銭形平次捕物控 巾着切りの娘 野村胡堂 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)両国橋《りょうごくばし》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)養子|徳之助《とくのすけ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#5字下げ] ------------------------------------------------------- [#5字下げ]一[#「一」は中見出し] 「あッ危ねえ」  銭形の平次は辛くも間に合いました。夜桜見物の帰りも絶えた、両国橋《りょうごくばし》の中ほど、若い二人の袂《たもと》を取って引戻したのは、本当に精一杯の仕事だったのです。 「どうぞお見逃しを願います」 「どっこい待ちな、――そんな身投げの極《きま》り文句なんか、素直に聞いちゃいられねえ」 「死ななきゃならないわけがございます。どうぞ、親分」  争う二人、平次は叩きのめすように、橋の欄干《らんかん》に押付けました。 「頼むから静かにしてくれ。俺は横山町から駆け付けたんだ。息が切れてかなわねえ、――意見をするのが面倒臭くなると、二人を縛って欄干に晒《さら》し物にする気になるかも知れないぜ」 「親分さん」 「解ったよ。三百八十両の大金を巾着切《きんちゃくき》りにやられて、主人への申し訳、言い交した女と一緒に、ドブンとやらかそうという筋だろう」 「えッ」 「お前は、増屋《ますや》の養子|徳之助《とくのすけ》、――こっちはお富《とみ》というんだってね」 「そういう親分さんは?」 「神田の平次だ」 「あッ、銭形の――」  徳之助とお富は、死ぬはずの身を忘れて、町の家並《やなみ》に傾く桜月の薄明りの中に、江戸第一番の御用聞と言われた平次の顔を見直しました。 「横山町の店からの使いで飛んで行ってみると、――一度店へ帰ったお前が、お富と牒《しめ》し合せて飛出したという騒ぎの真っ最中だ。いずれは心中ものだろうと思ったが、永代《えいたい》へ行ったか両国へ行ったか、それとも向島《むこうじま》へ遠っ走りをしたか見当がつかねえ、――ともかく、近間《ちかま》の両国へ駆け付けて、幸い間に合ったからいいようなものの、これが永代へでも伸《の》された日にゃ、今頃は三途《さんず》の川で夜桜を眺めているぜ、危ねえ話だ」  そういう平次の言葉を聞いて、 「…………」  二人はゾッと襟《えり》をかき合せました。助けられた今になってみると、三途の川の夜桜が、あまり気味のいいものではなかったのです。 「さア行こうぜ、――店じゃ皆さんも大心配だ。わけても増屋の旦那は、三百八十両のことも忘れて徳之助にもしもの事がなけりゃいいが――と居たり起《た》ったり、神棚に灯明《とうみょう》をあげたり、見るも気の毒なほどの気の揉《も》みようだ」 「申し訳もございません、――でも、私はこのまま店へ帰っては済まないことがございます」 「はてネ」  月明りのわずかに残る欄干に凭《もた》れたまま、徳之助は苦悶《くもん》に打ちひしがれて、濡《ぬ》れでもしたように、しょんぼりと語り続けました。  十三の年、親を喪《うしな》った徳之助は、遠縁の増屋に引取られて養子分で、二十一まで働きましたが、増屋の主人|三右衛門《さんえもん》の慈愛が深まるにつれて、朋輩《ほうばい》の嫉妬《やきもち》が激しく、三百八十両の大金を失っても、主人の三右衛門《さんえもん》は許してくれるでしょうが、番頭手代は、決して腹の中では、許してくれないだろうと――こう言うのです。  その上、今日まで内緒にしていた、お富との仲が、この心中騒ぎで一ぺんに知れたら、他の奉公人の手前、主人の三右衛門も、素直に許してはくれないかも解らず、いずれにしても、二人揃って増屋の敷居を跨《また》ぐのは、どうも遠慮しなければならないように思われる、と言うのでした。 「それは一応|尤《もっと》もだが、金は働いて返す折もあるだろうし、二人の仲は、いずれは知れずに済まねえだろう。店へ帰って、大恩ある主人に安心させるのが、何よりの孝行というものではないか」  平次は口を酸《す》っぱくして説き勧めますが、若くて一徹な二人は、心中の仕損ないの顔を、ノメノメと元の店へは持って行く気になりそうもありません。 「それでは、私の父《とっ》さんは、すぐそこの浜町《はまちょう》に居ります。行って相談してみましょうか」  お富はこう言うのです。漸《ようや》く十九になったばかり、増屋の奉公人には相違ありませんが、女隠居の相手をしている可愛らしくも清らかな娘で、徳之助と並べると、歌舞伎芝居の道行《みちゆき》を見るような、一種の情緒を醸《かも》し出さずにはいません。  死出の晴着のつもりでしょう。薄化粧に、一張羅《いっちょうら》らしい銘仙《めいせん》を着て、赤い帯も、黒い髪も、水へも火へも飛込みそうな、純情|無垢《むく》の象徴《シンボル》に見えて、平次の目には危なっかしくてならないのでした。 「それはいいが、店では心配しているだろう」  平次はまだ、増屋の大騒ぎが目に見えるような気がするのです。 「親分――、横山町へは、あっし[#「あっし」に傍点]が一と走り行って来ますよ。二人を浜町へ連れて行っちゃどうでしょう」  月の隈《くま》の中から、長い長い影法師を曳《ひ》いて現れたのは、銭形平次の子分、ガラッ八の八五郎の忠実な姿でした。 [#5字下げ]二[#「二」は中見出し] 「父《とっ》さん」 「…………」 「開けて下さいな、父さん」 「誰だい」 「私よ、父さん」  お富はそっと入口の戸の隙間《すきま》に顔を当てました。 「どこの狐《きつね》が化けて来やがったんだ、畜生」  たまり兼ねて起出した様子、――火打鉄《ひうちがね》の音や、荒々しい足音にも、憤々《ふんぷん》たる怒りはよく判ります。プーンと匂う、硫黄《いおう》付け木の匂い。 「そんな事を言わないで、父さん」  お富はやるせない様子でした。幾度も幾度も――徳之助がそのまま逃げ出しでもするのを惧《おそ》れるように、――振返って後ろを見るのです。 「お店《たな》から先刻《さっき》番頭さんが来て、手前《てめえ》の不心得はみんな聞いてしまったぞ、馬鹿野郎。死ぬなら勝手に死ぬがいい、親にまで恥を掻かしやがって」  そう言いながらも、内からガラリと戸を開けました。灯《あかり》を背負《しょ》った五十年配の屈強な親仁《おやじ》、左官の彦兵衛《ひこべえ》といえば、仕事のうまいよりは、頑固一徹なので界隈《かいわい》に知られた顔です。 「父さん、そういわずに、相談に乗って上げて下さい、――私達は本当に死ぬつもりだったのを親分さんに助けられて――こうしてお父さんのところへ帰って来たんです」  お富はそう言って、後ろに立った徳之助と、それから、銭形の平次を見やりました。 「…………」  娘の沈んだ声も、打萎《うちしお》れた様子も、彦兵衛の怒りを宥《なだ》める由《よし》はなかったでしょう。 「父さん」 「主人の養子をそそのかして、三百八十両の大金を持出させるような、そんな娘を俺は持った覚えはねえ」 「父さん、それは、違いますよ。三百八十両は巾着切りに取られ――」 「黙らないか。本所で巳刻《よつ》(午前十時)前に受取った金を、わざわざ花時の向島へ持込んで、巾着切りに取られる奴があるものか、――その上お店《たな》へ帰ったのは、薄暗くなってからだって言うじゃないか」 「父さん」 「さア帰ってくれ。俺まで泥棒の仲間にされちゃ、売り込んだ顔に関わる、――縄を付けて突き出さないのが、せめても親の慈悲だ」  彦兵衛は言うだけのことを言うと、娘と徳之助を暁闇《ぎょうあん》の中に残したまま、没義道《もぎどう》に戸をピシリと――  が、その戸は半分閉めかけたまま、銭形平次に押えられました。 「何をしやがるんだ」  彦兵衛は少し中っ腹でした。 「彦兵衛、俺を忘れはしまいな」 「…………」 「平次だ、――久し振りだったな」 「あッ、銭形の親分」  わずかに残る月光《つきあかり》に透《す》かして、左官の彦兵衛は仰天しました。  かつては浅草で左官をしていた彦兵衛、飲む、打つの道楽が嵩《こう》じて、一時は巾着切りの仲間にまで身を落しましたが、今から五年前、別れていた女房の末期《まつご》の諫《いさ》めに、翻然《ほんぜん》として本心に立ち還《かえ》り、娘のお富を引取って、神田で堅人《かたじん》に生れ変った経緯《いきさつ》――平次は何もかも知っていたのです。  お富は美しく清らかに生い立ちました。親父《おやじ》に巾着切りの古疵《ふるきず》があるとも知らぬ清純さ、それを見るのを唯一の楽しみに、彦兵衛は本当に真っ黒になって働き続けたのです。  嫁入前の一と修業のつもりで、増屋の女隠居付に奉公させたのは一年前、それは娘を仕込む術《すべ》を知らない、男親の淋しさでしたが、彦兵衛はそれも辛抱して、何の邪念もなく、勤め上げて帰って来るお富を待っていたのでした。  それが、お店の養子と勝手な事をして、三百八十両の大金を持逃げしたと番頭に聞かされ、罪の遺伝の恐ろしさに、彦兵衛は打ちひしがれながら、寝もやらず待っていると、顔見知りの銭形の平次に送られて、怪我《けが》もなく立ち戻って来たのです。  飛び付いて引摺り込んで、二つ三つ横《よこ》っ面《つら》を張り飛ばして、それから犇《ひし》と抱きしめて、泣けるだけ泣いてやりたいような心持を我慢して、彦兵衛は没義道に戸を閉めたのに、何の不自然があるでしょう。平次が止めてくれなければ、お富が泣き濡れて、父親の胸に齧《かじ》りつくに定《きま》っているように思えたのです。 「じゃ、あの、娘を助けて下すったのは?」  彦兵衛の照れ臭さ。 「俺だよ、彦兵衛」 「…………」 「浜町で堅気に暮しているとは聞いたが、お富の親がお前とは知らなかった。――それにしても、五年前の彦兵衛とは、打って変った心持、この平次もすっかり感心してしまったよ」  平次は灯《あかり》の中に全身を現すと、こう心から老巾着切りの心境を褒めるのでした。 「恐れ入ります、親分」 「それにつけても、お前の考えの間違っていることだけは言わなきゃなるまい。番頭は何と言ったか知らないが、三百八十両の金は、たしかに巾着切りにやられたに違いない。二人の様子で、この平次は潔白を見届けたよ」 「ヘエ――」 「両国橋から飛込もうとするのを、どんなに骨を折って止めたか――捕縄を出して、欄干へ縛ろうかと思ったくらいだ。人間は、見栄や洒落《しゃれ》で、夜中過ぎの大川へ、女づれで飛込めるものじゃねえ」 「…………」 「増屋の主人は、徳之助の正直をよく見抜いていらっしゃる。奉公人達には嫉《ねた》みもひがみ[#「ひがみ」に傍点]もあるだろうが、主人の信用さえ変らなきゃ、少しも驚くことはない――」 「ヘエ――」  彦兵衛はポロポロと涙をこぼしておりました。銭形平次が保証してくれれば、もう大手を振って江戸中を歩ける二人です。 「お富との仲が一ぺんに知れ渡って、このままでは横山町の店へ帰りにくいというだけの話さ。お前もよく若い二人に言い聞かせてくれ、――さア入った入った、父さんは苦労人だ、よく解ってくれるよ」  平次は両方へそう言いながら、有明月の隈《くま》に小さくなっている二人を招きました。 [#5字下げ]三[#「三」は中見出し]  貧しい灯《ひ》の下《もと》に、二人を押し並べて、平次と彦兵衛は、死ぬ気になった無分別を叱ったり宥《なだ》めたりしました。 「三百八十両は大金だが、増屋の主人は諦《あきら》めているし、奉公人並といっても、養子のお前だ。一生真面目に働いて、身上《しんしょう》を肥《ふと》らせる気になれば、三百八十両は安い資本のようなものじゃないか」  平次はそう言ってやります。 「金せえありゃ、俺の手で何とでもするが、こんな暮しをしていちゃ、三百八十両はおろか、三両二分も覚束《おぼつか》ねえ」  彦兵衛は口惜《くや》しがるのです。悪事に栄えた昔の事を思い出したのでしょう。 「正直者はそれが本当さ、――ところで、どんな野郎が抜いたんだ。三百八十両が懐中から消えた後前《あとさき》のことを、少し詳しく聞かして貰おうか」  と平次。 「相生町《あいおいちょう》のお華客《とくい》で、三百八十両、小判で受取ったのは巳刻《よつ》少しまえでした。真っ直ぐに両国へかかると、橋の袂《たもと》でどこかの小僧さんが待っていて、『増屋の主人が小梅の寮に居るから、そっちへ持って行くように』という言伝《ことづて》です」 「フーム」 「別に疑う心持もなく、向島へ行くと、ちょうど花は真っ盛り、昼前だというのに、土手は、こぼれそうな人出です。その間を縫うように、言問《こととい》の近くまで――実はとんだ儲《もう》けもののつもりで、花を眺めながら行くと、いきなり突き当って喧嘩《けんか》を吹っ掛けたものがあります」 「どんな野郎だい」  彦兵衛は横合から口を出しました。 「小鬢《こびん》の禿《は》げ上がった、薄あばた[#「あばた」に傍点]の男で」 「フーム」 「二つ三つ殴られて、土手の下へ転がされると、――それ喧嘩だッ――という人だかり」 「…………」 「漸《ようや》くハネ退《の》けて飛起きると、相手は人混みの中に飛込んでどこへ逃げたかわかりません。ハッと気が付いて懐中を見ると、三百八十両の小判を入れた財布は、紐《ひも》を切られて抜かれてしまったのです」 「あの野郎、やりやがったな」  彦兵衛は思い当ることがあるらしく、拳固《げんこ》で鼻の頭を撫で上げながら、詰め寄りました。 「びっくりして、気違いのように駆け廻りましたが、相手はどこへ逃げたか、影も形もありません。小梅の寮へ行ってみると、旦那がここへ来ているというのは真っ赤な嘘、よくよく企《たくら》まれたと気が付くと私はもう、死んでお詫《わ》びをするより外に思案もなくなりました」 「…………」 「日の暮れるまで死場所を探して、あっちこっち歩きまわりましたが、どこへ行っても花見客で一パイ、日が暮れると足は横山町の方へ向いておりました。お富に逢って一と言、別れの言葉が言いたかったのです」  徳之助の肩はガクリと落ちて、鬢《びん》のほつれも、白い頬も、あわれ深い姿です。 「一緒に死のうと言いましたのは、この私でした、父さん、堪忍して下さい。――父さん一人残して死ぬと思うと、胸が張り裂けるようでした。でも、徳之助さん一人殺して、私は生きている気がしません」  後ろからお富、伸した手はそっと、父親の膝《ひざ》小僧へ―― 「ば、馬鹿なッ。親父をつかまえて、惚気《のろけ》を聞かせる奴もねえものだ、へッ、へッ」  彦兵衛はほうり落ちる涙を、横なぐりに払って、歪《ゆが》んだ笑いを絞り出しております。 「ところで、彦兵衛、その巾着切りの薄|菊石《あばた》を、お前は心当りがありそうだが――」  平次は職業意識を取戻しました。 「それですよ、親分。若い者には聞かせたくねえ話で、――ちょいとお顔を」  彦兵衛は目顔に物を言わせて、滑るように明けかかった街へ出ました。  それを追って平次。二人はしばらく無言のまま、浜町河岸に立って、銀鼠《ぎんねず》から桃色に明けて行く大川端の春を眺めております。 「彦兵衛――薄菊石の巾着切りは誰だ。早い方がいい。今から手を廻したら、金が戻るかも知れねえ」  平次は口を切りました。 「描《か》き菊石の東作《とうさく》という野郎で、――仕事をする時だけ、自分の顔へ絵の具で菊石を描くほどの用心深い奴ですよ」 「どこに居る、少しでも早い方がいい」 「ね、親分さん、――これはあっし[#「あっし」に傍点]に任せて下さいませんか」 「…………」 「十手捕縄じゃ――そんな事を言っちゃ悪いが、後口《あとくち》のよくねえことがあります。彦兵衛が一世一代、身体を張ってきっと型《かた》をつけます。こいつはあっし[#「あっし」に傍点]に任しておくんなさいまし」  彦兵衛は思い切ってこう言うのです。 「それはまた、どうしたわけだ」  と平次。 「増屋の嫁になろうという娘の耳に、あっしの素姓を知らせたくはありません。――それにあの東作の仕事振りを、あっし[#「あっし」に傍点]はよく知っております。これは企《たく》みに企んだ上のことで、金を隠して、描き菊石を洗っていた日には、親分が踏込みなすっても、どうすることも出来ません」 「その時は手前《てめえ》が活《いき》証人になってくれるだろう。なア、彦兵衛」 「なれとおっしゃればなりますが、その代りあっしの素姓は明るみに曝《さら》されて、娘は死ぬほど焦がれても、増屋の嫁になれっこはありません――相対死《あいたいじに》を助けて貰っても、一人死をさせちゃ、かえって不憫《ふびん》じゃございませんか、親分」 「…………」 「三百八十両の金を取り戻し、徳之助とお富を無事に増屋に帰した上で、菊石の東作を縛るなり叩くなり、勝手になすっておくんなさい。ね、親分――銭形の親分さんを見込んで、この彦兵衛が一生に一度のお願いでございます」  いつの間にやら彦兵衛は、朝の大地の上に崩折《くずお》れて、銭形平次を拝んでいたのです。 「よし、判った。たった三日、日限《にちげん》を切って待ってやろう。手前の改心を見届けた平次があの可愛らしい娘への土産《みやげ》代りだ」 「有難うございます、親分」 「いいよ、俺は拝まれるのはあんまり好きじゃねえ――大変な泥だぜ、仕様がねえなア」  平次は彦兵衛を起してやって、その胸から膝へ一面に付いた土埃《つちぼこり》を払ってやりました。  もう出始めた街の人達、酔っ払いの介抱とでも思ったのか、それを遠巻きに見ているのでした。 [#5字下げ]四[#「四」は中見出し]  田原町《たわらまち》の経師屋《きょうじや》東作《とうさく》、四十年輩の気のきいた男ですが、これが描き菊石の東作といわれた、稀代《きたい》の兇賊と知る者は滅多にありません。  その奥の、思いの外|贅《ぜい》を尽した一と間に、主人の東作と、左官の彦兵衛は相対しました。 「久し振りだね、彦兄イ。眼と鼻の間に住んでいても、稼業が違うと、こうも逢わないものか」  東作は渋い茶一杯|淹《い》れるでもない冷たい態度で、少し茶化し加減にこう言うのでした。 「お蔭で地道な貧乏暮しも四年と続いたが――今日はね東作、少しお願いがあって来たんだが――」  彦兵衛は居心地が悪そうにモジモジしながら、思い切った様子で切出しました。 「ハテネ、堅気のお前さんからの頼み、というと、袋戸棚の唐紙でも貼って貰いたいと言うのかい」  東作は煙草盆を引寄せて一服吸付け、長閑《のどか》な煙を長々と吐きました。プーンと高貴な、国府《こくぶ》の薫《かお》り――。 「外じゃねえ。昨日《きのう》向島で抜いた、増屋の息子の三百八十両」 「何を言うんだい、彦兄イ。向島だの、三百八十両だのと――俺はもう悪事とは縁切りさ。三年前から堅気になって、近頃では左官の彦兵衛と同じように通用する経師屋の東作だ。可怪《おか》しな事を言って貰いたくないね」 「そうでもあろうが東作、――俺が聞いた手口は、昔のままの描き菊石だ。あの三百八十両を抜かれたばかりに、昨夜《ゆうべ》は両国橋から、危なく若い二人、身を投げるところよ」 「一人は彦兄イの――娘お富さんとか言ったね」 「それまで知っているなら、言うだけ野暮だ。なア、東作、昔の誼《よしみ》、その三百八十両を、この彦兵衛の顔に免じて返してくれ、きっと恩に被《き》る――」 「それじゃ彦兄イ、本気でそんな事を言いに来たのか」 「本気も、本気この通りだ。娘の命にも関わること、愚に返った彦兵衛が一生の頼みだ。聞いてくれ、東作」  彦兵衛は両手を畳に下ろして、涙ぐんでさえいたのです。 「やい、彦兄イ」 「…………」 「いやさ彦兵衛、年のせいかは知らねえが、大層|手前《てめえ》はボケやがったな」  東作は銀煙管《ぎんぎせる》を逆手《さかて》構えに、火鉢を小楯《こだて》に取って屹《きっ》となりました。 「東作、頼む」 「東作東作、と、安くして貰いたくねえ。昔は悪党仲間の兄イ分だろうが、――稼いだ金をそっくり返せというのは、こちとらにはねえ仁義だ。巫山戯《ふざけ》た事を言やがると、彦兵衛だろうが朴念仁《ぼくねんじん》だろうが、勘弁しねえぞ」 「解ったよ、東作、手前の腹を立てるのも無理はねえが、――俺の方にも少しばかり言いてえことがある」 「…………」 「娘の命を助けたのは、他じゃねえ、銭形の平次親分だ。三百八十両抜いたのは、描き菊石の東作と話すと――」 「何?」 「まア、待ってくれ。俺は一生懸命平次親分を宥《なだ》めて、三百八十両は、見事この彦兵衛が貰って来るからと、漸《ようや》く引取って貰ったのは、ツイ先刻《さっき》だ」 「それじゃ、手前、銭形の平次に、この俺の事までベラベラと饒舌《しゃべ》ってしまったのか」  東作はカンカンに腹を立てながらも、襟元の薄寒さを感じました。銭形平次に睨《にら》まれることは、悪党仲間にとっても致命的な恐怖です。 「娘の命を助けたさの行きがかりだ――それは仕方があるものか。三百八十両の金を返してくれさえすれば、平次親分に頼んで、今度のことは眼をつぶって貰う工夫もあるだろう、なア、東作」 「御免|蒙《こうむ》ろう」 「何?」 「岡っ引に脅かされて獲物を吐き出したとあっちゃ、この東作の名折れだ。今すぐ長い草鞋《わらじ》をはくまでも、そいつは御免蒙ろうよ」 「どうあってもか、東作」 「いやに東作、東作って言やがるじゃないか。誰が何と言っても嫌だよ。判ったかい、彦兵衛」 「野郎ッ」  二人は睨み合いました。争闘を始める一瞬前の猛獣のように――。 「ハッハッハッハッハッ、年は取っても、娑婆《しゃば》っ気は抜けねえぜ。とんだいい気合だよ、彦兄イ」  急に笑い出した東作の顔を、彦兵衛は眉も動かさずに睨み据えます。 「三百八十両、事と次第によっては、ずいぶん返してやらないものではないが、その代り、礼はするだろうな、彦兄イ」 「礼?――それはするとも、その日暮しの左官には、どうせろくな礼も出来ないが」  彦兵衛は緊張が緩《ゆる》んで、思わず肩を落しました。相手の様子に妥協的なものを読んだのです。 「礼と言ったところで、銭や金じゃねえ」 「…………」 「俺には少し望みがあるんだ。――外《ほか》じゃねえ、三百八十両返しゃ、徳之助も無事に増屋に納まるだろう、お富とはどうせない縁と二人を諦めさせて、お富をこの東作の女房にくれる気はないか」 「な、何だと」  東作は大変なことを言い出しました。 「それが嫌なら、増屋へ乗込んで、手前の素性をみんなバラしてやるまでよ。江戸で指折の大店《おおだな》が、巾着切りの娘を嫁にするかしないか。こいつは面白いぜ、なア彦兄イ」 「手前それは正気で言うのか、東作」 「正気も正気、この通り、酔っても寝ぼけてもいるわけじゃねえ。年は少し違うが、まだ厄前の東作に、十九のお富が不釣合とは言わさねえ。巾着切りの娘が巾着切りの女房、こんな似合いの縁があるものか」 「野郎ッ」 「まア、怒るな、彦兄イ。俺は二三年前から、お富坊に眼をつけていたんだ、――この縁談さえ承知なら三百八十両は結納代り、熨斗《のし》をつけて差上げるよ」 「…………」  東作の太々《ふてぶて》しさと、その企みの深さに圧倒されて、彦兵衛は燃ゆる眼に宙を見たまま、血の出るほど唇を噛みました。  浜町の家では、お富と徳之助が、平次に言い宥《なだ》められながら、事情を知らないながらも、何やら吉報らしいものを待っていることでしょう。 [#5字下げ]五[#「五」は中見出し]  お富を一人残して、徳之助だけ店へ帰すのは、彦兵衛の方では不可能なことでした。  死の一歩手前まで行った二人は、恥も外聞も、義理も体面も捨てて、もう一瞬も側《そば》を離れようとはしなかったのです。  幸い、増屋の主人三右衛門からの言伝《ことづて》で、二人を一緒にする前提として、しばらくは世間体を兼ねて、お富は浜町の父親の許《もと》に留めるのが穏当だろうということになり、迎えに来た手代に連れられて、灯《ひ》の入る頃、徳之助は漸《ようや》く横山町へ帰る気になりました。 「お富、――若旦那はお店へ帰ったが、三百八十両の金が戻らなきゃ、親類方や古い奉公人の手前、増屋の跡取りに直るのがむつかしい事は、お前にも判るだろうな」  改めて彦兵衛は、娘に因果を含めるのでした。 「…………」  それはしかし、何の前提やら父親の気持を測り兼ねて、お富は美しい瞳《め》を挙げました。 「増屋から追出されても、裏長屋に住んでも、二人一緒に暮せるから――とお前は思うだろうが、それじゃ世上の義理が済まねえ」 「…………」 「男の出世を妨げるのは、何といってもつれ添う女の恥だ。解るか、お富」 「え」 「それが解るなら、今晩ほんのしばらく、厭《いや》な客に付き合ってくれ――三百八十両の手土産を持って来る客だ」 「父《とっ》さん、それは?」 「察しの通り巾着切りの東作という男だが、深いわけがあって、表沙汰にしたくないのだよ。判るか、お富」  子供のとき別れて、五年前母親の臨終の床で、久し振りに逢った父親ですが、それから五年の間の愛育は、世の常の五十年の恩にも超えて深いものでした。  世にこんな良い父親があるということは子として、何という誇らしいことでしょう。  お富はいつでも、半白《はんぱく》の鬢《びん》から、後光が射すような心持で、父親彦兵衛を見て来たのです。 「父さん、――私には何にも判らないけれど、父さんが良いと思うことならどんな事でもやってみましょう」  お富はそれほど父親を信頼しきっていたのでした。経師屋東作、描き菊石と綽名《あだな》のある大悪党が、押掛け聟《むこ》に来るとはもとより知る由《よし》もありません。  間もなく、東作が町駕籠《まちかご》で乗込んで来ました。 「爺《とっ》さん、酉刻《むつ》(六時)だ、早過ぎはしないだろうね」  さすがに極《きま》りが悪かったものか、少し面を冠《かぶ》って、笑み割れた頬が、とろけて落そうなのも不気味です。 「まア入《へえ》んな、――お富、お富、俺の古馴染の東作さんだ。挨拶をするがいい」  狭い家、逃げも隠れもならぬお富は、行灯《あんどん》の蔭に小さくなりました。 「お富坊、相変らず美しいことだな。今晩から俺はここの人だよ、お前とは――」 「シッ、余計なことを言うな。若い者は吃驚《びっくり》するじゃないか」  彦兵衛は精一杯の目顔を働かせます。どうしても承知しなかった東作を説き落して、お富との祝言は、いずれ徳之助と縁が切れてから、改めて盃事《さかずきごと》をするとして、今晩はほんの見合だけ――という事で話をつけたのです。 「へッ、へッ、へッ、そう言ったものかいなアお富坊、こう見えても、俺は日本一の親切者さ。お富坊に気に入るように、三百八十両の金はちゃんとここに持って来たよ。次第によっちゃ熨斗《のし》をつけないものでもない――なアお富坊、今晩にもこの俺の女房になる気はないかえ」  しな垂《だ》れかかる四十男の醜さ、お富はゾッと寒気がして、父親の背後に逃げ込みました。 「お富、――あれほど言っておいたじゃないか、酌《しゃく》をして上げな」 「ハイ」 「なア、東作、夜は長《なげ》え、まず御輿《みこし》を据えて飲むがいい。――そのうちにはお富も、一と晩経てば、一と晩だけ年を取るというものだ」 「その代りお互も一と晩年を取るぜ、へッへッ。だが、全く堪《たま》らねえぜ、――お富坊の酌で飲むなんて、俺は三年越し夢に見た図だが、昨日まではこんな幸せにありつこうとは思わなかったよ」 「だからよ、存分に飲みな」 「介抱はお富坊に頼むか、ゲープ」  東作は鯨《くじら》のように飲みました。逃げ腰のお富は、彦兵衛に眼で叱られて、観念しきった手に銚子《ちょうし》を挙げるのです。これが徳之助を救う方法と聞かされなかったら、どんなに父親が引止めたところで、四半刻《しはんとき》(三十分)とも我慢をするお富ではなかったでしょう。  酉刻《むつ》から亥刻《よつ》まで、呑んで、呑んで、東作はとうとう正体を失いました。 「いい塩梅《あんばい》に眠《ね》たようだ。お富、枕を持って来な、――それから、行灯を退《ど》かせるのだ」 「…………」  黙って行灯を退《の》かせ、杯盤をざっと片付けて、お富は部屋の隅に顫《ふる》えております。 「驚くことはない。少し静かにしたら、よく落着くだろう」 「…………」 「とんだ獣《けだもの》に付合いさせて、気の毒だったなア。お富、その代り、この跡始末は俺がしてやる」  彦兵衛は乱酔して、正体もなく眠りこけた東作の側に膝行寄《いざりよ》りました。 「父さん」  お富は思わず声を出しました。父親の戸が妙に物馴れた滑《なめ》らかさで、何にも知らずに眠っている、東作の懐中《ふところ》にスルスルと入って行くではありませんか。 「抜かれた物を抜くまでのことだ。驚くことはない」  ズルズルと抽出《ひきだ》したのは、蛙《かえる》を呑んだ蛇《へび》のように、恐ろしく脹《ふく》らんだ胴巻。 「ウ、ウン、ウ、ウ」  うなされたように、寝返りを打つ東作。 「…………」  彦兵衛の右手には、キラリと匕首《あいくち》が光りました。 「父さん」 「大丈夫だ、心配するな。こんな毒虫は、人助けのために命を取っても仔細《しさい》はないが、俺は卑怯な人殺しはしねえ」 「…………」 「お前はその胴巻を持って、横山町の増屋へ行ってくれ、――ここにまごまごしていて、この野郎が眼を覚すと、後が面倒だ」 「父さん」 「手触りでもよく解る。中は確か三百八十両。少し重いが、男一人の命にも関わった金だ、しっかり持って行け」  胴巻を娘の帯の下へ廻しながら、彦兵衛はそう言い続けます。  もう子刻《ここのつ》(十二時)近いでしょう。街は灰を撒《ま》いたように鎮まって、朧月《おぼろづき》の精のように、ヒラヒラと飛んで来る花片《はなびら》。 「父さん、それじゃ」  お富は三百八十両の小判を背負《しょ》って、一歩真夜中の街へ踏出しました。 「命がけの金だぞ、お富」 「ハイ」 「これがしばらくの別れになろうも知れない」 「父さん」 「なアに、そんな事があるものか。明日はまた逢おう、いいか、お富」 [#5字下げ]六[#「六」は中見出し]  娘を夜の冒険に送り出して、引返した彦兵衛、行灯《あんどん》の灯《あかり》の中に、動物のように乱酔した身体を横《よこ》たえた東作を、憎々しく見詰めましたが、いきなりハタと枕を蹴って、 「野郎、起きろ」  低いが、圧《お》し付けるような声を浴びせました。 「ウ、ウ、ウ」  ゴロリと寝返りを打った東作、それくらいのことでは、なかなか目を覚しそうもありません。 「只の酒だと思って、よくも食らいやがったな、畜生ッ、どうするか見るがいい」  勝手から持出した手桶《ておけ》、井戸端へ行って二た釣瓶《つるべ》まで汲み入れ、満々と水を湛《たた》えたのを持って、東作の枕元に突っ立ちました。 「水垢離《みずごり》を使わせてやる、驚くな」  高々と持ち上げた手桶から、ドッと一条の飛瀑《ひばく》、熟睡した東作の眼へ鼻へ口へ、いや、顔も襟も胸も、上半身一ぱいにブチまけたのです。 「ワッ、な、何をしやがる」  ガバと飛起きた東作。 「騒ぐな、家は借家だ。望みとあらば、もう二三杯食らわせてやろうか」  手桶を振り冠《かぶ》ったまま、彦兵衛の啖呵《たんか》は虹を掛けます。 「や、や、胴巻を抜きやがったな」  立ち上がって自分の懐中《ふところ》を捜《さぐ》った東作、さすがに酒の酔いも覚めました。 「当り前《めえ》よ、油断をした懐中から抜くのは巾着切りの手柄だ。ざまア見やがれ」 「爺奴《じじいめ》、一杯食わせたな」  濡れ腐った袷《あわせ》をかなぐり捨てると、逞《たくま》しい素《す》っ赤裸《ぱだか》、東作は行灯を小楯に屹《きっ》と身構えます。 「金を抜いて娘をくれと吐《ぬ》かしやがったな。手前は江戸の巾着切りの面汚《つらよご》しだ。弁天様のような娘を、そんなモモンガアの餌《えさ》にしてたまるものか。少しは目が覚めたか、馬鹿野郎ッ」 「その娘を、ヌケヌケと増屋の嫁にする気だろうが、そんな甘《うま》いわけに行くものか」 「俺の方でも手前を銭形の親分に引渡すはずだが、――昔の誼《よしみ》、縄を打たせちゃ気の毒だ」 「何を、老《おい》ぼれ」 「どっちも抜き差しならねえ破目だ。仲間の仕来《しきた》りは、こんな時には二挺の匕首《あいくち》に物を言わせる外はねえ」 「何?」 「さア、そいつを持って柳原の土手まで来い。地獄の旅へ、どっちが先に踏出すか」  ガラリと投げた匕首。行灯の影から手を出して、東作はあわてて一挺を拾いました。 「しゃら臭《くせ》え、来いッ、爺奴」  二人は毬《まり》のごとく、朧月の街に飛び出したのです。      *  それから一と月、江戸は青葉の風薫る頃となりました。三百八十両を取り返したのは、彦兵衛お富の親娘《おやこ》の手柄と判って、徳之助の家督相続にも、お富との祝言にも、今は文句を言う人もありません。  左官の彦兵衛は仮親を立てて貰うように、強《た》って主張しました。――万一自分の素姓が知れた時の用心だったのでしょう。増屋の主人は、それを世間並の遠慮と思い込んで、反対し続けて来ましたが、最後には折れて出て、一応増屋の親戚の養女と披露し、それから改めて正式の輿入《こしい》れになりました。  今日はいよいよ徳之助とお富の祝言という日。  浜町の貧しい父親の許に、暇乞《いとまご》いに来たお富は、近所の人達に包囲されて、しばらくは、祝いの言葉と、羨望の感動詞と、あらゆる目出たいものの渦の中にもみ抜かれました。 「まア、何て綺麗でしょう」 「お富さんは本当に仕合せねえ」 「時々は浜町へもいらっしゃいな」  そんな言葉の中に、盛装したお富と、相変らぬ布子《ぬのこ》一点の彦兵衛は、ただオロオロするばかりでした。 「それじゃ、父さん」  やがて傾く陽《ひ》、お富は尽きぬ名残を惜しみながら、店から廻された駕籠《かご》の中に納まりました。 「お富、達者で暮せよ」  戸口まで送って出た彦兵衛の眼には、涙が光っております。 「父さん、時々は横山町へ来て下さるでしょうね」  お富は美しい髪を気にしながら、駕籠の中から顔を出して、咲き立ての花のように、四方の空気を匂わせます。 「行くよ、行くには行くがな、――親父が娘の嫁入先へ、ウロウロ行くのは、あまり見っともいいものじゃねえ」 「でも、父さん」 「心配するな、時々はお前も顔を見せてくれ。言うまでもねえ事だが、夫を大事に、御主人や御隠居によく仕えるのだよ」 「ハイ」 「やれやれ、これで俺も安心だ。死んだおっ母《か》アも、さぞ喜んでいるだろう」 「父さん」  駕籠は上がりました。親と娘を隔《へだ》てる、町の女房、娘達、美しく華やかな夕陽の中に、あやかりものの駕籠を、どこまでも追います。  それを立ち尽して見送る彦兵衛。 「…………」  黙って半白の頭を振りました。涙はポロポロと、赤銅色《しゃくどういろ》の頬を伝わって、土間の土くれを濡らします。  そっと肩に手を置く者。振り返ると、 「彦兵衛」  銭形平次が立っているではありませんか。 「親分」 「お慈悲は過ぎたぞ、――この上のお目こぼしは、役人方の落度になる」 「覚悟は出来ております、親分」  彦兵衛は静かに後ろへ手を廻しました。 「経師屋東作殺しの下手人、神妙にせい」 「親分、有難うございました。お蔭で娘は、何にも知らずに、あの通り――」  街の夕陽の中に薄れ行く駕籠、それを見送って、彦兵衛は声もなく泣くのです。 「笹野様の御慈悲だ――それもこれも。さア立て」 「親分、この彦兵衛が最後の願い、もう一つだけ無理を聞いて下さい」 「…………」 「お願いだ、親分。あの娘には、何にも知らせたくはありません。私の居ないのを不思議に思ったら、亡妻《かかあ》の菩提《ぼだい》を弔うため、西国巡礼に出た――とそう言っておいて下さい」  彦兵衛は自分の襟に深々と顔を埋《うず》めます。 「いいとも、この一埒《いちらつ》は笹野様も御奉行様も御存じだ。東作はお上でも持て余した悪党、それを害《あや》めたところで、大したおとがめはあるめえ――お富に初孫《ういまご》が出来る頃までには、手前も西国巡礼の旅から帰って来られるだろうよ」 「親分、何にも言わねえ」  彦兵衛は崩折れました。合せた手が顎《あご》の下に、涙に濡れてワナワナと顫えます。 「八、見っともねえ、そんなものは引っ込めろ」 「ヘエ――」  後ろから来た八五郎は、あわてて捕縄を引っ込めました。どっと起る街の歓声、花嫁の駕籠を見付けた、子供達の声でしょう。 底本:「銭形平次捕物控(七)平次女難」嶋中文庫、嶋中書店    2004(平成16)年11月20日第1刷発行 底本の親本:「銭形平次捕物百話 第六巻」中央公論社    1939(昭和14)年4月16日発行 初出:「オール讀物」文藝春秋社    1938(昭和13)年4月臨時増刊号 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:結城宏 2018年12月24日作成 2019年11月23日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。