました。 「寄るな平次、退《の》かないか。丸橋先生、柴田先生が三百三十樽の毒薬のうち、百樽をここに隠して、神田川上水に流し込む計略だったんだ。年月経って、誰も気がつかずにそのままになっているのを知って上水の大樋まで穴を掘り、毒薬の樽を投り込むばかりになっているんだぞ、サア、どうだ」  平次もさすがに驚きましたが、相手の気組みを見ると、全くそれくらいのことはやり兼ねないのは判り切っております。 「待て待て、そんな無法な事をして、江戸中の人間に難儀をかけるのは本意ではあるまい。天運とあきらめて、神妙にお縄を頂戴せい」 「何を馬鹿な、俺は死んでも仇は討てるぞ、見ろッ」  右手に閃《ひらめ》く龕灯、そのまま、後ろの焔硝樽へ投げ込もうとするのを平次は得意の投げ銭、掌《て》を宙に翻《かえ》すと、青銭が一枚飛んで、曲者の拳をハタと打ちます。 「あッ」  龕灯を取り落すと同時に飛込んだ平次、しばらく闇の中に揉み合いましたが、どうやら組伏せて、早縄を打ちます。  物置の外へ出ると、ガラッ八、これはお秋を縛って、漸《ようや》く縄を打ったところ。 「親分、お目出とう」 「お、八か、骨を折らせたなア」      *  捕まえた曲者は、慶安《けいあん》の変に毒薬係を勤めた平見某の弟|同苗兵三郎《どうみょうひょうざぶろう》とその妹お秋、由井正雪、丸橋忠弥その他一党の遺志を継いで老中松平|伊豆守《いずのかみ》、阿部豊後守《あべぶんごのかみ》をはじめ、一味の者に辛《つら》かりし人達へ怨みを酬《むく》い、太平の夢を貪る江戸の町人達にも、一と泡吹かせようという大変なことを目論《もくろ》んだのでした。  調べたら面白いこともあったでしょうが、人心の動揺を惧《おそ》れて、兄妹二人は人知れず処刑されてしまいました。この時代には、よくそんな事が行われたものです。  平次は老中阿部豊後守のお目通りを許され、身に余る言葉を頂きましたが、相変らず蔭の仕事で、表沙汰の手柄にも功名にもなりません。それもしかし気にするような平次ではありません、時々思い出したように、 「あのお秋って娘は可哀想だったよ。田代屋の又次郎に惚《ほ》れていて、嫁のお冬が憎くて憎くてたまらないところへ、兄貴の兵三郎につけ込まれたんだ。恋に目の眩《くら》んだ女は、どんな大胆なことでもして退《の》けるよ」  こんな事をガラッ八に言って聴かせました。 底本:「銭形平次捕物控(三)酒屋火事」嶋中文庫、嶋中書店    2004(平成16)年7月20日第1刷発行 底本の親本:「銭形平次捕物百話 第三巻」中央公論社    1939(昭和14)年1月22日発行 初出:「オール讀物」文藝春秋社    1932(昭和7)年2月号 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:noriko saito 2018年2月25日作成 2019年11月23日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。